p.1336 島ハ、シマト云フ、古クハ洲ノ字ヲモ訓ゼリ、主トシテ四面環水ノ地ヲ謂ヘド、希ニハ陸上ノ地勢自ラ一區域ヲ爲セル處ヲモ謂ヘリ、而シテ島ノ事ハ、尚ホ諸國篇島嶼條ニ在レバ、宜シク參看スベシ、 洲ハ、スト云フ、砂土積堆シテ陸地ト成レルモノヲ謂フナリ、
p.1336 島嶼 説文云、島海中山、可二依止一也、都皓反、一音鳥、〈和名之萬〉唐韻云、嶼、徐呂反、上聲之重、與レ序同、海中洲也、〈和名同レ上〉
p.1336 尾張本、曲直瀬本、下總本、一作レ又、新撰字鏡同訓、按之万、陜也、謂下周匝有二區限一之地上、秋津島、輕島、磯城島之類是也、縛訓二之波留一、縮訓二之々万留一、又謂三脆耎物成二堅硬一爲二之万留一、謂レ閉レ門亦云二之万留一、皆同語、島嶼周回有レ水爲二區域一、故亦名二之万一、〈◯中略〉所レ引山部文、原書嶋作レ㠀、海中下有二往々一有二三字一、釋名、海中可レ居者曰レ島、島到也、人所二奔走一也、亦言烏也、人物所レ趣、如二鳥之下一也、〈◯中略〉曲直瀬本、徐呂反、上聲之重、與レ序同十字、作二音序二字一、新撰字鏡同訓、下總本、和名上同作二和名比良之万一、按類聚名義抄、伊呂波字類抄、亦有二是訓一、〈◯中略〉廣韻同、按文選呉都賦劉逵注、嶼海中洲上有二山石一、孫氏蓋本レ之、
p.1336 しま 島、嶼、又洲字をよめり、或は嶼をひらしまと訓ず、水中に土のしまる所也、渚は水中に洲の出來たる也、坻は水中の高地也、一説にすみと通ず、水中可レ居の所をいふ、よて萬葉集に、八洲知といふ事を、八隅しヽと多くよめりといへり、梵語の四摩也ともいへり、國の志摩も島の義也、〈◯下略〉
p.1337 島とは、凡てもと周廻に界限の有て、一區なる域を云名にて、〈海中にはかぎらず〉秋津島と云も、本孝安天皇の都の名にて、大和の内の地名、應神天皇の都も輕なるを、輕島明宮と云類なり、
p.1337 祈年祭〈◯中略〉 生島能御巫能辭竟奉、皇神等能前爾白久、生國足國登御名者白氐、辭竟奉者、皇神能敷坐島能八十島(○○○)者、谷蟆能狹度極、鹽沫能留限、〈◯下略〉
p.1337 島 まつ ね ひこぼし〈俊抄〉 やそ島がくれとは、かくれなり、 八そしまは、さる所名もあれど、たヾ島々多なり、 ち〈ゑぞ はら〉 もヽ こ おほ うき やそ おきつ〈名所もあり〉もヽつ はなれ
p.1337 島 うき島 もくつ島 おほ島〈名所も有〉 やそ島〈八十島也、名所もあれ共、只又多かる島をも云也、わたの原八十島かけてと侍るも名所にはあらず、又やそしまかくれ共、〉もヽ島 おきつ島〈名所ならでも〉 島かげ〈島陰也〉 島わ〈但〉 まつね〈八雲御説〉 島なみ はなれ島 ひこぼし〈俊抄と八雲御説也〉 河島〈名所ならでも〉 波まの小島 島がくれ ありそ もヽつちのやその島わ 島の隈わ
p.1337 伊弉諾尊、伊弉册尊、立二於天浮橋之上一共計曰、底下豈無レ國歟、廼以二天之瓊〈瓊玉也、此曰レ努、〉矛一指下而探之、是獲二滄溟一、其矛鋒滴瀝之潮凝成二一島一、名之曰二磤馭盧島(○○○○)一、二神於レ是降二居彼島一、因欲下共爲二夫婦一産中生洲國上、便以二磤馭盧島一爲二國中之柱一、〈柱此云美簸旨羅、〉
p.1337 於レ是天神諸命以、詔二伊邪那岐命、伊邪那美命二柱神一、修二理固三成是多陀用幣流之國一、賜二天沼矛一而言依賜也、故二柱神、立二〈訓レ立云二多多志一〉天浮橋一而、指二下其沼矛一以畫者、鹽許袁呂許袁呂邇〈此七字以レ音〉畫鳴〈訓レ鳴云二那志一〉而、引上時、自二其矛末一垂落之鹽、累積成レ島、是淤能碁呂島、〈自レ淤以下四字以レ音〉
p.1337 淤能碁呂島は、〈◯註略〉私記に、自凝之島也、猶如レ言二自凝一也とあり、彼許袁呂許袁呂にか
p.1338 き成賜へる潮の滴りの、積て成れる故の名なり、〈◯中略〉さて此島の在所は、高津宮段に天皇の淡道島に大坐ましての大御歌に、阿波志摩、淤能碁呂志摩、阿遲摩佐能志麻母美由云々とあるに因ば、淡島の並と聞えたり、〈◯註略〉私記に、今見在二淡路島西南角一小島是也、云三俗猶存二其名一也と云、口決には、在二淡路西北隅一小島と云り、西北西南いづれか實ならむ、〈或説に、後世歌によむ淡路の繪島これなり、日本紀に、以二磤馭盧島一爲レ胞とあるより出て、もとは胞島の意なりと云り、又或説に、淡路の西北隅にある胞島これなり、今も胞島と云、又おのころ島てふ名も存せり、さて其地方に、鶺鴒島と云もあり、(中略)と云り、又荒木田瓠形云、おのれさきに西國へまかりしとき、おのころ島のあたりを經行たり、淡路の津名郡、石屋神社の東の小島なりと云りき、又或説に、淡路と紀伊國の境、由理驛の西方なる小島なりと云り、こは違へるが如し、〉
p.1338 十三年十月壬辰、逮二于人定一大地震、〈◯中略〉是夕有二鳴聲一如レ鼓、聞二于東方一、有レ人曰、伊豆島西北二面、自然増二益三百餘丈一、更爲二一島一、則如二鼓音一者、神造二是島一響也、
p.1338 寶龜九年十二月甲申、去神護中大隅國海中有二神造島一、其名曰二大穴持神一、至レ是爲二官社一、
