https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 我國ノ地勢、幅員狹隘、加フルニ山脈其脊梁ヲ走リ、殆ド平野ト稱スベキモノナキヲ以テ、大河ノ洋々タルモノヲ見ズ、概ネ半バ溪流ニシテ船舶ヲ進ムルニ便ナラズ、故ヲ以テ大川ト稱スルモノニシテ、猶ホ急流矢ヲ射ルガ如キアリ、即チ駿河ノ富士川、出羽ノ最上川ノ類是ナリ、 凡ソ本土ニ在リテハ、東山道其脊梁ニ當ルヲ以テ、東海北陸ノ諸川、皆源ヲ此ニ發ス、即チ木曾川、天龍川、大井川、富士川、利根川ノ諸川ハ東海ニ流レ、筑摩川阿賀川、庄川等ハ北陸ニ落ツ、而シテ阿武隈川、北上川、最上川等ハ奧羽ノ巨流タリ、其他南紀ノ紀ノ川、熊野川、山陰ノ江川、由良川、山陽ノ東大川、西大川、九州ノ筑後川、求摩川、大野川、川内川、四國ノ吉野川、北海道ノ石狩川、十勝川、等皆海内ノ巨川ト稱ス、其治水ニ關スル事ハ、政治部水利篇ニ詳ニセリ、

名稱

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137 河 川也、音何、爾雅曰、衆流注海曰河、昌縁反、〈和名加波〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1137引文原書無載、按廣韻、太平御覽並引蔡邕月令章句曰、衆流注海曰川、源君引之、誤爲爾雅也、説文、川貫穿通流水也、即是義、釋名、川穿也、穿地而流也、爾雅李巡注、水流而分、交錯相穿、故曰川也、按、加波變也、謂水道變遷不一レ常也、又按、説文、河水出燉煌塞外昆侖山、發原注海、玉篇廣韻同、是河本所昆侖之水名、所謂黄河即是、水經河水注、引春秋説題辭云、河之爲言荷

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 也、荷精分布、懷陰引度也、轉爲凡水名、後漢書酈炎傳、韓信釣河曲注、河者水之總名也、故云又用河字也、廣本標目作河、正文唯作川也音何四字、蓋誤也、刻版本同、下有爾雅曰衆流注海曰河、昌縁反、和名加波十六字、後人依別本増、非那波氏之舊、其曰川作曰河者誤、

〔和漢三才圖會〕

〈五十七水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 川〈音穿〉 河音何、和名加波、 䂦(イシカキ)音軫、累石致川之廉者也、 釋名、川穿也、穿地而流也、周禮、匠人爲溝洫、耟廣五寸、其二㭒爲耦、一耦之伐廣尺深尺、謂https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif 、〈音畎〉倍https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif之遂、倍遂曰溝、倍溝曰洫、倍洫曰巜(クハイ)〈澮音〉https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif 巜之水會爲巛(カハ)也、

〔段注説文解字〕

〈十一上水〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 河河水〈各本水上無河字、由盡删、篆下複擧隷字、因并不删者、而删之也、許君原本當河水也、三字河者篆文也、河水也者其義也、此以義釋形之例、毛傳云、洽水也、渭水也、此釋經之例、〉出敦煌塞外昆侖山、〈句〉發原注海、〈◯中略〉从水可聲、〈乎哥切十七部〉

〔段注説文解字〕

〈十一下川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 川毋、穿通流水也、〈毋各本作貫、毋穿物持之也、穿通也、巛則毋穿通流、又大於巜矣、水有始出川者、如爾雅水注、川曰谿、許云、泉出通川爲谷是也、有絶大乃謂川者、如皋陶謨https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif 巜距川、攷工記澮達於川是也、本小水之名、因以爲大水之名、〉虞書曰〈謂古文皋陶謨〉https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/00000001d7d7.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif巛、〈歫各本作距、今正、今尚書作畎澮距川者、後人所改也、〉言深https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/000000018fd0.gif 巜之水會爲川也、〈此偁尚書之、以見尚書之川、與川字、有上レ間矣、川今昌縁切、古音在十三部、讀如春、雲漢之詩是也、〉凡川之屬皆从川、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 河カハ 義不詳、川の字讀む事また同じ、川また讀てカレと云ひしは百濟の方言也我國の語に川流をナガレといふ事も、彼國の方言に因れるなるべし、〈即今も朝鮮の方言に、川を呼びてカイといふなり、〉川の名にナガラといふ所々に聞えて、長柄の字を用ゆる也、即是長(ナガレ)川の義と見えたり、

〔倭訓栞〕

〈前編六加〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 かは 河又川をよむは變るの義、逝水の晝夜にとヾまらず、淵瀬の移り變るをいふ也、人の鑿開きたるは渠也、又水字をよみし事、日本紀、萬葉集に見えたり、

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1138 河 はやたつと云 玉水ともいふ かはうちとは、山の中なる川也、〈たとへば、川上の流出はじめ也、〉 せき川〈寛平菊合に、あふさかによめり、〉 あさ ゆふ よ川〈鵜飼也〉 山 谷 瀧 此 はや みそぎ を たま〈うの花さける川也〉夏 そま 冬 ゆく〈万〉 せき〈在源氏宿木〉 鵜川 いそともよめり、万に、さヾれ浪よきてながる

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 るはつせ河よるべきいそのなきがわびしき、 おきともよめり、万に、よしの河をきとよめり、古今にもあり みなと河、入海の川也、 風 霧 おろし 浪 水 瀬 岸 竹 柳 藻 社 原 舟 をさ しつすけ へ をと 口 上 渡 すヾみ かり 戸 千鳥 鳥 せき 淀 内

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 川 はや河、〈たつと云〉川うち、〈◯中略〉せき川、〈◯中略〉朝川、夕川、夜川、〈鵜飼也〉山川、谷川、瀧川、此川、せ川、御祓川、御手洗川、〈◯中略〉玉川、〈◯中略〉夏川、冬川、杣川、〈◯中略〉ゆく川、鵜川、湊川、〈入海の河也〉川つら、川風、川霧、川おろし、川波川水、川岸、ちかき川、〈源氏也、かも川の事也、〉川瀬、川竹、〈ながれてと讀り〉川柳、川藻、川社、川わだ、川合、川原、川おさ、山川のそば、〈◯中略〉山川あたりは、こほる岩、わた川しづすけ〈八雲御説也、不知、〉川邊、川をと、川口、川上、川渡、川がり、川凉み、川戸、川門、川千鳥、川鳥、江川、川せき、川淀、川そひ、いしなみを川、〈石多き河の事也〉いさヽを川、

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 瀬 説文云、瀬音頼、水流於砂上也、〈世〉湍 唐韻云、他端反、一音專、〈和名世〉急瀬也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1139 新撰字鏡、㶖㴸訓波也支世(○○○○)、灘訓加波良、又世又和太世(○○○)、本居氏曰、世指斥其處之言、古事記謂苦惱之時苦瀬、古歌謂水可掲度之處渡瀬(○○)、謂相逢之時逢世、謂激泉如涌之處多伎都世(○○○○)、謂疾流如奔之處早世(○○)、又水之可掲度、必於淺處、故泛謂水淺處世、不必掲度之處也、淵瀬之世是也、〈◯中略〉按廣雅、湍瀬也、楚辭九歌注、瀬湍也、漢書注臣瓚曰、瀬湍也、呉越謂之瀬、故湍瀬同訓、王念孫曰、瀬之爲言厲也、厲疾也、石上疾流謂之瀬、故無石而流疾者、亦謂之瀬、楚辭九章云、長瀬湍流泝江潭、兮是也、史記河渠書云、水多湍石漕、湍之言遄也、爾雅遄疾也、其無石而流疾者、亦謂之湍、孟子、性猶湍水是也、合言之則曰湍瀬、淮南子原道訓、漁者爭處湍瀬、高誘注云、湍瀬水淺流急之處也、山田本、標目瀬作湍、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 倭名鈔に、説文を引て、瀬はせ、泉流於砂上也と注せり、又萬葉集抄に、瀬といふは淺くして、せぜらき浪たつをいふなりとも見えたり、さらばセと云ひしは塞(セ)の義にて、水の砂石のために塞がれて分れ流るヽ也、されば一瀬ともいひ、瀬々ともいひ、七瀬、八瀬、八十瀬なども云ひしなり、〈古語にセといひしは塞(セ)の義あり、されば塞の字讀てセキともセクともいふなり、そのキクなどいふが如きは、みな語助なり、〉湍の字讀てセといひしは、其字の音によれるなり、〈倭名鈔に唐韻を引て湍他端反、一音專、讀てセといふと見えたり、〉

〔倭訓栞〕

〈前編十三世〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 せ 瀬は、説文に水流砂上也とみゆ、〈◯中略〉古事記に、青人草之落苦瀬といへる辭見えたり、水淺くて舟かよひがたきに喩へて、神代よりかくはいへるにや、歌にこヽを瀬にせん、逢瀬、うき瀬、戀しき瀬、うれしき瀬などよみ、俗にやる瀬なし、瀬こし、瀬ほろばかしなどいふ是也といへり、湍を、日本紀に、せとも、たきともよめり、説文に疾瀬也と注す、新撰字鏡に㶖㴸をはやきせとよみ、歌に山のたきつ瀬などいへる是なり、灘をなだと訓ずれど、増韻に瀬也と見え、新撰字鏡に、わたせとも、かはらぐせともよみたり、七里灘を嚴陵瀬ともいふ事、大明一統志に出たり、古へはせとよみしにや、新古今集に貫之は曲水の宴せしに、月入花灘暗といふをよめる、坂上是則、 花ながすせをもみるべき月かげのわれて入ぬるはまの遠かた、此時の壬生忠岑が歌は、新拾遺集に入て、それもまたせとよめり、題の句は白樂天が詩なり、

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 瀬 あさせ はやせ くだりせ のぼり瀬 ひらせ かみつせ ひとつせに浪立さらひ行水と云り〈万〉 のちせ〈万〉 かも河の後せしづけみといへり

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 瀬 やまぶきのせ、〈山万、宇治川也、〉 ふる河の〈大源氏〉 となせ〈山大井也〉

〔古今和歌集〕

〈十八雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1140 題しらず 讀人しらず 世のなかは何かつねなるあすかヾは昨日の淵ぞ今日は瀬になる

〔源平盛衰記〕

〈四十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 盛綱渡藤戸兒島合戰附海佐介渡海事 同〈◯元暦元年九月〉十八日、〈◯中略〉三川守範頼モ、室ノ泊ニ有ケルガ、舟ヨリ上リ、同國〈◯備中〉西河尻、藤戸ノ渡ニ押寄テ陣取、源平海ヲ隔テ磬ヘタリ、海上四五町ニハ過ザリケリ、〈◯中略〉爰ニ佐々木三郞盛綱、夜ニ入テ案ジケルハ、渡スベキ便ノアレバコソ、平家モ招ラメ、遠サハ遠シ、淵瀬ハシラズ、如何ハセント思ケルガ、其邊ヲ走廻テ浦人ヲ一人語ヒ寄テ、白鞘卷ヲ取セテ、ヤ殿、向ノ島ヘ渡ス瀬ハ無カ、教給ヘ悦ハ猶モ申サント云ヘバ、浦人答テ云、瀬ハ二ツ候、月頭ニハ東ガ瀬ニナリ候、是ヲバ大根ノ渡ト申、月尻ニハ西ガ瀬ニ成候、是ヲバ藤戸ノ渡ト申、當時ハ西コソ瀬ニテ候ヘ、東西ノ瀬ノ間ハ二町計、其瀬ノ廣ハ二段ハ侍ラン、其内一所ハ深ク候ト云ケレバ、佐々木重テ、淺サ深サヲバ爭カ知ルベキト問ヘバ、浦人、淺キ所ハ浪ノ音高ク侍ルト申ス、サラバ和殿ヲ深ク憑ム也、盛綱ヲ具シテ、瀬踏シテ見セ給ヘト、懇ニ語ヒケレバ、彼男裸ニナリ先ニ立テ、佐々木ヲ具シテ渡リケリ、膝ニ立所モアリ、腰ニ立所モアリ、深所ト覺ユルハ、鬂鬚ヲヌラス、誠ニ中二段計ソ深カリケル、向ノ島ヘハ淺ク候也ト申テ、夫ヨリ返ル、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈七雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141鳥 明日香川(アスガカハ)、【七瀬】之不行爾(ナヽセノヨドニ)、住鳥毛(スムトリモ)、意有社(コヽロアレバコソ)、波不立目(ナミタヽザラメ)、

〔萬葉集抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 なヽせのよどにすむとりとは、をし鴨などにや、〈◯中略〉つねには瀬と云は、淺くしてせヾらぎには、なみたつをいひ、よどヽは深くして、浪などもたヽぬを云ならはしたれば、瀬といひ、よどヽいふは、かはりてこそ侍るに、是はなヽせのよどヽ、ひとつにいへり、しかれば瀬にとりても、のどかなるところをよめるにや、

〔和漢三才圖會〕

〈六十八越中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1141 相本橋 在浦山舟見之中間 此川乃立山諸地獄所涌出熱水、與雪解流、其水速也如瀧、至末則分爲四十八瀬(○○○○)、〈名黒部川

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 潭 唐韻云、深水也、徒含反、〈和名布知〉 淵 同上

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 崇神紀、仁徳紀淵、新撰字鏡澶、同訓、按廣雅潭淵也、楚辭九章注、楚人名淵曰潭、故云又用淵字也、説文、淵回水也、从水淵象形、左右岸也、中象水貌、又載淵字、云、淵或省水、廣雅、淵深也、管子度地篇、水出於地而不流者、命曰淵、〈◯中略〉廣韻、也作皃、按説文、潭水出武陵鐔成王山、東入鬱林、非此義、説文又云、覃深也、轉爲深水字、俗从水作潭也、與潭水字自別、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 淵、讀てフチといふは、深水(フツ)の義なるに似たり、フとは深也、〈古語にフといひしには、深の義あり、されば深の字、讀てフカとも、フクとも、フケともいふなり、そのカ、ク、ケなどいふは、皆語助なり、其義まへにみゆ、〉ツは即水也、フツ又轉じてフチといふは、土をいひてツヽともツチともいふが如し、

〔倭訓栞〕

〈前編二十六不〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 ふち 淵をいふ、倭名抄に潭もよみ、新撰字鏡に澶もよめり、深水の義なるべし、

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 淵 いはかきふち〈石の廻たる也〉 いは かた あを

〔枕草子〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 淵は かしこふち、いかなるそこの心を見えて、さる名をつきけんといとおかし、ないりそのふち、たれにいかなる人のをしへしならん、あをいろの淵こそまたおかしけれ、藏人などの身にしつべくて、いなふち、かくれのふち、のうきのふち、玉淵、

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 淀 文選江賦注云澱〈當練反、訓與止美、俗用淀字與止、所謂淀度也、〉與淀古字通、如淵而淺處也、

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1142 與止、萬葉集多見、以用語名也、淀渡、見續日本後紀承和九年紀、三代實録、及拾遺集壬生忠見歌、按、淀渡在山城國紀伊郡、〈◯中略〉文選注六十卷、唐李善撰、江賦、拵澱爲涔、注、引劉逵呉都賦注曰、淀如淵而淺、澱與淀古字通、此所引即是、按呉都賦、無淀字、是魏都賦之誤、魏都賦

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 云、掘鯉之淀、劉逵注、淀者如淵而淺也、李善引之以注江賦之澱、故云澱與淀古字通也、江賦注、魏都賦注、並無處字、此恐衍、説文、澱滓垽也、王念孫曰、澱之言定也、其滓定在下也、按如淵而淺之處、必有澱滓、故轉注謂之澱也、是條舊及山田本、尾張本、昌平本、曲直瀬本皆無、廣本亦標淀字、無文選以下數字、獨下總本有之、今録存、刻版本有文選以下字、與下總本同、蓋後人依別本補録也、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 倭名鈔に、文選江賦を引て、澱は讀てヨドミといふ、俗に淀の字を用ひてヨドといふ、澱と淀とは古字通ず、如淵而淺處也と注したり、淀の字もと西域傳に、其水渟居といふ渟の字と音同じといふ事あり、〈轉注古音〉さらば水止曰渟といふものなり、今も俗にヨドムなどいふは、凡事の渟滯せるをいふなり、萬葉集抄には、ヨドとは深くして浪などもたヽず、のどかなる所をいふなりと見えたり、

〔倭訓栞〕

〈前編三十六與〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 よど 和名抄に淀をよめり、寄門の義にや、水のとヾこほりたヽへたる所をいふ、よど川など是也、古今集に、 淀川のよどむと人は見るらめど流れて深き心あるものを、六田のよど、大河のよど、ともに萬葉集にみゆ、

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 淀 むつたのよど〈大、みよしの、〉なヽせの〈まつら川、あすか川、いづれにもあり、〉おほかはよど〈大、 万、みよしの也、〉よど〈山 古今〉

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 淀 河よど 水のよどみ 瀧つせの中にもよどヽいへり おほよど〈◯中略〉 山城淀〈◯中略〉高瀬淀〈河内◯中略〉七瀬淀〈大和◯中略〉大河淀〈同上◯中略〉六田淀〈同吉野郡◯中略〉大淀〈伊勢◯下略〉

〔倭名類聚抄〕

〈一涯岸〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 涯岸 集注云、水邊曰涯、五佳反、涯陗而高曰岸、〈和名岐之〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1143 按、歧、謂屹然有限之貌、與切訓歧留、際訓歧波、段訓歧太同、〈◯中略〉爾雅集註十

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 卷、梁沈璇撰見隋書唐書、其書蓋集諸家注也、今無傳本、爾雅釋丘、望厓洒而高岸、郭注唯云、厓水邊、洒謂深也、此所引蓋釋丘舊注也、王引之曰、洒峭語之轉耳、邶風、新臺有洒、毛傳曰、洒高峻也、峻亦峭也、郭蓋以洒字從一レ水、故訓爲水深、不六書假借之義也、新臺有洒之洒、豈亦得訓爲水深乎、按説文、厓山邊也、轉水邊亦爲厓、俗從水、以別山厓也、説文又云、岸水厓而高者、與爾雅義合、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 岸キシ 倭名鈔に、水邊曰涯、涯陗而高曰岸と見えたり、涯はミナギハといふ者にして、岸は即キシなり、また渚をナギサともいふは、波の限れる所なれば、舊事紀には波瀲の字用ひられしかども、古事記には波限の字を用ひたりけるなり、古記にキと云ひしは限(キリ)の義ありしかば、ミナギハとも、キシとも、ナギサとも云ひしと見えたり、〈岸をキシといひ、際をキハといひ、限をキリといひ、段をキタといふの類、皆限るの義あり、ミナギハといふミは水なり、ナはノといふ詞の轉なり、水の際なるをいふなり、涯岸渚並に水際を云ひしに、さしいふ詞の同じからぬは、各別れし所のありしにや、涯をミナギハといひしは、浦回、磯回などいふ事の如く、水涯の回れる貌をいひ、岸をキシといひしは、細石をサヾレシなど云ひしシといふ言葉の如く、石岸の峭しき貌をいひ、渚をナキサといひしは、荒磯といひしソといふ詞の如く、沙渚の平かなる貌を云ひしも知るべからず、古語にワをハといひしも、ソをサといひしも、并にこれ轉語にてありしなり〉

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 岸 かは岸 かた 万かた山きし 高き岸をばあまそぎといふ

〔倭訓栞〕

〈前編七幾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 きし 岸をよめり、水涯をいふ、際石の義なるべし、日本紀に研をよめり、岸と義通へり、かたきし、きしね、きしのつかさなどよみ、新撰字鏡に墟をきしもとヽよめり、

〔物類稱呼〕

〈一天地〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 河岸かし 江戸にて、かしといふ、〈本町河岸或ハ濱町がしなど云〉大坂にて、はまといふ、〈濱の芝居などいふ〉京にて、川ばたといふ、

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 岸 すみよしのきし〈攝 万 松原 昔あり 忘草 御幸所〉 おほえの〈同 後 良暹歌、雲井にみゆるいこまやま、わたなべやといへり、〉 たつたの〈大〉 みむろの〈同拾、みむろのきしやくづるらん〉 いはしろ〈紀万〉

〔萬葉集〕

〈一雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1144 草枕(クサマクラ)、客去君跡(タビユクキミト)、知麻世婆(シラマセバ)、岸之埴布爾(キシノハニフニ)、仁寶播散麻思乎(ニホハサマシヲ)、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 右一首、清江娘子進長皇子、 姓氏未

〔古今和歌集〕

〈十二戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 寛平御時、きさいの宮の歌合のうた、 藤原としゆきの朝臣 住の江のきしによる浪よるさへや夢の通ひぢ人めよくらむ

〔古今和歌集〕

〈十七雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 題しらず 讀人しらず 我みてもひさしく成りぬ住の江の岸のひめ松いくよへぬらむ

〔倭名類聚抄〕

〈一河海〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 陂堤 禮記云、畜水曰坡、音碑、〈和名豆豆三〉隄又作堤、 塘 纂要云、築土遏水曰塘音唐、又謂之隄

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一水土〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 禮記注二十卷、漢鄭玄撰所引月令注文、説文、陂阪也、一曰沱也、釋名、山旁曰陂、言陂陁也、都々美、見曾禰好忠歌、景行紀堤字同訓、持統紀、陂訓伊計乃川々三、新撰字鏡、坡訓豆豆牟、按都々美、包也、築土包含水之義、新井氏曰、土積之義、山田本、下總本、無下同二字、廣本同、〈◯中略〉按、康熙字典築土遏水曰塘、與此全同、不出典、未何據、説文、隄唐也、廣雅、䧜隄也、故纂要又云、塘亦謂之堤也、按古無塘字、單作唐、周語、陂唐汚庳、以鍾其美、廣本無音低二字、玉篇、堤與隄同、按、説文隄字从阜俗變阜从土、與滯之堤字自別、尾張本、曲直瀬本、標目堤作隄、廣本標目、正文皆作隄、注字亦作隄、下總本無標目堤字、單作陂、

〔東雅〕

〈二地輿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 塘ツヽミ 倭名鈔に纂要を引て築土遏水曰塘、又謂之堤と見え、亦禮記を引て畜水曰陂、隄亦作堤、共に讀てツヽミといふと見えたり、ツヽミとは猶土、土を積みし謂にして、即築土畜水之義也、〈今俗に堤をドテといふは、土堤の字也といふなり、〉堰埭ヰセキといふは、倭名鈔に唐韻を引て、堰埭は以土遏水也と注せり、ヰとは止也、集也、セキとは塞(セキ)也、水を止(ヰ)させ集めて塞くの謂也、

