幼名

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 小字(ヲサナナ)

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 小字 わらはな 童名 小字 乳名
これは幼少なる時の名也、今俗には若名といへり、唐人紀事の中にも、小名録一卷有て、古今の人の幼名を出せり、又宋にも小字録有、しかれば小名小字は、かよはしても互に云なるべし、

〔類聚名物考〕

〈人物十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 童男名
およそ古への人に名付しさまは、おほくは魚鳥、または物によせていへる事多し、猶その外になにの事とも、今にして思ひわきがたきものもおほくあり、中比よりは、何丸などいふぞおほき、西土の書に、少名録少字録などいふ物も有り.

〔廣益俗説辨〕

〈後編四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 幼兒に賤名をつくる説
俗間に、幼兒のよくそだつまじなひとて、犬牛猪などの字をよぶことなり、
今按るに、日本にかぎらず、異邦にもこれあり、司馬相如、小名犬子、揚雄子、小名童鳥、其餘袁虎、桓豹、白象、狗兒〈見于小名録〉仙鵞、〈兒于侍兒小名録〉などのたぐひなり、

〔梅城録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0693 惟昔化兒菅氏家〈○中略〉
文集云、會春晨景淑、獨憑南軒目、俄有髠髪兒、弄花于庭、肌肉玉雪、襦綉芳蓀、年幾五六歳、相公〈○菅 原是善〉驚異問曰、君家何許、姓氏爲誰、兒曰阿呼(アコ/○○)、〈小字(○○)〉無姓無家、唯欲事相公爾、

〔古今著聞集〕

〈二/釋敎〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 吏部王記曰、〈○中略〉昔本元興寺僧、有童子阿古、少而聰悟、

〔大鏡〕

〈六/内大臣道隆〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 帥殿〈○藤原伊周〉の御一服の十六にて中納言になりなどして、よの中のはかなもの、といはれ給ひし、殿の御童名は阿古君〈○隆家〉ぞかし、

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 近衞舎人得名輩
尾張安居〈童名安居、不改用訓云々、〉

〔源氏物語〕

〈二/帚木〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 かくれたらん所にだに、なをゐていけとの給へど、〈○源氏〉いとむつかしげにさしこめられて、人あまた侍めれば、かしこげにと聞ゆ、いとおしと思へり、〈○小君〉よしあこだになすてそとの給て、御かたはらにふせ給へり、わかくなめかしき御ありさまを、うれしくめでたしとおもひたれば、つれなき人よりは、中々あはれにおぼさるとぞ、

〔故實拾要〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 童名
是堂上諸家中ノ息、元服以前ノ童名、攝家ハ何君ト君(○)ノ字ヲ被附也、或長君常君ナド云也、淸華以下ノ諸家ハ、何丸ト丸ヲ被附也、藤丸鈴丸ナド云也、

〔大鏡〕

〈七/太政大臣道長〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 太政大臣道長、〈○中略〉男君二所と申は、今の關白左大臣賴通のおとヾと聞えさせて、〈○中略〉是を宇治殿と申、わらは名は、たつぎみなり、今一所は、たヾ今の内大臣にて左大將かけて、敎通のおとヾと聞えます、よの一の人にておはしますめり、これは二條殿、御わらはなせや、〈○せや一本作こせ〉君、〈○中略〉男君は大納言にて春宮大夫賴宗ときこゆ、御わらは名、いは君、今一所はおなじ大納言中宮權大夫能任と聞ゆ、今一所中納言長家、御わらはな、こわか君、今一所は馬頭にて、顯信とておはしき、御わらはな、こけ君なり、

〔榮花物語〕

〈一/月宴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0694 ないしのかみ〈○村上尚侍藤原登子〉のおほんはらからの、たかみつのせうしやうときこえ つるは、わらは名は、まちをさぎみときこえしは、九でうどの〈○藤原師輔〉の、いみじうおもひきこえ給へりし、

〔口遊〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 竊以、左親衞相公殿下〈○藤原爲光〉第一小郎〈小名松雄君○誠信〉年初七歳、天性聰敏、毎耳聽目視性銘一レ心、及今年〈○天祿元年〉秋、以門下書生師、讀李嶠百廿詠矣、

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 たづのおほいどの〈○藤原基家〉は、童名たづ君なり、鶴を飼給ひけるゆゑにと申は僻事なり、

〔元服法式〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 元服次第
一元服以前は、をさな名とて、何若丸(○)何千代丸などヽ名のる也、元服の日、何太郎何次郎などヽ名を改る也、これをゑぼし名と云、

〔四季草〕

〈秋草上/姓名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 一古は小童にをさな名あり、わらは名とも云ひ、元服已前の名也、何丸何千代丸などヽ云ふ名也、是貴賤ともに同じ、元服の日、何太郎、何次郎と名のりて、實名を付くるなり、今世は赤子の時より、何太郎、何次郎、何之丞、何之助などヽ名づくる也、何太郎、何次郎はえぼし名とて、元服の日より名のる、是古風也、助丞などは官名の字也、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 一をさな名に、牛若丸、犬房丸などヽ云丸は、本は麿の字也、麻呂の二字を一ツにしたる字也、まろとは男の事なり、依之男子の名にはまろと云也、上古はおさな名に限らず、成長の人にも麿の字付たり、人磨、蟬麿、仲磨、田村麿の類也、太郎次郎の郎の字も男の事也、磨と同意也、

〔小右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 寛仁三年二月十六日甲辰、千壽丸、於家侍所元服、〈名號爲時

〔玉勝間〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 童名に某丸といふ事
同記〈○小右記〉に、寛仁三年二月十六日、千壽丸、於家侍所元服、〈名號爲時〉とあり、童名に某(ナニ)丸といふ事、そのかみも有し也、

〔源平盛衰記〕

〈四十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0695 大臣殿舎人附女院移吉田幷賴朝叙二位事 今日車ヲ遣ケル牛飼ハ、木曾〈○源義仲〉ガ院參ノ時、車遣テ出家シタリシ彌次郎丸ガ弟ニ、小三郎丸ト云童也、西國マデハ假男ニ成テ、今度上タリケルガ、今一度大臣殿ノ車ヲヤラント思フ志深カリケレバ、鳥羽ニテ九郎判官〈○源義經〉ノ前ニ進出テ申ケルハ、舎人牛飼トテ下﨟ノハテナレバ、心アルベキ身ニテハ候ハネ共、最後ノ御車ヲ仕バヤト、深ク存候、御免有ナンヤト泣々申ケレバ、何カハ苦カルベキトテ免テケリ、

〔東寺文書抄〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0696 正和五年正月十一日寄進田券文〈○中略〉
市若丸〈依幼稚(○○○)判形

〔觀念寺文書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0696 伊豫國御家人新居三郎五郎入道知行分諸郷散在得恒名幷各別相傳田畠等内、觀念寺寄進、次養子龜千與丸、幷甥御房丸、夜叉丸、龜鶴丸養女等讓狀目録事、

一桑村觀念寺寄進御灯油田〈寄進狀別紙在之〉
一甥龜鶴丸〈讓狀別紙在之〉
一養女觀喜女〈讓狀同前〉
一養子越智龜千與丸
一甥夜叉丸
一甥御房丸〈○中略〉
延元二年〈丁丑〉十二月廿七日 沙彌圓心〈花押〉

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0696 天文十七年
老母〈六十二〉予〈四十二○中略〉阿子〈十二〉長松丸〈六〉阿茶々〈三〉若子〈二〉

〔太閤記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0696 秀吉公素生
爰に本朝人皇百八代の帝、後陽成院の御宇に當つて、太政大臣豐臣秀吉公といふ人あり、〈○中略〉あるとき母、懷中に日輪入給ふと夢み、すでにして懷妊し誕生しけるにより、童名を自吉丸といひしなり、

〔東照宮御實紀附録〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 城將塙團右衞門直之が、蜂須賀阿波守至鎭が手へ夜討せし時、至鎭が家人稻田九郎兵衞、生年十五歳にて大功ありしかば、御感狀を下され、其比近臣へ仰せ有しは、子に名をつくるも心得のあるべき事なり、九郎兵衞はわづか十五なるを、いらぬおとならしき名を付しは、さん〴〵の事なり、何丸(○○)とか何若(○○)とか付ば、今度の働もわきて奇特に聞ゆべきに、をしき事なり、人々もかねて心得置べき事と仰諭されしとぞ、

〔平治物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 常盤注進、幷信西子息各被遠流
爰ニ左馬頭義朝ノ末子、九條院雜仕常盤ガ腹ニ三人アリ、兄ハ今若(○)トテ七ツニナリ、中ハ乙若トテ五、末ハ牛若トテ今年生レタリ、

〔太平記〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事
去年〈○元德元年〉ヨリ佐渡國ヘ流サレテヲハスル資朝卿〈○日野〉ヲ斬奉ベシト、其國守護本間山城入道ニ被下知、此事京都ニ聞ヘケレバ、此資朝子息國光中納言、其比ハ阿新(クマワカ)殿トテ、歳十三ニテヲハシケルガ、父卿召人ニ成給シヨリ、仁和寺邊ニ隠テ、居ラレケルガ、父誅セラレ給ベキ由ヲ聞テ、今ハ何事ニカ命ヲ惜ベキ、父ト共ニ斬レテ冥途族伴ヲモシ、又最後御有樣ヲモ見奉べシトテ、母ニ御暇ヲゾ乞レケル、

〔南留別志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0697 一童名に、箱王、春王、鬼王などいへる、古は三世王五世王などの姓を賜はるは、多くは元服して賜はれるなるべし、童部の時は、いまだ諸王なれば、何王と稱したるが、凡人の家にも移りたるならんと思はる、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 久壽三年〈○保元元年〉三月二日、大理殿〈○藤原忠雅〉二男〈祇王〉爲弟子、始被宮法印〈最雲〉七條河原房

〔源平盛衰記〕

〈四十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 維盛出家事
與三兵衞申ケルハ、〈○中略〉童名ヲバ松王ト呼レケルモ、二歳ノ時、母ガ懷テ參タリケレバ、此家ヲバ小松ト云ヘバ附クルナリトテ、松王トハ召レケリ、

〔今物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 安貞のころ、河内國に百姓有けるが子に蓮花王といひけるわらはありけり、

〔曾我物語〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 九月十三夜、名ある月に、一まんはこわう、庭にいでヽ、ちヽの事をなげきし事、
そも〳〵いづのくにあかざは山のふもとにて、くどうさゑもんのぜうすけつねにうたれし、かはづの三郎が子二人あり、あにをば一まんといひて五つになり、おとヽをはこわうといひて三つにぞなりにける、

〔常樂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 正中三年〈丙寅〉四月廿一日、長井孫二郎〈童名玉王〉他界、〈十四〉

〔甲陽軍鑑〕

〈九上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 一夫信玄公、稚時の御名を勝千代(○○)殿と申子細は、御父信虎公、二十八歳の時、駿河くしまといふ武士、今川殿をかろしめ、結句甲州を取て、己が國に仕らんとて、遠駿の人數を引ぐして、甲州飯田河原まで來り、しかも六十五日あまり陣をはり居、其時甲州御一家の衆、悉身構をして、武田御家、既に滅却せんと仕る所に、信虎公の家老荻原常陸守と申大剛の武士、武略をもつて信虎公勝利を得給ふ、敵の大將くしまを討取たまひたる、某日の其時誕生有故、勝千代殿と、信玄公稚名をつけ申、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 天文二年七月十八日己未、靑門御筆詩歌、〈二枚〉織田虎千代〈十一才(○○○)、三郎舎弟、〉遣之、則禮とて來、自愛々々、

〔松平記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0698 一廣忠は、靑木筑後守女に目をかけて、もうけたまふ子也、童名千代殿と申也、
一家康御童名、竹千代殿と申、

〔總見院殿追善記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 御輿〈○織田信長柩〉の前轅は池田小新、後轅は羽柴御(○)次丸〈○秀勝〉舁之、御位牌は相公〈○信長〉第八男御長麿、〈○下略〉

〔豐鑑〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 文月〈○文禄二年〉の比にや、先に若君の有し腹に、男君〈○豐臣秀賴〉誕れ給ふ、二なき祝なれば、はじめの君、餘らかしづき給ふにより、命もみじかくおはしけるにやとて、御ひろいとなづけてそだて給ふ、

〔玄桐筆記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 十二の御歳、淺草川御遊被遊候事、御行實に見えたれども、猶も書付申候、威公〈○德川賴房〉淺草川へ御成有て、お長、〈○光圀〉此川游ぐべき歟と御尋あり、游で見可申と御答あり、

〔桃源遺事〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 西山公、御諱光圀、〈○中略〉御幼名は長丸、後千代松君、

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 一書曰、狹野尊〈○神武〉亦號神日本磐余彦尊、所狹野者、是年少時之號也、

〔日本書紀〕

〈三十/持統〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 高天原廣野姫天皇、少名鸕野讃良皇女、

〔續日本紀〕

〈四/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 日本根子天津御代豐國成姫天皇、小名阿閉皇女、

〔大和物語〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 本院〈○藤原時平〉の北のかたの御おとうとのわらは名を、おほつぶねといふ、いますかりけり、

〔續世繼〕

〈五/みかさの松〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 仁和寺法親王〈○覺法〉をば、師子王の宮とぞよには申し、御母の童は名にやおはしけん、

〔愚管抄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 信淸〈○藤原〉のおとヾの女に、西の御方とて院〈○後鳥羽〉に候をば、卿二位子にしたるが腹に、院の宮、生まゐらせたるを、すぐる御前(○○)と名付て、卿二位が養ひまゐらせたる、初は三井寺へ法師になしまゐらせんとて有ける、猶御元服有て、親王〈○賴仁〉にておはしますを、もてあつかひて、〈○下略〉

〔豐鑑〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0699 城之助信忠の息三法師主〈○織田秀信〉を、信長の跡として、柴田〈○勝家〉丹羽〈○長秀〉をば三介信雄、美濃國を三七信孝、かく定て各國に歸らんとす、

〔鵞峯文集〕

〈七十五/哀悼〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700亥兒事
去年〈○萬治二年〉己亥六月九日己亥、余宜人産男、以年與日同支干、故名之曰亥兒

〔實久卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 弘化三年閏五月十六日庚子、今日皇女御七夜也、巳刻許駿河自長橋使被來、御名一紙被之、予皇女御前持參披露之、和宮〈宸筆(仁孝)也、檀紙三折、〉和〈賀壽.別紙四折、〉

假名

實名

〔運歩色葉集〕

〈景〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 仮名

〔運歩色葉集〕

〈志〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 實名

〔下學集〕

〈下/態藝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 假名(ケミヤウ) 實名(ジツミヤウ)

〔四季草〕

〈秋草上/姓名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 一實名といふは名乗なり、古代は名といひしを、後に名乗といひ、實名といふ也、後代に何太郎何次郎、或は何右衞門何兵衞などヽいふを名といひ習はしたる故、名乗の事を實名と云ひたる也、

〔授業編〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0700 名字號
サテ吾邦ニアリテモ、縉纓侯伯、スベテ尊貴ノ御上ハ余ガ論ズルトコロニ非ズ、士庶ノ上ニテイハヾ、實名ト云アリ、假名ト云アリ、實名ヲ名乗トモイフ漢土ノ名ニヤ擬スベキ、假名ハ俗名トモ俗稱トモイフ、漢土ノ字ニヤ擬スベキ、然レドモ邦域異ナルヨリ、稱謂モ相違アレバ、トクトハ符合シガタシ、何レニモ學事ニタヅサハラヌ尋常ノ人ハ、右ノ實名ト假名ト二ツニテ事スメドモ、僅ニ學事ニアヅカル人ハ、右ノ實名假名ノ外ニ、名字號ノセンギアリテ事多キヲ、詩文ニ用ル名字ヲ以テ、假名實名ヲカヌル人アリ、此ニ余ガ論説アリ、タトヘバ伊藤東涯ノ名ハ長胤、字源藏トセラレシハ、長胤ノ名ヲ以テ邦俗ノ名乗實名トシ、源藏ノ字ヲ以テ邦俗ノ假名俗稱トセリ、名ハ自ラ稱スルトコロ、字ハ人ノ方ヨリ稱スルトコロナレバ、平日ノ書狀手紙ノトリヤリニ、人ノ方ヨリ源藏〈東涯ノ書牘ニ、源臧又ハ源藏トモ書セリ、〉ト稱スルハヨケレドモ、自身ノ方ヨリ源藏ト書スルハ、漢土ノ式 ニカナハズ、松岡恕庵ナドハ、名ヲ元達トシテ、此方ノ假名俗稱ヲカネ、字ヲ成章トシテ、此方ノ實名名乗ヲカネラレシナリ、東涯トハ俗ニイフ、アチラコチラナリ、サレバ平居ノ書狀手紙ノトリヤリニ、自身ノ方ヨリ元達ト稱スルコト、亦漢土ノ式ニアハズ、東涯恕庵ノ二先生ハ、博識ノ大儒ナレバ、杜撰ナルコトノアルベキヤウハナケレドモ、上ニイヘル如ク、邦域ノ異ニシテ、俗尚稱謂ノ相違アレバ、何トシテモ不都合ナリ、サレバ名字ニテ實名假名ヲカネン事ハ、トニモカクニモ穏ヤカナラザレバ、世上一般ノ實名假名ニテ俗用ヲ辨ジ、別ニ詩文ノタメニ、漢土人ニ擬セル名字ヲ命ジオクガヨシトイフ人アリ、此モ名ノ二ツアルハ、イカヾトイヘバ、實ニイカヾナレドモ、ヤム事ナクバ其説ニ從フベキニヤ、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 名字 な あざな
假名と實名とあり、假名は俗の呼名なり、實名はすなはち名なり、俗に名告(ナノリ)といふ、是二字なる多き故に、すなはち二字ともいふ也、物に多く見えたり、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 假名 俗名 呼名
今思ふに、假名はかりの名にて、實名に對ていふことなり、これは古へはなきを、後世の俗の習はしに出たり、故に今も公家堂上の家には、この事なし、武家士庶の間に有事也、たとへば和田小太郎義盛といふが如き、和田は氏、小太郎は假名、義盛は實名也、女にもこれに似たる有、或は宣旨などいふも、實名にはあらで呼名也、僧にも有、宰相あるは民部卿などヽいふが如き、官にはあらで、假名にて、實名は、また別に有也、この外にも工商のたぐひに、長舟石堂なども假名也、相撲にも鬼勝、または岩鬼といふが如きは、氏に似てみな假名也、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0701 二名 三名
今の人名二ツ有、呼名實名也、たとへば源内善長といふが如き、源内は呼名にて、善長は實名、俗に は名のりといふ、

