p.0568 賤ハ、イヤシト云フ、貴ニ對スルノ稱ニシテ、身分ノ低キモノヲ謂フナリ、我國往古平民ニシテ、特ニ族姓ノ賤シキモノアリ、之ヲ賤民ト穩一、ス、事ハ政治部賤民篇ニ在リ、宜シク參看スベシ、
p.0568 賤〈イヤシ ミシカシ〉 賤〈音餞 イヤシヤスシ 和仙〉
p.0568 賤〈イヤシ輕〉 苟 恛 鄙 苪 卑〈尊卑〉 微 俚 民 恡 窟 陋 蕞〈蕞苪小貌〉俾 得 頩 菓 廝 頑 衡 汭 竄 俳 醜 嚕 窶 亞〈疋文〉 固下 偷 野 劣〈已上イヤシ〉
p.0568 いやし 鄙又卑賎をよめり、彌下の義なるべし、日本紀に微をもよみ、靈異記に斯下をよみたり、
p.0568 二十七年十二月、到二於熊襲國一、〈○中略〉川上梟帥啓之曰、汝尊誰人也、對曰、吾是大足彦天皇之子也、名日本童男也、川上梟帥亦啓之曰、吾是國中之强力者也、是以當時諸人、不レ勝二我之威力一、而無二不レ從者一、尚多過二武力一矣、未レ有下若二皇子一者上、是以賤賤(イヤシキヤツノコ)〈○賤賤、一本作二賤賊一、〉陋口(イヤシキ)以奉二尊號一、〈○下略〉
p.0568 同〈○和銅〉二年五月に、新羅の使さま〴〵の物をあひぐして參れりしに、不比等その使にあひ給ひにき、昔より執政大臣のあふ事は、いまだなき事也、しかれどもこの國のむつまじき事をあらはするより、との給ひしかば、使ども座をさりて拜し奉りて、うるはしく又座につきて、使どもは本國のいやしきものどもなり、王の仰をかうぶりて、いまみやこにまいれり、さいはいの はなはだしきなり、しかるにかたじけなくあひまみえたてまつりぬ、悦おそるゝ事かぎりなしと申しき、國王大臣も、ときにしたがひて、ふるまひ給ふべきにこそ、此ころならばかたおもぶきに、異國の人に一の人のあひ給ふはなき事なり、などそそしり申されし、
p.0569 行基菩薩は和泉國の大鳥の里にすまれ、弘法大師は、讚岐國多度津郡より出給へり、皆是邊鄙の民間をはなれずといへども、各權者の名を顯し給へり、吉備大臣は左衞門尉國勝之子也、粟田左大臣は但馬守有賴が息にて、二人ながら其父賤しけれども、才能を賞せられしかば、大臣のやむごとなき官になられにき、
p.0569 建曆二年九月廿八日、年來靑侍遠江守能直〈去年爲二家令一〉去七月廿日比依二痢病氣一申レ暇退出、八月十三日出家、十六日死去之由下人吿レ之、今年七十六云々、雖レ不レ異二鳥跡一如レ形書二眞名一、適書二寫文書一及二數百卷一、雖二卑賤老翁一、思二此恩一足二悲泣一、
p.0569 元亭釋書の著者虎關禪師は、其父微官なりしかば、小僧の時、官家の童子達と群遊ぶのついで、其父の微官なるを耻かしめんとて、各其系譜をいひて、此溝をこゆべしといへり、皆大中納言の息なりしかばなり、虎關こゝうえて、大聖釋迦佛の法孫師鍊と、高らかに呼はりて、一番に飛越たれば、皆いふことなくて止みしとぞ、
p.0569 畿内近國一揆所々騷動事
