p.0397 朋友ハ、トモト云ヒ、又トモガキ、トモドチ、知音、得意等トモ稱ス、友ニハ心友アリ、面友アリ、又善惡親疎等ニヨリテ、各、其稱ヲ異ニセリ、而シテ友ニ交ルニ信義ヲ以テス、之ヲ朋友(トモガキ)ノ道ト云フ、其名ハ旣ニ日本書紀神代卷ニ見エタリ、
p.0397 朋友 論語注云、同レ門曰レ朋〈歩崩反〉尚書注云、同レ志曰レ友、〈云久反、上聲之重、和名止毛太知、〉文場秀句云、知音得意、〈朋友篇事對也、故附出、〉
p.0397 止毛太知、又見二古今集後撰集離別歌小序一、仁賢紀同伴者同訓、雄略紀朋友訓二止毛一、神代紀訓二止毛加幾一、按止毛、共レ事之義、伴字、部字、訓二止毛一、同意、輩訓二止毛賀良一亦同、太知訓二等字一不二一人一之義、〈○中略〉知音(○○)見二今昔物語一、得意(○○)見二源氏物語明石卷、及今昔物語一、得意知音、見二今昔物語卷三、阿闍世王殺レ父語條一、
p.0397 朋〈トモ トモカラ〉
p.0397 犮友〈音右 トモタチ トモ〉
p.0397 朋友〈トモタチ〉 友〈トモ〉 伴 侶〈已上同〉
p.0397 友達(トモタチ) 友(トモ) 朋(同)
p.0397 朋友(ホウユウ)〈碩友、良友並同、公羊傳同レ門曰レ朋、同レ志曰レ友、周禮、註、同レ師曰レ友、〉 朋(トモ)〈書言大全、道同爲レ朋、志孚爲レ友、朋以レ義合、友以レ敬久、〉 友(同)〈同レ上〉 執(同)〈父之朋也、出二禮記一、〉 共人(トモダチ) 朋友(同) 朋曹(伊)〈宋高僧傳〉
p.0397 七年、是歲、吉備上道臣田狹侍二於殿側一、盛稱二稚媛於朋友(トモ)一曰、〈○下略〉
p.0397 六年、是秋鹿父曰諾、卽知レ所レ言矣、有同伴者(トモタチ/トモガラ)一、不レ悟其意一、〈○下略〉
p.0397 むかしをとこ、友だちの人をうしなへるがもとにやりける、
p.0397 友 ともかきと 思どち(○○○)などいふ也
p.0398 春の歌とてよめる そせい
思ふどち春の山べにうちむれてそこともいはぬたびねしてしが
p.0398 知音(チ井ン)〈良友也、文選註、謂二知レ我者一也、鐘子期死伯牙絶レ絃之故事、見二列子、説苑、呂氏春秋、韵瑞一、〉
p.0398 阿闍世王殺二父王一語第二十六
今昔、天竺ニ阿闍世王、提婆達多ト得意知音(○○○○)ニシテ、互ニ云フ事ヲ、皆金口ノ誠言ト云テ信ズ、
p.0398 後嵯峨院の御時、龜山殿御所の比、高倉宰相茂通卿と榮性法眼とは、むかしよりの知音(○○)にて有けるに、〈○下略〉
p.0398 よしきよおどろきて、入道はかのくにのとくい(○○○)にて、年比あひかたらひ侍つれど、わたくしにいさゝかあひうらむること侍て、ことなるせうそこをだにかよはさで、ひさしうなり侍ぬるを、〈○下略〉
p.0398 とくいにて 國にての知音なるなり、良淸が父も播磨國守なりし便なり、
p.0398 少納言が物ゆかしがりて侍るならんと申させ給へば、あなはづかし、かれはふるきとくい(○○○)を、いとにくげなるむすめども持たりともこそ見侍れなどの給ふ御けしぎ、いともたりがほなり、
p.0398 相知(チカツキ/シルヒト)〈列仙傳、將レ入レ京投二相知一、〉 知故(チカツキ)〈同上、一日與二知故一別入二華山一、〉
