https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 奢侈ハ、オゴルト云ヒ、又過差トモ云ヘリ、我身ノ分ニ過ギテ、濫リニ財貨ヲ費スヲ謂フナリ、奢侈ハ資産ヲ蕩盡シ、終ニ其身ヲ亡ボスコトアルヲ以テ、古來之ヲ抑制スルニ、制令ヲ以テシ、或ハ訓誡ヲ以テシ、或ハ又之ヲ處罰セシコトアリ、事ハ儉約篇、及ビ服飾部服飾總載篇、法律部手鎖篇、闕所篇等ニ散見シタレバ、宜シク參照スベシ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈一/人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 侈〈音齒 ヲコルホコル〉 奢〈ヲコリボコル〉

〔同〕

〈四/大〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 驕大〈オコリ〉

〔伊呂波字類抄〕

〈於/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 奢〈ヲコル張也、勝也、〉 侈

〔同〕

〈志/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 奢侈 奢豪 奢靡

〔倭訓栞〕

〈前編五/乎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 をごる 驕奢をいふ、侈も倨も同じ、雄凝るの義にや、

〔伊呂波字類抄〕

〈久/疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 過差〈サ〉

〔大鏡〕

〈二/左大臣時平〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 延喜の世間の作法したゝめさせ給しかど、過差(○○)をえしづめさせ給はざりしに、〈○下略〉

〔徒然草〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 堀川相國は美男のたのしき人にて、其事となく過差をこのみ給けり、〈○下略〉

〔野槌〕

〈上/七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 過差(クハサ) おごれる義也

〔徒然草文段抄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 過差、〈○中略〉季吟云、よのつねに過差とは、あやまる事也、こゝにては、野槌の義を可用にこそ、

奢侈例

〔本朝文粹〕

〈二/意見封事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 意見十二箇條 善相公淸行
一請奢侈事 右〈○中略〉臣伏見貞觀元慶之代、親王公卿、皆以生筑紫絹、爲夏汗衫、曝絁爲表袴、東絁爲襪、染絁爲履裏、而今諸司吏生、皆以白縑汗衫、白絹爲表袴、白綾爲襪、菟褐爲履裏、其婦女則、下至侍婢、裳非齊紈服、衣非越綾裁、染紅袖者、費其萬錢之價、禱練衣者、裂於一砧之間、自餘奢靡、不具陳、〈○中略〉
延喜十四年四月廿八日 從四位上行式部大輔臣三善淸行上封事

〔大鏡〕

〈五/太政大臣伊尹〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 太政大臣伊尹のおとゞ、〈○中略〉御門〈○圓融〉の御おぢ、東宮〈○花山〉おほぢにて、攝政せさせ給へば、世中はわが御心にかなはぬ事なく、くわさことのほかにこのませ給ひて、大饗せさせ給ふに、寢殿うら板のかべの、すこしくろかりければ、俄に御らんじつけて、とかくみちの國がみを、つぶとをさせ給へりけるが、なか〳〵白くきよらに侍ける、おもひよるべき事かはな、御家は今世尊寺ぞかし、御ぞうの氏寺にてをかれたるを、かやうのついでには、たちいりて見給へれば、まだその紙のをされて侍るこそ、むかしにあへる心ちして、あはれに見給へれ、かくやうの御さかへを御らんじをきて、御年五十にだにたらで、うせ給へるあたらしさは、ちゝ大臣〈○藤原師輔〉にもをとらせ給はずとこそ、よ人おしみたてまつりしか、

〔小右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 寬仁二年六月廿日辛亥、土御門殿〈○藤原道長第〉寢殿以一間、〈始南庇北庇之間也、簣子高欄相加、〉配諸受領〈不新舊、撰事者、〉令營云々、未聞之事也、造作過差萬倍徃跡、又伊豫守賴光、家中雜具皆悉獻之、厨子、屛風、唐櫛笥具、韓櫃、銀器鋪設、管絃具、劒、其外物不記盡、厨子納種々物、辛櫃等納夏冬御裝束、件唐櫛笥等具、皆有二具、又有枕筥等、屛風二十帖、几帳二十基云々、希有之希有事也、