〔長曾我部元親百箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702
一人々名字、官途受領實名不摸、但假名官法樣一度之儀者、遂言可摸事、

〔平家物語〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 つぎのぶさいごの事
平家の方より越中の次郎兵衞〈○盛嗣〉舟のやかたにすヽみ出、大音聲をあげて、そも〳〵以前名乗給ひつるとは聞つれ共、海上はるかにへだヽつて、其けみやうじつみやう(○○○○○○○○○)、ふんみやうならず、けふの源氏の大將軍は、たれ人にてましますぞ、名乗給へといひければ、〈○下略〉

〔吾妻鏡N 〕

十六

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 建久十年〈○正治元年〉八月廿日庚辰、尼御臺所、〈○源賴朝妻政子〉御逗留于盛長入道宅、〈○中略〉尼御臺所還御令彼狀於羽林〈○賴家〉給、以此次申云、昨日擬景盛、楚忽之至、不儀甚也、凡奉當時之形勢、敢難海内之守、倦政道而不民愁、娯倡樓而不人謗之故也、又所召仕、更非賢哲之輩、多爲邪侫之屬、何況源氏等者、幕下一族、北條者、我親戚也、仍先人頻被芳情、常令座右給、而今於彼輩等優賞、剰皆令實名(○○)、給之間、各以貽恨之由有其聞、所詮於事令用意給者、雖末代濫吹儀之旨、被諷諫之御詞云云、

〔安東郡専當沙汰文〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 一大餅不足事、盛光(元弘元年辛未十一月ニ註之)〈假名(○○)守吉〉奉行之時、申下二ケ度廳宣、兩使中一志初王大夫殿、文棟神主、相向于在郡、雖答子細於丁部等、前専當吉貞、〈能光假名(○○)〉出狀之上者、不增進由雖之、〈○下略〉

〔長元物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 長曾我部千王殿、〈○中略〉御元服、宮内少輔ト代々假名也、
元親公、〈○中略〉假名彌三郎殿ト申、

〔羅山文集〕

〈四十一/碑誌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0702 本多道喜居士碑銘
居士、姓藤原、氏本多、諱正重、假字三彌、自呼左衞門尉、參河國産也、

〔季連宿禰記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 元祿十四年二月廿三日辛巳、左少史亮仲來云、行事官相續、一昨日〈廿一日〉自律國高槻上洛云々實名(○○)章純(スミ)、呼名(○○)織部、近日養父故季雄之忌中過明之間、忌中限以後、來廿五日可召具、其日一級之事、可申上之間可執給云々、

〔先哲叢談〕

〈後編一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 谷時中、名素有、字時中、通稱大學、
○按ズルニ、通稱ハ假名ナリ、

召名

〔類聚符宣抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 任符事
但馬介藤原朝臣忠憲〈召名註忠制
備中權介弓削宿禰秋佐〈召名無宿禰字
右民部卿中納言宣、件人等召名、未改正之間、且印其任符
仁和元年三月五日 大外記高丘五常〈奉〉

〔類聚符宣抄〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 任符事
能登權目從七位下日下部造好長
右被中納言在原朝臣宣偁、件好長、去仁和元年八月廿九日、召名誤注正六位下日下部宿禰好長、改正之間、宜依件令任符者、
仁和二年二月十五日 大外記大藏善行〈奉〉

〔吾妻鏡〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0703 元暦二年〈○文治元年〉五月九日辛卯、澁谷五郎重助、不關東御擧任官事、可止召名之旨、重有沙汰、是父重國、石橋合戰之時、雖武衞、依寛宥之儀召仕之處、重助者、猶令平家、背度度召畢、而平家赴城外之日、留京都義仲朝臣、滅亡之後、爲廷尉〈○源義經〉専一之者、條々科被精兵一事之處、結句令任官訖、旁不然之由有其沙汰、今度重國、又渡豐後國之時者、雖先登之功、先立于參州〈○源範賴〉上洛之條、同以不快、則被遣此條々云云、

一字名

〔名字辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 一字の名もふるくあり、續紀に津守連通、石川朝臣樽、紀朝臣家、鴨朝臣助、車持朝臣益、船連藥、小野朝臣老、山田史銀、吉備朝臣泉、土師宿禰位など見えたり、是より前にも後にも、なほおほかり、

〔日本書紀〕

〈二十一/崇峻〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 二年〈○用明〉七月、物部守屋大連資人捕鳥部萬(○)〈萬名也〉將一百人難波宅

〔續日本紀〕

〈二十九/稱徳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 神護景雲三年六月乙巳、正五位下吉備朝臣泉(○)、爲左衞士督

〔皇胤紹運録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 嵯峨天皇
源信〈左大臣正二位、號北邊大臣、能吹龍笛、工畫圖、母廣井氏、〉
源弘〈大納言正二位、號廣幡、母上野氏、〉
源常〈左大臣正二位、號東三條、母飯高氏、〉
○按ズルニ、信等ノ兄弟ニ源寛、源明、源定、源鎭、源生、源澄、源安、源淸、源融、源勤、源勝、源啓、源賢、源繼等アリ、皆一字ヲ以テ名トセリ、

〔皇胤紹運録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0704 仁明天皇
源多〈右大臣正二〉
淵〈正五下、豐後守、藏、宮内大輔、〉
進〈從四下、藏、出雲丹波信乃但馬等守、〉
任〈從五上、治部大輔、〉
漑〈從五下、美作伯耆等守、〉

源冷〈三木、從三、左衞門督、〉
通〈從五上、越中介、〉 條〈從五下、紀伊守、〉
源光〈右大臣、左大將、正二、〉
靜〈正五下左少將〉
淨〈左少將〉
與〈從五下〉
賢〈左少將〉
源効〈從四上〉

〔文德實録〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 仁壽二年十二月癸未、參議左大辨從三位小野朝臣篁薨、

〔源平盛衰記〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 宇治合戰附賴政最後事
渡邊黨ニ省(ハブク)、連(ツゞク)、至(イタル)、覺(サトル)、授(サヅク)、與(アタフ)、競(キホフ)、唱(トナフ)、列(ツラナル)、配(クバル)、早(ハヤシ)、淸(キヨシ)、進(スヽム)ナンドヲ始トシテ、各一文字聲々ニ名乗テ、三十餘騎、馬ヨリ飛下々々、橋桁渡テ戰ケリ、

〔太平記〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 瓜生判官心替事附義鑑房藏義治
義助義顯、三千餘騎ニテ、敦賀ノ津ヲ立テ、杣山ヘ打越給フ、瓜生判官保、舎弟兵庫助重、彈正左衞門照、兄弟三人、種々ノ酒肴ヲ舁セテ、鯖並ノ宿ヘ參向ス、

〔雲萍雜志〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 ある國の一宮の社司に、化名して羊の大夫といへるあり、妾腹の子を務(ツカサ/○)といひ、後妻の子を轉(○)といへり、

醜名

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 大化五年三月甲戌、坐蘇我山田大臣而被戮者、〈○中略〉高田醜〈此云之渠〉雄、〈○下略〉

〔續日本紀〕

〈二十三/淳仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 天平寶字五年四月乙亥、外從五位下稻蜂間連仲村賣親族、稻蜂間首醜麻呂等八人、賜姓稻蜂間連

〔三代實録〕

〈十七/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0705 貞觀十二年二月十二日甲午、先是太宰府言、對馬島下縣郡人卜部乙屎麻呂、爲鸕 鷀鳥新羅境、〈○下略〉

〔三代實録〕

〈二十二/淸和〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 貞觀十四年十一月廿三日己丑、節婦武藏國橘樹郡人巨勢朝臣屎子、叙位二階戸内租、表於門閭

賜醜名

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 天平寶字元年七月庚戌、分遣諸衞捕逆黨、〈○中略〉黄文、〈改名多夫禮〉道祖、〈改名麻度比〉大伴古麻呂、多治比犢養、小野東人、賀茂角足〈改姓乃呂志〉等、並杖下死、

〔續日本紀〕

〈三十/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 神護景雲三年九月己丑、詔曰、〈○中略〉淸麻呂〈○和氣氏〉等〈波〉、奉侍〈留〉奴〈止〉所念〈天己曾〉姓〈毛〉賜〈氐〉治給〈之可、〉今〈波〉穢奴〈止之氐〉退給〈爾〉依〈奈毛、〉賜〈弊利之〉姓〈方〉取〈氐〉、別部〈止〉成給〈氐〉、其〈我〉名〈波〉穢麻呂〈止〉給〈止〉、法均〈我〉名〈毛〉廣融賣〈止〉還給〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉、衆諸聞食〈止〉宣、

〔續日本紀考證〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0706 廣融賣 融當ト本永正本金澤本堀本及類聚國史上レ虫、下傚此、大日本史註云、紀略託宣集及後紀延暦十八年文云、廣虫改狹虫孰是
○按ズルニ、和氣廣虫ノ流刑ニ處セラレシ時、還俗セサセラレテ別部狹虫ト名ヅケラレシ事、日本後紀ニ見エタリ、然レドモ續日本紀ニハ、其時ノ詔ヲ擧ゲテ、法均〈我〉名〈毛〉廣融賣〈止〉還給トアリテ、原名ニ復セシメシニ止マリシガ如シ、法均ハ尼タリシ時ノ名ナリ、然ラバ狹虫ハ、其後更ニ之ヲ貶セシモノカ、又按ズルニ、廣融賣ヲ諸本廣虫賣ニ作レリ、然レドモ此ニ據リテ遽ニ融ヲ以テ虫ノ誤トスべカラザルガ如シ、續日本紀ヲ檢スルニ、舊刊本ニ融ニ作レルモノヲ、一本ニ虫ト爲セルモノ多シ、佐味朝臣融麻呂、忌部首融麻呂、船連融麻呂、小野朝臣、小野融女、若湯坐宿禰子融ノ融ノ如キ、一本ニ皆虫トアリ、説文ニ據ルニ融、炊氣上出也トアレバ、融モムシト訓シテ、互ニ通ゼシナラン、又我邦ノ書ニハ、蟲ヲ虫ニ作レルモノ多シ、支邦人ニ依リシナリ、隷辨、虫ノ字ノ註ニ、唐扶頌、〈後漢靈帝光和六年〉德及草虫、按説文、虫讀若虺、即虺字也、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00091.gif 觿云、蛇虫之虫爲蟲豸、其順非有此者、他碑蟲皆用虫、トアルニテ知ルベシ、

惡名

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 一惡源太、惡七兵衞、惡四郎などの惡の字は、自分に付たるにはあらず、惡事ある人を他人より名づけてよびならはしたるなり、古き書に、惡の字をそへて惡何がしとあるは、皆その人の惡事ありし故と知るべし、

〔玄同放言〕

〈下/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 姓名稱謂
不祥の名は、よになきにしもあらねど、いと酷しとおもふは村岡惡人なり、類聚國史〈八十七刑法部〉桓武天皇延暦十七年二月壬子朔、美濃國人村岡連惡人、配流淡路國、以留群盗犯百姓也、この惡人も、惡名を賜ひしにあらざるか、おのづからなる名にしあらば、その謫罰、名詮自性ならずや、保元建保の間、惡左府、惡七別當、〈源爲朝家臣〉惡右衞門督、惡源太、惡七兵衞、惡禪師など、みづから如此名告れるにあらず、時人その暴惡非義を憎みて、惡字を被せしなり、又天正中に、赤井惡右衞門あり、こは自稱なるべし、又按ずるに、源義平ぬしの外に、惡源太と呼ばはれし武士あり、江濃記に、土岐氏の事を記しヽ段に、伯耆十郎賴藤、〈正慶中ノ人ナリ〉賴藤弟惡源太賴遠、數度高名比類ナシ、オゴリノアマリ、康永ノ比、院ノ御所ノ御幸ニ參リ會ヒ、狼藉シテ身失ヒシカバ、其弟周崔坊入道賴明ニ、美濃ノ守護ヲ給ハルといへり

〔保元物語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 白河殿攻落事
爲朝、〈○中略〉手取ニセントテ懸給ヘバ、須藤九郎家末、惡七別當以下、例ノ二十八騎續キタル、

〔平治物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 信西子息闕官事附除目事幷惡源太上洛事
爰ニ義朝ガ嫡子鎌倉惡源太義平、母方ノ祖父三浦介ガ許ニ在ケルガ、〈○下略〉

〔源平盛衰記〕

〈四十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0707 屋島合戰附玉蟲立扇與一射扇事
平家ノ方ヨリ越中次郎兵衞盛嗣、上總五郎兵衞忠光同惡七兵衞景淸、〈○中略〉櫓ヨリ下合テ防戰ケレバ、〈○下略〉

〔吾妻鏡〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 建久三年八月九日己酉、下妻四郎弘幹、〈號惡權守

〔吾妻鏡〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 仁治二年五月廿九日丙辰、有評定、鶴岡職掌、常陸國國井住人惡別當家重、依博奕之科神職

〔吾妻鏡〕

〈三十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 仁治二年十二月廿七日庚辰、武田伊豆入道光蓮、令絶次男信忠〈號惡三郎〉之由、申入御所幷前武州御方先訖、

〔江濃記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 土岐殿事
賴藤弟惡源太賴遠、數度高名比類ナシ、オゴリノアマリニ、康永ノコロ、院ノ御所ノ御幸ニ參會、狼藉シテ身ヲ失ヒシカバ、〈○下略〉

〔甲陽軍鑑〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 一丹波國赤井と云男、七歳にて人を伐、赤井惡右衞門と名をよばれ、

異名

〔日本書紀〕

〈十三/允恭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 七年十二月壬戌朔、讌于新室、〈○中略〉天皇即問皇后曰、所奉娘子者誰也、欲姓字、皇后不已而奏言、妾弟名弟姫焉、弟姫容姿絶妙無比、其艶色徹衣而晃之、是以時人號曰衣通郎姫(ソトホリイラツヒメ)也、

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 三十四年五月丁未、大臣〈○蘇我馬子〉薨、仍葬于桃原墓、大臣則稻目宿禰之子也、〈○中略〉家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小島於池中、故時人曰島大臣

〔續日本後紀〕

〈四/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 承和二年正月壬子、平城舊宮處、水陸地卅餘町、永賜高岳親王、親王者、天推國高彦天皇〈○平城〉第三子也、大同年中、未少登儲貳、世人號曰蹲居太子

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 北邊大臣長谷雄中納言語第一
今昔北邊ノ左大臣ト申ス人御坐ケリ、名ヲ信(マコト)トゾ云ケル、嵯峨天皇ノ御子也、一條ノ北邊ニ住給ケルニ依テ、北邊ノ大臣トハ申也、

〔太平記〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0708 三井寺合戰幷當寺撞鐘事附俵藤太事
龍神ハ是ヲ悦テ、秀郷ヲ樣々ニモテナシケルニ、大刀一振、卷絹一、鎧一領、頸結タル俵一、赤銅ノ撞 鐘一ツヲ與テ、御邊ノ門葉ニ、必將軍ニナル人多カルベシトゾ示シケル、秀郷都ニ歸テ後、此絹ヲ切テツカフニ、更ニ盡事ナシ、俵ハ中ナル納物ヲ、取レドモ〳〵盡ザリケル間、財寶倉ニ滿テ、衣裳身ニ餘レリ、故ニ其名ヲ俵藤太(タハラトウダ)トハ云ケル也、

〔今昔物語〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 左京大夫附異名語第廿一
今昔村上天皇ノ御代ニ、舊宮(フルキミヤ)ノ御子ニテ、左京ノ大夫ト云人有ケリ、長少シ細高ニテ、極クアテヤカナル樣ハシタレドモ、有樣姿ナム鳴呼也ケル、頭ノ鐙頭也ケレバ、纓ハ背ニ不付ズシテ、離レテナム被振ケル、色ハ露草ノ華ヲ塗タル樣ニ靑白ニテ、眼皮ハ黑クテ、鼻鮮ニ高クテ、色少シ赤カリケリ、唇ハ薄ク色モ无クテ、咲(エメ)バ齒ガチナル者ノ斷(ハシヽ)ハ赤ナム見エケル、音ハ鼻音(ハナゴエ)ニテ高カリケリ、物云ヘバ一内響テゾ聞エケル、歩ビハ背ヲ振リ尻ヲ振テゾ歩ビケル、其ノ人殿上人ニテ有ケルニ、責テ色ノ靑カリケレバ、ノ殿上人、皆此レヲ靑經ノ君トゾ付ケルヲ咲ヒケル、

