p.1100 慈ハ又慈愛ト云ヒ、之ヲイツクシムト訓ズ、父母ノ其子ヲ鐘愛スルヲ謂フナリ、
p.1100 慈〈材玆反ウツクシヒ〉
p.1100 嚴〈イツクシム〉 慈 悲 嶮 仁 恩 惠 㽵 孚 〈已上イツクシム〉
p.1100 慈(イツクシミ)
p.1100 慈愛(ジアイ)
p.1100 いつくしむ 仁をよめり、痛く惜むの義成べし、人の全德は仁愛の心にあり、万葉集に、愛をうつくしとよめるも音意通ぜり、
p.1100 此時伊邪那岐命大歡喜詔、吾者生二生子一而於二生終一、得二三貴子一、卽其御頸珠之玉緖母由良邇〈此四字以レ音、下效レ此、〉取由良迦志而、賜二天照大御神一而詔之、汝命者所二知高天原一矣、事依而賜也、故其御頸珠名謂二御倉板擧之神一、〈訓二板擧一云二多那一〉次詔二月讀命一、汝命者所二知夜之食國一矣、事依也、〈訓レ食云二袁須一〉次詔二建速須佐之男命一、汝命者所二知海原一矣、事依也、
p.1100 於レ是素戔鳴神欲レ奉レ辭二日神一〈天照大神〉昇レ天之時、櫛明玉命奉迎、獻以二瑞八坂瓊之曲玉一、素戔鳴神受レ之轉奉二日神一、仍共約誓、卽感二其玉一生二天祖吾勝尊一、是以天照大神育二吾勝尊一、特甚鍾愛(メゲントオボシテ)、常懷二腋下一、稱曰二腋子(ワキゴ)一、〈今俗號二稚子一謂二和可古一、是其轉語也、〉
p.1101 四十八年正月戊子、天皇勅二豐城命活目尊一〈○垂仁〉曰、汝等二子慈愛(ウツクシヒ)共齊、不レ知二曷爲一レ嗣、各宜レ夢、朕以レ夢占之、
p.1101 五十三年八月丁卯朔、天皇詔二群卿一曰、朕顧二愛子(メクミシコ)一何日止乎、冀欲レ巡二狩小碓王〈○四十年、日本武尊薨、〉所レ平之國一、是月乘輿幸二伊勢一、轉入二東海一、
p.1101 四十年正月戊申、天皇召二大山守命、大鷦鷯尊一、〈○仁德〉問之曰、汝等者愛レ子(ウツクシヤ)耶、對言甚愛也、亦問之、長與レ少孰尤焉、大山守命對言、不レ逮二于長子一、於レ是天皇有二不レ悦之色一、時大鷦鷯尊預察二天皇之色一、以對言、長者多經二寒暑一旣爲二成人一、更無レ悒矣、唯少子者、未レ知二其成不一、是以少子甚憐之、天皇大悦曰、汝言寔合二験之心一、是時天皇、常有下立二菟道稚郎子一爲二太子一之情上、然欲レ和二二皇子之意一、故發二是問一、是以不レ悦二大山守命之對言一也、
p.1101 六年十一月、膳臣巴提便還レ自二百濟一言、臣被レ遣レ使妻子相逐去衽至二百濟濱一、〈濱海濱也〉日晩停宿、小兒忽亡不レ知レ所レ之、其夜大雪、天曉始求、有二虎連跡一、臣乃帶レ刀援レ甲、尋至二巖岫一、拔レ刀曰、敬受二絲綸一劬二勞陸海一、櫛風沐雨、藉レ草班レ荆者、爲下愛二其子一令上レ紹二父業一也、惟汝威神愛レ子一也、今夜兒亡、追跡覓至、不レ畏レ亡レ命、欲レ報故來、旣而其虎進レ前開レ口欲レ噬、巴提便忽申二左手一、執二其虎舌一、右手刺殺、剝二取皮一還、
p.1101 神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上〈○中略〉
思二子等一歌一首幷序
釋迦如來金口正説、等思二衆生一如二羅喉羅一、又説愛無レ過レ子、至極大聖尚有二愛レ子之心一、況乎世間蒼生誰不レ愛レ子乎、
宇利波米婆(ウリハメバ)、胡藤母意母保由(コドモオモホユ)、久利波米婆(クリハメバ)、麻斯提斯農波由(マシテシヌバユ)、伊豆久欲利(イヅクヨリ)、枳多利斯物能曾(キタリシモノゾ)、麻奈迦比(マナカヒ)爾(ニ)、母等奈可可利提(モトナカカリテ)、夜周伊斯奈佐農(ヤスイシナサヌ)、
反歌 銀母(シロガネモ)、金母玉母(コカネモタマモ)、奈爾世武爾(ナニセムニ)、麻佐禮留多可良(マサレルタカラ)、古爾斯迦米夜母(コニシカメヤモ)、〈○中略〉
戀男子名古日歌三首〈長一首短二首〉
世人之(ヨノヒトノ)、貴慕(タフトミネガフ)、七種之(ナヽクサノ)、寶母我波(タカラモワレハ)、何爲(ナニセンニ)、和我中能(ワガナカノ)、産禮出有(ウマレイデタル)、白玉之(シラタマノ)、吾子古日者(ワガコフルヒハ)、明星之(アカボシノ)、開朝者(アクルアシタハ)、敷多倍乃(シキタヘノ)、登許能邊佐良受(トコノベサラズ)、立禮杼毛(タテレドモ)、居禮杼毛(ヲレドモ)、登母爾戯禮(トモニタハブレ)、夕星乃(ユフホシノ)、由布幣爾奈禮婆(ユフベニナレバ)、伊射禰余登(イザネヨト)、手乎多豆佐(テヲタヅサ)波利(バリ)、父母毛(チヽハヽモ)、表者奈佐我利(ウヘハナサカリ)、三枝之(サキクサノ)、中爾乎禰牟登(ナカニヲネムト)、愛久(ウツクシク)、志我可多良倍婆(シガカタラヘバ)、何時可(イツレカ)、毛比等等奈理伊氐(モヒトヽナリイデ)天(テ)、安志家口毛(アシケクモ)、與家久母見牟登(ヨケクモミムト)、大船乃(オホフネノ)、於毛比多能無爾(オモヒタノムニ)、於毛波奴爾(オモハヌニ)、横風乃(ヨコカゼノ)