〔太平記〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 千種殿幷文觀僧正奢侈事附解脱上人事千種頭中將忠顯朝臣ハ、〈○中略〉大國三箇國、闕所數十箇所被拜領タリシカバ、朝恩身ニ餘ハ、其侈リ目ヲ驚セリ、其重恩ヲ與ヘタル家人共ニ、毎日ノ巡酒ヲ振舞セケルニ、堂上ニ袖ヲ連ヌル諸大夫侍三百人ニ餘レリ、其酒肉珍饍ノ費へ、一度ニ萬錢モ尚不足、又數十間ノ廐ヲ作雙ベテ、肉ニ餘 レル馬ヲ、五六十匹被立タリ、宴罷デ和興ニ時ハ、數百騎ヲ相隨へテ、内野北山邊ニ打出テ、追出犬小鷹狩ニ日ヲ暮シ給フ、其衣裳ハ豹虎皮ヲ行騰ニ裁チ、金襴纐纈ヲ直垂ニ縫ヘリ、賤服貴服、謂之僭上、僭上無禮國凶賊也ト、孔安國ガ誡ヲ不恥ケル社ウタテケレ、是ハセメテ俗人ナレバ不言、彼文觀僧正ノ振舞ヲ、傳聞コソ不思議ナレ、適一旦名利ノ境界ノ離レ、旣ニ三密瑜伽ノ道場ニ入給シ無甲斐、只利欲名聞ニノミ趍テ、更ニ觀念定座ノ勤ヲ忘タルニ似リ、何ノ用トモナキニ、財寶ヲ積倉、不貧窮、傍ニ集武具、士卒ヲ逞ス、成媚結交輩ニハ、無忠賞ヲ被申與ケル間、文觀僧正ノ手ノ者ト號シテ、建黨張臂者洛中ニ充滿シテ、及五六百人、サレバ程遠カラヌ參内ノ時モ、輿ノ前後ニ數百騎ノ兵打圍テ、路次ヲ横行シケレバ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏

〔太平記〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 執事兄弟奢侈事
夫富貴ニ驕リ功ニ侈テ、終ヲ不愼ハ、人ノ尋常皆アル事ナレバ、武藏守師直、今度南方ノ軍ニ打勝テ後、彌心奢リ、擧動思フ樣ニ成テ、仁義ヲモ不顧、世ノ嘲哢ヲモ知ヌ事共多カリケリ、常ノ法ニハ、四品以下ノ平侍武士ナンドハ、關板打ヌ舒葺(ノシブキ)ノ家ニダニ、居ヌ事ニテコソアルニ、此師直ハ、一條今出川ニ、故兵部卿親王ノ御母堂、民部卿三位殿ノ、住荒シ給ヒシ古御所ヲ點ジテ、棟門唐門四方ニアグ、釣殿、渡殿、泉殿、棟梁高造リ雙テ、奇麗ノ壯觀ヲ逞クセリ、泉水ニハ伊勢島、雜賀ノ大石共ヲ集タレバ、車輾夕軸ヲ摧キ、呉牛喘テ舌ヲ垂ル、樹ハ月中ノ桂、仙家ノ菊、吉野ノ櫻、尾上ノ松、露霜染シ紅ノ、八シホノ岡ノ下紅葉、西行ガ古、枯葉ノ風ヲ詠タリシ、難波ノ葦ノ一村、在原中將ノ東ノ旅ニ露分シ、字津ノ山邊ノツタ楓、名所々々ノ風景ヲ、サナガラ庭ニ集タリ、

〔臥雲日件錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 文安五年八月十九日、最一撿挍來、留而宿焉、〈○中略〉予又問鹿苑院殿〈○足利義滿〉於此〈○鹿苑寺〉移宅之事、曰創基恐在于泉州合戰之前一兩年歟、初命諸大名之士于土木、〈○中略〉經營未畢、時令其費、則二十八萬貫也、然則至于畢一レ功、則殆百萬貫乎、隆樓傑閣、畫棟雕梁東西南北、碁布星羅、如天降、 如地涌、〈○下略〉

〔應仁記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 亂前御晴之事
天下ハ破レバ破ヨ、世間ハ滅バ減ヨ、人ハトモアレ、我身サへ富貴ナラバ、他ヨリ一段瑩美ト樣ニ振舞ント成行ケリ、サレバ若シ五六年ノ間、一度ノ晴儀サへ、由々敷諸家ノ大儀ナルニ、此間打續九ケ度迄執行ハレケル、先一番ニ將軍家ノ大將ノ御拜賀結構、二番ニ寬正五年三月、觀世ガ河原猿樂、三番ニ同年七月、後土御門院ノ御卽位、四番ニ同六年三月、花頂若王子大原野ノ花見ノ會、五番ニ同八月、八幡ノ上卿、六番ニ同年九月、春日御社參、七番ニ同十二月、大嘗會、八番ニ文正元年三月、伊勢御參宮、九番ニ花之御幸也、去レバ花御覽ノ結構ハ、以百味百菓ヲヅクリ、御前ノ御相伴衆ノ筯ヲバ金ヲ以展之、御供衆ノ筯ヲバ沈ヲ以削之、金ヲ以逆鰐口ヲカク、如此面々粧ヲノミ刷ント奔走セシマヽ、皆所領ヲ質ニ置キ、財寶ヲ沽却シテ勤之、諸國ノ土民ニ課役ヲカケ、段錢棟別ヲ譴責スレバ、國々名主、百姓ハ、耕作ヲシエズ、田畠ヲ捨テヽ乞食シ、足手ニ任テ悶行、萬邦ノ郷里村縣ハ、大半ハ郊原ト成ニケリ、鳴呼鹿苑院殿〈○足利義滿〉御代ニ、倉役四季ニカヽリ、普廣院殿〈○足利義敎〉ノ御代ニ成、一年ニ十二度力ヽリケル、當御代臨時ノ倉役トテ、大嘗會ノ有リシ十一月ハ九ケ度、十二月八ケ度也、

〔當代記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 慶長十八年四月廿五日、大久保石見守〈○長安〉死去、 五月十七日、大久保石見男共、蒙勘當、〈○中略〉
大久保石見守遺物堅被改付、金銀從諸國上分、凡五千貫目餘ト云々、其外金銀ニテ拵タル道具、不其數、何も駿府へ藏納、右之道具、大方の覺、茶椀、天目、同臺椀、折敷、印籠、香合、茶釜、圃風爐、〈水桶〉燭臺、手水盥、同柄指、手巾懸、香盆、鏡臺、櫛箱、同櫛、油桶、燭眞取、手箱、シヤミセン、キセル、そのほか女人の道具ニカヽラヌ物共有トカヤ、一笑々々、 右何も金子、銀子、二通有ケルト也、前代未聞次第也、右之 石見存生之時、慶長六年辛丑年ヨリ今年迄十三年間、佐渡國、石見諸國金山へ、年中ニ一度宛上下、路次中ノ行儀夥事也、召遣之上郎女房七八十人、其次合二百五十人、同道ノ間、泊々ノ宿、何も代官所成ケレバ、家々思樣ニ作並タリ、其外傳馬人足已下、幾等ト云不數、毎度上下如此、偏如天人、更凡夫ノ非及、就之諸國下民同町人、その費不勝計、又其泊々朝夕食事、同其町々ノ者務之、タヾ爲之迷惑スル、

〔慶長年錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 慶長十八年六月、甲州爲仕置、島田淸左衞門被遣、大久保石見事ハ、甲州武田之内大藏大夫と申猿樂之子也、〈○中略〉甲州御入國之時、〈○中略〉大久保相州ニ御預、後ニ相州同名ニ被仰付、御代官を仕、大久保十兵衞と申、勘定方才覺有之、石見、伊豆、佐渡等之金山奉行被仰付、國奉行ニ而評定衆之なみに加判仕、無双之おごり者、名譽之儀也、代官所へ參候時ハ、家來之外、美女廿人、猿樂卅人、供ニ召連、上下泊々ニ而、打はやしおどらせ通り申候、

〔閑田次筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 元祿の比か、年季さだかにはしらず、京に中村某なるもの奢侈に過て、官の御咎を蒙り、捉はれて東へ下る時、大津にてやどりたる夜、近き山に鹿の鳴をきゝて、寢ながらは是もをごりか鹿のこゑ、過奢者の罪を得て懲たる心ばへあはれなり、また其後浪華の巽何がしといふもの、同じく過奢にて召捕れ、東へおもむく道にて、笑ふものわらはれてみよ花の旅、といふ句をしたり、誠に笑ふもの、此まねは及ぶべからねど、己が非を省みざる志、大におとれりと、ある人倂せて評せしは、ことわりに覺えしか、此巽何がしは事はてゝのち、京にすみて導引をせしが、病人の按腹する間、物蔭にて妾に箏を彈しむ、按腹は心を静めてなすべければといへりとぞ、是はもろこしにて、蘇合樂を吹く間に煉る藥を、蘇合圓といへる故事より、おもひよれるよし、生涯過奢の意止ざりしはしるべし、

