p.1328 岬ハ、ミサキト訓ズ、又埼、碕、崎等ノ字ヲ書シテ、サキトモ訓ゼリ、即チ陸地ノ長ク海中ニ突出シタル處ヲ謂フナリ、
p.1328 岬 唐韻云、岬山側也、古狎反、日本私記云、〈三左木〉
p.1328 岬、見二仁徳三十年紀一、繼體紀島曲、本注云、謂二海中島曲碕岸一也、俗云二美佐祁一、又古事記有二御大之御前一、神代紀上有二熊野之御崎一、下有二吾田笠狹之御碕一、按神武己未年紀丘岬此云二塢介佐棄一、仲哀八年紀亦訓二佐幾一、然則三佐木之三、美稱耳、佐木與二鋒前訓一同、又按三佐木、謂下陸地長突二出海中一之處上、以下訓二山側一之岬字上當レ之不レ允、文選江賦注、引二埤蒼一曰、碕曲岸頭也、新撰字鏡、碕訓二石之出太留佐支一、是訓二碕字一爲レ允、〈◯中略〉廣韻同、但岬作レ 、玉篇 亦作レ 、按文選呉都賦注、引二淮南子許愼注一云、岬山旁、孫氏蓋本レ之、又按古無二岬字一、蓋从レ山从二胛省一、會意字、
p.1328 崎(サキ)〈碕、隑、埼並同、前漢書註、曲岸頭也、〉
p.1328 みさき 日本紀に碕字、岬字などよめり、大先の義成べし、倭名抄には汀をもよめり、水先の義にや、
p.1328 さき〈◯中略〉 日本紀に碕字、岬字を訓ぜり、先の義なり、今人、崎字を用るは非ず、伊藤氏も崎只有二崎嶇之義一、而不レ見二洲觜之義一といへり、新撰字鏡には、碕を石の出たるさきとよめり、日本紀に迮をよめり、せば反さ也、迮は與レ窄通、迫也狹也と見ゆ、
p.1328 御前は、凡て山にまれ海邊にまれ、物の鋒(サキ)の如く突出たる處を云、埼、崎、碕、岬等の字を用ひたり、
p.1329 二十三年三月、百濟王謂二下哆唎國守穗積押山臣一曰、夫朝貢使者、恒避二島曲(○○)一〈謂二海中島曲碕岸一也、俗云二美佐祁(○○○)一、〉毎苦二風波一、因レ茲濕レ所レ賚、全懷無レ色、請以二加羅多沙津一爲二臣朝貢津路一、
p.1329 出二萬葉集一所名 普通名所不レ注〈◯中略〉 崎 みわがさき 神さき みをがさき としまのさき やくのさき みこしのさき かねのみさき〈ちはやふる〉 しらのさき かしまのさき ゆらのさき たかひめのさき をぶさのさき あらつのさき あれのさき たぶしのさき をじまのさき のじまがさき みそめしさき〈いもがめ〉 しぶたにのさき しらさき あら井のさき みうらのさき たごのさき みはのさき さてのさき
p.1329 崎 みわのさき〈大 万非レ海〉みそめの〈同 万萩〉しがのから〈近万〉 たふしの〈伊勢万〉 しでの〈万有レ憚〉野島が〈近 万 あづまぢのともいふ也、一説有二淡路一と云々、但万葉にあふみ、あはぢ同字也、是はあふみか、〉ゆらのみ〈紀 万 ゆらのさきとも〉しら〈同 万近江也〉、 としまの〈淡万〉 しぶたにの〈越中 万 しぶたにのさはのありそ〉たなひめの〈同 万湖〉たごの〈同 するがのたごにはあらず〉あれの〈參川万〉 みこしの〈相 万 かまくらの〉みうら〈同 万 しはつきのみうらさきなるねつこぐさ〉さきたまの〈武 万 をさきの〉かしまの〈常 万 社あられふる〉 かねのみ〈筑前 万 みさきとも〉やらの〈同 万 やらのさきもち〉はこ〈同 社 後拾 松 中將尼〉あらつの〈筑紫 万神さぶる〉 みをが〈近 万 まなかの浦〉いかヾ〈河内源氏〉 いらこが〈伊勢 清輔抄三河か云り、松、〉 ゑじまが〈淡〉おぐろ〈陸古〉やまぶきの〈山 うしまのさき也、源氏、宇治なり、〉からの〈石〉 ゐしまの〈攝〉 みつの〈同万〉きよみ〈駿 万 みほのうら〉つこの〈武万〉まつか〈拾 能宣歌〉かすみの〈武〉 山ぶきの〈近〉 ほのみの〈紀〉 みほの〈出雲 事しろぬしの神、つりしける所、日本紀、〉
