https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 報恩ハ、恩ニ報ユルニ、德ヲ以テスルヲ謂フ、
報怨ハ、多クハ怨エ報ユルニ、恨ヲ以テスルヲ謂ヘド、稀ニハ怨ニ酬ユルニ、德ヲ以テシタル者モアリキ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈保/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 報恩

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 報恩(ハウヲン)〈禮記註、謝其恩之報、〉

報恩例

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 元年四月丁未、詔曰、凡人主之所以勸一レ民者、惟授官也、國之所以興者、惟賞功也、夫前播磨國司來目部小楯〈更名磐楯〉求迎擧朕、厥功茂馬、所志願言、小楯謝曰、山官宿所願、乃拜山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣副、以山守部民、褒善顯功酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0483 行成卿、不沈淪出家、俊賢爲頭之時、至其家制止曰、有相傳之寶物乎、行成云、有寶劍云々、俊賢云、早沽却可祈禱、我將擧達、仍爲下﨟無官〈前兵衞佐備前介〉四位頭、任納言之後、暫雖俊賢之上﨟、依恩、遂不其上云々、〈○中略〉
實資大臣者、依大入道〈○兼家〉殿恩大位之人也、依其恩、彼御遠忌日必被法興院御堂、仰云、アツキ比也、何强如此、被參哉云々、右府曰、ナニカ令知給、我者依彼御恩此人ニ成畢、爲其御恩參仕也、不可知給云々、

〔十訓抄〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0484 六條修理大夫顯季卿、あづまの方に知行の所ありけり、館の三郎義光妨げあらそひけり、大夫の理有ければ、院〈○白河〉に申給、左右なくかれが妨をとゞめらるべしと思はれけるに、とみに事きれざりければ、心もとなく思はれけり、院に參り給へりけるに、閑なりける時、近く召よせて、汝が訴申東國の庄の事、今までこときれねば、口惜とや思と仰られければ、畏り給へりけるに、度々とはせ給へば、我理有よしをほのめかし申されけるを聞召て、申所はいはれたれ共、我思は彼をさりて彼にとらせよかしと仰られければ、思はずにあやしと思て、とばかり物も申さで候ければ、顯季が身には、かしこなしとても事かくまじ、國も有司もあり、いはゞ此所不幾義光は彼に命をかけたる由申、彼がいとおしきにあらず、顯季がいとおしき也、義光はえびすの樣なる、心もなき者也、不安ず思はんまゝに、夜中にもあれ、大略通つるにてもあれ、いかなるわざはひをせんと思立なば、おのれがためにゆゝしき大事にはあらずや、身のともかくもならんもさる事にて、心うきためしにいはるべき也、理にまかせていはんにも、思ふ、にくむのをぢめを分て定めんにも、旁沙汰に及ばぬ程の事なれども、是を思て今まで事きらぬ也と仰事有ければ、顯季畏悦て涙をおとして出にけり、家に行付や遲きと、義光を聞ゆべき事有とて、よびよせければ、人まどはさんとし給、殿の何事によび給ぞと云ながら參りたりければ、出あひて彼庄の事申さんとて、案内いはせ侍りける也、此事理のいたる所は申侍りしかども、能々思給ふれば、我ためは是なくても事かくべき事なし、そにには是をたのみとあれば、實不便なり、此事申さんとて聞えつるなりとて、去文を書てとらせられければ、義光畏て、傍に立寄てたゝうがみに二字書て奉て出にけり、其後つき〴〵しくひるなど參りつかふる事はなかりけれども、万の往來には何と聞えけん、思よらず人もしらぬ時、鎧著たる者の五六人などなきたびはなかりけり、たれぞととはすれば、たて刑部殿隨兵に侍ると云て、いづくにも身をはなれざりけり、是を聞に付ても、あしく思はまし かばと、胸つぶれて、院の御恩恭く思しらるゝに付ても、賢くぞ去與へけると申されけり、かゝるためしを聞にもたのめてん人は、一旦つらき事など有とも、恨を先立ずして、其計を可廻と也、

〔宇治拾遺物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0485 むかし右近將https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 下野原行といふもの有けり、競馬によくのりけり、帝王よりはじめ奉りて、おぼえことにすぐれたりけり、朱雀院の御時より、村上の御門の御ときなんどは、さかりにいみじき舍人にて、人もゆるし思けり、年たかくなりて、西京にすみけり、となりなりける人にはかに死けるに、此原行とぶらひに行て、その子にあひて別のあひだの事ども、とぶらひけるに、此死たるおやを出さんに、門あしき方にむかへり、さればとて、さてあるべきにあらず、門よりこそ出すべき事にてあれといふをきゝて、原行がいふやう、あしき方よりいださんこと、ことにしかるべからず、かつはあまたの御子たちのため、ことにいまはしかるべし、原行がへだての垣をやぶりて、それよりいだし奉らん、かつはいき給たりし時、ことにふれてなさけのみありし人也、かゝるをりだにもその恩を報じ申さずは、なにをもつてかむくひ申さんといへば、子共のいふやう、無爲なる人の家より出さん事あるべきにあらず、忌の方なりとも、我門よりこそいださめといへども、僻事なし給そ、たゞ原行が門よりいだし奉らんといひてかへりぬ、わが子どもにいふやう、となりのぬしの死たるいとおしければ、とふらひに行たりつるに、あの子共のいふやう、忌の方なれども、門は一なれば、これよりこそ出さめといひつれば、いとおしく思ひて、中のかきをやぶりて、わが門より出し給へといひつるといふに、妻子どもきゝて、ふしぎの事し給おやかな、いみじき穀たちの聖なり共、かゝる事する人やはあるべきと、身思はぬといひながら、わが家の門より、隣の死人出す人やある、返々もあるまじきこと也とみないひあへり、原行が事ないひあひそ、たゞ原行がせんやうにまかせて見給へ、物忌しくすしくいむやつは命もみじかく、はか〴〵しき事なし、たゞ物いまぬは命もながく子そんもさかゆ、いたく物いみくすしきは人 といはず、恩を思しり、身を忘るゝをこそ人とはいへ、天道もこれをぞめぐみ給らん、よしなき事なわびあひそとて、下人どもよびて、中の檜垣をたゞこぼちにこぼちて、それよりぞ出させける、さてその事世にきこえて、殿原もあざみほめ給けり、さてそのゝち九十ばかりまでたもちてぞ死ける、それが子どもにいたるまでみないのちながくて、下野氏の子孫は舍人の中にもおほくあるとぞ、