p.1338 承和七年九月乙未、伊豆國言、賀茂郡有二造作島一、本名二上津島一、此島坐阿波神、是三島大社本后也、
p.1338 出來島 過し年、薩州櫻島大燒の後、其海中時々沸騰して、海水煮へあがり、海面は火もへ出て、大海の水皆熱海と成り、海中の魚類、大小の差別なく皆死せり、其海の沸騰する勢に、百尋に餘れる海底より土砂沸上り、新に七つの島を生ぜり、第一に大なるは一里七合廻り、其外一里成、或は一里など、大小色々あり、其後海中煮へしづまりて、彼島堅まり、國土と成れり、余が彼地に遊びし頃は、彼島出來てやう〳〵四五年にもや成らん、ほどちかき事なれば、島の上に草木もなく、唯白砂の島なりき、其あたりの人の物語れるは、近き頃は鳥多く島に付り、鳥付ければ草生ず、草生ずれば樹木も進
p.1339 進に生ず、樹木生ずれば水湧く、水あれば人民の居住も出來て、耕作の事もなれるといひし、其後京に歸り、年過て彼國の人の登り來れるに聞けば、近年は樹木も多く生ひ茂り、潔白の水湧て、人も住るヽやうに成りぬれば、隅州より新島に宮居を建て、宮守を置、參詣の人もありといへり、いと早きものなり、其天地の中に國土を生ぜし事を、まのあたり見たることも不思議あまりあり、此日本國なども、神代のむかし湧出たるなどいふ物がたりは、只うはのそらに聞て、まことヽも覺へず有けるが、かヽる事をまのあたりみれば、空言にてはあらざりしと思はる、もと櫻島も、養老二年、此海大にもへて、天地晦冥し、一夜の間に七里餘廻りの高山湧出て、さくら島と名付し事とぞ、櫻島は比叡山よりも遙に高く大なるに、人民多く、田畑豐饒にして、繁昌の島なり、
p.1339 出島築立開基之事并同所家質銀ノ事 一寛永十三子年、奉行榊原飛騨守、馬場三郞左衞門支配ノ節、南蠻人町屋ニ徘徊停止被二仰付一、湊ノ内ニ島ヲ築立可二押込一由ニテ、俄ニ築島ヲ申付、其節手前宜町人共二十五人撰、差圖ノ通築レ之、家藏ヲ建、南蠻人宿彼者ドモ被二申付一、島ノ總塀并表裏ノ門、公儀ヨリ作事、子丑寅ノ年迄三年、南蠻人被二召置一、町人ハ南蠻人ト相對ヲ以宿賃ヲトリ、此地ニテ商賣仕トコロ、寛永十五寅年爲二上使一太田備中守被二差下一、南蠻人日本渡海堅御停止ニ成、卯辰兩年出島明キ地ニナル、同十八辛巳年、奉行馬場三郞左衞門、柘植平右衞門支配ノ節、ヲランダ人平戸ヨリ御移シナサル、
p.1339 靈岸島は、近き比築立新地、間なき故に踏ありけば、大地うごく故に、俗に蒟蒻(コンニヤク)島といひし也、こヽに倡家ありて賑はしかりしが、今は商家となれり、 ◯按ズルニ、築島ノ事ハ、津篇造津條、及ビ泊篇修泊條ニ詳ナリ、參看スベシ、
p.1339 浮島 出羽國山形より奧に大沼山といふ所あり、其山主を大行院といふ、修驗道にて俳諧の數寄人、俳
p.1340 名を鷹窻といふ、此山の縁記を聞けば、人皇四十代のみかど、天武天皇の朝、白鳳年間、役行者の開基にて、倉稻魂神勸請の地なり、此山のみたらしの大池あり、大沼と名付く、是は池の形大の字に略似たるをもて名付しとかや、此池に奇妙の靈異あり世間未曾有の奇事なれども、かヽる僻遠の地なる故、尋入る人も稀々にて、知る者すくなし、いかなる事ぞといふに、池の中に六十六の島ありて、其島時々に水面を遊行す、島の數六十六といふは、日本成就の形相といふ、其昔行基菩薩も此池に至り、實方中將も此浮島を見物し給ひしとぞ、實方遊びたまひし時、 四ツの海波靜なるしるしにやおのれと浮て廻る島哉 と詠置給ひしといふ傳ふ、池のほとりに古松二株あり、一株を實方中將の島見松といふ、實方此松に倚りて島を見給ひしと也、其時明神感應ありて池水を卷上て、松の根までそヽぎしとて、一株の松を浪上松といふ、浮島常は池の岸に引付て渚のやふに見ゆ、其中にて最大なるを奧州島と名付く、其餘の島々も皆國々名ありしかど、今はまぎれて何國といふこと、しかとわからず、唯一所池の中へ突出たる岸根を蘆原島といふ、此島ばかり動かず、昔より同じ所にあり、又池の向ふの方の右の方によりて浮みたる色黒き木の株のごときものあり、是を浮木と名付て、天下の吉凶を占ふとぞ、浮たる時は天下太平の象なり、沈みて見えざれば、必變を示すとなり、〈◯下略〉
p.1340 世にしる大沼と云所へ、此邊よりは僅に六七八里の所といへども、御巡見所にあらざれば行ず、至て殘念に思ひしゆへに、案内のものはいふに及ばず、村々の役人町々の年寄抔に近よりて尋聞しに、大沼へ度々參詣せしものヽいふ、山の頂に方五六十間と覺しき沼あり、傍らに大沼權現と稱せる社ありて、別當は山伏にて、少しき寺院也、扨沼の中浮島六十六島、大ひなる島方五六尺、小なる島は僅に方一尺計、諸草生じてあり、諸人參詣すれば、山伏出て、何れの島は何の國、彼の島何の國と、大小によりて六十六ケ國に表し、信心なる人の目には、こと〴〵く島と見