p.1329 崎 〈此内非二水邊一もあり、付名所、〉 いほ崎〈下總 まつち山夕こえくれていほさきのすみだ河原にひとりかもねん、うつせ貝、沖つ風、松、こぬみのはま、〉岩崎〈備中 末遠き千世のかげこそ久しけれまだ二葉なりい〉
p.1330 〈はさきの松〉伊かヾ崎〈河内 かぢにあたるなみのしづくを春なればいかヾさきちる花とみざらむ〉礒崎〈礒さきを漕てめぐれば近江ぢややそのみなとにたづさはぎ鳴〉伊良虞崎〈志摩國志麻郡、ちどり、かもめ、時鳥、玉もかる、そなれ松、なのりそ、鹽さひ、〉礒等崎〈神樂にあり、未レ勘、たいつる、みさごゐる、〉いしまの崎〈攝州、八雲御説、〉出崎〈攝州 はりまがたいでさきめぐる夕暮に船子のこゑも物あはれ也〉箱崎〈筑前、此箱崎は、昔戒定惠の三學のはこを、彼松原にうづみ給りしかば、箱崎と云也、筑紫博多、つヾきて、遙にもろこしの海にむかひて、社檀は西にむかひておはしますと云り、 いく世にかかたりつたへんはこざきの松のちとせのひとつならねば、しるしの松、〉林崎〈伊勢〉はヽこの崎〈三河、或伊勢と云云、松、八雲御説、〉星崎〈尾張 ほしさきやあつたのかたにいざり火のほのみしらぬやおもふ心を〉ほのみの崎〈八雲御説〉敏馬崎〈つの國、たづ、千鳥、いるしほ、月、淡路に同名有、 富島崎と書り、又あはぢをよめる歌、しまづたひとしまがさきをこぎゆけばやまとこひしく鶴さはになく、〉雄島崎〈松しまやをしまがさきの夕霞たなびきわたる蜑のたくなは〉岡崎〈山城、秋萩を心に懸て、〉輪田御崎〈つの國、月、都鳥、車舟、 夕づくひわだのみさきをこぐ舟のかたほに引やむこのうら風 くるま舟わだのみさきをかいめぐりうしまとかけてしほやみつらん〉霞崎〈八雲御説、常州、いそな、あまのもしほ火、〉鹿島崎〈常陸、さにぬりのふね、松、月、戀、 うら人も夜や寒からしあられふるかしまがさきのおきつしほかぜ〉唐崎〈近江、大宮人のふねまちかねつ、みそぎ、月、子日、あられ、氷、はまの眞砂、松、一本の松、神のみふねをひきかけし、さヽ波、跡たれし神のみゆき、なみの花、おろすなみは、神のうけひくしるし、 よるなみの五の色は緑なる松にぞのこるしがのからさき、長等のふもと也、仍ながらをそへてもよめり、又同名石見にあり、それにはふかみる、玉も、〉金御崎〈ちくせん、しかのすめ神、岩ね、うき枕、聞あかすかねのみさき、ちはやぶるかねのともつヾけたり、〉みほの崎〈雲州、ことしるぬしの神つりしける所、日本紀、八雲御説、〉神崎〈攝州、かみさきのあら礒もみへず波たちぬいづこよりゆかんよき道はなし、〉多枯崎〈ゑつ中 たこのさきこの暮しげみ時鳥きなきとよめばはた戀めやも、藤、松、〉たか姫崎〈同レ上 神さぶるたか姫の崎こぎめぐりみれ共あかずいかにわがせん〉たぶしの崎〈伊勢 たつはなのたぶしのさきにけふもかも大宮人の玉もかるらん〉橘小島崎〈山城〉楯崎〈攝州、鹽のたヽかひ、〉月出崎〈近江 はる〴〵とくもりなき世をうたふ也月でがさきのあまのつりふね〉つこの崎〈武州、八雲御説、〉子日崎〈たんご はるかなる子日の崎にすむあまは海松をのみ引やよすらん〉難波崎〈攝州 