p.1217 池ハ、イケト云フ、湖沼ノ小ナルモノナレドモ、我國ニテハ、主トシテ人工ヲ加ヘテ畜水ノ用ニ供スルモノヲ謂ヘリ、 汀ハ、ミギハト云フ、水際ヲ謂ヘリ、溝ハ、ミゾト云フ、地ヲ穿チテ水ヲ通ズルモノナリ、 池溝ノ事ハ、尚ホ政治部水利篇、灌漑篇等ニ關聯スル所アレバ、宜シク參照スベシ、
p.1217 池 玉篇云、池直離反、畜水也、〈和名以介〉
p.1217 今本玉篇除知切、按直離除知、字異音同、契冲曰、伊介、令レ生也、謂レ養二魚於其中一也、插二花於瓶中一、埋二菓於土中一、皆呼二伊介流一、並同語、〈◯中略〉原書水部、畜水作二渟水一、按尚書泰誓孔傳、停水曰レ池、後漢書班彪傳注同、廣韻亦依レ此、又禮記月令、毋レ漉二陂池一、注、畜レ水曰レ陂、穿レ池通レ水曰レ池、淮南子説林訓注、國語周語注、漢書高帝紀注、皆云、畜レ水曰レ、陂、無下以二畜水一訓レ池者上、蓋畜水曰レ陂者、言二其外障一、停水曰レ池者、言二所レ畜レ水之處一、此恐誤、説文、陂、一曰池也者、混言耳、
p.1217 池 いひといふは、水はなつ所なり、なきさといふ、万葉、池のなきさと云り、いそと云、万、池白浪いそによせくといへり、
p.1217 池沼 〈池、音馳、和名以介、沼、音昭、和名奴萬、〉 穿レ地鍾レ水者也、其圓曰レ池、曲曰レ沼、黄帝内傳云、帝旣煞二蚩尤一、昇爲二天子一、因レ之 二池沼一、蓋池沼之起始二於此一、
p.1218 池イケ 義不レ詳、倭名抄に、玉篇を引て、畜水也と註せり、また籞イケスといふ事は、倭名抄に唐韻を引て、池水中編二竹籬一養レ魚也と註せり、我俗、竹を編むものを簀といふあり、池にある竹籬なれば、イケスとはいふなり、
p.1218 いけ 沼池をいふ、魚を生るより名づくる成べし、
p.1218 日本紀に作二云々池一とあるは、新治の田の事なり、さるは山のふもとの小高き所に池をつくりて、そのあたりのやう〳〵低くなり行所を田につくりて、水を沃ぎしなり、田どころはやう〳〵にひろごりて、そのかみまづいできたるは、いづこばかりともしりがたくなり行物なれば、此池は某天皇の某年某月作たりと、池にかけて語傳へたるなり、崇神天皇紀に、六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰、農天下之大本也、民所二以特以生一也、今河内狹山、植田水少、是以其國百姓、怠二於農事一、其多開二池溝一、以寛二民業一とあるは、狹山に池を作そへて、もとよりある田に水をまかせたる事なれど、新開も同じ方にて、池より水をそヽぎたる物なれば、此文證據となすべきなり、さて此池をつくるといふは、庭の池水とはやうかはりて、平らかなる地を堀鑿ちて、水を湧しめたるにはあらず、山の尾ざきと〳〵とをつきとめて、雨水雪みづをためたる物にて、萬葉集に水たまる池田などよめるは是なり、かくて冬十月、造二依網池一、十一月、作二刈坂池反折池一などあるも、みな屯倉御縣のたぐひにて、公の田なり、日本紀にはかやうの子細多かるを、等閑に看過す事なれば、おどろかさんとてなん、
p.1218 六十二年七月丙辰、詔曰、農天下之大本也、民所二特以生一也、今河内狹山、埴田水少、是以其國百姓、怠二於農事一、其多開二池溝一、以寛二民業一、十月、造二依網池(○○○)一、十一月、作二苅坂池(○○○)、反折池(○○○)一、〈一云、天皇居二桑間宮一、造二是三池一也、〉