〔倭訓栞〕

〈前編十六都〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1145 つヽみ 堤をよめり、土積の義なるべし、俗にいふ土堤也、塘も同じ、池塘也、俗にいふためいけの意、

〔八雲御抄〕

〈三上地儀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 堤 人めづヽみなどいふは、そへたる也、 ゐでと云は、ゐ堤とかけり、ひきなるつつみなり、 ◯按ズルニ、堤ノ事ハ、政治部上編水利篇ニ、堰埭ノ事ハ、同灌漑篇ニ詳ナリ、

名河

〔枕草子〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 川は あすか川、ふち瀬さだめなく、はかなからむといとあはれなり、おほゐ川、いづみ川、みなせ川、みヽと川、又なに事を、さしもさかしくきヽけんとおかし、をとなし川、おもはずなる名とおかしきなり、ほそたに川、たまほし川、ぬき川、さはだ川、さいばらなどのおもひはするなるべし、なのりその川、なとり川もいかなる名をとりたるにかときかまほし、よしの川、あまの川、このしたにもあるなり、七夕つめにやどからんと、なりひらがよみけんもましておかし、

〔奧義抄〕

〈上ノ下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 河 のとがは みわ河 のとせがは きさのをがは あなしがは〈まきもくの〉 みよしのがは ひのくまがは〈さひのくま〉 うちこせがは ゆふはがは にぶかは あしきのかは いりてみがは むつたの河 なづみ川 かたかひのかは にしきがは あなせのかは はつりがは よしきがは ふるかは〈いそのかみ〉 とりかへがは〈あらひぎぬ〉 やすがは しかまがは ひろせがは とませがは みつかは たどがは かさかがは ひめかは さきたがは しくらがは いづみがは いなむのかは むこがは たましま河 まつらがは ゐなしがは ちくま河 とね河 くしがは あきつのかは〈みよしのヽ〉 くらはしがは おほかはよど あそのかはら みえのかはら そがのかはら〈ますけまき〉 すみだがはら〈いほさきの〉 おほのかはら ゆげのかはら にぶのかはら おほやがはら

〔八雲御抄〕

〈五名所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1146 河 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1147 いづみがは〈山万 渡をとをみ 狛山にかよはすといへり、みかのはらわきてながるヽ、はヽその杜のもと也〉 をとは〈同古今兼輔西坂本也〉 をもがは〈同野行幸、行平、〉 うぢ〈万、 やそうぢ川 あじろ まきのしま山ぶきあり、橘の小島とあり、鵜河、慈圓歌、〉 しら〈同古 貞文、素性〉 かも〈山万〉 よど〈同古 おほよどヽ云事はあれど、非普通事、ひが事也、不集入、在世繼相模歌、〉 むめづ〈同拾〉 みたらし〈古賀茂〉 おほゐ〈同拾 鵜川立となせのたき有〉 かつら〈同 大井川のしもはかつら也、鵜川立、〉 おほはら〈同拾惠慶〉 なぎの〈同万〉 きぶね〈同社〉 ありす〈同、辨院御所、〉 よしの〈大、万、 見よしの川とも〉 あすか〈同 万ははし、〉 〈紅葉、せヾのいふちせかはる〉 たつた〈同紅葉 古今にはみむろの山のすゑとみゆ、かつらぎもちかし、後撰にはいはせのもりちかし、〉 はつせ〈同 万 とませとも〉 きませ〈同〉 神なび〈同 万山ぶき〉 さほ〈同、万 千鳥 紅葉、 霧 忠岑歌蘭〉 くらはし〈同 万、 はしだての川、しづすげ、〉 なつみの〈同 万 よしの也、かもぞなくなるやまかげにして、〉 あきつ〈同 万 よしの也、無絶〳〵 といへり、〉 みわ〈同 万 蛙、かはきよき也、玄賓、きよきながれとよめるは、三輪、清淨によせてよめる也、〉 やつり〈同、万、〉 のと〈同 万 みかさ山近〉 あなし〈同 万 まきもくのあなし〉 にぶの〈同万 まきながす川也、舟かよはすといへり、〉 こせ〈同万〉 ひろせ〈同 万 そてつくはかりあさしと云り、〉 むつだの〈同 万 柳、かはづ、〉 のとせの〈河内 万 のとせ川は、攝津にも有と一説也、たかせなるのとせの、〉 ひのくま〈同 万 是みちの國のあぶくまをいふといへるも一説なり、〉 あまの〈同、又たなばたのは空なり、〉 よしき〈同 万 春日野也〉 たけ〈河内、拾、躬恒、〉 むこ〈攝、万、〉 みなせ〈同万〉 ゐな〈同 万 しながとり〉 いざや〈近 万とこの山なる、〉 あと〈同 万 折たりしまの〉 せた〈同、橋あり、〉 きぬ〈同〉 やす〈同 万 みかみのやまのすそなり、〉 たながみ〈同、拾、あじろ、元輔、〉 すヾか〈伊勢 万 やそせよこえにこえむと云り、〉 なみだ〈同、古、〉 みや〈同、神宮、新古、定家、〉 神ぢ みもすそ〈同、後拾、經信、〉 いすヾ〈同、新古、匡房、清輔、みもすそ河名云々、〉 わたらひ〈同 万 わたらひの大河のべのわかくぬき〉 いなみ〈播 万 いなべの川ともいへり〉 しかま〈同 万海に出〉 たと〈美万〉 せきのふち〈同、古、ふちがはとも、〉 みつ〈參 万 さてさす〉 あやの〈讃、後拾、あやの川べ、あや河とも、〉 ちくま〈信 万 さヾれいし〉 にしき〈能、万、〉 かたかひ〈越中、万、〉 おかみ〈同 万 紅匂をとめ〉 賣比〈同 万 かざりせしやそのともを〉 うさか〈同 万、 瀬 多 わがむまのあがきの水にきぬぬれぬ〉 さみづ〈同 万 あさこきしつヽうたへあま人〉 さきた〈同、万、〉 みなのせ〈相 万 かまくらのしほみつ〉 とね〈上野、万、〉 あそ〈上野万、〉 たま〈武 万 さらすてづくり、陸奥國歟〉 くし〈常、万、〉 つくば〈同〉 こひせ〈同 万しほ舟〉 みなの〈同、後撰、つくばねの峯よりおつる、〉 もがみ〈出羽、古、いな舟、早川なり、〉 あぶくま〈陸、古、あぶくまにといへり、〉 なとり〈同、古、忠岑、〉 あひづ〈同〉 しら〈陸〉 ころも〈同、拾、〉 あしきの〈筑前 万 たまくしげあしきの〉 そめ〈同、後撰、みそめつ、あひそめかはなどいへり、清輔抄にあり、〉 うるし〈同、拾、〉 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 おもひ〈同、後撰、伊勢、〉 まつら〈肥前 万 まつら川たましまのうらとよめり、〉 たましま〈同 万 まつらなる、あゆつる、〉 しら〈後撰、越、筑前國とも、〉 みやのせ〈万 うちひさす〉 はや〈相、万、〉 ゆふは〈万〉 いひあひの〈万 山きはの雪はきえぬをありや水うらと云り、清輔抄には、いりあひ川と云り如何、〉 とりかへ〈万〉 さくら〈常陸、後撰、貫之、〉 ちとせ〈筑後〉 ほそたに〈備中〉 をきなか〈万 にほ鳥の〉 きよたき〈山、金、西山也、待賢門院堀川、〉 きそぢ〈信〉 きの〈紀〉 いはた〈同〉 くまの〈同〉 をとなし〈同〉 なヽせ しくら〈越中、うかは立川也、〉 たまほし みヽと〈山、七瀬祓、〉 いくたの〈攝〉 みなと〈同、只海に入湊也、但攝津國爲本、〉 すみだ〈下總、いほさきの、駿河とも、〉 いつぬき〈美、むしろたの鶴、〉 さはた〈藤顯仲、金、〉 とみのを〈いかるかの、拾、〉 ほり〈山、詞、好忠〉 なか〈同、後、京極川也、以二條上京極川、是中川、〉 あくた〈攝、金、われをみしまのあくた川といへり、〉 いもせ〈大〉 さのヽ中〈千、仲綱、〉 ゐでの〈山、新、匡房、ゐでの玉川とも、〉 なくのを〈山、新古今、八代女王、〉 せみのを〈同、鴨長明、〉 ときのを〈駿、俊頼、〉 ふじのしば〈同、同上、〉 たま〈のだのたま川とも、能圓、つの國にもあり、〉 ふる〈大、源氏、〉 せり〈山、野行幸、行平、〉 ふじ〈駿〉 よろし〈大、かすがにあり、〉 ほそ〈同、万、〉 みつ〈三、万九、〉 かたあすは〈万五〉 きさのを〈大 万よしの也〉 ぬかや〈万 あさかしはぬかや、在清輔抄、〉 つぎのを〈豐前宇佐宮也〉 そま〈詞、好忠、只杣すか所の河也、又名所歟可尋、〉 ましは〈金、公長卿、〉 ちヽ〈長和元大嘗〉 いづみ〈山、みかのはらの渡也、〉 そで〈同、袖也、長和元大嘗、〉 ひつ〈山〉 いはせ〈大、越中にも有、〉 けた〈但たてかつ舟、連歌には、〉 は〈山〉 ひとよ〈筑後一夜也〉 みなれ〈大〉 みしま〈攝〉 たま〈同〉 ぬのびき〈同、瀧のすゑ、〉 くしだ〈伊勢、齋宮御前川也、〉 さらしな〈信〉 いみづ〈在清輔抄〉 こづ河をは、いどみ川といふ、崇神天皇群兵彼川を中にして、兩方よりたヽかふゆへ也、さては、くずはヽ、屓兵從に屎する故の名也、

〔藻鹽草〕

〈五水邊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1148 川 みのを川〈是かも河の異名也と云て、ふるき物にある歟、〉あのなれ川〈名所歟、未決、〉こづ川〈是をいとみ河と云◯中略〉川尻〈是名所也、攝州也、◯中略〉涙川〈伊勢也◯中略〉中川〈名所ならでも、又是は山城愛郡京極河也、◯中略〉ならせ川、〈是名所未定、八雲御説には名所と云々、◯中略〉いせわたり川〈後撰、是如何、◯中略〉大井川 かはらぬ井せきとよめり〈◯中略〉泉川〈山城相樂郡はヽその森の本也◯中略〉石川〈石見或肥前◯中略〉石ふし川〈紀州◯中略〉石見川〈石見◯中略〉いなみ川〈播州◯中略〉色川〈さがみ〉いはせ川〈大和又越中〉不知哉川〈あふみ犬上郡◯中略〉射水川〈ゑつ中◯中略〉伊津貫川〈みの◯中略〉生田川〈攝津國◯中略〉石踏川〈筑前、駒、〉五十鈴川〈勢州◯中略〉市川〈山城或ははりま◯中略〉妹妋川〈紀州◯中略〉磐田川〈紀州〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1149 〈◯中略〉は川〈山城、八雲御説、〉はや川〈さがみ◯中略〉濱名川〈とをたうみ◯中略〉原川〈同上◯中略〉針川〈伊勢◯中略〉泊瀬川〈大和◯中略〉丹生川〈大和◯中略〉錦川〈能登◯中略〉西川〈或云大井河也◯中略〉新川〈越中◯中略〉細谷川〈大和◯中略〉細川〈大和(中略)又三河〉堀川〈山城◯中略〉星川〈伊勢◯中略〉堀江川〈攝津◯中略〉取替川〈筑後◯中略〉戸難瀬川〈山城◯中略〉鳥籠川〈あふみ◯中略〉利根川〈上野◯中略〉十津川〈大和◯中略〉豐川〈三河◯中略〉ときのを川〈駿州〉富緒川〈大和◯中略〉千々川〈たむば◯中略〉千年川〈筑後◯中略〉筑磨川〈信濃◯中略〉布引川〈攝州◯中略〉音羽川〈山城愛宕郡◯中略〉音無川〈紀州◯中略〉雄神川〈びつ中◯中略〉度會川〈伊勢◯中略〉桂川〈山城◯中略〉紙屋川〈山しろ葛野郡北野の西のかは也◯中略〉賀茂川〈山しろ愛宕郡◯中略〉鴨羽川〈同◯中略〉片足羽川〈河内◯中略〉片貝川〈越中◯中略〉神奈備川〈大和平群郡◯中略〉片瀬川〈相州◯中略〉通川〈河内◯中略〉のしき川〈大和◯中略〉川合〈山城◯中略〉吉野川〈大和◯中略〉横川〈近江◯中略〉淀川〈山城東久世郡◯中略〉よろし川〈大和春日に有◯中略〉吉城川〈大和添上郡◯中略〉玉島川〈肥前松浦郡◯中略〉玉造川〈奥州◯中略〉玉川〈山城◯中略〉玉津小川〈あふみ◯中略〉多度川〈美濃◯中略〉高島川〈あふみ◯中略〉高月川〈同◯中略〉高天川〈大和◯中略〉高瀬川〈大和茨田郡◯中略〉龍田川〈やまと◯中略〉竹川〈かはち◯中略〉田上川〈近江◯中略〉太刀小川〈筑前◯中略〉珠羅川〈越前〉染川〈筑前◯中略〉素鵞川〈石見◯中略〉袖振川〈未勘但大和歟◯中略〉そで川〈山城、八雲御説、〉つくば川、〈常州、八雲御説、〉つきのせ川〈ぶぜん◯中略〉名取川〈奥州◯中略〉名木川〈山城◯中略〉夏箕川〈大和吉野郡◯中略〉長等川〈備中◯中略〉猶小川〈山城◯中略〉長谷川〈山城◯中略〉鳴瀧川〈同◯中略〉昔川〈奥州◯中略〉筵田伊津貫川〈美濃◯中略〉武庫川〈攝州◯中略〉梅津川〈山しろ葛野郡◯中略〉六田川〈大和◯中略〉宇治川〈山しろ◯中略〉うなひ川〈ゑつ中◯中略〉鵜坂川〈ゑつ中◯中略〉染川〈ちくぜん◯中略〉能登川〈大和◯中略〉井手川〈山しろ◯中略〉猪名川〈武州◯中略〉野戸瀬川〈河内◯中略〉野路玉川〈近江◯中略〉後川〈駿河◯中略〉野田玉川〈奥州◯中略〉苧生川〈伊勢◯中略〉大芋川〈丹波◯中略〉翁川〈未勘◯中略〉大原川〈山城◯中略〉思川〈筑前◯中略〉奧津川〈駿河◯中略〉大川〈備前◯中略〉大井川〈山城葛野郡◯中略〉大渡川〈筑前◯中略〉櫛田川〈伊勢◯中略〉久慈川〈常陸◯中略〉倉橋川〈丹波◯中略〉久米川〈大和◯中略〉熊野川〈紀伊◯中略〉草川〈山城◯中略〉黒田川〈美の◯中略〉百濟川〈大和◯中略〉大和川〈大和◯中略〉やつ里川〈同上◯中略〉野洲川〈近江◯中略〉山背川〈山城〉八橋川〈三河〉眞熊野川〈紀州◯中略〉松浦川〈ひぜん◯中略〉卷向川〈大和◯中略〉眞柴川〈未勘◯中略〉待難川〈攝州◯中略〉煙川〈丹波◯中略〉けた川〈但州、八雲御説、〉けつみ川〈山しろ◯中略〉船井川〈たんば◯中略〉二俣川〈武州◯中略〉古川〈大和◯中略〉笛川〈伊勢◯中略〉藤川〈美の◯中略〉富士川〈するが、◯中略〉書卷川〈下總◯中略〉巨勢川〈大和葛上郡◯中略〉衣川〈奥州盤井郡◯中略〉戀瀬川〈常陸◯中略〉童比川

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 〈越中◯中略〉木幡川〈城州宇治郡◯中略〉子持川〈するが◯中略〉氷川〈武州◯中略〉飛鳥川〈大和高市郡◯中略〉會瀬川〈奥州◯中略〉會津川〈奥州、異説云、出羽歟、〉阿武隈川〈奥州安達郡◯中略〉秋津川〈大和◯中略〉穴瀬川〈又穴師河共◯中略〉阿渡川〈近江◯中略〉葦城川〈筑前◯中略〉天川〈河内◯中略〉あ久刀川〈攝州◯中略〉あそ川〈下野、八雲御説、〉有栖川〈齋院御前山城◯中略〉天中川〈遠州◯中略〉佐保川〈大和◯中略〉鷺田川〈越中射水郡◯中略〉櫻川〈常陸◯中略〉さ〈◯さ上恐脱あ〉みづ川〈越中◯中略〉澤田川〈山城◯中略〉佐野中川〈未勘但上野歟、◯中略〉更級川〈信州◯中略〉象小川〈大和◯中略〉紀伊川〈紀州◯中略〉清瀧川〈城州葛野郡◯中略〉貴布禰川〈山城◯中略〉筆川〈遠江◯中略〉木瀬川〈駿河◯中略〉木津川〈山城◯中略〉きませ川〈大和、八雲御説、〉きうち川〈しなの、八雲御説、〉絹川〈近江◯中略〉木綿葉川〈未勘◯中略〉夢前川〈はりま◯中略〉婦負川〈越中◯中略〉目なし川〈新撰六帖、未勘、◯中略〉水無瀬川〈攝州◯中略〉裳洗川〈伊勢◯中略〉宮川〈同◯中略〉水屋川〈大和◯中略〉御手洗川〈山城愛宕郡◯中略〉湊川〈攝州◯中略〉水名川〈山城◯中略〉參川〈三河◯中略〉三輪川〈大和◯中略〉みしま川〈攝州、八雲御説、〉美奈能瀬川〈相州◯中略〉みヽと川〈山しろ◯中略〉美奈の川〈ひたち◯中略〉美豆川〈山しろ◯中略〉御言川〈信濃◯中略〉美豆川〈未勘◯中略〉三尾杣川〈あふみ◯中略〉見馴川〈大和◯中略〉叔羅川〈未勘◯中略〉飾磨川〈播州◯中略〉白川〈山城愛宕郡◯中略〉鹽田川〈しなの◯中略〉しる川〈陸奥、八雲御説、〉信土川〈大和◯中略〉愛智川〈あふみ◯中略〉潦川〈備後◯中略〉廣瀬川〈大和◯中略〉檜隈川〈河内◯中略〉櫃川〈山城◯中略〉一夜川〈ちくぜん◯中略〉這槻川〈ゑつ中◯中略〉最上川〈古は奥州今は出羽◯中略〉諸寄川〈但馬◯中略〉關藤川〈美の◯中略〉關小川〈近江◯中略〉せた川〈近江◯中略〉芹川〈山城◯中略〉瀬見小川〈山城愛宕郡◯中略〉背川〈とをたうみ◯中略〉鈴鹿川〈勢州◯中略〉角田川〈下總◯中略〉濯川〈いせ◯下略〉

山城國/賀茂川

〔運歩色葉集〕

〈賀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 鴨川(カモカハ)

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 【瀬見小河】(セミノヲガハ)〈城州賀茂川本名、出鴨長明集、〉

〔風雅和歌集〕

〈四夏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 六月祓を 圓光院入道關白太政大臣 御祓するゆくせの波もさ夜更けて秋風ちかし賀茂の河水

〔釋日本紀〕

〈九述義〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1150 山城國風土記曰、可茂社稱可茂者、日向曾之峯天降坐神、賀茂建角身命也、神倭石余比古〈◯神武〉之御前立坐而、宿坐大倭葛木山之峯、自彼漸遷、至山代國岡田之賀茂、隨山代河下坐、葛野河與賀茂河(○○○)會至坐、逈見賀茂川而言、雖狹小然石川清川在、仍名號石川瀬見小川(○○○○○○)

〔無名秘抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 一光行賀茂社歌合とてし侍し時、予月の歌に、 石川やせみのをがは(○○○○○○)の清ければ月も流を尋ねてぞすむ、とよみて侍しを、判者師光入道、かヽる河やはあるとてまけになり侍にき、〈◯中略〉のちに顯昭に逢たりし時、この事かたり出て、是はかも河の異名なり、當社の縁起に侍ると申しかば、おどろきて、かしこくぞおぢて難ぜず侍りける、〈◯中略〉是既に老の功なりとなん申侍りし、

大井川

〔運歩色葉集〕

〈遠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 大井河(ヲヽイカハ)〈嵯峨〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 大堰川(ヲホヰカハ)〈城州葛野郡〉

〔山城名勝志〕

〈十葛野郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 大堰〈河、山、岳、里、津、〉 河〈源出丹波國、末流入淀河也、自大井川櫟谷丹波境龜頸三十九町、此中間有大瀬、龍門瀧猿飛〈清瀧川落合〉鵜河〈水尾落合〉等名、〉

〔古今著聞集〕

〈十四遊覽〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 亭子院の御時、昌泰元年九月十一日、大井川に行幸ありて、紀貫之和歌の假名序かけり、

〔大鏡〕

〈三太政大臣頼忠〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 ひとヽせ入道殿〈◯藤原道長〉大井川の逍遙せさせ給ひしに、作文船、管絃船、和歌船とわかたせたまひて、その道にたえなる人々をのせさせ給ひしに、此大納言殿〈◯藤原公任〉のまいり給へるを、入道殿かの大納言、いづれの舟にかのるべきとの給はすれば、わかのふねにのり侍らんとのたまひて、よみ給へるぞかし、 をぐらやまあらしの風のさむければもみぢのにしききぬ人ぞなき

〔拾遺和歌集〕

〈三秋〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 大井川に、紅葉の流るヽをみ侍りて、 壬生忠岑 色々の木のは流るヽ大井川しもはかつらの紅葉とやみむ

大和國/飛鳥川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 飛鳥川(アスカガハ)〈和州高市郡〉

〔西遊行囊抄〕

〈十五下二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1151 飛鳥川 是ハ河州ノ内、大和ノ境ナリ、葛城高天ニ近シ、淵ハ瀬ニト讀ルハ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 此所ナリ、和州河州兩所ニアルコト、和州ノ飛鳥川ノ條下ニモ書之、大和ノハ逝向ノ岡ニアリ、溝川ニテ淵瀬ノ沙汰ニハ不及小流也、

〔古今和歌集〕

〈十八雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 題しらず 讀人しらず 世の中はなにか常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる

〔古今和歌集〕

〈六冬〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 としのはてによめる はるみちのつらき 昨日といひけふとくらしてあすか川ながれてはやき月日成けり