〔吾妻鏡〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0486 壽永三年〈○元曆元年〉四月六日甲戌、池前大納言、〈○平賴盛〉並室家之領等者、載平氏沒官領注文、自公家下云云、而爲故池禪尼恩德、申宥彼亞相勅勘給之上、以件家領三十四箇所、如元可彼家管領之旨、昨日有其沙汰、令之給、此内於信濃國諏方社者、被博伊賀國六箇山云云、
池大納言沙汰
走井庄〈河内〉 長田庄〈伊賀〉 野俣道庄〈伊勢〉 木造庄〈同〉 石田庄〈播磨〉 建田庄〈同〉
由良庄〈淡路〉 弓削庄〈美作〉 佐伯庄〈備前〉 山口庄〈但馬〉 矢野領〈伊豫〉 小島庄〈阿波〉
大岡庄〈駿河〉 香椎社〈筑前〉 安富領〈同〉 三原庄〈筑後〉 球https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02105.gif 臼間野庄〈肥後〉
右庄園拾七箇所、載沒官注文、自於院給預也、然而如元爲彼家沙汰、爲知行勤狀如件、
壽永三年四月五日
池大納言沙汰
布施庄〈播磨〉 石作庄〈同〉 六人部庄〈丹波〉 兵庫三箇庄〈攝津〉 熊坂庄〈加賀〉 眞淸田庄〈尾張〉 服織庄〈駿河〉 宗像社〈筑前〉 三箇庄〈同〉 國富庄〈日向〉
已上八條院御領
麻布大和田領〈河内〉 諏訪社〈信濃被博伊賀六箇山了〉
已上女房御領 右庄園拾陸箇所注文如此、任本所之沙汰、彼家如元、爲知行勤狀如件、
壽永三年四月六日
五月廿一日戊申、武衞被御書於泰經朝臣、是池前大納言、同息男、可任本官事、〈○中略〉内々可奏聞之趣也、大夫屬入道書此御書、付雜色鶴太郎云云、六月一日戊午、武衞招請池前亞相給、是近日可歸洛之間、爲餞別也、〈○中略〉次有御引出物、先金作劍一腰、時家朝臣傳之、次砂金一裹、安藝介役之、次被鞍馬十疋、其後召客之扈從者、又賜引出物、武衞先召彌平左衞門尉宗淸、〈左衞門尉季宗男〉平家一族也、是亞相下著最初被尋申之處、依病遲留之由、被答申之間、定今者令下向歟之由、令思案給之故歟、〈○中略〉此宗淸者、池禪尼侍也、平治有事之刻、奉志於武衞、仍爲謝其事、相具可下向給之由被仰送之間、亞相城外之日、示此趣於宗淸處、宗淸云、令戰場給者、進可先陣、而倩案關東之招引、爲當初奉公歟、平家零落之今、參向之條、尤稱恥存之由、直參屋島前内府云云、 五日壬戌、池前大納言被歸洛、武衞令庄園於亞相給上、逗留之間、連日竹葉勸宴醉、鹽梅調鼎味、所獻之、又金銀懸數、錦綉重色者也、