p.1218 是之御世、作二依網池一、亦作二輕之酒折池一也、
p.1219 三十五年九月、遣二五十瓊敷命于河内國一、作二高石池(○○○)、茅渟池(○○○)一、十月、作二倭狹城池(○○○)及迹見池(○○○)一、是歳令三諸國多開二池溝一、數八百之、以レ農爲レ事、因レ是百姓富寛、天下大平也、
p.1219 五十七年九月、造二坂手池(○○○)一、即竹蒔二其堤上一、
p.1219 七年九月、高麗人、百濟人、任那人、新羅人、並來朝、時命二武内宿禰一、領二諸韓人等一作レ池、因以名レ池、號二韓人池(○○○)一、十一年十月、作二劒池(○○)、輕池(○○)、鹿垣池(○○○)、厩坂池(○○○)一、
p.1219 池はいかにも水あさく、心ひろく堀なすべし、水ふかきはすごくしてわろし、ゆたかにみするがよきなり、
p.1219 池は かつまたの池(○○○○○○)、いはれのいけ(○○○○○○)、にえのヽ池(○○○○○)、はつせにまいりしに、水鳥の隙なくたちさはぎしが、いとおかしく見えし也、水なしのいけ(○○○○○○)、あやしうなどてつけけるならんといひしかば、五月などすべて雨いたくふらんとする年は、此いけに水といふ物なくなんある、又日のいみじく照としは、春のはじめに水なんおほく出るといひしなり、むげになくかはきてあらばこそさもつけめ、いづるおりもあるなるを、一すぢにつけけるかなといらへまほしかりし、さるさはの(○○○○○)池、うねめの身をなげけるをきこしめして、行幸などありけんこそいみじうめでたけれ、ねくたれかみをと、人丸がよみけんほど、いふもをろかなり、御まへの池(○○○○○)、又何の心につけけるならんとおかし、かヾみのいけ(○○○○○○)、さやまの池(○○○○○)、みくりといふ歌のおかしくおぼゆるにやあらん、こひぬまの池(○○○○○○)、はらのいけ(○○○○○)、たまもはなかりそといひけんもおかし、ますだの池(○○○○○)、
p.1219 池 ならびのいけ〈山 後撰、承香中納言、〉おほさはの〈同 在二嵯峨一、古今、菊、友則、〉ひろさはの〈同 在二嵯峨一、已上二は同名也、〉いはれの〈大 万、かもももつての〉うへやすの〈同 万、池のつヽみのかくれぬのといへり、〉まなの〈同 万、しま宮のまなの〉かるの〈同 万、かも、〉みヽなしの、〈同 万〉 ま
p.1220 すたの〈同 拾〉 さるさはの〈同 万、采女入所也、〉にゑのヽ〈同〉 はらの〈攝 後拾〉 たまさかの〈同〉 こやの〈同 仲實歌、金葉、いるのに近し、〉まのヽ〈同 万、こすげのかさ、〉おさきの〈武 万〉 とりこの〈近 万〉 きくの〈豐前 万、ひし〉かつまたの〈下總 はすなしともよめり、又ありとも、万葉に見えたり、清輔抄、在二美作歌一、〉からちの〈石 万〉 うきぬの〈同 万、ひし、〉はこの〈武 後拾、孝善歌、〉よるかの〈攝 万、いるかの、よるかの池〉あらふの、〈後拾 川上也、好忠、〉 みづなしの かヾみの さやまの こひぬまの いくたの〈攝〉 すがたの〈大千安藝〉にいたの たのむの〈大〉 つるかめの〈河内〉ふたみの〈佐渡〉とほちの〈讃岐〉 魚池、鳥池と云は、神功皇后にみせたてまつりける池也、つくしにあり、