〔源平盛衰記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0709 兼家季仲基高家繼等拍子附忠盛卒事
村上帝ノ御宇、左中將兼家ト云人アリ、北方ヲ三人持タレバ、異名ニハ三妻錐(ミツメギリ)ト申ケリ、或時此三人ノ北方一所ニ寄合テ、妬色ノ顯レテ、打合取合髪カナグリ、衣引破リナンドシテ、見苦カリケレバ、中將ハ穴六借トテ、宿所ヲ捨テ出給ヌ、取サフル者モナクテ、三三日マデ組合テ息ツキ居タリ、二人ノ打合ハ常ノ事也、マシテ三人ナレバ、誰ヲ敵共ナク、向フヲ敵ト打合ケルコソ咲(ヲカ)シケレ、是モ五節ニ拍子ヲカヘテ、取障ル人ナキ宿ニハ、三妻錐コソ揉合ナレ、穴廣々ヒロキ穴カナトハヤシケリ、太宰權帥季仲卿ハ、餘ニ色ノ黑カリケレバ、人黑帥トゾ申ケル、藏人頭ナリケル時、ソレモ穴黑々黑キ頭哉、如何ナル人ノ漆塗ラント拍子タリケレバ、季仲卿ニ並デ御坐ケル、基高卿ノ舞レケルニ、此人餘ニ色ノ白カリケレバ、季仲卿ノ方人ト覺シクテ、穴白々白キ頭哉、如何ナル人薄押ケント、拍シ返シケル殿上人モオハシケリ、右中將家繼ト云人、祖父ノ代マデハ時メキタリケ ルガ、父ガ時ヨリ氏タエテ、有カ無カニテ御坐ケルカト、下﨟德人ノ聟ニ成テ、舅ノ德ニ右ノ中將ニ成給タリケリ、此モ五節ニ絶ヌル父云ニ及バズ、祖父ノ代マデハ家繼ゾカシ、左曲ノ右中將トゾ拍子タル、貧キ者タノシキ妻ヲマウクルハ、左ユガミト云事ナレバ、角拍子ケル也、花山院入道太政大臣忠雅ノ、十歳ニテ父中納言忠宗卿ニ後レ給ヒ、孤子ニテオハセシヲ、中御門中納言家成卿ノ播磨守ノ時、聟ニ取テ花ヤカニモテナサレケレバ、是モ五節ニ、播磨米ハ木賊カ、椋ノ葉カ、人ノ鈶(キラ)ヲ付ルハトゾ拍子タリケル、

〔榮花物語〕

〈二/花山〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 ことしは天元五年になりぬ、三月十一日、中ぐう〈○藤原賴忠女、圓融后藤原遵子、〉たち給はんとて、おほきおとヾ〈○賴忠〉いそぎさわがせ給、これにつけても、右のおとヾ、〈○藤原兼家〉あさましうのみ、よろづきこしめさるヽほどに、きさきたヽせ給ぬ、〈○中略〉一のみこ〈○一條〉おはするにようご〈○兼家女藤原詮子〉をおきながら、かくみこもおはせぬにようごの、きさきにゐ給ひねること、やすからぬことに、世人なやみ申て、すばらのきさきとぞつけたてまつりたりける、

〔江談抄〕

〈三/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 源道濟號船路君
源道濟爲藏人之時、號藤原賴貞、荒武藏是也、稱船路君云々、此人不腹立之時、甚以優也、而性甚惡人也、仍不之、船路者天氣和順之日、甚以優也、風波惡之時、人不之、故稱船路君

〔日本紀略〕

〈十一/一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 寛弘二年五月三日庚戌、今日修行聖人行圓、供養建立一條堂、件聖人、不寒熱鹿皮、號之皮聖人

〔古事談〕

〈二/臣節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 濟時大將ヲコウハイノ大將ト云故ハ、女子女御〈○三條皇后藤原娀子〉ヲ后ニタテント被申ケルヲ、勅許アルゾト被存テ無左右庭上拜舞畢、然而無立后、仍空キ拜ノ大將ト世人云ケリ、而不案内ノ人、紅梅ト知也、

〔今物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0710 待賢門院の女房加賀といふ歌よみあり かねてよりおもひしことぞふし柴のこるばかりなる歎せんとは、といふ歌を、年比よみてもちたりけるを、おなじくはさりぬべき人にいひむつびて、忘られたらんに讀たらば、集などに入たらんも、いうなるべしと思ひて、いかヾありけん、花園の左のおとヾ〈○源有仁〉に申そめてけり、其後おもひのごとくやありけむ、此うたをまいらせたりければ、大臣殿もいみじくあはれにおぼしけり、かひ〴〵しく千載集に入にけり、世の人ふし柴の加賀とぞいひける、

〔本朝世紀〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 康和元年九月九日戊申、此日參誌正三位行備前權守藤原朝臣長房薨、〈○中略〉寛治六年九月七日、兼太宰大貳、在任之間、嘉保元年、彦山衆徒有訴訟事、太以蜂起、初赴任之時、所相從之郎從不幾、然間事發倉卒、成敗之間不所爲、逐電上洛所郡督也、世以之稱半大貳(○○○)

〔今昔物語〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 播磨國賀古驛敎信往生第廿六
嫗答テ云ク、彼ノ死人ハ此レ我ガ年來ノ夫也、名ヲバ沙陀敎信ト云フ、一生ノ間彌陀ノ念佛ヲ唱ヘテ、晝夜寤寐ニ怠事無カリツ、然レバ隣リ里ノ人皆敎信ヲ名付テ、阿彌陀丸(○○○○)ト呼ビツ、

〔十訓抄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 詩歌につけて、異名などつけらるヽ事有、治部脚能俊は、白州院鳥羽殿の御會に月のなかなる月をこそ見れとよみて、天變の少將といはれけり、中納言親經卿は、鳥羽殿詩歌合に、月自家山我來と作て、山送の辨とぞ付られける、かやうの事、能可心得、同異名なれども、さむるうつつの少將、待宵の小侍從など付られたるは、優に覺ゆかし、

〔今物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 小侍從が子に、法橋實賢と云もの有けり、いかなりける事にか、世の人、是をひきがへるといふ名をつけたりける、法眼をのぞみ申て、
法の橋のしたに年ふるひきがへる今ひとあがりとびあがらばや、と申たりければ、やがてなされにけり

〔無名秘抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0711 九條殿、〈○藤原兼實〉いまだ右大臣と申せし時、人々に百首歌よませ給ふこと侍き、その度い みじき人々ひが事よみて、終には異名さへつき給ひにき、ちかく德大寺の左大臣〈○實定〉は、無明の酒を、なもなきさけとよみ給へりしかば、なヽしの大將といはれ、五でうの三位入道〈○藤原俊成〉は、この道の長者にています、しかれどふじのなるさはをふじのなるさとよみて、なるさの入道、名なしの大將とつがひて、人にわらはれ給ひしかば、いみじきこの道の遺恨にてなん侍し、おの〳〵是ほどの事しり給はぬにはあらじ、思わたり侍りけるにこそ、

〔宇治拾遺物語〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 これも今はむかし、ならに藏人得業惠印といふ僧あり、鼻おほきにてあかヽりければ、大鼻の藏人得業といひけるを、のちさまには、ことなしとて、鼻藏人とぞいひける、なほのち〳〵には、鼻藏々々とのみいひけり、

〔宇治拾遺物語〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 今はむかし、兵衞佐なる人ありけり、冠のあげをのながヽりければ、世の人あげをのぬし(○○○○○○)となんつけたりける、

〔源平盛衰記〕

〈三十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 太神宮勅使附緒方三郎責平家
日數積ツテ月滿ヌ、花御本男子ヲ生、隨成長、容顔モユヽシク、心樣モ猛カリケリ、母方ノ祖父ガ片名ヲ取テ、是ヲ大太童(ワラハ)ト呼、ハタシテ野山ヲ走行ケレバ、足ニハアカヾリ常ニ分(ワレ)ケレバ、異名ニハ皸童トモ云ケリ、此童ハ烏帽子著テ、皸(アカヾリ)大彌太(ヤタ)ト云、

〔十訓抄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 京極太政大臣宗輔公は、蜂をいくら共なく飼給て、何丸か丸と名を付てよび給ければ、召に隨て、格勤者などを勘當し給けるには、何丸、某さしてことの給ければ、其まヽにぞふるまひける、出仕の時は、車のうらうへの物見にはらめきけるを、とまれとの給ければ、とまりけり、世には蜂飼の大臣とぞ申ける、不思議の德おはしける人也、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0712 保延五年四月廿五日、齋王令本院給之後、次第位左馬助藤敦賴、與肥前權守俊保同乗退出之間、於一條大宮馬部(メブ)數十人圍之、先敦賴〈ヲ〉引落自一レ車、〈○中略〉不冠韈一物取之、又車等 同取之、追放之、〈○中略〉敦賴依此事、號裸ノ左馬助

〔續世繼〕

〈五/はなのやま〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 その少將のこに、光家とかきこえ給ひけるを、大臣殿の御子にし給て、殿上したまへりける、侍從におはしけるをば、かのこじヽうとぞ人は申ける、おやはかくれて、このあらはれたるとかなるべし、

〔平家物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 我身のえい花の事
そも〳〵このしげのりのきやうを、さくらまちの中納言と申ける事は、すぐれてこヽろすき給へる人にて、つねは吉野の山をこひつヽ、まちにさくらをうゑならべ、その内に屋をたてヽすみ給ひしかば、來る年の春ごとに、見る人さくらまちとぞ申ける、さくらは、さいて七か日にちるを名ごりををしみ、天照大神にいのり申されければにや、三七日まで名ごりありけり、君も賢王にてましませば、神も神德をかヾやかし、花もこヽろありければ、廿日のよはひをたもちけり、

〔平治物語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 源氏勢汰事
別當惟方ハ、元來信賴卿ノ親シミニテ、契約深カリシカ共、一日舎兄左衞門督ノ諌言、肝ニソミテ被思ケレバ、加樣ニ主上〈○二條〉ヲ盗出シ進ラセラレケリ、此人ハ生得勢少サク御坐ケレバ、小別當(○○○)トゾ申ケル、ソレニ信賴ニ與シテ、院〈○後白河〉内ヲ押籠奉ル中媒ヲナシ、今又盗出シタテマツル中媒〈シ〉ケレバ、時ノ人中小別當(○○○○)トゾ云ケル、大宮左大臣伊通公ハ、此中ハ中媒ノ中ニテハアラジ、忠臣ノ忠ニテゾアラン、光賴ノ勇ニ依テ、忽ニ誤ヲ改メ、賢者ノヨクンヲ以テ、忠臣ノ擧動ヲナセバトゾ宣ケル、

〔源平盛衰記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0713 成親已下被召捕
西光ハ、天性死生不知ノ不當仁ニテ、入道〈○平淸盛〉ヲハタト睨返シテ、〈○中略〉御邊ノ父忠盛ハ、正シク殿上ノ交ヲ嫌レシ人ゾカシ、其嫡子ニテオハセシカバ、十四五マデハ、叙爵ヲダニモ賜ラズ、シカモ 繼母ニハ値タリ、過ガタカリケレバコソ、中御門藤中納言家成卿ノ播磨守ニテオハセシ時、受領ノ鞭ヲ取、朝夕ニ貲ノ直垂ニ繩絃(ナハヲ)ノ足駄ハキテ通給シカバ、京童部ハ、高平太(タカヘイダ)ト云テ笑シゾカシ、其ヲ耻シトヤ思給ケン、扇ニテ顔ヲ隠シ、骨ノ中ヨリ鼻ヲ出シテ、閑道ヲ通給シカバ、又童部ガ先ヲ切テ、高平大殿ガ扇ニテ鼻ヲ挾タルゾヤトテ、後ニハ鼻平太鼻平太トコソイハレ給シカ、

〔平家物語〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 燈籠の事
すべて此大臣〈○平重盛〉は、めつざいしやうぜんのこヽろざしふかうおはしければ、たうらいのふちんをなげき、六八弘誓の願になぞらへて、東山のふもと四十八けんの精舎をたて、一けんに一づつ、四十八のとうろうをかけられたりければ、〈○中略〉それよりしてこそ、此大臣をとうろうの大臣とは申けれ、

〔平家物語〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0714 月見の事
まつよひの小侍從と申す女房も、この御所〈○太皇太后藤原多子〉にぞ候はれける、そも〳〵此女房を、まつよひとめされける事は、ある時、御前より、まつよひ歸るあした、いづれかあはれはまさるとおほせければ、かの女房、
まつよひのふけ行かねのこゑきけばかへるあしたの鳥はものかは、と申たりけるゆゑにこそ、まつよひとはめされけれ、大將〈○藤原實定〉この女房をよび出て、むかし今の物語どもし給ひて後、〈○中略〉さる程に、夜もやう〳〵あけ行けば、大將いとま申しつヽ、福原へぞかへられける、ともに候、藏人をめして、侍從が何と思ふやらん、あまりに名ごりをしげに見えつるに、なんぢ歸て、ともかくもいふてこよとのたまへば、藏人はしりかへりかしこまつて、是は大將殿の申せと候とて、
物かはときみがいひけん鳥のねのけさしもなどかかなしかるらん
女房とりあへず またばこそふけ行かねもつらからめかへるあしたの鳥のねぞうき、藏人はしり歸て此よし申たりければ、さてこそなんぢをばつかはしたれとて、大將大にかんぜられけり、それよりしてこそ、物かはの藏人とはめされけれ、

〔平家物語〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 新院ほうぎよの事
このやうえんは、ゆうにやさしき人にておはしけり、あるときほとヽぎすのなくをきいて、 きくたびにめづらしければほとヽぎすいつもはつねのこヽちこそすれ、といふ歌をよふてこそ、はつねの僧正とはいはれ給ひけれ、

〔源平盛衰記〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 文覺發心附東歸節女事
文覺道心ノ起ヲ尋レバ、女故也ケリ、文覺ガ爲ニ、内戚ノ姨母一人アリ、其昔事ノ縁ニ附テ、奥州衣川ニ有ケルガ、歸上テ故郷ニ住、一家ノ者ドモ、衣川殿ト云、若ク盛ン也シ時ハ、ミメ形人ニ勝レ、心バヘナドモ優ニヤサシカリケルガ、今ハ盛過テ世中モ衰ヘ、寡ニテ物サビシキ住居也、娘一人アリ、名ヲバアトマトゾ云ケル、去共衣川ノ子ナレバトテ、異名ニハ袈裟(ケサ)ト呼、

〔源平盛衰記〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 新都有樣事
去程ニ治承四年六月二日、都ヲ福原ヘウツサレテ、既ニ八月ニモ成ニケリ、〈○中略〉舊都ニハ皇太后宮ノ大宮〈○藤原多子〉八條中納言長方卿バカリゾ殘留給ヘル、長方卿ハ世ヲ恨ル事御坐テ、供奉シ給ハズ、只一人留給タリケレバ、京童ハ留守ノ中納言(○○○○○○)トゾ申ケル、

〔愚管抄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 さて義仲は、松殿〈○藤原基房〉の子、〈○師家〉十二歳なる中納言、八歳にて中納言になられて、八歳の中納言と云異名有し人を、やがて内大臣になして、攝政長者になり、又大臣の闕もなきに、實定の内大臣を、暫とてかりてなしたれば、世にはかるの大臣と云異名又つけてけり、

〔鳴門中將物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0715 彼少將は、隠者なりけるを、あらぬかたにつけてめしいだされて、よろづに御なさ けをかけられて、近習の人數にくはへられなどして、程なく中將になされにけり、つヽむとすれど、をのづからもれきこえて、人のくちのさがなさは、そのころのもてあつかひにて、なるとの中將(○○○○○○)と申ける、なるとのわかめとて、よきめののぼる所なれば、かヽる異名をつけたりけるとかや、

〔徒然草〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 公世の二位のせうとに、良覺僧正と聞えしは、きはめて腹あしき人なりけり、坊の傍に大なる榎の木の有ければ、人榎木の僧正とぞいひける、此名しかるべからずとて、彼木をきられにけり、其根のありければ、きりくひの僧正といひけり、いよ〳〵腹立て、きりくひを掘すてたりければ、其跡大なる堀にて有ければ、堀池僧正とぞいひける、

〔徒然草〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 柳原の邊に、 强盗法印と號する僧ありけり、たび〳〵、 强盗に逢たるゆゑに、此名をつけにけるとぞ、

〔赤松記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 則祐の御子を上總介義則法名圓齊と申、御せいちいさく御座候て、京童は、赤松三尺入道殿と異名に申ける、

〔常山紀談〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0716 東照宮と武田の兵と、大天龍にての戰に、近藤傳次郎手おひて、渡邊半藏守綱を見かけ、手おひたるぞ、つれて退けよといふ、心得たりとて、手に提げたる首を投すてヽ、傳次郎を肩にかけ、三里あまり引退てたすけヽれば、東照宮聞召、味方一騎討るれば、敵千騎の 强みといふ事あり、味方をたすけたるは、七度の鎗を合せたるよりもまされり、今より後、鎗半藏といふべしと仰あり、〈○中略〉
又一説に、永祿五年九月、參河の八幡にて、今川氏眞と三河の軍、戰ありて利あらず、二手にわか れて引退、敵急に迫かくる、半藏守綱、石川新九郎、返し合せ、三度鎗を合す、後には半藏一人十度 に及て小返しして、又三度鎗を合す、矢田作十郎、足をいたみ引かねたるを、半藏肩にひきかけ て退きけり、これより鎗半藏と人にいはれしといへり、

反切人名

〔韻鏡指要録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 反切人名
韻鏡ニテ人ノ名ヲ反スト云コト、中夏ニハセザルコトナリ、我邦近世ノ俗弊ニテ杜撰セルヨシ、韻鏡索隠ニ辯ジ畢レリ、然ルニ是ニ似タルコト、中夏ニモナキニシモ非ズ、近歳新渡ノ書ニ、音學五音ト題セル兩套ノ書アリ、明ノ亭林顧炎武ガ作ナリ、其中南北朝ノ比、人名ヲ反切シ、正反倒反シテ、歸字ノ義ヲ以テ戯弄セルコトアリ、是ヲ反語ト云、其語ニ曰、南北朝人作反語、多是雙反、韻家謂之正紐例紐、史之所載、如晉孝武帝作淸暑殿、有識者、以淸暑反爲楚聲、楚聲爲淸、聲楚爲暑也、宋明帝多忌、袁粲、舊名遠愍隕門、隕門爲袁、門隕爲愍也、劉悛、舊名劉忱臨讐、臨讐爲劉、讐臨爲忱也、〈○中略〉上件ノ反語トハ、別ニ二字ヲ設ケテ、之ヲ反シテ其名ニ當ツ、楚聲ヲ以テ淸暑ヲ評スル等ノ如シ、又正反倒反シテ二音ニ當ツ、我邦ノ切名ハ、直ニ其名ノ兩字ヲ反シテ、一歸字ヲ得テ辯論ス、大ニ別途ニシテ同軌ナルニ非ズ、然ノミナラズ我邦ニテ、人ノ五性ヲ論ジ、歸字ノ五行ニ當テヽ、相生相剋ヲ是非スル等、皆是兒戯ノ如ニシテ、中夏アル所エアラズ、假令反語ノ彷彿タルアルモ、彼土ニシテ作スダモ常經ノ法則ニアラズ、一時ノ戯弄ナルノミ、何ゾ此ノ如キノ醜陋ヲ效ハンヤ、況ヤ我邦杜撰スル者二於テヲヤ、有識ノ者、惑フコト勿レ、

