https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 富ハ、トミ又トムト云フ、貨財ニ豐カナルヲ謂フナリ、而シテ其之ヲ有スルモノヲ有得人、長者、分限者、若シクハ金持(カネモチ)トモ稱ス、凡ソ富ヲ求ムルハ、人ノ本性ニ出ヅルモ、之ヲ致スニ道アリ、遇〻暴富ヲ得ルモノアリト雖モ、多クハ奓侈ニ流レ易ク、往々ニシテ産ヲ破リ、或ハ慳貪不義ニシテ、爲ニ其身ヲ亡ボスモノモ亦無キニ非ズ、是ヲ以テ高潔ノ士ハ、常ニ富ヲ賤ミテ、足 ルコトヲ知ルヲ以テ富メリト爲スモノアリ、今其特殊ノ例ヲ收錄ス、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈七/宀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 富〈甫霤反 トム ミツサイハヒス 和、フ、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈止/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 富〈トムトミ〉 豐 稔 賑〈已上同〉

〔倭訓栞〕

〈前編十八/登〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 とみ 富をよめり、田實の義なるべし、一説に積也、財をつむをいふといへり、

〔易林本節用集〕

〈不/言辭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 富貴(フキ)〈富有(イウ)富宥(イウ)〉

君富

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 七年四月辛未朔、天皇居臺上而遠望之、烟氣多起、是日語皇后曰、朕旣富矣、豈有愁乎、皇后對諮、何謂富焉、天皇曰、烟氣滿國、百姓自富歟、皇后且言、宮垣壞而不修、殿屋破之衣被露、何謂富乎、天皇曰、其天之立君、是爲百姓然則君以百姓、爲本、是以古聖王者、一人飢寒、顧之責身、今百姓貧之、則朕貧也、百姓富之、則朕富也、未之有百姓富之君貧矣、

民富

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 二年十月癸亥、宴群臣、是時天下安平、民無傜役、歲比登稔、百姓殷富、稻斛銀錢一文、馬被野、

〔常陸風土記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 常陸國司解申、古老相傳舊聞事、〈○中略〉
夫常陸國者、堺是廣大、地亦緬邈、土壤沃墳、原野肥衍、墾發之處、山海之利、人々自得、家々足饒、設有身勞耕耘力竭紡蝅、立卽可富豐、應貧窮、況復求鹽魚味、左山右海、植桑種麻、後野前原、所謂水陸之府藏、物産之膏腴、古人云常世之國、蓋疑此地、

〔豐後國風土記〕

〈速見郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 田野〈在郡西南〉 此野廣大、土地沃腴、開墾之便無此土、昔者郡内百姓居此野、多開水田、餘糧宿畝、大奢己富、作餅爲的、于時餅化白鳥、發而南飛、當年之間、百姓死絶、水田不作、遂以荒廢、自後以降、田水不、今謂田野、其緣也、

貴富

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 元年四月丁未、詔曰、〈○中略〉夫前播磨國司來目部小楯〈更名磐楯〉求迎擧朕、厥功茂焉、所志願言、小楯謝曰、山官宿所願、乃拜山官、改賜山部連氏、以吉備臣副、以山守部民、褒善顯功、酬恩 答厚、寵愛殊絶、富莫能儔

〔日本書紀〕

〈十九/欽明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 天皇幼時夢、有人云、天皇寵愛秦大津父者、及壯大必有天下、寐驚遣使普求、得山背國紀伊郡深草里、姓字果如所夢、於是所喜遍身、歎曾夢、乃吿之曰、汝有何事、答云、無也、但臣向伊勢、商價來還、山逢二狼相鬬汚一レ血、乃下馬洗漱口手、祈請曰、汝是貴神、而樂麤行、儻逢獵士、見禽尤速、乃抑止相鬬、拭洗血毛、遂遣放之、倶令命、天皇曰、必此報也、乃令近侍、優寵日新、大致饒富、及踐祚、拜大藏省

〔新撰姓氏錄〕

〈左京皇別下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 大春日朝臣、〈出孝昭天皇皇子天帶彦國押人命也、仲臣令家重千金、委糟爲堵、○下略〉

〔三代實錄〕

〈三/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 貞觀元年七月十三日丙寅、從四位上行備前守藤原朝臣春津卒、〈○中略〉春津家世貴顯、生而富實、居處閨庭、甚爲鮮華、性寡嗜欲、不財利、唯馬是好、時々觀之、里第養閑、不肯出仕、帝戯語左右曰、春津是南山之玄豹焉、卒時年五十二、

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 仲平大臣事
治部卿伊房談云、仲平大臣者富饒人也、秕杷殿一町内、四分之一立柱屋、殘皆立倉庫、珍寶玩好、不勝計云々、

國司富

〔今昔物語〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 能登守依直心國得財語第四十六
今昔、能登守ト云フ人有ケリ、心直クシテ、國ヲ吉ク治メケルニ、又國ノ内ノ佛神ヲ崇メ、懃ニ仕ケレバ、國内平カニシテ、雨風時ニ隨テ、穀ヲ損スル事无クシテ、造リト造ル田畠ハ樂ク生ヒ弘コリテ、國豐カナレバ、隣ノ國ノ人モ來リ集テ、岡山ヲモ不嫌ズ造リ弘グレバ、國司極メテ微ク富テ、德並ビ无シ、而レバ小國也ト云トモ、吉ク治ル時ハ、此ク有ケレバ、猶國ノ内ノ佛神ヲ可崇キ者也ケリト聞キ、ト云ヘドモ、此ク佛神ノ仕ル守ノ无ケレバニヤ、他ノ國ハ此クモ不聞、而ル間守郡ニ行テ田畠可作キ事ハ何カ爲ルト巡テ見ルニ、共ニ郎等共多クモ不具セズ、只物云ヒ可合 キ者四五人許ヲ具シタリ、食物ハ郡ニ不知ズシテ、旅寵ヲ具シタリ、前々國司郡ニ入ニハ、郡ノ司可然キ曳出物ナド爲ルニ、此ハ然カ无クテ、守ノ云ク、其レ得ルハ賢キ事ナレドモ、其レハ不爲ズ、只我任ニハ田畠ヲダニ多ク作クラバ、國人ノ爲ニモ、可賢ニ、然テ使ヲ不得シテ、官物ヲ疾ク可成キ也ト云ヒ廻ラカシタレバ、國人共ニ之レヲ聞テ、手ヲ作テ喜テ、喜キマヽニ、田畠多ク作テ、各身豐ニ成レバ、露物不惜ズ、成シ集ムレバ、守モ大ニ富ニケリ、

〔今昔物語〕

〈二十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 放免共爲强盜人家捕語第六
今昔ノト云フモノ有ケリ、家ハ上ニナン住ケル、若カリケル時ヨリ、受領ニ付テ、國々ニ行クヲ役トシテアリケレバ、便漸ク出來テ、万ヅ叶ヒテ、家モ豐ニ、從者モ多ク、知ル所ナドモ儲テゾアリケル、
○按ズルニ、國司致富ノ事ハ、官位部國司篇ニ詳ナリ、

武家富

〔源平盛衰記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 淸盛息女事
抑日本秋津島ハ、僅ニ六十六箇國平家知行ノ國三十餘箇國、旣ニ半國ニ及ベリ、其上庄園五百箇所、田畠ハイクラト云數ヲ不知、綺羅充滿シテ、堂上花ノ如ク、軒騎羣集シテ、門前成市、楊州之金、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00080.gif 岫之玉、呉郡之綾、蜀江之錦、七珍万寶一トシテ闕ル事ナシ、歌堂舞閣之基ヒ、魚龍雀馬之翫物、恐クハ帝闕モ仙洞モ、是ニハ爭カ增ルベキ、勢旣ニ君朝ニナラビ、富又皇室ニ過タリト、目出度コン被見ケレ、

