p.0623 奢侈ハ、オゴルト云ヒ、又過差トモ云ヘリ、我身ノ分ニ過ギテ、濫リニ財貨ヲ費スヲ謂フナリ、奢侈ハ資産ヲ蕩盡シ、終ニ其身ヲ亡ボスコトアルヲ以テ、古來之ヲ抑制スルニ、制令ヲ以テシ、或ハ訓誡ヲ以テシ、或ハ又之ヲ處罰セシコトアリ、事ハ儉約篇、及ビ服飾部服飾總載篇、法律部手鎖篇、闕所篇等ニ散見シタレバ、宜シク參照スベシ、
p.0623 侈〈音齒 ヲコルホコル〉 奢〈ヲコリボコル〉
p.0623 驕大〈オコリ〉
p.0623 奢〈ヲコル張也、勝也、〉 侈
p.0623 奢侈 奢豪 奢靡
p.0623 をごる 驕奢をいふ、侈も倨も同じ、雄凝るの義にや、
p.0623 過差〈サ〉
p.0623 延喜の世間の作法したゝめさせ給しかど、過差(○○)をえしづめさせ給はざりしに、〈○下略〉
p.0623 堀川相國は美男のたのしき人にて、其事となく過差をこのみ給けり、〈○下略〉
p.0623 過差(クハサ) おごれる義也
p.0623 過差、〈○中略〉季吟云、よのつねに過差とは、あやまる事也、こゝにては、野槌の義を可レ用にこそ、
p.0623 意見十二箇條 善相公淸行
一請レ禁二奢侈一事 右〈○中略〉臣伏見二貞觀元慶之代一、親王公卿、皆以二生筑紫絹一、爲二夏汗衫一、曝絁爲二表袴一、東絁爲レ襪、染絁爲二履裏一、而今諸司吏生、皆以二白縑一爲二汗衫一、白絹爲二表袴一、白綾爲レ襪、菟褐爲二履裏一、其婦女則、下至二侍婢一、裳非二齊紈一不レ服、衣非二越綾一不レ裁、染二紅袖一者、費二其萬錢之價一、禱二練衣一者、裂二於一砧之間一、自餘奢靡、不レ能二具陳一、〈○中略〉
延喜十四年四月廿八日 從四位上行式部大輔臣三善淸行上二封事一
p.0624 太政大臣伊尹のおとゞ、〈○中略〉御門〈○圓融〉の御おぢ、東宮〈○花山〉おほぢにて、攝政せさせ給へば、世中はわが御心にかなはぬ事なく、くわさことのほかにこのませ給ひて、大饗せさせ給ふに、寢殿うら板のかべの、すこしくろかりければ、俄に御らんじつけて、とかくみちの國がみを、つぶとをさせ給へりけるが、なか〳〵白くきよらに侍ける、おもひよるべき事かはな、御家は今世尊寺ぞかし、御ぞうの氏寺にてをかれたるを、かやうのついでには、たちいりて見給へれば、まだその紙のをされて侍るこそ、むかしにあへる心ちして、あはれに見給へれ、かくやうの御さかへを御らんじをきて、御年五十にだにたらで、うせ給へるあたらしさは、ちゝ大臣〈○藤原師輔〉にもをとらせ給はずとこそ、よ人おしみたてまつりしか、
p.0624 寬仁二年六月廿日辛亥、土御門殿〈○藤原道長第〉寢殿以二一間一、〈始レ自二南庇一至二北庇一之間也、簣子高欄相加、〉配二諸受領一〈不レ論二新舊一、撰二勘レ事者一、〉令レ營云々、未レ聞之事也、造作過差萬二倍徃跡一、又伊豫守賴光、家中雜具皆悉獻之、厨子、屛風、唐櫛笥具、韓櫃、銀器鋪設、管絃具、劒、其外物不レ可二記盡一、厨子納二種々物一、辛櫃等納二夏冬御裝束一、件唐櫛笥等具、皆有二二具一、又有二枕筥等一、屛風二十帖、几帳二十基云々、希有之希有事也、