、爾母布敷可爾(ニモシクシクカニ)、覆來禮(オホヒキヌレ)婆(バ)、世武須便乃(セムスベノ)、多杼伎乎之良爾(タドキヲシラニ)、志路多倍乃(シロタヘノ)、多須吉乎可氣(タスキヲカケ)、麻蘇鏡(マホカヾミテ)、氐爾登利毛知氐(ニトリモチテ)、天神(アマツカミ)、阿布藝許(アフギコ)比乃美(ヒノミ)、地祇(クニツカ)、布之底額拜、可加良受毛(カヽラズモ)、可賀利毛神乃(カカリモカミノ)、末爾麻仁等(マニマニト)、立阿射里(タチアサリ)、我乞能米登(ワガコヒノメド)、須臾毛(シバラクモ)、余家(ヨケ)久波奈之爾(ケハナシニ)漸々(ヤウヤクニ)、可多知都久保里(カタチツクホリ)、朝朝(アサナアサナ)、伊布許登夜美(イフコトヤミ)、靈剋(タマキハル)、伊乃知多延奴禮(イノチタエヌレ)、立乎杼利(タチヲドリ)、足須里佐家(アシズリサケ)婢(ビ)、伏仰(フシアフギ)、武禰宇知奈氣吉(ムネウチナゲキ)、手爾持流(テニモタル)、安我古登姿之都(アガコトバシツ)、世間之道(ヨノナカノミチ)、
反歌
和可家禮婆(ワカケレバ)、道行之良士(ミチユキシラジ)、末比波世武(マヒハセム)、之多敝乃使(シタベノツカヒ)、於比氐登保良世(オヒテトホラセ)、布施於吉氐(ヌサオキテ)、吾波許比能武(ワレハコヒノム)、阿射無加受(アザムカズ)、多太爾卛去氐(タダニイユキテ)、阿麻治思良之米(アマヂシラシメ)、
右一首作者未レ詳、但以裁レ歌之體、似二於山上之操一、載二此次一焉、
p.1102 天平五年癸酉、遣唐使舶發二難波一入レ海之時、親母贈レ子歌一首〈幷〉短歌、秋芽子乎(アキハギヲ)、妻問鹿許曾(ツマトフカコソ)、一子二子(ヒトツコフタツゴ)、持有跡五十戸(モタリトイへ)、鹿兒自物(カコジモノ)、吾獨子之(ワガヒトリコノ)、草枕(クサマクラ)、客二師往者(タビニシユケバ)、竹珠乎(タケタマヲ)、密貫垂(シヾニヌキタレ)、齋戸爾(イハヒベニ)、木綿取四手而(ユフトリシデヽ)忌日管(イハヒヅヽ)、吾思吾子(ワガオモフアコ)、眞好去有欲得(マサキクアリコソ)、
反歌
客人之(タビビトノ)、宿將爲野爾(ヤドリセムノニ)霜降者(シモフラバ)、吾子羽裹(ワガコハグクメ)、天乃鶴群(アマノツルムラ)、
p.1102 むかし男有けり、身はいやしながら、母なん宮成ける、その母なが岡といふ所に住給 ひけり、子は京に宮づかへしければ、まうづとしけれど、しば〳〵えまうでず、ひとつ子にさへ有ければ、いとかなしうし給ひけり、さるにしはすばかりに、とみの事とて御文あり、おどろきてみれば、歌あり、
老ぬればさらぬ別の有といへばいよ〳〵みまくほしき君かな
p.1103 土佐守紀貫之子死讀二和歌一語第四十三
今昔、紀貫之ト云歌讀有ケリ、土佐守ニ成テ其國ニ下テ有ケル程ニ任畢リ、年七ツ八ツ許有ケル男子ノ形チ嚴カリケレバ、極ク悲ク愛シ思ケルガ、日來煩テ墓无クシテ失セニケレバ、貫之无二限リ一此ヲ歎キ泣キ迷テ、病付許思焦ケル程ニ、月來ニ成ニケレバ任ハ畢又、此テノミ可レ有キ事ニモ非ネバ、上ナムト云程ニ、彼兒ノ此ニテ此彼遊ビシ事ナド思ヒ被レ出テ、極ク悲ク思エケレバ、柱ニ此ク書付ケリ、
ミヤコヘト思フ心ノワビシキハカヘラヌ人ノアレバナリケリ、上テ後モ其ノ悲ノ心不失テ有ケル、其ノ館ノ柱ニ書付タリケル歌ハ、今マデ不レ失テ有ケリトナム語リ傳ヘタルトヤ、
p.1103 太政大臣の左大將にて、すまひのかへりあるじし侍ける耳、中將にてまかりて、 事をはりて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人、二三人ばかりとゞめて、まらう どあるじさけあまたたびの後、ゑひにのりて、こどものうへなど申けるつゐでに、
兼輔朝臣
人のおやの心はやみにあらねども子を思ふみちにまどひぬるかな
p.1103 左大臣仲平、このおとゞ、これもとつねの次郎、〈○中略〉貞信公〈○藤原忠李〉よりは御兄にあたらせ給へど、廿年まで大臣になりをくれ給へりし、つゐになりたまへれば、おほきおとゞの御よろこびの歌、 をそくとくつゐにさきぬるむめの花たがうへをきしたねにかあるらん、やがてその花をかざして、御對面よろこび給へる、ひさしのだいきやうせさせ給ひけるにも、よこざまにすへさせ給ひけるこそ、としごろすこしかたはらいたく、おぼされける御心とけて、いかにかたみにこゝろゆるし給へりけんと、御あはれびめでたけれ、
p.1104 小式部内侍なくなりて、むまとどもの侍けるをみてよみ侍ける、
いづみしきぶ
とゞめをきて誰を哀とおもふらんこはまさるらんこはまさりけり
p.1104 帥前内大臣〈○藤原伊周〉あかしに侍ける時、かなしみてやまひになりてよめる、
高内侍〈○伊周母〉
よるのつる都の内にこめられて子をこひつゝもなき明すかな、
