p.0028 廉潔トハ、心性潔白ニシテ、寡欲ナルヲ謂フ、常ニ淸貧ニ安ジテ名利ヲ思ハズ貨財ヲ貪ラズ、又官ニ在リテ私利ヲ營マズ、苞苴ヲ受ケザルガ如キ卽チ是ナリ、
p.0028 廉(レン)直〈チヨク〉 廉潔〈チツ〉
p.0028 廉直(レンチヨク) 廉潔(ケツ)
p.0028 淸愼顯著〈謂淸者潔也、愼者謹也、假如楊震暗夜辭レ金、胡威歸路間レ絹之類是淸也、○中略〉者爲二一善一、
p.0028 二十四年二月丁未朔、詔曰、〈○中略〉令三人擧二廉節(キヨクカタキ)一、宣二揚大道一、流二通鴻化一、〈○下略〉
p.0028 淸廉
師曰、大丈夫、内淸廉を守らざれば、公につかへ、父兄にしたがつて、利害此に萌して、天性の心を放し失つべし、淸廉と云は、外の賄賂、内の財貨さらに心に不レ付して、世人の難レ行所に卓爾と立て、更に不レ屈、これを淸廉と云へり、内に淸廉なる處あらざれば、外少しの利害に奪はれて、其守りを失ひ、心こゝに放失すべし、されば孔子は忍二渴於盜泉之水一、曾參は回二車於勝母之閭一と云へる、是淸廉の云に非ずや、さしも万鍾の祿を辭するばかり、高尚なる行跡ある人も、一紙半錢の事の至てわつかなる處に、内に驚客の情生ずるは、淸廉の心薄くして、鄙吝の情こゝに生ずれば也、古人云、彼淸廉之士、一榻白雲、半意明月、金穴百丈、而不レ操、銅山万仞、而、不レ瞬と云へり、若し淸廉の志あらざれ ば、人の不レ知不レ見、取ても害あらざらん處においては、自然に吝嗇の心生じつべし、〈○中略〉人の氣質に因て、天性淸廉にして、聊の貪なきものなり、是又其質人にすぐるゝ處ありといへども、學びつとめて此質を淸廉に至るが如く致して、此に存レ心にあらざれば、廣く推して物に及ぼす事能はざる也、淸廉の器あらんには、利害にをいて更に放心することあるべからざれば、大丈夫のつとめ尤も爰にありぬべし、古の伯夷叔齊が言行、殆んど淸廉の至極と云べし、
p.0029 藤原左大臣、諱武智麻呂、左京人也、〈○中略〉其性温良、其心貞固、非レ義弗レ領、毎好二恬惔一、遠謝憒閙或時言談而移レ日、或時披覽而徹レ夜、不レ愛二財色一、〈○中略〉廉而不レ汗、直而不レ枉、〈○下略〉
p.0029 天平神護二年三月丁卯、大納言正三位藤原朝臣眞楯薨、〈○中略〉眞楯度量弘深有二公輔之才一、〈○中略〉在レ官公廉、慮不レ及レ私、感神聖武皇帝寵遇特渥、詔特令レ參二奏宣吐納一、明敏有レ譽二於時一、〈○下略〉
p.0029 大同三年十月丁卯、東山道觀察使左近衞中將正四位下行春宮大夫安倍朝臣兄雄卒、〈○中略〉乏レ文堪レ武、性好天、高直有二耿介之節一、所歷之職、以二公廉一稱、
p.0029 天長八年十二月壬申、從四位下伴宿禰勝雄卒、從三位古慈悲之孫、從三位勳二等弟麻呂之男、弘仁十一年叙二從五位下一、天長元年、至二正五位下一、任二陸奧守一、兼二按察使一、六年、叙二從四位下一、任二右近衞 七年遷二任右兵衞督一、兼二讃岐權守一、性識寬簡、不レ許二隱密一、家風淸廉、秋毫不レ近、
p.0029 仁壽二年二度丁未、從四位下丹波權守伴宿禰成益卒、〈○中略〉出爲二丹波權守一、境内肅然、國人穩二其廉潔一、成益爲レ人質直、在レ公奉レ法、不レ阿二權貴一、
