p.0195 三大橋(○○○) 山大 近二 宇三 山崎(○○)〈山城〉 勢田〈近江〉 宇治
p.0195 大橋(○○)〈略頌云 山大 近二 宇三〉 山崎〈今大渡歟〉 近江〈勢多〉 宇治
p.0195 三大橋〈山崎、宇治、勢多〉 ◯按ズルニ、山崎橋斷絶ノ後ハ、淀橋ヲ加ヘテ猶ホ之ヲ三大橋ト稱セリ、
p.0195 三大橋(○○○) 宇治橋 山城宇治川ノ流ニ渡ス 淀大橋 山城木津川ノ流ニ渡ス 勢田橋 江州湖水ニ渡ス
p.0195 山城國大橋五(○○○○○○) 三條橋 五條橋 淀大橋 伏見豐後橋 宇治橋
p.0195 大坂大橋三(○○○○○)
p.0196 天滿橋 天神橋 難波橋
p.0196 大江橋〈(中略)近江川の下流、(中略)今川幅狹く成ツて三橋を架す、一ニ天滿橋、(中略)二ニ天神橋、(中略)三ニ難波橋、(中略)是を浪花三大橋(○○○○○)といふ、〉
p.0196 東武三大橋(○○○○○)〈兩國、六郷、千住、〉
p.0196 三大橋 兩國橋、武藏下總堺に、かけたる橋なり、 千手橋、淺草川上に渡、 六郷橋、川崎村、
p.0196 四大橋(○○○)江戸の四大橋は、もと三大橋といひて、兩國橋、大橋、永代橋の三なりしを、安永三年に淺草の大川橋出來しより、四大橋となれり、
p.0196 文政二卯年、十組引受三橋(○○)相止書付、 本所見廻江 永代橋、新大橋、大川橋共、菱垣廻船積仲ケ間十組問屋共引受罷在候處、以來引受、并三橋會所共相止、〈◯中略〉其外之儀者、是迄之通相心得可レ被レ申候、 卯六月
p.0196 東路大橋(○○○○) 勢多〈江州〉 矢矧〈三州〉 吉田〈同上〉 六郷〈武州〉
p.0196 吉田 江戸より京までの間に、大橋四あり(○○○○○)、武藏の六郷、三河の吉田、矢矧、近江の勢多なり、〈◯又見二驛路の鈴、東海道名所記一、〉
p.0196 鎌倉十橋(○○○○)〈琵琶、筋違、歌橋、勝橋、裁許、針摺、夷堂、逆川、亂橋、十王堂、〉
p.0196 筋替橋〈附(中略)鎌倉十橋〉
p.0197 鎌倉ノ十橋ト云ハ、琵琶橋、筋替橋、歌橋、勝橋、裁許橋、針磨橋、夷堂橋、逆川橋、亂橋、十王堂橋ナリ、
p.0197 香取大神宮 七橋(○○) 大坂橋 五段田橋 萓田橋 小山橋 下井橋 氷室橋 地口橋
p.0197 七橋之事 大坂橋 津宮の方より神宮に來人、五段田橋、此橋を渡て到なり、 五段田橋 十一月七日夜、此橋を祭るなり、 萱田橋 津宮丁子の方より來人此橋を渡り、奴久井坂を登て到なり、 小山橋 丁子村の方より來人此橋を渡り、御手洗坂を登て到なり、 下井橋 新市場村の方より來人此橋を渡り、下井坂を登て到なり、 氷室橋 吉原村の方より來人此橋を渡り、氷室坂を登りて到なり、 地口橋 左原村の方より來人此橋を渡り、眞禰井坂若宮坂を登て到なり、此橋邊の水田字を地口と云、此神田の名なり、〈◯中略〉右是を七橋と云、何も少橋なり、
p.0197 はしは あさむづの橋 ながらのはし あまびこの橋 はまなのはし ひとつ橋 さのヽ舟橋 うたじめの橋 とヾろきのはし をがはの橋 かけはし せたの橋 木曾路のはし ほり江の橋 かさヽぎのはし ゆきあひの橋 をのヽうきはし やますげの橋、名をきヽたるおかし、 うたヽねの橋
p.0197 橋 いたヾのはし〈おばたゞの〉 まヽのつぎはし〈かつしかの〉 さのヽふなばし
p.0198 橋 うぢはし〈山 古今 橋姬〉 よどのつぎ〈同〉 せたのなが〈近〉 ふるのたか〈大〉 くめのいは〈同撰かつらぎのはしとも、只いは橋とも、吉野與二葛城一之際也、 又後撰には、くめのかけはしともよめり、かつらぎの神のわたしけるはしなり、〉 おほはし〈河内 万〉 ながらの〈攝 古〉 まのヽつぎ〈同 万、まのゝとも、まのゝ浦の〉 いたヾの〈同 万おばたゞの〉 やつ〈參 拾〉 はまなの〈遠 後拾 濱にわたせり〉 さのヽふな〈上野 万 鳥なしとよめり〉 まのヽつぎ〈下野 万〉 をだえの〈陸 後撰 道雅〉 ときはの〈東近江 金太夫典侍 藤〉 きそのかけ〈信 きそのはしとも〉 ひづかはの〈山〉 をがはの〈筑紫 伊勢物語〉 みつ〈越中◯中略〉 あさむづの〈飛 催馬樂 又清少納言抄〉 あまびこの〈同抄〉 とヾろきの〈大 同〉 うたヽねの〈同〉 ほりゑの〈攝 同◯中略〉 おつのうき〈清少納言〉 やますげの〈下〉 まきのつき〈金 さいづがはにあり◯中略〉 たけがはの〈源氏〉 いはくまの おのヽふな〈詞 俊雅卿女歟〉 あたかの〈加〉 たみのヽ〈攝〉 さいはいの〈伊勢〉 なごのつぎ〈越後〉 ゆるぎの〈伊與〉
p.0198 橋〈四十一 同名所◯中略〉 板田橋〈攝州(中略)或云、大和にもありと云々、高郡云々、〉板倉橋〈備中、いなおほせ鳥、〉岩橋〈大和、くめの岩はし共、又かつらぎ共つゞけたり、◯中略〉濱名橋〈遠江◯中略〉堀江橋〈あしねはふ、戀わたる、〉橋下〈とをたうみ、月、松、〉常磐橋〈松にそへたり、藤、紅葉、奥州、或云江州、〉戸絶橋〈奥州◯中略〉十綱橋〈奥州、ひくつなのくるしき、世中はたえにき、〉とヾろきの橋〈近江◯中略〉千束橋〈近江◯中略〉小川橋〈(中略)奥州、筑紫、兩所に有歟、つくしよりこゝまでくれどつともなしたちのを河の橋のみぞある、但是はたちのを河也、別歟、〉緒絶橋〈◯中略〉尾總橋〈美濃◯中略〉於母和久橋〈奥州◯中略〉おのヽ江橋〈伊勢〉大橋〈河内、やどかさましや、此はし、かたあし川にある歟、〉渡邊大江橋〈攝州、五月雨、橋は造けん、◯中略〉唐橋〈山城、かくし題、ながらはしのぶ、〉苅野橋〈常陸◯中略〉淀繼橋〈攝州、よとともにつれなき人を戀わたる、夢、五月雨まのゝうらをそへたり、然ば下總有二同名一歟、〉田【G{草-早}/衣】橋〈攝州、八雲御説、〉垂間野橋〈筑前、とわたる舟、〉奈古繼橋〈佐渡◯中略〉長柄橋〈つの國◯中略〉宇治橋〈山城◯中略〉朽木橋〈奥州、ふみだにかよはぬ、〉黒戸橋〈越前◯中略〉久米路橋〈又くめの岩橋共、大和岩橋只同事也、◯中略〉矢橋〈近江、やはしのさゝを矢にはぎて鷺、〉山菅橋〈下野〉八橋〈三河玉柳、杜若、ざゝがにのくもであやうき、◯中略〉眞間繼橋〈下總◯中略〉眞野繼橋〈攝◯中略〉松島橋〈奥州藤波〉圓木橋〈信の、きそぢに有か、ふみみるもち月の駒、〉布留高橋〈大和、又かけはし共、◯中略〉ふたいの橋〈山城〉青柳橋〈近江、暮春落花、〉あたか
p.0199 の橋〈加賀〉淺水橋〈越前◯中略〉あさひつ橋〈八雲御説、催馬樂、〉あさむづの橋〈(中略)ひだの國とゑちぜんと云々〉佐野船橋〈上野◯中略〉さいわひの橋〈伊勢〉密語橋〈備後◯中略〉佐留橋〈遠江◯中略〉佐比江橋〈攝州玉〉木曾路橋〈信の◯中略〉みつ橋〈越中、八雲御説、〉三香野橋〈遠江◯中略〉三津河橋〈近江、みつの河橋、◯中略〉櫃河橋〈山城◯中略〉戻橋〈同、右なくとも鳥はしのび、〉勢多長橋〈近江、只勢多橋共云、◯下略〉
p.0199 鴨川橋 今無シ、今至二下鴨(○○)一其路河原ヲ行ナリ、按ニ此大社造營ノ時、何ゾ大路ヲ可レ不レ開哉ト、古老ニ尋ルニ、昔ハ西ノ堤ヨリ有レ橋、其所ハ今出河ノ北、寺町阿彌陀寺ノ地ニ當リ、其條鴨川ノ底ニ今猶大石アリ、是橋柱ヲ立シ石ナリト云々、又云、此路自レ此所レ在レ北大布施、鞍馬、貴船、一原、二瀬、畑枝等ノ里ヨリ東ノ通路也、
p.0199 祇園の百首千鳥〈かものかはばし、山城、〉 皇太后宮大夫俊成卿 河千鳥神をやたのむかもがはらはしのわたりをなきわたるなり
p.0199 長承三年六月十四日壬辰、御靈渡御間、大風雨、後聞鴨川橋破、
p.0199 祐茂記抄 安貞二年七月廿日、京師大雨、鴨河口出〈天〉橋流、人數百人死〈爪、◯中略〉春日大明神御祟之由有二沙汰一、
p.0199 一橋(○○)〈并辛橋(○○)〉
p.0199 なほ世にめでたき物 里なるときは、たヾわたるを見るにあかねば、御やしろまで行て見る折もあり、おほきなる木のもとに車たてたれば、松のけぶりたなびきて、火のかげにはんひのをきぬのつやもひるよりはこよなくまさりて見ゆる、はしの板をふみならしつヽ、こゑあはせてまふほども、いとおかしきに、水のながるヽをと、ふゑのこゑなどのあひたるは、まことに神もうれしとおぼしめすらんかし、少將といひける人の、としごとにまひ人にてめでたきものに思ひしみけるに、なくなりて上の御やしろの一の橋(○○○○○○○○○○)のもとにあなるをきけば、ゆヽしふせちに物おもひいれじとおもへど、な
p.0200 をこのめでたき事をこそ、更にえおもひすつまじけれ、
p.0200 御園、〈往昔、上賀茂社西南、賀茂川有レ橋、號二御園橋(○○○)一、〉
p.0200 元祿九年四月廿四日加茂祭也、〈◯中略〉騎馬從二堤通一渡二御園橋一、新造假橋也、至二賀茂一、
p.0200 戻橋(モドリバシ)
p.0200 一條反橋 在二堀河一條一、〈◯中略〉世人欲レ知二事之吉凶一、則出二反橋一、聞二往來之人言一而占レ之、是謂二辻占一、婦人特信レ之、倭俗四通街衢謂レ辻、
p.0200 戻橋 在二一條通堀河上一、渡二東西一、此洛ノ名橋也、傳云、安陪晴明十二神ヲ呪置處也、〈◯中略〉愚〈◯釋白慧〉按、晴明使神ヲ此所ニ呪シ住シムルハ、其居所ニ近キ故ナラン歟、其居一條堀河ノ西二町ノ所也、今猶晴明町ト云フナリ、夜陰此橋ノ邊ニ立テ往反ノ詞ヲ聞テ占問コト、古今ノ例ニシテ、感應嚴重也、
p.0200 戻橋(○○)は一條通堀川の上にあり、〈◯中略〉婚禮の輿入、この橋を通る事嫌ふは、橋の名によりてなり、又旅立人にものを貸時通るは、これに反すとやいふべき、
p.0200 淨藏は善宰相のまさしき八男ぞかし、〈◯中略〉父の宰相公〈◯三善清行〉の此土の縁つきてさり給ひしに、一條の橋のもとに行あひて、しばらく觀法して蘇生し奉られけるこそ、傳へ聞も有がたく侍れ、扨其一條のはしをもどり橋といへるは(○○○○○○○○○○○○○○○)、宰相のよみがへり給へるゆゑに名付て侍る(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、源氏の宇治の卷に、ゆくはかへるはしなりと申たるは、是なりとこそ行信は申されしか、宇治の橋といへるは、誤れる事にや侍らん、〈◯又見二壒嚢抄一〉
p.0200 攝津守頼光ノ内ニ綱、公時、貞道、末武トテ、四天王ヲ被レ仕ケリ、中ニモ綱ハ四天王ノ隨一也、武藏國ノ美田ト云所ニテ生レタリケレバ、美田源次トゾ申ケル、一條大宮ナル所ニ頼光聊有二用事一ケレバ、綱ヲ使者ニ遣サル、夜陰ニ及ビケレバ鬚切ヲ帶セ、馬ニ乘テゾ遣シケル、彼ニ行テ
p.0201 尋ネ問答シテ歸リケルニ、一條堀川ノ戻橋ヲ渡リケル時、東ノツメニ齡廿餘ト見エタル女ノ、膚ハ如レ雪ニテ、誠ニ姿幽ナリケルガ、紅梅ノ打著ニ守懸ケ、佩帶ノ袖ニ經持テ、人モ不レ具、只獨南ヘ向テゾ行ケル、
p.0201 久安四年六月廿八日甲寅、去比女房土左、〈余(藤原頼長)實母姊〉問二入内〈◯頼長養母近衞后多子〉事成否於一條堀川橋(○○○○○)一〈余不レ知レ之〉二度、始日曰、心ニ思ハム事不レ叶ト云コト有ナムヤ、後日云、住任レ理テ申サム、叶ハデ有ム慬事〈アルコト也、〉 七年正月十日壬午 久安六年十月二十六日辰、一條堀川橋占、〈左近府生秦公春注進〉 一ばんのことば ここ、ゆみとらせん、よヽいさとりあはせん、したりとりはよきに、いかなとむとりなりとも、もてた、あはせむ、よにまけじに、 又つぎのことば ほどもなく、これをみたびとほりぬ、なこれをますぐにいけば、あれはよびてこむ、
p.0201 中宮御産事 治承二年十一月十二日、寅時ヨリ中宮御産ノ氣御座スト訇ケリ、〈◯中略〉二位殿〈◯平清盛妻〉心苦ク思給テ、一條堀川戻橋ニテ、橋ヨリ東ノ爪ニ車ヲ立サセ給テ橋占ヲゾ問給フ、十四五許ノ禿ナル童部ノ十二人、西ヨリ東ヘ向テ走ケルガ、手ヲ扣ヘ同音ニ、摺ハ何摺、國王摺、八重ノ鹽路ノ波ノ寄摺ト、四五返ウタヒテ橋ヲ渡、東ヲ差テ飛ガ如シテ失ニケリ、〈◯中略〉一條戻橋ト云ハ、昔安部晴明ガ天文ノ淵源ヲ極テ、十二神將ヲ仕ケルガ、其妻職神ノ貌ニ畏ケレバ、彼十二神ヲ橋ノ下ニ呪シ置テ、用事ノ時ハ召仕ケリ、是ニテ吉凶ノ橋占ヲ尋問バ、必職神人ノ口ニ移リテ、善惡ヲ示スト申ス、サレ
p.0202 バ十二人ノ童部トハ、十二神將ノ化現ナルベシ、
p.0202 廿五日、〈◯文久四年正月、中略、〉一條戻橋は名のみ殘りて今はなし、
p.0202 もどりばし いづくにもかへるさまのみわたればやもどりばしとは人のいふらん
p.0202 戻橋 山城 かぎりなき人にあふ夜の曉に鳴とも鳥は忍びねになけ(懷中)
p.0202 山城國大橋五 三條橋
p.0202 三條橋 在二鴨川上一 欄干丸形、擬寶珠紫銅、橋柱石柱、橋行六十三間、幅四間五寸、
p.0202 三條橋は東國より平安城に至る喉口なり、貴賤の行人常に多くして皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬寶珠十八本ありて悉銘を刻、〈◯銘略〉
p.0202 江戸より京への入口は三條大橋なり、是加茂川なり、其先の小川にかヽり、又橋あり、是三條小橋なり、
p.0202 京三條橋 太閤秀吉公、増田長盛に奉行せしめ作る所也、東海道五十三驛これよりはじむ、橋の前後旅館多し、
p.0202 三條の橋より江戸日本橋まで里數百廿六里六町一間ありとぞ、
p.0202 天正十八年正月日關白〈秀吉〉令三右衞門尉長盛〈増田家人〉造二三條大橋一、〈銘曰、磐石之礎、入レ地五尋、切石之柱三十三本、 橋銘、蓋於(○○)二本朝(○○)一石柱始(○○○)二于茲(○○)一云、〉
p.0202 三條橋 天正十八年大橋掛渡されしより以前、橋のありしこと見あたらず、太平記などにも三條河原
p.0203 とのみ書たれば、慥なる橋は無りしと覺ゆ、
p.0203 三條橋 三條橋板馬蹄轟、忽爾夢醒入二洛城一、十萬人家雙眼裏、自疑離婁向上明、
p.0203 延寶二年四月十一日、畿内大水、流二三條橋一、多溺レ人、
p.0203 四條橋新造之記 延寶二寅年四月十一日、畿内近國悉く大洪水して、三條五條兩橋共に落損しけれども、程なく元の如く板橋に造らしめ給ふ事、實に有難き上の御惠にて、夫よりして後洪水有れども、此兩橋は恙なかりし、
p.0203 三條橋六十間、橋柱ノヒマ毎ニ三間ヅヽ也、今度〈◯延寶二年〉兩方ニテ六間ヅヽ橋臺出來スレバ、十二間短ナル也、橋ノ幅ハ五間也、
p.0203 元祿五年七月四日、雨浙瀝、至二辰刻一止、猶時々下、河水溶々、三條假橋流落、
p.0203 元文五年七月十六日、京師大水、破二三條橋一、 寛保二年八月、自二二十七日一至レ朔、畿内大雨風、京城内外大水、破二三條橋一、
p.0203 高山彦九郞傳 高山正之、上野人也、字彦九郞、家世農、正之生而俊異、喜讀レ書、略通二大義一、〈◯中略〉少入二平安一、至二三條橋東一、問二皇居何方一、人指示レ之、即坐レ地拜跪曰、草莽臣正之、行路聚觀怪笑、不レ顧也、
p.0203 三條の橋牛車を通さず、加茂川の中をわたる、
p.0203 弘化三年七月七日、京師大水、流二三條、五條二橋一、
p.0203 四條橋新造之記 近年加茂川筋暴雨のたび毎に、土砂の流れ出る事夥しく、次第に川床高く、所々に附洲出來て、弘
p.0204 化三午年七月七日の大風雨に加茂川洪水し、翌八日の曉、三條五條の大橋同時に損じ落ぬ、〈延寶以後百六十餘年の珍事也〉
p.0204 嘉永三年九月三日、京師大雨風、鴨川大溢、流二五條橋一二十間許、倒二其石架及三條石架一、五年七月二十二日、山城、丹波、大和大風雨、鴨、桂、淀、木津諸川、大溢皆決、流二三條橋十八間一、
p.0204 四條橋 何ノ世ヨリヤ板ヲ抛渡シテカクル、土人云、此地祇園神ノ領地ナリ、神此橋ノ全ク宜ヲ嫌ヒタマヘリ、改造レバ即崩ルト、此義非也、古橋アリ、和漢合運云、寶徳二庚午年、四條河原成二大橋一云々、
p.0204 四條板橋 四條加茂川ニ有、久壽年中には祇園橋(○○○)ト云、古記に見えたり、寶徳二年大橋成ト、改暦雜事記に見えたり、
p.0204 安貞二年七月廿日、風吹雨澤、洪水泛溢、四條五條等末橋流了、
p.0204 むかし貞和五年戍六月十一日、祇園執行行意〈◯西源二院本太平記作行惠一〉四條橋をかけはじめ、新座本座の田樂を興行し、老若男女棧敷をうちて、見物群集せしといふことあり、
p.0204 永享八年七月十二日、陰雨時々降、〈◯中略〉洪水出、四條橋落了、人流云々、
p.0204 寶徳二年六月七日、十四日、兩日ナガラ四條橋ヲ還幸、同以下此橋ヲバ地下人正等入道カケ申、四月ヨリ六月六日マデカケ畢、橋アタラシキニ依テ兩日共ニ相違ナリ、〈又見二東寺執行日記、改暦雜事記一、〉
p.0204 按るに、應安七年二月掛渡したる橋は、いつの比亡びしや不レ知、應安七年より寶徳二年まで七十七年、 ◯按ズルニ、應安七年ニ造リシ橋ハ、永享八年ノ洪水ノ爲ニ落チシ由、前條引ク所ノ看聞日記ニ見エタルヲ、本書ニハ漏セルナリ、
p.0204 寛正二辛巳年三月廿二日、有二欽命一云、爲二四條橋上餓死亡魂一、自二建仁寺一營二施餓鬼之會一、
p.0205 諸五山清衆可二勤修一焉云々、
p.0205 寛正二年四月十日戊辰、以二源相公命一、相國寺一衆、率二其派等持寺、等持院、眞如寺之衆一、於二四條坊橋上一、開二施食會一、以蔗二饑疫死亡之靈一、
p.0205 寛正二年辛巳、自二舊冬一至レ夏、諸國人民餓死、來二于京城一死者不レ知レ數、爲二彼亡魂一、於二四條五條橋上一、諸五山輪番大施餓鬼、
p.0205 熊野 四條五條の橋の上、老若男女貴賤都鄙、いろめく花衣、袖をつらねて行末の、雲かと見えて八重一重、咲く九重の花ざかり、名におふ春の景色かな、
p.0205 天文二年五月十五日、橋ナガレ候トテ、當社三本カ、四本カ、キリ候ナリ、 廿二日、水出候テ橋板二三ゲンヲチ候由申也、鳥井ノ方ヲチ候也、
p.0205 信長公にたいし、公方〈◯足利義昭〉御謀叛 の時節、〈◯中略〉上京に火かヽると見て、二條に候ひし者の妻、まづ我子をさへつれてのけばすむと思ひ、三ツ四ツなる子をせなかにおひ、はしりふためき、四條の橋のもとまでにげきたり、あまりくるしヽ、ちと子をおろしてやすまんとおもひ、他のうへにだうとをいて見れば石うすにてぞ候ひける、
p.0205 天正六年五月十一日、巳刻より雨つよく降、十三日午刻迄、夜日五日雨あらくふり續、洪水生便敷出候て、賀茂川、白川、桂川一面に推渡し、〈◯中略〉村井長門新敷被レ懸候四條之橋流れ、〈◯下略〉
p.0205 正保二年十一月、先レ是、幕府修二五條石橋一、〈◯中略〉古者鴨川諸橋中、五條七條石造、至二應仁一猶存、其後京師久亂、諸橋概廢、及三天正中秀吉東征發二京師一、徙(○)下四條橋于(○○○○)二三條(○○)一、五條橋于中坊門上修レ之云、
p.0206 四條祇園橋(○○○○○)とて、昔は三條五條に等く官橋(○○)也、〈◯中略〉洪水にて損じぬれば、後世假橋にてゆきヽをわたす、河原廣くして、觀物貨食茶鄽多し、特にみな月半、祇園の夕凉に美艷を粧ふ風姿のゆきヽ、万燈水の流に輝き河原表の壯觀、みな平天下の謳歌なるべし、 四條橋 栲亭 月照二紅樓一隱二翠楊一、徘徊倚レ檻夜如レ霜、蛾眉長袖青絲騎、箇箇寫成影也忙、 賀茂川の西岸に榻を下して 蕪村 丈山の口が過たり夕すヾみ 四條納凉 定雅 凉しさや群集の中に水の月 同じく 才嬌(浪花) 夕凉夜の都のにしきかな
p.0206 平けく安らけき大御代の御惠は、いゆき到らぬ隈しなければ、絶にし物どもヽ繼て興され、廢れにし事どもをも古にかへさるヽ中、今の大御世をうれしみ辱なみ、絶て久しく成ぬる四條大路の橋を樹渡さまく、祇園社の氏子の人々の思よりて、其よし公に請ぬぎまをししかば、ねぎしまに〳〵許し給ひ命せ賜ひて、かく成竟つるは、いともめでたく貴き言葉になも有ける、かくてぞ都のすがたも取よろひて、足ひにける、されば大神も阿那めでたあなおむかしと、めで賜ひ悦びたまひ、氏子の人等も常にまうづる道の妨なく何の煩なく、今より後は加茂の水絶る事なく、石の柱のすたることなく、天地のむた遠長く、彌次々に造繼もてゆかむ末の世人も、今の大御世の徳化を仰がざらめや、いそしみ成しつる人の功績をたヽへざらめや、 安政四年四月 美濃守六人部宿禰是香
p.0207 山城國大橋五〈◯中略〉 五條橋
p.0207 清水橋(○○○)〈云(○)二五條橋(○○○)一乎(○)〉
p.0207 五條大橋 六條坊門加茂川に有、元五條に有、〈今の松原〉故にもとの名を以テ呼レ之、長サ四拾四丈餘、加茂川と高瀬川とにまたがる也、
p.0207 これも今はむかし、たヾあきらといふ撿非違使ありけり、それがわかかりけるとき、清水のはしのもとにて、京童部どもいさかひをしけり、
p.0207 義朝六波羅被レ寄事并頼政心替事附漢楚戰事 サル程ニ六波羅ニハ、五條ノ橋ヲ毀チ寄セ、搔楯ニ搔キテ待ツ所ニ、〈◯下略〉
p.0207 安貞二年七月廿日、風吹雨澤、洪水泛溢、四條五條等末橋流了、漂沒之輩數輩云々、
p.0207 康永三年八月十五日、今朝彼是云、東大寺八幡宮神輿入洛、武士奉レ防之間、振二置五條橋上一、〈◯又見二細々要記一〉
p.0207 五條橋 或記云、後小松院應永十六年、新供二養五條橋一
p.0207 永享八年七月四日ヨリ八日マデ大雨、四條、五條、桂橋落流畢、
p.0207 文安五年戊辰五月、九月大雨長降、天下大水損破多、此年〈◯中略〉五條橋墮、
p.0207 寛正二年正月十二日甲寅、去年蝗潦風旱、相繼爲レ災國家凋耗弊亡、玆年正月、天下殺レ禮減レ食、飢餒者多、充飽者少、僧舍又止二方外之會一、 三月三日甲辰、清水寺有二淨僧一、是日於二五條橋下一、聚二死尸一作レ冢、其數一千二百餘人云、 廿九日庚甲、相公〈◯足利義政〉命二建仁寺之一衆一、開二施食會於第五橋上一、以薦二飢疫死亡之靈一、且書レ牌曰、盡法界沒亡靈、是日平旦作二是會一也、若干而作レ之、死屍爛壞之臭不レ可レ觸、故急
p.0208 務レ之云、
p.0208 卅六番 左 いたか いかにせん五條のはしのしたむせびはてはなみだのながれくわんぢやう
p.0208 五條橋 元架二五條末鴨河一、天正十八年(○○○○○)、件ノ橋ヲ六條坊門ニ引渡サル(○○○○○○○○○○○○○)、然猶呼(○○○)二五條橋(○○○)一也、今五條河原ニ昔ノ橋柱朽殘テ二三柱見ユ、
p.0208 正保二年十一月、先レ是幕府修二五條石橋一、令二觀音寺舜興等監一レ工、至レ是成、後數十年更二其欄板一木二造之一、此橋當時已在二六條坊門一、而其稱二五條一以三原架二五條磧一也、古者鴨川諸橋中、五條七條石造、至二應仁一猶存、其後京師久亂、諸橋概廢、及三天正中秀吉東征發二京師一、徙下四條橋于二三條一、五條橋于二坊門一、修レ之云、
p.0208 五條橋は初は松原通にあり、則いにしへの五條通也、秀吉公の時此所にうつす、故に五條橋通といふ、實は六條坊門也、欄干には紫銅擬寶珠左右に十六本ありて、北の方西より四ツ目に橋の銘あり、雒陽五條石橋正保二年乙酉十一月吉日、 奉行 〈蘆浦觀音寺舜興小川藤左衞門尉正長〉
p.0208 去ぬる壬寅〈◯寛文二年〉五月一日、京師大地震、感神院の石の華表たをれて微塵となる、五條の石橋こと〴〵く碎て川をうづむ、
p.0208 四條橋新造之記 五條橋は正保二酉年十一月、總石橋に御造替有しが、寛文二寅年五月朔日大地震にて崩落、以前の如く板橋と成る、〈此時五條橋の石材をば、繩手大和橋、并に三條白川橋、又堀川通三條中立賣下立賣の諸橋へわかち引れしが、中立賣下立賣の兩橋は崩れて今板橋に改たまる、◯又見二地名便覽一〉
p.0209 四條新造之記 延寶二寅年四月十一日、畿内近國悉く大洪水して、五條橋落損じけれども、程なく元の如く板橋に造らしめ給、〈◯中略〉 嘉永三戍年九月三日、風雨にて五條橋少し欠落、猶また同五子年七月廿一日、夕より暴風強雨して、廿三日の朝に至、俄に加茂川洪水漲出て、三條五條の二橋損じ落、又々八月十六日にも洪水有て、三條五條の假橋さへ流失せしかば、暫しながらも往來絶たり、〈即時に船橋を掛させ給ひしかば、通路滯りなし、〉
p.0209 弘化三年七月七日、京師大水、流二三條五條二橋一、 嘉永三年九月三日、京師大雨風、鴨川大溢、流二五條橋二十間許一、 同五年七月二十二日、山城〈◯中略〉大雨風、鴨、桂、淀、木津諸川、大溢皆決、流二〈◯中略〉五條橋三十六間一、多倒二五條石架一、
p.0209 山埼橋〈本朝事始云、聖武天皇神龜三年、行基法師造二山埼椅一、〉
p.0209 大橋〈◯中略〉 山崎(○○)〈今大渡歟〉
p.0209 乙訓郡 山崎橋 桓武天皇延暦三年甲子七月、造二山崎橋一、同年遷二都於山城長岡郷一、今橋絶、
p.0209 山崎橋 斷絶ス、此橋山崎方ハ今ノ觀音寺ノ前川畔也、其向所ハ淀ノ大橋ノ南、河内街道ノ内、八幡山ノ坤ニ當テ、片方ノ人家茶店アリ、此人家ノ町北ノ端ヨリ三十間計北方、其橋ノ渡場也ト云フ、其所古老ノ説也、因テ其邊ヲ橋本ト號ス、但今云フ橋本ノ宿ハ、後世ニ此所ヨリ移シ建ル所也、此所今ハ舟渡也、
p.0209 綴喜郡 橋本 在二金橋北一、古山崎大渡橋在二斯處一、故稱二橋本一、八幡之神人、又在二斯處一、
p.0209 神龜元年、行基菩薩造二山崎橋一造了後、菩薩於二橋上一大設二法會一、而俄洪水出來、橋流了、人多
p.0210 死、 ◯按ズルニ、行基ノ山崎橋ヲ造リシヲ以テ、行基菩薩傳、水鏡、作者部類等ノ書ハ、之ヲ神龜二年ノ事ト爲セリ、
p.0210 神龜三年丙寅、今年行基造二山崎橋一、〈◯又見二濫觴抄、伊呂波字類抄一、〉
p.0210 神龜三年丙寅〈◯中略〉 同年行基菩薩造二山崎橋一、故老相傳云、造レ橋畢後、菩薩於二橋上一大設二法會一、洪水俄至、橋流人死、粗有二其數一云々、
p.0210 承和八年九月戊辰朔、有二洪水一、漂二流百姓廬舍一、京中橋梁及山崎橋盡斷絶焉、
p.0210 承和九年七月己酉、是日、春宮坊帶刀伴健岑、但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反、事發覺、〈◯中略〉遣二神祇大副從五位下藤原朝臣大津一、守二宇治橋一、〈◯中略〉散位從五位上朝野宿禰貞吉守二山埼橋一、
p.0210 嘉祥三年九月丁酉、先レ是、七日大水、山崎橋斷、帝以爲、河橋易レ壞、依二水浸囓一、得二其便地一、自無レ所レ害、是日、詔遣二中納言安倍朝臣安仁、源朝臣弘、參議滋野朝臣貞主、伴宿禰善男等一、就二山崎一以察二利害一、求二其便地一、乃定二置橋一、
p.0210 貞觀十二年五月十四日乙丑、以二散位正六位上巨勢朝臣四甫一、爲二造山崎橋使一、
p.0210 元慶七年五月廿五日庚寅、夜山崎橋火燒二一間一、
p.0210 延喜十八年八月十七日丁巳、其日、山崎橋南端、入レ水二間許、
p.0210 延長五年四月十日、申二山崎橋二間斷壞、人馬數十死損之由一、 七年七月廿六日癸巳、從二午後一大風暴雨、終夜殊烈、京中損壞不レ可二勝計一、〈◯中略〉山崎橋六間斷壞了、昔大同仁壽比、雖レ有二此災一不レ及レ此云々、
p.0210 十一日〈◯承平五年二月〉あめいさヽかふりてやみぬ、かくてさしのぼるに、ひんがしのかたに
p.0211 山のよこほれるをみて、人にとへば、やはたのみやといふ、これをきヽてよろこびて、ひと〴〵をがみたてまつる、山ざきのはしみゆ、うれしきことかぎりなし、
p.0211 弘安五年十二月廿日丙午、八幡神人嗷々、訴二申寺清社務并薪庄事一、神輿一基、今日御入洛、爲二新社務之沙汰一、令レ引二大渡橋一云々、神輿奉レ振二棄橋邊一了、神人構二假屋一奉二安置一云々、
p.0211 同〈◯元弘〉三年正月七日、尊氏大渡(○○)ニ付、義貞以下京都ヨリ又馳向フ、橋(○)ヲ引テ合戰ス、
p.0211 山崎攻事附久我畷合戰事 四月〈◯元弘三年〉廿七日ニハ、八幡、山崎ノ合戰ト兼テヨリ被レ定ケレバ、名越尾張守大手ノ大將トシテ七千六百餘騎、鳥羽ノ作道ヨリ被レ向、足利治部大輔高氏ハ搦手ノ大將トシテ五千餘騎、西岡ヨリゾ被レ向ケル、八幡、山崎ノ官軍是ヲ聞テ、サラバ難所ニ出合テ不慮ニ戰ヲ決セシメヨトテ、千種頭中將忠顯朝臣ハ五百餘騎ニテ、大渡ノ橋(○○○○)ヲ打渡リ、赤井河原ニ被レ扣、
p.0211 將軍御進發大渡山崎等合戰事 去程ニ正月〈◯建武三年〉七日ニ、義貞内裏ヨリ退出シテ軍勢ノ手分アリ、〈◯中略〉大渡(○○)ニハ新田左兵衞督義貞ヲ總大將トシテ、里見、鳥山、山名、桃井、額田、田中、籠澤、千葉、宇都宮、菊池、結城、池風間、小國、河内ノ兵共一萬餘騎ニテ堅メタリ、是モ橋板三間マバラニ引落シテ、半ヨリ東ニカイ楯ヲカキ、櫓ヲカキテ、川ヲ渡ス敵アラバ横矢ニ射、橋桁ヲ渡ル者アラバ、走リテ以テ推落ス様ニゾ構ヘタル、〈◯中略〉去程ニ〈◯中略〉正月九日ノ辰刻ニ、將軍〈◯足利尊氏〉八十萬騎ノ勢ニテ、大渡ノ西ノ橋爪ニ推寄、橋桁ヲヤ渡ラマシ、川ヲヤ渡サマシト見給ニ、橋ノ上モ川ノ中モ敵ノ構ヘキビシケレバ、如何スベキト思案シテ、時移ルマデゾ引ヘタル、時ニ〈◯中略〉橋ノ上ナル櫓ヨリ、武者一人矢間ノ板ヲ推開テ、治承ニ高倉ノ宮ノ御合戰ノ時、宇治橋ヲ三間引落シテ、橋桁計殘テ候シヲダニ、筒井淨妙、矢切但馬ナンドハ、一條二條ノ大路ヨリモ廣ゲニ、走渡テコソ合戰仕テ候ヒケルナレ、況ヤ此橋ハ、カイ楯ノ料
p.0212 ニ所々板ヲ弛テ候ヘ共、人ノ渡リ得ヌ程ノ事ハアルマジキニテ候、坂東ヨリ上テ京ヲ責ラレンニ、川ヲ阻タル合戰ノアランズルトハ思ヒ設ラレテコソ候ツラメ、舟モ筏モ事ノ煩計ニテ、ヨモ叶候ハジ、只橋ノ上ヲ渡テ、手攻ノ軍ニ我等ガ手ナミノ程ヲ御覽ジ候ヘト、敵ヲ欺キ耻シメテアザ笑テゾ立タリケル、是ヲ聞テ武藏守師直ガ内ニ、野木與一兵衞入道頼玄トテ、大力ノ早業打物取テ世ニ名ヲ知ラレタル兵有ケルガ、〈◯中略〉柄モ五尺、身モ五尺ノ備前長刀、右ノ小脇ニカイコミテ、治承ノ合戰ハ音ニ聞テ目ニ見タル人ナシ、淨妙ニヤ劣ト我ヲ見ヨ、敵ヲ目ニ懸ル程ナラバ、天竺ノ石橋、蜀川ノ蟠ノ橋也トモ渡得ズト云事ヤアルベキト、高聲ニ廣言吐テ、橋桁ノ上ニゾ進タル、櫓ノ上搔楯ノ陰ナル官軍共是ヲ射テ落サント、差攻引收散々ニ射ル、面僅ニ一尺計アル橋桁ノ上ヲ歩デハ矢ニ違ヘ、弓手ノ矢ニハ右ノ橋桁ニ飛移リ、馬手ノ矢ニハ左ノ橋桁ヘ飛移リ、直中ヲ指テ射ル矢ヲバ、矢切ノ但馬ニハアラネドモ、切テ落サヌ矢ハナカリケリ、數萬騎ノ敵味方立合テ見ケル處ニ、又山川判官ガ郞等二人、橋桁ヲ渡テ繼タリ、頼玄彌力ヲ得テ櫓ノ下ヘカツギ入、堀立タル柱ヲエイヤ〳〵ト引クニ、橋ノ上ニカイタル櫓ナレバ、橋共ニユルギ渡テ、スハヤユリ倒シヌトゾ見ヘタリケル、櫓ノ上ナル射手共四五十人、叶ハジトヤ思ケケン、飛下々々倒レフタメイテ、二ノ木戸ノ内ヘ逃入ケレバ、寄手數十萬騎同音ニ箙ヲ敲テゾ笑ケル、スハヤ敵ハ引ゾト云程コソ有リケレ、參河、遠江、美濃、尾張ノハヤリ雄ノ兵共千餘人、馬ヲ乘放々々、我前ニトセキ合テ渡ルニ、射落サレセキ落サレテ、水ニ溺ルヽ者數ヲ知ズ、其ヲモ不レ顧幾程モナキ橋ノ上ニ、沓ノ子ヲ打タルガ如ク、立雙テ重々ニ構タル櫓カイ楯ヲ引破ラント引ケル程ニ、敵ヤ兼テ構ヲシタリケン、橋桁四五間中ヨリ折レテ、落入ル兵千餘人、浮ヌ沈ヌ流行、數萬ノ官軍同音ニ楯ヲ敲テドツト咲、サレ共野木與一兵衞入道計ハ水練サヘ達者也ケレバ、橋ノ板一枚ニ乘リ、長刀ヲ棹ニ指テ本ノ陣ヘゾ歸リケル、是ヨリ後ハ橋桁モツヾカズ筏モ叶ズ、右テハイツマデカ向居ベキト責
p.0213 アグンデ思ケル、〈◯下略〉
p.0213 觀應元年十二月七日、凶徒已入二八幡一〈◯中略〉燒二在家一、大渡橋(○○○)引レ之退散、 二年正月十一日、將軍〈◯足利尊氏〉昨日到二著山崎一、可レ攻二八幡一之旨評議、大渡橋無レ之、或以レ船可レ渡旨、或又可レ懸レ橋、其事未レ決云、
p.0213 應安四年十二月二日、〈未時〉春日御神木入洛、〈奉レ入二長講堂一〉自二寺大路一〈宇治〉入洛之由、依レ有二其聞一、差二遣警固人等一、自二西路一〈大渡橋(○○○)〉入洛云々、
p.0213 山崎橋ハ神龜ニ廢ヲ興シ、嘉祥ニ舊ク易ヘタリシガ、元來衆水ノ會、泛濫ノ衝、兩岸侵嚙ノ患多ク、流亡世々ニ止事ナシ、天正ニ再建ノ功ヲ遂ラレシモ、亦幾程ナク斷絶シテ、今ハ橋本ノ名ヲノミ殘ス、
p.0213 十日〈◯文久四年三月、中略、〉むかし山崎へ渡る大橋ありしが、今は舟渡しとなり、名のみ殘れる橋本の町に出て、狐川の渡しを越て、山崎離宮八幡宮に詣ふずるに、〈◯下略〉
p.0213 河陽〈(中略)橋、或云、山崎同所歟(○○○○○)、〉
p.0213 紀伊郡 金光明四天王教王護國寺〈◯中略〉 古〈◯中略〉有下迎二蕃客於河陽一之事上、河陽今山崎乎(○○○○○○)、
p.0213 遊女記 自二山城國與渡津一、浮二巨川一西行一日、謂二之河陽一、往二返於山陽、南海、西海三道一之者、莫レ不レ遵二此路一、
p.0213 見二遊女一 江以言 二年三月、豫州源太守兼員外左典厩、春行二南海一、路次二河陽一、河陽則介二山河攝三州之間一、而天下之要津也、自レ西自レ東、自レ南自レ北、往反之者、莫レ不レ率二由比路一矣、〈◯下略〉
p.0213 承和十五年〈◯嘉祥元年〉八月辛卯、洪水浩々、人畜流損(○○○)、河陽橋斷絶、僅殘二六間一、
p.0213 河陽橋
p.0214 別館雲林相映出、門南修路有二河橋一、上承二紫宸一長栱レ宿、下送二蒼海一永朝レ潮、
p.0214 渡月橋〈城州葛野郡大井川橋名〉
p.0214 橋〈御幸橋、渡月橋、法輪寺橋等、皆稱二大井川橋一乎、〉
p.0214 渡月橋は大井川にありて、法輪寺へ渡る橋なり、一名は御幸橋、法輪寺橋ともいふ、
p.0214 京邊土名所 西分 大井川 龜の尾と嵐山との間をながるヽほどは、西よりひがしへ流出て、りんせん寺前より、梅津へは南へながれたり、臨川寺と天龍寺との間に、渡月橋と云橋有、天龍寺は龜の尾の梺、かの橋の南、嵐山のふもとに、法輪寺有レ之、
p.0214 渡月橋 是則同寺十景之隨一也、古出レ自二天龍寺山門前一、西横二大井川一、到二嵐山麓一、今按二舊地圖一、三軒茶屋之南、今所レ赴二法輪寺一之橋北、竹林所レ有之前也、俗誤臨川寺門前、所レ臨二大井川一之石壁臺、是謂二渡月橋之所一レ有也、
p.0214 嵯峨大井川の橋を渡月橋といへども、古名は法輪寺橋といひて、ふるくより有る橋也、又東梅津よりかみ野むらにわたすはしを上野橋といへり、この橋は元祿八九年の比にはじめてかけたり、それまでは船わたしにて有けり、〈◯中略〉 東寺に所傳の應永廿六年七月、寺領を掠申につきての圖をみるに、嵯峨渡月橋を法輪寺橋とし、一ノ井堤法輪寺橋の下にあり、