p.1104 藤原實方朝臣於二陸奧國一讀二和歌一語第三十七
今昔、藤原實方朝臣ト云フ人有ケリ、小一條ノ大將濟時ノ大納言ト云ケル人ノ子也、〈○中略〉此ノ實方中將、愛シケル幼キ子ニオクレタリケル比、无二限リ一戀悲テ寢タリケル夜ノ夢ニ、其兒ノ見エタリケレバ、驚キ覺テ後此ナム、
ウタヽネノコノヨノユメノハカナキニサメヌヤガテノイノチトモガナ、トナム云テ、泣々戀ヒ悲ビケル、〈○中略〉
大江匡衡妻赤染讀二和歌一語第五十一
今昔、大江匡衡ガ妻ハ、赤染ノ時望ト云ケル人ノ娘也、其ノ腹ニ擧周ヲバ産マセタル也、其ノ擧周長ジテ文章ノ道ニ止事无カリケレバ、公ニ仕リテ遂ニ和泉守ニ成ニケリ、其國ニ下ケルニ、母ノ赤染ヲモ具シテ行タリケルニ、擧周不二思懸一身ニ病ヲ受テ、日來煩ケルニ、重ク成ニケレバ、母ノ赤 染歎キ悲テ、思遣ル方无カリケレバ、住吉明神ニ御幣ヲ令レ奉テ、擧周ノ病ヲ祈ケルニ、其御幣ノ串ニ書付テ奉タリケル、
カハラムトオモフ命ハヲシカラデずテモワカレンホドゾカナシキ、ト其ノ夜遂ニ愈ニケリ、
p.1105 熊谷父子寄二城戸口一幷平山同所來附成田來事
直實ハ小次郎ヲ矢前ニアテジト、鎧ノ袖ヲカザシテ立隱セバ、直家ハ父ヲ孚テ、前ニ進テ箭面ニ立、武心ノ中ニモ、親子ノ情ゾ哀ナル、
p.1105 二度のかけの事
かぢ原五百よき、いく田の森のさかも木をとりのけさせて、城の内へおめいてかく、〈○中略〉かぢ原〈○景時〉らうどう共に、源太〈○景季、景時子、〉はいかにととひければ、あまりにふか入して、うたれさせ給ひて候やらん、はるかに見えさせ給ひ候はずと申ければ、かぢ原なみだをはら〳〵とながひて、いくさのさきをかけうと思ふも、子共がため、源太うたせて、かげ時いのちいきても、何にかはぜんなれば、返やとて又取て返す、〈○中略〉かぢ原を中に取こめて、我うつとらんとぞすゝみける、梶原まづ我身の上をばしらずして、源太は何くに有やらんと、かけわりかけまはりたづぬる程に、あんのごとく源太は、馬をもいさせ、かち立になり、かぶとをもうちおとされ、〈○中略〉こゝをさいごとせめたゝかふ、かぢ原是をみて、源太はいまたうたれざりけりと、うれしう思ひ、いそぎ馬よりとむでおり、いかに源太、かげ時こゝに有、同うしぬる共、かたきにうしろを見すなとて、おやこして五人のかたき三人うつ取、二人に手おふせて、弓矢取はかくるもひくも、おりにこそよれ、いざうれ源太とて、かいぐしてぞ出たりける、梶原が二度のかけとは是なり、
p.1105 大臣殿舍人附女院移二吉田一幷賴朝叙二二位一事
大路ヲ渡シテ後ハ、〈○平宗盛等〉判官〈○源義經〉ノ宿所六條堀川ヘゾ被レ遣ケル、物マカナヒタリケレ共、露見 モ入給ハズ、互ニ目ヲ見合テ、タゞ涙ヲノミゾ流シ給ケル、夜ニ入ケレ共、裝束モクツロゲズ、袖片敷テ臥給ヘリ、曉方ニ板敷ノキシリ〳〵ト鳴ケレバ、預ノ兵奇テ、幕ノ隙ヨリ是ヲ見レバ、内大臣〈○平宗盛〉子息ノ右衞門督〈○淸宗〉ヲ搔寄テ、淨衣ノ袖ヲ打キセ給ケリ、右衞門督ハ今年十七歲也、寒サヲ勞給ハントテ也、熊井太郎、江田源三ナド云者共是ヲ見テ、穴糸惜ヤアレ見給へ殿原、恩愛ノ慈悲バカリ、無慙ノ事ハアラジ、アノ身トシテ單ヘナル袖ヲ打キセ給タラバ、イカ計ノ寒ヲ禦ベキゾヤ、責テノ志カナトテ、猛キモノゝフナレ共、皆袖ヲ絞ケリ、
p.1106 むかしかべのなかより、もとめいでたりけんふみ〈○孝經〉の名は、今の世の人の子は、夢ばかりも身のうへのことゝは、しらざりけりな、みづぐきのをかのくずは、かへす〴〵もかきをくあと、たしかなれども、かひなきものは、おやのいさめなりけり、〈○中略〉道〈○和歌〉をたすけよ、こをはぐゝめ、のちの世をとへとて、ふかき契りをむすびをかれし、ほそ川のながれも、ゆへなくせきとどめられしかば、跡とふのりのともし火も、道をまもり、家をだすけむおやこの命も、もろともにきえをあらそふとし月をへて、あやうく心ぼそきながら、なにとしてつれなくけふまでは、ながらふらん、おしからぬ身ひとつは、やすく思ひすつれども、子を思ふ心のやみは、なをしのびがたく、道をかへりみる恨は、やらんかたなく、さても猶あづまのかめの鏡にうつさむは、くもらぬかげもやあらはるゝと、せめて思ひあまりて、よろづのはゞかりをわすれ、身をようなき物になしはてゝ、ゆくりもなく、いざよふ月にさそはれいでなんとぞ思ひなりぬる、
p.1106 阿佛ハ平時忠ノ一門ノ女也、安嘉門院ノ衞門佐ト云、後ニハ四條トモ云、嫁二爲家一而生二爲相一、爲氏ハ宇津宮彌三郎賴綱ノ女之腹也、爲氏ハ兄也、爲家末後、播磨ノ越部ノ庄ヲ爲相ニ讓ル、爲相幼少ノ故ニ、爲氏是ヲ押領ス、於レ是阿佛鎌倉へ下リ是ヲ訴フ、此時爲氏是ヲ爲相ニカヘス、
p.1107 昔今人子ヲ悲メル事モ、歌ニテ申スベシ、
人ノ親ノ心ハ闇ニアラネ共子ヲ思フ道ニ迷ヒヌル哉 中納言兼輔
五月(後拾遺)闇子戀森ノ郭公人知ズノミ鳴ワ夕ル哉 藤原兼房