〔韻鏡易解大全〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 同〈○名乗〉歸納字用捨門
凡考名乗等、以十五納音其人姓、其姓與歸納姓剋生之時、以剋爲凶、以生爲吉、此吉之中有二、一歸字爲能生、其人爲所生、二其人爲能生、歸-字爲所生、依其人柄、用不有口傳、次就歸納字、皇帝鬼神麒麟鳳凰龍虎等類、依人可之、至尊字故、無位無官人、可必有一レ恐矣、如普通可用類、櫻梅桃李楊柳梧桐松竹柏椿等、及珍寶珠玉金銀錢財等、幷長久榮昌等、或吉瑞生類等字、宜之也、又撰取平聲字最第一、若平聲中、無相應字取上聲字、若無之則可去聲、無去聲則可用入聲也、

〔南留別志〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0717 一名乗を反すといふ事、何者のしはじめたる事なる、今の世には、王公大人の定れる 法のやうになれるは、上をまなべぼなり、詞花集の比よりと聞ゆ、異國には、齊の明帝の、ことのほかに物をいまふ性にて、人の名をかへしたる事有、それは唐音にて、ひヾきのかよへるをにくめばさもあるべし、此國にては、和訓にてよむなれば、かヽるさまたげもなし、唯占術の一つになりて、人のまどへるなり、韻鏡といふ物は、唐音を正すべき爲に作れる書なるを、うらかたの書のやうに覺ゆるは、おろかなる事のいたれるなり、韻鏡にのせたる字は、一音なる字多き中にて、近く聞なれたる字を一つ出せる事なれば、その字の義にてのみ、吉凶をさだむべきやうなし、一音の字多き内には、あしき義の字も有べけれども、とにかくに書面に見えたる字の義をのみとれるは、易の辭などのやうに心得たるにや、此故に今の世には、とほり字の同じくて、うまれしやうの同じき人は、皆同じ名のりなり、名乗のおこなはれぬ世なればこそ、かくにてもまがひなけれ、昔のごとく、姓と名乗にて世におこなはヾ、一萬の人のあつまりたる都にては、同名の人の四百も五百もあるべきなり、

〔斥非〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0718 近時韻鏡之書、盛行于世、則有切人名之事、其法於人之名者、以上字切母、下字爲韻、徒韻鏡歸成一字、因視其字美惡、美則已、惡則改其名、以爲所歸之美惡、而終身之吉凶禍福係焉、此事不於何時、始於何人、母中國、雖我大東、自古迨吾國初、實所有也、蓋自寛永間以來也、在今日則自王公以下至庶人、未切其名也、已不其事、則必仰人、於是問諸能者、糈糒從之、諸知反音者、因言其吉凶ト師也、故儒者若浮屠中、有此以致富者焉、夫中國人多一名、固無以反切、此方人必二名、雖一名者、則千萬人中一人耳、故可以反切、好事者、因制之法、以欺愚俗也、此事若巫祝陰陽之徒爲之、則固某所也、不責也、苟爲儒而讀聖人之書、聞中夏之道者、豈宜其非哉、如不其非、是至愚也、知其非而爲之、是誑人也、至愚可羞也、誑人可惡也、有於此、不以爲一レ儒矣、噫世之反切人名者、亦何知韻鏡之所以爲韻鏡乎、

〔經濟録〕

〈九/制度〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 近世ノ俗ニ、名ニ吉凶有ト云テ、韻鏡ニテ反切スルコトヲ貴ブ、是ニ因テ反切シテ吉ナル字ヲ擇ブ、故ニ人ノ名多ク同ジ、士庶人ハ衆多ナレバ、同名多キコト云ニ不足、諸侯ハ海内ニ三百人ニハ過ザル數ノ中ニ同名アリ、且吉凶ヲ云ニ因テ、一生ノ問ニ、幾度モ名ヲ改ル者多シ、常ニ稱スル假名ヲ改ルニハ、君上ニ請テ許ヲ得テ改ム、名ヲ改ルハ請事モナク、自由ニ幾度モ改ム、是何(イ)カ成惑ゾヤ、愚昧ノ至リ、義理ニ背ケルコト也、願クハ上ヨリ令ヲ出シテ、韻鏡ニテ反切スルコトヽ、隨意ニ名ヲ改ムルコトヲ嚴禁セラルベシ、名ヲ反切スルコトハ、異國ハ勿論ナリ、日本ニテモ七八十年來ノコト也、是義理ヲ害シ、人ヲ愚ニスル大惡俗也、此事ヲ禁止セラレバ天下ノ大幸ナラン、上ニ云ヘル如ク、名ヲ通行スル風起ラバ、人々自然ト同名ヲ避ントスベシ、韻鏡ニテ反切スルコトヲ禁ゼラレバ、名ニ用ル字廣ク成テ、遠キ字ヲモ求ムベキ故ニ、同名少カルベシ、然レバ名ヲ行フコトヲ命ゼラレンニハ、反切スルコトヲ必ズ禁止セラルべシ、

〔四季草〕

〈秋草上/姓名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0719 一名乗字を反すといふ事、上古には曾てなかりし也、日本には上古文字なし、人の名のりも口にていふのみにて、文字に書く事なし、文字にかく事なければ、名乗字を反すといふ事もなし、人皇十六代の帝、應神天皇の十五年〈即位より十五年也〉百濟國より王仁といふ博士をめされけるに、十六年に、此方へ渡り來り、皇子兎道稚郎子、これを師として諸の書籍を學び給ひし由、日本紀に見えたり、これ日本にて、文字を讀み書きするの始也、是より前に名乗字といふ物はなき也、切韻〈文字の昔を反す事也〉の學は、西域〈天竺の事〉より唐へ渡り來るといへば、日本へ渡り來りしは、人皇三十一代敏達天皇の御代、二たび佛法の渡り來し時〈是より前三十代欽明天皇の御時佛法わたる〉よりも、猶後にわたりしなるべし、夫より以前は、切韻の學なきゆゑ、文字の音を反すといふ事なければ、名乗字を反すといふ事もなし、古代の書に、名乗字を反す事曾て見えず、中古盛にはやり出たる事也、何ゆゑ名乗字を反すぞといふに、文字に五行の相生相剋の理をつけ、性に合ひ不合の吉凶を撰ぶ物忌ひより 出たる事也、日本へ文字も切韻の學も、いまだ渡らざりし世には、名乗字を反して名付けたる人はなし、然れども名乗に因て、凶事に逢ひたりといふ事は、古書に見えず、物いまひする事、何の益もなき事也、〈○中略〉そのうへ主人貴人の御一字を賜はりて、我家の通り字と合せてつくる時、反り字が凶なりとて二字ともに改むる事はならぬ事也、凡そ人の身の上の吉凶は、名乗や判などに因る事にはあらず、我一心よりして吉をも凶をも招く也、武士たるもの、忠義の二を忘れずば、何事か恐ろしからむ、およそ名乗は、元服の日、烏帽子を著せて給ふ人より申受る事也、或は故ありて、主人貴人の御一字を申受くる事もあり、然るに今世は、陰陽師、又は出家などを賴みて、名乗字を反させてつくるゆゑ、かの陰陽師出家などは、えぼし親に當る也、歴々の武士たる人、かれらがえぼし子となる事、口をしき事ならずや、

〔貞丈雜記〕

〈二/人名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 頭註 字をかへすといふ事は、二字の音を一ツにして、一字の音にする事也、たとへば貞丈の二字をかへせば長(チヤウ)となる也、韻鏡と云書を以て字をかへす也、其かへしやうは韻學者の知る事なり、
義朝、切堯ノ字トナル、又朝義ノ切トシテ、サカサマニカヘセバ智ノ字トナル、堯モ智モ吉字也、然レドモ源義朝ハ、父爲義ヲ弑シテ、其後家僕長田庄司ガ爲ニ弑サレタリ、名乗ノ字、吉トテモ心正シカラズ、身直ナラネバ、ワザハヒニ逢也、名乗字ノ吉凶ニヨラヌコト也、

〔撈海一得〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 今ノ人、名ヲ翻切スルハ俗ナル事ナレド、昔ヨリ有シニヤ、羅浮子ノ説ニ、崇德帝仁平元年、詞華集ヲ撰バル、詞花ノ二字、邪ニ反ルト云テ難ゼシ、又日次ノ記ナドニモ、名ヲ反ス事アリト東見記ニ見エタリ、後世其事盛ニナリ、今ハ天下ノ人、反切セデハナラヌ風ニナリタルハ、イツノ頃ヨリニヤ、僧玄昉明雲僧正ナドハ、反切ニ關ニハアラズ、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0720 反名 かへし名 今人の名告に、必反字をもて、吉凶をいひて、とかくいふ事有、古へはなけれども、中古よりは似たる事あれども、今いふが如くにはあらず、今歸納字の事をいふは、その反たる字を名に用るにはあらず、中世のは、その反り字を、すぐに一名の樣に用ゐたる事有也、されども多くは見えず、たまさかの事也、阿彌陀を網田と書、史を不比等と書、馬養を宇合と書、旅人を談等と書たるが如き、音訓相交へてかきたるさま、反名のよりて出たる故なるべし、

〔老牛餘喘〕

〈初篇下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 實名
凡人の實名〈本字ハ名告ト可書、今從俗、〉をつくるに熟字を用ひ、又よしある字を用ふる事もあれど、大かたは韻鏡を考へて、反切して其人の性にかなふ字をつくる事世の常なり、おのれ思ふに、字音もてよばむには、さもこそあらめ、訓をもて唱ふるものにしあれば、字音は反切して性にかなへども、訓の音は、性にかなはねが多かれば、益なき事なり、通稱に用ふる名頭といふ物も、字音もてよぶ名に用ふるはかなへども、訓を用ふるはかなはず、たとへば富繁(トミシゲ)の音は、水性にはかなへども、その訓はかなはざるがごとし、よておもふに、音もて唱ふる名頭は、性にかなひて、下には兵衞にても衞門にても、又は太郎次郎などにても、かヽはらぬがごとく、實名も、よみはじめの音だに性にあはヾ、〈たとへば火性に、貞の字を用ひても、サダと訓ては性にあはず、タヾと訓ば、かなふがごときこれなり、〉下はかヽはらずして有なむ物なり、これは世にしたがふ中の誤をすこしく正せるなり、まことは五行といふ事もなし、相生和剋もなし、しかれども久しく世の風となれヽば、さても有なむ、

〔言繼卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 天文二年九月十七日丁巳、從廣橋字切之事被申候、注遣了、光盛、〈切經〉光信、〈切勻〉光親、〈切均〉光敦、〈切足〉光英〈切京〉等也、切字、注迄付候て遣了、

唐名

反名

〔日本書紀〕

〈二十二/推古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0721 十六年四月、小野臣妹子、至大唐、唐國號妹子臣蘇因高
○按ズルニ、蘇因高ノ解ハ苗字篇修姓ノ條ニ在リ、

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 大化二年九月、遣小德高向博士黑麻呂於新羅、而使質、遂罷任那之調、〈黑麻呂、更名玄理(○○)、〉
○按ズルニ、玄理ハ書紀集解孝德天皇紀大化元年六月庚戌ノ條ノ旁訓ニクロマロトアリ、本ヅク所アリシナラン、或ハクロマサト訓セルハ、後世ノ讀法ニ似テ、當時ノ名ノ如クナラズ、大化二年ノ黑麻呂ノ註ニ、更名玄理トアルハ、其文字ヲ、或ハ玄理トモ作ルト云フコトニテ、改名ニハアラザルベシ、此人ハ推古天皇十六年ニ玄理トアリシニ拘ラズ、大化二年三年ニ、黑麻呂ニ作リ、大化五年白雉五年ニハ、又玄理ニ作レルニテ知ルベシ、此ハ日本書紀ノ書法ニテ、神代紀ノ月神ノ本註ニ、一書云、月夜見尊、月讀尊トアルガ如シ、皆書法ノ異ナルヲ云フナリ、サテ玄ヲクロト云フハ字音ニテ、舌内聲ノ字ノ韻ハ、リルロ等ト呼ブナリ、平群〈大和國郡名〉ヲヘグリト云ヒ、訓覔〈安藝國高島郡郷名〉ヲクルベキト云ヒ、胡滿〈大伴宿禰〉ヲコマロト云フガ如シ、又理(リ)ハ、ロノ音ニ當テタルモノニテ、マノ音ヲ省キタルナリ、宇合ヲ馬養ニ當テタルガ如シ、

〔續日本紀〕

〈三十/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 寶龜元年三月丁卯、初問新羅使來由之日、金初正等言、在唐大使藤原河淸、學生朝衡等、屬宿衞王子金隠居歸一レ郷、附書送於郷親

〔唐書〕

〈二百二十/東夷列傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 日本、古倭奴也、〈○中略〉開元初、粟田復朝請、從諸儒經、詔四門助敎趙玄默、即鴻臚寺師、獻大幅布贄、悉賞物貿書以歸、其副朝臣仲滿、慕華不肯去、易姓名朝衡

〔大日本史〕

〈百十六/列傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 阿倍仲麻呂、〈○中略〉按古今集鈔曰、唐朝賜姓朝名衡字仲、未孰是、且唐人王維等贈詩、朝或作鼂、又按文苑英華、載包佶送日本國聘賀使晁臣卿東歸、李白集、稱日本晁卿、晁與鼂通、臣卿蓋仲麻呂字也、

〔日本紀略〕

〈桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722 延暦廿二年三月丁巳、詔曰、入唐大使贈從二位藤原朝臣河淸、衝命先朝、修聘唐國、既而歸舳、迷津漂蕩、物故於他郷、可正二位、河淸、贈太政大臣房前之第四子也、本名淸河、唐改爲河淸

〔性靈集〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0722大使福州觀察使書一首 賀能啓、〈○中略〉今我國主、顧先祖之貽謀、慕今帝之德化、謹差太政官右大辨正三品兼行越前國大守藤原朝臣賀能等使、奉獻國信別貢等物

〔唐書〕

〈二百二十/東夷列傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 日本、古倭奴也、〈○中略〉建中元年、使者眞人興能、獻方物、眞人蓋因官而氏者也、興能善書、其紙似繭而澤、人莫識、

〔異稱日本傳〕

〈上一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 眞人興能、按日本後紀曰、延暦二十三年三月壬辰、遣唐大使從四位上藤原葛野(カトノ)麻呂、副使從五位上石川道益等、葛野、訓若興能音、然未詳、紳鏡抄曰、葛野、或曰賀能、式部大輔藤原敦光曰、賀能、乃葛野之反名也、反名者取上字假名之初與下字之初若終連爲名、稱之曰反名、匡房(マサフサ)反名萬歳(マサ)、通憲(ミチノリ)反名民輪(ミリ)、猶葛野稱賀能也、據此觀之、則興能、蓋賀能也、

〔玉勝間〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 吉備大臣の名
吉備〈ノ〉大臣の名は眞吉備(マキビ)にて、然しるしたる書共もあるを、續紀などに眞備とあるは、もろこしの國にて、吉字をはぶきて書給ひしを、歸り參り給ひて後も、なほそのまヽに物には書給へりしなるべし、それもわたくしにはあるべからす、あだし國人にあひ給はむ時などのために、おほやけにも申てなるべし、すべてもろこしに渡り、あるは韓國の客にあふ時なで、名をもじをかへなどもして、からめきてかきたりし例、おほく有し也、

〔玉勝間〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 又吉備大臣の名
政事要略に、貞觀格を出していはく、右檢太政官去天平神護二年九月十五日格偁、大納言正三位吉備朝臣眞吉備宣、奉勅者と見え、一代要記などにも眞吉備とあり、ちかきころ、此大臣の母君を葬り給へる墓誌を掘りいでたるには、眞備とあり、眞備とあるをも、よむには、まきびとよむべきなり、

〔江談抄〕

〈二/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0723 古人名唐名相通名等事 又云、古人名、唐名相通名等、三善淸行、〈居逸〉田忠臣、〈達音〉紀長谷雄、〈發昭〉源順、〈具 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00092.gif 〉慶保胤、〈安澤、法名心覺、〉江擧周、〈達幸〉藤明衡、〈安蘭〉江匡房、〈滿昌〉

〔大日本史〕

〈百三十四/列傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0724 三善淸行、〈○中略〉按江談抄、淸行、文名居逸、淸行居逸、音訓相近、猶呼紀長谷雄紀發昭、田忠臣爲田達音之類也、
○按ズルニ、居逸ハ、キヨユキト讀ムベシ、逸ヲユキト云フハ、四質ノ韻、開轉喩母四等ニ屬シ、也行ノ定位ナレバナリ、四質ノ字ノ韻ヲキト云フハ、篳篥ノ篥ヲリキト云ヒ、一匹ノ匹ヲヒキト云フ例ナリ、又行ヲイキト云ハズシテ、ユキト云フハ、敏行ヲトシユキト云フ等ノ例ニ依ルナリ、

〔秇苑日渉〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0724 反名
此方人、多是雙名、國讀頗煩、古人或有上下二音之者、謂之反名

〔年山紀聞〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0724 反名
公卿補任云、大伴宿禰旅人、〈天平二年十月朔、任大納言、改名談等、〉
今按、名をあらためられしとあるは誤なり、族人を、淡等とも、多比等ともかヽれたるは、史を不比等とかき、馬飼を宇合など書れたる類にて反名なり、此反名の事、その比はやりたりと見ゆ、万葉第五、天平元年十月七日に、大伴淡等謹狀とあり、〈二年と元年の字にも心をつくべし〉そのうへ續日本紀聖武紀に、旅人薨とあれば、始終あらためられぬ事明らかなり、反名といふ事を知らぬ人の所爲なるべし、又安積覺〈字覺兵衞〉より文の次で、中古にも、紀長谷雄を發昭とかき、三善淸行を居逸と書申されて候、

〔古今著聞集〕

〈序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0724時建長六年應鐘中旬、散木士橘南袁、憖課小童、猥叙大較而巳、
○按ズルニ、古今著聞集ハ、橘成季ノ著ニシテ、コヽニ南袁トアルハ、成季ノ反名ナリ

省名之文字

〔筆のすさび〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 一通稱之説 記事の文に、近代の人、諱しれざるは、何某右衞門、何某兵衞とかくべきは論なし、しかるを文字俚なりとて、彌三郎を單に彌と稱し、又太郎を又、平右衞門を平とかきしあり、學びがてらに一話を記するごときはいふにたらず、記録史志の類ならば心あるべし、太郎次郎は、通用にそへて稱するなれば、はぶきてもよしとせば、彌又は、親も三郎、子も三郎なれば、其子を彌三郎、又三郎などヽいふにて、彌も又も同じく通用の稱なり、其人の名にはあらず、平右衞門源兵衞は、もと平氏の右衞門、源氏の兵衞なり、さればこれも名とはいひがたし、今時稱謂みだれて、かヽるけぢめもなければ、せんかたなく何某右衞門、何某兵衞とかくの外なし.