p.0624 千種殿幷文觀僧正奢侈事附解脱上人事千種頭中將忠顯朝臣ハ、〈○中略〉大國三箇國、闕所數十箇所被二拜領一タリシカバ、朝恩身ニ餘ハ、其侈リ目ヲ驚セリ、其重恩ヲ與ヘタル家人共ニ、毎日ノ巡酒ヲ振舞セケルニ、堂上ニ袖ヲ連ヌル諸大夫侍三百人ニ餘レリ、其酒肉珍饍ノ費へ、一度ニ萬錢モ尚不レ可レ足、又數十間ノ廐ヲ作雙ベテ、肉ニ餘 レル馬ヲ、五六十匹被レ立タリ、宴罷デ和二興ニ一時ハ、數百騎ヲ相隨へテ、内野北山邊ニ打出テ、追二出犬一小鷹狩ニ日ヲ暮シ給フ、其衣裳ハ豹虎皮ヲ行騰ニ裁チ、金襴纐纈ヲ直垂ニ縫ヘリ、賤服二貴服一、謂二之僭上一、僭上無禮國凶賊也ト、孔安國ガ誡ヲ不レ恥ケル社ウタテケレ、是ハセメテ俗人ナレバ不レ足レ言、彼文觀僧正ノ振舞ヲ、傳聞コソ不思議ナレ、適一旦名利ノ境界ノ離レ、旣ニ三密瑜伽ノ道場ニ入給シ無二甲斐一、只利欲名聞ニノミ趍テ、更ニ觀念定座ノ勤ヲ忘タルニ似リ、何ノ用トモナキニ、財寶ヲ積レ倉、不レ扶二貧窮一、傍ニ集二武具一、士卒ヲ逞ス、成レ媚結レ交輩ニハ、無レ忠賞ヲ被二申與一ケル間、文觀僧正ノ手ノ者ト號シテ、建レ黨張レ臂者洛中ニ充滿シテ、及二五六百人一、サレバ程遠カラヌ參内ノ時モ、輿ノ前後ニ數百騎ノ兵打圍テ、路次ヲ横行シケレバ、法衣忽汚二馬蹄塵一、律儀空落二人口譏一、
p.0625 執事兄弟奢侈事
夫富貴ニ驕リ功ニ侈テ、終ヲ不レ愼ハ、人ノ尋常皆アル事ナレバ、武藏守師直、今度南方ノ軍ニ打勝テ後、彌心奢リ、擧動思フ樣ニ成テ、仁義ヲモ不レ顧、世ノ嘲哢ヲモ知ヌ事共多カリケリ、常ノ法ニハ、四品以下ノ平侍武士ナンドハ、關板打ヌ舒葺(ノシブキ)ノ家ニダニ、居ヌ事ニテコソアルニ、此師直ハ、一條今出川ニ、故兵部卿親王ノ御母堂、民部卿三位殿ノ、住荒シ給ヒシ古御所ヲ點ジテ、棟門唐門四方ニアグ、釣殿、渡殿、泉殿、棟梁高造リ雙テ、奇麗ノ壯觀ヲ逞クセリ、泉水ニハ伊勢島、雜賀ノ大石共ヲ集タレバ、車輾夕軸ヲ摧キ、呉牛喘テ舌ヲ垂ル、樹ハ月中ノ桂、仙家ノ菊、吉野ノ櫻、尾上ノ松、露霜染シ紅ノ、八シホノ岡ノ下紅葉、西行ガ古、枯葉ノ風ヲ詠タリシ、難波ノ葦ノ一村、在原中將ノ東ノ旅ニ露分シ、字津ノ山邊ノツタ楓、名所々々ノ風景ヲ、サナガラ庭ニ集タリ、
p.0625 文安五年八月十九日、最一撿挍來、留而宿焉、〈○中略〉予又問二鹿苑院殿〈○足利義滿〉於レ此〈○鹿苑寺〉移宅之事一、曰創基恐在二于泉州合戰之前一兩年一歟、初命二諸大名之士一役二于土木一、〈○中略〉經營未畢、時令レ考二其費一、則二十八萬貫也、然則至二于畢一レ功、則殆百萬貫乎、隆樓傑閣、畫棟雕梁東西南北、碁布星羅、如二自レ天降一、 如二從レ地涌一、〈○下略〉
p.0626 亂前御晴之事
天下ハ破レバ破ヨ、世間ハ滅バ減ヨ、人ハトモアレ、我身サへ富貴ナラバ、他ヨリ一段瑩美ト樣ニ振舞ント成行ケリ、サレバ若シ五六年ノ間、一度ノ晴儀サへ、由々敷諸家ノ大儀ナルニ、此間打續九ケ度迄執行ハレケル、先一番ニ將軍家ノ大將ノ御拜賀結構、二番ニ寬正五年三月、觀世ガ河原猿樂、三番ニ同年七月、後土御門院ノ御卽位、四番ニ同六年三月、花頂若王子大原野ノ花見ノ會、五番ニ同八月、八幡ノ上卿、六番ニ同年九月、春日御社參、七番ニ同十二月、大嘗會、八番ニ文正元年三月、伊勢御參宮、九番ニ花之御幸也、去レバ花御覽ノ結構ハ、以二百味百菓ヲ一ヅクリ、御前ノ御相伴衆ノ筯ヲバ金ヲ以展レ之、御供衆ノ筯ヲバ沈ヲ以削レ之、金ヲ以逆鰐口ヲカク、如レ此面々粧ヲノミ刷ント奔走セシマヽ、皆所領ヲ質ニ置キ、財寶ヲ沽却シテ勤レ之、諸國ノ土民ニ課役ヲカケ、段錢棟別ヲ譴責スレバ、國々名主、百姓ハ、耕作ヲシエズ、田畠ヲ捨テヽ乞食シ、足手ニ任テ悶行、萬邦ノ郷里村縣ハ、大半ハ郊原ト成ニケリ、鳴呼鹿苑院殿〈○足利義滿〉御代ニ、倉役四季ニカヽリ、普廣院殿〈○足利義敎〉ノ御代ニ成、一年ニ十二度力ヽリケル、當御代臨時ノ倉役トテ、大嘗會ノ有リシ十一月ハ九ケ度、十二月八ケ度也、