〔平治物語〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0487 賴朝擧義兵平家退治事
去程ニ、兵衞佐殿〈○源賴朝〉ハ、配所ニテ廿一年ノ春秋ヲ被送ケルガ、文覺上人ノ進ニ依テ、後白河法皇ノ院宣ヲ賜、治承四年八月十七日、和泉判官兼高ヲ夜討ニシテヨリ後、石橋山、小坪、絹笠、所々ノ合戰ニ身ヲ全シテ、安房上總ノ勢ヲ以テ、下總國ヲ打靡ケ、武藏國へ出給ヌレバ、八箇國ニ靡ヌ草木モナカリケリ、〈○中略〉壽永一年七月廿五日、北陸道ヲ責上リケル、木曾義仲先都へ入ト聞ヘシカバ、平家ハ西海ニ赴給フ、去共池殿ノ君達ハ、皆都ニ留リ給、其故ハ兵衞佐鎌倉ヨリ故尼御前ヲ見奉ルト存候ベシト、度々被申ケレバ落留マリ給ケリ、本領少モ無相違安堵ケレバ、昔ノ芳志ヲ報ジ給トゾ覺エシ、〈○中略〉爰ニ池殿ノ侍丹波藤三國弘ト名乘テ、鎌倉へ參タリシカバ、我モ尋度思ツ レ共、公私ノ忩劇ニ思忘レ、今ニ無沙汰也トテ、卽對面シ、只今納殿ニアラン物、皆取出ヨト下知シ給ケレバ、金銀絹布色々ノ物共ヲ山ノ如クニ積上タリ、是ハ先時ニ取テノ引出物ゾ、庄ハ無カト問給ヘバ、丹波國細野ト申所ハ、相傳ノ私領ニテ侍ル由申セバ、軈テ御下文給テケリ、財寶ヲナミ次ニ送トテ、都迄ゾ持送ケル、其時懸ル運ヲ可開人トハ思ハザリシカドモ、餘リニ勞敷テ情有テ奉公シケル故也、兵衞佐宣ケルハ、頸ハ故池殿ニ續レ奉ル、其芳志ニハ大納言殿ヲ世ニアラセ申侍リ、髮ハ纐纈源吾ニツガレタリ、但盛安ハ雙六ノ上手ニテ、院中ノ御雙六ニ常ニ被召、院モ被御覽ナレバ、君ノ召仕セ給ハン者ヲバ、爭カ呼下ベキト思テ、斟酌スル也ト語給ヘバ、此由源吾ニ吿タリシカドモ、天性雙六ニスキタル上、院中へ參入ヲ思出トヤ存ケン、終ニ不下ケリ、〈○中略〉其京上ノ度盛安ヲ召テ、漸々ノ重寶ヲ給リ、何ニ今迄不下ケルゾ、大庄ヲモ給度ケレ共、折節闕所ナシ、可然所アラバ可給トゾ宣ケル、誠ニ今マデ不參條私ナラヌトハ乍申、不義ノ至リ、倂微運ノ至極也トゾ盛安モ申ケル、建久三年三月十三日、後白河院崩御成シカバ、軈テ盛安鎌倉ヘゾ參ケル、賴朝對面シ給テ、最前モ下向シタリセバ、可然所ヲモ給ハンズルニ、今マデ遲參コソ無力次第ナレ、小所ナレ共先馬力ヘトテ、多記庄半分ヲゾ給ケル、由緖ノ由申ケルニヤ、美濃國上中村ト云所ヲモ同給テケリ、

〔太平記〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0488 正行參吉野
安部野ノ合戰ハ、霜月廿六日ノ事ナレバ、渡邊ノ橋ヨリセキ落サレテ、流ルヽ兵五百餘人、無甲斐命ヲ楠ニ被助テ、河ヨリ被引上タレ共、秋霜肉ヲ破リ、曉ノ氷膚ニ結テ、可生共不見ケルヲ、楠有情者也ケレバ、小袖ヲ脱替サセテ身ヲ暖メ、藥ヲ與ヘテ疵ヲ令療、如此四五日皆勞リテ、馬ニ乗ル当ニハ馬ヲ引、物具失ヘル人ニハ、物具ヲキセテ、色代シテゾ送リケル、サレバ乍敵其情ヲ感ズル人ハ、今日ヨリ後心ヲ通ン事ヲ思ヒ、其恩ヲ報ゼントスル人ハ、軈テ彼手ニ屬シテ後、四條繩手ノ合 戰ニ討死ヲゾシケル、

〔鎌倉大草紙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 小衣郎〈○小栗〉はひそかに忍びて、關東にありけるが、相州權現堂といふ所へ行けるを、其邊の强盜ども集りける處に宿をかりければ、主の申は、此牢人は常州有德仁の福者のよし聞、定て隨身の寶あるべし、打殺して取由談合す、乍去健なる家人どもあり、いかゞせんといふ、一人の盜賊申は、酒に毒を入呑せころせといふ、尤と同じ、宿々の遊女どもを集め、今樣などうたはせ、をどりたはぶれ、かの小栗を馳走の體にもてなし、酒をすゝめける、其夜酌にたちける、てる姫といふ遊女、此間小栗にあひなれ、此有さまをすこししりけるにや、みづからもこの酒を不呑して有けるが、小栗をあはれみ、此よしをさゝやきける間、小栗も呑やうにもてなし、酒をさらにのまざりけり、家人共は是をしらず、何も醉伏てけり、小栗はかりそめに出るやうにて、林の有間へ出てみければ、林の内に鹿毛なる馬をつなぎて有けり、〈○中略〉小栗是を見て、ひそかに立歸り、財寶少少取持て、彼馬に乘鞭を進め落行ける、〈○中略〉永享の比、小栗三州より來て、彼遊女をたづね出し、種々のたからを與へ、盜どもを尋みな誅伐しけり、