p.0214 時頼横笛事 横笛ハ泣々都ヘ歸ケルガ、ツク〴〵物ヲ案ジツヽ、如何ナル瀧口〈◯齋藤時頼入道〉ハ悲キ中ヲ思切、カク心ヅヨク世ヲ背ゾ、如何ナル我ナレバ蚫ノ貝ノ風情ゾ、難面クナガラヘテ由ナキ物ヲ思フベキゾト思ケレバ、桂川ノ水上、大井川ノ早瀬、御幸ノ橋ノ本ニ行潜タリケル、朽葉色ノ衣ヲバ柳ノ朶
p.0215 ニヌギ懸、思フ事共書付テ、同ジ枝ニ結置、歳十七ト申ニ、河ノミクヅト成ニケリ、法輪近キ所ニテ入道此事ヲ聞、河端ニ趣、水練ヲ語テ淵ニ入、女ノ死骸ヲ潜上、火葬シテ骨ヲバ拾ヒ頸ニ懸、山々寺寺修行シテ此彼ニゾ納ケル、
p.0215 題しらず 前大納言爲兼 大井川はるかにみゆる橋のうへに行人すこし雨の夕ぐれ
p.0215 六日〈◯文久四年三月〉長閑の空に、けふは嵐山の花を詠んと立出て、〈◯中略〉渡月橋を渡りて右へ河邊につき行、〈◯中略〉樓門を過て智福山法輪寺に至るに、山の半腹にして、眞言宗本尊は虚空藏菩薩の座像なり、〈◯中略〉山を下り、また渡月橋を戻るに、柴舟に棹さして川水を登りて遊べる人を見て、 大井川花の上なる虚空藏うなぎ登りに遊ぶ柴舟
p.0215 泉川橋 上古有レ橋
p.0215 木津川渡〈古書、皆訓二呼津加和一、〉上古ハ泉福寺ノ南一町ニ橋アリ、
p.0215 泉河〈◯中略〉橋〈今木津渡川上三町許、泉橋寺前有シト云々、〉
p.0215 木津川〈いにしへ呼津加和と訓ず、一名泉川あるひは輪韓川ともいふ、上古は挑川となづく、◯中略〉 泉川橋〈上古橋あり、延喜式出、〉
p.0215 讃二三香原新都一歌一首并短歌 山背乃(ヤマシロノ)、久爾能美夜古波春佐禮播(クニノミヤコハハルサレバ)、花咲乎乎理(ハナサキヲヽリ)、秋佐禮波(アキサレバ)、黄葉爾保比(モミヂバニホヒ)、於婆勢流(オバセル)、【泉河乃】(イヅミノカハノ)、【可美都瀬爾】(カミツセニ)、【宇知橋和多之】(ウチハシワタシ)、【余登瀬爾波】(ヨドセニハ)、【宇枳橋和多之】(ウキハシワタシ)、安里我欲比(アリガヨヒ)、都可倍麻都良武(ツカヘマツラム)、萬代麻底爾(ヨロヅヨマデニ)、〈◯短歌略〉 右天平十三年二月、右馬寮頭境部宿禰老麻呂也、
p.0215 天平十三年辛巳、木津川に大橋をわたし(○○○○○○○○○○)、狛の里に伽藍を立、僧院として泉橋
p.0216 院と號す、
p.0216 橋寺 格云、件寺故僧正行基建立、卌九院之其一也、總尋二本意一、爲二泉河假橋(○○○○)一所レ建也、而河之爲レ體、流沙災水、橋梁難レ留、毎レ遭二洪水一、往還擁滯、仍爲レ渡二人馬一云々、
p.0216 天平十三年十月癸巳、駕世山東河造(○)レ橋(○)、如レ自二七月一、至二今月一乃成、召二幾内及諸國優婆塞等一役レ之、隨レ成令二得度一、總七百五十人、
p.0216 鹿脊山〈在二木津里東一里半許一、山西南半里許、有二鹿背山村一、瓶原隔二木津川一南也、〉 ◯按ズルニ、駕世山東河トハ、蓋シ木津川〈即チ泉川〉ヲ指セルモノニシテ、造橋トハ、行基ノ泉河假橋ヲ造リシヲ云ヘルナルベシ、
p.0216 天平十七年五月癸亥、車駕到二恭仁京泉橋(○○)一、于レ時百姓遙望二車駕一、拜二謁道左一、共稱二万歳一、是日、到二恭仁宮一、
p.0216 貞觀十八年三月三日辛巳、是日、山城國泉橋寺申牒曰、故僧正行基、五畿境内建二立四十九院一、泉橋寺是其一也、泉河渡口、正當二寺門一、河水流急、橋梁易レ破、毎レ遭二洪水一、行路不レ通、當在道俗合レ力、買二得大船二艘小船一艘一、施二入寺家一、以備二人馬之濟渡一、太政官天長六年、承和六年兩度、下二符國宰一、充二配浪人一、守二護寺家及船橋一、而國吏稱レ非二永例一、比年無レ充、望請、重被二下知一、永配二浪人一、視二護寺家及船橋一、太政官處分、依レ請焉、〈◯又見二類聚三代格一〉
p.0216 橋柱寺〈木津内大路村東三町許有二律院一、是舊跡也、今改號二大智寺一、額隱元、〉 大智寺記云、昔聖武帝朝、有二大菩薩僧行基者一、乘二悲願力一廣度二衆品一、到處營二梵刹一造二佛像一、夷二嶮路一架二絶梁一、山城州木津河、古有二大橋一、乃基公所剏也、歳久頽朽、無二人繼造一、至二弘安間一、舊柱猶存、屢現二光怪一、郷人異レ之、時有二興正菩薩上足慈眞者一、偶經二過此地一、聞二其事一知二必靈材一即取レ之、命二佛工安阿彌一造二曼殊大士像一軀一、
p.0217 高二尺許、端嚴妙麗尋構二精藍於河南一、以妥レ之、故俗呼曰二橋柱寺一云々、
p.0217 享保八年卯月のはじめの六日、修學院の山莊に行、〈◯中略〉還向するほど、いづみ河のはし(○○○○○○○)をすぐとて、 打渡す橋よりみれば河上も末もはる〴〵水きよくして、〈◯中略〉秋になれば亦山莊に行べきと、長月のはじめのなぬかと定仰せし、〈◯中略〉歸るさに和泉川のはしに輿かき居させ、河水のいさぎ能きをしばしみる、それより野をはる〴〵行て壽月觀にいたりぬ、
p.0217 律 澤田川〈三段〉 さはだ河、袖つくばかり、あさけれど、はれ、 〈二段〉あさけれどくにの宮人、高はしわたす、 〈三段〉あはれ、そこよしや、高はしわたす、
p.0217 澤田河〈泉河同事歟(○○○○○)〉 梁塵愚案抄云、澤田川くにの宮古は、皆山城國三日の原に有所の名也、
p.0217 權中納言俊忠卿の家の歌合にさみだれの心をよめる、 藤原顯仲朝臣 さみだれに水まさるらしさはだ川まきのつぎ橋(○○○○○○○○○○)浮ぬばかりに
p.0217 喜多院入道二品親王家五十首 三條入道左大臣 五月雨に水こえにけりさはだがはくにみや人のわたすたかはし
p.0217 よどのつぎはし 山城、或近江、
p.0217 山城國大橋五〈◯中略〉 淀大橋
p.0217 三大橋 淀大橋 山城木津川ノ流ニ渡ス
p.0217 大橋 在二孫橋南一 此所淀郷南界也 橋 丑寅ヨリ申酉ニ渡ル、長百三十七
p.0218 間 下流木津川ノ末ニシテ西方桂川、伏見川ノ末ト合シテ、入二難波江一、也、中頃此橋今ノ所ヨリ一町餘北ニアリ、孫橋大橋小橋(○○○○○○)、共皆是秀吉公時設ル所也大橋別名長橋(○○○○○○)詠二和歌一、此名今ハ無シ、按ニ上古ニハ此橋一ツ在テ、餘無二二橋一、古大橋ハ自レ此北ニアリ、下流又今ニ異リ、今ノ對戸ノ渡ノ〈在二大橋東五町許一〉西ヨリ、御牧ノ東ヲ經テ淀川ニ入リ、大橋ノ下ニ出シ也、
p.0218 淀大橋 長サ八十餘丈、木津川にまたがる、丑寅より申酉に渡る橋なり、秀吉公是を掛給ふ、 【小橋】(こばし) 淀がわに有、下流巽ハ木津川、北ハ宇治川、及伏見澤の落合也、橋南北ニ渡ル、長サ七十間一尺五寸、此橋ハ當所ニ城郭造營ノ時、秀吉公掛らる、上古ハ橋一ツ有て、是ゟ南ニ有と云り、 【孫】(まご)【橋】 淀町の中ニ有、大はしと、小橋との中ニ有謂也、
p.0218 淀ノ大橋、長百三十七間、幅四間五寸、木津川ノ下流ニカヽル、小橋長十九間五尺、幅三間三尺、宇治川ノ下流ニカヽル加茂川、大井川皆北ヨリ此末ニ合流ス、カク衆水ノ聚ル處ナレバ、其衝ニ當ル地ヲ淀トイフナリ、
p.0218 淀川は五畿内第一の大河にして、六國の水こヽに歸會す、〈◯中略〉 大橋〈木津川の末にかゝる橋也、長サ百四十間あり、〉小橋〈宇治川伏見の澤等の下流にかくるはしなり、長サ七十間、城郭造營の時かけ初しなり、〉
p.0218 長徳元年十月廿一日甲午、石清水行幸、今日淀河無(○○○○○)二泛橋(○○)一、以二數百艘船一所レ渡也、
p.0218 永万二年五月、平經成卿家歌合五月雨、〈よどのうきはし〉 加茂政平 五月雨に水のまこもやかくるらしよどのうきはしうきまさりゆく
p.0218 淀ノ橋ハ、後嵯峨院御宇始造橋也、
p.0218 八幡合戰事附官軍夜討事 山名右衞門佐師氏、出雲、因幡伯耆三箇國ノ勢ヲ卒シテ上洛ス、路次ノ遠キニ依テ、荒坂山ノ合戰
p.0219 ニハヅレヌル事、無念ニ思ハレケル間、直ニ八幡ヘ推寄テ一軍セントテ、淀ヨリ向ハレケルガ、法性寺ノ左兵衞督、爰ニ陣ヲ取テ、淀ノ橋三間引落シ、西ノ橋爪ニ搔楯搔テ相待ケル間、橋ヲ渡ル事ハ叶ハズ、サラバ筏ヲ作リ渡セトテ、淀ノ在家ヲ壞テ筏ヲ組タレバ、五月ノ霖ニ水増リテ押流サレヌ、
p.0219 十二月二十九日〈◯明徳三年、中略、〉淀ノ橋ヲ打渡リ、鳥羽ノ秋山ヲ目ニカケテ、富ノ森ヲ差テ打ケルガ、〈◯下略〉
p.0219 寶徳元年四月十二日、辰刻大地震動テ〈◯中略〉淀大橋三間落、
p.0219 明應五年八月十七日、〈辛卯〉自二半更一終日雨頻、後聞今日大風雨、八幡、山崎等洪水迢二過先年放生會武家上卿御勤仕時、雨風、淀橋上數尺水越一云々、
p.0219 寛永十一年八月十七日乙未、淀ノ大橋、高槻ヘ流行由也、
p.0219 寛保元年七月、淀大水、破二大小二橋一、
p.0219 寶暦六年九月十六日大水、流二〈◯中略〉淀大橋一、
p.0219 明和八年七月二十二日、大水、流二淀大橋一、
p.0219 嘉永五年七月二十二日、山城、丹波、大和大雨風、鴨、桂、淀、木津諸川、大溢皆決、〈◯中略〉流二淀大橋若干間一、
p.0219 一二橋 凡大和大路、自二京師三條橋東一、歴レ南到二伏見豐後橋一之通稱也、三條與二四條一之間、有二大和橋一、經二斯道一南方到二大和國一、木津河南、有二山城大和之境界一、斯道在二方廣寺前一、謂二大佛門前一、其南有二一橋二橋一、一橋之所レ有謂二菅谷一、是愛宕郡與二紀伊郡一之境界也、〈◯中略〉傳言、平家沒落後、平知盛卿之男、暫隱二菅谷一、遂自二六波羅一執レ之被レ誅、
p.0219 一橋(○○) 在二東福寺北門前北一町餘伏見街道中央一、從レ此南ノ方東福寺境内凡八
p.0220 町ノ内ニ有二三橋一、是其第一也、下流ハ新熊野社ノ艮ノ谷ヨリ出テ、橋ノ西ノ方入二鴨川一也、
p.0220 一橋〈在二東福寺北伏見道一、號二法性寺一橋一、〉 二橋〈在二大和大路九條一、流水出二東福常樂庵奥一、而經二二老橋、同北門絶塵橋一、而出二大路一、入二鴨川之末一也、〉 三橋〈在二二橋南一、流源出レ從二東福方丈東一、而經二洗玉澗一、偃月、通天、臥雲橋等架レ之、又經二曹源院前一而出二大路一、入二鴨川之末一也、〉
p.0220 官軍方々手分の事 基盛大和路ヲ南ヘハツカウスルニ、法性寺ノ一ノハシノ邊ニテ、馬上十騎バカリ、ヒタ甲ニテ物ノグシタルツハモノ上下廿餘人、都ヘウテゾノボリケル、基盛コレハイヅレノ國ヨリドナタヘ參ズル人ゾトトヒケレバ、コノホド京中物忩ノヨシ承ルアヒダ、ソノ子細ヲウケ給ハラントテ、近江ニ候者ノ上洛仕ルニテ候トコタフ、
p.0220 治承三年六月三日庚寅、今日前右大將〈宗盛〉法性寺一橋西邊建二立一堂一、置二丈六阿彌陀像一、令二前權僧正公顯供養一云々是室家周忌佛事歟、件人去年七月十六日逝去也、
p.0220 高綱渡二宇治河一事 大勢河ヲ渡ヌレバ、千騎二千騎、五千六千、二百騎三百騎、七百八百、思々心々ニ、或ハ木幡大道、醍醐路ニ懸ツテ阿彌陀ガ峯ノ東ノ麓ヨリ攻入モアリ、或ハ小野庄勸修寺ヲ通ツテ七條ヨリ入モアリ、或櫃川ヲ打渡、木幡山深草里ヨリ入モアリ、或ハ伏見、尾山、月見岡ヲ打越テ、法性寺一二橋ヨリ入モアリ、道ハ互ニ替レ共、同ジ都ヘ亂入、
p.0220 一二の橋 按ずるに、一二の橋は山城國深草に有、〈◯中略〉法性寺は東福寺北門前の南西向にあり、盛衰記に法性寺の一二の橋としるせしは、このころ法性寺の境内に屬せしなるべし、
p.0220 法隆寺記云、嘉禎四年八月上旬、六波羅將軍〈◯藤原頼經〉法隆寺太子寶物、可下令二上洛一
p.0221 給上之旨被レ仰、 十一日、〈癸丑〉御舍利之外、御寶物皆具也、〈宿所、法性寺一橋北東頰、唐門内、〉於二法性寺殿一、九條禪定殿下〈◯藤原兼經〉准后宮、將軍〈頼經〉左大臣殿、左大將御拜見、
p.0221 清氏叛逆事附相模守子息元服事 相模守〈◯細川清氏〉普請ノ爲トテ、天龍寺ヘ參リケルガ、不レ例庭ニ入テ物具シタル兵共、三百餘騎召具シタリ、將軍是ヲ聞給テ、サテハ道譽ニ評定セシ事、ハヤ清氏ニ聞ヘテケリ、サランニ於テハ、却テ如何様被レ寄ヌト覺ルゾ、京中ノ戰ハ小勢ニテ叶マジ、要害ニ籠テ可レ防トテ、九月二十一日ノ夜半計ニ、今熊野ニ引籠リ、一ノ橋引落シテ、所々搔楯搔キ、車引雙テ逆木轅門ヲ堅メテ待懸給ヘバ、今川上總守、宇都宮參川入道以下、我モ我モト馳參ル、
p.0221 暮春過二城南一〈遊二城南藤杜教院一、有二畫眉兒一、〉 春風吹レ枝扣二城南一、惠日寺前橋二三(○○○○○○○)、沈水燒殘屏宛轉、流鶯聲答二美人談一、 惠日山東福寺前、有二一橋二橋三橋一、透二此三一而入二藤森一、
p.0221 通天橋(ツウテンキヤウ)〈在二洛陽東福寺一〉
p.0221 通天橋 在二法堂北一渡二南北一 橋上廊アリ 額通天橋 〈横額〉 筆者 普明國師 同所梁文 夫以看二這通天活路一、高哉吐二虹長橋一、 大檀越太閤大相國秀吉公、勢州安國惠瑜𣇄建、慶長二丁酉三月日、 住持傳法沙門永晢臥雲橋(○○○) 曰二通天西橋一
p.0221 東福寺 通天橋〈在下法堂與二常樂一間上、額普明國師、橋下楓葉洛陽奇觀也、〉
p.0221 通天(ツウテンノ)橋 東福寺の内に有、廊下橋也、此所楓紅葉の名所也、
p.0221 且如二東福寺一者、其邊地嘗爲二豪貴一所レ據有レ年矣、師〈◯夢想國師〉自奏レ官而復焉、寺後溪澗、
p.0222 深邃而與二開山祖塔一阻絶、衆病レ之久矣、師親相レ攸芟レ榛除レ荒、新開二徑直大路一、而架(○)二橋梁于其上(○○○○○)一、扁曰(○○)二通天(○○)一、作レ偈賀レ之、曰揮二卻風斤一支二落霞一、虹霓千尺截二奔波一、通霄一路脚跟下、來往人從二鳥道一過、衆咸和レ之、
p.0222 廿七日〈◯文久四年正月、中略、〉惠日山東福寺は五山の第一にして、〈◯中略〉通天橋は法堂より祖堂傳衣閣へ通路の橋なり、
p.0222 山城國大橋五〈◯中略〉 伏見豐後橋
p.0222 豐後橋〈本名桂橋(○○○○)〉 在二常盤町南二町餘一、橋行〈百十間、〉北ハ紀伊郡、南ハ久世郡也、南ノ爪、左右ニ道アリ、左ハ至二小柜、槇島、宇治一、右ハ至二奈良一、其中間ハ至二所々一、不レ遑レ記、此橋及ビ南ノ方、左右堤、共皆秀吉公ノ代所レ造也、
p.0222 豐後橋〈元無レ橋、今曰(○○)二指月橋(○○○)一、〉 文祿中、豐臣秀吉公、命二于豐後大友氏一、始而令レ造レ之、故稱二豐後橋一、橋以南曰二向島一、自レ是經二巨椋長池一而通二南都一新道也、上古越二伏見六地藏木幡宇治橋一至二栗子山一、歴二梨間井手一而行二大和一也、
p.0222 豐後橋 本名桂橋、豐後橋町ニ有、橋行百十間、秀吉公の時ニ懸らる、橋の乾に別所豐後守亭宅有を以テ名とす、又肥後橋ハ加藤肥後守清正ノ宅有るに依て名く、毛利橋、阿波橋等皆同じ、
p.0222 一行幸時、淀河桂河(○○)浮橋渡御時、公卿并近衞次將下レ馬、是定例也、
p.0222 寶徳元年四月十二日、辰刻大地震動テ、〈◯中略〉桂橋二間落、
p.0222 ふしみに至る、此春ばかりすみ染にさけとよめる墨染の櫻を見て、左の方にゆけば、豐後橋にいたり、又は木幡にゆく、大和海道也、橋を渡り、小倉堤を過て、左にゆけば宇治に至る、
p.0222 享保十七年四月五日、知君様宇治へ御成御供、四日夜ヨリ參上、明六ツ御出門、角倉船入ヨリ
p.0223 メサレ、伏見豐後橋角倉屋敷ニテ御上船、暫ク御輿ニメサレ、彈正町ヨリ御歩行、
p.0223 十四日、〈◯文久四年正月〉夕邊より雨降出しが、君浪花備前島より御船に召させられて淀川を曳登られ、未の刻過伏見豐後橋より陸に上らせ給ふて、伏見奉行の館へいらせ給ふ、
p.0223 宇治橋
p.0223 大橋 宇治
p.0223 山城國大橋五〈◯中略〉 宇治橋
p.0223 宇治橋 在二同所一、宇治境地非墨アリ、橋自二丑寅一至二未申一、長八十三間五尺五寸、古ヘ掛ル所ハ、今ノ橋ノ上二町許ニアリ、此橋東爪ハ宇治郡、西ハ久世郡也、上古ニハ以レ舟爲レ渡、 孝徳天皇ノ御宇、大化二年ニ道昭和尚之ヲ造レリ、〈昭傳載二釋書一一、〉
p.0223 橋〈◯中略〉 土人云、昔宇治川流二出巨椋一、故古橋亦在二于西一云々、
p.0223 三大橋 宇治橋 宇治川ニ有、長サ五十餘丈、
p.0223 宇治橋 奇遊談といふものに、明和七年五月の此、旱して井などもかれたりしに、よど川も舟かよひがたくなり、宇治よりの運送もたえければ、土人相議して宇治川の上島下島兩村の前を堀りけるに、二三尺ばかり底に大石を敷きならべてありければ、そこはさし置きて又一二丈ばかりかたへを堀たりけるに、なほ同じごと大石を敷きならべたりしかば、ちから及ばずしてやみぬ、いかなる世に、かヽる敷石はせしにかとあやしみあへりとみえたり、予按ずるに、今の豐後橋はもはら大和にかよふ爲なれど、近き世にかけたる橋にて、むかしは宇治橋よりやまとへはかよひしなり、しかるに今の宇治橋は、東方により過ぎて、大和へのかよひにはいと不便なれば、古は必川下にこそありけめと、かねておもひ置きつるに、此奇遊談をみて、かの敷石は、いにしへの宇治橋の
p.0224 下にしけりし石なる事をしりぬ、大和へのかよひもこヽにありてこそ宜しくもおぼゆれば、これうつなく宇治橋の古跡なり、上島下島といふ名も宇治橋の上下なりし故の名にやと、かたがたより所ありておぼゆ、 因云、橋本の西葛葉の下に、上島下島といふ二村あり、うたがふらくは、いにしへ山崎橋の上下にありけるが、山崎のわたりはすべて豐太閤の時にいたくかはりしかば、此二村も所はうつりて、名のみ傳はりたるにや、
p.0224 粤稽二廣隆事跡一、推古天皇十二年甲子秋八月、太子〈◯聖徳〉語二良臣秦川勝一曰、吾前夜夢、此去二北十餘里一、至二一勝地一、〈◯中略〉川勝拜稽曰、臣食邑與レ夢相符、早須二歴覽一、太子唯々命レ駕、川勝欣然前導此夕宿二泉河濱一、〈◯中略〉越翌日屆二兎途橋(○○○)一、川勝眷屬等、各獻二調膳於太子一、其侍從臣及輿儓等二百餘人、皆悉飽食太子大悦、
p.0224 九年五月、童謠曰、【于知波志】能(ウチハシノ)、都梅能阿素弭爾(ツメノアソビニ)、伊堤麻栖古(イデマセコ)、多麻提能伊鞞能(タマデノイヘノ)、野鞞古能度珥(ヤヘコノトニ)、伊提麻志能(イデマシノ)、倶伊播阿羅珥茹(クイハアラニゾ)、伍提麻西古(イデマセコ)、多麻提鞞能(タマデヘノ)、野鞞古能度珥(ヤヘコノトニ)、
p.0224 于知波志能(ウチハシノ)〈宇治橋也〉
p.0224 人畜所レ履髑髏救收示二靈表一而現報縁第十二 高麗學生道登者、元興寺沙門也、出レ自二山背惠滿之家一、而往大化二年丙午、營二宇治椅一、
p.0224 四年三月己未、道照和尚物化、天皇甚悼二惜之一、遣レ使即弔賻之、和尚河内國丹比郡人也、俗姓船連、父惠釋少錦下、〈◯中略〉於レ後周二遊天下一、路傍穿レ井、諸津濟處儲レ船造レ橋、乃山背國宇治橋(○○○○○○)、和尚之之所(○○○○○)二創建(○○)一者也(○○)、
p.0224 扶桑略記引二宇治橋銘一作二道堂一、案比以下道昭周二遊四方一、天下諸津濟處儲レ船造レ橋、又道昭、道登共元興寺僧、而名亦相渉上、誤認爲二道昭一也、如二編年記所一レ云、二僧勠レ力則石銘豈特記二道登一哉、
p.0225 蓋編年記本作二道登一、後人依二此書一記二道昭字於行間一者、遂攙二人本文一也、宇治橋銘斷石、今猶存在二宇治常光寺一、正作二道登一、則扶桑略記引二石銘一作二道堂一、亦傳寫之誤、應下據二靈異記及石銘一、以二道登造一レ橋爲上レ正也、水鏡云、大化二年丙午、道登創二造宇治橋一、亦可レ證、〈◯又見二日本靈異記考證一〉
p.0225 大化二年丙午、元興寺道登、道昭、奉レ勅始造二宇治川橋一、〈◯又見二枝葉抄一〉
p.0225 延暦十六年五月癸巳、遣二彈正弼文室波多麿一造二宇治橋一、
p.0225 承和九年七月己酉、是日、春宮坊帶刀伴健岑、但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反、事發覺、〈◯中略〉仰二左右京職一警二固街巷一、亦令レ固二山城國五道一、遣二神祇大副從五位下藤原朝臣大津一、守二宇治橋一、
p.0225 承和十五年〈◯嘉祥元年〉八月辛卯、洪水浩々、人畜流損、河陽橋斷絶、僅殘二六間一、宇治橋傾損、 ◯按ズルニ、此事伊呂波字類抄ニ承和十四年ニ作ルハ誤レリ、
p.0225 人々いたくこはづくりもよほし聞ゆれば京におはしまさん程、はしたなからぬ程にもいと心あはたヾしげにて、こヽろよりほかならん夜がれを返々の給ふ、 中たえん物ならなくにはし姫のかたしく袖や夜半にぬらさん、出がてにたちかへりつヽやすらひ給ふ、〈◯匂宮〉 たえせじのわがたのみにやうぢ橋のはるけき中を待わたるべき、ことにはいでねどものなげかしき御けはひ、かぎりなくおぼされけり、
p.0225 山のかたはかすみへだてヽ、さむきすさきにたてるかさヽぎのすがたも、所がらはいとおかしくみゆるに、宇治橋のはる〴〵とみわたさるヽに、柴つみ舟の所々に行ちがひたるなど、ほかにてはめなれぬこと共のみとりあつめたる所なれば、み給たびごとに猶そのか
p.0226 みのことのたヾ今の心ちして、いとかヽらぬひとをみかはしたらんだに、めづらしきなかの哀おほくそひぬべき程なり、まいて戀しき人によそへられたるもこよなからず、やう〳〵物の心しり、都なれ行有さまのおかしきも、こよなくみまさりしたる心ちし給ふに、女はかきあつめたるこヽろのうちにもよほさるヽ泪、ともすれば出たつを、なぐさめかね給つヽ、 宇治ばしのながきちぎりはくちせじをあやぶむかたに心さはぐな、いまみ給ひてんとの給、たえまのみ世にはあやうき宇治橋を朽せぬものとなをたのめとや、さき〴〵よりもいとみすてがたく、しばしもたちとまらまほしくおぼさるれど、人の物いひのやすからぬにいまさらなり、
p.0226 宇治橋 康平六年〈癸卯〉造二宇治橋一、
p.0226 三年〈◯治暦〉十月十五日には、宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとヾ〈◯藤原頼通〉二三年かれにのみおはしましヽかば、わざとのみゆき侍りてみたてまつらせ給ふとぞうけ給はりし、うぢばしのはるかなるに、舟よりがく人まゐりむかひて、宇治川にうかべてこぎのぼり侍けるほど、からくにもかくやとぞみえけると人はかたり侍りし、〈◯又見二扶桑略記一〉
p.0226 承安三年十一月三日、南京衆徒奉レ具二春日神輿一、發二向宇治一之由、興福寺別當覺珍言上、依二寺領訴訟一云々、 四日、爲レ防二南都大衆參洛一、遣二官兵一令レ曳二宇治橋一、
p.0226 治承四年四月廿二日に位につかせ給ひて、同五月廿六日に入道源三位頼政卿、高倉の宮〈◯以仁王〉に後從して南都に零落の事あり、頼政卿郞從伊豆國武士并渡邊住人等をして、宇治橋を引て平等院にやすむ所に、數千騎の官兵追討す、
p.0226 宇治合戰附頼政最後事 宮〈◯高倉〉ハ御馬ニ召テ既ニ寺〈◯園城〉ヲ出サセ給、〈◯中略〉宇治ノ平等院ニ入進ラセテ御寢アリ、其間ニ
p.0227 宇治橋三間引テ、衆徒モ武士モ宮ヲゾ奉二守護一、〈◯中略〉平家ノ兵共、雲霞ノ如クニ馳集テ、河ノ東ノ端ニ引ヘテ時ヲ造ル事三箇度、夥シトモ不レ斜、宮ノ兵共モ時ノ音ヲ合テ、橋爪ニ打立テ禦矢射ケリ、其中ニ寺法師ニ大矢ノ秀定、渡邊清、究竟ノ手ダリナリケルガ、矢面ニ進テ差詰差詰射ケルニゾ、楯モ鎧モ不レ叶シテ、多ノ者モ討レケル、平家ノ先陣モ始ハ橋ヲ隔テ射合ケルガ、後ニハ橋上ニ進上テ散々ニ射、〈◯中略〉夜モホノ〴〵ト明ケレバ、寺法師ハ筒井ノ淨妙明春ト云者アリ、自門他門ニ被レ免タル惡僧也、橋ノ手ニゾ向ケル、〈◯中略〉明春云ケルハ、殿原暫軍止メ給ヘ其故ハ敵ノ楯ニ我箭ヲ射立テ、我楯ニ敵ノ箭ヲノミ射立ラレテ、勝負有ベキトモ不レ見、橋ノ上ノ軍ハ、明春命ヲ捨テゾ事行ベキ、續カント思フ人ハ連ヤト云儘ニ、馬ヨリ飛下テツラヌキ拔捨、橋桁ノ上ニ擧リテ申ケルハ、者ソノ者ニアラザレバ、音ニハヨモ聞給ハジ、園城寺ニハ隱レナシ、筒井淨妙明春トテ、一人當千ノ兵ナリ、手ナミ見給ヘトテ散々ニ射ケレバ、敵十二騎射殺シテ、十一人ニ手負テ、一ツハ殘シテ箙ニアル、箭種盡ケレバ弓ヲバカシコニ投捨ヌ、彼ハイカニト見處ニ、箙モ解テ打ステ、童ニ持セタル長刀取、左ノ脇ニカイ挾ミテ射向ノ袖ヲユリ合セ、シコロヲ傾、橋桁ノ上ヲ走渡ル、橋桁ハ僅ニ七八寸ノ廣サ也、川深シテ底見エザレバ、普通ノ者ハ渡ベキニアラザレ共、走渡リケル有様、淨妙ガ心ニハ、一條二條ノ大路トコソ振舞ケレ、廿人ノ堂衆等モ續ザリケル、其中ニ十七ニナル一來法師計コソ少モ劣ラズ連ケレ、明春元ヨリ好所也ケレバ、今日ヲ限ト四方四角振舞テ飛廻リケレバ、面ヲ向ル者ナカリケリ、〈◯中略〉明春ニ並タリケル一來、今ハ暫ク休給ヘ、淨妙房一來進テ合戰セント云ケレバ、尤然ベシトテ、行桁ノ上ニチト平ミタル處ヲ無禮ニ候トテ、一來法師兎バネニゾ越タリケル、敵モ御方モ是ヲ見テ、ハネタリ〳〵アツハネタリ、越タリ〳〵ヨツ越タリト、美ヌ者コソナカリケレ、〈◯下略〉
p.0227 千四百四十七番 左〈勝〉 宮内卿
p.0228 ものヽふの八十宇治川のはしばしらのどかにおとせ槇の島舟
p.0228 同〈◯承久三年六月〉十二日の早朝より、かさねて官軍をしよはうにつかはさるヽ、〈◯中略〉うぢばしへは、さヽきのヽ中納言ありまさ卿、〈◯中略〉えんいん法師をはじめとして、一万よきにてむかひける、〈◯中略〉 繪所〈うぢばしをかき、はしいたはづし、川中にらんぐいをうち、大づなを引、さかも木をゆひ、北のきしばたにやぐらあげ、しらはたたてゝ、ぐん兵あまたちんどる處、〉
p.0228 承久三年六月十三日丙寅、相州〈◯北條時房〉以下自二野路一相二分于方々之道一、相州先向二勢多一、〈◯中略〉酉刻〈◯中略〉武州〈◯北條泰時〉陣二于栗子山一武藏前司義氏、駿河次郞泰村不レ相二觸武州一、向二宇治橋邊一始二合戰一、官軍發二矢石一如二雨脚一、東士多以中レ之、籠二平等院一、及二夜半一、前武州以二室伏六郞保信等一、進二于武州陣一云相二待曉天一可レ遂二合戰一由存處、壯士等進二先登一之餘、已始二矢合一被二殺戮一者太多者、武州乍レ驚、凌二甚雨一向二宇治一訖、此間又合戰、東士廿四人、忽被レ疵、官軍頻乘レ勝、武州、尾藤左近將監景綱可レ止二橋上戰一之由、加レ制之間、各退去、武州休二息平等院一、
p.0228 弘安六年二月十日乙未、左大將殿〈御直衣◯藤原兼忠〉八葉御車、侍三人被二召具一、〈◯中略〉未刻著二宇治橋一、被レ用二御輿一、
p.0228 徳治二年十二月十二日、〈亥刻〉爲二學侶衆徒之沙汰一、奉レ遷二神木〈◯春日社〉於泉木津一了、 同五日〈丑刻〉御入洛之處曳二宇治橋一、武士奉レ防二御之一、仍御止二留平等院一、
p.0228 去程に御手分あり、〈◯中略〉勢田は正月〈◯延元元年〉三日より矢合とぞ聞えし、將軍〈◯足利尊氏〉は日原路を經て宇治へ御向あり、〈◯中略〉京方宇治の討手の大將義貞、橋の中二間引て、櫓揆楯を上て相支けり、
p.0228 山門牒送二南都一事 宇治ヘハ中院中將定平ヲ被レ遣、宇治田原、醍醐、小栗栖、木津、梨間、市野邊山、城脇ノ者共、馳集テ二千
p.0229 餘騎、宇治橋二三間引落テ、橘ノ小島ガ崎ニ陣ヲトル、
p.0229 七月廿四日乙卯、同曉、宇治河水悉旱、但河橋(○○)水上一大石、方八丈、毎年祭之石也、而俄隱沒希代事也、
p.0229 應永廿三年五月三日、傳聞宇治橋有二供養一、〈◯中略〉此橋者應永廿年被二造替一了、仍今日有二供養之儀一、
p.0229 長祿四年二月十四日壬戌、鷄鳴發足、一里而到二宇治橋一、 閏九月六日己酉、江州太守某、以二源相公命一、禦二守宇治橋一、蓋備二畠山義就之兵一也、
p.0229 題二江州太守高頼公便面一 村々曝布白レ於レ花、月在二宇治橋上一斜、一馬截流天下定、江山從レ此屬二平家一、
p.0229 翰林五鳳集〈宇橋偶作、月舟、〉水遶山圍地亦清、翠楊挾レ岸白沙明、碧瑠璃上畫橋影、多少遊人波底行、
p.0229 嘉保三年〈◯永長元年〉二月十二日、早旦參二御社一、〈◯春日、中略、〉辰時計出二宿所一、〈小祿給二神主時經朝臣一、依レ爲二宿所主一也、〉從二宇治橋以北一小雨、申時計歸レ家、
p.0229 天正八年八月十二日、信長公京より宇治之橋を御覽じ、御舟に而直に大坂へ御成、
p.0229 小倉堤を過て左にゆけば宇治に至る、〈◯中略〉いにしへの橋は社の南にありけり、十三重の石塔ある所、むかしの橋の跡也、碑の文は苔に埋れてみへず、若楊修あらば摸りてよむべき也、〈◯中略〉橋の西のつめに橋姫の祠あり、
p.0229 宇治川 ちかき寶暦年中間〈◯六年九月〉の洪水に宇治橋もおち、この塔〈◯浮島塔〉もくづれたり、〈◯又見二十三朝紀聞一〉
p.0229 寛政五年五月、山城宇治橋成、自二寶暦中一不レ修二此橋一、至レ是幕府再二造之一、
p.0230 宇治橋再造事 寛政五年五月、宇治ばし武家の沙汰として、もとの所につくりわたしぬ、供養の沙汰に及ばず、後宇多院の御宇、弘安九年、西大寺の恩圓上人〈興正菩薩〉再興のはし、去寶暦六年九月、洪水に落ちける、その時うき島の十三重の塔もたふれ、橋姫のやしろもながれぬ、その後は平等院のあたりにかり橋をかけて往反せし、
p.0230 ひづかはのはし 山城
p.0230 京邊土名所 辰巳分 木幡 河〈◯中略〉ひづ河と云、木幡の里ちかき小河也、橋をよめり、ふしみのひがしなり、
p.0230 櫃河〈橋〉 櫃河自二北山科一流出、而經二勸修寺東醍醐西一、木幡西而流二合宇治川末一也、櫃河橋今在二六地藏町中一橋乎、土人云、昔自二伏見一通二大津一、渡二六地藏町橋一行也、
p.0230 題不レ知〈懷中◯中略〉 よみ人しらず 日くるればをかのやにこそふしみなみあけてわたらんひづかはのはし
p.0230 春日社に百首歌よみて奉りけるに、橋歌、 皇太后宮大夫俊成 都出てふしみをこゆる明がたはまづうちわたすひづ河の橋
p.0230 櫃河橋 同〈(山城)類字〉 〈良玉〉なをざりにふみとヾろかす音すれば明てだにみぬ櫃川の橋
p.0230 板田橋(イタダノハシ)〈和州高市郡〉
p.0230 文苑 小墾田〈并坂田橋(○○○)〉
p.0230 寄レ物陳レ思
p.0231 小墾田之(ヲハリダノ)、板田乃橋之(サカタノハシノ)、壞者(クヅレナバ)、從桁將去(ケタヨリユカム)、莫戀吾妹(ナコヒソワギモ)、
p.0231 をはり田は、推古天皇十一年十月、豐浦宮より小墾田宮へ遷ませる事紀に見ゆ、神名帳大和高市郡治田神社と有、板は坂の誤にてさかた也(○○○○○○○○○○○)さかたとせる事は、小墾田の金剛寺を坂田尼寺といへり、推古天皇鞍作鳥に近江坂田郡水田を賜ける時、鳥天皇の御爲に此寺を建たれば、坂田寺といふなるべし、南淵山細川山より水落合て、坂田寺のかたへも流るといへば、そこに渡せる橋をいふならんよし契沖いへり、舒明天皇二年十月に、飛鳥岡本宮へ遷ませしより、小はり田は故郷と成て、そこの橋の板の朽たる程の歌なるべし、こヽを後世誤りて、をはたヽのいたヽとよめる歌有、 ◯按ズルニ、板田ト稱スルモノ、此他尚ホ攝津國、尾張國等ニモアリ、
p.0231 橋 俊頼 朝夕につたふ板田の橋なればけたさへ朽てたじろきにけり
p.0231 五月雨 加茂基久 五月雨にいたヾの橋も水こえてけたよりゆかむ道だにもなし
p.0231 橋邊款冬 駒とむるいたヾのはしの夕浪にこぼれてにほふやまぶきのはな
p.0231 くめのいはぱし 大和
p.0231 久米路橋(クメヂノハシ)〈大和〉
p.0231 くめぢのはし〈いはゞし◯中略〉 又かつらぎのはしともよめり、又くめぢのはしともいふ、又かつらぎやくめぢにわたすいはヾしともよめり、又かつらぎやわれやくめぢの橋つくりともよめり、又かつらぎやくめぢのはし
p.0232 の中絶てともよめり、又かつらぎやくめの岩はしともよめり、
p.0232 和國名所 久米 〈橋、大和、 信濃〉
p.0232 久米路の橋 六帖に清正、かつらぎやくめのつぎ橋などよめるは皆大和なり、今按、河内國石河郡〈大和國葛上郡西〉平石村の山上に石橋あり、其濶可二五尺一、長七尺許、右少缺、上若レ架レ版者四、兩端稍隆、以二欄基一形勢將レ及二南峯一、實天造也といへり、
p.0232 石橋〈當郡石川郡平石村の上方にあり、平石より阪路を東に登る事十八町にして、葛城の山頂少し東の方にあり、河内大和の國堺は、石橋より東五町計下りて、伏越峠を限る、しかはあれど、いにしへより和歌の名所に、大和にあれば、大和名所圖會にも出せり、〉
p.0232 修二持孔雀王呪法一得二異驗力一以現作レ仙飛レ天縁第廿八 役優婆塞者、加茂役公氏、今高賀茂朝臣者也、大和國葛木上郡茅原村人也、自性生知、博學得レ一、仰二信三寶一、以レ之爲レ業、毎夜挂二五色之雲一、飛二沖虚之外一、携二仙賓一遊二億載之庭一、臥二休蘂乎之苑一、吸二噉於養レ性之氣一、所以年心卅有餘、更居二巖窟一、被レ葛餌レ松、沐二清水之泉一、濯二欲界之垢一、修二行孔雀之呪法一、證二得奇異之驗術一、駈二使鬼神一、得レ之自在、喝二諸鬼神一催レ之曰、大倭國金峯與(○○○○○○)二葛木峯(○○○)一、度(○)二一椅(○○)一而通(○○)、於レ是神等皆愁、藤原宮御宇天皇〈◯文武〉之世、葛木峯一語主大神讒レ之曰、役優婆塞謀二時傾一、天皇勅遣レ使捉レ之、猶因二驗力一輙不レ可レ所レ捕、所レ捉二其母一、優婆塞令レ免レ母故出來見レ捕、即流二之伊圖之島一、〈◯下略〉
p.0232 くめぢのはし〈いはゞし◯中略〉 童蒙抄云三齋略記云、秦始皇、海中に石の橋をつくる、海神これがために柱をたつ、始皇あひみんことを求む、海神のいはく、我形みにくし、我形をうつすことなかれ、帝則海に入事卅九里にして海神をみる、左右の人をして縛レ手て、うごかする事なし、畫にたくみなる人、ひそかに足を
p.0233 もちてその形をかく、神いかりて帝約をそむけり、はやくさりねと、始皇馬をはやめてかへる、馬のしりあしをひくにしたがひてはしつくる、にはかにきしにのぼることを得たり、畫がきつるもの、水におぼれてうみにしぬと云々、されば神のわたす石橋は、いづこにもわたしえぬ事とおもひあはするが似たれば、かきのするなり、私考云、秦始皇在二城西南牛耳山北一、造二石橋一欲三渡レ海觀二日出入一、卅里、石橋往々猶存、舊説始皇以斷レ石、石自行而生、今西岸石皆東首、隱賑以鞭橽、癈言以駈逐、此事虚疑有二斯跡一也、
p.0233 はし かつらぎやわたすくめぢのつぎ橋(○○○○○○○)は心もしらずいざかへりなむ