p.1220 池 磐余池〈大和◯中略〉岩根池〈近江◯中略〉生田池〈つの國◯中略〉一志池〈伊勢◯中略〉原池〈つの國◯中略〉はこの池〈武州、八雲御説、〉にゑのヽ池〈大和、八雲御説、〉にひたの池〈安藝、八雲御説、〉十市池〈同レ右◯中略〉鳥籠池〈あふみ◯中略〉小崎池〈武藏◯中略〉おまへの池〈奥州◯中略〉輕池〈大和◯中略〉狩道池〈加賀◯中略〉かほの池〈同レ右◯中略〉堅田池〈あふみ◯中略〉唐人池〈同レ右◯中略〉かヾみの池〈八雲御説〉垣安池〈同レ右〉勝間田池〈下總◯中略〉因香池〈攝州、或云河内、◯中略〉たヽさかの池、〈同レ右八雲御説、〉たのむの池、〈大和、八雲御説、〉絶間池〈同レ右◯中略〉園池〈一條北大宮西是宗祇法師注〉つる龜の池〈八雲御説〉つるぎの池〈◯中略〉双池〈山城◯中略〉長澤池〈あふみ◯中略〉ながらの池〈大和◯中略〉うへやすの池〈同レ右◯中略〉うきめの池、〈同レ上◯中略〉大澤池〈山城◯中略〉浮奴池〈石見◯中略、〉八代池〈肥後◯中略〉眞野池〈攝州◯中略〉眞名池〈大和◯中略〉益田池〈大和◯中略〉笛吹池〈同レ右◯中略〉藤原池〈同レ上◯中略〉ふたみの池〈佐渡◯中略〉昆陽池〈攝州◯中略〉こひぬまの池〈八雲御説〉こ池〈紀州◯中略〉蘆間池〈攝州◯中略〉秋山池〈山城◯中略〉猿澤池〈大和◯中略〉佐野池〈河内◯中略〉佐太池〈同レ右◯中略〉狹山池〈◯中略〉清澄池〈同レ右◯中略〉企救池〈豐前◯中略〉耳無池〈同レ右◯中略〉みづなしの池〈八雲御説〉三河池〈伊勢◯中略〉宮地池〈三河◯中略〉廣澤池〈山城◯中略〉彦高根池〈◯中略〉すがたの池〈大和◯下略〉
p.1220 愛宕郡 神泉苑 在二二條南大宮西一、古所レ謂乾臨閣之跡、而主上遊覽之地也、弘法大師於レ玆祈レ兩、是則世人之所二遍識一也、爾後爲レ寺、今池水殘二中島一、有二辨財天宮并寶塔一、東寺寶菩提院知二寺事一、
p.1221 貞觀十七年六月廿三日甲戌、不レ雨數旬、農民失レ業、轉レ經走レ幣、祈二請佛神一、猶未レ得二嘉澍一、古老言曰、神泉苑池中有二神龍一、昔年炎旱、焦レ草礫レ石、決レ水乾レ池、發二鐘鼓聲一、應レ時雷雨、必然之驗也、於レ是、勅遣二右衞門權佐從五位上藤原朝臣遠經一、率二左右衞門府官人衞士等於神泉苑一、決二出池水一云々、
p.1221 山川 巨椋溝〈源自二宇治山中一、經二宇治町一、曰二折居川一、至二小倉一入二于大池一、〉大池〈在二小倉村一、舊名巨椋江、周廻四里許半、爲二紀伊郡一、〉
p.1221 宇治河作歌二首 巨椋乃(オホクラノ)、入江響奈理(イリエトヨムナリ)、射目人乃(イメヒトノ)、伏見何田井爾(フシミガタヰニ)、雁渡良之(カリワタルラシ)、
p.1221 古蹟 市磯(イチシ)池〈在二池内村一、而石寸掖上山亦隣二于此一、〉
p.1221 二年十一月、作二磐余池一、 三年十一月辛未、天皇泛二兩枝船于磐余市磯池一、與二皇妃一各分乘而遊宴、〈◯下略〉
p.1221 大津皇子被レ死之時、磐余池般流レ涕御作歌一首、 百傳(モヽヅタフ)、磐余池爾(イハレノイケニ)、鳴鴨乎(ナクカモヲ)、今日耳見哉(ケフノミミテヤ)、雲隱去牟(クモカクリナム)、 右藤原宮朱鳥元年冬十月
p.1221 高市皇子尊城上殯宮之時、柿本人麿作歌、〈◯中略〉 埴安乃(ハニヤスノ)、池之堤之(イケノツツミノ)、隱沼乃(コモリヌノ)、去方乎不知(ユクヘヲシラニ)、舍人者迷惑(トネリハマドフ)、
p.1221 山川 勝間田池〈在二六條村一、廣一千餘畝、〉