〔總見記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0489 平手中務諫言切腹事
遺書ニ諫狀ヲ指添へ留メ置キテ、政秀〈○平手〉卽チ腹切テ死去シケリ、誠ニ是末代無雙ノ忠臣トゾ聞ヘシ、信長公大キニ驚キ思召テ、御後悔不斜、屢愁涙垂給ヒテ、平手ガ諫狀ノ趣ヲ、一々御心服アリ、是ヨリ御心立行儀作法ヲ改ラレ、日々眞實ノ御嗜也、然レ共異相ハ未ダヤミ玉ハズ、其後信長公平手ガ菩提ノ爲ニトテ、一宇ノ寺ヲ御建立有テ、政秀寺ト名付ケ、自身御參詣御燒香アリ、ソレヨリ後、代々此寺ニテ、平手ガ後世ヲ弔ラヒ玉フ、扨又時々ニ平手ガ忠志ヲ思召出サレ、天下一統ノ後モ、我如此國郡ヲ切取事ハ、皆中務ガ厚恩也ト、仰ラレシ事度々ナリ、又鷹野ニ出玉ヒ、河狩ヲシ玉フ時モ、俄ニ中務ガ事ヲ思召出サレテ、或ハ鷹取タル鳥ヲ引サキテハ、政秀是ヲ食セヨトテ、 虚空ニ向テ投タマフ、或ハ河水ヲ立ナガラ、御足ニテ蹴カケ玉フテ、平手是ヲ呑ヨトノ玉ヒ、雙眼ニ御涙ヲ浮べ玉フ事多シ、皆人是ヲ見テ、カヽル異相ノ人ナガラモ、御眞實ノ御手向、寔ニ奇特ノ御芳志ナレバ、平手ガ亡魂イカ計カ、忝ク存ベキトテ、各信感シ奉ル、

〔常山紀談〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 正則〈○福島〉常に物あらく人を誅する事を好めると、世の人もいひあへり、或時近習の士、少の咎ありて、城内〈廣島〉の櫓に押こめ、食物をあたへず、餓死せしめんといはれしに、其士の恩を受たりし茶道坊主、罪なくてかゝる有樣をいたみ、潛に夜燒飯を携へ行たり、彼士われは罪ある故に斯成たり、汝只今のふるまひを殿聞し召れなば、われよりも罪重からん、又飯を喰たりとて命助かるべきにあらざれば、とく歸れといひしに、茶道云けるは、同じ罪に行はるゝとも後悔なし、われ先に旣に殺さるべき事の有りしに、君の救ひにて一度たすかり候ひぬ、恩をうけて報ぜざるは人にあらず、こなたも又よわげなる心おはして、吾志を空しくし給ふ事こそ口惜けれといへば、彼士悦んで、さらばとて是を食す、夜ごとにかくの如くしたりけり、程經て死したるならんとて、正則矢倉に行れしに、顏色少しも衰へず、正則さては飯を送りたる者あらんと怒られしに、茶道來り、某こそ送りたれと申す、正則はたとにらみて、おのれ何故にかくしたるや、頭二ツに切わりなんと、膝立直されし時、茶道少もさわがず、我昔罪を得て旣に水ぜめにあひて殺さるべかりしに、彼人の申ひらきたりし故、今日まで思ひかけず命存らへ候ひき、其恩を報ぜん爲、毎夜しのびて飯をはこび候といふ、正則、怒れる眼に涙を流し、汝が志感ずるにあまれり、かくこそ有べけれ、彼士をもゆるすべしとて、其まゝ矢倉の戸をひらきて罪を宥め、茶道をも深く賞せられけり、されば暴惡の人と世に稱しけれど、かゝる義に感ずる事の切なる故に、士のおもひ慕ひてカを竭し、正則の爲に身をすてゝ奉公しけるも、げに故ある事にこそ、

〔文會雜記〕

〈二上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0490 一徂徠ハ芝ニ舌耕シテ居ラレタル時、至極貧ニテ、豆極屋ニカリ宅シテヲラレタ ルユへ、豆腐ノカスバカリクラハレタルト也、大ニ豆腐屋ノ主人世話ヤキタルユへ、徂徠祿エラレタル後、二人扶持ヤラレタルト也、

〔窻の須佐美〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0491 横田甚右衞門、百人組の頭にてありし時、與力の許に年久しく召仕ける僕の、心變して盜をなして遁んとするに、見附て折ふしゆあみしけるに、脇差を取て拔打に切けるが、少し疵附て遁けるを、直に追かけ行て、四五町ばかりにて、辻番へかけ入けるを追付て、右のよしを語り、此ものを渡して給へと云ければ、あか裸にて脇差拔身持たるなれば、狂氣したるならんと、皆おもひけるほどに、家の役人出合て、なか〳〵わたさず、御目付へ屆などしける、召仕なども追々來り、同組與力皆來りぬれど、衣服の心附ざりしかば、猶裸にてありける程に、屛風にて圍ひなどつけり、偏に罪人のよふに思へり、かくて此事横田の許へ聞へければ、その儘にては事濟まじとて、自身にて營して御目附へ逢て、われら組に紛れなく、手討したる事分明なれば、我等方へ受取て吟味すべし、公邊の沙汰に及んでは、我等一分立不申候とありければ、今更いたしかだなかるべし、さらば我等申達して願んとて、若老中へ右の理り、細かに達しられけるほどに、頭の申さる事なれば、その意に任せられ候へとありしかば、直にその辻番へ往て、御歩行目付の吟味し居たる所にて、これはわれら申達し、事濟候間、此かたへ受取候はんとある中に、御目付よりもそのむね申來りけるにや、思ふまゝになりければ、すなはち宿所へ歸りし、彼僕は改て手討にし、何事なく事濟けり、初のもやうにては、亂氣になりてんに、横田氏の器量にて治りぬるほどに、組の與力同心感慨に堪ず、何事にてもあれかし、この厚恩を報ひなんと、常に申あひける、かくて後横田氏の宅火災にかゝりて、殘りなく燒けり、殊にかねて貧しく、漸圍ひなどしけるほどに、與力の輩相談して金貳百兩持參し、御造作のかたはしにも成候へかしと申ければ、横田氏大に感じて、おのおのゝ志もだしがたくおもへども、存念もある間、これは請まじき由、懇に云聞せられければ、與 力の士、左樣候へば、是非におよばず候間、われら切腹すべき由申ければ、如何なるゆへにと有りしかば、此度の事面々志切に候得共、申しても御受有まじと各申せしを、我等丹精を抽んでゝ御受有樣にも致すべきと申せしゆへ、みな〳〵よろこびて我等をおしぬ、かくて御受なくとて罷歸り、同列へ面を向け樣もなく候間、御庭をかりて自殺仕候半と、餘儀なき體に見へければ、これをうけられけり、與力の士大に喜びて出ければ、同心のものつどひ來り待居て、如何御受納ありしにやと申ければ、右のむねを語りける、皆々さても歡しき事にこそと云うちに、一統に竹木板の類を持運び、門内に積置けり、されば此人をしたふ事、子の親を思ふがごとくなりけるとぞ、すなはち國家の忠臣といふべきか、