〔太平記〕

〈三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 公家武家榮枯易地事
公家ノ人ハ加樣ニ窮困シテ、溝壑ニ塡、道路ニ迷ヒケレ共、武家ノ族ハ富貴日來ニ百倍シテ、身ニハ錦繡ヲ纏ヒ、食ニハ八珍ヲ盡セリ、前代相模ノ守ノ天下ヲ成敗セシ時、諸國ノ守護、大犯三箇條ノ撿斷ノ外ハ、綺フ事無カリシニ、今ハ大小ノ事、只守護ノ計ヒニテ、一國ノ成敗ヲ雅意ニ任スレ バ、地頭御家人ヲ郎從ノ如クニ召仕ヒ、寺社本所ノ所領ヲ兵粮料所トテ押ヘテ管領ス、其權威只古ノ六波羅、九州ノ探題ノ如シ、又都ニハ佐々木佐渡判官入道道譽ヲ始トシテ、在京ノ大名衆ヲ結デ茶ノ會ヲ始メ、日々ニ寄合活計ヲ盡スニ異國本朝ノ重寶ヲ集メ、百座ノ粧ヲシテ、ミナ皆曲彔ノ上ニ豹虎ノ皮ヲ布キ、思々ノ段子金襴ヲ裁キテ、四主頭ノ座ニ列ヲナシテ並居タレバ、只百福莊嚴ノ床ノ上ニ、千佛ノ光ヲ雙テ、座シ給ルニ不異、異國ノ諸侯ハ遊宴ヲナス時、食膳方丈トテ、座ノ圍四方一丈ニ珍物ヲ備フナレバ、ソレニ、不劣、面五尺ノ折敷ニ十番ノ齋羮點心百種、五味ノ魚鳥、甘酸苦辛ノ菓子、色々樣々ニ居雙ベタリ、飯後ニ旨酒三獻過テ、茶ノ懸物百物百ノ外ニ、又前引ノ置物ヲシケルニ、初度ノ頭人ハ、奧染物各々百充、六十三人ガ前ニ積ム、第二度ノ頭人ハ、色色ノ小袖十重充置、三番ノ頭人ハ、沈ノホタ百兩充、麝香ノ臍三充副テ置、四番ノ頭人ハ、沙金百兩宛、金絲花ノ盆ニ入テ置、五番ノ頭人ハ、只今爲タテタル鎧一縮ニ、鮫懸タル白太刀、柄鞘皆金ニテ打クヽミタル刀ニ、各々虎ノ皮ノ火打袋ヲサゲテ一樣是ヲ引ク、以後ノ頭人廿餘人、我人ニ勝レント、樣ヲカへ、數ヲ盡シテ、如山ツミ重ヌ、サレバ其費幾千萬ト云事ヲ不知、是ヲモセメテ取テ歸ラバ、互ニ以是彼ニ替タル物共トスベシ、トモニツレタル遁世者、見物ノ爲ニ集マル田樂猿樂傾城、白拍子ナンドニ皆取クレテ、手ヲ空シテ歸シカバ、窮民孤獨ノ飢ヲ資ルニモアラズ、又供佛施僧ノ檀施ニモ非ズ、只金ヲ泥ニ捨テ、玉ヲ淵ニ沈メタルニ相同ジ、此茶事過テ、又博奕ヲシテ遊ケルニ、一立テニ五貫十貫立ケレバ、一夜ノ勝負ニ、五六千貫負ル人ノミ有テ、百貫共勝人ハナシ、此モ田樂、猿樂、傾城、白拍子ニ賦リ捨ケル故也、抑此人々、長者ノ果報有テ、地ヨリ物ガ湧ケル歟、天ヨリ財ガフリケルカ、非降非湧、只寺社本所ノ所領ヲ押へ取リ、土民百姓ノ資財ヲ責取、論人訴人ノ賄賂ヲ取集メタル物共也、古ノ公人タリシ人ハ、賄賂ヲモ不取、勝負ヲモセズ、圍碁雙六ダニ酷禁ゼシニ、万事ノ沙汰ヲ閣テ、訴人來レバ、酒宴茶ノ會ナンドヽ云テ不對面、人ノ歎ヲモ不知嘲ヲ モ不顧、長時ニ遊ビ狂ヒケレバ、前代未聞ノ癖事ナリ、

〔太閤記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 金賦之事
秀吉公御藏入領貳百万石餘有しかば、金銀米錢あつまりぬる事夥しき事なり、かやうに遂年財寶あつまり來たるを施さゝれば、慳貪くづれとやらんにあふよしなり、左もある事もやと、由己法眼に問給ふに、仰いと宜しく侍る旨申上しかば、さらば施してんよとて、天正十三年初秋の比、金子五千枚、銀子三万枚、諸侯大夫等に施し給へり、聚樂總門南のかたにして、臺にすへならべ御賦有しが、朝より晩に至て事盡にけり、此後又其沙汰に及び給へり、京童見物して興さめつゝ云やうは、活潑々地なる事かな、古今に傑出し給へる君なりとて感じあへりき、

富人

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 福人(ソクジン/○○)〈正曰富人(○○)〉福者(フクシヤ/○○)

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 長者(チヤウジヤ/○○)〈郷里富家爲長者、事見名義集、〉

〔飜譯名義集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 長者篇第十八
西土之豪族也、富商大賈、積財鉅萬、咸稱長者、此方則不然、蓋有德之稱也、

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 有得人(ウトクニン/○○○)〈本朝呼富人爾、〉

〔倭訓栞〕

〈中編三/宇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 うとく 有得の義成べし、富有得分をいふ也、

〔廣長見聞集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 高屋久喜欲にふける事
聞しは今、江戸町に高屋久喜と云て、うとくな人(○○○○○)あり、藝能もいらず、たゞ金持人(○○○)こそ人なれと云て、欲心のみに明くらせり、

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 分限者(ブゲンモノ/○○○)

〔源平盛衰記〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 福原京事
治承四年六月九日、福原新都ノ事始アリ〈○中略〉先里内裏造進ラセラルベキトテ、五條大納言邦綱 卿周防國ヲ賜テ、六月廿三日ニ事始シテ、八月十日棟上ト定申サレケリ、彼大納言ハ、大福長者(○○○○)ニテオハシケレバ、造出サン事左右ニ及バネドモ、爭カ民ノ煩、人ノ數ナカルベキ、〈○下略〉

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 ある大福長者(○○○○)のいはく、人はよろづをさしおきて、ひたぶるに德をつくべきなり、貧しぐては生けるかひなし、富めるのみを人とす、德をつかんとおもはゞ、すべからくまづその心づかひを修行すべし、その心といふは他の事にあらず、人間常住のおもひに住して、假にも無常を觀ずることなかれ、これ第一の用心なり、次に萬事の用をかなふべからず、人の世にある自他につけて所願無量なり、欲に從ひて志を遂げんとおもはゞ、百萬の錢ありといふとも、しばらくも住すべがらず、所願は止むときなし、財は盡くる期あり、かぎりある財をもちて、かぎりなき願に從ふこと得べからず、所願心にきざすことあらば、我をほろぼすべき惡念きたれりと、かたく愼みおそれて、小用をもなすべからず、次に錢を奴の如くして、つかひ用ゐるものとしらば、長く貧苦を免るべからず、君の如く神のごとくおそれたまふとみて、從へ用ゐることなかれ、次に恥に臨むといふとも、怒り怨むることなかれ、次に正直にして約をかたくすべし、この義を守りて、利をもとめん人は、富のきたること、火のかわけるに就き、水の下れるに從ふがごとくなるべし、錢つもりてつきざるときは、宴飮聲色をことゝせず、居所をかざらず、所願を成ぜれども、心とこしなへに安く樂しと申しき、そも〳〵人は所願を成ぜんがために財をももとむ、錢をたからとすることは、願をかなふるがゆゑなり、所願あれどもかなへず、錢あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ、何をか樂とせん、このおきては、たゞ人間の望を絶ちて、貧を憂ふべからずときこえたり、欲をなして樂とせんよりは、しかじ財なからんには、癰疽を病むもの、水に洗ひて樂とせんよりは、病まざらんにはしかじ、こゝにいたりては、貧富分くところなし、究竟は理卽にひとし、大欲は無欲に似たり、

〔續應仁後記〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 公方家南方御進發同御退治御仕置事
扨又畿内繁昌ノ地、在々所々寺社等迄、公方家再興ノ御軍用大切ノ御事ナレバ、各々金銀ヲ差上ゲ可然由被相觸ケル程ニ、皆人是ヲ獻上ス、中ニモ大坂本願寺ハ、一向宗門ノ總本寺大富祐ナレバ迚、五千貫ヲ課ラレシニ、住持光佐上人不難澀、五千貫ヲ獻上ス、〈○中略〉扨泉州ノ堺津ハ、大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三萬貫ヲ可差上事、子細有ラジト申付ラル、然處堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申事無ク、不同心ノ由ヲ申ス、然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者共、彌以怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋兩庄官ヲ大將トシ、堺津一庄ノ諸人多勢一昧シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ、堀ヲ深シ、櫓ヲ掲ゲ、專ラ合戰ノ用意シテ、信長勢ヲ妨ガントス、

〔鹽尻〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 京師の富人壼某とかや、老病に臨て、數多の子供を集めて曰、世に子に遺言をなして、却て跡のみだりがはしき多し、我甚是を非とす、我藏の財は一卷の目錄に有、汝等得まほしき物あらば、互ひに和らぎ集りて、我爲に遺書を作れと、子供諾し、親族を會し、彼詞の通り互ひに恨なき樣に書しかば、父見て甚好とて、印章ををして、所の名主にも見せて後、程なく身まかりける、跡には種々の財寶居宅金銀及劵證なんど有しかども、多くの子供かねて定めし儘に取侍りしかば、爭もなくて中よく今にありと、京の人語りし、あはれかしこき謀事なり、古今所分に依て、兄弟仇敵のやうになるも少からず、此商家數十萬金の跡むづかしき事なき、實に慈といふべきのみ、

