p.1033 温泉ハ、即チ天然ニ涌出スル所ノ湯泉ニシテ、舊クハ之ヲイデユト云ヒ、又音讀シテ、ウンセントモ稱セリ、我國元ト火山ニ富ム、故ニ温泉頗ル多シ、就中攝津ノ有馬、伊豆ノ熱海、相模ノ箱根、信濃ノ筑摩、上野ノ草津、下野ノ那須、陸前ノ名取、羽前ノ温海、加賀ノ山中、但馬ノ城崎、紀伊ノ牟婁、伊豫ノ道後、筑前ノ武藏、豐後ノ速見等ハ、古來最モ有名ノ温泉ナリ、 我國人ガ、温泉ニ浴シテ病痾ヲ療治セシコトハ、其起原遠ク神代ニ在リ、而シテ舒明、孝徳、齊明、文武等ノ天皇ガ、有馬、牟婁、伊豫等ノ温泉ニ屢々行幸シ給ヒシ事ハ、國史之ヲ載セ、聖徳太子ガ、伊豫ノ温泉ニ浴シテ、碑ヲ湯岡ニ立テタル事ハ、伊豫國風土記ノ記スル所ナリ、〈伊豫國風土記ニハ、景行仲哀ノ二帝モ、伊豫ノ温泉ニ行幸アリシコトヲ記セリ、〉又中古以後ニハ、官人ノ浴湯ニ公暇ヲ賜ヒ、其往還ニ官符ヲ p.1034 給セシコトナドモ見エタリ、以テ當時頗ル浴湯ヲ重ンゼシコトヲ知ルベシ、後世浴湯ノ効能、及ビ浴法等ニ就キテ、之ガ研究ヲ試ミタルモノハ、實ニ後藤艮山、香川太仲等ニ始マル、又湯性ヲ考ヘテ假温泉ヲ造クルコトモ、太仲等ノ創始スル所ナリ、 古ク鹽湯ト稱スルモノアリ、思フニ海水ヲ煮テ温湯ヲ造リ、以テ浴療ヲ試ミシナラン、或ハ直ニ海水ニ浴シタルモノモアリシナルベシ、
p.1034 温泉〈流黄附〉 冥都山川記云、佷山縣有二温泉一、百病久病入二此水一多愈矣、一云温泉、〈和名由〉
p.1034 温泉出二文選東都賦、抱朴子暢玄篇一、舒明紀、孝徳紀、齊明紀温湯同訓、按温泉其煖如レ湯、故云レ由、或云二以天由一、出湯也、〈◯中略〉初學記、太平御覽並云、袁山松宜都山川記、今無二傳本一、新唐書有二李氏宜都山川記一卷一、未レ知二是否一、初學記引作下佷山縣有二温泉一注二大溪一、夏纔煖、冬則大熱、上常有二霧氣一、百病久疾、入二此水一多愈上、此節二是文一也、水經、夷水出二巴郡魚復縣江一、東南過二佷山縣一南、注云大溪南北、夾レ岸有二温泉一對注、夏煗冬熱、上常有二霧氣一、瘍疾百病、浴者多愈、即其事也、按説文、温水出二楗爲涪一、南入二黔水一非二此義一、説文又有二昷字一、云仁也、轉爲二昷煗字一、後人從レ水作レ温也、與二温水字一自別、
p.1034 温泉〈ユ上烏混反〉 湯泉〈同〉 硫黄〈ユノアハ、ユワウ、〉
p.1034 温泉(セン)
p.1034 温湯(イデユ) 温泉(同)〈湯泉沸泉並同〉
p.1034 いでゆ 温泉をいふ、出湯の義也、神代より、大己貴命濟民のため、温泉に浴し病を療するの法を定めたまへり、よて本邦には温泉諸國に多し、又温泉の神は多く大己貴命也、
p.1034 ゆ 倭名鈔に温泉をよめり、日本紀に湯と見えたり、
p.1034 いでゆ 出湯、温泉の事也、〈後拾、戀一、さがみ、〉 つきもせず戀に涙をな〈わ、季吟本、〉かす哉こやなヽくりの出湯なるらん、〈千、神祇、資賢、〉めづらしく〈き、季吟本、〉御幸をみわの神ならばしるし有馬の出湯なるべ
p.1035 し、
p.1035 ゆ 温泉、〈古、覊旅、〉但馬の國の湯へまかりける時に云々、
p.1035 いでゆ 出湯 温泉 温湯 温水 湯泉
p.1035 温泉は、和名抄に、温泉、一云湯泉、和名由とあれど、伊傳由と訓べし、泉は出水の義なるに對へて、出湯の義なり、〈たヾに由と訓よりは語の調もよろし、歌には出湯と詠ならへり、〉
p.1035 温泉 按日本温泉所在不二勝計一也、多有二硫黄氣一、能治二疥癬一切瘡毒痔漏脱肛折傷金瘡痿躄一、但氣血有レ餘、而不順者宜、如二氣血虚弱勞症者一不レ可浴耳、攝州有馬温泉、爲二天下第一一、而鹹泉者不レ多、 有馬〈攝州〉鎌崎〈奥州〉熱海〈豆州〉湯江〈作州〉此等鹹泉(○○)也、道後〈豫州〉山中〈賀州〉湯峯〈本宮〉龍神、湯崎、〈田邊〉二河、〈以上共紀州〉岩城、鳴子、青根、〈奥州〉草須、浦野、淺間、〈信州〉城崎、〈但州〉大牧、山田、〈越中〉塔澤、湯本、氣賀、宮下、底倉、堂島、蘆野、〈相州〉伊藤、修禪寺、〈豆州〉伊香保、二荒、峯上湯、〈下野〉關山、〈越後〉 温井 湧二於井一者、豐後〈五處〉肥前〈二處〉有レ之、 海泉(○○) 別府村〈豐後〉硫黄洋之海邊也、有二温泉一、潮盈時湯爲二海中一、能登海中、信州諏訪湖中、亦有二温湯一、代酔篇云、詔州府城東南五十里有二温泉一、其泉中時見二赤魚遊泳一、 肥前温泉山湯中、見二赤魚浮遊一、凡温泉不二汥流一、人亦不レ汲者、夏月生二孑孑(ボウフリムシ)一、而其湯稍熱不レ可二理曉一者也、〈◯中略〉 草木子邵康節曰、世在二温泉一而無二凉火一、蓋陰能從レ陽、陽不レ從レ陰也、此説固然、乃常理也、然北方蕭山則有二凉火一也、
p.1035 沸湯泉 則温泉ナリ 温泉ハ、和漢トモニ多有レ之、皆地中ニ硫黄有ノ所、則温泉アリ、博物志ノ説其理盡セリ、驪山ノ泉湯
p.1036 ハ、神女ノ始皇ノ爲ニ湯泉ヲ出シテ、始皇ノ瘡ヲ療ゼシムト云リ、日本有間ノ泉湯モ、行基菩薩ノ神變力ニテ始テ堀出セリト云傳ヘタル類ヒ、何レモ妄説ナリ、有間ノ泉湯ハ、舒明天皇三年ニ、津國有間ノ温湯湧出ス、則天皇有間ニ行幸アリ、舒明帝ハ、人王三十五代、行基法師ハ人王四十五代聖武帝ノ時ナリ、大ニ時代前後相違ス、況ヤ日本紀ニハ舒明帝三年九月朔、攝津國有間ノ温湯ニ幸ス、十二月朔還幸アリシ事而已有テ、湯泉始テ湧出ノ事ハ無レ之、如何サマ舒明以前ヨリ温泉ハアリテ、行幸ノ始ハ舒明ナルベシ、然レバイヨ〳〵行基法師ノ堀出セルト云ハ妄説ナリ、行基ハ泉湯ヲ修理再興ノ願主ナンドニテアリタルナラン、有間ノ湯ハ鹵水(ロスイ/シホ)也、如何サマ地下ノ水脈海中ニ貫通シテ、其氣往來スルナラン、傳聞西戎國ノ海中ニ有二一島一、其地有二疾病一之人來住二於此一、則其疾愈、故諸邦有二疾病一之人多來云々、是其水土藥石硫黄ノ性氣厚キニ由テナラン歟、又奇怪ナルモノアリ、左ノ如シ、〈◯中略〉、 已上ヲ按ニ、如レ斯ノ類、皆硫黄ノ所爲ナリ、井底ニ硫黄有テ、火氣常ニ有リ、井ノ中邊ニ湧泉ノ冷水有リ、下ニ又漏出ノ穴有テ、井底ノ沸湯ヲバ漏シ、中邊ノ冷水傍ヨリ湧出スル事甚ダ強ク、井底ノ温水ノ上ニ、且漏レ且湧キ加ハル故ニ、井底ニ火氣有ト云トモ、上ノ水ハ冷ナルモノ也、竹樋ヲ立テ井底ニ至ラシメ、上ノ口ヲ釜臍ニ當テ、鹵水ヲ釜ニ入レバ、烘々トシテ沸ルモノハ、井底ノ火氣、竹樋ノ虚中ヨリ直ニ上ニ升テ、鹵水ノ極陰ト奮擊シテ滾沸スルモノ也、井底ノ火氣ハ冷水ニ制セラレテ、伏鬱シテ上ニ達スル事ヲ不レ得、竹樋ヲ得テ上ニ達シタル也、水中ノ火氣未ダ物ニ不レ付故ニ、其體ヲ不レ見、水ノ冷寒ノ氣ニ克セラルヽ故ニ、竹樋ノ中無二焦燒一モノナリ、奇ニシテ又奇ニ非ズ、上ニ出ス一統志四川ノ火井ト、此ニ出ス所ノモノト相似タリ、上ノ地燃ノ處ト交ヘ考ベシ、一統志ノ説ノ如キハ、家火ヲ投ジテ火絶スト、其是非ヲ知ガタシ、此ニ言ル如クナレバ、火焰終ニ無フシテ、火ノ精神ノミアリト見ヘタリ、
p.1037 湯は なヽくりのゆ 有馬のゆ 玉つくりの湯
p.1037 温泉 あしかりのゆ〈相万〉なヽくりのいでゆ〈信〉相模歌 ありまのいでゆ〈攝千〉しなのヽみゆ〈伊〉 なヽくり同所也 いよのゆ〈伊〉有二御幸所一也 なすの〈拾遺短歌〉 なとりのみゆ〈陸有二大和物語一〉 つかまの〈信 後拾遺〉 いぬかひのみゆ〈拾 信乃歟〉
p.1037 温泉〈同名所〉 鹽温 いづる温、御温、いで温、つくしのゆ〈古今の詞に侍り、九州何の所可レ勘、〉伊豫温〈いよのゆのゐげたはいくつ數しらずかぞへずよまず君はしるらん、ゆげたは多事にいへり、源氏、〉有馬温〈攝津、行基開給、三輪神まします、珍しきみゆきを三輪の神あらばしるし有馬の出湯なるべし、〉走温〈いづの國山の南にいづるゆのはやきは神のしるしなりけり、〉那須温〈下野那須の郡、神社あり、なぞもかく世をしもおもひなすのゆのたきかゆへをも、〉犬飼御温〈しなの、鳥の子はまだひなながらたちていぬかいの見ゆるはすもりなりけり〉筑摩温〈同上、又筑摩御温共云り、〉七久里温〈同 つきもせず戀に涙をつくすかなこや七くりのいでゆなるらん〉蘆苅温〈相模蘆かりのとひの河内に出るゆの世にもたまらずいはなくに〉ましらこの浦の走温〈きの國、或いせ、〉かつまたのみ温〈美作〉まくまのゝ温〈きの國〉御熊野温〈同上、みくまのヽゆこりの丸をさすさほ、〉さはこの御ゆ〈陸奥 よとヽもになげかじ君をみちのくのさはこのみゆといはせてしがな〉名取御温〈同上 おぼつかな雲のかよひぢ見てしがなとりのみゆけはあとはかもなし〉
p.1037 温泉揃 夫れ國々に出湯多しと申せども、まづ四國には伊豫の湯の、湯桁の數は左八つ、右は九つ中は十六ありとかや、扨五畿内に至つては、又とならびも夏野ゆく、男鹿の角の津の國に、きどく有馬の一二の湯、よし足引の大和には、入れば病もはや愈えて、家路に急ぐ十津川や、人の心はあさもよひ、紀の關守がたづかゆみ、いるさの月の影清く、湧く泉をや熊野の湯、因幡に外山、美作に湯原、但馬にきのざきや、伊豆には伊東熱海の湯、相模に湯本塔の澤、木賀宮の下堂が島、そこ
p.1038 くら、葦の湯、下野には日光山、中禪寺、鹽原那須の湯、信濃には、上の諏訪下の諏訪、越後に湯澤、おほちぶち、加賀にはおくそ山中や、出羽にはあつみてんねいじ、又はじげんじ、かみの山、奧州にいヽでさんあをね、たまざき田中の湯、扨東國にとつては、そもげにたま〳〵に玉鉾の、道ゆく人も結びおく、言の葉しげき草津の湯、まんざすがはにかわらはた、大師の加治のかわばの湯、其外諸國七道に、温泉はてしも侍らはず、何れも寒熱相まじへ、ほしやとり〴〵に備はりて、皆それ〳〵の苦惱あり、中にも此伊香保の湯は、體を養ひせいきを増し、諸病を治する奇妙さは、神仙に異ならずと、詞の花の色深く、しなたをやかに語りしは、鄙に似合ぬ優しやとて、大將御感淺からず、上中下に至るまで、數盃を傾け給ひけり、
p.1038 葛上郡 十津川 有二温泉一、縁起詳、
p.1038 湯原温泉〈二所にあり、一所は十津河莊湯原村にあり、一所は同莊武藏村の東泉寺にあり、浴する時に則痼疾は治す、湯原は類字名所に大和國にあり、十津川の温泉にこそ侍らめ、〉
p.1038 天正十四年四月三日、御門跡様御養生ノタメニ、和州十津川ノ御湯治、今日發足、和州今井ニ御逗留、御門徒御禮ナドアリ、五日ニ下市マデ、六日下市御立、是ヨリ三日目ニ湯ヘ御著ナサルベキ由案内者候也、下市ニテモ、御門徒寺様御禮アリ、則八日ニ湯ヘ御著アリ、御供刑部卿、上様ニハ下市ヨリ吉野山青葉御覽アリテ、夫ヨリ御歸寺ナリ、路次不レ及レ注レ之、御兒様モ渡御、
p.1038 有馬湯〈攝州〉
p.1038 攝州有間温湯記 本邦攝州有間郡山口莊之湯泉、未レ詳二其始一也、舒明天皇三年秋九月、行二幸于此一、十年冬行二幸于此一、孝徳天皇三年冬十月朔行二幸于此一、十二月晦出二温泉宮一、還二于務古行宮一、〈務古、後曰二武庫一、今之兵庫也、〉然則此温泉之所二從
p.1039 來一已久矣、〈◯中略〉此山有二三神一、一曰二湯山權現一者藥師、一曰二三輪大神一者毘盧舍那、一曰二鹿舌明神一者千手大悲也、爾來浴者、其病多愈、蓋依二佛神加被力一乎、承徳元年了丑、天作二淫雨一、洪水崩レ山溺レ家、九十五年後、和州吉野僧仁西、詣二熊野神一、一夕夢神告曰、攝州有間山中有レ湯、近歳荒廢甚矣、汝可二往從一レ事、西曰、以レ何爲レ證、神曰、庭樹葉有二蜘蛛一、宜下隨二其絲所一レ牽以赴上焉、翌旦覺而見果然、旣而至二中野村二松下一、失二蜘蛛一、西迷レ道而立、俄有二一翁一、導レ西登レ山、投二木葉一曰、葉落處必是靈地、忽不レ見二翁所一レ之、遂就二其攸一開二舊跡一、浚二湯源一、建二寺及十二坊舍一、置二守レ湯人一、時建久二年辛亥二月也、享祿元年、及天正四年、再罹二鬱攸之災一、堂舍人屋皆爲二烏有一、十三年乙酉、羽紫秀吉公之夫人鼎二建寺院一納二封田一、今之巍然者是也、原夫名山岩谷、其下有二石硫黄一者、發爲二温泉一、又有下共出二一壑一半温半冷者上、又有下朱砂涌二出湯泉一者上、又有下隨二潮汐之信一而沸者上、皆在在有レ之、中華朝鮮、及本朝悉然、或若二記所一レ稱、呂政之時、驪山神女出二温泉一、以洗二除瘡疾一、則山靈之所レ爲、亦未二必無一レ之、凡天地之際、陰陽之運、水火之交、無二處不一レ有レ之、或蘊伏、或發出、或流行、或停止、及二其觸激一、而寒煖之氣、臭味之性、各有二其能毒一、於レ是人身由レ此有レ治レ疾焉、有レ得レ疾焉、此天地之五行、與二人身之五行一相感通而無レ二故也可レ不レ辯乎、本邦之昔、此山本固有レ神、神旣有、則湯泉豈不レ屬二於神一哉、所レ謂湯山神、三輪神、鹿舌神是也、是故舒明孝徳行幸之時、未レ聞レ有二所レ謂藥師佛云者一也、大己貴神、少彦名神闢二我邦一、而始製二藥術一、救二民命一、則以二三輪神一爲二此山主一、固可二以爲一レ得二其實一、其三輪大神者、即是大己貴之謂也、后來行基之徒、假二佛名一而亂二神迹一、掠二神山一而爲二僧居一、挾二恠異之巧詐一、而欺二誣世俗一、人人未二之覺一、遂使四闔國之名山、皆至三於爲二伊蒲塞桑門之窟宅一、吁惜夫、盍レ復二其本一哉、神者聰明正直而壹者也、我豈媚レ神而爲二此言一乎、神夫歆二我言一耳、余去歳在二東武之江戸一、患二小瘍一、旣復レ故、然氣宇不レ恒、因レ是賜二公暇一入レ洛、今玆來浴二乎湯泉一、泉之直出正出者數處、清而鹹、日夜流注而不レ窮、屢酌而常湛、底レ石以甃、一室板壁間隔、曰二一湯一、曰二二湯一、其浴槽方丈許、甚熱則注二筧水一以和レ之、不レ熱不レ冷、而得二其宜一、浴者先手レ杓酌レ湯、瀝二首及肩背一、而後入レ槽、或濳泳、或拍浮、有二數婢一、以監レ湯、或卑賤無遮之者、浴久不レ出、則婢呼叱而退之、是行也、余僦二御所房一以㞐、遮二無遮者一、獨入二
p.1040 第一湯一、同來四三人、竟日情話、讀レ書寫レ字、或體倦則行觀二皷瀧一、登二藥師堂一、或遊二地獄谷一、而對二望中之山林緑樹一、經レ日愈浴愈快、不二亦可一乎、聞説、夫華清池雖レ爲二諸湯之甲一、而有二凝脂之膩、傾國之汚一、今余決不レ有レ之也、唯有二吟風弄月、吾與レ點之氣象一、亦庶幾哉、於レ是乎記、以告二諸山靈一、 元和七年辛酉之夏 先生赴二有馬一作レ之
p.1040 温泉 在二山口庄一 風土記云、有馬郡有二鹽原山一、山間有二鹽湯一、因爲レ名矣、欽明天皇三年温泉始涌出、同九月帝行幸、後孝徳亦行幸、〈見二于日本紀一◯中略〉 當山以レ有二三輪神社一、歌亦及レ之矣、聖武天皇朝、昆陽寺行基大僧正自寫二如法經一埋二于泉底一、作二等身藥師石像一、建二一宇一安二置之一、號二常喜山温泉寺一是也、〈◯中略〉 堀川院承徳元年、洪水崩レ山潰レ泉〈以後九十五年滅亡〉後鳥羽院建久二年、和州吉野僧仁西詣二熊野一而有二瑞夢一、隨二神託一到二當山一、浚二温泉一造二十二坊舍一再二興之一、旣天正十七年、太閤秀吉公入湯以來、倍繁昌、今有二二十坊一、湯槽方一丈許、有レ二、南名二一湯一、北名二二湯一、〈大湯女、小湯女、各二十人、〉
p.1040 湯本坊舍 仁西上人温湯再興の時、十二坊舍をたて、諸國より集る湯入の次第を、彼十二坊に奉行させられしと也、かヽりければ、湯入のかたく跡先をあらそひ、或は湯壺より久しく出やらぬ者ありて、とく出よなどいひあがりて、鬪諍度々に及ければ、いづれの時よりか婢女をこしらへ、湯入の支配させつヽ、今に其わざ替言なし、されば湯壺よりをそくあがる者ありて、縱あらけなくいかり、わろ口いふにも、もとよりやさしきかたある女の事なれば、いらふ人もなくして、年々二六時中難波のよしあしに付ても、優々としていとめでたし、
p.1040 此地温泉は、たヾ一所あり、其間板をもつてへだてヽ二所とす、南を一の湯とし、北
p.1041 を二の湯とす、湯入の客の宿する家二十坊あり、寺にはあらずといへども、坊の名あり、其内一の湯に十坊、二の湯に十坊有、御所坊は秀吉公入湯し給ふときの御宿なるゆへ名付とかや、湯を守るものは皆女なり、湯女と云、湯浴の人をよび、湯の出入をつかさどる、一坊に老若二人あり、廿坊に凡四十人あり、
p.1041 有馬温泉 湯山町の中間にあり、京師より十四里、大坂より九里、浴室一宇、湯槽の深サ三尺八寸、横の廣サ壹丈貳尺五寸、竪の長サ貳丈壹尺、底は鋪石にして、其石の間々に竹筒を挾む、其中より沸泉す、味鹹して潮水の如し、室内を中分にして、南向を一之湯といひ、北向を二之湯といふ、〈◯中略〉 當山藥師佛の十二神將を表して、十二坊あり、後世温泉繁昌し、八坊を加て今廿坊となれり、みな二階三階造りにして入湯の旅客を泊る、これより以外の民屋旅客を止る家七十餘軒あり、これを小宿といふ、二十坊の家毎に二婢あり、一人を大湯女と稱し、都てこれを薩々(カヽ)と呼ぶ、一人は十三四才より十八九歳までの若婦、美顏を撰んで紅粉を施し、容色を莊る、これを小湯女といふ、その家々に名を定て代々に傳ふ、これを通り名といふ、二婢共に入浴の旅客に隨從して、入湯の時刻をしらせ、浴衣を肩にかけて案内し、衣類を預りなどして、侍女の如くす、あるひは酒宴の席に出て歌を諷ふ、これを有馬節といふ、鄙びたる調子のうち上て諷ふさま、古雅にして殊勝に覺へ侍る、
p.1041 七年乙亥、大伴坂上郞女悲二歎尼理願死去一作歌一首并短歌、〈◯歌略〉 右新羅國尼曰二理願一也、遠感二王徳一歸二化聖朝一、於レ時寄二住大納言大將軍大伴卿家一、旣 二數紀一焉、惟以天平七年乙亥、忽沈二運病一、旣趣二泉界一、於レ是大家石川命婦、依二餌藥事一往二有間温泉一、而不レ會二此哀一、但郞女獨葬二送屍柩一旣訖、仍作二此歌一贈入二温泉一、
p.1042 攝津國風土記曰、有馬郡又有二鹽之原山一、此近在二鹽湯一、此邊因以爲レ名、久牟知川、右因レ山爲レ名、山本名二功地山一、昔難波長樂豐前宮御宇天皇世、爲三車駕幸二温泉一、作二行宮於湯泉一之、于レ時採二材木於久牟知山一、其材木美麗、於レ是勅云、此山有レ功之山、因號二功地山一、俗人彌誤曰二久牟知山一、又曰、始得レ見二鹽湯等一云々、土人云、不レ知二時世之號名一、但知二島大臣時一耳、
p.1042 かのおとヽ九の君おはします、こだちいとおほくさぶらふ、かくてゆきまさつのくにありまのゆ(○○○○○)がりいきて、おもしろき所々ありきて、おしき所々みるにも、物思いでられつつ、哀とおぼゆるときに、 しほたるヽことこそまされ世中を思なかすのはまかはなくて
p.1042 其のち兵衞督〈◯藤原公信〉ものヽみ心ぼそくおぼえて、こヽちもれいならず覺え給ければ、風などいひければ、ありま(○○○)へといでたち給へど、此ひめぎみのうしろめたさに、えおはせですぐし給ける、
p.1042 行基菩薩、もろ〳〵の病人をたすけんがために、有馬の温泉にむかひ給ふに、武庫山の中に壹人の病者ふしたり、上人あはれみをたれてとひ給ふやう、汝なにヽよりてか此山の中にふしたる、病者答ていはく、病身をたすけんために温泉へむかひ侍る、筋力絶盡て前途達しがたくして、山中にとヾまる間、粮食あたふるものなくして、やう〳〵日數ををくれり、ねがはくは上人あはれみをたれて、身命をたすけて給へと申、上人此言葉を聞て、いよ〳〵悲歎の心ふかし、則我食をあたへて、つきそひてやしなひ給ふに、病者いはく、われあざやかなる魚肉にあらではしよくする事をえずと、是によりて長淵のはまに至りて、なましき魚を求てこれをすヽめ給ふに、同じくは味をとヽのえてあたへ給へと申せば、上人みづから鹽梅をして、其魚味をこヽろみて、あぢはひとヽのふる時すヽめ給ふに、病者是をぶくす、かくて日を送る、又云、我病温泉の
p.1043 効驗をたのむといへども、忽にいえん事かたし、苦痛しばらくもしのびがたし、たとへをとるに物なし、上人の慈悲にあらでは、誰か我をたすけん、ねがはくは上人我いたむ所のはだへをねぶり給へ、しからばおのづから苦痛たすかりなんといふ、其體燒爛して、その香ひはなはだくさくして、少もたへこらふべくもなし、しかれども慈悲いたりてふかきゆへに、あひ忍て病者のいふにしたがひて、其はだえをねぶり給に、舌の跡紫麻金色と成ぬ、其仁を見れば藥師如來の御身也、其時佛告云、我はこれ温泉行者也、上人の慈悲をこヽろみんがために、病者の身にげんじつる也とて、忽然としてかくれ給ひぬ、其時上人願を發して、堂舍を建立して、藥師如來を安置せんと願し、其跡を崇と思ふ、必勝地をしめせとて、東にむかひて木葉をなげ給、〈山良の木〉すなはち其木葉の落る所を其所とさだめて、今の昆陽寺を建給へる也、畿内に四十九院を立給へるその一也、
p.1043 一惠林院殿様〈◯足利義稙〉御代、有馬の湯へ被レ入候時、右京兆〈高國〉往古より加様の御用心の時、又遠路などにて候へば、管領より廿人走衆被レ參候つる由候、御輿をもひかせ候はん間、被レ參候はん由被レ申候、
p.1043 有馬の湯治の次でに、兒屋寺にて、 しながどりゐな野をゆきのあした哉 有明やそらに霜がれのはなすヽき
p.1043 弘治二年四月日、勢州黄門入道侍從同道上洛、入道有馬湯治云々、
p.1043 天正十一年閏正月廿二日、御湯治ニ付、鷺森御發足、廿四日、有馬御著、二月十日湯山御アガリ、今夜神崎ヨリ夜舟ニテ橋本迄、夫ヨリ陸地、十一日京著、
p.1043 天正十三年正月廿二日、秀吉有馬湯治、密柑二折、鳥目十疋、使河野、廿五日發足、二月三日大坂歸城、御ウヘニモ今度御湯治也、 九月十四日、今日關白殿有馬御湯治之便路ニツキテ、當
p.1044 門跡へ光臨、北ノ方御座敷ヘ請ジテ飯マイル、御盤〈二三〉イヅレモ金ニタマルナリ、北ノ方モ御座敷へ御出アリ、石田治部少輔、増田仁右衞門、大谷紀伊伊御供也、抛筌齋、藥院、宗久、宗薫、御供也、御亭ニテ飯マイル、侍五十二人、
p.1044 〈後九〉十一日〈◯文祿二年〉一太閤様、有馬御湯治爲二御見廻一、從二關白様熱海一去六日之御書共到來、 一有馬御湯治御相應候哉、承度候而言上候、就レ中我々事、先書如二申入一、彌得二快氣一之由宜二申上一候也、 閏九月六日、秀次御判、木下半介どのへ、一ありま御たうぢのよし、みまひとして申候べく候、さだめてゆもふさひ申候はんとおぼえさせおはしまし候、わが身もたうぢゆへ、このほどは、なを〳〵心よく候まヽ、めでたくやがてじやうらく申候て、くはしく申まいらせ候べく候、大かうの御かたへも文にて申候、なをかさねてめでたき御事ども申うけ給候べく候、此よし心え候て申べく候、かしく、九月六日(のちの)、ひで次、北政所殿上らうのかたへ、 一みまひとして、おほせつかはされ候御ひろひ、いよいよ御そくさいにおはしまし候や、てんがたうぢゆへ心よく候まヽ、きづかひあるまじく候、さては大かうの御かた、ありま御たうぢ、さだめてゆふさひ候はんと、をしはかりまいらせられ候、このよし心え候て申候やにて候、かしく、九月六日(のちの)、ひで次、大坂二丸殿つぼねかたへ、
p.1044 秀吉公有馬御湯治之事 卯月廿九日、御湯治に付てれき〳〵の御伽衆十九人つれられ、御慰のかず〳〵云はんかたもなし、御逗留中方々より捧物其數をしらず、有馬中へ鳥目二百貫、湯女(ユナ)共に五十貫くだされ、谷中のにぎはひいと目出見えし、五月十二日御上りなされけり、
p.1044 攝州有馬湯山町古文書〈◯中略〉 攝洲有馬山御藏米御算用状
p.1045 一六拾壹石九斗三升 文祿四年拂殘 一百五拾石 慶長元年納物成 一百五拾石 同貳年納物成 合三百六拾壹石九斗三升 右之はらひ 一拾石 〈大藏卿局御湯治の間のまかないに被レ下、大藏卿局さし紙有レ之、〉 一貳百拾四石貳斗六升 〈湯の山御うへ御殿、大ちしんにそこね申候をつくろい申候入用、〉 一三拾七石貳斗六升 〈同所御けしやうの間つくろいの入用〉 一拾九石貳斗三升 〈同所御湯殿のつくろい入用〉一拾九石壹斗 〈同所御せつちんつくろいの入用〉 一拾八石七升 〈同所御ゆやのつくろい入用〉一拾四石壹斗六升 〈同所御すきやのつくろい入用〉 一六石三升 〈上様御湯治被レ成候ニ付、かりの御殿立申候入用、〉 一八石三升 〈右材木入置申候小屋之入用〉 一拾石七升 〈御くみ湯の樽の入用、並人足飯米小日記に在レ之、〉 一拾八石貳斗壹升 〈新湯かりのゆや、同ゆのわき候水船之入用、〉 一貳拾五石六斗三升 〈同所御馬や貳間半に五間半之入用〉 はらひ 合四百石五升 過上三拾八石壹斗貳升
p.1046 右之外 一銀子貳拾四枚 御朱印 慶長三年分 一銀子貳拾四枚 只今迄 同貳年分 右皆濟也 右拂御朱印並小帳請取申候、此日付以前之拂、 御朱印小帳等雖レ在レ之、重而御算用に相立間敷候也、 慶長三 十二月廿九日 長束大藏大輔判 石田治部少輔判 増田右衞門尉判 淺野彈正少弼判 徳善院 判 善福寺 池之坊 掃部 禁制 攝州湯山 一軍勢甲乙人等亂妨狼藉事 一新儀課役事 一理不盡入鑓責使事 右如二先規一、今停止訖、若於二違犯之輩一者、速可レ被レ處二嚴科一者也、仍下知如レ件、