をしてるや難波のさきに引のぼるあけのそほ船〉武庫崎〈同レ右、月、やどはなくして、〉倚島崎〈同レ右 住吉のあら人神の舟のへにうしはき給ひつけたまひゐ島のさきによりたまひ、礒のさきにあらき浪風にあはず、〉野島崎〈淡路、又同名多し、淡路には、 玉もかるをとめを過て夏草の野じまの崎に庵すわれは しほみてば野じまがさきのさゆり葉に波こす風のふかぬ日ぞなき、安房にも有、それは、 あづまぢの野じまがさきの濱風にわがひもゆひし妹がかほのみおもかげにみゆ、又近江にも有、それは なみかくる野島がさきの袖ぬれてをばなかたしきねぬる夜半かな、庵さす、千鳥、夏草、〉乎敷崎〈ゑつ中 をのさき花ちりまよひなぎさにはあしかもさはぎさヾれなみ〉大崎〈土佐、神の小賓、月、〉おぐろ崎〈奥州、みをつくし、ぬまのねぬなは、なみしたき、 おぐろさきみつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを〉莖崎〈攝州、松、又玖岐とかけるもあり、〉岫崎〈するが、松、是同事歟、〉雲津崎〈伊勢しまや月の御舟はよきてふけ雲づがさきの松のむらだち〉欵冬崎〈あふみ口なし〉やらの崎〈ちくぜん おきつ島かもと〉
p.1331 〈いふ船のかへりこばやらのさきもりはやくつげこせ〉八十崎〈同レ右、たづ、千鳥、〉松崎〈山城、千とせふる、つるのすむ、氷のわたり、〉小松崎〈つのくに、なにはがた、浦さむし、鹽みてば、小松が崎に千鳥鳴也、あふみには同名有、鶴をよめり、〉心見崎〈あふみなる心みのさき年經てもよし心みぞ人忘るとも〉小島崎〈城州 今もかもさきに、おふらんたちばなのこじまがさきの山ぶきの花〉有礒崎〈越中〉安禮崎〈三河 いづこにも舟とめすらんあれのさき漕出て行たなヽしをぶね〉荒藺崎〈武藏 くさかけのあらゐのさきのかざしまを見つヽや君が山ぢこゆらん 白なみのあらゐの崎のそなれ松かはらぬ色の人ぞつれなき〉あらつの崎〈ちくぜん 神さぶるあらつのさきによするなみまなくやいもに戀わたるらん〉さきたまの崎〈武州、八雲御説、〉さての崎〈伊勢 あこし山いほへかくせるさての崎さては人しらのゆめにしみゆる〉清見崎〈駿河 いほ原のきよみがさきのみほの浦ゆたにみえつヽ物思ひもなし、千鳥〉由良崎〈紀伊海部郡 朝ぼらけこぎでしわれはゆらのさき釣する蜑をみて歸りこん いもがため貝をひろふときのくにのゆらのみさきに此日くらしつ、ゆらのみさき共いへり、 ゆらのさき鹽ひにけらししらかみの磯のうらみをあへてこかする、きのくにのゆらのみさきの月影の玉よせかへる沖つしら波、萩、上野、鹿、しば船、〉木綿崎〈播州 神のますうら〳〵ごとに漕過てかけてぞいのるゆふさきの松〉三輪崎〈大和城上郡、是非二海邊一、 くるしくも降くる雨かみわが崎さのヽわたりに家もあらなくに、駒とめて、雪、 みわのさきあら磯も見えず浪立ぬいづこよりゆかんよき道なしに、此歌は水邊也、〉三保御崎〈近江 さヾなみや小松に立て見渡せばみほのみさきにたづむれてなく、この小松、所の名也、又たヾみほかさき共いへり、神社あり、 思ひつヽくれどきかねど見ほがさきまなかのうらを又かへりみつ〉三穗崎〈するが、又出雲同名あり、松原、白つヽじ、月、山ぢうち出て、もろた舟、〉宮崎〈能州 舟とむる岩せのわたりさ夜更て宮ざきの浦を出る月影〉みつ崎〈攝州 みつの崎なみをかしこみこもり江の舟こぐ君か行かの島に