p.1341 へ渡り、不信心の人にはやう〳〵十島か十五島ならでは見へず、願望ある人、志す所の島の動きやうによりて吉凶をしるといふ、此事至て怪敷事に思ひ、信ぜざる事ながらも數度尋見し、何れも違ひなき事に物語せし也、疑ふまじき埒もなき虚説とは思ひながらも、知ある人に會せば、委敷尋とわんと思ひありしに、山形寶幢寺の客僧林山と稱せる、文學も有客僧に會せしかば、林山の云、拙僧は常州水戸邊の産にて、先達て此怪事を承り、當國へ參り、早々大沼へ參詣して、委敷見聞せしに、寛文年中の頃にや、山伏の曲ものありて、いろ〳〵の怪を以て大木のくりぬきを丸くし、夫にいろ〳〵の草木を植て彼沼にうかめ、俗物をあやかせしにより、近郷の愚盲なる人々、大ひに評判して群集をなせしより、他國へ聞へし事にて、和漢三才圖會、里人談などに顯わし、世人のしる所となりしなり、古しへよりぞかヽる怪説實にありし事ならば、古き書に記し、風土記などには書落す事にはあらず、やふ〳〵百年以來の事跡にて、其妄説を考へ候へと有しゆへに、色色の疑ひのはれし事なり、
p.1341 秋田島沼 出羽國村山郡、山形の奧なる大沼の浮島は、〈大沼在二置賜郡一〉東遊記〈五卷〉に載せたり、〈◯中略〉彼浮島なる島遊といふことは、未曾有の奇觀なるをつたへ聞きかたりつぎて、今はしらざるものもなければ、奧羽に歴遊する人は、かならずいゆきて觀るもの多かり、是のみならず、同國秋田郡寺内に程近き、島沼といふ沼にもまた島遊の奇觀あり、是をば觀る者稀なるべし、〈◯中略〉曩に秋田人、茂木蕉窻來訪せし日、余この事を告げて、そがいふまに〳〵興繼して畫せたり、猶傳聞の失あらん歟、蕉窻云、久保田城より西の方なる街道を土崎湊道とす、〈◯中略〉彼島沼は、街道より東北二町許にあり、この島沼も、その岸おのづから離れて水中を遊行し、又舊の岸に著くこと、大沼なる浮島に異ならずといへり、〈◯中略〉或はいふ、秋田なる島沼は近年いたく荒れて、又島遊のことなしとぞ、いまだしかる
p.1342 や否をしらず、
p.1342 浮島 小千谷より西一里に、芳谷村といふあり、こヽに郡殿(コホリドノ)の池とて、四方二三町計の池ありて、浮島十三あり、晴天風なき時、日出れば十三の小島おの〳〵離散して池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中にあつまりて一ツの島となる、此池に種々の奇異あれども、文多ければしるさず、羽州の浮島はものにも記して、人の知る處なれど、此うきしまはしる人まれなり、
p.1342 しまは うきしま やそしま たはれ島 みづしま 松がうらしま まがきの島 とよらの島 たどしま
p.1342 出二萬葉集一所名 普通名所不レ注〈◯中略〉 島 からのヽしま たけしま さヽしま いづしま ひめしま もヽつしま ながとのしま いらこがしま おきつかりしま(長門國也) きびのこじま かちしま かさぬひのしま いかひしま やそのしま〈もゝつちの〉 ゆきしま あへのしま かヽけたくしま あはしま のじま
p.1342 島 たちばなのこじま〈山 万 宇治也、山ぶき有、河内にもあり、〉まきの〈同 金葉基光歌〉みつのこ〈陸 古 をぐろさき〉まつ〈同 をしま〉まがきの〈同 後撰 しほがまのまがきの、しほがまのうらのおきに有、〉まつがうら〈同 後撰素性〉うき〈同 後撰しほがま也〉おくの〈攝 万 なはの浦にそむきに見〉あへの〈同 万 うのすむ石〉たみのヽ〈古 貫之なには也〉いらこか〈伊勢万〉 まつ〈同 後拾重之〉かこの〈播 万 いなみのゆきすぎがて、松ばらごし、ゐるたづ、〉いゑ〈同万〉 からにの〈同万〉 いとこ〈紀 万 あらきしま〉たまつ〈同 万神座〉いもか〈同 万 かたみのうら〉はなれこ〈同 はなれ島、或在二肥前國一、〉かしま〈同万〉 うらのはつ〈同 後撰 云二攝津國一、元方、〉あはぢ〈淡 万 すみよしのきしにむかへる〉のじま〈近 万 陸奥〉
p.1343 〈にも、のじまは有也、範兼抄、あはじなり、〉ゑじま〈淡 千家基〉あは〈阿万〉 かち、〈丹後万〉すか〈紀 万 なつみのうら〉こじま〈備前万〉 きびのこ〈備中 万 やまとぢの、是は備前歟、委可レ尋、〉おほ〈備前万〉 たけ〈同万〉 いはひ〈同万〉 をきつかり〈同 万 かりしまとも〉ながとの〈長 万小松〉か〈同万〉 のとの〈能 万 舟木きる〉もくづ〈相 万 あしかるをぶね〉かさ〈武 万 草かけのあらゐがさきのかさしま〉たはれ〈肥後 後 朝綱清輔抄 相模〉たま〈肥前 万まつら也、〉 かさゆひ〈豐前 万 しはつやま、うらむみは、〉かさぬひ〈豐後 万 かさぬひと、ゆひと同所歟、但入レ別也、〉ひめ〈万 小松〉みつ〈筑前 万 或三島とも、あしきたの、さかのうらに舟でしてとよめり、〉つくしのこ〈筑前万〉 ゆきの〈壹岐 万 しらきべが家にうへつるといへり、新羅國の心也、〉しかの〈筑前〉とよらの〈長〉おきつさヽ〈石 いそこす波、ゆめ、〉かは〈攝撰〉 みやこ〈陸古〉 いせ〈伊勢源氏〉 さみねの〈讃岐万〉 むろのや〈下野 是は野より水のけの煙の様にて立也、非レ島ども依レ名入之、基俊曰、有二兩説一、一下野の野中水より立け也、一説には人家かなへなり、有書云、如何、〉ゑぞがち〈陸千〉 うるまの〈非二日本一、公任歌、〉かみ〈万 いそまの浦〉なき〈播 万 むろのうらにあり、せとのさきなりといへり、或はなたしまとも、〉を〈重之〉 しかけ〈千 俊頼〉と〈攝〉みしま〈同〉しのびの〈壹〉なきよ〈陸〉やそ〈浦輔云、出羽にありと云云、普通には但八十島也、〉うら〈丹後 うらしまの子が所也、是在二子細一、〉よさのおほ〈同〉かさまの〈周防〉ちかの〈肥前〉