p.1221 獻二新田部親王一歌一首 勝間田之(カツマタノ)、池者我知(イケハワレシル)、蓮無(ハチスナシ)、然言君之(シカイフキミガ)、鬚無如之(ヒゲナキガゴト)、 右或有レ人、聞之曰、新田部親王出遊二于堵裏一、御二見勝間田之池一、感二緒御心之中一、還レ自二彼池一、不レ忍二憐愛一、於レ時語二婦人一曰、今日遊行、見二勝間田池一、水影濤濤、蓮花灼灼、可レ憐斷腸、不レ可二復言一、爾乃婦人作二此戯歌一、專輙吟詠也、
p.1222 猿澤池(サルサハノイケ)〈和州添上郡〉
p.1222 猿澤ノ池 興福寺ノ南、大門ノ下、大門ノ南ナリ、隔二大道一程近シ、池ノ廣サ東西五十間餘、南北四十間餘アリ、池中ニ鯉鮒多シ、人是ヲ取コトナシ、池中ニ穴アリテ龍宮ニ通ズト云々、傳云、昔此池邊ニ猿多集ヲ、池水ニウツレル月影ヲ見テ其影ヲ取ントテ、手ニ手ヲ取組テ池上ニ臨ムニ、一ノ猿其手ヲ放ケレバ、猿多水ニ入テ溺死ス、其ヨリ猿澤ト號ト云々、彼猿ヲ埋ミタルシルシトテ、池ノ側ニ松アリ、一説ニハ松院ト云シ、寺ニ弘法大師住シ給シニ、勤行ノ時猿菓ヲ持來テ大師ニ與フ、或曰、其猿佛壇ノモトニ來テ死ス、大師是ヲ憐テ此池邊ニ埋ミ墓ヲ築ル、夫ヨリ猿澤ト云ト、
p.1222 昔ならのみかどにつかうまつるうねべありけり、かほかたちいみじうきよらにて、人々よばひ、殿上人などもよばひけれど、あはざりけり、そのあはぬ心は、みかどをかぎりなくめでたき物になん思ひ奉りける、御門めしてけり、さて後又もめさヾりければ、かぎりなく心うしと思ひけり、よるひる心にかヽりておぼえ給つヽ、こひしくわびしうおぼえ給けり、御門はめししかど、事どもおぼさず、さすがにつねには見え奉る、なを世にふまじき心ちしければ、よるみそかにいでヽ、さるさはの池に身をなげてけり、かくなげつとも、御門はえしろしめさヾりけるを、事のつゐで有て、人のそうしければ、聞しめしてけり、いといたうあはれがり給て、いけのほとりにおほみゆきし給て、人々に歌よませたまふ、かきのもとの人丸、 わぎも子がねぐたれがみをさるさはのいけのたまもと見るぞかなしき、とよめる時に、御門、 さるさはのいけもつらしなわぎも子がたまもかつかばみづぞひなまし、とよみ給ひけり、さてこのいけの〈◯の以下四字、據二一本一補、〉ほとりに、はかせさせたまひてなん、かへらせおはしましけるとなん、
p.1222 元祿十四年五月二日戊子、抑大乘院僧正、〈信覺〉故前關白〈房輔公、去年正月十一日薨、〉末子也、〈◯中略〉去年
p.1223 正月喪レ親、仍社邊之事自遲々、然而當正月重服中、強而被レ參レ社、〈◯春日〉去年正月心經會、依二父喪一公事延引、當年正月以來猿澤池水變色、去月改水澄了、是此恠歟、
p.1223 【益田池】(マスダノイケ)〈和州高市郡、弘仁十三年屬二旱魃一、帝勅二藤繩主、僧眞圓一、新令レ穿レ之、釋空海制二碑銘一、見二性靈集一、〉
p.1223 大和州益田池碑銘并序 若夫、感星銀漢下灑之功深、湖水天池上潤之徳普、故能屮芔因レ之而鬱茂、蟲卵頼レ之而長生、至レ若二八氣播殖、五才陶冶一、北方之行、偏居二其最一、坎之爲レ徳遠矣、皇矣哉、粤有二益田池一、兩尊鼻子之州、八烏初導之國、地是漢諳之舊宅、號則村井之故名、去弘仁十三年仲冬之月、前和州監察藤納言紀大守末等、慮二亢陽之可一レ支、歎二膏腴之未一レ開、占二斯勢處一、奏請之綸詔即應、爰則令二藤紀二公、及圓律師等剏一レ功、未レ幾皇帝〈◯嵯峨〉逝駕汾レ襄、