p.0626 慶長十八年四月廿五日、大久保石見守〈○長安〉死去、 五月十七日、大久保石見男共、蒙二勘當一、〈○中略〉
大久保石見守遺物堅被二改付一、金銀從二諸國一上分、凡五千貫目餘ト云々、其外金銀ニテ拵タル道具、不レ知二其數一、何も駿府へ藏納、右之道具、大方の覺、茶椀、天目、同臺椀、折敷、印籠、香合、茶釜、圃風爐、〈水桶〉燭臺、手水盥、同柄指、手巾懸、香盆、鏡臺、櫛箱、同櫛、油桶、燭眞取、手箱、シヤミセン、キセル、そのほか女人の道具ニカヽラヌ物共有トカヤ、一笑々々、 右何も金子、銀子、二通有ケルト也、前代未聞次第也、右之 石見存生之時、慶長六年辛丑年ヨリ今年迄十三年間、佐渡國、石見諸國金山へ、年中ニ一度宛上下、路次中ノ行儀夥事也、召遣之上郎女房七八十人、其次合二百五十人、同道ノ間、泊々ノ宿、何も代官所成ケレバ、家々思樣ニ作並タリ、其外傳馬人足已下、幾等ト云不レ知レ數、毎度上下如レ此、偏如二天人一、更凡夫ノ非レ所レ及、就レ之諸國下民同町人、その費不レ可二勝計一、又其泊々朝夕食事、同其町々ノ者務レ之、タヾ爲レ之迷惑スル、
p.0627 慶長十八年六月、甲州爲二仕置一、島田淸左衞門被レ遣、大久保石見事ハ、甲州武田之内大藏大夫と申猿樂之子也、〈○中略〉甲州御入國之時、〈○中略〉大久保相州ニ御預、後ニ相州同名ニ被二仰付一、御代官を仕、大久保十兵衞と申、勘定方才覺有レ之、石見、伊豆、佐渡等之金山奉行被二仰付一、國奉行ニ而評定衆之なみに加判仕、無双之おごり者、名譽之儀也、代官所へ參候時ハ、家來之外、美女廿人、猿樂卅人、供ニ召連、上下泊々ニ而、打はやしおどらせ通り申候、
p.0627 元祿の比か、年季さだかにはしらず、京に中村某なるもの奢侈に過て、官の御咎を蒙り、捉はれて東へ下る時、大津にてやどりたる夜、近き山に鹿の鳴をきゝて、寢ながらは是もをごりか鹿のこゑ、過奢者の罪を得て懲たる心ばへあはれなり、また其後浪華の巽何がしといふもの、同じく過奢にて召捕れ、東へおもむく道にて、笑ふものわらはれてみよ花の旅、といふ句をしたり、誠に笑ふもの、此まねは及ぶべからねど、己が非を省みざる志、大におとれりと、ある人倂せて評せしは、ことわりに覺えしか、此巽何がしは事はてゝのち、京にすみて導引をせしが、病人の按腹する間、物蔭にて妾に箏を彈しむ、按腹は心を静めてなすべければといへりとぞ、是はもろこしにて、蘇合樂を吹く間に煉る藥を、蘇合圓といへる故事より、おもひよれるよし、生涯過奢の意止ざりしはしるべし、