攝津國/水無瀬川

〔倭訓栞〕

〈中編二十五美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 みなせ 水無瀬とかけり、所にいふは攝津島上郡、類聚國史に水成に作る、萬葉集に水瀬川見ゆ、三代實録に水生と書り、〈◯中略〉此川水は砂の下を泳りて行に、又あらはれて流るヽ處もあり、よて古今集にも、水瀬川有て行水ならばこそ、又みなせ川下に流るヽなどよめり、されば水無瀬とも水生とも書るなり、

〔陸西遊行囊抄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 水無川 水上ニ瀧アリ、川幅常ハ二間許ナリ、渡ル所ニテ四間餘ノ小流ナリ、水上ノ瀧ハ、後鳥羽院ノ仙洞ノトキ、新ニ石ヲ立ツクロヒヲコサレタル由、

〔増鏡〕

〈一おどろのした〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 みなせといふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しば〳〵かよひおはしましつヽ、春秋のはなもみぢにつけても、御心ゆくかぎり世をひヾかして、あそびをのみぞしたまふ、所がらもはる〴〵と、川にのぞめるてうばう、いとおもしろくなん、元久のころ、詩に歌をあはせられしにもとりわきてこそは、 みわたせば山もとかすむみなせ川夕は秋となに思けむ

湊川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 湊川(ミナトガハ)〈攝洲武庫郡〉

〔倭訓栞〕

〈前編三十美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1152 みなと みなと川といふも入海の川をいへり、所の名にあれど、歌の名所にあらず、攝州の湊川は矢田部郡也、平通盛こヽに戰死し、楠正成もこヽに終を取れり、

〔陸西遊行囊抄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 湊川 兵庫ノ入口、兵庫ヨリハ東三町許ニアリ、 此川、昔ハ兵庫ノ西ニ流ルトナリ、何ノ時川筋替リタル歟、知タル人ナシ、山川共ニ古歌多シ、又古戰場也、

〔太平記〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 正成兄弟討死事 左馬頭〈◯足利直義〉楠ニ追立ラレテ引退ヲ、將軍〈◯足利尊氏〉見給テ、惡手ヲ入替テ、直義討スナト被下知ケレバ、吉良、石堂、高、上杉ノ人々六千餘騎ニテ、湊河ノ東ヘ懸出テ、跡ヲ切ラントゾ取卷ケル、

芥川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 芥川(アクタガハ)〈攝州島上郡〉

〔倭訓栞〕

〈中編一阿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 あくたがは 芥川の義、御溝をいへりとぞ、古今集灌頂に堀川の異名ともせり、津國の島上郡の所にもよべり、

〔拾遺和歌集〕

〈十五戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 延喜の御時、承香殿の女御の方なりける女に、もとよしのみこまかり通ひ侍りける、絶えて後いひ遣はしける、 承香殿中納言 人をとく芥川てふ津の國の名には違はぬ物にぞありける

伊勢國/五十鈴川

〔運歩色葉集〕

〈伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 五十鈴川(イスヽカハ)〈伊勢〉

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 五十鈴川(イスヾカハ)〈勢州度會郡、御裳濯川本名、事見日本紀、土俗謂之宇治川、〉

〔同〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 【御裳濯川】(ミモスソガハ)〈勢州度會郡、一名五十鈴川、又云宮川(○○)、事見明徳軍記、〉

〔神風行囊抄〕

〈四上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1153 五十鈴川 御裳濯川 宇治川 一流ナリ 或書曰、宇治川トハ、宇治郷ニアル川ナレバ云也、水上ハ五十鈴川、流ノ末ハ御裳濯川也、五十鈴川ノ御宮所ヨリ、二見ノ浦ノ入江マデ二里餘、其所々ニ字ハアリト云共、總テ是ヲ宇治川ト云也、倭姫皇女御宮所ヲ求メ給フ時、二見ノ浦ヨリ御船ニテ入江ヨリ、宇治川ヲ上リニ山川ヲ見廻シテ、行々其勝地絶境毎ニ神社ヲ祝定テ、其ヨリ御裳濯川ヲ經テ五十鈴ノ河上ニ、天照大神ノ御鎭座

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 所ヲ定メ給フ、其御道スガラノ名蹟御遷行ノ次第ハ、皆内外下ニ委ク記之、〈◯中略〉 五十鈴川 五十鈴川トハ、内宮ノ神前、風宮ノ橋ノ水上ヨリ五十鈴川ト名付テ、御鎭座所ヲ五十鈴川上ト云、夫ヨリ二見ノ入江ヲ五十鈴ノ川後ト云ト古記ニアリ、然レバ宇治川之總名ト聞タリ、〈◯中略〉 御裳濯川 鏡石ノ方ノ流ヲ御裳濯川ト云、神宮ノ御前ヨリノ流ヲ五十鈴川トイヘド、御裳濯川モ五十鈴川モ倶ニ宇治川ノ總名ナルベシ、御裳濯川ト號セシハ後ノ號也、

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 五十鈴川〈御裳濯川とも云、又宇治川ともいふ、〉此川二派にして、一派は志州磯部村の邊の谷谷より來る、一流は宇治山々の谷、又志州より流る也、末は中村楠部鹿海村過て二見の海に至る、〈今南より流るヽをみもすそ川、東より流るヽを五十鈴川なりといふは非なり、イスヾといふ義は未詳、五十の鈴を投降し給ひしとの説は用ゆべからず、〉

〔日本書紀〕

〈六垂仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 二十五年三月丙申、天照大神誨倭姫命曰、是神風伊勢國、則常世之浪、重浪歸國也、傍國可怜國也、欲是國、故隨大神教、其祠立於伊勢國、因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮

遠江國/菊川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 菊川(キクカハ)〈本字仇求、遠州榛原郡、事見續太平記、〉

〔東遊行囊抄〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 菊川 昔ハ此所驛宿也、鏃ノ名作アリ、此鍛冶代々此所ニ住ス、 入口小橋アリ、長四間、東ノ出口ニ橋アリ、長十二間、是菊川也、此川ヲ以テ宿ノ號トス、此川上ニ大鹿村ノ下ニ菊ガ淵トテ、菊花多キ所アリト云、川下ハ郡中トテ、横須賀ノ方ヘ落ルナリ、

〔古今著聞集〕

〈十三哀傷〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1154 承久のみだれによりて、中御門中納言宗行卿、關東へよびくだされけるに、菊河といふ所にて、うしなはるべきよしきヽて、遊女の家の柱に書付給ひける、 昔南陽縣菊水汲下流而延齡、 今東海道菊川、於兩岸而失命、 けふすぐる身をうきしまが原にきてつゐに命をまたさだめつる、さしもの事にとりあへず案じつらねられける、あはれにいみじき事也、

〔十六夜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 廿四日、ひるになりてさやの中山こゆ、〈◯中略〉麓の里に菊川といふ所にとヾまる、〈◯中略〉河おといとすごし、 わたらんと思ひやかけし東路にありとばかりはきく河の水

相模國/鞠子川

〔倭訓栞〕

〈前編二十九末〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 まり 鞠子川にて雅章卿 藤枝にかヽりとまらばまりこ川かへり足をものべ足にせむ、まりこ川は、今のさかわ川(○○○○○○)なり、

〔諸國道中袖鏡〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 まりこ川、近年洪水にて、酒勾川と一流になりて、今はなし、〈◯下略〉

〔梅花無盡藏〕

〈二七言絶句〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155關本宿糟屋、是日渡毬子河、〈晦日〉〈相之河曰(○○○○)毬子(○○)、駿之河曰(○○○○)丸子(○○)、其字不同也、〉 最乘寺畔出民家、烏促晨炊小雨斜、毬子長河輕蹴渡、水煙如柳浪如花、

〔東遊行囊抄〕

〈十四上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 酒勾川 常ハ歩渡也、水増トキハ、民家ヨリ川越トテ人夫ヲ出シテ、往來ノ人ヲ扶ク、冬ハ土橋ヲ渡シテ人馬ヲ渡ス、此川上ハ御厨領トテ駿州堺足柄ノ邊ヨリ流出テ、此渡ノ右ノ方五六丁ニテ海ニ入ル也、此川一名鞠子川共云、是ハ古ノ名也、

常陸國/女男川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 女男川(ミナノカハ)〈常州筑波流水〉

〔倭訓栞〕

〈中編二十五美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 みなのがは 水瀬川と書り、常陸の國にあり、源筑波に出て、流れて櫻川に入、其源地中より行が故に、其水のより出るを見ずといへり、一説に萬葉集に、筑波ねの伊波もとヾろに落る水とよめれば、いはもとヾろくばかり水は落たる成べし、

近江國/不知哉川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 不知哉川(イサヤガハ)〈江州鳥籠山麓、今云高宮川(○○○)也、〉

〔淡海温故録〕

〈三犬上郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 犬上川(○○○) 多賀ノ庄犬上川ノ邊ニテ、昔聖徳太子守屋大臣ト戰有ト云、舊跡處處ニ遺緒多シ、此川ヲ名取川共(○○○○)、不知也川共云(○○○○○○)ヨシ、此川ヲ昔ヨリ三名ニ云ヘルヤ、今ハ高宮川、犬上川ト處々ニテ名ヲ異ニス、此川ノ末、湖ニ入ル、其處ヲ床ノ浦ト云ヨシ、

〔萬葉集〕

〈四相聞〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1155 淡海路乃(アフミヂノ)、鳥籠之山有(トコノヤマナル)、不知哉川(イザヤガハ)、氣乃己呂(ケノコノ)〈◯呂恐乃誤〉其侶波(コロハ)、戀乍裳將有(コヒツヽモアラム)、

野洲川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 野洲川(ヤスガハ)〈江州野洲郡〉

〔淡海温故録〕

〈一野洲郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 野洲川 上ハ甲賀郡伊勢界ノ谷峯ヨリ落テ、大川、原鮎川、黒川一ツニ成テ、一ノ瀬川トナル、又鈴鹿峠ノ谷ヨリ蟹ケ坂ノ庄ニ流レ出テ、田村明神ノ御前社ノ下ヲ流レ出テ、田村川ト云、此兩川落合テ、中ヲ横田川ト云川下此處ニテ野洲川ト云、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 佐々木取馬下向事 高綱ハ、〈◯中略〉曉ハ守山ヲ立、野洲ノ河原ニ出ヌ、如法曉ノ事ナレバ、旅人モ未見ケルニ、草鞍置タル馬追テ男一人見ヘ來ル、高綱、和殿ハイヅクノ人ゾ、何ヘ渡ルゾト問ヘバ、是ハ栗太ノ者ニテ候ガ、蒲生郡小脇ノ八日市ヘ行ク者也ト答、名ヲバ誰ト云ゾト問ヘバ、男怪氣ニ思テ左右ナク明サズ、兎角誘ヘ問ケレバ、紀介トゾ名乘タル、高綱ハ、ヤヽ紀介殿、此河渡ン程、御邊ノ馬借給ヘカシ、紀介叶候ハジ、遙ノ市ヨリ重荷ヲ負セテ歸ランズレバ、我モ勞テ不乘馬也、又今朝ノ水ノツメタキ事モナシ、唯渡リ給ヘト云、紀介殿、タヾ借給ヘカシ、悦ハ思ヒ當ラント云ケレバ、〈◯中略〉借テゲリ高綱馬ニ打乘、此ノ馬コソ早我物ヨト思ツヽ、空悦シテ野洲川原ヲ渡ツヽ、鞭ヲ打テゾ歩セタル、

陸奥國/名取川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 名取川(ナトリガハ)〈奥州名取郡〉

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈五名取郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 名取川 水源有二、一則出同郡二道清泉嶽、經村落而東流、至閑上村而入于海、一則出吾妻岳下行澤、而合于野尻邑、其河流過中田驛北、仍曰中田川、夏秋之交設魚梁、入數罟以捕細鱗、漁鮭魚、又世稱埋木灰者、燒河中沈木之、其色紫赤、於歌詠亦賞吟之者多、

〔東山志〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1156 中田 長町まで一里〈◯中略〉 名取川 土橋四十間餘、此名取川の埋木を燒て香爐の灰となす、此川は出羽最上界笹屋峠の邊より流れ出て、一すぢは鎌口の上の山下より流れ、川崎の後を廻りて小野の邊にて二筋落入て、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 中田の前に流れ出る、廣瀬川、名取川も、中田と長町の間にて落合、夫より末の松山の下へ落て、東海に入といふ、

〔古今和歌集〕

〈十三戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 題しらず 忠岑 陸奧にありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり

備前國/細谷川

〔陸西遊行囊抄〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 細谷川 備前備中堺也、吉備ノ中山ノ麓ヲ流ル、水上ハ中山也、小流也、

〔古今和歌集〕

〈二十大歌所御歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 まがねふくきびの中山おびにせる細谷川の音のさやけさ 此歌は、承和のおほむべのきびの國の歌、

紀伊國/妹瀬川

〔運歩色葉集〕

〈伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 妹瀬川(イモセガハ)〈紀州〉

〔續古今和歌集〕

〈十二戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 題しらず 參議篁 身の成む淵瀬もしらず妹背河おり立ぬべき心ちのみして

大川

〔東遊雜記〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 最上川は、世に早川の大河と沙汰せる事ながらも、みなもと遠からず、清水清川及び此所迄の流を見て、諸州の大川にくらべて予が考を記す、第一山城國淀川(○○)、第二武州刀禰川(○○○)、第三は土州四万十川(○○○○)、第四富士川(○○○)、天龍川(○○○)、最上川(○○○)、第五石州よしの川(○○○○)、九州筑後川(○○○)、阿波の相川(○○)なるべし、いまだ予が見ざる所の川に、越後の信濃川(○○○)、當國御物川(○○○)、奧州の北上川(○○○)、阿武隈川の末なり、奧州の川は頓て見る事なれば、後卷に記すべし、予地理の道を好む事ひさし、しかれどもいまだ委しからず、見る人信ずべからず、

〔倭訓栞〕

〈前編六加〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 かは 刀禰川、吉野川、築後川を三大河と(○○○)す、俗に坂東太郞、四國次郞、筑紫三郞といへり、

〔利根川圖志〕

〈一總論〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1157 回國雜記標注利根川條に、本朝一の大河なればとて坂東太郞といふ、これに次ぎたるを四國次郞〈阿波の小鳴戸へ落つる吉野川〉筑紫三郞〈筑後川なり〉これを日本三大河(○○○○○)といへりと見ゆ、又四神

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 地名録卷七に、利根川は坂東太郞と稱し、古より海内七大河の其の一河にして、常水の深、川幅時として定まらず、〈中略〉七大河(○○○)と稱せるは、筑後川〈筑後、〉四萬十川〈土州、〉犀川〈信州、〉淀川〈山城、〉阿武隈川〈奥州、〉北上川〈奥州〉といへり、なほ考ふべし、

攝津國/澱川

〔雍州府志〕

〈一山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 淀川(○○) 源出宇治川、經伏見玆到攝州難波津而入于海

〔六十五大川流域誌〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 澱川流域〈航路延長百六十三里五丁餘〉 水源近江全國各所ノ支川流集シ、琵琶湖トナリ、近江國滋賀郡鳥居川村栗太郡橋本村〈右兩郡界ヲ串流ス〉ニテ湖ヲ分派シ、宇治川(○○○)ト稱ス、山城國宇治、久世、紀伊、綴喜、乙訓郡ヲ經歴シ、山城國紀伊郡水垂村ニテ桂川(○○)ト合流シ、淀川(○○)ト唱フ、又一流ハ伊賀大和國ヨリ發スル名張川(○○○)、伊賀國各所ヨリ發スルヲ長田川(○○○)ト云フ、同國相樂郡北大河原村ニテ右二川合流シ、木津川(○○○)ト稱ス、綴喜郡八幡莊ニ至リ淀川ニ會シ、大和國添上山邊郡、及ビ山城國相樂郡綴喜郡ヨリ發スル諸川ヲ入レ、攝津國島下郡一ツ屋村ニ至リ、右派スルヲ神崎川(○○○)ト唱フ、又西成郡長栖村ニ至リ二派ニ分レ、右派ヲ中津川(○○○)ト唱フ、左派ハ幹川ニシテ安治川(○○○)ト唱フ、大阪牛町難波橋ニテ土佐堀川ヲ左派ス、下流木津川ト成リ、安治川ハ市岡新田天保山ニテ海ニ入ル、河線幹川ノ分二十里十九丁餘、濶百八間ヨリ六百間ニ至ル、

〔畿内治河記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1158 天和三年癸亥、國家有議、大興畿内治河之役、蓋水之爲患、所在有之、而源遠流悍者、其患大矣、衆流相湊、併歸一道、以達於海者、其患最大矣、水患之最大而難治者、無攝之大坂河(○○○○○)、大坂河即淀河也(○○○○○○○)、其源江州琵琶湖流出宇治、由伏見淀城大坂于海、其間五畿及比近州縣諸水、來會甚衆、而大和河、木津河、加茂河、桂河、其最大者也、大和河(○○○)出和州初瀬山東南、合生駒立田等衆河、歴龜瀬石河、至弓削村二股、一久寶寺河、是爲正流、一玉櫛河、至吉田村又分二股、一吉田河、一菱江河、吉田河北趨、滙爲深野新開二巨浸、恩地河及久良加利飯盛等澗壑諸水皆歸之、周廻廣莫、瀰漫數千頃、又南向出森河内、與菱江河倶合正流、至大坂京橋之下、入于淀河、木津河(○○○)出伊賀鹿伏兎谷、傍笠置山

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 城州南方衆山之水悉注之、至淀大橋淀河、賀茂河(○○○)出城州岩屋山北、受鞍馬、貴布禰、八瀬、小原溪澗諸水、遶京城之東、合白河紙屋河、西南入桂河、桂河(○○)出丹州園部西北、會清瀧河、經嵯峨鳥羽賀茂河會、倶入于淀河、淀河實納四大河之流、其上流自湖口宇治、曲折山間、兩岸皆高、巖石麓水流其中、不能患、自宇治而下、始出險、而平地、特以隄防之限、河流緩、而灩沙停積、加之大和河、木津河、桂河並挾泥沙之、壅塞河道、河身日淤、船隻阻滯、一遇霖澇則泛漲湓溢、其勢不得而制、重以百川灌集之威衝蕩潰決、敗壞縣邑、渰沒田盧、畿内之民被其害者、歳以萬數、嗷々怨嗟已數十年矣、〈◯下略〉

〔古今和歌集〕

〈十四戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 題しらず 讀人しらず 淀川(○○)のよどむと人は見るらめど流れて深き心あるものを

〔雍州府志〕

〈一山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 宇治川(○○○) 源出近江國湖水、歴勢多橋、經鹿飛櫻谷、過米炊、歴宇治橋下伏見、〈米炊急流之所、而白波漲起、其色如米泔水、故俗號米炊、〉

〔諸家大系圖〕

〈四平氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 清盛〈◯中略〉 基盛〈(中略)平治年中、下向大和國司之時、於宇治溺死、〉

〔源平盛衰記〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 宇治合戰附頼政最後事 下野國住人足利又太郞忠綱進出テ、淀路河内路モ、我等ガ大事、全ク餘ノ武者ノ向ベキニ非ズ、橋テ引レ河ヲ阻タレバトテ、目ニ懸タル敵ヲ見捨テ時刻ヲ經ルナラバ、芳野法師、奈良法師參集テ、ユヽシキ大事、此河〈◯宇治〉ハ近江湖水ノ末ナレバ、旱事更ニアルベカラズ、武藏ト上野トノ境ニ利根川ト云大河アリ、其ニハヨモ過ジ物ヲ、〈◯中略〉況此河ハ浪早シトイヘ共底深カラズ、岩高シトイヘ共渡瀬多シ、〈◯下略〉

〔源平盛衰記〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1159 高綱渡宇治河事 未ダ川ヲ渡ス者ハナシ、如何カ有ベキト評定様々ナリケルニ、畠山庄司次郞重忠進出テ申ケルハ、事新シ、此川ハ近江湖ノ末、今始テ出テ來タル川ニアラズ、春立日影ノ習ニテ、細谷河ノ氷解、比良

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 ノ高峯ノ雪消テ、水ノカサハ増共、水ノ減事有ベカラズ、足利又太郞忠綱モ、高倉宮ノ御謀叛ノ御時ハ、渡セバコソ渡ケメ、鎌倉殿ノ御前ニテ、サシモ評定ノ有シハ是ゾカシ、始て驚ベキ事ニ非、兼テノ馬用意其事也、重忠渡シテ見參ニ入ント云處ニ、平等院ノ小島崎ヨリ武者二騎蒐出タリ、梶原源太ト佐々木四郞ト也、〈◯下略〉

〔陸西遊行囊抄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 桂川(○○) 是ハ西庄邑ト牛瀬邑ノ間ノ船渡ナリ、歩渡ニモスル川也、桂ノ渡ト云ハ、是ヨリ川上ニ下桂邑ノ前ニアリ、下桂邑上桂邑トテ二邑アリ、下桂邑ハ西七條ヨリ、大原松尾ノ路ヲヘテ丹波ノ峠邑ヘ行順次ナリ、前册ニ記、〈此川上ハ大井川ナリ〉

〔諸州めぐり〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 桂川、舟にて渡る、此河水いといさぎよし、故に都より爰に來て布帛を洗ひさらすものおほし、宋景濂が日東の曲に、渭水西流曲似釣といへるは此川なるべし、是より松尾の社右にみゆ、

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 【木津川】(コツカハ)〈城州相樂郡〉

〔南遊行囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 木津渡 舟渡川、此川ハ源伊州堺ヨリ出テ、笠置ノ邊ヲ流、此渡ニ到、淀大橋ノ下ヲ過、大坂川口又神崎川ニ分流シテ大洋ニ入大河ナリ、此所ニテハ木津川ト云、賀茂ノ渡ノ邊ニテハ木津川ト云、笠置ノ邊少川上ニテ川船ノ往來アリ、昔ハ此渡ヲ狛ノ渡ト云、今ハ木津ノ渡ト云也、

伊勢國/宮川

〔運歩色葉集〕

〈和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 【度會河】(ワタラヱカハ)〈伊勢〉

〔倭訓栞〕

〈前編四十二和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 わたらひ 伊勢の郡名にいへり、伊勢風土記に、號度會者、川名而已と見ゆ、夫木集にわたりあひ川とよめるは即度會川也、りあ反ら也、度會川は延喜式に見ゆ、萬葉集に度會の大川の邊とも見ゆ、今の宮川(○○)也もとは阿部川といひしとぞ、