藤公從レ之辭レ職、紀守亦遷二越前一、今上〈◯淳和〉膺二堯揖讓一馭二舜寶圖一、照二玉燭乎二儀一、撫二赤子於八島一、簡二伴平章事國道一代撿二國事一、並拔二藤廣一任二判史一、兩公撿二挍池事一、於レ焉青鳧引レ塊、數千之馬日聚、赤馬駈レ人、百計之夫夜集、旣而車馬轟々而電往、男女磤々而雷歸、土雰々而雪積、堤倐忽而唐騰、宛如二靈神之埏埴一還疑二洪鑪之化産一、成也不レ日、畢也不レ年、造レ之人也、辨レ之天也、爾乃池之爲レ状也、左二龍寺一右二鳥陵一、大墓南聳、畝傍北峙、米眼精舍鎭二其艮一、武遮荒壠押二其坤一、十餘大陵聯綿虎踞、四面長阜邐迆龍臥、雲蕩二松嶺之上一、水激二檜隈之下一、春繡映池、觀者忘レ歸、秋錦開林、遊人不レ倦、鴛鴦鳧鴨、戯レ水奏レ歌、玄鶴黄鵠、遊レ汀爭レ舞、龜鼈延レ頸、鮒鯉掉レ尾、淵獺祭レ魚、林烏反レ哺、洎レ如二積水含一レ天、疊山倒レ景、深也似レ海、廣也超レ淮、笑二昆明之非一レ儔、晒二耨達之猶少一、虎嘯鼓濤、則驚汰沃レ 、龍吟决堤、則容與不レ飽、襄レ陵之罔象、不レ得レ溢二其塘一、燃レ山之女魃、不レ能レ涸二其底一、六郡蒙レ潤、萬澮湯々、一人有レ慶、兆民頼レ之、舞之蹈之、詠二千箱一以擊レ腹、手之足之、唱二万歳一而忘レ力、歎二蒼海之數變一、索二銘詞乎餘筆一、貧道不才當レ仁、固辭不レ能、課レ虚吐レ章、迺爲レ銘曰、 希夷象帝 帝一未レ萌 盤古不出 國常無レ生 元氣倐動 葦芽乍驚 八風扇鼓 五才縱横 日月運轉 山河錯峙 千名森羅 萬物雜起 藤膚旣隱 稷秔爰始 天池人池 灑霑功似
p.1224 前堯後禹 慮厚恤レ人 智略廣運 慈悲且仁 機事不レ測 成功若レ神 潤レ物如レ雨 榮レ人似レ春 綸綍雷震 有司創功 紀藤薙草 果績圓豐 伴相施計 原守在レ公 良才奇術 民具靡レ風、爰有二一坎一 其名益田 堀レ之人力 成也自レ天 車馬霧聚 男女雲連 歸來似レ子 畢レ功不レ年 深而且廣 鏡徹紺色 滉瀁渺瀰 瞻望罔極 百溪之宗 萬派之職 魚鳥涵泳 虬龍斯匿 沃澮汎溢 甾畬播殖 孳々我蓻 稼穟我穡 如レ坻如レ京 足レ兵足食 井田我事 堯帝何力
p.1224 ふかうの池(○○○○○)は、深野池とかくと云、本名は茨田池(○○○)と云、池の廣さ、南北二里、東西一里、所により東西半里許有、湖に似たり、其中に島あり、三ケと云村有、故に此池を三ケのおき共云、三ヶの島に漁家七八十戸あり、田畠も有、此島南北廿町、東西五六町有と云、此池に、鯉、鮒、鯰、はすわたかゑび、鰻、鱺、つがに等多し、漁舟多し、日々舟に乘て漁し、魚を大坂にうる、又蓮多し、芡實多く、葦多し、皆取用てたすけとす、殊に菱尤多し、是を採て飯にし、餻にし、粥にして粮とす、或菓子にもする、又賣て資とす、菱を取日は定日あり、里民云合せて群出、一人にて妄に取事を禁ず、菱に賦税はなし、又此島より漁人共舟にのり、陸に渡りて田をも作なり、
p.1224 二年七月、是月、茨田池(○○○)水大臰、小虫䨱レ水、其虫口黒而身白、 八月壬戌、茨田池、水變如二藍汁一、死虫䨱レ水、溝瀆之流亦復凝結、厚三四寸、大小魚臰如レ夏爛死、由レ是不レ中レ喫焉、 九月、是月、茨田池水漸變成二白色一、亦無二臰氣一、
p.1224 山川 依羅池〈在二庭井村一、俗呼二仁右衞門池一、其三分二爲二新大和川一、當今廣六百六十餘畝、〉
p.1224 六十二年十月、造二依網池一、
