https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 賤ハ、イヤシト云フ、貴ニ對スルノ稱ニシテ、身分ノ低キモノヲ謂フナリ、我國往古平民ニシテ、特ニ族姓ノ賤シキモノアリ、之ヲ賤民ト穩、ス、事ハ政治部賤民篇ニ在リ、宜シク參看スベシ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈三/貝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 賤〈イヤシ ミシカシ〉 賤〈音餞 イヤシヤスシ 和仙〉

〔伊呂波字類抄〕

〈伊/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 賤〈イヤシ輕〉 苟 恛 鄙 苪 卑〈尊卑〉 微 俚 民 恡 窟 陋 蕞〈蕞苪小貌〉俾 得 頩 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02107.gif 菓 廝 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02108.gif 頑 衡 汭 竄 俳 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02109.gifhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00488.gif 嚕 窶 亞〈疋文〉 固下 偷 野 劣〈已上イヤシ〉

〔倭訓栞〕

〈前編三/伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 いやし 鄙又卑賎をよめり、彌下の義なるべし、日本紀に微をもよみ、靈異記に斯下をよみたり、

賤例

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 二十七年十二月、到於熊襲國、〈○中略〉川上梟帥啓之曰、汝尊誰人也、對曰、吾是大足彦天皇之子也、名日本童男也、川上梟帥亦啓之曰、吾是國中之强力者也、是以當時諸人、不我之威力、而無從者、尚多過武力矣、未皇子、是以賤賤(イヤシキヤツノコ)〈○賤賤、一本作賤賊、〉陋口(イヤシキ)以奉尊號、〈○下略〉

〔水鏡〕

〈中/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 同〈○和銅〉二年五月に、新羅の使さま〴〵の物をあひぐして參れりしに、不比等その使にあひ給ひにき、昔より執政大臣のあふ事は、いまだなき事也、しかれどもこの國のむつまじき事をあらはするより、との給ひしかば、使ども座をさりて拜し奉りて、うるはしく又座につきて、使どもは本國のいやしきものどもなり、王の仰をかうぶりて、いまみやこにまいれり、さいはいの はなはだしきなり、しかるにかたじけなくあひまみえたてまつりぬ、悦おそるゝ事かぎりなしと申しき、國王大臣も、ときにしたがひて、ふるまひ給ふべきにこそ、此ころならばかたおもぶきに、異國の人に一の人のあひ給ふはなき事なり、などそそしり申されし、

〔十訓抄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 行基菩薩は和泉國の大鳥の里にすまれ、弘法大師は、讚岐國多度津郡より出給へり、皆是邊鄙の民間をはなれずといへども、各權者の名を顯し給へり、吉備大臣は左衞門尉國勝之子也、粟田左大臣は但馬守有賴が息にて、二人ながら其父賤しけれども、才能を賞せられしかば、大臣のやむごとなき官になられにき、

〔明月記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 建曆二年九月廿八日、年來靑侍遠江守能直〈去年爲家令〉去七月廿日比依痢病氣暇退出、八月十三日出家、十六日死去之由下人吿之、今年七十六云々、雖鳥跡形書眞名、適書寫文書數百卷、雖卑賤老翁、思此恩悲泣

〔閑田次筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 元亭釋書の著者虎關禪師は、其父微官なりしかば、小僧の時、官家の童子達と群遊ぶのついで、其父の微官なるを耻かしめんとて、各其系譜をいひて、此溝をこゆべしといへり、皆大中納言の息なりしかばなり、虎關こゝうえて、大聖釋迦佛の法孫師鍊と、高らかに呼はりて、一番に飛越たれば、皆いふことなくて止みしとぞ、

〔續應仁後記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 畿内近國一揆所々騷動事
同年〈○享祿五年〉ノ秋、和州ノ一揆等勃興シテ、當國高取ノ城ヲ攻ケレドモ、城主越智ノ某、隨分防戰テ、終ニ一揆ヲ追拂フ、同十月、南都ノ町中一揆ヲ企テ、僧房ヲ燒立ケレバ、南房ヨリ此返報トテ、又町中ヲ燒拂フ、一揆ノ大將ハ、一向宗ノ門徒鴈金屋願了、同餘五郎ト云者也、角テ當國宇多郡吉野、伊賀國名張ノ一揆等悉組合テ、伊勢國エ亂入ス、國司北畠晴具是ヲ防ギ留ント有ケルニ、老臣等思案シテ、懸ル賎キ土民ノ奴原、當家歷々ノ侍計ヲ差向テ、防カスベキ事、本意ニ非ズ、其損寡カラズ トテ、當國山田ノ庄ノ穢多非人ヲ相催シ、乞食多勢ニ、紙小旗ヲ差連サセ、其旗一樣ニ穢多ト云字ヲ書付テ、武士ノ眞先エ押立、進マセケル程ニ、流石和州ノ一揆共モ、此小旗ノ文字ヲ見テ、イカナル賤キ我々ニテモ、穢多非人ヲ相手ニシ、合戰ハ成マジトテ、其ヨリ散々ニ成ケル處ヲ、先ノ穢多ヲ押除テ、跡ヨリ武士共進出、一揆ヲ追驅追詰テ、悉ク討捕退治シケリ、