p.0398 題しらず 藤原おきかぜ
たれをかもしる人(○○○)にせん高砂の松も昔の友ならなくに
p.0398 つきあひ(○○○○) 俗語なり、人につきおふなどいふは、交るをいへり、附會の義にや、
p.0398 一於二朋友一被二隔心一之族、仁道可レ嗜事、語曰、終レ食隙不レ違レ仁、
p.0398 朋友 友とまじはるには、すこしも僞あれば、心はなるゝものなり、
p.0399 信
朋友に交るには、もとより愛敬を用ゆべし、然れども信なければ、愛敬も僞より出て、誠の愛敬に、あらず、顏色をやはらげ、容貌をうや〳〵しくするも、いつはりかざれるは、愛敬とすべからず、
p.0399 五倫の事
一朋友の法は友だちの交りの法なり、友だちとつきあふには、相互に眞實の心を專らとして、たのもしく交るべし、友達の心得違有てわろきあらば、異見を、いひ、難儀なる事をばすくひたすけ、何事も眞實にして僞りなく、だしぬかずたのもしくするを、朋友の信といふなり、
一友だちは相互に遠慮なく、わろきよしをいひて異見をしで、あしき事を改むべし、是相たがひに友だちの慈悲なり、是友だちにつきあふ法なり、
一友だちの中、眞實の心なく、異見いひても却て腹をたち、だのもしからぬ友ならば、次第々々に遠ざかりて、つきあふべからず、これもまた友に交る法なり、
p.0399 友に交る道は、いかなる事か心得べきといふに、友はその所長を友とすべし、ふるきこと好むには、そのことに友とし、武技このむには、それに友とし、歌によむものには、その道に友とするそよき、さるに歌とてもこのふりはあしかり、かれにまねび給ふは、ひがことなりなどといふにも及ばじ、たゞ交りてこそあるべけれ、古にいふ管鮑の交といへども、このふたりおなじ德、おなじ心よりしにもあらじかし、よの中に同じこゝろの人といふものは、いとまれなる事なるべし、たゞわが好めるかたに引きいれんとするもうるさし、ごのひと、このところは長じぬれど、こゞはいとみじかし、そのみじかきところを、引きのべんとするはいとくるし、さ思ふわれも、またそのみじかきところあるものを、ことに思ふこと、みないさめものせんとするを、かの信と思ふはたがへりけり、交るがうちにも知己のひとは、いとまれなるものなり、それらよくことば を求めなば、もとよりいふべし、されどしば〳〵すべきにはあらずかし、淺き契りの友なりとても、友といふうちならば、そのひとのうへの存亡に、かゝはる計のことならばいふべし、すべてしひてかくせん、かくすくひてんと、まげてもと思ふは、みな中道には背けりといはん、たゞその所長を友とすれば、まじはりがたき人もなく、われに益なき友もあらず、かの友によてわがかたのみだれんとするは、皆その短を友とする故なりと、こたへしものありきとや、
p.0400 良友(リヤウユウ)
p.0400 むかし、をとこ、いとうるはしき友(○○○○○○)ありけり、
p.0400 源信僧都四十一箇條起請
應二重禁制一條々〈○中略〉
一與二惡友(○○)一不レ可レ好レ交〈○中略〉
已上四十一箇條、可レ如二眼精一矣、