〔狂歌現在奇人譚〕

〈初編下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0492 淺桐庵一村の傳
三とせあまりをこえて、一村が家のこものひとり、要用のことありて、みちのくにいきたりしがあるとまりやにつきてやすみぬ、夜あけて見れば、かたへの床の間にひとつのかけものあり、中に一首のうたあり、よく打見れば、おのれが主人一村がかきたるにて、出がはりのあとをにごさぬ〈○出かはりのあとをにこさぬ水一荷又すむ人のかゞみにぞくむ〉といふ歌なり、いとあやしくて、下女をよびてこれをそへば、こたへていふ、この家のあるじ、もとかみつけのくに、桐生といふ所のある家につかへし時、其主人のよみ玉ひたる御歌なりとて、常にみきをまゐらせ、あざらけき魚をそなへ、朝夕はいし候なりとこたふ〈○下略〉

報怨

〔續日本紀〕

〈二十六/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0492 天平神護元年八月庚申朔、從三位和氣王坐謀反誅、〈○中略〉參議從四位下近衞員外中將兼勅旨員外大輔式部大輔因幡守粟田朝臣道麻呂〈○中略〉等、與和氣善、〈○中略〉是日、又下詔曰、粟田道麻呂、大津大浦石川長年等〈爾〉勅〈久、○中略〉汝等〈我〉罪〈方〉免給、但官〈方〉解給不、散位〈止之天〉奉仕〈止〉勅御命〈乎〉 聞食〈倍止〉宣、〈○中略〉居十餘日、以道麻呂飛彈員外介、以其怨家從四位下上道朝臣斐太都守、斐太都到任、卽幽道麻呂夫婦於一院、不往來、積月餘日、並死院中

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0493 菅根與菅家不快事
命云、菅根與菅家不快、菅家令事之日、寬平上皇爲停止此事參、菅根不仰皆以遏絶之、是菅根計也、
菅家被菅根頰
菅根無止者也、雖然殿上庚申夜、天神ニ頰ヲ被打也云々、

〔江談抄〕

〈一/攝關家事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0493 大入道殿〈○藤原兼家〉令申中關白給事
大入道殿臨終、召有國曰、子息之中以誰人攝錄乎、有國申云、令執權者町尻殿歟云々、是道兼之事也云々、又令惟仲、惟仲申云、如此事可次第之理也、又令大夫史國平、國平申旨同惟仲、依二人之説、遂被申中關白、道隆、關白攝錄之後、被仰云、我以長嫡此任、是理運之事也、何足喜悦、只以可有國之怨悦耳云々、故無幾程除名、父子被官職云々、

〔百練抄〕

〈七/近衞〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0493 仁平元年七月十四日、左衞門督家成卿雜色九人禁獄、去十二日依取左大臣、〈○藤原賴長〉下部也、九月八日、左大臣過家成卿門前之間、左大臣雜人、亂入彼卿家濫行、爲先日會稽也、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0493 嘉應二年七月三日辛巳、今日法勝寺御八講初也、有御幸、攝政〈○藤原基房〉被法勝寺之間、於途中越前守資盛〈重盛卿嫡男〉乘女車相逢、而攝政舍人居飼等打破彼車、事及恥辱云々、攝政歸家之後、以右少辨兼光使、相具舍人居飼等、遣重盛卿之許、任法可勘當云々、亞相返上云々、 十六日甲午、或人云、昨日攝政被法成寺、而二條京極邊武士群集、伺殿下御出云々、是可前驅等之支度云々、仍自殿遣人被見之處、已有其實、仍御出被止了云々、末代之濫吹、言語不及、悲哉生亂世、見聞如此之事、宿業可憾々々、是則乘逢之意趣云々、 十月廿一日丁卯、此日依御元服議定、申刻、著束帶大 内、〈○中略〉余〈○藤原兼實〉參御前、暫候之間、或人云、攝政參給之間、於途中事歸給了云々、余驚遘人令見之處、事已實、攝政參給間、於大炊御門堀河邊、武勇者數多出來、前駈等悉引落自一レ馬了云々、神心不覺、是非不辨、此間其説甚多、依攝政殿不參、今日讃定延引之由、光雅來示、〈○中略〉凡今日事不左右、不道路以一レ目、只恨生五濁之世、悲哉悲哉、 廿二日戊辰、昨日事、巷説種々、但前駈五人之中、於四人者、被本鳥了、又隨身一人、同前駈五六許、于今在大路、見者所談也、前駈五人、高佐、高範、家輔、通定、六位一人不名、此中通定一人不髻云々、猶武勇之家異他歟、如何、