孩キ(月詣集)我子ヲナヽノ里ニ置テ今夜ノ月ニ面影ゾ立 藤原基俊
雛鶴ノ花ノ林ニ入ヌレバ飛立マデニ嬉シカリケリ 太宰大貳重家
子ヲ思道ヲゾ祈ル皇ニ仕フル跡ヲタガヘザラナン 中納言雅賴
是程志深ク淺カラヌ親ノ爲ニ、孝養報恩セン人ハ、イカヾ懺悔トナラズモ侍ラン、實ニ志ノ深キ事ハ、親ノ子ヲ思ニハ過ズ、
附悌〈不悌倂入〉
悌ハシタガフト訓ズ、卽チ弟ノ能ク其兄ニ敬事スルヲ謂フナリ、而シテ兄ノ善ク其弟ヲ惠 ミ、或ハ兄弟互ニ相愛セシ事蹟ノ如キ、亦此ニ倂載セリ、
p.1107 悌〈ヤスシ シタカフ音弟〉 〈音弟、兄悌、〉
p.1107 義〈○中略〉
兄タル人ハ、ヲトヲトニタイシ、ヤハラグガヨロシキ處ゾ、弟タルモノハ、兄ニシタガフハヨロシキ處ゾ、孟子ニ義之實從レ兄是也ト云テ、ヲトヲトタルモノハ、兄ニシタガフモノゾ、サルホドニ義ト云モノノ眞實ハ、兄ニシタガフヲ云ト、孟子ノイハレタゾ、
p.1107 師〈○貝原益軒〉曰、〈○中略〉弟は悌をもて兄につかふる道とす、悌は敬ひしたがふとくなり、他人のとしおい、くらゐたかきにつかふるも、おなじことはりなり、他人にても老たるをうやまふは、道理の當然なり、ましておやの身をわけて、我にさきだちてうまれたる兄を、うやまひしたがふべきこともちろんなり、兄は惠をもつて、おとくをひきゆる道とす、惠は友愛の二義をかね たり、愛はおやの子を愛するごとくに、ねんごろに親を云、友はともだちのたがひに切磋琢磨するごとく、道ををしへあやまちをいましめ、至德をあきらかにする樣に善をせむるを云、他人のとしわかきくらゐいやしきにまじはるも、おなじことはりなり、他人にてもいとけなきに惠をほどこし、賤になさけふかくするは、道理の當然なり、まして弟はおやの身をわけて、分形連氣の人なれば、友愛の惠をほどこすべき事勿論の義なり、この道理あきらかにして、おこなひがたき事ならねども、世上のまよへる人をみれば、多分兄弟のあひだ、他人よりもおろそかなり、わづかのよくのあらそひにてがたきの思ひをむすぶもあり、分形連氣のことはりをしらず、わが身にて我身をそこなふありさま、愚痴の至極あさましき事なるべし、おなじくおやの身を分て生れたるものなれども、先後の序によつて、兄はたつとく、弟はいやしき衣第ありて、惠悌の道序を本としておこなふことはり、天のさだめ給ふ次第にて、をのつからある道なるゆへに、五敎の第四に長幼有レ序と説給へり、
p.1108 五倫の事
一弟は兄をゐやまひて兄をおしのけず、何事も兄のした手に付てさし出ず、兄にしたがふべし、兄のしかたはわろくとも、兄を敬やまひ大切にして、背く事なきを悌といふ、是弟の法なり、
p.1108 凡國守毎レ年一巡二行屬郡一、觀二風俗一、〈○中略〉部内有下好學篤道孝悌(○○)忠信、〈謂(中略)篤道者兼二行孝悌仁義等道一、(中略)然則孝悌仁義旣入二篤道一、而更下文擧二孝悌忠信一者、蓋一一在レ身之謂矣、凡此四者、人之高行、故擧爲二稱首一、○中略〉發二聞郷閭一者上、擧而進レ之、〈○義解略〉有下不孝悌(○○○)、悖レ禮、亂レ常、不レ率二法令一者上、〈○義解略〉糺而繩、
p.1108 三年〈○淸寧〉十二月、百官大會、皇太子億計〈○仁賢〉取二天皇之璽一、置二之天皇之坐一、再拜従二諸臣之位一曰、此天皇之位、有レ功者可二以處一之、著レ貴蒙レ迎、皆弟之謀也、以二天下一讓二天皇一、天皇顧讓以レ弟莫二敢卽一レ位、又奉二白髮天皇一〈○淸寧〉先欲レ傳レ兄、立二皇太子一、前後固辭曰、日月出矣、而爝火不レ息、其於レ光也、不二亦難一矣、時雨 降矣、而猶浸灌、不二亦勞一乎、所レ貴レ爲二人弟一者、奉レ兄謀レ逃 脱難一、照レ德解レ紛、而無レ處也、卽有レ處者非二弟恭之義一、弘計〈○顯宗〉不レ忍レ處也、兄友弟恭不(ウツクジビイヤマフハ)易之典、聞二諸古老一、安自獨輕、皇太子億計曰、白髮天皇以二吾兄之故一、擧二天下之事一而先屬レ我、我其羞之、惟大王道二建利遁一、聞レ之者歎息、彰二顯帝孫一、見レ之者殞レ涙、憫憫搢紳、忻レ荷二戴レ天之慶一、哀哀黔首、悦レ逢二履レ地之恩一、是以克固二四維一、永隆二萬葉一、功隣二造物一、淸猷映レ世、超哉邈矣、粤無二得而稱一、雖二是曰一レ〈○曰原作レ日、據二一本一改、〉兄、豈先處乎、非レ功而據、咎悔必至、吾聞天皇不レ可二以久曠一、天命不レ可二以講拒一、大王以二社稷一爲レ訃、百姓爲レ心、發言慷慨至二于流一レ涕、天皇於レ是知二終不一レ處、不レ逆二兄意一、乃聽而不○不恐衍レ卽二御坐一、世嘉二其能以レ實讓一曰、宜哉、兄弟怡、怡天下歸レ德、篤二於親族一、則民興レ仁、
p.1109 天豐財重日足姫天皇〈○皇極〉四年六月庚戌、天豐財重日足姫天皇思三欲傳二位於中大兄一、〈○天智〉而詔曰云云、中大兄退語二於中臣鎌子連一議曰、古人大兄殿下之兄也、輕皇子〈○孝德〉殿下之舅也方今古人大兄在、而殿下陟二天皇位一、便違二人弟恭遜之心一、且立レ舅以答二民望一不二亦可一乎、於レ是中大兄深嘉二厥議魎下
