p.0456 懷舊ハ、往時ヲ追想スルヲ謂フ、凡ソ懷舊ノ事タル、其範圍極テ廣ク、悉ク擧グルニ堪ヘズ、而シテ舊都ノ荒廢ヲ嘆ズル事ノ如キハ、地理部皇都篇舊都條ニ載セタレバ、宜シク參照スベシ、
p.0456 懷舊(クワイキウ)
p.0456 懷舊(クハイキウ)
p.0456 四十年十月癸丑、日本武尊發路之、〈○中略〉自二甲斐一北轉二歷武藏、上野一、西逮二于碓日坂一、時日本武尊、毎有下顧二弟橘媛一之情上、故登二碓日嶺一而東南望之三歎曰、吾嬬者耶、〈嬬此云二菟摩一〉故因號二山東諸國一曰二吾嬬國一也、 五十三年八月丁卯朔、天皇詔二群卿一曰、朕顧二愛子一何日止乎、冀欲レ巡二狩小碓王〈○日本武尊〉所レ平之國一、是月、乘輿幸二伊勢一轉入二東海一、
p.0456 元年十一月乙酉朔、詔二群臣一曰、朕未レ逮二于弱冠一、而父王旣崩之、乃神靈化二白鳥一上天、仰望之情、一日勿レ息、是以冀獲二白鳥一、養二之於陵域之池一、因以覩二其鳥一、欲レ慰二顧情一、則令二諸國一、俾レ貢二白鳥一、
p.0456 五條のきさきの宮のにしのたいに、住ける人に、ほいにはあらで、物いひわたりけるを、む月のとをかあまりになん、ほかへかくれにける、あり所は聞けれど、え物もいはで、 又のとしの春、梅の花さかりに、月のおもしろかりける夜、こぞをこひて、かのにしのたいにいきて、月のかたぶくまで、あばらなるいたじきにふせりてよめる、
在原業平朝臣
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我身ひとつはもとのみにして
p.0457 むかし二條のきさきの、まだ東宮のみゃすん所と申ける時、氏神にまうで給ひけるに、このゑづかさにさぶらひける翁、人々のろく給はるついでに、御車より給はりて、よみて奉りける、
大はらやをしほの山もけふこそは神代のこともおもひ出らめとて、心にもかなしとや思ひけん、いかゞ思ひけん知ずかし、
p.0457 右大臣〈○菅原道眞〉の御ためによからぬ事いできて、昌泰四年正月廿九日、太宰權帥になしたてまつりてながされ給ふ、〈○中略〉かのつくしにて、九月九日菊花を御らんじけるついでに、又京におはしましゝ時、九月のこよひ内裏にて菊のえんありしに、このおとゞつくらしめ給へりける詩を、みかど〈○醍醐〉かしこぐかんじたまひて、御衣たまはり給へりしを、つくしまでくだらしめ給へりければ、御らんずるにいとゞそのおりおぼしめしいでゝ、つくらせ給ひける、
去年今夜侍二淸凉一 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在レ此 捧持毎日拜二餘香一
この詩いとかしこく、人々かんじ申されき、
p.0457 廿七日、〈○承平四年十二月〉おほつよりうらとをさしてこぎいづ、かくあるうちに、京にてうまれたりしをんな、こゝにてにはかにうせにしかば、このころのいでたちいそぎをみれど、なにごともいはず、京へかへるにをむなごのなきのみぞかなしびこふる、〈○中略〉 十一日、〈○同五年正月〉あかつきに船をいだして、むろつをおふ、〈○中略〉このはねといふ所とふわらはのついでにて、又むかしの人 をおもひいでゝ、いづれの時にかわするゝ、けふはましてはゝのかなしがらるゝことは、くだりし時の人のかずたらねば、ふるうたに、かずはたらでぞかへるべらなるといふことを、おもひいでゝ人のよめる、
世のなかにおもひやれどもこをこふるおもひにまさるおもひなきかな、といひつゝなん、九日、〈○二月、中略、〉かくのぼる人々のなかに、京よりくだりし時に、みなひと子どもなかりき、いたれりし國にてぞ、子うめるものども有あへる、人みな船のとまる所に、いだきつゝおりのりす、これを見て、むかしのこのはゝ、かなしきにたへずして、
なかりしもありつゝかへるひとの子をありしもなくてくるがかなしさ、といひてぞなきける、ちゝもこれをきゝて、いかゞあらん、かうやうの事ども、うたもこのむとて、あるにもあらざるべし、もろこしもこゝも、おもふことにたへぬ時のわざとか、十六日、京にいりたちてうれし、家にいたりてかどにいるに、月あかければ、いとよくありさま見ゆ、〈○中略〉この家にてうまれしをんなごの、もろともにかへらねば、いかゞはかなしき、〈○下略〉
p.0458 二代の后の事