〔蜘蛛の糸卷〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 十八大通 元祿の比、紀伊國屋文左衞門といふ材木の問屋、本八丁堀壹町殘らず持地面にて、大厦高堂を構へ、片名に呼びて紀文といふ、今も其名人口に鱠炙す、其角門人にて俳名を千山といへり、其角五元集にも千山が宅にてと云ふ句二三首見えたり、紀文ひとゝせ、歲越の夜、花街に遊びて、豆の中へ小粒金を交へて、豆蒔をしたる事、口碑にもつたへ、物の本にもみゆ、〈委敷は己が家兄醒齋京傳翁著、近世奇跡考にあり、〉紀文かゝる奢侈に家産を破り、晩年深川一の鳥居の邊に住し、こゝに歿せり、其後、俳諧の宗匠某、紀文が住みすてしを買ひけるに、居間の天井紙張にてありしが、いたくふるびたれば、經師に張替さする時、經師言ひけるやう、こゝは何人の住ひし跡やらん、あるじは物好みにふけりたる人にて有りけん、天井を張りたる紙を見るに、一つ紙にはあらず、日本國中の紙なりといひけるよし、ある隨筆に見えたり、おもふに紀文零落しても、心のおごりかくのごとし、此一を以て盛なりし時を知るべし、今いへば是せいたくなり、ぜいたくは驕奢の陰病なる物なり、此病ある者、黃金湯を用ふれば、ます〳〵上昇して、治しがたく、その上遂には破財亡家の死にいたる、享和の比、川柳點の句に、唐やうで賣店と書く三代目、とはよきいましめぞかし、扨本編の神代のなごりにもいはれしごとく、天明の比、花車風流を事とする者を、大通、又は通人、通家などゝ唱へて、此妖風世に行はる、其中にも、十八大通とて、十八人の通人ありけり、首長たる者は、日本橋西河岸の〈材木屋と聞ゆ〉十曉、御藏前なる〈札差大口屋治兵衞〉文魚なり、ある日、十八人の通人集會ありし時、文魚銀のはりがねにて、髮を結ひて出でしを、通者も見て譏り云ふやう、文魚が銀の針がねは、今日一日の晴ならん、さのみ稱すべきにもあらずといひしを聞きて、此後に平日も銀の針がねにて髮を結はせしとぞ、其比、巷説にもいへり、此文魚も紀文の如く、零落して、御厩川岸の格子作り、間口二間ばかりの家に住ひたる比、ある貴人の御隱居、文魚が河東節の上手なるを聞き給ひで、召されける時、上るり終りて、別の座しきにて、酒食をたまひ、文魚なりとて、目錄は多からず、八丈縞五反給はり、文魚が連 れ來りし名のきこえたる河東ぶしの三絃彈にて、藝を業とする者なれば、目錄を給はりけり、時に文魚たまものゝ反物を、今日はたいぎなり、是は寸志なりとて、一人へ三反、一人へ貳反、其座にてとらせたるを、貰ひし三味線彈、昨夜かやうの事有りしとて、亡兄に語りて、文魚を稱したりき、おのれかたはらにありて聞きぬ、三味線彈は、山彦源四郎なりき、紀文が天井の紙文魚が八丈縞の一對の奇談と云ふべし、

戒奢侈

〔朝野群載〕

〈一/文筆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 續座左銘〈幷序〉 江都督〈○匡房、中略、〉
貧賤敢勿屈、富貴敢勿奢、〈○下略〉

〔明良洪範〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 其頃京都ニテ公家町人、總テ花美ニ募リ、種々奢侈ナル事共聞エシカバ、御仕置ノ爲、老臣ノ中ヨリ重矩〈○板倉〉撰ミ出サレ、上京セラレ、寬文年中迄諸司代ヲ勤メラレケル、〈○中略〉其時町奉行ハ宮崎若狹守、雨宮對馬守也、重矩上京シテ、公家門跡ナドニハ目ヲ付ズ、町人ヲ嚴敷禁ラレシ、其中ニ〈○中略〉難波屋十右衞門ト云富者有リ、樣々ナル奢侈ヲ盡ケルガ、町人ニテハ面白カラズトテ、聖護院へ用金ヲ多差上、家來分ニナリ、峯入ノ供ヲシタリ、歷々ノ士ノ如ク供人多ク召連レ、目ヲ驚ス計也、箇樣事共風俗ヲ亂シ、世ノ害トナル事故、其過怠ニ宇治橋ノ掛直シヲ申付ラレシニ、早速普請出來シ、魏寶珠ニ己ガ姓名ヲ大ニ彫付テ名聞ヲ喜ビシ、此入用金、難波屋一ケ月ノ利金ニモ及バザリシト也、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:23