p.0029 貞觀元年四月廿三日戊申、大納言正二位兼行民部卿陸奧出羽按察使安倍朝臣安仁薨、〈○中略〉安仁志尚謙虚、愛レ公如レ家、顧謂二子弟一云、諸國調貢多入二封家一、納レ官者少、所レ食之邑、於レ身有レ餘、乃上表曰、帶職兩三官、周二施於具瞻之地一、食邑八百戸、盈二溢於尸素之身一、伏望減二大納言之所一レ食、給二中納言之所封一、帝感二安仁之有一レ讓、特許二其所一レ講、〈○下略〉
p.0030 貞觀元年七月十三日丙寅、從四位上行備前守藤原朝臣春津卒、〈○中略〉春津家世貴顯、生而富實、居二處閨庭甚爲二鮮華一、性寡二嗜欲一、不レ貪二財利一、唯馬是好、時々觀之、
p.0030 貞觀八年九月廿二日甲子、是納日、大言伴宿禰善男、右衞門佐伴宿禰中庸、同謀者紀豐城、伴秋實、伴淸繩等五人、坐レ燒二應天門一當レ斬、詔降二死一等一、並處二之遠流一、〈○略〉 夏井者〈○中略〉天安二年八月、文德天皇晏駕、夏井出爲二讃岐守一、政化大行、吏民安之、境内翁然不レ忍二相欺一、秩滿將レ歸、百姓相率詣レ闕乞レ留、因レ斯更留二年、黎庶殷富、倉廩充實、於レ是新造二大藏於國郡一、總四十宇、皆縋納以爲二不動之蓄一、及去吏民送レ別者贈遺甚多、夏井一無レ所レ受、歸レ都之後、米宍玩好以送二其家一、夏井唯留二紙筆一悉返二其餘一、
p.0030 貞觀九年三月九日己酉前陸奧守從五位一、上坂上大宿禰當道卒、〈○中略〉貞觀元年、出爲二陸奧守一兼二常陸權介一、其年冬加二従五位上一、州秩旣終、待レ代四年、在國九年而卒、時年五十五、當道家行二廉正一、輕レ財重レ義、在任有二淸理之稱一、境内肅如、民夷安之、居レ貧无レ資、臨二於棺斂一、所レ有布衾一條、而遺愛在レ人、至レ今見レ思、
p.0030 仁和三年六月八日庚戌、從四位下行信濃守橘朝臣良基卒、〈○中略〉良基雅素淸貧、家无二寸儲一、中納言在原朝臣行平、賻以二絹布一、乃得二殯葬一焉、良基經二歷五國受領之吏一、毎二任罷歸一、不レ載二資粮一、敎二乎孫一以レ潔レ身、有二子男十一人一、第六子在公、嘗問二治レ國之道一、良基答曰、雖レ有二百術一不レ如二一淸一、其率性淸白如レ此矣、
p.0030 大納言俊明卿、丈六の佛を造らるゝ由を聞て、奧州の淸衡薄の料に、金を奉りけるに、不レ取してかへしつかはしける、人その故を問ければ、淸衡は王地を多く押領して、たゞ今謀叛を發すべきもの也、その時は追討使をつかはさん事、可二定申身なり、これによつて、是を不レ取とのたまへり、〈○又見二古事談一〉
p.0030 小一條左大將濟時卿の六代にあたりて、宗綱の子宮内卿師綱といふ人有けり、白川 院に仕へけるが、させる才幹はなかりけれども、ひとへに奉公さきとして私をかへりみぬ忠信なるによて、近く召つかはれけり、そのしるしにや有けん、陸奧寺になされにければ、彼國にくだりて撿注を行ひけるに、信夫の郡司にて大庄司季春といふ者、これをさまたげけり、國司宣旨を帶してをさへてとげんとするほどに、季春ふせぎとゞめんがために、試に兵むかふる間、合戰に及びて國司方に人あまた打れにけり、國司大にいかりをなして、事の由を在國司基衡にふれけり、此事おどしにこそせさせたりげれ、國司のこれほどたけくてたゝかひすべしとまで思はざりければ、基衡さはぎて、季春をよびて、いかゞすべきといひ合けるに、主命によりて宣旨をかへりみず、一矢は射候ひぬ、この上はいかにも違勘のがれ候べきにあらず、季春が頸を切て早く國司の心はしづまり給はんなれば、我はしらずがほにて、季春が一向とがになして、切て身をやすくしたまふべしといひければ、實に此外は平らぐべき力なく覺えて、歎ながら國司の返事に申けるは、例なき撿注を行ふに付て、季春ことのやうを申のぶる計にこそ存候つれ、かくほどの狼藉出來事申てもあまりあり、ことに恐れおもひ給へり、基衡つゆ不二知及一侍れば、早撿見を給て、季春が頭を切て奉るべき旨申ける、かくは聞へつ、つく〴〵是を案るに、季春代々傳れる後見なる上乳子なり、主人の下知によりてしいでたる事ゆへ、忽に命を失ふ事、せちにいたましく覺えければ、とかく案じめぐらして、我妻女を出立て、よき馬どもを先として、おほくの金、鷲の羽、絹布やうの財をもたせて、我はしらぬ由にて、季春が命を乞請させんがために、國司のもとへやる、妻女目代をかたらひて、季春がさりがたく不便なるやうを、詞をつくして、ひらに彼が命を乞うけけり、目代執申に、國司大に腹立て、季春國民の身にて、かくほどの僻事をし出たる、公家に背き宰吏あなづりて、其科すでに謀反にわたる、財を奉ればとてなだめゆるさん事、君の聞召れん其恐れ多し、人の譏又いくばくそ、此事更に申べからずとぞいはれける、昔殷紂の西伯をとらへたりけ るに、大顚閎夏のともがら、善馬以下寶を奉りてゆりにけう、是はそれにもよらざりけれぱ、其妻申かねて歸にけり、そのゝち撿非達使所書生を實撿使に指遣はすによりて、基衡力及ばず、なくなく季春幷子息舍弟等五人が頸を切てけり、さてこそ國司しづまりにけれ、國の者どもいひけるは、季春が命をたすけむために國司に贈所の物、一萬兩の金をさきとして、おほくの財也、殆當國の一任の土貢にもすぐれたり、是を見入給はず、女にもかたさらずして、つゐにためしを立給へる、國司の憲法たとへをしらずとそほめのゝしりける、かゝりければ國倂なびきしたがいて、思さまに行ひたり、吏務感應前々の國司よりもこよなうおもかりけり、後に君聞召ていみじく御感有けるとそ、〈○又見二古事談一〉
p.0032 久安六年七月廿三日丁酉、召二尾張成重仰云、汝年老家貧、勤勞無レ懈、吾深憐レ之、欲レ令撿二注尾張國日置庄一、如何、對云、臣昔爲二熱田神主一、是以彼國有勢者敬禮尤深、今貧賤向二彼國一、昔從者必有レ蔑如何、況去二神主職一之誓言、不レ還、補此職、不三復向二此國一矣何貪二小利一變二先言一乎、敢辭レ之、〈余深感二此言一故書レ之〉 十一月三十日壬寅、入レ夜季通朝臣來語曰、昔父宗通卿臨終、處二分所領田園於諸子一、其處分帳伊通卿書之、伊通、信通兩卿加署、以二肥後國三重屋庄、丹波國今林庄一、讓二故信通卿一、命二諸子一曰、所レ讓之庄、母〈謂二宗通卿妻一〉生存日諸子莫レ領之、母逝去後、任二處分帳一、諸子各領之于レ時信通卿嫡子右少將行通朝臣可二五六歲一、父卿薨年信通卿亦薨去、九月其母逝去、臨レ終與二三重屋庄於伊通卿一、與二今林庄於重通卿一、命曰、此兩庄者、先人所レ讓二信通卿一也、而彼卿早逝、汝等宜レ領之、重通謹受レ命伊通辭曰、此庄者先考臨レ終讓二與兄卿一、彼卿已薨、理宜レ與二嫡孫一、我昔書二其處分狀一加署了、今受二母命一忤二父言一、非二法律所一レ許、上恐二天道一下恥二人倫一、不二敢受一レ命矣、卽召二行通朝臣一、具書二事狀一、與二其庄一了、時人稱二其孝友廉直一、