p.1047 天正八年三月 同判 太閤様御湯治之時、當所地下人酒さかな、以下なにてもかい候て、進上申候事、かたく御停止なされ候、其外之物も無用被二思食一候へども、げに上度候はヾ、な大こんごばう、又もちなどのやうなる、手つくりのたぐひは、ぬし次第に可二進上一之由、被二仰出一候也、 文祿三年十二月八日 木下大膳大夫判 有馬總中 禁制 湯山中 一亂妨狼藉之事 一放火之事 右條々相そむくともがらにおゐては、くせ事たるべく候、 九月廿日 羽柴左衞門大夫判 羽柴三左衞門判
p.1047 天正年間書〈所藏不レ詳〉 爲二殿下御湯治御見廻一一筆令レ啓候、仍菓子一折輕微之至候、進二獻之一候、可レ然様於二披露一者、可爲悦候、穴賢、 霜月九日 尊朝 前田主水殿
p.1047 慶長九年四月二十一日、尾陽候薩摩守忠吉、〈初下野守〉攝州有馬温泉ニ入湯、是瘡疾アルユヘ也、
p.1047 妬湯(ウハナリユ) 在二湯本之東一〈名二谷之町一〉
p.1048 路傍有二尺許泉穴一、人到レ傍詈レ之則忽熱湯湁潗爲又如二叫喚一、俗呼曰二後妻湯一、〈詳二于水部温泉下一〉蓋能治二金瘡一、灌レ之佳、 【洗眼湯】(メアラヒユ) 在二右近處一 泉穴状似二妬湯一、能治二眼病一、洗レ之佳、
p.1048 妒女泉(うはなりゆ) 〈咄泉 俗云後妻湯宇波奈利由〉 陳眉公祕笈云、并州有二妒女泉一、婦人靚粧綵服、至二其地一必興二雲雨一、 寰宇記云、安豐郡咄泉、在二淨戒寺北一、至二泉旁一大叫則大湧、小叫則小湧、若咄レ之其湧出彌甚、世人奇レ之、號曰二咄泉一、 按、有馬温泉之傍有二後妻湯一、人向レ之罵詈急湧上、宛然怒恚貌、俗呼曰二後妻湯一、 駿州有二媼之池一、〈江尻近處〉相傳、有二一婦一性頑妬、而文祿二年八月八日投二于池一死焉、人至二池涯一、呼曰レ媼則忽泡沬湁潗、若大叱レ之則彌湧甚、蓋爲二彼靈所業一者妄誕也、自然陰陽攻伐之氣令レ然也、但妒婦後妻名、和漢共附會耳、
p.1048 妬湯〈此湯善治二金瘡一云〉 湯泉之傍數十歩、有二一小湯一、形如二盆池一、其沸少許俗名曰二妬湯一、夫愚溪之愚、貪泉之貪 、泉之 之類、中華旣有レ之、豈可二枚數一哉、呉隱之酌二貪泉一曰、試使二夷齊飮一、終不レ換二此心一、由レ是觀レ之、若文王在レ上、任姒在レ内、使下天下無二曠夫一、無中怨婦上、則此妬湯縱至二於瀰漫一、何得レ使三人爲二娟妬一乎、奈二其不一レ然何哉、彼長門宮未レ聞レ有二妬湯一也、而陳皇后頗妬忌、方今闔國適妾亂、而貴賤混、婦姑勃磎、而閨門娶レ麀、豈此妬湯云乎哉、崇替去來之甚者、其寵惑乎、掌上有レ蓮、眼裏有レ棘、以レ新間レ舊、故以レ色而事レ人者、色衰而愛弛、是嬖惑之害也、豈翅男女之欲而已哉、君子小人亦然、故書曰、人之有レ技、娟疾以惡レ之、不レ能レ保二子孫黎民一、亦曰、殆哉、嗚呼不レ可レ不二懼而戒一矣、
p.1049 坊部紅顏嘆二琵琶一、上陽白髮向二窗紗一、長門花泣萬行涙、流作二温湯波浪花一、 洗レ目湯〈善治二眼疾一云〉 湯在二温湯谷之側一、其形如二妬湯一、昔伊弉諾神行二筑紫橘之小戸一、以レ潮滌レ眼、夫潮水由二地中一行、故闕レ地而何處不レ有レ水哉、然則以レ此洗レ眼湯、謂二之橘小戸之支流一、亦何害焉、夫眼有二數種一焉、有二肉眼一有二凡眼一、有二法眼一、有二道眼一、有二天眼一、有二仙眼一、有二佛眼一、夫見而不レ見、不レ見而見者佛眼也、仙眼也、見二三千刹界一如レ見二掌上菴摩果一者天眼也、道眼也、觀レ心見レ性者法眼也、視而不レ知者凡眼也、一翳作レ障者肉眼也、今此湯洗二何眼目一耶、一洗了淨躶躶、又洗了明歴歴、金篦刮レ膜、要レ開二汝眼一、試豁開看奈何、若在二我儒一言レ之、則仰觀俯察者伏羲之眼也、達二四目一者有虞氏之眼也、不レ見是圖者夏后氏之眼也、望レ道而未レ見者文王之眼也、視觀察者孔子之眼也、非レ禮勿レ視者顏子之眼也、十目所レ視者曾子之眼也、視二其眸子一者孟子之眼也、聖賢之眼目洗レ之以レ何哉、不レ以レ湯也、況外藥乎、然則如何哉唯還レ吾、宜レ以二讀書一隻眼一、 誰道三年曾患レ眼、瘳由二洗滌涌湯功一、細流不レ擇二一涓滴一、明月清風銀海中、
p.1049 文治六年五社百首〈有間湯攝津〉 皇太后宮大夫俊成卿 ありま山雲間もみえぬ五月雨にいで湯のすゑも水まさりけり 題不レ知 よみびとしらず あひ思ふ人をおもはぬやまひをばなにかありまのゆへも行べき 永久四年百首出湯 源兼昌 わたつうみははるけき物をいかにしてありまの山にしほゆ(○○○)いづらん
p.1049 四月ばかり、有馬の湯より歸り侍りて、郭公をなんきヽつると人のいひをこせて侍ければ、 大中臣能宣朝臣 聞き捨てヽ君がきにけむ鵑尋ねに我は山路こえみむ
p.1050 有馬の湯にまかりたりけるによめる 宇治前太政大臣 いざや又つヾきもしらぬ高嶺にて先くる人に都をぞ問ふ
p.1050 薦野湯〈こもののゆ〉伊勢 此湯いまだ物に見えず、伊勢新名所歌合可レ考、
p.1050 後の文月初、〈六日〉御いとましばしなりて、勢州菰野山の温湯にまかりし、嶺の雲、谷の霧珍敷かの造化のおしめる景勝を、たやすく見侍るも嬉しく空おそろし、其程の事、旅亭の徒然に、凉窗燈下筆に任せ、後の紀念にもと爰に記し侍る、 此温泉は、養老の比沙門淨薫、藥師善逝の靈告により神井を尋、神祠を建て、土地を起し、痾を療し、性を保する水源を開けり、川端神明、淨薫塚今に在り、 其后傳教大師、小谷の靈地に精舍を營し、冠峯山三岳寺と號し給へり、覺信僧都をして住せしめ、本尊瑠璃光如來は、大師自彫刻の尊像也、星移り物換り、温泉も空しく絶、古寺廢亡、〈慶長中炎燒〉然るに貞享四年丁卯、官に請、舊地新たにし、温泉再びむかしにかへれり、賢按、後世取立の温泉ゆへ、湯少しぬるきよし、
p.1050 文祿二年後九月九日 一三位法印様、勢州こものヽ湯江御湯治付而、人足割符、 一十一日、京ゟ草津迄四十人、 民法 一十二日、草津ゟ水口迄四十人、 爲心 一十三日、水口ヨリ勢州こもの迄、〈廿五人藤玄蕃、十五人丹羽勘介、〉 十日 態令二啓上一候〈但早道遣◯中略〉 一三位法印様大かみ様、并御子様達、彌御息災に御座候、三位法印様、明日十一日より、勢州こものへ御湯治被レ成候、御氣色指當惡敷儀も無二御座一候、爲二御養生一被レ爲レ人候、則路次人足以下、念を入申付候、然者上様御氣色御様子、御報に可レ被二仰下一候、恐々謹言、閏九月十日 〈駒井益庵〉 壽命庵
p.1051 伊豆御山、〈一名伊豆高嶺〉突二出於海一、山中有二温泉一、名二走湯一、
p.1051 走湯山〈三島より南六里許にあり、走湯權現山嶺にあり、伊豆御山と稱す、頼朝卿蛭小島に於て、法華經書寫千部の願望ありしに、出陣急になりしにより、八百部走湯山に藏めらるヽ事、東鑑に見へたり、本社壯麗也、石階を昇る事三町にして山頂に鎭座す、別當を般若院と稱す、◯中略〉瀧之湯〈二町許山下にあり、巖洞より涌出して海岸に流落る、其疾事矢の如し、故に走湯の名あり、 瀧は二所に、一は浴室ありて、諸人こヽに浴す、〉
p.1051 走湯山に參詣の時歌 わだ津海の中に向ひて出るゆのいづのお山とむべもいひけり 伊〈◯伊下恐脱レ豆〉の國山のみなみにいづるゆのはやきは神のしるし成けり はしるゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也鳬
p.1051 大鷦鷯帝廿七年八月五日、忽然此神鏡放二光明一照二禁闕一、〈攝津國難波高津宮也〉響驚二叡聞一、公臣奇怪、爰武内宿禰大臣奏聞云、先皇稚櫻宮御宇、攻二三韓一時、高麗國零沛郡之深沙湯有二一神人一、與二皇后一結二契約一謂、來二影于我大日本國一、覆二養黎元一鎭二護國家一、加之吾胤尊可レ宰二東征一云々、以二其厚契一降二臨此州一歟耳、若欲レ知二事實一、令レ降二宣使一、依レ之差二泊瀬大瑞、百濟薗部等一、兩使承レ勅東降、見二聞社屋一尋二問子細一、若是神歟、將又祇歟、仙童答云、神者天地之精氣、人臣父母、神自無言、若欲レ知二由來一、須レ爲二卜占一、又可レ推二靈託一、勅使諾レ此、謂、雇二一老巫一令レ請二神託一、即時神靈附託而自稱云、吾是異域神人也、又是日輪之精體也、昔西天之月蓋依二釋迦文佛之勅一、取二閻浮檀金一奉二鑄如來眞像一、吾胤尊重二此金像一、故下レ自二高天原一住二月氏之境一、又以二本誓一化二出温泉一、濟二度蒼生一、因レ之呼レ吾曰二沙訶沙羅一、〈湯泉之梵語歟〉爰如來化縁已盡、催二東漸之幸一、我隨レ此亦東向棲二宿三韓國一、〈高麗百濟新羅也〉爰神后討二三韓一之時、自進幸、我卜二宅深沙湯之許一、誘云、吾是豐葦原大和國主第十五代帝君也、今以二神威一伏二三國一、自今以後以二大養徳國一爲二本首一、以二三韓一、爲二邊畔一、然則湯神客來達二于本朝一、又所二歸依一之金像、可レ迎二接我朝一云云、〈礒城島宮御宇、百濟國之濟明王奉レ渡二金像於吾朝一、〉我聞、神后誘承諾已畢、早出二本國一降二臨倭朝一時節云レ到、旣達二叡聞一、今勅使尋來、斯甘心也、但於二此州一雖レ逕二多歳一、非二有縁之勝地一、若公等可二與仰崇一者、兼
p.1052 可レ卜二靈地一、謂湯出州新礒濱二色浦片平郷、是有縁之地形也、我本自在二西天一所二好玩一甛子波藻、以二其種子一兼蒔二植于彼地一、又兼令レ化二出靈湯一、已託宣事終、神鏡乘二飛龍之背一翔二虚空一、到二山頂一係二松朶一、爰仙童老巫、并勅使等瞻二光雲之聳一、効二香郁之薫一、尋入二當山一、凡青巖側立峨々、祥樹茂生森々、履二蘿徑一跨二谷澤一、遂而攀二登日金之巓一、夫爲二山之體一、望二離白浪之海、蒼々一、顧二坎翠嶺之岫峻々一、水石聳湛、林花開結、乾坤虎蹲、震兊龍偃、靈湯沸涌、神崛杳洞、奇仙異人、卜宅連々、天地之間無二地于比一レ之、
p.1052 伊豆風土記に、走湯者不レ然、養老年中開基とあるは、箱根山なる湯どもは、伊豆國の神湯を元湯にして、此の二柱神の始メ給へるなれど、走湯は此二神の始メ給へる湯には非ず、元正天皇の養老年中に開基たる湯ぞと云るなり、〈行囊抄に、舊記云、仁明天皇承和二年、豆州温泉出、謂二之走湯一と云へれど、其舊記の名も知られず、然れば風土記に、養老年中と云るに依るべし、箱根の湯をも、養老年中に万卷上人が開けるよし、彼山の縁起に見え、熱海の湯も、彼僧が開ける由なれば、此も彼が開けるならむも亦知べからず、〉こは伊豆山とも、走湯山とも云山にて、熱海の北に當りて、共に伊豆國加茂郡なり、箱根より南の山なるが、海にさし出て、山中に湯あり、謂ゆる走湯是なり、此山に座す神を走湯神と申す、
p.1052 走湯山 走湯山は、伊豆の山の事にて侍る、爰にまします神をば走湯權現とぞ申しける、昔鎌倉右大將、伊豆箱根を信じ、常に蘋蘩の禮をいたし給ふ、二所參詣といへるは是なり、此ところに出湯あり、石はしる瀑の如し、走湯の名も温湯によりての故にや、又一里許西に温泉あり、その所を熱海と名づく、人のよろづの病あるもの浴すればたヾ驗あり、先年余も人にさそはれて湯に入り侍りし、其湧く所を見るに、潮の進退によりて、岩の間より烟むしあがりて、人の近づくべくもあらぬほどあつきに、熱湯わき出て流れ走るを、筧をかけて家々にとり、槽に湛えて人々に入らせけり、絶境靈蹤亘二古今一、尋レ名吾輩亦登臨、走湯權現救レ人處、便是驪山神女心、
p.1052 北條氏康定状〈伊豆國伊豆山般若院藏〉
p.1053 定法度之事〈◯中略〉 一走湯山之湯、自國他國之人、不レ謂二貴賤一、不レ可二湯治一事、〈◯中略〉 右所二相定一如レ此、状如レ件、 天文〈辛丑〉二月二十二日
p.1053 熱海(アタミ)〈豆州賀茂郡温泉之地〉
p.1053 熱海〈温泉〉 〈あたみのいでゆ〉 伊豆國〈加茂郡〉
p.1053 熱海温泉 自二伊豆權現一十八町、〈伊豆與二相模一堺〉入湯人衆、
p.1053 神湯とは、神の始給へる意は元よりにて、其湯の神々しき義なるべし、〈右に擧たる風土記の文に、非二尋常出湯一云々と云へる趣にも思ふべし、〉さて伊豆國は、温泉の多かる國なれば、何の温泉のことならむと、國人に逢ごとに、如レ此言ひ傳ふる湯ありやと探ぬるに、今は此名を知れる人稀なるが、熱海の温泉を舊く然も云へるよし、古老の物語なりと云人あり、是に依て、此國の事記せる書どもを集めて見るに、まづ熱海と云地は、東北の極にて、走湯山に近く、今は町屋も多く立並たるが、温泉の源は町より西北に在て淖(しほ)の滿干に從ひ、晝夜に六度ばかり沸騰こと甚烈く、鹽辛きこと淖に異ならず、其湯源の上に、湯ノ宮と云社あり、町家なる湯は、此湯源より竹樋を通して引來るとぞ、〈林羅山先生の丙辰紀行にも、走湯より一里ばかり西に温湯あり、其名を熱海と名づけて、人の萬の病あるもの浴すれば驗あり、先年余も人に誘はれて湯に入はべりし、其涌ところを見るに、淖の進退によりて、岩の間より煙むし上りて、人の近づくべくもあらぬほど熱きに、熱湯涌出て流れ走るを、筧をかけて家々にとり、槽に湛へて人々を入けりと記されたり、〉上に引たる風土記説によく符へり、湯宮と云は、此の二柱神なること言まくも更なり、〈熱海温泉記と云物を見れば、熱海の温泉は、往昔この海中に、温湯俄に涌出たり、是に依て、彼邊の魚類忽に爛死て、礒にうち揚ること山の如し、人更に海中に温湯ある事を知らず、爰に万卷上人と云沙門あり、たまたま此所に來れるが、海に温泉あるべしとて、海人を入れて尋させけるに、果して温泉ありしかば、藥師の冥慮を仰ぎ、此温泉を里に祈よせて、諸人の爲に功徳せむとて、一七日祈りけるに、忽に温泉山下に涌出たり、里人奇み思ひけるに、藥師如來里人の夢に告て、病ある者この温泉に浴すべしと、一同に告て、里人一致して、即社を草創して、温湯守護神と崇め奉る、今の湯前權〉
p.1054 現是なりとて、委く此湯の功能をも記せり、功能は然る言なれど、上件の趣は、二柱神の此所に湯を出し給ひけむ古傳の遺れるに、例の佛風の説どもを打交へて妄説せる物と見えたり、二柱神を藥師と申せること、更に珍らしからず、
p.1054 社〈◯走湯權現〉より西のかた一里ばかりに温泉あり、熱海と名づく、うしほのみちひにしたがひて、岩のはざまより煙むしあがりて、ことの外にあつき湯出てはしるを、筧にて家々にとり、槽にたヽへて人々に入せ侍る、よろづの病によしといふ、
p.1054 熱海温泉〈走湯山の西の方一里にあり、潮の滿干に隨ひ、岩のはざまより湯氣蒸上りて、殊の外熱き湯はしり出る、これを筧にとりて、家々にて諸人入湯す、平左衞門、法齋湯、野中湯、風呂湯、川原湯、濱の湯等の名あり、土人云、湯の名を呼ば大に涌上るといふ、湯前權現は、上の町にあり、今宮權現七面祠、木宮明神、天神祠、柿本貴僧正の祠等新宿にあり、〉
p.1054 伊豆國賀茂郡熱海温泉記 倩熱海なる出湯の年經りし由來を考へ侍るに、〈◯中略〉抑此里は、名にし負伊豆がねの尾にして、海邊より三丈餘り高き岡に、巖の底より自然鹽湯の涌出て、立登る煙りは富士淺間にもたぐへやは見ん、晝夜六度宛、時に臨みては沸り出る響雷鳴かとあやしむ、溢れ流るヽは大河の如し、かヽる不測の靈湯ありつれど、上代は民屋も乏く、知人なくて徒に幾年月をふりにたり、かくて孝謙天皇の天平勝寶元年己丑睦月ばかり、里の小童に神託て云はく、此高き岡に温泉あり、汲取て浴せよ、病咸愈べしと、頓に小童は醒てかヽりし事をも不レ知、默然として眠る、こヽに村民等恭畏て、神の教のまに〳〵、湯槽を居置桶渡し、浴室を作曳入ゆあみしけるに、衆病愈て妙なる事神の如し、よりて清地を撰み、湯の上なる岩境に神籬を建、湯前神社を齋ひ、少彦名命を安鎭まつり敬ければ、里も榮へて、いや増に効驗なれば、千年の今猶絶ずなん有ける、寛平四年、中納言紀長谷雄卿といひし博士、伊豆國の任なりしにや、來り給ひける時、温泉の源を探見んとて、數多の村民に命て堀穿けるに、滑石及開之(シキナミ)熱湯沸出る事猶前の如し、かヽりしかば、恐退て止ぬとかや、元來神徳
p.1055 成事しるし將多に、湯の流ければ、里の名を湯河原と唱ひしが、又海面もそヾろに熱かりければ、後改て熱海といふめる、東鑑に云、建暦三年十二月、修理亮泰時、伊豆國阿多美郷の地頭職と云云見ゆれば、名に流れしもいとはるけくなんおぼゆる、慶長二年三月、恐くも大神君御臨湯(みゆあみ)ましましぬ、其後寛永三年の頃、大猷君被レ爲レ成御催して有て、假御殿建しが、故有てや止ぬ、其御殿跡とて、今猶遺れり、
p.1055 熱海七湯〈大湯の外、時を期してわくものなし、湯の味もおの〳〵異なり、〉 野中の湯(○○○○)、上の町より一町餘北のかた山の麓にあり、そのほとりの土丹のごとし、里人此土をもつて壁をぬる、又砂中に礫ありて金色あり、此湯わく事淺し、ゆゑに湯升をもうけず、 清左衞門湯(○○○○○)下の町の北にあり、里説に云、むかし馬走清左衞門と云もの、馬をはせて此湯壺に墮て死せり、今において湯壺にむかひ、清左衞門ぬるしと叫ば、聲にしたがつて沸いづる、大に叫ば大にわき、小しくよべば小にわくといふ、唐土壽州の咄泉の類なるべし、 平左衞門湯(○○○○○)、法齋湯ともいふ、上町の北にあり、人その名を呼ば聲に應じて沸事、清左衞門湯に同じ、唐土茅山の泉、手を打ばわき、又岳陽の泉、人の聲を聞て沸き、西寧の泉、人の足音に應じてわくの類、和漢同日の談なると、前にもものしり人いへりと、里人がものがたりぬ、 水湯(○○)、本町の北、坂町のほとりにあり、此湯にかぎりて鹹氣なく、水を沸したるごとくなるゆゑに水湯といふ、水湯の源より南の方五尺ばかりへだてたる所に湯の湧所あり、此湯は鹹氣あり、地中の泉脈はかりしるべからず、 風呂の湯(○○○○)、水湯の西在家の〈高砂や大介〉庭中にあり、そのかたはら三尺ほど東の方の石の間より、細流の湯を湧いだす、此湯鹽氣さらになし、しほけあるゆとしほけなき湯と相隣る事僅に三尺をさらず、もろこし江乘縣の泉、其績塘の湖水、半は冷に半は熱しといふも、此湯に比すれば奇とするにたらず、 左次郞の湯(○○○○○)、醫王寺の門前にあり、左次郞と云ものヽ庭中にあるゆゑに名づく、 河原の湯(○○○○)、下町の
p.1056 東、濱のほとりにあり、
p.1056 應安七年甲寅二月十五日、赴二管領甲第一、領二問政事之要一、余曰、凡政事當二先賞而後罰一、不レ爲二人憂一、則可レ謂二善政一矣、仍乞二湯醫之暇一、入レ府、亦乞七七日爲二湯醫(○○)一往二熱海一、宿二山崖家一、適與二九峯一會二于接待庵一、 十八日、九峯出二示故梅州老人舊題、及自和者一、余乃次二其韻一、題二温泉廣濟接待庵一云、温泉亂浴汗淋浪、接待知消幾杓湯、宿客毎分二鰲店榻一、詩人偏愛賛公房、陶成什器輕二於土一、煮出官鹽白奴霜、暫借二僧窗一同遠眺、東南目斷水茫々、 三月十一日、自二熱海一歸、 永和元年二月十一日、余赴二熱海一、爲二湯醫一也、隨從者、高諲二子、行奴各人僦二于山一涯舊館一而宿矣、 康暦三年二月廿三日、過二管領宅一、告下欲三退レ寺赴二湯醫一之事上、管領曰、退院必不可、湯醫即得云々、 廿四日、島田遠州傳二管領之命一曰、府君免二湯醫一、但退院則不レ答、 廿六日、大休寺年忌、清谿拈香、府君管領入レ寺、點心罷、余揖歸歇處、君即問、湯治何日、余答、今月盡頭必定矣、君曰湯治則不レ妨、切勿二告退一、余曰老病交侵、尚居二官寺一倦甚、伏望賜レ免下放二歸山林一、隨意湯醫上、君曰湯醫則隨意、不三必論二幾日一、退則甚不可云々、 廿八日、會二茶首座維那都管等一、屬以二留守一、又屬二香衣二侍者一、以守二方丈一、旣雇二板輿一赴二温泉一、從者僧行僕數人而已、路上北望二箕勝兩山木一、能一遊、作レ詩以約二回時一、曰征途北望兩山青、隱々構臺插二杳冥一、寄謝雲間高臥客、回程有レ約叩二岩扃一、 廿九日、抵二于瀬波一、忽見今管領令弟將作公、洎快古劍回レ自二温泉一、時行人爭レ渡、公命二舟人一渡レ余、余後作レ詩謝レ之曰、水生溪漲路難レ通、人馬爭レ舟急似レ風、逢二著明公濟川手一、小僧省得笠浮レ空、晡時達二于温泉一、以二藥師堂律長老名圓印命一、館二于一御所者一、乃迫第一湯者也、清祖藏主及諸姪亦先萊浴、是日余入浴一次、
p.1056 大將修理大夫氏親〈◯今川〉同〈◯永正元年〉十月四日鎌倉まで歸陣、一兩日逗留、豆州熱海湯治一七日、韮山二三日陣、勞休られ歸國ありしなり、〈◯中略〉 大永六年七月〈◯中略〉興津左衞門の館、しほ風呂興行一七日湯治此次熱海湯治隨體これより東邊
p.1057 の古知人をも尋ね見ばやのあらまし、折節痢病散々式、結句脚氣さへ發あひ、車におされたる犬のごとくはいありきの體、不レ及二旅行一
p.1057 慶長九年三月朔日、將軍立二江戸一、御上、先一七日熱海ヱ湯治、
p.1057 記録拔書五 一慶長九年三月朔日、權現様爲二御上洛一江戸御發駕被レ遊候、此節伊豆熱海之湯へ御入被レ遊、御獨吟連歌被レ遊、政宗家來法橋猪苗代兼如、御合點被二仰付一、右御連歌、 春の夜の夢さへ波の枕哉 曙ちかくかすむ江の舟 一村の雲にわかるヽ雁鳴て
p.1057 志二湯泉一 余已讀二由來記、案内記、及地圖一、而文獻不レ足レ徴、子野搨二湯前祠碑一以示、近時所レ建、其言但據二由來記一耳、其説之怪僻姑置、相傳、天平勝寶年祀二少彦名一、因呼二做湯權現一、然祀典神名未二之聞一也、熱海之稱、古書所レ不レ載、萬葉集温泉歌果指レ此耶、亦已久矣、由來記又云、慶長年神祖浴焉、〈按、松荣記其事在二九年一、〉寛永十六年、猷廟將レ遊二此地一、命構二行殿一、殿址寔存、今茲甲辰八月、官命二地方官一、挹レ泉以致二殿内一、沸泉之側、新構二署舍一、有司眼同實二湯於桶一、以傳送、余來路觀レ押二解湯桶一、極嚴都下相傳、前レ此細川侯浴レ疾而驗、故有レ命云、其泉涌二出岩下一、涌有レ期、晝夜各三次、涌時雷鳴烟發、望レ之如二鯨鯢噴一レ沫、如二火之燎一レ原、沸騰盪晦、不レ可二嚮邇一、聞二之土人一、遠近穿レ地、泉皆沸湯、海之濱潮、退沙面小孔無數、如二蟹眼一、沸爾、是其所三以名二熱海一耶、熱海村隷二伊豆國加茂郡一、温泉爲レ業、其民二百餘家、街衢東西半里、南北少殺、土地磳确、不レ可二墾菑一、實獸蹄所二盤旋一、而都人士輻湊成レ蹊、非二人力一也、走湯山祠在二來路一、距レ此可二三里一、嘗聞、寺藏二舊物一、十有三日、飯後拉二同舍客及温泉寺僧一而游、其地清間、祠下鐵蕉高數丈、蜿曲如二龍蛇一、祠司有レ事、不レ許三遽啓二寶藏一、徒空レ手而歸、事在二子野紀行一、不二復
p.1058 贅一、
p.1058 桂谷山修善寺 在二修善寺村一〈◯中略〉 寺前有レ川、名二修善寺川一、川中有二温泉一、自疊レ磐爲二方圍一、
p.1058 嘉禎二年四月八日甲午、將軍家〈◯藤原頼經〉依レ可レ有レ渡二御于伊豆國小名温泉一、以二來十七日一被レ定二御進發日一、而去一日若宮蟻怪異事、動搖不安之由占申之上、又宿曜師珍譽法印、可レ有レ御二愼遠行一之旨言上、陰陽師不快之由占申、仍今日有二議定一、遂思食止云云、
p.1058 甲斐國 湯島村、此處に温泉有、東照神君此温泉に浴し給ふと云、其比名主久左衞門と申者に、御鐵炮壹挺被二下置一、今に是を所持す、これは天正三年三月五日の事也と云、御墨付あり、
p.1058 葦刈湯 あしかりのゆ 相模 足柄郡
p.1058 阿之我利能(アシガリノ)、刀比能可布知爾(トヒノカフチニ)、伊豆流湯能(イヅルユノ)、余爾母多欲良爾(ヨニモタヨラニ)、故呂何伊波奈久爾(コロガイハナクニ)、
p.1058 箱根温泉、七ケ所にあり、七湯巡といふ、箱根權現坂を通て、街道に標石あり、これより左の方へ入、〈◯中略〉 蘆之湯(○○○)、七湯の其一箇也、權現坂よりこれまで一里、浴屋は町の中にあり、一二三と仕切て入湯す、氣味澀く苦し、又硫黄の香強し、流れ湯みな黄色なり、功能は、癩病、黴病、五痔、一切の腫物に相應して早く治す、浴屋の前兩側に、一町許入湯の宿舍ありて、奇麗なり、 小地獄(○○○)、蘆の湯より八町許にあり、山腹に湯氣盛んに立て、手を入るればはなはだ熱し、按ずるに、積陰懲聚りて火氣を生じ、土精熱して硫黄となる、これ温泉の源なり土人云、鍛冶屋の地獄、酒屋の地獄、紺屋の地獄ありといふ、地氣少しづヽ色變る也、又これより山奧五里許に、大に地氣立昇る所ありとぞ、里諺にこれを大地獄とよぶ、