p.0400 友とするにわろき(○○○)者七あり、一にはたかくやんごとなき人、二にはわかき人、三には病なく身つよき人、四には酒をこのむ人、五には武くいさめる人、六には虚言する人、七には欲ふかき人、よき友(○○○)三あり、一には物くるゝ友、二にはくすし、三には智惠ある友、
p.0400 一よき友(○○○)をもとめべきは、手習、學文の友也、惡友(○○)をのぞくべきは、碁、將棊、笛、尺八の友也、是はしらずとも恥にはならず、習てもあしき事にはならず、但いたづらに光陰を送らむよちはと也、人の善惡みな友によるといふこと也、三人行時かならずわが師あり、其善者を撰て、是にしたがふ、其よからざる者をば、是をあらたむべし、
p.0400 師〈○貝原益軒〉の曰、〈○中略〉朋友はたがひに信をもて相まじはる道とす、信はいつはりなく義理にかなふ德なり、友達のまじはりに、心友面友の差別、情義の親疎、さま〴〵ありといへども、 畢竟はみな信のみちを本とす、たがひのこゝろざしおなじくまじはりしたしむを心友といふ、こゝろざしはちがひぬれども、筋目あるか、或は同郷隣家、あるひは同官同職などにて、さい〳〵相まじはりてしだしきを面友といふ、一目しる人も面友のうちなり、心友面友ともに情義の親疎おなじからず、そのほど〳〵の義理にしたがひて、威義うや〳〵しく、挨拶和厚にして、いつはりなく、もちろん約束などのすこしも違變なきが、信のみちの大がいなり、
p.0401 米川一貞字幹叔、小字義兵衞、號二操軒一、
操軒壹奉二程朱之説一、四子小近書易等外、不レ欲三泛觀二他書一、舊與二伊藤仁齋一善、及下仁齋唱二古義一以非中斥宋儒上、乃修レ書曰、朱子得二聖人之道一、吾子持二異言一排レ之、語二養德之學一、則爲二薄德一、語二講學之事一、則無レ益二於學一、是謂二之聖敎罪人一、速改レ之則止矣、不則雖二契分日久一、不レ得レ不レ絶焉、其言切至、而仁齋不レ聽焉、遂贈二絶交書一、
p.0401 淺見安正〈○中略〉號二絅齋一、
絅齋少二佐藤直方一二歲、初友義甚親、然嘗面二折直方親喪未レ除出仕一、以レ是遂絶レ交、默識錄曰、絅齋先生與二直方先生一、初其交如二兄弟一、後不二相通一、然而義亦無二可レ言者一、乃是氣質之一癖、學問之大疵、甚可レ惜、直方先生、後來思二舊交一有下將二通問一之意上、絅齋先生、終執而不レ肯、
p.0401 先レ是天稚彦在二於葦原中國一也、與二味耜高彦根神一友善(ウルハシ/○○)、〈味耜此云二婀膩須岐一〉故味耜高彦根神昇レ天弔レ喪、時此神容貌正類二天稚彦平生之儀一、故天稚彦親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀二牽衣帶一、且喜且慟、時味耜高彦根神、忿然作レ色曰、朋友之道(トモガキ /○○○○)、理宜二相弔一、故不レ憚二汙穢一、遠自起〈○起恐赴誤〉哀、何爲誤二我於亡者一、
p.0401 爰伐二新羅一之明年、〈○元年、中略、〉更遷二小竹宮一、〈小竹此云之努〉適二是時一也、晝喑如レ夜、已經二多日一、〈○中略〉巷里有二一人一曰、小竹祝與二天野祝一共爲二善友(ウルハシキトモ/○○)一、小竹祝逢レ病而死之、天野祝血泣曰、吾也生爲二交友(ウルハシキトモ)一、何死之無二同穴一乎、則伏二屍側一而自死、仍合葬焉、蓋是之乎、乃開レ墓視レ之實也、故更改二棺櫬一各異レ處以埋之、則日暉炳爃、日夜有レ別、