p.1224 十三年九月、大鷦鷯尊〈◯仁徳〉蒙二御歌一、〈◯應神〉便知レ得レ賜二髮長媛一而大悦之、報歌曰、瀰豆多摩蘆(ミヅタマル)、豫佐瀰能伊戒珥(ヨサミノイケニ)、奴那波區利(ヌナハクリ)、破陪鷄區辭羅珥(ハヘケクシラニ)、〈◯下略〉
p.1224 不忍池の辨財天の事
p.1225 一問曰、只今上野忍ばずの池中島の義は、以前より立來りたる事や、答曰、右中島の義を我等承り及候は、東叡山開けし以後、天海僧正と、水谷伊勢守殿義は入魂に有レ之、或時僧正の方へ、水谷殿振廻に被レ參候節、伊勢守殿被レ申るヽは、當山の義は、都の叡山に准じ、東叡山と名付らるヽ所に、忍波須の池(○○○○○)有レ之候は、幸ひの義に候間、池を湖水になぞらへ中島を築き、竹生島をうつし、辨天堂を建立有つては如何なりと也、僧正聞たまひ、夫をこそ我等願ひ候得共、池水殊の外深く、中々築き立られ申事にては無レ之由、諸人申に付、其通りに致置となり、伊勢守殿被レ申るヽは、たとへ何程水底深く候にも致せ、小島の一つ許り築立候と有るは、いと心安き事なり、幸今度淺草川除の御普請被二仰付一るヽと、夫より人夫をあまた呼寄置候、右の御普請相濟次第、直に池中の島普請可二申付一候間、十日計りが間、人足共の罷在候所と、土取り場迄の義を、當山の中にて御差圖あれと有レ之ければ、僧正の御申候は、人足共の居所の義は、何程なり共寺中に於て可二申付一也、總て寺院方の山門先の場廣なるは不レ存事に候間、池の端より上手の土をば、いか程なり共、入用次第に御取らせ候様にと有レ之也、其内に御普請も相濟候に付、淺草川より舟を持入、十日計りが間に島をつき立、辨天堂をも伊勢守殿建立被レ致候と也、伊勢守殿御申には、諸人參詣の爲め、辨天繁昌の爲に、其上陸續きに可二申付一哉と有れば、僧正被レ申るヽは、竹生島に准じ、舟にて往來致したるが能く候と被レ申ければ、夫よりもはるか後迄も、舟にて往來仕るとなり、
p.1225 江戸の地名これかれ 宗祇法師が回國雜記といふ物にいはく、次の日淺草をたちて新羽といへる所におもむき侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへるところにて、松原の有ける陰にやすみて、霜のヽちあらはれにけり時雨をばしのびの岡の松もかひなし、こヽを過てこいし川といへるところにまかりて云々、とりごえの里といへる所に行ければ云々、柴の浦といへる所にいたり
p.1226 ければ云々といへり、此道なみを見れば、忍びの岡とあるは、今の東叡山の地と聞えたり、さておもへば不忍の池といふ名も、忍びの岡より出たるにやあらん、
p.1226 不忍池 大江戸東叡山の下にあり、この池を不忍の池とこヽろえたるは誤なり、しのばずの池は、すなはちしのぶの池なり、ふをのべて、はすとはいへるなり、〈こはいみじき強説なり、安昌別に考おけり、〉茂睡翁の鳥の跡といへる書にいはく、あるひとのいふ、しのばずの池は、しのぶが岡につきたる池なる故、しのぶが池也、それをしのばずといふは、は文字を父とし、す文字を母として、かへしを見ればふ文字也、不忍の池にはあらず、忍が池なりといへりとしるせり、
p.1226 一武州駒込の御別莊より、不忍池を見渡し、風色面白かりけるに、夫より御覽の爲、其趣を御門主へ御願ひ有レ之、東叡山の麓に桃多く御植させ、御遠望なされ候、