なにはがたみつのさきより大舟にまかぢししぬき〉みぬめの崎〈同 島づたひみぬめのさきを漕ぎ行ばやまと戀しくたづさはに鳴、いもとこしみぬめのさきを歸るさに狩してみればなみたくまなし〉みそめの崎〈大和 いもがめをみそめのさきの秋萩はこの月比にちりうすなゆめ〉御輿崎〈相州 かまくらのみこしのさきのいはくらの君がくゆべき心はもたず〉三浦崎〈奥州 しはつきのみうらさきなるねこつ草あひみずあらば我戀めやも〉しでの崎〈伊勢 をくれにし人を思はヾしでのさきゆふとりしでヽすまんとぞ思ふ、御祓、八雲御説に可レ憚、〉白崎〈紀州 しろさきは御幸あるまで大舟にまかじしげぬき又かへりみん〉澀谷崎〈越中 しぶ谷のさきのありそによするなみはやしき〳〵にいにしへおもほゆ〉白羽崎〈遠江、あふ人の心もしらず、〉繪島崎〈淡路 はりまがたすまの月よめ空さえてゑ島がさきに雪ふりにけり〉三崎廻〈万、是非二名所一、又新撰六帖に、 わたの原みさきこぎまふつり船のはるかになれば心すみけり〉 入海のせとの崎 みなと河すかすの崎 島崎 和田三崎〈攝津 めぐりきぬわだのみさきの車ふねくるしきたびの日數なりけり 車ぶねわだのみさきをかいめぐりうしまどかけて鹽やみつらん〉
p.1331 大后、爲レ將二豐樂一而、於レ採二御綱柏一幸二行木國一之間、天皇婚二八田若郞女一、於レ是大后、御綱柏積二盈御船一還幸之時、所レ馳二使於水取司一吉備國兒島之仕丁、是退二己國一、於二難波之大渡一、遇二所レ後倉人女之船一、乃
p.1332 語云、天皇者皆婚二八田若郞女一而晝夜戲遊、若大后不レ聞二看此事一乎、靜遊幸行、爾其倉人女、聞二此語言一、即追二近御船一、白之状、具如二仕丁之言一、於レ是大后大恨怒、載二其御船一之御綱柏者、悉投二棄於海一、故號二其地一謂二御津前(○○○)一也、
p.1332 御津崎は、書紀、仁賢卷〈六年〉に、難波御津、齊明卷〈五年細書〉に、難波三津之浦、萬葉一〈廿六丁〉に、大伴乃御津乃濱松、又〈廿七丁〉大伴乃美津能濱、三〈十五丁〉に三津埼、十五〈卅丁〉に大伴乃美津能等麻里などなほ多し、古難波より船發するに、主と此津より發、又此津に泊たりし事、萬葉の歌どもに數多よめるが如し、かくておのづから難波の内の一の地名となれるなり、難波古圖に、高津の西方海邊に、三津里、三津濱あり、其處なるべし、
p.1332 柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首〈◯七首略〉 三津埼(ミツノサキ)、浪矣恐(ナミヲカシコミ)、隱江乃(コモリエノ)、舟公宣奴島爾(フネコグキミガユクカヌジマニ)、
p.1332 天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村贈二入唐使一歌一首并短歌、 玉手次(タマダスキ)、不懸時無(カケヌトキナク)、氣緒爾(イキノヲニ)、吾念公者(ワガオモフキミハ)、虚蝉之(ウツセミノ)、命恐(ミコトカシコミ)、夕去者(ユフザレバ)、鶴之妻喚(タヅガツマヨブ)、【難波方】(ナニハガタ)、【三津埼】從(ミツノサキヨリ)、大舶爾(オホブネニ)、二梶繁貫(マカヂシジヌキ)、白浪乃(シラナミノ)、高荒海乎(タカアラウミヲ)、島傳(シマヅタヒ)、伊別往者(イワカレユカバ)、留有(トヾマレル)、吾者幣引(ワレハヌサトリ)、齊乍(イハヒツヽ)、公乎者將往(キミヲバマタマ)〈◯往恐待誤〉早還萬世(ハヤカヘリマセ)、