p.0032 元曆二年〈○文治元年〉八月廿四日甲戌、下河邊庄司行平、蒙二蹄參御免一、自二鎭西一去夜參著、〈○中略〉今日參二營中一、獻二盃酒一、二品〈○源賴朝〉出御、武州北條殿已下群參、行平稱二九國第一一、進二弓一張一之處、仰曰、無二左右一、 叵レ領二納之一、遣二鎭西一之東士、悉無レ粮、而弃二大將軍一、多以歸參畢、汝所レ領與二西海一已隔二數箇月行程一也、全二乘馬參上、猶可レ謂二不思議一、剰勸二盃酒一獻二土産一、於二彼國一不レ取二人之賄一者、爭有二如レ此之貯一乎、奇怪也者、行平陳申云、在國之程、失二兵粮之計一、經二日數一之間、爲レ扶二郎從等一、令レ沽二却彼輩之甲冑以下物具一訖、而渡二豐後國之時者、傍輩皆恃二參州御船一、行平敢不レ顧レ私、存レ忠之故、爲レ任二先登於意一、以下纔所二殘置一之自分鎧上、相二博小舟一、雖レ不レ著二甲胄一、掉レ船最前著レ岸、入二敵先陣一、討二取美氣三郎一、凡毎度竭レ功之條、大將軍見知分明也、今依レ召欲レ參之處、無二進物一事違二所存一、此弓於二九國一名譽之由、兼以風聞、其主不慮之外沽二却之一、行平喜レ之、折節著二小袖二領一、仍一領脱レ之替レ之、于レ時參州祗候人等、爲二餞別一來會、見二此事一頻感レ之、可レ被二召尋一歟、次獻二盃酒一事者、留二置下總國一之郎從、矢作二郎、鈴置平五等、用二意旅粮一、來二向于途中一、以レ之令レ充二經營粮一、全不レ貪二他物一云云、二品具令レ聞レ之給、浮二感涙一、喜二其志一給、
p.0033 文治二年八月十五日己丑、二品御二參詣鶴岡宮一、而老僧一人、徘二徊鳥居邊一、恠レ之以二景季一、令レ問二名字給之處、佐藤兵衞尉憲淸法師也、今號二西行一云云、仍奉幣以後、心靜遂二謁見一、可レ談二和歌事一之由、被二仰遣一、西行令レ申二承之由一、〈○中略〉西行上人退出、頻雖二抑留一、敢不レ抅レ之、二品以二銀作猫一被レ充二贈物一、上人乍レ拜二領之一、於二門外一與二放遊嬰兒一云云、
p.0033 明惠上人傳
義時〈○北條〉朝臣逝去して後、天下の事掌に握られける最初に、丹波國に大庄一所、栂尾に寄進せられたりければ、上人被レ仰けるは、かゝる寺に所領だにも候へば、住する僧ども、いかに懶惰懈怠にふるまふとも、所領あれば、僧食事闕まじ、衣裳補ぬべしなど思ひて、無道心なる者つゞき居て、彌不當にのみ成行候べし、寺のゆたかなるに付て、兒ども取おき、酒もりし、兵具をひつさげ、不可思儀のふるまひ不レ可二勝計一、さもと有山寺の、佛のいましあにたがひて、淺ましく成行ば、是より事おこれり、只僧は貧にして、人の恭敬を、衣食とすれば、自放逸なる事なし、信々として誠しく行道す