p.0233 大納言朝光下らうに侍りける時、女のもとにしのびてまかりて、あかつきにかへらじといひければ、 春宮女藏人左近 岩橋のよるの契もたえぬべし明るわびしきかつらぎのかみ
p.0233 いはヾしのよるのちぎりもたえぬべしあくるわびしきかつらぎのかみ むかし大和國に役優婆塞といひけるもの、ゆきヽよかりなんといひて、かつらぎ山よしの山のあひだに橋をわたさんと思ひて、日本國の神々に祈こふに、かつらぎにいます一言主と云神、一夜のあひだに、かの山この山のみねにいしのはしをわたしはじめて、ひるはかたちの見にくしきにはヾかりてわたさぬを、役をそかりてなんどいひて、ひるもわたすべきよしをせむるに、神はらだちて託宣して帝に奏したまはく、役優婆塞と云もの、王位をかたぶけむとす、つみし給ふべしと、みかどこのつげによりて、役行者を伊豆國にながしつかはしつ、神なをかれが世にあらんことををそれて、命をたヽるべきよしをかさねて奏するによりて、人をつかはしてころすべきよしおほせらるヽに、使いたりてつるぎをぬきてころさむとするに、つる
p.0234 ぎに表文あり、見れば神の讒言によりて、あやまたぬ行者をつみせらるヽことあたはぬよしあり、おどろきてこのよしを奏す、みかどをそれ給ひて、めしかへされぬ、そのヽち役行者いかりをなして、護法をもちて此神をしばりて、唐へわたしにけり、これ金峯山の縁起に見えたり、此こヽろをよめる也、
p.0234 岩橋 和州篠峯にあり、この山は攝河泉の地より見れば、東のかた連山の中に、殊に二峯傑出す、南方葛城といふ、また金剛山ともいふ、その北方の山なり、
p.0234 久米ハ岩橋ノ昔ヲ尋テ川流ニ臨ミ、精舍ニ入テ古仙ノコトヲ獨笑スルノミ、
p.0234 ふるのたかはし 大和
p.0234 大和國山邊郡 布留高橋
p.0234 布留 高橋、石上寺より南也 間ちかし、さくら、すみれ、尾花、五月雨などよめり、〈◯中略〉 石上ふるの高橋たかけれどみえず成行五月雨の頃
p.0234 關梁 高橋〈在大安寺村一、有二古詠一、〉
p.0234 はし いそのかみふるの高橋たか〴〵に妹が待らん夜ぞふけにける
p.0234 契沖云、石上は山邊郡、高橋は添上郡なれど、ほどちかければ、いそのかみふるの高橋とよめり、山科は宇治郡、石田は久世郡なれど、山科の石田ともいふが如し、
p.0234 戀のうた 石の上ふるの高橋ふりぬとももとつ人には戀やわたらん
p.0235 橋月といふことを 右兵衞督雅孝 磯の上ふるの高橋代々かけて月もいく夜かすみわたるらん
p.0235 百首歌奉りし時雜歌 前内大臣 苔むして人のゆきヽの跡もなしわたらで年やふるの高橋
p.0235 御詠歌 寄レ橋戀 よそながらおもひかけても年はへぬわたらぬ中のふるの高橋(○○○○○)
p.0235 轟橋〈東大寺と興福寺の間にあり〉
p.0235 はしは とヾろきのはし
p.0235 難波江橋
p.0235 堀江橋 同〈◯西成〉郡ニ屬ス、方角所レ指不レ詳、一説、今川邊郡尼崎庄下橋ニ轉ズト云ヘドモ、其證未レ考、貞享年中、天滿ノ西ニ續テ堂島新地ノ市店成テ、中之島ヨリ北ニ渉ヲ堀江橋ト稱ス、又元祿戊寅年、大坂長堀川ノ南ニ、堀江川成レリ、此川ノ頭南北ニ渉ヲ堀江橋ト稱スルニ因テ、前名ハ玉江橋ト成レリ、
p.0235 智者誹二妬變化聖人一而現至二閻羅闕一受二地獄苦一縁第七 釋智光者、河内國人、其安宿郡鋤田寺之沙門也、〈◯中略〉時有二沙彌行基一、〈◯中略〉捨レ俗離レ欲、弘レ法化レ迷、器宇聰敏、自然生知、内密二菩薩儀一、外現二聲聞形一、聖武天皇、感二於威徳一、故重二信之一、時人欽貴、美二稱菩薩一、以二天平十六年甲申冬十一月一、任二大僧正一、於レ是智光法師、發二嫉妬之心一、而非レ之曰、吾是智人、行基是沙彌、何故天皇不レ齒二吾智一、唯譽二沙彌一而用焉、恨レ時罷二鋤田寺一而住、儵得二痢病一、經二一月許一、臨二命終時一、誠二弟子一曰、我死莫レ燒、〈◯中略〉逕二九日一蘇、〈◯中略〉時行基菩薩、有(○)二難波(○○)一令(○)レ渡(○)レ椅(○)、堀レ江造二船津一、光身漸息、往二菩薩所一、菩薩見レ之、即神通知二光所一
p.0236 レ念、含二嘆愛一言、何罕二面奉一、光發露懺悔〈◯下略〉
p.0236 長柄橋
p.0236 攝津國西成郡 長柄〈橋〉
p.0236 長柄橋(ナガラハシ)〈攝州西生郡、弘仁三六月架レ橋、中古斷絶、〉
p.0236 和國名所 長樂 〈長柄橋、濱、津國、〉
p.0236 一同名之名所 ながら 橋 濱 山 宮〈◯中略〉 橋、はま、宮、皆攝津國同所也、
p.0236 長柄橋(ながらのはし) 難波の北なり、橋はなし、
p.0236 古蹟 廢長柄橋 〈橋寺村〉
p.0236 長柯橋 同〈◯西成〉郡ニ屬ス、今ノ北長柄村ヨリ豐島郡垂水庄ニ至ノ間ヲ指テ、長柄ノ橋跡ト云ヘリ、又長柄川今ノ船渡ノ邊ニ於テ、橋ノ古株朽殘リテ水底ニアリト云ヒ傳ヘタリ、
p.0236 雉子畷 同〈◯西成〉郡垂水村ニアリ、所傳云、昔此所ノ長者岩氏ト云者アリ、西成郡長柄橋ヲ造ル人柱ナクテ成就シ難キニ依テ、岩氏其人ヲ撰ニ、繼シタル袴著タラン者ヲ捕テ沈ムベシトノ約ヲ成テ改レ之、岩氏ガ著タル袴然レ之、其誓約ヲ許ス、終ニ捕ト成テ水底ニ入ヌ、因テ橋成就ス、岩氏一人ノ娘アリ、美容世ニ勝テ紅顏朝日ヲ嘲バカリ也、是故ニ號テ光照前ト稱ス、然ルニ成長マデニ不レ言シテ啞ノ如シ、母ノ悲歎限リナク深ク藏レ之、于レ爰河内國交野郡禁野里ノ何某、是ヲ戀テ垂水ノ家ニ告テ迎レ之、辭シ難シテ終ニ禁野ノ家ニ遣ス、猶言ザルコト久シ、夫怪ンデ亦送リ歸ス、此畷ニ至ル時、雉子ノ鳴聲ヲ夫尋ヨリテ射レ之、於レ于レ是光照歌云、物言ジ父ハ長柄ノ橋柱鳴ズハ雉子モ射ラレザラマシ、ト繰返シ吟レ之、夫驚キ母ノ許ニモ行テ禁野ニ歸リ悦ビアヘリ、時人雉
p.0237 子畷ト號ク、今ノ世マデモ袴ニ繼スル事ヲ忌ル諺ハ、其是縁也ト云ヘリ、光照モ父ノ後世ヲ問タメ、終ニ薙髮、自不言尼ト法號シテ、栽松寺ニ入レリ、後ニ又山城國山崎ノ邊ニ不言尼寺ヲ草創ス、當國大願、栽松兩寺ノ略記ニ然リ、
p.0237 長柄橋跡〈此橋の舊跡古來よりさだかならず、何れの世に架初て、何の世に朽壞れけん、これ又分明ならず、橋杭と稱する朽木所々にあり、今田畑より堀出す事もあり、其所一擧ならず、予これを按ずるに、上古は大物浦より東北江口里、南は福島、浦江、曾禰崎より北は神崎川まで一面の大江なり、即大江の名もこれより出る、又これを難波江、難波入江、難波江の浦、三津江、御津浦とも和歌に詠れたり、其江の中に嶼々多くあり、今村里に古名の遺るもの多し、所レ謂南中島、北中島の中に、橋本、紫島、濱川口、小島等みな水邊の郷名多し、長柄橋は孝徳帝豐崎宮の御時より、かの島々に掛わたして、皇居への通路なり、今諺云、長柄橋は長サ壹里ありしと云傳へたり、一橋の名にあらずして、島より島へわたして橋の數多あれども、地名によりてみな長柄橋といひならはしけり、委は名柄豐崎橋なるべし、古來よりも今の北長柄より豐島郡垂水庄に至るまでを長柄の橋跡といふ、又一説には長柄川、今の船渡口の邊橋の古杭遺れりとて、近年堀出し江府に上る、長柄豐崎宮、孝徳帝崩じ給ふ後、大和の飛鳥宮に遷都し給ひ、橋の修理も怠り、風威の時、江海渺茫として落損しける事多し、其後嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月、再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時也、後世に逮んで、神崎川、長柄川、天滿川の水路溶々として江海みな變じて田園と成、今の如く村里食田多し、桑田變じて海となるよりは大なる益ならんかし、〉
p.0237 難波舊地考 長柄豐崎宮の御跡を考るに、まづ長柄の二字を中古奈賀良と訓來れるは、ひが訓にて、奈賀江と訓べき也、さるは古事記に、葛木長江曾都毘古とある長江は、大和國葛上郡の地名なり、天武紀には、幸二于朝嬬一、〈これも葛上郡の地名にて、仁徳紀の歌に、あさづまのひがのをさかといへるハこれなり、〉以看二大山以下之馬於長柄杜一と見え、延喜式神名帳には葛上郡長柄神社と載られたり、是等を相照らして、柄は元來江の假字なるを知るべし、さてこヽの長江といふは、百濟狹山兩河の合て、西の海に入とある、堀江の長きをいふ名にや、〈和名抄西成郡に、長源といふ郷名の見えたる、源ハ誤字なるべしと攝津志にもいひ、又國人もしかいへば、もしくハ江の誤にて、堀江の舊名にハあらぬにや、北條九代記に長江庄、倉橋庄と見え、今も北堀江に、長江堤の遺跡もありといへり、古圖に長洲川といへるハ此長江にやあらん、〉又按に仁徳紀に、爲二橋於猪甘津一、即號二其處一曰二小橋一也といへるは、今猶味原の東南、彼高津よりは北によりて、東小橋、西小橋とて、其名存せり、古事
p.0238 記に、堀二小椅江一とあるは、即この猪甘津の江なれば、大和川も其所にて、百濟川、狹山川に合て、一流は上古の堀江を西に流れ、一流は今の猪飼村と、猪甘岡の間を經て北に流れて、山城川と合て、海に入れりとおもはるれば、〈今も故大和川とて、水道のこれり、〉その江の長きをもて、名におふしヽにもやあらむ、〈◯中略〉長柄橋の遺跡は郷人の言に、長柄村の東に橋寺といふ村あり、これその舊地といひ、いにしへの橋柱も彼所に有といへり、又彼橋柱は、この長柄村橋寺村の間、こヽかしこより堀出せり、その所凡壹里〈今の里數を云、〉許が間なり、しかばかり長き橋の有べきにもあらねば、元來その地は洲濱にて、こなたかなたの島々に、あまた架せる橋を、なべて長柄の橋とはいへるなるべしといへり、これみなうきたる言にして、すべて信がたし、日本後紀、文徳實録にいふ所、一の橋なる事いちじろきをや、按に、これも長江に架せる橋にして、猪甘津の小橋は、即この長柄の橋なるべく、小椅江は即この長柄なるべし、〈小橋の小ハ、小國小田などいふ小にて、褒言の稱へ辭なり、〉さるを柄を江の假字に用たる舊證ある事をおもはず、長良とのみ訓來れる中古の言にひかされ、且長良村の名にかヽづらひて、郷人のあらぬ地をまさぐりをるこそいとをこなれ、古昔の歌に、ひとつも長柄川とよめるなきは、もと長江なれば、〈流江(ナガラエ)にても〉川とはいふまじき故もやあるらん、
p.0238 弘仁三年六月己丑、遣レ使造(○)二攝津國長柄橋(○○○○○○)一、
p.0238 嘉吉三年四月二日丁亥、參二伏見殿一有二御讀一、宮御方被二語仰下一云、昨日被二注下一長柄橋事、〈◯中略〉弘仁三年に造らるヽよし國史に見えたれば、〈◯中略〉弘仁は新造歟、修造歟、不レ可レ辨之由も見えたり、又古老傳に人柱たてられたりともみゆ、最初の事ともみえず、密勘の註にハ子負たる女をとらへて人柱にたてたりと云へり、今程猿樂などの能には、男を人柱にたてられたりともみゆ、凡長柄橋の事、古の歌仙も在所をば慥ニ不レ知云々、わたの邊のあたりにかけたる橋云々、
p.0238 大願寺 同〈◯西成〉郡佛性院村ニアリ、〈◯中略〉嵯峨天皇ノ御宇弘仁三年壬辰夏六月、
p.0239 再雖レ令レ造二長柄橋一、其功成難シ、水底ニ人柱ヲ入テ築補アラバ可二成就一之由奏レ之、因テ往來ヲ留捕レ之、岩氏ト云者戯ヲ作テ終ニ水底ニ入リ、一度橋成就シ、勅願正ニ滿リ、再寺院營建シテ大願寺ト改ム、橋朽テ後寺院ノミト成リ、〈◯中略〉一名橋本寺ト稱ス、
p.0239 寺を 信實 ながらなるはしもと寺もつくるなりおこさぬ家を何にたとへん
p.0239 仁壽三年十月戊辰、攝津國奏言、長柄三國兩河、頃年橋梁斷絶、人馬不レ通、請准二堀江川一、置二二隻船一、以通二濟渡一、許レ之、
p.0239 題しらず 坂上是則 あふことをながらの橋のながらへてこひわたるまに年ぞへにける
p.0239 題しらず 讀人しらず 世中にふりぬる物は津の國のながらの橋とわれとなりけり
p.0239 誹諧歌 伊勢 難波なるながらの橋もつくるなり今は我身を何にたとへん
p.0239 教長卿註云、ヨノナカノムカシニカハルコトヲタトヘ云也、〈◯中略〉ナガラノハシハ、フリテヒサシクステタルヲ、アタラシクツクラン様ノ心也、
p.0239 いまはふじのやまもけぶりたヽずなり、ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞこヽろをなぐさめける、
p.0239 一長柄のはしもつくるなりとは、是に二の儀あり、一にはつきたるなり、そのゆへは拾遺抄の歌に、内裏の障子に、長柄の橋の柱の、あしの中よりくち殘りてたてるやうにゑにかけるをみて、
p.0240 あしまよりみゆるながらの橋ばしらむかしのあとのかたみなりけり 此歌の心にてはつきたる儀なり、一には歌に云、 つの國のながらの橋もつくるなり今はわが身をなにヽたとへん 君が代はながらのはしのちたびまでつくりはてヽもなをやふりなん と云歌の心なり、此儀にて候なり、兩儀ともに不レ違、其謂には古今拾遺の中の間の時代をかぞふれば、世は六代、年八十一年にあたれるなり、されば此序は、かの橋を作りかへられし事をかき、拾遺には、かのはしの八十餘年が間に、くちにける事と證するにや、しかるにふじの山は煙たヽず、ながらの橋はつくるといふべきに、さはかヽで、たヽずなり、ながらの橋もつくるなりと聞は、歌にのみぞと云へるなり、和歌の道をひろくおもく申侍りけるなり、古今にも此心なるべし、
p.0240 難波なるながらのはしもつくる也今はわが身をなにヽたとへん 此集〈◯古今和歌集〉雜部に、世中にふりゆくものは津の國のながらのはしと我と也けり、といへる歌を本にてよめる也、誠に橋をつくるにはあらじ、かくたとへきたるにまかせてわが身のたぐひなきよしをいはんとて、彼はしもつくるなりとはよめる也、
p.0240 天暦御時、御屏風の繪にながらの橋の橋柱の僅に殘れるかたありけるを、 藤原清正 あしまよりみゆるながらの橋柱昔のあとのしるべなりけり
p.0240 長柄橋 心だにながらのはしはながらへん我身に人はたとへざるべく
p.0240 二日〈◯長元四年十月、中略、〉日うちくるヽほどに、歌よませ給ふ、すみよしの道に述懷といふ心を、〈◯中略〉
p.0241 母儀仙院、〈◯一條后彰子〉巡二禮住吉靈社一、關白〈◯藤原頼通〉左相府〈◯頼通弟教通〉以下、卿士大夫之祗候者濟々焉、或棹二花船一而取二水路一、或脂二金車一而備二陸行一、蓋四海之无杳、展二多年之舊思一也、于レ時秋之暮矣、日漸斜焉、向二難波一兮忘レ歸、舊風留頌、過二長柄一兮催レ興、古橋傳レ名、遂仗二酣酔一、各發二詠歌一、其詞云、〈◯中略〉 關白殿 君が代はながらのはしのはじめより神さびにけるすみよしの松〈◯中略〉 辨のめのと 橋ばしらのこらざりせばつのくにのしらずながらやすぎはてなまし
p.0241 長柄橋にてよみ侍ける 前大納言公任 橋ばしらなからましかばながれての名をこそきかめあとをみましや
p.0241 ながらのはしを見て ありけりとはしはみれどもかひぞなき船ながらにてわたるとおもへば
p.0241 延久五年二月廿日、太上皇、〈◯後三條〉陽明門院〈◯後朱雀后禎子内親王〉一品内親王、〈◯聯子〉參一石清水、住吉、天王寺一給、 廿二日、覽二難波浦一、 廿五日、覽二長柄橋一、於二御船一有二和歌一、 廿七日還御
p.0241 二月〈◯延久五年〉はつか天王寺に詣させ給、この院をば一院とぞ人々申ける、後三條院とも申めり、女院〈◯後朱雀后禎子内親王〉も一品宮〈◯聯子〉もまうでさせ給、〈◯中略〉廿二日のたつのときばかりに御船いだしてくだらせ給ふ程に、江口のあそび、ふたふねばかりまいり、祿などをぞたまはせける、〈◯中略〉こヽはいづくぞととはせ給、東宮大夫ぞつたへとひ給、これはながらとなん申すといふ程に、そのはしはありやとたづねさせ給へば、候よし申す、御ふねとヾめて御らんずれば、ふるき橋の柱たヾ一のこれり、いまはわが身をといひたるは、むかしもかくふりてありけると思もあはれなり、〈◯中略〉廿五日の辰時ばかりにぞ御船いだす、〈◯中略〉實政を御ふねにめしあげて、歌ど
p.0242 も講ぜさせ給、〈◯中略〉 左兵衞督資仲 をとにきくながらのはしはなかりけり(○○○○○○○○○○○○)ちどりばかりぞなきわたりける
p.0242 加久夜長刀帶節信ハ數奇者也、始テ逢二能因一テ相互ニ有レ感、能因云、今日見參ノ引出物ニ可レ見物侍リトテ、自二懷中一錦小袋ヲ取出、其中ニ鉋屑一筋アリ、示云、是ハ吾重寶也、長柄橋造之時鉋クヅナリト云々、于レ時節信喜悦甚テ、又自二懷中一紙ニ裹物ヲ取出、開レ之見ニカレタルカヘルナリ、コレハ井堤ノカハヅニ侍云々、共感歎シテ各懷レ之退散云々、今世人可レ稱二嗚呼一歟、
p.0242 いまはむかし、伯〈◯康資王〉のはヽ佛くやうしけり、永縁僧正をしやうじて、さま〴〵の物どとをたてまつる中に、むらさきのうすやうにつヽみたる物あり、あけてみれば、 くちにけるながらのはしのはしばしら法のためにもわたしつるかな、ながらのはしのきれなりけり、又の日またつとめて、若狹あざりらくゑんといふ人、歌よみなるがきたり、あはれこのことをきヽたるよと僧正おぼすに、ふところよりみやぶをひきいでヽたてまつる、このはしのきれ給はらんと申、僧正かばかりの希有のものは、いかでかとてなにしにかとらせ給はんくちおしとてかへりにけり、すき〴〵しくあはれなることヾも也、
p.0242 元久元年七月十六日、著二下袴一、巳時參殿、午時御共、參二御所一、未時許出御、各應召參入、置レ歌了、依レ仰講師如レ例ながらの橋々柱〈所二朽殘一云々〉木、被レ作二文臺一、〈是院(後鳥羽)御物也〉
p.0242 清輔朝臣の傳へたる人麿の影は、讃岐守兼房朝臣、ふかく和歌の道を好みて、人麿のかたちを知らざることを悲みけり、夢に人麿來りて、われをこふる故に、かたちをあらはしけるよしを告げヽり、兼房畫圖にたへずして、後朝に繪師をめして教へて書かせけるに、夢に見しに違はざりければ、悦びてその影をあがめてもたりけるを、白河院この道御好ありて、かの影
p.0243 をめして勝光明院の寶藏にをさめられにけり、〈◯中略〉長柄の橋の橋柱にて作りたる文臺は、俊惠法師が本よりつたはりて、後鳥羽院の御時も、御會などに取りいだされけり、一院〈◯後鳥羽〉御會に、かの影の前にて、その文臺にて和歌披講せらるなど、いと興あることなり、
p.0243 一歳三熊野詣の御悦に、長柄の御宿に著せ給ふ、〈◯中略〉渡邊の橋の上に行かふ駒の足おと、おどろ〳〵しくふみならし、船呼ばふ聲々もかしましければ、御前の邊は何となくしめやかなるに、昔の長柄の橋とかやは、此渡なりけんかし、只名ばかりを聞わたるに、跡をだに見てしがなと思召たり、いづくを指てか見えんずべきなど、且は笑申合り、御前に少將雅經候が、其橋柱の切れは持て候者をと申す、京にて急ぎ參らすべき由仰あり、只朽たる木のはしに侍り、何計のしるしにかはさとも思召べきなど申合り、是は此渡りの住人瀧口盛房と申すをのこの傳へ持て侍りしなり、それが先祖に侍りけるもの、此川の邊をあやしき舟に乘てわたり侍りけるに、舟にこたへて舟俄に不レ動かへりければ、人を卸して水底を探らせけるに、堀出せるなり、細に見侍れば、中に黒鐵の心たてヽ、柱のたヽずまひの姿なり、さればよと思合せて、取て今に傳へたりけると申、京へ入らせ玉ひて二三日計ありて、此橋柱の切まゐらすとて添たる歌、 これぞこの昔長柄の橋柱君が爲とや朽のこりけん、返しせよと仰侍りしかば、 これまでも道ある御世の深き江に、殘もしるき橋柱哉、是を文臺にして和歌所に置かる、
p.0243 貞治三年卯月上旬のころ、津の國難波の浦みむとて、かの所にまうでけるに、淀より舟にのりて、〈◯中略〉夜明もてゆくほどに、長柄といふ所につきぬ、いにしへは此所に橋ありて、人のゆきかよひしが、今ははしの跡とてはわづかにふるぐゐばかり也、まことや、ふるきためしに人のひくめるはことはりにぞ、 くち果しながらの橋のながらへてけふに逢ぬる身ぞふりにける
p.0244 天文八年十二月四日丁卯、坊城殿へ罷也、彼物語ながらの橋柱にて硯箱禁中被二仰付一之、御會始御製、御代不分明間不レ載之、 あきの夜の月やながらのはし柱こヽにも影のすみわたるらん
p.0244 永祿十一年九月十日に、典厩城の前中津川に船橋かけられたり、然るに七十一年已前に、畠山尾張守、河内高屋の城より出て、攝州入の時に天王寺へ陣取、其時渡邊川長柄に橋を掛られたり、其所註なく高屋の城へ歸陣候つる由申傳へ候、
p.0244 長柄橋杭殘木記 ながらの橋杭の殘れるをほりえしと聞て、いさヽかこれをもとめて、かの所のさまを繪にかきて、橋ばしらに其木けづりなして、調しける硯のふたを、やごとなき御許に奉るとて、 法橋清順 かくてこそ世にもしられめ橋柱むかしながらにくちのこるとは 御かへし 津の國ながらのはしの跡は、今は田にすきかへしなどして、ふりぬる名のみ殘れるよしなり、さればそのちかきわたりにすみて、ことのはの道うとからぬ人のすさびに、まさしき橋杭をほり出たるときくは、まことに心ざし深きゆゑなるべし、その木をのぞみて、すヾりの箱のふたに、はし杭のこれる長柄のむかしを寫繪にかきて、かの木をそのまヽくひになせるが、あさからぬなさけのほどもみゆる、をおくりける人の一片の玉藻をさへそへてありければ、感情にたへずして、まさごの鳥のつたなき跡をつけぬるものならし、 亞三台光榮 橋ばしら思ひがけきや手にとりてむかしながらの跡を見んとは
p.0245 長柄橋ハ文徳ノ御時、既ニ斷絶シケレバ、マシテ今ハソノ跡ダニ知ル人ナシ、凡天下ノ橋々多キ中ニ、賞咏今古ニ著シキハ、唯コノ橋ヲ第一トス、
p.0245 わたのべのはし
p.0245 渡邊橋 是も難波邊也、天王寺の北壹里也、淀川の末なり、渡邊いまは橋柱ばかり也、
p.0245 渡部橋 同〈◯西成〉郡ニ屬ス、方角所レ指不レ詳、渡部ヤ大江岸ト續クヲ以テ、大江橋ノ一名トスル歟、今謂渡部橋ハ俗名所ニ比シテ、玉江ノ橋東ニアリ、
p.0245 六帖題やしろ 權僧正公朝 わたのべやはしのうはてをはじめにておほかるきちのつまやしろかな
p.0245 楠出二張天王寺一事附隅田高橋并宇都宮事 元弘二年五月十七日ニ、先住吉天王寺邊ヘ打テ出テ、渡部ノ橋ヨリ南ニ陣ヲ取ル、然間和泉、河内ノ早馬敷並ヲ打、楠已ニ京都ヘ責上ル由告ケレバ、洛中ノ騷動不レ斜、武士東西ニ馳散リテ、貴賤上下周章事窮リナシ、斯リケレバ兩六波羅ニハ、畿内近國ノ勢如二雲霞一馳集テ、楠今ヤ責上ルト待ケレ共、敢テ其義モナケレバ、聞ニモ不レ似楠小勢ニテゾ有覽、此方ヨリ押寄テ打散セトテ、隅田、高橋ヲ兩六波羅ノ軍奉行トシテ、四十八箇所ノ篝、并在京人畿内近國ノ勢ヲ合セテ天王寺ヘ被二指向一、其勢都合五千餘騎、同二十日京都ヲ立テ、尼崎、神崎、柱松ノ邊ニ陣ヲ取テ、遠篝ヲ燒テ其夜ヲ遲シト待明ス、楠是ヲ聞テ、二千餘騎ヲ三手ニ分ケ、宗トノ勢ヲバ住吉天王寺ニ隱テ、僅ニ三百騎計ヲ渡部ノ橋ノ南ニ磬サセ、大篝二三箇所ニ燒セテ相向ヘリ、是ハ態ト敵ニ橋ヲ渡サセテ、水ノ深ミニ追ハメ、雌雄ヲ一時ニ決センガ爲也、去程ニ明レバ五月二十一日ニ、六波羅ノ勢五千餘騎、所々ノ陣ヲ一ニ合セ渡部ノ橋マデ、打莅デ、河向ニ引ヘタル敵ノ勢ヲ見渡セバ、僅ニ二三百騎ニハ不
p.0246 レ過、剩ヤセタル馬ニ繩手綱懸タル體ノ武者共也、隅田、高橋是ヲ見テ、サレバコソ和泉、河内ノ勢ノ分際、サコソ有ラメト思フニ合セテ、ハカ〴〵シキ敵ハ一人モ無リケリ、此奴原ヲ一々ニ召捕テ、六條河原ニ切懸テ、六波羅殿ノ御感ニ預ラント云儘ニ、隅田、高橋人交モセズ、橋ヨリ下ヲ一文字ニゾ渡ケル、五千餘騎ノ兵共是ヲ見テ、我先ニト馬ヲ進メテ、或ハ橋ノ上ヲ歩マセ、或ハ河瀬ヲ渡シテ、向ノ岸ニ懸驤ル、楠勢是ヲ見テ遠矢少々射捨テ一戰モセズ、天王寺ノ方ヘ引退ク、六波羅ノ勢是ヲ見テ、勝ニ乘リ、人馬ノ息ヲモ不二繼セ一、天王寺ノ北ノ在家マデ揉ニ揉デゾ追タリケル、楠思程敵ノ人馬ヲ疲ラカシテ二千騎ヲ三手ニ分テ、一手ハ天王寺ノ東ヨリ、敵ヲ弓手ニ請テ懸出ヅ、一手ハ西門ノ石ノ鳥居ヨリ魚鱗懸ニ懸出ヅ、一手ハ住吉ノ松ノ陰ヨリ懸出テ、鶴翼ニ立テ開合ス、六波羅ノ勢ヲ見合スレバ、對揚スベキ迄モナキ大勢ナリケレ共、陣ノ張様シドロニテ、却テ小勢ニ圍レヌベクゾ見エタリケル、隅田、高橋是ヲ見テ、敵後ロニ大勢ヲ隱シテタバカリケルゾ、此邊ハ馬ノ足立惡シテ叶ハジ、廣ミヘ敵ヲ帶キ出シ、勢ノ分限ヲ見計フテ、懸合々々勝負ヲ決セヨト下知シケレバ、五千餘騎ノ兵共敵ニ後ロヲ被レ切ヌ先ニト、渡邊ノ橋ヲ指テ引退ク、楠ガ勢是ニ利ヲ得テ三方ヨリ勝時ヲ作テ追懸ル、橋近ク成ケレバ隅田、高橋是ヲ見テ、敵ハ大勢ニテハ無リケルゾ、此ニテ不二返合一大河後ロニ在テ惡カリヌベシ、返セヤ兵共ト、馬ノ足ヲ立直々々下知シケレドモ、大勢ノ引立タル事ナレバ、一返モ不レ返、只我先ニト橋ノ危ヲモ不レ云馳集リケル間、人馬共ニ被二推落一テ、水ニ溺ルヽ者不レ知レ數、或ハ淵瀬ヲモ不レ知渡シ懸テ死ヌル者モ有リ、或ハ岸ヨリ馬ヲ馳倒テ、其儘被レ討者モ有リ、只馬物具ヲ脱捨テ、逃延ントスル者ハ有レ共、返合セテ戰ハントスル者ハ無リケリ、而レバ五千餘騎ノ兵共殘少ナニ被二打成一テ、這々京ヘゾ上リケル、其翌日ニ何者カ仕タリケン、六條河原ニ高札ヲ立テ、一首ノ歌ヲゾ書タリケル、 渡部ノ水イカ計早ケレバ高橋落テ隅田流ルラン、京童ノ僻ナレバ、此落書ヲ歌ニ作テ歌ヒ、或
p.0247 ハ語傳テ笑ヒケル間、隅田、高橋面目ヲ失ヒ、且クハ出仕ヲ逗メ、虚病シテゾ居タリケル、
p.0247 渡邊橋ハ大江岸ニカヽレリトイフ、行基以來世々ニ修造アリシガ、文明ノコロハ已ニ橋柱バカリトナリ、今ハソノアトモ見ヘズ、
p.0247 おほえのはし、大江、 山城或攝津
p.0247 攝津國東成郡 大江〈橋〉
p.0247 大江橋 同〈◯西成〉郡ニ屬ス、方角所レ指不レ詳、夫木集、攝津、山城兩國ニ比ス、今謂大江橋ハ、俗名所ニ比シテ玉江橋ノ東ニアリ、一説、川邊郡上坂部村ニアリト云ヘドモ證未レ考、
p.0247 大江橋〈一名渡邊橋(○○○○○)、近江川の下流、今の天滿橋天神橋の間に架す、此時河幅貳百六十間餘、今川幅狹く成ツて三橋を架す、一ニ天滿橋長サ百十五間五尺、二ニ天神橋長サ百廿二間三尺、三ニ難波橋長サ百十四間六尺、是を浪花三大橋といふ、今の堂島の大江橋、渡邊橋ハ、後世堂島を築く時、貞享年中にかくる也、舊名によつて號く、〉
p.0247 大江のはしのかたかける所を 俊頼朝臣 はるかなる大江のはしはつくりけん人の心ぞ見えわたりける
p.0247 文治六年五社百首〈おほえのはし〉 皇太后宮大夫俊成卿 あはれなりながらはあともくちにしを大江のはしのたえせざるらん
p.0247 大坂大橋三 天滿橋
p.0247 天滿橋 同川筋〈◯大和川〉淀大川筋ノ落合ニアリ、南ハ京橋二町目、北ハ天滿二町目ニ渉リ、京海道ノ脇道也、此橋高欄疑寶珠アツテ渉リ廣シ、從レ是西ニ曲リ長柄村ヘ出ル道アリ、
p.0247 關梁 天滿橋〈在二府城西北一、長七十餘丈、跨二東生郡於大河一、〉
p.0247 文化六年七月、大坂大水、〈◯中略〉天滿橋傾、
p.0247 天保八年二月十九日、大坂町奉行屬吏大鹽平八郞格助父子、帥二同僚〈◯中略〉七八人
p.0248 及河内攝津民一作レ亂〈◯中略〉城代土井利位等兵、與二町奉行山城守跡部良弼、伊賀跡堀利堅一、撤二河橋一拒レ之、賊不レ得レ踰二天滿、天神二橋一、乃爭二難波橋一、
p.0248 九日、〈◯文久四年五月、中略、〉網島京橋を過て、浪花三橋之内なる天滿橋、長百十五間といふ下を行て、八軒家に著船せしに、友どちの迎出てまつ、
p.0248 大坂大橋三〈◯中略〉 天神橋
p.0248 天神橋 同川筋〈◯大和川〉次第ニアリ、南ハ京橋六町目、北ハ天滿拾一町目ニ渉リ、西成郡南長橋ニ出ル處也、
p.0248 關梁 天神橋〈在二天滿橋西一、長七十六丈有奇、一名渡邊橋(○○○○○)、又名(○○)二大江橋(○○○)一、在二大江岸一故名、中古橋梁斷絶、以レ在二府北一、曰二國府濟一、又名二堀江濟一、文徳實録曰、攝津國奏言、長柄三國兩河、頃年橋梁斷絶、人馬不レ通、請准二堀江一、置二二艘船一以通二濟渡一、許レ之、是也、此地初名兎餓野、後呼二濟南北一、皆曰二渡邊村一、天正中、徙二南渡邊民家於圓江一、移二屠者守墓家於難波村一、其墟今爲二市鄽一、有二古歌一、〉
p.0248 一大坂出火 寛政四年壬子四月十六日夜九ツ時出火〈◯中略〉 公儀橋一箇所〈但天神橋〉 町橋八箇所〈但し天神小橋 裏門橋 兩川橋 濱屋橋 筋違橋 呉服橋 樽屋橋 せんだんの木橋 ◯中略〉 右之通ニ御座候、以上、
p.0248 文化六年七月大坂大水、天神橋敗者二十間、
p.0248 十二日〈◯文久四年五月〉天神橋といふ長百二十二間三尺あるを渡りて、北の橋詰には青物市場ありて賑わし、
p.0248 大坂大橋三〈◯中略〉 難波橋
p.0248 難波橋 同川筋、〈◯大和川〉南ハ北濱二町目、北ハ天滿樋上町ニアリ、
p.0249 關梁 難波橋〈在二天神橋西一、長八十丈許、(中略)跨二大河一、〉
p.0249 東歸紀行 天明三年癸卯、以酊之職既滿、五月〈◯中略〉二十日トレ吉上レ船、〈◯中略〉三日〈◯七月、中略、〉至二申時一、浪華城邑、已歴二歴目前一、暫候レ潮而入二江口一、比レ至二安治橋一、殆甲夜矣、四日對邸使者、裝二樓舫一來迎、駕至二難波橋一邸吏迎レ於レ岸、入レ邸有饗如レ例、
p.0249 高麗橋 同所〈◯今橋〉次ニアリ、東ハ内兩替町、西ハ高麗橋壹町目ニ渉ル處ナリ、〈高欄疑寶珠アリ〉
p.0249 大坂冬御陣之時城方より下筋自燃之事 大坂冬御陣の節、城方より下町筋を自燒致し候刻、高麗橋をも燒落したりとも申、又左様には無レ之とも申、一圓儀定不レ仕候に付、小栗又市見分致し候へば、罷越候て高麗橋は其儘にて有レ之候と申上候得ば、被レ遊二御聞一、若高麗橋をも燃落候に於ては、城中の奴原悉むし殺にしてくれんとおもひつるにとの上意にて、何とて使番の者共は見屆ざると仰有ければ、又市いづれも臆病共に候故、近く寄て見候へば、鐵炮の當るべきかと存、遠くより見候に付ての事に候と申上ル、
p.0249 慶長十九年十二月廿九日、仙波と總郭の橋ども城兵みな自燒して、今橋と高麗橋とのみ殘りしを、石川主殿頭忠總是を燒せじとて、高麗橋の詰にて鐵炮放して防守せしが、城方よりも同く銃丸烈しく打かけ、忠總が士卒疵蒙る者あまたなれば、使番小栗又一忠政馳來て注進し奉る、永井右近大夫直勝も御前に在て、阿波勢近邊なれば、忠總に力を合せ、橋を救はしめんといへば、御けしき損じ、其方どもはあまりに軍法を知らぬぞ、此橋はこなたより燒度思ひつるに、もし燒なば心得ぬ者は、城責なしと思ひあやまらんかとて捨置しなり、城中より燒落すこそ幸なれ、すて置べし、總責の時橋の一筋が便になるものかと、御怒のあまりに、御側に有
p.0250 し長刀とらせられ立せ玉へば、忠政も直勝も恐入て御前を逃去ぬ、後にまた敵此橋より夜討せんも計り難し、怠なく守れと命ぜられしが、四五日過て塙團右衞門直之、此口より阿波津へ夜討をしかけけると也、
p.0250 十二日〈◯文久四年五月、中略、〉高麗橋に至れば、橋の町家に、城郭にひとしき矢倉二ツ有、
p.0250 幸橋 同〈(伊勢)藻鹽〉
p.0250 さいはいの橋 名景不レ見
p.0250 幸橋〈◯中略〉 〈名寄〉頼もしき名にも有かなみてゆかばまづさいはひの橋を渡らん 〈太宰大貳高遠〉
p.0250 思 祈津々猶再拜ノ橋柱立名モクルシオモヒヤマバヤ 再拜ノ橋トハ、倭姫命天津尊ノ御鎭坐ノ山之ハラ御覽坐、彼橋ニテ拜有シ事ヲ名トス、再拜ト書テ二度拜スト讀、
p.0250 爰纏向珠城宮御宇〈仁〉倭姫皇女下樋ノ小川橋ニテ御解除有しに依テ彼橋ヲ再拜ノ橋ト云、伊勢ノ國歌枕〈仁〉幸橋讀如ク、再拜ヲ幸ト和儀也、
p.0250 下樋小河 中世上河と稱せしならむ、永享參詣記に、永享五年彌生廿日、うへ川の橋(○○○○○)と申す所にて、旅人の影さへ見ゆる渡かな春引く水の上河の橋と詠ぜしは、此の河に架せる橋なり、さて江家次第中右記等にも、また下見橋(○○○)のことあり、神名秘書には下樋橋(○○○)と云へり、此等の書にいふ下見橋は、即勅使祗承の交代する所なれば、うへ川は即下樋小川の別名にて、下見橋は下樋橋なることを察知すべし、
p.0251 垂仁天皇纏向珠城宮御宇即位〈◯中略〉廿二年癸丑、遷二飯野高宮一、四箇年奉齊、〈于レ時造二進飯高神戸一〉然後倭姫命向二飯野【下樋(シタヒノ)橋】際一、乃乙若子命、以二麻神蒭靈等一進二倭姫命一、
p.0251 承暦元年七月二日戊戌、巳刻出二壹志驛一、〈◯中略〉伊勢祗承官人稱レ例、自二下見橋(○○○)一退出、午刻至二櫛田川一、
p.0251 公卿勅使進發并路次儀 十二日 供給沐浴祓就レ路、伊勢祗承、於二下見橋一退去、〈渡二櫛田川一、太神宮撿非違使可二祇承一、〉多氣川祓〈太神宮司儲二祓物一〉下樋小川、或云レ停二鈴聲一、〈神領與二國領一之界也〉
p.0251 橋 音ニ聞下樋小川ノ橋朽テ引渡シケン御代ノ遙ケサ
p.0251 うへ川の橋(○○○○○)と申所にて、 旅人のかげさへみゆるわたりかな春行水の上川のはし
p.0251 宮川 山田の入口なり、世俗には、やうだとも云り、〈◯中略〉宮川にて參詣の人は、祓をする也、此川に舟橋をかけたり、
p.0251 天平寶字二年九月、御祭使祭主清麻呂卿參宮之間、度會川之浮橋(○○○○○○)船亂解〈天〉、忌部隨身之上馬一疋自レ船放流、斃亡已畢、爰上下向之間者、路次國司差二祗承一、迎送調備供給進二大夫馬一令レ修二造道橋等一之例也、於二神郡一者偏宮司之勤也、而件浮橋之勤依レ不レ有二如在一、勅使隨身之馬者所二斃損一也、此尤宮司忍人不忠之所レ致也者、宮司爲方遁陳、且進二怠状一、且辨二返替馬一已畢、自レ爾以後、勅使參宮之間、時宮司以二騎用馬一以二四疋一奉レ貸也、即立爲二恒例一也、
p.0251 筑紫日向國宮崎郡、幸西西喜ト云人有、〈◯中略〉伊勢太神宮〈爾〉參南旅立里〈乃〉夜をこめて、
p.0252 有明の月西都出、遙東成神路山〈於〉越ルコト、ヲモヘバトヲクモ行南物哉、限モナク鹽風ヤ船出〈仁〉任、悠々浦海過、蕩々波瀾ヲシノギ、千里ノ峯ヲ越、野〈仁〉臥山〈仁〉留、老體ヲ相助ケ、今日トイヘバ伊勢山田〈仁〉參著、爰〈仁〉大川有リ、尋ヌレバ豐宮河(○○○)ト云、古老傳ニ阿部川原ト云、万葉集ニ度會川齋宮川讀、是成べシ、然者下樋小川、竹川、小㑨田、板田橋、大淀、小野、古江等ノ名所モ可レ近、かしこに舟橋〈於〉渡シ、竹綱ヱタリ、是モ自二他國一參ラヌト見エテ、河水ニ望、身 太麻等持しめて、御禊する人もありけり、