〔曾我物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0494 いとうの次郎とすけつねがさうろんの事
くだう一郎は、なまじひの事をいひいだして、おぢに中をたがはれ、ふさいのわかれ、しよたいは、うばはれ、身をゝきかねて、きもをやきける間、きうじもそらくになりにけり、さればにや御きしよくもあしく、はうばいもそばめにかけければ、せきうつたえがたく思ひこがれて、ひそかに又本國にくだり、おほみのしやうにぢうして、としころのらうどうにおほみの小太郎、やかたの三郎をまねきよせて、なく〳〵さゝやきけるは、をの〳〵つぶさにきけ、さうでんのしよりやうをわうりやうせらるゝだにも、やすからざるに、けつく女ばうまでとりかへされて、といのや太郎にあはせらるゝでう、口おしき共あまりあり、いまはいのちをすてゝ、やひとつ、いばやと思ふなり、あらはれてはせんことかなふまじ、われ又びんぎをうかゞはゞ、人にみしられて、ほんいをとげがたし、さればとてとゞまるべきにもあらず、いかゞせん、をの〳〵さりげなくして、かりすなどりのところにても、びんぎをうかゞひ、やひとついむにや、もししゆくいをとげんにおきては、ぢうをんじやう〴〵、せゝにもほうじてあまりあり、いかゞせんとぞくどきける、二人のらうどうきゝ、一どうに申けるは、これまでもおほせらるべからず、ゆみやをとり世をわたると申せ共、ばんじ一しやうはいちごに一どゝこそ承れ、さればふるきことばにも、やぶれやすきときは、あ ひかたくしてしかもうしなひやすし、このおほせこそめんぼくにて候へ、ぜひいのちにをきては、きみに參らするとて、おの〳〵ざしきを立ければ、たのもしくぞ思ひける、〈○中略〉
かはづうたれし事
されば、このかへりあしをねらひてみん、しかるべしとて、みちをかへてさきにたち、おくのゝくち、あかざは山のふもと、やはた山のさかひに、あるせつしよをたづねて、しいの木三ぼんこだてにとり、いちのまぶしには、おほ見のことうだ、二のまぶしには、やはたの三郎、てだれなれば、あまさじ物をとてたちたりけり、をの〳〵まちかけゝる所に〈○中略〉いとうのちやくしかはづの三郎ぞきたりける、〈○中略〉おりふしのりがへ、一きもつかざれば、一のまぶしのまへをやりすごす、二のまぶしのやはたの三郎、もとよりさはがぬをのこなれば、てんのあたへをとらざるは、かへりてとがをうると云ふるき言葉をおもひいだすは、いそんずべき、まぶしのまへを三だんばかりゆむでのかたへやりすごして、大のとがりやさしつがひ、よつひきしばしかためて、ひやうとはなす、おもひもよらでとをりける、かはづがのりたるくらのうしろの山がたをいけづり、むかばきのきゝはを、前へつゝとそいとほしける、かはづもよかりけり、ゆみとりなをし、やとつてつがひ、むまのはなをひつかへし、四はうをみまはす、ちしやはまどはず、じんしやはうれへず、ようしやは、おそれずと申せども、大事のいたでなれば、心はたけくおもへども、しやうねしだいにみだれ、馬よりまつさかさまにおちにけり、ごぢんにありける父いとうの次郎は、これをばゆめにもしらずぞくだりける、ころは神無月十日あまりの事なれば、山めぐりけるむらしぐれ、ふりみふらずみさだめなく、たつより雲のたえ〴〵に、ぬれじとこまをはやめて、たづなかひくる所に、一のまぶしにありける、おほみのことうだ、まちうけて、いたりけれ共しるしなし、ひだりのてのうちのゆび二つ、まへのしほでのねにいたてたり、いとうは、さるふるつはものにて、てきに二つのや をいさせじと、大事のてにもてなし、めでのあぶみにおりさがり、馬をこだてにとり、山たちありや、せんぢんはかへせ、ごぢんはすゝめとよばはりければ、せんぢむごぢんわれおとらじとすゝめども、所しもあくしよなれば、むまのさぐりをたどるほどに、二人のかたきはにげのびぬ、