る所は、さすが末代なりといへども、十方旦那の信仰も甚しければ、自然に法輪も、食輪も盛也、不律、不如法の僧侶の、肩をならぶる處は、只僧家謗法の罪を、あたふるのみにあらず、合力貴敬の輩もなければ、隨日衰微して、荒廢の地とのみなれり、されば共に誠の本意にはあらねども、二をくらぶれば、人の貴敬せざらん事に、はゞかりて、不律儀にあらずば、暫法命を繼方はまさるべく候也、又所領のよせてよかるべき寺も候はんずれば、左樣の所に、御計なんとも候べし、かゝる寺に、所領なんどの候はんは、中々法の爲よろしからじと覺候、返々かやうに佛法を御崇候事、有難候へども、此所に限ては、存旨候とて、返し給ひけり、
p.0034 北野通夜物語事附靑砥左衞門事
引付ノ人數ニ列リケル靑砥左衞門、〈○中略〉或時德宗領ニ沙汰出來テ、地下ノ公文ト、相模守ト、訴陣ニ番事アリ、理非懸隔シテ、公文ガ申處、道理ナリケレドモ、奉行頭人、評定衆、皆德宗領ニ憚テ、公文ヲ負シケルヲ、靑砥左衞門只一人、權門ニモ不レ恐、理ノ當ル處ヲ具ニ申立テ、逐ニ相模守ヲゾ負シケル、公文不慮ニ得利シテ、所帶ニ安堵シタリケルガ、其恩ヲ報ゼントヤ思ケン、錢ヲ三百貫、俵ニ裹テ、後ロノ山ヨリ、潛ニ靑砥左衞門ガ岼ノ内ヘゾ入レタリケル、靑砥左衞門是ヲ見テ、大ニ忿り、沙汰ノ理非ヲ申ツルハ、相模殿ヲ奉レ思故也、全地下ノ公文ヲ引ニ非ズ、若引出物ヲ取ベクハ、上ノ御惡名ヲ申留ヌレバ、相模殿ヨリコソ、悦ヲバシ給フベケレ、沙汰ニ勝タル公文ガ、引出物ヲスベキ樣ナシトテ、一錢ヲモ逐ニ不レ用、逈ニ遠キ田舍マデ、持送ラセテゾ返シケル、
p.0034 中村式部少輔一氏之從者大藪新右衞門ト云武士アリ、戰ニ臨テハ勇敢ニシテ功名ヲ不レ爭、利祿ヲ不レ貪、世ニ處テハ真實ニシテ虚妄ヲ不レ行、才力ヲ不レ恃、秀吉小田原ノ北條氏政ヲ伐時、山中ノ城ヲ攻ルニ、大薮ハ渡邊勘兵衞ヨリ先ニ進テ、而モ城兵ト鎗ヲ接シタレドモ、其所異ナルガ故、秀吉ノ褒美ニ預ラズ、一氏モ亦秀吉褒美ノ詞ニ由テ、渡邊ニ祿ヲ增テ、大藪ヲ、賞スル事薄シ、 然レドモ大藪終ニ怨言ヲ出サズ友人謂テ曰、功彼ヨリ勝レテ、祿彼ヨリ少シ、祿ハ所レ言ニ非ズトモ、爲レ之ニ功ノ隱ルヽ默ベカラザルカ、大藪ガ曰、我ヲ以恇シトセバ、武士之義ヲ失ニ似タリ、訴レ之トモ罪ナカルベシ、朋友皆我功ヲ知テ、我祿ノ少キヲ愍ム、サレバ我不レ訴シテ我功隱ナシ、又何ヲカ訴ン、功ノ優劣ハ勇怯ニ繫ルト云ドモ、時論ノ曲直アリ、曲テ優ンヨリハ、直シテ劣ヲ善トス、況祿ノ多少ハ、古ヨリ貧富ニ因テ勇怯ニ不レ因ヲヤ、後紀伊大納言賴宣卿ニ仕ヘテ、祿千石ヲ受ケタリ、交ヲ厚スル者渡邊ト比べテ、祿僅ニ二十分ノ一ナルコトヲ云テ傍ヨリ憤ル、大藪ガ曰、不レ然、渡邊ガ豐祿ハ、名ヲ售節ヲ飾、人ニ僞世ニ媚テコレヲ得、此ニ由テ過タリト云テ、非笑スル者十ニ七八アリ、利ノ上ヨリ觀レ之バ幸ナリ、義ノ上ヨリ觀レ之バ不幸ナヲ、我モ豐祿ヲ得ノ道ヲ不レ識ニハアラ、ズ、利ヲ拾テ義ヲ取テ、敢テ名ヲ售フ節ヲ飾リ、人ニ僞リ世ニ媚コトヲ不レ爲、交ヲ厚スル者聞レ之テ嘆服ス、大藪ガ若キハ誠ノ良士廉夫ナル哉、
p.0035 上杉家祿知削られし後、士多く暇を取て、立去けるに、慶次〈○前田〉を七八千石、一万石を以て招く大名あり、慶次われ此度の亂に、諸大名表裏の心見限たり、景勝ならで、わが主君とすべき人なし、扶持し置てたまはれとて、五百石の祿にて、民間に引込、風月を樂しみ、歌樂に心を寄せ、源氏物語を講じて、世を終れり、