〔秋齋閑語〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 壺井翁撰述の書に、壺井安〈義智〉著とあり、いかなる書式にや、安を字とはいかヾ、常に安左衞門と名のられし故にや、近代二字の姓を一字に切て書事はまヽあり、是(コレ)以姓を私に切はいかヾなれ共、唐人風に一字姓にしたき心より書なるべし、可然事共不覺、いはんや名の字を切は、一向論に及ばず、察するに山崎嘉右衞門、朱熹に習て字似たるゆゑか、山崎嘉と書れしに元づいて、安と書れしものか、壺井翁程の達人も、かヽる誤あるにや、

〔日知録〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 古人二名止用一字
晉侯重耳之名見於經、而定四年、祝他述踐土之盟、其載書止曰晉重、豈古人二名、可但稱其一與、昭二年、莒展輿出奔呉、傳曰、莒展之不立、晉語曹僖負羇稱叔振鐸、爲先君叔振、亦二名而稱其一也、

〔言成卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0725 慶應二年十一月三十日、今日賀茂臨時祭、〈○中略〉韓神曲了、才男召人長、召立云、マツリゴトモオウチギミ藤原朝臣陳(タカ)其子細ハ、予と新相公等同官同位、扨可其下﨟之間、陳光卿、諱片字ヲ加召云々、昨冬北祭、久世宰相中將、梅溪宰中將、同官同位、下﨟可梅溪之間、マツリゴトモオウチギミ源朝臣善(タル)、久世ハ通熙、梅溪ハ通善、依之諱片字、上字同訓者、下字善召云々、今晩〈予ハ〉言成、新宰相ハ陳光マギレナキ間、上字陳ト召云々、今晩如此、舊例可尋.

〔伊呂波字類抄〕

〈安/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 字〈アサナ名〉

〔書言字考節用集〕

〈四/人倫〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 字(アザナ)

〔倭訓栞〕

〈前編二/阿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 あざな 字をよめり、交名の義なり、人に交るより呼べる名なればなり、字を阿三那(アザナ)と譯せしは、中山傳信録に見え、梵語に惡刹那といふ事、倶舎論に見ゆ、是は文字の字なり、學生入學の時、文章院の堂 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif が書くだす名籍にあざなを書り、よて儒者たるもの、必ずあざなつくといふ事、源氏の抄に見えたり、後世の俗、譃名をもしかいへり、宇治拾遺にも見えたり、よてあだなの義なりともいへり、

〔禮記註疏〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 幼名冠字、〈○中略〉疏〈正義曰、冠字者、人年二十、有人父之道、朋友等類、不復呼其名、故冠而加字〉

〔玉勝間〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 あざ名といふ物の事
あざ名といふもの、かの文琳、菅三、平仲などのたぐひのみにもあらず、古より正しき名の外によぶ名を字(アザナ)といへること多し、中むかしには、今のいはゆる俗名をも字といへることあり、其外にも田地の字、何の字、くれの字などいふも、皆正しく定まれる名としもなくて、よびならへるをいへり、いづれも漢國人の字とはこと〴〵也、そが中に、今の俗名をいへるは、漢人の字と、こヽろばへ似たり、

〔好古日録〕

〈末〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726
金石録曰、唐薛収碑、文字殘缺其可讀處々、以唐史之、無甚異同、唯収之卒、諡曰懿、而史不書爾、又収之子元超、據唐史及此碑、皆云名振字元超、蓋唐初人、多以字爲名爾、國朝菅三文琳紀寛ノ類、名トイハズシテ字ト云、唐初ノ人ノ、字ヲ以テ名トスルニ傚テ、名ヲ字ト云ナラム、

〔日知録〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0726 自稱字
漢書註、張晏曰、匡衡、少時字鼎、世所傳與貢禹書、書上言衡敬報、下言匡鼎白、南史陶弘景、自號華陽 隠居、人間書札、即以隠居名、此自稱字之始也、

〔松の落葉〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0727 字(アザナ) 名字(ミヤウジ)
いにしへは、名をいふを、いむことはなかりしかば、神の御名など、ひとはしらに、かず〳〵申もありつれど、あざなはなし、からぶみのわたり來て、よろづのこと、からのふりのうつれる世になりて、そのかたのがくもんする人は、名をいふをなめしとて、あざなつくる事なりき、されどそのあざなのやう、もろこしのとはことにて、其人の氏かばねのもじによりてつけけるを、高野天皇〈○稱德〉の御心にかなはずして、神護景雲二年のみことのりに、或取眞人朝臣字、以氏作字云々、自今以後、宜更然とあり、これはひたぶるに、からのやうにせまほしくおぼしよりたるにて、御國こヽろにあはぬみことのりなれば、しばしこそあれ、つひにはみな人したがひたてまつらず、なほ氏かばねによれり、氏によれるは、菅原のおとヾの君の御字菅三、三善淸行の字三耀のたぐひぞ、かばねによれるは、氷宿禰繼麻呂の宇宿榮といひしたぐひなり、此繼麻呂の字は、文德實録八卷に見えたり、高野天皇のみことのりは、續日本紀の二十九卷にあり、さてのちは、からぶみまなびする人ならでも、たヾしき名のほかにつくる名をあざなとて、をのこもをんなも、なべてつくる事となれりき、そのあざなのやうは、今の世に、名字にあざなをつらねいふに似たり、今昔物語に、姓は文忌寸、字は上田三郎と云、其人の妻あり、姓は上毛野公、字は大橋の女と云とあるをみるべし、たヾしこれは氏姓によらざれど、同物語に、源宛といふものヽ字を田源二といひ、藤原秀郷の字を田原藤太といへり、そののちも梶原平三など、平氏にて、氏によりて字つきたれば、氏姓によりてつくるならひは、後鳥羽院の御代までも、ひたぶるにはやまざりき、さて又名字といふもの、日本書紀の顯宗天皇の卷に、帳内日下部連使主云々、使主、遂改名字田疾來(タトクク)とかきたまへるは、正しき名のことなるに、中むかしにては字(アザナ)にまがへり、東鑑に、以景季名字給之處、佐藤兵 衞尉憲淸法師也とあり、又同書に、名字〈時連五郎〉と見えたるなどを思ふに、おほよそ八百とせのむかしよりは、すべて正しき氏のほかなる氏、正しき名のほかなる名をひとつにつらねて、あざなとも名字ともいひしにぞありける、されど事のよしを考ふれば、中頃よりの名字は、その人のすみ所の庄名のなによりて、氏のやうなるものをものして、しかいひしぞ多き、さるは同じ氏のあまたになりて、まぎらはしきゆゑにぞありけん、高綱が氏は源にて、近江の佐々木にゐつれば、佐々木四郎高綱といへるにてしるべし、むかしは郡のうちに某名といふありき、かヽればあざなと名字とは、わきていふぞ正しかるべき、たれもさおもへばにやあらん、今の世には、名字とは、氏のほかなる氏をのみいへりしか、わきていはんには、名のほかなる名をあざなといふべし、今昔物語に、字太郎介、又は京大夫などいへるは、今の世のあざなと同じいひざまなり、

〔年々隨筆〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0728 いにしへは、中書王、儀同三司などやうに、めでたき文人といへども、その道の人ならぬは、字といふ物はつく事なかりつとみえて、すべてきこえず、源氏物語少女卷に、夕霧のおとヾの六位にておはしましヽ頃、字つくる事を、二條の東院にてし給ふ事ありて、そのさはふいかめしげにみゆるは、身のほど〳〵につきて、うるはしうしてつく事なるべし、さるは此君大學の衆になり給ひつる故に、字もつき給ふにこそありけれ、しかるを今の世は、よろづそヾろきて、けふ書よみそむるより、やがてつくなる、打聞ば物々しく博士めきて、その實はまだ難波津淺香山のほどなるは、戯だちてをこがましき事也、かくてから國の字は、みな二字なるを、皇國のは、多くは一字にて、菅三文琳などやうに、姓を加へて二字なり、ゆゑある事なるべし、しかればかの難波津も、一字こそつくべきに、さる故實はしらずして、なほ二字をのみぞつくなる、そも〳〵あざなといふ義は、いかなる事ならん、此から流のを除て、實名ならぬ名のりを、みな字といふめり、今昔物語に、字太郎介、字澤股四郎などいふがみえたるは、今時の俗名のさま也、日本靈異記に、字上田三 郎、萬葉集に字仲郎といふあり、輩行を字といふ事、いと古よりありこし也けり、玉蘂に、字伊豫内侍、字辨内侍などいふ事のみゆるは、今はよび名といふにや、十訓抄に、南都の舞師に、宇和博士晴遠といふ人あり、宇治拾遺物語に、ぬす人の大將軍保輔が、保昌朝臣に、あざな、はかまだれといはれ候といへるは、今時のすまひのつく、なのりといふ物、またぬす人ばくち打のつく、あだ名といふものに似たり、字はやがて、その異名のうつれるにて、本義ならんかし、又日本紀には、億計天皇、〈○仁賢〉諱大爲、字島郎とありしよな、彼紀は漢風にかきたる所多かれど、こヽはその例にもあらで、自餘天皇、不諱字、至此天皇、獨自書者、據舊本耳とあるは、はやく此紀よりもさきに、しか漢風なる史もありしなりけり、こは文飾にて實にあらず、いにしへ王たちの御名、かならずしも一つに限らざりける物なれば、億計大爲、島郎、みな御名なり、諱にも字にもあらず、おもひまがふ事なかれ、

〔善庵隨筆〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 今ノ俗名トイヘルモノ、吾日本ニテ、古ヘ字トイフモノニ當ル、萬葉集第十六、本朝世紀、奥羽軍記等ニ載スル所證スベシ、〈本朝世紀康治二年記曰、六月十三日戊戌、源賴盛、字檜垣三郎、源惟正、字辻三郎、忽企合戰云々、〉中古文政行ハレシヨリ、搢紳家モ、文アンバ漢土ニ擬シテ、名ノ外ニ字トイフモノ出來ス、左レドモ爵位官職ト實名ニテ通用スレバ、人毎ニ字アルニモ非ズ、好事ノ上ヨリ私ニ文詞上ニ稱セシマデナリ、故ニ鎌倉時代ノ頃マデハ、民間ニテ、ヤハリ今ノ俗名ヲ字ト稱セシコト、古文書等ニ毎々見ユ、慶元以來、文人學士ハ、必ズ俗名ノ外ニ、唐人同樣ニ字アルコトナレバ、今更ニ古ノ例ヲ用ヒテ、俗名ヲ字トモイヒガタシ、左レバトテ俗名俗稱ノ字ハ、和漢トモ所見ナシ、因テタヾ稱ト書キタラバ、當リサハリ無カルベシ、

〔名字辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0729 萬葉集十六に、〈○中略〉土師宿禰水道、字曰志婢麻呂、又吉田連老、字曰石麻呂などあれど、いづれも字と云ものにはあらざるべし、續紀寶龜七年正月、九年二月、十年二月などに、吉田連古麻呂 といふ名見ゆ、又天應元年四月には、一本に石麻呂と作り、延暦三年四月には吉麻呂と作り、又文徳實録嘉祥三年十一月には、右麻呂と作り、是等は皆石麻呂を誤しなるべし、或人云、此古麻呂は、石麻呂の誤かといふ説もあれど、字を記べきにあらず、別人ならんといへり、されど天武紀なる、夫人氷上娘をも、此萬葉集には、藤原夫人、註に、字曰氷上大刀自也とあり、此外有娘子、字曰櫻兒也、又有遊行女婦、其字曰兒島也、豐前國娘子、字曰大宅、などある、皆實は字と云ものにはあらざるなり、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 名字 な あざな
字の事、必しも人ごとに有にはあらず、たま〳〵字ある人あり、漢の書に見えし小字といふものに似たり、楊雄が子の小字を童鳥といひしが如きなり、これをすべて名とのみいひて、阿弉那(アザナ)とはいはず、後世に到りては、儒者は必字つくる事となれり、源氏物語にも見えたり、されども漢の法と異なるも有、文屋康秀の字は琳なるを、文淋といひしが如く、或は袴垂といふ盗人の有しなどは、あだなといふが如きに似たり、

〔類聚名物考〕

〈姓氏八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0730 謔名 しこな 〈俗云〉あだな あざな
あざなといふに二ツのわかち有、名字とて、漢ざまに儒生のつけるは、名をいふまじきが爲につくこと也、これは俗にいふ阿太奈(アダナ)にて、實名に對へて他(アダ)名なればいふなり、萬葉に、遊行女婦之字也といへるが如き是也、あるは盗人の名に袴垂、または大殿小殿などもいひ、伐株の僧正、堀地の僧正、 强盗法印などいへるが如き、一時のたはぶれ秀句などによて名付おほするをいふなり、是はたはぶれより出たる事なり、されども此類又多し、その初をいはヾ、神代に〈古事記上〉火照命を海佐知毘古といひ、火袁理命を山佐知毘古といふが如きも、字(アザナ)といふに似たり、又同じ火袁理命を、鹽土翁が詞には、虛空津日高ともいへるも同じ意也、又案に、唐人紀事の中に、小名録一卷有、そ の中に怪名造字一則有、この怪名もこの類ひにちかし、しかしそれは奇字をもて名とせるなれば、同じとは云べからず、

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 あざな 字
あざなは、皇朝いふ所と西土稱する所と趣を異にす、〈○中略〉日本紀に、改字曰丹波小子、また字島郎と見え、萬葉集に、字曰石麻呂などを見るに、當今の假名のごとし、故に讀曰那(ナ)蓋與名同と〈日本書紀通證〉いふ、また一時の戯れに出たるあだなをも、字といふこともあり、〈類聚名物考〉

〔日本書紀〕

〈十五/仁賢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 億計天皇、諱大脚(オホシ)、〈○註略〉字嶋郎、弘計天皇〈○顯宗〉同母兄也、

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌、輕皇子、〈○中略〉升壇即祚、于時大伴長德〈字(○)馬飼〉連、帶金靭於壇右

〔續日本紀〕

〈二十九/稱德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 神護景雲二年五月丙午、勅、〈○中略〉頃見諸司入奏名籍、〈○中略〉或取眞人朝臣字、以氏作字、〈○中略〉其如此等類、有先著者、亦即改換、務從禮典

〔日本靈異記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 凶人不養妳房母以現得惡死報縁第廿三
大和國添上郡有一凶人也、其名未詳、字曰膽保、是難波宮御宇天皇〈○孝德〉之代、預學生之人也、

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731僧與邪婬得惡病而死縁第十一
聖式天皇御世、紀伊國伊刀郡桑原之狹屋寺尼等發願、於彼寺法事、請奈良右京藥師寺僧題惠禪師、〈字曰依網禪師、俗姓依網連、故以爲字、〉奉仕十一面觀音悔過、時彼里有一凶人、姓文忌寸也、〈字云上田三郎矣〉

〔日本靈異記〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731持心經女現至閻羅王闕奇表縁第十九
利苅優婆夷者、河内國人也、姓利苅村主、故以爲字、

〔萬葉集〕

〈十六/有由縁幷雜歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0731 傳云、有大舎人土師宿禰水通、字曰志婢麻呂也、於時大舎人巨勢朝臣豐人、字曰五月麻呂、與巨勢斐太朝臣〈名字忘之也、嶋大夫之男也、〉兩人、並此彼貌黑色、〈○下略〉

〔文德實録〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 齊衡三年四月戊戌、散位外從五位下氷宿禰繼麻呂卒、繼麻呂、字宿榮、左京人、

〔文德實録〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 天安二年六月己酉、大學助從五位下山田連春城卒、春城字連城、右京人也、