p.1109 和銅七年十一月戊子、大倭國添下郡人倭忌寸果安、〈○中略〉並終レ身勿レ事、旌二孝義一也、果安孝二養父母一、友二于兄弟一、〈○下略〉
p.1109 延曆十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前國造和氣朝臣淸麻呂薨、〈○中略〉姉廣虫又掌二吐納一、〈○中略〉友于天至、姉弟同レ財、孔懷之義、見レ稱二當時一、
p.1109 將軍〈○源義家〉の舍弟左兵衞尉義光、思はざるに陣に來れり、將軍にむかひていはく、ほのかに戰のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられて、あぶなく侍るよしうけたまはる、身の暇を給ふて、まかりくだりて、死生を見候はんと申上るを、いとまたまはらざりしかば、兵衞尉を辭し申、まかりくだりてなんはべるといふ、義家これをきゝて、よろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の來りたまへるは、故入道〈○源賴義〉の生かへりておはした るとこそおぼえ侍れ、君すでに副將軍となり給はゞ、武衡家ひらがくびをえん事たなこゝうにありといふ、
p.1110 二度のかけの事
むさしの國の住人、河原太郎、河原次郎とて、おとゝひ有、河原太郎、弟の次郎をよふでいひけるは、大名は我と手をおろさね共、家人の高名をもつて名譽す、我らはみづから手をおろさではかなひがたし、かたきを前におきながら、矢一つをだにいずしてまち居たれば、あまりに心もとなきに、高なふは城の中へまぎれ入て一矢いんと思ふ也、されば千万が一つも生て歸らん事有がたし、なんぢは殘りとゞまつて、後のしよう人にたてと云ければ、弟の次郎なみだをはら〳〵とながひて、只兄弟二人有ものが、あにをうたせて、弟があとにのこりとゞまつたればとて、いく程のゑい花をかたもつべき、所々でうたれんより、一所でこそうちじにをもせめとて、下人共よびよせ、さいしのもとへ、さいこの有樣いひつかはし、〈○中略〉城の中へそ入たりける、
p.1110 寬喜三年九月廿七日、日中名越邊騷動、敵打二入于越前守〈○泰時弟〉第一之由、有二其聞一、武州〈○北條泰時〉自二評定座一直令レ向給、相州〈○北絛時房〉以下出仕人々、從二其後一同馳レ駕、而越州者他行、留守侍等、於二彼南隣一、搦二取惡黨一〈自二他所一逃來隱居〉之間、賊徒或令二自殺一、或致二防戰一云云、仍遣二壯士等一、官二路次一被レ歸訖、盛綱諍申云、帶二重職一給身也、縱雖レ爲二國敵一、先以二御使一、聞二食左右一可レ有二御計一事歟、被レ差二遣盛綱等一者、可レ令レ廻二防禦計一、不二事問一令レ向給之條不可也、向後若於二可レ如レ此儀一者、殆可レ爲二亂世之基一、又可レ招二世之謗一歟云云、武州被レ答云、所レ申可レ然、但人之在レ世、思二親類一故也、於二眼前一被レ殺二害兄弟一事、豈非レ招二人之謗一乎、其時者定無二重職詮一歟、武道爭依二人體一哉、只今越州被レ圍レ敵之由聞レ之、他人者處二少事一歟、兄之所レ志不レ可レ違二于建曆承久大敵一云云、于レ時駿河前司義村候レ傍、承レ之拭二感涙一、盛綱垂レ面敬啒云云、義村起レ座之後、參二御所一、於二御臺所一語一此事一、於二同伺候男女二聞レ之者、感歎之餘盛綱之諷詞句、武州陳謝、其理猶在二何方一哉之由、頗及二相論一、遂不レ決レ之云云、越 州聞二此事一、彌以歸往、卽濳載二誓狀、云、至二子子孫一、對二武州流一、抽二無貳忠一、敢不レ可レ插二凶害一云云、其狀一通、遣二鶴岡別當坊一、一通爲レ備二來榮之廢忘一、加二家文書一云云、
p.1111 馬場美濃守、〈○中略〉味方の敗軍の方を打詠め罷在候處に、真田兵部來て、山の下に馬を止、それに見へ給ふは、馬場殿にて候哉と、言葉を懸る、馬場聞て、美濃にて候、貴殿には如何と答へければ、兵部聞て、兄源太左衞門義、引退候と承り候故、手前も退候處に、兄が乘料の馬を、牽返し候付、其口附のものに、相尋候へば、源太左衞門ははや討死仕候と申に付、今朝出勢の砌、討死を遂るに於ては、兄弟一所と申合候付、是まで引返來候、若其許には源太左衞門討死の場をば、知給はずやと申に付、馬場申候は、源太殿討死の場と有レ之は、頓て柵際近き所にての事にて候、其邊へは最早上方勢入込可レ申候間、御越にて及間敷候、我等儀も、此處に於て討死と致二覺悟一罷在候間、一處に可二申合一との返答に任せ、兵部も馬場が側に立雙び罷在候處に、上方勢追々馳來候付、兵部、〈○中略〉討死を相遂候と也、
p.1111 武田信繁