p.0035 甲斐德本
德本は永田氏、伊豆武藏の間を行めぐり、藥籠を負て、かひの德本一服十六錢と呼て賣ありく、江戸に有ける時、大樹君御病あり、典藥の諸醫手を盡せどもしるしなかりけるに、誰かまうしけん、德本を召て療ぜしめ給ふに、不日にして平がせ給ふ、されば賞として、いろ〳〵の物を下し賜りけれども、敢てうけず、たゞ例の一貼十六文に限る藥料をのみ、申下したりければ、其淸白を稱しあへり、されば上にもしうし召けん、何にまれ、願事あらば、申べきよし、頻に命ぜられしかば、さら ば我友のうちに、家なきを悲しぶものあり、是に家を賜らば、なほ吾に賜はるがごとくならんと、まをしゝほどに、卽甲斐國山梨郡の地に、金を添て賜りぬ、やがて其ものを呼てとらせ、其身はまた藥を賣て、行へしらずなりぬ、彼地は德本屋敷とて、今も殘れりとぞ、
p.0036 長崎淸民一人
寬永の頃、大村町に布屋了心といふ者ありし、本泉州の産にて、壯年長崎に來りて居住す、本より妻もなく子もなし、もろこし船より、もて渡る沈香を商ふ事を、恒の産とす、唐土人の知たるがあまたありて、年ごとに持來るを買とり、品を分ち撰び賣て、その利を得て生計となせり、ある時、沈香一籠を買とり、もてかへりひらきみしに、沈の中に、奇楠の一木、雜りてありしを見出つゝ、おどろきていそぎそのぬしなる唐人にかへしたりければ、甚だ悦び感じて、日本の賢人なりと、敬ひ貴とびたりとかや、〈○中略〉一とせ入津せし船の、旅館と賴みなんとて、船主より了心が名を、公けへ書付、さし上侍りしかば、やがて布屋了心とてめし出され、船主の願ひの如く、汝を旅館に免許あるべしとおほせごとありし、其頃長崎に來れるもろこし船は、いづれも因みにしたがひ、商家を旅舍と定めありて、その荷物悉く宿のあるじのまかなひにて、德を得る事山の如くにて、一夜がほどにも、富る身と成ことなれば、神にいのり、佛にねがひても、誰かは是を有難しと受ざらん、しかるに此了心、官長のおほせに答ていはく、我身本より妻子なく、沈を商ふをもて、衣食豐かにして、心常に安樂なり、此外世に何の望みなし、一婢一僕ありて、身體の勞を助けて、家内常に靜か也、何ぞ異國の客を、宿するの苦をせんと、かたく辭して、つひに退きぬ、此ひとつをもて、餘の有さまおしはかるべし、
p.0036 東崖先生、〈○伊藤〉二條街ニテ藥ノ囊ノ落タルヲ、ツレシ書生ニ拾ハシム、内ヲミレバ方金數枚アリ、先生眉ヲシワメ、〈○中略〉ソノマヽ神ダナニ置テ、其年ノ暮ニ、伊勢ノ御師ノ來レルニ 附セラレシト、其拾ヒシ書生ノ話セシ、コレバカヘスベキ主ナケレバ、宗廟へ納ルコヽロナルべシ、
p.0037 服部梅圃
梅圃性敦厚而公正、不レ苟二動止一、直方以御子家一、節儉以檢二于躬一、奉レ職循レ理、常以二經術一修二飾吏務一、餽遺苞苴、無二一所一レ受、壁間常掲下百術不レ如二一廉一之語上、以自警戒、
p.0037 太田見良 猩々庵