〔神風行囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1160 宮川 一名豐宮川(○○○)、一名度會川、尾畑ノ町ノ出口ニアリ、船渡ナリ、 是所ハ豐受大

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1161 神宮ノ禊川ニテ豐宮川ト云ヲ、上略シテ宮川トモ云、是ハ山邊ノ町ノ西ノ入口ナリ、 上ノ瀬下ノ瀬トテ、船渡兩所ナリ、往昔ハ神領ナリシニ、何レノ時ヨリカ此渡リ他領ニ屬ス、然ルニ山田ノ神官訴江戸、參宮人ノ往來ノ爲ニ煩ナカランヤウニト願奉リテ、延寶辰ノ夏、如先規神領、風雨洪水ニモ無滯往來シテ、旅人無絶日、〈◯中略〉宮川ヲ、度會川トモ、度會ノ大河ノ邊トモ古歌ニヨメリ、此川ニテ御饌料ニ年魚〈鮎也〉ヲ取事ハ、天ノ忍穗ノ海人(アマヒト)トイヘル漁人ノ年魚ヲ供セシヨリ事起レリト、鎭座本記ニ出タリ、〈◯中略〉 古老傳 宮川ヲ阿部川共云ト、 元長神祇百首に、五月雨を、忍海人の年魚取ぬるそのかみも阿部の川原に雨はふりけり 大河邊ヲ阿部川原共云トナリ、 此川ハ俄ニ洪水出來テ、水難多シ、故ニ上古ハ公家ノ爲御沙汰、毎度堤ヲ築キ水ヲ除ラレシトナリ、治承年中ニハ、相國清盛公、大神宮ニ參詣シ給テ、堤ヲ築セラレシト也、其所ヲ今清盛堤ト云、 寛永年中ニ、秀忠公ノ嚴命ニ依テ、宮川ノ邊ノ堤ヲ築ク、然ルニ正保元年八月二十八日ノ夜ノ洪水ニ堤悉ク崩失シニ、時ノ奉行人石川大隅守源正次達台聽再築之、同三年ニ成就スト云、此ハ家光公ノ御時也、

〔伊勢參宮名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1161 宮川〈山田の入口也、是より外宮北御門迄卅町、〉一名度會川、豐宮川、齋宮川、禁川と云、〈源は和州添下郡大臺原巴か淵也、其外谷々より落て二見大湊に至る、〉里俗の歌に、 北熊野西は宮川東風ふけばよし野の川に水まさる也、渡し船は晝夜を分たず、滿水の時も兩宮の神官より人を出し、參詣人を渡さしむ、御遷宮の御時は舟橋をかくる、是上古齋宮勅使參向の時の例也とぞ、むかし齋宮群行勅使參向の時、爰に禊あり、又古へ三祭禮の前月、禰宜の大祓も爰に勤仕す、諸國より參詣人、此川に浴して身を清むるもこれにならへり、

〔伊勢紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1161 みや川御祓など、嚴重におぼえて、 我君の高きみそぎを宮川や波の白ゆふ千世もかけこせ

尾張國/木曾川

〔美濃明細記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 一木曾川 太田川(○○○) 鵜沼川(○○○) 起川(○○)〈同ジ流レ也〉 惠奈郡苗木ノ南ノ通ヨリ、木曾街道ノ北ヲ賀茂郡ヲ流レ、太田渡シ船場江流ル、郡上賀茂二郡ノ山川ノ水、及飛騨川下流、太田宿ノ東ニテ流合也、太田川下流、各務郡鵜沼宿ノ東ヲ流レ、葉栗中島海西三郡〈◯並尾張國〉ヲ流、起川筋也、鵜沼ニテ船渡シ 川幅百間 笠松ニテ同 同三百五十間 起ニテ同 同四百間餘

〔美濃名細記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 木曾川 一信州藪原ヨリ、勢州桑名マデ川長凡四十九里餘、信州藪原ヨリ流出、信州之内ニテ所々山川流出、濃州伏見宿太田宿ノ間、川合ト云所ニテ飛騨川落合、是ニテ川長三十一里餘、太田宿之下ニテ川南ハ栗須、北ハ酒倉ヨリ、尾州濃州之境ヲ流出來ニテ、長良川伊尾川(○○○○○○)落合、桑名海ヘ流落、川幅、大概廣キ所ニテ尾州下一牧村ヨリ日原村ニテ、七町四十五間トアリ、

〔續日本紀〕

〈三十稱徳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 神護景雲三年九月壬申、尾張國言、此國與美濃國堺有鵜沼川(○○○)、今年大水、其流改道、毎日侵損葉栗中島海部三郡百姓田宅、又國府并國分二寺倶居下流、若經年歳必致漂損、望請遣解工使、開掘復其舊道、許之、

〔西遊行囊抄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 江渡川(○○○) 舟渡、大河、北川上ハ飛州ナリ、又ハ郡上ヨリ流出トモ云、此渡ヨリ少下ニテ長柄川、江渡川落合テ一流トナル、猶末ニテ木曾川モ流合テ三流一ニ成テ、洲俣ノ渡ヲ流テ勢州桑名ノ邊、長島ノ前ヲ流テ海ニ入、最川船ノ往來自由也、

〔美濃名細記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 一長良川(○○○) 河渡川(○○○) 墨俣川(○○○)〈同流也〉 山縣、武義、郡上、賀茂四郡之川、所々ニテ流合、長良、岐阜、河渡、墨俣ヘ流レ墨俣ニテ川幅百間餘、川上ハ芥見、尻毛、岐阜、長良、河渡、墨俣、本郷皆船渡也、此下流猶船渡也、

〔美濃名細記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1162 長良川(○○○) 一郡上八幡ヨリ、勢州桑名マデ川長凡二十七里餘、郡上山中ヨリ流出、山縣郡世保村ニテ武義川

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 落合、是ニテ川長十一里、各務郡芥見ニテ津保川落合、安八郡勝村ニテ東西ヘ流、東海西郡成戸村ニテ木曾川ヘ落、西ハ安八郡今尾村ニテ伊尾川ヘ流落、川幅大ガイ、ヒロキ所ニテ、大ヤブ村堀津村ニテ三百五十間トアリ、

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 【墨股川】(スノマタガハ)〈尾州與濃州界〉

〔類聚三代格〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 太政官符 應浮橋布施屋并置渡船事〈◯中略〉 一加増渡船十六艘 尾張美濃兩國堺墨俣(スノマタ)河四艘〈元二艘、今加二艘、◯中略〉 右河等崖岸廣遠、不橋、仍増件船、 一布施屋二處 右造立美濃尾張兩國堺墨俣河左右邊、〈◯中略〉 承和二年六月廿九日

〔美濃名細記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 伊尾川(○○○) 一大野郡徳山村ヨリ勢州桑名マデ川長凡二十七里餘、徳山ヨリ流出、安八郡落合村マデ藪川落合、是マデ川長十六里、多藝郡船付村ニテ牧田川落合勢州上ノ郷輪中ニテ川筋分レ、二筋ニ成ル、内母ニテ木曾川ヘ落合、 川幅大ガイ廣キ所、シマムラヨリ脛永村ニテ四百間トアリ、

三河國/矢作川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 矢矧川(ヤハギカハ)〈又作矢作、三州碧海郡、〉

〔東海道名所圖會〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1163 矢矧川 矢矧里の東にあり、水源岐蘇山溪より落て、末ハ鷲塚川といふ、西尾に到て二流と成、海に入、國號を三河といふ事は、矢矧川、男川、豐川の三大河あるゆへなり、

遠江國/天龍川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 天龍川(テンリウカハ)〈舊記謂之天中川、遠州豐田郡、有大小(○○)之稱、蓋信州諏訪湖爲源、〉

〔遠江國風土記傳〕

〈七下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 天龍河、源自信濃國諏訪湖流、經三箇國堺三島、至奧山部内川合村浦川(○○)合(○)經馬引淵峽通峽石(トホリセバイシ)波良比澤等塞所、至戸口杼生川(○○○)合、經鳴瀬出來浪峽石三ツ石等迫門氣多郷千草釜天(カマテ)氣多川合、經釜天之渦(ウツ)二俣郷川口谷川流入、至阿多古、阿多古川(○○○○)流入、諸川合至今洲渡于二派、自是以南昔磐田海中也、湖涸爲島、五郡屬河、河流或西岸或東岸、水道不定、其西岸者、經小松有玉、至船越南海

〔東遊行囊抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 天龍川 或ハ天中川共云、船渡ノ大河也、或時ハ二瀬トナリテ、大天龍、小天龍ト號、或時ハ一瀬共ナリ、又或時ハ三瀬トモナル、水底砂石ヲ流シテ、瀬常不定、此川ノ水上ハ信州諏方ノ湖ナリ、北ヨリ南ニ流テ、海ニ入所ハ懸塚、貝塜ナド云湊也、此川ノ海ニ入所ノ沖ヲ天龍灘ト云也、東西ノ岸ニ船人ノ宅アリ、

〔東海道名所圖會〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 天龍川 川幅十町許、〈◯中略〉むかし此ほとりに天龍寺といふ淨刹あり、これによつて名とす、今も天龍村あり、

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 承久三年五月廿八日辛亥、雨降、武州〈◯北條泰時〉到遠江國天龍河、連日洪水之際、可舟船煩之處、此河頗無水、皆從歩渉畢、

〔梅花無盡藏〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164天龍河懸塚〈十六日午時、蹈天龍之風波、就懸塚舟師之家、先喫小焦餅、〉 急流近海棹知潮、先聽一聲婆餅焦、明夜定看小河月、借舟五貫大如橋、〈明日欲駿河之小河、出五緡舟、舟師面黒髯長、僉曰膂力過人、天龍之水臂箭急、〉

大井川

〔東遊行囊抄〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1164 大堰川 遠駿ノ堺也、川原ノ間凡二十餘町、北ヨリ南ヘ流テ大洋ニ入、海ニ近シ、水上ハ甲信ノ山々ヨリ流出ル、水常ニ濁テ、水底ニ石ヲ流ス、其逸事普通ニ超タリ、日夜瀬替テ渡常ニ不定故ニ昔ヨリ船ナシ、南風ニ水増シ、北風ニ水減ズ、東海道第一ノ難所也、水溢レ出ル時ハ、金

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 谷ヨリ島田マデ一里ノ間一面ニ川トナル、其時ハ往還止テ、金谷島田ノ兩驛ニ逗留スル旅人多シ、常ニハ川越ト云者アリテ、交易ノ人ヲ扶助シ、渡シテ價ヲトル、

〔東海道名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 大井河 或は大堰河、又は大猪河とも書す、渡口金谷の驛の北にあり、水源は信州の山谷より流落る急流にて、常に薄濁なり、

〔日本書紀〕

〈十一仁徳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 六十二年五月、遠江國司表上言、有大樹、自大井河(○○○)流之、停于河曲、其大十圍、

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 藥師佛木像流水埋沙示靈表縁第卅九 駿河國與遠江國之堺有河、名曰大井河、其河上有鵜田里、是遠江國榛原郡部内也、〈◯下略〉

〔十六夜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 廿五日、きく河をいでヽけふは大井河といふ河をわたる、水いとあせて、聞しにはたがひてわづらひなし、河原いくりとかやいとはるかなり、水のいでたらんおもかげおしはからる、 思ひ出る都のことはおほゐ河いくせの石の數も及ばじ

〔丙辰紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1165 大井川 大堰河は駿河と遠江との境なり、明日香川ならねど、霖雨ふれば淵瀬かはる事たび〳〵なれば、東の山の岸を流れて、島田の驛、河原の中にある事もあり、西の方に流れて、金谷の山にそふ事もあり、一すぢの大河となりて、大木沙石を流す事もあり、あまたの枝流となりて、一里ばかりが間にわかるヽ事もあり、さればいにしへより徒杠輿梁もなり難き故に、往來の人馬、川の瀬を知らざれば、金谷に待つもあり、島田にとヾまるもあり、渡りかヽりて溺るヽ者もあり、辛ふじてむかひの岸に至るもあり、島田の民をのが家は漂ひ流るれども、旅客の囊をむさぼる故に、洪水をよろこぶ、賣炭翁が單衣にして、年の寒きを待つが如し、河水の家を流し田をそこなふ故に、防鴨河使、防葛野河使を置かれし昔の事も、唯今思ひ出ざらんや、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 尋常掲厲必過腰、叱馬呼奴魂欲銷、來往就中何處苦、無舟無筏復無橋、

駿河國/富士川

〔東遊行囊抄〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 富士川 船渡也、此渡蒲原ト吉原トノ馬次ノ塚也、蒲原ヨリ東ニ行スルモノハ、西ノ岸ニテ荷ヲ下シ、吉原ヨリ西行スルモノハ、東ノ岸ニテ荷ヲ下ス、治承四年十月二十日、平惟盛、忠度、知度、東征ノ時、此渡ノ西ノ岸ニ陣スト云ニ、但岩淵ノ宿カクテノ事ナルベシ、 此國ヲ駿河國ト號スル事、此川ニ依テ也、風土記富士川ノ流、其水キハメテハヤシ、仍駿河ト名ヅクト也、駿トハハヤキ馬ノ事ヲ云、浪ノ漲リ落ル事、駿足ノ如逸ナル故ニ云ト也、

〔東海道名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 富士川 駿河富士郡にあり、郡名によつて名とす、日本紀不盡河と書す、水源は信州八ケ嶽より流れ、甲州に到ツて諸流會して大河となる、末は海に注ぐ、道中第一の急流也、河の幅水の増減によつて際限極らず、常流には船わたし、滿水には船とまる也、

〔日本書紀〕

〈二十四皇極〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 三年七月、東國不盡河(○○○)邊人大生部多、勸虫於村里之人曰、此者常世神也、

〔萬葉集〕

〈三雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166不盡山歌一首并短歌 奈麻余美乃(ナマヨミノ)、甲斐乃國(カヒノクニ)、打縁流(ウチヨスル)、駿河能國與(スルガノクニト)、己知其智乃(コチゴチノ)、國之三中從(クニノミナカユ)、出立有(イデタテル)、不盡能高嶺者(フジノタカ子ハ)、〈◯中略〉不盡河跡(フジカハト)、人乃渡毛(ヒトノワタルモ)、其山之(ソノヤマノ)、氷乃當鳥(ミヅノタギチゾ)、〈◯下略〉

〔十六夜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 廿七日、明はなれて後ふじ河わたる、朝川いとさむし、かぞふれば十五瀬をぞわたりぬる、 さえわびぬ雪よりおろす富士河の川風こほる冬の衣手

〔丙辰紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1166 富士川 我國に名を得たる大河はあまたあれど、殊に富士川は海道第一の急流なり、舟に乘て渡るに、渡し守ちからを出して竿をさし、櫓をおし出すとき、岸より見るものは、あはやと危く、思ひ、船中の人は目まひ魂の消る心地ぞしける、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 往來停馬此踟蹰、天下滔々豈獨吾、河畔爲名利路、涪陵慙愧一樵夫、

相模國/相模川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 馬入川(バニフガハ)〈相州高坐大住兩郡之界、東鑑所謂相模川(○○○)是也、〉

〔東遊行囊抄〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 馬入川 舟渡也、是相模川也、御上洛ノ時必船橋ヲ掛ラルヽ例アリト云々、此川上ヲ福島川(○○○)ト云、此渡ノ東西ノ岸ニ町アリ、西馬入、東馬入ト云、是ヲ馬入ト號スル事ハ、右大將頼卿ノ馬、橋ヨリ落入テ死ス、ソレヨリシテ名也ト里俗ノ謂也、

〔東海道名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 馬入川 馬入村にあり、むかしは相模川といふ、水源は甲州猿橋より流る、此邊の大河也、東鑑に、文治四年正月、三浦介義澄浮橋を相模川に構へし事見へたり、〈◯下略〉

〔新編相模國風土記稿〕

〈三山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 相模川〈佐賀美加波〉 源ハ甲斐國都留郡富嶽ノ麓ヨリ湧出シ、上野原村ヨリ當國津久井縣名倉村ニ入、高座、愛甲、大住三郡ノ界ヲ東流シテ、末ハ高座大住兩郡ノ界ニテ海ニ入ル、水路凡十六里半、〈國中ヲ流ルヽ里數ナリ、下皆同ジ、〉濶七十間ヨリ百間餘ニ及ベリ、東海道ノ係ル所ニ渡津アリ、其邊ニテハ馬入川ト呼ブ、〈渡頭ノ村名ヲ馬入ト稱スル故ナリ〉此川國中ノ大河ナレバ、國名ヲ以テカク唱フルナラン、〈◯中略〉此川津久井縣ノ内ハ、兩岸高クシテ、田間ノ用水ニ沃ギ難ク、高座、愛甲、大住等ノ郡中ニ至リテハ、漸土地平坦ナレバ、田間ニ引キ耕植スル所少クアリ、サレド屢水溢ノ患アレバ、所所ニ堤防ヲ設ケテ其害ヲ防グ、又洪水ノ時、水流ノ變遷度々アリテ、今古相模川蹟ト唱ヘ、川ノ兩邊ニ池ノ如水ヲ湛ヘシ所若干アリ、按ズルニ、古風土記殘本ニ、北限海老名川トアリ、今此川名聞エズ、高座郡海老名郷ハ、相模川ニ邊シタレバ、若クハ此川ノ一名ナリシモ知ベカラズ。

武藏國/多摩川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 玉川(タマカハ/タバカハ)〈東鑑作多磨川、武州比企郡、〉

〔倭訓栞〕

〈前編十四多〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 たまがは 世に六の玉川(○○○○)といふ、多くほめていふ詞なり、武藏は多摩郡にあり、此川の水は、玉をなして聯珠の如しといへり、

〔武藏國多摩川記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1167 甲斐國都留郡小菅村ハ、大菩薩嶺ヨリ武藏ノ境迄六里餘、大村ニテ其奧方ヨリ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 湧出ル小川アリ、同村ノ中ヲ流ルヽコト凡六里バカリ、ニシ武甲ノ境ヘ至リ玉川ニ交ル、是ヲ小菅川(○○○)ト云也、 玉川(○○)ノ水源ハ、武甲ノ境ノ峯西ヨリ東ヲ指、其峯ノ朶山ノ東ヨリ乾ヲ指テ小菅川ノ岸ニ及ブ、其朶山ノ正中、是亦武甲ノ境ニテ、甲斐ノ方ハ都留郡小菅村ノ地、武野方ハ多摩郡川野村ノ流也、其朶山ノ本ノ溪間ヨリ湧出ル水境ニ添テ、瀧ノ如ク流下リ、小菅川ト交、是則玉川ノ水源ニシテ、湧出ル所ヨリ玉川ト呼ビ、其左右ノ傍ノ山ハ、寛文九年ノ御繩ニテ宗玉川(○○○)トアリ、亦同所甲斐ノ方ニモ小湧出テ、境ニ添テ流下、小菅川ト交ルコト武藏ノ方ニ等シ、甲斐ノ方ニテ是ヲ玉川(○○)ト呼、小菅川ハ玉川ト交ル所ニテ其名ヲ省キ、是ヨリ下玉川ト呼、西方ノ武甲ノ境、多摩郡ノ方ニ付テ、地ニ向ヒ流下ルコト一里許ニシテ川野村ニ至ル、西ノ方ヨリ丹波川(○○○)流來リ、同村上ノ方ニテ玉川ト交ル、爰ニテ丹波川ノ名ヲ省キ、是ヨリ下モ一ニ玉川ト呼ブ、此末玉川ニ入交ル小川多シ、

〔多磨河考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1168 多磨河は、安閑紀に多氷屯倉見えて、多氷は即多磨の通音なり、〈◯中略〉玉河と書は、建保の比より後、光る磨くなどいふ詞を詠合せし歌によれるにて、袖中抄にも其名に就て、兒玉郷におこりたらんよし注せし也、寛永以後僞作したりけんとおぼゆる總國風土記に、多磨(タバ)、或玉、また多摩とも見えたれど、文祿以前の正き書に、多摩と書るはたえてなし、仁安年中の經筒の銘に多波郡、日蓮注畫賛に田波(タバ)河、私案抄に多波河、神明鏡に丹波河などあるも、多麻とはいはざる證也、されば多磨河と書て、太婆我波と訓を正しとはいふ也、水源甲斐國都留郡船越村におこり、東隣の丹波山村を經て丹波川と號し、さや川村鴨澤村をすぐ、以上の四筒村、往古は武藏國多摩郡ノ内なりしが、後甲斐國に隷たりけんとおもふは、靈異記、今昔物語にみえし多磨郡鴨里は、今の鴨澤なるべければ也、さて多磨郡小河内、境、白尾、棚澤、丹波村を經、多磨郡中を流れ、荏原郡羽田の海におつ、其間上道四十里許也、丹波村は大丹波小丹波と二に分れて、古の多氷屯倉は此處にや、又は丹

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 波山村ならんもはかりがたし、郡名も丹波山、大丹波、小丹波の里の中よりおこり、其郡内を流るる川なれば、多磨河と稱し、歌には調よからんために、通音もて多麻河とよみ、遂には珠玉の意にもとりなして詠出ることヽはなれる也、

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 多麻河泊爾(タマガハニ)、左良須氐豆久利(サラステヅクリ)、佐良左良爾(サラサラニ)、奈仁曾許能兒乃(ナニゾコノコノ)、己許太可奈之伎(コヽダカナシキ)、〈◯中略〉 右九首、武藏國歌、

〔拾遺和歌集〕

〈十四戀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 題しらず よみ人しらず 玉川にさらす手づくりさら〳〵に昔の人の戀しきやなぞ

隅田川

〔運歩色葉集〕

〈須〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 角田川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 隅田川(スミダガハ)〈又作角田、下總葛飾郡、今屬武州豐島郡、〉

〔倭訓栞〕

〈中編十一須〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 すみだがは 眞名伊勢物語に墨田川と書り、武藏と下總の間にあり、更級日記には武藏と相模との中にありとみゆ、

〔類聚名物考〕

〈地理三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 角田川 すみだがは 武藏國 此河下總國と武藏國の境に有りてその名古たり、然るに駿河國にも同名(○○○○○○○)有りて、庵崎をよみ合せし歌有るは、その事疑ひ少なからず、まして待乳山よみ合せし歌によりては、紀伊國にもわたれば、かた〴〵明らかに定めがたし、

〔江戸砂子〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 隅田川は、水上秩父郡よりながれて、大里郡、足立郡へわだかまりて、武藏の眞中を流る也、名は荒川(○○)といふ、