p.0402 二十九年二月癸巳、當二是時一、高麗僧惠慈、聞二上宮皇太子薨一、〈○中略〉誓願曰、〈○中略〉今太子旣薨之、我雖二異國一心在二斷金一、其獨生之有二何益一矣、我以二來年二月五日一必死、因以遇二上宮太子於淨土一、以共化二衆生一、於レ是惠慈當二于期日一而死之、
p.0402 斷金(タンキン)之、契〈二人同心、其利斷金之契見レ易、〉
p.0402 中大兄〈○天智〉雄略英徹、可二與撥一レ亂、而无レ由二參謁一、儻遇二于蹴鞠之庭一、中大兄皮鞋隨レ毬放落、大臣〈○藤原鎌足〉取捧、中大兄敬受レ之、自レ玆相善、倶爲二魚水(○○)一、
p.0402 河島皇子一首
皇子者淡海帝之第二子也、志懷温裕、局量弘雅、始與二大津皇子一爲二莫逆之契(○○○○)一、及二津謀逆一、島則吿レ變、朝廷嘉二其忠正一、朋友薄二其才情一、議者未レ詳二厚薄一、然余以爲忘二私好一而奉公者、忠臣之雅事、背二君親一而厚レ交、者悖德之流耳、但未レ盡二爭友(○○)之益一、而陷二其塗炭一者、余亦疑レ之、〈○中略〉
正三位式部卿藤原朝臣字合六首〈年卌四○中略〉
七言、在二常陸一贈二倭判官留在一レ京一首、〈幷序〉
僕與二明公一、忘レ言歲久、義存二伐木一、道叶二採葵一、待二君千獨不上レ悟、然而歲寒後驗二松竹之貞一風生廼解二芝蘭之馥(○○○○)一、非二鄭子鳶一、幾失二然明一、非二齊桓公一、何擧二寧戚一、〈○下略〉
p.0402 莫逆交(バクゲキノマジハリ/○○○)〈指南、朋友深交曰二莫逆一、又曰二忘形友一、出二莊子一、〉
p.0402 天平神護元年八月庚申朔、從三位和氣王坐二謀反一誅、是日又下レ詔曰、粟田道麻呂、大津大浦石川長年等〈爾〉勅〈久〉、朕師大臣禪師〈乃〉宣〈久〉、愚癡〈仁〉在奴〈方〉、思〈和久〉事〈毛〉無〈之天、〉人〈乃○人乃二字原脱、據二一本一補、〉不レ當、無レ禮〈止〉見咎〈牟流乎毛〉不レ知〈之天、〉惡友(○○)〈爾〉所二引率一〈流〉物在、是以、此奴等〈毛〉、如レ是〈久〉逆穢心〈乎〉發〈天〉存〈訃利止方、〉旣明〈爾〉知〈奴、○中略〉汝等〈我〉罪〈方〉免給、〈○下略〉
p.0402 延曆廿三年四月辛未、中納言從三位和朝臣家麻呂薨、〈○中略〉雖レ居二貴職一、逢二故人一者、不レ嫌二 其賤一、握レ手相語、見者感焉、
p.0403 弘仁六年六月丙寅、播磨守贈正四位下賀陽朝臣豐年卒、右京人也、該二精經史一、射策甲科、秉レ操守レ義、無レ所二屈撓一、自レ非二知己一、不レ好二造接一、
p.0403 釋勤操、姓秦氏、和州高市郡人、〈○中略〉初操居二大安寺一、隣房有二榮好者一、養二老母於寺側一、一童爲レ役、〈○中略〉操與レ好善、常見レ之、貴二好之篤孝一、一日童受レ飯忍泣、聲漏二于壁一、操怪呼レ童問曰、奚爲レ哭、對曰、我有二二嘆一、一者我師今朝俄亡、生平甚窶、何以供レ喪、二者師母不レ賙、分二於師飯一、師已殂矣、母何所レ活、思二此二事一、我涙不レ禁、操聞憐焉、吿曰、儞莫レ愁也、我與レ儞營二好之葬一、又好母老羸、恐聞二好死一、迷悶氣絶、儞早送レ飯、不レ差二時候一、愼而莫レ語也、童喜送レ飯如レ常、母不レ知也、操其夜與レ童、潛葬二好于野一、不レ令二衆知一、蓋訝二好之母有一レ聞也、〈○下略〉