〔平家物語〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0496 きをほが事
三位入道〈○源賴政〉のちやくしいづの守なかつなのもとに、九重に聞えたる名馬有、かげなる馬の雙なき逸物、のりはしり心むけ、世に有べき共覺えず、名をば木の下とぞ云れける、宗盛の卿使者を立て、聞え候名馬を給て、見候はゞやとの宣ひつかはされたりければ、〈○中略〉伊豆守ちから及ばず、一首の歌を書添て、六はらへ遣さる、
戀しくばきてもみよかし身に添る景をばいかゞはなちやるべき
宗盛の卿、まづうたの返事をばし給はで、あつはれ馬や、馬はまことによい馬で有けり、され共あまりに惜みつるがにくきに、主が名のりをかなやきにせよとて、仲つなといふかなやきをして、馬やにこそ立られけれ、客人來て、聞え候名馬を見候はゞやと申ければ、その仲つなめにくらおけ、引出せ、のれ、うて、はれなんとぞ宣ひける、伊豆守、此よしをつたへきゝ給ひて、身にかへて思ふ馬なれ共、けんゐに付て取るゝさへ有に、剩天下のわらはれ草とならんずる事こそやすからねと、大にいきどほられければ、〈○中略〉同き十六日〈○治承四年五月〉の夜に入て、源三位入道賴政、ちやくし伊豆守仲つな二なん源大夫判官かねつな、六條藏人なか家、其子藏人太郎なかみつ、いげ混甲三百よき、たちに火かけやきあげて、三井寺へこそ參られけれ、爰に三位入道の年比の侍に、渡部の源三きをほの瀧口と云、者あり、はせをくれてとゞまりたりけるを、六はらへめして、〈○中略〉大將〈○平宗盛〉さらば奉公せよ、賴政法師がしけんをんには、ちつ共おとるまじきぞとて、入給ひぬ、朝より夕部にをよぶまで、きをほは有り候、有り候とてしこうす、日もやう〳〵くれければ、大將出られたり、 きをほ畏て申けるは、まことや三位入道は、三井寺にと聞え候、さだめて夜討なんどもや向はれ候はんずらん、三位入道の一類は、渡部たう、扨は三井寺法師にてぞ候はんずらん、心にくうも候はずまかり向てえり討なども仕べき、さる馬を持て候しを、此程したしひやつめにぬすまれて候、御馬一疋下し預り候はゞやとそ申ければ、大將尤さるべしとて、白あしげなる馬の、なんれうとて、ひざうせられたりけるに、よいくら置て、きをほにたぶ、給て宿所にかへり、〈○中略〉なんれうに打乘、のりがへ一き打ぐして、舍人男に持だてわきばさませ、やかたに火かけやきあげて、三井寺へこそはせたりけれ、〈○中略〉競畏て申けるは、伊豆守殿の、木の下が代に、六はらのなんれうをこそ取て參りて候へ、參らせ候はんとて奉る、伊豆守なのめならず悦び給ひて、やがてをがみをきり、金やきをして、其夜六はらへ遣さる、夜半計に門の内へ追入たりければ、馬やに入て馬共とくひ合ければ、其時とねりおどろきあひ、なんれうが參りて候と申す、宗盛の卿いそぎ出て見給ふに、むかしはなんれう今は平の宗盛入道といふ、かなやきをこそしたりけれ、〈○下略〉

〔烹雜の記〕

〈前集下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 後妻打〈孝女花扇附ス〉
つら〳〵戰國の俠氣を推量るに、勇を好ども理に暗く、智を貴めども奸多し、目前の恥を恥として、始終の勝をおもはず、そが中にもおのづから賢不肖ありといへども、大かたはたがふ事なし、二百年前には、妻敵擊といふことありて、妻を人に竊れたる者、或は仕を辭し、或は産を破り、國々を偏歷して、奸夫淫婦を擊果すを、男子なりとおもひしとぞ、これ則目前の恥を恥として、始終の勝をおもはず、毛を吹て疵を求め、恥に恥をかさぬるもの歟、

〔武野燭談〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0497 酒井雅樂頭忠淸評幷水野周防守事
一年水野周防守忠增は、大御番承りし頃、いつの時に歟、組の何某遲參し、西の丸御門〆らるゝ所へ參り懸り、いまだ扉は立て貫木を指ざりしに、走り入んとせられたるを、御目付某、人は輕し、法 は重しとて、嚴敷咎めて押返し、閉門に申行ひける、其御目付、あやにくも又周防守が番之節遲參して、暮六ツの大鼓打仕廻うて後に、西之丸寢番に登城しける、周防守、與力同心に下知しけるゆへ、通らんとしても聞入ず、周防守へ通達しければ、中々聞入ず、役義を照して通らんとせば、後程いよ〳〵重かるべしと、是非なく歸參して仲間へ達しければ、御役義麁相成とて御叱、御役儀被召放閉門しける、

報怨以恩

〔書言字考節用集〕

〈九/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0498怨以恩(ムクフエアタニモツテスヲンヲ)〈前漢害、以德報恩、厚施薄望云々、老子經、法苑珠林、鶴林玉露並宜照考、〉

〔壒囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0498 世謠以恩報怨云證據アリヤ、常爾云、サレ共論語或曰、以德報怨何如、子曰、何以報德、以直報怨、以德報德云リ、然共佛法又報怨以德爲善、以恩報怨、怨永亡、自他安穩、故若其證據ヲ云バ、昔天竺大貧王ト云王ヲ、ハジメテ其隣國王長壽王誅戮、長壽王長生太子ニ向テ云ク、我敵討コトナカレ、以怨報怨、怨互怨絶ルコトナシ、怨以恩報、怨永盡也トテ失給、長生太子父貴命去コトナレ共、正親敵ヲ不討シテハ、生タル甲斐ナシト思テ、身窶シテ種々ノ方便廻、大貪王取寄、事ニフレテ命不違、隨逐給仕事人過タリシカバ、影如召具、一寸身不放、心安者ニゾ思ハレケル、或時長生太子膝ヲ枕ニシテ眠給ヒケリ、長生年比子ラヒツル所、今已ニ成就スト悦テ、劒拔テ害セントスルニ、父遺言思出テ劒ヲ納メ、王寢覺テ云、我夢見樣、長壽王子捕ヘラレテ殺サレントスト云、長生答テ云、此所山神怒リ祟歟、我アレバ何事カアルベキ、只能々休給ヘト云、王軈テ寢入給、又長生劒ヲ拔テ討ントスルガ、猶父遺言思テ、劒ヲサス、又驚テ夢語事如先、答事同、仍王又眞眠入、長生重テ劒ヲ拔ト云共、父遺命ヲ違ヘン事、畏思直劒納ケリ、王又驚夢語事相同、其時長生申曰、我實長壽王子也、汝爲父討憤不散、故日比伺ヒ討ントス、只今其隙ヲ得タリ、殺害セン事如思イナレ共、父遺命難忘シテ劒ヲ納ムル事三度也、今我殺サン共心可任トゾ顯ハシケル、大貧王其時邪見ヲ飜シテ善心發シ、貪欲故汝父ヲ失ヒケル、怨以恩報ゼラル、眞孝養ナルベシ、今日ヨリ后、長生ヲ國王トスベシトテ、 我身位ヲ去ト云事アリ、是其證據ナルベシ、但然共多恩ヲ報ズルニ以怨スル體也、