信繁信虎の愛子として、信玄を廢して、信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知たる事なれば、必忌惡むべし、それに國にのこりて信玄につかふるは、危難の場なり、〈○中略〉信繁嫌疑の間に處ながら信玄につかへて、兄弟の間、少しも違言ある事をきかず、〈○中略〉さて川中島にて、討死せられしこそ、尤義にあたりて覺へ侍る、信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの爲に命をおしむべき、されば主辱かしめらるれば、臣死するの義を守て、こゝろよく討死せられしは、誠に見危授レ命といふべし、
p.1111 山梨三郎とんせいの事
世に住侘て、當年の春、江戸へ來り、一所に宿をかり、傭夫と成て、其日々々の身命を送る所に、兄云 州聞二此事一、彌以歸往、卽濳載二誓狀、云、至二于子孫一、對二武州流一、抽二無貳忠一、敢不レ可レ插二凶害一云云、其狀一通、遣二鶴岡別當坊一、一通爲レ備二來榮之廢忘一、加二家文書一云云、
p.1112 馬場美濃守、〈○中略〉味方の敗軍の方を打詠め罷在候處に、眞田兵部來て、山の下に馬を止、それに見へ給ふは、馬場殿にて候哉と、言葉を懸る、馬場聞て、美濃にて候、貴殿には如何と答へければ、兵部聞て、兄源太左衞門義、引退候と承り候故、手前も退候處に、兄が乘料の馬を、牽返し候付、其口附のものに、相尋候へば、源太左衞門ははや討死仕候と申に付、今朝出勢の砌、討死を遂るに於ては、兄弟一所と申合候付、是まで引返來候、若其許には源太左衞門討死の場をば、知給はずやと申に付、馬場申候は、源太殿討死の場と有乏は、頓て柵際近き所にての事にて候、其邊へは最早上方勢入込可レ申候間、御越にて及間敷候、我等儀も、此處に於て討死と致二覺悟一罷在候間、一處に可二申合一との返答に任せ、兵部も馬場が側に立雙び罷在候處に、上方勢追々馳來候付、兵部、〈○中略〉討死を相遂候と也、
p.1112 武田信繁
信繁信虎の愛子として、信玄を廢して、信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知たる事なれば、必忌惡むべし、それに國にのこりて信玄につかふるは、危難の場なり、〈○中略〉信繁嫌疑の間に處ながら信玄につかへて、兄弟の間、少しも違言ある事をきかず、〈○中略〉さて川中島にて、討死せられしこそ、尤義にあたりて覺へ侍る、信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの爲に命をおしむべき、されば主辱かしめらるれば、臣死するの義を守て、こゝろよく討死せられしは、誠に見レ危授レ命といふべし、
p.1112 山梨三郎とんせいの事
世に住侘て蓄年の春、江戸へ來り、一所に宿をかり、傭夫と成て、其日々々の身命を送る所に、兄云 ヘテ三日ニ一度ヅヽ、兄ノ左京大夫方へ參リテ起居ヲ訪フベシ、兄ヲ尊敬スル道也、寒暑風雨ヲ厭フ事勿レ、是弟ニ付ラレタル其身ノ勉メト思フベシ、右京大夫モ左京參リタラバ、隨分是ヲ惠ミ、稽古事モ共々ニ修行セラルベシト敎諭セラル、夫ヨフ左京ハ風雨霜雪ヲ厭ハズ、其日限ヲ違ヘズシテ、馬ニテ往來セラル、
p.1113 丹州兄弟傳
詩云、兄弟旣翁、和藥且湛、言二其親一則爲二同胞一、其不二相離一如二左右手一、故孔懷怡怡莫レ如二兄弟一、豈其尋常哉、丹波國平野邑民有二兄弟一、甲曰二市左衞門一、乙曰二與三郎一、累世貧賤不レ知二其姓氏一、幼而喪二父母一、寄二食於人一、刈レ草代レ養、漸長甲受二父之田畝一、以務二耕耨一、乙亦同居而助二其勞一、毎歲納藏不レ懈、雖永早凶歲一、無二未濟之責一、邑吏田畯皆稱二其精勤一、家唯四壁、鋪レ藁以座、然甲隣乙、乙隨レ甲、同志相睦盡二力於耕一、貢税未レ濟則不レ食二来粒一、或貯二雜穀一、或拾二木實一、以養レ口救レ饑、若幸有レ餘則牧蓄、以爲二來歲之苗種一、猶復有レ餘剿代二木綿一調二衣一、道レ他則甲乙更著レ之、如レ此十餘歲、甲有レ妻有レ子、乙猶鰥也、甲爲レ乙結二草廬一、分二與其田一、甲曰、弟久勞劬可レ取二過半一、乙曰、兄有二妻兒一則多取レ之、我獨身則少分而足矣、相讓而不レ決、遂中二分之一、歷二數歲一甲爲レ乙娶レ妻、分二家産一與二其半一、乙曰、兄多口、我唯ニ口得三分之一一而足矣、甲不レ聽而半二分之一、乙謝レ之受二其一分一、而返二其餘分於兄之妻曰、願以レ是爲二嫂姪煎茶之料一、甲不レ得レ已而如二乙之言一、家有二二牛一、一肥一瘦、甲以二肥者一授レ乙、乙不レ受、甲强而與レ之、乙固辭レ之、隣人聞而諭レ之、遂以レ肥充レ甲、以レ瘦充レ乙而定矣、凡苅レ稻收レ穀、乙畢レ事甲未レ畢レ事則乙牽二己牛一、往二甲之田一助二成之一、且毎レ納レ貢、兄弟倶出入互扶持、若乙所レ納早畢則甲曰、汝其早休、乙諾不レ去、合レ力分レ勞而待二兄之畢一レ事、携レ手同歸、毎二朔望一則乙晨興、拜二於兄之家一、甲煎レ茶而待焉、然後兄弟其往レ田而耦耕、當レ午而休時、甲赴二弟之家一、乙豫使二妻沸一レ茶而待焉、兄未レ來則不三敢畷二其茶一、甲啜後乙亦畷レ之、其友悌愛敬、常常事事可二類而知一焉、平野邑隷二頑地山城一、寬文六年丙午之夏、有レ事二於丹後國宮津一、而城主預レ役而發軫、乙在二征夫之中一、乃託二其妻於甲一悉附二家食一、甲曰、汝能奉レ上而無レ恙而歸、我苟在焉、勿レ勞家事一、乙喜而行 焉、未レ幾宮津之事罷而乙歸、甲喜而返二其餘食一、乙曰、待二來年一而受レ之、甲不レ肯而遂返レ之、於レ是兄弟共不レ懈二於農務一、其歲亦貢税無レ滯、隣里郷黨其歎美、而吿一邑吏一、邑吏具錄事狀一、聞二於城主一、主城殿中 源忠房感レ之嘉レ之、蠲二其課役一、