求富/祈富

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 極窮女於尺迦丈六佛福分奇表以現得大福緣第廿八
聖武天皇世、奈羅京大安寺之西里有一女人、極窮命活无由而飢、流聞大安寺丈六佛衆生所願急能施賜、買香花油而以參往於丈六佛前白之言、我昔世不福因、現身受貧窮之報、故我施寶、令窮 愁、累日經月願祈不息、如常願福、獻花香燈、罷家而寐、明日起見于門椅所、有錢四貫、著之短籍而注謂之、大安寺大修多羅供錢、女人恐急以之送寺、時宗僧等見錢藏、封印不誤、唯無錢四貫、故取納藏矣、女又參向于丈六前、獻香花燈、罷家而寐、明日起見于庭中錢四貫、又短籍注謂、大安寺常修多羅供錢、女以送寺、宗之僧等見錢器、封不誤也、開見之、唯無錢四貫、恠之藏封、女如先參往丈六前、願曰福分、罷家而寢、明日開戸見之、閫前有錢四貫、着短籍謂、大安寺成實論宗分錢、女以送寺、宗僧等見錢之器、猶封不誤、開見之、唯無錢四貫、爰六宗之學頭僧等集會恠之、問女人曰、汝爲何行、答曰、無爲、唯依貧窮存命無便無歸無一レ怙、故我是寺尺迦丈六佛獻花香燈、願福分耳、衆僧聞之而商量言、是佛賜錢故、我不藏返賜女人、女得錢四貫、爲增上緣、大富饒財、保身存命、諒知尺迦丈六不思議力、女人至信奇表之事矣、

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 極窮女憑敬千手觀音像福分以得大富緣第卅二
海使表女者、諾樂左京九條二坊之人也、産生九子、極窮無比、不生活、向穗寺、於千手像而願福分、一年不滿、大炊天皇之世、天平寶字七年癸卯冬十月十日、不慮之外、敢其妹來以皮櫃姉而往之、脚染馬屎曰、今我來故是物置也、待之不來、故往問弟、弟答不知、爰内心思恠開櫃而見、有錢百貫、如常買花香油、擎往千手前而見其足、著之馬屎、爾乃疑思菩薩貺錢歟、過三年、所千手院修理分之錢無百貫、因皮櫃知彼寺之錢、闓委是箴、觀音所賜、賛曰、善哉海使氏長母、朝見飢子、流泣血涙、夕燒香燒、願觀音德應錢入家、滅貧窮愁、感聖留福、流大富泉、養兒飽發、衣苑晰委、慈子來祐、買香得價、如https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02034.gif 盤經説、母慈子因、自生梵天者、其斯謂之矣、斯奇異之事矣、

〔古今著聞集〕

〈一/神祇〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 一條院御時、上總守時重といふ人有、千部の法花經讀誦の願、心中にふかゝりけれ共、身まづしくして、僧一人かたらふべきはからひなし、思ひかねて日吉のやしろに詣で、二心なく祈申けるに、神感有て、はからざるに上總守に成にけり、任國の最前のとくぶんをもて、千部 の經を始てけり、〈○下略〉
○按ズルニ、祈富ノ事ハ、尚ホ神祇部祈禳篇ニ在リ、宜シク參看スベシ、

爲富家養子

〔字治拾遺物語〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 これもいまはむかし、伏見修理大夫俊綱のもとへ、殿上人廿人計おしよせたりけるに、俄にさはぎけり、さかなものとりあへず、沈地の机に時のものども、いろ〳〵たゞおしはかるべし、さかづきたび〳〵になりて、おの〳〵たはふれ出ける、厩にくろ馬の額少しろきを廿疋たてたりけり、移のくら廿具、鞍かけにかけたりけり、殿上人醉みだれて、おの〳〵この馬にうつしのくらをきてのせて返しにけり、つとめてさても昨日いみじくしたるものかなといひて、いざまたおしよせんと云て、又廿人おしよせたりければ、このたびはさる體にして、俄なるさまはきのふにかはりて、すびつをかざりたりけり、厩をみれば、黑栗毛なる馬をぞ廿疋までたてたりける、これも額白かりけり、大かたかばかりの人共なかりけり、これは宇治殿の御子におはしけり、されどもきんたちおほくおはしましければ、橘俊遠といひて、世の中の德人ありけり、その子になしてかゝるさまの人にぞ、なさせたまふたりけるとぞ、

致富

〔常陸風土記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 古老曰、昔祖神尊巡行諸神之處、到駿河國福慈岳、卒遇日暮、請欲寓宿、此時富慈神答曰、新粟初嘗、家内諱忌、今日之間、冀許不堪、於是祖神尊恨泣、詈曰、卽汝親何不宿、汝所居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不登、飮食勿奠者、更登筑波岳亦請容止、此時筑波神答曰、今夜雖粟嘗、不敢不一レ尊旨矣、爰設飮食、敬拜祇承、於是祖神尊歡然語曰、愛乎我胤、巍哉神宮、天地並齊、日月共同、人民集賀、飮食豐富、代々無絶、日々彌榮、千秋万歲、遊樂不窮者、是以福慈岳常雪不登臨、其筑波岳往來、歌舞飮喫、至于今絶也、

〔竹取物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0603 今はむかし、竹とりの翁といふものありけり、野山にまじりて竹をとりつゝ、萬の事につかひけり、名をばさぬきの宮つことなむいひける、其竹の中に本光る竹なむ一すぢ有けり、あ やしがりて寄て見るに、つゝの中ひかりたり、それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり、翁云やう、我朝毎夕毎に見る竹の中におはするにてしりぬ、子になりたまふべき人なめりとて、手に打入て、家にもちて來ぬ、めの女にあづけてやしなはす、うつくしき事限なし、いとおさなければ、こに入てやしなふ、竹とりの竹をとるに、此子を見つけて後に竹とるに、ふしを隔てよごとに、こがねある竹を見つくる事かさなりぬ、かくておきなやう〳〵ゆたかになり行、〈○中略〉略翁竹をとる事久敷成ぬ、いきほひまうの物に成にけり、

〔日本書紀〕

〈二十七/天智〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 三年十二月、是月、淡海國言、坂田郡人小竹田史身之猪槽水中、忽然稻生、身取而收、日々致富、栗太郡人磐城村主殷之新婦、床席頭端、一宿之間、稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜、更生一穗、新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富

〔今昔物語〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 大藏大夫紀助延郎等唇被龜語第卅三
今昔、内舍人ヨリ大藏ノ丞ニ成テ、後ニハ冠給リテ、大藏ノ大夫トテ紀ノ助延ト云フ者有キ、若カリケル時ヨリ米ヲ人ニ借シテ、本ノ員ニ增テ返シ得ケレバ、年月ヲ經ルマヽニ、其ノ員多ク積リテ、四五万石ニ成テナム有ケレバ、世ノ人此ノ助延ヲ万石ノ大夫トナン付タリシ、〈○下略〉