〔桂林遺芳抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 一入學吉書事
一字事〈上古樣〉
凡如漢朝、於字(アザナ)者上置姓之一字、下置別字也、
聖廟御字者、菅三、三善淸行、字三耀、文屋康秀、字文琳、紀長谷雄、字紀寛、藤道明、字藤階、橘澄淸、字橘上、平惟長、字平昇、源扶義、字源 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00093.gif 等也、
此外有姓字取也
藤菅根、字右生、橘廣相、字朝凌、田口忠臣、字達音、春淵良規、字朝二等也、例兩樣繁多也、近代之樣者、依https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 相計藤槐菅寮等也、委細尚註省試之段畢、〈○中略〉
一寮省之試事〈○中略〉
延喜十六年八月廿八日試、行幸朱雀院、御題高風送秋詩、〈以鐘爲韻七言大韻〉及第四人〈九月廿一日判〉藤原高樹、〈字藤原童近江〉大江維時、〈字大江二〉春淵良規、〈字朝二〉藤原春房、〈字藤原藝〉
已上四人不作開韻及第云々
登省記曰、康保二年十月廿三日、行幸朱雀院、御題於藏人所之、
飛葉共舟輕〈勒七 澄 陵 氷 興 膺〉
及第一人 橘倚平、〈字橘宣、式部丞、〉飛驒守是輔等、

〔大日本史〕

〈百三十四/列傳〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 三善淸行、字耀〈按本書淸行、字三耀、配其姓以爲字、菅原道眞、字菅三、其他紀寛、橘能之類皆然、故今去其姓、以從單稱、〉

〔源氏物語〕

〈二十一/乙女〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 あざなつくることは、ひんがしの院にてし給、

〔江談抄〕

〈二/雜事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0732 古人名幷法名事 又云藤慶者、〈道明大納言字云々〉藤文者、〈右衞字云々〉藤賢者、〈有國字云々〉式大者、〈惟成字云々〉

〔今昔物語〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733夢告泥中出地藏語第五
今昔、陸奥ノ前司平ノ朝臣孝義ト云フ人有リ、其家ニ郎等ニ仕フ男有ケリ、實名ハ不知ズ、字ヲバ藤二トゾ云ケル、

〔今昔物語〕

〈十九〉

讃岐國多度郡五位聞法即出家語第十四
今昔、讃岐國多度郡ノ郷ニ、名ハ不知源大夫ト云者有ケリ、

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 播磨國郡司家女讀和歌語第五十六
今昔、高階ノ爲家朝臣ノ播磨守ニテ有ケル時、指セル事无キ侍在ケリ、名ハ不知ラ、字ヲバ佐太トゾ云ケル、守モ名ヲバ不呼テ、佐太トゾ呼ビ仕ヒケル、

〔今昔物語〕

〈二十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 傳大納言得烏帽子侍語第四十三
今昔、傳大納言ト云フ人御シキ、名ヲバ道綱トナム云シ、家ハ一條ニナム有シ、其ノ家ニ世ノ者ニテ、物可咲ク云テ、人咲ハスル侍有ケリ、字ヲバ内藤トゾ云ヒケル、

〔今昔物語〕

〈三十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 平定文假借本院侍從語第一
今昔、兵衞ノ佐平ノ定文ト云フ人有ケリ、字ヲバ平中トナム云ケル、品モ不賤ズ、形チ有樣モ美カリケリ、氣ハヒナニトモ、物云ヒモ可咲カリケレバ、其ノ比、此ノ平中ニ勝レタル者、世ニ无カリケリ、

〔陸奥話記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 散位平國妙者、出羽國人也、驍勇善戰、常以寡敗衆、未曾敗北、俗號曰平不負、〈字曰平大夫故加能云不負

〔玉海〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0733 安元三年〈○治承元年〉四月廿日己丑、依神輿獄所輩、
平利家、〈字平次〉同家兼、〈字平五〉田使俊行、〈字難波五郎〉藤原通久、〈字加藤田〉同成直、〈字早尾十郎〉同光景、〈字新次郎〉

〔年山紀聞〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734
爲章按ずるに、これらの説〈○上文萬葉集及玉海〉によれば、今の世に俗名といふを、古くは字といへり、唐山の風にはかなはざらめど、本朝の故質なれば、此説をも用ふべし、

〔吾妻鏡〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 治承五年〈○養和元年〉正月廿一日戊辰、惡僧張本戒光、〈字大頭八郎房〉中信忠之箭

〔絶海録〕

〈上/偈頌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 成山號〈有序〉
城平督上人、淸脩謹愿、克服師訓、寔抱道之士也、一昨胥會於高城客舎請曰、古以字稱、敬其名也、幸 辱之字、予辭不獲、因進之曰、世有至德要道、君子資焉、衆人棄焉、苟棄焉、則小道蔽之、敗德隨之、所謂 至者要者、於是乎替、君子觀其然、則痛自鞭勵、督之責之、進之道德、而必至其成而止爾、今觀子之師 所以命一レ子者、其旨至矣、字之成山、其可乎、山者艮也、畫也止也、皆亦欲其有功而止夫至善之域也、 因贈禪詩一章、以規以祝、
崇大雖化工力、功虧一簣完全、六年苦行得何道、雪嶺高寒壓五天

〔心田詩藁〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 賀齋棠字句詩幷序
諺曰、命名者、謂之師長、稱字者、謂之朋友也、群玉稱首、易名而號 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00094.gif 、又字而曰齋棠、蓋以召叔世而有 召公之德也、命名者爲誰哉、南朝帝王之族、西阜法幢之主也、不亦美乎、命字者誰哉、南涯双桂肖翁 大禪匠也、不亦榮乎、〈○中略〉嗟乎双桂者、天下之大老、而命以其字者、以足天下之士也、〈○下略〉

〔半陶藁〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0734 古源字説〈代作〉
龍吟派下、有其名曰淸者、籍于洛之瑞龍侍客局云、〈○中略〉公初字某、就余求字、隨辭隨請、不已以古源之、古曰、源淸者流淸、夫達磨一宗、四七唱前、二七和後、流眞指之蓬、浮單傳之葉、爾來洞水濟水、派 派相續、浸爛盡乾坤、是公之所嘗而遍也、吁時方叔未、衆濁獨淸者、余於古源之、抑乃祖大明國師、塔下有一淸泉「、喚曰龍吟水、水之名天下也、谷簾南泉、可以抗衡、公親出其一派、則淸云、源云、皆君家舊物 也、公從之自參自悟、苟徹本源、流出胸襟、蓋天蓋地、則横川亦古源之所以爲一レ源也耶、一咲是爲字説

〔鵞峯文集〕

〈二十二/説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735二子説〈癸卯季秋〉
去歳孟秋朔、字 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00081.gif孟著、今歳季秋朔、字戇曰直民、共當其冠歳、聊慕古禮也、

〔鵞峯文集〕

〈二十二/説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 國義説
加能越侯菅君者諱綱利、求字於余、綱者幕府之御賜言不容易、利者世家之通稱、可以推廣焉、乃以國義應焉、取諸大學傳所謂國以義爲一レ利也、利者四德之一、而物之遂也、義者四端之一、而事之宜也、利與義共配秋、萬物収成之時也、易所謂利者義之和也、事物各宜而得其文之和也、君施政撫民、先齊其家、以敎國人、而物遂事宜、而西成平秩、則國以義爲利也、昔晉文侯字義和、爲北方之伯、藩于周室、克昭其祖其師、寧其邦用成其德、可以景慕、焉、爲君所庶幾也、〈乙巳季冬辰〉

〔先哲叢談〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 二山義長字伯養
伯養妻垂水氏、名三、字省君、

〔近世畸人傳〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 池大雅〈附妻玉瀾〉
妻町子は、祇園林百合子が女也、〈○中略〉柳里恭の號の玉の一字をもらひて、玉瀾と號す、

〔文用例證〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 字ヲ姓名ノ上ニ書スル例、宋文憲集序ニ、順治九年歳在壬辰、即墨後學天近周日燦、書于浦陽縣治之二思堂中、コレ天近ハ日燦ガ字ナリ、譬バ平安後學原臧伊藤長胤ト書スルヤウナルモノナリ、

別號

〔伊呂波字類抄〕

〈奈/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 號〈音號〉

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0735 號〈別號〉
號は人君の成德を表し、いさをしをあらはし、臣庶に號令し示すものなり、〈白虎通〉上代に伏羲、神農、燧人といひ、黄帝、顓頊、帝嚳、帝堯、帝舜といふ如きこれなり、〈同上、堯といひ、舜といふは名にて、號にはあらざれども、帝を加へて稱するも の、臣下より尊稱する所以なり、白虎通に、帝者諦也、衆可承也、又德象天地帝といふにてあきらけし、〉夏の代にいたりては、十干を以て號をたつ、また文祖藝祖といひ、神宗皇祖といふは廟號なり、〈日知録〉代移りて、有天下號といふは、夏といひ、殷といひ、周といふ類なり、これ前代にわかち、いさをしをあらはし、後世に示す所以なり、戰國の世に及び、秦惠王の時、處士に塞泉子と號する人あり、又樗里子、或は鴟夷子など自ら號せしぞ、今世別號の權輿なるべき、〈學山録〉その他周茂叔に濂溪、程氏兄弟に、明道伊川等の號あれども、敢てその名を指さずして、居地を以て號するもあり、あるひは死後に、門人その師を尊びて設けたる號もあり、みな自分設くる所の號にあらず、宋末に至り、別號の稱盛れり、〈同上〉皇朝にても、文字に携はる人は、號ある人もあり、然るに後世のことにて、古には所見なし、その號は美稱なればにや、人に對していふは倨傲に近ければ、卑賤に對するは別なり、同輩以上の人には憚るべきことなり、

〔玉勝間〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0736 某屋(ナニヤ)といふ家の號(ナ)の事
近き世、商人の家の號、おしなべて某屋といふ、それにいろ〳〵のしなあり、まづ酒屋米屋などいふたぐひは、其物をうるよしにて、こはふるくもいひしことにぞ有けむ、又大和屋、河内屋、堺屋、大津屋などのたぐひは、先祖の出たる國里の名也、又えびす屋、大黑屋などは、福神といふをもて、いはひたる也、又松屋、藤屋、桔梗屋、菊屋、鍵屋、玉屋、海老屋、龜屋などいふたぐひ、木草の名、うつは物の名、あるは魚鳥の名などもてつけたるは、風流たるをこのめるにて、これも中原康富記に、應永廿七年十一月七日手申、春日祭也、予依分配、早朝南都下向、天蓋大路、龜屋著之、史員職行秀等、同宿也とあるを見れば、そのかみもはやく有しこと也、この龜屋は、旅人やどす家にや有けむ、さてこのたぐひの號は、もろこしの國にて、某堂、某亭、某軒、某齋などいふと同じこヽろばへなり、さる故に、むかしは商人のみならず、然るべき者も好みてつけたりと見えて、伊勢の御師といふものなどにも某屋大夫といふが多く有也、そはもと風流たるを好みてつけたる物なるを、あき人の家 に、おしなべて某屋とはかくゆゑに、今はかへりて卑き號となりて、先祖より傳はりたるをもいとひて、屋字を谷にかへなどすめり、さてかのもろこしの某堂某齋のたぐひは、物しり人風雅人なども、商人もかはることなくて、同じさまにつく事なるを、御國にても、まねびてつく人多き、それをばあき人の家の號に同じとて、いとふことなきは、からめきたるにまぎるればなるべし、しかるに近きころ、古のまなびするともがらは、その某堂某齋のたぐひは、からめきたるをうるさがりて、皇國ことばもて、つけむとするに、かの松屋藤屋のたぐひは、さすがにさけむとする故に、つくべき號なくて思ひわぶめり、或は某(ナニ)の屋と、のもじを添て分むとすれども、木草などのうちに、みやびたる名は數おほからねば、こヽにもかしこにも、同じことのみいでくめり、そも〳〵もろこしのは、多く二字をつらねてもつくる故に、いかさまにも心にまかせて、めづらしくつくべきを、皇國言は、二つかさねては、長くなりてよびぐるしければ、かにかくにつけにくきわざなりかし、

〔本朝高僧傳〕

〈四十一/淨禪〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0737 京兆南禪寺沙門英文傳
釋英文、號景南、生于常州、〈○中略〉稍長上洛、拜東福大方用和尚師、前夜方夢文關西至、因名英文、後自號景南

〔本朝高僧傳〕

〈四十三/淨禪〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0737 京兆南禪寺沙門桂悟傳
釋桂悟、號了庵、嗣法眞如大疑信公、〈○中略〉朝廷聆其名、召問法要、皇情大喜、特蘸宸翰、大書了庵二字之、

〔本朝畫史〕

〈中/中世名品〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0737 僧雪舟、諱等楊、又稱備溪齋、或稱米元山主、氏小田、備之中州赤濱人也、

〔明良洪範〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0737 或時六左衞門ニ、弓ノ事仰セ仕ラレシ、冬ノ事ナリシニ、早速削リテ、雪中ニ自身肩ニ打カヽゲ、馬ニ乗蓑笠著テ登城シケル、秀次公矢倉ヨリ御覽有テ、賤シカラヌ武士、馬上ニ何 ヤラ荷ヒタルゾ、不審サヨト有シ所ヘ、吉田六左衞門御弓仕リタリトテ差上ルニ、御心ニ叶ヒケル故、早々召出サレ、只今城下ヲ見ルニ、馬ニテ弓程ノ物ヲ荷ヒ來リシハ汝ナリヤトノ事ニ、私ニテ候ト答ニ、家來ハ持ザルカ、自身馬上ニテ荷ヒタルハ如何ト尋ネ給ヘバ、サレバ御調度ノ第一ニシテ、御手ニ取ラルヽ器故、爭デ下々ニ持セ申スベキト申上シカバ、別シテ感賞有テ、雪ヲ荷ヒタル形氣面白ケレ、號ヲ下サルベシ迚、雪荷ノ二字ヲ給ヒシ故、以來雪荷ト云一流ヲ立ル、吉田一族ノ内ニテ、弓ノ上手也、

〔桃源遺事〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 西山公、御諱光圀、〈○中略〉日新齋、又常山と稱せられ、或は卒然子、又梅里と號せらる、〈梅里は、呉の泰伯之墓地之名也、素より泰伯を御慕ひ遊れし故と聞し、〉

〔閑散餘録〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 徂徠ノ號ハ、總州ニ往來(ユキゝ)ノ里トイヘルアリ、ソノ地名ヲ以テ號トセリトナン、

〔先哲叢談〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 物茂卿
徂徠之在胎也、母彌月、夢歳首松枝上レ門、寤而生徂徠、故名雙松、後有避、以字行、徂徠號、取之詩魯頌徂徠之松、一説其少時好雷、故自號蘇雷、而上總有往來里者、因改書爲徂徠字、署三河物茂卿者、其先三河荻生人、物部守屋後也、本集有家大連檄文、及送守秀緯序、秀緯與余同姓、系大連、故以其字氏之言、〈雙松字、未何所一レ諱、或曰、避德松君、或曰、徂徠之仕於柳澤侯也、侯與酒井侯姻、酒井侯之先、雅樂助正親、追號雙松院、因避其名、〉

〔縣居集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 寶暦十四年の秋、はま町といふ所へ家をうつして庭をのべ、または畑を作りて、所もいささかかたへなれば、名をあがたゐといひて住始ける、

〔うけらがはな〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0738 賀茂翁家集の序
そも〳〵大人の遠つおやをたづぬるに、賀茂のあがたぬし、成助のすゑにて、〈○中略〉眞淵といへるみ名は敷智の郡の名よりおもひよりてつきたまへりとぞ、あがたゐとは、うつせみの世にませし時、庭を田ゐのさまに作りて、かも氏のかばねにも、よしあればとて、みづから家の名におほせ られたる也けり、

〔淇園文集〕

〈初編二/墓碣〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 富士谷成章墓誌銘
成章、字仲達、初號層城、後又改用其宅地名北邊、實某弟也、

〔三哲小傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 平宣長の大人、字は中衞、常のよび名は本居舜庵、號を鈴の屋のうしといふ、

〔鈴屋集〕

〈五/長歌〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 天明二年の冬、家のうちに高き屋を造りて、又の年の三月九日の日、友だちをつど へて、はじめて歌の圓居しける時によめる、
をとめらが、ま手にまきもつ、さく鈴の、五十鈴のすヾの、鈴の屋は、しこのしきやの、丸木屋の、を屋にはあれど、〈○中略〉
鈴の屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけおきて、物むつかし きをり〳〵引なして、それが音をきけば、こヽちもすが〳〵しくおもほゆ、そのすヾの歌 は、
とこのべにわがかけていにしへしぬぶ鈴がねのさや〳〵、かくて此屋の名にもおほ せつかし、

〔蒹葭堂雜録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 蒹葭堂、名は孔恭、〈○中略〉一時庭中に井を穿に、不圖蘆根を得たり、是則ち浪速の蘆なり、是よりして蒹葭堂と號すとぞ、

〔蒹葭堂雜録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 大雅堂、名は無名、字貸成、九霞と號す、或は九霞山樵の字を省きて霞樵とも書り、姓は池野、俗稱秋平、京師の人なり、

〔翹楚編〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 治憲公〈文學の御風稚とて、御學問所を稽古堂と稱し、(中略)御號を鷹山と稱し、御園を紫霞園と名づけられ、隠居まし〳〵て、城南三御丸に住居し給へば、御號を南亭と稱、〉

〔先哲叢談〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0739 佐藤直方
直方、無字號、或謂曰、山崎闇齋、子之師也、淺見絅齋、三宅尚齋、則子之友也、而皆以號稱、子獨無尊稱、不知有何説歟、直方曰、余從邦俗耳、此邦自古無字號、何必背邦俗之爲、假令余之彼西之邦、亦以名直方、通稱五郎左衞門居、故雖弟子、直稱曰直方先生、稻葉默齋、墨水一滴云、斯文源流、以剛齋直方先生號誤矣、弟子野田德勝、號剛齋、〈或云、直方、號峯松軒、此蓋一時名軒耳、非自表之號、〉