〔靈巖夜話〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 太閤秀吉、聚樂の屋形におゐて、伽衆餘多雜談の節、伽衆の中ゟ、世間に、親に生レ增たる子と申は、希成物ニ而候との義を、秀吉聞給ひて、身共抔も其通也と被申候へば、伽衆何も合點致兼候所に、權現樣〈○德川家康〉ニハ、いかにも仰の通りに候との御挨拶ニ付、秀吉御申候は、中納言には御合點と相見へ候、先御だまり有べく候、何もハ何と有之候へば、伽衆何も得合點不仕と申、秀吉重ねて仰候ハ、説等親共の義ハ、定而何も聞及有べし、家來を召仕ふ事も不成樣成微賎の者に候得共、身共を子に得持候、我等は親に生レ劣り、子に事を欠候と被申候と也、

〔温故堂塙先生傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 これよりさき、大人花咲松と云ふ書をあらはす、こは南朝長慶院と後龜山院との御位の事を論ぜり、萬〈○立原〉いまだ其説に服はず、問答あまたたびになりて、萬つひに其いふ所をよしとす、これによりて、いよ〳〵大人をすゝめて、このよせあることを得たり、そのをりに、萬の同僚みないさめていひけらく、國史はわが先君の修むる所なり、瞽者をしてその事にあづからしむる、これ我等が恥にはあらずや、むべそのことをとゞむべしと、萬うけずしていふよう、その人の盲たるは病なり、尊卑のいたすところにあらず、然れども常にいはゆる盲人は、世のもてあそびぐさとなる事を勤とす、この故にいやしまれざることかたし、塙は文學を業とし、人多く師の禮をいたして來り學ぶ、其説も又取るべきが多し、さらばいかでか明不明のへだてあるべきや、もし國史の校正にあづかりて補ふ所なくば、萬其罪をかうぶりなんといらへしかば、ついに其事なりにけり、

雜載

〔禁秘御抄〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 一可凡賤
天子者殊可御身劣、是難筆端事也、假令供御之供膳、聽色女房、又典侍不善惡之、前典侍ナドノ非當職類ハ、無何著禁色參、不御陪膳、公卿藏人頭無憚、四位侍臣、晝御膳參之上、雖憚可其人、無何不用、南殿之儀、采女雖陪膳、只時不之、同事也、亂遊之時ナドハ如湯、無何進事、少々近代有之歟、尤不然予時ハ少々如此、可之、家嗣、宣經などハ時々候陪膳、有何事乎、於女房者、典侍不及輩、一度モ不之、御持僧ハ聽之歟、但近代無其儀、其も貴種人ハ可之歟、鳥羽院御時、行尊僧正夙夜祗候、定候御陪膳歟、炎上時取劒璽、さほどの事時ハ、雖甚忌沙汰後被謝申、御裝束などにハ不手、御衣ハ内侍已上聽之、然而正候御裝束、同御陪膳、徂侍臣ハ聽之、其近衞司など也、六位藏人不御衣之由在舊記、況於御裝束、乎、而間々有之、其儀可之、所衆瀧口乍地下近候習也、但御口移、御手移不然、堀川院御時、樂人等偏無便之由、匡房大難、尤不然事也、凡卑限六、位藏人下﨟女房也、有藝者依其事近召事近代多、如寬平遺誡、不然、況如猿樂庭上、可止事也、村上御宇爲平親王子日時、布衣輩渡御前、延喜御時、京中上鞠者被仁壽殿東庭、如此例雖多、不有尋常事也、但樂人隨身聽之、宿仕人其モ可事樣、舊記布衣者入禁中、公卿雜色一人聽之、宿仕人爲陪膳、靑侍一人聽之云々、是不近代法、但前駈侍雜色不日月花門内、近代如此、爲衞府者、女御后御方ニモ聽之、文官ハ衣冠也、殿上逍遙渡北陣、頭巳下至于所衆瀧口之、瀧口勿論、所衆ハ雖末代參、〈布衣時也、〉下御庭上事、如御拜時者無憚、准之建久以後敷弘席蹴鞠興、是後悔其一也、賢所入御之時ハ常事也、付興遊、凡卑殊不然事歟、内々習禮等、白地主上不臣下、高倉院御時、張兒爲主上、不吉事云々、況御身爲臣下、大禁事也、無左右簾外万人事、能々不然、乍簾中之條、在寬平遺誡、但幼主時如此事不制申、但下劣事、返々可用意、無何疊、御座、尤不然、近代〈建久以後〉御小袖、赤大口、常御貌也、誠長袴二衣不相應歟、堀川院御時までハ、白地渡御座、乘船ハ大井川行幸用倚子、然舟中倚 子有猶豫、鳥羽御乘船〈堀川〉用平鋪座、倚子在御座邊、近代ハ勿論歟、内々御行歩必不晝御座御釖、内々用他御釖、近頃作法是非咎歟、如御草鞋、六位奉仕雖例、非普通事

〔異本枕草紙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 いやしげなる物
式部のぞうの尺、黑きかみのすぢあしき、くろぬりのだい、むしろばりのくるまのおそひ、しげううちたる、ぬの屛風のあたらしき、ふりくろみたるは、なか〳〵なにともみえずなどして、いうどりゑがきたるが、さみゆるなり、やりど、づし、いよすのすぢふとぎ、ゐなかこぼうしのふとりたる、まことのいづもむしろのたゝみ、ゆげいのすけのかりぎぬすがた、

〔徒然草〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 いやしげなる物(○○○○○○○)の、居たるあたりに、調度のおほき、硯に筆のおほき、持佛堂に佛のおほき、前栽に石草木のおほき、家のうちに子孫のおほき、人にあひて詞のおほき、願文に作善おほく書のせたる、


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:22