p.0403 菅丞相の筑紫へくだり給ひしとき、貞信公〈○藤原忠平〉は本院のおとゞ〈○藤原時平〉の御弟にて、右大辨にておはしけるが、このかみ謀計にもともなはず、菅丞相とひとつにて、消息をかよはして、隔る御心おはしまさず、かく念比に契をむすびて、殊に御一家をまもりはごくみ給ふゆへに、かの御子孫繁昌し給ふとぞ覺侍る、
p.0403 天慶八年九月五日、左大臣藤原朝臣仲平薨、〈七十一〉左大臣平生時、與二律師无空一有二芳蘭契(○○○)一、律師念佛爲レ業、衣食常乏、自謂、我貧亡後定煩二遺弟一、竊以二万錢一置二于房内天井之上一、欲レ支二葬斂一也、律師臥レ病言不レ及レ錢、忽以卽世、枇杷左大臣夢、无空律師、衣裳垢穢、形容枯稿、來相謂曰、我以レ有二伏藏錢貨一、不レ度受二蛇身一、願以二其錢一可レ書二寫法花經一、大臣自至二舊房一搜二得万錢一、錢中有二一小蛇一、見レ人逃去、大臣忽令四書二寫供三養法華經一部一畢、他日夢、律師法服鮮明、顏色悦澤、特二香爐一來、謂二大臣一曰、吾以二相府之恩一、得レ免二邪道一、今詣二極樂一、語畢西向飛去焉、〈已上慶氏記〉
p.0403 中院右府禪門〈○源雅定〉與二左馬權頭顯定朝臣一常會合、多年無二隔心一、禪閤契約云、雖二薨後一所レ願 並レ墓、談話無レ變云々、依レ之顯定逝去之刻、禪閤墓所〈久我〉傍、堀二埋顯定一云、仍于レ今雨夜深更ナドニハ物語シテ被レ笑之聲、人多聞レ之云々、
p.0404 一中西彌五作と、古田彌三は、ならびなき友也しが、しづが嶽の戰の時、わたしあひ、彌五作鑓にて彌三をつきふせて、甲を引あげすでに首をとらんとしけるが、よくみれば彌總なり、あやしやとおもひて、おしくつろげて、汝は古田彌總なといひければ、彌總下より、かくいふは中西彌五作と覺へたり、かゝる時に臨て、いはれざる名乘なり、はやく首とれといふ、何條さる事あるべきとて、とつて引起し、鎧の塵うちはらひ、不思義の仕合かなとて、打笑て立わかれしと也、彌五作は、秀吉公の御方、彌總は柴田殿の方にありし也、そのゝち大和中納言殿につかへ、終には古田兵部少輔殿の家老となり、古田總左衞門といひしは、かの彌總が事也、
p.0404 伴氏頗寡欲之名アリ、與二尾山氏一友シ善、尾山氏吝嗇ニ過、或人伴氏ニ問テ曰、吾子與二尾山氏一趣向不レ同、何其相善ヤ、伴氏云、尾山ハ才藝皆我ニ愈、惟吝二於財一、故ニ我十餘年來不レ使三渠爲レ我費二一錢一、所二以相善一ナリ、孔子將レ行雨フリテ無レ蓋、門人ノ曰、商也有レ之、孔子其蓋ヲ不レ假曰、商ガ爲レ人也、甚財ヲ 、吾聞與レ人交ニ、其長者ヲ推、其短者ニ違、故ニ能久也、伴氏ガ言暗ニ此ト合リ、
p.0404 三宅重固、〈○中略〉號二尚齋一、
尚齋固守二朱説一、深疾二異レ己者一、而與二三宅石菴三輪執齋、玉木葦齋一、相友者、唯其舊交不レ忍レ絶云、石菴信二陸象山一、執齋喜二王陽明一、葦齋奉二神道一、石菴執齋爲レ其所二論刺一、尚且毎稱二尚齋一、爲二温厚長者一、
p.0404 源君美、〈○中略〉號二白石一、