同年〈○享祿五年〉ノ秋、和州ノ一揆等勃興シテ、當國高取ノ城ヲ攻ケレドモ、城主越智ノ某、隨分防戰テ、終ニ一揆ヲ追拂フ、同十月、南都ノ町中一揆ヲ企テ、僧房ヲ燒立ケレバ、南房ヨリ此返報トテ、又町中ヲ燒拂フ、一揆ノ大將ハ、一向宗ノ門徒鴈金屋願了、同餘五郎ト云者也、角テ當國宇多郡吉野、伊賀國名張ノ一揆等悉組合テ、伊勢國エ亂入ス、國司北畠晴具是ヲ防ギ留ント有ケルニ、老臣等思案シテ、懸ル賎キ土民ノ奴原、當家歷々ノ侍計ヲ差向テ、防カスベキ事、本意ニ非ズ、其損寡カラズ トテ、當國山田ノ庄ノ穢多非人ヲ相催シ、乞食多勢ニ、紙小旗ヲ差連サセ、其旗一樣ニ穢多ト云字ヲ書付テ、武士ノ眞先エ押立、進マセケル程ニ、流石和州ノ一揆共モ、此小旗ノ文字ヲ見テ、イカナル賤キ我々ニテモ、穢多非人ヲ相手ニシ、合戰ハ成マジトテ、其ヨリ散々ニ成ケル處ヲ、先ノ穢多ヲ押除テ、跡ヨリ武士共進出、一揆ヲ追驅追詰テ、悉ク討捕退治シケリ、
p.0570 太閤秀吉、聚樂の屋形におゐて、伽衆餘多雜談の節、伽衆の中ゟ、世間に、親に生レ增たる子と申は、希成物ニ而候との義を、秀吉聞給ひて、身共抔も其通也と被レ申候へば、伽衆何も合點致兼候所に、權現樣〈○德川家康〉ニハ、いかにも仰の通りに候との御挨拶ニ付、秀吉御申候は、中納言には御合點と相見へ候、先御だまり有べく候、何もハ何と有レ之候へば、伽衆何も得合點不レ仕と申、秀吉重ねて仰候ハ、説等親共の義ハ、定而何も聞及有べし、家來を召仕ふ事も不レ成樣成微賎の者に候得共、身共を子に得持候、我等は親に生レ劣り、子に事を欠候と被レ申候と也、
p.0570 これよりさき、大人花咲松と云ふ書をあらはす、こは南朝長慶院と後龜山院との御位の事を論ぜり、萬〈○立原〉いまだ其説に服はず、問答あまたたびになりて、萬つひに其いふ所をよしとす、これによりて、いよ〳〵大人をすゝめて、このよせあることを得たり、そのをりに、萬の同僚みないさめていひけらく、國史はわが先君の修むる所なり、瞽者をしてその事にあづからしむる、これ我等が恥にはあらずや、むべそのことをとゞむべしと、萬うけずしていふよう、その人の盲たるは病なり、尊卑のいたすところにあらず、然れども常にいはゆる盲人は、世のもてあそびぐさとなる事を勤とす、この故にいやしまれざることかたし、塙は文學を業とし、人多く師の禮をいたして來り學ぶ、其説も又取るべきが多し、さらばいかでか明不明のへだてあるべきや、もし國史の校正にあづかりて補ふ所なくば、萬其罪をかうぶりなんといらへしかば、ついに其事なりにけり、
p.0571 一可レ遠二凡賤一事
天子者殊可レ被レ止二御身劣一、是難レ盡二筆端一事也、假令供御之供膳、聽レ色女房、又典侍不レ論二善惡一候レ之、前典侍ナドノ非二當職一類ハ、無レ何著二禁色一雖レ參、不レ可レ及二御陪膳一、公卿藏人頭無レ憚、四位侍臣、晝御膳參之上、雖レ無レ憚可レ選二其人一、無レ何不レ可レ用、南殿之儀、采女雖レ爲二陪膳一、只時不レ可レ用レ之、同事也、亂遊之時ナドハ如レ湯、無レ何進事、少々近代有レ之歟、尤不レ可レ然予時ハ少々如レ此、可レ止レ之、家嗣、宣經