院號

〔常照愚草〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 一法體の人、軒號院號之事、大かたの人をば軒號院號酙酌候事也、讃州〈○細川持常〉を慈雲院と申候し事は、發心の體にて、然も其仁體一かどの儀にて候つる間、院號常に申したる儀也、軒號も同前ながらも、院號よりはあさく候はん哉、仍て兩號の候事、常式は其憚可之、〈○中略〉諸人なき跡に、寺院號を稱する事、其例數多在之、

〔孝經樓漫筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 院號
我國むかし佛法に歸し、剃髪しても、度を賜ざれば法名を稱する事あたはず、但出家の人は房號有、後禪宗我國に弘通し、授るに、戒名を以てし、また道號を受しむ、塔頭を立はじめ、院號寺號を稱す、塔頭なしといへども、貴介は是に准じて、寺院の號を以てす、是より末々士庶といへども不憚、私に院號を稱す、

〔久昌寺法式〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 一以香火寺名、爲創建主號、乃本朝中古之風、而名卿巨公之稱也、然近世僧徒不士庶、謾授院號、是大訛也、向後堅禁之、且夫院號之下加殿字、乃叢林禪徒所傳謬、而甚無義理、向後縦雖官爵者、有故稱院號、不殿字

〔稱呼私辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 院號、其始非天子稱、中古藤原氏執柄時、兼家公號法興院、是其始也、至足利尊氏等持院、武家稱院、是其始也云、

〔日本紀略〕

〈九/一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 正暦二年九月十六日壬子、戌刻皇太后宮〈○圓融后藤原詮子〉落飾爲尼、〈○中略〉停皇太后宮職、爲東三條院、年官年爵封戸如元、

〔愚管抄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0740 一條院御母は、東三條院と申す、女院の始は、この女院也、これは兼家のむすめにて、圓 融院のきさき也、

〔愚管抄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 三條院の御子〈○敦明〉東宮にたて給ひたるは、小一條院なり、〈○中略〉東宮の、一條院の御子に、後一條後朱雀など出き給にしうへは、我御身、もてあつかはれなんと思召て、東宮を辭して、院號を申て、小一條院と申ておはしましける、

〔和漢名數〕

〈歴世〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 足利十三世 尊氏〈等持院〉義詮(アキラ)〈尊氏之子、實篋院、〉義滿〈義詮之子、鹿苑院、北山殿、被太上天皇號、〉義持〈義滿之子、勝定院、〉義量〈義持之子、長得院、〉義敎(ノリ)〈義滿之子、號普廣院、赤松滿祐弑之、〉義勝〈義敎之子、號慶雲院、墜馬而夭、時十歳、〉義政〈義敎之子、慈昭院、稱東山殿、〉義尚〈義政之子、常德院、〉義稙〈義政之弟、曰義視、是義稙之父也、義政養爲子、號惠林院、〉義澄〈義稙之弟、政知之子也、又義政養子、號法住院、〉義晴〈義澄之子、萬松院、〉義輝〈義晴之子、三好弑之、號光源院、○下略、〉

〔國朝舊章録〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0741 御當、家御代々御院號出所
安國院殿 家康公、〈御誕生壬寅年、薨御元和二辰年、〉觀智國師、七拾六歳ニ而御引導、無量壽經、〈治國利民之文也〉天下和順、 日月淸明、風雨以時、炎厲不起、國豐民安、兵戈無用、崇德興仁、務修禮讓矣、
台德院殿 秀忠公
書經上〈五十五〉夏書禹貢篇曰、祇台德先、不朕行矣、 高宗説命〈二十四〉曰、命之曰、朝夕納誨、以輔 台德 禹貢晉書天文志曰、天有三台德刑三公
大猷院殿 家光公
書經下〈百廿二〉周書君陳篇曰、爾克敬典在德、時乃罔變、允升于大猷惟予一人、膺受多福其爾之休、 終有于永世矣、 毛詩巧言篇曰、秩秩大猷、聖人莫之、
嚴有院殿 家綱公
書經上〈十二〉虞書皐陶謨篇曰、日宣三德、夙夜浚明有家、日嚴祇敬六德、亮采有邦、翕受敷施、九德咸事、 俊乂在官、百僚師師、百工惟時、撫于五辰、庶績其凝、
常憲院殿 綱吉公 書經上〈廿八〉夏書胤征篇曰、先王克謹天戒、臣人克有常憲、百官修輔、厥后惟明明、
文昭院殿 家宣公、〈御誕生壬寅年、薨御正德二辰年、〉祐天大僧正、七十六歳ニ而御引導、資忠履信、武烈文昭、 毛詩 魯頌泮水篇曰、允文允武、昭假烈祖

〔閑散餘録〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 台廟〈○德川秀忠〉ノ諡號、尚書ノ禹貢ニ本ヅク、台ハ我ナリ、コノ時ハ延知切ニテ夷ノ音ナリ、シカルヲ胎ノ音ニヨメルハ、初メ林家ノ人々ノヨミ違ヘタルガ例トナリテ、誤ヲ襲、ヘルナリト、友人伊藤希卿、師説ナルヨシ物語リセリ、此類ノ事、世上ニ尚多カルべシ、

〔基熙公記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0742 延寶八年五月十二日庚子、辰刻參内之處、於番衆、千種亞相〈武家傳奏〉談云、大樹〈○德川家綱〉去八日令薨去給之由告來、十六日甲辰、午下刻許、右大將勸亞相兩人來臨、爲御使、其旨趣者、今度大樹薨逝之間、院號之事、被申上之間可撰進、台德院之時如此、於大猷院者、康道公被撰定云々、十八日丙午、辰下刻許、注院號申詞、遣右大將許、且又以狀遣勸修寺大納言許、右大將許ヘ遣申詞之由示了、申詞如此注中高檀紙、以小鷹檀紙之如普通
院號之事、台德大猷之兩號、出尚書歟、且爲佳蹤之間、引見之處、嚴有惇信等字、可然覺候、樗櫟材不其器、唯可群議矣、
右大將、可奏達之由有返答
抑此號之事、尚書皐陶謨云、日嚴祇敬六德、亮采有邦、武成云、惇信明義、依此語嚴有惇信兩號撰之了、此外數多雖撰出、昨日平中納言談合之處、少々不快之事等有之間省之了、且又兩號之切之事、如此號不切沙汰歟、雖然若爲人問切了、嚴有〈無形〉惇信、〈晉〉共以無指難歟、〈○中略〉及未刻、從御所召、則着衣冠參内、於車寄邊關白被來會、同道行記録所方、頃之右相府被參、暫之後有御對面、〈御學問所〉被仰云、院號之事、前ニ不仰關東、只一號被定遣之間、殊可撰用之由也、且又予所注進之嚴有(ゲンユウ)ノ有ノ字、大概人ノ名ニアリテハ、ゴオンニウトヨム歟、ユウトハ難讀カランカ、於惇信ハ無殊難、可 然之由被之、關白被注進、後台德院、仁壽龍德、三號也、於仁壽は爲殿名、不然之由仰也、此外一向不御沙汰、右府注進、廣運、明昭、景福、三號之中、景福者漢代之殿名也、廣運キヽ不宜、明昭可然歟、但惇信可然之由有仰、一同宜之由被之、武家兩傳奏花山院前大納言、千種前大納言、兩人共宜之由申之、雖然殊にハレニ覺召之間、今兩三號、可撰進之由有仰、各退出了、抑嚴有ノ有ノ字ノ事、必院號等非呉音、ユウトヨマンニ有何難哉之由存之、雖然勅諚之上、不所存者也、後人猶能々可了簡者也、十九日丁未、院號之事引勘之、及晩景書狀、談合平中納言之許之處、龍光、萬憲、文憲等可然之由有返答、 廿日戊申、院號字、注折紙持參之、認樣如先日
龍光 毛詩卷第十 蓼彼蕭斯、零露瀼々、既見君子、爲龍爲光、
萬憲 同 文武吉甫、萬邦爲憲、
文憲 同第十八 不顯申伯、王之元舅、文武是憲、
右分注折紙懷中、午下刻許參内、右府無程被參、於記録所邊言談移時、及未斜漸御對面、種々院號之事有御沙汰、所詮先日所注進之嚴有ニ被定了、有ノ字、漢音ノ事、今日サシテ無仰旨定、此號今一、爲餘分明昭ノ字ヲ被加了、淸書之事、被關白之由有仰、申下刻退出、今日關白三號注進、右府又三號注進也、廿五日癸丑、午刻召之間參内、關白右府同被參、頃之於御學問所御對面、被仰云、先日被定、故大樹院號之字、於明昭者、名將之字聲相似不然、若有俗難歟、今一號可何字哉、各可所存、關白無指語、右府公、文憲可然歟、仰云、尤可然、即被文憲了、嚴有文憲、兩號可遣之由也、各退出、 六月十七日甲戌、從勸修寺大納言書狀、故大樹院號之事、被嚴有之由也、

〔折たく柴の記〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0743 九月〈○正德三年〉廿八日に、文昭廟の御鐘銘を撰み參らす、〈○中略〉去年かくれさせ給ひし後、傳奏より御院號の事、いづれならむにも、思召ところに任せらるべき由を、うち〳〵の御氣色なりとて、其字二つ三つ記して參らせられたりしを、詮房朝臣、某に見せらる、御院號の事は、外 國にも後代にも相傳ふる所なれば、いかにも然るべき字こそあらまほしけれ、文と昭との二字のうちをもて、宜しく撰み下さるべき由を、申させ給ふべき草を參らせたれば、老中の人々、其由を答へ申されしに、勅して文昭の字をぞ賜らせ給ひたりける、前代の御廟號をも、當代の御名の字をも、某が撰みし所を、禁裏にも仙洞にも取用させおはしまし、某又御廟の御鐘銘をも撰び參らせし事ども、誠に辱き事どもなり、

〔類聚名義抄〕

〈五/言〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 謚〈音益又神至反 イミナ マウス申歟シヅカナリ又呼廸反笑〉 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00096.gif 〈正〉

〔段註設文解字〕

〈三上/言〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00097.gif 行之迹也、〈周書謚法解、檀弓、樂記、表記注、皆去、謚者行之迹也、謚迹疊韵、〉从言益聲、〈按各本作言兮皿闕此後人妄改也、攷玄應書、引説文、謚行之迹也、從言益聲、五經文字曰、謚説文也、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00095.gif 字林也、字林以謚爲笑聲、音呼益反、廣韵曰、諡説文作謚、六書故曰、唐本説文無謚、但有謚行之迹也、據此四者、説文從言益疑矣、自呂忱改爲一レ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00095.gif 、唐宋之間、又或改爲諡、遂有説文而依字林入謚笑兒於部末、然唐開成石經、宋一代書版、皆作謚不諡、知徐鉉之書不天下是非之公也、近宗説文者、不知説文之舊、如汲古閣刊經典、依宋作謚矣、而覆改爲諡、可歎也、今正謚爲謚、而刪部末之謚笑兒、學者可以撥雲霧而覩靑天矣、神至切、古音在十六部、〉

〔倭訓栞〕

〈前編四十五/於〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 おくりな 謚をよめり、死後に贈るの名也、宇多帝以後は、謚を奉らず、

〔玉勝間〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 いまだ世にある人のことに諡をいへる誤
太平記に、村上彦四郎義光(ヨシテル)が、大塔宮にいつはりかはり奉りて、みづから死なむとする時の詞に、我は後醍醐天皇の第二の皇子云々といへり、其時は後醍醐のみかどは、いまだ世にまし〳〵しほどなるに、いかでか後の御諡をば申さむ、しるせる人のひがこと也、此たぐひ、からぶみにもあり、史記の田齊世家といふくだりに、齊國の人の歌に、嫗乎采芭歸乎田成子とうたへるよししるせり、成子といふは、田常といふ人の諡なるを、これも其人のいまだ存在しほどのこと也、左傳にも、此たぐひありしやうにおぼゆるを、そは忘れたり、

〔令義解〕

〈七/公式〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 天皇諡〈謂諡者、累生時之行迹、爲死後之稱號、即經緯天地文、撥亂反正爲武之類也、〉

〔大鏡〕

〈一/後一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0744 太政大臣になり給ぬる人は、うせ給ひてのち、かならずいみなと申ものありけり、〈○中 略〉また太政大臣といへど、出家しつるはいみななし、
○按ズルニ、本書ニいみなト云ヘルハ諡ノコトナリ、

〔日本書紀〕

〈二十九/天武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 五年八月、是月大三輪眞上田子人君卒、天皇聞之大哀、以壬申年之功、贈内小紫位、仍諡曰大三輪眞上田迎君

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 大寶三年十二月癸酉、諸王諸臣、奉太上天皇、〈○持統〉諡曰大倭根子天之廣野日女尊

〔公卿補任〕

〈元正〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 養老四年〈庚申〉
右大臣正二位藤原朝臣不比等 八月三日薨、〈○中略〉諡曰文忠公

〔大鏡〕

〈二/太政大臣 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 房〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣良房のおとヾは、〈○中略〉うせ給ひての御いみな、忠仁公となづけ奉る、

〔日本紀略〕

〈宇多〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 寛平三年正月十三日癸亥、太政大臣從一位藤原朝臣基經、薨于堀河第、十五日乙丑、以勅命故太政大臣藤原朝臣正一位、封越前國越前公、諡曰昭宣

〔大鏡〕

〈三/太政大臣忠平〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣忠平、〈○中略〉のちのいみな貞信公となづけたてまつる、

〔大鏡〕

〈三/太政大臣實賴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣實賴、〈○中略〉天祿元年五月十八日うせさせ給ひにき、御とし七十一と申き、御いみな淸愼公也、

〔大鏡〕

〈五/太政大臣伊尹〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣伊尹のおとヾ、〈○中略〉天祿三年十一月一日にうせ給ひにき、御歳四十九、御いみな謙德公と申き、

〔大鏡〕

〈五/太政大臣兼通〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣兼通のおとヾ、〈○中略〉後の御いみな、忠義公と申き、

〔日本紀略〕

〈九/一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 永祚元年七月廿日、詔贈故太政大臣藤原朝臣〈○賴忠〉正一位、封駿河國駿河公、諡曰廉義公

〔大鏡〕

〈五/太政大臣爲光〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 太政大臣爲光のおとヾ、〈○中略〉のちの御いみな、恒德公と申き、

〔日本紀略〕

〈十四/後一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0745 長元二年十月十七日壬寅、太政大臣從一位藤原朝臣公季薨、〈年七十三〉廿二日丁未、 今日贈故太政大臣藤原朝臣正一位、封甲斐國、諡曰仁義公、〈○又見扶桑略記

〔台記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 久壽二年四月四日庚辰、聞太政大臣〈○藤原實行〉疾病由、使憲雅問一レ之、其次示曰賜諡者、死後之榮也、勿官職、就中法住寺太政大臣、〈爲光〉閑院太政大臣、〈公季〉乍職薨、宜彼例、頃之歸來曰、年過七旬、身受重病、不存命、至于今日、猶爲希有、抑見諸儒之矢者、君與我也、我將死、今唯在君、鳴呼哀哉、

〔南方紀傳〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 元弘三年〈癸酉〉六月廿三日、師賢墓、諡文貞公

〔新葉和歌集〕

〈十六/雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 花山院贈太政大臣、百首歌讀てをくりたりける返事に、
中務卿尊良親王
戀しさもいかにせよとてわかの浦になれし千鳥の跡をみすらん
返し 文貞公
君だにも戀なるわかの友ちどりいかにねをなく恨とかしる
○按ズルニ、諡號ハ生前太政大臣ト爲リシモノニ限リテ、出家入道シタルモノニハ之ヲ稱セザルヲ以テ例トス、然ルニ藤原師賢ハ、贈太政大臣ニシテ、且ツ既ニ出家セシコトハ新葉和歌集ニ見エタリ、蓋シ特例ナリ、ナホ帝王部諡號篇出家不上諡ノ條ヲ參看スベシ、

〔柳營譜略〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746
義直卿
慶安三年庚寅五月七日、於江戸逝去、御年五十一、葬尾州建中寺、御諡源敬公、
賴房卿
寛文元年辛丑七月廿九日、於水戸逝去、御年五十九、葬水戸太田郷常福寺、諡源威公、

〔西山遺事〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0746 同〈○寛文〉十年庚戌正月二十二日、靖伯公〈御諡也、御諱綱方、御年二十二、〉薨じ給ふ、

〔德川家譜〕

〈七/高松〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 賴重
元祿八年乙亥四月十二日、卒于高松、年七十四、葬于佛生山盤若臺、諡曰源英

〔先哲叢談〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 林忠、一名信勝、〈○中略〉私諡文敏
林恕、一名春勝、〈○中略〉私諡文穆
林戇、一名信篤、〈○中略〉私諡正獻

〔鵞峯文集〕

〈七十七/哀悼〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 西風涙露上
先考、〈○林信勝〉題敬吉墓碑、曰於乎林左門之墓、蓋其效延陵季子之法乎、朱文公誌長子塾壙、曰亡嗣子壙記、今余聊傚之、題其小碑、曰鳴呼亡嗣子 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00081.gif 之墓、未其履歴、野節坂亨等.與戇胥議、私諡曰穎定先生、節作其議、余曾私諡先妣、曰順淑孺人、諡先考、曰文敏先生、先考才德高齡、不諡、先妣其配也、奉諡無妨也、靖没時、野節請諡、余亦預議其事、使孤憲立一レ碑、曰貞毅先生、爲子尊父之禮不過也、汝年少、余若議諡、則溺於愛之過也、故不肯許一レ之、且夫張横渠没時、門人請之、程明道、欲其議、尊其德之故也、司馬温公、不之者、追思張子素志也、自大夫以下、無諡者古之法也、雖士庶隠者、私諡之者、漢世以來之例也、張子好古禮、故温公不之、然則余不汝、協汝之志乎、節戇等、固請之者、稱汝才也、故余自不諡、使彼等諡一レ之者、斟酌舊禮也、不知汝靈謂何、本朝之古、天子之外、任太政大臣者有諡、所謂忠仁公、〈○藤原 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 房〉昭宣公〈○藤原基經〉貞信公〈○藤原忠平〉之類也、及佛法大行、天子相國、皆混僧徒、故桓武以後無諡、兼家以來、有入道之稱、僅以院號諡號、是以中古、漫不院號、今世雖凡夫俗女、死則有院號、皆僧徒貧施物之所爲也、姑舎是、本朝諡號、中絶六百餘年、其間唯藤師賢、諡文貞公而巳、師賢子長親、好儒學三年喪、事見新葉集、想夫長親、追古禮之也、以惺窩先生〈○藤原肅〉之德、其子不諡者、非遺恨、余與靖議奉諡考妣者、孝哀之過、人以爲僣、亦不其罪也、今諡汝者、戇與節、亦可其罪乎、