p.1059 氣賀湯(○○○)、蘆の湯よりこれまで一里なり、此間に明礬を制する所あり、氣賀の中に、岩湯、上湯、平の湯、大瀧等の四ケ所あり、いづれも氣味鹹して明礬の香あり、中風疝氣を治す、 底倉湯(○○○)、氣賀より半里、中むかし地震ふて、名物石風爐も絶て、今纔に内湯二三ケ所あり、此所の民家、箱根名物挽物細工を業とす、 宮下湯(○○○)、底倉湯より二町ばかりにて、大略家續き也、内湯、瀧湯あり、内湯とは、温泉の水脉より、樋にて家々にとり入湯す、瀧湯とは、樋より筧にとりて、家の内にて瀧のごとく温泉を落し、これに打るヽ也、頭痛、痃癖、腰の痛を治す、打るヽに氣味快きものなり、 堂島湯(○○○)、宮の下より五町ばかり山下なり、内湯、瀧湯あり、氣味鹹はゆくして、積聚疼痛を治すなり、塔之澤湯(○○○○)、堂が島より一里半あり、七湯の中にて、地境廣くして風景の勝地なり、山を勝麗山と號し川を早溪といふ、〈いさよひに記〉あづま路の湯坂をこえて見わたせばしほ木流るヽ早川の水、 橋を玉緒橋といふ、水戸黄門光圀卿、明人舜水と共にこヽに逍遙し給ひ、此號をはじめて呼せらる、浴舍美麗にして廣く、書院、數寄屋、庭中何れも佳景なり、江府より諸侯時々こヽに湯治し給ふ、元湯を秋山彌五兵衞、一之湯を小川澤右衞門、内湯は田村久兵衞、藤屋喜八、喜平治、小兵衞等なり、都て家數廿三軒あり、此温泉は氣味輕くして養生湯なり、諸病を治す、 湯本湯(○○○)、塔澤よりこヽまで十町あり、町の中に浴屋ありて、四間に仕切る、内湯も二三ケ所あり、腫物、瘡毒、黴病の類によし、これより三枚橋へ五町許あり、岨を歩て橋の東爪へ出る、これより本道東海道なり、
p.1059 箱根は、桓武天皇紀には筥荷とも有て、相模と駿河との堺なるが、相模に屬る足柄山の嶺續にて、万葉に、足柄乃筥根飛超行鶴乃云々、また安思我良能波姑禰乃夜麻爾云々など、足柄のと詠たれば、古より相模國に屬たり、〈◯註略〉箱根之元湯是也とは、箱根に、蘆湯、木賀、底倉、宮城野、湯
p.1060 本を始め、數所にある湯の元は、伊豆國の神湯なりと云る義と通ゆ、然れば其間は隔たれど、大分速見の湯を、下樋より伊豫國に渡し坐るに準へて思へば、此も地下には幾筋も下樋も通して、神湯を渡し給へるなり、斯て此嶺に、式外なるが大社あり、祭神を書等に、天忍穗耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊とも有れど、此國邊に右の天皇命神だちの齋はれ給ふべき由なし、〈此由は古學に明ならむ人は自に辨へなむ、〉然れば決めて此段なる二柱神を祭れる社なるべし、
p.1060 湯本の橋より右の方川邊をゆけば、半里あまりに湯の澤(○○○)といふ在所あり、温泉あり、人おほくあつまれり、湯本の地藏は海道の右にあり、總恩寺といふ寺有、
p.1060 箱根七温泉の中に塔澤(○○)は殊に山水の美景なり、風流なる房をしつらひ、内湯とて温泉を筧にとりて瀧湯にし、肩膝腰など、病ある所をうたるヽ也、あるは湯槽に浴しても、晝夜流るヽゆへ清き事泉の如し、其間々は、絲竹の音、楊弓、軍書讀の席にて興を催すも、みな養生の一つなるべし、
p.1060 天正十三年禁制状〈所藏不レ詳〉 禁制 一湯治之面々、薪炭等其外地下人役申付事、 一材木申付役もひと地下人に申付事 以上 右之兩條、縱如何様之者有レ之申懸共、地下人打合間敷候、但虎之御印判、又久野印判於レ有レ之、無沙汰可レ勤レ之者也、任二先御證文一、爲二後日一如レ件、 天正十三年〈乙酉〉十一月四日 花押(○○) 底倉百姓中
p.1061 慶長九年五月七日、下野守殿〈忠吉〉相州底倉江御湯治、其後同州宮城野江御入湯、
p.1061 寛永七年十二月、大御所今年相模國底倉の湯治し給ふ思召にて、神奈川御旅館作事奉行を、新庄宮内少輔直房に命ぜられ、目付仙石大和守久隆、底倉の御旅館構造の命蒙り、子右近久邦ともに撿點にまかる、されど夏の御病によて御事停廢せられき、
p.1061 多摩郡 小河内温泉 總名原と云 日本橋より青梅迄拾二里、青梅より原迄八里、 此出湯は、熊野權現夢想と云、打身、切きず、腫物立所に愈ゆ、但し服忌あるものを入湯をゆるさず、
p.1061 原村 熊野社〈除地一段七畝十八歩、小名湯場ニアリ、◯中略〉温泉場〈當社除地ノ内ニアリ〉湯壺〈社ノ東石垣ノ下ニアリ、湯壺ハ廣サ四尺四方、内ニタヽエタル湯平生ハ少シク温ナレドモ、曉天午時黄昏ノ三次ハ、日毎ニ煙出ル許リニ熱セリ、是ヲ汲來リ居風爐トナシテ浴セリ、◯中略〉虫湯〈社ノ前多摩川ノ際ニアリ◯中略〉目湯〈社ヨリ四五間西ニテ、コレモ多摩川ノ際ニアリ、〉
p.1061 袋田村の瀑布、其高さ四十有餘丈にして、本國中最第一の勝景たり、月居(つきをれ)山下に在り、此山一名月折とも書けり、昔時野内大膳なるものヽ居城なりといへり、又温泉あり、本國中の名湯たり、京都香川氏の一本堂藥選にも見えて、其名高しといへども、近時人知るものまれなり、
p.1061 下呂温泉 同郡同郷湯島村ニアリ、本朝上古ノ温泉三處アリ、所謂攝州有馬、野州草津、飛州湯島是也、國説ニ云ク、天暦年中、此地ノ山中ニ初テ温泉涌出セリ、地名ヲ湯峯ト云フ、然ルニ文永二年乙丑冬十月、湯峯ノ温泉出止テ、山下今ノ地ニ涌出セリ、是則益田川ノ河原ニシテ、常ニ温湯ノ涌出ルニテハナシ、人浴セントスルトキ、河原ノ砂石ヲ除キテ僅ニクボメヌレバ、其所ニ忽チ温湯出ル也、尤清
p.1062 泉タリ、猶其河水ニ近キ所ハ、甚熱湯也、然レドモ其河水ニ於テハ、曾テ温湯ノ氣味ナシ、又此地ニ温泉藥師ト稱スル靈像アリ、口碑ニ傳フル處、文永年中、温泉此地ニ涌出セシトキ、湯ノ島ノ樹下ニ於テ光アリ、村民アヤシミ、其光明ヲタヅ子行テ見ルニ、藥師ノ尊像ヲ得タリ、故ニ一宇ノ艸堂ニ安置シテ、温泉藥師ト稱セリ、然ルニ寛文年中、同郡萩原郷中呂村龍澤山禪昌禪寺第八世、剛山祖金和尚、此地ニ於テ一寺ヲ建立シテ、彼靈佛ヲ安置ス、醫王山温泉禪寺ト稱セリ、 羅山林先生詩集卷第三曰、〈紀行三、西南行日録、元和辛酉孟夏二十五日之條下、〉有馬山温湯、 温泉㵒沸石磐間、病可レ除兮垢可レ删、這裏提醒長水子、本然清淨忽生山、 我國諸州多有二湯泉一、其最著者、攝津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島、是三處也、〈下略〉今有馬、草津ハ、廣ク世ノ知ル所也、湯島ハ古來ノ靈湯タルコト、遠ク知ルモノ少シト云ヘドモ、入湯スル人ハ、其驗ヲ得ザルコト無シトナリ、
p.1062 つかまのゆ 筑摩湯 信濃筑摩郡
p.1062 修理大夫惟正、信濃守に侍りける時ともにまかり下りて、つかまの湯(○○○○○)をみ侍りて、 源重之 出づる湯のわくに懸れる白絲はくる人絶ぬ物にぞ有ける
p.1062 百首歌〈戀〉 〈つかまのみゆ信濃〉 段富門院大輔 わきかへりもえてぞ思ふうき人はつかまのみゆかふじのけぶりか
p.1062 今はむかし、信濃國につくまの湯といふところに、よろづのひとのあみけるくすりゆあり、そのわたりなる人の夢にみるやう、あすのむまのときに、觀音湯あみ給ふべしといふ、いかやうにてかおはしまさんずるととふに、いらふるやう、とし卅ばかりのおとこのひげくろきが、あやい笠きて、ふしぐろなるやなぐひ、皮まきたるゆみもちて、こんのあをきたるが、夏げのむかばきはきて、あしげの馬にのりてなんくべき、それを觀音としりたてまつるべしといふ
p.1063 と見て夢さめぬ、おどろきてよあけて、ひと〴〵につげまはしければ、人々きヽつぎて、その湯にあつまることかぎりなし、ゆをかへめぐりを掃除し、しめを引、花香を奉りて、ゐあつまりてまちたてまつる、やう〳〵午時すぎ、ひつじになるほどに、たヾこの夢に見えつるに露たがはず見ゆる男の、かほよりはじめ、きたる物、馬なにかにいたるまで、夢にみしにたがはず、よろづの人にはかに立てぬかをつく、このおとこ大におどろきて、心もえざりければ、よろづの人にとへども、ただおがみにおがみて、その事といふひとなし、〈◯下略〉
p.1063 犬飼御湯 いぬかひのみゆ 信濃國〈安曇郡〉
p.1063 犬養山〈安曇(アツミ)郡〉犬養ノ温泉(ミユ) 筑摩温泉〈筑摩郡〉那須温泉 七久里(ナヽクリ)湯、諏訪温泉等、處處有レ湯、
p.1063 いぬかひのみゆ 讀人しらず 烏のこはまだひなヽがらたちていぬかひのみゆるはすもりなりけり
p.1063 七久里湯(ナヽクリノユ)〈信州筑摩郡 世云二信濃温泉一〉
p.1063 七久里湯 なヽくりのゆ 信濃〈一云〉伊勢〈◯中略〉 今案に、信濃國人の云、今名目栗(なめくり)といふ村有、湯の所といふ、今は湯出ずといへり、伊奈郡の中なりといふ、猶可レ考、〈◯中略〉 契冲名所補翼抄に云、六帖に、かみつけやいちしの原とよめり、此二首いちしなると有れば、此湯もしそこに有にや、〈此湯は信濃とて出せり〉或人云、伊勢國一志郡に出湯有り、今は榊原の湯と云ふ、此所歟、俊綱歌に、かひなきと讀たるは、榊原の湯の邊の山より、石貝とてさま〴〵介のかたなる石出れば、夫をよめる乎、
p.1063 七くりの湯之事
p.1064 清少納言枕草紙に、湯は七くりの湯、有馬の湯、玉造湯云々、ありまのゆ天下にあらはる、玉造の湯、何處にあることを知らず、七くりのゆは、伊勢榊原にあり、今に至りて湯治のために往來するもの多し、奧田蘭汀生の物語なり、津の領内の由となり、
p.1064 〈なゝくりのゆ信濃〉 橘俊綱朝臣 いちしなる岩ねにいづるなヽくりのけふはかひなきゆにも有哉 此歌は、ふしみにゆわかして大納言〈經信卿〉をよび侍けるにこざりければ、つかはしけると云云、 返事 大納言經信卿 いちしなるなヽくりのゆも君のためこひしやまずときけば物うし 家集題不レ知 二條太皇太后宮肥後 よの人のこひのやまひの藥とやなヽくりのゆのわきかへるらん
p.1064 草津湯(クサツユ)
p.1064 上州吾妻郡草津の邑に温泉あり、〈◯中略〉此湯硫黄明礬の精氣流れ出て、除病の効いちじるしと、抑硫黄は性熱にして、病瘡を除き、陽精をさかんにし、寒冷を拂ふ、明礬は其味ひ酢くして、諸毒を解し、治症多能也と醫典に云侍り、しかはあれど、吾が所見のごときは、山は山、水は水、自然の温泉にして、自然の功用を具せり、他の湯多くは此二氣によるといへば、此説も又宜べなり、〈◯中略〉建久三のとし秋八月の日、將軍源頼朝公、兼て此靈湯名を、荒草の際に沒し、歩を古徑の邊に絶し事を歎き、再び此湯を開き、試に浴せんとて、群臣を率し此所に來りて、一幽谷を臨給ふに、沸湯空を吐て、恰も鑊湯のごとくなるを見て、すなはち欣躍して開湯し給ひ、數ケ日の湯䨟をわかち其効驗品々あり、或は將軍初て浴を試み給へば、御座の湯と稱し、又冷暖相和ひて幼老を
p.1065 あたヽめ、安樂あらしむるにより、綿の湯とも名り、惡血邪濕をとらかし、痼疾癩瘡を治するは、唯瀧の湯を第一とせり、又鷲の湯、脚氣の湯といふも故あるをや、
p.1065 此暮より又わづらふ事さえかへりて、風さへくはヽり日數へぬ、きさらぎの末つかたをこたりぬれど、都のあらましは打置ぬ、上野國草津と云湯に入て、駿河國に罷歸らんのよしおもひ立ぬるといへば、宗祇老人、我も此國にしてかぎりを待侍れど、命だにあやにくにつれなければ、こヽらの人々のあはれびもさのみはいとはつして、又都に歸りのぼらんも物うし、美濃國にしるべありて、のこるよはひのかげかくし所にもと、たび〳〵ふりはへたる文あり、哀ともなひ侍れかし、富士をも今ひとたび見侍らんなどありしかば、うちすて國に歸らんもつみえがましくいなびがたくて、信濃路にかヽり、ちくま河の石ふみわたり、菅のあら野をしのぎて、廿六日といふに草津といふ所につきぬ、
p.1065 重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、〈◯中略〉是より棧路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、詞もつヾかぬ愚作などし、鎭守の明神に奉りし、〈◯下略〉
p.1065 きぬ川、中川などいふ大河ども洪水のよしいへば、こヽにいつとなくやすらはんも益なし、草津湯治遲く成ぬべし、さらば立歸りねと定まる、〈◯中略〉新田の庄に、大澤下總守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ、〈◯中略〉大戸といふ所、海野三河守宿所に一宿して、九月十二日に草津へ著ぬ、同行あまたありしまで、馬人數多く、懇切の送りども成べし、廿一日、草津より大戸へ歸り出侍りぬ、兼約とて一座興行、 時雨かは紅葉の中の山めぐり
p.1065 草津湯泉游記 余久抱二烟霞之疾一、自謂、非二山水一不レ可レ醫也、嘗聞、毛之草津有二湯泉一、能起レ廢有二奇驗一、欲三一浴二此泉一者久矣、偶
p.1066 得二同病可一レ偕、而余意先決、其人疑難不レ果、遂負二游具於家僕一、以二七月望二日一發二江戸一、自二板橋一至二信之沓掛一、直往二百許里、僻地有レ可レ厭、風景無レ可レ記、獨妙義山奇峻、未レ登而先知二其靈境一、爾廿一日、發二沓掛驛一、北折忽入二山路一、路與二淺間巓一咫尺、北風栗烈、寒氣徹レ骨、不レ可レ騎也、乃下レ馬而歩、聞レ之、淺間之高與二富士一相伯仲焉、或然、行十餘里、有二關砦一、曰二狩宿一、俗傳、鎌倉公獵二淺間一之所レ次也、又行可二十里一、淺間忽焉在レ後、又面二白根一而行、白根山又與二淺間一相伯仲焉、白根與二草津一相距六里、山皆硫黄、湯泉根二于此一云、得二一小驛一、曰二羽尾一、过レ此無レ有二人居一、山路阻陀、草樹不レ殖、爲二硫黄一故、已自二沓掛一、至レ此迂曲登下六十餘里始抵二草津一、連詹二百餘家、乃湯之成レ蹊也、民居如レ環、環中有二湯池一、流如二大川一、先得二一快一、日猶晡時、賃宿而休、濯二足前槽一、槽上引レ流作レ瀑、瀑小大十有五、高者二十許尺、最卑尚十許尺、浴者隨レ意拊二患所一、槽中常數十許人、自レ傍望レ之、恰禦中魚、又似下佛説所レ謂墮二在焦熱地一受レ苦者上、余不二敢沒入一、輕々漬レ身而止、翌旦飵畢、輒往遂不レ免三爲レ魚爲二受苦一耳、自レ此日浴三四次爲レ度、兩三日後腹中微痛、下利二三行、但食日加、是以意益暢、三四日後心下痞痛、乃延二鍼醫一以療焉、五六日後傷風頭痛、故不レ浴、因散二歩村中一、登二藥師堂一、堂鬻二温泉奇功記一、記陋拙、罕可レ取者、然舍レ此何徴、亦惟在二夷狄一引レ之爾、 記曰、建久三年、鎌倉公始浴二此湯一、至レ今浴者輻湊、行李往來、秋夏之交、動輒至二萬人一云、今茲遠近有二水災一、以レ故浴者少二於常一也、然今留宿者不レ下二千數百一、槽凡七所、治功不レ同、然大抵諸惡瘡、頭痛、打撲、寒仙、積聚、五痔、癜風、諸癩爲二主治一、泉爲二硫礬一所レ蒸、其味酸苦、不レ可レ飮也、飛瀑之湯最酷、四十已上人不レ可二專浴二此槽一、諸槽互浴爲レ妙云、若拊レ瀑者、自二頭盧一至二下部一、而後及二患所一、起レ下而及レ背、至レ頭亦不レ妨、直拊二患所一、動致二瞑眩一、瀑之小大強弱自擇、不二必勉強一、然小之多時、不レ如二大之少時一也、但禁レ拊二胸腹及背面五六椎一也、其在レ槽時、勿レ躁勿レ悶、先定レ氣而後漬レ身、稍就レ瀑、其出レ槽亦同、日飮二湯一口一、不二多飮一、多則動二搖齒牙一、下利生レ害、若便祕者、飮一盌、以取レ利、余試飮レ之、湯氣似レ有レ毒、不二復口一也、十四五日後、有二兩股睪丸糜爛出一レ汁、不レ治亦自愈、甚者以レ綿包裹、自然乾燥、蓋浴之治レ疾、以レ寛爲レ善、不三必拘二臈數一、以レ愈爲レ度、浴次亦漸加、若虚羸過レ常者、初來
p.1067 不二即入浴一、一二日身慣二地氣一、而後就レ浴、此法最善、時候以二四月八月一爲レ善、五六七月亦不レ妨也、是亦以二草津一言レ之、他方固不レ在二此限一、浴時浴後切忌レ房、浴中不レ禁二肉食一、但禁二過酒一、浴二臈者將息、亦二臈、却禁二酒肉油物一、三臈四臈以レ此爲レ度、此法亦極善、俗以二七日一爲二一臈一也、此湯名二於治一レ癩、故四方來聚、殆不レ堪二其穢一、但飛瀑如レ川、暫不レ容二其穢一、人是以不レ厭、然斯疾意不レ愈、不二亦可一レ哀乎、但腐爛、者、就レ瀑而洗二其穢一、僅可レ延レ日耳、其深者、頓促二命期一、是故毎歳客二死此土一、不レ下二數十人一云、
p.1067 信州草津の湯の事附地ごくあなの事 信州おく山の中に、草津といふ所あり、其所に熱泉あり、此所いたりて山中にして、人倫まれなる所なり、淺間の山のふもとより七八里も奧山也と云ふ、此温湯きはめてあつくして、勢ひ又強く、其味しぶれり、是いはゆる佛説に、東海の北國に草津といふ所あり、其所に熱湯ありて、衆痾を治すと云々、則此湯なりといひつたへたり、しかれども、此湯の性つよくさかんなるがゆへに、病によりて忌レ之といへり、凡瘡毒難治にして骨にからみ、又惡血ありて腫物を發し、春秋寒暑の節にいたりて再作するの類は、かならず十人に八九は治すと云、されば此湯を頼むものは、まづ深切にその人の虚實強柔の質器を見あきらめて、しかふして後に可レ用レ之と云、〈猶此事醫術の人に相談し、且又此湯を用ひたる人に再往たづねとふべし、〉此事は、前年彼湯にいりて、しば〳〵其しるしをゑたるものかたり侍し、和國第一の熱泉也、一たび湯治してかへるもの、其太刀、脇差、衣服、器財の類、總じて色を變ぜずといふことなし、てぬぐいを彼湯にひたすに、白潔の布たちまち柿澀の汁にて染たるがごとし、やぶるヽ事なくして、其布かさね疊む所の折目よりすなはちおれ切るといへり、かやうの湯もある事にや、扨三月より中秋まで、遠近のもの爰に來り、其程すぎぬれば、入湯難レ叶と云〈其所の民俗語テ云ク、九月より以後は、此所の山神參會し給ふ故、重陽の比より此所の旅館の人も去て里に下り、又來年の期を待て此所に來たりて旅人をもてなしあつかふと云、私云、もし此説然れるか、又重陽より以後は、至て寒さが故か、兩條いかゞ〉又此湯より猶おく山へいれば、をそろしく燒上ル山おほしと云、晝は其やくる時い
p.1068 たりても見分がたし、夜に入て燒る刻限には、四面皆火也と云、外國のもの、たま〳〵此事をきけば、身の毛もよだつてをのヽく事也、 ◯按ズルニ、此書草津ノ所在ヲ信濃トセシハ誤ナリ、蓋シ草津ハ殆ド上野ト信濃トノ境ニアレバ、當時或ハ信濃ノ草津トモ云ヒシカ、
p.1068 おなじ國〈◯上野〉に伊香保といふ名所の湯あり、中風のためによしなど聞て、宗祇はそなたにおもむきて二かたになりぬ、此湯にてわづらひそめて、湯におるヽ事もなくて、五月のみじか夜をしもあかしわびぬるにや、いかにせむ夕告鳥のしだりおに聲恨むよの老のねざめを
p.1068 山中をへて、いかほの出湯に移りぬ、〈◯中略〉 一七日いかほに侍りしに、出湯の上なる千巖の道を遙々とよぢ上りて、大なる原あり、其一かたにそびえたる高峯あり、ぬの岳といふ、麓に流水あり、是をいかほの沼といへり、
p.1068 上州青龍山茂林寺大林正道禪師、濃州人、俗姓源、土岐之族也、弱冠從レ父宦二遊相府一、一日抵二圓覺寺一、悵然發二出纒志一、遂薙染、徧扣二洛下相州諸尊宿一、復還レ郷省レ親、因參二龍泰花叟和尚一、執侍三年、一日叟問曰、江南野水碧二於天一、中有二白鷗間似一レ我、汝道是明二甚麼邊事一、師下語不レ契、後如二上州伊香保一浴二温泉一次、忽爾有レ省、直赴二濃州一呈二所解一、叟可レ之、相隨旣久、蓋到二堂奥一矣、應仁改元年受レ請住二最乘一、乳香供二花叟之法恩一、
p.1068 四万温泉之來由記 抑上野國吾妻郡四万の郷の温泉は、昔日延暦年中、坂上田村丸爲二東征一に此郡に來り、此山巡狩し給ふ折節、御心不レ例おはします時、一人り老翁忽然として田村丸の前に來りて告テ曰、此所に名湯有り、將軍此湯にて浴し給ば、則病苦を治し給ふべし、又は諸人のため、願ば將軍此地江温泉を
p.1069 開き、并醫王の尊像を安置して、衆生の病苦を救ひ給ば、武功も益天下に揚らんと云おはつて不レ見、田村丸老翁の教にまかせて、山中を見れば、果して温泉あり、わき出る事四万所、名レ郷曰二四万一、淡味在、鹹味有、或は浴、或は蒸、能百病ヲ治る事妙ニして、誠に無雙の名湯也、便於二此所一田村丸一宇建立シ、傳教大師御作藥師如來之像安置し給ふ、しかりといへども、未だ時節至ざる歟、世に知る人すくなし、依て予謂、今新ニ、縁記を書拔、世にあらわさば、病を愁ル人のため、又は當地の繁榮ともならんかし、委クハ本書有レ之、略シテ出レ之者也、〈◯下略〉
p.1069 浴泉記略〈代又〉 蓋毛之野、温泉甚多、草津伊香保最著、非二其效不一レ驗、然主治專二于一病一、是以毀譽亦無レ常、獨四萬泉之良、百病莫レ所二不可一、特宜二羸弱人一、大氐羸弱人、其腹有二積聚結瘀一、而此泉能消二化積聚一、融二和結瘀一、積聚結瘀之變、其症無數、是其所三以治二百病一也、且夫泉之成レ湯、非二礜礬一則硫黄爲二之根一、是以臭氣撲レ鼻、襲レ衣、飮レ之澀濇不レ利レ之也、唯此泉、潔白清徹、無レ有二臭氣一、其味鹹而甘、飮レ之多々益レ人、湧源沸然、鹽凝成レ花、可二以烹レ肉瀹一レ卵矣、嘗游二此地一、宿儒老醫號二稱海内無雙一、非三妄誇二我弊帚一也、如レ此不レ翅、他方之泉、皆是浴、獨此湯有二蒸法一、是其效所二以殊異一也、蒸浴之法、乃有レ訣而存、其槩以レ漸爲レ要、始至之日、不レ欲二遽浴一、一日二日、唯浴二于槽一、二三次自汲灌二頂上一數十遍、稍加至二百餘遍一、三日已後始入二蒸室一、先濺二湯頂處一、平心端坐、如レ對二貴人一、如二叩頭状一、以蒸二頭顱上一、不レ得レ瞑、不レ得レ臥、久坐爲レ妙、若瞑則不レ利二于眼一、臥則㿂辟動搖、皆有レ害、其初坐レ室一伏、則一霎時強弱自裁焉、出レ室而飮レ湯、一兩口復浴二于槽一、灌頂如初、浴後速更二浴衣一、切戒二假寐一、寂則冷入邪隨、非二徒不一レ能レ治レ疾、陰醸二巨害一、其他在レ浴時不レ飮二冷水一、不レ食二冷物一、凡生菜異食、皆不レ宜、且禁二房事一、忌二服藥一、灸唯三里一穴不レ妨、若療二諸痔一、別設二小屋一、以蒸二患所一、大凡浴者、胸腹快豁、能食固其宜也、五六日後、或下利、或腹痛、亦治驗也、罷レ浴一二日、自然而愈、若二其全功一、必待二十餘日後一而見矣、故將息法、亦以二臈數一爲レ限、臈多將息亦如二其日數一、其際不レ宜レ浴二常湯一、灸必待二二閲月後一焉、是爲二浴治之要略一、如二其小節一、請待二口授一而已、蓋是我
p.1070 土古來相傳之訣也吾儕不二敢増損一、謹録レ所レ聞、以告二四方來顧君子一、若夫山川勝概、自是游者之雅致、身已在二廬山中一、其復何言、壬寅仲夏一日、郷人田村清民撰、
p.1070 遊二四萬温泉一記 余〈◯平澤元愷〉與二伯經一游二四萬湯泉一、雖レ曰二烟霞一、亦爲レ疾已、地僻而山水不二甚奇一其復何記、二人已試浴三四日、泉性頗慣、夏日無事、浴法切忌二宰我氏好一、浴後駸々然將レ墮二睡魔界一者數四、遂相警勉強以記耳、蓋四萬之溪、在二山田川上游一、而距二高崎治一百里許、山田里以東、泉之成蹊十有八里、傍レ溪而家焉、家之房如二水渦一、屬二于湯槽一以待二來者一、湯泉之成レ業、亦皆爲レ然、獨四萬之泉、別有二蒸室一、而治驗亦在二蒸浴一、其法矮屋數間、架二之屋下一、其室三四相連、小二於維摩之居一、而病者默坐、寔容二四萬之衆一而不レ狹、但坐下與二焦熱地獄一、僅隔二一箔一、是以不レ能一久坐一、唯獦獠亦具二佛性一、故能堪レ久、如レ余爲二理障一、所二逐出一耳、又入又出、心猿奚躁、余室中語二伯經一曰嘗聞、賊忠彌責問不レ拱、獄吏布二青竹於火上一、躶二坐其上一、何太相似、吾曹果首二何事一、伯經胡盧不レ能レ答、遂出日々謔浪、猶恐二睡魔窺一レ隙耳、已而余二人與二隨跟一亦皆健、食日加、應レ知妙智無量之方便、順逆不二也、余之足西履二長崎一、東北抵二蝦夷之地一、其際所レ經湯泉甚多、不レ能二詳記一、然如二四萬蒸湯一、未二之有一也、先レ余游者、或紀二山川風土一、或録二治驗所一レ試、其言曰、香太冲以(○○○○)二城崎(○○)一爲(○)二稱首(○○)一、未(○)レ知(○)レ有(○)二四萬(○○)一也、然其稱三四萬泉根二于乳石一者、乃阿好之説、不レ足レ據也、余與二伯經一、一日登二水晶山一、尋二所レ謂乳石所一レ産、殊不レ如二其言一也、但山之石生二水晶一、閃々如レ鍼、如二棘刺一、一拳一塊、無二石不一レ然、纎微如レ毛、亦必圭頭六面、寔性也、疊巒重巘、茁二乎百里外一、簇々無レ見二其際一、澗水發二流幽谷一、漰涒澩灂、日夜不レ休、惟此深山、不レ出二龍蛇一、其氣鬱結、湯泉以涌、成レ蹊成レ村、其戸數十餘、其口數百餘、含哺鼔腹、各樂二其生一者、豈復偶然哉、余與二伯經一游、雖レ曰レ爲レ疾、亦惟烟霞爲レ崇耳、伯經乃命二石工一、勒二題名并一小詩於溪石一、因戯打レ之、石肌麻起、不レ成レ字、乃笑而措、其它作レ畫作レ字、吟咏以消レ閑、五月五日再臈滿、賖レ酒相賀、厥翌冒レ雨而發、〈前日宿二田子孝家一、田書請二歸路再過一、五月初六又宿二山田里一、而續記未、〉
p.1070 那須湯 なすのゆ 信濃、下野那須郡、神社有り、〈◯中略〉
p.1071 抄に、下野或は信濃也と有るは、ひが事といへども、夫木抄に信濃なるとよめれば、それをよしとせんか、契冲が名所補翼抄にも信濃と出せり、