〔江戸紀聞〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1169 隅田川 此邊の川をすべて隅田川と云、角田川ともかき、又須田川(○○○)、或は須田の河原ともいへること古き書に見ゆ、この川の向に須田村といへる所もあり、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1170 今按に、此川いまは變遷して、いにしへとは流もことなる様にいひ、古隅田川といへる所もあれど、おもふに、此川古今流をことにせしにはあらざれど、いにしへはことの外川のはヾも廣く、いく瀬にも分れて流れしにや、さればふるくより隅田の河原になどいへる和歌も見えて、多く河原もありしと見ゆ、古隅田川と流をつらねしといはんには、その間多く隔りぬれば、流はことにして、その名は同じく隅田川と唱へしを、後の世には更にその名所もたがへる様におもへるなるべし、或書に云、中川と綾瀬川によこたはりて、古隅田川といふあり、今はうづまりて川はヾ僅に一間餘あり、むかしは中川と川またになりて、荒川へ流れ合て海に入しものなり、土人の云ひ傳るは、古隅田川の所にそひし蒲原村は、いにしへの驛にて、今も宿と云地名のこれり、今隅田川と稱せる地は、二百四五十年以前は海にして、川のあるべきやうなし、しかれば土人のいふ古隅田川實跡なるべしと云々、此説甚非なるべし、土人の古隅田川といひ傳ふるは、却てあらぬ所を誤りつたへしと見ゆ、回國雜記、北國紀行、梅花無盡藏等の書は、皆三百四五十年以前のことなり、是等に云ところにてもおもひしるべし、〈下に載ぬ〉又江戸の古圖にもよくかなへり、土人の説を信じて古書を捜らざれば、世の人をまどはすことすくなからじ、されど上古のことは、必らずしも今よりしゐて説を付がたし、利根川なども、今は當國にもまれなる大河にて、古へより同じ流なるべしとおもふに、又古利根川といへる處あれば、是もむかしとはたがへるにや、隅田川は往古より名高き所の名所なり、他の國にも大和(○○)、伊勢(○○)、紀伊(○○)、駿河等にも同じ名の河あれど(○○○○○○○○○○○○○)、そのうちにも當國をもて第一とせり、

〔松屋棟梁集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1170 隅田河埋木文臺記 むさしの國と下總のくにとの中にある河をすみだ河といふ、古今和歌集、〈羈旅部〉伊勢、〈伊勢物語第九則〉今はむかし〈今昔物語舊本廿三の卷第卅五語〉などの物語に見ゆ、八雲御抄、〈五の卷河部河原部〉夫木抄、〈雜六河部〉松葉名所集、〈十五の卷〉歌

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1171 林名所考〈五の卷〉袖珍歌枕、〈七の卷〉秋の寐覺〈川部〉などに下總と注せしは、葛飾郡に〈葛飾郡の事、万葉集三の卷、九の卷、十四の卷、奥儀抄中の下卷、袖中抄十六の卷、延喜民部式上、和名抄國郡部、拾芥抄國郡部、節用集活板本國郡部、新撰類聚往來國名部などに見ゆ、また万葉仙覺抄五の卷十五の卷には、太井河を境て、西を葛西郡東を葛東郡といふよしいへり、〉すみだの里ありて、〈吾妻鏡一の卷に、隅田宿見ゆ、また廿五の卷に、角田太郞といふがあるは、此所にすめりしにや、されど駿河、出羽、紀伊などにもおなじ名所きこえ、相模國愛甲郡にも角田村ありて、その外いづこにもさる地名あるべければ、さだかにこヽの住人ともいひがたし、〉そこにおこれる河の名なればなるべし、更級日記に、あすたがはとあるは、あもじ一字あやまれるにや、夫木抄に、〈雜八渡部〉すだの河原とも、すだの渡ともよめり、〈四神地名録葛飾郡部上隅田村の條に、土人すだ村と稱す、名におふすみだ川は此村より北にて、足立郡と葛飾郡との境也、隅田村とはよほど隔りてあり、今は埋りて少しき流ながらも、何れの村人も古(フル)隅田といへば、當國の名所古歌にある隅田川の實跡なるべし、江戸砂子には、荒川を隅田川と記せり、隅田村にそひて流るヽ川なれば、此邊に於てすみだ川と名づけしは無理ならずきこゆれども、里人の云を以て見れば、古隅田實跡にきこゆべしといへり、げに今も里人は須田村とよぶ、古隅田川の説はいかヾあらん、〉義經記には〈三の卷頼朝謀反の條〉すんだとも書たり、〈義經記評判には、改てすみだと書たれど、寛文板、元祿板ともにすんだとあり、〉かヽればすみだとも、すんだとも、すだともいふ、或はかよはし、或ははぶけることばにて、みなおなじこヽろばへになんありける、〈◯中略〉建保名所百首歌枕名寄、〈廿一卷の武藏部〉新撰歌枕名寄、〈三の卷武藏部〉机右抄〈十三の卷〉歌枕玉叢抄拔書、〈東海道部〉角田川謠詞〈表百番嵯峨本並諸本〉などにもすみだ川を武藏の名所とせれば、建保の頃より後、こほりも川もむさしのくにヽは隷たる也、源平盛衰記、〈廿三の卷〉平家物語〈長門本十一の卷〉に、隅田川はむさしと下總の境といへるは、古今集や伊勢物語によれることばのかざりなればとらず、勅撰名所和歌抄出、〈活板本上卷河部〉名所方角抄〈武藏國分の條、此書宗祇の撰といふはうけられず、後人がつくり出て、宗祇の名に依託せしなるべし、増補方角抄といへるも三卷あり、〉梅若權現の縁起〈◯註略〉には、二國に渉れりとす、さてふたヽびもとの下總にかへされけんことは、北國紀行、あづまぢの裹(つと)、河越記などにいづ、〈本朝通記後編廿四の卷、永祿元年正月の條に、北條氏康與里見義弘太田三樂于武州國府臺と書たるは、いぶかしきことなり、〉後に今のごとく武藏の郡に定られしは、貞享元祿の間ならんこと、江戸總鹿子大全、〈五の下卷川部橋部に、元祿年中の事といへり、〉瀬田問答、〈林諸鳥が建し碑文を載て、貞享三年丙寅春閏三月割利根川西武藏國と見ゆ、〉龜戸の善應寺の鐘のことがき〈江戸志十の卷に載て、武州葛飾郡龜戸郷福壽山善應寺享保二十年三月とありといへり、〉中田氏が家にもたる水

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 帳のうはぶみ、〈本所表町の名主中田氏が所藏の水帳に、武藏國葛飾郡北本所村撿地水帳元祿十年丁丑十二月とあり、〉などかうがへてしるべし、さればすみだ川ははじめは下總、中ごろは武藏、その後また下總、今はむさしの名どころ也、木母寺の鐘のことがきに、武藏のくにの豐島のこほりの隅田川とあるはいと〳〵いぶかし、〈延寶五年九月にえらびし鏡銘に、武州豐島郡隅田川梅柳山木母寺と見ゆ、こは葛飾郡とあるべきことなるに、葛西本所わたりが武藏に隸しを、豐島郡に管たるなめりと心得ひがめしがゆゑのわざなるべし、〉

〔伊勢物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 なをゆき〳〵て、むさしの國としもつふさの國とふたつがなかに、いとおほきなる河あり、その河の名をばすみだ川(○○○○)となんいひける、〈◯中略〉しろき鳥のはしとあしのあかきが、しぎのおほきさなる、水のうへにあそびつヽいをヽくふ、京には見えぬとりなれば、みな人みしらず、わたしもりにとひければ、これなむ都鳥と申といふをきヽて、 名にしおはヾいざことヽはむ都鳥我思ふ人はありやなしやと、とよめりければ、舟人こぞりてなきにけり、

〔更科日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 今は武藏の國に成ぬ、〈◯中略〉野山葦荻の中を分くるより外の事なくて、武藏と相模との中に有てあすた川(○○○○)といふ、在五中將のいざことヽはむとよみけるわたり也、中將の集には、すみだ川とあり、舟にて渡りぬれば、相模の國になりぬ、

〔江戸紀聞〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1172 物茂卿云、武藏相模のさかひなるすみだ川といふ事は、女のかヽれたる物なれば、國の名書ちがへたるものなるべし、山岡明阿云、異本には、武藏と下總との間にこの條あり、さらば今の世のいひつたへにはよくかなへども、或は後人のこと更に入ちがへたることにや、多本みな武藏相模のさかひとあり、もしはこの作者、また幼穉の童女の〈今按に十三歳の時也〉かきたる物なれば、聞たがへしにもあるべし、いづれか定めがたくなん、今按に、物氏の説のごとく、たヾ國の名書たがへたりといへるもうけがひがたし、前後の文を見るに、武藏野を分てこの角田川に來れり、是より相模の國に至り、唐の原など見しことをかけり、諸越の原は相模國なり、國

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 の名あやまりたらんには、下總の國とかくべきか、それよりもろこしが原にいたらんには、はるかにほど遠かるべし、いかさま國の名かきちがへたるにはあらで、案内せし人の多磨川のほとりか、またはあらぬ川せさして、是なん角田川といひしにまかせて、女の事なれば、かくかきしにあらずや、

〔下總國舊事考〕

〈十二古書地名考〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 あすた川ノアハ發語ニテ、須田川ト云コト、即チ隅田川ノコトナリ、サルヲ武藏ト相模ノ間ノ川ハ馬入川ナリ〈三代格ニ馬入川ヲ鮎川トス〉コレヲ誤リテあすた川ト思ヘルナリ、ソハ記者前ニ下總ト武藏トノ界ナル太井川ヲワタリテト記シ、又次ニ下總ト武藏トハアゲ難クテ、武藏ト相模トノ間ナルベシト心得、馬入川ノコトヲ隅田川トオモヒ誤リテ、オシアテニ、後ニ記シ直シタルコトヽ思ハル、ソヲ先哲達ノ彼是トクダ〳〵シキ注ハ、要ナラ子バ採ラズ、

〔北國紀行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 二月の初、鳥越のおきな艤して、角田川に泛びぬ、東岸は下總、西岸は武藏野につヾけり、利根入間の二河落合る所に、彼古き渡りあり、東の渚に幽村あり、西の渚に孤村有、水面悠々として兩岸に等しく、晩霞曲江に流れ、歸帆野草をはしるかとおぼゆ筑波蒼穹の東にあたり、富士碧落の西に有て、絶頂はたへにきえ、裙野に夕日を帶、朧月空にかヽり、扁雲行盡して、四域に山なし、 浪の上のむかしをとへばすみだ川霞やしろき鳥の涙に

〔惺窩文集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1173 角田川 淺草之東畔跬歩、而有角田川、輕舟短棹、浩歌一望、有鳥翩々可愛、所謂觜與脚赤者、昭々乎和歌集中、不其名亦知都鳥、蓋名者實之賓也、故其鳴如京都聲、予不覺發郷思、南巣北嘶、物尚然、況人乎、昔白氏左遷江州之湓浦、而舟中聽琵琶者之有京都聲、涙濕青衫、千載之佳話也、于彼于此、江州之湓浦、江城之角田、舟中之京客感京都聲者同、而所愧不歌行矣、雖然其鳥語之管絃、豈不商婦

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 之琵琶也耶吁、 飛鳴有鳥角田川、名曰京都聲自然、我亦舟中湓浦客斷觴認作琵琶絃

下總國/利根川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 利根川(ト子ガハ)〈万葉作刀禰、上野利根郡、關左俚俗謂之坂東太郞(○○○○)

〔倭訓栞〕

〈前編十八止〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 とね とね川は上野國利根郡也、三大河の一ツ也、源顯家の足利義詮を破りし所也、

〔類聚名物考〕

〈地理三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 利根川 とねがは 上野〈利根郡〉 利根川は、上野國西なる利根郡を經て流るヽ川故にその名あり、此川關東の大川にて、武藏、下野、常陸、上總、下總の國の境を經て海に入る、その間幾十里といふ事をしらず、川末に至りては、その間に島々ありて、潮來(イタコ)などいふ、三所にてはその川はば七里有りといふ、本朝第一の大川なる故、俗に坂東太郞といふ、是に次ぎては西國の筑後川なるよし、それを次郞といふとかや、今また此利根川關宿より一筋わかれて、其間國府臺行徳を經て海に入、枝川あり、是を新利根(○○○)といふ、此川を物積て近國より江戸へ運送なす故に、また江戸川(○○○)ともいへり、思ふに昔し角田川といへるは、此川の枝川にて、今の新利根にはあらで、栗橋川股などのほどより、一の枝川有りしが、それを云ひしにて有るべし、今杉戸のこなたに、昔の角田川のあとヽてあり、その所なるべしと考へぬ、猶是は予が書る武藏志料に、つまびらかに角田川の條にしるせり、事繁ければ此に略す、

〔利根川圖志〕

〈一總論〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1174 利根川は、本源を上野國利根郡藤原の奧なる文殊山に發す、〈義經記卷三、頼朝謀叛事條に、隅田川の事を言ふとて、此の河の水上は、上野國利根庄藤原といふ處より落ちて、水上遠しと記せるは、古今の沿革は有れど、此の川を言へるなり、又江戸名所圖會、武藏演路共に文殊嶽より出でたると言へり、こは陸奥越後に界ひたる諸山の脈なり、〉故に郡名を以て直に川名とす、〈利根郡の名は、延喜民部式に見え、倭名鈔國郡部に利根〈止禰〉といへり、上州名跡考に利根は尖リタル峯多ケレバ、利峯ノ義ナルベシト見ゆ、猶考ふべし、〉刀禰と書きたるは固より假字にて、義あるには非ず、〈◯中略〉此の川大別して上中下の三利根川(○○○○○○○○)と爲す、其の上利根川(○○○○)に入る者は赤谷川發知川(○○○○○○)、臼根川片科川(○○○○○○)、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 吾妻川(○○○)、烏川(○○)、志戸川(○○○)、渡良瀬川(○○○○)等なり、此の間大約二十八里有奇、この下分れて二川と爲る、其の北なる者は赤堀川(○○○)、關宿に至り再分れ、一は逆川(○○)となり、平時は南して江戸川に入る、〈大水の時はこれに反す〉一は利根川の本流を爲し、東流して絹川蠶養川(○○○○○)を并す、これを中利根川(○○○○)といふ、凡十六有里奇、その南なる者は權現堂川(○○○○)、關宿に至り逆川を容れ、南して江戸川と爲り、堀江に至て海に入る、其の中利根川は益大になりて、以下南は下總の手賀沼、印幡沼、長沼等を并せ、北は常陸の大浦、霞浦、浪逆浦を容れ、廣八百七十間許の大江と爲り、凡二十里餘を經、銚子口より海に入る、これを下利根川(○○○○)と謂ふ、尚小流のこれに入る者數ふるに遑あらず、これ其の七十餘里の流を爲し、日本三大河の一を爲して、〈◯註略〉土地を滋潤し、魚蝦を生育し、舟楫を通利し、人民を裨益する故なり、

〔江戸砂子〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 利根川は、上野國赤城山のふもとを經て、下總に至り、武藏の東方を流る也、忍の邊にては上野國の境也、隅田川を武藏下總のさかひと伊勢物語に書しは、いにしへの都人など、あづまのはてとてもろこしへもわたる心地して、かぎりなく遠く分明ならずして、武藏國と下總の境に大河ありと聞つたへて、利根川と荒川とを誤たりといふ、さもあるべき事にや、

〔西遊行囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 此利根川ハ上野ノ名所ニ入大河也、或ハ是ヲ吾嬬川(○○○)共、或又坂東太郞共云、日本事跡考曰、利根川長流而大也、俗號坂東太郞

〔木曾路名所圖會〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1175 程もなく大河にいづれば、しばらく舵工憩ふに、此河はいかなる名ありと問ければ、船匠煙管を喰へながら、これは利根川といふ、水源は蠶養川、あるいは筑後川(○○○)なども落合ふて、坂東太郞ともいふ、坂東の一の流れなれば、太郞は其首と呼ぶならし、兩岸はるかに隔て、夕陽西に傾けば、棹の歌哀に浪による、見るめはこヽろなけれども、黒白をわきまへ、白州にたてる鷺は心あれども、眞砂地にまどへり、平江渺々として落日沈々たり、乾坤碍ずして船は一葉の如く飛んで神崎てふ所にいたる、

〔六十五大川流域誌〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 利根川流域〈航路延長二百廿六里十九丁餘〉 幹川、水源上野國利根郡藤原村刀嶺岳ヨリ發シ赤谷川(○○○)、簿根川(○○○)、片品川(○○○)、沼尾川(○○○)、吾妻川(○○○)、蕪川(○○)、烏川(○○)、神流川(○○○)、渡良瀬川(○○○○)、思川(○○)、其他諸川ヲ容レ、下總國西葛飾郡中田驛、武藏國北葛飾郡栗橋宿間ニテ二流ニ分レ、右ノ方ハ幹川ニテ權現堂川(○○○○)ト唱フ、關宿江戸町ニ至リ、江戸川(○○○)ヲ派流シ、下流ハ下總國東葛飾郡行徳領堀江村、右岸同村飛地ニテ海ニ入ル、右關宿江戸町ヨリ逆川(○○)ト唱フ、右栗橋中田ニテ分流スル左流ヲ赤堀川(○○○)ト唱フ、關宿境丁ニ至リ、右ノ逆川ト合流シ、下流ヲ中利根川(○○○○)ト唱フ、鵠戸沼、其他諸沼ノ水ヲ容レ、下總國北相馬郡大木村ニテ鬼怒川(○○○)ヲ入レ、同郡上曾根小文間二ケ村間ニテ小貝川(○○○)ヲ容レ、北相馬郡、右岸布佐村、左岸布川村ヨリ下流ヲ下利根川(○○○○)ト唱フ、手賀、印幡、長沼、其他湖ノ諸水ヲ容レ、下總國香取郡佐原村飛地ニテ横利根川(○○○○)ヲ分派シ、常陸國數郡ニ跨ル一大湖霞ケ浦、及ビ波逆浦、與田浦、北浦等ノ衆水ヲ容レ、常陸下總ノ國界ヲ經過シ、右岸ハ下總國海上郡飯沼村、左岸ハ常陸國鹿島郡東下村ニ至リ、銚子海ニ入ル、河線七十二里二十四丁餘、〈◯下略〉

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 刀禰河泊乃(トネガハノ)、可波世毛思良受(カハセモシラズ)、多多和多里(タヾワタリ)、奈美爾安布能須(ナミニアフノス)、安敝流伎美可母(アヘルキミカモ)、〈◯中略〉 右二十二首、上野國歌、

〔太平記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1176 奧州國司顯家卿上洛并新田徳壽丸上洛事 奧州ノ國司北畠源中納言顯家卿、〈◯中略〉白川關ヲ立テ下野國ヘ打越給フ、鎌倉ノ管領足利左馬頭義詮、此事ヲ聞給テ、上杉民部大輔、細川阿波守、高大和守、其外武藏相模ノ勢八萬餘騎ヲ相副テ、利根河(○○○)ニテ支ラル、去程ニ兩陣ノ勢東西ノ岸ニ打臨テ、互ニ是ヲ渡サント、渡ルベキ瀬ヤアルト見ケレバ、其時節餘所ノ時雨ニ水増テ、逆波高ク漲リ落テ、淺瀬ハサテモアリヤ無ヤト、事問ベキ渡守サヘナケレバ、兩陣共ニ水ノ干落ルホドヲ相待テ、徒ニ一日一夜ハ過ニケリ、爰ニ國司ノ兵ニ長井齋藤別當實永ト云者アリ、大將ノ前ニスヽミ出テ申ケルハ、古ヨリ今ニ至マデ、河ヲ隔タル

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1177 陣多ケレ共、渡シテ勝ズト云事ナシ、縱水増テ日來ヨリ深ク共、此川、宇治、勢多、藤戸、富士川ニ増ル事ハヨモアラジ、敵ニ先ヅ渡サレヌサキニ、此方ヨリ渡テ氣ヲ扶テ戰ヲ決候ハンニ、ナドカ勝デ候ベキト申ケレバ、國司合戰ノ道ハ勇士ニ任ルニシカズ、兎モ角モ計フベシトゾ宣ケル、

〔東遊雜記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1177 越谷の驛より、粕壁の驛まで二里廿五丁、この所よき驛にて倡家多し、古利根川(○○○○)と稱する川あり、寛文のはじめ年の頃までは、戸根川此地に流れしに、洪水によりて今のごとく川筋替りしと云、〈◯中略〉戸根川は、源廿餘里、幾筋とながるヽ川々流れ落て、栗橋のかみにて一流となる、聞しよりは大川にて、世に坂東太郞と稱せるは此川の事なり、二百石積計の川舟ありて、江戸へ往來す、

〔類聚名物考〕

〈地理三十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1177 江戸川(○○○) 北條五代記〈卷九〉に、今は諸國治り、天下太平、四海遠く浪のうへまでもをだやかにして、靜なる御時代なり、然れども兵船多く江戸川につなぎおき給ふとしるせり、今案に此江戸川はいづこにや、させる跡さだかにはしれねども、おそらくは今の隅田川にや、また今當時江戸川といふは、新利根川(○○○○)のことにて、眞間國府臺の下を行く行徳川(○○○)の事なり、此川關宿以上、上野下野より、江戸への運漕の川故しかいへり、下は行徳にいで海に入、それより横に續きて小名木川(○○○○)通り、淺草川(○○○)へ續けり、是をも江戸川といふなれば、いづれともさだかには云ひがたし、いづれこの二には過べからずされば宗祗の東土産、〈永正六年の紀行也〉或人安房の清澄を一見せよかしと誘ひしに、いづこかさしてと思ふ世なれば、立歸りて江戸の館の御許に一宿して、角田河の河舟にて、下總の國葛西の府の内を、半日ばかりよし蘆をしのぐ、折りしも霜枯は難波の浦にかよひて、隱れて住し里も見えたり、鴦、鴨、都鳥、堀江こぐこヽちして、今井といふ津よりをりて、淨土門の寺淨興寺にて、迎へつる人まつほどに云々とあり、この今井津は、今の行徳の今井の渡なり、角田川の河舟といへる、全く今の小名木通りにちがふべからず、尤も坂佐井通り、今の竪川(○○)に

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 ても有るべけれども、上の文體、前にいへるにかなへり、思ふに此竪川は後に出來しものにや、