〔今昔物語〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 兵衞佐上緌主於西八條見得金語第十三
今昔、兵衞佐ト云人有ケリ、冠ノ上緌ノ長カリケレバ、世ノ人上緌ノ主トナン付タリケル、其ノ人西ノ八條ト、京極トノ畠中ニ賤ノ小家一ツ有リ、其前ヲ行ケルニ、俄ニ夕立ノシケレバ、馬ヨハ下リテ其小家ニ入ヌ、見レバ嫗一人居タリ、馬ヲモ引入テ、夕立ヲ過サントスルニ、家ノ内ニ平ナル石ノ碁枰ノ樣ナル有、其ニ尻ヲ打懸テ、上緌ノ主居タルニ、石ヲ以テ此居タル石ヲ手ニ扣キ居タレバ、打タレテ窪ミタル所ヲ見ルニ、銀ニコソアリケレト、見ツレバ、剝タル所ニ土ヲ塗リ隱シタ、嫗ノ云ク、何ゾノ石ニカ候ハム、昔ヨリ此ニ此テ候フ石也ト、上緌ノ主、本ヨリ此テアリケ ルカト問ヘバ、嫗ノ云ク、此ノ所ハ昔ノ長者ノ家トナン承ハル、此屋所ハ倉共ノ跡ニ候ヒケル、實ニ見シバ、大ナル礎ノ石共有、然テ其尻懸サセ給ヘル石ハ、其ノ倉ノ跡ヲ畠ニ作ラント、思ヒテ、畝ヲ堀ル間ニ、土ノ下ヨタ被堀出テ候ヒシ也、其テ此テ宿ノ内ニ候ヘバ、搔去ント思ヒ候ヘドモ、嫗バ力ハ弱シ、可搔去樣モ无レバ、https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00190.gifhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00190.gif ム此テ置テ候フ石也ト、上緌ノ主此ヲ聞テ、早フ知ラヌニコソアリケレ、目有者ゾ見付ル、我此ノ石取ラント思ヒテ、嫗ニ云ク、此ノ石ハ嫗共コソ由无物トオモフナレ共、我家ニ持行テ可仕要ノアルナリト云ヘバ、嫗只疾召テヨト云ニ、上緌ノ主、其ノ邊ニ知リタル下人ノ許ニ車ヲ借テ、搔入レテ、出ント爲ル程ニ、只ニ取ンガ罪得ガマシカリケレバ、著タル衣ヲ脱テ、嫗ニ取ラスレバ、嫗モ心モ得ズシテ、騷キ迷フ、然レバ上緌ノ主、此テ年來有石ヲ只ニ取ンガ惡ケレバ、衣ヲバ脱テ取スル也ト云ヘバ、嫗聊不思掛不用ノ石ノ替ニ、此許極ジキ財ノ御衣ヲ給ハラントハ不思、穴怖シ、々々々ト云テ、棹ノ有ニカケテ禮ム、然テ上緌ノ主ハ、此ノ石ヲ車ニ搔入レテ、遣ラセテ家ニ返テ、打缺打缺賣ルニ、漸ク思シキ物共、皆出來ヌ、米、絹、綾ナド多ク出來ヌ、然テ西ノ四條ヨリハ北、皇賀門ヨリハ西ニ、人モ往ズ浮ノユウ〳〵トスル一町餘許有、其ヲ直幾許モ不爲ト思テ、直只少ニ買ツ、主ハ不用ノ浮ナレバ、畠ニモ否作マジ、家モ不作マジケレバ、不用ノ所ト思フニ、直少ニテモ買フ人ノ有レバ、イミジキ者カナト思テ賣ツ、上緌ノ主此ノ浮ヲ買取テ後、攝津ノ國ニ行ヌ、船四五艘、艜ナド具シテ、難波ノ邊ニ行テ、酒粥ナドヲ多ク儲ケ、亦鎌ヲ多ク儲ケテ、往還ノ人ヲ多ク招キ寄テ、其酒粥ヲ皆飮シ、然テ其替ニハ、此ノ葦苅テ少シ得サセヨト云ケレバ、或ハ四五束、或ハ十束、或ハ二三束苅テ取ラス、如此三四日苅セケレバ、山ノ如ク苅セ積、其ヲ船十餘艘ニ積テ、京へ上ルニ、往還ノ下衆共ニ、只ニ過ンヨリハ、此船ノ繩手引ト云ケレバ、酒ヲジ多ク儲タレバ、酒ヲ呑ツ綱手ヲ引ケバ、糸疾ク加茂河尻ニ引付ツ、其後ハ、車借テ物ヲ取セツヽ運ビ、往還ノ下衆共ニ、如此酒ヲ呑セテ、其買得タル浮ノ所ニ、皆運ビ持來ヌ、然テ其ノ藁ヲ 其浮ニ敷テ、其ノ上ニ、其邊土ヲ救テ、下衆共ヲ多ク雇テ列置テ、其上ニ屋ヲ造ニケリ、其ノ南ノ町ハ、大納言源定ト云ケル人ノ家ナリ、ソレヲ其ノ定ノ大納言、上緌ノ主ノ手ヨリ買取テ、南北二町ニハ成タルナリ、今ノ西ノ宮ト云フ所此レナリ、彼嫗ノ家ノ銀ノ石ヲ取テ、上緌ノ主其家ヲモ造リ儲ケ、家モ豐成タリケルナリ、此モ前世ノ機緣有事ニコソ有ラメトナン、語リ傳ヘタルトヤ、

〔今昔物語〕

〈二十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606鈴鹿山蜂螫殺盜人語第卅六今昔、京ニ水銀商スル者有ケリ、年來役ト商ケレバ、大キニ富テ、財多クシテ家豐カ也ケリ、伊勢ノ國ニ年來通ヒ行ケルニ、馬百餘疋ニ、諸ノ絹糸綿米ナドヲ負セテ、常ニ下リ上リ行ケルニ、只小キ小童部ヲ以テ馬ヲ追セテナム有ケル、此ノ樣ニシケル程ニ、漸ク年老ニケリ、其レニ此ク行ケルニ、盜人ニ紙一枚取ラルヽコト无カリケリ、然レバ彌ヨ富ヒ增リテ財失スルコト无シ、亦火ニ燒ケ水ニ溺ルヽ事无カリケリ、就中ニ伊勢ノ國ハ、極キ父母ガ物ヲモ奪ヒ取リ、親シキ疎キヲモ不云ズ、貴キモ賎キモ不簡ズ、互ニhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02113.gif ヲ量テ、魂ヲ暗マシテ、弱キ者ノ持タル物ヲバ不憚ズ奪取テ、己ガ貯ト爲ス所也、其レニ此ノ水銀商ガ、此ク晝夜ニ行クヲ、何ナル事ニカ物ヲノミナム不取ザリケル、而ル間、何也ケル盜人ニカ有ケム、八十餘人心ヲ同クシテ、鈴香ノ山ニテ國々ノ行來ノ人ノ物ヲ奪ヒ、公ケ私ノ財ヲ取テ、皆其人ヲ殺シテ、年月ヲ送リケル程ニ、公モ國ノ司モ、此レヲ被追捕ルコトモ否无カリケル、其ノ時ニ此ノ水銀商、伊勢ノ國ヨリ、馬百餘疋ニ諸ノ財ヲ負セテ、前々ノ樣ニ小童部ヲ以テ追セテ、女共ナドヲ具シテ、食物ナドセサセテ、上リケル程ニ、此ノ八十餘人ノ盜人、極キ白者カナ、此ノ者共皆奪取ラムト思テ、彼ノ山ノ中ニシテ、前後エ有テ、中ニ立挾メテ恐シケレバ、小童部ハ皆逃テ去ニケリ、物負セタル馬共皆追取リツ、女共ヲバ皆著タル衣共ヲ剝取テ、追弃テケリ、水銀商ハ、淺黃ノ打衣ニ、靑黑ノ打狩袴ヲ著テ、練色ノ衣ノ綿厚ラカナル三ツ許ヲ著テ、管笠ヲ著テ、草馬ニ乘テ有ケルガ、辛クシテ逃テ、高キ岳ニ打上ニケリ、盜人此レヲ見ケレド モ、可爲キ事无キ者ナメリト思ヒ下シテ、皆谷ニ入ニケリ、然テ八十餘人ノ者各思シキニ隨テ、諍ヒ分チ取テケリ、取テ、何ニト云フ者无ケレバ、心靜ニ思ヒケルニ、水銀商高キ峯ニ打立テ、敢テコトヽモ不思タラヌ氣色ニテ、虚空ヲ打見上ケツヽ音ヲ高クシテ何ラ何ラ遲シ遲シト云ヒ立テリケルニ、半時計アリテ、大キサ三寸計ナル蜂ノ怖シ氣ナル、空ヨリ出來テ、ブニト云ヒテ、傍ナル高キ木ニ枝ニ居ヌ、水銀商此ヲ見テ、彌ヨ念ジ入テ遲シ〳〵ト云フ程ニ、虚空ニ赤キ雲二丈計ニテ、長サ遙ニテ、俄カニ見ユ、道行ク人モ何ナル雲ニカアラント見タルニ、此ノ盗人共ハ取タル物共拈ケル程ニ、此ノ雲漸ク下テ、其盜人ノ有ル谷ニ入リヌ、此ノ木ニ居タリヅル蜂モ立テ其方樣ニ行ヌ、早フ此ノ雲ト見ツルハ、多ノ蜂ノ群テ來ルニ見ユル也ケリ、然テ若干ノ蜂盜人毎ニ皆付テ、皆螫殺シテケリ、一人ニ一二百ノ蜂ノ付タラムダニ、何ナラン者カハ堪ムトスル、其レニ一人ニ二三石ノ蜂ノ付タラムニハ、少々ヲコソ打殺シケレドモ、皆被螫殺ニケリ、其ノ後蜂皆飛去ニケレバ、雲モ晴ヌト見エケリ、然テ水銀商ハ、其ノ谷ニ行テ、盜人ノ年來取貯タル物共多ク、弓胡錄馬鞍著物ナドニ至マデ、皆京ニ返リニケリ、然レバ彌ヨ富增テナム有ケル、