p.0252 宇治橋 宇治郷にあればかく號けり、川は五十鈴川也、〈普通の橋より反あつて長さ六十間、廣さ四間半、正中の高き三丈、〉前後に鳥居あり、〈柱の太さ末口三尺、高さ二丈三尺、土入六尺、冠木長さ三丈なり、俗に兩鳥居といふ、〉常彰神主曰、いにしへ此橋は、是より十餘町下流の中村曾波河原に有て、板橋の類なりしを、永享三年普廣院將軍義教公御參宮の時、今の如き大橋を架られたり、
p.0252 今ノ大橋(○○)ノ邊ハ、昔ハ川ノ洲ニテ人家モ無ク、神官家モ大半中村ニ居住セリ、其後川ノ洲平地トナリ、人家モ立チ續キ、神官家モ宇治ニ移住シ、ヨキニツキテ大橋ヲ今ノ處ニ架セシナリ、昔大橋ノソバ川原ニ在リシ證據ハ、先年今ノソバ川原ノ橋ノ處ニテ大ナル橋杭等ヲ堀リ出シキト言ヘリ、然ルニ士佛參詣記ニ、又瀧祭神トテ河ノ洲崎ニ松杉ナンドノ一村立テル計ニテ御社モマシマサズ、〈◯中略〉北ヲ望メバ長橋ノ流ヲキル有リト云フ、思フニ夫ノ瀧祭ヨリ今ノ大橋ノ方、即北ニ當レバ、假令大橋今ノ處ニアラズトモ、見エワタリタル川下、岡田郷ノ内ニ在リシナルベシ、
p.0252 一御裳濯川橋(○○○○○) 此橋壹基、渡二于東西一、長五十間五尺二寸、廣四間三尺二寸、高攔高四尺八寸、儀帽子柱長八尺、立二鳥居於前後一、各高二丈三尺三寸、廣壹丈七尺八寸也、此橋元在二川原田村〈今云二中村一〉之南川一、〈今云二楚波川原一〉將軍義
p.0253 教公之時〈◯永享元年任二將軍一〉被レ渡二懸于此處一、自レ爾以降將軍家被レ經二營之一、數二百年于今一不二中絶一者乎、寔因二准天浮橋一、天下無雙之神橋、其造營之工功亦同二於宮殿一、而嚴重之規則哉、又橋之東町稱二館郷一、而禁忌之法大半效二于宮中一、故建二鳥居於前後一、彫二神號於義帽子一、以二神主執行之御祓大麻一奉二納其内一也、仍往二還此橋一之時、至二件義帽子之前一、則有下致二揖禮一之口實上、何謂二人民往來之橋而已一、苟不レ辨二故實一信口流言之徒、豈知レ有二其所以一哉、橋水梁也、斫レ木爲レ橋、架二於水上一濟二不通一以利二天下之人一也、
p.0253 宇治橋〈及橋姫祠〉 宇治郷今在家ト館町ノ間五十鈴川ニ架スル處ナリ、方俗大橋ト稱ス、橋ノ前後ニ鳥居ヲ建リ、本據舊記未レ考、慶長九年、宮域ニイタル路ナレバ、鳥居ノアルベキト思テ、何據モナク建タルナルベシ、鳥居柱太サ末口三尺、長一丈七尺、土入六尺、二丈三尺五寸ナリ、冠木三尺ナリ、西ノ鳥居ヨリ東鳥居ニイタルノ間五十七間半、橋ノ長五十一間半、濶四間半、高欄高三間、内ノ間三間一尺二寸、反リ一尺一寸、各葱寶珠ヲ置、其造替ノ年月及奉行ノ位署鑄工ノ名ヲ彫ス、其新ニ造ル處ハ内宮遷宮ノ時ニ不レ限、朽損スルニ從テ造替ス、工匠ハ神宮ノ頭小工職ノ掌ル處ニ非ズ、別ニ其主宰スル處ノ橋大工(○○○)ト稱スルアリ、今ニ至リ橋及ビ鳥居ニ至リ官營ナリ、此地ニ架スル處ハ、舊記云、永六年、内宮大橋一自二普光院一有二御渡一、供二養一万部御經一、其作法如二北野一、御經奉行御炊大夫元秀也云々、是永享六年、足利將軍普廣院義政公ノ二宮參向ノトキニ架セラルヲ權輿トス、神皇年暦、及普廣院殿二度參向ノ事蹟ハ、神宮年代記ニ載タリ、或云、古昔宇治橋ト稱シテ架スル處ハ此地ニアラズ、五十鈴河ノ下流十餘町、字ハ曾波町原ト云、中村興玉森ノ西ノ處ニ、老杉樹二株今モ存ス、是橋及橋姫祠ノ舊地トス、古昔ノ詣路ニシテ此處ニ架セシナリ、些少ニシテ五十鈴河ノ下流ヲ渉ル假橋ニ同ジ、〈◯中略〉今ノ官營ノ橋ハ其古昔トハ少ク濶大ニ造ラルニ似タリ、典據ノ處在ニ據ルトキハ、大永年中記云、橋長四十三間、幅四間、柱數四十二本、御代柱三丈六尺、板數三百六十枚、厚七寸、落
p.0254 シノ釘三百六十本、代輪附鉸三百六十本、西ノ鳥居ヨリ東鳥居迄五十二間二尺ト載ス、今詳ニスルニ永享六年普廣院將軍始テ架ラルノ言ニ據テ寛正記享徳元年修補ヲ僧徒ニ託スルノ説ヲ閲ルニ、永享六年ヨリ享徳元年ニ至リ、稍ク十八年ヲ歴タリ、然ルニ修補ヲ加フベキニイタリ其業不レ遂ニ至リ、六七年ヲ歴テ長祿二年、十穀法師架シテ、万部法華經供養ス由、物忌年代記ニ載セ、又寛正六年、同十穀法師架スルトモ云、長祿二年ヨリ寛正六年ニイタリ九年ヲ歴タリ、是纔ノ年紀ニシテ朽損スベキナシ、異記トスベシ、又永正二年慶光院第二世守悦上人本願トシテ架ス、寛正六ヨリ四十一年ノ後ニシテ其廢絶スルニ至、又天文十四年、尼本願ト載ルトキハ、或云同第三世清順上人ナルベシ、永正二年ヨリ天文十四年ニ至リ、又四十一年ヲ歴テ修架ニ至レリ、其後天正八年、同十九年、慶長十一年、元和、寛永十九年、正徳五年、其餘近世連綿シテ官營也、澆季トイヘドモ、足利將軍ヨリ僧徒ノ修造ヲ受テ、織田、豐臣ノ二公ノ嗣テ營セラルニ及テ、今昇平ノ經營ニ及テ存スル處ハ、嘉賞スベキト云ベシ、
p.0254 康永元年十月十日あまりの頃、太神宮參詣、〈◯中略〉五十鈴川は大宮と風の宮とのたにあひより流れて、深山木のこだかき陰におちくる水の音、まことに心ぼそし、〈◯中略〉瀧祭の神とて、河の洲崎、松杉などの一むらたてるばかりにて、御社もましまさず、〈◯中略〉きたを望ば長橋(○○)のながれをきるあり、緑松たれて行人の道をさヽへ、南を顧みれば高巖なみをくだくあり、紅葉のこりて遊客の心をそむ、所にふれて感をうごかし、ものごとに興をもよほさずと云ふ事なし、
p.0254 長祿二年、此年宇治大橋成、
p.0254 一文明九〈丁酉〉内宮大橋斷
p.0254 丁未〈◯長享元年〉五月、有レ事二太神宮一、自二二十六日一出レ洛、至二二十九日一入レ伊、而宿二於横地館一、 六月五日、〈◯中略〉賦二内、外宮、宇治橋一者三篇、〈◯中略〉書以贈二館主大夫一云、〈◯中略〉
p.0255 宇治橋 橋裂子規前後山、客愁況又水潺湲、千聲一度洛人耳、月落欄干三十間、
p.0255 明應四年八月八日、五十鈴御裳濯之兩橋并人家五十餘宇流失、
p.0255 明應四〈乙卯 八月八日、大風洪水、先代未聞事也(中略)風宮橋并大橋落ル(○○○○○○○○)、〉
p.0255 天文十四年、此年宇治大橋成、
p.0255 永祿二年二月十九日辛酉、宇治岡田火、燒二大橋館一、
p.0255 天正十九、〈辛卯〉關白殿〈◯豐臣秀吉〉ヨリ内宮宇治橋、并不動堂建、
p.0255 慶安年中の事なるに、内宮の御裳濯川の大橋を渡得ぬ道者ありて、歸らんとすれば平生のごとくにして、又渡らんとすれば心みだれ目くらみける間、宮中へは不レ參して其より下向しけるとぞ、いかなる故か待けん、人こそしり侍らね、心中にかくす罪ありて、神明御納受なき人なるべし、か様の事はむかしより幾度も有しと、所の人は物がたりき、
p.0255 萬治三年五月、天下大水、流二伊勢宇治橋一、
p.0255 口上 一昨十九日夜市中ヨリ出火仕、宮中江燒移候ニ付、早速一禰宜禰宜中、其外追々馳著相勤候へ共、風烈敷段々燒廣ガリ、左ノ通燒失仕候、〈◯中略〉 一宇治大橋、同水除柱、同大鳥居二基、并橋姫社、 右之通ニ御座候 文政十三寅年後三月廿一日 禰宜中 内宮一禰宜
p.0255 五十鈴川ハ御裳濯川ト共ニ宇治川ノ異名ナリ、サレバ此川ニ掛タルヲ宇治橋トイ
p.0256 フ、盥嗽シテ神路山ニ入ル、〈◯中略〉 宇治橋ハ長五十一間半、幅四間半、兩端ニ鳥居アリ、高五間餘、廣三間餘ナリ、
p.0256 伊勢國度會郡 御祓橋(ミソギガハシ)
p.0256 禊川橋〈飯野郡漕代村大字稻木と、多氣郡齋宮村大字竹川との間なる、郡堺を流るゝ禊川に架せり、〉 中世までは齋宮群行、及勅使、例幣使參入等の時、大神宮司のト部、此の川にて修禊したりき、故に禊川の名あり、又多氣川、竹川、稻木川なども稱せり、〈◯中略〉案ずるに此の川は、即古の櫛田川なり、
p.0256 呂 竹河〈二段、拍子各七、合十四空拍子、〉 たけがはの、はしのつめなるや、はしのつめなるや、 〈二段〉花ぞのに、はれ、花ぞのに、われをばはなてや、われをばはなてや、めざしたぐへて、
p.0256 今按に、〈◯中略〉竹川橋は伊勢國多氣郡齋宮にて、今に其所に笛川も、竹川も、花園村と云もありて、各其名のこりたり、
p.0256 たけかはうたふ うたひ物に竹川あり、伊勢國多氣郡の川なり、橋の爪なる花園といへるも、齋宮の邊にあり、其川大神宮式に所レ謂多氣川、今云處の稻置川是也飯野郡多氣郡の境にて、西を稻木川といふ、東を竹川といへり、
p.0256 笛川 齋宮の里に在、むかしはしらず、今は川といふべき程にもあらぬ細き流なり、繪馬のある所より半町許東の町中に侍る、小さき橋を今も笛川の橋(○○○○)といふなり、
p.0256 齋宮ハ呉竹ノ世々ノ都ト詠ゼシモ、今ハ只村ニ其名ヲ傳ルノミ、笛川ノ橋ハ音絶テ、御溝ノ池アヤメモ知レズ、
p.0256 起川〈村(富田)の西なる木曾川をいふ、(中略)船渡リハ晝夜絶間なく、公私の旅人往來、將軍家御上洛の節と、朝鮮人來聘の時ハ舟橋(○○)をわたす、數百艘〉
p.0257 〈の舟を横に並べて、大綱及び大鏁もてつなぎ、其上に板を渡して陸地をあゆむが如くす、其大造なる事、むかしの佐野の船橋ハいざしらず、今の世に名を得たる越中國神通川の船橋にははるかにまされり、誠に海道第一の壯觀といふべし、佳境遊覽曰、大樹御上洛之時、懸二艁於此川一也、朝鮮人來朝、又艁有レ此、舟二百五十艘爲二舟橋一、舟與レ舟間三尺餘、用二大鐵條一繫合、布二板於其上一云々、〉
p.0257 小船 渡なり、木曾川の末なり、御上洛の時、又は朝鮮人來朝の時は舟橋かヽる、尾濃兩州より沙汰す、舟千五百艘にて懸るなり、川より向は美濃國なり、
p.0257 八橋〈三州〉
p.0257 參河國 八橋(ヤツハシ)〈渡川〉
p.0257 八橋(ヤツハシ)〈三州碧海郡、見二伊勢物語一、〉
p.0257 八橋川花の瀧より八橋の宿三町計西也、北より南へ流れたる小川也、橋も壹丈計なり、四角なる木のちいさきを八つわたしたり、
p.0257 本朝地理志略 東海道十五箇國 參河國 杜若澤有二八橋一、在原中將業平、來二此處一詠二倭歌一、
p.0257 八橋 〈名所景物〉 沼の八橋 櫻 時鳥 杜若 蜘手〈專によめり〉岡崎の宿よりちりふの宿へ越る中間より、半道計北の方八橋と云村の中に有、南より北へ流るヽ小川にわたしたる壹丈計なる橋也、
p.0257 くもで〈◯中略〉 昔し八橋のかヽりし川は、今の遇妻川也とぞ、更級日記に八橋は名のみにして橋のかたもなしと見ゆ、
p.0257 八橋 與清按に、八橋に二所あり、そは伊物、古今、古今六帖に見えたる八橋と、更級日記、舊本今昔物語より後のものにみえしは、所異也、更級、今昔より後にいふは、參河國圖を考に、碧海郡池鯉鮒宿の東なる里村のつヾきに有、〈◯中略〉東海道名所記四に、今村、西田云云、海道より北のかた一里ばかりに八橋の舊跡あり云々、東遊行囊抄六に、追分、池鯉鮒野ニア
p.0258 リ、是ヨリ左八橋ノ道也、八橋ハ自二追分一到二于此一、十町許云々、などいへるにて知べし、さて伊勢古今のは、今の矢矧川の川上などにやあらん、そは伊勢物語に、〈◯中略〉やつはしといひけるは、水ゆくかはのくもでなれば、橋やをつわたせるによりてなんやつはしといひけるとあり、古今羇旅の詞書は、これをとりて略し書る也、伊勢物語の眞名本に、水ゆく川のくもでを、水堰河之蜘手と書て、ミヅヰテカハノクモデとよめり、蜘手は借字にて隈處(クマド)の義也、伊勢の雲津も川の隈處より出し名也、又隈津(クマヅ)の義としてもきこゆ、さて川曲(カハグマ)の處に埭かれし上つかたは、水堪てひろびろと瀬もはやからず、橋などわたすにもたよりよきことわり也、その廣き川中へ杭打かまへて、つぎ〳〵橋を架わたし、此方彼方に通はせたれば、八橋とはいへるなるべし、和名抄八に、伯耆國八橋郡八橋、也八之、とあるも同義とみゆ、〈◯中略〉かヽれば伊勢、古今にいへる八橋は、今の所のごと、わづかなるせヾらき水にはあるまじくぞおもはるヽ、更級日記に、八橋は名のみして橋のかたもなく、何の見所もなしとあるは、今の所のさまに聞ゆれば、更級より後の書なるは、今の八橋の所とは定むる也、さて伊物の朱雀院塗籠御本に、水のくもでにながれわかれて、木やつわたせるによりてなん八橋とはいへると有は、やヽ後に書かへて詞を改められしなるべし、舊本今昔物語廿四には、河ノ水出テ蜘手也ケレバ、橋ヲ八ツ渡ケルニ依テ、八橋トハ云ケル也とあり、是もさる本によりて書出せしとみゆ、しかはあれど、水が蜘手のさまにながるべきことわりなければうけがたし、
p.0258 むかし男有けり、その男身をようなき物に思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき所、もとめにとて行けり、もとより友とする人、ひとりふたりして、もろともにいきけり、道しれる人もなくてまどひいきけり、みかはの國八はしといふ所にいたりぬ、そこを八橋といひけるは、水ゆく川のくもでなれば、橋を八わたせるによりてなん八はしといひける(○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○)、其さわの
p.0259 ほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり、そのさわにかきつばたいとおもしろく咲たり、それをみてある人のいはく、かきつばたといふ五もじを句のかみにすゑて、たびの心をよめといひければよめる、 から衣きつヽなれにしつましあればはる〴〵きぬる旅をしぞおもふ、とよめりければ、みな人かれいひのうへに、涙おとしてほとびにけり、〈◯又見二古今和歌集一〉
p.0259 八橋のことば 賀茂眞淵 言のかたりぶみに、三河なる八橋のことをいへらく、水せく川の蜘手なれば、橋を八つわたせりと、そも〳〵里回の川つらをせくは何ぞ、とほし廣くよつに水まかせんとなり、くもでとは何ぞ、川の左によつ、右に四つの溝して、水まかせるものは、蜘が手のひだりみぎりもて、八つあるがさまぞとや、八橋とは何ぞ、川のひだりみぎりに、川そひ路のありて、さとの子のかよへらんには、かのやつの溝に、八つのはしをわたせりとなり、凡田居には、よついつヽらのはしをあふさきるさにわたせる多かれどなヽはしきやけり、かヽるわらべのもたるふみをし見れば、水ゆく川とあり、此古きには水堰川とし書つればいへるか、ことことわりあらはに、まことにさなりけるとおもほゆ、
p.0259 つらかりける男に 讀人しらず たえはつる物とはみつヽさヽがにの糸を頼める心ぼそさよ かへし うちわたし長き心はやつ橋のくもでに思ふことはたえせじ
p.0259 うちわたしながき心はやつはしのくもでに思ふことはたえせじ やつはしのくもでとよむ事は、はしにはくもでといひて、柱にちがへて打たるものヽあれば、
p.0260 かくよむなりと、或物にはかヽれて侍れども、伊勢物語には、みかはの國やつはしといふ所にいたりぬ、そこをやつはしといふことは、水のくもでにて、橋をやつわたせるによりていふ也とかけり、さればくもでといふものヽ、橋にあるゆへにいふにはあらずときこえぬ、そのゆゑならば、まことにいづれのはしにもよみてむ、やつはしにしもよむ、これにかなへり、水のくもでなるとあるは、とかくながれたるにこそ、さてものをとかくおもふによせて、くもでにおもふとはよめる也、
p.0260 源のよしたねが參河の介にて侍けるむすめのもとに、はヽのよみてつかはしける、 もろともにゆかぬみかはのやつはしは戀しとのみやおもひわたらん
p.0260 戀せんとなれるみかはのやつはしのくもでにものをおもふころかな もろともにゆかぬみかはのやつはしをこひしとのみやおもひわたらん これをもかれをもよそへてくもでといふも、くものてのやつあればなんと申なんめり、されどこのやつはしをたづぬれば、川などにわたしたるはしなどにあらず、あしをぎ生たるうきの道のあしければ、たヾ板をさだめたる事なく、所々にわたしたるなり、それがあまた所にわたしたれば、八つはしといひならはしたるなり、ものヽかずはかならず八つとしもなけれども、いひよきにつけてやつとはいふにや、くもでといふは、はしの下によはくてよろぼひたはれもするとて、はしらをたよりにして、木をすぢかへてうちたるをいふなり、それははしにのみうつものにはあらず、たなヽどのあしのゆはくてたわれぬべきにもうつめれば、くもでといふ物はさだめなし、かのやつはしにくもでうつべしとも見えねども、はしいふにひかされてよめるにや、ふるき歌にはさやうにこそはよめれ、又いたをさだめも
p.0261 なくおきちらしたるさまの、くもでに似たればよそえてよめるにや、
p.0261 クモデトハ、柱ニチガヘテユルガサジト、ウチタル木ヲ云也、サレド此八橋ハ、タダ板ヲ打タルヤウニテアルナレバ、蜘蛛ノ手ハヤツアレバ、ヤツトイヘル心ニツキテヨメルナリ、
p.0261 くもで 蜘手と書り、伊勢物語に三河の國八橋の事に、水ゆく河のくもでなればといへるは、水の蜘手のやうに流れ行なり、されば眞名本には水堰河とあれば、みづせくかはとよむべし、ゐせぎ川なるをもて蜘手にわかれたるなるべし後撰集に、 打渡し長き心は八橋の蜘手におもふことは絶せじ、橋にいふは籰(ワク)の如き物の上に橋かくるをいふ、其組ちがへたる形の蜘の手に似たるなり、俊頼家集に、 並立る松のしづえをくもでにて霞渡れる天のはし立、一説に八橋の蜘手とつヾくるは、蜘の手は數八あるによりてなりといへり、
p.0261 まつりの日、いかヾは見ざらんとていでたれば、〈◯藤原通綱母、中略、〉さてすけにかくてやなどさかしらがる人のありて、ものいひつヾく人あり、やつはしの程にやありけん、はじめて、 かつらぎやかみよのしるしふかヽらばたヾひとことにうちもとけなん、かへりごとたヾひはなめり、 かへるさのくもではいづこやつはしのふみ見てけんとたのむかひなく、こたびぞかへりごと、 かよふべきみちにもあらぬやつはしのふみ見てきとてなにたのむらん
p.0261 井のはなといふさかの、えもいはれずわびしきをのぼりぬれば、三河の國の高師の山といふ、八はしはなのみして、橋のかたもなく、なにの見所もなし、
p.0262 いときなく侍し時、親にぐしてあづまに下けるに、三河の八橋といふ所にてよみ侍ける、 堀河院中宮上總 八橋を行人ごとにとひ見ばやくもでに誰を戀わたるぞと
p.0262 經宗惟方被レ處二遠流一事同被二召返一事 去程ニ彼人々ノ隱謀次第ニ顯レテ、〈◯中略〉師仲卿モ終遁ルヽ所ナクシテ、播磨中將盛憲ノ配所、室ノ八島ヘゾ被レ遣ケル、伏見源中納言三河ノ八橋ヲ渡ルトテ、 夢ニダニ角テ三河ノ八橋ヲ渡ルベシトハ思ハザリシヲ、ト讀レタリシヲ、上皇聞召テ、哀ニ被二思召一ケレバ、召返セトゾ仰ナリケル、誠ニ詠歌ノ徳ナルベシ、
p.0262 しやなわう殿げんぶくの事 きのふまではしやなわう殿、けふはさまの九郞よしつねと名をかへて、あつたの宮をすぎ、なにとなるみのしほひがた、三河の國八はしを打こえて、遠江の國はまなのはしをうちながめてとほらせ給ひけり、
p.0262 重衡關東下向附長光寺事 十日〈◯元暦元年三月〉本三位中將重衡卿ハ、兵衞佐〈◯源頼朝〉依レ被二申請一、梶原平三景時ニ相具シテ關東ヘ下向、〈◯中略〉在原業平ガキツヽ馴ツヽト詠ケル、三川國八橋ニモ著シカバ、蜘手ニ物ヲヤ思ラン、
p.0262 あづまのかたにまかりけるに八はしにてよめる、 道因法師 八橋の渡りに今日もとまるかな爰に住べき身かはと思へど
p.0262 みかはの國八はしといふところをみれば、これも昔にはあらずなりぬるにや、はしのたヾひとつぞみゆる、かきつばたおほかる所と聞しかども、あたりの草もみなかれたるころなればにや、それかとみゆる草木もなし、なりひらのあそんの、はる〴〵きぬるとなげきけん
p.0263 も、思ひよらるれど、つましあればにや、さればさらんと、すこしおかしくなりぬ、
p.0263 二村山をこえてゆくに、山も野もいと遠くて、日もくれはてぬ、 はる〴〵と二村山を行過てなほこゑたどる野べの夕やみ、やつはしにとヾまらんといふ、くらさに橋もみえずなりぬ、 さヽがにのくもで危き八橋を夕ぐれかけて渡りぬるかな〈◯又見二玉葉和歌集一、ぬるかな作二かねぬる一、〉
p.0263 順徳院御百首 駒とめてしばしはゆかじ八橋のくもでにしろきけさの淡雪 京極黄門云、八橋のくもで説々おほく候へども、古歌にも詠じ來候、
p.0263 八日〈◯貞應二年四月、中略、〉三河國にいたりぬ、雉鯉鮒が馬場を過て、數里の野原に、一兩のはしを名づけて八橋といふ、砂に睡る鴛鴦は夏を辭去り、水にたてる杜若は時をむかへて開たり、花はむかしの色かはらず咲ぬらむ、橋もおなじ橋なれども、幾度つくりかへつらん、相如が世をうらみしは、肥馬に乘て昇僊にかへり、幽子身を捨る窮鳥に類て當橋を渡る、八橋よ、八橋よ、くもでに物おもふ人は昔も過ぎや、橋柱よ、はしばしらよ、をのれも朽ぬるが、むなしく朽ぬるものは今もまたすぐ、
p.0263 ゆき〳〵て三河國八橋のわたりをみれば、在原業平かきつばたの歌よみたりけるに、みな人かれいゐのうへに、なみだおとしける所よとおもひ出られて、そのあたりをみれども、かの草とおぼしき物はなくて、いねのみぞおほくみゆる、 花ゆへにおちし涕のかたみとや稻葉の露を殘しおくらん、源義種が此國のかみにてくだりける時、とまりける女のもとにつかはしける歌に、 もろともにゆかぬ三河の八はしを戀しとのみや思ひわたらん、とよめりけるこそおもひ出
p.0264 られてあはれなれ、
p.0264 十三日、〈◯永享四年九月、中略、〉參河國八橋にて、 八橋のくもでに渡るひまもなし君がためにといそぐたび人
p.0264 參河國八はしにいたり侍て、はる〴〵きぬるとながめ侍し往躅もおもひ出されて、そぞろに過がてにぞおばえ侍し、 聞わたるくもでゆかしき八橋をけふはみかはす旅にきにけり
p.0264 十九日〈◯明應八年五月〉八はしを見に、人々さそひまかりてみ侍れば、きヽをよびしより、かたちもなくあれはてヽ、かきつばたなども、心うつくしくみえ侍らず、あはれなるこヽちしてよめる、 かつらぎの神はわたさぬ八はしもたえてかずなきくもでなりけり かぎりあれば思ひわたりしやつ橋を七十ちかき齡にぞみる 杜若みながらたえてむらさきの一もとのこる花だにもなし
p.0264 八橋のわたりはいづかたぞなど事どひ過るに、はるかなる野あり、東の雲まに雲かあらぬかなどおもふほどに、富士成けりといふ人あり、おどろきあへり、 八橋や思ひわたりし富士のねを雲のはつかにけふみつる哉、といひつヽ、わしづかの寺内一見してわかれたり、
p.0264 此國〈◯參河〉折即俄に矛盾すること有て、矢作八橋をばえ渡らず、舟にて同國水野和泉守館苅屋に一宿、
p.0264 鳴海、沓掛、八橋、矢波木、
p.0264 八橋ハ永祿ノ初、古驛尚存セリ、其後何レノ時ヨリ今ノ道ヲ開カレケルニヤ、在原
p.0265 寺ハ八橋山無量寺トテ、庭池ニ杜若ヲ植タリ、寺ヨリ少西ヘ行ケバ、松ノ下ニ小サキ五輪アリ、土俗業平ノ塚トイフ、謬妄ハ論ズルニヲヨバズ、
p.0265 廿九日〈◯永祿十年五月〉岡崎へとおもひ立に、八橋の杜若斷絶の遺恨を歎きけるを、代官齋藤吉十郞聞傳へて、八橋の面馬場と云ふ在所へも、使に樽添、郷人の古老の名主に下知して可二植置一よし有けるに、諸國の旅人根を引て行く故、跡もなき由と云々、實もと思へるは、橋柱さへ削りとれる事と見えてあり、西に下馬堂と云跡には松一むら、澤の半に時雨の松といふ一本有、餉食ひける木陰可レ成、東に少し岡あるに石塔あるは、業平の印といへり、在所の人に杜若になはせて植けるに、田になせる地を業平と答たる田を、則今よりして杜若寺にあてをこなふよし、無仁齋永代の折紙書て、早苗を引すてヽ手づから植渡して、石塔の許へ上り、〈◯下略〉
p.0265 三河國に至りぬ、爰なん八橋の跡なりと云ふを見れば、名のみ殘て橋の跡さへなく、小さき川一筋昔忘れず流れたり、
p.0265 八橋 三河國八橋は杜若の名所なる事、在五中將〈◯在原業平〉の歌にてかくれなし、今岡崎より池鯉鮒にいたる道より北の方一里ばかりに、それなんむかしの八橋なりとて、所の人はるかに指をさしてをしへ侍る、久敷田となりて今は杜若なし、三四年前余〈◯林道春〉が作りける詩にも、古人遺跡鐵鑢歩、只有二三河杜若名一となん、 六々歌中第幾仙、風流千歳慕二幽玄一、世間一瞬陳迹、杜若爲レ薪澤作レ田、
p.0265 八橋と云ふ所に至りぬ、杜若の名所なれば多くあらんと思ひて見れどもなし、近き頃事好める者の、一本二本植たるが、小さき池に生出たり、是なん昔思ふ俤ともなすべし、
p.0265 四日〈◯寛永十一年七月〉おか崎出御有、やはぎ過させ給ひ、ちかきほとりに八橋と
p.0266 なんいひて、雲手に渡せる橋の名所ありと聞えしを尋させ給ひ、今は跡ばかりにて、その澤に杜若のみありと聞しめして、 八橋やむかしにおもひ出されて殘せるさはのかきつばたかな ◯按ズルニ、此歌、徳川氏御實紀附録ニ引ク所ノ上洛記ニハ、八橋やはしはむかしに成ぬれど殘るは澤のかきつばた哉トアリ、
p.0266 牛田村を過る時、路傍の右なる田の中に八橋の舊跡あり、杜若もなく、橋もなし、僅に其名の存せるのみ、
p.0266 昔は沼なりつるに依て、淺き處に橋柱を立てヽ、深みを避けて淺きにうつりて掛たる橋なれば、八ツ曲りたるになむ有ける、されば八橋と云傳へたると語る、橋邊に由ある墓あり、其上に古びたる石塔あり、此塚の主は業平なり、過にし比大納言光廣卿、四方しらじ苔の下には唐衣著つヽ馴にし跡幕ふとはとよみて手向け玉ふと話る、予が云、在五中將は爰にて身まかりたる人にあらず、いかでしるしの塚のあるべきやと問へば、さればにや僞墓といふと答ふ、
p.0266 八橋 名におふ三河の八橋は、こヽぞその古跡なりと人のをしへけれど、名ばかりにて今はそのしるべだに殘らず、かの業平のむかしがたりのみぞまのあたり見るやうに覺え侍る、 ふりにたるあとだに消ぬかきつばた言葉の花を千代にのこして
p.0266 遠遊紀行 八橋 自三羽林題二杜若情一、千年不レ朽八橋名、我來却誦聖門訓、禮樂爲レ邦放二鄭聲一、
p.0266 二日〈◯文久四年正月、中略、〉八ツ橋へ行道のあるに、車おりたちて立寄侍れば、八橋山無量寺とい
p.0267 ふ寺院有て、藥師如來、觀世音を安置し、在五中將の像、八橋の橋杭など寶物と聞ゆを見なし立戻りて行、
p.0267 八橋ハ杜若ト共ニ早ク跡ナクナリケレドモ、好事ノ人ノ昔ヲシノブ便ニ、杜若ヲ在原寺ニ引植テ、世々ニ傳ルコソ殊勝ナレ、
p.0267 東路大橋 矢矧〈參州〉
p.0267 九十九橋 橋の長きものは、世人のよく知る所の、東海道の岡崎の矢矧の橋なり、其長貳百八間ありと云、是を天下第一とす、
p.0267 矢矧里 河有、八橋より五里なり、此川に橋あり、
p.0267 矢矧の里 岡崎の西の出はなれに矢はぎの川橋有、此橋を西へ越て矢作の里也、
p.0267 矢作橋、長サ四十八間、海道第一ノ長橋ナリ、大平橋、長サ四十三間、此川ハ即男川ナリ、大平村ニ因テナベテハ大平川トイフ、海道宿次百首、爲相卿ノ大矢川トヨミ玉フモ此川ノコトナリト云フ、末ハ矢作川ニ作合シテ海ニ入、
p.0267 墨股合戰の事 同じき十日、〈◯養和元年三月〉の日、美濃の國の目代早馬を以て都へ申しけるは、源氏旣に尾張國まで攻め上り、道をふさいで人を一向通さぬよし申したりければ、平家やがて討手をさし向けらる、〈◯中略〉十郞藏人行家は引き退き、三河の國に打ち越えて、矢矧川の橋を引き、搔楯かいて待ちかけたり、平家やがて、續いて攻め給へば、そこをも遂に攻め落されぬ、〈◯下略〉
p.0267 矢矧鷺坂手越河原鬪ノ事
p.0268 去程ニ十一月〈◯建武二年〉二十五日ノ卯ノ刻ニ、新田左兵衞督義貞、脇屋右衞門佐義助、六萬餘騎ニテ矢矧河ニ推寄、敵ノ陣ヲ見渡セバ、其勢二三十萬騎モアルラント思シクテ、河ヨリ東橋〈◯矢矧〉ノ上下三十餘町ニ打チ圍デ、雲霞ノ如クニ充滿タリ、〈◯中略〉高武藏守師直、越後守師泰、二萬餘騎ニテ橋ヨリ下ノ瀬ヲ渡シテ、義貞ノ右將軍大島、額田、籠澤、岩松ガ勢ニ打チカヽル、官軍七千餘騎喚イデ眞中ニカケ入リテ、東西南北ヘカケ散シ、半時バカリゾ揉ミ合ヒケル、
p.0268 天正十年四月十八日、正田之町より大比良川こさせられ、岡崎城之腰むつ田川、矢はぎ川には是又矢作にて橋を懸させ、かち人渡し被レ申、御馬共は乘こさせられ、矢はぎの宿を打過て池鯉鮒に至て御泊、
p.0268 或時、岡崎の御城下矢矧橋の洪水にてながれければ、さつそく掛渡すべき旨、家康公被二仰付一、就レ夫各家老申上られけるは、兼々何れも存寄罷在候へども、かやうの時節を以て可二申上一と存じ差扣候、此橋の義は世間にまれなる大橋にて候得ば、夥敷御物入にて御座候、其上當時戰國の儀にも候へば、御城下にかやうなる大河有レ之候は第一御要害にも候へば、旁以て今度流捨り候を幸に被レ遊、向後の義は船渡しに仰付られ可レ然と奉レ存候と一同に申上る、家康公仰られけるは、抑此矢矧の橋の事は、代々の記録にもしるし、其外舞にも平家にも語り傳て、日本の國中に誰しらぬものもなし、定めて異國へも聞へぬ事は有まじ、然るに物入多ければとて、今更橋を停止して船渡しに申付、往還旅人になんぎをかけんことは、國持の本意にあらず、たとひ何ほどの入用たりともすこしも不レ苦、早々掛渡し候やうに被二申付一べし、さて又要害に頼むと云ふは、人にもより、時にも可レ寄もの也、當時家康が心入のほどは、一向左様の趣にあらず、そのだんは何れもの心入にあるべきものなり、然れば要害を求むるには不レ及義なり、唯片時もはやく橋を掛渡し、往還の煩なきやうに可レ被二申付一旨被二仰出一けるなり、
p.0269 吉田 江戸より京までの間に大橋四あり、武藏の六郷、三河の吉田、矢矧、近江の勢多なり、ひとり矢矧のみ土橋なれば、洪水によりて絶る事もあり、此比新に板ばしとなりけるにや、爰にしも誰か周處が三害をやめて、留侯が一編を傳むや、〈◯下略〉
p.0269 寛永十一年七月三日、矢作の橋を渡らせ玉ひ、このあたりにいにしへの八橋の跡やあると問はせ玉ふに、〈◯下略〉
p.0269 再遊紀行 矢作橋 因レ有二男豐矢作河一、便呼二是國一號二三河一、大橋天下莫(○○○○○)レ過(○)レ此(○)、清世人無レ憂レ渡レ河、
p.0269 矢矧橋、長さ二百八間あり、此橋いにしへは土橋にて侍べりしかば、洪水の時はおしながされて、往來の人渡りかねたる故に、ちかき比より板ばしに成けり、
p.0269 矢作川、是も水上信州、橋百九拾六間風也、江戸より京までの間に大橋四つ有、六郷吉田、矢矯、勢田也、此矢作の橋、昔は土橋にて有しときく、建武の御時、足利治部大輔尊氏鎌倉に在て、天子の命にたがひしかば、新田左兵衞督義貞節刀使を奉りて東征し、此所にて鎌倉の軍兵と戰ひ、勝て鷺坂まで逃るを追討て、官軍利を得し所也、古歌に、 狩人の矢矯に今夜やどりせばあすや渡覽豐川の水
p.0269 文政十一年七月朔、東海大水、天龍川溢合成レ湖、流二矢矧橋三十許間一、
p.0269 矢作橋ハ古來土橋ナルヲ、神祖ノ御時新ニ板橋トナサシメ玉ヒ、永ク行旅危懼ノ患ナシ、今日ハ太平ノ橋ヲ渡リ、又此橋ヲ過グ、當國ノ三分ノ二ヲ極メタリトイフベシ、岡崎ニ時刻ヲ移シケレバ、日暮テ大濱ニ止ル、
p.0269 二日〈◯文久四年正月〉空もよく晴し朝に立出て、〈◯中略〉三川の一つといへる橋矧川にいたれば、海道第一といふ二百八間の橋も、度々補理あるといへど水難ありて破れ、今は半ばなくして、先と後とのみ少しく殘れるのみ、此地はむかし日本武尊矢を作らしめ給ふより、矢はぎの名を得たりといふ、川を船にて渡り越へて行、
p.0269 東路大橋 吉田〈參州〉
p.0269 吉田の橋長さ百二十間なり、〈◯中略〉およそ江戸より京までの間に大橋四あり、武藏に六郷、三川に吉田、矢矧、近江に勢田也、
p.0269 豐川 城下西入口にあり、〈◯中略〉三州三大河の其一也、橋の長サ百二十間餘、吉田の舊名を今橋といふ(○○○○○○○○○○○)、此橋によりての名なるべし、
p.0269 大永六年、三河國今橋牧野田三、かの父祖父より知人にて、國の境わづらはしきに、人多く物具などして、迎にとて事々しくぞ覺えし、
p.0269 今橋(○○)、五里、橋本、
p.0269 吉田橋長九十七間、袖共幅四間、皆京間ナリ、此川源ハ設樂郡神田山ノ麓ヨリ出テ長篠村ヲ過、寶飫郡前芝ニイタリテ海ニ入ル、舊記寶永五年三月、船渡ニナリケルガ、往還居民トモ難澀ニ付、翌六年八月、又如二先規一橋ヲ掛ラルトイフ、
p.0269 いまはしの御とまりにて、やはぎより八里あかず明行月をみて、 夜とともに月すみ渡る今橋や明過るまで立ぞやすらふ
p.0269 今橋といへる所にとまりて、うき世の事どもおもひつらねて、 人なみにたゆたふことはいにしへもうき世渡のかヽるいま橋
p.0271 とよ川の橋(○○○○○)をわたるとて かぞふれば家路を立ちてとよ川やいまいくよへて都なるらん
p.0271 今橋ハ渡津ノ今道ヘカケタル故ノ名ナルベシ、永祿ノ後、宿ヲ吉田ト稱スルニヨツテ、橋ヲモ吉田ノ橋トイフ、寶永ニ一旦渡トナリケルガ、タチマチ其舊ニ復セラレテ、永ク三大橋ノ名ヲ失ハズ、
p.0271 睦月朔日〈◯文久四年、中略、〉吉田の宿にいたるに、吉田火口商ふ家居あり、三河國三川の一といへる豐川に掛ける間數、百二十間といへる吉田橋を渡りて、小橋三つ四つ越て、〈◯中略〉御油の宿にたどりて、三升屋某の家に宿りぬ、
p.0271 遠江國 濱名橋(ハマナノハシ)
p.0271 濱名橋(ハマナノハシ)〈遠州濱名郡、傳云、元慶八年始架レ之、長五十六丈、廣二丈三尺、高一丈六尺、〉
p.0271 濱名橋 水海より北の山ぎはなり、橋もとより三里餘北なり、昔は汐海かと歌にみえたり、夕汐、松原、海士、小松、河などよめり、三河と遠江の北の山つヾきなり、古は濱名を海道にせられけり、本坂とて高師山の北に今もあり、はしもとは今の海道なり、世俗に引間と云宿あり、橋よりは五里なり、〈◯下略〉