p.1071 なすの湯 拾遺集〈九卷雜下〉大中臣能宣が長歌に、しほがまの、うらさびしげに、なぞもかく、世をしもおもひ、なすの湯の、たぎるゆゑをも、かまへつヽ、わが身を人の、身になして、思ひくらべよ云々、能宣家集には、たぎるゆゑをも、かまへつヽを、たぎる胸をも、さましつヽに作れり、世をわびしきものに思ひなすに、那須の湯をよせたり、那須は、下野國那須郡にて、今も高名の温泉あり、平治物語〈三卷〉頼朝擧二義兵一條に、九郞御曹司云々、信夫に越給へば、佐藤三郞は公私取認テ參ラントテ留リ、弟四郞ハ即チ御供ス早白河ノ關固テケレバ、那須湯詣ノ料トテ通リ給フ云々、參考京師本に、白河ノ關固テケレバ、那須湯ト云山路ニカヽリテ通リ給フ云々なども見ゆ、さるを夫木抄〈廿六卷雜八〉温泉部に、題不レ知、〈なすの湯信濃〉よみ人しらず、 しなのなるなすのみゆをもあむさばや人をはぐヽみやまひやむべく、とあるより、物に信濃の名所とせるおほかり、和歌名所追考〈百四卷〉下野部に此歌を擧て、初句下野やに作り、異本信濃なるとあり、げに信濃なるは、聞誤にて、下野やの方を正しとすべし、たぎるゆゑをもかまへつヽは、たぎり湧湯坐を構るよしに、故といふ詞をよせたるたるなり、
p.1071 題不レ知〈懷中なすの湯 信濃〉 よみびとしらずしなのなる(○○○○○)なすのみゆをもあむさばや人をはぐヽみやまひやむべく
p.1071 殺生石のある地より七八丁下に温泉あり、湯本と稱し、家二十四軒あり、夏月の間は入湯の人もあるよし、冬月には雪ふかき所ゆへに、入湯する人もなし、此湯至て熱湯にて、此邊硫黄の氣強く、何地獄かの地ごくと稱して、湯の沸上る所多く、さゐの河原といふ所もあり、
p.1072 鹽原の湯泉たるや、人皇五十一代平城天皇の御宇、大同元年臘月の比、獵師これを見出すといへども、千巖天に峙ち、万谷雲に埋み、荊棘を分ち難くして、空しく打過しに、其後小山氏何某と云し人、初て此道をひらき、民屋を立られしと也、按ずるに、古町湯泉大明神の鰐口に、謹奉寄附鰐口、下野州鹽谷郡下鹽原醫王山大權現御寶前、于レ時天文十二癸卯天三月日、鹽原城主小山越前守とあり、此人當地に住し屋形の跡、醫王院の北の方にあり、城跡といひさも有べし、山に添小社貳ケ所有りて、一社は宇都宮明神、一社は春日明神なりと、是屋形の鎭守成べし、引續古家數といふ有家士の住居といへり、何れも境地甚せまし、又旗下戸の上城跡有りて、前に帚川を帶、後に殼堀貳重あり、昔は旗下戸を畑下戸と書しを、小山氏爰に出城を構へてより、旗下戸と出改めしよしなれば、此人の祖此湯泉を開らきしなるべし、
p.1072 湯湖 是は湯元にあり、廣さ凡そ拾四五町に二十町許、 中禪寺温泉 八湯、中禪寺別所より西北に當り、赤沼原を逕、湯元迄三里、日光神橋より六里なり、春も風雪寒威はげしく、三月末迄も餘寒あるゆゑ、四月八日を初として登山し、各湯室を開き初むれども、白根嶽はまだ殘雪多く、五月末より六月に至らざれば浴するものも少し、九月には前山に雪降ゆゑ、九月八日を終として湯室をとじて麓へ下る、日光町方のもの持とす、湯室を開き、日々日光町より米穀園蔬を初め、其餘の諸品を脊負ひ送れり、 河原湯〈甚熱なり、湖水湛る時は熱し、乾く時はぬるし、〉 藥師湯〈第一眼病によし〉 姥湯〈黒苦味(コククミ)〉 瀧湯〈甚冷なり〉 中湯〈熱なり〉 笹湯〈寒暑の濕をはらふ〉 御所湯〈第一金瘡に妙なり〉 荒湯〈熱湯なり〉 自在湯〈平清なり、洪水の時、遣ひ水不自由なる時、此湯にて飯を炊きても匂ひなし、〉 湯平 温泉の浴室九軒あり、毎年始と終とすることは前に記せり、此温泉を開闢せし年代しら
p.1073 ず、九軒の屋作り、各間廣に構へたり、地形は大抵平坦にして三四町程も有べけれど、東寄の山際よりの温液生ずるゆゑ、皆東の山寄に連住せり、西北の方に平坦續けども、少しく低く、古は爰等も一面の湯湖にて有し事ならん、今も蒹葭のみ生ひ茂れり、扨此所より上州沼田領への間道あり、
p.1073 名取御湯 なとりのみゆ 陸奧
p.1073 名取御湯 在二名取上流秋保村一、郷人曰(○○○)二秋保温泉(○○○○)一、相傳古昔勅封之地也、故以二御湯一而稱レ之、 按、御湯二文字、非レ稱二本朝一、中華亦稱レ之、古詩所レ謂、有下御湯搖蕩雙龍影、又是胡兒簇レ馬看句上、
p.1073 をなじ兼盛、みちのくにヽて閑院の王のみこの女にありける人、くろつかといふ所に住けり、〈◯中略〉かくてなとりのみゆといふ事を、つねたヾのきみの女よみたりけるといふなむ、このくろづかのあるじなりける、 大空の雲のかよひ路みてしがなとりのみゆけばあとはかもなし とよみたりけるを、兼盛のおほぎみおなじところを、 しほがまの浦にはあまやたえにけんなどすなどりのみゆるときなき となんよみける、
p.1073 寛延四年、公務のいとまあるころ、城西の秋保村(○○○)にまかりて温泉に浴し侍らんとて、八月三日になんおもむき侍りけるに、中塚氏廣茂のぬしも、同じくまからんとて、草庵に來りていざなひ出ぬ、朝のほどより空くもりて、やがて小雨ふり出ぬれば、雨つヽみなとどかく物して行くまヽに、ほどなく仙府を離れて、村徑田畝に道をもとむ、〈◯中略〉 申の時ばかりに、雨こまかになりぬ、猶空翠客衣をうるほして、よもをのぞむに、朦朧たる中烟り
p.1074 一村立のぼれるこそ、これなん温泉の出る所ならめと、いとうれしくて、とり〴〵道いそぐまヽに、ほどなく行つきぬ、以實、 かりぬべきやどりやそれと夕烟一むら見ゆる山もとのさと
p.1074 佐波古の御湯 さはこのみゆ
p.1074 平より南一里、湯本の町、大概の所なり、此地には温泉數多にて、家々に湯壺有り、入湯せる人も多く、濕瘡毒に功有る湯也、當國名所記に、大納言師氏、 夜とヽもになげかしき身を陸奧の三箱(サハコ)の御湯といはせてしがな 此名の事なるや、未レ詳といへども、外に名づくべき温泉の所なし、
p.1074 さはこのみゆ よみ人しらず あかずしてわかるヽ人のすむ里はさはこのみゆる山のあなたか
p.1074 大納言師氏卿 よとヽもになけかじきみをみちのくのさはこのみゆといはせてしがな
p.1074 今案に、玉造湯、抄にも地未レ考と有、おもふに玉造郷は、陸奧國にあり、玉造河は播磨國に有り、そのほとりのことにや、未レ詳、
p.1074 承和四年四月戊申、陸奧國言、玉造塞温泉石神雷響振、晝夜不レ止、温泉流レ河、其色如レ漿、加以山燒谷塞、石崩折レ木、更作二新沼一、沸聲如レ雷、如レ此奇怪、不レ可二勝計一、仍仰二國司一、鎭二謝災異一、教二誘夷狄一、
p.1074 釜崎温泉 在二八宮以西一、筧取二之山間一、能治二諸證一、是以佗方久病廢疾者、不レ遠二千里一而輻輳、得レ驗而歸者亦多、封内之名湯也、湯舍上有二善遊堂一、
p.1074 青根温泉 〈東北有二古温泉一、曰二女御湯一、〉
p.1075 在二今柴田郡前川村一、温泉乃其地、東面湯舍牖下望レ之、名取大倉山大森館等入二座上一來、屋下設二湯舍一、東西六間、南北二間有半、板二其半一、下廼湛湯之處也、其上頭可二二間一、有二温泉一而涌二出於山間一、自レ是設二木筧一、長短四架、其二長筧直達二舍東一而流落、左右短筧亦令三其落二湯舍一、又去二湯舍一二間許、有二土橋一、令三木筧通二于橋下一、而至二下流一、又去レ此可二三間一、自レ玆別設二長筧一、横二三架一而旋レ之及レ下、湯舍方四間、其筧流噴吐而落二舍下一、病二頭風一者受レ之、則忽得二其驗一、自二泉流一至レ此凡二十間、又自二坐下一設二小廊一、至二湛湯舍一、此處禁二雜浴一而不レ許焉、其下乃衆人群集、雜浴惟多、
p.1075 湯刈田〈山北有二温泉一〉 山岳尤峻嶮、荒栗、大森、大刈田、甘塚諸山相並、其北有二温泉一、能治二瘡毒癩病等一、仍謂二之湯刈田一、
p.1075 なるこのゆ 陸奧
p.1075 啼兒(ナキコ)温泉 〈郷俗作(○○○)二鳴子字(○○○)一非也(○○)、須レ考二之事實一、〉 在二啼兒(ナルコ)村一、自二岩畔一出、克治二瘡疾一、其下亦有二温泉一、此地也、相傳、往昔義經北行、夫人開二胎于龜毀坂(カメワリサカ)一、仍辨慶養二之笈中一、來二於玆地一、始出二呱々聲一、故後人號二啼兒一、温泉在二其地一、神名帳所レ謂、温泉神社是也、
p.1075 南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る、小黒崎、みつの小島を過ぎて、なるこの湯より、尿前の關にかヽりて、出羽の國に越えんとす、此路旅人稀なる所なれば、關守にあやしめられて、漸として關をこす、
p.1075 大湯は町にて、温泉四ケ所に在り、湯の出る處は各違ひあり、二の湯は疝氣中風によし、殘る二ツは濕毒によし、何れも功ありと見へて、入湯せる人も數人有しなり、〈◯中略〉大湯村より西北十和田山の山陰に方三十七八町の湖有、〈◯中略〉すべて此邊の山中には熱湯の湧所多しといふ、何れを聞ても硫黄湯なり、
p.1075 淺虫、御晝休になる、此所は、青森より三里といへども、大に遠く、此地海濱にのぞみ
p.1076 て温泉有り、至ての熱湯にて、湯壺より流れ出る湯川々へ落て、湯氣の立上る事烟のごとし、すべて津輕の地には、温泉あまたにして、別て岩城山の麓に多く、何れも上方中國筋の如く、功能のある湯にはあらず、
p.1076 上ノ山、此所は御城主松平山城守侯三万石、市中大概の所なれども、皆々草葦板家根にて見苦敷、町の中に温泉あり、湯涌所は町の西にありて、夫を筧を以て家々へ取て、湯壺に入て入湯する事なり、熱湯にて臭氣もなく、さして功有湯にはあらず、疝癪によしと云、
p.1076 上之山之温泉 同國〈◯出羽〉上の山宿の温泉は、後の御城山より涌いづるといふ、此所のはたごやの中村喜兵衞といふ内に湯治場と名づけて、石にて築たて、三間に貳間ばかりの湯溜あり、尤座敷奇麗にしてよき宿なり、諸病よきとて、湯に入る人多くあり、旅人は晝はたご錢を出し、滯留して湯治するも見ゆ、また表のかたに屋根をしつらひ、五間に貳間餘の湯ぶねありて、往來の人の勝手次第に入湯して行と見へたり、此宿の入口は、坂にて家作いづれもかけ造にして、茶屋五七軒もあり、風景よき所なり、東の方はるかに大山みゆる、
p.1076 吾妻が嶽の北方、羽州分に高湯と稱せる温泉あり、到ての熱湯なり、此湯中へ諸の木を入置ば、五六年の間には化して石となる、又熱海中に蟲を生ず、土人湯の蟲と稱す、湯上を走りめぐる、此蟲を取て服すれば、癪氣治せる妙藥なり、夏の内入湯のもの多し、湯に水を汲入て入る事と云々、
p.1076 人のやまひをいたましみおぼしめし、御手當の下る事は擧てかぞへがたし、其二三事を擧て、其餘は推て知べし、何年の頃にや、御手水番坂二郞右衞門勤仕、かヽる程にはあらねども、何とか色さめ氣鬱して、虚勞の症にも成なんかとみへし程の事あり、是等の病は旅出に氣を慰め
p.1077 て快氣を得る事其例多くあり、此事をおぼしめしけん、最上〈羽州最上郡〉の高湯へ湯治せよとの御内意下り、願書出し、御例のごとく三回二十一日の御暇にて湯治せしに、纔の日數ながら、果して旅中より氣力すヽみ、全快を得て歸りし、〈御家中の諸士、私の旅出叶はぬ事ながら、最上の高湯三回の御暇は、昔ゟ其例も多くあれば、人々高湯湯治の云立にて、高湯には纔一二夜も逗留し、餘の日數にて出羽の熱海、象潟、奥州仙臺、松島なんど見物する事也、是元より上を欺奉る、不屆の事ながら、昔より御宥恕の思召も有けらし、歸湯の上松島の絶景のふけりも人とがめず、おほやけにも御糺なきほどの事に成來りければ、所所慰遊せよとこそのたまはね、畢竟の所は、夫がための思召なりけるとぞ、〉又安永四年の事なり、予兼て壯健の生れながら、頭痛に泥む事他に越たり、此事有がたくも御憂おぼしめし、山上白峯(ヤマカミシラフ)の高湯の、頭痛にしるしある事、人々の唱ふる處、又其驗もおほし、其方が不如意中々自力にてはむつかしからん、手傳ふてやる、湯治せよとの御事にて、小判などたまはり、湯治せし事あり、斯る有がたき湯治なれば、晝となく夜となく、ひた入にあまたヽび浴して、湯瀧に頭をうたせしかども、其後折々はげしき頭痛の發りしは、殊にはげしきやまひなるが、きくときかぬとの人にもよるか、又湯氣に酒氣を勝たしめしゆへか、恐て恐るべき事になん、然ども今年天明九年迄、指を折て十五年なるに、三四年來は希に發る事ありながら、曾て深き泥もなしおもへば湯治のしるしなるか、老には病の漸々に薄らぐか、抑君徳に浴せししるしなるべし、
p.1077 今神の湯 出羽國最上郡新庄の戸澤侯の領内に、温泉五箇所ある中に、今神の湯には、熊野神社ありて、入湯の男女晝夜狹き所におしこり居る故に、密通する者あり、人の金錢を盜みかくしおく者あり、さる時は、いづくより來るらん、蛇出でヽ密通の男女へまとひつき、盜み隱したる上に蟠り居て、忽に露顯する故に、人々あつまりてさるをこの者は、早くふもとへおひやらへりとなん、をしへ子なる諏訪光忠が委しくしりてかたれり、
p.1077 一湯濱温泉
p.1078 湯の濱村、海邊也、大山より一里に足らず、夏月湯治のもの少々有、小瘡に尤効あり、
p.1078 温海嶽熊野權現 麓に温泉有、名湯にして、頭痛、眩暈、上氣、消渇、痰、打見、脱肛、下血、脚氣、淋病、小瘡、瘡毒、灸瘡、婦人血道を治す、血痰は血積内障外障風等には忌む、或いふ、嶽に祭る熊野權現は、延喜式神名帳に載る田川郡由豆佐の賣神社也と、故に去秋彼地に行て舊記等を乞求るに、寶永元年、領主の御尋有て、書上たる趣を開板したるもの有、其文にいふ、後堀河院御宇嘉祿二年、温海鳴動し河水波立たるを、時の人しらひてと呼けるとぞ、其内に温泉涌出しに、小聖上人藥師如來を安置し給ひけるに、万の難病を助おわしまさんと誓有て、奇瑞さま〴〵なるよし云傳へけるに、今も違はずと云々、外に村肝煎等連名にて書上たる控有、夫には嘉祿二年四月二日、温海嶽鳴動し、河水波立たる時、白髮たる老人呻給ひける、其中に温泉涌出しと有、上人藥師安置の趣はいづれも同じ、連名の上に温海嶽は藥師と有、世人入湯の中、湯屋にて念佛を禁ず、又嶽參詣にも念佛を申さず、正面の湯と云より、四五間上に地藏湯といふ有、熱湯にして野菜茄を其湯の餘を石盤に溜て、村中洗濯湯とす、湯の上に石檀を設て禿倉あり、土人地藏堂といふ、同村東の山際に藥師堂有、本尊の左右に十二神將あり、享保元年に鑄たる鰐口あり、湯藏大權現堂主温泉山長徳寺と彫刻、寺等禪寺にて堂の左にあり、四月八日は講ありとて、古來は濱温海村永叔寺といふ寺家別當たりしとぞ、長徳寺に縁記ありとはいへども、一覽を許さず、或言、近年鶴岡の家中にて出しと云湯藏權現と稱するを見れば、湯の守護神を祭、藥師を本地佛と寺家の稱したるより、檀上に佛像を立並べ、神號を鰐口に湯藏權現とばかり殘りしにや、又村老の話に、湯の邊に祭る所の地藏といふは、則湯藏權現にして、樂師を湯藏權現といふは、享保以來の事にして湯藏を地藏と轉訛せしにや、熊野權現には社家一員、修繕四家あり、
p.1079 湯温海といふ所は、海濱より十七八町も山分に入、此町は中々よき所にして、温泉ありて家ごとに湯つぼをして、旅人を入る事也、倡家數十軒、一家に三十人も四十人も賣女の居る事なり、いづれの所より此所へ遊びに來る人のある事にて、賣女の多き事にやと尋るに、功ある温泉にて、入湯せるものも數多にて國中よりも集る所といへり、町の上には巖々たる山計、古人湯温嶽と稱、山の風俗至てよし、
p.1079 湯原と云る所は、街道筋にして、百軒計のよき町にて、温泉十六ケ所、家々奇麗に湯壺をして、旅人を入らしむ、さして功ある湯にはあらず、上逆の症疝氣によしと云々、
p.1079 慶長八年九月三日、二位卿〈◯吉田兼見〉女房衆、加州山中之湯ニ御越、拙僧モ可レ有二同道一之由候間、俄罷越、 八日、金津宿〈◯越前坂井郡〉ヨリ加州之内、山中湯宿〈◯加賀江沼郡〉ヘ付ヌ、其日ヨリ二七日ノ湯治也、十二日加州山中湯宿、藥師硫黄寺へ參詣、 廿二日、二七日之湯治、日數相濟ニ依テ、越前ノ北莊マデ上リ也、
p.1079 山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ、左の山際に觀音堂あり、花山の法皇三十三所の順禮とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付け給ふとや、那智谷汲の二字をわかち侍りしとぞ、奇石さま〴〵に、古松植ゑならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり、 石山の石より白し秋の風 温泉に浴す、其功有馬に次ぐと云ふ、 山中や菊はたをらぬ湯の匂
p.1079 山田谷 温泉有、諸瘡并打身を能く治す、
p.1080 關山 關山之驛ヨリシテ猶行程三里、山ニ入、妙光山之北之別峯ノ腰也、假令屋ノ旅宿也、万事艱難、遊興之品曾テ無レ之、調度器物等又無レ之、 温泉主治、中風、手足不遂、筋骨攣縮、頑痺、疥癬諸病、在二皮膚骨節一者、痔疾、 温室之有所、山ノ岨甚狹地ニシテ、余慶無レ之、凍等(ユウタチ)急雨洪水之日押流サルヽ事間有レ之、人ヲ損ス、雖レ有二奇効一必不レ可レ行、難事不レ可レ知二何時一、可二愼怖一、
p.1080 大湯 上田郷藪神庄 温泉、大湯村ニアリ、サナシ川ノ端也、凡居家十二軒、尾上ヲ町場(テウバ)ト云、昔日白峯ノ銀山盛リシ時ニ、爰ハ邊邑(タニサカイ)、銀山迄八里、人跡無レ之、万荷物付上、銀鉛ノ付下、驛舍ノ要所ニテ甚賑ヒケリ、 温湯ハ下町川ノ方ニテ、浴人ノ旅店有、湯守櫻井利兵衞、則村之長也、温泉ノ權輿不レ定、 浴料留湯三百七拾五錢、日數ハ幾日ニテモ、總湯百銅、同幾日ニテモ、總湯ニテ油代毎夜一人一錢宛、座敷代一夜百銅、木錢共ニ定法也、然運上ヲ貢、又湯之谷ノ村里配分シテ割取也、 此當リ駒ガ嶽不レ遠、雪厚ク嚴寒耐ヘ兼ルニ、湯本ハ雪モサノミ不レ多、三冬ノ日ニモ鈍寒暖也、此所モ賤地不自由ニテ、小出島ノ市場ニテ用事ヲ達ス、然レドモ松之山ニハ遼勝レリ、〈◯中略〉 温室總長屋作リ、南ノ端一間圍テ、六尺方ノ壺有、深サ座シテ鳩尾ノ當リ、瀧有、是ヲ留湯ト云、出入ノ扉ノ鍵ニ札板ヲ付テ、姓名ヲ印シ、順番ニ入、留湯ニ入ル人、總湯ニ入コトヲ不レ禁、其次ニ總湯、槽方六七尺ナル三ツ有、一ツノ壺ニ瀧有、共ニ晝夜貴賤入籠ルナリ、北ノ端ニ三間構ヘテ、惡瘡ノ入所トス、又村ノ後サナシ川ノ崖岨ヘ、湯ヲ筧ニテ廻シ下シテ、瀧ヲ作リテウタルヽ也、凡温泉清潔ニテ、甚熱ク、水ヲ加ヘザレバ入難シ、水ヲ交テモ清シ、 羽州温海ノ温泉、嚴ク熱ク清シ、水ヲ加ヘケレバ濁リテ淡白シ、 有馬ノ温湯ニテ幕ノ湯ト稱ス
p.1081 ルハ、温室ニ幕打テ、其人獨浴シ、外人ハ皆揚テ不レ入、幕代銀子一枚也、爰ニテ留湯ト云ガ如シ、主治、中風折傷、打身、疝氣、脚氣、痞積、疥癬、小瘡類、楊梅瘡、癩風、
p.1081 但馬國の城の崎のいでゆ 増鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覽じにとておはします、それより但馬のきのさきのいで湯めしにくだらせ給ふとあり、此温泉そのほどより名高かりけむ、
p.1081 湯島 城崎郡湯島なり、昔は島にて有といひ傳ふ、今此邊新田多し、南より北へ流るる川の端に船著場有、町は少西へ引退きてあり、町中に西より東へながるヽ小川有り、此川上は、竹野といふ所の嶺の麓より落ると也、湯壺も町の家々も、皆此川を狹みて兩方にあり、此川末にては落あひて、津井山田井村の間より北海へ落る也、此川筋、昔ば海にて有しにや、觀音浦、笹の浦、むすぶの浦、二見の浦などいふ所、皆此川上なり、〈◯中略〉 新湯 一の湯二の湯と分て二つ有、是下の町の入口にある湯なり、湯熱くして湯の勢つよし、隔日にして、今日は一の湯をとめ湯にして二の湯を入こみにし、又明日は二の湯をとめ湯にして一の湯を入こみとす、 切に幕は仕舞て、夜は一の湯二の湯男女をわけて入こみとす、爰の湯は有馬のごとく湯壺の底より沸にあらず、一の湯のわきに湯口といひて、岩の下より沸出る也、それをとひを仕かけて、一の湯二の湯へとるなり、此湯口のゆを汲取て、所の者の朝夕つかふ湯とす、湯は甚あつくきれいなり、されど鹽はゆき故に、飮食には用ひがたし、近年爰の湯をもてはやす事、京都の醫師後藤左一郞、此湯の諸病に効有事を考て説廣めしゆへに、畿内より初めて諸國に聞傳へて、入湯の者多し、後藤氏が説にも此新湯を第一に稱して、此湯は氣血をめぐらし、運動して鬱滯を解の功あるゆへに、諸病に効ありと云々、又日によりて湯のあつき時は、外より川の水を汲て、といにて仕かけてぬるくし、又ぬるき時は、湯口の鏨をぬきて、湯をしかけて熱くする
p.1082 也、又是より上の湯には、湯壺の底より沸もあり、 中の湯 二つあり、俗に瘡湯と云、これは一切の瘡瘍の類を早く愈すゆへなり、わきて楊梅瘡を煩ふ人のみを、此湯へ入るといふの名にはあらず、中比京都の醫師賀來道節、津田幸庵は、此湯に心をよせて、此湯瘡類ばかりにあらず、諸病によろしと稱美せられしゆへに、其比湯治に來る者は、多く此湯に入しと也、されど近世後藤氏の論には、瘡疹の類も、早く愈すは宜しからず、唯新湯のよく氣血を調和し、瘡瘍のをのづからいゆるにしく事なしといへるゆへに、新湯に入者多し、上湯 一つなり、中の湯の上に並びてあり、これは所の者の洗足の湯に用るなり、總じて此所の者は、平常の浴にも温泉を汲でつかふゆへに、所に風呂居風呂の類希にもなし、此邊は皆下の町にて、上の町は、間に野道の民家を隔て、又一筋の町あり、下の町、温泉の左右皆客舍あり、大津屋、井筒屋、油屋、板屋など云能家十軒ばかり、その外は小家也、總じて湯島の町の能家といふは、皆下の町にあり、
p.1082 但馬國の湯(○○○○○)へまかりける時に、ふたみの浦といふ所にとまりて、夕さりのかれいひたうべけるに、共にありける人々、歌よみけるついでによめる、 ふぢはらのかねすけ 夕づく夜おぼつかなきを玉くしげ二見の浦はあけてこそみめ
p.1082 康治二年八月七日辛卯、參二宇治一、但馬湯御下向留了云々、
p.1082 このおなじころ、安嘉門院、丹後のあまの橋立御らむじにとておはします、それより但馬のきのさきのいでゆめしにくだらせ給ふ、爲家の大納言、光成の三位など御供つかうまつらる、
p.1082 慶長九年五月七日、清須下野主、但馬エ湯治、
p.1083 慶長九年五月十日庚申、倉部等同道、大津ゼヽガサキマデ被レ行候、下野殿、但州湯治ニ御出也云々、迎ニ罷向、今日ニテハ無レ之云々、
p.1083 秋の山見にとにはあらで、此三年が間、足曳のやまひに罹づらひて、世のわたらひも何もはか〴〵しからぬ、斯るを、昔は但馬の城の崎の温泉に効驗見しかば、此度も亦思し立るを、後りに立て來る人も、年比深うそみし事あればともにとて、はヽそ葉の仰せのまヽに召連るヽなりけり、長月の十日あまり二日といふ日首途す、〈◯中略〉 扨故郷出でヽ七日と云に、志す所に來たる、なやと云所より輕ま舟もとめて漕れ行く、此間山も川も舊見したヽずまひながら、昔は春山の霞こめたる空の氣色も、己が齡も最若かりし程なりき、今や二十年經し心には、朝立つ河霧の覺束なさヽへ添ひて、古きを忍ぶ涙ぞ、秋の時雨めきたる、江山皆舊游と誦んじつヽ行く、古へ堤の中納言の爰に浴すとて來られし時、夕月夜おぼつかなきをと詠みませし二見の浦は、此わたりと云を聞て、或人、 けふ幾日とりも見なくに玉くしげ二見の浦のあさあけの空
p.1083 六月〈◯享和元年〉十日、城崎郡湯島〈豐岡より是まで三里〉御公領にて、久美濱の御代官所に屬せり、さて此所は一筋の町にて、町の中通に細き溝川あり、上の町、中の町、下の町、合せて人家二百五六十軒、宿屋大小合せて十軒あり、下の町井筒六郞兵衞を大家ときヽて、尋ね入て滯留の宿と定む、家の入口より奧まで、樓上樓下合せて室の數三十に餘れり、さて一室に入て休み居るに、暑氣なうして冷然たり、土地北海に近く、其上山谷の間なればなり、 十一日、巳刻過より曇天になりて、未刻過より雨ふりいでぬ、此所に諸國より湯治のためにきたれる人多けれど、邊國僻地なれば、游觀のために託來るはまれにて、實病の人のみ多ければ、自らしめやかにして、華々しき遊び業もあらず、有馬などとは様かはれり、湯治人旅宿旅籠の價一日二匁なり、朝と未刻頃に茶漬を出し、