太田見良、宇資齋、伊豫大洲加藤侯の士也、〈○中略〉侯の翁主(ひめ)、官家に嫁し給ふに召れて、侍醫となる、養生の法をもて、しば〳〵諫れども用られず、故に脚疾に托し、祿を辭して退く、此後永く家居し、槶を蹈ざるは、此言を實にすとなり、自往ずといへども、病客門に充て、醫療をこふ、學生も亦あまた從ふ、其淸白の一事は、蘂物において、極品を撰て價をとふことなく、その言にいはく、もし時の價をしれば、おのづから鄙吝の意生じ、調劑の聞、其價貴きものは、減ずるに至る、わが淺ましきをおもふがゆゑに、つゝしみてとはずと、
p.0037 一祚梨一
一祚梨一は江戸の人也、性廉にして家乏しく、書のみ多し、凡世の人事を省き、外の聞見をいとはず、隱操ある人なり、〈○中略〉一時越前の兵庫といふ所の代官になり、〈○註略〉秋收を聞ことありしが、其正直無欲なることを、百姓大きに感じて、梨一明神と唱へて、其眞影を崇、秋ごとには祭れりとぞ、
p.0037 浪華に紀伊國屋亦右衞門といへるは、大家の商人なりけるが、そのかみ年まだ若かりしころ、本家何がしにつかへ、〈○中略〉一萬兩を十萬兩になさんこと、何の子細かさむらふべきとて、三とせも經ぬ間に、十萬兩に倍して來れば、主人その働きを感じて、その辛抱、この上は差圖すべきにもあらねど、この度は百萬兩にも倍すべくとあれば、亦右衛門こだへけるは、十萬兩のこ がねを以て、百萬兩にすることは、辛勞するに足らざるなり、さて承り侍り度ことあり、當時主家の御身帶、いかほどの御儲にて侍るにかと問へば、主人こたへて、わが身帶には、いかほどゝいふかぎりもあらざるなりといへば、さほどのたくはへおはしても、その上にも猶こがねをほしと、思し召しさむらふにやといへば、猶ほしとおもふこと、いまだ飽くことをしらずといふに、亦右衞門また申けるは、さあらば此こがねを倍することをば、是を限りとして給はれかし、我等は命こそ寶なれ、命ありてのうへの財なり、命なくては財ありても、益なしと申すに、〈○中略〉十萬兩を主人にそのまゝ奉り、けふまでのことは、奉公の身なれば、仰にそむきがたし、今より我身には願の侍れば、暇給はりて、そのうへのことはゆるし給へかしとて、いとまを乞ひて、わが家にかへり、若干のこがねを、緣ある輩に配り分ち、身帶をしまひ、頭をそり、圓智坊と改名して、大融寺の徒弟となり、京へいでゝ、菴室をかまへ、日々に托鉢して、洛に終れり、そのゆかりの者、大融寺に塚を建てたり、石に刻める辭世の歌に、
落ちて行くならくの底を覗きみんいかほど欲のふかき穴ぞと
p.0038 賄賂追從ノ路塞リタル物語ノ事
城下豐饒ノ町人、堀平太左衞門方ニ、〈○中略〉肴ヲ一折持セタリケルガ、平太左衞門イカサマ存付シコト有シヤ、右ノ町人ヲ玄關ニ通シ、次ノ間ヨリ對面シ、其方ハ拙者ニ何ゾ賴ミ度コトアリヤ、分ニ過タル肴ヲ遣ハシタリ、サテ〳〵愚ナルモノカナ、理筋アル事ナラバ、イカナル下賤ノ者ナリトモ、理ノ通リニ捌クマジキヤ、〈○中略〉大ニ叱リ這入リケレバ、町人〈○中略〉肴ヲ持セ、空ク歸リケル、暫クアリテ、町役人右ノ町人ノ宅ニ來リテ、其方堀大夫ニ賄シタル由、右ノ咎ニヨリ、五日ノ間、見世ヲ下スベキ旨、被二仰出タリト、表裏ノ門戸ヲ閉引取タリ、ケ樣ノコトナドハ、間々承リ及ビシガ、急度賄賂相止タルコトハ聞及申サズト物語セリ、
p.0039 潔白者彌兵衞〈伊賀國阿拜郡上柘植村の百姓なり〉