p.0271 大崎 大崎與二館山一相對之海中一里、古老曰、昔細江之橋場(○○○○○)也、〈本坂道通二猪鼻驛一之橋場也、故濱名橋有(○○○○)二二所(○○)一、橋本與(○○○)二大崎(○○)一也、〉猪鼻岩與二下尾奈一相對、迫戸渡凡三十歩、自二迫戸一北猪鼻湖也、東號二細江一也、〈◯中略〉 橋本郷〈村三關正西十五町、湖水與二潮海一之間有二洲崎一、昔通二舞澤驛家一、湖水入レ海所渡二黒木橋(○○○)一、故曰二橋本一、〉
p.0271 濱名橋 橋本ノ里ヲ出テ右ノ方ニ、昔ノ橋ノ迹ト里俗ノ教ル所アリ、〈◯中略〉明應以前ノ紀行ヲ考ルニ、都ヨリ東ニ下ル者ハ橋本ヲ過、濱名ノ橋ヲ渡リ、東ヨリ上ル人ハ、濱名
p.0272 ヲ過テ橋本ニ到ル、然レバ名所方角抄ノ趣不審、
p.0272 濱名の橋 入海より北の山際也、橋もとより三里餘北也、古へは濱名を海道とせられたる也、本坂越とて高し、山の北に今もあり、はしもとは今の海道なり、
p.0272 當國神社佛閣名所〈◯中略〉 濱名橋 在二湖水北山際一、古街道也、今通二橋本一也、
p.0272 濱名橋 今廢す、橋本村はむかしの濱名の橋本也、又橋向ひに小松茶屋といふあり、これも廢す、橋跡は今纔に橋爪の石垣など殘る、〈◯中略〉濱名の橋の絶たる事は、いつのとしといふ事さだかにしる人なし、むかしより度々の波濤に松原を打崩したるゆへ、橋もおのづから損はれ落たり、有時ははづかに黒木をもつてわたし、圯橋などかけて、しばらくとし月へたる事もありしと見へたり、又隣國の騷擾に橋を落し、ゆきヽの自在ならざるを好む時代もありしにや、只古詠のみ多く殘りて、その蹟だにもさだかにしる人なし、むかし行基菩薩のかけ初給ひし山城の山崎橋も孝徳天皇の御代に架し給ひし津の國の長柄の橋も、こヽの類ひにやありけん、朽て久しき古歌のみ多し、
p.0272 元慶八年九月戊午朔、遠江國濱名橋長五十六丈、廣一丈三尺、高一丈六尺、貞觀四年修造、歴二二十餘年一、旣以破壞、勅給二彼國正税稻一萬二千六百三十束一改作焉、
p.0272 はし 戀しくば濱名の橋を出てみよ下行水に影やみゆると〈◯又見二新勅撰和歌集一〉
p.0272 恒徳公家の障子に 兼盛 汐みてるほどに行かふ旅人やはまなの橋と名づけそめけん
p.0272 さねかたの君のもとに、みちの國に下るに、いつしかはまなの橋わたらんと思ふに、は
p.0273 やく橋はやけにけり、 水の上への濱名の橋も燒にけり打礒波やよりこざりけん
p.0273 はまなのはしのもとにて 人しれずはまなのはしのうちわたし歎ぞわたるいくよなきよを はしのこぼれたるを 中絶てわたしもはてぬ物ゆへになにヽはまなの橋をみせけん〈◯中略〉 なをいでヽ、十一日、はまなのはしのもとにとまりて、月のいとおもしろきを見侍て、 うつしもて心しづかにみるべきをうたても浪のうちさはぐかな
p.0273 ある女房の遠江守の子なる人をかたらひてあるが、おなじ宮人をかたらふときヽて恨みければ、親などもかけてちかはせ給ふ、いみじきそらごと也、夢にだに見ずとなんいふ、いかヾいふべきといふときヽて、 ちかへきみとをつあふみのかみかけてむげにはまなのはし見ざりきや
p.0273 天りうといふ川の〈◯中略〉わたりしつヽ、はまなの橋についたり、はまなのはしくだりし時は、くろぎをわたしたりし、このたびはあとだにみえねば舟にてわたる入江にわたりし橋也、
p.0273 長暦年間、菅原孝標女、更科日記曰、濱名橋下りし時は、黒木をわたしたり、〈(中略)是ハ大崎の橋なり〉
p.0273 父のともに遠江の國にくだりて、年經て後、下野の守にてくだり侍りけるに、 濱名の橋のもとにてよみ侍りける、 大江廣經朝臣 あづまぢの濱名の橋をきて見れば昔こひしきわたりなりけり
p.0273 橋 師頼
p.0274 あづまぢの濱名のはしのはし柱なみはおれどもまだたてりけり 永縁 いまはみなはし柱さへ朽はてヽ濱名ばかりをきヽわたるかな
p.0274 藤原實宗常陸の介に侍りける時、大藏省のつかひども嚴しくせめければ、匡房にいひて侍りければ、遠江にきりかへて侍りければ、いひ遣しける、 太皇太后宮肥後 つくば山ふかくうれしとおもふかなはまなのはしにわたすこヽろを
p.0274 遠江守になりてくだり侍りけるに 大藏卿爲房 都にてきヽわたりしにかはらぬははまなのはしの松のむら立
p.0274 重衡關東下向附長光寺事 十日〈◯元暦元年三月〉本三位中將重衡卿ハ、兵衞佐〈◯源頼朝〉依レ被二申請一、梶原平三景時ニ相具シテ關東ヘ下向、〈◯中略〉濱名ノ橋ヲ過行ケバ、又越ベシト思ハネド、小夜中山モ打過テ、宇津山邊ノ蘿ノ道、清見ガ關ヲ過ヌレバ、富士ノスソ野ニモ著ニケリ、
p.0274 内大臣關東下向附池田宿遊君事 高師山ヲモ過ギヌレバ、遠江國橋本ノ宿ニ著キ給フ、眺望殊ニ勝レタリ、〈◯中略〉濱名ノ橋ノアサボラケ、駒ニ任セテ打渡リ、池田ノ宿ノ長庚ニ、今夜ハ是ニ宿ヲ取、
p.0274 都よりあづまへかへり下て後、前大僧正慈鎭のもとへよみてつかはしける歌の中に、 前右大將頼朝 かへる波君にとのみぞことづてしはまなのはしの夕ぐれの空
p.0274 十日〈◯貞應二年四月〉夕陽の影の中に、橋本の宿にとまる、〈◯中略〉夜も旣に明ゆけば、星のひかりは
p.0275 かくれて、宿立人の袖はみえ、餘所なる聲によばれて、しらぬ友にうちつれて出づ、しばらく舊橋に立とヾまりて、めづらしきわたり、興すれば、橋の下にさしのぼるうしほ、かへらぬ水をかへし、上ざまにながれ松をはらふ風のあしは、かしらをこえてとがむれどもきかず、〈◯中略〉 橋本やあらぬ渡りと聞しにも猶過かねつまつのむら立 浪まくらよるしく宿のなごりには殘してたちぬ松のうら風 十一日に橋本をたつ、橋のわたりより行々たちかへりみれば、跡にしらなみのこゑは、すぐるなごりをよびかへし、路に青松の枝は、あゆむもすそを引とヾむ、北にかへりみれば、湖上はるかにうかんで、なみのしは水の顏に老たり、西にのぞめば、湖海ひろくはびこりて、雲のうきはし、風のたくみにわたす、水郷のけしきは、かれもこれもおなじけれども、湖海の淡鹹は、氣味これことなり、浥のうへには、浪に翥みさごすヾしき水をあふぎ、舟の中には、唐櫓おすこゑ秋のかりをながめて、夏の空にゆく、本より興望は、旅中にあれば、感腸しきりに廻りて、おもひやみがたし、
p.0275 橋本と云所に行つきぬれば、きヽわたりしかひありて、けしきいと心すごし、南には潮海あり、漁舟波にうかぶ、北には湖水有、人家岸につらなれり、其間に洲崎遠くさし出て、松きびしく生つヾき、嵐しきりにむせぶ、松のひヾき波のをと、いづれときヽわきがたし、行人心をいたましめとまるたぐひ、夢をさまさずといふ事なし、みづうみにわたせる橋を濱名となづく、ふるき名所也、朝たつ雲の名殘、いづくよりも心ぼそし、 行とまる旅ねはいつもかはらねどわきて濱名の橋ぞ過うき
p.0275 同十五日〈◯承久三年六月〉に、百萬のいくさ入洛して、畿内畿外にみちみてり、〈◯中略〉近習寵臣の邊功をたつる、こと〴〵くとらへられぬ、大納言忠信、〈◯中略〉宰相中將信能卿等、心ならぬ旅の空、をくれさきだつあづまぢのゆくすゑに、なをあしがらのせきあへぬ涙をかけて、いかにな
p.0276 るみのかたにきぬらんと、かなしき中にも、忠信卿は、〈◯中略〉いもうとの禪尼とかく申ゆるされにければ、濱名の橋よりぞ歸りにし、
p.0276 濱名の橋よりみわたせば、かもめといふとりいとおほくとびちがひて、水のそこへもいる、いはのうへにもゐたり、 かもめ居る洲崎のいはもよそならず浪のかげこす袖にみなれて
p.0276 家集はまなのはしにて 前民部卿雅有 松かげのはまなのはしをうちすぎてとのうみあらきいそなみのこゑ
p.0276 俊基朝臣再關東下向ノ事 傾ク月ニ道見ヘテ、明ケヌ暮レヌト行ク道ノ、末ハイヅクト遠江、濱名ノ橋ノ夕鹽ニ、引ク人モナキ捨小船、沈ミハテヌル身ニシアレバ、誰カ哀ト夕暮ノ、晩鐘鳴レバ今ハトテ、池田ノ宿ニ著キ給フ、
p.0276 延元四年の春頃、遠江國井伊城に住侍りしに、濱名の橋かすみわたりて、橋本の松ばら湊の波かけて、はる〴〵と見渡さるヽあした夕べのけしき、面白く覺侍りしかば、 夕暮は湊もそことしらすげの入海かけて霞む松原 はる〴〵と朝みつ汐のみなと船こぎ出るかたは猶霞つヽ
p.0276 夏歌中に 津守國道 いとヾ猶入海とをくなりにけりはまなのはしの五月雨の比
p.0276 十六日、〈◯永享四年九月〉橋もとの御とまりを、夜をこめて立侍しかば、濱名橋をうちわたして、 忘めやはまなのはしもほの〴〵と明わたる夜のすゑの川なみ はまな河よるみつしほの跡なれやなぎさにみゆる海士の小舟は
p.0277 橋もとの御とまり、〈今橋より五里〉ちかくなり侍り、濱名のはしも此あたりにこそと申をきヽて、 暮わたる濱名のはしは霧こめて猶すゑとをし秋の河なみ
p.0277 濱名橋二所 一所橋本、東福寺門前女屋下、一所猪鼻東、大崎與二呉松一中間、今亡焉、〈◯中略〉 按永正七年八月廿七日、急波破(○○○)レ橋(○)、擧レ土塞二湖口一、自レ是以來無二造營一、古老曰、正保年間見二橋柱一、其跡爲レ田、〈◯中略〉郷人曰、呉松與二大崎一中間、渡海凡一里、今不レ知二橋場一、
p.0277 こヽ〈◯引間〉を立て濱名の橋一歳の高汐より荒海恐ろしきわたりすとて、此度の旅行まこと何となく心細く物悲くて、 度々の濱名のはしもあはれなり今こそわたりはてぬと思へば
p.0277 濱名橋舊跡 荒井より西、はしもとヽいふ所にはまなの橋の舊跡有、いまはひかたとなりてしれる人まれなり、 おもひやる心やながくかよふらんはまなのはしは跡たゆれども
p.0277 濱名橋ハ湖口ヲ出ル濱名川ニ掛タリシ橋ナリトイフ、明應永正ノ湖變ヨリ跡ナクナリテ、今ハ濱名バカリヲ聞渡ルノミ、
p.0277 睦月朔日、〈◯文久四年、中略、〉今切の渡しの河邊にいたる、〈◯中略〉程なく船漕寄せて荒井の岸に上り、關門を越て宿に出行に、濱名橋の舊跡を尋しに、今は橋本の名のみして絶たりと、里人のをしへに過行、
p.0277 本朝地理志略 東海道十五箇國
p.0278 遠江國 天龍河、其支流曰二小天龍一、河面廣而無レ橋、土人棹レ艇渡二旅客一、官家往還時架(○○○○○○)二浮橋(○○)一、
p.0278 嘉禎四年〈◯暦仁元年〉正月廿八日乙亥、將軍家〈◯藤原頼經〉御上洛、二月六日壬午、今曉諸人乘替以下、御出以前進發、插二王覇之忠一、不レ及二狐疑一、欲レ競二渡天龍河一之間、浮橋可二破損一歟、雖レ加レ制敢不レ拘之由、奉行人横地太郞、兵衞尉長直等馳申、仍左京兆〈◯北條泰時〉鷄鳴之程、於二懸河宿一、到二于河邊一、著二座敷皮一、雖レ不下令レ發二一言一給上、諸人成レ禮猶餘、自然令二靜謐一訖、將軍家御通之後、乘レ馬供奉云云、此河水俄落、供奉人所從等者、不レ能レ渡二浮橋一、又無二乘船沙汰一、大半渡レ河、水僅及二馬下腹一云云、
p.0278 むかしより東士西に向ふ事、壽永三年には範頼、義經、承久には泰時、時房、今年建武二年には御所高氏、直義、第三箇度なり、御入洛何のうたがひかあらんとぞ勇悦あいける、去ながら海道は山河の間に足がヽりの難所に付、合戰治定有べしと覺えし處に、天龍川の橋をつよくかけて渡守を以て警固す、此河は流はやく水ふかき間、ゆヽしき大事なるべきに、橋をば誰か沙汰して渡したりけるぞと尋ねられしかば、渡守どもが云、此間の亂に我等は山林〈◯林一本作レ奥〉に隱れ忍びて、舟どもをば所々に置て候ひしに、新田殿當所に御著有て河には瀬なし、敗軍なれども大勢なり、馬にて渡すべきにあらず、また舟を以てわたさばおそくして、味方を一人なりとも失はん事不便なるべし、いそぎうき橋をかくべし、難澀せしめば汝等を誅すべしと、御成敗候ひしほどに、三日の間に橋をかけ出して候なり、新田殿は御勢を夜晝五日渡させ給ひて、一人も殘らずと見えし時、新田殿御渡り候しなり、其後軍兵此橋を頓て切落すべきよし下知せし時、義貞橋の中より立歸て、大に御腹を立られて、我等を近く召れて仰含られ候しは、敗軍の我等だにも掛て渡る橋、いかに切おとしたりとも、勝に乘たる東士、橋を掛ん事、時日をめぐらすべからず、凡敵の大勢に相向ふ時に、御方小勢にて川を後にあてヽ戰ふ時にこそ、退くまじき謀に舟をやき、橋をきるこそ武略の一の手だてなれ、義貞が身として、敵とてもかけて渡るべき橋を切落して、急におそ
p.0279 はれしをあはてふためきけるといはれん事、末代に至まで口おしかるべしとて、橋を警固仕れとて、靜に御渡り候しなり、此故に御勢を待奉て、橋を守候なりと申ければ、是を聞人皆々涙を流し、弓矢の家に生れては、誰もかくぞ有べけれ、疑なき名將にて御座ありけるとて、義貞を感じ申さぬ人ぞなかりける、
p.0279 官軍引二退箱根一事 十二月〈◯建武二年〉十四日ノ暮程ニ、天龍河ノ東ノ宿ニ著給ニケリ、時節河上ニ雨降テ、河ノ水岸ヲ浸セリ、長途ニ疲レタル人馬ナレバ、渡ス事叶マジトテ、俄ニ在家ヲコボチテ浮橋ヲゾ渡サレケル、此時モシ將軍〈◯足利尊氏〉ノ大勢後ヨリ追懸テバシ寄タリシカバ、京勢ハ一人モナク亡ブベカリシヲ、吉良、上杉ノ人々、長僉議ニ三四日逗留有ケレバ、川ノ浮橋程ナク渡シスマシテ、數萬騎ノ軍勢殘ル所ナク、一日ガ中ニ渡テケリ、諸卒ヲ皆渡シハテヽ後、舟田入道ト大將義貞朝臣ト二人、橋ヲ渡リ給ヒケルニ、如何ナル野心ノ者カシタリケン、浮橋ヲ一間、ハリヅナヲ切テゾ捨タリケル、舍人馬ヲ引テ渡リケルガ、馬ト共ニ倒ニ落入テ浮ヌ沈ヌ流ケルヲ、舟田入道誰カアル、アノ御馬引上ゲヨト申ケレバ、後ニ渡ケル、栗生左衞門鎧著ナガラ川中ヘ飛ツカリ、二町計游付テ、馬ト舍人トヲ左右ノ手ニ差揚テ、肩ヲ超ケル水ノ底ヲ閑ニ歩テ、向ノ岸ヘゾ著タリケル、此馬ノ落入ケル時、橋二間計落テ渡ルベキ様モナカリケルヲ、舟田入道ト大將ト二人手ニ手ヲ取組デ、ユラリト飛渡リ給フ、其跡ニ候ケル兵二十餘人飛カネテ、且シ徘徊シケルヲ、伊賀國住人ニ名張八郞トテ名譽ノ大力ノ有ケルガ、イデ渡シテ取セントテ、鎧武者ノ上卷ヲ取テ中ニ提ゲ、二十人マデコソ投越ケレ、今二人殘テケルヲ、左右ノ脇ニ輕々ト挾テ、一丈餘リ落タル橋ヲユラリト飛テ、向ノ橋桁ヲ蹈ケルニ、蹈所少モ動カズ、誠ニ輕ゲニ見ヘケレバ、諸軍勢遙ニ是ヲ見テ、アナイカメシ、何レモ凡夫ノ態ニ非ズ、大將ト云、手ノ者共ト云、何レヲ捨ベシ共覺ネ共、時ノ運ニ引レテ此軍サニ打
p.0280 負給ヒヌル、ウタテサヨト云ハヌ人コソナカリケレ、其後浮橋ヲ切テツキ流サレタレバ、敵縱ヒ寄來ル共、左右ナク渡スベキ様モナカリケルニ、〈◯下略〉
p.0280 天正十年四月十六日、池田の宿より天龍川へ著せられ、爰舟橋懸被レ置、奉行人小栗二右衞門、淺井六介、大橋以上兩三人被二申付一候、抑此天龍川者、甲州、信州大河集而流出たる大河、瀧下瀧鳴而、川之面寒渺々として、誠輒舟橋懸るべき所に非ず、上古よりの初也、國中之人數を以て、大綱數百筋引はへて、舟數を寄させられ、御馬を爲レ可レ被レ渡なれば、生便敷丈夫に、殊に結構に懸られたり、川之面前後に堅番を居置、奉行人粉骨無二申計一、此橋計之造作成共、幾何之事候、國々遠國迄道を作らせ、江川には舟橋を被二仰付一、路邊に御警固を被二申付一、御泊々々之御屋形々々々立被レ置、又路道之辻々に無二透間一御茶屋御厩、夫々生便敷結構に被二相構一、〈◯中略〉家康卿萬方之御心賦一方ならぬ御苦勞、無二盡期一次第也、〈◯中略〉信長公之御感悦不レ及レ申、大天龍舟橋被レ成二御通一、小天龍乘こさせられ、濱松ニ至而御泊、
p.0280 九十九橋 危きは甲州の猿橋
p.0280 都留郡郡内領 一猿橋 驛ノ北ニテ桂川ニ架ス、長拾七間、幅一丈壹尺、高欄アリ、一刎木六間四尺、二刎木七間二尺、三刎木八間、四刎木八間四尺、地中ニ入コト又同ジ、行梁ハ九間四尺、次梁ハ六間、橋上ヨリ水際マデ拾七間弱、世ニ之ヲ三拾三尋ト云、大概ヲ云ナリ、舊事大成經ニ曰、推古帝二十年、百濟國歸化人、有二白癩一、巧掛二長橋一、令レ造下遣二諸國一三河國八脛橋、信濃國水内曲橋、木襲梯、遠江國濱名橋、陸奧國會津闇川橋、兜岩猿橋等、其外一百八十橋上云々、〈按ニ兜岩カブトイハト訓ベシ、甲斐ノ假名ニハ通ガタシ、此書後人ノ妄作ニシテ、採聞ニ足ラズト雖モ、一時世ニ行ハレシ書ナレバ、姑ク此ニ記スノミ、〉古人云、此地末レ架レ橋以前ハ、ビク島ト云キ、鳥澤ヨリ渡船ニテ藤
p.0281 崎地ニ移リテ此地ヲ往來セリ、時ニ猿アリ、斷岸ノ藤蔓ヲ傳ヒ向ノ岸ニ到ルヲ見テ、剏テ橋ヲ作レリト云、大嵐村蓮華寺佛像ノ銘ニ、嘉祿二年九月、佛所加賀守猿橋住人也トアレバ、地名ヲ猿橋ト稱スルモ、已ニ久シキ事ナルベシ、〈◯中略〉此橋修理ノ頃ハ、猿必ズ來テ橋下ノ樹杪ニ遊ブト云、橋南ノ傍ニ橋掛山王權現ノ小祠アリ、
p.0281 猿橋長十六間、橋杭ナシ、水際マデ卅三尋、桂川ノ兩崖、岩肩ニ造カケタリ、桂川ハ花咲川葛野川合流シ、末ハ鶴川、鶴島等ノ衆水ヲ合セテ相模川トナル、大月ノ橋落ル時ハ、此橋爪ヨリ下和田ヘカヽリ、花咲川ヲ渉テ花咲ノ宿エ出ルトイフ、又猿橋驛ノ人家ヨリ、近年石塔ヲ堀出セシニ、一ハ貞治六年三月日、一ハ應安七年五月日ト刻メリ、昔此處ニ光明院トイフ寺アリケルトゾ、
p.0281 一駒橋〈◯中略〉 遊行他阿、此橋ヲ過ル時ノ歌ニ、 甲斐の猿橋を渡り、駒橋といふ處に至りてよみ侍りける、 他阿 猿橋をわたりてみれば駒橋やおどりはねつヽかけておくらん 此眞跡新倉村如來寺ニ所藏セリ、相傳テ遊行三世ノ筆跡ト云、此寺古ハ時宗ナリキ、
p.0281 應永卅三〈丙午〉年、一色刑部大輔持家を爲二大將一、一千餘騎發向す、しかれば甲州は要害能國にて人の心も不敵なれば、鎌倉勢を事ともせず、度々の戰に持氏方打負しかば、持氏御旗をむけらるヽ、同六月廿六日、武州横山口より發向ありて武田を攻らるヽ、信長もさる橋へ馳むかひ責戰といへども、同八月一日、武州の七黨、秩父口より亂入しかば、八月廿五日、不レ叶信長甲をぬぎて降參しける、御免被レ成鎌倉へ召れけり、
p.0281 かくて甲州にいたりぬ〈◯中略〉猿橋とて川のそこ千尋におよび侍るうへに、三十餘丈の橋をわたし侍りけり、此橋に種々の説有、むかし猿のわたしけるなど、さと人の申侍りき、さるこ
p.0282 とありけるにや、信用しがたし、此橋の朽損の時は、いづれに國中の猿かひどもあつまりて、勸進などして渡し侍となん、しかあらば、その由緒も侍ることあり、所がら奇妙なる境地なり、 名のみしてさけぶもきかぬさる橋のしたにことふるやまがはのをと、おなじこヽろをあまた詠じ侍りけるに、 たにふかきそはのいはほの猿橋は人もこずゑをわたるとぞ見る 水の月なを手にうとき猿はしやたには千尋のかげのかは瀬に、此所の風景さらに凡景にあらず、すこぶる神仙逍遙の地とおぼえ侍る、 雲霞漠々渡二長梯一、四顧山川眼易レ迷、吟歩誤令レ疑レ入レ峽、溪隈殘月斷猿啼、
p.0282 永正十七庚辰 當郡猿橋、三月中ニ小山田殿引立テカケ玉フ也、 大永四年甲申 此年正月ヨリ陣立、初而二月十一日、國中勢一萬八千人立テ、猿橋御陣ニ而日々ニ御働、奧三方ヘ働、箭軍アリ、此時分乘房ハ、八十里御陣崎ト承リ申候、此年萬事共有レ之、小猿橋ト云處ニ而度々ノ合戰アリ、 享祿三庚寅 此年正月七日、越中守同國中ノ一家人、猿橋ニ御陣ナサレ候、
p.0282 天文二癸巳 此年二月、猿橋燒申候、
p.0282 峽中紀行上 寶永丙戌秋、余〈◯物茂卿〉與二省吾一奉レ使適レ峽、〈國語、謂レ峽爲二甲斐一、地皆峽、故得レ名、◯中略〉至二鳥澤驛一、皆山路也、日暮僕從疲甚、民家遠、無二炬火前導一、轎夫腳探二巖稜一以進、時或踏レ虚而躓、轎輙跳二其肩上一不レ已、杭隉欲レ墜者數、遂下レ轎冥行、以及二所レ謂猿橋者處一、前行者還報、橋版穿、且梁橈如レ不レ支、不レ可レ行、躊躇久レ之、會二一傔探レ店者操レ炬來一、店主人亦來迓相語、是猿王所レ架、長十一丈、達二水際一三十三尋、而水深三十三尋、則命傔跳二身欄外一、而左手據レ欄、右手垂レ炬倒照、從レ旁下瞰黒深、火力短不レ及、傔益俛二伸其臂一、遂致火燄逆上欲レ燒レ手、輙遽棄、墜至二水際一廼滅
p.0283 予縁レ是得下目送及二其未一レ滅而覩中彷彿上也、皆如二其言一、橋下無二一柱一、從二兩岸一累二鉅材一架起、上者必出二下者外一尺許、愈累愈出、以得二相近而橋一之、誠神造也、崖光滑無二縫罅一、如二削立一、然土人云、崖腹有レ釜、神蛇穴焉、歳旱民聚汲竭二其釜中水一、蛇見則雨、鷺問何以得レ至二釜處一、廼云、土人生二于土一長二于水一、雖下束二其手足一投中橋下上不レ死、聞者皆吐レ舌、又問、崖石如レ無レ縫、豈苔滑使レ然歟、云連二一驛百家一、在二一片石上一、則是川亦一大石渠耳、益駭二異聞一、遂宿二于驛一、
p.0283 猿橋五奇卑二旛野氏之子一 物茂卿 予過二猿橋驛一、驛西有レ橋、長十丈、高六十六尋、無レ有二橋柱一、兩岸悉鉅材架起、相傳、昔有二猿王一剏造、誠國中之奇觀也、〈◯下略〉
p.0283 我大日本橋梁之奇巧者、三防之筧橋、岐岨之懸橋、峽之猿橋是已、峽也者、山岳之所二列峙一、嶮巖櫛比、 々斗絶、不レ可レ徑矣、比二諸蜀門陳倉之陒一不レ易レ上焉、在昔方二永祿天正之間一、武田氏負險城レ峽、其耽二々關以東諸傑驁一者有レ以夫、傳曰、洪荒之間有二猿王一、跳而抱二葛藟一、攀縁過二斷崕一、古之智者、視而倣レ是、偃二巨木於兩崖一、重以架レ澗、結構成橋、人蹟始通矣也、爾來工人範レ之、製亦因加焉、猿之神、工之智、天工之代、至レ今鎭臺士女、雉兎蒭蕘、及行商之通二有亡一者、亡レ不二皆臻一焉、峽之土埴厥田中、厥賦上、宣二稻梁一、厥山出レ金、厥婦女善二蠶織一、厥菓梨橘柚柿栗、亡二海運一、凡百物貨、駄而出レ之、厥利巨々萬、峽民之爲レ生、惟其猿橋是頼、或曰、昔者推古帝時、百濟人志羅呼者、適來過二于此一、見下猿王縁二藤蔓一而渉上、於レ是乎剏造レ橋也、未レ知二孰是一、蓋觀二轉蓬一而製レ車、見二浮葉一而爲レ舟、古之智者皆爾、余嘗聞二之峽人一、猿橋之壑而絶、桂川、不盡、篠子、葛川諸水、會二同于此一、深而迅、不レ可レ測矣、橋凡廣丈餘、袤二十餘歩、不レ柱如二復道一、厥製甚妙、橋下四十有仭、而後有レ水、雲霧杳冥、故俯臨者、眩不レ克二正視一也、是則峽之奇觀焉已、石夷庚字由之、世峽人而好二文辭一、乃以レ状謁レ余曰、峽吾父母之國也、毎夢二寐厥山川一、意斯猿橋而毋レ誌、孰知二厥所一レ由、且夫古之人、利レ物成レ功、恬乎亡レ聞邪、奇事夫有レ沒邪、請得二子之文一、以傳二諸不朽一也、則立二碑於猿橋心月寺境一、蓋顯二父母之國一也、余辭二不
p.0284 敏一不レ許、遂受二厥状一閲レ之、則殆如二曩者所一レ聞、因作二爲碑文一、繫レ之以レ銘、銘曰、 二儀之判、天地定レ位、成レ山成レ河、不レ籍二人爲一、蓋此斷崖、途殫難レ濟、神矣猨王、跳縁二葛蘂一、智人範レ之、危橋是始千載興レ利、工也何奇、斯之隘陿、万水所レ歸、訇磕注レ澗、神魂倶飛、一橋旣成、萬類承レ禨、寶暦五年、乙亥之冬、十月十五日、東都錦江鳴鳳卿撰、鳳岡關思恭篆額、東川平茂書、甲陽筠齋夷庚立、 石由之立二峽中猿橋碑一、請二錦江子一勒レ銘、已成、輙作二墨帖一、因賦二猿橋行一、贈二之由之一、 白猿橋高跨二青澗一、橋勢如レ龍雲不レ斷、天際峽樹北風寒、吹落盤渦百尺湍、上望二層巖一聽二猿嘯一、下窺二空潭一見二龍蟠一、危哉危過二蜀棧道一、絶澗無レ底眩欲レ倒、翠屏赤壁千仭起、雲霾木落急峽水、憶昔英雄割據時、一夫荷レ戟萬夫止、後主懸レ軍倚二雲高一、如レ此天險終難レ恃、軍中力盡一朝空、山河之固今已矣、臨レ流試倚二古梵臺一、橋下奔流逝不レ回、今爾能諳峽中事、新碑更於二招提一開、不朽只借二張載筆一、萬古長見二勒銘才一、蘭亭高惟馨、
p.0284 猿橋ハ往古猿ノ架初ケル故ノ名ナリトイフ、其説久シ、桂川此下ヲ流テ、島津ニ至テ平流トナル、橋上ヨリ下視スレバ、兩崖ノ峻絶ノ底、碧潭藍ノ如シ、
p.0284 藤澤より平塚へ三里十六町〈◯中略〉 馬入の渡し、御上洛には舟橋(○○)かヽる也、
p.0284 馬入川 馬入村にあり、むかしは相模川といふ、
p.0284 文治四年正月廿日丙辰、二品〈◯源頼朝〉立二鎌倉一令レ參二詣伊豆、筥根、三島社等一給、武州〈◯平賀義信〉參州〈◯源範頼〉駿州〈◯源頼綱〉源藏人大夫、上總介、新田藏人、奈胡藏人、里見冠者、徳河三郞等扈從、伊澤五郞、加々美次郞小山七郞已下隨兵、及二三百騎一、爲二三浦介義澄沙汰一、構二浮橋於相模河一云云、
p.0284 同〈◯建久九年〉冬、大將殿〈◯源頼朝〉相模河ノ橋供養ニ出テ歸セ給ヒケルニ、八的ガ原ト云所ニテ、被レ亡シ源氏義廣、義經、行家以下ノ人々現ジテ、頼朝ニ目ヲ見合セケリ、是ヲバ打過給ケルニ稻村
p.0285 崎ニテ海上ニ十歳計ナル童子ノ現ジ給テ、汝ヲ此程隨分躵ヒツルニ、今コソ見付タレ、我ヲバ誰トカ見ル、西海ニ沈シ安徳天皇也トテ失給ヌ、其後鎌倉ヘ入給テ、則病付給ケル、次年ノ正月正治元年正月十三日、終ニハ失給ヌ、五十三ニゾ成給フ、是ヲ老死ト云ベカラズ、偏ニ平家ノ怨靈也、多クノ人ヲ失ヒ給ヒシ故トゾ申ケル、
p.0285 慶長十五年庚戌四月寒松叟赴二駿府一行紀 十四日、〈◯五月〉出二小田原一過二酒勾驛一、〈◯中略〉渡二相模河一懷二鎌倉將軍頼朝公一、〈建久九年十二月、於二相模河一、有二橋供養一、二品將軍頼朝公、爲二結縁一渡御矣、及二還路一有二落馬一也、御病惱終不レ 、翌年己未正月十三日薨御、行年五十三、至二于慶長十五年庚戌一、四百十二年也、〉 先代橋成供養日、將軍儀軌定如何、還時沙路金鞍隨、薨御濫觴在二此河一、
p.0285 馬入川ハ即所レ謂相模川ナリ、建久ニ架タル橋ヲ建暦ニ修理シ、其後何レノ時亡ビケルニヤ、正慶ニ五大院ガ殘忍、建武ニ名越ガ敗走、並ニ此川ノ口實トスベシ、
p.0285 鶴岡八幡宮 赤橋 本社ヘ行反橋ナリ、五間ニ三間アリ、昔ヨリ是ヲ赤橋ト云、東鑑ニ往々見ヘタリ、
p.0285 赤橋 前ノ池ニ架ス、石ノ反橋ナリ、〈長五間、幅三間、〉昔時板橋ニシテ、朱ヲ以テ塗抹ス、故ニ名ク、
p.0285 赤橋 本社へ行石の反橋をいふ、長サ五間に巾三間なり、
p.0285 文永三年七月四日甲午戌刻、將軍家〈◯宗尊親王〉入二御越後入道勝圓佐介亭一、被レ用二女房輿一、可レ有二御歸洛一之御出門云云、〈◯中略〉路次出三御自二北門一赤橋西行、經二武藏大路一、於二彼橋前一、奉レ向二御輿於若宮方一、暫有二御祈念一、及二御詠歌一云云、
p.0285 道瑜〈◯中略〉乾元二年癸卯六月十一日、補二社務職一、同七月廿三日己卯拜社、
p.0286 日中嚴重之儀也、自二別當坊一至二赤橋一、供奉人騎馬、
p.0286 一同廿三日、鶴岡御社參、日限雖レ不二相定一、依レ爲二廿日比一、廿餘日ニ如レ此記レ之、〈◯中略〉御幣ノ役ハ置石チカクニテ馬ヨリヲリテ、馬ヲバアカ橋ヨリ石ノキワ、山ノ内ノカタヘニヒカヘサセテ、御輿ノチカクナル時、赤橋ノツメニ畏テ、御輿赤橋ヲコユル時御供イタシ、御幣ノ役モ被レ參也、公方様御馬ヲバ赤橋ノ左ノカタ、置石ノキワ、西ムキニヒカヘ申也、
p.0286 天文三年十一月廿二日、橋本九郞五郞七日被レ參、今日爲二結願一、亡父宮内丞赤橋修造、今日亦其儀思可レ被レ掛二赤橋一、御鬮於二御寶前一被レ取レ之、於二小別當一、如レ形祝儀有レ之、 七年六月十七日芹澤紺搔男〈左衞門〉夢云、當社赤橋可レ懸、然者福山之上、杉三俣可レ有レ之、尋而見レ之、果而如二夢中一、 八年十一月一、〈◯中略〉赤橋材木橋際引付、本願入道以二土車一引レ之、 十年七月、孫左衞門尉、赤橋可レ懸義、以二下知一相定畢、 八月、材木前濱引付、赤橋ニ積レ之、 十一壬子年、赤橋小屋入等有レ之、五月十四日、大平柱等立レ之、
p.0286 鶴が岡に行いたれば、濱べよりそりはし〈◯赤橋〉まで八幡の鳥井三重あり、橋を渡りて門に入、右のかたに大塔あり、
p.0286 東路大橋〈◯中略〉 六郷〈武州〉
p.0286 東武三大橋〈(中略)六郷〉
p.0286 三大橋〈◯中略〉 六郷橋 川崎村
p.0286 六郷橋〈三大橋ノ内〉
p.0286 一武州六郷ノ橋ハ、長百九間アリ、
p.0286 六郷の橋、ながさ百廿間なり、
p.0286 慶長五年、六郷橋再掛る、〈長百廿間と云〉
p.0286 吉田
p.0287 江戸より京までの間に大橋四あり、武藏の六郷(○○○○○)、三河の吉田、矢矧、近江の勢多なり、
p.0287 遠遊紀行 六郷橋 橋下水漾々、橋上人儦々、橋邊回レ首見、郷關雲路遼、
p.0287 寛文十一年八月二十九日、東海大水、流二六郷川橋九十餘間一、
p.0287 河崎の川に大橋あり、北を六郷といふ、南は川崎なり、
p.0287 六郷橋 貞享元年甲子、六郷橋破損御修復、 長百拾壹間 横四間貳尺 〈但兩袖高欄〉 同三寅年、六郷大橋、當六月四日、同十二日、兩度之出水ニ付、川崎方橋臺欠込、石垣かづら石共崩落、敷板所々朽損、
p.0287 六郷の橋はこちたく曲みて、危ぶみながら渡る、
p.0287 此年間〈◯貞享〉記事 貞享中洪水あり、六郷橋流る、夫より掛る事なしといへり、
p.0287 六郷の橋を過る、此河は武藏の多摩川なり、源は秩父の山より出て、稻毛の庄の東を經て、此所に流來て海に入る、
p.0287 六郷の橋の下にて、馬に水飼はせけるに、母の御輿來れり、
p.0287 六郷酒勾之土橋 六郷の橋絶て後、土橋のかヽりし事のあり、〈◯中略〉春秋落水はげしきときは、妨となるが故、橋ある
p.0288 は冬春のみなり、〈◯中略〉誰袖の海〈寶永元年印本〉に、六郷の渡り、爰も三月より九月頃までは、土橋かヽるとあるは、九月頃より三月までといふを書誤りしなり、筑波紀行櫻の實、〈享保五年〉 蜀黍や思ひのたけを葉にさかれ 五株 六郷とれてかさヽぎの橋 〈撰者〉貞佐 六郷の橋はとれて、鵲の橋はかヽれりといひしなり、前にも記す如く、酒勾も此所も、秋は橋のなければなり、されば享保の頃までも、冬春は土橋のかヽりし歟、又元祿十四年不角が紀行、笠の蠅六郷の條、此橋先年〈◯元祿元年〉大水に落て、今は長柄の橋の影ぼしとなりぬ、此渡りの船賃、武家の外は二文とあり、土橋の掛りしは、當時〈元祿の末をいふ〉なれど、標題にも知らるヽ如く、五月の紀行なれば、土橋のなきなるべし、
p.0288 六郷渡、〈◯中略〉昔は橋を架せしが、享保年間田中丘隅といへる人の工夫により、洪水の災を除ん爲に橋を止めて、船渡にせしとなり、
p.0288 六郷渡ハ橋ノ權輿詳ナラズ、永祿ニ其名見ユレバ、北條家ノ盛時ニ掛初ケルニヤ、海道四大橋ノ一ト聞エシモ、貞亭ニ流亡シテヨリ永ク此渡トナリ、今ハ橋柱サヘ朽果ヌ、濱名長柄ト同日ノ譚ナルベシ、〈◯中略〉 六郷渡ハ多摩川ノ下流、荏原、橘樹兩郡ノ境ナリ、川ノ北方ニ六郷村アリ、ヨツテ川ノ名トス、橋ノ長サ元祿前後ノ書ヲ歴檢スルニ、玉露叢ヲハジメトシテ、多クハ百九間ニ作ル、其或ハ百八間百廿間ニツクルハ、傳聞ノ誤ナルベシ、
p.0288 江戸で日本橋(にほんばし)と走り、大坂にて日本橋(につほんばし)と叮嚀にいふ、
p.0288 日本橋 南北にかヽれり、〈◯中略〉海道の宿次をしるすには、日本橋ゟ始る、
p.0288 日本橋 南北にかヽる 長凡二十八間
p.0289 江府の中央と云、諸方への道法、此はしを元とす、
p.0289 日本橋(にほんばし) 南北へ架す、長凡二十八間、南の橋詰西の方に御高札を建らる、欄檻葱寶珠の銘に、萬治元年戊戌九月造立と鐫す、此橋を日本橋といふは、旭日東海を出るを親見る故に、しか號るといへり、〈事跡合考に云、日本橋のかゝリしは慶長十七年の後歟とありて、其考ヘを記せり、されど北條五代記、永樂錢制禁の事を記せし條下に、慶長十一午のとし極月八日、武州江戸日本橋に高札を建るとある時は、慶長十七年より以前なりとしるべし、〉此地は江戸の中央にして、諸方への行程も此所より定めしむ、橋上の往來は、貴となく、賤となく、絡繹として間斷なし、又橋下を漕つたふ魚船の出入旦より暮に至る迄嗷々として囂し、
p.0289 慶長八年、今年江戸町割を命じ給ふ、〈◯中略〉この時日本橋をはじめて掛らる、
p.0289 一里塚つき給ふ事 日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也、此橋の名を人間は、かつて以て名付ず、天よりやふりけん、地よりや出けん、諸人一同に日本橋とよびぬる事、きたひの不思議と沙汰せり、然るに武州は、凡日本東西の中國にあたれりと御諚有て、江城日本橋を一里塚のもとと定め、三十六町を道一里につもり、是より東のはて、西のはて、五畿七道のこる所なく一里塚をつかせ給ふ、
p.0289 日本橋市をなす事 見しは今、江戸町東西南北に堀川ありて橋も多し、其數をしらず、扨又御城大手の堀を流れて落る大河一筋有、此川町中を流れて南の海へ落る、此川に日本橋只一筋懸る、見は往來をせり、〈◯中略〉件の日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町割の時分新規に出來たり、其後此橋御再興は、元和四年戊午の年也、大川なればとて川中へ兩方より石垣をつき出し懸給ふ、敷板の上三十七間四尺五寸、廣さ四間貳尺五寸也、此橋に於て晝夜二六時中諸人群をなし、くびすをついで往還たゆる事な
p.0290 し、
p.0290 關東永樂錢すたる事 今は天下一統の世となり、東西南北にて此二錢〈◯永樂、びた、〉をつかふ、され共永樂一錢のかはりにびた四錢五錢つかふ、是により善惡をえらび、萬民やすからず、此よし公方に聞召、びた一錢を用ゆべし、永樂禁制と慶長十三午の年極月八日、武州江戸日本橋に高札たつ、それより天下の永樂すたる、
p.0290 元和四年四月、日本橋御再興、
p.0290 明れば十九日〈◯明暦三年正月、中略〉巳の刻ばかりに、小石川傳通院表門之下、新鷹匠町大番衆與力の宿所より燒亡出來れり、〈◯中略〉日本橋をはじめとして、江戸ありとあらゆる橋々六十ケ所〈◯中略〉燒のこる、
p.0290 日本橋 橋の長さ百餘間、此みなみにわたされし橋の下には、魚舟、槇舟數百艘こぎつどひて、日毎に市をたつる、橋のうへよりみれば、四方晴て景面白し、北に淺草寺、東えい山みゆ、南にふじの山峨々とそびえ、嶺は雲まにさし入て、鹿の子まだらに降つむ雪までのこりなくみゆ、西のかたは御城なり、東には海づらちかく行かふ舟もさだかにみえわたれり、されども橋のうへは、貴賤上下のぼる人くだる人、ゆく人歸る人、馬、のり物、人の行通ふ事、蟻の熊野まいりのごとし、あしたよりゆふべまで橋の兩わき一面にふさがり、をし合もみあひせき合て、しばしも足をためて立とまる事あたはず、うか〳〵とかまへたるものは、ふみたをされ、蹴たをされ、あるひは帶をきられて、刀わきざしをうしなひ、あるひは又きんちやくをきられ、又は手にもちたる物をもぎとられ、たまたま見つけてそれといはんとするに、人だまひの中に立まぎれて跡を見うしなふ、すべて西國よ