常陸國/那珂川

〔新編常陸國誌〕

〈五山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1178 那珂河〈如字〉舊名粟河〈阿波加波〉 源ハ下野國那須郡毘沙門嶽ヨリ出ヅ、茶臼嶽ト黒嶽ノ間ヲ經テ、南ニ流レテ黒羽陣營ノ西ヲ經テ、烏山城ノ東ヨリ茂木村ニイタリ、本國那珂郡野田村ト、茨城郡伊勢畠村ノ間ヨリ本國ノ地ニ入ル、〈伊勢畠ハ、古ハ那珂郡ノ内ニテ、阿波郷ニ屬セリ、〉是ヨリ東南ニ轉折シテ兩郡ノ間數十里ヲ流レ、水戸城ノ北廓ノ外ヲ歴、南行シテ茨城郡川俣村、鹿島郡石船山ノ邊ニ至リ、蒜間仙波ノ兩湖ト合流シ、鹿島那珂ノ間ヨリ海ニ入ル、所謂那珂湊ナリ、古ヲ以テ、地理ヲ考フルニ、コノ川全ク那珂郡ノ中ヲ流ル、コレヲ以テ川ニ名ヅクル所以ナリ、中世那珂郡ヲ分テ東西二郡トスル時、コノ川ヲ以テ其界トス、文祿以來那珂西ノ地悉ク茨城郡ニ屬スルヲ以テコノ川那珂茨城二郡ノ界トナレリ、風土記那珂郡條云自郡東北臨挾粟河(○○)而置驛家、〈本近粟河、謂河内驛家、今隨本名也、〉云々トアリ、コノ粟河ハ、即コノ川ヲ指セルナリ、〈河内村今尚コノ川邊ニ存ス〉粟ヲ以テ名トセルモノハ、コノ川下野ヨリ本國ニ入テヨリ、數里ノ間南ノ片岸ハ悉ク那珂郡阿波郷ニ屬スルヲ以テナリ、〈今ノ茨城郡粟野大山、穴澤、赤澤、伊勢畠等ノ地コレナリ、〉何レノ比ヨリ全ク那珂川ト云シニヤ、タシカナラズ、神明鏡ニ、應永十五年正月十八日、野州那須山燒崩、同日硫黄空ヨリ降、常州那珂河硫黄ニ變ズト見エタリ、又宗祇法師ガ應仁二年白河紀行ニ、くるヽほどに大俵といふ所にいたるに、あやしの民の戸をやどりにして、かたりあかすに、主の翁情あるものにて、馬などを心ざし侍るを、悦をなして過行に、よもの山紅葉しわたして、所々散敷たるなどもゑんなるに、尾花淺茅もきのふの野にかはらず、虫の音もあるかなきかなるに柞原などは平野の枯にやと覺侍るに、古郷のゆかりは侍らねど、秋風の涙は身ひとりと覺るに、同行みな〳〵物かなしく過行に、大なる流のうへに、きし高くいろ〳〵のもみぢ常磐木にまじり、物ふかく大井川など思ひ出るより名を問ひ侍れば、中川(○○)といふに、都のおもかげいとヾうかびてなぐさむ方もやと

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 覺えて、此川をわたるに、白水みなぎり落て、あしよわき馬などはあがくそヽぎも袖のうへに滿て、萬葉集によめる、武庫のわたりと見えたり、それより又黒川(○○)といふ河を見侍れば、中川よりは少しのどかなるに、落合たる谷水に、紅葉ながれをせき、青苔道をとぢ、名もしらぬ鳥など聲ちかき程に、世のうきよりはと思ふのみぞなぐさむ心地し侍るに、ほどなく横岡といふ所に來れる云々ト見エタリ、又那須記ニモ、永祿中佐竹那須合戰ノ處ニ中川ト記セリ、サレバ足利將軍ノ比ニハ、全ク那珂川ト云ケンコトヽ知ラレタリ、紀行ニ黒川トアルモ、那須郡ノ内ノ川ニテ、黒羽根ノ邊ニテ那珂川ニ合流セル川ナリ、凡本國ノ内ニ水流多ケレドモ、流海ヲ除キテ外ハ、コノ那珂河ノ上ニ出ルモノナシ、コレニツグモノハ久慈川(○○○)ナリ、中秋ノ候、コノ兩河多ク鮭魚ヲトル、那珂河尤多シト云、又鰻魚ヲ釣ル、味至テ美ナリ、水戸ノ府下稱シテ那珂河鰻ト云、上流又多ク鮎ヲ網スト云ヘリ、 補、水戸領地理志云、那珂河常州第一ノ大川ナリ、古今其水ノ遷移シ、其川ノ變改セル物モ少カラズトイヘドモ、記載ナクシテ詳ニシガタシ、今モ此水暴怒シ、淵ヲ破リ岸ヲ崩シ、屈曲所ヲ易ルモノモ年々ニコレアリ、其魚ハ鯉、鮒、鱸、鱖、鱣、鮎ノ屬アリ、然シテ鱖魚尤モ美ナリ、那珂川ノ鮭ト稱シ、近地比ナシト云、鱖之ヲ鮭ニ作ル、鹽ニツケ、乾シ用ユルモノ之ヲ鹽引鮭ト云、

〔東遊雜記〕

〈二十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 枝川太田より〈五里〉此所在町にて、町の南に川あり、中川と稱して、常州第一の川と云々、水上は下野國奈須山より流れ出る、〈此所にては、戊亥より辰巳の方へ流れ落る也、〉此川水戸城の北の岸をながれ、要害の川なり、川を通ればわづか八丁にて、水戸の下町と云に入るなり、

陸奥國/阿武隈川

〔運歩色葉集〕

〈安〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 會隈川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 阿武隈川(アブクマガワ)〈奥州安達郡〉

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈四名蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1179 阿武隈河 武字、於和歌則清音、於俗語則濁音、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 此河源出于野州奈須嶽、濫觴于嶽麓瀑布、林中有老熊、年々産子、必飮瀑布而安、故稱之曰生熊(アフクマ)瀑布、自是滾々歴于會津、白河、伊達、柴田、伊具、亘理村、落尾山、田澤、名取、南長谷數所、過同郡荒濱而入于海、且夫奧州大河尤多、在我大守封内、北稱崎多河嵋、南號阿福麻、此河流是也、荒濱乃商舶所輻輳、設倉廩於此而納公穀、有吏而司之、河北亦商舶著岸之津也、其地乃名取郡蒲崎也、河流過其兩間、而滔々朝于東濱焉、於和歌殊得其美名

〔古今和歌集〕

〈二十東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 陸奧歌 阿武隈に霧立曇り明けぬ共君をばやらじまてばすべなし

〔吾妻鏡〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 文治五年七月十七日乙亥、可下向于奧州事、終日被沙汰、此間可分三手者、所謂東海道大將軍千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各相具一族等并常陸下總國兩國勇士等、經宇大行方岩城岩崎、渡遇隅河(○○○)湊參會也、 八月七日甲午、泰衡日來聞二品〈◯源頼朝〉發向給事、於阿津賀志山城壁、固要害、國見宿與彼山之中間、俄構口五丈堀、堰入逢隈河(○○○)流柵、

〔奧の細道〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 心もとなき日數かさなるまヽに、白河の關にかヽりて旅心定まりぬ、〈◯中略〉とかくして越え行くまヽに、阿武隈川をわたる、左に會津根高く、右に岩代相馬三春の庄、常陸下野の地をさかひて山連らなる、

〔東遊雜記〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 角田と云所は在町にて、仙臺侯の臣石川大和と言し大夫の在所也、〈◯中略〉角田の東にて阿武隈川を渡る也、名所に載せし稻葉の渡、此川下にありとばかりいふて、其實跡定かならず、古歌に、よみ人しらず、 風寒く稻葉の渡り空はれて阿武隈川に澄る月影、初に記せしごとく阿武くま川は、北上川には大におとれり、此邊より海へ川の流れ六里也、

北上川

〔奧羽觀蹟聞老志〕

〈九牡鹿郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1180 石卷海門 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 來神河(○○○)流滔々流入于海門、其河源出于南部大岳、經膽澤江差等處々郡縣村落、縈回屈曲而臻玆地、南郊之於逢隈、北郡之於來神、是封内之巨川也、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 文治五年九月廿七日甲申、二品〈◯源頼朝〉歴覽安倍頼時〈本名頼義也〉衣河遺跡給、〈◯中略〉左鄰高山、右顧長途、南北同連峯嶺、〈◯中略〉至于四五月殘雪無消、仍號駒形嶺、麓有流河而落于南、是北上河(○○○)也、衣河自(○○○)北流降而通(○○○○○)于此河(○○○)

〔奧の細道〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 三代の榮耀、一睡の夢にして、大門の跡は一里こなたに在り、秀衡があとは田野になりて金鷄山のみ形を遺す、先づ高館に登れば、北上川南部より流るヽ大河なり、衣川は和泉が城を遶りて高館の下にて大河に落ちいる、

〔東遊雜記〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 北上川は、先達て聞しとは大に違ひし大川にて、川幅も廣く水深し、千石の船帆を懸、何方へも勝手よき所へ走り、心まかせの川也、

出羽國/最上川

〔書言字考節用集〕

〈二乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 最上川(モガミガハ)〈羽州最上郡〉

〔類聚名物考〕

〈地理三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 最上川 もがみがは 陸奧國、信濃、 この河一名二所(○○○○)あり、源重之集に見えしは信濃國なり、又古今集その外に稻舟をよみしは此と同じからず、出羽國(○○○)にあり、最上山同所に有り、

〔古今和歌集〕

〈二十東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 陸奧歌 最上川のぼればくだる稻舟のいなにはあらず此月ばかり

〔奧の細道〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1181 最上川は陸奧より出でヽ、山形を水上とす、ごてん、はやぶさなどいふおそろしき難處あり、板敷山の下を流れて、果ては酒田の海に入る、左右山おほひ、茂みの中に舟を下す、これに稻積たるをや稻舟とはいふならし、白糸の瀧は青葉のひま〳〵に落ちて、仙人堂岸に臨みて立ち、水漲りて舟あやふし、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 さみだれを集めて早し最上川

〔東遊雜記〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 抑此最上川といへるは海内第一の早川にして、流は瀧のごとく、左右は大山峨々として、きおいかヽり、舟を寄る便り更になく、〈◯中略〉此川は、早川と云のみにて、大河と云にもあらず、此ころ雨しげく、常水よりは三尺計も水まして如斯と舟人の云也、見る所東海道天龍川の常水ほどはなかりしやふに思われ侍りし也、〈◯中略〉 予畫にうとくして、最上川の圖たる所更になし、左右の山峨々として、岩石きほひかヽりて、左に記す瀧あまたにして風景あり、しかし所せまくして、聞し程の景にはあらず、清水より清川へ七里の舟路といへども、八九里もあり、山川早川にて危く、折ふしくつがへりて死亡のものありと土人の物語也、此頃は既に清川のもの二人死せしとなり、〈◯中略〉 頭光瀧 佐々木の明神 危日瀧 千本の瀧 多木澤の瀧 鷹巣瀧 馬の爪瀧 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520b5.gif の瀧 舟かな石 八幡の礫石 十夕し瀧 柳瀧 七瀧 ウルシ瀧 大の瀧 早瀧 タバ子瀧 瀧クラヘ瀧 錦明神 浮石 石瀧 白糸の瀧 何れも雅なる名のありて、やさしく聞ゆれども、象あるにはあらず、案内のものヽ記を寫し侍るなり、清水より清川までの川筋に斯のごとし、

〔東國旅行談〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1182 仙人堂 同國〈◯出羽〉最上川の川邊にやり、此川は流はやき事は日本第一といふ、大石田宿といふ所より秋田へ行たび人は、此川船にのり、相貝宿、鷹の巣宿、古口宿、清川宿まで十五里の間也、其ながれ早きことを矢を射るがごとく、三時ばかりに清水へ著事あり、又渇水の時は、一日もかヽる事も有とかや、此川に四十八瀬、四十八瀧あり、中にも白糸の瀧とて名所なり、〈◯中略〉堂守の修驗者は、杉の木の大丸太を舟の形に彫たる長三間ばかりなるに乘て、大杓子の如くなる物を楫として、旅人の船に漕よせ、纜をもやゐて御札御符を授あたふといふ、諸病平愈の御守なり、則仙人大權現と拜し

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 奉る、靈驗あらたに在ます也、また修驗者の舟と同じやうなる舟に乘て、女の商人、餅を賣に來る、此女御國ぶしとて唄を諷ふ、古風にしておもしろし、此最上川は名所にして、古歌多しといへども、事繁ければこヽにもらし畢、

雄物川

〔東遊雜記〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 御物川は雄勝郡由利郡より流れ出て、何方にても御物川と稱す、

野代川

〔東遊雜記〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 野代といふ所は湊にて、千四百軒の地にて、大槩のよき町なり、野代川流れ、川上は奧州南部より流れ出て、十九里の間は川舟往來して此邊の産物皆々此湊に出て、北國、九州、および大坂の廻船も數多入津して、交易の業あるゆへに、商人多く、豪家も見へ、倡家もありて、言語も外より見れば大ひに勝れたり、羽州の内にては、最上川第一(○○○○○)にて、第二は(○○○)此所を流るヽ野代川(○○○)なり、

越前國/九頭龍川

〔倭訓栞〕

〈前編八久〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 くづる〈◯中略〉 くづれ川は越前にあり、九頭龍川と書り、

〔運歩色葉集〕

〈久〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 九頭龍(クヅレ)〈越前〉

〔朝倉始末記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 加賀能登越中ノ凶賊亂入越前事 去程ニ、惡政ハ生惡氣、惡氣ハ生災異云ヘバ、諸國ノ惡徒不時日馳集、加賀ノ一揆ニ合掌シテ、都合其勢三十萬、永正三年七月十七日、越前國ヘ打越ヘ、九頭龍河(○○○○)北、在々所々ヲ放火シテ、兵庫長崎邊ノ村々里々ニゾ陣ヲ取ル、洪波壑ニ振トキハ、川ニ閑ナル鱗ナク、驚颷野ヲ拂フトキハ、林ニ靜カナル枝ナシトテ、國中ハ云ニ及バズ、近國隣郡ニ至ルマデ、騷ガヌ所ゾ无リケル、

越中國/庄川

〔加越能山川記〕

〈越中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1183 庄川 庄川は、礪波郡に在、庄川とは谷口に在村名也、此内の水源は、飛州高山の西の方より出る谷々多故、北陸第三の大川(○○○○○○○)也、飛州にて東南より西山筋流れて、御領五ケ山谷より流る、五ケ山にて大谷東西二川(○○○○○○)也、東を栂川(○○)といふ、此川の水源は同所水無村より出て、下仙納原村少し下にて落合ふ、此川筋拾里程なり、飛州にて東神通川(○○○○)と庄川二川の水源とは、此間二里餘程在、此庄川は飛州に

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 て山深き故、第一此川江大材木多く出る、〈◯中略〉凡この庄川は、飛越兩國にて二十瀬計谷々落る、又五ケ山東西の間、大川筋、籠の渡し七ケ所あり、〈◯中略〉庄川水源の山より、北海まで道程四十四里程あり、

〔越遊行囊抄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 大門川(○○○) 大河也、半分上船渡、半分下ハ橋ナリ、長三十二間、大門ノ宿ノ前ニアリ、常願寺川(○○○○)ノ末ト云、或ハ庄川(○○)トモ云、或人曰、婦負川(○○○)トハ此川ヲ云ト、藻鹽草ニ婦負川、越中、 めひ川のはやきせごとにかヾりさしやそのともをばう川たちけり

越後國/神通川

〔加越能山川記〕

〈越中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 神通川 神通川は、越中新川郡婦負郡の間に有り、北陸第二の大川(○○○○○○○)也、第一は越後の新潟川也、此川の水源、飛州高山東より二川、岩宮川(○○○)、町野川(○○○)、又一川は三日市川(○○○○)流出る、奧の谷は城下の坤の方、西峠川(○○○)一川出る、此川の中に神通といふ所あり、依之川の名とす、高山より越中富山迄、道程三十二里二町有、高山城下より所々の城下へ各三十里餘あり、右の川々城下の乾の方にて流合、〈◯中略〉此神通川かくの如く谷々多く流入故、北陸の大川也、

信濃川

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 筑摩川(チクマカハ)〈信州〉

〔倭訓栞〕

〈中編十四知〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 ちくまがは 萬葉集に千隈川と見ゆ、信濃國佐久郡より出て、凡そ八郡の水をすべて、六町一里四百三十餘里を經て、越の新潟の海に入、よて越の人は信濃川(○○○)といへり、扶桑略記に、仁和三年七月、信濃國大山頽崩、山河溢流、六郡城壘拂地漂流、牛馬男女流死成丘といへる、此川なるべし、近く寛保二年八月にも此事ありて、水災六郡に渉れり、溺死のもの數千人と云、

〔西遊行囊抄〕

〈二ノ二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1184 筑摩川 布橋アリ、繼橋ナリ、所々ニ橋柱ヲ立テ、長サ一丁許ナリ、川原ノ間廣シ、 此川ハ、東ヨリ西北ヘ流レ、大河ナリ、松本ノ城下ノ邊ニテハ梓川(○○)ト號シ、水内郡川中島ノ邊ニテハ犀川(○○)ト號、ソレヨリ越後ヘ流出テ牧野駿河守領ヲ通リ、下越後ニテ海ニ入、 

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 凡當國ニチクマ川ト號スル二流アリ(○○○○○○○○○○○○)、一ハ此川ナリ、又一流ハ川中島ノ善光寺ノ東ノ方ニ流ルルヲ云、其川上ハ上田ノ城邊ヨリ流下リ、武田信玄ト上杉藤原ノ謙信トノ戰場、横田村陣ケ瀬ナドヲ流過テ、善光寺ヨリ北布野ト云所ニテ、此筑摩川ト一流ニナリテ越後ヘ流行、古歌ニ讀タルハ此川ヲ云ナルベシ、此流ハ筑摩川ヲ流通ル故ニ、筑摩川ト書テ、チクマ川ト唱ル、

〔千曲之眞砂〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 ちくま川(千 曲) 〈また筑摩川ともいへり〉 またつくま川(○○○○)とも讀り、いかなる故にか有らむ、この川筑摩郡には少しも據ざる川なるを、不審の事也、松本城下より少し南に筑摩川といふあり、また筑摩の八幡なむども近所にあり、郡名の初なりといへり、然れども小川にして、中々歌の心とは相違なり、その川にあらざる事極れり、千曲川はその源甲州境佐久郡の南金峯山大日堂といへる片側より、涓々たる清水流れ出る、是川源なり、それより幾瀬ともなく落合々々て、佐久郡、小縣、更級、水内、高井の數郡を經て、下越後蒲原郡新潟に至り海に入る、凡百餘里となむ、

〔木曾路名所圖會〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 筑摩川 大河なり、流れ二つ、兩橋をかくる、千隈川、或は千曲川また知具麻河とも書す、 水源は佐久郡金峯山の陰に出づ、はじめははつかに觴を浮ぶ、またひがし三ツの峯より出る梓川(○○)あり、いくらの上にて會ふ、佐久小縣の郡をつらぬき、河中島四郡の境を流る、また犀川(○○)は駒が嶽に出て、筑摩、安曇、更級、水内の界を經て、筑摩川に落合、都てちくま河といふ、越後の新潟にてしなの川ともよべり、

〔越後名寄〕

〈一川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1185 信濃川(○○○) 國ノ中ヲ流ルヽ大河也、坂東ノ利根川、山州ノ淀川ニモ倍々セリ、凡水上ハ信州ノ筑摩川犀川(○○○○○)也、筑摩ハ甲州堺、犀川ハ飛騨國ヨリ出テ、川中島ヲ過、松代ノ城下ヨリ四里下、福島村ト長沼村ノ中

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 間ニテ落合、前ニ出シ清津川等モ一ニ成、飯山ヲ過テ越後魚沼郡ニ來リ、妻有ノ郷ノ内ヲ流レ、川口ノ驛ニテ大野川ト合シテ大水ト成、妻有ノ郷山屋村ノ邊ヨリ山奧途程八里ノ間ノ川中ニ、二十七瀧有リ、中ニモソタキト云ヘルハ難處ナリ、依之信州ヘ舟ノ通ジナシ、近曾打ツヾキ度々洪水シテ飛泉(タキ)々々ノ高キ巖ハ欠落テ平ラカニ、深キ淵ハ埋レテ淺瀬ト成リ、ソタキノ外ハ扁舟筏ノ類ハ通路モスルコトニヤ、大野川(○○○)ヲ舟ニテ下ル間ニ、所々ニ難事トスル場多シ、中ニモ此川口ノ川合ヲ第一トス、風有時、洪水ノ折節、必ズ乘ベカラズ、身ヲ愼ム人乘マジキ事也、川合ノ神社、此岸ニ鎭座、サテ右左ノ川々次第ニ落合流レ入テ、魚沼、古志、三島、蒲原四郡ノ中ヲ過ギ、新潟ノ湊ニ到リ、凡水面一里餘、運送自由ノ專一ノ河也、

〔萬葉集〕

〈十四東歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 信濃奈流(シナヌナル)、【知具麻能】(チクマノ)、【河泊】能左射禮思母(カハノサヾレシモ)、伎彌之布美氐婆(キミシフミテバ)、多麻等比呂波牟(タマトヒロハム)、〈◯中略〉 右四首、信濃國歌、

〔東遊記後編〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1186 新潟 越後國新潟は、信濃川(○○○)其外の川々落合て海に入る所なり、海口近くの一二里の所は、川幅廣き事一里二里ばかり、渺々として湖のごとく入り海のごとし、岸より岸まで水甚深く、淺瀬といふものなし、千石二千石の大船といへども、いづくまでも自由に出入りす、誠に川湊にては日本第一ともいふべし、川幅の廣きも天下無雙ともいふべし、此河を信濃川といふは、此川の水上は信州犀川筑摩川にて、其國善光寺の邊にても、旣に東海道天龍川程の大河なり、それより新潟までは五六十里をへて、其間大小の川々流れ入るゆゑ、かくばかりの大河となる、されど越後は地勢平坦なるゆゑ、流れ甚穩にして、淀河などよりも靜なり、總じて越後路石無く、皆ニコ土ゆゑに、川の兩岸も柔にて、崩入り次第なり、されども水勢ゆるきゆゑに、大に崩る事もなし、其水は常に黄色に濁れり、余は三條と云所より新潟迄十里の所を、此信濃川の堤通り來りしゆゑ、此川の體委敷