p.1084 晝と夕に本膳を出す、又座敷を借るのみにて、食物を自調るもあり、室代一廻三匁にて、米、味噌、薪、其外の諸物、皆宿に出入する商人通ひにて入るなり、又焚出しと稱するあり、其は米を自とヽのへて、宿に付して日に二次焚出さしむ、さすれば宿より一汁一菜をつけて出す、かくて一廻の代一匁五分、座敷代に合せて四匁五分なり、〈◯中略〉温泉すべて五所、一には新湯、下の町の入口にあり、清潔にして甚熱し、一の湯二の湯と二つに隔なせど、同じ泉なり、功能血を運し、胎毒瘡毒を追出し、創傷などは一旦うみてのち癒るなり、二つには中の湯、あしき匂あり、甚ぬるし、腫物切疵の類癒ること早き故に癒湯といふ、されども毒氣を追込故に、程もなく再發するとぞ、三には常湯、四には御所湯、五には曼陀羅湯、此三つ大形あら湯に同じ、曼陀羅湯は此所の温泉の始めなりといへり、外に殿の湯は平人をいれず、非人湯は非人のみ浴なり、さて此地の名物として、賣物は、麥藁細工、柳行李、湯の花、海苔等なり、さて此所にも銀札通用す、十匁より一歩まであり、錢は九十八文を以て一匁とす、此地北海を隔る事僅に一里なり、されば魚類多くして價甚賤し、
p.1084 枕草紙に、温泉の名どころあつめたるところに、玉造の湯、春曙抄に、其地未詳とあり、家翁、出雲の太守より、彼國産玉造といふところの石を賜りぬ、かの國の門人いふ、其地山川清雅にして、温泉ありて、隣國よりも、病客あつまりゆあみしぬとなん、清少納言は博聞にて、國はしの名どころもくはしかりしぞとおぼゆ、
p.1084 忌部神戸郡家正西廿一里二百六十歩、國造神告調望參二向朝廷一時、御沐之忌玉、故云二忌部一、即川邊出レ湯、出湯所レ在兼二海陸一、仍男女老少、或道路駱驛、或海中沼洲、日集成、市レ繽紛燕樂、一濯則形容端正、再浴則萬病悉除、自レ古至レ今無レ不レ得レ驗、故俗人曰二神湯(○○)一也、
p.1084 湯野小川、源出二玉峯山一、西流入二斐伊河上一、通道通二飯石郡堺漆仁川邊一廿八里、即川邊有二藥湯一、浴則身體穆平、再濯則萬病消除、男女老少、晝夜不レ息、駱驛往來、無レ不レ得レ驗、故俗人號云二藥湯(○○)一
p.1085 也、〈即有二正倉一〉
p.1085 海潮 海潮とは古老傳曰、宇能活(イク)比古命、祖次義禰(ミヲヤスキミノ)命を恨て、北の方出雲の海潮を押止て、御祖の神を漂す、此に海の潮至るゆへに得レ鹽と云、神龜三年に、字を海潮と改む、即東北須賀小川の湯淵村中川の温湯あり、同川上も間林川中に温水出、得鹽の社ありと記せり、今も海潮の湯ありて、瘡疥(カサカユカリ)痲痺の類を患る人行て沐ぬ、
p.1085 〈しまねのみゆ未國〉 神祇伯顯仲卿 よとヽもにしたにたぐひはなけれどもしまねのみゆはさむるよもなし
p.1085 文化十とせ癸酉といふとし二月二十二日、石見國温泉津におもむく、さるはおのれ、〈◯篤考〉この六とせばかりさき、脚疾を憂てあしなへふむことあたはざりしを、幸に醫藥効ありて、ひととせばかりをへて本腹せしが、去年の冬又再發して歩行むつかしく、官途こヽろにまかせねば、かの温泉に入治すべく、此春君に願奉り、往來五十日の御暇たまはり、さて思ひたちけるなりけり、〈◯中略〉 廿六日、午前温泉津に著、宿甲屋又左衞門奧なる一間をかりきりのすみどころと定む、温泉は前なる山手の湯屋新左衞門といふ者の家のうちにありて、鍵温泉、おとしゆ、入ごみとわかつ、おのれは鍵湯に浴す、かぎ湯といふは、ゆの門に錠をさして、入浴の度々鍵をもち行、錠を明て入事なり、おとしゆもそのこヽろなり、〈◯中略〉 廿七日、けふより浴度先日に四度と定む、すべて浴度のおほきはいむ事にて、強人五六度、弱人二三度に過べからずといふ掟書あり、されどはじめは度數すくなく、追々に増はよしといふ、〈◯中略〉 此家のあるじ又左衞門話に、此温泉の濫觴いつの事に侍るか、一疋の兎來り、足をいためるやうすなるが、三七日が間此温泉に浴し、平愈せし趣にて飛去けるを、わが先祖見つけて、はじめて試
p.1086 けるに、かたの如くの効驗ありて、おひ〳〵繁昌しいでけるよし、又そのかみ、此ところの家とては、今の湯本新左衞門が先祖と、わが家ばかりなりけるを、此温泉のわき出ける場所新左衞門が土地なりけるをもて、今にかれを湯本とし、年々元日にはわが家より入初をする作法に候を、かの證據と申傳侍る、わが家十三代このかたの事は、いさヽかの由緒も候が、以前の儀は、湯本にもわが家にも、その外にさだかなる書付も候はず、さて又この温泉の効驗のいちじるき事は、あげてかぞへがたきうちに、旣に去年の事にて、是より四里ばかり奧なる福原と申在所に、次郞と申百姓十八九にも候はん、風毒をやみけるのち、足のすぢ攣急してのびざるに、同村の人あはれみ、牛にのせてわが家へつれ參り入湯せしむるに、四五日をへて足のび、杖にて温泉へ通ふほどになり、おひ〳〵全快して、つひに歩行にて山道を蹈て歸り候が、ことしもその禮にとてまゐり候、その外まのあたり奇妙なる事ども、常々見るゆゑ、醫心も候はヾかきつけおき候はんに、短才不文くちおしくさふらふといへり、
p.1086 かつまたのみゆ 美作〈壬生忠見集〉 藻鹽草に美作と有、類字名所に出さず、勝間田池のみ有、その下に云、八雲之御抄、辨範兼卿五代集歌枕下總國云々、仍當國載レ之、清輔抄美作云々、彼國有二勝間田郡一、其所歟、可レ決レ之、 今案に、八雲御抄に此湯なし
p.1086 家集〈かつまたのみゆ、勝田、美濃、◯美濃恐美作誤〉 忠見 とのやまや道のかぎりとおもへどもかつまたのみゆとほきなりけり
p.1086 牟婁温湯 紀伊國牟婁郡歟
p.1086 武漏温泉 むろのいでゆ、紀伊、武漏は、和名抄に、紀伊國牟婁郡〈牟呂〉と有り、又郷名の内にて、牟婁〈無呂〉と有り、
p.1087 湯崎温湯 在二牟婁郡鉛山村一、〈俗云(○○)二田邊湯(○○○)一〉 山上有レ堂 本尊藥師〈木像〉温泉有二四口一、其湯床似二藥師佛像一、一枚盤也、
p.1087 十四年四月己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不レ出也、
p.1087 温泉 湯崎温泉ノ名 礦(まぶ)ノ湯 濱ノ湯 元ノ湯 屋形ノ湯 崎ノ湯 粟ノ湯 目洗ノ湯 本宮温泉ノ名 湯ノ峯 舊(もと)ノ湯 上ノ湯 河ノ湯 湯崎湯治記ニ曰、入湯の度數七日を一回りとす、湯治ノ初日、惟一度浴すべし、次ノ日二度浴、第三ノ日ハ三度浴ス、四日目ハ晝二浴夜二浴、合セテ四度入湯而止、第五日目よりは一浴を減、晝二度夜一度、三浴して可なり、六日目ハ晝一度浴シ夜一度浴、兩度而止、終ノ七日目は初日の如し、唯一度浴、是此入湯一回りとする也、蓋一回の内、度數の増減如レ此ならざれば、湯治の驗なきのみならず、大に其人に害あり、可レ愼、凡此度を過すときは病にあたり、却て養生の妨をなす、湯治の日數は、幾回すとも宜かるべし、但此説は湯崎浦ノ村老の示を述のみ、他方ノ温泉湯治の心得は、各又別に口授有べし、 房子湯崎道の記に、礦(まぶ)の湯はあつくして、内を發して病を愈す、積(しやく)つかへ、鬱熱の病によし、崎の湯も大方是に同じ湯あつし少しはげし、冷一切痔疾腰下の病をなをす、濱の湯は和らげ、諸病にきく、幾度入てものぼせる事なし、屋形の湯は積をなをし疷(きづ)をいやす、金瘡に殊によろし、愈すことの早をもて、終の湯といひならわす、初のほどはさしひかへてよしといふ、元の湯はぬるけれども、是を湯崎の根元とす、大病人ゆる〳〵入て養生すれば、諸病まつたふ愈ざるはなし、別して瘇物に宜しきゆへ、瘡の湯といふめり、粟の湯はのぼせに吉、足をひたせば上氣の病すべてなをる、六ところ湯の外は、眼病を治する湯あり、遠はなれたる荒磯の岩間より細く流れ出る、眼を洗へ
p.1088 ばはつきりとせし、熱目なぞは極めてよし、さるは女のさしいでたる、かヽるあやしのすヾろごといわずともと思へ共、所の翁の物語をきヽ、湯の功能を世に示さばやと、ゆく〳〵湯治の人のために、筆のすさみに書とヾめ侍る、
p.1088 海内温泉不レ可二勝數一、其最顯二於古一者、莫レ先二於豫之熟田津、攝之有間、紀之牟漏一、牟婁温泉尤多、其有名者二焉、曰湯埼、曰湯峯、古史所レ記泛言二紀温泉一、不レ斥二其地一、故世或疑焉、書紀齊明天皇四年冬十月、帝幸二紀温湯一、先レ是、有間皇子來浴二牟婁温湯一、歸奏曰、其地勝絶、纔渉二其境一、病自蠲消、帝聞レ之而南巡之意決矣、帝之幸也、皇太子亦從レ駕、即天智帝是也、又書紀持統天皇四年九月、天皇幸二紀伊一、又續紀文武天皇大鳳元年九月、太上天皇幸二紀伊國一、冬十月、車駕至二武漏温泉一、蓋此時二帝相偕幸焉、而持統帝則併レ前兩回、萬葉集所レ載亦足二以徴一矣、然則此地温泉之美、海嶽之勝、所レ稱二於古一者、其將奚疑、今村中相傳、稱二御船谷御幸芝一者、乃臨幸之遺蹤云、蓋茲地横二出於瀛海之中一、偃蹇蟠屈、如二臥龍奔虵一、北與二田邊城一相對、面二勢海灣一、灣大十有餘里、其間蒼顏秀壁之削立、曲浦長洲之聯亘、漁村之點綴、島嶼之碁散、異態詭峯、状不レ可二縷形一、憑高望之恍、如レ入二僊都一、其遠望則峻嶽疊峯、濃淡分彩、而聳二拔於雲表一、大瀛萬里、眇無二際涯一、賈帆商舶、往二來出三沒於風濤煙雲之中一者、一擧目而足矣、誠海南之壯觀也、有馬王蠲レ病之言不レ虚矣、今温泉五焉、曰元湯、曰屋形湯、曰濱湯、曰埼湯、曰摩撫湯、故老相傳、元湯最舊古之所レ用信矣、余聞二之醫一、曰温泉説、本艸以下皆未レ盡、獨稻若水、香太冲所レ論確當、其言曰、凡地有二火脈一有二水脈一、二脈相交則成二温泉一、其性極熱、觸レ物則變、又曰、温泉必生二硫黄一、蓋温泉之滓也、按茲地故稱二鉛山一、以二地出一レ鉛也、鉛之爲レ性甘寒無レ毒、極熱觸レ之、相和且無二硫黄氣一者、其由レ斯邪、夫物之峻烈、取レ効雖レ速、其害亦多、其唯温柔和煦足二以奏一レ功、無レ有二後害一、所二以爲一レ貴也、昔時聖駕相繼臨幸、得レ非レ爲レ此耶、若乃助レ氣温レ體、通二壅滯一、利二關節一、解レ結、發レ痼、愈レ瘡、諸如レ此之類、皆此湯所レ驗、而四方來浴者、各宜二自得一焉、況有二奇偉秀絶之觀一、交相輔以蠲レ病如二有間王所一レ稱乎、此皆不レ可二以不一レ知也、余奉レ命巡二省此地一、邑長某來請曰、吾邑温泉貴二於天下一、最顯二於古一、願記二
p.1089 其事一、俾二來浴者有一レ考焉、於レ是乎書刻二之石一、 天保壬辰歳孟冬 仁井田好古撰
p.1089 温泉 熊野湯ノ峯ノ温泉、世所レ謂眞熊野湯是なり、温泉論曰、紀州湯峯温泉、其色皎潔、其味微鹹而甘、頗有二鐵臭一、其氣極熱云、湯ノ峯藥師堂五間四面、豐臣秀吉建立、藥王山東光寺と稱、本尊藥師佛は、昔温泉の泡凝而成レ石、色黒し、其化石をもて藥師如來の坐像に造る、往古は此藥師の胸ノ間より温泉涌出なり、右ノ胸ノ間湯ノ穴一ツ、御光の内湯穴二ツ有レ之、温泉四坪、みな筧にて湯を引、東光寺の庭ノ内、東の方巖穴より湯涌出を筧にて取レ之、上の湯と稱す、不斷留湯なり、温泉湯口は熱氣甚強く、近邊湯煙立昇りて、霧の如く空曇時は尚甚し、湯口にて食物を煮、或は白米を布袋に盛て湯口に浸置ば、暫時飯と成、但諸物の内に大根ばかりは煮ても難レ煮といふ、其理は得會しがたき耳、
p.1089 〈まくまのミクマノ同事也紀伊〉 俊頼朝臣 まくまのヽゆこりのまろをさすさほのひろひゆくらしかくていとなし
p.1089 〈ましらくのうらのはしりゆ紀伊〉 仲實朝臣 ましらくのうらのはしりゆうらさめていまはみゆきのかげもうつらず
p.1089 伊豫温泉 いよのいでゆ
p.1089 いよのゆげたも、たど〳〵しかるまじうみゆ、 伊與のゆのゆげたはいくついさしらずや、かずへずや、かずへずよまずや、そよや、君ぞしるらんや、〈雜藝、伊與湯、〉 温泉記云、豫州温泉者、其勝冠二絶於天下一、其名著二聞人中一矣、纍々出レ自二山頭一、潺々迨于海口一、中底白砂潔、四隅青岸斜、朝宗是幾許、辭レ海二三里、觀二其温泉一、上下區以別焉、以下卒二貴賤一不中混誑上故也、上則構二廊宇一、開二
p.1090 戸牖一、其裏備二屏息居閑之具一、下亦左岩右岸、樹二其間一虞(ソナ)二陰(ヘタリ)風陽日之氣一、由レ是來者無レ憚、浴者有レ便、〈以下依レ繁略レ之〉與州あをしまの渡の潮中にあり、湯のまはるけたのかたち七なみ、七十七段也、 〈風土記〉けたの數五百三十九歟云々、〈素寂説〉
p.1090 温泉 道後山の麓に在り、往古は熟田津石湯といひけるを、いつの頃よりか道後の温泉と云、此道後と云事は、平家物語、源平盛衰記等に、道前道後の境なる高繩山とありて、山西をすべて道後といひけんを、松山といふ城下の名におほはれて、今は温泉の邊の名とのみなりぬ、此温泉は神代より始りて、代々の帝王行幸せさせ玉ひし事度々なり、功驗他の温泉にまされば、浴する人千里を遠しとせずして此湯につどへり、昔は幾所にも涌出て、其湯々に湯桁といふ物を架して浴たりと見えて、六花集に、 伊豫の湯の湯桁の數は左やつみぎはこヽのつ中は十六 新葉集に 神さぶるいよのゆげたのそれならでわが老らくの數もしられず 源氏物語空蝉の卷に、いで〳〵およびをかヾめて、十はたみそよそなどかぞふるさま、伊豫の湯桁もたど〳〵しかるまじう見るなどあるをおもへば、かならず一所にはあらざりけむ、〈◯中略〉 されど今は一棟にて上中下の三等に分てり、又養生湯とて、三所の湯の流をつる所を一處に湛たり、少將定行朝臣の建立し玉ひし也とぞ、〈◯中略〉俚諺集云、慶長十九年十月廿五日大地震、湯沒して出ず、其後湯神社前に神樂を奏し、祈て湯湧出る事舊の如し、貞享二年十二月十日大地震、泥湯湧出、後に清湯と成、寶永四年十月四日讃州大地震、温泉沒して不レ出、仍て湯神社に於て神樂を奏し、社造補あり、玉垣おし渡し、朱鳥居建立、道後町中より千本の神木を御山の麓に植、玉石に假殿
p.1091 を營み、奉幣祈念怠事なく、翌年正月廿九日、凡百四十五日を經て涌出、四月朔日より舊の如く浴する事を得たり、是より靈泉いよ〳〵新に妙驗古に倍したり、又安政元年十一月五日、申中刻過大地震、温泉沒して不レ出、例に依て湯神社に神樂を奏して祈念す、翌年正月末より涌始て、二月末よりぬる湯となり、三月末に至え再舊の如し、
p.1091 故其輕太子者流二於伊余湯(○○○)一也、亦將レ流之時歌曰、阿麻登夫(アマトブ)、登理母都加比曾(トリモツカヒゾ)、多豆賀泥能(タヅガネノ)、岐許延牟登岐波(キコエムトキハ)、和賀那斗波佐泥(ワガナトハサネ)、
p.1091 伊余湯、伊余は、上卷に出、湯は、和名抄に、伊豫國温泉〈湯〉郡、神名帳に同郡湯神社あり、此地なり、美き温泉のあるより負る地名なり、〈此に湯と云るは、其温泉のある處と云には非ず、たヾ地名なり、〉書紀舒明卷に、十一年十二月、幸二于伊余温湯宮一、天武卷に、十三年冬十月、大地震云々、時伊豫湯泉沒而不レ出、〈◯中略〉など見へたり、後世まで名高き温泉なり、〈中昔の書どもにも見えたり、今世に道後の湯と云是なり、〉
p.1091 古事記曰、輕太子奸二輕太郞女一、故其太子流二於伊豫湯一也、此時衣通王不レ堪二戀慕一而遣往時、歌曰、 君之行(キミガユキ)、氣長久成奴(ケナガクナリヌ)、山多豆乃(ヤマタヅノ)、迎乎將往(ムカヘカユカム)、待爾者不待(マツニハマタズ)、
p.1091 十三年十月壬辰、逮二于人定一、天地震、擧レ國男女叫唱、不レ知二東西一、則山崩、河涌、諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔、神社、破壞之類、不レ可二勝數一、由レ是人民及六畜、多死傷之、時伊豫湯泉、沒而不レ出、
p.1091 伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命見二悔耻一、而宿奈毘古那命欲レ活、而大分速見湯自二下樋一持度來、以二宿奈毘古奈命一而浴瀆者、蹔間有二活起居一、然詠曰、眞蹔寢哉踐健跡處、今在二湯中石上一也、凡湯之貴奇、不二神世時耳一、於二今世一染二疹痾一萬生、爲二除病存身要藥一也、
p.1091 山部宿禰赤人至一伊豫温泉一作歌一首并短歌 皇祖祖之(カミロギノ)、神乃御言乃(カミノミコトノ)、敷座(シキマス)、國之盡(クニノコトゴト)、湯者霜(ユハシモ)、左波爾雖在(サハニアレドモ)、島山之(シマヤマノ)、宜國跡(ヨロシキクニト)、極此疑(コヾシカモ)、伊豫能高嶺乃(イヨノタカネノ)、射狹庭(イサニハ)
p.1092 乃(ノ)、崗爾立之而(ヲカニタヽシテ)、歌思(ウタシヌビ)、辭思(コトシヌビ)、爲師(セシ)、三湯之上乃(ミユノウヘノ)、樹村乎見者臣木毛(コムラヲミレバオミノキモ)、生繼爾家里(オヒツギニケリ)、鳴鳥之(ナクトリノ)、音毛不更(コヱモカハラズ)、遐代爾(トホキヨニ)、神左備將往(カムサビユカム)、行幸處(イデマシドコロ)、 反歌 百式紀乃(モヽシキノ)、大宮人之(オホミヤビトノ)、飽田津爾(ニギタヅニ)、船乘將爲(フナノリシケム)、年之不知久(トシノシラナク)、
p.1092 伊豫國温泉碑 國史曰、舒明帝十一年冬十二月、幸二伊豫温湯宮一、明年夏四月、帝至レ自二伊豫一、又據二伊豫國風土記所一レ載、景行帝嘗幸二温泉一、仲哀帝亦幸二温泉一、齊明帝幸時、天智帝天武帝爲二太子一、諸王亦同從レ幸、并舒明帝、帝幸凡六云、風土記又稱、上古之時、少名彦命病劇、旣以爲レ死、當時此地已有二温泉一、於レ是大己貴命用二以浴灌一、少名彦有レ間乃蘇、亦不三自知二病已去一レ體、起曰、吾假寐乎、遂健歩如レ故、蹈二旁石一去、其跡蓋存云、寔蓋爲下吾邦浴二温泉一之始上、則地神氏世、所二從來一尚矣、非二特見一レ賞二於人皇一也、後乃祀二少名大已於其旁一爲二湯神一、又有二伊佐爾波神祠一、亦曰二湯築一、後更曰二湯月一、相傳、仲哀帝與二神功后一幸二温湯一、后因有レ身、生二應神帝一、應神廟號二八幡宮一、故應神帝爲レ主、因并二祭仲哀帝神功后一、今名曰二湯月八幡宮一、崇祀最大云、謹按二國史諸書所一レ載、吾邦温泉所レ創、莫レ先二於此一、又考二万葉諸什一、國風所レ采、莫レ尚二於此湯之前一、故有二圓石一、圍可二三尺一、名曰二玉石一、亦古歌所レ咏、爲二神代之表一者也、則立レ自二太古一可レ徴矣、其諸神祠載在二祠典一、諸帝行宮、今御幸寺是也、夫陵谷變遷、桑海移易、名存實沒、蓋亦不レ尠、而此湯之出也、蓋自二剖判一、厥曠遠者、不レ知二其始一、姑以レ所レ聞、近者年紀、尚且在二地神氏之始一、至レ今數十万載而不レ絶、浴者起レ廢、其效日新、豈非二造化凝レ精、神明祐レ福者一邪、風土記又載、聖徳太子所三命立二碑文一、雖三世所二記聞一、然其辭不レ可レ讀、義多可レ疑、且其石不レ存、今不レ可二得而考據一、故闕焉、爾自二寛永中一、松山侯食二封伊豫國一、温泉在レ疆、距二松山治城一、東北二十里、於レ是累世尊二崇其湯及神祠一、及二今侯源定喬一、刻レ石紀二其事一、志傳永久、乃典故所レ列、是以徴二文獻一矣、 銘曰、爰有二温泉一、在二豫之土一、厥初養レ民、夐自二太古一、人皇錫寵、六降二帝武一、神后禋祀、載震二玆滸一、天開二靈滋一、祉二我
p.1093 東方一、歴レ歳千万、原泉彌長、養レ精蠲レ穢、疾疣廼忘、億兆一浴、壽考無レ疆、廼顧二其側一、神廟奕々、應皇陟降、於穆不レ斁、二神攸レ相、永護二温液一、其永維何、有二密玉石一、於昭先王、證陳二國風一、先民自レ古、其頌二于隆一、松侯受レ封、克敬二神功一、立レ石勒レ事、厥圖無レ窮、
p.1093 一筑前の國三笠の郡天拜山の麓に温泉あり、村の名を武藏といふ、その温泉まことに右の注文のごとく、異氣に觸ず、異臭異味を帶びず、自然天然のうぶのまヽなる湯の、たヾ硫黄の臭氣を帶て、あつからずぬるからず、身にふれて温柔和煦、旣に浴して後、腹藏肌膚表裏内外煦々温暖の氣、やヽしばしやまず、頻に浴すれ共、肌膚枯燥せず、疥㿍、梅瘡一切の諸瘡ある人これに浴すれば、皆邪毒を排出し、瘀汁を托發し、諸瘡ことの外わかやぎたちて、扨は九日乃至二七日三七日の以後、氣味よく平癒す、實に最上至極の良湯なり、それゆへ入湯の人も、近國よりあまたあり、されども温泉の理に達せざる人は、兎や角やと評論もつけ、有馬などの湯よりは格別おとりたる様におもふべけれ共、左にはあらず、世人はたヾ耳を貴んで目をいやしみ、遠きをしたひて、近きをゆるかせにす、これその常なり、淺間しといふべし、 一むかし釋の蓮禪、はる〴〵と此湯に湯治にくだりて、都へ歸りのぼるとて、長門の壇の浦にて、 夜憶二遐郷一終入レ夢 晴望二孤島一小二於拳一 一尋二西府温泉地一 治レ病逗留及二兩年一 といふ詩を作りし由、無題詩集の中に見ヘたり、西府とは鎭西府の事にして、武藏の邊皆鎭西府の古跡なり、左すれば、此湯いにしへはことの外繁昌せし湯にて、近國のみならず、天下にひびく名湯にて、遠方よりも、はる〴〵と海山を越て湯治に來りし温泉と見ヘたり、又貝原翁の云、或説に、齊明天皇上座の郡朝倉の行宮にとヾまり玉ひし時、むさし村に行幸ありて、御湯治ありしと云といへり、又古今和歌集に、源のさねといへる女、都より筑紫湯治にくだりしに、かみなひの森にて、
p.1094 人やりの道ならなくに大かたはいきうしといヽていさかへりなむ といふ歌をよみし由見ヘたり、此さねが湯治せし湯、つくしとばかりありて、いづれの温泉のことヽもさだかならず、つくしといへば、さすところ甚ひろし、今九州の温泉ある所甚多し、左すればいづれの温泉のことヽも極めがたけれ共、釋の蓮禪が、はる〴〵と武藏の温泉に浴せしを以て類推すれば、さねが湯治せし温泉も武藏なるべし、 一その所の人のいヽつたへには、いにしへ將軍虎麻呂といふ人あり、その女疾ありていゑがたかりしに、此温泉に浴せしかば、その疾すなはち平癒せり、故に虎麻呂その湯を經營し、取建しよりこのかた、今にいたるまで浴者絶へずといへり、虎麻呂の本宅は、古賀村の内すだれと云所にありしとかや、今も其宅の跡あり、又温泉の近邊に、虎麻呂建立の藥師堂あり、椿花山武藏寺と號す、その寺の側に、虎麻呂の墓あり、元來虎麻呂といふ人、正史舊記にその事跡見あたらぬ人ゆへに、いつの比の人にや分明ならざれ共、此武藏寺を建立せし人なれば、はるかにふるき世の人と見へたり、
p.1094 源のさねが、つくし(○○○)へ湯あみんとて罷りける時に、山崎にて別れ惜みける所にてよめる、 命だに心にかなふものならば何か別れのかなしからまし ◯按ズルニ、此ニつくしトノミアリテ、其温泉ノ名ヲ言ハザレドモ、當時筑紫ノ湯トアルハ、皆今ノ武藏温泉ヲ指セルモノヽ如シ、依テ此ニ收ム、
p.1094 著二長門壇一即事 同人〈◯釋蓮禪〉 浪驛渉レ旬猶泛然、愁中有レ興綴二詩篇一、隣船礎日引二麻布一、〈類船之中、有二三小坏一、以二疎布一爲二單幕一、礙二朝日一避二殘暑一、故有二此興一云、〉里社祈レ風供二木綿一、〈遠岸有二一社一、當州稱二二宮一、於二舟中一而遙拜、指二社頭一而奉使、是不日祈二順氣一、〉夜憶二遐郷一纔入レ夢、晴望二孤島一小二於拳一、一尋(○○)二西府温泉(○○○○)一、地治(○○)レ病逗留(○○○)
p.1095 及(○)二兩年(○○)一、
p.1095 温泉道場言志 大江隆兼 云レ名云レ利兩忘レ身、日々行々往臻、昨翫二水城原上月一、今憐二湯寺洞中春一、呼レ朋好鳥意同レ我、驚望新花榮似レ人、尋レ地適傳前日跡、〈長久年中、外祖於二此地一賦二一絶一、康和年予亦於二此地一綴二六韵一故云、〉懷レ郷蹔外朝塵、琴詩酒處雖レ成レ戯、佛法僧間遂仰レ眞、累葉文華相畜得、海西弃置是何因、 ◯按ズルニ、水城原上云々トアルハ、大宰府ノ水城ヲ云ヘルニテ、此ニ温泉トアルハ、即チ武藏温泉ノコトナルベシ、
p.1095 次田温泉 すいだのいでゆ 筑前〈御笠郡〉
p.1095 帥大伴卿宿二次田温泉(○○○○)一聞二鶴喧一作歌一首 湯原爾(ユノハラニ)、鳴蘆多頭者(ナクアシタヅハ)、如吾(ワガゴトク)、妹爾戀哉(イモニコフレヤ)、時不定鳴(トキワカズナク)、
p.1095 ゆのはら(○○○○) 湯原 筑前〈或云〉大和〈類字非也〉 夫木抄 湯の原に鳴あし田鶴は我如く妹にこふれや時わかずなく 今案に、伊香保の方言に、温泉の流るヽ河を湯河原といへり、
p.1095 帥大納言〈◯經信〉つくしにてかくれ給にければ、夢などの心地して、〈◯中略〉わざのことはてヽかへりけるに、すいたのゆ(○○○○○)の、むかひに有ければ、たちよりてあみんとはなけれども、あしなどすヽぎけるついでによめる、 悲しさの涙もともにわきかへるゆヽしき事をあみてこそくれ
p.1095 赤湯泉 あかゆ 臥遊漫抄、治城西南三四里程、鐵輪邨側有二温泉一、呼爲二赤湯一、闊十許丈、純赤如レ朱、下レ足便爛、能熟二生物一、時