p.0291 り東國のすゑまで、諸國の人の上下往來する日本橋なれば、まことにせきあふもことわり也、橋のしもなる市の聲、橋の上なる人の音、さらに物のわけもきこえず、只わや〳〵とどよみわたるばかり也、 あめがしたなびきわたりて君が世のさかゆく江戸をしる日本橋
p.0291 橋 日本橋 南北にわたされて、橋の上にて見れば、旭日東嶺に出るをまのあたりにのぞみ、又西山にいり、虞淵に類する有さま、眼前に見つくしてならぶ橋なし、よつて日本橋と名付とかや、〈◯中略〉橋の下には魚船、槇船、あるは乘合の船どよみになりて、駒形、兩國、金龍山まで乘合よと、我こゑごゑによぶも、目さむるこヽちして、すべて物のわけもきこへず、
p.0291 日本橋より北の町 十間棚屋むろまちを、三町行ば日本橋南北にかヽりつヽ、長さ壹町あまりあり、下は魚船薪船、數百艘こぎつどひ、日毎に市ぞたちにける
p.0291 源氏隅田河原取レ陣事 兵衞佐頼朝ハ、平家ノ軍兵東國ヘ下向ノ由聞給テ、武藏ト下總トノ境ナル隅田川原(○○○○)ニ陣ヲ取テ、國々ノ兵ヲ被レ召ケリ、〈◯中略〉江戸、葛西ニ仰テ浮橋(○○)ヲ渡スベシト下知セラル、江戸、葛西ハ、石橋ニシテ佐殿ヲ奉レ射シ事恐思ケルニ、此仰ヲ蒙テ悦ヲナシテ、在家ヲコボチテ浮橋尋常ニ渡タリ、軍兵是ヨリ打渡シテ、武藏國豐島ノ上、瀧野河松橋〈◯長門本平家物語作二板橋一〉ト云所ニ陣ヲ取、〈◯又見二義經記一〉
p.0291 名所歌中 光俊朝臣 すみだがはむかしはきかずいまこそは身をうきはしのあるよなりけれ 此歌は康元元年、鹿島社に詣でけるに、すみだ川のわたりをみれば、かのわたり今はうきはし
p.0292 をわたしたりければと云々、
p.0292 江上春望 道灌招二福鹿兩山諸尊宿并少年一、浮二晝船數艘於隅田河一、詩歌鼔吹、一時壯觀、 十里行舟浪自花、春遊不レ覺在二天涯一、隅田鷗亦應二都鳥一、鼔吹晩來聲入レ霞、〈◯中略〉 道灌公爲レ攻二下總之千葉一、構二長橋三條一、其所號二橋場一、
p.0292 埋木の記〈◯中略〉 考證 弘賢按、鎌倉大艸子ニヨルニ、千葉ヲ攻シハ文明十年事ナリ、長橋三條ノ三ノ字疑ハシ、
p.0292 橋場 今神明宮の邊より南の方今戸を限り橋場と稱す、舊名は石濱なり、〈(中略)按ニ、(中略)橋場の號をそらくは道灌下總の千葉家を攻る頃より發るならん、南向亭云く、隅田川の渡場より一町ばかり川上に、むかしの橋の古杭水底にのこりて、舟筏のゆきゝにさはり侍るよし、されど其橋いづれの頃のものにやと云々、依て考ふれば、今のわたし場より一町ばかり川上、神明宮の大門の通り、其舊跡なるべき歟、また里老傳へいふ、此地法源寺大門の通り、をよび今のわたし場より南の方、監船所のあたり、共にむかしの橋場の舊跡なりといへり、然る時は三所共に橋をかくるに似たり、これによつて考ふれば、梅花無盡藏に所レ謂長橋三條を構ふとある意に協へるならん、〉
p.0292 此所に橋あり候故に、橋場と號しけると云、〈◯中略〉今の隅田川の渡舟ある所より川上一町程に、古の橋杭殘り、折節往來の船筏にかヽり候由なり、神明社あり、石濱神明といふ、古來の名は石濱といふ、
p.0292 七橋の跡 昔此邊の大河〈◯隅田川〉に七橋あり、里民の云、往古武藏、下總の内に大將七人あり、面々に橋をわたして往還すとなり、所々の水底に其橋杭の名殘今にありと云、橋場の古名もこれによれるにや、
p.0292 埋木の記〈◯中略〉 考證 土人の口碑云、三百年ばかりさきに、農家豪富なる者、私に土橋をかけて往來せし事あり、
p.0293 或人云、享保年中、大久保伊勢守殿のうけたまはりにて、隅田川に舟ばしかけられし事もあり、
p.0293 埋木の記 このむもれ木は、この國に名高き角田川のはし柱なり、いでや此かはに橋有しことをたづぬるに、かまくらの右大將〈◯源頼朝〉の、平家の人々をおはれんとて、治承四年にうきはしわたせるをはじめにて、光俊朝臣の康元二年のうたに、身をうきはしのとよまれしは、八十年ばかりのちのことなれば、むかしのまヽにてありしにはあらで、をのづからそのころわたせしこともや有けん、ほどへて文明十年、太田道灌入道の千葉をせめしとき、長橋をかまふ、その所を橋場と名づくといふこと、物にみえたれど、九とせばかりのちに、道興准后の通らせ給ひし時も、天文の中ごろ氏康朝臣の道の記にも、橋有とも見えざれば、はやく絶しなるべし、又ところの人のいひつたへしは、三百とせばかりさきに、農民のわたくしに土ばしかけて、往來せしことありけり、又享保の頃、舟ばしまうけられしこともありといへば、いにしへよりちかきころにいたるまで、いくたびかはしらたてしこと有しならん、さればさだめていつの頃ぞといはんよしなければ、むもれ木といひて有なれど、橋柱のありしはいちじるけれ、この木とり得しところは、水神のもりと、いまのわたし場とのあはひにて、水の深さ八尋あまり有しを、つなをからみて土舟二艘をうかべ、しやちといふものにてまきつヽぬきとりしといふ、ころは文化十とせあまり一とせ、ふみ月ついたちの日にてぞ有ける、 源弘賢
p.0293 隅田河埋木文臺記 むさしの國と、下總のくにとの中にある河を、すみだ河といふ、〈◯中略〉この河の橋場のわたりに、ふるき柱ののこれるが、水底によもと五本にたてりとなん、そのふる木もて文臺つくれるを、輪池屋代翁ひめもたれたり、これやこのながらのはし柱の文臺のあとをしたはれしわざなるべし
p.0294 〈◯註略〉そも〳〵すみだ川の橋は、源平盛衰記、〈◯中略〉一遍ひじりの繪〈(中略)畫に長橋一條あり、板橋にて左右の欄干あり、こは正安元年八月、聖戒行人の撰詞にて、畫は法眼圓伊の筆、十二卷也、また詞書のみを刊本とせしも三卷あり、〉などにうき橋、またはなべてのさまなる板橋をもわたせるよしあり、〈◯中略〉里人のつたへ言にも、今より三百年ばかりむかしに、所の長者がつちはしをつくり、〈◯註略〉享保年間おほやけより船橋をまうけられしこともありといへり、よしやこの文臺にせしは、いづれの時の橋ばしらの名ごりにもあれ、それはそれとして、たヾにうもれ木とのみいひてんとて、もてはやさるヽ翁のみやびごヽろのかうばしきこそ、かへす〴〵もゆかしけれ、文化十三年といふとしの文月のついたちの日、あづまのみやこの神田川邊なる松かげの家ゐにて、高田與清筆をそむ、
p.0294 東武三大橋〈(中略)千住(○○)〉
p.0294 淺草川舊有二二橋一、各長數十丈、一曰二仙壽橋(○○○)一、在二仙壽驛一、〈◯下略〉
p.0294 千壽橋(○○○)〈三大橋ノ内〉淺草川上
p.0294 三大橋〈◯中略〉 千手橋(○○○) 淺草川上に渡
p.0294 千住大橋 長六十間ほど 荒川に渡
p.0294 千住大橋 荒川の流に架す、奧州海道の咽喉なり、橋上の人馬絡繹として間斷なし、橋の北壹貳町を經て驛舍あり、此橋は其始文祿三年甲午九月、伊奈備前守奉行として普請ありしより今に連綿たり、
p.0294 文祿三年九月、千住大橋を始て掛らる、〈此地の鎭守、同所熊野權現別當圓藏院の記録に、伊奈備前守殿これを奉行す、中流急湍にして橋柱支ゆる事あたはず、橋柱倒れて船を壓し、船中の人水に漂ふ、伊名侯、熊野權現に祈りて成就すといふ、〉
p.0294 六月九日 千住大橋綱引、南北にて引合、其年の吉凶を知る、
p.0294 六月九日 千住大橋綱曳〈今はなし、小柄原天王の祭禮によつて、橋の南北にて大綱をひきあひ、其年の吉凶を占ひけるが、やゝもすれば〉
p.0295 〈鬪諍に及びしゆゑ、兩村云あはせて此事を止けるとぞ、〉 青藤山人路志、引二大明一統志一曰、拔河之戯、湖廣歸州俗、以二麻絙巨竹一、分レ明而挽、謂二之拔河一、以定二勝負一、而祈二農桑一、 拔河の事、五雜組にも見えたり、 綱曳や左の利し大男 宇月
p.0295 大川橋(○○○) 竹町渡しより北の方、雷神門前通り、本所中郷より渡る、橋長八十間餘、或は七十八間共いふ、安永三午年冬初而かヽる也、
p.0295 大川橋 淺草志云、大川橋は花川戸町より本所中の郷へわたす、長八十四間、幅三間半、行桁二十三、橋杭八十四、掛渡しの發起は花川戸町伊右衞門といふもの也、其子五郞右衞門相續て請負人と定む、五郞右衞門が記したる覺書左のごとし、 橋新規掛渡之儀、初て明和六丑年四月九日、依田豐前守様御番所江御願申上置候、同八年八月中御役替ニ付、曲淵甲斐守様御番所江御願申上、追々御糺之上、安永三午年五月五日、橋新規掛渡し、松平右近將監様御差圖に而被二仰付一、同年十月十七日皆出來、御見分相濟、同日往來渡り初之事、 但大和國老人渡り初抔と申事、一向無レ之候、 大川橋と申御高札被二下置一候 但東橋(○○)と申義は、世上にて掛渡し迄之間之風説いたし候事、
p.0295 淺草大川橋、〈俗に云吾妻橋〉明和九辰年二月晦日、目黒行人坂より出火し、江戸三分一も燒亡す其節は此橋なし、一筋道にして眞崎千住をさして逃たり、故に老人小兒は歩行思ひもよらず押
p.0296 あひける、其中へ屋敷より追放の馬も來りしにより、怪我も有しなり、此橋のかヽれるは、出火の節の大なる裨益也、
p.0296 吉田雨岡 名は桃樹、字は甲夫、通稱忠藏、鰲岐と號せり、江戸の人、その人となり明敏、吏務に精練して其功勳甚多し、明和の末年、淺草花川戸のわたりに橋を造るの議あり、議者いへらく、水底に巨石ありて橋柱を植るによしなし、かヽれば空しく費の多からんのみといひて遂に果さヾりき、かくて安永のはじめ、雨岡、善潛の者に水底を捜らしめて、柱を植つるの法を得たり、建議して橋を造れり、往來の農商人ごとに二錢を税とす(○○○○○○)されば後來修造の用費尤鉅といへども、いさヽかも公帑をつひやすことなし、公私その便利を得ること少からず、その功大なりといふべし、名づけて大川橋といへり、天明丙午の歳、關東洪水の時、河水怒漲、大川橋やヽ壞損するに至らんとす、事急なり、雨岡以聞をへず、意を決して橋の中間、水勢の最衝突する所の數丈を斷しめければ、よりて橋の壞損せざることを得たり、人みなその敏捷機警を嘆美せずといふことなし、
p.0296 大川橋 享和二戌年七月二日、掛初以來初而橋中程四十間餘流失致候事、 橋長高欄通八拾四間 同幅〈板木口ゟ木口迄〉三間半 右橋掛渡し棟梁名前、京橋南ぬし町大工金兵衞、 安永四未年正月十三日公方様初て渡御被レ爲レ遊候事、 安永七亥五月十三日、大納言様渡御被レ爲レ遊候事、寛政九巳年二月十三日、公方様渡御被レ爲レ遊候事、
p.0297 今年〈癸未◯文政六年、中略〉六月二十一日〈◯中略〉兩國橋ヲ渡ルニ、川水赤ク、橋下ニ漲落ルサマ急流眼ヲ射ル如シ、〈◯中略〉是ニツキ先年ノコト憶ヒ出シタレバ書ツク、予〈◯松浦清〉ガ幼年ノ頃ハ大川橋ハナシ、因テ江東ニ往ニハ、上ハ竹町ノ渡リ、下ハ御厩ノ渡舟ヲ用ヒタリ、然ニ予十歳バカリノ頃カ、橋出來タリ、其初ハ至テ輕ク架シタリシガ、修改スル度毎ニ丈夫ニナリヌ、初架ノ橋ナリシヤ、一年大水出タルトキニ、江東ニ寓居シテ在シカバ、川邊ニ出テ見タルガ、川水大ニ溢レテ、川上ヨリサカマキ下ル、ソノ中ニハ種々ノモノ流レ來リ、溺死ノ人ナドモアリキ、ヤヽスル中、遙ニ黒ク横タワリタルモノ見ユ、人々アレハ何ナルヤト云ヰタルニ、間モナク近ヨルヲ見レバ、四五間モアラン筏ノ如キモノニ、竿ナド結付ケタルモノト見エシニ、夫ヲ見カケ助ケ船多ク出テ、牽寄セント爲セシガ、川水勢剛クシテ手ニ及バズ、忽チ大川橋ノ橋杭ニ流レカヽルト、翻ツテ楯ヲ竪タル如クナリタリ、水ソノ物ニ礙ヘラレ、大瀧ノ如クナルト、人ミナ壯觀カナト云ツヽ見ヰタル中ニ、メリ〳〵ト云音シタルガ、ヤガテ橋ハ中ホドヨリ破レ傾キタリ、コノ筏ノ如キモノハ、出水ニテ千住大橋ハヤ落テ流レ來ルガ、コノ橋杭ノ間ヲ通リガタク、杭ニセカレテ水ヲ遮リ停メ、水勢マス〳〵強クナリテ、カクナリシナリ、過去ノコト今知人モ稀ナレバ、其アリサマヲ書貽スニゾ、
p.0297 安政三年八月廿五日、南風烈しく、〈◯中略〉大川橋勾欄吹損じたり、
p.0297 東武三大橋〈兩國(○○)〉
p.0297 淺草川舊有二二橋一、各長數十丈、〈◯中略〉二曰二兩國橋一、言レ跨二武總二州一也、
p.0297 三大橋 兩國橋 武藏下總堺にかけたる橋也
p.0297 橋 兩國大橋 是關東第一の大橋也、〈◯中略〉眞中に番所を居て夜陰の非常を禁ずるなり、此橋の上に
p.0298 て四方眺望すればゑならぬ風景、記にいとまあらず、ちかく見わたせば、廻向院念佛のこゑいつもたえせず、それより見やれば、北のかたに駒形堂、淺草觀音堂、又は牛の御前、隅田川まのあたりに見え、遠くは房州、筑波山、ほのかにのぞみ、かぎりなき絶景也、或は諸國の商船多く入船有、出る船あり、三月の比ゟして、秋のすゑまでは、遊船夥敷此ほとりにあつまり、夏月の炎天にはひたすら川面船になりて、流星玉火を帆にあげ、笛太鼓を楫になして、うたひどよめき、一葦の行所をほしひまヽにして、廻向院、駒形堂に上るも有、万頃の茫然たるを凌て、龜井戸、木母寺などに行も有、誠にかくれなき江城の歌吹海也、
p.0298 兩國大橋〈三大橋之内〉淺草川に有、明暦年中(○○○○)に草創の橋也、武藏國と下總國に渡されたる橋なれば、兩國橋と稱す、是關東第一の大橋なり、眞中に番所をすへて夜陰の非常をいましむ、此大橋の上より四方の眺望なヽめならず、景興一々しるしがたし、
p.0298 兩國橋ハ永代、大橋、東橋ヲ併テ大川ノ四大橋ト稱スベシ、春夏ノ頃扁舟ヲ泛テ、三股ヲ過テ竪川ニ入テ、天神羅漢ヲ巡詣シ、或ハ隅田牛島ノ邊ニ溯洄スルモ亦一快ナラズヤ、 玉露叢、明暦三年(○○○○)、〈◯中略〉武藏ト下總トノ境、淺草川ノ末、無縁寺ノ前ニ、新ニ長橋ヲ掛ラル、長サ九十六間、兩國橋トイフ、年月ヲ經テ万治三年(○○○○)ニ成就ス、〈◯中略〉 一説、兩國橋ハ寛文元年(○○○○)初テ掛ラル、奉行ハ芝山權左衞門、坪内藤右衞門、其後天和元年掛替御手傳眞田伊賀守、奉行松平采女、舟越左門、矢ノ倉脇ニ假橋ヲ設ク、今爰ヲ元兩國(○○○)トイフ、然ルニ掛替績用ナラザリシカバ、各其罰ヲ行ハル、十五年ノ間假橋ヲ用ヒラル、元祿九年三月、町奉行川口攝津守、能勢出雲守、承テ經營シ、九月落成セリトイフ、
p.0298 兩國橋 淺草川にわたす 長凡九十六間 萬治年中(○○○○)にはじめてかヽる、はじめ大橋といひ(○○○○○○○○)、後兩國橋といふ(○○○○○○○)よし、此橋古名大橋といひしゆ
p.0299 へ、次の橋に新大橋の名あり、此川元來武藏下總の堺といふによりて、兩國橋と號しよし、今は本所葛西の邊のこらず武藏國葛飾郡のうちにて、旣に利根川を限る也、
p.0299 万治二年(○○○○)、此年兩國橋を懸らる(○○○○○○○○○)、〈新大橋ハ元祿六年、永代橋ハ同十二年ニ架る、〉
p.0299 酉年〈◯明暦三年〉大火事に、諸人退場無レ之差支、數百人燒死申候ニ付、退場のため、横山町の道筋に、本所への橋一箇所被二仰付一、兩國橋と名附申候、
p.0299 兩國橋并御米藏之事 御入國後御城下東流荒川筋は、大橋一箇所もこれなき事なり、明暦大火後、万治二年はじめて大橋壹箇所かけられたるもの、今の兩國橋なり、延寶九年〈◯天和元年〉十二月廿四日、類燒したる時この橋燒落たり、元祿十一戊寅年九月六日、山下町より出火して三谷邊まで類燒したり、これ東叡山勅額御到著の日にして、彼額通り過る跡より出火したり、〈◯中略〉兩國橋は元の所に返しかけらるるもの、今の兩國橋なり、
p.0299 天和元年、今年兩國橋、御掛替あり、矢の倉南脇より、本所一ツ目の橋際へ渡る假橋を設く、今爰を元兩國といふ、十五年の後、元祿九年に今の所へ經營あり、
p.0299 元祿元年九月廿四日、今度出來候兩國橋、明後廿六日より往還可レ仕之事、 一只今迄有レ之候假橋、明後廿六日より往還無用之事、 九月廿四日 兩國橋、寛文元丑年迄ニ初而出來、天和元酉年、右之橋掛直御普請ニ付、谷御藏脇より本所竪川入口江假橋相掛候處、御普請御材木出來申候ニ付、御普請相止、右假橋ニ而當年迄十六年致二往來一候處、當三月より元場所江御普請御取掛り、橋出來當月より往來有レ之、右假橋は御取拂ニ相成候、
p.0300 堀部金丸嘗僦レ舍、居二兩國橋西矢藏巷一、去二本莊一〈◯吉良義央居所〉爲レ近、以レ故約レ衆來過與倶、〈◯中略〉於レ是良雄等四十七人、〈◯中略〉畢來會二兩國橋上一、衆皆衷レ甲以レ葦、夾レ䥐在レ頭、襲二韋短服一、各杖二短槍一代レ棍、如二往救レ火者状一、〈◯下略〉
p.0300 元祿十六年十一月辛未、滬公邸失レ火、延燒方二十里、兩國橋焚、避レ火者不レ得レ過墮レ水而死者七八百人、
p.0300 元祿十六年十一月廿二日、丑刻江戸大地震、〈(中略)兩國其外橋々落、人多死、〉
p.0300 兩國橋新大橋町奉行支配ニ成事〈◯中略〉 夫子産鄭國の政をとり、其乘輿を以て人を漬渭に渡す、人々を得て盡難き事を難ず、去ば巨川に橋して民人渡る事を得る、正に是仁政之宥なり、我大都會の内にも橋水長なるものをあげて、その由來を尋るに、記すべき事多くあり、先兩國を始、新大橋の事は、享保之頃、御老中大久保佐渡守殿、町奉行坪内能登守を呼給ひ、仰渡れけるが、程なく向後本所奉行支配たるべきよし也ける、程なく亥年〈◯享保四年〉に至て本所奉行の持を止られ、町奉行の持となりたるは、亥の四月四日の事なりとぞ、此月御用番井上河内守殿なり、月番之町奉行大岡越前守を召て、中の間にて左之通り御書付御渡被レ成候とぞ、 兩國橋 新大橋 向後町奉行支配ニ成候條、可レ得二其意一候、 亥四月四日 右御書付、越前守拜見有時、猶亦河内守殿仰られけるは、此度本所奉行之役さし止られ候ニ付、本所處々橋々町方へ附候分は各支配たるべし、兩國橋、新大橋之義は、目立候橋故、御書付にて申達
p.0301 候、其餘は小橋の事故、書付には乘られず候得ども、同様に心得られ候へと有ければ、越前守かしこまつて、旣に本所は一圓私ども支配仕べきの段被二仰渡一候上は、橋の義畏り候所也と、御請申されけるとぞ、
p.0301 享保四亥年 一本所橋數 三拾四ケ所内 兩國橋〈長九拾四間、幅三間半、〉
p.0301 享保十五戌年 一兩國橋古板通り飛々朽損候所、四拾壹ケ所、切込繕致蓋板可レ然旨、戌正月廿七日御内寄合ニ而申上、御入用金壹兩貳歩、銀六匁八分掛り候段申上候處ニ、窺之通可二申付一旨被二仰渡一、翌日道役江申付候事、
p.0301 寶暦十年二月六日、神田旅籠町より出火〈淺草、兩國橋、馬喰町、本町通り、日本橋、江戸橋邊一圓、深川一圓飛火にて燃失、〉
p.0301 江戸兩國橋を、いかにも淺ましき浪人、妻子を具して通りかヽりしが、薩摩芋をうるを見て、小兒あれほしといひてうごかず、さま〴〵にすかしこしらふれどもきかず、止ことを得ずして芋賣者に乞らく、見らるヽごとく也、されども今錢なし、しばし貸給はれ、其うち錢とヽのはヾ、たがはず返すべしといへどもうけがはず、あてもなき人に錢かすべきものかはととりあはねば、せんかたなく泣兒をつれて行過る時、雪踏を直す餌取、さきよりのやうすを見しかば、ひそかに其人をまねきて、あまりにいたはしければ、今有所の錢十字を參らせん、芋をとヽのへ給へ、いつにてもかへし給はんことは御心のまヽ也といふに、浪人とりて押いたヾき、思はぬ情をうくる事なり、されどもこれはかり受たる同前なり、用べからずと返す、餌取吾かヽるものなれば、さのたまふは理なれども、事によるぞかし、たヾ〳〵と勸れどもうけず、橋の欄干によると見
p.0302 えしが、兒を引つかんで水に打入る、妻これはとおどろくを、又足をかきて倶に投入、つヾきてみづからも飛込たり、見る人驚といへども救べきよしなく、忽溺れ死たりとなん、大志ある人にはあらねど、其廉耻賞すべし、悲むべし、
p.0302 今年〈癸未◯文政六年〉梅雨ノ頃、日和續テ炎氣堪ガタキホドナリシガ、土用ニ入リテヨリ雨霖ヲナシ、晝夜陰霽一ナラズ、六月廿一日、増上ノ惠照院普門律師ノモトニ往シニ、大川ノ邊ニ到レバ、川水溢レテ往還ノ道モ殆ンド川中ニ異ナラズ、兩國橋ヲ渡ルニ、川水赤ク、橋下ニ漲落ルサマ急流眼ヲ射ル如シ、橋欄ノ側ニ二人持、或ハ四人持ホドナル石ヲ多ク並ベテ、橋ヲ鎭ムルノ計ヲナス、夫ヨリ増上寺ヘ往タレドモ、歸路心モトナク、八時ノ頃辭シ去リテ又兩國橋ヲ渡ルニ、鎭石ノ外ニ四斗桶ヲ多ク並ベ水ヲタヽヘタリ、是モ鎭ヲ増サン爲ナリ、水勢ハ彌々マサリ、川シモナル大橋ノ中ホド凹ミ傾キタリ、兩國橋モ橋杭ヤヽ動搖スレバ、轎ニ乘テ行クニ舁夫ハ地震ニ歩スルガ如シ、
p.0302 兩國橋納凉 九夏三伏の暑さ凌がたき日、夕暮より友どち誘引して、名にしあふ、隅田川の下流、淺草川に渡したる兩國橋のもとに至れば、東西の岸、茶店のともし火、水に映じて白晝のごとく、打わたす橋の上には、老若男女うち交りて、袖をつらねて行かふ風情、洛陽の四條河原の凉も、これには過じと覺へし、橋の下には屋形船の歌舞遊宴をなし、踊、物眞似、役者聲音、淨瑠璃、世界とは是なるべし、或は花火を上ゲ、流星の空に飛は、さながら螢火のごとく凉しく、やんや〳〵の譽聲は河波に響きておびたヾし、此橋は往昔万治年中初めて懸させたまひ、武藏下總の境なるよし、俗にしたがひ給ひて兩國橋と號たまふとかや、
p.0302 兩國の橋
p.0303 大江戸より本所へわたしたる橋を、兩國の橋とぞよぶ、いにしへこの川よりをちはしもつふさの國なりければ、しかなづけたりとあるひといひき、在五中將〈◯在原業平〉のとほくもきにけるかなとわび給ひしすみだ川は、此かみつ瀬にして、淺草なる大ひざも、このながれよりとりあげ奉りけるとぞ、ふじのねはさらなり、ますかげはなしとよめるつくばの山も、手にとるばかり見ゆ、そこらゆきかふ舟のおほかるは、たヾ柳の葉をこきちらしたるがごとし、夏のころはことに舟あまたつどひて、いと竹の音、川波にひヾきあひて、おそろしきまで聞ゆ、げにひろき都の中にもなぞらふべき所だになく、こよなうにぎはしきわたりになむ、
p.0303 新大橋 兩國の川下 長凡百間餘 元祿六年始てかヽる
p.0303 新大橋 兩國橋より川下の方、濱町より深川六間堀へ架す、長凡百八間あり、此橋は元祿六年癸酉始て是をかけ給ふ、兩國橋の舊名を大橋と云、故に其名によつて新大橋と號らるヽとなり、
p.0303 新大橋は、元祿六年〈◯中略〉に架る、
p.0303 新大橋永代橋之事 元祿十〈◯十、恐六誤、〉年の頃、新大橋懸らるヽ
p.0303 江府新大橋之事 桂昌院殿〈◯將軍徳川綱吉母本庄氏〉は、元卑賤より出給ふといへども、其操正敷御善行勝て計へがたし、〈◯中略〉將軍家〈◯綱吉〉御厄年の事とかや、諸寺諸山の御祈りなどいと悃成けるに、右ニ仍桂昌公より御願の一筋有、御聞屆有て給ひてんやとの御事なりしに、素より綱吉公には御至孝の御志なれば、如何様の御願成とも仰玉へ、叶へ參らせ侍らんとの御答也、時に桂昌公の宣く、餘の願ニハ侍らず、
p.0304 江戸御繁榮に就て、下つさの本所迄も、年に増月を重ねて賑ひはびこり、士農工商爰に住し、江戸本所の通路今に於ては差別なく、偏に江戸と一所の如し、しかるに兩國橋一ツにては、常の通行だに廻り道多くして、諸用差閊る由也、増て非常の折柄には、世人の難義、事に寄ては生死の境にも成なん、今一ツ中央に大橋興立あらば、大ヒ成る世の扶け、是もろ〳〵の御祈にも増りて能き善根ならめ、庶幾は尼が願の一筋聞召開かせ給へとかきくどき仰ければ、綱吉公尤感伏し給ひ、此御願は國土の爲、廣大の御功徳、後世不易の御善根なり、いかでいなみ申さんやと、即時に御催有て、其筋の役人へ仰付られ、忽橋成就す、即今の新大橋是也、實に此功徳萬世に徹りて、桂昌公の寛徳を仰ぎ崇みける、
p.0304 風羅袖日記〈元祿五申年の冬、深川大橋なかばかゝりけるとき、〉 初雪やかけかヽりたるはしのうへ 芭蕉 同じく橋成就せし時 ありがたやいたヾいて踏はしのしも 芭蕉
p.0304 新大橋開基從來之説之事 抑新大橋の濫觴は、憲廟〈◯徳川綱吉〉の御時にや、元祿六酉年五月六日、御城にて町奉行の詰書能勢出雲守を中の間へ御呼なされ、御老中列座にて、被二仰渡一は、濱町水戸殿揚地ゟ深川元町へ新規に大橋可レ被二仰付一候、小普請方懸りに申達置候得共、猶又御評義の上、各懸りに被二仰付一候場所に有レ之候、御材木百七拾本受取て早速御普請申付べく候と也、出雲守御受申上られ、尚又いろ〳〵伺筋の義など申のべらる、其内に水戸殿上地の内に、乙ケ淵といふ有、其外に池も有レ之候間、是をば如何可レ仕候哉と伺はれけるに、何も埋させて地面は平均いたさせ然るべきよし御差圖也、此節普請方懸りには、北條安房守組與力、安藤小左衞門、蜂屋彦大夫、能勢出雲守組與力深澤十大夫、福岡藤
p.0305 右衞門、下役として同心に安房守組より中田平右衞門、長谷川半兵衞、和田金助、野村彌兵衞、大久保彦兵衞、大久保彦右衞門差出ス、 但出雲守組より出役の名前、同心之方舊記切候て相みへず、〈◯中略〉 一享保四亥年、新大橋掛直し新規御普請被二仰付一、此時も町奉行懸りにて、中山出雲守組與力松浦彌次右衞門、山上八大夫、大岡越前守組與力萩野左大夫、福島仁兵衞、奉行下役同心出雲守組青柳儀右衞門、鈴木萩右衞門、吉田清兵衞、越前守組より笹岡善右衞門、町田善助、岡田彌五郞出役せり、此時御老中御懸りには戸田山城守殿也、町奉行兩人江山城守殿より御沙汰有レ之しは二月の事也、同年三月十八日、出雲守方内寄合に、右與力共呼出し出役之儀申渡し、同六月八日に釿始して、同九月廿五日皆出來也、凡晴天八十二日に而御普請成就せり、此時御入用高合て金六千貳拾七兩、大工は喜兵衞、清兵衞、頭取可出來す、本棟梁掛らざるよし、明れば享保五子年二月六日、町奉行を御城へ召され、戸田山城守殿被二仰渡一候には、去年中新大橋掛直し御普請之節、出役の者共骨析出精ニ付、早速出來、一段に思召候、依レ之御褒美被レ下候段、御達には先例之通り、與力四人ヘ白銀五枚ヅヽ、同心六人ヘ同三枚ヅヽ被レ下候、
p.0305 享保四亥年 一本所橋數 三拾四ケ所内 新大橋(○○○) 〈長百八間、幅三間貳尺、〉
p.0305 或人日記抄〈杉田八兵衞なり、伯舅八郞右衞門養父〉 一同年〈◯享保十三年〉九月朔日二日、大風雨にて所々破損あり、築地牛込揚場大水出る、橋々落る、兩國橋、永代橋、新大橋、何れも九月十二日に落候由、近年不レ覺水之由、人々申候、
p.0305 享保十五戌年
p.0306 一新大橋古板之所、飛々朽損百五拾ケ所、蓋板切込致レ繕可レ然旨、戌八月十八日御内寄合ニ而申上、御入用爲レ積、金六兩貳歩、銀拾貳匁三分掛リ候段申上候所、窺之通可二申付一旨被二仰渡一、同日道役江申付候事、
p.0306 文政六年五月十九日より近在出水、大川筋大水、〈◯註略〉兩國橋危く、新大橋は半くぼみたり、
p.0306 文久二年十二月廿四日、新大橋御修覆始る、
p.0306 永代橋 長凡百十間餘 幅三間一尺五寸 元祿九年はじめてかヽる、其以前は深川の大わたしと云て船わたし也、此橋すぐれて高し、富士筑波をはじめ、伊豆、箱根、安房、上總限なく眺望斜ならず、江府第一の大橋也、此所大湊にて鐵炮洲までの間、數百の廻船かヽる、此所にて川幅凡百二十間餘あり、
p.0306 永代橋ハ、永代島ヘ掛レルガ故ノ名ナリ、〈◯中略〉元祿九年、將軍家〈◯徳川綱吉〉五十ノ御賀ニ掛シメ玉フトイフ、其後享保四年大破ニ付、取捨ラルベキヲ、同六年三月、願ニ依テ深川町人共ヘ賜ハリ、爾來永ク斷絶ナシ、
p.0306 元祿中、王詔、於二兩國橋下流一、更造二二橋一、一曰二新大橋一、在二兩國橋南里餘一、二曰二永代橋(○○○)一、在二新大橋南里餘港口一、橋之東南(○○○○)、曰(○)二永代洲(○○○)一、故名也(○○○)、舊以レ舟渡二行人一、二橋成而民甚便レ之、
p.0306 新大橋永代橋之事 元祿十一年中、永代橋かけらるヽ、この時老中阿部豐後守正武、河村瑞軒に申さるヽは、ありがたき御仁政にてはなきか、萬民通路のため公儀御失却夥敷をも御厭ひなく、大橋二箇所までかけられ候、何と大水の時分などいたみはあるまじきやと被レ申時、瑞軒答へ候は、されば大水の時は川上田地四萬石ばかりは極ていたみ申べしと答へしが、果して寶永元年利根川筋洪水のみぎ
p.0307 り、葛西の猿ケ俣等あふれて、千壽葛西領かけて、この川に四萬石餘皆無したりし也、
p.0307 永代橋新大橋之内、御取拂被二仰出一候事、并永代橋町人共願ひに付、町懸りになる事(○○○○○○○)、 新大橋掛直し御普請被二仰付一たる同年、〈◯享保四年〉永代橋も同く大破に及びければ、町奉行見分の上、書付を以て言上、其文面にいはく、 一永代橋、新大橋共見分仕候處、大破ニ而御普請無二御座一候ては相成難く、御修覆には難レ成奉レ存候、 一永代ばし新大橋、總じて橋杭は水際よりくさり、其外諸道具共打損じ、往來危キ體に相見へ申候、 一永代橋は新大橋より橋も高く、木道具も丈夫に御座候間、御普請被二仰付一候節、新大橋よりは御入用も過半相増可レ申と存候、以上、 亥ノ三月 中山出雲守 大岡越前守 丸毛美濃守 鈴木伊兵衞 右之上書、御老中方御一覽之上、再三御評議をこらされける、御上如何ニ決斷御座候にや、永代橋新大橋の内、壹箇所取拂に被二仰付一候由、町奉行、御勘定奉行、御勘定吟味役等打寄評議これあり候て、猶亦上書を捧ぐ、 覺 一永代ばし新大はし兩橋の内、壹箇所取はらひに被レ成候義、見分之上了簡仕候處、永代ばし御取はらひ、新大はしは差被レ置可レ然と奉レ存候、新大はしは本所中ほどにて御座候、火事等之節兩國
p.0308 ばし往來障り候節、自由よろしく可レ有二御座一候、永代ばしは新大はしよりも往來多く相見へ候得共、御取はらひに罷成候て、新大はしの方往來可レ仕間、差障は御座なくと奉レ存候、以上、 亥ノ四月 中山出雲守 大岡越前守 丸毛美濃守 鈴木伊兵衞 諸役人の評議右のごとく、然らばとて永代橋御取はらひの趣、決定仰出されけるにぞ、深川筋の町人どもは申に及ばず、江戸にても彼も是も最寄の者共大きに驚き、愁訴の告文を月番の町奉行所へ捧しかば、兩町奉行も尤左こそと聞取て、頓て御老中方へ言上に及ける、〈◯中略〉御老中方にもいろ〳〵評議有レ之、同十日詰番大岡越前守を召て、山城守殿、佐渡守殿御列座にて、町人共願之通り、永代橋被二下置一段を、佐渡守殿被二仰渡一けるに依て、翌十一日、越前守役所へ町人共呼出し、出雲守一座にて、其旨申渡しける、町人共先達而差上候願書左のごとし、 乍レ恐以二書付一御訴訟奉二申上一候 一深川町々總町人共申上候、永代橋大損仕候ニ付、御修覆之義奉二願上一候處、右はし近々御取はらひに被レ遊候旨被二仰渡一奉二驚入一候、當所の義ハ、御當地湊にて、江戸諸國商人日々入込、往來仕候處、右橋御取はらひ被レ遊、はし斷絶仕、船渡ニ罷成候得バ、深川中は不レ及二申ニ一、江戸町々之者ども平生往來、殊に風雨滿水の節は難義ニ罷成、其上急火の節ハ、立退候男女諸人ひしと難義仕候ニ付、乍レ恐私ども奉レ願候ハ、御慈悲を以て只今迄の有來候古橋、其儘被レ爲二差置一被レ下候ハヾ、右橋之義、永々深川町々、并江戸町申合、斷絶無レ之様可レ仕候間、御慈悲を以て被二聞召分一、諸人の御救ひに、奉レ願候通り、其儘被二差置一被レ下候ハヾ難レ有奉レ存候、以上、
p.0309 深川 享保六巳〈◯六巳二誤字恐一〉年三月 總町人共 御奉行所様
p.0309 八月〈◯文化四年〉十五日、深川八幡三十四年目祭禮ニ而、殊に今年は見延山尊像、同所淨心寺ニ而開帳有レ之、依て其賑ひいはんかたなし、〈◯中略〉しかるに十五日は雨降り、十九日に相成、當朝神輿三社、第一は八幡宮、第二は大神宮、第三は春日宮となり、外之祭禮は跡より神行なり、深川は橋々の往來群集につき、早朝より神輿渡候古例のよしにて、旣に當朝輿舁百人ほどづヽにて揚候處、いか成事にや、三神とも動かず、輿より水のたるヽ事汗の如しとかや、〈◯中略〉四ツ時過群集をなし、やれ橋が落る、それ橋が落るといへども、人々更に不レ入レ聞、折節本所しゆもく橋邊にて、十七八歳の女首を切落され候由にて、是へ參る人に、祭の人一ぱいに相成、折から橋向へ一番のだしを引出せしを、それ祭が渡ると云程こそあれ、エイ〳〵聲にて、又向にはかさなる人にて、鐵棒をふり廻し打はらへば、橋の上へ逃上り、此方からは押かヽり候、折ふし東の橋詰より一ト間殘し、竪十二間ほど二ツ折て落けるにぞ、又跡より押落し候人幾ばくの由、やれ橋が落た〳〵と呼はれども、僞とのみ心得しにや、却て押もあり、又中程が落しとこヽろへ、東をさしてにぐるもあり、又此騷動にそこばくの怪我ありとかや、然るに或士橋桁にしがみつき、刀をぬき振回しけるを見て、夫喧嘩じや、やれ拔たはと云程こそあれ、人々西をさして逃歸る、此仁に助られし人いくばくか知れずとなり、誠に即智の働き、萬人の命にありとぞ聞へし、〈◯中略〉 人數大積り橋竪十二間、巾四間程、此坪數四十八坪、但一坪老若二十人詰、凡九百六十人、此目方九千六百貫目程、但壹人十貫目平均、外ニ落され候人不レ知と也、 早速川中の船御用船に御引上げ、流るヽ人御助ありて、怪我人は十が一にも及ばずと、是御威光
p.0310 の難レ有所なりと、人々感涙せしとぞ、〈◯又見二甲子夜話一〉
p.0310 川岸に出しばしがほどやすらひて、橋を見わたしたるに、人のこみ合眞黒く、其中に幟、あげごし、かさぼこのかず〳〵、はやしたてヽわたる、何も見事の祭にて、見物のぐんじゆ左こそと思はるれ、やがて小船を呼かけて乘つ漕出て見るに橋の杭のことにゆがみたるあり、其ひずみかうらんに見えたる、あやふき事よと見あげたるに、ねりゆくも此祭ばかりにて、橋の左右に立居たるぐんじゆ、一同にこの跡につきて、深川の方へわたらんとすなれば、西の方は人すくなく、まばらに見えし、旣に川の中ばにも乘たらんと思ふほど、跡の方にて大ぜいの人聲すさまじく聞えければ、驚ふりかへり見るに、めり〳〵とひヾきて、さしも大きなる橋げた、たわみくぼむと見しが、中九尺ばかり板のあきたる處より落入る人々、千石どほうしへ米の落入がことく、あまたのぐんじゆ左右より落かさなり、しばしはくがぢの如く、人のうへに人かさなりて、水に落入さま、見るもいたましく、其聲耳もつぶるヽ計也、岸に有つる舟はみな漕出て、引上げ〳〵、又板子をなげ出し〳〵、是に取つき流るヽを引上げ助るもあり、〈◯中略〉さてはじめの程引上し男女、死に及ぶべきも見えず浮出たるを、皆引上しは、四ツ半頃なりしが、其後追々に浮出しは、皆氣絶してありしを、引上々々おびたヾしき事ゆゑ、男女をわかち、老人小兒をも所をかへならべ置しを、ゆかりの人々尋あたりしは、さま〴〵に介抱し、又は連行も多かりし、其日は大橋もゆきヽをとヾめ、兩國橋のみ渡る事なれば、夜に入ても挑灯のゆきヽ夜半ともしられず、翌廿日には橋近き佐賀町に、假の役所御しつらひ、月番與力衆御詰、御撿使もとく濟て御引渡被レ成候趣を、町中御觸も有し程也、當日より其夜に至ても尋あたりて連行しは數しらず、訴て引取し分は、其名處もとヾめし事とて、其分男女小兒とも四百廿餘人と聞えし、〈◯下略〉