〔宇治拾遺物語〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0607 今はむかし、父母もしうともなく、つまも子もなくて、たゞ一人ある靑侍ゐりけり、すべきかたもなかりければ、觀音たすけ給へとて、長谷にまゐりて、御前にうつぶし伏て申けるやう、此世にかくてあるべくは、やがてこの御まへにてひじにゝしなん、もし又おのづからなる、便もあるべくば、そのよしの夢を見ざらんかぎりは出なまじとて、うつぶしふしけるを、寺の僧みて、こはいかなるものゝ、かくては候ぞ、もの喰所もみえず、かくうつぶし〳〵たれば、寺のためけがらひいできて、大事になりなん、たれを師にはしたるぞ、いづくにてか物はくふなどとひければ、かくたよりなきものは師もいかでか侍らん、物給はる所もなく、あはれと申人もなければ、ほとけの給はん物をたべて、佛を師とたのみ奉て候なりとこたへければ、寺の僧共あつまり て、この事いと不便のことなり、寺のためにあしかりなん、觀音をかこち申人にこそあんなれ、これあつまりて、やしなひてさぶらはせむとて、かはる〳〵物をくはせければ、もてくる物をくひつゝ御前をたちさらず候けるほどに、三七日になりにけり、三七日はてゝ明んとする夜の夢に、御帳より人の出て、このおのこ前世のつみのむくいをばしらで、觀音をかこち申て、かくて候事、いとあやしきことなり、さはあれども、申事のいとおしければ、いさゝかのことはかなひ給りぬ、まづすみやかにさがり出よ、かゝりいでんに、なにもあれ、手にあたらん物をとりて、すてずしてもちたれ、とく〳〵まかりいでよと、をはるゝと見て、はひおきて、やくそくの僧のがりゆきて、物をうち食て、まかり出けるほどに、大門にてけづまつきて、うつぶしにたおれにけり、おきあがりたるに、あるにもあらず、手ににぎられたるものをみれば、わらすべといふ物たゞ一すぢにぎられたり、ほとけの給ふ物にてあるにやあらんと、いとはかなく思へども、ほとけのはからはせ給やうあらんと思て、これを手まざくりにしつゝ、行ほどに、䗈一ふめきてかほのめぐりにあるを、うるさければ、木のゑだをおりて、はらひすつれども、猶たゞおなじやうにうるさくふめきければ、こしをこのわらすぢにてひきくゝりて、枝のさきにつけてもたりければ、腰をくゝられて、ほかへゑいかで、ふめき飛まはりけるを、長谷にまゐりける女車のまへのすだれを、うちかつぎてゐたるちごのいとうつくしけなるが、あの男のもちたる物はなにぞ、かれこひてわれにたべと、馬にのりてともにあるさぶらひにいひければ、その侍その持たる物若ぎみのめすにまゐらせよといひければ、ほとけのたびたるものに候へど、かく仰事候へば、まゐらせ候はんとて、とらせたりければ、このおとこいとあわれなる男なり、わかぎみのめすものを、やすくまゐらせたる事といひて、大柑子を、こ、れのどかはくらん、たべとて、三いとかうばしきみちのくに紙につゝみて、とらせたりければ、侍とりつたへてとらす、わら一すぢが大柑子三つになりのることゝおもひ て、木の枝にゆひつけて、かたにうちかけてゆくほどに、ゆゑある人の忍びてまいるよとみえて、侍などあまた具して、かちよりまいる女房のあゆみこうじて、たゞたてりにたてりゐたるが、のどのかはけば、水のませよとて、きえ入やうにすれば、ともの人々手まどひをして、ちかく水やあるとはしりさわぎもとむれば水もなし、こはいかゞせんずる、御はたご馬にやもしあるととへば、はるかにおくれたりとて見えず、ほと〳〵しきさまにみゆれば、まことにさわぎまどひて、しあつかふを見て、のどかはきてさわぐ人よと見ければ、やはらあゆみよりたるに、こゝなるおとここそ、水のあり所はしりたるらめ、この邊ちかく水のきよきところやあるととひければ、此四五町がうちにはきよき水候はじ、いかなる事の候にかととひければ、あゆみこうぜさせ給て、御のどのかはかせ給て、水ほしがらせ給ふに、水のなきが大事なれば、たづねぬるぞといひければ、不便に候御事かな、水のところは遠くて、くみてまいらば、程へ候なんこれはいかゞとて、つゝみたる柑子を三ながらとらせたりければ、よろこびさはぎてくはせたりければ、それを食て、やうやう目をみあげて、こはいかなりつることぞといふ、御のどかはかせ給ひて、水のませよとおほせられつるまゝに、御とのごもりいらせ給へれば、水もとめ候つれども、淸き水の候はざりつるに、こゝに候男の、思ひがけぬにその心をえて、このかうじを三奉りたりつれば、まゐらせたるなりといふに、此女我はさはのどかはきてたえいりたりけるにこそ有けれ、水のませよといひつるばかりはおぼゆれど、その後のことはつゆをぼえず、此柑子ゑざらましかば、此野中にてきえいりなまし、うれしかりける男かな、このおとこいまだあるかととへば、かしこに候と申す、その男しばしあれといへ、いみじからんことありとも、たえ入はてなば、かひなくてこそやみなまし、男のうれしとおもふばかりの事は、かゝる旅にてはいかゞせんずるぞ、くひ物はもちてきたるか、くはせてやれといへば、あの男しばし候へ、御はたご馬などまいりたらんに、物など食てまか れといへば、うけ給ぬとてゐたるほどに、はたご馬かはこ馬などきつきたり、などかくはるかにをくれてはまいるぞ、御はたご馬などは、つねにさきだつこそよけれ、とみの事などもあるに、かくをくるゝはよきことかはなどいひて、やがてまんひきたゝみなどしきて、水遠かんなれど、こうぜさせたまひたれば、めしものはこゝにてまゐらすべきなりとて、夫どもやりなどして、水くませ、食物しいだしたれば、この男に、きよげにしてくはせたり、物をくふ〳〵、ありつる柑子何にかならんずらん、觀音はからはせ給ふことなれば、よもむなしくてはやまじと思ひゐたるほどにしろくよき布を三むらとりいでゝ、これあの男にとらせよ、此柑子の喜は、いひつくすべきかたもなけれども、かゝる旅のみちにては、うれしとおもふばかりの事はいかゞせん、これはただ心ざしのはじめを見するなり、京のおはしましどころは、そこ〳〵になん、かならずまいれ、この柑子のよろこびをばせんずるぞといひて、布三むらとらせたれば、よろこびて、布を取て、わらすぢ一すぢが、布三むらになりぬる事と思ひて、わきにはさみてまゐるほどに、その日はくれにけり、道づらなる人の家にとゞまちて、あけぬれば、鳥とともにおきて行ほどに、日さしあがりてたつの時ばかりに、えもいはずよき馬にのり尢る人、この馬を愛しつゝ、道もゆきやらず、ふるまわすほどに、まことにゑもいはぬ馬かな、これをぞ千貫がけなどはいふにやあらんと見るほどに、この馬にはかにたふれて、たゞしにゝしぬれば、主我にもあらぬけしきにて、おりてたちゐたり、てまどひして從者どもゝくらおろしなどして、いかゞせんずるといへども、かひなくしにはてぬれば、手をうちあさましがり、なきぬばかりにおもひたれど、すべきかたなくて、あやしの馬のあるにのりぬ、かくてこゝにありともすべきやうもなし、我はいなん、これともかくもしてひきかくせとて、下すおとこを一人とゞめていぬれば、この男見て、此馬わがむまにならんとて死ぬるにこそあんめれ、わら一すぢか柑子三になりぬ、柑子三つが布三むらになりたり、此ぬのゝ馬 になるべきなめりとおもひて、あゆみよりて、此下す男にいふやう、こはいかなりつる馬ぞととひければ、みちのくによりゑさせ給へる馬なり、よろづの人のほしがりて、あたひもかぎらず、買んと申つるをも、おしみてはなち給はずして、けふかくしぬれば、そのあたひ少分をもとらせ給はずなりぬ、おのれも皮をだにはがばやと思へど、旅にてはいかゞすべきとおもひて、まもり立て待なりといひければ、その事なり、いみじき御馬かなと見侍りつるに、はかなくかくしぬること、命あるものはあさましきことなり、まことにたびにては、皮はぎ給たりとも、ゑほし給はまじ、をのれはこの邊に侍れば、かははぎてつかひ侍らん、ゑさせておはしねと、此布一むらとらせたれば、男おもはずなる所得したりと思て、おもひぞかへすとやおもふらん、布をとるまゝに、見だにもかへらずはしりいぬ、男よくやりはてゝ後、手かきあらひて、はせの御方にむかひて、この馬をいけて給はらんと念じゐたるほどに、この馬目を見あくるまゝに、頭をもたげておきんとしければ、やはら手をかけておこしぬ、うれしきことかぎりなし、を〈○を下恐脱く字〉れてくる人もぞある、又ありつる男もぞくるなど、あやうくおぼえてければ、やう〳〵かくれのかたに引入て、ときうつるまでやすめて、もとのやうに心ちもなりにければ、人のもとに引もてゆきて、その布一むらして、轡やあやしの鞍にかへて、馬にのりぬ、京ざまにのぼるほどに、宇治渡りにて日くれにければ、そのよは人のもとにとまりて、今一むらの布して、馬の草わが食物などにかへて、その夜はとまりて、つとめていとゝく京ざまにのぼりければ、九條わたりなる人の家に、物へいかんずるやうにてたちさはぐ所あり、この馬京にゐてゆきたらんに、見しりたらん人ありて、ぬすみたるかなどいはれんもよしなし、やはらこれをうりてばやと思て、かやうのところに馬など用なる物ぞかしとて、おり走てよりて、もし馬などやかはせ給ふととひければ、馬がなと思けるほどに、この馬を見て、いかゞせんとさはぎて、たゞ今かはりぎぬなどはなきを、この鳥羽の田や米などに はかへてんやといひければ、なか〳〵きぬよりは第一の事也と思て、きぬや錢などこそ用には侍れ、おのれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思給ふれど、馬の御用あるべくば、たゞ仰にこそしだかはめといへば、この馬にのり心とはせなどして、たゞおもひつるさまなりといひてこの鳥羽のちかき田三町、稻すこし、米などとらせて、やがて此家をあづけて、をのれもし命ありて、歸りのぼりたれば、その時返へしゑさせ給へ、のぼらざらんかぎりは、かくてゐ給つれ、もしまた命たえてなくもなりなば、やがてわが家にしてゐ給へ、子も侍らねば、とかく申す人も侍らじといひて、あづけてやがてくだりにければ、その家に入居て、ゑたりける米いねなど取をきて、ただひとりなりけれど、食物ありければ、かたはらその邊なりける下すなどいできて、つかはれなどして、たゞありつきゐつきにけり、二月ばかりの事なりければ、そのゑたりける田を、なからは人につくらせ、いまなからは、わがれうにつくらせたりけるが、人のかたのもよけれ共、それはよのつねにて、をのれがぶんとてつくりたるは、ことのほかおほく出きたりければ、いねおほくかりをきて、それよりうちはじめ、風のふきつくるやうに德づきて、いみじきとく人にてぞありける、その家あるじもをとせずなりにければ、その家もわがものにして、子孫などいできて、ことのほかにさかえたりけるとか、