p.1343 島〈同名所〉 とも島〈なみのうへにはるかにうかぶあしがもはともしまかよふふねにやあるらん〉こ島 はなれこ島〈名所ならでも〉伊勢島〈いそな、あまをとめ、月、千鳥、和歌の松原、夕鹽、雪、いちしの浦をそへたり、みるめにまじるうつせ貝、鹽干、はま荻、あまのたく火、かりの使、さかひへたてヽ、〉伊良虞島〈志摩、しほさひ、千鳥、松、なのりそ、時鳥、かもめ、しまねの松、たてる緒をおみのおほ君あまなれやいらこがしまの玉もかります、うつせみの命をおしみ、なみにぬれふねにいものるらんか、あらき濱へ、〉いもが島〈紀州 もかりぶねおきこぎくらしいもがしまかたみのうらにたつかけるみゆ、千鳥、みるめ、月、なみ枕、夢だにもみず、おもかげぞ猶のこりける、〉五等兒島〈同レ右、鹽さひにいとこのしまへ、こしふね、是宗祇注、〉寵島〈安藝 あだならむ人には見せじいつくしまなみのぬれきぬきせんものかは〉岩木島〈いよの海の岩木のしまは我なれやあふ事かたきしほのみぞやく、鹽やくあま、〉壹岐島〈いき、岩、撫子、松、牧の小牛、〉生島〈播州 朝夕に定なき世に歎くにはいきしまにこそ住べかりけれ〉家島〈同レ上 春ゆくふね いゑしまはなにこそ有けれうなばらをある戀まつるいももあらなくに、山櫻、〉印南島〈同所、千へのなみ、〉怡土島〈筑前〉祝島、〈周防、草枕たび行人をいはひまつらん、家人、〉離小島〈きの國、月、千鳥、〉富島〈淡路、玉もかる、夏草或云攝州、〉床島〈尾張 君なくてひとりぬる夜の床島はよするなみだぞいやしきりなる〉とくのみ島〈志ま 思ふ事とくのみしまのなか拍長くぞ頼むひろきめぐみを〉豐浦島〈長門 よそにみしとよらのしまの二心ありとしきけば更にたのまず〉千島〈ゑぞ也、ゑぞがちしま共云り、〉竹生島〈近江、なみにうつろふあけの玉がき、〉千香島〈肥前、〉
p.1344 〈ちどり、〉雄島〈わうしう、月、おきのつりふね、時雨、あまのぬれ衣、かち枕、岩、秋のよの月、やちとりとまや、松、〉我島〈あき、鶯、わたづみのをき所、〉渡島〈はりま、明石がたせとヽはきけど春霞わたりのしまを猶ぞへだつる、〉別島〈出羽〉神島〈紀州 月よみの光を清み神島のいそまのうらにふなでしわれは、千鳥、もにすむ虫、鴨、松、備中小田郡に同名有、神社あり、 神島の波のしらゆふかけまくもかしこき御代のためしとぞ見る、〉鹿島〈常陸 是をあられふりとつヾくる事は、かしましきと云説詞也、あなかしましと世俗に云も、かしましと云也、又旅のはじめを、鹿島と云事、神功皇后、もろこしをせめ給し時、鹿島香取の二神、三月初巳日門出し給しよりかく云と云々、 あられふり鹿島の神を祈つヽすめらめくさに我はきにしを〉香島〈能登 かしまよりくまきをさして漕舟のかぢ取まなくおもほゆ、又紀州部しに同名有、みつなへの浦鹽みつなか島なる釣するあまをみて歸こん、〉からかの島〈播州 玉もかるからかの島にあさりするいもにしあれば家おもはざらん みつしほのからかの島に玉もかるあまヽも見えぬ五月雨のころ〉笠島〈安房、或云上總 くさかけのあらゐの崎のかさしまを見つヽか君が山ぢこゆらん〉かこの島〈播州 たつ、月、松原、戀、あからかしは、萩、鹿、女郞花、〉笠結島〈豐前 たななしを舟〉懸島〈未レ勘 卯花よいでこごとしとかけしまの浪もさこそは岩を越しか〉笠縫島〈豐後〉輕島〈大和〉笠間島〈周防 八雲御説〉加利島〈長門 ながとなるおきつかりしまをくまへて我思ふ君は千とせにもがも〉河島〈攝州 あひみては心ひとつをかはしまの水のながれて絶しとぞおもふ、千鳥、下の心を、なでしこ、〉屍島〈はりま むかし人名を殘す〉かち島〈丹波、曉の夢に見えつヽかちしまの岩こすなみのしきてしぞおもふ〉よ謝大島〈丹後 又與謝小じま共云、松風、〉高島〈近江、備中同名在之、見ほの杣山、みほの中山、杣たてヽ、此見ほをそへたるは、びつ中には有べからず、月、たづ、なは、かり、雲かヽる、まきもひはらも、氷、雪、石、かちのにかヽる夕立の空、かちのも近江也、〉玉津島〈玉つしまみれどもあかずいかにしてつヽみてもこんみぬ人のため、うらのまなこ、ふかき入江をこぐ舟の、うきたる戀、きしたつなみ、光をみがけ、玉つしまひめ神社あり、もしほぐさ、雪つもるわかの松原、玉も、たむくるからに、ことのはの、露にもみがく、〉玉島〈肥前 玉つしまのこの河上に家はあれどきみをやさしみあらはさずありき〉田蓑島〈攝州 白妙の鶴の毛衣、あま衣、あられ、五月雨、名にはかくれぬ、菊、御祓、とまやかた、〉橘島〈河内 たちばなのしまにしあれば河とをみさらさでぬひしわがした衣〉竹島〈すわう 