p.0310 一御觸書之寫
p.0311 當月〈◯文化四年八月〉十九日、深川八幡祭禮之節、永代橋損所出來參り懸り候者、多人數水中江落入、怪我人又は相果候者多有レ之由、右ニ付怪キ町家之者共引受、又は取片付ニも致二難義一、存命にて引取候分も、療治手當不二行屆一、難義之者有レ之候はヾ町役人共無二油斷一相糺、町會所へ可二申出一候、糺之上相當之御手當可レ被レ下様、右之趣御沙汰ニ而、早々可二相觸一候、以上、 卯八月 一可レ稼當人水死いたし候へば 鳥目五貫文 家族之内水死いたし候へば 鳥目三貫文(壹人ニ付) 但二人以上は、壹人ニ付壹貫五百文宛相増候積、 可レ稼當人怪我いたし候へば 鳥目三貫文 家族之内怪我いたし候へば 鳥目壹貫文(壹人ニ付) 但二人以上、壹人ニ付五百文ヅヽ相増候積リ、 一八月十九日、永代橋損所出來、落入水死又は怪我いたし候者之内、困窮難義の者共江町會所より御手當被レ下候分、左之通、 錢三百六拾四貫五百文 此金五拾四兩貳分、銀貳匁三分壹厘九毛、但〈金壹兩ニ付錢六貫八百八十文替〉 人數五拾六人 口數三十六口 内 可レ稼當人水死 拾八人 同怪我 五人 家族之内水死 二十三人
p.0312 同怪我 拾人 右之通ニ候 一永代橋損落候節水死いたし、引取人江引渡候物の、并引受歸り候後相果候者姓名、 松平薩摩守中間 余八〈卯三十五才◯以下人名略〉 右人數高百三十人 町内江引取候後相果候者 靈岸島鹽町又右衞店佐七娘 いく〈卯六才〉 かう〈卯三才◯以下人名略〉 右人數高拾四人 右之人數は町方撿使を請候分也、十九日夜八時迄は撿使なくして、番付に引取候者にわたし候よし、夜に入りて盜賊共僞名を以て引取、衣類を奪ひ候様なる風説有レ之、無レ據撿使にて姓名を改候由、依レ之人數之風説まち〳〵にして一同ならず、傳聞の儘記す所左の如し、 一十九日夕、永代橋際にて死骸に札付候番付をみしに、百九十四と有レ之、 一一説に 存命 三百四十人 溺死 四百四拾人 助船 百四拾四艘 助人數 七百四十五人 右町奉行より御老中江御屆之寫と有レ之、未レ詳、 一一説根岸家ニ而寫せしと云書付 是異説也 永代橋水死人 七百三拾二人 内 武士 八十六人 町人 四百二十四人
p.0313 女 百五人 子供男女 七十六人 半死半生之者 二百人 死骸引取手無レ之者 拾壹人 腰物取殘し 二百三十六腰 〆九百四十七人 外凡百三十人程死骸無レ之分 一八月廿日晝、町奉行之御屆をみしといふ書付には、 三百九十一人 一八月十九日より六日目之御屆五百貳人 一一説に即死二百十九人 内〈百三十人、八月廿日朝撿使請候分、八十九人、八月十九日引取候分、〉 此外佃島にて引上しも少からず、二日三日過て羽田沖、また角田川、油堀邊ゟも死骸浮上り候由、
p.0313 永代橋崩る 文化四年丁卯八月廿九日、深川八幡祭禮の日、朝四つ時比、貴重の御船永代橋の下を通るとて、空船なれども橋番人、繩を橋のきはに引き張りて人を留めけるに、珍らしき祭禮ゆゑ、千家萬戸見ざるはなく、時刻は四つ時、人の出盛りなりしに、大方は皆此永代橋にかヽるゆゑ、一條のなは幾百人を止めし事半時あまり、まちくたびれたる時、それ通れとて繩を引くを見て、數百人の駈け通る足の力、體の重み、數萬斤の物をまろばすが如くなりし故、細き長橋いかでかたまるべき、橋の眞中より深川の方へ十間計りの所を、三間あまり、踏み崩しければ、いかでか落ちざらん、跡の者はかくとはしらず、おしゆくゆゑ、おされて跡へすさる事ならず、横へひらく道なき橋の上なれば、夢のやうに入水したるもの多かるべし、此時一人の武士刀を拔きて高くひらめかしければ、是を見て跡へ逃げ歸りて道を開きたり、〈◯註略〉此一刀にて多くの人を助けしとぞ、此事世上に
p.0314 てほめけるが、其名をいふ人なかりしを、今年まで四十年、其人をしらざりしに、今年の晩春、幽篁庵の席上、話此事におよび、おのれが見たる所を語りしに、〈見たるとハ、はしのおちし時、かけ行きて見たるはなし、〉御主人〈久松五十之助〉曰、一刀をふりしは南町奉行組同心、渡邊小右衞門と云ひし半老の人なりと聞きて、其時にあひて四十年しらざりしを發明して耳を新にせり、此人なくんば、なほいく人が溺死せん、無量の善根といふべし、
p.0314 深川の八幡のやしろのまつりある日、おほくの人みにいきけり、二つ三つばかりの子をいだきて、母の行きたるが、大なるはしあり、わたらんとすれば、その子のひたなきになきてやまず、橋をわたらじとかへればなきやみつ、いかにしつることよとて、さま〴〵にすれどはじめにかはらず、まづさらばこヽらにいこふべしとて、はしのかたはらにゐたるが、しばしヽてはしのうへのひとさわぎたちて、聲のかぎりによびつヽあわてふためきにげまどふ、いかなることヽもわかずよくきけば、そのはしの半よりおちて、わたりかヽりし人千人許もおちしとなり、それをきくよりかの母も、おぼえずなみだおちてけり、いかにしてこの子のしりつらん、神佛のたすけ給ひしなりとて、ふしをがみつヽいそぎかへりにけり、その子のみかはその母もしりたれども、たヾ私の心におほはれててらし得ぬなりけり、もとよりそのわざはひにあふものは、おもてにもあふれて、そのあしき色をあらはすべければ、心のかヾみははやてらしけんをしらざりしなり、
p.0314 安政三年八月廿三日、微雨、廿四日廿五日續て微雨、廿五日暮て、次第に降しきり、南風烈しく戌の下刻より殊に甚しく、近來稀なる大風雨にて、〈◯中略〉永代橋大船流當りて、半ば崩れたり、
p.0314 まヽのつぎはし 下總(○○)、又近江、上總、
p.0315 下總國 眞間浦(ママノウラ)〈繼橋、在二葛飾郡一、〉
p.0315 眞間の橋を繼橋といふ、繼をまヽとよむゆゑなるべし、
p.0315 下總國葛飾郡の内 眞間の繼橋 大門の松並木を入て少の川にかヽる、わたり四五間ばかり、かたはらに鈴木何某が立る碑あり、
p.0315 眞間の入江 繼橋あり、勝鹿よりちかし、
p.0315 眞間繼橋 弘法寺の大門石階の下、南の方の小川に架す所の、ふたつの橋の中なる小橋をさしていへり、〈或人いふ、古へは兩岸より板をもて中梁にて、打かけたる故に、繼はしとはいふなりと、さもあるべきにや、〉
p.0315 安能於登世受(アノオトセズ)、由可牟古馬母我(ユカムコマモガ)、可都思加乃(カツシカノ)、麻末乃都藝波思(マヽノツギハシ)、夜麻受可欲波牟(ヤマズカヨハム)、 右四首〈◯三首略〉下總國家
p.0315 まヽの繼橋のわたり、中山の法華堂の本妙寺に一宿して、翌日一折などありしかど、發句計を所望にまかせて、 杉の葉やあらしの後の夜はの雪
p.0315 眞間入江ハ行徳ヨリ船橋カケテ、或ハ蒹葭ノ沼トナリ、或ハ水耕ノ田トナリテ、イツシカ浦輪遠ザカリ行ク、眞間ノ井、繼橋、手兒名ノ墓モ形バカリゾ殘リケル、
p.0315 平將門發二謀反一被レ誅語第一 今昔、朱雀院ノ御時ニ、東國ニ平將門ト云兵有ケリ〈◯中略〉王城ヲ下總ノ國ノ南ノ亭ニ可レ建キ議ヲ成ス、亦磯津ノ橋ヲ京ノ山崎ノ橋トシ、相馬ノ郡ノ大井津ヲ京ノ大津トス、
p.0315 勢田橋〈セタノハシ〉
p.0315 大橋 近江〈勢多〉
p.0316 近江國 勢田〈長橋渡〉
p.0316 東路大橋 勢多〈江州〉
p.0316 三大橋〈◯中略〉 勢田橋 江州湖水ニ渡ス
p.0316 勢多韓橋(○○○○)〈又作二辛橋一、釋書、作二瀬田一、江州栗太郡、傳云、往古架レ橋之處、在二石山麓身投石傍一、今按、土俗孟浪乎、其地則新拾遺所レ謂夢浮橋遺趾也、〉
p.0316 西近江分 勢多 長橋とも、唐橋とも、粟津の南也、橋は西へかけたり、
p.0316 勢多長橋 〈せたの唐橋共〉あはづの南也、橋は東西へかヽれり、〈長百九十六間〉橋上より南に石山寺みゆる、是より湖上の浦々を見渡す景無雙也、
p.0316 勢田橋 志賀郡栗太郡の堺なり、小橋長サ二十三間、大橋長サ九十六間、中島あり、高欄葱寶珠は造替毎の年號を鐫す、〈◯中略〉一名青柳橋(○○○○○)和歌には勢田長橋、或はから橋、とヾろきの橋とも詠り、〈◯中略〉抑此橋は帝城の要涯にして、古來騷擾の時、引事たび〳〵なり、〈◯中略〉或記に曰、唐人此橋を通る時、外國にも又比類なし、小國には過分なりと賞して、廣輿記に書記しけるといひ傳ふ、 勢田夕照 沙島風帆帶二夕陽一、夕陽人影與レ橋長、勢田曝レ網東山月、一色江天兩景光、
p.0316 勢田橋 大橋〈長九十七間、幅七間、〉小橋〈長廿七間、幅四間、〉中島の間〈十五間、合長百九十六間、〉志賀栗太の境に跨る、〈長橋、唐橋、又とゞろきのはしともいふ、大和に同名あり、〉近江國中の水こと〴〵く湖に入て、其末流爰に聚り、宇治川を經て淀川に入る、橋の濫觴未レ詳、
p.0316 一所々橋料ノ事 五千石 江州瀬田ノ橋料 瀬田ノ〈大橋ハ長九十六間、小橋ハ長三十六間、〉
p.0317 元年七月辛亥、男依等到二瀬田一、時大友皇子、及群臣等、共營二於橋西一、而大成レ陣、不レ見二其後一、旗幟蔽レ野、埃塵連レ天、鉦鼓之聲聞二數十里一、列レ弩亂發、矢下如レ雨、其將智尊率二精兵一、以二先鋒一距之、仍切二斷橋中一、須レ容二三丈一、置二一長板一、設有二蹋レ板度者一、乃引レ板將レ墮、是以不レ得二進襲一、於レ是有二勇敢士一、曰二大分君稚臣一、則棄二長矛一、以重二擐甲一、拔レ刀急踏レ板度レ之、便斷二著レ板綱一、以被レ矢入レ陣、衆悉亂而散走之不レ可レ禁、將軍智尊、拔レ刀斬二退者一、而不レ能レ止、因以斬二智尊於橋邊一、則大友皇子、左右大臣等、僅身免以逃之、
p.0317 天平寶字八年九月壬子、軍士石村村主石楯斬二押勝一、傳二首京師一、〈◯中略〉時道鏡常侍二禁掖一、甚被二寵愛一、押勝患レ之、懷不二自安一、〈◯中略〉遂起レ兵反、其夜相二招黨與一、遁レ自二宇治一、奔據二近江一、山背守日下部子麻呂、衞門少尉佐伯伊多智等、直取二田原道一、先至二近江一、燒二勢多橋一、押勝見レ之失レ色、即便走二高島郡一、而宿二前少領角家足之宅一、
p.0317 延暦四年七月庚戌、刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒、〈◯中略〉時惠美仲麻呂、適レ自二宇治一走據二近江一、先遣二使者一調二發兵馬一、三船在二勢多一、與二使判官佐伯宿禰三野一、共捉二縛賊使及同惡之徒一、尋將軍日下部宿禰子麻呂、佐伯宿禰伊達等、率二數百騎一而至、燒二斷勢多橋一、以レ故賊不レ得レ渡レ江、奔二高島郡一、以レ功授二正五位上勳三等一、叙二近江介一、
p.0317 貞觀十一年十二月四日丁亥、近江國勢多橋火、
p.0317 貞觀十三年四月四日庚辰、近江國勢多橋火、
p.0317 貞觀十八年十一月三日丙子、近江國勢多橋三間破絶、
p.0317 三井寺合戰并當寺撞鐘事附俵藤太事 承平ノ比、俵藤太秀郷ト云者有ケリ、或時此秀郷只一人勢多ノ橋ヲ渡ケルニ、長二十丈許ナル大蛇、橋ノ上ニ横テ伏タリ、兩ノ眼ハ耀テ天ニ二ツノ日ヲ掛タルガ如シ、雙ベル角尖ニシテ冬枯ノ森ノ梢ニ不レ異、鐵ノ牙上下ニ生チガフテ、紅ノ舌炎ヲ吐カト怪マル、若尋常ノ人是ヲ見バ、目モク
p.0318 レ魂消テ、則地ニモ倒ツベシ、サレドモ秀郷天下第一ノ大剛ノ者也ケレバ、更ニ一念モ不二動ゼ一シテ、彼大蛇ノ背ノ上ヲ荒カニ踏テ、閑ニ上ヲゾ越タリケル、然レ共大蛇モ敢テ不レ驚、秀郷モ後ロヲ不レ顧シテ遙ニ行隔タリケル處ニ、怪ゲナル小男一人、忽然トシテ秀郷ガ前ニ來テ云ケルハ、我此橋ノ下ニ住事、已ニ二千餘年也、貴賤往來ノ人ヲ量リ見ルニ、今御邊程ニ剛ナル人未レ見、我ニ年來地ヲ爭フ敵有テ、動バ彼ガ爲ニ被レ惱、可レ然バ御邊我敵ヲ討テタビ候ヘト、懇ニコソ語ヒケレ、〈◯下略〉
p.0318 天祿元年、大嘗會悠紀方屏風の歌、近江國勢多の橋をよめる、 兼盛 みつぎものたえずそなふる東路のせたの長はし音もとヾろに
p.0318 家集 兼盛 あはづのヽあはですぐるはせたのはしこひてわたれと思ふなるべし 此歌はするがのかみに成て下けるに、あはづといふ所にやどりたるに、惠慶法師とひて侍返事と云々、
p.0318 我ゐていきてみせよ、いふやうありとおほせられければ、かしこくおそろしく思ひけれど、さるべきにや有けむ、おひ奉りてくだるに、びんなく人をひてくらんとおもひて、その夜せたのはしのもとに、此宮をすへたてまつりせたのはしを、ひとまばかりこぼちて、それをとびこして、このみやをかきおひ奉りて、七日七夜といふに、むさしの國にいきつきけり、〈◯中略〉みづ海のおもてはる〴〵として、なでしま、竹生島などいふ所のみえたる、いとおもしろし、せたのはしみなくづれて、わたりわづらふ、
p.0318 晴明、大舍人ニテ、笠ヲキテ勢多橋ヲユクニ、慈光コレヲミテ、一道ノ達者ナラムズル事ヲシリテ、ソノヨシヲイヒケレバ、〈◯下略〉
p.0318 萬壽元年十一月廿三日丁未、是日、近江國勢田橋燒亡、
p.0319 公卿勅使進發并路次儀 使歸二宿所一、改二裝束一〈衣冠〉騎レ馬、到二白河一修レ禊、〈◯註略〉事了就レ路、〈御幣神寶御馬使使公卿使共人〉出二會坂關一、近江國砥承到二勢多驛一、〈國分寺前勢多橋不レ下レ馬〉國司差二供給一、
p.0319 承暦元年六月廿八日甲午、今日有二伊勢臨時奉幣事一、〈◯中略〉亥刻著二勢多驛一、〈(中略)今日途中、雖レ經二國分寺前勢多橋等一不レ下、是先例也、〉
p.0319 橋 權中納言匡房 まきの板も苔むすばかり成にけり幾代か經ぬる瀬田の長橋〈◯又見二新古今和歌集一〉
p.0319 安元三年〈◯治承元年〉九月六日壬子、今日〈◯中略〉使清遠示二驛家〈近江〉并勢多橋事等於左少辨一了、則有二返事一、
p.0319 重衡關下向附長光寺事 十日〈◯元暦元年三月〉本三位中將重衡卿ハ、兵衞佐〈◯源頼朝〉依レ被二申請一、梶原平三景時ニ相具シテ關東ヘ下向、〈◯中略〉勢多唐橋、野路宿、篠原塘、鳴橋、霞ニ陰ル鏡山、麓ノ宿ニゾ著給フ、
p.0319 内大臣關東下向附池田宿遊君事 關山關寺打過ギテ、大津ノ打出ノ浦ニ出テヌレバ、粟津原トゾ聞キ給フ、〈◯中略〉湖水遙ニ見渡セバ、跡定ナキ蜑小舟、世ニ憂キ我身ニタグヒツヽ、勢多ノ長橋轟々ト打渡シ、野路ノ野原ヲ分行キテ、野洲ノ河原ニ出デニケリ、
p.0319 文治三年四月廿四日乙未、左少辨親雅申二齋宮群行之間事一、勢多橋於レ今者不レ可レ叶、先例自二前年一有二沙汰一猶難レ叶、況國土凋弊之時、更不レ可レ叶、天治例以二御船一有二渡御一今度如何、可レ渡二浮橋一歟、仰云、天治例於二此條一者強不レ可レ被二急避一歟、但浮橋事、無レ煩無レ危者、又何事之有哉、
p.0319 文治三年十月七日甲戌、右武衞〈◯源頼朝〉飛脚參著、去月十九日、齋宮群行也、而勢多橋破損之
p.0320 間、爲二佐々木定綱奉行一、以レ船奉レ渡二湖海一之處、延暦寺所司等、相二交雜人之中一、依レ現二狼籍一、定綱郞從、相從相咎間、不レ圖起二鬪亂一及二殺害一、〈◯下略〉
p.0320 建久六年三月四日、己丑將軍家〈◯源頼朝〉出二江州鏡驛一、前二羈路鞍馬一給、爰台嶺衆徒等、降二于勢多橋邊一奉レ見レ之、頗可レ謂二橋前途一歟、將軍家安二御駕橋東一、可レ有レ禮否思召煩、頃之召二小鹿島橘次公業一、遣二衆徙中一被レ仰二子細一矣、公業跪二衆徒前一申云、鎌倉將軍、爲二東大寺供養結縁一上洛之處、各群集依二何事一哉、尤恐思給侍、但武將之法、於二如レ此所一無二下馬之禮一、仍乍レ乘可二罷通一、敢莫レ被レ咎レ之者、不レ聞二食返答一之以前、令二打過一給至二衆徒前一取二直弓一聊氣色、于レ時各平伏云々、
p.0320 六月〈◯承久三年〉十二日、海道の大將さがみのかみ時房、せたのはしちかくをしよせ、野路にぢんをとりたまふ、はやりをの兵ども河ばたにをしよせみれば、橋いた二けん引おとし、かいだてかきて山田次郞を大將として、山法し少々ぢんをとりたり、さがみのかみの手のもの、はしみの太郞、さヾめの二郞、はや川三郞以下、はしづめにをしよせてたヽかひけるが、かたきにてしげくいしらまされて引しりぞく、二ばんに江戸の八郞、あだちの三郞、さぬきの太郞三人、けたをわたりてむかひにつかんとしけるが、あまりにつよくいられて二人は引しりぞく、あだち三郞はよろひよかりければ、しばしさヽへてゐたりしかども、てしげくいるほどに、これもこらへかねて引しりぞく、三ばんにむら山とう八人、けたをわたりけるが、それもいしらまされて引しりぞく、四ばんに廿人つれたる兵、はしげたをわたりて、かいだてのきはまでせめよせたり、かたきさしづめ引つめいけれども物ともせず、その中にくまがへ平内左衞門、くめのさこん、いはせのさこん、同五郞兵へ、こえづかの平太郞、よしみの十郞、しそくの小次郞、ひろた小次郞、たちをぬひて三のかいだてをきりやぶつて、しころをかたぶけせめよするを見て、山法し一たヾかひもせず、さつと引てのきにける、
p.0321 承久三年六月十三日丙寅、相州〈◯北條時房〉先向二勢多一之處、曳二橋之中二箇間一、並レ楯調レ鏃、官軍并叡岳惡僧、列立招二東士一、仍挑戰爭レ威云云、
p.0321 承久三年〈辛巳〉 齋宮熙子内親王〈(中略)八月廿一日御歸京、〈鈴鹿道〉葦代輿、以二力者法師一仕之、頭以下淨衣、於二勢多橋東爪一在二御祓一、〉
p.0321 四月〈◯貞應二年〉四日の曉、都出し朝よりも雨にあひて、勢田の橋のこなたにしばらくとまりて、あまじたくしてゆく、けふあすともしらぬ老人をひとり思ひ置てゆけば、 おもひをく人にあふみのちぎりあらば今かへりこん勢田のなが橋
p.0321 曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が比叡山にて、此海を望つヽよめりけん歌おもひ出られて、漕行舟のあとのしら波、誠にはかなく心ぼそし、 世中を漕行舟によそへつヽながめし跡を又ぞながむる
p.0321 俊基朝臣再關東下向事 駒モトヾロト踏ミ鳴ス、勢多ノ長橋打チ渡リ、行キカフ人ニ近江路ヤ、世ノウネノ野ニ鳴ク鶴モ、子ヲ思フカト哀ナリ、
p.0321 佐々木信胤成二宮方一事 土佐守伊勢國ノ守護ニ成テ下向シケルガ、〈◯中略〉勢多ノ橋ヲ打渡レバ、衣手ノ田上河ノ朝風ニ、比良ノ峯ワタシ吹來テ、輿ノ簾ヲ吹揚タリ、出絹ノ中ヲ見入タレバ、年ノ程八十計ナル古尼ノ、額ニハ皺ノミヨリテ、口ニハ齒一モナキガ、腰二重ニ曲テゾ乘タリケル、土佐守驚テ、〈◯中略〉尼ヲバ勢多ノ橋爪ニ打捨テ、空輿ヲ舁返シテ、又京ヘゾ上リケル、
p.0321 山上の敵退せざる間、九月中旬〈◯建武三年〉に小笠原信濃守貞宗甲斐、信濃兩國の一族并軍
p.0322 勢を卒して三千餘騎、東山道より近江國へ打出て、瀬田近くすヽむ所に、山徒等橋を引間、野路邊へ陣をとりたりけるに、新田脇屋を大將として、湖水を渡して散々に合戰いたしけれども貞宗打勝たり、
p.0322 貞和六年十二月五日、江州御敵儀、峨高山寄二來勢多邊御方陣一〈守護佐々木判官舍弟五郞右衞門〉之間、一合戰之後守護畢、退散之間、自二敵方一勢田橋燒落云々、
p.0322 應永卅一の年極月の十日あまりよつと申に、室町殿〈◯足利義量〉伊勢御參宮あり、〈◯中略〉勢田の橋はほどなく雲はれて、さだかに見えわたさるヽほどなり、 風わたる跡よりやがて雲はれて浪に横ぎる瀬田の長橋
p.0322 勢田のはし渡り侍るとて あふみ路や勢田の長橋日もながしいそがでわたれ春の旅人
p.0322 文安三年丙寅夏、江州大水出、瀬田橋落、 五年戊辰五月九日、大雨長降、天下大水、損破多、此年又瀬田橋落、
p.0322 板島殿之事 一板島丸串城主は、西園寺公廣卿御連枝、宣久公なり、〈◯中略〉伊勢參詣の時、海陸の記あり、口は切て鞆〈◯備後國〉より有、〈◯中略〉於二勢田橋一、 世の中をわたる心は近江なる勢田の橋さへかぎりもぞある
p.0322 天正三年十月十二日、勢田の橋出來申に付て、何レ被レ成二御一見一爲、陸を御上京事も、生便敷橋の次第也、各被レ驚二耳目一候、
p.0322 天正七年十一月三日、信長公御上洛、其日瀬田橋御茶屋に御泊、御番衆御祗候之御衆へ、しろの御鷹見せさせられ、次日御出京、
p.0323 天正十年六月二日、〈◯二日、大閤記作二四日一、恐非〉明智日向、〈◯光秀、中略、〉其日京より、直に勢田へ打越、山岡美作、山岡對馬、兄弟人質出し、明智と同心仕候へと申候之處、信長公之御厚恩不レ淺忝之間、申二同心申間敷之由一候て、勢田の橋を燒落、山岡兄弟居城に火を懸、山中へ引退候、爰に而手を失ひ、勢田之橋づめに足がヽりを拵、人數入置、明智日向坂本へ打歸候、〈◯又見二太閤記一〉
p.0323 勢多橋、織田軍記ニ據レバ、天正三年掛ラレシハ、廣四間、長百八十間ナリ、國初ノ諸記ニ據レバ、何レモ小橋三十六間、大橋九十六間、今ノ間數ト符合ス、昔ハ今ノ處ヨリ南ノ方ニカカリテ、一條ノ長橋ナリケリトイフ、中島十五間ヲカタドリテ、大小二條トナルコトハ、天正以後ト知ベシ、〈◯中略〉此橋ハ志賀、栗田兩郡ノ界ナリ、
p.0323 勢田 勢田は古戰場なり、承久の役には皇輿の敗績して、外に蒙塵ありしことをかなしみ、孝謙の御宇には内相が奔らんとするに橋絶て、高島にて亡し事をよろこぶ、是のみならず、日本紀を見れば、天智帝崩御、〈◯中略〉大弟〈◯天武〉吉野より潜に出て、〈◯中略〉皇子〈◯弘文〉の兵と戰勝て、近江の瀬田まで責のぼり給ふ、皇子みづから此橋の邊に陣をとつて合戰ありしが、大弟の兵かつにのりて、皇子敗北して、竹中に入て伯林雉經の跡をふめり、大弟は清見原天皇是なり、壬申の亂とは此時の事をいふなり、〈◯中略〉 勝敗興亡憂更憂、千年人事落二棊楸一、積骸爲レ橋血爲レ水、都入二勢多橋下流一、
p.0323 勢田の大橋九十六けんに、小橋のながさ三十六間なり、〈◯中略〉古しへより東國の軍兵の都にせめのぼるをふせぐには、かならず宇治と勢田との橋を引て相まつとは申せど、前陣して渡しける事もたび〳〵なりとかや、
p.0323 再遊紀行
p.0324 勢多橋〈勢多又作二瀬田一、瀬田和訓與二勢多音一似、故通用、〉 望二指長橋一到二瀬田一、青龍臥レ浪素商天、秀卿用レ力異二周處一、却爲二蛟蛇一射二馬蚿一、
p.0324 池大雅〈附妻玉瀾〉 大雅池氏〈◯中略〉漢法の山水を畫はじめたるころ、扇に圖して自携へ、近江、美濃、尾張の國々に售んとす、人多怪て買者なし、於レ是むなしく京へ歸らんとて、瀬田の橋をわたる時、其扇を出しことごとく湖水に投じて曰、是をもて龍王を祭ると、後いくほどなく書畫の名海内に擅なり、
p.0324 瀬田橋 此橋をわたれば、いまだなかばならぬに、こしかたもわするばかりなり、かの魯班が雲のかけはしこヽにうつりけるかとあやしむ、 わすれては雲ゐにのぼる心地して波はかすみの瀬田の長はし 出レ淵未レ上レ空、龍臥急流中、無數通二人馬一、何慚雲雨功、
p.0324 勢田の橋にて たび人のゆきヽをしげみひく駒のあの音しきるせたの長はし
p.0324 六日〈◯文久四年正月、中略、〉瀬田に至れば、建部明神の鳥居の邊りに、龍神の社、俵藤太秀郷のやしろといふあり、瀬田の橋は長九十六間、また小橋は三十六間といふ、左りには石山寺の眺望、うしろには三上山、右に比良の峯、前には比叡山、膳所の城の見へ渡す景色は、言葉に盡しがたし、
p.0324 永久四年九月、雲居寺後番歌合霧〈とゞろきのはし 橋江〉 覺盛法師 旅人も立河霧にをとばかりきヽわたる哉とヾろきの橋 同年百首不レ見レ書戀 源兼昌 わぎも子にあふみなりせばさりともとふみもみてましとヾろきのはし
p.0325 嘉禎四年〈◯暦仁元年〉正月廿八日乙亥、將軍家〈◯藤原頼經〉御上洛、 二月九日乙酉、矢作宿、入二御于足利左馬頭亭一、依二去夜風雨一、洲俣足近兩河浮橋流損云云、 十一日丁亥、今日御二逗留于萱津宿一、依二去夜御不例餘氣一也、其後修二理兩河浮橋一云云、
p.0325 すのまたとかやいふ河には舟をならべて、まさきのつなにやあらん、かけとヾめたるうきはしあり、いとあやうけれどわたる、此川つヽみのかたはいとふかくて、かた〳〵は淺ければ、 かたふちの深き心はありながら人目づヽみにさぞせかるらん かりの世のゆきヽとみるもはかなしや身をうき舟の浮橋にして、とぞおもひつヾけヽる、
p.0325 すのまた川は興おほかる處のさまなりけり、河のおもていとひろくて、海づらなどのこヽちし侍り、舟ばしはるかにつヾきて、行人征馬ひまもなし、あるは木々のもとたちゆへびて庭のをもむきおぼゆるかたもあり、御舟からめいてかざりうかべたり、又かたはらに鵜飼舟などもみえ侍り、一とせ北山殿に行幸のとき、御池に鵜ぶねをおろされ、かつら人をめして氣色ばかりつかふまつらせられ侍し事さへに、夢のやうに思ひ出され侍る、それよりほかにかけても見及侍らぬわざになむ、 島津とりつかふうきすのまだみねばしらぬ手なはに心ひく也 おもひ出るむかしも遠きわたり哉その面かげのうかぶ小舟に
p.0325 あさむづのはし みづとも、三兩本、淺水、大和、又山城、或飛騨(○○)、
p.0325 各所位山細江アサムヅノ橋爾布川 愚案、アサムヅノ橋ハ、飛騨ニモ越前ニモアル名所也、
p.0325 名所位山細江アサムヅノ橋爾布川
p.0326 舊ノアサムヅノ橋跡ハ、同郡〈◯大野〉上呂郷尾崎村ニアリ、 國説ニ云ク、古昔ノアサムヅノ橋跡ハ今ノ尾崎ノ濟ニテ、益田川ヲ横ワタシスル所也、是ヲ濟テ往來スルヲ今モ位山通リト云、古ノ本道也、今ノ本道小坂通リハ、天正ノ頃山溪ヲ切開キ、小坂ノ谷川ニ橋ヲカケテ舊號ヲ稱シテ、アサムヅノ橋トモ云ヒ小坂ノ橋トモ唱ヘリ、按ズルニアサムヅノ跡ト稱スル尾崎ノ濟モ、里民ノ口碑ニ傳フルノミニテ、サダカ無ラザリシ處ニ、ハカラザルニ元文庚申ノ秋八月、益田川洪水シテ此船ワタシスル岸深ク破レタル其地中ヨリ、古ノ臺木二本顯レ出タリ、故ニ全ク古橋ノ跡タルコトヲ知リヌ、〈其木性ハ檜ノ大木也、周リハ朽ヌレドモ中眞ハ損セズ、則元ノ如ク土中ニ埋メタリ、又堯惠ノ紀行ニ位山細江ハ在テ、アサムヅ無シ、既ニ基頃廢セシモノカ、◯中略〉今所レ在之アサムヅノ橋、益田郡小坂郷小坂町村ニアリ、國説ニ云ク、是ヲ小坂通ト號シテ今ノ木道タリ、棧道ニ作ル、〈凡縱十三丈、横一丈四尺、〉
p.0326 文治三年百首忍戀〈◯註略〉 前中納言定家卿 ことづてん人の心もあやふきにふみだにもみぬあさむづの橋
p.0326 九十九橋 邊國山中に懸渡せる所の小橋には、朝六ツの橋、かつら橋など奇妙の橋少からず、朝六ツの橋は、飛騨の國の山中にかけ渡せる石橋にて、いかなる暗夜といへども、其橋の上に至れば少し明らかになりて、人顏も朧に見え、たとへば朝六ツ比のあかりのごとし、故に土俗むかしより朝六ツの橋と名付くとかや、物知れる人のいひしは、此橋の下には名玉あるゆゑなるべしと、誠にさもありぬべく覺ゆ、
p.0326 私呼橋 高原大橋〈同上、(吉城郡船津町村)往古此地江馬家領ノトキ棧道ニ作リ、凡二十間餘アリ、今ハ藤橋ニ造ル也、〉
p.0326 藤橋之記
p.0327 工みを積て佳景となるもの、其品多き中に、わきて稱歎すべきは其只橋なるべし、爰に飛騨國高原なる舟津の流れは、北海より十六里の水上にして、溪ひろければ橋をわたさん方便もなく、巖聳へぬればふねをよすべき岸根もあらず、かくこえがたき處なるに、そも藤橋を掛そめし昔を思ひわたるに、彼虹を見て橋を造りし類ひにして、張絹にならふて藤かづらを織立、目なれぬはしをいとなみ、千里往來の便とはなしぬ、實にはじめてわたる人は、その動を見てはその危きを思ひ行て、目まい股おのヽきて、這ふて渡るも多しとぞ、處の人は重きを擔ひあるは戴き、男も女も手を懷にして、大路を過るにひとし、是なん自然馴たる風情なるべし、夫橋の興あるや、花見の貴賤は土橋に戯れ、納凉の老若は欄干橋に吟ふ、紅葉は石ばしに堆く、霰は反ばしにまろびて四時の風流を調へ、駟馬の車に乘らずんば再び過じと、相如が筆をとりしも橋柱にして、鵲は星の爲にわたせる橋となり、舟橋は大河に鳴り、その橋々の徳あるや些からず、かヽる風致をあやつるにもあらず、來るをむかへ去るを送る消魂橋の眞似もせず、只山賤のすさびにして、世上に等類なからむを㗖らかすも一咲ならんか、昔時大化の孝徳帝、詔して掛たまひし長柄のはしも限りありて朽ぬれば、むなしく名のみ殘りたるに、藤ばしの常盤なるは、藤三千貫目、あまたのちからして綴なし、一とせに一度づヽ替え〈◯え上恐脱レた〉せしときなく、通路に自在を得るのみならず、しかもまた郷里の一壯觀とはいふなるべし、〈予〉もまた此地に杖を曳、月日をふる程に、此はしの來由をかいつけぬるは、異なる風姿を四方のかしこき人々に告てんものをといふ事しかり、 寶暦甲申の春、蒲公英の主滄淵みだりに記す、 藤橋や花ぬすむ氣は流れ行 滄淵
p.0327 木曾の掛橋 あげ松と云宿より福島宿へ越る間也、則掛橋と云里有、山の岨に渡したる橋也、 名景 きそぢのはし きそのかけぢのまる木ばし共よめり 東路の木その
p.0328 掛橋 しなの成木その掛橋 よぶこ鳥 雪 駒なづむ あやふきよしをよめり
p.0328 木曾棧 木曾路山川自二兩岨一掛二渡之一、昔棧用二藤蔓一縛レ板、以二大鐵鏈一爲レ桁、近頃如二尋常橋一、而無二橋杭一耳、〈在下上松與二福島一中間上〉
p.0328 木曾棧 木曾棧は上松宿より福島へ越る間なり、かけ橋といふ里あり、木曾川に懸し橋にはあらず、山の岨道の絶たるにかけたるなり、右方は木曾川の際なり、横二間、長十間、今は板橋にして欄干あり、
p.0328 かけはし〈◯中略〉 一書に吉蘇碊長八十二丈と見ゆ、鹽尻に伊奈川の橋二十三間餘、木襲第一の長橋也、柱なく三重のはね木を兩岸より出し、中の水尾桁九間持はなし懸れり、水際に至り、五間三四尺ありと云へり、又昔は荻原澤といふ谷あひに、大木を鎖にてほり渡したり、八九十年前まで其鐵鎖きれ殘りてありと古き者語りし、今のかけ橋にはあらずともいへり、元明紀に、昔信濃、美濃二國の間、嶮岨にして通路なかりしかば、かけ橋をかけて通路ありし事見ゆ、一書にいふ、岩井野村のかけ橋、長さ七十五間、欄干つきし所五十一間、石垣十四間、是慶安中造る所也と見え、宇治物語に、守の乘たる馬、しもの橋の鉉の木、あとあしもて踏折てと見えたるは、昔は藤蔓をもて板を縛し、大鐵鏈もて桁とす、近世は尋常の橋の如くにて、橋杭なきのみといへり、
p.0328 養老七年十月己酉、造二危村(キソノ)橋一、
p.0328 信濃守藤原陳忠落二入御坂一語第卅八 今昔、信濃ノ守藤原ノ陳忠ト云フ人有リケリ、任國ニ下テ國ヲ治テ任畢ニケレバ上ケルニ、御坂ヲ越ル間ニ、多ノ馬共ニ、荷ヲ懸ケ、人ノ乘タル馬員不二知レ一次ギテ行キケル程ニ、多ノ人ノ乘タル中ニ、守ノ乘タリケル馬シモ懸橋(○○)ノ鉉ノ木後足ヲ以テ踏折テ、守逆様ニ馬ニ乘乍ラ落入ヌ、底何ラ計トモ不二知ラ一深ケレバ、守生テ可レ有クモ无シ、廿尋ノ檜榲ノ木ノ下ヨリ生出タル木末遙ナル
p.0329 底ニ被二見遣一ルレバ、下ノ遠サハ自然被レ知ヌ、其レニ守此ク落入ヌレバ、身聊モ全クテ可レ有キ者トモ不二思エ一、然レバ多ノ郞等共ハ皆馬ヨリ下テ、懸橋ノ鉉ニ居並テ底ヲ見下ロセドモ、可レ爲キ方无ケレバ、更ニ甲斐无シ、可レ下キ所ノ有ラバコソハ下テ、守ノ御有様ヲモ見進ラセメ、今一日ナド行テコソハ淺キ方ヨリ廻リモ尋ネメ、只今ハ底ヘ可レ下キ様モ敢テ无ケレバ、何ガセムト爲ルナド、口々ニヰソメク程ニ、遙ノ底ニ叫ブ音髴ニ聞ユ、守ノ殿ハ御マシケリナド云テ、待叫ビ爲ルニ、守ノ叫テ物云フ音、遙ニ遠ク聞ユレバ、其ノ物ハ宣フナルハ、穴鎌何事ヲ宣フゾ、聞々ケト云ヘバ、猿籠ニ繩ヲ長ク付テ下セト宣フナト、而レバ守ハ生テ物ニ留リテ仰スルナリケリト知テ、猿籠ニ多ノ人ノ差繩共ヲ取リ集メテ、結テ結繼テソレ〳〵ト下シツ、繩ノ尻モ无ク下シタル程ニ、繩留リテ不レ引ネバ、今ハ下著ニタルナメリト思テ有ルニ、底ニ今ハ引上ヨト云フ音聞ユレバ、其ハ引ケト有ケルハト云テ絡上、〈◯下略〉
p.0329 同じ比、〈◯治承〉こしの方へ修行し侍りしに、木曾のかけはしふみみしは、生て此世の思ひでにし、死て後世のかたつけとせんとまで覺え侍りき、
p.0329 山寺にこもりて侍りける時、心ある文を女のしば〳〵つかはし侍ければ、よみてつかはしける、 空人法師 おそろしやきそのかけぢの丸木橋ふみみるたびに落ぬべきかな
p.0329 小兒之忠言事 信州ニ中昔或人京ヨリ人ヲ思テ具シテ下テケル、京ニ物申人アマタ有ケルガ、便ニ文ヲ下シオコセケルヲ、アマタ有ケルヲ、隱シオキタルヲ、カヽル事ナンアリト告知スル者有ケレバ、夫是ヲ尋出シテ我レハ物モエ書カズ、讀マザリケルマヽニ、子息ノ兒戸隱ノ山寺ニ有ケルヲ呼テ、母ノ前ニテ誦セケリ、母、色ヲ失テ肝心モ身ニ旁ヌ體也、此兒心有ル者ニテ、只ヨノツネノ文ノヤウニ
p.0330 和ゲテアマタノ文ヲ讀テケレバ、人ノ和讒也ケリト思テ止ヌ、此繼母アマリニ嬉ク思テ、イタヒケシタルモテアソビ物取具シテ文ヲ遣ケル、 シナノナルキソヂニカクルマロキ橋フミ見シトキハアヤウカリシヲ、此兒返事、 シナノナルソノハラニコソ宿ラネド皆母キヾト思フバカリゾ、彼閔子騫ニ似タリ、梵網ノ文ニモ逢テ哀ナリ、一切ノ男子ハ皆我父、一切ノ女人ハ皆我母也ト、説ケルニタガハヌ心ナルベシ、アハレ成ケル心ロナルベシ、
p.0330 建仁二年五十首歌橋下花〈◯註略〉 後鳥羽院宮内卿 しなのぢや谷のこずゑをくもでにてちらぬ花ふむきそのかけはし
p.0330 慶長五年三月九日、去々年ヨリ信州木曾ノ棧朽損シテ、往來ノ通路自由ナラズ、同ク伊奈ノ川橋モ破損ニ及ブ間、兩所ノ橋、此春奉行ニ命ジテ補繼セラル、