〔翁草〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 越後屋八郎右衞門成立之事
昔は上方三拾六人の御代官ゟ、御金納とて、飛脚を以、江戸へ通る、仍道中人馬の御用繁く、驛々難義たるを見て、出目の某といふ者、此人馬の費を止め、公儀の御爲も宜く、亦請負居る者も、利潤を得る仕形を巧出して、六十日爲替と云事を目論見、公儀〈江〉願ふ、此仕形は御代官より、上方にて金子を受取、六十日目に江戸へ納る事也、尤六十日の遲滯有と云へ共、道中人馬費なく、請負人は右日數の間に遊び金を廻し、其間の利德又夥し、如斯積て願ひしに、公儀御評定之間に、願主不幸に して病死す、續て相願ふ者もなく、此上一旦空敷廢れし處に、越後屋八郎右衞門ト云者、〈○中略〉三井三郎右衞門と云町人の手代成しが、此願主に少し由緖有ければ、願ひの跡を起して、再び相願ふ、元來濟居たる願ゆへに、早速八郎右衞門に仰付らる、是に仍て、駿河町に店を構へ、亦京都にも店を拵て、代官衆ゟ上納の金子を京都にて請取、夫より呉服反物を仕込、三度飛脚にて江戸に下し、賣上て其金を以、御役所へ上納す、如此手法にて、江戸におゐて現金掛直なしと云事を始、外々呉服店より格別下直に賣出せば、是迄斯樣の店は無し、殊外珍敷、次第に評判よろしく、買人日に增て多く集て、山の如くの代呂物も、暫時に賣きれば、段々いやが上に荷物を下し、手廣く商ふゆへ、六十日の間に、二三度も往來の利分を取、上納聊不滯ば、公儀表の首尾も宜く、次第々々に分限富裕の身と成ル、因玆三ケ津は申すに不及、諸國城下々々賑しき所には、出店を不置と云ふ事なし、呉服物に限らず、萬物を商ふ、當時此子孫代々相續して、主人三郎右衞門が苗字を囉ひ、三ツ井と稱し、又越後屋と云、兄弟の家、六ツニ分れ、諸國の出店誰渠が持分といふ事なく、六人に總持にして、損德共に六ツ割にして、一己の商にせず、仍過分の利潤もなく、又家の潰るゝ程の損もなし、手代もいづれの支配といふ事なく、江戸にては六人の番頭ありて、駿河町は申すに不及、所々の店を支配し、一向日々の商には不拘、月に六度會合を究め置て、會所へ重立候者共集り、諸店商之事を評議す、京都六人の主人は、一ケ年何程と分量を究め、日用幷に臺所の賄相渡す、是れより餘慶渡す事を堅く禁止す、仍て旦那分六人の者共も、萬心に任せず、手代とも同樣に、幼少より店へ出きて、商を見習ひ勤めて、聊華奢をなす事不叶、もし其法を破るものは、忽ち押込隱居をさせて、六人の名前を除く、此六ツの名前は、八郎右衞門と云を始として、各役名の如く、八郎右衞門隱居或は死失すれば、次座八郎兵衞、三郎助等より、八郎右衞門に成り、段々跡もくり上て、名を改め、假令續きは遠く成ても、當時の八郎右衞門を總領とし、二男三男と、格を定めて、篤く因む事、誠に兄弟 の如し、主人分の家より、替る〳〵勤之、町家たりといへ共、規矩正しき家風故、當時に至て、聊も衰廢の色なし、
因に曰、近世大イ丸と稱する者有り、其濫觴は、伏見京町、大文字屋彦右衞門と云ふ小商人、古手類を商ひて、常に洛に往來するに、路傍一の橋にある瀧尾の社に、ぬかづいて、我千人の頭とならば、宮居を修補し、祭祀を悃にせんと祈誓す、頃は享保の中頃、尾陽の黃門君、華奢風流を好給ひ、名古屋の町に、遊廓芝居等を構られ、木曾山材木の上品を以、費を厭はず、是を營み、上み方よりあらゆる妓女役者の類を抱集め、其壯觀宛も三ケ津の繁榮に超たり、〈○中略〉斯る繁昌を聞傳へ、他邦の商人、吾も〳〵と此地江入込むもの少なからず、大彦時を得たりと、僅に拾貫目の元手を以て色々の良策を廻らす、先づ尾陽へ越さんと欲するの初め、京都二條通の藥店、井筒屋九兵衛と云ふ富裕の者、尾州に店有て、常に荷物を運送す、其衞府に、丸の内に大の字の有るを所望して云く、予も彼地に店を構んと欲す、恨らくは身不肖なれば、道中に於て、我を不知、庶幾は足下の衞府を我等に借せ、夫を以て諸運送滯なからしめん、井九諾して、衞府を借す、自是萬物に丸の内大の字を用ふ、先づ萌黃地に丸大文字の大風呂敷を夥しく仕込、江府の諸商人へ知るべを求て、悉く配當す能き風呂敷なれば、是を得たるもの幸にして、我商物を此風呂敷に包て、彼地の竪横を徘徊す、是迄斯る萌黃地の大風呂敷は、見馴ざれば、江府中に目立て自ら丸大を彼地にて、見知る樣に成れり、是寬大の謀なり、而して先づ名古屋にて、始て大丸屋と稱する新店を構へ、諸色下直に賣出し商の調法、又三井共風俗替りて、讃人の請宜く、日に增て店繁昌す、爰に於て、自分は京都に居をしつらひ、江都に始めて店を設るに、兼て風呂敷に目覺有大丸屋なれば古來より仕似せたる店の如く、江戸中には彼風呂敷を蒔散し置ぬれば、最初より手の廣がる事、餘店に超へ、萬人爰に群り競ふ、大阪にては、柏屋といふ潰れ店を買得して、其儘 柏屋の家名を用ひて商之、三ケ津名古屋に、須臾の間に、其名を發し、一之橋瀧尾社を結構に造立し、彦右衞門剃髮して正啓と號す、〈○下略〉