嘗謂二鶴樓一曰、南郭先生、名譽甚噪、余欲二往一見一者有レ年、然一旦被二簡任一居二内班一、則不レ得三私造二處士許一、彼亦旣爲二名家一、不レ可二引致一、以レ故至レ今不レ果、豈不二遺恨一乎、鶴樓曰、是何難之有、予請爲二紹介一、明日見二之於先生一、乃過二南郭一、語以二此言一、南郭喜卽與二鶴樓一共來、白石倒レ屣迎入、遂定レ交、
p.0405 源洞巖
洞巖與二新井白石一、情交尤密、輸寫款誠、無レ所レ不レ至、東南隔絶、相互知二己於千里外一、雁魚往來、殆無二虚日一、寬政中、仙臺工藤鞏卿就二其孫義路一、〈字子學彦四郎〉搜二索遺筐一、於二敗紙中一得下白石與二洞巖一國字書牘七十六通上、編二輯先後一爲二二卷一、題曰二新佐手簡一、雖二其書盡不一レ備、得二當時事實一者頗多矣、今據二其書所一レ言則白石與二洞巖一未三嘗有二一面識一、山河索居、特以二書信一相交數十年、其虚襟契素、亦一奇事矣、
p.0405 予〈○柳澤淇園〉が江戸にくだるころ、親しく交はる友ありて、雞黍の約を結ばんことをもとむれば、諾して後にその志しを見ばやと、ある時食客五人を養ふに、賄の事薄ければ、一人に黃金五爾をあてゝ、二十五兩貸し給はれと、その人に乞ひければ、いと安きことなりとて、みづから持ちきて貸しけるに、此歲の末の債逼れば、又二十五兩貸せよといふに、先に貸したることをもいはで、こたびももて來り貸しにけり、そのまゝ三とせを過ぎつれども、こがねのことは少しもいはで、前にかはれる心もなく、いよ〳〵親しみ交はりけるに、その人はからず禍ありて、多くのこがね入ることあれども、少しも色に出ださゞりけるが、その妻夫に云ひけるは、五十兩のこがねをかりて、七とせ過ぐるに返さゞるは、欺き奪ふ心ぞといふに、否とよ、彼人予をあざむく心なし、乏しきがゆゑ返さゞるなり、刎頸の交情は、婦女子の知れるところにあらず、ふたゝび此事をいはゞ、夫婦の緣を絶つべしと、いきどほれば、この後妻もいはずなりぬといへるはなしを、ある人來りて、予に吿げければ、予はその無を無として、返さるゝことの能はざるを悔れば、吿げたる人また彼處にいたりて、予がいふことを、その人にかたるに、その人こたへて云ひけるは、人は不實をなしたりとて、その交りを絶するは、知己親友といふにはあらず、欺くも不實も、その折からの是非なきにして、世に始めより詐僞をかまへて、人に交はる輩はなし、そのいつはるとあざむくとを許さゞれば、知己親友とは云ふべからずとて、予が詞にこたへけるよし、そのことをきゝ てよりも、借りたる黃金の緘も解かねば、封じたるまゝを、その人に返して、予はその許を試しぞとて、ます〳〵厚く交はりぬ、
p.0406 南宮大湫
大湫與二同門之士紀平洲一、情交尤密、平洲旣離二郷里一、遊二于江戸一、下レ帷敎授、屢投二書牘一、勸下大湫東下而仕中諸侯上、大湫官二遊平安一、又之二美濃岐阜一、之二伊勢桑名一、之二松阪一、漫遊數年、東西相隔、不二啻參商一、不二相見一殆二十餘年、明和中、始來二江戸一、寓二平洲濱街道士井家一、二十五日、移二往其僑居一焉、其訪二平洲一初、情話無レ期、悲歡交臻、談レ舊之外、又無二他事一、平洲爲レ之稱レ有レ疾、謝二來客一、息講業一十餘日、無レ暮無レ朝、語二言一室一、若二引レ緖抽レ繭縷々不一レ盡、其寓塾生私語曰、二先生二十年相思之情、抑鬱之久、至二於今日一、發爲二狂病一、