p.0330 この明がたに、木曾のかけはしを渡りてのぼりけるに、月の河上にうつりてすさまじきに、霧わたりて夜のさまいへばさら也、 世中のあやうきみちもくも水のなかばにいづる木そのかけはし
p.0330 聞渡る梯を見て 吹風に峯の白雲横たはり立渡りぬる木曾の棧、雲も尚下に立けると聞え侍れば、昔は上の山にかヽりたるにや、
p.0330 慶安元年三月五日、岩野井溪建レ橋、長七十五間、世謂二木曾掛橋一、
p.0330 木曾ノ掛橋、ハヾカリノ橋、 木曾の掛橋は波計(ハバカリ)の橋などそれと指ていふ、〈東は湯船澤にあり〉洪水には岸崩れ橋流れて、往來の障多かりしに、我尾州敬公〈◯徳川義直〉慶安元年に大石をたヽみ、水の障なきやうになし給へり、誠に千歳の賜物なりけり、
p.0331 木曾梯二ケ所あらんともいふ、長四十間、内十四五ほど欄干あり、尾州黄門〈◯徳川義直〉の修造なり、その巧なることは、魯般の雲梯ともいふべし、見上れば万丈石山、万木枝を並べ、見下せば千仭の岩、流、唐藍の八入の色に染めり、
p.0331 めぐり〳〵て棧に到る、此橋高き山の腰に傍て、家の壁に棚を釣れるやうに渡して、川をば右になせり、其谷川の深さは千仭もあらんと見ゆるに、水上遙に眺やれば、岩の上に走りかヽる水、千々の糸を亂せるやうに最白く漲れり、其様實に妙にして、水なる哉ともいはまほし、橋より下を指覘ば、左右に大なる岩の白きが幾らともなく重り出て、中は千尋の淵深く、さながら藍の色なるは、誰が家にか染出せると見るも怪くおかしきに、川の向に聳る山の木立茂りて巖嶮きは、何れの工が削なせると又興ありて覺ゆ、昔は此棧山に傍て棧を渡ること一町許なりしを、今は山際を石垣に築て道となし、棧は僅に十間許もやあらん、川の方には欄干あり、橋の爪に高さ三十丈許なる岩の嶮しきを、少削て鐫れる文あり、此石垣、慶安元戊子六月良辰成就焉畢ト云云、此所は尾張亞相義直卿知召所なり、旅人の患を勞はらせ玉ひ、かく營築せ玉ふは、いみじき國の御政にこそ、いと目出たし、
p.0331 上松を出る一里計行て梯あり、長きこと廿間許、欄干などありて木曾川の入江の道の絶間に掛たり、是なん木曾の梯なりといふ、思ふに木曾の梯は此所に限るべからず、落合より此方爰かしこに梯多し、
p.0331 木曾掛橋、右は高山峯を並べ、左は岩石峻にして木曾の大河漲る、谷數十丈の中間に大木をより入れ、角木を並べ、掛橋とす、誠に危き難所なり、上代は今の所より上に道あり、共後新に修復有て、七十五間の掛橋なり、川の方に欄干あり、慶安三年九月廿六日に成就すといへり、
p.0332 是〈◯板敷野〉より七八町下りて木曾の棧あり、木曾川に掛たる橋にはあらず、山の岨道の絶たる所に掛たる橋なり、右の方は木曾川の際なり、横二間、長十間ある板橋なり、欄干あり、兩旁は石垣を築く、昔は危き所なりけらし、今は尾州君より此橋を堅固に掛玉て、聊危きことなし、
p.0332 更科記 懸橋寢覺など過て、猿がはしたち峠などは、四十八曲りとかや、九折重りて雲路にたどる心地せらる、歩行よりゆくものさへ眼くるめき、たましゐしぼみて足定らざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるヽ氣色みえず、馬の上にて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたヽびなりけるを、跡より見あげてあやうき事限りなし、佛の御心に衆生の浮世を見給ふもかヽる事にやと、無常迅速のいそがはしさも、我身にかへりみられて、〈◯中略〉 かけはしやいのちをからむ蔦かづら かけはしやまづおもひいづ駒むかへ 霧晴てかけはしは目もふさがれず 越人
p.0332 木曾棧舊跡〈驛路の中にあり、いにしへは山路嶮難にして旅人大に苦む、慶安元年尾州敬君より有司に命じて棧道を架す、長五十六間、横幅三間四尺、又寛保年中同邦君また有司に命じて、左右より石垣を數十丈築上、棧道を除き、今往來安隱なり、これを波許橋といふ、長纔三間許、聊危き事なく橋下の石に銘あり、〉 此石垣、慶安元戊子年六月良辰、成就焉畢、 又寛保元年辛酉十月吉辰
p.0332 余〈◯南華老人〉往年關東の諸國を遊歴せし時、木曾終を通りけるに、棧といふ所を見れば、道の傍に大なる芭蕉が石碑あり、
p.0332 譯二一紅上野大變記一
p.0333 天明三年己卯六月二十九日、雨歇霾不レ霽、以レ扇受レ之盡灰也、〈◯中略〉至二七月二日一、又雨レ灰如レ雪、〈◯中略〉明則八日、所レ雨之砂、爲レ黄爲レ黒、〈◯中略〉居二日、有下往二河原湯一〈地名〉而還者上語曰、淺間北岡崩、突出二一夥火一、輷如二百千雷一、〈◯中略〉時笠原侯將レ歸レ國、宿二野之松井田一、牧野侯宿二安中一、皆滯留累日、碓氷之坂、砂埋始絶、命二僕夫一治レ途、而馬足不レ通、皆徒行劣得レ過去、夫岐嶒之棧、古稱二艱嶮一、而治平百年、人無二覆轍之患一、而今如レ斯、蓋自三日本武尊路開二此路一、而未レ有レ如二今日一也、
p.0333 木曾棧ハ周岐夷行ノ盛ニ屬シ、蜀道叱馭ノ患ナク、今ハ只上松福島ノ間ナルヲソレト指ノミ、〈◯中略〉 山村勢州説、上松ヨリ西ニ梯澤トイフ處アリ、往古ハ爰ヲ往還トシテ、福島ノ一里程東ヘ出タル由、古歌ニヨメル棧ハ是ナルベシ、今ノ道、昔ハ九十間程ノ棧ナリシニ、慶安元年戊子ト、享保元年丙申ト兩度ノ普請ニ、皆石垣ヲ造テ今ノ姿トナル、芭蕉ノ句塚ハ近世ノ造立、證佐トスベカラズ、
p.0333 木曾の梯は山谷の間にかヽりて、河流にそむきはべれば、いかなる洪水といへども橋をそこなふ事なし、然るにいつの比にか有けん、旅人かりそめに煙草の火をわすれしが、草野にもえかヽりて、梯やけにけり、其後は梯邊火を禁ぜしかば、又炎燃の難なかるべきに、一年山崩れ岩石まろびかヽりて、橋あへなく落にきと、其所の人かたりはべり、嗚呼時ありて災害のがれがたき事如レ此か、水あふれて落べきはしの火にやけ、火をいましむれば、更に岩にくづされはべるにや、凡人の世の有様これにことならず、榮えおとろふるを、あるはうらやみあるはなげく、みなおろかなり、禍福時にいたりときにさる、人力の如何ともすべきにあらず、何をかうれへ、何をか喜び侍らん、
p.0333 久米橋(クメヂノハシ)〈信州〉
p.0334 久米路橋 信濃〈類字〉
p.0334 和國名所 久米 〈橋、大和、 信濃(○○)〉
p.0334 久米路の橋 爰に水内(ミノウチ)ばしあり、〈更級郡八幡西北二十里〉土人撞木橋ともよべり、むかし神仙あまくだりて掛そめたりといふ、其奇巧言葉に絶たり、此地兩山はなはだせまり、犀河の水たぎりて落、かの北崖の半腹をうがちて、梯酉より卯の方へ行事五丈四尺、それより曲りて南へ大橋をわたす、長さ十丈五尺、廣サ一丈四尺、欄基の高さ三尺、橋と水とのあひだ、尋常の水にて五丈餘にいたる、碧潭盤渦見るに肝すさまし、巧匠相つたへて七とせに一たび改造る所なり、按、いはゆるくめぢの橋は是なるべし、地理に據に、東に氷熊(ヒクマ)てふ村みゆ、熊は隈の借字、隈と久米は同じ、〈倭名抄、大和國檜前、和名比乃久米、又ヒノクマ、ヒノサキトモ、〉此地いにしへひのくまぢに出たる名にや、〈日本紀、矩磨埿(クマチ)、万葉路乃久麻尾(ビ)とよめり、〉いづれにも路のくまべの橋なれば、來目路の名むなしからず、〈雄略紀、久目河に作る、來目久米通用なり、〉
p.0334 くめぢのはし〈いはゞし〉 むもれ木はなかむしばむといふめればくめぢのはしは心してゆけ 顯昭云、くめぢのはしとはかつらぎのはしをこそいへ、而かつらぎのはしはいはヾしをわたしさしたれば、埋木なかむしばむともよむべからず、又心してゆけともよみがたし、されど能因歌枕に信乃に久米路の橋あり(○○○○○○○○○○)、此歌を出せり、さればこれは別の橋也、 又かつらぎのくめぢのはしとよむは、久米石橋なり、
p.0334 久米路乃橋 大和葛城同名の説あり、大和は中絶る事によみ、しなのは中たえざるによめりとぞ、
p.0335 さのヽふなばし 近江又上野(○○)
p.0335 佐野 月よめり 道遠きさのヽ舟橋よをかけて月にぞわたる秋の旅人 あぢきなくかけては過じ中川の瀬だえはつらしさのヽ舟橋
p.0335 和國名所 佐野 〈舟橋、上野、〉
p.0335 さのヽ舟橋 近江に同名あり 大嘗會の名所也云々 當國の名景 落花 旅人 駒〈手むけの駒〉 あづまぢのさのヽ舟橋 かみつけのさのヽ舟橋
p.0335 東歌 可美都氣努(カミツケヌ)、【佐野乃布奈波之】(サヌノフナバシ)、登利波奈之(トリハナシ)、於也波左久禮騰(オヤハサクレド)、和波左可禮(ワハサカレ)〈◯禮一本作レ流〉賀倍(ガヘ)、〈◯中略〉 右二十二首〈◯二十一首略〉上野國歌
p.0335 船ばしは川に船を並べ、綱もて杭につなぐ故、とり放つ事もあれば、かくいひて、男とわが中をはなたるヽにたとへたり、
p.0335 佐野舟橋 此橋在所、先達歌枕處々ニカハレリ、然而當集〈◯萬葉〉第十四卷歌、〈◯歌略〉トリハナシトハ、此橋ヲ河ニハ渡サヾルニヤ、路ノ兩方水田ニテ板ヲウチ渡、ウチ渡スルトカヤ、然者水ナキ時ハトリハナシテ置ト申、
p.0335 内裏百首 參議藤原定家 戀二十首〈◯中略〉佐野布奈橋 ことづてよさのヽ舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると
p.0335 三月〈◯長享元年〉二日とね川、あをやぎ、さぬきの庄、たてばやし、ちづか、うへ野の宿などう
p.0336 ちすぎて、佐野にてよめる、 いにしへのあとをばとをくへだてきてかすみかヽれるさ野のふなばし
p.0336 天津正しき二十の年、前關白おほいまうちぎみ〈◯豐臣秀吉〉入唐したまひ侍らんとものしたまふに、日のもとの武士のこりなく御供しはべるに、陸奧よりも立侍りけるに、〈◯中略〉佐野の舟橋につきぬ、里人の出侍りしにて、たづねとひければ、此はしにて昔人を戀ける人の、むなしく成し有様、かうやうの事とかたるをきヽて、あはれにおもほえぬれば、 これや此さのヽ舟橋わたるにぞいにしへ人のことあはれなる
p.0336 佐野の舟橋に至りぬ、〈◯中略〉舟橋は昔の東西の岸と覺しき間、田面遙に平々たり、兩岸に二所の長者有しとなり、此邊の老人出て昔の跡を教るに、水もなく細き江の形ありて、二三尺許なる石を打渡せり、枯れたる原に見わたされてそこと思へる所なし、 跡もなく昔をつなぐ舟橋はたヾ言の葉の佐野のふゆ原
p.0336 高崎ゟ廿町前に、佐野へ行く道あり、高崎の東にあり、道より西に佐野村あり、佐野舟橋を渡せし川あり、名所なり、古歌多し、舟橋をつなぎし木なりとて、近き頃まで在しといふ、今はなし、
p.0336 倉賀野上の一里山の後に正六といふ村あり、それより東南の間、山の北の方へ引たる松山あり、定家杜といふ、其杜の下にある村を下佐野といふ、杜の上の方にあるを上佐野といふ、〈◯中略〉往古舟橋のかヽりたる佐野川に石臺の殘あり、今は舟渡なり、
p.0336 繩手を行くに南の方に佐野の舟橋の跡ありといふ、鳥川の上なり、〈◯中略〉佐野源左衞經世が住し跡も山際に在といへり、同じ邊に定家の杜などいへる所侍りと馬引けるをのこ語りぬ、
p.0336 佐野舟橋ハ、鳥川ノ上流佐野村ニアリケル故ノ名ナリ、今ハ舟渡トナル、
p.0337 橋 山菅ハ下野
p.0337 神橋 上世當國の國司橘利遠が、勅を奉じて板橋に造立せしは大同三年の事にて、夫より星霜を經ること凡八百有餘歳にして、大神祖君御鎭座以後、寛永六己巳年御修造を加へ給ふ、同十三丙子年新規に御造立の結構は、長拾四間、幅三間、左右前後の欄干ともに總朱塗、擬寶珠滅金、其餘手摺かなもの皆同じ、橋の裏板行桁は黒塗、兩方の入口に欄楯を設け、金鎖して通行を禁じ給ふ、兩岸に大石を削て柱となす、萬代不易の石柱なり、同年四月東照宮二十一回御忌、京都より御攝家門跡方、其餘月卿雲客下向の時、三條實條卿下向ありて、 山菅のかけて危き古橋を石を柱にわたる御代かな〈◯中略〉 神橋御渡初御供養の御導師、ともに天海老大僧正なり、此度美麗に御造立有しゆゑ、諸人の通行には假橋を其儘に架しおかれて常の往來とせられ、神橋は將軍家御登山の砌のみ渡御なし給ふとぞ、 假橋 神橋より二十間程東の方に架す、兩岸より材木を組出し、柱なく、欄干附板橋長十四五間、幅二間餘、牛馬通行の患なし、
p.0337 山菅橋 日光山の入口にあり、今は神橋(ミハシ)と唱ふるなり、其下の流れは大谷川といふ、中禪寺の湖より落て、末はきぬ川に入なり、〈◯中略〉さて橋長さ十四間許にて朱塗なり、
p.0337 神橋(ミハシ)、御山〈◯日光〉の入口にあり、欄干葱寶珠あり、いづれも朱塗なり、此橋はいにしへ山管の蛇の橋となづけて、開基勝道上人はじめて登山し給ふとき、此川に至りて橋なし、深砂大王忽然として現じ、青赤の二蛇を放て橋となし給ふ、上人傍なる山菅を刈て蛇の脊に覆ひ、
p.0338 渡たまふゆゑ名づけたり、中頃より神橋と呼ぶ、橋の行桁三通あり、これを乳の木といふ、西の端一の乳の木引籠し所を、龍宮へ通じけるよしいひ傳ふ、此橋の内に明神を勸請あるゆへ、常に雜人あるは不淨の者をわたさず、橋かけかへの時は神事法樂の規式あり、
p.0338 山菅橋一名ヲ神橋トイフ、大谷川ニカヽル、川ノ此方ニヨリテ高坐石アリ、勝道上人勤行ノ處ト言傳フ、
p.0338 題不レ知〈懷中◯中略〉 よみびとしらず おいのよにとしをわたりてこぼれなばねづよかりける山すげのはし
p.0338 日光山に〈◯中略〉山すげの橋とて深秘の子細ある橋侍り、くはしくは縁起に見え侍る、又顯露にしるし侍るべきことにあらず、 法の水みなかみふかくたづねずばかけてもしらじ山すげのはし
p.0338 日光山、〈◯中略〉坂本の人家は數をわかず續きて福なる地とみゆ、坂本より京鎌倉の町有て市の如し、こヽよりつヾらをりなる岩にも傳ひてよぢのぼれば、寺のさまあはれに松杉雲霧まじはり、槇檜原の峯幾重ともなし、左右の谷より大なる川流出たり、おち合ふ所の岩のさきより橋あり、長四十丈にも餘りたらん、中を反らして、柱もたてず見えたり、山菅の橋と昔よりいひわたりたるとなむ、此山に小菅生ると万葉にあり、ゆへある名と見えたり、
p.0338 山菅橋 寛永十三年、東照宮二十一回御忌、公卿御門跡御登山、 三條實修卿 山管のかけてあやうき古橋を石を柱にわたる御代かな 朝鮮國涬溟齋詩 偶入二壺中一一破顏、朅來橋上俯二晴灣一、蒼龍倒飮千層浪、王瑓斜連兩岸山、秋後客疑鐲渚過、夜深人似月
p.0339 宮還、閑看白鶴飛二華表一、酔倚雲梯縹渺間、 又龍洲詩 路絁盤渦束峽間、飛仙於レ此亦凋顏、誰令三鳥鵲愁二銀漢一、可レ異蛟蛇化二艸菅一、陶素蟠桃通二利濤一、衡山絶頂有二躋攀一、由來禹鼎驅二鬼魅一、天下名區鬼得慳、
p.0339 山菅橋ハ今ノ朱ノ御橋是ナリトイフ、此ニ並タルヲ假橋トテ、貴賤ノ通路トス、橋ノ向方ニ深沙大王ヲ祀ルコトハ、此橋ニツキテ古キ因縁アル故ニヤ、
p.0339 をだえのはし 緒斷 陸奧
p.0339 緒絶(をだえ) とだえの橋とも、丸木橋とも、
p.0339 緒絶橋 古川驛中小板橋是也、其水源乃玉造河流分而入二稻葉村一、是古稱緒絶橋也、
p.0339 伊勢の齋宮わたりよりまかり上りて侍りける人に、忍びて通ひける事を、おほやけもきこしめして、まもりめなどつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、〈◯中略〉おなじ所にむすびつけさせ侍りける、 左京大夫道雅 みちのくの緒絶の橋や是ならんふみヽふまずみ心まどはず
p.0339 十二日〈◯元祿十二年五月〉平和泉と心ざし、あねはの松、緒だえの橋など聞き傳へて、人跡稀に雉兎蒭蕘の往きかふ道、そこともわかず、終に路ふみたがへて石の卷といふ湊に出づ、
p.0339 とだえの橋 陸奧
p.0339 とだえの橋 をだえの橋なり、とだへと云によりて、あやうきよしをよめり、
p.0339 途絶圯(トダエノハシ) 過二今市河橋一、入二岩切農家一所有二小圯一、郷俗曰二之轟行圯(トヾロキノハシ)一、是古之所レ謂途絶圯也、土橋之極而短狹者也、誤
p.0340 呼二其名一矣、
p.0340 淺水橋(アサムツノハシ/アサフツ)〈越前丹生郡〉
p.0340 越前國 【黒戸濱橋】(クロトノハマバシ)
p.0340 淺水橋 黒戸の橋 細々不レ用レ之名所なり、世俗にあさうづといふ所か、〈◯中略〉 たれぞこのね覺て聞ばあさむづの黒戸の橋をふみとどろかす
p.0340 淺水の橋 黒戸の橋 世俗にあさうづと云所也、此所より福井へ二里有、景物 〈朝水のくろどのはし共〉 爰をよめり、
p.0340 當國神社佛閣名所〈◯中略〉 麻生津(アサフツ)橋〈又名〉黒戸橋、在二府中、福井之間一、此處有レ江、名二玉江一、〈攝州有二同名一〉
p.0340 朝津橋ハ一名ヲ黒戸ノ橋トイフ、川上ハ今立ノ片上郷ヨリ出テ、下ハ江端川ニ入ル、
p.0340 律 淺水〈一段、拍子二十一、〉 あさンづのはしの、とヾろとヾろと、ふりしあめの、ふりにしわれを、たれぞこの、なかびとたてヽ、みもとのかたち、せうそこし、とぶらひにくるや、さ〈しやの如く唱〉きんだちや、
p.0340 あさンづのはしの、抄〈◯梁塵愚按抄〉曰、あさむづのはしは、飛騨國と云、或は越前ともいへり、考〈◯催馬樂考〉書入云、標に淺水とかければ、本淺水の橋なりけるを、あさンづの橋とうたひしより音便のンを慥にむとすみて、あさむつのはしとはなりしなるべし、今按に此橋の名は、もと淺生津(アサフツ)なりけるを、さては此曲の此句の節の間に餘りける故に、音便にあさンづとはうたひし也、標に淺水と書たるは、かの淺生津を淺生水とも書し、生を省きたる也、すべて諸國の名、郡名郷名を二字にせよと云和銅の詔より後々は、此類常に多かり、さて此橋は越前の鯖江に
p.0341 て今も存在せり、和名抄に越前國丹生郡朝津〈阿左布豆〉とある是也、此に朝津と書て阿左布豆と訓たるも、本朝生津なりしを、生の字を、省る事上の如し、宗祇方角抄鯖江條に、淺水橋、黒戸橋、名所也云々、世俗のあさうづと云處に江河あり、是を玉江と云といへるは委しからず、其俗に淺生津といへる泥川にかヽれるが、あさふづの橋也、行囊抄に、上鯖江淺生津とついでヽ、淺生津は自二溝落一二里、町中ニ深キ泥川アリ、橋有、長十二間、此橋名所ナリ、アサフヅノ橋トヨメル是也、とあるぞ正しき、昔は此橋いと長かりけんとぞおぼしき、
p.0341 題不レ知〈懷中〉 よみ人しらず あさみづのはしはしのびてわたれ共ところ〴〵になるぞわびしき
p.0341 はし ことづてん人の心もあやうさにふみだにも見ぬあさむづの橋
p.0341 義貞首懸二獄門一事附勾當内侍事 中將〈◯新田義貞、中略、〉秋〈◯延元二年〉ノ始ニ、今ハ道ノ程モ暫ク靜ニ成ヌレバトテ、迎ノ人ヲ上セラレタリケレバ、内侍ハ此三年ガ間、暗キ夜ノヤミニ迷ヘルガ、俄ニ夜ノ明タル、心地シテ、頓テ先杣山マデ下著キ給ヒヌ、折節中將ハ足羽ト云所ヘ向ヒ給タリトテ、此ニハ人モ無リケレバ、杣山ヨリ輿ノ轅ヲ廻シテ淺津(アサウヅ)ノ橋ヲ渡リ給フ處ニ、瓜生彈正左衞門尉百騎バカリニテ行合奉リタルガ、馬ヨリ飛デオリ、輿ノ前ニヒレ伏テ、是ハイヅクヘトテ御渡リ候ラン、新田殿ハ昨日ノ暮ニ足羽ト申所ニテ討レサセ給テ候ト申モハテズ、涙ヲハラ〳〵トコボセバ、〈◯下略〉
p.0341 福井は三里計なれば、夕飯したヽめて出つるに、たそがれの路たど〳〵し〈◯中略〉漸白根が嶽かくれて比那が島あらはる、あさむづの橋を渡りて玉江の蘆は夜に出にけり、
p.0341 足羽川、其源今立ノ池田郷ヨリ出、此大橋ヲ下ヲ流テ、下ハ漆淵ニ至テ日野川ニ
p.0342 會合ス、是亦加越四大河ノ一ナリ、此川中古マデ舟渡ナリシヲ、柴田家ノ時、橋ヲ掛初タリトイフ、半ハ板、半ハ石ニテ造ナセリ、九十九橋トモ、米橋トモ又木ナルガ故ニ掛合橋トモ稱ス、
p.0342 九十九橋(つくもばし) 越前國福井の町の眞中に大なる川流る、此川にかけ渡せる橋をつくも橋といふ、九十九橋と書り、其大さ三條の橋程もありて、半までは石橋なり、石橋の大なるもの天下是に勝るものなし、半より木の橋なり、是は常なみの橋なり、石と木を續合せたる橋は珍敷橋也、いかなる故と尋るに、皆石橋となす時は大洪水の時、全體ともに崩れて、其再興大かたならず、半を木の橋にせる事は、大洪水の時、木の所ばかり落て、水淀まざるゆゑに石の所は恙なくして、橋の全體損ずることなし、故に跡の造作必易しと也、大なる橋は何方の橋もかくなしたきもの也、橋の普請の時も石の所は千歳不朽なれば、只木の所半分の手間にて濟事なれば、別而心やすかるべし、
p.0342 足羽ハ中古北庄トイヒケルガ、國初ヨリ改メラル城外一帶ノ大河ヲ足羽川トイフ、九十九橋トテ百間許ノ長橋ヲカケテ、前後に高門ヲ建タリ、海内無双トスベシ、
p.0342 艁(ふなはし)〈◯中略〉 越前福井北有レ川、其幅凡百四十丈、用二八十餘艘一、但舟數多少、任二水増減一耳、其地名二舟橋一、
p.0342 黒龍川南ヲ船橋ノ宿、北ヲ森田ノ宿トス、此川モ又加越四大河ノ一ナリ、
p.0342 坂野説、船橋ハ吉田郡ナリ、柴田家ノ時、初テ舟橋ヲ掛ラル、
p.0342 九十九橋 福井の東に舟橋あり、越前にては名高けれども、是は越中の神通川に渡せるものに不レ及、〈◯中略〉越前福井の舟橋の鎖は、柴田勝家の造り置れし鎖なりといへり、誠に此鎖容易の事にあらじ、
p.0343 舟橋の驛に到る、此川に舟橋あり、小舟四十八艘を以ていとなむ、川の兩岸に指出たる岩あり、其岩に鎖をかけて舟を係て橋とす、此舟橋の長きこと百十二間あり、
p.0343 越中 神通川 神通川は、越中新川郡、婦負郡の間に有り、北陸第二の大河なり、第一は越後の新保川也、〈◯中略〉番山の北舟橋有り、舟數六拾六艘程入、下東岩瀬の湊に舟渡貳艘在、其上下には舟橋也、舟數百三十四艘、水高時は百五拾より百七八拾艘入、
p.0343 艁(○)〈◯中略〉 越中富山神通川、其幅凡二百丈、比二舟五十二艘一爲橋、舟與レ舟之間二丈許、用二大鐵鞗一繫合、布二板於上一、
p.0343 神通川ハ富山ノ廓外ヲ流ル、鐵鏁ヲ用テ船六十二艘ヲ係グ、
p.0343 承應三年之御書物左之通 今月廿六日之書札到來、仍神通川水出候様子、別紙書付入二御披見一候處、箇様ニ舟橋切、殊ニ水主死、乘舟四五艘流候由、何茂油斷故と被二思召一候、 一舟流候程之儀ハ、前廉ゟ水之様子しれ可レ申候處ニ、ゼうをもあけ置不レ申義、何も前日ゟ相詰被レ申間敷と被二思召一候、 一かこ流候義、第一人之命たいせつ成處、箇程之仕合、沙汰之限旨御意候、可レ被レ得二其意一候、恐々謹言、 八月廿一日 奧村因幡 澤田玄蕃 角尾五次衞門殿 富田三郞左衞門殿 田邊作五左衞門殿 山崎早左衞門殿
p.0343 九十九橋〈◯中略〉 越中の神通川は富山の城下の町の眞中を流る、是又甚大河にして、東海道の富士川抔に似たり、水上遠くして然も山深く、北國のことなれば、毎春三四月の頃に至れば、雪解の水殊の外に増來
p.0344 りて、例年他方の洪水のごとく、常に南風に水増り、北風に水減ず、是は南より北の海へ落る川ゆゑなり、かくのごとく毎度洪水あり、其上に急流なれば常體の橋を懸る事叶ひがたき川なり、されば舟橋を懸渡すことなり、先東西の岸に大なる柱を建て、その柱より柱へ、大なる鎖を二筋引渡し、其鎖に舟を繫ぎ、舟より舟に板を渡せり、其舟の數甚多くして百餘艘に及べり、川幅の廣き事おもひやるべし、其鎖のふとく丈夫なること誠に目を驚せり、鎖の眞中二所程繫ぎ合せし所ありて、其所に大なる錠をおろせり、洪水の時切る所なりと云、兩岸の柱のふときこと大佛殿の柱よりも大なり、追々にひかへの柱ありて丈夫に構へたり、鎖につなぎて舟を浮めたることゆゑに、水かさ増るといへども、其舟次第に浮上りて危き事なく、橋杭なきゆゑ橋の損ずることなし、然れども誠に格別の大洪水の時は、此舟の足にせかれて、兩方の町家へ川水溢れのぼるゆゑに、やむことなくて此鎖の中程を切ることなり、其舟左右に分れて水落るゆゑ、水かさ減ずるとなり、然れども此鎖を切る時は、跡にてまた鎖を繼事、莫大の費用あるゆゑに格別の洪水にて、町家の溺るヽ程の時ならでは切る事なし、此舟橋も亦一奇觀なり、もろこし黄河などにも晉の時分、舟橋を懸られしといふ事聞及べり、いかなる大河急流なりとも、用ゐらるべき橋なり、越前福井の舟橋〈◯中略〉又奧州南部の城下にも舟橋あり、是も大なれども、越中の船橋に不レ及、舟橋のある所天下に右三箇所なり、其内越中を第一とすべし、
p.0344 婦負川ハ鵜坂川ト同ク今ノ神通川ナリ、但一ハ郡名、一ハ地名ニ因テ稱ス、造舟ノ數、水勢ノ急、何レモ越前ニ倍セリ、
p.0344 棧〈◯中略〉 同〈◯越中〉國立山麓岩倉川上有二大橋一、長凡百三十丈、無レ柱用二藤蔓一爲レ桁、布二板於其上一、他邦人輙不レ得レ渡、俗呼二其川一曰二三塗大河一、川東有レ山、名二死出山一、蓋立山巓有二火氣一、俗以爲二地獄一、故好事者稱二三塗川、死出山等
p.0345 之名一矣、
p.0345 越中 常願寺川 常願寺川ハ新川郡に在、〈◯中略〉此川山内にて大谷二川有、左正妙川と云、此水は立山御前并眞砂ケ嶽の流水、又地獄谷の水也、〈◯中略〉南龜谷より北蘆崎へ藤橋二箇所あり、
p.0345 藤橋之記 越中正明川、藤の釣橋は、立山へ行く道に渡せり、長さ凡廿七八間、唯藤蔓にて造り掛けたるなれば、其危き事いふばかりなし、諸州より立山禪定するもの十人に九人は、此橋を過る事を恐れて、爰より歸る人多し、因て此所を伏拜と言よし、彼釣橋を越へ、段々難所あり、雪を踏分て五里許行、又壁を立たる如き所を二里登りて、其上に立山權現の社有、〈◯中略〉 藤橋の花や命の延ちヾみ 瓢馬
p.0345 隈本橋(ワイモトノハシ)
p.0345 當國神社佛閣名所〈◯中略〉 相本橋 在二浦山舟見之中間一 此川乃立山諸地獄所二涌出一熱水、與レ雪斛流、其水速也如レ瀧、至レ末則分爲二四十八瀬一、〈名二黒部川一〉有レ橋、〈名二相本橋一〉長二十五六丈、幅二丈許、以二大木一組出棧橋也、木曾棧亦不レ如レ之、
p.0345 越中 黒部川 黒部川は〈◯中略〉荒瀬にて渡舟なし、古ゟ黒部は四十八ケ瀬といふ大河也、すこしにても出水の時は、往來人日泊して難義におよぶ故、万治年中三日市村ゟ泊之間、浦山村、舟見村二箇所に新宿を立て、愛本にはね橋を懸る、長三十三間あり、此橋は日本無雙の大棧也、
p.0345 黒部川ハ濱路ヨリ四十八瀬ヲ渉ルヲ古今ノ正路トス、サレバ國守ハ是ヲ通行
p.0346 シ玉フ、寛永元年、愛本ノ橋ヲ架ラレテヨリ以後ハ、行旅ノ患ナシ、
p.0346 九十九橋 高くして奇なるは、越中の相本の橋なり、
p.0346 磯傳の道を經て片貝川を渉り、三日市浦山などいふ所を過て、相本といふ所に到て、黒部川の橋を渡る、長きこと三十三間、高きこと七八間あるべし、川岸の岩より組出したる刎橋なり、昔此橋を掛ざりし程は、爰より下を渉る、其所を四十八瀬といふ、
p.0346 黒部川ハ立山群谷ノ衆水ナリトイフ、四十八瀬ノ路洪水トテ、浦山通愛本ノ橋ヘカヽリ、亂流逆潮ノ勢ヲ大觀シ、明日舟見、湯川泊ナド打過テ宮崎ニ至ル、
p.0346 錦帶(キンタイ)橋
p.0346 はし〈◯中略〉 防州岩國に錦帶橋(○○○)あり、錦山より流るヽ川にかヽる故に名く、日本第一の風景其結構比すべきなし、俗にそろばんばし(○○○○○○)といふ、よて俗に山は富士、瀧は那智、橋は錦帶といへり、
p.0346 錦帶橋は世に名高き橋にて、能たくみし懸やう也、相傳ふ、吉川監物殿といひし人〈今の城主より四代以前まで、此橋かゝりて百二三十年計と土人物語也、〉の工夫にて懸はじめ給ふといふ、川の流れ強き故に、橋杭ほれ流れてもたず、此故に水底を切石を以て三重にたヽみ、橋臺も切石にて劒先につみあげ、敷石も橋臺も石の杖杵にて、こと〴〵くとぢて一石の如くにつぎ合て、橋臺に深き穴をほりて、其穴へ鐵のはしらを入、かくの如くさしこみ、左右ゟ其鐵の端と端とへ木を渡して取立しもの也、下に行て見るに、鐵をば木にてつヽみてあれば、上のかたへは少しも見えず、尤橋掛替の時は、幕を引廻して、人の見ぬやうにしてかけかへる故に、所の者にても委しくはしらず、予は故ありて此町に知れる人の方に止宿して、能々聞正したる事也、秘し給ふべき事にあらず、是程の工風は、智あ
p.0347 る人は考へ出すべき事なり、
p.0347 九月〈◯天明三年〉廿日、防州岩國に至る、此國山中にして、海は三里を隔つ、北の方は石見の國なり、岩國城下錦川流て橋五ツを懸たり、總長さ百廿間有、錦帶橋(キンタイキヤウ)と名、
p.0347 關戸坂ヲ越テ、關戸ノ入口ヨリ左ヘ山ノ尾ヲ川ニ付テ廿六町入レバ錦帶橋ナリ、錦帶橋俗ニ算盤橋トイフ、御座川ノ末、錦川ニカヽル故ニカク稱スルナリ、其長サ百廿間計、川中ニ石ヲ疊テ四ツノ臺ヲ築テ橋ヲ五段ニカクル、橋裏ヲ仰見レバ雙方ヨリ木ヲ組連テ橋杭ナシ、
p.0347 九十九橋 橋の巧をつくして奇妙なるは、周防の岩國の錦帶橋也、
p.0347 錦帶橋 防州岩國の城下に錦帶橋といふあり、川幅凡百七十間、山川にして常は深からず、洪水の時は兩岸に滿る、橋は五橋にかけ、四箇所の橋臺、石垣を菱のかたちに築き、その角を水上水下にあてヽ水を避、鐵石を以千切銯とし、何ほどの滿水にも破るヽ事なし、岸の兩端二橋は橋杭あり、中の三橋ははし杭なし、行桁を橋臺より段々持出して梯のごとし、板橋羽搔に合、槇はだ込み、そのうへを漆喰を以かためければ、雨もる事なし、五橋ともに大きに反りて風景不レ斜、山は富士、瀧は那智、橋は錦帶、是日本三ツの矩摸なり、
p.0347 岩國山ハ荒キ其道ト詠ゼシモ、今ハ周岐ノ夷行ニ等シ、錦帶橋ヲ世人此地ノ美談トス、其奇巧實ニ嗟賞スルニ足レリ、錦川ノ渡ヲ過テ山路ヲ踰行ク、
p.0347 たかのヽはし 紀伊
p.0347 紀伊國 高野(タカノ)〈橋〉
p.0347 御廟(ミベウ)橋〈(中略)皆高野山の名所なり〉
p.0348 萱穗橋〈板橋〉在二御所北一名義不レ詳、此橋紀州高野山御廟橋、奧州松島五臺堂梭(ヲサ)橋ニ等ク、造惡不善ノ輩ハ渡ルコトヲ不レ得也、毎歳一二人アリ、土人皆見ルナリ、
p.0348 御廟ノ橋、古ヨリ橋板ノ數三十七枚ノ裏ニ、三十七尊ヲ書付ルコト、是剛界曼陀羅ノ口傳アリ、板ノ厚サ、橋ノ長サ、横幅マデ學侶ノ秘密ナリトイフ、近頃ツクリカヘアリケレバ、河中ニ下立テ仰見ルニ梵文鮮明ナリ、
p.0348 橋 雲のかけはし〈禁中〉又かさヽぎのわたせるもあり
p.0348 冬の歌の中に 前大納言爲家 夜さむなる豐のあかりを霜の上に月さえわたる雲のかけはし
p.0348 長承三年九月顯季卿家歌合 藤原顯方 あまのがは雲のかけはしこえゆかむいかでか月のすみわたるらん 此歌判者〈基俊〉云、天河に無二雲梯一只有二鵲橋詩一ども、烏鵲橋とつくれり、
p.0348 橋 かさヽぎの〈天河也〉
p.0348 七月 七夕〈◯中略〉 あまのがはに、そのよ二のかさヽぎきたりてはしとなる也、又たま橋(○○○)、ふなばし(○○○○)、うちはし(○○○○)といふ、うちはしはたものふみきにてわたすといへり、〈◯中略〉又もみぢのはし(○○○○○○)は、まことにあるにはあらず、たとへばあらましにいふなり、
p.0348 【烏鵲橋】(カサヽギノハシ)〈七月七日、烏鵲塡二天漢一成レ橋、度二織女一見二風俗通、淮南子一、又唐蘇州南門有二烏鵲橋一、見二白文集一、〉
p.0348 冬歌 かさヽぎのわたせるはしにおく霜の白きをみれば夜ぞ深にける〈◯又見二新古今和歌集一〉
p.0349 泉の大將〈◯定國〉左のおほいどの〈◯藤原時平〉にまうでたまへりけり、ほかにて酒などまいりゑひて、夜いたくふけてゆくりなくものし給へり、おとヾおどろき給て、いづくにものし給へるたよりにかあらんなど聞え給て、みかうしあけさはぐに、みぶのたヾみね御ともにあり、みはしのもとにまつともしながら、ひざまづきて御せうそこ申す、 かさヽぎのわたせるはしのしものうへをよはにふみわけことさらにこそ、となんのたまふと申す、あるじのおとヾいと哀におかしとおぼして、そのよひとよおほみきまいりあそび給ひて、大將に物かづき、たヾみねもろくたまはりなどしけり、
p.0349 七月七日女庭におりゐて七夕まつる、男來てますい垣のもとにたてり、 名にしおひばかさヽぎの橋わたす也別るヽ袖は猶やぬるらん
p.0349 鵲 菅贈太政大臣 彦星の行あひをまつかさヽぎの渡せる橋をわれにかさなん
p.0349 橋 紅葉のはし〈誠にあるにはあらず、たとへなり、〉
p.0349 紅葉橋(モミヂノハシ)〈或云、本字紅羽、本朝兒女、乞巧奠所レ言、〉
p.0349 題しらず 讀人しらず 天野川もみぢをはしに渡せばやたなばたつめの秋をしもまつ
p.0349 題しらず 藤原實方朝臣 天の川かよふうき木にこと問ん紅葉の橋はちるやちらずや
p.0349 夢浮橋(○○○)
p.0349 夢浮橋〈◯中略〉
p.0350 此卷を夢浮橋と題する事、詞にも見えず、歌にもなし、古來の不審也、凡夢のうきはしとつヾけたる事、是よりはじまれり、夢のわたりのうきはしとあり、歌につきていへる歟、〈◯中略〉浮橋は生死のおこり、煩惱の根元也、夢とは世間出世の法、皆如レ幻如レ夢なりと云心歟、
p.0350 終卷を夢浮橋と號す、此卷の別名のみにあらず、一部の總名なるべし、〈◯中略〉案レ之、眞實之義は夢の一字の外は別の心なし、浮橋は夢にひかれて出來たる詞也、〈◯中略〉されば本歌の、世の中は夢のわたりのうきはしかうちわたしつヽ物をこそおもへ、といへるも、うき橋に別の儀なし、定家卿の、春の夜の夢のうき橋とだえしての歌もおなじ心也、
p.0350 【御廟橋】(ミベウノハシ)〈本朝俗、斥二靈廟前面所レ架橋一云レ爾、卑賤誤謂二之無明橋一、〉
p.0350 御廟橋(ゴビヤウバシ) 泉涌寺入口の橋也、古へよりの御陵墓この山にまします故かく名付、〈◯又見二京羽二重一〉
p.0350 寛延三年四月廿三日、仙洞御所崩御、御寶算三十一、奉レ稱二櫻町院一、〈◯中略〉 一御車、〈山田氏役也〉今度入札而他人作レ之、雖レ然山田モ立加云々、其後塗萬仕立者、寺町妙滿寺寺中而仕例也云々、 五月十五日丙辰、五條橋試(○○)之車、〈重目相量乘レ之、常車、〉牛而被レ令レ牽レ之云々、橋板者横板〈一寸餘厚〉而一面打付、敷二古疊一令レ蒔レ砂、