p.0641 寵ハ、邦語ニメグム、ウツクシムナド云ヘリ、父母ノ其子女ヲ寵愛シ、君主ノ其臣妾ヲ嬖幸スルガ如キヲ謂フナリ、而シテ父母ノ其子女ヲ寵愛スル事ノ如キハ、旣ニ慈篇ニ載セタレバ、宜シク就キテ看ルベシ、
p.0641 寵寵寵〈双壟反 ウツクシフ アハレフ タノシフ〉
p.0641 寵辱 寵愛 寵幸
p.0641 寵愛(テウアイ) 寵辱(テウシヨク)
p.0641 乘レ寵(ノルテウニ)〈指南、摘レ勢用レ事、曰二乘レ寵預一レ權、〉 寵遇(テクグウ)〈韵會、寵愛也、恩也、又尊榮也、〉 寵幸(テウカウ) 寵愛(テウアイ)
p.0641 戊午年十有二月、天皇素聞二饒速日命是自レ天降者一、而今果立二忠効一、則褒而寵之(メグミ玉フ)、 二年二月乙巳、天皇定レ功行レ賞、賜二道臣命宅地一、居二于築坂邑一、以寵異之、
p.0641 十二年十二月丁酉、議レ討二熊襲一、〈○中略〉天皇則通二市乾鹿文一而陽寵(メグミ玉フ)、〈○下略〉
p.0641 三年正月己卯、以二武内宿禰一爲二大臣一也、初天皇與二武内宿禰一同日生之、故有二異寵一焉、
p.0642 元年五月、穴穗部皇子欲レ姧二炊屋姫皇后一、而自强入二於殯宮一、寵臣三輪君逆乃喚二兵衞一、重二璅宮門一拒而勿レ入、
p.0642 天平寶字八年九月壬子、軍士石村村〈○村原脱、據二一本一補、〉主石楯斬二押勝一傳二首京師一、押勝者、〈○中略〉略勝寶元年、至二正三位大納言兼紫微令中衞大將一、樞機之政、獨出二掌握一、由レ是豪宗右族、皆妬二其勢一、〈○中略〉二年、〈○天平寶字〉拜二大保一、優勅加二姓中惠美二字一、名曰二押勝一、賜二功封三千戸田一百町一、特聽三鑄錢擧稻及用二惠美家印一、四年、轉二太師一、其男正四位上眞光、從四位下訓儒麻呂、朝獦、並爲二參議一、從五位上小湯麻呂、從五位下薩雄、辛加知、執棹、皆任二衞府關國司一、其餘顯要之官、莫レ不二姻戚一、獨擅二權威一、猜防日甚、時道鏡常侍二禁掖一、甚被二寵愛一、押勝患レ之、懷不二自安一、乃諷二高野天皇一、〈○孝謙〉爲二都督使一、掌レ兵自衞、〈○下略〉
p.0642 寶龜二年二月己酉、左大臣正一位藤原朝臣永手薨、〈○中略〉寶龜元年、高野天皇不悆時、道鏡因二播籍恩私一、勢振二内外一、自二廢帝〈○淳仁〉黜一、宗室有二重望一者、多羅二非辜一、日嗣之位、遂且レ絶矣、道鏡自以三寵愛隆渥、日夜僥二倖非望一、洎二〈○洎原脱、據二一本一補、〉于宮車晏〈○晏原脱、據二一本一補、〉駕一、定レ策遂安二社稷一者、大臣之力居多焉、〈○下略〉
p.0642 天長三年五月丁卯、散位從四位上安倍朝臣男笠卒、〈○中略〉性質素、無二才學一、歷二職内外一、不レ聞二善惡一、調レ鷹之道、冠二絶衆倫一、桓武天皇寵之、屢侍二龍顏一、
p.0642 嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩二於淸凉殿一、 丙午、左近衞少將從五位上良岑朝臣宗貞出家爲レ僧、宗貞先皇之寵臣也、先皇崩後哀慕無レ已、自歸二佛理一、以求二報恩一、時人愍焉、
p.0642 御むすめ〈○藤原師尹女〉村上の御時の宣耀殿女御、かたちおかしげにうつくしうおはしけり、〈○中略〉御めのしりのすこしさがり給へるが、いとゞろうたくおはするを、御門いとかしこくときめかさせ給ひて、かくおほせられける、
いきてのよしにてののちののちのよもはねをかはせるとりとなりなん、御返し女御、
秋になることのはだにもかはらずばわれもかはせるえだとなりなむ
p.0643 長恨歌
臨レ別殷勤重寄レ詞、詞中有レ誓兩心知、七月七日長生殿、夜半無レ人私語時、在レ天願作二比翼鳥一、在レ地願爲二連理枝一、