〔翁草〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 河村瑞軒成立之事
河村瑞軒事、元は車力十右衞門とて、常に車を押て世を渡る傭夫なり、〈○中略〉十右衞門事、浩(カヽ)る卑賤の業に暮すと雖、生得其心廣く、才智拔群の者成しが、或時不圖思ひ付、上方に行て身の安否を究んと、僅の諸道具を賣て、金二三歩肌に著け、小田原迄來て一宿せしに、相宿に老翁あり、何角と語り合ふに、十右衞門が上方〈江〉登る所以を問、十右衞門爾々と答ふ、翁笑ふて、今繁昌の江戸を捨、上方へ行、何の立身か有ん、倩御邊の人相を見るに、大きに家を起すべき相有り不如江戸にて勵まれんにはと云、十右衞門つく〴〵此の翁を見るに、唯者ならぬ氣性顯れければ、忽ち得心して、實も翁の異見尤也、然らば江戸にて一と勵致して見ンと、翁に別れて、江府へ引返、品川を通けるに、折節七月盆過にて、瓜茄子夥敷磯端に流寄しを、不圖心付て、其の邊の乞食共に錢を取らせて取上げさせ、所緣の所にて古桶を借り、右の瓜茄子を鹽漬にして、引かづき毎日普譜小屋〈江〉行、是を賣る、大勢の日傭ども晝食の菜に吾も〳〵と競調ふるに仍、夫ゟ段々瓜茄子の潰物を鹽梅よく仕込みて賣けるに元來發明者なれば、早速御普請の役人へ取入、役人甚十右衞門を賞美して、汝左樣の渡世を致さんよりは、日傭頭をして出精せば立身すべしと勸るに、渡りに舟と速かに畏請て、夫ゟ御普請場の幟を預り、大勢の日用共を引廻し、萬の駈引他の及ぶ處にあらず、依之役人より褒美を囉ひ、餘程金を儲て、夫ゟ下町の表店を借り、家普請を奇麗に致、手代を差置き、大屋幷近邊の者共を振舞、萬づ寬濶成體なれば、近所にても宜敷商人の樣に取沙汰しけれ共、實は餘慶なき身上故に、普請振舞等に費エて、元手銀も無く成しか共、少しも其の色目を見せず、然るに開運の時來るにや、夫より間もなく江戸大火にて、自分の居宅も燒けれ共、少し も夫に貪著せず、次第に大火と見るゟ、未だ燒鎭まらざる内に、木曾山を志し、僅十兩に足らぬ金を携へ、夜を日に繼で彼地に馳趣き、則問屋方〈江〉著て門内を見れば、問屋の子供表に遊び居けるに、懷より小判參兩取出し、小刀にて穴を明け、紙縷を通して、持遊のがら〳〵にして、件の子供にあたへ、案内を乞ふ、亭主に逢て、某は江都の者に候が、大造なる急用有て、材木を多く調度、手代幷に所從の者は追々跡より參積、某は片時も早く用事を辨ジ度存じ夜を日に續で先へ到箸す、金子は跡の者共持參すべし、先有合ふ材木を悉く見積りて隨分に調へ申さんと云、亭主も十右衞門が體を熟見るに、如何樣大造の事に掛る間敷人相に非ず、其の上小供へ小判を持遊びにして呉れたる樣子、實に江府に於て大器の分限者ならんと察して、是を馳走し、段々に材木を見せけるに、一々直段を究め、有合の材木を不殘買上て、極印を入る、斯て江戸には燒跡の小屋懸け段々に始る處に、材木屋に有る處の材木共も過半燒失すれば、材木大きに拂底して、直段追日高直に成り、江府中の手閊と成故に、材木屋共追々木曾に來り買求ンとするに、有合ふ材木之分は悉く十右衞門が極印有て、外ニ賣木なし、依之皆々十右衞門ニ便り、相對して是を所望しける故、夥敷利分を取て賣渡し、則其金を以問屋を仕切、須臾に數千爾の金を貯て江府に歸、家居廣くきらびやかにしつらひ、手代以下多く召抱、所々の普請を請負ふ、元來才智逞敷者なれば、公儀御普請懸りの役人へ悉く取入、其外諸家の普請役へも一々取入ずと云事無く、追日其名高く、後には請負事は此の十右衞門が手を離れては難出來樣に成しかば、諸請負人渠に從ふて事を成すに仍て、益分限に成り、剃髮して河村瑞軒と號す、

失富

〔明良洪範續篇〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 又紀伊國屋文左衞門ト言富商有リ、此者元來貪利ニカシコク、俄ニ富家ニ成リケル上、猶又上野中堂御普請ノ受負ヲナシ、數萬金ヲ儲ケ、大富家ニ成リ、今ハ驕慢ノ氣出、金銀ヲ湯水ノ樣ニ遣ヒ捨ケル、元碌十三年夏、評定所へ願ヒ出ケルニハ、此節ハ御用ノ御間ト存ジ候へ バ、病氣養生ノ爲、湯治ニ罷出度候旨申出ル、伊豆守大イニ怒リ、其方湯治ニ行ク抔屆クルニハ、吾番所ナリト、又ハ吾組ノ與力共迄申立テモ然ルベキニ、天下歷々ノ御役人ノ詰ラルヽ此評定所へ申出ル事、町人ノ身分モ憚ラザル仕方也、畢竟驕慢ノ心ヨリ、カヤフナル恐レ多キ事ヲ致スナリ、不屆者メトテ、牢舍申付ラレケル、一座ノ役人ハ、皆文左衞門ヨリ兼テ賄賂ヲ得テ居ル故、心ニハ氣ノ毒ニ思ヒケル人モ有シトゾ、此文左衞門後年ニ至リ、ツヒニ天罰ニヤ金銀ヲ失ヒ、一日ヲモ送リ兼ル樣ニ成行テ、行末モ慥ニ知レザルヤウニナリシ、

〔翁草〕

〈六十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 京師豪富町人喪家幷衰廢之分
石河自菴
先祖尾州犬山城主之由、浪人後洛に來て町人ト成、八九十年前身上潰、當時跡無、
袋屋常皓
弟與左衞門
先祖は室町三條邊長崎商人ノ手代ニテ、其後自分ニ長崎商ヲ致、富裕ニ成、六七十年以前身上潰、僅ニ殘、〈○中略〉
菱屋十兵衞
御池町ニテ卷物商賣致、親代ニハ富裕ノ聞エ有シガ、後ノ十右衞門不行跡者ニテ身上潰、
吉野屋惚右衞門
押小路柳馬場東へ入町ニ住ス、親ハ嘉右衞門、後ニ宗吾ト云、實父ニテハ無之、宗吾妻ノ弟也、愡右衞門氣カサ者ニテ、長崎會所ノ兩替ヲ致、方々勤廻リ候故、其身ノ分限ヨリモ名高ク、手廣ク取引致候所ニ、中頃ヨリ大名衆ノ取引滯ニ仍、諸向年賦ノ斷ヲ立、慚ニ相續ス、
銀座 元祿吹替ヨリ、日本ノ銀數度吹改リ、其度毎ニ賃銀ヲ被下有增考申處、凡四五拾萬貫目ト立、此吹賃四分ヨリ六分マデ被下、是ヲ平均五分ト見テ、一度ニ二萬五千貫目也、是ヲ五度合拾貳萬貫目也、而ルニ僅十年計ノ内ニ、銀座中家材共ニ沽却シ、今日續ガタク相成ハ如何成故ゾヤ、全ク奢超過スル而已也、總ジテ銀座ノ風俗昔ヨリ如此、盛衰手ノ裏ヲ返ス如クナル事可笑、
絲割賦
元來割賦ハ、長崎ニテ京へ百丸ノ絲ヲ被下、右之糸ヲ賣拂、其餘分ヲ以、仲ケ間ノ雜用ヲ引、跡ヲ夫々配分致事ナリ、仲ケ間ハ大勢ナレバ、先年時節ヨキ頃ダニ、中々割賦計ニテハ格別ノ家督ニモ無之候、去ニ仍、寶永ノ頃銭座ヲ願ヒ、錢ヲ吹出シ候處、其後大錢ヲ吹、無程大錢御停止ニ成候ニ付、大分ノ損失ヲ致、其上近年長崎ノ仕法モ改リ候故、益割賦人共困窮ニ及、古キ家ノ者共、當時大分跡モ無ク成、僅ニ殘ル者共モ逼塞ス、
呉服所
公儀呉服所ヲ始、諸家ノ呉服所用達抔云者、何レモ身上宜キハ無之、段々困窮ニ及候、元來商人ニ非ズ、合力米扶持方等ヲ其家々ヨリ貰ヒ、町人ノ心ヲ喪ヒ、武士ノ眞似スル樣ニ成テ、自ラ世渡ニ疎ク、其上其家エ由緖有之用達共モ、當時ハ表向看板ノ樣ニ成テ、調物ハ店々ヲ問合、下直ナルヲ專ニ調、或ハ入札ヲ以買上ゲラルヽ故、用達ハ名計ニテ追々窮迫ス、
両替屋
兩替商賣ノ儀ハ、百有餘年以來、上品ノ身上ハ右ニ記、中分ノ者ハ不其員、今ニ相續スルハ無之、其所以ハ、兩替ト申者ハ、餘ノ代召物ハ無之、金銀錢而已ヲ取扱ヒ、大名豪家ノ貸引ヲ肝煎、世上ヨリモ安利ニテ金銀ヲ持込候故、自然末々手代迄モ、金銀ヲ大切、且ツ相場ノ思入米商同前ニ成テ、偏ニ大博奕ヲ打ニ同ジ、故ニ多ク家風惡ク成テ、永ク其家相續セズ、穴賢ヨク守愼べシ、 右ハ、商家三井ガ家書ニシテ、各家衰廢ノ所以ヲ詳ニ記シテ、自家ノ敎誡ニナセシ趣也、奧書ニ高房ト有リ、爰ニ記ルハ、其大略而已也、本書ニ年曆ヲ不記故、各家興廢ノ時節分明ナラズ、可追考、夫ヨリ下ツカタ當世ニ及迄ヲ倩考ルニ、サシモ人ニ知ラレシ豪家ノ衰ル事不勝計、況泛々ノ家ニ於ヲヤ、翁ガ物覺初シヨリノ事ヲ指ヲ折ラバ、其限リ無ラマシ、去レバトテ、興家ノ類ハ其十ガ一ニモ及難シ、盛衰ハ世ノ有樣ナレバ、コモ〳〵成ベキニ、ナドヤ斯ク偏ル事ハ、世ノ衰ルニ似レ共、更ニ左ニ非ズ唯御代ノ盛ン成德化ニ誇テ、奢ノ超過ト、貪欲ノ熾盛トノナセル所ナラン、穴賢餘所事ト不思シテ、貴ト無ク賤ト無ク、大ト無ク、小ト無ク、啻自ノ修身ヲ宗トスルニ如カザルベケンヤ、