彌兵衞〈○中略〉三七といふものゝ宅地をかひそへ、畑になさんと思ひて、藪を打おこしけるに、一ツの德利の、鍬にあたりて破れしが、内より金の出ければ、〈○中略〉彌兵衞、長にむかひて、地をば求めしかど、金の土中より出んことは、思ひもかけず、いかにもして、もとのぬしに返し給はるべしとて、見返もせず、
p.0039 ちかきころになんありける、みやこ五條わたりに、さまよひけるかたゐなるものゝ、橋のほとりにて、きぬもてつゝみなせるものをひろひけるが、いとおもかりければ、あやしとおもひなしてあけて見けるに、こがね三百ひらに、かいつけやうの物もそへてありけるにぞ、やがてこがねのぬしもこをおくりやる人の名もあからにぞしられける、〈○中略〉かのがり行き〈○中略〉うしなへる人のゐやまちをなだめて、のちのいましめをこそたゞし給へ、やつがれがほいに侍るなりとて、みほひらのこがねかいつけつゝみなせるきぬともにかへしあたへけるこそ、いとめでたきこゝろざしなりけれ、あるじもあまりの事に、たゝへつべき言ばもなくて、なみだおしぬぐひつゝ、〈○中略〉こがねにまれ、しろ金にまれ、ひろひし人の、おほやけにうたへ出づるときは、そのなかばをわかちて、下したまはる事の御おきてなり、さらば此こがね百あまり五十ひらは、そこにまゐらせん、〈○中略〉そこのきよきこゝろざしをたゝへまうすしるしなりとて、あたへければ、かたゐ人、かしらうちふりて、〈○中略〉さらにことうけもせず、あるじも其こゝろをとみにくみて、やつがれこがねもてゐやとするにはあらず、それのこころざしをうけひ侍るうへ、わがこゝろをもうけひたまへと、せちにきこゆれば、かたゐのまをしけるは、さらばやつがれのぞむ事あり、わがごとく河原にさまよひなすもの、百人にもあまりぬらん、これらに一たび、あくまでいひたうべさせ、酒のませてんとほりするなり、あすさりての日、こはいひむして、酒いつたるをそへて、五條 の河原へおくりたまへ、是ぞこよなきおほんめぐみならんといふにぞ、いとやすき事なりとうけひて、けふしも風あれてはださむし、そのなれぎぬもすて給へ、ふるくとも、わがきぬまゐらせんなどきこゆるに、さらにうけひかず、はだへにしむあらしに、秋のなさけをしるは、西風に鱸魚をおもふも、たのしびは同じことなり、〈○中略〉またこそおほんかどまではまゐりも侍らめさる時は、なだれいを、のこれるいひもゐらんときは、御めぐみたまはらんと、いひもはてず、まかんでぬ、〈○中略〉いひはくるまにのせ、酒は馬におふせて、かのたから失へる男をもそへて、辰さがるころ、五條河原へはおくりやりぬ、なほたへずや思ひけん、こがねはたひちを、さかなのれうとかいつけて、酒だるのうちへいれて、おくりけるとなん、〈○中略〉その日もくれて、あくるあした、おもてのかたのしとみあくるほど、なにとはしらず、ちりといへるいやしげなる紙に、つゝみたるものを、なげいれて、その人はいづち行きけん影だにも見えず、あるじとりて見けるに、きのふ酒だるに、かくしておくりつる、こがねはたひらにぞありける、そのつゝめる紙に、一くさのうたをぞかいつけける、
たからともおもはゞ袖につゝまゝしうき世のちりを何にかはせん