p.1114 兄弟睦者小左衞門 兄弟睦者淸右衞門
耶麻郡上林村に百姓小左衞門といふものあり、弟を淸右衞門といふ、小左衞門夫婦、その子二人、その妻二人、孫四人、淸右衞門夫婦、その子一人、その妻一人、孫三人、あはせて十七人のもの同居して、いさゝかもあらそふ事なく、妻子の中にもへだてがましき事なく、いづれも我子のごとくいとをしみ、兄よめは弟よめを愛し、弟よめは兄よめをうやまひけり、かく兄弟ともに一所にあれど、子の子の末にもなりなば、家をわかつ事あらんも、はかりがたしとて、其家のつゞきに屋つくりしてうつりしがだがひにはなれすむ事をかなしみ、またもとのごとく居を同じうせしとなん、弟の孫をともなひて田面に出る日は、兄は家にとゞまりゐて、足あらふ湯をまうけ、寒き頃は焚火の類まで何くれと心をつけ、兄弟ともに農事のいとまには紙をすき、市に出ればめづらしきものを求めかへりて、家つとゝす、又は饗應などありてまねかるれば、兄弟たがひにゆづりあひ、弟は兄をしてその招におもむかしめ、をのれは田面に出行に、兄また食の甘を分ちて弟にあたふ、その外郷里に睦しく、あらそふ事などがつてなかりき、里人の水論境論などいへる事あれば、兄弟ともにことはりを引て、その中を和らぐるに、里人も二人の行ひにめでゝ、爭をやめぬ、つねに上をうやまひ、貢物は人より先におさめければ、元祿二年、領主より兄弟のものに、褒美として米をあたふ、
p.1114 石野權兵衞 弟市兵衞
石野權兵衞、弟市兵衞、兄弟は、京師四條坊門西洞院の東に、桔梗家といへる商家也、兄弟ともに學 を好み、堀川の流を慕ふ、且兄はかねて佛學をも好み、殊に三論に通ず、弟は本草に委しく、又畫を能す、又雅藥を好むこと兄弟ともにひとしく、道遠しといへども、音藥ある處といへば必ゆく、友愛深くして、兄の妻ある後も久しく同居す、弟學文などにつきて出る時、夜更て歸るに、戸を敲くことなし、纔に咳するを、兄速に聞つけて戸を開くこと常なり、もし聞つけざれば、門に立て朝に至る、〈○下略〉
p.1115 奇特者なみ
なみは碧海郡上野上村の枝郷なる永覺新郷の百姓喜左衞門の妻なり、天明六年の九月、風あらくふきて、家を打たふしけるに、夫はこれを防がんとて外面にいでゝありければ、その姉の、日ごろやみてふしぬるを、なみひきたてゝ、遁れ出しに、にはか事にて、娘の四ツばかりになるを殘しをき、つゐにおしにうたれて、失てけり、女の身にして、子のあやうきをみすてゝ、やめるものを助けたる甲斐々々しきふるまひ、領主にきこえければ、おなじき八年の十二月といふに、褒美して米をとらせしとぞ、
p.1115 兄弟睦者たつ
三重郡芝田村の氏權平が妹をたつといへり、兄は病おほき者にて、四十年ほど起臥もかなはぬ上に、八年先より目しゐけり、もとより無高者なれば、たつは村のうちをはしり廻り、請作とて人の田畑を耕して世を渡りけるが、家極て貧ければ、たれ聟にならんといふ人もなく、をのれも男にまみえん事をおもひきり、兄の側にのみゐりて、起臥にこゝろをそへ、木綿糸くる業をなし、又は村のいそがはしき時は、近きあたりに雇はれ、その賃をとりて、世わたりの助とし、兄には穀物をたべさせ、己は菜大根の糧ばかりくらひけり、兄は煙草を好めるが、手足かなはずして、きせるさへ持事あたはざれば、人の家にありても、いく度となく歸りきて、その諸用をもたしてけち、冬 の寒きにも、をのれはつゞりだる衣まとへど、兄には綿の入たる物をきせ、夜の衾まで調へてあたへ、雨の夜雪の朝には焚火をし、はるゝ日は日あたりに伴ひ、夏のあつきには木蔭におひゆき、夜は蚊屋り火して眠もやらず付居りしを、村の者も聞てあはれがり、蚊帳をもをくりしとぞ、祝ひ日又は齋非時にまねかれ行ても、主のもてなせし物は、はじめよりのけ置て家土産とせり、兄につかへて心をつくせし事、領主に聞えしかば、天明七年に米と錢とをあたへて、その行を賞しけり、かくてのちも介抱をこたらざれば、又も寬政三年に鳥目をとらせ、兄弟の者に月ごとに麥をあたへしとなん、