賤富

〔明良洪範〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 紀州南龍院公ニ仕ヘシ奈波道圓トイヘル大儒アリ、此者ノ甥ニ奈波加慶ト云針醫、御供ニテ紀州ニアリシ時、和歌山一番ノ富家ニ鴻池孫右衞門トイヘル町人、久々煩ラヒ居タルニ、此度奈波ガ來リシヲ幸ヒト推擧セシ人アリテ、療治ノ事ヲ賴ミケレバ、加慶心得申シタリト答ヘシ時、賴ミタル人又申シケルハ、此孫右衞門ハ和歌山一ノ有德人ニテ候間、外ノ病家ヨリハ御精ヲ出サレ、療治イタサレ候ラヘト申シケルヲ、加慶トクト聞居タルガ、右ノ者坐ヲ立ントセシ時、只今御賴ノ病家へ見廻ノ事ハ御斷リ申ストイフニ、賴ミタル人大ニ驚キ、ソレハ心得ヌ事ナリ、療治ガアル由申シ入レ候ハ、只今ノ事ナリ、然ルニ手ヲ返ス如ク御斷リトハ、如何ノ思召ニヤト咎ルニ、イヤ初メハ病人ト計リ、ウケ玉ハリ候間、請合申セシニ、重ネテ富家ナル故ニ、精ヲ入療治致シ申スベクトノ事ニ候、我等今日マデ病人ニハ針ヲ立候ヘドモ、金銀ニハリヲ立候事ハ之無候ユへ、御斷リ申ストゾ返答シケル、誠ニ道圓ガ甥ナリトゾ申シケル、

〔折たく柴の記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 むかし戸部の許に來れる老人あり、これは織田の内府入道常眞に、めしつかはれしものゝ、おいしのちに世をのがれしなり、〈住倉了仁といひて、其頃八十餘の人なり、〉その人我父の許に來りて、豫 州もとより戸部の御覺よかりしほどの人をば、ふかくうらみおもひ給ふ事なれば、その子息のふたゝびつかへにしたがひ給ふ塗開らけん事あるべからず、いとけなきより見まゐらせしかば、我だに此事の心ぐるしければ、そこの心のほどおしはかりぬ、こゝに我年頃したしき富商の、男子はなくして、女子一人候なるを、しかるべき侍の子にあはせて、家ゆづらんとおもひて、我と相はかる事の候なる、あはれ子息をそれが望にまかせられんには、そこをも心やすくやしなひ給ふべき事なれ、此事聞え申さむために參れりといふ、我父の聞給ひて、こゝろざしのほど忘るべからず、息男いとけなきものにあらず、我いかにと定め申がたし、かれとあひはかり給ふべしと答給ひ、其明けの日我參りしに、かくと仰られたり、承りぬと申して、かの老人の許にゆきむかひ、そのこゝろざしの、報ずべからざる事ども謝し訖りて、思ふ所侍れば、のたまふ所にも打任せがたしといひて歸參りて、我かゝる身となる事を、御心苦しと思ひ給はん事をも、思ひ參らせぬにもあらず、又かくわびしく渡らせ給ふ事を見まゐらするに、いかにかなしくは覺え侍れども、御子とうまれしものゝ、ひとの子となるべしとは思ひもかけず、かく悲しくおもふ事も、武士の家に出て仕ふる事の、かなはざる故に候ものを、我身に及びて、おやおほちの取傳へ給ひし弓矢の道をすてゝ、商人の家つぐべしともおもひ候はず、さればかくこそ答て候と申たりければ、いとうれし氣におはしまして、かゝる事に至ては其人々の心にあることなれば、父子の間といふとも、いかにとも定申しがたき事なるを、よくこそ答給ひたれ、老たる父やしなふべきために、身をなきものにし給はむも、孝行といふべけれども、今聞し所のごとき、孝行の大なることはりには似るべき事にもあらず、我はじめ世をのがれしより、かゝる身にて終りなむは、もとより思ひまうけし所なり、返す返すも我事をな心苦しく思ひ給ひそと仰られけり、〈○中略〉又當時天下に雙なしなどいふ富商の子の、學ぶ友となりぬる事出來しに、その子のいひしは、我父たるものゝ見 まゐらせて、必ず天下の大儒ともなり給ふべき御事なり我亡兄のむすめの候なるにあはせまゐらせ、黃金三千圓にもとめ得し宅地をもて學問の料となして、ものまなび給ふやうにと、某が心のやうに申せとこそ侍れといふ、我此事をきゝて御こゝろざしのほどわするべからず、我むかしある人の申せしことを聞しに、夏のころ靈山とかにあそびしものどもの中、池に足ひたし居けるに、小なる蛇の來りて、其足の大指を舐しきるあるが、忽に去りては、また忽に來りて䑛る、かくするがうちに、其蛇やう〳〵に大さくなりしにや、後には其大指を呑むばかりになりしかば、腰よりさすがを取出して、刃のかたを上になして、大指の上にあてゝまつ、また來りて大指を呑んとする所を、あげさまにさしきりたれば、うしろざまに、飛去るほどに、家にかけ入りて障子をさす、ともないしものども、なに事にやといふ程こそあれ、石はしり木たふれて、地ふるふ事半時ばかりすぎてのちに、障子をほそめにあけて見けるに、一丈餘の大蛇の、唇の上より頭のかたまで、一尺餘きられたるが、たふれ死したりといふ事あり、その事ありやなしやは、いまだ知らねど、今のたまふことに似たる所の侍るなり、初め其蛇の小しきなりし程は、わづかにさすがをもてさしきりし所なるが、すでに大きくなりしに至りては、一尺餘りの疵とは成りしなり、今我身まづしく窮りたれば、人知れるものにもあらず、此身のまゝにて、そこの亡兄のあとを承け繼ぎなむには、その疵なほ小しきなるべし、もしのたまふ所のごとく、世にしらるべきほどの儒生ともなりなんには、その疵は殊に大にこそなりぬべけれ、三千兩の黃金をすてゝ、大疵あらむ儒生と成し立てられむ事は、謀を得給ひたりともいふべからず、たとひさしきる所の小しきなりとも、我もまた疵かうぶらん事をねがはず、我かくこそ申たれと答へ給へといひたり、後に聞けば、しかるべき儒生のその娘にはあひぐせしなり、〈その富家は河村といひし、その孫女の夫は黑川といひて、其父祖ともに儒に名ありし人なり、〉此事をも父にておはせし人に語り申ければ、めづらしからぬ事なれど、よき喩にもありつるか なと、わらひ給ひたりき、

〔先哲叢談〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 家祖原瑜
祖之大舅芸菴、爲人廓達奇偉、以良醫一世、毎謂人曰、世稱吾甥公瑤大儒、余以爲腐儒、古河老小杉元卿、嘗至江戸之曰、渠無其族、則可矣、至其譏謗之、則可見以詰問乎、明日芸菴至、元卿盛氣相詰曰、余聞吾子毎以腐儒吾師雙桂先生、敢問有説否、曰君未之乎、夫古之大儒必貧困守陋閭、然公瑤家資頗富、是余所以目以腐儒也、元卿抵掌大笑、蓋以其腐富音近也、

〔近世名家書畫談〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 雪山の軼事
長崎には富貴なるもの多し、常に奢侈を極む、或時 人の富家筵を開き、同僚を招くことあり、此時客方より謂て曰、若雪山〈○北島三立〉先生を迎ひ、席上にて、字を作らしめば、この外の配走なしと云、是は先生元來驕奢の家に至らざるを知りての難題なり、時に亭主頓智を出し、兼て先生常に愛する所の賤者に謀りていはせけるは、今日ある所に、美酒佳肴ありて、終日の興を催す、先生至らんやといふ、先生これに涎を流し、急に從ひ行く、至ればいはゆるふうきの家にして、席上豪具をかざり、水陸並至る、先生一見して、忽其奢靡を惡み、杯をとり轟飮、傍若無人なり、時に主人云、先生の揮毫を煩すと、娼婦相伴して倶にこれを乞ふ、先生云、主客兩名汝を幷せ三名なり、三紙をこゝに展べよとて、大筆を墨に蘸し、一紙毎に陰器一莖を寫出し、三名に三紙を投與へ、手を揮て歸る、其後途中にて天漪先生に逢ひければ、先生云、此程は豁達のさた承ると云ければ、雪山先生云、馬鹿ども一莖づゝかつがせたりと云はれたるよし、天漪先生後に廣澤先生に語られたりとなん、

雜載

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 身死して財のこることは、智者のせざる處也、よからぬ物たくはへをきたるもつたなく、よき物は心をとゞめけんとはかなし、こちたくおほかる、まして口おし、我こそえめなどいふものども有て、跡にあらそひたるさまあし、後はたれにと心ざす物あらば、いけらんうちにぞゆ づるべき、朝夕なくてかなはざらんものこそあらめ、その外は何ももたでぞあらまほしき、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:23