竹しまの跡白なみはよどむ共われは家おもふ庵りかなしみ、よするさヾ波、或云近江、〉橘小島〈山城 山吹、袖ふれし昔おぼえて、うま舟、袖の香猶のこるらん、〉多波禮島〈肥後 まめなれどあだ名はたちぬ、なみのぬれ衣、名にしおはヾ、あだにぞおもふ、〉多胡浦島〈奥州 あまた度君が心をみちのくのたごのうらしまうらみてぞふる〉袖島〈紀州 しほたるヽあまの袖しまこぎかくれおさふるそでも人めよくらん〉鶴島〈出羽 雲ゐ、あし、〉筑紫小島〈筑前 山とぢのきびのこじまを過てゆかばつくしのこ島おもほゆるかも〉机之島〈能登 つくゑの島のしたたみを、いひちにもてき、辛鹽、〉角島〈同レ右 つの島のせとのわかめは、人のをも、〉なき島〈はりま むろのうらあるせとの崎なりと云り、或はなだのしま共云、〉長門島〈長門、又安藝に同名有、我命ながとのしまの小松原いく代をへてか神さびわたる、ひぐらし、蝉、〉なきなの島〈陸奥、八雲御説、〉鳴島〈室の浦のせとのさきなるしまといへり、なき島の事歟、〉室島〈播州 むろの浦のせとのさきなるなり島の磯こす波にぬれぬらんかも、せとのはや舟、友舟、千鳥、又むろの鳴島と云侍り、只室島と云は如何、此歌もなる島と有、〉室八島〈下野 いかにかは思ひあり共しらすべきむろの八島の煙ならで〉
p.1345 〈は、宿もがな五月雨、霧、戀の煙、千鳥、くるる夜は、ゑじのたく火をそれとみよ、〉浦初島〈攝州 又紀州同名有、月戀、霧、雪、ゆきて見まし、湊こす、鹽風、〉歌島〈はりま 舟にはのりの〉浦島〈丹後、つり舟、うつせ貝、浦しまの子が箱、 あけば又くやしからましみづの江のうらしまがすむ春の明ぼの〉宇土小島〈肥後 月、ながむればおもひのこせる、〉浮島〈奥州 松、人の心をうきしま、ぬれぎぬ、鹽がまのまへにうきたる浮しまのうきて、〉宇留間島〈非二日本一歟、一説をきなふを云と、おぼつかなうるまのしまの人なれや我ことの葉をしらずがほなる、〉野島〈近江 同名多し、庵、紀州には、あこねのうらの玉ぞひろはぬ、淡路には、 朝なぎにかち音きこゆみけつくに野じまのあまの船にあるらん、玉もかる、夏くさ、〉能登島〈とぶさたてふな木きるてふのとのしま山けふみればこたちしげしも、いく世神さび、〉奧島〈攝州 難波浦にそむきてみゆるおくのしまこぎまふ舟はつりをすらしも〉おきつ島〈八雲御説、近江さて神、〉興小島〈いづ はこねぢをわがこえくればいづの海やおきのこじまに波のよるみゆ、隱岐に有二同名一、濱びさし、楸、日晩、薩摩にも有二同名一、 さつまがたをきのこじまにわれありとおやにはつげよ八重のしほ風〉興津借島〈長門 おくまへて〉老津島〈三河 老津島しまもる神やいさむらん波もさはらずわらはへのうら〉おのころ島〈あはぢを云也、總名也、〉大島〈備前 つくしぢのかたの大しましまらくもみねば戀しきいもおきてきぬ、大しまに水をはこびしはや舟のはやくも人にあひみてしかな、思ふ事なをしきなみに大しまのなるとはなくて年のへぬらん 都にと急ぐかひなく大しまのなだのかけぢは鹽みちにけり、なかるヽ人のかへしかへらぬといへるは伊豆也、〉大和島〈あまさがるひなのなかぢを漕くれば、あかしのとよりやまとしまみゆ、やまとしまは日本の總名を云也、いづくとは定なき歟、但さして一所も有歟、〉八十島〈奥州 鹽がまのうら吹風にきり晴てやそしまかけてすめる月かげ いく度か霜はをきけん菊の花やそ島かけてうつろいにけり〉八島〈近江 けぶり、河ぎり、〉松島〈奥州 あさりするあま、磯にむれゐるあしたづ、衣うつ、戀、千鳥、紅葉、月、とまや、あまのすて衣、時雨、老の波、しほやくあま、やく鹽のけぶりの末も、しほ木、あふこと、又月をまつしまなどヽそへたり、をじまがいそをも、〉松賀浦〈同レ右 音に聞松がうらしまけふぞみるむべも心あるあまはすみけり、もしほ火、霜、月、しほかぜ、雪、あまのもしほ木、あしたづ、しほのひる、藤、都のつと、〉籬島〈同レ右、卯花、螢、常夏の花、しほやき衣、あまのいさり火、あまのいさり舟、秋ぎりのまがきのしま共、梅の花貝、きくのしら露 我せこをみやこにやりてしほがまのまがきの島の松ぞ戀しき〉槇島〈山城、衣うつ、あじろ、 宇治河の河瀬も見えぬゆふぎりにまきの島人舟よばふ也〉小松島〈丹波 千代を君に始てゆづれ島青き小松がくれにあそぶまな鶴〉しか島〈筑前 糟屋郡、有二神社一、連歌、 つれなくたてるしかのしまかな 弓はりの月の入にもおどろかで〉しのび島〈八雲御説〉繪島〈あはぢ うつす松、霞、櫻、月、千鳥、紅葉、雪、みなと、山、とことはに吹しほ風、〉江島〈相州 えのしまやさして鹽ぢぞ跡たるヽ神はちかひのふるきなるべし〉ひめ島〈攝州 いもが名は千世にながれんひめしまの小松がうれに苔のむすまで、つる、或云豐後、〉引島〈備後、網のうけなは、〉百津島〈相州、或云伊豆と云、 百津島あしがらを船あるきおほみめこそかるらめ心は思へど〉見目浦班島〈肥前〉須賀島〈紀州 すが島のなつみの浦による浪のあひだもをきて我思へなくに〉志賀小島〈筑前 から人の舟、すめ神、〉