p.1332 戊午年二月丁未、皇師遂東、舳艫相接、方到二難波之碕(○○○○)一、會下有二奔潮一太急上、因以名爲二浪速國一、亦曰二浪華一、今謂二難波一訛、 ◯按ズルニ、難波之碕、即チ御津埼ナルベシ、
p.1332 幸二于伊勢國一時、留レ京柿本朝臣人麿作歌 釧著(クシロツク)、手節乃崎二(タブシノサキニ)、今毛可母(イマモカモ)、大宮人之(オホミヤビトノ)、玉藻苅良武(タマモカルラム)、
p.1332 稻村崎 海岸ニ突出シテ、其形稻ヲ積タル如シ、故ニ名ヅクト云フ、〈高三十間〉東面ヲ靈山崎ト唱ヘ、〈坂之下村ニ屬ス〉西面ヲ稻村崎ト呼ブ、
p.1333 建長四年四月一日甲寅、寅一點、親王〈◯宗尊〉自二關本一御出、未一刻出二御固瀬宿一、御迎人々、參二會此所一、〈◯中略〉路次自二稻村崎一經二由比濱鳥居一、西到二下馬橋一、暫扣二御輿一、〈◯下略〉
p.1333 稻村崎成二干潟一事 新田義貞逞兵二萬餘騎ヲ卒シテ、廿一日〈◯元弘三年五月〉ノ夜半計ニ片瀬腰越ヲ打廻リ、極樂寺坂ヘ打蒞給フ、〈◯中略〉義貞馬ヨリ下給テ、甲ヲ脱テ海上ヲ遙々ト伏拜ミ、龍神ニ向テ祈誓シ給ケルハ、〈◯中略〉仰願ハ内海外海ノ龍神八部、臣ガ忠義ヲ鑒テ、潮ヲ萬里ノ外ニ退ケ、道ヲ三軍ノ陣ニ令レ開給ヘト、至信ニ祈念シ、自ラ佩給ヘル金作ノ太刀ヲ拔テ、海中ヘ投給ケリ、眞ニ龍神納受ヤシ給ケン、其夜ノ月ノ入方ニ、前々更ニ干ル事モ無リケル、稻村崎俄ニ二十餘丁干上テ、平沙渺々タリ、横矢射ント構ヌル數千ノ兵船モ、落行鹽ニ被レ誘テ、遙ノ澳ニ漂ヘリ、不思議ト云モ無レ類、〈◯中略〉江田、大館、里見、鳥山、田中、羽河、山名、桃井ノ人々ヲ始トシテ、越後、上野、武藏、相模ノ軍勢共、六萬餘騎ヲ一手ニ成テ、稻村崎ノ遠干潟ヲ、眞一文字ニ懸通テ、鎌倉中ヘ亂入ル、
p.1333 三十年九月乙丑、皇后遊二行紀國一、到二熊野岬一、即取二其處之御綱葉一〈葉此云二箇始婆一〉而還、
p.1333 一書曰、〈◯中略〉其後少彦名命、行至二熊野之御碕(ミサキ)一、遂適二於常世郷一矣、
p.1333 按延喜式、有二熊野坐神社一、在二出雲國意宇郡一、知熊野崎亦在二于其地一、
p.1333 山鹿岬 山鹿村の北一里に岩屋村あり、其北なる出崎を岩屋崎といふ、是山鹿の岬なり、むかし此邊をすべて山鹿と云けるなり、
p.1333 八年正月壬午、幸二筑紫一、〈◯中略〉旣而導二海路一、自二山鹿岬一廻之入二崗浦一、
p.1333 鐘の御崎 〈鐘崎町〉 織幡の神のある山の出崎を云、昔三韓より大なるつりがねを渡せしに、此潒にしづめり、故に鐘
p.1334 の御崎と云、鐘のある所は、織幡山の艮の方五町計おきにあり、今も鐘のある所いちじるしく見ゆるよし、里人いえり、〈◯下略〉
p.1334 筑前に遊びし時、博多の崇福寺に暫くとヾまりて、此あたり一見す、〈◯中略〉詩を賦し禪を談ぜしいとま、當國の奇事をとひしに、其座に在る人の曰、此國の海中に鐘あり、其處を鐘が岬(○○○)といふ、織幅山の艮の方、岸を離るヽ事纔に五町ばかりの所にあり、船にて其處にいたれば、よく見ゆるよし里人いふ、是はむかし三韓より撞鐘をふねに積て渡せしに、龍神鐘を望み、此海にいたりて浪風俄に起り、船くつがへりて、鐘は終に海底に沈みぬ、其三韓よりわたりし事は、古き事にや、萬葉集の歌にも、千早振鐘がみさきを過れども我は忘れず志賀のすめ神、よみ人しらずと出たり、又新古今にも、白浪の岩打波やひヾくらん鐘のみさきの曉の空、衣笠内大臣、又家の集、音に聞く鐘のみさきはつきもせずなくこゑ響くわたりなりけり、俊頼、又大名寄に、聞あかす鐘の岬のうき枕夢路も浪に幾夜へだてぬ、など諸集に見へたり、〈◯下略〉