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 見及たり、長岡の城下より此新潟迄十六里を、四百石積程の川舟、常に一日づヽに上下す、誠に運漕に便利なる事も、海内又かヽる川なし、其大なる事日本第一なるに、其名高からざるは、北陸避遠の地にありて、殊に其川平穩にて奇ならざるゆゑなるべし、余新潟の町より又小船をかりて、芝田の木崎といふ所迄、五里が間を此川の入江々々を傳ひて乘しに、其間廣き所は二里に餘る所もあり、狹く入込所は纔に二三十間の所もあり、是は本川筋にあらざるゆゑなり、流れ甚靜にして流れざるが如し、此日殊に晴天にて、兩岸の景色うるはしく、入江々々には蓮の莖甚だ多し、夏月には水面一様の花にて、見事なる事いふばかりなしとぞ、新潟の町より舟を浮め荷華を賞し、又は納凉など甚繁華といふ、扨船中より四方を見渡すに西南より東北へ六七十里を見渡して山なし、西北には二十五里の所に佐渡山見ゆ、東方に奧州會津の山見ゆる、

〔越遊行囊抄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 犀川(○○) 大河ナリ、船渡ナリ、凡川幅一町餘、川ノ兩岸ニ木ヲ立、繩ヲハヘテ、クリ船ニスルナリ、人二三人舳ニテクルニ、三人鞆ニテ棹ヲサス、時ニヨリ一二人トテ渡ス事モアリ、 一犀川水ノ出タル時ハ、右ノ方ヨリ小市ト云所ヘマハリテ、船渡ヲシテ日ケ野ヘ出ル路アリ、

阿賀川

〔越後名寄〕

〈二川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 阿賀川 水上ハ、下野國日光山ノ當リヨリ流レ出テ、奧州ヲ歴、津川ヲ過、山間ヲ流レ、蒲原郡ノ内ヲ通リ、近年出來シ松ケ崎村ノ新川口ニテ海ニ入、山中ハ難所トスル所數多有ケレドモ、津川迄ノ船ノ運送自由好シ、炭、薪、松杉ノ挽板、材木等、毎年積下シ、戻リ舟ニ、鹽魚、脯ノ類、其外賣買物積行也、新川口ノ出來ザル昔ハ、加地川(○○○)ト落合、大佛村ノ傍ヲ流レ、新潟ノ向ヒ當リニテ信濃川ト合(○○○○○)テ、新潟ノ港ニ到リシニ、今ハ大ニ異レリ、

丹後國/由良川

〔諸州めぐり〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1187 福知山に著く、山上に城あり、城下町ひろからず、朽木伊豫守殿の居城也、大河(○○)其東北に流る、川舟おほし、是より舟にのりて丹後の由良に下るといふ、此河は三戸野嶺より西北の

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 水、并に南丹波より流來る水なり、みとの嶺より東の方の水は龜山川(○○○)に出て、嵯峨にながれ出づ、

出雲國/斐伊川

〔出雲風土記〕

〈下出雲郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 出雲大川(○○○○)、源自伯耆與出雲二國堺鳥上山流、出仁多郡横田村、即經横田、三處、三澤、布勢等四郷、出大原郡堺引沼村、即經來次、斐伊、屋代、神原等四郷、出出雲郡堺多義村、經河内出雲二郷北流、更折西流、即經伊努杵築二郷神門水海、此則所謂斐伊河(○○○)下也、河之西邊、或土地豐饒、五穀桑麻稔欵枝、百姓之膏腴薗、或土休豐渡、草木叢生也、則有年魚、鮭、麻須、伊具比、魴鱧等之類、潭湍雙泳、自河口河上横田村之間、五郡百姓、便河而居、〈出雲、神門、飯石、仁多、大原郡、〉起孟春季春、挍材木船、沿泝河中也、

石見國/郷川

〔陰徳太平記〕

〈三十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 尼子晴久攻河上之城事 尼子勢、兼テハ琵琶頸ト云山ニ陣ヲ居ント定メシニ、元就、此山四方嶮難ニシテ、地ノ利甚宜シ、敵必定陣ヲ居ナバ、容易ニ可切崩ト思惟シ給、遮テ城郭ヲ構ヘ、人數丈夫ニ籠置レケル故、尼子勢按ニ相違シテ、サラバ河上リノ松山ノ城ヲ切崩シ、彼地ヲ本陣ト定メ、其后舟ヲ方(ナラ)ベ笩ヲ組テ、【江】(ゴウ)【ノ川】ヲ渡リ、一戰スベシトテ、七月十四日總軍一万八千人、鬨ヲ咄ト作テ松山ヘ切テ蒐ル、〈◯中略〉サテ尼子一族他家ノ人々ヲ集會シテ、如何シテカ小笠原ヲ可見續ト、三策五戰ノ術ヲ議セラレケレ共、異口蜂ノ如起リ、衆理岐ノ如分レ江ノ川トテ日本第四ノ大河(○○○○○○○○○○○○)ヲ隔、一戰スベキト一決スル行(ナダテ)ノ出ザレバ、徒ニ五日ヲ經テ彼山ニシテ遠見ス、

備前國/東大川

〔備前國誌〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 東川(○○) 上流に作州津山川(○○○)、同國勝南郡藤原村より赤坂郡河原村に來り、また作州湯郷川(○○○)、同國勝南郡飯岡村高下村の間より、赤坂郡周匝村に來り、津山川に入、合流して赤坂郡の東北のさかひと、作州勝南郡と南國の境を歴て、和氣郡磐梨郡兩郡の間を經、上道一邑久兩郡の間より流れて海に入、

西大川

〔備前國誌〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1188 西大川(○○○) 源は伯州大山の麓より出て、作州を歴て、同國眞島郡吉村より津高郡江與

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 味村の内川尻に來り、津高郡の東界と作州久米南條郡と、兩國のさかひを流れ、赤坂郡の西さかひを經て、上道御野兩郡の間を流て海に入、是等の川、州内の大川也、古書に西川東川と有り、西川をば大川(○○)、また旭川(○○)といふ、歌枕にいへる大川は此川なりと云傳、

紀伊國/日高川

〔南紀名勝略志〕

〈日高郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 日高川 源、和州堺ヨリ出テ、湯之又庄、原ノ庄、宮代ノ庄、西村ノ庄、安井ノ庄、柳瀬庄、福井ノ庄、甲斐川ノ庄、小家ノ庄、川上庄、山田ノ庄ヲ經テ海ニ入、河ノ流三十里計ト云ヘリ、草根集ニ、正徹歌、 サシノボル日高ノ川モ解ヤラデ氷ヲクダク紀路ノ旅人

紀ノ川

〔和州舊跡幽考〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 吉野川(○○○) 八雲(葛葉)刺出雲の子等が黒がみは芳野の川の沖になづそふ 我(同)もこが犢鼻にするつぶれ石の吉野の川に氷魚ぞかヽれるは 吉野川(元眞家集)おろす筏の折ごとに思ひもよらず波の心を 芳野川の河上は、大臺が原といふ所也、北山に越行道の姨が峯といふなる所のはるかの、左の方にして見わたしにもおよぶ所にあらず、まして人の通ふ所にもあらず、只いとひろく葎荻などの高くしげり、藤かづらはひおほひて、淺澤などやうの水あり、その中にいとふかくて、巴が淵などヽいふ所ありとかや、風だにふけば、そのしげりの露落つもりて、川の水累をなし、北よりふけば熊野川の水をまし、西よりふけば伊勢の宮川のながれをそへ、東よりふけば芳野川の水かさめりとなり、

〔萬葉集〕

〈七雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 人在者(ヒトナラバ)、母之最愛子曾(オヤノマナゴゾ)、麻毛吉(アサモヨシ)、木川邊之(キノカハノベノ)、妹與背之山(イモトセノヤマ)、

新宮川

〔十寸穗の薄〕

〈四牟婁郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1189 熊野川 音無川の末流、北山川の落合の處を巴が淵といふ、是より新宮城まで下り舟里程九里八町といふ、巴が淵船場解纜順流而くだれば、高山村の畔に屏風島アリ、其次

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 網代が淵、見アゲ石、撞木山、其下に烏帽子岩、次に絹卷石とて、右方川端巖山に横ハル、似絹卷巨石をいふ、屏風石折敷岩味噌豆石アリ、左方楊枝村〈銅山〉常樂寺藥師佛は、往昔京ノ三十三間堂の梁木、柳の樹ノ大木の出たる處、其柳の伐株を以て、七體の藥師如來を刻み、此寺に安置す、因是地名も即チ楊枝村と名く、カイ餅石筒井岩アリ、和氣村美毛登明神〈祭菊理姬命〉名所也、風雅集に有漏路より無漏に入ぬる道なれば是ぞ佛の美毛登なるべき、とありしも此祠なり、右方達摩石、左方滑が瀧、布引の瀧、三重の瀧、葵の瀧、右方犬戻り、猿すべり、親不知、子しらずと云難所アリ、陸地に火鉢の森見たり、右手ニ骨石眞魚箸石二本直立如箸植たり、其已前庖丁石とて有、去亥年の地震に折て今はなし、俎石は其形四角なる平岩なり、其上に肝石とて大サ其徑一間餘の圓石アリ、鉤鐘石は巨巖の根を離れ積立たる絶壁の上に峙ち覆はる、其下を河船乘くだる也、石舟と云岩は、大船を仰のけたるが如き巨巖なり、田長村のあたりに至レバ、雪の瀧最見事なり、懸崖万仭の高ミより、水沫宛も打綿の如ニ一固マリに成て、雪の飄りくだるに似たるをもて名焉、白絲の瀧は、如縷細くわかれて太虚より眞直にくだるをもて名とす、九里八町の間に、世に聞たる瀧の數都て六箇所、みな壯觀也、

〔増鏡〕

〈六おりゐる雲〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 御幸くまのヽ本宮につかせ給て、それより新宮の川舟(○○○○○)にたてまつりてさしわたすほど、川のおもて所せきまでつヾきたるも、御らんじなれぬさまなれば、院のうへ、〈◯後嵯峨〉 くまの川せきりにわたすすぎ舟のへなみに袖のぬれにけるかな

阿波國/吉野川

〔倭訓栞〕

〈前編三十六與〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 よしの 三大河の一(○○○○○)ツにいふ吉野川は、阿波國也、所謂小鳴戸也、

〔阿波志〕

〈六三好郡〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1190 芳野河 源二、一出土佐、曰https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/7f00006520b6.gif 鷉溪、流四十里至下名、一出伊豫銅山流二十餘里、至山背谷文字名、二十餘里至川埼合流、徑四十歩餘、船不此、而上水清駛可愛、逕蓑田益急、東南至城府二十五六里、至第十徑百八十歩許、分而爲二、北曰音瀬川、徑不百歩、南曰古川、徑三百五十歩許、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1191 運輸甚便、但時決壞民田廬、通載船長二丈五尺許、廣六尺許、底平板厚、舳如圭首

筑後國/筑後川

〔筑後地鑑〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1191 一筑後川、乃是九州之大川也、其源出豐後、而西南流歴是州生葉、竹野、山本、御井、三潴五郡而入海、其廣三町餘、或二町、一町餘、九州稱之曰筑後川、是州舊有千年川(○○○)及一夜川(○○○)、見古人和歌、此二川少知者、蓋千歳川此川之總稱、而一夜川則指其一處之名也、

〔西遊雜記〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1191 筑後川といふは、九州第一の大河(○○○○○○○)にて、水元は豐後、日向より流れて、川舟十五里の往來有、川下へ汐さし入て、海舟百石積計の廻舟は入る也、此川を筑後、肥前の堺として、むかしよりも雙方の村々、堤、水道の論まヽある所也、近年は別しての事にて、肥前の方より川土手を築上し事數丁にて、夫にては瀬の下といふ所の町家凡千餘軒、高水の時にせくべきやうなし、 瀬の下といふは、久留米よりわづか八丁、川に望て家造りし町場にして、土手をして防ぐべき地所なし、常水にても川端へ遠からずして、高水の節別て難義なる所、肥前のかたに土手を築かれては、いかんともなしがたきやうに見ゆる地理なり、 此故に爭論甚敷なりて、築後久留米領の百姓、肥前の地に入れば大勢にて打たヽきし、肥前の百姓久留米領へ來れば右の如し、旣に百姓合戰に及ばんとす、無據聞訴となり、予が此所通行のせつ、御見分として御代官萬年御氏御下向、肥前の國千栗明神の別當寺に御止宿あり、其後いかヾ成し事にや、雙方の百姓勝手つくのみの物語とり〴〵にて、奇談も有し事なり、爰に略しぬ、

〔佐藤元海九州記行〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1191 抑此筑後河ハ、原ヲ豐後ト日向ノ界ナル深山ヨリ發シ、西北ニ流レテ當國ニ至リ、久留米城ノ西北ノ隅ニ來テ、屈折シテ西ニ流レ、榎津ト云フ所ヨリ西海ニ注グ、是レ九州第一ノ大河ナリ、河舟ノ通行スルコト凡ソ十五六里、河下ノ所ハ潮入ニテ、二百石積ノ船モ通津ス、此河ハ、筑後ト肥前ノ國界ニシテ、若シ大雨ノ降續クコト有レバ、洪水出テ兩岸ニ溢流シ、筑後ノ方ハ高良山ノ下ヨリ、久留米ノ領内大半湖水ノ如クニ成リ、肥前ノ方ハ、直チニ西尾神崎ノ邊ヨ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1192 リ、佐賀城下ニ至ルマデ、悉ク洪水ノ災ヲ蒙ルコト度々コレ有リキ、故ニ兩方ヨリ堤防ヲ築キテ、水難ヲ防グノ策ヲ爲ス、殊ニ近來佐賀領ニテ、久留米城ノ向フ河岸ニ高クシテ、丈夫ナル大堤ヲ數十町ノ間築シニ因テ、肥前ノ方ノ河邊ノ百姓ハ、大水出ルト雖ドモ其難ヲ免ルヽコト成テ、筑後ノ方ニハ夥ク水ノ溢レルコトヽ爲リ、久留米領ナル瀬ノ下ト云フ所ハ、別シテ甚シク水難ヲ蒙リ、痛ク困究スルニ至レリ、瀬ノ下ハ、久留米ノ城下ヨリ僅十町バカリ離レタル所ニテ河ニ臨ミテ家作セシ町家凡ソ千軒餘リアリテ、頗ル宜シキ地ナルニ、今ハ如何トモ難爲ノ所ト爲レリ、此ニ因テ此兩國ノ百姓、年々鬪合爭論等アリ、合戰同様ノ事ナリ、此ヨリ以來久留米領ノ土地ハ、水腐ノ患毎年少カラズ、此ニ因テ藍ヲ作ルニ良ナリ、

豐後國/大野川

〔豐後誌〕

〈九山川〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1192 大野川 一曰藤原川、自直入郡三宅郷來、東北行分緒方大野郷界、横過郡中、控百溪水、至大分海、郡之大川、其源直入諸水會十川、東曰廣瀬、水自崖上落、名蝙蝠瀑、乃爲大野川炭燒及古賀柏野古城下、南折經軸丸、東過高雄下、經漆生平治川(○○○)、過小牧山西北至原、合緒方川(○○○)沈墮瀑、此受矢田雌沈墮水、直東行會岩戸、遶向野東北、北折過白鹿山下蟹戸川(○○○)、西北流合赤嶺川(○○○)、導茜柴北二水、合萩原水下犬飼川(○○○)

肥後國/求摩川

〔紫遊行囊抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1192 求摩川 船渡ノ大河也、凡河幅五町餘、潮入ノ湊川也、自八代城下于此十町計、以此川八代ノ城ノ要害ノ便トス、 是ハ求摩ノ山川ノ末ニテ、川船ノ往來自由ニシテ、炭薪并材木等ヲ下ス名ヲ得タル逸流ニテ、下リ船ハ求摩城邊ヨリ凡二日路ノ所ヲ四五時ニ八代ニ到ル、上リ船ハ三日程ニ引上也、

〔西遊記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1192 求麻川 肥後國求麻川は、九州第一の急流(○○○○○○○)なり、源遠く那須椎葉山五ケ村邊より出て、四十里ばかりも流れたり、殊に大河にて、求麻郡の眞中をつらぬき、求麻の人吉の城下を過て八代に至り、肥後の海

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1193 に入る、予が歸路には、相良の御舟にて此急流を下りぬ、船はもとより輕し、人も纔に予と僕と二人に、船人三人、都合五人乘なれば、一しほに飛が如く、八代まで十六里の川を、纔二時に下り著たり、其頃は三月のすへなれば、春水殊に多きに、人吉御城下青井の宮の前より船に乘れば、送別の人々おびたヾしく打集り、名殘の恨いふもさらなり、高橋、雨森、石田の三士は、猶船に乘り移りて、酒肴など携へ、纜を解ば、もとよりの急流、見送りの人々は霞の中に入りて、招く扇もはや見うしなひぬ、盃一つふたつめぐらす間に、渡りと云所まで下りぬ、人々はつきぬ名殘なり、歸りの陸路も遠ければ、此所より上り給へとすヽむるに、いづくまでといふ限りもなければ、人々も襟をうるほして上りぬ、予もしばし船を離れて、又酒一ツ、ふたつくみて別る、是より下も水逆卷落て、殊にすみやかなり、船はいとちいさく細く作りて、首尾に梶を付たり、是は眞逆様に大岩に流れかヽりたる時、あとばかりの梶にては船の廻る事遲きゆへに、先きにも梶を付たるとなり、常に先の梶を第一に動し居て、岩角を避、思ふ方に船をめぐらす、又中程に楫を持て一人立り是は舟を前後左右に動かす爲なり、此三人の船頭しばらくも油斷せず舟を操る、浪殊に逆卷所にいたりては、船の兩方に高き板を立つ、是は浪の舟中に入らざるやうとなり、十六里の間に四五ケ所はいたつて難嶮の所ありて、浪の高き事山の如く、怒れる岩角浪の間におびたヾしく峙出づ、かヽる所にては、領主などの通行の時は、瀬越しとて其前後四五丁、或は八九丁ばかりも船を離れて山に登り、此嶮惡の瀬を越し終りて、又船に乘り給ふとなり、予はいと珍らしく覺へぬれば、興に乘じて、其瀬をも船に乘りながら下りぬるが、其目ざましき事筆の及ぶべきにあらず、渡りより下ツ方は兩山けはしく峙て、峯は頭の上に臨み、流れ殊にせまりて細く、怪巖峨々として屏風をたヽめるが如く、壁を付たるが如く、龍の騰るが如く、獅子の踞るが如く、或は雜樹影茂れる中に入るかとすれば、松杉森々たる岸に臨む、或は山吹の散かヽりたる、躑躅の咲そろひたる、山櫻の

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1194 己が梢とあらはれ出たる、千景万色眸をめぐらすにしたがひ、兩山只走るが如くにして、李太白が輕舟旣過万重山と詠ぜし、かヽる境にもおもひ出らる、彼巫峽の急流は唐土第一にして、舟の下れる事疾鳥迅雲も及ばずといふも、いかで是には過ん、予も興に入りて一絶句を作る、〈別に記行あり〉程なく八代の井手といふ里に著ぬ、誠に舟中の心よき事、今も忘れがたし、日向より求麻に入りしも、兼て聞つる急流を、船して下るべき爲なりけるが、日頃の望たりていと嬉し、求麻の地は、極深山の中には廣大の平地なり、別に一世界のごとく、仙境ともいふべし、他國に出入る路、日向の嘉久藤口と、此求麻川筋と二道のみなり、此川の傍に山路有れども、絶嶮にて殊に細し、されば相良侯にも、東都御參勤の時も、此川を船にて下らるヽとなり、家中の面々も皆船なり、誠に數百里の海上をへて東武に出る事なれば、家中の人々も、其妻子親友など、此川ばたに出て見送りの時、殊にあはれなる事なり、其時に船の䌫を解やいな、陸より船の中の人に水をかくる事なり、舟の人々笠をへだてヽ水を防ぐ、此まぎれに急流の事なれば數十町下り過て、涙をそヽぐひまなく、はや見送りの人影を見うしなふ事なり、予が發足の時も其如くなりき、誠につきぬわかれに、落くる涙せきかねて、取る手さへはなちかねたるに、水をそヽぎて船を飛す、陸地の別れに異にして、物いひかはすひまもなく速にてよけれど、又更に心ぼそくあはれなり、

日向國/五ケ瀬川

〔日向之國縣記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1194 唐網殺生禁斷之處 覺 一五ケ瀬川家中屋敷裏通(板田橋川上)〈◯中略〉 右之場所、前々撒網殺生御停止在之ニ付、此度御改撒網殺生、堅御停止被仰付候、御家中末々迄相心得候様可申通候、以上、 閏十月

薩摩國/川内川

〔鹿兒島藩名勝志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 千歳川(○○○) 和漢名數、此云千歳川、享保中より川内川(○○○)に作る、圖書編作千臺、高城郡と薩摩郡との界を經て、新田廟の前を流るヽものをいふ、是薩摩國第一大川(○○○○○○○)なり、

蝦夷/石狩川

〔蝦夷草紙〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 大河の事 一曠き地には大河あり、狹き地には大河ある事なし、日本の西海道に大河なく、東山道に大河多し、爰を以て推量すべきなり、蝦夷地は日本地に勝れる廣大なる土地なれば、大河も多し、西蝦夷地にイシカリ(○○○○)といふ河有て、蝦夷地第一の大河(○○○○○○○○)なり、又東蝦夷地にはトカチ(○○○)といふ河有て、蝦夷地第二の大河なり、先イシカリ河は、夷舟に乘て源の方に溯る事凡九日にして、河上の河邊に蝦夷土人住居の村々あり、此イシカリ河は、鮭の鹽引を出す所にて、秋にいたれば毎年數十艘の日本の商船渡海して、此河の内に船がヽりして滯溜するに、風波の愁もなし、縱數百艘の大船輻湊するとも狹もせず、此河時として標根其まヽ具へたる大木流れ出る事數をしらず、人皆是を視て、河上の地中に大雨降たるべしといえり、是源の河岸あふれて出るものかといへり、地中曠ければ、此流樹の出所を知る人なし、河尻の海近き處は潮汐の干滿ありて、河幅凡五六百間あり、