〔沙石集〕

〈八下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0499 先世房事
萬事ヲ自業ノ因緣ト思ハ〻、不祥厄難アリトモ、人ヲトガメ不恨、シカルニ人ノトガトノミ思テ、恨ヲフクミ怨ヲ報フ事、返々ヲロカナリ、經曰、怨ヲ以テ怨ヲ報ズルニ、怨ツイニツキズ、草ヲ以火ヲケスガ如シ、恩ヲ以怨ヲ報ズルハ、怨ツイニツク水ヲ以火ヲケスガ如シト、

〔榮花物語〕

〈五/浦々の別〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0499 そち殿は、〈○藤原伊周、中略、〉つくしにおはしつきたるに、そのおりの大貳は、有國朝臣なり、かくと聞て御まうけいみじうつかうまつる、あはれこどの〈○伊周父道隆〉の御心の、有國をつみもなくをこたる事もなかりしに、あさましく無官にしなさせ給へりしこそ、よに心うくいみじと思ひしかど、有國ははぢははぢにもあらざりけり、哀にかたじけなく、思ひがけぬかたにこえおはしましたるかな、おほやけの御をきてよりは、さしましてつかうまつらんとすなどいひつゞけ、ようづにつかうまつるを、人づてにきゝ給ふも、いとはづかしう、なべて世中さへうくおぼさる、御せうそこ我子のよしなりして申させたり、思がけぬかたにおはしましたるに、京のこともおぼつかなく、おどろきながら參りさぶらふべきに、九國の守にさぶらふ身なれば、さすがに思のまゝにえまかりありかぬになむ、今まで候はぬ、なに事もたゞおほせごとになむしたがひつかうまつるべき、よの中にいのちながくさぶらひけるは、わがとの〈○藤原兼家〉の御すゑにつかうまつるべきとなんおもひたまふるとて、さま〴〵のものどもひつどもにかずしらず參らせたれど、これにつけても、すゞろはしくおぼされて、きゝすぐさせ給ふ、

〔藩翰譜〕

〈八下/相馬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0499 關ケ原の合戰事終り、天下悉く平ぎて、相馬旣に所帶を沒收せられ、家亡ぶべきに極る、政宗〈○伊達〉德川殿に訴へ申けるは、相馬は只だにも、政宗が年頃の敵也、それに上杉、石田等にくみしたる、一定に候はんには、政宗かれが爲にうたるべき時に至て候ひしに、君の仰せ承り、馳せ 下る由を聞て、忽に舊き恨を忘れ、新しき恩を施して候ひき、是れ偏に、彼が野心を挾まざりし故にあらずや、且又累代弓矢の家、此時に至りて、永く斷絶すべき事、誠に不便の至なり、只然るべくは、彼が本領安堵の事、御免を蒙らばやと、折に觸れて、度々歎き奉りしかば、その事となく、年月を經て後に、本領をぞ賜ふたりける、

〔明良洪範〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0500 寬文二年ニ、大坂御城代御吟味有シニ、近年松平丹波守光重、水野出羽守忠胤、内藤帶刀忠興三人ニテ、三年目交代ニテ勤ケルニ、此度酒井忠勝申上テ、古ノ如ク御城代ヲ定メ、其人ハ靑山故伯耆守ノ嫡子因幡守宗俊然ルベシトテ、寬文三年ヨリ大坂御城代靑山因幡守宗俊ニ定番仰付ラレ、因幡守早速大坂城へ移ラレケル、此時或人因幡守宗俊ニ吿テ、此度貴殿大坂定御城代仰付ラレシハ、全ク酒井忠勝ガ推擧也ト云、因幡守宗俊是ヲ聞テ、早速酒井忠勝ガ牛込ノ山莊へ行キ、此度大坂定御城代貴殿御推擧ノ段、忝ク存ズル旨厚ク申述ケルニ、忠勝聞テ、我等左樣ナル事一向存ジ申サズ、貴殿此度ノ事ハ、將軍家ノ御目鏡ニテ仰付ラレシ也、是ハ貴殿亡父伯耆守殿ノ忠勤ヲモ思召サレ、又貴殿ノ誠忠ヲモ思召サレテノ事ナルベシ、此上愈忠勤ヲハゲマレヨト云テ歸サレケル、故伯耆守ハ忠勝ヲ惡ミシニ、忠勝ハ却テ其子因幡守ヲ推擧シケル、恩ヲ仇デ返ス者ハ有ド、仇ヲ恩デ返ス者、此忠勝一人ナラント衆人感ジケルト也、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:23