p.1345 於レ是陰陽始遘合爲二夫婦一、及レ至二産時一、先以二淡路洲(○○○)一爲レ胞、意所レ不レ快、故名之曰二淡路洲一、迺生二
p.1346 大日本(○○○)〈日本此云二耶麻騰一、下皆效レ之、〉豐秋津洲(○○○○)一、次生二伊豫二名洲(○○○○○)一、次生二筑紫洲(○○○)一、次雙三生隱岐洲(○○○)與二佐渡洲(○○○)一、世人或有二雙生一者象レ此也、次生二越洲(○○)一、次生二大洲(○○)一、次生二吉備子洲(○○○○)一、由レ是始起二大八洲國之號一焉、即對馬島(○○○)、壹岐島(○○○)、及處々小島(○○○○)、皆是潮沫凝成者矣、亦曰二水沫凝而成一也、
p.1346 故爾反降、更往二廻其天之御柱如一レ先、於レ是伊邪那岐命、先言二阿邪邇夜志愛袁登賣袁一、後妹伊邪那美命、言二阿那邇夜志愛袁登古袁一、如レ此言竟而御合、生二子淡道之穗之狹別島一、〈訓レ別云二和氣一、下效レ此、〉次生二伊豫之二名島一、此島者身一而有二面四一、毎レ面有レ名、故伊豫國謂二愛〈上〉比賣一、〈此三字以レ音、下效レ此也、〉讃岐國謂二飯依比古一、粟國謂二大宜都比賣一、〈此四字以レ音〉土佐國謂二建依別一、次生二隱伎之三子島一、亦名天之忍許呂別、〈許呂二字以レ音〉生二筑紫島一、此島亦身一而有二面四一、毎レ面有レ名、故筑紫國謂二白日別一、豐國謂二豐日別一、肥國謂二建日向日豐久士比泥別一、〈自レ久至レ泥以レ音〉熊曾國謂二建日別一、〈曾字以レ音〉次生二伊伎島一、亦名謂二天比登都柱一、〈自レ比至レ都以レ音訓レ天如レ天、〉次生二津島一、亦名謂二天之狹手依比賣一、次生二佐度島一、次生二大倭豐秋津島一、亦名謂二天御虚空豐秋津根別一、故因二此八島先所一レ生、謂二大八島國(○○○○)一、然後還坐之時、生二吉備兒島一、亦名謂二建日方別一、次生二小豆島(○○○)一、亦名謂二大野手〈上〉比賣一、次生二大島一、亦名謂二大多麻〈上〉流別一、〈自レ多至レ流以レ音〉次生二女島(○○)一、亦名謂二天一根一、〈訓レ天如レ天〉次生二知訶島(○○○)一、亦名謂二天之忍男一、次生二兩兒島(○○○)一、亦名謂二天兩屋一、〈自二吉備兒島一至二天兩屋島一并六島〉
p.1346 二十二年四月、兄媛自二大津一發船而往之、天皇居二高臺望二兄媛之船一、以歌曰、【阿波旎辭摩】(アハヂシマ)、異椰敷多那羅弭(イヤフタナラビ)、【阿豆枳辭摩】(アヅキシマ)、異椰敷多那羅弭(イヤフタナラビ)、豫呂辭枳辭摩之魔(ヨロシキシマシマ)、 伽多佐例阿羅智之(タカタサレアラチシ)、吉備那流伊慕塢(キビナルイモヲ)、阿比瀰菟流莫能(アヒミツルモノ)、 九月丙戌、天皇狩二于淡路島一、〈◯中略〉天皇便自淡路一轉以幸二吉備一、遊二于小豆島一、
p.1346 於レ是天皇戀二其黒日賣一、欺二大后一曰、欲レ見二淡道島一而幸行之時、坐二淡道島一、遙望歌曰、淤志氐流夜(オシテルヤ)、那爾波能佐岐用(ナニハノサキヨ)、伊傳多知氐(イデタチテ)、和賀久邇見禮婆(ワガクニミレバ)、【阿波志摩】(アハシマ)、淤能碁呂志摩(オノコロジマ)、【阿遲摩佐】(アヂマサ)一【能志麻】母美由(ノシマモミユ)、佐氣都志摩美由(サケツシマミユ)、
p.1346 高市連黒人羈旅歌八首〈◯中略〉
p.1347 四極山(シハツヤマ)、打越見(ウチコエミレ)者、【笠縫之島】搒隱(カサヌヒノシマコギカクル)、棚無小舟(タナナシヲブネ)、
p.1347 題しらず よみびとしらず なにはがた鹽みちくらしあま衣たみのヽ島(○○○○○)にたづ鳴わたる
p.1347 さくら さくら島(○○○○)、薩摩にあり、鹿兒島に向へり、近年山上に火もえ出たり、
p.1347 櫻島ハ、周回六七里、其山ノ形富士ニ似タリ、古老ノ説ニ、此山應仁二年、文明三年、同八年、安永八年、何レモ火起テ、焚島ノ患アリケルトイフ、島隱漁樵集、歴二七里原一、西南有二一島一、曰レ向、文明丙申秋、火起焚レ島、煙雲簇也、塵灰散レ之、青茅之地、忽變二白沙堆一、滄桑之嘆、不レ克レ蔑一于懷一ト記セシハ、其一ナリ、
p.1347 櫻島 本朝文粹等亦云二向島一、武備志同、是麑島に對備するの名なり、櫻島といふは、むかし櫻花一葉、海上に浮てよりなれる島ゆゑ名つけしと云舊説あり、蓋木花開耶姫の名によりしなるべし、方角集に薩摩の内に收めしは誤なり、 府東海上一里周回七里 山上八分より上は、三條の外路なし、渉るを一里といひ、降るを十八丁と云、皆九折の嶮岨なり、巓に湖あり、嶺に神祠あり、彦火々出見尊を祀る、又月夜見尊、火闌降命をも配祀すと云、故に兎を愛して、島民其名を諱て敬謹するものは、月夜見尊を奉祀するが故といふ、
p.1347 山汐 安永年間、薩摩の櫻島、山大に燒て、後山上より大水溢れ出て、田地民家大に損ぜり、所の人これを山汐といふ、抑此櫻島といふは、海中にありて、麓のめぐり七里、山の色黒く、一峯に聳て、比叡山二ツばかりも重ねたるごとくに高し、ふもとのめぐりに人家田地ありて、富饒の所なり、其峯の燒たりし事は、希代の珍事にてくわしき事は、別卷にしるせり、其燒漸鎭りて、人々も再び活たる心