天鹽川

〔天鹽日誌〕

〈凡例〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 一テシホは、西部〈從箱館百二十八里沿海十四里十七丁〉に在て、夷地第二の大川(○○○○○○○)其源は石狩上川ユウベツシヨコツ〈モンヘツ領也〉に境し、百五十里を通ず、山中土人多し、〈二百七十餘人〉處々に散落し、其三分が一運上屋元并に二島〈テウレ、ヤギシリ、〉に住す、當時戸籍を別にすべけれ共、元來篷前(トマヽイ)土人も此川筋より移りしもの也、 一本名テシウシなるを、何時よりかテシホと詰る也、テシは梁の事、ウシは有との意なり、此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて、梁柵を結し如く故に號しと、又土人の言に、梁と言るものは、大古此川筋に、石の立并べる處有を、神達が見て始めし物とも言傳したり、

十勝川

〔十勝日誌〕

〈凡例〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1195 一トカチ、本名トカプなり、此川口二に分れ、乳房(チブサ)の并び無盡の乳汁を出に倣て號

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 し也、トカプ乳の事なり、餘説あれ共總て脞記媵説に距れば記さず、是東部第一の川(○○○○○○)にして、此國の母川とし石狩を父川とす、去箱館百五十餘里、〈今從ホロイヅミ境ビタヾヌンケ、クスリ境チクベツ迄トカチト云、〉沿海二十三里、山に入事五十餘り、拾一ケ場所に〈クスリ、アバシリ、トコロ、石狩、サル、ニイカツプ、シツナイ、ウラカワ、シヤマニ、ホロイヅミ、〉隣接し、源は石狩に向背し、此度山越せし地を分水嶺とし、土人も時として越たる者有と雖も未だ和人是を試し者、天開地闢の後一人有之を聞かず、然るに此度御開拓の命有、某も此山路を試ん事を、余に函館府より命ぜられ、依て余氷雪の上石狩より入、十勝に出て、日誌五卷を著、〈◯下略〉

洪水

〔伊呂波字類抄〕

〈古疊字〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 洪水

〔運歩色葉集〕

〈古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 洪水

〔書言字考節用集〕

〈一乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 洪水(コウズイ)〈左傳、積雨之所成也、又指南、洪水曰沈薔、〉

〔倭訓栞〕

〈中編八古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 こうずい 洪水と書り、又孟子に洚水とも見ゆ、

〔長谷寺縁起〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 傳聞、近江國高島郡三尾前山有深谷、號白蓮花谷、彼谷有大臥木、猶如心、長十餘丈楠也、〈◯中略〉昔八幡宮應神天皇五代之孫人王廿七代繼體天皇即位十一年丁酉歳、雷電霹靂、風雨大命、而有洪水、此木自彼谷出志賀郡大津浦、漂歴六十九年、〈◯下略〉

〔日本書紀〕

〈十九欽明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 二十八年、郡國大水飢、

〔日本書紀〕

〈二十二推古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 九年五月、天皇居于耳梨行宮、是時大雨、河水漂蕩滿于宮庭

〔古事談〕

〈三僧行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 神龜元年、行基菩薩造山崎橋造了後、菩薩於橋上大設法會、而俄洪水出來、橋流了、人多死、

〔日本後紀〕

〈十四平城〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 大同元年八月、是月、霖雨不止、洪流汎濫、天下諸國、多被其害

〔日本紀略〕

〈淳和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1196 天長九年八月己卯、大雨大風、河内接津國洪水汎溢、堤防決壞、 九月丙申、賑給接津國逢洪水百姓

〔續日本後紀〕

〈十仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 承和八年九月戊辰朔、有洪水、漂流百姓廬舍、京中橋梁及山崎橋盡斷絶焉、

〔續日本後紀〕

〈十八仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 嘉祥元年八月辛卯、洪水浩浩、人畜流損、河陽橋斷絶、僅殘六間、宇治橋傾損、茨田堤往往隤絶、故老僉曰、倍于大同元年水四五尺

〔三代實録〕

〈四清和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 貞觀二年九月十五日壬戌、風雨不止、都城東西兩河洪水、人馬不通、〈◯下略〉

〔三代實録〕

〈六清和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 貞觀四年四月二日庚子、大雨、河水流溢行路難通、

〔三代實録〕

〈十九清和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 貞觀十三年五月十六日辛酉、先是出羽國司言、從三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上、巖石壁立、人跡稀到、夏冬戴雪、禿無草木、去四月八日〈◯中略〉自山所出之河、泥水泛〈◯泛原无、據一本補、〉溢、其色青黒、臭氣充滿、人不聞、死魚多浮、擁塞不流、〈◯中略〉聞于古老、未嘗有此之異、〈◯下略〉

〔三代實録〕

〈十一清和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 貞觀十六年八月廿四日庚辰、大風雨、折樹發屋、紫宸殿前櫻、東宮紅梅、侍從局大梨等、樹木有名、皆吹倒、内外官舍、人民居廬、罕全者、京邑衆水、暴長七八尺、水流迅激、直衝城下、大小橋梁、無孑遺、朱雀大路、豐財坊門倒覆、抱關兵士、并妻子四人壓死、東西河流、汎溢蕩々、百姓及牛馬沒溺、死者不其數、與度渡口四邊三十餘家、山埼橋南四十餘家流、土人居屋中、隨流蕩去者甚多、一婦人提携兩兒、在小倉中、排扉隨河水而流下、擧手招呼岸上人來救、人々號哭、百方相計、水勢奔湧、遂不手、至橋柱、倉壞人沒、權律師法橋上人位宗叡、豫造御願寺、在山城國愛宕郡栗栖野、堂舍顚覆、佛像元在北山高岑寺、貞觀十三年大雨水、自然以大巖石其道路、行人不通、去高岑寺、移立於栗栖野、又去年京師大雨雹、時人皆曰、此三度災、因彼像而發焉、是日班幣畿内諸神風雨、時論或云、今年洪水、増於嘉祥元年、六尺有餘、

〔日本紀略〕

〈光孝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 仁和二年五月十日戊子、自去七日大雨、河水漲溢、人馬不通、

〔日本紀略〕

〈四村上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1197 康保三年閏八月十九日庚辰、遣使巡撿洪水、或流失屋烟、或漂沒資儲、又西獄垣爲水破衝五六條、及西河渺々如海、 九月三日甲午、今日權大納言師尹卿依勅定、巡撿兩京水害所々、騎

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 馬著衣冠、 九日庚子、賑給京畿内人、依洪水也、尤甚者、勿當年調徭

〔日本紀略〕

〈九一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 永祚元年八月十三日辛酉、酉戌刻大風、〈◯中略〉又洪水高潮、畿内海濱河邊民烟人畜田畝爲之皆沒、死亡損害、天下大災、古今無比、

〔扶桑略記〕

〈三十白河〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 承暦四年六月十八日、大雨、 十九日庚戌、洪水渺茫、近水之倫、殆爲魚鼈矣、

〔扶桑略記〕

〈三十堀河〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 寛治六年八月三日甲寅、大風、諸國洪水高潮之間、民煙田畠、多以成海、百姓死亡、不稱計、伊勢太神宮寶殿一宇、并四面廊等、皆爲大風顚倒、 七年八月十八日癸亥、終日大雨洪水、古今無雙、

〔神宮雜例集〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 豐受太神宮神主 注進當月十五日、由貴御料供物内有爾村土師長造進種々忌物、造入堝一口、并長敢支近隨身宮河流沒事、 右當日申時、土師御器長忠近來向申云、依例在地陶土師長等造進、今夕由貴御饌料供神物等、運進之間、於陶方物者、旣賚參畢、土師方忌物造納堝一口、長支近隨身賚參之間、宮河洪水、參宮人倫競乘小船渡越程河中船漂流、即支近并忌物堝沈沒失畢者、爰禰宜等欲裁定時刻旣來至、仍各成議、尋取清淨波爾土、令當職長敢忠近和爾部枝恒等造調、無懈怠供祭已畢、然而如此之事、不申、仍注進如件、 永久四年九月廿四日

〔神宮雜例集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1198 天平賀破損例 保安四年八月廿二日、大風洪水、外宮正殿下深二尺八寸也、天平賀四百八口、堝七口、瑞垣内正殿東南西方〈爾〉流寄也、其中廿九口破損、荒垣廿三間、柱八本流失、八間廳舍一宇葺板破損、敷板長押下桁流損、

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 康治元年六月一日壬戌、甚雨、 二日癸亥、音樂、昏黒參院、洪水遮車、見參、 九月一日庚寅、去夜大雨、因今朝洪水、水升宿所縁、平地二許尺、 二日辛卯、今曉大風雨發屋、人爲異、水昇板敷、因渡棧敷屋、鳥羽、朱雀大路如大河、築垣悉崩、父老云、如此年來之間三、

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 承安二年五月廿日戊子、今日洪水殊甚、六波羅邊人家、少々流了云々、

〔源平盛衰記〕

〈二十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 大沼遇三浦事 八月〈◯治承四年〉廿三日ニハ、石橋ノ合戰ト兼テ被觸タレバ、三浦ハ可參ヨシ申シタレバ其日衣笠ガ城ヨリ門出シ、船ニ乘テ三百騎沖懸リニ漕セケルニ、浪風荒クシテ叶ハズ、廿四日ニ、陸ヨリ可參ニテ出立ケルガ、丸子川ノ洪水ニ、馬モ人モ難叶ト聞テ、其日モ延引ス、廿五日ニ、和田小太郞義盛三百餘騎ニテ、軍ハ日定アリ、サノミ延引心元ナシ、打ヤ〳〵トテ、鎌倉通ニ腰越、稻村、八松原、大磯小磯打過テ、二日路ヲ一日ニ酒勾ノ宿ニ著、丸子河ノ洪水イマダヘラザレバ、渡ス事不叶シテ、宿ノ西ノハヅレ、八木下ト云所ニ陣取、洪水ノヘルヲ待、曉渡サントテ引ヘタリ、

〔明月記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 正治元年五月廿六日、自夜甚兩、終日如注、河水又溢云々、堀河大路偏如海、所々橋悉流失云云、出七條以北粗見之、

〔吾妻鏡〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 承久三年五月廿八日辛亥、雨降、武州〈◯北條時房〉到遠江國天龍河、連日洪水之際、可舟船煩之處、此河頗無水、皆從歩渉畢、

〔南方紀傳〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 應永三十四年、春夏洪水數度、六月二日、大洪水、

〔塔寺長帳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 應永三十四年、此年八月六日、大水増後度廿七日洪水、九月四日洪水、人民多ク死ス、

〔南方紀傳〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1199 應永三十四年九月三日、大洪水、今年洪水十八度也、 正長元年五月廿二日、洪水、六月朔日、洪水、 永享二年九月二日、大洪水、

〔大乘院寺社雜事記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 文明七年八月十四日、去六日京都大風、兩陣破損無是非、〈◯中略〉和泉堺高鹽打入、在家數千間、船數百艘、人民數百人被大波跡形失了、及數百歳先例、希有事也云々、無爲之民屋財寶悉以損了、濱在家ハ大略、京都沒落人、大舍人、織手師、法花宗僧共也云々、不便々々、天王寺ハ在家一二宇相殘、悉以被鹽云々、

〔大乘院日記目録〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 文明七年八月廿二日、去六日近國大風大水、大和國一切不吹、希有事也、

〔晴富宿禰記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 明應五年八月十七日辛卯、自半更終日雨頻、後聞今日大風雨、八幡、山崎等洪水迢過先年放生會武家上卿御勤仕時、雨風、淀橋上數尺水越云々、

〔永正十七年記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 六月十五日、大雨、洪水、

〔宗長手記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 辰〈◯大永二年八月十七日〉の刻より兩しきりにふりて、みわたりの舟渡り、鹽たかくうち、風にあひて雲津川又洪水、乘物人おほくそへられ、をくりとヾけらる、

〔嚴助往年記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 天文四年二月十四日、濃州大洪水、於枝廣井口間、人流死二萬餘、家數萬家流失、希代俄事也云々、 十三年七月九日、大洪水、京中人馬數多流失、在家町々釘拔門戸悉流失、四條五條橋、祇園大鳥井流失、禁中西方築地流損、於四足等御門者、從武家奉公衆馳參、無別儀云々、 東寺南大門西歟、至四塚舟云々、日吉大宮橋流落、其外叡山諸坊數宇、又僧俗兒若衆數十人流死、至淀鳥羽邊流留、兒若衆死人多也、凡前代未聞珍事也、〈◯下略〉

〔續應仁後記〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1200 天下大飢饉附後奈良院崩御新帝御即位事 同年〈◯弘治三年〉ノ八月廿六日ニ、朝ニハ東風頻ニ起テ、夕ニハ大南風ニ吹カヘ、急雨盆盞ヲ傾タルガ如ク、蓑笠ヲ打徹シ、國々數多洪水ス、中ニモ攝州尼ガ崎、別所、鳴尾、今津、西宮、兵庫、前波、須磨、明石ノ浦々エ大浪打カケ、高鹽サシ上ゲ、浦々ノ民屋悉ク引流サレ、死亡ノ者幾千萬ト云數ヲ不知ラ、去ル文明七年八月六日ノ洪水ニモ如此有ケル由、古老ノ者共云合ケルガ、其ヨリシテ今年迄ハ八

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 十年ニ當ルト云ヘリ、〈◯下略〉

〔信長公記〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 天正六年五月十三日、信長公可御動座候旨、被仰出候處、十一日巳刻より雨つよく降、十三日午刻迄夜日五日雨あらくふり續、洪水生便敷出候て、賀茂川、白川、桂川一面に推渡し、都の小路々々、十二日十三日兩日者、一ツに流、上京舟橋之町推流、水に溺人餘多損死候也、村井長門新敷被懸候四條之橋流れ、ケ様に洪水にて候へども、今迄信長公御出陣と候へば、御日取之日限相違無御座に依て、御舟にても可御動座歟之儀を存知、淀、鳥目、宇治、眞木之島、山崎之者共數百艘、五條油之小路迄、櫓械を立て參、此等趣言上之處、不斜御祝著候也、

〔吉備烈公遺事〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 承應三年甲午の秋、備前洪水に而、橋は諫筐橋只一つ殘り、其餘皆流れしほどに、百姓の危難中々云計なし、公倉を發して賑濟せさせ給ひ、尚及がたかりしかば、大に患ひ思召て、とかく是予が政事の不善なるによりて、天の戒させ給ふ成べし、罪なき百姓の此災にかヽる事、悲にあまりありとて、寢食をさらに安ぜ給はざりしかば、熊澤助右衞門御前に出て、此事を議しけるに、臣に一つの策の候、江戸に參りて天樹翁主になげき申なば、捨置せ給ふべきに非ずとて、頓て直に備前を立て、かくと申されしかば、翁より公方に申こはせ給ひ、金四萬兩かし賜りしかば、是より錢にかへて、封彊を四方に運びて分ちあたへらる、政事に從ふ人の中にも、民の二度三度に及て錢米をわくる有、如何して改むべきといひしを聞召、事遲くば民共難陒いと遍かるべし、いく度なり共、わかちあたへよとぞ仰ける、

〔視聽草〕

〈五集七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1201 寛保洪水記 寛保二年壬戌八月朔日、大風雨洪水記之、古ゟ百年幾無例大變云々、同四日又大雨大水、湛事十餘日、 八月朔

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 霖雨之中、至今曉而大雨、密雲幕々焉、風發寅卯、未刻洪雨束篠、風折標幹、酉刻闇夜昏然、風烈雨頻、殿屋屏墻、轉倒擾亂矣、亥下刻風變于午未、而西(ノ方)雲中發火電、再三再四、忽怒風頻、而捽喬木屋瓦飛、大雨如飜、強風打面、寅下刻雨風減半焉、到鷄啼而南海溢潮至陸地、萬物漂于門戸、猶於洋中陸陵尋得、辰刻雨風痿、而洪潮曳沒于南湊也、微雨微風尚殘、而半日至晡時雨風歇、而天顏朗然、 此時利根川、荒川、兩川混交、而大水切堤數十ケ所、怒水洪波、一時漂流于葛西、龜井戸、本所、其餘到于淺草今戸、猶海澨、因地高低水深六尺、亦九尺、或一丈、又二間云々、本所殊卑下而深焉、武商倶遇危急困厄矣、千住大橋、兩國橋共流墮新大橋中間斷、永代橋拔橛三四而流失焉、其水落于海湊、音如怒雷於三十町、市中監吏、石河土佐守、島長門守與力士十人同心帥五十人、催市町於丁男而防流橋、且放助舟本所救於溺死、大水湛七日也、人民旣飢餓焉、遙達台聽、一日五十艘宛、放於飯舟民命、且江戸中課于町役、而一日百五十艘宛、放中船必死、繁於仁政、聖徳與奪、而救溺民、助必死、幾哉以萬而計、且不國用之費、其仁普及四隅、語曰、民之爲父母者、其斯之謂乎、 自五日十一日、雖于大水六分焉、本所、葛西、猿江、黔首遁水災而登于樹杪、屋梁之飢民可饑渇、因台命、御郡代伊奈半左衞門、淺草之發官庫、一日千五百俵宛施行焉、大水雖半䧎、同八日又大風大雨、水勢恰如奔箭、舟檝不於志之所也、不十俵積、而一舟纔積五俵、而一日放於三百艘之䑠舸而救民命、其算許多也、僉依聖君仁惠之嚴令也、 一同日夜、信州淺間山中三ケ所、山崩恢吹出泥水、其響如怒雷、小室領泥水深三丈許、同時千曲川洪水、前後立狹而水深至十丈云々、城塀民屋沒水底城櫓二重目涵水、 一同時烏川、神奈川、荒川、大水怒浪、至上州熊谷、行田、忍城涵一レ櫓、 一信越之境、犀川同時大水、又下總關宿、利根川大水、漂陸二丈云々、 一常州小貝川、五行川、同時大水、民屋田圃流砂埋沒、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 右所々四民無手足也、開闢以來、前代未曾有一レ之大災、死亡不録、田畠屋梁寺社禿倉爲烏有焉、 右以所聞之口實於大槩 〈此記何人の筆録たる事をしらず、恐らくは其頃の人筆記せしなるべし、〉

〔視聽草〕

〈四集九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 享和二壬戌年七月高水 上方筋出水、六月廿八日朝より大雨降り續き、廿九日七月朔日追々出水致し、伊勢路鈴鹿山邊、水海の如くになり、近江路草津河上にて切れ込、宵之内餘程流れ、京都東川筋定杭より、水五六尺相増シ、淀川、桂川、木津川、高水、伏見高橋邊、家之棟江水越、寶來橋、豐後橋、大橋落、宇治橋大損シ、高槻邊淀川江切れ込、城内江水入、八幡堤切込、河内國中一面水入申候、 大坂野田片町大水、野田橋、御成橋、天滿橋落、追々水増しも有之、村々人馬夥鋪水死之由、京屋彌兵衞より之屆に候、寫之置也、 先月二十八日九日大風雨にて、伊勢路鈴鹿山崩レ、木土石流出シ、庄野龜山邊海に成、近江路萬津川上に而切レ込、宿内余程流申由、京都東川筋常より六尺計増シ、淀川、桂川、木津川洪水、伏見京橋邊家々抔茂水越申候由、宇治橋落、高槻邊淀川切込、并埒拾切、河内一國一面ニ水入、大坂野田御成橋落、夫より天滿橋南詰ニ而、五六十軒計流れ、追々水増候由、人馬夥敷水死御座候由、猶追々相知申候、 七月十日書状 伏見屋五兵衞

〔視聽草〕

〈三集八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 庄内洪水 酒井左衞門尉領分、羽州庄内鶴岡城、當〈午〉七月三日夜ゟ四日六日大雨洪水ニ付、田畑水押入、并破損所左之通、 高三万七千七百拾貳石餘

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1204 内〈三万五千八百七拾石餘 田方 千八百四拾貳石餘 畑方〉 但〈四百貳拾六石餘 川欠、石砂埋水堀 地高 三万七千貳百八拾六石餘 水押、水冠、水湛高、〉 一侍屋敷 八拾九軒 一給人屋敷 三百四拾八軒 一諸役所 七軒 一諸番所 七軒 一中間長屋 貳軒 一寺 三拾ケ寺 一修驗 拾七軒 一堂社 貳拾宇 一土藏  貳百三拾 一町家 九百六拾七軒 一同流失家 三軒 一同潰家 貳軒 一郷藏 三棟 一稻藏流失 壹棟 一板藏 拾貳棟 一村番屋 五ツ 一石長手土手〆切堰用水堰川除出等之痛九百四拾五ケ所 一水門〈并〉穴洞類 拾三ケ所

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 一大小橋痛 四ツ 一同流落 百四拾九 一同流失 百八拾貳 一往還道痛 拾五ケ所 一山崩 八ケ所 一大小川船流 六拾壹艘 一同痛 百三拾七艘 一穢多 貳拾三軒 一非人小屋 拾七軒 右之通ニ御座候、以上、 ◯按ズルニ、洪水ニ由リテ橋梁ノ流損スル事ハ、橋篇ニ散見シ、水災救恤ノ事ハ政治部下編救恤篇ニ在レバ、宜シク參看スベシ、

河神

〔倭名類聚抄〕

〈二神靈〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 河伯 兼名苑云、河伯、一云水伯、河之神也、〈和名加波乃加美〉

〔箋注倭名類聚抄〕

〈一神靈〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 按、郭璞海内北經冰夷讚、是謂水仙號曰河伯海外東經天呉讚、眈々水伯、號曰谷神、是河伯、水伯不同、兼名苑別有據歟、抑水伯或水仙之誤、山田本無已上本注四字、廣本同、山田本無標目神字、廣本同、按標目當河神二字、 ◯按ズルニ、河神ノ事ハ、神祇部神祇總載篇ニ詳ナリ、

雜載

〔日本書紀〕

〈一神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 是時伊弉諾尊已到泉津平坂、一云、伊弉諾尊乃向大樹㞙、此即化成巨川、泉津日狹女將其水之間、伊弉諾尊已至泉津平坂

〔三代實録〕

〈二十七清和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 貞觀十七年六月壬子朔、相模國言、大住郡河水變赤、 廿一日壬申、相模國言、大住

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 郡河水二處變赤、

〔甲子夜話〕

〈二十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 今年〈癸未◯文政六年〉梅雨ノ頃、日和續テ炎氣堪ガタキホドナリシガ、土用ニ入リテヨリ雨霖ヲナシ、晝夜陰霽一ナラズ、六月廿一日、増上ノ惠照院普門律師ノモトニ往シニ、大川ノ邊ニ到レバ、川水溢レテ往還ノ道モ殆ンド川中ニ異ナラズ、兩國橋ヲ渡ルニ、川水赤ク、橋下ニ漲落ルサマ、急流眼ヲ射ル如シ、〈◯下略〉


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Last-modified: 2022-07-23 (土) 17:18:53