p.1096 見二赤魚游泳一、風土記曰、其泥土赤、用塗二屋牆一是也、湯勢回旋、勃々上升、殆如二旭彩晩霞、虹霓斜度一、南里許有二小地一、闊二丈餘、深丈許、横有二小洞一、温水出焉、盈涸自有二定候一、將レ盈則霹靂鳴動、熱湯奮發、炎氣特甚、土人呼曰二鬼山地獄一、且號二地獄一者、皆温湯也、比落野次有二三數處一、沸湯沛出、氣若二白雲一、熱水奇發、地若レ蹈レ火、村人相集、熟レ米飯レ之、或熟二菜蔬一、以易二火食一、南二里程、有二別府湯一、寒温自協、能療二万疾一、特不仁瘡癬、斷レ根而癒、可レ謂二靈泉一矣、余看二水經注一、有二稍類レ之者一、闞駟日縣有二湯水一、炎勢上升、常若二微雷發一レ響、湯側又有二寒泉一焉、地勢不レ殊、而炎凉異レ致、側有レ石、銘云、皇女湯可三以療二万疾一者也、杜彦達云、熱如二沸湯一、可二以熟レ米飯一レ之、即南都賦所レ謂、湯谷湧二其後一者也、又云、温水出二竟陵新湯縣東澤中一、口徑二丈五尺、垠岸重沙、端淨可レ愛、靜以察レ之、則淵泉如レ鏡、聞二人聲一、則揚湯奮發、無レ所二復見一矣、是也、夫温泉處々多有レ之、且見二于諸書一者、比々籍籍、不レ遑二枚擧一、或曰、鐵輪赤湯、眞奇觀也、海寓雖レ弘、不レ可二復見一也、余曰、一統志載、討來思在二海中一、周徑不二百里一、城近レ山、山下有二温水一赤色、望レ之如二火然、嗚呼宇宙之廣、何事無レ對哉、
p.1096 赤湯泉、〈在二郡西北一〉此湯泉之穴、在二郡西北竈門山一、其周十五許丈、湯色赤而有二泥土一、用足レ塗二屋柱一、泥土流二出外一、變爲二清水一、指レ東下流、因曰二赤湯泉一、
p.1096 大分速見は、景行天皇紀十二年の處に、天皇幸二筑紫一、十月到二碩田國一、其温形廣大亦麗、因名二碩田一也、〈碩田、此云二於保岐陀一〉到二速見邑一、有二女人一、曰二速津媛一爲二一處之長一、其聞二天皇車駕一而、自奉レ迎レ之とあり、碩田を國と云ひ、速見を邑と云へるを思ふに、當昔は速見は碩田國内なりしと通ゆ、後には豐後國の郡となりて、彼國の風土記に、大分郡速見郡と出たり、〈和名抄も同じ、なほ此二郡の事は、景行天皇卷に委く云べし、〉さて湯は、風土記に、速見郡赤湯泉、〈在二郡西北一〉此湯泉之穴在二郡西北竈門山一、其周十五許丈、湯色赤而有レ埿、用足レ塗二屋柱一、埿流二出外一、變爲二清水一、指レ東下流、因曰二赤湯泉一とあり、是なるべし、〈此風土記の箋釋と云物に、湯今屬二石垣莊野田邑一、其闊十餘丈、純赤如レ朱、下レ足便爛、能熟二生物一、時見二赤魚游泳一、然此湯近歳大衰、無二舊日之觀一、竈門山屬二門庄内竈門村一、蓋及二後世一、割レ郷置レ莊、始山與レ湯異二其所一レ屬耳、湯今曰二古市川一、東流入レ海といへり、〉また玖倍理湯井、〈在二郡西一、〉此湯井在二郡西河直山東岸一、口徑丈餘湯色黒、埿常不レ流、人竊到二井邊一發レ聲大
p.1097 言、驚鳴沸騰一丈餘許、其氣熾熱不レ可二向昵一、縁邊草木、悉皆枯萎、因曰二慍湯井一、俗語曰二玖倍理湯井一と云へる井もあり、〈箋釋に、此湯井、古屬二石垣莊鐵輪村一、其山多生二硫黄一、土脈甚熱、處々有二温湯一、所レ謂湯井小池也闊二丈餘、深丈餘、旁有二小洞一、温泉出レ焉、盈枯自有二定候一、將レ盈則霹靂鳴動、熱湯奮發、炎氣特甚、土俗呼曰二鬼山地獄一、河直山鐵輪山也、久倍理者燒之俗言、猶レ言二火爾久倍留一也と云へり、〉また大分郡に、酒水、〈在二郡西一〉此水之源、出二郡西柏野之盤中一、指レ南下流、其色如酒、味少酸焉、用療二痂癬一〈謂二盻太氣一〉と云る水もあり、〈箋釋に、酒水、今呼曰二柏野川一、屬二賀來郷一、南行入二堂尻川一、療二痂癬一者、案郡西與二速見郡一接レ壤、故受二鶴見硫礬氣脈一、伏二行地中一發二于此一、故然已と云へり、博物志に、凡水源有二石琉黄一、其泉則温とも見ゆ、〉しかれば、此地より出る湯を、伊豫國まで下樋を通して流し給へるを、持渡來坐りとは語傳たるならむ、〈下樋とは、地中を通し給ふを云なれば、謂ゆる地脈の事を云なるべし、〉
p.1097 玖倍理湯井、〈在二郡西一〉此湯井在二郡西河直山東岸一、口徑丈餘、湯色黒泥土、常不レ流、人竊到二井邊一、發レ聲大言、驚鳴湧騰二丈餘許、其氣熾熱不レ可レ向レ昵、範邊艸木悉皆枯萎、因曰二慍湯井一、俗語曰二玖倍理湯井(○○○○○)一、
p.1097 一夏ノ氷ハ宣旨ナケレバ、コホラズト云フ事如何、〈◯中略〉 豐後國速見郡温泉アマタアリ、其ノ中ニ一所ニ四ノ湯アリ、一ヲバ珠灘ノ湯ト云フ、一ヲバ等洔(トチノ)湯ト云フ、一ヲバ寶膩(ホチノ)ノ湯ト云フ、一ヲバ大湯(オホユ)ト云フ、
p.1097 湯嶽 在二府中西一、有二温泉一、〈俗云二由布山一〉而毎流出皆湯也、
p.1097 廿九日、筑前の久喜宮を出てより、此所迄平道にて、甚行よかりしに、是よりは又山の手にかヽり初ぬ、二十丁計行ば、川原村人家二十軒ばかりあり、十丁餘行ば、柄崎宿、〈北方より是迄一里十三丁〉人家四百軒計、佐賀の家臣衆の領地なり、此所に濕瘡疥瘡などによしといふ温泉あり、遠近の人湯治に來り集る、さるによりて宿屋茶屋も多し、
p.1097 廿九日、是より山坂を十餘丁登れば三坂峠、峠より二十丁許り下れば、鹽田越と柄崎道との追分あり、次に下宿人三丁許に立ちつヾきたる、皆農家にて茶屋もなし、十丁許行ば嬉野
p.1098 宿、〈柄崎より是迄三里十三丁〉佐賀の御領なり、人家百餘軒、宿屋多く、茶屋もあり、申刻頃大田平七といふにつきて宿る、此所に温泉あり、町屋の南裏の川端なり、川の中よりも湯涌出、湯艚すべて七あり、十文湯二、五文湯三、留湯二なり、湯艚ごとに、湯口水口左右に分れあるを、浴する人の好みに隨ひて加減をし、或は熱を好めるは湯口に近く居、ぬるきを好めるは水口に近く居て浴するなり、効能は腰痛を癒すを第一として、其外も万づによしといへり、
p.1098 鹽田川〈在二郡北一〉 此川之源、出二郡西南託羅之峯一、東流入レ海、潮滿之時、逆流沂、細流勢大高、因曰二潮高滿川一、今訛謂二鹽田川一、川源有レ淵深二許丈、石壁嶮峻、周匝如レ垣、年魚多在、東邊有二湯泉一、能愈二人病一、 ◯按ズルニ、此ハ今ノ嬉野温泉ナルベシ、
p.1098 江都旅程記の一 嬉野にて午飯を喫ふ、温泉を觀るに、婦女集りて頻りに物を望みし故、細貨を分ち與へたり、夜に入「タケウヲ」に泊れり、此地亦た温泉ありて、美麗なる國主の浴室を觀たり、
p.1098 温泉嶽 在二高木郡一〈五十町上有二普賢嶽一〉 往昔有二大伽藍一、號二日本山大乘院滿明密寺一、文武帝大寶元年、行基建二立三千八百坊一、塔有二十九基一云々、天正年中、耶蘇宗門盛行、僧俗陷二邪法一者多、當寺僧侶亦然、故破却不レ歸二正法一者、生身(イキナカラ)陷二當山地獄池中一、礎石或石佛耳、今唯僅有二一箇寺及大佛一而已、方一里許中、稱二地獄一穴數十箇處、兩處相並、高五六尺、黒泥煙湧起、名二之兄弟地獄一、黄白帶二青色一、沫滓似レ麴者、名二之麴造屋地獄一、青緑色似二藍汁一者、名二之藍染(アヲヤ)家地獄一、濁白色稍冷似二水泔一者、名二之酒造家地獄一之類、名目亦可レ笑、出二猛火一可レ謂二等活大焦熱一者、亦有矣、其流水稍熱、如レ湯之小川中、毎小魚多游行、亦奇也、凡一山地、皆熱濕透レ鞋、跣者難レ行也、麓温泉多、有二浴湯人一不レ絶、
p.1099 雲仙ケ嶽〈俗に温泉がだけといふ◯中略〉谷々の流にも湯氣立上りて、いかにもあやしき山也、麓に温泉あり、湯本といふ、功もありとて入湯の人もある所也、此温泉ばかりにあらず、谷々に温泉有と、土人の物語り也、
p.1099 峯湯(ミネノユ)泉〈在二郡南一〉此湯泉之源、出二郡南高來峯西南之峯一、流二於東一、流之勢甚多、熱異二餘湯一、但和二冷水一、乃得二沐浴一、其味酸、有二流黄白土及松一、其葉細、有レ子、大如二小豆一、令レ得レ喫、 ◯按ズルニ、此ハ今ノ温泉嶽温泉ノコトナルベシ、
p.1099 田の浦は漁家計、惡敷町也、此地より日奈久(ヒナク)へ三里、此あいだに赤松太郞と稱す佐敷太郞に劣らぬ嶮しき坂有、日奈久は大槩の町にて、熊本侯の御茶屋もあり、温泉も有、入湯の者も折々は來る事にて、功有温泉といふ、
p.1099 水股より湯の浦へ三里、此間に綱木太郞と稱せる坂有、上下二里、嶮しき事いふ計なし、肥後の片言にて、坂の名を太郞と云て坂とはいはず、此邊は肥後にても風土の能所にて、民家のもやう薩州より勝れたり、湯の浦少しき在町にて、温泉あり、旅人入湯せるに誰とがむる者もなく、明はなしの温泉なり、湯はあしからず、功ある温泉の由、然れども邊鄙の地故に、他方より入湯に來る人さらになし、よく〳〵聞ば、是より山分に入りて、爰にもかしこにも湯涌地數か所有といふ、
p.1099 九月十九日、きりしま御祭禮、〈西社東社〉ふもとに湯治場あり、湯の瀧三十二あり、
p.1099 一湯治場 南東 伊佐 伊なく いぶすき ちうの水 水のはな すな湯 西北 あんらく いくき ひわく きり島(○○○)
p.1100 ゑの湯 いあふ 櫻島 黒かみ ふる里
p.1100 湯澤といふ所も少しき町也、此所には温泉ありて、入湯のものも數多見へし事也、予も入て見るに、硫黄湯にて見分がたし、土人の云く、北方の地には湯の出る地多しと云へり、蝦夷地内浦ケ嶽の麓は、取廻して湯の湧所と蝦夷人もの語せし事と云々、虚實詳ならずと云へども、土人の云しを記せしものなり、
p.1100 温泉濫觴 凡温泉に浸りて病を治る事は、ちはやぶる神代のむかし、天孫いまだ降臨したまはざる時、大己貴尊、宿奈彦奈命と同じく、わが豐葦原中津國を領せさせおはしまして、此民の夭折をあはれみ、醫藥、禁厭、温泉の法をたて、其疾苦をすくひ玉ふ、時に大己貴尊御心地例ならざる事のありしに、宿奈彦奈命、則温泉に浴せしめたまひければ、尊の御病腦即時に平愈あり、是より二神海内を巡行し給ひ、土地のよろしき所々に温泉をもふけたまひし事、舊記に彰然たり、其後舒明、孝徳の二帝も、温泉に浴したまひて御腦を療したまひ、其外代々の人々、入湯して病をのぞきしためし、擧てかぞへがたし、とほき唐土をとふに、秦の始皇帝瘡腫のうれひありて、驪山の温泉に浴せられしかば、その疾頓に愈たるよし、三秦記に見へたり、 ◯按ズルニ、大己貴宿奈彦奈二神浴湯ノ事ハ、伊豫國道後温泉條ニ引ク釋日本紀ニ見エタリ、
p.1100 伊豫國風土記曰、〈◯中略〉天皇等於レ湯幸行降坐五度也、以下大帶日子天皇〈◯景行〉與二太后八坂入姫命一二軀上爲二一度一也、以下帶中日子天皇〈◯仲哀〉與二太后息長帶姫命一二軀上爲二一度一也、以二上宮聖徳皇一爲二一度一、及侍高麗惠總僧、葛城臣等也、于レ時立二湯岡側一碑文記云、法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王、與二
p.1101 惠總法師及葛城臣一逍二遙夷與村一、正二觀神井一、歎二世妙驗一、欲レ叙レ意、聊作二碑文一首一、惟夫日月照二於上一、而不レ私、神井出二於下一、無レ不レ給、萬機所以機〈◯機恐衍〉妙應、百姓所以潛扇、若乃照給無二偏私一、何異二于壽一レ國、隨二革臺一而開合、沐二神井一而瘳レ疹、詎升二于落花池一而化溺、窺二望山岳之巗崿一、反冀三子平之獨往二椿樹相廕一、而穹窿實相、五百之張蓋、臨二朝啼鳥一而戯二吐下一、何曉二亂レ音之聒耳一、丹花卷葉映二照玉菓一彌葩以垂レ井、經二過其下一可二優遊一、豈悟四洪灌霄庭意與三才拙實慚二七歩一、後定君子、幸無二蚩咲一也、以二岡本天皇〈◯舒明〉并皇后二軀一爲二一度一、以二後岡本天皇、〈◯齊明〉近江大津宮御宇天皇〈◯天智〉淨御原宮御宇天皇〈◯天武〉三軀一爲二一度一、此謂二幸行五度一也、〈◯又見二萬葉集抄三一〉
p.1101 以下大帶日子天皇與二太后八坂入姫命一、二軀上爲二一度一也、〈景行天皇紀に、此幸行のこと記し漏されたり、〉以下帶中日子天皇與二太后息長帶姫命一、二軀上爲二一度一也、〈仲哀天皇紀に此事見えず、二年と云年の三月、南國を巡狩し給へる事あり、其時などの事にや、然れど皇后を留めてと有れば別時にや、〉
p.1101 三年九月乙亥、幸二于攝津國一、有間温湯(○○○○)一、 十二月戊戌、天皇至レ自二温湯一、 十年十月、幸二有間温湯宮一、 十一年十二月壬午、幸二于伊豫温湯宮(○○○○○)一、 十二年四月壬午、天皇至レ自二伊豫一、便居二廐坂宮一、
p.1101 額田王歌 熱田津爾(ニギタヅニ)、船乘世武登(フナノリセムト)、月待者(ツキマテバ)、潮毛可奈比沼(シホモカナヒヌ)、今者許藝乞菜(イマハコギコナ)、 右撿二山上憶良大夫類聚歌林一曰、飛鳥岡本宮御宇天皇、元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇太后幸二于伊豫湯宮一、後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就二于海路一、庚戌、御船泊二于伊豫熱田津石湯行宮一、天皇御二覽昔日猶存之物一、當時忽起二感愛之情一、所下以因制二歌詠一爲レ之哀傷上也、即此歌者、天皇御制焉、但額田王歌者、別有二四首一、
p.1101 大化三年十月甲子、天皇幸二有間温湯(○○○○)一、左右大臣群卿大夫從焉、 十二月晦、天皇還レ自二温湯一而、停二武庫行宮一、〈武庫地名也〉
p.1102 三年九月、有間皇子性黠、陽狂云々、往二牟婁温湯(○○○○)一、僞レ療レ病、來讃二國體勢一曰、纔觀二彼地一、病自蠲消云々、天皇聞悦、思二欲往觀一、 四年十月甲子、幸二紀温湯一、 十一月戊子、捉三有間皇子、與二守君大石、坂部連藥、鹽屋連鯯魚一、送二紀鯯湯一、舍人新田部末麻呂從焉、 五年正月辛巳、天皇至レ自二紀温湯一、
p.1102 額田王歌 未レ詳 金野乃(アキノノノ)、美草苅葺(ミクサカリフキ)、屋杼禮里之(ヤドレリシ)、兎道乃宮子能(ウヂノミヤコノ)、借五百 所念(カリイホシオモホユ)、 右撿山上憶良大夫類聚歌林一曰、一書曰、戊申年幸二比良宮一大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至レ自二紀温湯一、 幸二于紀温泉一之時額田王作歌 莫囂圓隣之(ユフツキノ)、大相七(アフキ)兄爪謁氣(テトヒシ)、吾瀬子之(ワカセコガ)、射立爲兼(イタヽセルガネ)、五可新何本(イツカアハナム)、
p.1102 中皇命往二于紀温泉一之時御歌 君之齒母(キミガヨモ)、吾代毛所知哉(ワガヨモシレヤ)、磐代乃(イハシロノ)、岡之草根乎(ヲカノクサネヲ)、去來結手名(イザムスビテナ)、
p.1102 十四年十月壬午、遣二輕部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂於信濃一、令レ造二行宮一、蓋擬レ幸二束間温湯(○○○○)一歟、
p.1102 大寳元年九月丁亥、天皇幸二紀伊國一、 十月丁未、車駕至二武漏温泉(○○○○)一、 戊午、車駕自二紀伊一至、
p.1102 有馬の湯(○○○○)に、忍びて御幸ありける御供に侍りけるに、湯の明神をば、三輪の明神 となむ申し侍ると聞きて、物にかき付け侍りける、 按察使資賢 珍しく御幸を三輪の神ならば驗あり馬のいでゆなるべし
p.1102 仁治元年五月十八日辛巳、安嘉式乾兩女院御二幸有馬温泉一云々、
p.1102 正元元年十月五日乙亥、自二今日一主上御湯治、被レ召二有馬温泉湯一、
p.1103 文永四年九月十三日、一院新院、御二幸吹田一、新院於二吹田一、可レ被レ召二有馬湯一云々、
p.1103 一攝州有馬山温泉、我國他に異なる名湯也、〈◯中略〉當山の鎭守は、麻古三輪の二社也、仁西熊野の祠を建そへけるとぞ、夫三輪は大汝の命にて、我醫業の祖也ける、湯の山の神なる事は神記に見へ侍る、〈◯中略〉後奈良院も御幸まし〳〵けるとかや、〈◯下略〉
p.1103 向二温泉一人官府 太政官符 太宰府 應レ聽レ往三還其姓某丸向二其國温泉一事 右得二某人解一偁云々者、其宣、奉レ勅依レ請者、府宜二承知依レ宣施行一、符到奉行、 辨 史 年月日 一説云、宣奉レ勅、宜レ聽二往還一、府宜二承知依レ宣行一之、路次國且宜レ准レ此、符到奉行、
p.1103 駿河國天平九年正税帳 依レ病下二下野國那須湯一從四位下小野朝臣、〈上一口從十二口〉六郡別一日食爲二單漆拾捌日一、〈上六口從十二口〉
p.1103 天暦七年三月廿日己亥、權少僧都明珍、申二給官符一向二伊豫國温泉一治レ病、
p.1103 天文六年過書〈所藏不レ詳〉 湯治人數十七人、荷物壹荷在レ之事、上下無二其煩一、可レ有二勘過一状如レ件、 〈天文六〉八月二十七日 長隆 城州攝州 諸役所中
p.1103 寛文八戊申年二月廿日
p.1104 御番衆〈江〉申渡覺〈◯中略〉 一休之内、湯治御暇之儀被レ申候ば、日數常之ごとく、但斷之様子により、五廻も六廻も、又は再篇も遣可レ申事、 申二月廿日
p.1104 明暦元年正月廿八日、紀伊宰相光貞卿、豆州熱海浴湯のいとまたまふ、
p.1104 寛政庚申の春のころ、予聊なやむ事ありて、但馬の國城崎郡なる温泉に浴せんと志し、其あらましを書付て、閣老織田氏の廳に出て願ければ、早速東都へ上聞ありて御ゆるしを蒙り、四月六日の夜戌の刻計に、平野隨意、鹽原我忍の二子を伴ひ、納屋橋のむかひにて龜屋喜兵衞なる者の所に行、〈◯下略〉
p.1104 養仙院のかたの執事、宿谷源左衞門尹行、もと鳥見よりのぼり、口さかしき者にて、時めく人々に媚へつらひ、その心にかなひしかば、世のひともひそかに眉をひそめけり、これよりさき、病に托しいづこのか温泉に赴くとて、そが子縫殿富房を招き、我こたび湯治に赴くなり、たよりよくば京大坂をもみんと思ふといへども、この事もれ聞えなば、我身のみならず、汝までも越度たるべし、かなあしこ、人にないひそ、たヾ汝が心得にあらかじめ告しらするなりといふ、縫殿もとこうの詞もなかりけるが、それより源左衞門こヽかしこ思ふまヽに逍遙し、歸りてのちは少しもつヽまず、令を犯して珍らしき所々みもし、また一興なりなど、はヾかる所なく人にもかたりのヽしりしかば、聞ものおどろきてさヽやきあへり、その後も酒にふけり、宿直の夜も酔に乘じて局々の女房などにたはぶれ、あるは刃をあらはして追ちらしなどして興じしかば、みな人惡みうとみけり、
p.1104 世上にて沙汰ありし富有の町人、紀伊國屋文左衞門と云ものありし、上野中堂御
p.1105 普請、請負にて、數萬の金をまふけて、奢はなはだしきものゆえ、兼て目を附て居られし故、元祿十三年の夏、評定所へ出て願ひけるには、只今は御用の間に候まヽ、病氣養生して入湯仕度段申ける、伊豆守大きにいかりて、町人の分として、上を輕しむる奴かな、湯治の願などは、我等が組與力が家來どもまで頼みてねがふべきことなり、然るに今歴々公用の評定の席へ願ひ出ることは、大なる奢者なり、これこの事は、常々御用をもうけたまはる身分なれば、其次第を存ぜざるにはあるべからず、畢竟おのれが身分を高ぶるよりのことなりとて、牢舍申つけられたり、
p.1105 温泉 世に温泉の説多して、未だ理盡さず、俗には硫黄の氣伏して温泉をなすといふは總論なり、夫地下に温泉あるが故に、薫蒸して硫黄ありとはいふべし、地下に水脈あり、火脈あり、其二脈一所に會し、或は近く融通するあれば、必水泉温沸す、されば水脈といふものに引れて、地上に出る潮あり、我邦にも奧の鹽井、甲州の鹽の山など是なり、又火脈の勃興せる富士〈駿州〉淺間〈信州〉阿蘇〈肥後〉温泉山、〈肥前〉宇曾禮山、〈南部〉霧島山〈日向〉等也、平地は室の八島、〈下野〉越後地火、〈蒲原郡〉或は海中にも硫黄が島、〈薩州〉八丈島〈伊豆〉あり、必火脈あれば温泉となる、櫻島、〈薩摩〉又松前の邊なる島にもあり、故に海中といへ共眞水あり、是陰中の陽、陽中の陰也、皆同類といふべし、されば六十餘州の内、温泉なき國は少し、就レ中伊豆は小國にて駿相にはさまり、海へ差出たる地なるに、温泉有事二十餘ケ所、殊更加茂郡葛見庄熱海は、温泉有の地名なり、天平勝寶の年間に出沸すといふ、此に諸國の温泉と大に異なる子細は、毎日晝夜卯巳未酉亥丑の時に涌て、其餘の子寅辰午申戌の刻には、只烟のみ立也此偶數の刻に涌て(○○○○○○○)、奇數の刻には涌ず(○○○○○○○○)といふ事、至て不審也、中華にも似たる事有といへ共、又其理をいはず、須行記に曰、碧玉泉、有二曹溪一、有レ泉甚清、一日三潮、以二辰午酉三時一水必漲滿、三時餘半涸と云々、熱海は潮の大熱湯也、其涌出の所には四方に石垣をなし、常に人の入事を禁ず、其涌時、眞中にたヽみ上た
p.1106 る盤石の底より鳴動し、猛烟天を掠め、熱湯迸り出、其凄き事いふ計りなし、是を四方へ筧を以て取て、湯舟は堪え置なり、浴家二十七軒、三軒の本陣有、又一月中一度長沸する事有て、終日涌出す、然る時は、翌日は終日涌出ざる也、又濱邊に瀧湯とて、夥しく山より流れ落、下に大なる湯舟三に堪ふ、神社あり、走湯權現と申、〈◯中略〉都て温泉の地、潮なるはなけれど、硫黄成は鐵器早く錆腐る故に、寺院の鐘先腐壞す、其甚敷は、上州草津也、浴湯の人至れば、先刀劒を宿に預り、箱に入、能々緘して、還るの日出し與ふ、然らざれば、逗留中に錆て用立ざる程也、予九州の歸路、豐後國府内に至る時、九月五日也、此日此所の市〈濱の市といへり〉滿會の日にて、近郷の人夥しく群集す、〈◯中略〉翌日小船をかりて別府へ行けり、笠縫島は磯近くて、棚なし小舟漕行は、古歌の姿を得たり、弓手は四極山海岸に立覆ふ、浦々の風景又珍らし、程なく磯に著て、小き坂路を上り下り、とある濱に人の首七ツ八ツ並び見えたり、コハ怪しき事也と嶝を回り〳〵て、漸く近く見るに、いよ〳〵首也、僧の首も有り、女の首もありて、物いひ笑ふさまなり、餘りにいぶかしければ、道を走り〳〵、頓て其洲崎に至り見れば、各濱の砂を堀穿て支體を埋みたる也、此所に温泉あれども、潮と交りて地上に出ず、故に身を埋めて浸すに、其温暖甚快し、され共潮さしぬれば海と成故、引汐を考て斯くの如くす、至て加減よき程なり、頓て出る時は、側に池の如き湯あり、是にて砂土を洗ひ落し、衣服を著して宿へ歸るなり、別府町にも、家毎舟に湯を湛え置り、誠に興覺る業ながら珍らしく可笑、數十年の旅行の中には、見馴れぬさま〴〵の事多かりき、
p.1106 有馬山温湯 我國諸州、多有二湯泉一、其最著者、攝津之有間、下野之草津、飛騨之湯島、是三處也、有馬湯舊得二冷煖之中一、而浴者有レ効、一旦會二地震山崩一、而后酷熱、觸レ手如レ探レ湯、殆似下投二鷄卵一而黄白凝結上也、故近歳引二澗水于筧一以注レ之、始獲レ浴焉、然其効亦可レ覩也、按大明曹蕃遊草所レ載、云二遵化之湯泉、臨清之温泉一甚詳矣、且援二王
p.1107 褒温湯銘一曰、白礬上徹、丹砂下澄、華清駐レ老、飛流瑩レ心、今余掬二臨清之水一嗅レ之、硫黄氣觸レ鼻不レ可レ聞、則果白礬硫黄丹砂爲二之根一、乃蒸爲二煖流一耶、吁湯泉夫云何哉、東坡曰、自憐耳目隘、未レ測二陰陽故一、苕溪曰、湯泉之理不レ可二致詰一、或云、炎州地性酷烈、山谷多二温泉一、然炎州餘水未二必熱一、或云、出二硫黄一地中即熱、然以二硫黄一置二水中一、水未レ能レ温、是地性之説、硫黄之論、共似レ失レ之、佛迹院中二泉、相去尋常、而東泉甚熱以二西泉一解レ之、然後調適可レ浴、然臨潼之湯泉、乃在二西方一、是亦初不レ拘二東西南北一也、想夫湯泉在二天地之間一、自爲二一類一、受レ性本然、不二必有レ待然後温一也、凡物各求二其類一、而水性尤耿介、得二其類一則雖二千萬里一而伏流相通、非二其類一則横絶徑過、十字旁午而不二相入一、故二泉之間歩武、而炎凉特異如レ此、吹氣爲レ寒、呵氣爲レ温、而同出二於一口一、又何疑之有哉、苕溪之説非レ不レ詳也、而莊周氏猶不レ云乎、水中有レ火、乃焚二大塊一、陰中陽、陽中陰、陰陽之精互藏二其宅一、陰陽本自一氣、水火亦果不レ二焉、得下逢二陰陽窮理之人一而倶言上レ之哉、故其以二東坡之博辯一、尚云レ未レ測二陰陽故一、蓋是致二恠于湯泉一耶、記稱驪山是礬石泉、黄山是朱砂泉、其餘皆多作二硫黄氣一、王褒等諸人之所レ言不レ易レ誣也耶、唯朱砂泉得レ飮レ之、或以得レ點レ茗、礬石硫黄泉、鼻猶掩レ之、況不レ可レ飮乎、今余浴二于有間泉一、有二石硫黄之氣一、含レ之久則染二齒牙一、若飮則多泄瀉云レ爾、由レ是觀レ之、温泉之出レ自二山石一、可レ謂レ無二其理一乎、
p.1107 有馬温泉 伏惟、有馬温泉之爲二鹽湯一、振古以來、天下所二共識一也、故續日本紀、及風土記等、稱二此處一曰二鹽原山一、意當土處々湧二出鹹泉一、故名爾、予曩遊二浴於此一、反覆玩味、肇識下是不二翅鹽水一、別自有二朴消硝石之精華一而並出上焉、蓋其爲レ味、嚴鹹酸苦、直入二于腹一雷鳴泄利、是豈獨潮性之力、而磺黄之所レ純也乎哉、即爲二朴消硝石之屬一明矣、
p.1107 湯味 鹹氣ありて苦し、此しほけは潮の鹹氣とおなじからず、いかんとなれば、里人此湯に糸をひたして木綿を織るに、その木綿甚だつよし、此湯色絹にふれても暈のつく事なしと聞しゆゑ、京山逗