p.0643 康和五年十二月廿日乙丑、正四位下行木工頭兼丹波守高階朝臣爲章卒、爲章者、入道備中守正四位卞爲家第一子、母贈從三位藤原義忠女也、〈○中略〉六年〈○寬治〉十一月八日、於爲二加賀守一、七年八月廿八日、親父近江守爲家朝臣、坐下凌二轢春日神民一事上、除名配流、爲章依レ爲二長男一、可レ有二緣坐一、然而依二臨時之恩一不レ坐、四男阿波守爲遠一人、停二見任一、非常斷人主專之義也、嘉保二年十二月、兼二木工頭一、爲章者白河法皇寵過〈○過恐遇誤〉之人也、于レ時因幡守藤原隆時、同爲二近臣一、世語、寵臣者、稱二此二人一而已、卒時卅五、
p.0643 祇園女御事
古人ノ申ケルハ、淸盛ハ忠盛ガ子ニハ非、白川院ノ御子也、其故ハ、彼帝感神院ヲ信ジ御座テ、常ニ御幸ゾ有ケル、或時祇園ノ西大門ノ大路ニ、小家ノ女ノ怪ガ、水汲桶ヲ戴テ、麻ノ狹衣ノツマヲ擧ツヽ、韓(イヅヽ)ニ桶ヲ居置テ、御幸ヲ奉レ拜、帝御目ニ懸ル御事有ケレバ、還御ノ後、彼女ヲ宮中ニ被レ召テ、常ニ玉體ニ近ヅキ進セケリ、祇園社ノ選ニ當テ、御所ヲ造テ被レ居タリ、公卿殿上人、重キ人ニ奉レ思テ、祇園女御トゾ申ケル、
p.0643 妓王事
そのころ、京中に聞えたるしらびやうしのじやうず、ぎ王、ぎ女とて、おとゞひあり、とちといふしらびやうしがむすめなり、しかるにあねのぎわうを、入道相國〈○平淸盛〉てうあいし給ひしうへ、いもとの妓女をも、世の人もてなす事なのめならす、母とちにもよき屋つくつてとらせ、毎月に百石、百くはんを、をくられたりければ、家内ふつきして、たのしひ事なのめならず、〈○中略〉又しらびやうしのじやうず、一人出來たり、加賀の國のものなり、名をばほとけとぞ申ける、年十六とぞきこへ 〈○中略〉あるとき、にし八條殿へぞさんじたる、〈○中略〉入道相國舞にめで給ひて、ほとけにこゝろをうつされけり、ほとけ御前、〈○中略〉はや〳〵いとま給はつて、いださせおはしませと申ければ、入道相國、すべてそのぎかなふまじ、たゞしぎわうがあるによつて、さやうにはゞかるか、そのぎならば、ぎわうをこそ出さめとのたまへば、ほとけ御ぜん、これ又いかでさる御事侍ふべき〈○中略〉とそ申ける、入道そのぎならば、ぎわうとう〳〵まかり出よと、御つかひかさねて、三度までこそ立られけれ、〈○中略〉ぎわういまはかうとて、出けるが、なからんあとのわすれがたみにもとやおもひけん、しやうじになく〳〵、一首のうたをぞかきつけける、
もえいづるもかるゝもおなじ野邊の草いづれか秋にあはではつべき、さて車にのつてしゆくしよへかへり、しやうじの内にたをれふし、たゞなくよりほかの事ぞなき、いもとこれを見て、いかにやいかにととひけれども、ぎわうとかうの返事にもおよばず、ぐしたる女にたづねてこそ、さる事有ともしつてけれ、さるほどにまい月をくられける、百石、百くはんをも、をしとめられて、今はほとけ御ぜんのゆかりのものどもぞ、はじめてたのしみさかへける、
p.0644 攝津國長江倉橋ノ兩庄ハ、院中ニ近ク被二召仕一ケル白拍子、龜菊ニタビタリケルヲ、其領ノ地頭、領家ヲ勿緖シケレバ、龜菊憤リ可二改易一由被二仰下一ケレバ、權大夫〈○北條義時〉申ケルハ、地頭職ノ事ハ、上古ハ無リシヲ、故右大將〈○源賴朝〉平家ヲ、追討ノゲンシヤウニ、日本國ノ總地頭ニ被レ補、平家追討六箇年ガ間、國々ノ地頭人等、或ハ子ヲウタセ、或ハ親ヲ被レ打、或ハ郎從ヲ損ズ、加樣ノ勳功ニ隨ヒテ、分チタビタラン者ヲ、サセル罪ダニナクシテハ、義時ガ計ヒトシテ、可二改易一樣ナシトタ、是モ不レ奉レ用、一院〈○後鳥羽〉彌不レ安思召ケレバ、關東ヲ可レ被レ亡由定メテ、國々ノ兵共、事ニヨセテ被レ召ケル、