などハ時々候二陪膳一、有二何事一乎、於二女房一者、典侍不レ及輩、一度モ不レ聽レ之、御持僧ハ聽レ之歟、但近代無二其儀一、其も貴種人ハ可レ聽レ之歟、鳥羽院御時、行尊僧正夙夜祗候、定候二御陪膳一歟、炎上時取二劒璽一、さほどの事時ハ、雖二甚忌一有二沙汰一後被二謝申一、御裝束などにハ不レ可レ懸レ手、御衣ハ内侍已上聽レ之、然而正候二御裝束一、同二御陪膳一、徂侍臣ハ聽レ之、其近衞司など也、六位藏人不レ取二御衣一之由在二舊記一、況於二御裝束一、乎、而間々有レ之、其儀可レ止レ之、所衆瀧口乍二地下一近候習也、但御口移、御手移不レ可レ然、堀川院御時、樂人等偏無レ便之由、匡房大難、尤不レ可レ然事也、凡卑限二六、位藏人下﨟女房一也、有レ藝者依二其事一近召事近代多、如二寬平遺誡一、不レ可レ然、況如二猿樂一參二庭上一、可レ止事也、村上御宇爲平親王子日時、布衣輩渡二御前一、延喜御時、京中上鞠者被レ召二仁壽殿東庭一、如レ此例雖レ多、不レ可レ有尋常一事也、但樂人隨身聽レ之、宿仕人其モ可レ依二事樣一、舊記布衣者入二禁中一、公卿雜色一人聽レ之、宿仕人爲二陪膳一、靑侍一人聽レ之云々、是不レ叶二近代法一、但前駈侍雜色不レ入二日月花門内一、近代如レ此、爲二衞府一者、女御后御方ニモ聽レ之、文官ハ衣冠也、殿上逍遙渡二北陣一、頭巳下至二于所衆瀧口一同レ之、瀧口勿論、所衆ハ雖二末代一不レ參、〈布衣時也、〉下二御庭上一事、如二御拜時一者無レ憚、准レ之建久以後敷二弘席一有二蹴鞠興一、是後悔其一也、賢所入御之時ハ常事也、付二興遊一、凡卑殊不レ可レ然事歟、内々習禮等、白地主上不レ爲二臣下一、高倉院御時、張兒爲二主上一、不吉事云々、況御身爲二臣下一、大禁事也、無二左右一出二簾外一見二万人一事、能々不レ可レ然、乍二簾中一之條、在二寬平遺誡一、但幼主時如レ此事不レ能二制申一、但下劣事、返々可レ有二用意一、無レ何疊、御座、尤不レ可レ然、近代〈建久以後〉御小袖、赤大口、常御貌也、誠長袴二衣不二相應一歟、堀川院御時までハ、白地渡二御座一、乘船ハ大井川行幸用二倚子一、然舟中倚 子有二猶豫一、鳥羽御乘船〈堀川〉用二平鋪座一、倚子在二御座邊一、近代ハ勿論歟、内々御行歩必不レ用二晝御座御釖一、内々用二他御釖一、近頃作法是非レ得レ咎歟、如二御草鞋一、六位奉仕雖レ有レ例、非二普通事一、
p.0572 いやしげなる物
式部のぞうの尺、黑きかみのすぢあしき、くろぬりのだい、むしろばりのくるまのおそひ、しげううちたる、ぬの屛風のあたらしき、ふりくろみたるは、なか〳〵なにともみえずなどして、いうどりゑがきたるが、さみゆるなり、やりど、づし、いよすのすぢふとぎ、ゐなかこぼうしのふとりたる、まことのいづもむしろのたゝみ、ゆげいのすけのかりぎぬすがた、
p.0572 いやしげなる物(○○○○○○○)の、居たるあたりに、調度のおほき、硯に筆のおほき、持佛堂に佛のおほき、前栽に石草木のおほき、家のうちに子孫のおほき、人にあひて詞のおほき、願文に作善おほく書のせたる、