p.1334 芥屋大門 芥屋村より乾の方五町許に、大門崎とて、海中にさし出たる岩山の出崎あり、その出崎はすべて一箇の岩山にして、小きつヾけり、そのかたち、あたかも龜の方をのべたるに似て、出崎につヾけり、山尾は細し、出崎の岩山は少大にして高し、この出崎の岩のかたち、こまかにみれば、黒く八九寸、一尺三寸、あるひは一尺八寸ばかりなる方なる石の柱なり、其技はあたかも良工の手をつくし削なし、數百萬をつがねて、高く海中に立たるがごとくなる形壯なり、この岩山は高き事海上に三四十間程、そのそばだてる事屏風をたてたるごとし、城郭の石壁のごとし、この上はかへつてまへにさしかヽりて、下を覆へり、その山下に大門とて、北にむかへる大なる岩窟あり、その内海水はなはだ深くして、その色黒く、よのつねの水色にことなり、是山影にして、また水きわめ
p.1335 て深きゆへなり、見る人恐るヽ、窟中のよこ廣きところ五間半ほど、その中に船に衆て入、窟中に入て見上れば、てん上のごとくにして、こと〴〵く角柱をつがねたる橋を見るがごとし、その天上の柱、石の上よりたるヽ事、長短ひとしからず、その窟中に舟の入事四拾間ほど、その半過よりすこし東へまがれり、その奧の水なきところ、船よりあがり行ば、しら砂地なり、その地にあがりたる人、あるひは五七間、十間程行といへども、その奧はなはだくらくしてすさまじく、ふかく入事あたはず、穴の中に蝙蝠多して面をうつ、しかるゆへ、いにしへより其極るところを見る人なし、里人の云、近來或人この奧を見んため、燈を燈して窟の内にふかく入て、沙土を歩行けるに、窟中俄に鳴動し、あわ起りて甚恐るべし、人皆おそれていそぎ退き走り、船に乘て歸ると云、また此大門の東の方に、大門の岩山を離るヽ事三四間にして、水中に岩石あり、長さ五六間、高さ水上より三間餘程、この岩もまた四五寸の角柱を横にかさねたるごとし、是にも洞穴あり、民俗、海鮨穴と云、または同北風烈して、洋の波此大門の窟を打ときは、そのひヾき數里に聞へて夥し、抑このところ岩壁の奇しき、窟の中虚なる事、世間佳山水の類にあらず、彼韓柳李杜すといふとも、この美を形容しがたかるべし、まことに天下の奇觀なり、かヽる寄遇は、人の國にはありもやすらん、我日本にはいまだ是にたとへるところをきかずと、たヾうらむらくは、遠き筑紫の僻地にあつて、殊に新羅の國にむかへり、大海原の邊にあれば、沖つかぜ絶ず吹て、荒き浪かヽる岩山なれば、夏の日の極て風浪をだやかなる時ならでは、船いたらざるところにして、つねには見まくほしき人も、日をさしていたりがたき事なれば、むかしよりかたり傳ふる事もなかりけるにや、古人の廣く我國の事をしるせし文にも見え侍らず、また歌枕にものせもらしつる事ならむかし、
p.1335 旣而皇孫〈◯瓊瓊杵尊〉遊行之状者、則自二槵日二上天浮橋一、立二於浮渚在平處一、〈◯註略〉而膂宍之空國自二頓丘一覔レ國行去、〈◯註略〉到二於吾田長屋笠狹之碕(ミサキ)一矣、