p.0627 十八大通 元祿の比、紀伊國屋文左衞門といふ材木の問屋、本八丁堀壹町殘らず持地面にて、大厦高堂を構へ、片名に呼びて紀文といふ、今も其名人口に鱠炙す、其角門人にて俳名を千山といへり、其角五元集にも千山が宅にてと云ふ句二三首見えたり、紀文ひとゝせ、歲越の夜、花街に遊びて、豆の中へ小粒金を交へて、豆蒔をしたる事、口碑にもつたへ、物の本にもみゆ、〈委敷は己が家兄醒齋京傳翁著、近世奇跡考にあり、〉紀文かゝる奢侈に家産を破り、晩年深川一の鳥居の邊に住し、こゝに歿せり、其後、俳諧の宗匠某、紀文が住みすてしを買ひけるに、居間の天井紙張にてありしが、いたくふるびたれば、經師に張替さする時、經師言ひけるやう、こゝは何人の住ひし跡やらん、あるじは物好みにふけりたる人にて有りけん、天井を張りたる紙を見るに、一つ紙にはあらず、日本國中の紙なりといひけるよし、ある隨筆に見えたり、おもふに紀文零落しても、心のおごりかくのごとし、此一を以て盛なりし時を知るべし、今いへば是せいたくなり、ぜいたくは驕奢の陰病なる物なり、此病ある者、黃金湯を用ふれば、ます〳〵上昇して、治しがたく、その上遂には破財亡家の死にいたる、享和の比、川柳點の句に、唐やうで賣店と書く三代目、とはよきいましめぞかし、扨本編の神代のなごりにもいはれしごとく、天明の比、花車風流を事とする者を、大通、又は通人、通家などゝ唱へて、此妖風世に行はる、其中にも、十八大通とて、十八人の通人ありけり、首長たる者は、日本橋西河岸の〈材木屋と聞ゆ〉十曉、御藏前なる〈札差大口屋治兵衞〉文魚なり、ある日、十八人の通人集會ありし時、文魚銀のはりがねにて、髮を結ひて出でしを、通者も見て譏り云ふやう、文魚が銀の針がねは、今日一日の晴ならん、さのみ稱すべきにもあらずといひしを聞きて、此後に平日も銀の針がねにて髮を結はせしとぞ、其比、巷説にもいへり、此文魚も紀文の如く、零落して、御厩川岸の格子作り、間口二間ばかりの家に住ひたる比、ある貴人の御隱居、文魚が河東節の上手なるを聞き給ひで、召されける時、上るり終りて、別の座しきにて、酒食をたまひ、文魚なりとて、目錄は多からず、八丈縞五反給はり、文魚が連 れ來りし名のきこえたる河東ぶしの三絃彈にて、藝を業とする者なれば、目錄を給はりけり、時に文魚たまものゝ反物を、今日はたいぎなり、是は寸志なりとて、一人へ三反、一人へ貳反、其座にてとらせたるを、貰ひし三味線彈、昨夜かやうの事有りしとて、亡兄に語りて、文魚を稱したりき、おのれかたはらにありて聞きぬ、三味線彈は、山彦源四郎なりき、紀文が天井の紙文魚が八丈縞の一對の奇談と云ふべし、
p.0629 續座左銘〈幷序〉 江都督〈○匡房、中略、〉
貧賤敢勿レ屈、富貴敢勿レ奢、〈○下略〉
p.0629 其頃京都ニテ公家町人、總テ花美ニ募リ、種々奢侈ナル事共聞エシカバ、御仕置ノ爲、老臣ノ中ヨリ重矩〈○板倉〉撰ミ出サレ、上京セラレ、寬文年中迄諸司代ヲ勤メラレケル、〈○中略〉其時町奉行ハ宮崎若狹守、雨宮對馬守也、重矩上京シテ、公家門跡ナドニハ目ヲ付ズ、町人ヲ嚴敷禁ラレシ、其中ニ〈○中略〉難波屋十右衞門ト云富者有リ、樣々ナル奢侈ヲ盡ケルガ、町人ニテハ面白カラズトテ、聖護院へ用金ヲ多差上、家來分ニナリ、峯入ノ供ヲシタリ、歷々ノ士ノ如ク供人多ク召連レ、目ヲ驚ス計也、箇樣事共風俗ヲ亂シ、世ノ害トナル事故、其過怠ニ宇治橋ノ掛直シヲ申付ラレシニ、早速普請出來シ、魏寶珠ニ己ガ姓名ヲ大ニ彫付テ名聞ヲ喜ビシ、此入用金、難波屋一ケ月ノ利金ニモ及バザリシト也、