p.1348 地して悦あへる所に、或日又山の峯震動しておびたヾし、すはや又燒上るかと見る程に、山の峯より雪をとけるがごとき物、眞逆様に落來る、何事かといふ程こそあれ、大水山を碎き、石を飛し、樹木を拔てまくり落る、其水先きに當る所は、人家田地の差別なく、唯一刻の間に大海へ突出せり、さばかりの嶮岨なる高山の峯より、海を切り落せるがごとき大水、眞さかさまに落來る事なれば其勢ひの急なる事たとへんものなし、人馬ともに逃るいとまもなく、しかと見定めたる者もなしとかや、予も其地に渡りし時、其跡をみたりしに、其水すじは大なる谷となり、其傍の田地の中、或は小だかき岡の上などにも、大さ貳丈三丈、あるひは五丈、六丈にも及べる石ながれ殘れり、かヽる大石の事なれば、人力に動かす事もあたはず、田畑などもさまたげられながら、其まヽに捨置り、是を見るにも、まことにかヽる大石の、水の爲にながれ下れる事、其時の水勢思ひやられたり、今も櫻島の小兒のうたふ歌をきけば、島のおたけかどろ〳〵鳴るぞ村丈(ムラヂヨ)によにげ、山汐が來るとうたへり、其ときのおそろしかりけん事、みるがごとくなり、 すべて高山大やけの後は、多く大水溢れいづる事あるものなり、天明癸卯、信州淺間がたけ大燒の時の洪水も、おびたヾしかりし事、みな人のしるところなり、その委敷事は、又別卷にしるせり、
p.1348 薩州隅州の海中に在レ之櫻島神火の次第 安永八己亥年九月廿九日之夜酉の刻、地震、明ル十月朔日卯刻より、御嶽南の峯に少し、煙立登るとみへしより、段々と盛んに相成、午の刻に至、山の腰前後六七合目より神火燃上り、黒雲のごとく成煙のぼる事、高サ凡五六里計、光焰の中、霹光曜々、諸人目を驚す事限なし、燒石霰のごとく降ちらし、木石壹丈貳丈の石も、火勢にて微塵となる、四方八方へ飛散、其上國中一時の間に、地震十度程宛の震動、御嶽火焰の響き晝夜とも雷鳴のごとし、凡國中手に取様に相聞、勿論近國へも響
p.1349 きわたり、火焰天に滿條故哉、近國日州肥後筑後邊の御大名方より、追々御見舞之御使者在レ之候、折能西風にて、御城下鹿兒島は降物無レ之處、吹戻之風にて壹寸許も灰降つもり候、當日迄も燃止事なく、六七日以前より燃下り海邊まで燃候はヾ相鎭り可レ申哉、比日は晝夜とも諸事不二取敢一、銘銘逃支度用意而已に御座候、御嶽後邊堺牛根村貝潟中㑨垂水邊迄は、燒灰凡六七尺計降積、晝夜とも暗夜のごとくにて、挑灯にて往來致候、尤燃がら石東西南北へ飛散、海中に二三尺燒石積り、其上灰降、依レ之海上船之渡海難レ成候、御嶽前邊へ燃出候時は、鹿兒島へは早速遁退候積にて、家財諸道具銘々土藏へ詰、用意いたし候も、はや火勢も少うすく相成候得共、大雨いたし候迄は、日和にても傘にて往來いたし候間、鳥類は燒落、獸類燒死、海中湯の如くにて、魚類夥敷死し浮上り候、燒失所々多、總村數十八ヶ村、燒死人數委細未難レ知、凡九千六百人餘、牛馬貳千八百餘、不レ殘綱切追放し候、寔牧場のごとし、尤當九月廿八日廿九日兩日は、島中之御祭にて、諸方より人數夥敷入込有レ之候處、俄の大變騷動、諸人膽をつぶし恐れわななき、我も〳〵と船に飛乘、命から〴〵方々へ遁渡り、危命助しも有レ之、火急の變事故、船々へのりおくれ狼狽、左右の火焰の中に取卷れ、或は岩石飛落打ひしがれ死するもの數不レ知、然し博奕谷と申所に岩窟有レ之、此所へ數多遁込候處、焰石落かヽり、岩窟の入口埋れ死するもあり、其中に命有ものは、燒落たる鳥類など食物にして、五六日之間露命つなぐもあり、御嶽後の瀬戸と申所、島より向ひ地へ半里計有レ之候、その海中深サ八九十尋之所、燃がらの石にて埋もれ、一面に干潟のごとし、寔信州諏訪の海同前に歩渡り、致命助り候者も數多有レ之、助命の人數、當分鹿兒島御物より御養ひ被二仰付一候、前代未聞大變故、御國中寺社方晝夜御祈禱無レ限候、古今珍事、則繪圖相認差上候、御覽可レ被レ成候、以上、 亥十月十三日出 從薩州 續日本紀曰、人皇四十七代、廢帝寶字八年十二月似二雷ニ一雷爾アラズ、時爾當二大隅薩摩ノ堺一、烟雲
p.1350 晦冥而七日之後天晴、於二鹿兒島ノ信爾村ノ海一、沙石自集、化而三島ト成、炎氣鑄形勢ノ如ク相ツラナル、望見レバ四阿(アヅマヤ)ノ屋根ニ似タリ、爲二島ノ一埋ル物、民家六十二區、口十餘人也ト云、
p.1350 松島(○○) 在二仙臺之東一〈七里〉 海中有二小嶼一、數百曲洲環浦奇峯異石、寶是天下絶景、而其島或似二地藏、毘沙門、二王、大黒、惠美酒、布袋等之像一、或肖二太鼓屏風甲冑等之形一者、不二悉記一、雄島、籬島、千貫島、松島、殊名高、故以二松島一爲二總名一、貴賤乘二小舟一、巡廻遊宴、凡不レ經二十餘日一者不二盡見一也、