p.1116 石七藏といふ人あり、後章三郎と改名、亨字子亨、後又名を永貞と改、此人幼少より、予〈○僧雲室〉と友たり、〈○中略〉子亨、異母の兄二人あり、父は本官人にてやありけん、二人の子は、與力を勤たりといふ、然に此二人、性質無賴にて、予が心易せし時分は、二人其與力の家を滅せし也、又其家名を他へ賣讓し也、日夜博奕のみ事とし、不善せざる事なしと云、一人は歌舞妓芝居のものとなり、放埓かぎりなかりき、子亨は幼少より書を讀事を好みて出精せり、予も常に厚く交れり、扨此人の孝順なる事、感ずるに堪たり、一人の無賴の兄佐太郎といひしが、惡行增長して、其上瘡毒を疾む、寄所なき儘、父のもとへ來り、段々病氣重り、腰もたゝず、目も盲せんとす、子亨此者に事て、一も意にそむく事なく、二便の不淨迄も取りて、父母に事と、更にかはる事なし、段々病氣重り、其翌年に死せり、子亨心を盡し厚葬けり、其後父も逝けり、子亨書籍文具をこと〴〵く鬻て、心を盡し葬れり、其後は母に事て、少年に素讀を指南し、其日を送りける、〈○中略〉又其節一人の無賴の兄喜八と云し、段々放埓不善、博奕打はたし、時々困窮の子亨方へ、無心ねだりに來けり、子亨なき中より、心一はいに何度も物を遣りけり、其後此無賴瘡毒にて、目も盲、腰もぬけて、子亨の方へ來けり、子亨引取介保せし事、二年程なりしが、其中一つも其無賴の意に違ふ事なく、二便の不淨まで取て、父に 事ふ如にせり、人の性の善なる、さばかりの無賴無法のものなれ共、其順孝に感じ、死期近くなりし時、手を合て泪を流し、子亨に謝せり、子亨も共に落涙しけり、段々病氣重り終に死せり、子亨又又心を盡し取しまひ、厚く葬りけり、
○
C 不悌
p.1117 九年四月、遣二武内宿禰於筑紫一、以 二察百姓一、時武内宿禰弟甘美内宿禰、廢レ兄卽讒二言于天皇一、武内宿禰常有下望二天下一之情上、今聞在二筑紫一而密謀之曰、獨裂二筑紫一、招二三韓一、令レ朝二於己一、遂將レ有二天下一、於レ是天皇、則遣レ使以令レ殺二武内宿禰一、〈○中略〉武内宿禰〈○中略〉竊避二筑紫一浮レ海、以從二南海一廻之、泊二於紀水門一、僅得レ逮レ朝、乃辨二無罪一、〈○下略〉
p.1117 この殿たちのあにをとゝの御中、としごろのつかさ位の、をとりまさりのほどに、御中あしくてすぎさせ給ひしあひだに、ほり川殿〈○藤原兼通〉の御やまひをもくならせ給ひて、今はかぎりにておはしましゝほどに、ひんがしのかたに、さきをふをとのすれば、御まへに候人たち、たれぞなどいふ程に、東三條の大將殿〈○藤原兼家〉まいらせ給ふと人の申ければ、殿きかせ給ひて、としごろなからいよからずしてすぎつるに、今はかぎりになりたると聞て、とぶらひにおはするにこそはとて、おまへなるくるしきものとりやり、おとのごもりたる所、ひきつくろひなどして、いれたてまつらんとてまち給ふに、はやくすぎてうちへまいらせ給ひぬと人の申に、いとあさましく心うくて、おまへに候人々も、おこがましくおもふらん、おはしたらば關白などゆづることなど申さんとこそ思ひつるに、かゝればこそ、としごろなからひよからですぎつれ、あさましくやすからぬ事なりとて、かぎりのさまにてふし給へる人の、かきおこせとのたまへば、〈○中略〉うちへまいらせ給ひて、陣のうちはきんだちにかゝりて、たきぐちのちんのかたより、御前へまいらせ給ひて、こうめいちのざうしのもとに、さしいでさせ給へるに、ひの御ざに東三條大將、 御前にさぶらいたまふほどなりけり、この大將殿は、堀川殿すでにうせさせ給ひぬときかせ給ひて、うちに關白の事申さんと思ひ給ひて、この殿の門をとをりて、まいりて申たてまつる程に、ほり川殿のめをつゝらかにさしいで給へるに、みかども大將もいとあさましくおぼしめす、大將はうち見るまゝに、たちておにのまのかたにおはしぬ、關白殿御まへにつゐゝ給ひて、御けしきいとあしくて、さいごの除目をこなひにまいり給へるなりとて、藏人頭めして、關白には賴忠のおとゞ、東三條殿おとゞをとりて、小一條のなりときの中納言を大將になしきこゆる宣旨くだして、東三條殿をば治部卿になし聞えて、いでさせ給ひて、ほどなくうせ給ひしそかし、
p.1118 じゆこう〈○足利義滿〉は、きた山にさんさうをたて、〈○中略〉若公、梶井門跡へ入室ありしを、とりかへし申され、愛子にて、いとはなやかにもてなされしほどに、〈○中略〉だいりにてげんぶくして、義嗣と名のらる、しんわう御げんぶくの准據なるよしきこえし、御このかみをもをしのけぬべく、世にはとかく申あひしほどに、〈○中略〉じゆこう薨じ給ふ、〈鹿苑院と申〉世中は火を消たるやうにて、御あとつきも、申をかるゝむねもなし、此若公にてやと、さたありしほどに、管領勘解由小路左衞門督入道、をしはからひ申て、嫡子大樹相續せらる、其後内大臣までなられて、出家せられき、此若公は昇進だいなごんまでなられしに、野心のくはだてやありけん、露顯して遁世し給を、たづねいだされて、林光院といふ寺におしこめて、つゐにうたれ給にき、