p.1108 留のうち、茶の湯に用うる紫のふくさを、此湯にひたしてこヽろみしに、いさヽかも色のかはる事なきゆゑ、里言の虚ならざるを信ず、湯は玲瓏たる事水晶のごとく、大便つうぜざる人一碗を喫すれば、こヽろよく通ずといふ、 湯潮〈ゆのわき〉 湯の潮(わく)こと、晝夜に三度、長の時に奏潮〈六ツ、四ツ、八ツ時、〉年中時を違ふ事なし、四十日又は五十日目に終日沸潮、是を長沸といふ、次の日はかならづ湧事なし、是を休と云、その次の日湧事時をさだめず、一二日をへてわく事前の如く、湯の沸形勢は、鼎に水を煮るがごとく、はじめは蟹の眼のごとくに湧いで、次第にわきたち、沸湯にいたりては、石龍熱湯を吐がごとく、二間餘もへだてたる大石へ熱湯吐かけるありさま、響は雷のごとく、湯氣は雲のごとく、天に上昇、見るに身の毛もよだつばかり也、此湯を四方の客舍に引き、湯船にたくはへ、冷して浴せしむ、ゆゑに里言に大湯と唱ふ、その圖を下にあらはす、〈◯圖略〉諸國に温泉多といへども、かヽるためしをきかず、天工の機關奇妙不思義の靈湯なり、唐土雞籠山の潮泉に類すれども、それよりは奇とすべし、
p.1108 草津湯泉游記 余游二草津一、携二香太沖所レ著藥選一本一、來以取二則於此一、得レ益固多、雖レ然在二門墻一則麾、豈無二其辨一乎、蓋古人之於二湯泉一游也、余嘗讀二水經酈注一、不レ言二温泉治一レ疾、亦不下如二此際一多中温泉上也、上世我民淳撲、山野固乏二湯液之治一、於レ是百病一浴、載二疾山谷一、余嘗入二蝦夷之地一、而想二上世光景一耳、蓋毛之野、可レ浴者數十所、夏月游二浴草津一日數百人、何盛、亦惟僻亦惟笨、其謂二之古遣一耶、若二輦下兩都一、與二通邑大城一、豈舍二湯液一、面求二治山谷一哉、其浴治者、托レ之以游耳、近時平安一醫、有二後藤生一、巧思施レ治、遽發二一識於直情一、首唱二浴治奇驗一、其名高二于一時一、太沖受二業其門一、張二皇一家之説一、著レ書建レ言、其説謂、但馬城崎温泉、爲二海内第一一、其地去二都下一不二甚遠一、且巴人多レ和、碌々就レ人從レ此、城崎常爲二疾之藪一、假使其説之是、東奧北埵之多二温泉一、渠豈咸履而試乎、夏虫
p.1109 之斷、適見二其妄一耳、又其説曰、地中有二水脈一、有二火脈一、其相交處、乃成二温泉一焉、古人所レ謂硫黄之説、地性之説、皆非也、亦惟夏虫哉、所レ謂水火脈欲レ律二人是小天地一耶、醫人哉、蒙恬所レ斷者水道耶、此土之多二湯泉一、火脈獨夥二於彼一耶、海中火、亦火脈耶、堀レ地者未三嘗當二火脈一、山崩地裂、未三嘗見二脈之所一レ通、渠斷二諸其臆一而不レ疑、何其無二忌憚一、唯越之妙法寺村發火、似二是可一レ謂二火脈一矣、然已是一奇異、一奇異何遽律二之天下一乎、且村中火發二地上一、旣非二火井一、與二夫淺深之説一、亦皆不レ通也、至レ謂下置二硫黄水中一而水不上レ温、其説之窮可二以見一矣、博物志所レ謂、水泉有二石硫黄一、其泉則温、今徴二之事物一而可レ信矣、又有二礜礬爲レ根者一、陳仁錫所レ謂、温泉所レ在、白礬、丹砂、硫黄三物爲二之根一、乃蒸爲二煖流一、亦爲レ不レ失耳、但太沖辨二浴法一、其稗二益於浴者一、不レ爲レ不レ多、太沖亦一時之良也、惜哉一定權衡、唯拘レ所レ見、言之無レ文、鳥能行哉、湯泉治レ病、固此際舊俗、其有レ益二於山野之民一廣矣、大人君子非レ所レ恃也、然有レ時乎有レ恃、余亦非二徒游一也、
p.1109 寳徳四年四月七日、早赴二攝州湯山一、有二温泉記詩句等一、文長略レ之、 十一日、凡入レ湯者、諺曰、入湯不入湯、蓋戒二多浴一也、予續以二七事一、遂演作二八首一、毎首四句毎句五字、名レ之曰二湯店舍八詠一、然止二於八一何也、曰沈休文東呉八詠、及杜少陵秋興八首、蘇子瞻鳳城八觀、皆足二以爲一レ據、今不二必取一焉、山中不レ二二其價一者三物、薪一擔、酒一升、木履一 、皆不レ過二八錢一、俗以表二藥師八日一云、予八詠亦擬レ焉耳、有レ詩一々不レ抄、 十二日、午後就二隣室一喫レ茶、壁上掛二一書册一、題曰二湯治養生一、表目文字假名、纔三四紙、披而視レ之、先述二鹽湯水湯優劣一、曰水湯弱、鹽湯強、強故醫レ疾太速、又強故多浴則爲レ害、又曰、諸州多湯、皆水湯、除二此山一外惟但馬州木崎湯、獨鹽也、凡浴場、初少中多後少、是爲二良法一、蓋限二三七日一、第一七少、第二七多、第三七少、乃至限二一七一、々々可二例知一爾、
p.1109 入湯の法 凡此湯に入に、彼地の法義あり、湯文(○○)といふ物にしるせり、湯に入には食後よし、うゑて空腹に入事をいむ、一時にひさしく入をいむ、又しげく入事をいむ、つよき病人は一日一夜に三度、よはき病人は一二度をよしとす、三度は入べからず、つよき人も、湯の内にひ
p.1110 たりて身をあたヽめ過すべからず、はたにこしかけて、先足をひたし、次にひしやくにて湯をくみて、頭よりかたにかけてよし、湯の内に入ひたるべからず、久しくゆをあぶれば、身あたヽまりすぎ、表氣ひうけ汗いで、元氣もれて大にどくとなる、かろく入べし、汗出る事甚あしく、凡湯人の間、尤身をつヽしむべし、ゆあがりに風にあたるべからず、入湯の間、上戸も酒多くのむべからず、氣めぐり、食すヽむとも大食すべからず、酒にゑひて入べからず、湯よりあがりて則酒をのむべからず、味からき物多く食ふべからず、熱性のもの、寒冷の物食ふべからず、性かろきうを鳥少づつ食ふべし、色慾をおかす事はなはだいむ、湯よりあがりて後も二七日いむべし時々歩行して氣をめぐらし、食を消すべし、ひるねすべからず、入湯の日數おはりても、風雨はげしくば歸べからず、天氣しづかになりてかへるべし、湯治の内灸をいむ、あがりて後も數日の間灸すべからず、
p.1110 入湯の法 凡此湯に入人、湯入の間身をつヽしむ事、甚をこたりある故に、病を生じて、却て名湯をそしるの類多し、湯あがりは、温湯の氣、身に徹して寒をおぼへず、故に浴衣ひとへを著て久しく座也、風にやぶらるヽ事をしらず、又入湯は酒食をめぐらする故に、過すに害なしと云て、飮食はなはだ度をこへ酒と和、謳、淫聲のたはれたるにひかれて進み安きゆへに、しば〳〵亂に及ぶ、中にも色慾はわきて湯治にいむなれば、往昔より此地にかたくいましめて、遊女妓童のしばらくもとヾまる事をゆるさず、まして湯女は酒宴の席にのぞむといへども、客に通る事はかたきいましめなれば、おもふにかひなしと知ながら、おろかなる壯男は、見るにきくに心を動して、病を添る種と成ぬ、すべて此地に來るの人、温泉を疎におもふが故に、一日の内わづかにふたヽび廻る幕のあないありても、飮食を心よくせんと欲してうけがはず、あるひは盤上連歌の席の盈ざるを惜み、鞠楊弓の場のなかばなるをいとふが故に、期をはづして養生の節を失ふ、淺ましき事なり、凡湯治に來る人は、四民共におしむべき時日をついやすのみかは、仕
p.1111 官たる身は、暇なき君邊の勤をかきて此地に來りながら、養生をおろそかにすべからず、唯温泉を君のごとく神のごとく敬ひつヽしみ、是に仕へては温泉の心に叶ひて、病を除くの術を思ふべし、湯入の間、心體を不潔にして、温泉の心に背べからず、 入湯のうち、專風を恐るべし、晝寐すべからず、然ども是をつヽしまんと思ひて、枕はとらざれども、浴後は氣めぐり體ゆるむゆへに、薄衣にして座しながら眠りを催し、却て風に感じ安し、若大につかれて眠に堪がたき時は、晝といへども屏風引廻し、衾かづきて臥べし、久しく臥べからず、かたはらに居る奴婢にはかり、期を定てよびさまさすべし、
p.1111 浴法 湯有二一二之目一、原是同一脈矣、天正中豐相國大修二飾之一、泉底甃レ石、圍レ之以板、以レ爲二湯槽一、深三尺八寸、縱二丈一尺、横一丈二尺五寸、中二分之一爲二南北二局一、南曰二一之湯一、北曰二二之湯一、才氣無二二致一矣、上設二屋宇一、四環板床、以便二浴者一、今所レ存湯槽、實爲二當時遺製一、凡浴者、當先以二杓酌一湯浣煖板面、而後就レ之、隨取泉波徐徐灌二下兩肩及腹背一、名曰二枕湯(○○)一、又湯浸二布巾一洗レ面、及隱曲處平レ心和レ氣、眞如三穉兒爲二水戯一、其膚與レ泉氣相得然後始入二槽内一、霎時許、必得二周身煖透一、重出二槽外一、悠然吹レ氣解レ煩、快二濶心胸一、復浴如レ初、於レ是用二浴器一者、必依二其法一、若有二痛痹攣拘處一、必楯拊按排之、唯意所レ適、毎浴再回爲レ律、嫌レ浴者日二次、嗜者日四次、若乃二山澗之幽、棲觀之美一、寛歩遠眺、絃歌笑語、唯逍遙舒二散是事一、是浴泉之要法也、 浴度 凡浴一日三次爲レ律、羸者減レ之、強人加レ之、猶各不レ過二一二次一、過則有レ害、通俗三臘爲二一順一、其備二預防一者、悠優及レ之、旣病者猶恐レ不レ及、若夫痼疾沈痾不レ在二比例一、自二二三順一至二四五順一以レ差爲レ徹、蓋浴度限以二三臘一者、初臘徐レ之、中臘強レ之、晩臘速レ之、是爲二良法一、按三百年前、文安承徳中、浴度皆然、輓近人情躁進、槩以二二臘一爲レ限、土人亦雷同焉、乖二其古律一、太似レ無レ謂也、諸州黴瘡温泉、猶俗及二五七臘一、況此内治之温湯乎、其功烈
p.1112 之不レ光二於舊一者、固非二温泉之罪一也、有司之不レ勗也、且嘗觀レ之、其犯律偷浴者、謂二之逸湯(○○)一、日自二七八次一至二十餘次一、旣經二六七日一乃充二一順之數一、曰得二其所一哉、是不三徒勦二其形骸一、又將戕二賊斯血精一也、何其殆乎、譬猶二鹽之與一レ酒乎、鹽是百飪之帥、而和過則其味也敗、酒是百藥之長、而飮多則其性也亡故不レ量二其度一、貪飮累酌、一朝欲レ傾二旬浹之美一、則卒然語顚、如レ鬼如レ狂、蕩擾困酗、無レ所レ不レ至、是皆驚二動血氣一、煩二亂心腸一之所レ致也、泉之於二過浴一也亦然、彼且謂、當土温泉火氣寛柔、不レ貪不レ徹、旣浴三日、泉氣漸加二倍於他日一、於レ是乎皮膚骨髓、翕然蒸透、不レ覺レ發レ暈者、比々有レ之、殊不レ知二泉味嚴峻、深以刺レ肌入一レ骨、如二之何一其可二狎犯一也、而況添レ之以二一層火熱一、如二但馬城崎新湯、熊野本宮温泉一、誰敢當レ之、設使三斯泉如レ彼所二企望一焉、則自有二生民一以來、其煎二殺之一、豈唯億萬之麗也乎哉、咄嗟艸野鄙夫、不レ識二物理一、其致二瞽談昧行一、往々如レ此、可レ不レ嘆乎、 浴禁 凡浴二温泉一、有二禁二十有五一焉、今約爲二五道一、一曰、將レ浴禁二大勞、大飽、大飢、大酔、大汗一、二曰、既浴禁三高歌、長語、暴泳、過浴、妄飮二泉液一、三曰、浴已禁下假寐、灸灼、入房、久著二浴衣一、喜食中粘硬物上、四曰、禁下一切瘡疥初發、或病後元氣未レ復、或孕婦三四月七八月、及産後五十日内、或冒邪風、發二宿疾一之日、或憂憤過多之時上、五曰、禁二疾雷暴風、淫雨地震、日月蝕一、凡犯二此五大禁一者、浴後未レ踰二年歳一、必發二急病、卒死、水腫、勞瘵、墮胎、崩血、偏枯、大疫、癇瘈諸證一、是予所二比々目擊一也、名レ之曰二湯逆(○○)一、是不二啻有馬温泉一、諸州温泉皆然、
p.1112 伊豆國賀茂郡熱海温泉記 古しへ今の年毎に、國司諸侯の方々、其外貴賤のわいだめなく、遠近より集て浴湯する輩は、普く効驗なきはあらぬめり、別て此湯の應る疾の品、書記して後に附侍る、 湯効 腹痛 積痞 疝氣 痔疾 中風 痳病 頭痛 久瀉 骨節痛 齒痛 痰飮 脚氣 逆上潰溺 撲損 赤白帶下 陰中冷 麻木 腰冷伏氣腹痛
p.1113 浴中禁 大酒 飽食 房事 假寢 思慮 冷風座 浴準 凡一日に三五度、弱人は二三度、強人は六七度、追レ日漸増て入湯すべし、先杓にて頭よりそヽぎかけ、暫くして湯の中に入、乳を限りひたし、氣を靜め、腰腹をあたヽめ、額に汗を催時、槽より揚り、四支を伸て浴衣を著、休臥する間暫時ばかりなるべし、浴中若微痢もあり、小便濁あり、腹痛もあり、痞動して痛も有、訝事なかれ、日數を入りて効を知べし、 寶暦十二壬午季夏 石渡親由改梓
p.1113 浴法〈ゆあみのしかた〉 温泉に浴して病を治するは、藥を服するに異ず、ゆゑに其度にかなはざれば功を奏しがたし、初てゆあみする人、第一日は朝夕二度あつきとぬるきとは心次第なれど、はじめはあまりあつきに入べからず、入んとする時、まづ顏をそヽぎ、からだをしめし、さて湯に入りて、いたむ所ある人はその所をもみなどして、總身あたヽまりたる時湯をいで、からだをさばし、再びざつと入りてあがるべし、是を一度の入湯とする也、第二日は食前三度、第三日は食前三度、臥す時一度、第四日同じ、第五日は夜晝六度、〈ひる四度、よは二度、〉第六日第七日同じ、右七日を一まはりといふ、一ト廻りにて病ひ動くもあり、湯の利たる也、次の一まはりにて病を療治し、又の一まはりにて病を補ひ、氣血をとヽのひ、支體を健にす、
p.1113 入方用捨の次第 筥根七湯は、悉く効驗ことにして、疾病によりて其しるし各異なりといへども、大概は老少男女を論ぜず、養生を主とし、潤身補益の温湯なり、腎を補ひ、筋骨肌膚を固し、脾胃をとヽのへ、食をす
p.1114 すめ、津液をまし、五臟をあたヽめ、万病に應變す、其外異病怪病といへども、悉くしるしあり、よく其湯宿(○○)にたづねて病に應ずべきに浴すべし、湯宿又古格あり、博覽の醫といへども、温泉の製は別なり、先浴せんとして湯槽にのぞまば、己が手拭もて、湯壺の端を洗ひ温め、其所へ腰をかけ、兩足を湯壺の中へ浸しながら湯を手に結び面を洗ひ、いかにも氣を平らかにして、夫より兩肩脊中腰の邊を、何遍もそヽぎかけ、自然と總身あたヽまるを待て入べし、尤肩の出ぬ程に入るなり、肩出る時は上氣す、男女ともにかヾむはあしく、手足をのばし、指の股までも湯氣の廻るやうに入るべし、上氣を引下るとて、足ばかりを湯にひたすものあり、決して無用なり、却て上氣してあしヽ、かくして總身自然とあたヽまり、透りたりとおもふ時、靜にあがるべし、もし久しく浴すれば、津液燥て害をなすべし、入湯は一日に三度より六七度迄はくるしからず、度々なれば、湯よりあがりていまだ血おさまらざるうちに又入るゆへ、逆上してあしヽ、此ゆへに、すヽむ時は其ほどを考へて浴し、すヽまざる時は見合せて入るべし、己が氣にうけざれば、血もうけず、氣血和せざれば、湯の廻り遲し、よく〳〵辨ふべし、
p.1114 草津温泉游記 余駁二太沖説一、欲レ擧二其善一已、今取三其浴度、浴法、浴禁、并余所二親試一、以告二游浴者一、太沖曰、其初浴也、胸腹開轄、頻飢能食、湯之應也、四五日若七八日後、或下利、腹微痛、若裏急者、亦治驗也、余浴二草津一一兩日、日入レ槽二三次、覺二腹中拘㽲微痛一、旣而心下痞鞭、皆云腹有二痃辟一者、不レ堪二此泉一也、余頗疑懼、然亦恃二太沖之言一矣、果下利二三行、後不二復痞一也、皆云、此湯以レ瀑爲レ要、不レ拊則効不レ多、余試拊一日、胸腹如レ初、用レ鍼而愈、後拊二大瀑一、不二復痞一也、然羸人老人皆不レ宜レ瀑也、余在二草津一、見下及斃二瀑下一者二人上、其一人年三十餘、治レ之即甦、一人五十餘、快レ瀑而貪、氣絶而死矣、由レ是觀レ之、取二一旦一陰醸二巨害一、可レ不レ戒乎、太沖浴度、一日二三次爲レ律、羸人一二次強人或三五次、過レ之則疲勞、草野愚民、一日或至二十餘次一、不二啻不一レ能レ治レ病、將三傷害二生命一、余觀下浴二
p.1115 草津一者上、大半山野之氓、大抵十次爲レ常、其不レ就レ瀑者、自汲以灌二其頂一數十遍、余亦傚二其爲一、千百人皆然、如レ無二其害一、太沖曰、凡浴者、先瀉二槽邊可レ頓處一、徐々灌二注兩肩及腹背一、浸レ巾洗レ面、平心和氣、如三稚兒爲二水戯一、而後沒二入槽内一、霎時温レ體、必以二周身煖透一爲レ度、灌洗沒入、以二再回一爲レ律、此是浴湯之要、不レ可レ易者也、余今用二此法一、日浴三四次、實得二其宜一耳、太沖曰、浴中最須レ辟二風寒一、浴則汗出、腠理開易レ傷レ寒、是誠然、余非レ不レ警、早已感冒、可レ愼已、又曰、浴後戒二假寐一、誠然、余謂、出レ浴須二速更一レ衣、衣濕引二邪氣一、若衣濕而不レ更、則自乾、夏月浴者、多不レ更二浴衣一、如レ此水氣、必入後恐生レ害耳、太沖曰、浴治時禁二生冷肉食一、豈嫌二以レ腹爲一レ鍋耶、殆爲レ之捧腹耳、草津俗法、禁在二浴後一、頗得二古人將息意一、又關西浴後忌レ浴二常湯一、太沖辨レ之爲レ是、又俗忌二浴後灸一、草津俗法、瘡家必用レ灸、浴後日浴二常湯一爲レ妙、土俗同異耳、余游二湯泉一不レ少、莫レ盛二於草津一、亦莫レ酷二於草津一耳、〈庚子八月初二、手二録草津客舍一、〉
p.1115 濱脇温泉在二朝見郷濱脇村一、海濱砂中有二湧泉一、浴法甚奇、先發二沙瘞全軀一、惟頭面出レ之、泉漸浸洽、快浴一炊時、善治二疝瘕痼疾一、
p.1115 尤療病、養生之術、非レ一者歟、身上按摩、口中飮食、并藥湯、針灸、雖二其品多一、雜熱小瘡、對治之様、不レ如二於蛭飼一、中風、脚氣、療養之法、莫レ勝二於温泉一矣、
p.1115 醫員筆語〈◯中略〉 近世温泉盛行、其驗不驗由三于病有二内外之別一耳、未レ知貴邦亦温泉之法盛行乎、〈卑牧(韓人)答〉我國浴二洗温井一之法盛行、只用二於皮膚之病一耳、
p.1115 一およそ温泉の功は、陽氣を宣通し、留瘀を化導し、肌體をあたヽめ、關節を利し、經絡を通じ、氣血をめぐらし、一切の瘀血を破り、穢瘀邪毒を排托し、壅滯をめぐらし、寒をのぞき、濕をさり、積聚、疝癥、むねはらわきなどの冷痛むる、腰脚などのだるくしびれいたむる、手足筋骨のひきつり、のべかヾみかなひがたき類、脚氣、うち身、くじき、一切の傷損、下疳、便毒、諸痔、脱肛、淋疾、楊梅、瘡
p.1116 毒、結毒、疥癬、 瘡、紫白、癜風、并に金瘡のいゑんと欲していへかねる類、婦人の血積、瘀血、經行不順の症、滯下腰冷、下部一切の病、これらの諸病はいづれも温泉によろし、 一又温泉によろしからざる病は、氣血虚損、勞倦不足の諸症、もろ〳〵の失血後、津液の乾燥たる病人、脾胃虚勞咳の類は、もとより論ずるにをよばず、邪熱虚熱ある人には甚あしヽ、病をそへてあやうきにいたる、つヽしみて浴すべからず、無病たり共、生質はなはだ虚弱の人亦浴すべからず、
p.1116 一故に諸國の温泉ある所、一所に湯壺のいくつもある所あり、土地がひとつ所なりとて、その湯に差別なしとおもふべからず、湯壺と相去ること、纔か二三間のあいだにて、その湯の性大に相違するあり、是そのわかす地中の火はおなじ火なれ共、其湯となる水筋の相違、或は又土中にてすでに湯となりて後、その湯のくヾり來るすぢ〳〵に相違ある故なり、肥前温泉山の上に湯壺いくらもあり、その湯壺の相去ること纔か四五間、或は八九間のあいだなり、纔か見へ渡る程の所のことゆへに、その湯に差別あるまじきことなるに、その湯の色、米泔汁を見るがごとく白き湯あり、又青黒色なるあり、砥汁のごときあり、その湯皆極熱にて、人の浴すべき湯にあらず、土人これを名づけて地獄といふ、浴せぬゆへにその性效はしらねども、色さへかくのごとく大相違あるなれば、その性の相違は決定なり、是湯壺の所の土氣に相違もなく沸す地中の火に相違もなき筈なれども、その湯壺々々の水筋の相違、或は土中にて湯となりて後、その湯のくぐり來る筋々に相違あるゆへにかくのごとく色に相違あり、但州城崎の温泉も新湯と瘡湯と、そのあわひ纔かの所なれ共、新湯は瘡を發し、瘡湯は瘡をいやす、曼陀羅湯は、東槽は瘡を發し、西槽は瘡を愈す、これも右之理とおなじことにて、その湯壺々々へ來る湯の、筋々ちがふゆへなり、わかす火に相違あるにあらず、
p.1117 凡此地の温泉は、天下にすぐれたる名湯なり、病に應ずれば甚妙效あり、いづれの温湯にも、浴せんとせば、先其病症に、湯治の相應すると相應せざるとをよく考ふべし、この湯は、相應の病なれば甚しるしあり、手足なへしびれ、筋骨ひきつり、のべかヾめかなひがたく、脚氣の病、高き所よりおち、或落馬し、おしにうたれ、一切の打身、金瘡の愈かぬるによし、皮はだへの病、すべて外症によし、又寒冷の病によし、此等の病に浴すれば大に効あり、他の湯にまされり、氣血不順の症、腹中の滯にも、かろく浴しあたヽめて、氣をめぐらすべし、然れども内症の病には應ぜず、浴すべからず、邪熱虚熱ある人には、はなはだあしヽ、病をそへてあやうきにいたる、必つヽしみて浴すべからず、世上に病症をえらばずして、何の病にもよからんとて入湯する人あり、はなはだあやまれり、相應の病症にあらずは入湯すべからず、益なきのみならず害有、又浴して何のしるしもなく、又害もなき症あり、かくのごとくの症には、浴する事無益なり、およそ浴して益あると害あると、益も害もなきと、此三の病症あり、よく〳〵ゑらぶべし、害有症と益なき病には入湯すべからず、
p.1117 温泉主治 熱海の温泉は、關東第一の名湯なれど、半ば遊山の地とのみ聞て、其功能を詳にせざる人多ければ、其功驗をこヽに記す、 中風にて手足しびれて、歩行心にまかせざるに妙也、眼病、かすみ目、たヾれ目の類は、七日入湯して目をあらへば治する事妙也、 腰の痛 脚氣 筋攣 打身 折傷 諸の蟲 寸白 痔 脱肛 淋病 〈せうかちによし〉 喘息 婦人腰の冷 懷妊せざる人 氣虚 血損 齒の痛〈はのゆるぐには、此湯をふくめば妙也、〉 腫物 金瘡、此湯に入れば、初は其毒をはつし、そのヽち全く愈る事妙也、右いづれも醫療を盡してしるしなきに妙也、けだし水腫、腹滿、癩病は、此湯を禁べし、湯に入る間、房事をつヽしまざれば、きヽみちおそかるべし、
p.1118 因に云、文政十三年七月上旬、百樹此地にいたり、渡部氏の客舍にやどりて、温泉に浴したるをりから、主の婦人の物語に、今年春の半、主翁は江戸にいたりて家にあらず、時に甲州の人とて、〈西郡の某氏〉一人の老人、娘とて中年の女二人、下女一人、從者二人を具して宿りけるが、翁のいふやう、我は疝氣の病ひあり、いもとの娘に癪の病ひあり、二ツの病症此湯に妙なりと聞て、はるばるこヽに來りし也、しかるに此姉に一ツの奇病あり、もし此湯にて治する事もやあらんかと保養かた〴〵につれきたれり、その奇病といへるは、六年以前より晝夜眠る事あたはず、神心勞れて見らるヽごとく枯痩、食すヽまずして闇所をこのみ、人に對する事を忌み、時としては心矇々として人事を辨ぜずして、發狂せるが如、かヽる病にも、此湯の利申にやと問ふ、婦人答ていふ、今聞へ給ける疝と癪とは、此温泉に浴し給ひて、全快ありし人々許多あれど、六年の間眠り玉はざる病を治したる事は、聞もおよび候はず、わらはヽ女の身にて、醫療の事は露ばかりも曉し候はねど、眠り玉はざるは、氣血のとヽのひ給はざるならん、此いでゆは氣血を補ひ、精心をさはやかにするを第一の功とすれば、こヽろみに浴し給へ、その功能に應じ給ふ事もあるべし、さはりとなる事は、いさヽかもあるまじといふに、翁いかにもとて、是よりかの女に〈歳ごろ三十餘〉入湯させし事、十餘日なりしに、ある日朝食を喰する時、碗をとり二た口三口にして、頻に眠り、持たる碗をはたとおとしたるが、おどろきもせで、ねぶければいねんといふに、翁かたはらにありて大によろこび、寐所へ入れて臥せけるに、其日も暮て夜もすがらうまく睡、次の朝も目をさまさず、かくて晝夜三日の間、息ある死人のごとくなれば、翁ははじめのよろこびにかはりて、覺束なくおもひ、主の婦人をまねぎ、しか〳〵のよしをかたり、なにはともあれ、三日のあいだ食せざれば、飢てに、病にあしからん、起すべきやなど婦人に問ふ、婦人のいふ、六年が間眠り玉はざりしとなれば、一日を一年として、六日臥給ふともくるしかるまじ、そのまヽ
p.1119 に甘く眠らせ給へとて、物の音もはヾかりて眠せけるに、第四日の夕かた、みづから目をさまして起立、四日臥したる事はしらず、今は何時ぞといふ、此時主の婦人かたはらにありて、翁に目くばせして、七ツ半も候はんといふに、女うちゑみツヽ、さてもうれしや六年ぶりにてしばしがほどこヽちよくねぶりて、心はれ〴〵としたり、人々は夕けたべ給ひしや、わらはもとて喰をもとむ、翁ほた〳〵よろこび、いざとくといそがするに、婦人ふたヽび翁に目くばせし、六年ぶりにてめづらしくねぶり玉はヾ、めでたく粥をすヽめ給へとて、にはかにてうじたてヽすヽめけるに、常にまさりて心よくはしをとりつヽ、給仕する下女にものいふさまなど、つねにはあらぬ事にて、人のなみ〳〵なりければ、翁かたはらにありて、よろこぶ事かぎりなし、かくて次第に快く、寢食つねのごとくになり、人に面をあはする事を嫌ひたるも、わすれたるがごとく、したしみあさき相客の女にも、ものいひかはすやうになりて、三めぐりあまり浴して、奇病といひしもまつたく愈ければ、翁はさらなり、妹をはじめ、從者までもいさみよろこび、翁も妹も病をわすれて、めでたく故郷へ立かへりぬとものがたれり、此物語のついでに、江戸にて某の人年久しき腫物の、ふしぎにいへたるはなし、又は他の客舍にて、諸病の愈たるものがたるなど、雨のつれ〴〵にあまたきヽたれど、さのみはとてもらせり、
p.1119 出湯のいさほし 夫温泉は、天地自然の理にして、陰陽交會し、水火妙合して温泉となる故に、是に溶すれば、いつとなく人の肌體、腹臟、表裏關節に貫徹し、陽氣を宣通し、留瘀を化導し、經胳を利し、氣血をめぐらし、邪毒を排托する事、たとへば膏澤の物をうるほし、時雨の物にそヽぐが如く、澳然として鬱をひらき、結を解き、寒を除き、濕を去る事、皆温泉の能也、別て婦人血積、瘀血、經行不順の症、其外帶下、腰冷、下部一切の病によろし、