p.1350 松島 只二人鹽竈の浦より松島の雄島(○○)まで、二里半の所を、賃錢纔に四百文にて、小船一艘を買切漕出す、天氣殊にのどやかにて、風さへ靜なるは、天幸を得たりといふべし、東に向ふて行くに、岸より纔に五六丁の所に小き島あり、辨天島(○○○)といふ、夫より十八町にして、かの名たヽる籬が島(○○○)あり、右の方に東宮濱といふ里あり、向ふの沖の切戸の出崎を湯が崎と云、左の方崎山と云、皆漁家なり、籬が島より左に折て舟の頭北の方に向ふ、東の方に島々連れり、大なる島近く隔りて、其島の切戸より東海を見る、其大なる島より外にある島々、我舟の通るに從ふて、北よりして南に移る、小き切戸より數々の島々を繰出す事の如きかヽぐるを見る如く、又芝居抔の引道具をみる如し、其島皆甚大ならずして色々の形あり、多くは皆其形を以て島の名とす、地藏島(○○○)、烏帽子島(○○○○)等、其形尤よく似たり、其外、 筆捨島 沖唐戸島 松の島 水島 兩犬島 鍋島 親船島 屋形島 二子島 鐘かけ島 蛇島 鼓島 太鼓島 青海島 汐干島 松が浦島 橋かけ島 旗が島 内裏島 后島 都島 二王島 鹽燒島 物言島 主水島 柵島 箕輪島 鎧島 籠島 化粧島 鞍懸島 あぶみ島 貝の島 伊勢島 小町島 毘沙門島 大黒島 夷島 ふくら島 雄島
p.1351 旭島 翁島 千貫島 經の島 猶此外船頭色々の島をさして教へしかど、書しるすまに船行過て、四方の景色を見洩さじとするに、心のいとまなくして十分の一もしるし得ず、八百八島有りと云、誠に數百に餘れりと思ふ、鹽竈の千賀の浦より、松島迄二里半の間、泉水の如く海亦甚深からず、五六尺或は七八尺計に見えて、底甚明なり、かくの如く、島の間皆入海なれば、風ありといへども波立事なしといへり、此島島の松皆赤色にして枝皆下に垂れ、作れる松の如し、故に其景色艷美にして猛からず、扨舟を雄島に付て上り見るに、雄島頗る大なり、此島は見佛禪師の座禪の地なり、其堂宇今に連れり、島の南邊に高さ一丈に餘れる碑有り、元の僧寧一山鎌倉建長寺に住持せし時、見佛禪師の爲に書する碑にして、字體は草書なり、苔封じて文字見がたき所多し、世の人石摺にして珍重する石碑なり、其外此雄島には芭蕉の朝な夕なの吟をはじめ、俳諧者流の發句の碑、或は騷人の詩碑等甚多し、然れども此佳景に對すべき作は有ぬとも覺へず、扨雄島見めぐりて大なる橋を渡り、他の島にのぼり、又其島より橋にて松島に渡る、今松島と名付る所は陸地にて町家軒を並べたり、多くは皆旅館なり、松島の町耕作の地少ければ、農人にもあらず、又此地は瑞巖寺の下にて殺生禁制の所なれば漁獵の者にもあらず、他の街道にあらざれば商家にもあらず、大かたは只松島の景色遊覽の人を宿して、渡世とする事なり、
p.1351 うるまのしま(○○○○○○) おぼつかなうるまの島の人なれや 我ことの葉をしらぬがほなる 顯昭云、これは公任卿の歌也、うるまの島の人の、こヽにはなたれて、こヽの人の物云を、聞もしらでなんあると云比、返事せぬ女につかはしける也、
p.1352 ◯
p.1352 洲 爾雅云、水中可レ居者曰レ洲、李巡曰、四方皆有レ水也、音州、〈和名須〉
p.1352 所レ引釋地文、説文作レ州、云水周二遶其旁一、从二重川一者堯遇二洪水一、民居二水中高土一、故曰二九州一、是州本洲渚字、轉注爲二九州一、故州渚字、俗從レ水、以別レ之也、釋名洲聚也、人及鳥獸所二聚息一之處也、廣雅、州居也、契冲曰、須與二栖巣一同語謂下人所二居住一之處上、愚謂、須清冷之義、州必單砂、無二汙泥一、故名レ須、
p.1352 洲シマ 古語にシマといひしは、スミの轉語なり、水中可レ居之所なればスミといふ、その語轉じてシマといふなり、八洲知之といふ事を、八隅知之ともいふこれ也と、萬葉集抄に釋せし誠に然なり、舊事紀には、洲字讀てシマと云ひしを、古事記には、島の字に改めしるせし事は、太古の時には、沙をよびてスといひけり、スヒチ子の神、沙土根としるされしが如き此義なり、後に沙洲の義によりて、洲の字をば、其字の音のまヽにスと讀み、〈洲の字の古音は、スと讀みしなり、〉シマといふには島の字を用ひ、沙をばまたスナゴなど讀しが故なり、
p.1352 す〈◯中略〉 洲をよむはしう反音也、其證古事記に見えたり、渚をよむは洲より出たり、
p.1352 洲 〈同名所〉 おきつ洲 しら洲 なが洲 あきつ洲 かは洲 いる洲 濱洲 洲さき ひし〈洲の事也、必しとかけり、ひし里など云も、河海等の中にあるさとヽ云々、〉 いちの洲 みなと洲 する洲 洲はま〈洲濱一説也、可レ決事也、〉 長洲〈攝州河邊郡淀川尻 人しれずおつる涙はつの國のながすとみへて袖ぞくちぬる、あしたづ、〉
p.1352 濱名の橋につきけり、〈◯中略〉とのうみはいといみじくあらく、波たかくて、入江のいたづらなるすどもに、こと物もなく、松原のしげれる中より、浪のよせかへるも、いろ〳〵の玉のやうにみえ、まことに松の末より波はこゆるやうにみえて、いみしくおもしろし、
p.1353 けふ五日、〈◯康應元年三月〉雨風はげしくなりてあまのをしてもいとヾたゆきにや、夜中ばかりになりてたて崎とかやいふ海中にいかりをおろして、御舟をとヾめらる、四方の空くらかりしかば、御舟を洲にこぎかけしかども、わづらひなかりき、