p.1226 四年二月甲子、天皇幸二美濃一、〈◯中略〉天皇欲二得爲一レ妃、幸二弟媛之家一、弟媛聞二乘輿車駕一、則隱二竹林一、於レ是天皇權令二弟媛至一、而居二于泳宮一、〈泳宮、此云二區玖利能彌揶一、〉鯉魚浮レ池、朝夕臨視而戲遊、時弟媛欲レ見二其鯉魚遊一、而密來臨レ池、〈◯下略〉
p.1226 元年十一月乙酉朔、詔二群臣一曰、朕未レ逮二于弱冠一、而父王〈◯日本武尊〉旣崩之、乃神靈化二白鳥一上天、仰望之情、一日勿レ息、是以冀獲二白鳥一、養二之於陵域之池(○○○○)一、因以覩二其鳥一、欲レ慰二顧情一、則令二諸國一、俾レ貢二白鳥一、
p.1226 三年十一月、蘇我大臣蝦夷、兒入鹿臣、雙二起家於甘檮岡一、〈◯中略〉更起二家於畝傍山東一、穿レ池爲レ城(○○○○)、起レ庫儲レ箭、恒將二五十兵士一繞レ身出入、〈◯下略〉 ◯
p.1226 濆〈夫文反、平浱也、水涯也、水支波、又伊曾、又波万、〉
p.1226 汀 唐韻云、汀水際(○○)平沙也、他丁反、〈和名三左木〉
p.1227 按美岐波(○○○)、水際之義、故以下訓二水際平沙一之汀上充レ之、後多與二奈岐佐一混言、廣本作二三左木一誤、按、類聚名義抄、伊呂波字類抄、並訓二三幾八一、不レ訓二三左木一、〈◯中略〉廣韻同、按、玉篇、汀水際平沙也、孫氏蓋依レ之、説文、汀平也、
p.1227 みぎは 汀をよめり、水際の義也、唐韻によれる也、新撰字鏡に濆を水ぎはとよめり、
p.1227 延喜御時屏風に つらゆき 雨ふるとふく松かぜはきこゆれど池のみぎはヽまさらざりけり
p.1227 この童さすがに恥ていはず、しゐてといへば、いへる歌、 ゆく人もとまるも袖の涙川汀のみこそぬれまさりけれ、となんよめる、
p.1227 風のいとはげしければ、しとみおろさせ給に、四方の山のかヾみとみゆる汀の氷、月かげいとおもしろし、
p.1227 溝 釋名云、田間之水曰レ溝、古候反、縱横相交稱也、〈和名三曾〉 渠 同上
p.1227 神代紀溝字、齊明紀渠字同訓、欽明紀洫字、新撰字鏡坑字、亦訓二三曾一、按、説文溝水瀆也、渠水所レ居也、二字義不二全同一、然呂氏春秋上農篇注、渠溝也、故云三又用二渠字一也、
p.1227 みぞ 溝渠をよめり、水裾の義成べし、新撰字鏡に坑もよめり、
p.1227 溝 まけみぞかたといふは、まうけたるみぞのかたなり、池などの水出道也、さくたのうなで〈田溝池〉 うなでとは〈溝名也〉
p.1227 うなて 日本紀に溝をよめり、八雲御抄にも、うなてはみぞといふと宣へり、㽗手の義なるべし、繩手の類也、
p.1228 六月晦大祓〈十二月准レ之〉 天津罪〈止〉畔放、溝埋(○○)、樋放、頻蒔、串刺、〈◯下略〉
p.1228 一書曰、日神尊以二天垣田一爲二御田一、時素戔嗚尊、春則塡レ渠(ミゾ)、毀レ畔、〈◯中略〉 一書曰、〈◯中略〉故素戔嗚尊、妬害二姉田一、春則廢渠槽、及埋レ溝(ミゾ)毀レ畔〈◯下略〉
p.1228 九年〈◯仲哀〉四月甲辰、旣而皇后〈◯神功〉則識二神教有一レ驗、更祭二祝神祇一、躬欲二西征一、爰定二神田一而佃之時、引二儺河水一欲レ潤二神田一、掘レ溝及二于迹驚岡一、大磐塞之不レ得レ穿レ溝、皇后召二武内宿禰一、捧二劒鏡一令レ禱二祈神祇一、而求レ通レ溝、則當時、雷電霹靂、蹴二裂其磐一令レ通レ水、故時人號二其溝一、曰二裂田溝(サクタノウナテ)一也、
p.1228 四年十月、堀二石上溝(ウナテ)一、