p.1120 所々湯文(○○) 湯本〈冷湯也〉〈好〉腫物類 筋氣 脚氣 瘡毒 小瘡類 下疳 骨痛 痔 田蟲 瘧 錢瘡 コセ瘡 水蟲 疝氣 寸白 消渇 喉痹 中風 打身 頭痛 胸痛 癜風 灸破 眩暈 腰痛 切疵 突疵 〈禁〉痰 咳嗽 黄疸 腹中 蟲積 虚勞 食傷 痒 疥瘡 塔澤 〈温湯也〉 〈好〉中風 脚氣 筋氣 痹 蟲積 疝氣 頭痛 寸白 虚勞 眩暈 痰 痔類 呢逆 黄疸 打身 折 腫物 瘡 田蟲 眼病 口中痛 腹中 經水 長血 宮下〈并〉堂島 〈温湯也〉 〈好〉蟲積類 脚氣 黄疸 筋氣 中風 寸白 疝氣 腹中 喘息 頭痛 眩暈 打身 折 血塊 下腰 痔 痹 虚勞 顚癇 〈禁〉腫物 瘡類 蘆湯 〈温湯也〉 〈好〉打身 筋氣 痢 腫物 金瘡 中風 婦人 崩漏 脚氣 痔 田蟲 腋臭 癜風 瘡類 痰 〈禁〉頭痛 耳 淋病 木賀 〈温湯也〉
p.1121 筋氣 脚氣 中風 上氣 頭痛 痰 喘息 寸白 血塊 下腰 打身 痹 眩暈 顚癇 虚勞 腹中 〈禁〉瘡毒 腫物類 土肥小海 〈好〉蟲 脚氣 打身 筋氣 中風 〈禁〉腫物類 熱海 〈温湯也〉 〈好〉中風 筋氣 痔 蟲 田蟲 癜風 上氣 腫物〈但肉不レ上佳也〉 血塊 胸痛 腰痛 下冷 淋病 痹 胸否 齒 〈禁〉顚癇 瘡毒 黄疸 小瘡 已上 澀江長怡考レ之
p.1121 温泉能毒大略 御座の湯 〈冷也〉 癩瘡 癰疔 腫物 血虚 氣虚 破血 諸瘡 瀧之湯 頭痛 癩瘡 損傷 打撲 積聚 諸蟲 眼病 癰疔 虚勞 諸痰 諸瘡 五痔 中風 上氣 疝氣 鬱滯 癲癇 癜風 癬疥 諸腫物 脚氣の湯 綿の湯 鷲之湯 右三湯者極熱湯也 冷虫 積聚 筋氣 腰痛 五痔 下血 疝氣 咳嗽 食滯 痰飮 氣鬱 脚氣 麻木
p.1122 脾胃虚 胸痛 諸濕 勞察
p.1122 四万温泉之來由記 抑上野國吾妻郡四万の郷の温泉は、〈◯中略〉淡味在、鹹味有、或は浴、或は蒸、能百病を治る事妙ニして、誠に無雙の名湯也、〈◯中略〉 一第一血分を増 一頭痛上氣 一蟲一切之しやくつかへ 一腹痛、打身、きだん、わうだん、 一疝氣、すんばく、 一痰、せき、痔、痳病、 一てんかん、かくの煩ひ、ないそんひいきよ、てうまん、中症、下血、吐血、勞症、虚勞、氣のつき、 一女中一切の血煩、月水不順、血懷、血蟲、しやくつかへ、一切眼病に妙なり、其外濕、ひぜん、水蟲、多蟲、なまず、漆かせ、しらくも、がんがさ、面瘡、いぼ、其外何共知れざる煩は、別而功能早速也、 總て虚症の人は精氣を増、其外功能勝計りがたし、有増記レ之者也、 四万湯本 田村文左衞門
p.1122 昔は鹽原湯泉八ケ所と云ひしが、今は其所或は廢し或は湯涸れて、延寶の始地震有りて、又鹽原の湯は涸れ失けるよし也、今の所と云ふは、福綿戸、鹽竈、旗下戸、門前、古町、鹽の湯、簀卷、新湯、甘湯等也、〈◯中略〉左に湯泉の効能をしるす、 福綿戸 岩の湯〈薄赤く濁り、色鹽氣あり、〉大熱湯 主治 疝氣 寸白 脚氣 諸虫 積聚 橋本湯〈色清く少し鹽氣有甚あつし、〉中熱湯 主治 腹痛 手足痹 冷の湯〈色清し〉 大冷湯 主治 頭痛 痰 眼疾 鹽竈
p.1123 殼風呂 大熱湯 主治 中焦下焦渇 手足痛 諸痔 坂下湯〈少し濁り有〉 大熱湯 主治 痛風 手足痿たるによし 旗下戸 中の湯〈色清く、鹽氣あり、〉 熱湯 主治 脚氣 腰痛 脇痛 血の道 河原ノ湯〈少し濁り、酢く甘し貉(ムヂナ)湯とも云、〉 大熱湯 主治 疝氣 脚氣 下焦の冷 金瘡 次の湯〈少し濁り有〉 中熱湯 主治 逆上を引下ゲ 濕氣を拂ふ 門前の湯〈色清し〉 大冷湯 主治 頭痛 眼病 諸瘡 古町 御所湯〈色清し、鹽氣有、〉 中熱湯〈平穩〉 主治 疝氣 頭痛 氣積 腰痛 角の湯〈色清し〉 中熱湯 主治 打身 金瘡 痰 〈何れの病後にても、是に浴してよしといふ、〉 中の湯〈薄濁り〉 大熱湯〈岩の湯に類す、名湯也、〉 主治 疝氣 寸白 脚氣 筋骨痛 中風 瀧の湯〈色清し〉 冷湯 主治 頭痛 眼病 淋疾 濕氣 不動湯〈少し濁有〉 熱湯 主治 鬱氣ヲ開ク 頭痛 眼病 中風 梅の湯〈色清く、鹽氣有、〉 中熱湯 主治 痰火 腰痛 脚氣 婦人血ノ道病後 簀卷 瀧の湯〈色清し〉 冷湯 主治 頭痛 眼病 濕氣を拂ふ 鹽の湯 岩の湯〈少し濁り有、鹽氣つよし、天狗湯とも云、〉大熱湯 主治 疝氣 眼病 虫 血授 中の湯〈色清し、鹽氣つよし、〉 中熱湯 主治 頭痛 諸瘡 手足痛
p.1124 次の湯〈色清し、鹽氣強し、〉 中熱湯 主治 脚氣 心痛甚敷によし 新湯 上の湯〈貳ケ所 鼠色、酢く澀味有、硫黄の氣甚し、〉大冷湯 主治 眼疾 諸瘡によし 瀧の湯〈薄濁り酢し〉 にが湯〈薄黄色、苦酢し、〉 下の湯〈赤白し、澀み、甘み、鹽氣有、〉 右いづれも冷湯にして、主治、上の湯に類すべし、 甘湯〈湯に甘み有とて甘湯と云、和らかにして温也、〉 主治、機織の湯に類すと云へり、 右當地温泉の効能、〈予〉が聞所大略斯の如し、竊に考ふるに、其地により、硫黄、雄黄、辰砂、礬石等の物ありて、其氣になれそヽぐが故に、其所によりて温泉に緩急ありて、効能またかはるといへ共、其山谷の氣は同じく、其温泉の水源は一なるべし、凡温泉の功は、陽氣を宣通し、血氣を廻らし、肌體をあたヽめ、關節を利し、瘀血を破り、滯りを散じ、寒を除き、濕を去り、積聚、疝氣、むねはら、わきなどの冷痛の類、腰脚のしびれだるく痛む類、手足筋骨のひきつり、のびかヾみなり難き類、脚氣、うちみ、くぢき、一切の傷損、下疳、便毒、諸痔、脱肛、淋疾、楊梅、瘡毒、疥癬、雁瘡、紫白、癜風、金瘡愈んとして愈ざる類、婦人の血積、瘀血、經行不順の症、帶下、腰冷、下部一切の病、これらの諸病いづれも温泉によろし、又温泉によろしからざるもの病は、氣血虚損、勞倦不足の諸症、もろ〳〵の諸失血後、津液乾燥たる病人、脾胃虚勞咳の類は浴すべからず、
p.1124 香川氏曰、温泉不レ熱者、無レ益二于病者一、可レ謂二夏虫之見一矣、藝州佐伯郡有レ泉、曰二水内一、治二腰脚不隨者一有二奇効一、其泉頗冷、秋冬難レ浴、
p.1124 安藝州佐伯郡水内和田村の内に、吉と云山の麓に湧泉あり、温泉にはあらず、此泉
p.1125 水に浴すれば諸痛を治する事いたつて奇効あり冷泉にして、久しく浸し漬る事あたはざる故、筧などをかけ、瀧のごとく水を通はせ、痛所へ打るヽなり、往年江村北海先生、樋口卜齋翁と伴ひ往きて浴せらるヽに、諸症忽退き、効驗ありし話ありしなり、此泉水に錢を浸しおけば、旬日の間にこと〴〵く黄金色に變ず、此を吉の金錢と唱ふ、泉窟に對して向吉(ムカフヨシ)と云山村あり、此地に寺の平七といふ百姓あり、屋後に温泉權現と號し、鎭守といひ傳ふる小祠あり、神體なりとて、方一尺許の石を一顆置、屋上に記版あり、天文十五年丙午二月草創せしよしを記せり、京攝よりは程隔りぬれば、都下の人はこの泉の効を知る人稀なり、此邊の海上、すべて春末三四月の間、棘鬣(たい)魚多く群れ來り、潮上に身を扁して浮く故、漁者これを捕るに勞なく纚(サデ)などにて心易く救ひ捕る、これを浮鯛と名付て、名産とせり、此湧泉に浴しに往くを、湯治とはいはれずとて、水治(○○)といふもをかし、
p.1125 温泉 自二關ノ山一二里半〈在二高田之西南三里一〉 在二寒熱温三湯(○○○○○)一、如レ鼎各相去半町、其寒湯却レ熱人浴レ之遍身冷凉、而眼病金瘡能治、又熱湯却レ冷、人浴レ之全體熱温、而濕病痔脱肛等佳也、温湯中和尋常人多浴、
p.1125 後藤彌兵衞條目〈天正八年歟〉 定 一底倉湯治之衆、一日ニ湯錢人前より壹錢宛可レ取事、 一鹿取しへ取きるべからず事 右對二地下人一狼藉有レ之ニ付而者、主人ニ申斷、小田原ヘ可二申越一候也、仍如レ件、 後藤彌兵衞 辰三月廿八日 花押
p.1126 十一日、城崎郡湯島〈◯中略〉温泉に浴する事、入込湯には湯錢なし、幕湯の價一廻六匁なり、一日に三度づヽ、湯女これをしらす、別に切幕といふあり、一室限に浴するなり、一日に二度づ一廻の價金一歩なり、湯治人初めて宿に著時、祝儀を贈る事定りなし、此度は主の妻に百匹贈り婢四人僕二人に百匹、湯女三人に六匁、湯支配(○○○)菊屋元七に銀一兩贈り與へたり、
p.1126 幕湯 まくゆ 今の俗、所々の温泉に、幕湯と云事有、貴賤入交りゆあむる事をさけて、幕にて隔て遮りて、他人を交へぬを云、是西土にても有事也、小窻別記に、〈卷二〉石虎が奢靡の事をしるせし所に、又爲二四時浴室一、用二鍮石賦砆一爲二堤岸一、或以二琥珀一爲二缾杓一、夏則引二渠水一、以爲レ池、池中皆以二紗縠一爲レ囊、盛二百雜香一、漬二於水中一、嚴氷之時、作二銅屈龍數千枚一、各重數十斤、燒二火色一、投二於水中一、則池水恒温、名曰二燋龍温池一、引二鳳文錦歩帳縈一蔽二浴所一、共二宮人寵嬖一者、解二媟服一、宴戯彌二於日夜一、名曰二清嬉浴室一、浴罷洩二水於宮外水流之所一、名温泉渠一、渠外之人、爭來汲取、得二升合一以歸、其家人莫レ不二怡悦一、至二石氏破滅一、燋龍猶在二鄴城一、池今夷塞矣と見えたる、全く幕湯の事也、
p.1126 有馬温泉〈◯中略〉 入湯に品あり、幕湯、幕間、狹嫌、追込等の名あり、其幕湯といふは、浴室の入口に、其入湯の人の宿れる坊屋の印を染たる幕を打て、他の人を止む、室内には晝夜常燈を照らす、これ藥師堂の側なる報恩寺より燈す、開基僧正行基、中興仁西上人の木像、腰輿に乘て毎年正月二日温泉の入浴初あり、其時温泉寺の別當、僧二十宇の坊主、列を糺して浴室にて祝式あり、
p.1126 汲湯とて、此地に來らずして、遠所へ汲よせてあたヽめ浴する人あり、寒月には湯の性うせずして、少のしるし有べし、温なるときは、日をへて後陽氣つき、水の性變じてあしくなるべし、鹽湯五木湯などに入にはしかず、
p.1127 廣家年老シ多病、世事ニ倦ム、故ヲ以テ常ニ駿武ニ參覲スル能ハズ、同〈◯慶長〉九年甲辰偶上京シテ家康將軍ニ謁セリ、熱海ノ温泉五桶ヲ賜、〈東條式部卿法印ヨリ、福原越後守ヘ添書アリ、〉
p.1127 慶長九年甲辰四月、廣家公上洛シ玉フ、〈◯中略〉家康公ヨリアタミノ湯ヲ廣家公ヘ賜フニ依テ、東條式部卿法印ヨリ、福原越後ヘ書ヲ遣ス、 吉川藏人殿、あたみの湯御望の由申上、昨日五桶我等かたへ請取置申候、今朝以二使者一申候へ者、はや御下候、然者大坂へ被レ遣舟便ニ御下候て可レ給候、未大坂ニ御逗留候者、早々飛脚を被レ遣、御屆頼入候、恐惶謹言、七月十六日 判 福越後様 人々御中
p.1127 天保三辰年四月〈本多修理知行所 伊豆國加茂郡和田村〉願人〈名主〉新左衞門 右和田村之義、温泉有レ之、慶安三寅年樽詰(○○)に致、爲二御用一江戸江相廻し候義も有レ之、其外元祿十七未年津波ニ而浴場并民家一圓に押流し、夫より中絶致候處、舊例も今般右温泉樽詰御府内相廻し、故障之義無レ之哉、 乍レ恐以二書付一申上候事 一和田村湯、何拾年已前ニ出來仕候共不レ奉レ存候、但湯屋立申候義ハ、慶安三年戍年に立申候、年數之義は、當午年迄九十三年ニ罷成申候、 湯能書之覺
p.1128 一中氣によし 一すじけによし 一つかひによし 一打身によし 一頭痛によし 一ぢニよし 一くぢきニよし 右之通吟味仕、書付差上申候、 元祿三年 卯四月廿九日 新左衞門 孫右衞門 作右衞門 新右衞門 傳左衞門 棚橋吉太夫様 西方彦助様 右之通、書付差上申候扣也、 右者拙者共、奈良屋市右衞門殿被二相呼一、前書之趣被二申含一、市中差障之義も無レ之哉御尋御座候間、御支配内御取調、差障有無來ル廿日迄、清右衞門方江可レ被二仰聞一候、 但湯屋渡世之者は、本文御同所ニ而、直ニ御尋有レ之ニ付、御調及不レ申候、爲二御心得一此段御達申候、以上、
p.1129 三月十五日 明田揔藏 千柄清右衞門
p.1129 出湯を樽につめ、馬におほせて他國へつかはすを見て、 伯水 國々へ馬におほせてやる時は一もさながらにの湯にぞなる
p.1129 造泉 天下之水一也、天下之火無二二致一矣、況天下之金石乎、今也擧二天下之火一、以燂二天下之水一、和レ之以二天下之金石一、然而其氣味息色、確乎温湯、其才力亦髣髴乎、眞泉者名レ之曰二家温泉(○○○)一、家温泉天下之一大奇貨者也、上自二王公姫姜一、下至二鰥寡孤獨一、凡懷二久痾長患一、不レ可二自由一者、好擧二斯術一、則一時縮二地於千里一、沸二泉於咫尺一、悠優閑浴、以鎔二化累年之痼一、猶レ還二諸掌一、然不二亦痛快一哉、予昔嘗入二馬山一、熟觀二泉性一、退而撰二水火辨一、遂及二泉論一、因察二金石交會之理一、假造二温湯一、歴二試諸人一、然後果識二家温泉有一レ裨二益於世一矣、則予豈敢闇然而懷レ之哉、向者太沖造二假温泉一、擬二諸但馬温湯一、曰温泉即天生花、藥湯即剪綵花、假使形似色類竟乏、天生鮮艷、況於二香味一乎、誠斯言也、以二艸藥一則似焉、苟淘二汰泉石一以醸二成泉性一、是則人家一種温泉矣、復何香味之損、若夫所レ謂假温泉(○○○)、用二區々糯米殼、或火酒等一、亦何異二於世俗所レ用百艸湯、忍冬湯、當歸湯、枸杞子湯等一哉、如レ是者直謂二之剪綵花一可也、是豈温泉間之物乎哉、欠二其天性香味一、固其所也、如二吾家温泉一、果非二同日之論一也、浴者其辨二察之一、
p.1129 服元喬伊豫温泉碑に、神功皇后を擧たるは何に本づきしや、書紀に、温泉の事初て舒明紀に出づ、温泉は、唐土の人さしていはねど、斯邦にはもてはやす事なり、瘀血、壅滯、癥疝、痱痙、手痹、脚痿、攣急諸病、梅瘡、下疳、便毒、痔漏、疥癬、惡瘡、撲損、閃肭、婦人腰冷、帶下等の病に浴するなり、道路の遠して行事ならぬ者の爲に、假温泉(○○○)を作りて浴さする事あり、山村通庵が法は、畸人傳に出せり、
p.1129 山村通庵
p.1130 法橋通庵、名は重高、伊勢國松坂の人、北畠の庶流なれども、其先同國山村に住せしより、これを氏とす、爲レ人無我にして正直、禪に參し、文茶香瓶花のごとき風流の伎藝に通ず醫は後藤左一に學びて、自右一と名のる、薙髮の後、通庵といへり、其言に曰、師は灸治に心を盡せり、我は温泉の効を試んため、諸國に遊び、氣味功能を熟驗す、但馬城崎、上野草津は其徳ひとしく、天下に類なし、然るに路程遙にして或は至りがたきもの有、是がために變方を制すと、即印施の方あり、〈◯中略〉 〈但馬城崎上野草津〉温泉變方 助レ氣温レ體、破二瘀血一、通二壅滯一、開二腠理一、利二關節一、宣二暢皮膚肌肉、經絡筋骨一、癥疝、痱痙、痹痿、手痹、脚痹、攣急諸痛、消レ腫、治レ痔、微瘡、下疳、便毒、結毒、登漏、疥癬、諸惡瘡、撲損、閃肭、婦人腰冷、帶下、大凡痼疾、怪痾、洗浴多レ効、 潮水五斗〈潮水なき國々にては、常の水に鹽一割入て用ゆ、効同じ、〉 米皮糠壹斗 鵜目硫黄〈六百目、細末にして布の袋に入、糠を煎じたる湯の中へふり出す、〉 右潮水四五斗の内を貳斗分、米皮糠一斗を入、糠の赤くなるまで煎じ、其湯を飯簀にて桶へ漉し、居風呂へ入る、一日に三度づヽ浴す、風呂の湯熱き時は、潮水さし入る也、冬三月は十二三日、他月は六七八日も不レ變、六七の暑月は、四五日過て上水を取捨、新なる潮水、米皮糠硫黄も初の半ほど入べし、諸病にさはりなし、右印施の儘を寫す、翁歿後四十年に向とし、今は世に殘らぬば因に記して世を惠むの志を嗣のみ、翁はおのれがゆかりなれば也、〈私云、浴湯は遇不遇、その稟賦病症をはかるべし、凡實症にはよろしくして、虚症にはよろしからす、〉
p.1130 温泉(ユノ)神社〈下野那須三座内 又陸奥 玉造磐城兩郡座〉
p.1130 一或問、我國温泉涌出の地、國神を祀りて鎭ンとす、異邦にもかヽるにやと、曰、三秦記云、驪山温湯舊話に以二三性一祭、乃得レ之云々、
p.1131 なほ因に、湯泉のことに就て、此段の二柱神〈◯大己貴命、少彦名命、〉を祭れる社を言はヾ、まづ攝津國有馬郡にも温泉ありて、上代の天皇たちも御幸ありしこと、國史に數見えたり、神名式に、此郡に湯泉神社、〈大月次神嘗〉また有間神社などあるは、共に此二柱神を祭れりとぞ、〈湯泉神社のことは、親長記に湯山明神三輪明神なりと云、千載集に、有馬の湯に忍びて御幸有ける、湯の明神をば、三輪明神となむ申すと聞て、めづらしく御幸を三輪の神ならばしるし有馬の出湯なるべし、と見ゆ、今も湯山町と云に在て、神界に温泉あり、色葉字類抄に、温泉三和社、舊記云、大神温泉鹿舌也、崇神天皇御宇之時七年、始被レ定二置神戸一云々など見え、有間神社は、熊野、三輪、鹿舌の三座にて、鹿舌の神とは、少彦名命なり、今は香下村なる鹿舌山といふに在て、鹿舌明神と申すと諸書に云ひ、攝津志には、在二中村屬邑西尾一、今稱二山王一、近隣七村所レ祭、村民平日忌レ穢、婦人産期、出就二水涯一、分娩未三嘗有二産死者一といへり、何れか是なることを知らず、〉また上野國群馬郡に、伊加保神社〈名神大〉とある社の祭神も、今は湯前大明神といへども、少毘古那神なりとぞ、一説には、元湯彦友命、又名彦由支命と申すと、此社のこと記せる物に見えたり、元湯彦友命、彦由支命といふ神名、古書に未見當らず、決めて少彦名命の亦名なるべく所念ゆ、〈此社のこと、國史に、承和元年九月辛未、以二上野國群馬郡伊賀保社一預二名神一、同六年六月甲申、奉レ授二上野國無位御賀保神從五位下一、貞觀五年十月七日、上野國正六位上若伊賀保神從五位下、同十一年十二月廿五日、正五位下伊賀保神正五位上、同十八年四月十日、授二正五位上伊賀保神從四位下一、元慶四年五月廿五日、授二伊賀保神從四位上一、同年十月十四日、授二正五位下伊賀保神正五位上一など見ゆ、但し此十月十四日なる正五位は、正四位の誤なるべし、〉此所に謂ゆる伊加保の温泉あり、また此社に並びて椿名ノ神社とある社は、今榛名山といふ山に在て、俗に滿行宮大權現と云、此神も元湯彦命なりと社説なり、〈一説に、中に伊弉諾、伊弉册尊、左右は國常立尊、大己貴命と云は信がたし、或説に、式に椿字をかけるは、榛の誤なりと云るは然る説なり、〉さて萬葉十四卷上野歌に、伊香保呂能蘇比乃波里波良と詠るが二首あり、〈伊香保呂とは伊香保山なり、呂は詞の助なり、蘇比乃波里波良は傍の榛原(ハリハラ)なり、榛名山の地名に由ありておぼゆ、〉また可美都氣努伊可保乃奴麻爾云々と詠るものあり、
p.1131 温泉三和社(○○○○○)〈攝津國有馬郡座、舊記云、大神、湯泉、鹿舌三像大明神者、是一體分身也、故名二號三和社一、崇神天皇御宇之時七年、始被レ定二置神戸一、載二天慶八年交替帳一、三和夫大明神爲レ鎭二護國家一、爲レ利二益衆生一、借二名權現一垂二跡此土一、或現二觀音身一、或示二醫王像一、從二身中一出二温泉一、眼前療病、源藥有二効驗一、日本紀云、孝徳天皇三年十月、幸二有馬温湯一、左右大臣群卿云々、行基菩薩草創、此温泉令二一切衆生一、爲レ去二除病命一云々、即書二如法經一奉レ理二温泉底一云云、〉
p.1131 湯山權現 在二湯本之東南一
p.1132 祭神三座 有馬神社〈公智神社湯泉神社〉當山地主權現也、凡寺社多南向、當社北向也、
p.1132 攝津國 有馬郡三座 湯泉神社〈大月次新嘗〉
p.1132 湯の大神にまうづ、所は温泉より一丁ばかり東南にて、いさゝか高くのぼる所、南の山のそばになん、北にむかひてたヽせ給へる、あたはらといふやまひに、としごろなやむよしまうして、此やまひやめ給へ、御湯のしるしあらせ給へと、ねんごろにねぎまうして、こヽにつきける日よりはじめて、朝ごとにまうでぬ日なし、そも〳〵此大神、今は權現の宮と里人は申す、さるは熊野權現、三輪明神、鹿舌明神と申て、三柱をまつれるよしいひつたふ、千載集には、有馬の湯に忍びて御幸ありける御供に侍りける、湯の明神を三輪のみやう神となん申侍ると聞て、物にかきつけて侍りける、按察使資賢、めづらしき御ゆきをみわの神ならばしるしありまのいでゆなるべし、となんあれば、むねとは大汝命をまつれるなるべし、藥の神にまし〳〵て、人の病をたすけ給ふときけば、ことにたのもし、延喜式の神名帳に、湯泉神社としるされたるはこれなるべし、安永二年といひしとし、此わたり寺また人の家どもヽ、そこらやけぬるをり、此御社もやけ給ひぬとて、今はかり殿になんおはします、此東の今一きは高くて平らかなる所は、藥師の御堂の跡なりとて、竹の垣をゆひめぐらしたるに、たくみどもあまたして、大きなるくれざいもくほど〳〵とうちけづるなり、本尊は、今は御社のむかひなる何がしの坊におき奉れると、いと尊くきらきらと大きなる御ほとけなり、此佛のたふときこと、又出湯の深きゆゑよしなんど、此坊につたへて、物にしるしたる、いにしへ大水いで來て、山くづれたるに、湯のあたりも何もうせはてヽ、年ごろへけるに、行基ぼさつといふ法師、すぎやうにありくをりふし、熊野權現といふ神に出あひ奉りて、尊き御さとしごとうけ給はりて、衆生のやまひをすくはんためにたづね來てなん、此御湯
p.1133 を二たびおこしけるとかや、そのかみめづらかにあやしきしるしどもなんどあらば、いけるごとなんと、さま〴〵いふなるは、例のおろかなる世人をあざむきならへる、佛の道のくせぞかしと、うるさくてなほざりにのみきヽすぐす、
p.1133 下野國十一座〈◯中略〉 那須郡三座〈並小◯中略〉 温泉神社〈◯中略〉 陸奧國一百座〈◯中略〉 玉造郡三座〈並小〉 温泉神社 荒雄河神社 温泉石神社 磐城郡七座〈並小◯中略〉 温泉神社〈◯中略〉 出雲國一百八十七座〈◯中略〉 意宇郡卌八座〈大一座、小卌七座、◯中略〉 玉作湯神社
p.1133 湯神社〈伊與温泉郡四座内〉
p.1133 伊豫國 温泉郡四座 湯神社
p.1133 和名抄に、伊豫國温泉郡あり、〈訓には、此も湯とあり、〉風土記には湯郡と作き、〈◯中略〉さて神名式に、此郡に湯神社あり、祭神は大己貴命、少彦名命なりと或書どもに云へり、宲然るべし、〈今も松嶺(嶺當レ作二山領二字一の道後と云處に温泉ありて、諸人浴す、温泉の上なる小社、すななはち湯神社なりと國人の説なり、〉
p.1133 伊豆の山は走湯山共いふ、こヽにまします御神をば走湯權現と申奉る、むかしかまくらの右大將、〈◯源頼朝〉伊豆はこねを信じ、つねに二所參詣をいたし給へり、此所に出湯あり、石はしるたきの如くなれば、走湯とは申すとかや、 ◯
p.1134 しほ湯 攝津國潮湯 散木集〈ニ〉津の國にしほゆあみにまかりて、月のもりいりたるをみて、あしのやのあれまをわけてもる月を泪の床にやどしてぞ見る、 今按に、鹽湯は有馬歟、又古へ難波の潮をあみしをもいひしか、知るべからず、夫木抄、慈鎭和尚、誰か聞難波の鹽のみつなへに田箕の島の鶴の諸聲、とも讀たれば、難波の潮にてもや、田箕島は西生郡にあり、夫木抄〈二十五〉九月ばかりに長居の浦といふ所に、鹽湯あみに出て、住吉の長ゐの浦もわすられて都へとのみいそがるヽかな、夫木抄卷未考、源兼昌、わたつ海のはるけき物をいかにして有馬の山に鹽湯出らん、
p.1134 長元八年二月九日甲子、巳刻參二關白殿一、今日爲レ沐二鹽湯一、北方相具、令レ渡二宇治殿一給、可レ然上達部殿上人諸大夫等追縱、公卿或烏帽直衣、或布衣、但僕并左大丞宿衣、諸大夫布衣、女房車二兩見物車馬夾レ路連々、及二晩景一到著給、人々間歸京云々、
p.1134 長治元年九月十六日丙戌、右大將自二昨日一候二宇治一、爲二鹽湯一也、 永久四年九月三日癸巳、此兩三日依二二禁一止二鹽湯一、 五日乙未自二今日一不二方違一、今夜又始二鹽湯一、
p.1134 しほ湯あみに、西の海のかたへまかりたりけるに、みるといふものをみづからつみて、都なるむすめのもとへつかはすとて、 平康貞女 磯なつむ入江の浪の立ちかへり君みるまでの命ともがな かへし むすめ 長居する蜑のしわざと見るからに袖の裏にもみつ涙かな
p.1134 しほ湯にまかりたりけるに、具したりける人、九月晦日にさきへ上りければ、つかはしける人にかはりて、 秋はくれ君は都へかへりなばあはれなるべき旅のそらかな
p.1135 かへし 大宮の女房加賀 君ををきて立いづる空の露けさは秋さへくるヽ旅の悲しさ 鹽湯いでヽ京へ歸りまうで來て、古郷の花霜がれにける哀なりけり、いそぎ歸りし人のもとへ、又かはりて、 露おきしにはの小萩もかれにけりいづち都に秋とまるらん かへし おなじ人 慕ふ秋は露もとまらぬ都へとなどていそぎし舟出なるらん
p.1135 大永六年七月、〈◯中略〉興津左衞門の館、しほ風呂(○○○○)興行、一七日湯治、〈◯中略〉中御門殿御在國、折ふし興津しほゆ湯治旅宿へ、文にあそばしそへて、 さむき夜はむかふうちにも埋火のをきつることぞ思ひやらるヽ