故近衞の院のきさき太皇太后宮〈○藤原多子〉と申しは、大炊のみかどの右大臣公能公の御むすめなり、〈○中略〉主上〈○二條〉きさき御入内有べきよし、右大臣家にせんじをくださる、〈○中略〉御じゆだいの後は、れいけい殿にぞまし〳〵ける、〈○中略〉かのせいりやうでんの、ぐはとの御しやうじには、むかし、かなおかゞかきたりし、ゑんざんのあり明の月もありとかや、故院のいまだ幼主にて、ましませしそのかみ、なにとなき御てまさぐりの、つゐでに、かきぐもらかさせ給ひたりしが、有しながらに、少もたがはせ給はぬを御らんじて、先帝のむかしもや、御戀しうおぼしめされけん、
おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲ゐの月を見んとは、そのあひだの御なから ひ、いひしらずあはれにやさしき御ことなり、
p.0459 少將みやこかへりの事
正月げじゆん〈○治承三年〉に、丹波の少將なりつね、平判官やすより入道、二人の人々は、肥前の國かせのしやうを立て、都へといそがれけれども、〈○中略〉二月十日ごろにぞ、備前のこじまにはつき給ふ、それより父大納言殿〈○成經父成親治承元年薨〉の御わたり有なる、有木の別所とかやにたづね入て見給へば、竹のはしら、ふりたるしやうじなどに、かきをき給ひつる筆のすさびをみ給ひて、あはれ人のかたみには、手跡にすぎたる物ぞなき、かきをき給はずば、いかでか是を見るべきとて、やすより入道と二人、よみてはなき泣てはよむ安元三年七月廿日出家、おなじき二十六日、のぶとし下向ともかゝれたり、さてこそ源左衞門のぜうのぶとしが、まいりたるをもしられけれ、そばなるかべには、三尊らいがうたより有九品わうじやう疑なしともかゝれたり、此かたみを見給ひてこそ、さすが欣求淨土ののぞみもおはしけりと、かぎりなきなげきの中にも、いさゝかたのもしげにはのたまひけれ、
p.0459 治承四年十月廿一日庚子、令レ遷二宿黃瀨河一給、〈○源賴朝、中略、〉今日弱冠一人、御旅館之砌、稱下可レ奉レ謁二鎌倉殿一之由上、實平、宗遠、義實等恠レ之、不レ能二執啓一、移レ剋之處、武衞自令レ聞二此事一給、思二年齡之程一、奧州九郎歟、早可レ有二御對面一者、仍實平請二彼人一、果而義經主也、卽參二進御前一、互談二往事一催二懷舊之涙一、
p.0459 人やりならぬ道なれば、いきうしとてもとゞまるべきにもあらで、なにとなくいそぎたちぬ、〈○中略〉侍從大夫などの、あながちにうちくつしたるさま、いと心ぐるしければ、さま〴〵いひこしらへ、ねやのうちをみれば、むかしの枕さへ、さながらかはらぬをみるにも、今さらかなしくて、かたはらにかきつく、
とゞめをくふるき枕の塵をだに我たちさらば誰か拂はん
p.0460 よはもとしのび(○○○○○○○) 諺にいへり、世は故忍の義なり、人の世にある何事によらず、むかしを思ふ意なり、新古今集に、
行末は我をもしのぶ人やあらんむかしをおもふ心ならひに
p.0460 物思ひしり給ふは、さまかたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすくにくみがたかりし事など、いまぞおぼしいづる、さまあしき御もてなしゆへこそ、すげなうそねみ給しが、人がらのあはれになさけありし御心を、うへの女房なども戀しのびあへり、なくてぞとは、かゝるおりにやとみたり、
p.0460 なくてぞとは、かゝるおりにやと、
ある時はありのすさびににくかりきなくてぞ人は戀しかりける
p.0460 すぎにしかたこひしきもの
かれたるあふひ ひいなあそびのてうど ふたあゐ、ゑびぞめなどのさいでのをしへされて、さうしのなかにありけるを見つけたる、 又おりからあはれなりし人の文、雨などのふりて、つれづれなる日、さがし出たる、 こぞのかはほり 月のあかき夜
p.0460 しづかに思へば、ようづに過にしかたの戀しさのみぞせんかたなき、人しづまりて後、ながき夜のすさびに、なにとなきぐそくとりしたゝめ、のこしをかじとおもふ反古などやりすつる中に、なき人の手ならひ、ゑかきすさびたる、見出たるこそ、たゞ其おりのこゝちすれ、此比ある人の文だに、久しくなりて、いかなるおり、いつの年なりけんとおもふは、哀れなるぞかし、手なれしぐそくなども、心もなくてかはらずひさしき、いとかなし、〈○中略〉
p.0460 高市古人感二傷近江舊堵一作歌
古(イニシヘノ)、人爾和禮有哉(ヒトニワレアレヤ)、樂浪乃(サヽナミノ)、故京乎(フルキミヤコヲ)、見者悲寸(ミレバカナシキ)、
p.0461 柿本人麻呂歌一首
淡海乃海(アフミノウミ)、夕浪千鳥(ユフナミチドリ)、汝鳴者(ナガナケバ)、情毛思努爾(コヽロモシヌニ)、古所念(イニシヘオモホユ)、