〔水戸義公行實〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0747 貞享十三年十二月六日甲子、曉晏然薨于西山、〈○中略〉參議公、議儒臣曰、諡之曰義公

〔先哲叢談〕

〈續編三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 栗山潜鋒
義公捐館舎、肅公命潜鋒曁中村篁溪、掌殯葬之諸儀、公謂二人曰、寡人欲先公上レ義如何、二人對曰、諡法制事合宜曰義.見義能終曰義、君公之言、極是也、於是諡議竟定焉、

〔古學先生碣銘行狀〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 先生、諱維楨、字源佐、號仁齋、姓伊藤、〈○中略〉寛永丁卯、〈○四年〉七月廿日生、寶永乙酉、〈○二年〉三月十二日卒、年七十九、葬于小倉山先塋之次、私諡曰古學先生

〔鈴屋翁略年譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 九月〈○享和元年〉十八日より、こヽちわづらひ給ひけるが、やうやくにあつくなりて、廿九日〈小〉の曉、身まかり給ひぬ、十月二日、かねて定置給ひつる、山室山の嶺の墓所に葬めまゐらす、〈○中略〉さて又大人の諡を、秋津彦美豆櫻根大人と稱へ申す、平常に手馴し給ひける、櫻木にて造りたる笏の形したるものを靈牌として、諡を書つけて、家に祀り參らす、〈○中略〉これらの事どもは、かねて言おき給へるおもむきの有しゆゑなりとぞ、

〔烈公行實〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 萬延元年秋八月十五日夜、〈○中略〉薨于正寢、〈○中略〉納言公請幕府允、日夕奔赴、居喪哀戚、追慕無已、命群臣諡、僉曰、〈○中略〉公夙秉忠誠、深慮夷狄之爲一レ患、震耀威武、以揚英烈、衰俗改觀、後人慕仰、謂宜烈公、納言公〈ノ〉曰、善、諡號於是乎定矣、

〔新安手簡附録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 土肥源四郎書〈白石先生門人〉
先師諡號ノ義モ、拙子存寄候ハ、門人ノ私諡、苦カラヌコトヽ申ナガラ、白石コト、生存ノ日、朝廷ノ官爵是有ル者ニ候ヘバ、却テ私諡ヲ議シ候テハ、僣犯ノ樣ニモ相成ベク候、只々平日ノ稱號ニ因リ、白石勿齋等ノ號ヲ用イ申ベキコトヽ存ジ、相止申候、

歸佛無諡

〔續日本紀〕

〈十九/孝謙〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 天平勝寶八歳五月乙卯、是日太上天皇〈○聖武〉崩於寢殿、壬申、是日勅曰、太上天皇、出家歸佛、更不諡、所司知之、

〔續日本紀〕

〈十八/孝謙〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0748 寶字稱德孝謙皇帝 〈出家歸佛、更不諡、因取寶字二年百官所上尊號之、〉

〔大鏡〕

〈五/太政大臣兼家〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 太政大臣兼家のおとヾ、〈○中略〉正暦元年七月二日うせさせ給ひにき、御年六十二、出家せさせ給ひてしかば、のちの御いみななし、

〔伊呂波字類抄〕

〈伊/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 謚〈イミナ謚號〉 諱

〔類聚名義抄〕

〈五/言〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 諱〈禾卉 イミナ イム カクル シコナ 禾スル ナイフ〉

〔倭訓栞〕

〈前編三/伊〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 いみな 諱をよめり、忌名の義なり、生るに名といひ、死るに諱といふ、さるに續日本紀に、先帝御名、及朕之諱と見えたり、崩後に御名と稱するは、異邦の史にもあれども、在位に諱といふは心得がたし、西土にもこれを犯せしもの多し、よて張世南が游官紀聞に委く辨ぜり、

〔四季草〕

〈秋草上/姓名〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 一貴人の御名乗の事を、御諱といふは誤也、人の存生の時の名をば名と云ひ、死したる時は、其人の存生の時の名をば憚りいみていはず、諡をいふ也、これ子たる者は、父の名をいみ、臣たる者は、君の名をいむを禮とする也、故にいみ名と云ふ也、此事唐の書にも見えたり、ちかくは字彙にも、生曰名、死曰諱と見えたり、是を知らぬ人は、貴人のいまだ存生にて在るに、御諱といふ人あり、是死人と同じくする也、いま〳〵しき事にて甚無禮也、

〔授業編〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 名字號
子生レテ、父コレニ名ヲ命ズ、左傳申繻ガ言詳ラカナリ、諱ハ死後ニ生時ノ名ヲ諱ユエニ諱ト云、禮記ノ檀弓ニ卒哭而諱トアリ、サレバ名諱ハ一ナレドモ、其義ヲ委シクイヘバヤヽ長シ、字彙ニ生曰名、死曰諱トアルガ、俗ニ云手短ナレバ、初學ハ先ヅ左樣ニ心得オクベシ、

〔日知録〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0749 生而曰諱
生曰名、死曰諱、今人多生而稱人之名諱、金石録云、生而稱諱、見於石刻者甚衆、因引孝宣元康二年詔曰、其更諱詢、以爲西漢已如此、蜀志劉豹等上言、聖諱豫覩、許靖等上言、名諱昭著、晉書高頵言、范伯孫恂、恂率道名諱、未嘗經於官曹、束晳勸農賦、場功華、租輸至、録社長、台間師、條牒所領、注列名 諱、〈王褒洞簫賦、幸得諡爲洞簫兮、李善註、諡者號也、號而曰諡猶之名而曰一レ諱者矣、〉

〔日本書紀〕

〈三/神武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也、

〔古事記傳〕

〈十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 書紀に、諱彦火火出見とあるは、心得ぬ書ざまなり、〈○中略〉是を諱としも書れたるは、漢國の史どもに、某帝諱某と云例に傚てなれども、甚く事たがへり、皇國の上代の天皇たちの大御名は、諱と申すべきに非す、凡て尊むべき人の名を呼ことを忌憚るは、本外國の俗なり、名は本其人を美稱ていふものにて、上代には稱名にも多く名てふことをつけたり、大名持などの如し、されば後世萬事、漢國の制に因たまふ代に至てこそ、天皇の大御名をば諱と申すべきなれ、上代のは、何れの御名も諱と申べきに非ず、仁賢紀に、諱大脚と記して、註に自餘諸天皇、不諱字、而至此天皇獨書者、據舊本耳とあり、此大脚を諱と書るも非なり、さて自餘天皇には諱を言(マヲ)さずとあれば、此神武天皇の彦火々出見てふ御名も、古書には諱とはあらざりしを、撰者のさかしらに、然書れたること著し、さて上代には名を忌こと無ければ、伊美那(イミナ)と云も古言に非ず、諱字に就て設たる訓なり、又此字を多多乃美那(タゞノミナ)と訓るも古書にあらず、是は稱名(タヽヘナ)、諡(ノチノナ)などに對へて、唯何となき常の名と云意にて設たる訓なり、

〔日本書紀〕

〈十四/雄略〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 四年二月、天皇射 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00004.gif 於葛城山、忽見長人、來望丹谷、面貌容儀、相似天皇、天皇知是神、猶故問曰、何處公也、長人對曰、現人之神、先稱王諱、然後應導、

〔日本書紀〕

〈十五/仁賢〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 億計天皇、諱大脚、〈更名大爲、自餘諸天皇、不諱字、而至此天皇獨自書者、據舊本耳、〉

〔續日本紀〕

〈二十一/淳仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 天平寶字二年八月庚子朔、授正四位下諱〈平城宮御宇高紹天皇○光仁〉正四位上

〔續日本紀〕

〈三十二/光仁〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 寶龜四年正月戊寅、立中務卿四品諱、〈○桓武〉爲皇太子

〔日本後紀〕

〈二十四/嵯峨〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 弘仁六年七月壬午、立夫人從三位橘朝臣諱〈嘉智子〉爲皇后

〔三代實録〕

〈三十一/陽成〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0750 元慶元年四月廿一日壬辰、先是去三月二十九日、今上奉表請、太上天皇〈○淸和〉御封 戸欲許納、是日太上天皇勅答曰、〈○中略〉太上天皇諱、〈惟仁〉此勅書年月日下注惟字、先是勅參議從三位大江朝臣音人、令太上天皇送天皇之書可御諱將否、音人奏議言、謹案禮經、君前臣名、父前子名、故周公告文王、皆稱武王名、又云、見似目瞿、聞名心瞿、夫父者子之天也、故其禮節之相去、如天地之懸隔、豈有父爲子稱其名乎、夫天子之禮、雖庶人、而至于父子之間、未差別、昔太公家令、有人臣之語、漢祖善之褒賞、是則爲太公未一レ尊位也、雖然漢祖以之被於世耳、又案諸家書儀父母與子書、皆云爺告孃告、遂无其名者、然則書御諱事、未據也、謹奉勅命、古今於勅書、只書御畫日、又無御諱、見之者可誰書、論之物情、理不然、謹案摯虞决疑要云、古者臨文不諱、而命猶以爲諱、嫌名不諱、而今猶以爲諱、二名不偏諱、孔子母名徴在、言徴不在、言在不徴、今亦不偏諱、若據孔聖之前蹤、唯注御諱之一字、隨禮隨俗、儻得其宜哉、於是勅從之、

〔有德院殿御實紀附録〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 先代よりして、御名の事を御諱と稱し、さりぬべき人々に御名の字賜る時も、御諱下さるヽと申けるに、諱とは君父の死後にいたり、臣子より稱する事にて、みづからの名をいふべきにあらずと仰ありて、享保九年十二月朔日、大納言殿〈惇信院殿○德川家重〉に、御名まゐらせられしときより、たヾ御名を進らせらるヽと稱し、さるべき人々に賜はる折も、御名の一字賜ると稱することに、永くさだめられしとなん、

避名諱

〔玄同放言〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0751 姓名稱謂
諱名之制、これを六史に攷ふるに、書紀〈廿八〉孝德天皇の大化二年八月癸酉の詔に見えたり、しかれどもこの御宇には、なほ嚴密の制度おはしましヽにあらず、續紀〈六〉元明天皇の和銅七年六月己巳、若帶日子姓、爲國諱、〈成務御諱〉改因居地之としるされし、これぞ名を諱むはじめにはありける、かくて桓武天皇の延暦四年五月丁酉、〈續紀卅八〉平城天皇の大同元年七月戊戌、嵯峨天皇の大同四年九月乙巳、淳和天皇の弘仁十四年四月壬子、〈平城以下類史廿八〉仁明天皇の天長十年七月癸巳、〈續後紀二〉數朝そ の制度おはしまして、上の御名、及先帝の御諱に觸るヽものは、百官の姓氏、諸國の郡縣、及人民の姓名を改め易へさせ給ひにけり、抑平城の朝〈元明〉のはじめより、稍漢學闡けしかば、これらの事も、すべて漢法に傚はせ給ひしならん、そが中にいとも異なりと見奉るは、仁明のおん時に、贈太政大臣橘朝臣淸友公〈嵯峨天皇皇后、橘朝臣嘉智子父、仁明天皇外祖父、〉の爲に、姓の橘字さへ諱ませ給ひし事あり、〈○中略〉唐山にて名を諱むよしは、春秋左氏傳桓公六年九月、その他の史にも多く見えたれども、名は諱めども、姓に觸るヽを諱むことなし、況至尊、その外戚の爲に諱み給ふ事は、和漢に例あるべくもあらず、

〔燕石襍志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0752 苗字
曲禮に、名子者、不國、不日月、不隠疾、不山川とあるは、平人のうへをいふにあらず、異朝の法に、天子の諱に等しき文字ある物はみなその名をあらためらるヽ故なり、秦の始皇帝の諱政とまうせしかば、正月を端月と唱へ、漢の呂后の諱雉とまうせしかば、雉を野雞と改められたるたぐひ是なり、天朝には、上代に天子の諱の文字を避るといふこと聞えず、もしさる制度あらば、天地日月なども、かならずその唱を改めらるべし、中葉より唐山の法則にならはせ給ひて、淳和天皇の御一名を大伴とまうせしかば、大伴氏を伴と呼ばせ給ひしかど、只大字のみを避て、政正同音なりとて、正月を端月とする如く、嚴密なる制度に及ぼす、亦染殿大后、わかくおはしましヽとき、撫子御(ナデシコノゴ)とまうせしかば、後に撫子花(ナデシコ)を改めて常夏(トコナツ)と唱へたるよし、祐盛抄大鏡裏書等を引て、榊原玄輔老人いひけり、國史筆を絶て後は、またさる制度聞えず、後醍醐院の建武のころ、正成義貞朝臣には、その功遙におとりたりける高氏ぬしに、天子御諱の一字を賜りて尊氏と唱へしめ給ひしは、つや〳〵こヽろ得がたき事也、士をなづけんとの御謀略なりとも、先王の善政にはそむかせ給ふなるべし、中興の御志、得遂給はらざりけるもうべならずや、

〔名字辨〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0753 或書に、皇上御名、世以偏諱、記曰、二名不偏諱、稽此國典、桓武朝廷延暦四年詔曰、臣子之禮、必避君諱、比者先帝御名、及朕之諱、公私觸犯、猶不聞、自今以後、宜並改避、於是改姓白髪部眞髪部、改山部山云々、光仁御名白壁、是避訓也、桓武御名山部、避部不山、已不偏諱、又陽成朝元慶元年四月、參議大江朝臣音人、奉勅議曰、古者臨文不諱、而今猶爲諱、二名不偏諱、今亦不偏諱云々、起桓武帝祟光帝、連々不諱、有臣下同字者、證此於左、但不細密、只擧兩三、按源尊氏、掌握天下、驕奢日長、然當時猶有同字者、鹿苑院相國以來、不犯片字、雖執柄家、承彼許一字榮、況於凡庶乎、蓋偏諱彼名、豈不諱皇上御名乎、以是後光嚴帝以降、無同字者歟、未其證、只享德二年、源義成、以皇嗣〈後土御門○成仁〉之御名義敎、然藤原成冬、以義成當時之字改、彼是不一、時勢可知、續而後陽成帝〈○御名和仁、後攻周仁、〉受禪、卜部兼和改兼見、明正帝〈○興子〉受禪、平時興改時庸、後西院帝〈○ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 仁〉踐祚、藤原敎良、同宗良、源俊良、藤原隆良等、改輔條景豐等〈ノ〉字、始見偏諱、寶永四年以來、立皇嗣則避、以是可偏諱非朝延全盛之故實、起武臣奢侈之餘矣とありて、桓武天皇より北朝崇光院まで、歴朝の大御名と臣下の名と、同字の例を擧たり、たとへば桓武、〈山部〉鼓吹權大令史漢部松山、平城、〈安殿〉秋篠朝臣安人、大中臣朝臣氏安、嵯峨、〈神野〉臣勢朝臣野魚、藤原朝臣葛野麻呂、淳和、〈大伴〉藤原朝臣大津、安倍朝臣大家、仁明、〈正 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 〉忠仁公之黨、〈 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 〉藤原朝臣正雄、文德、〈道康〉朝原宿禰良道、百濟宿禰康保など、次々に載たり、此論誠にしかるべし、後醍醐天皇の大御名の一字を源尊氏がたまはりし事、太平記に見えたり、是らよりぞ偏諱のことはおこりけんかし、

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0753 避諱不曾高
天子の御諱をさくるは、皇祖より以下をさくべくして、曾高に及ざるよし〈職員令〉見ゆ、西土にては、父より高祖にいたり、いみて稱せざるなり、これは五世にして親竭るといふ義によれるならん、禮記曲禮に、捨故而諱新といふこと見えて、註に、故は高祖の諱、新は新死者之諱とあるにて知ら る、かの逮父母、則諱王父母、不父母、則不王父母といふは、年幼にして、父母を知に及ばざれば、祖父母の諱はさけざるよし〈禮記〉見ゆるは、庶人のことにて、天下の通禮にはあらざるなり、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 享保十五年四月廿七日、或人某ニ問シニ、天子ノ御諱ヲサクルコトハ、古今通法ナリ、大臣ノ名ヲ避ルコトモ、コレアルコトニヤ、東鑑ニ、判官義經ガ、後京極良經ノ名ヲ避クルコト侍リ、是ハ如何ト申ス、仰ニ、天子ノ諱ハ、一文字ヲ犯スコトモ禁法也、大臣ノ諱ハ、其家ノ子孫家族ハ、子々孫孫マデモ避ルコト是其常也、又訓ヲサクルト云コトアリ、タトヘバ文字ニ違テ、訓同ジケレバ、是ヲサクルコト又其法也、判官義經、後京極良經、其例ナリ、外樣ノ人ニ同訓同字ヲツクコト、儘多キコト也、奏狀達書等、數名ヲ並ベタルトキ、太政官ニテ讀上ルコトアリ、其トキニ同ジ訓ナレバ、カヘテヨミ上ルコト、執筆ノ故實ナリト云傳ヘタリ、

〔隨意録〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754君陳君奭君牙、則以諸侯王官者也、後世臣人、或以君王等字名字者、豈不亦僭乎、我方近世有名之士、而稱君美君嶽之類、亦多有焉、予嘗以爲不恭矣、宋政和中、凡世俗以君王聖三字名字、悉令革而正之、明正德中、詔禁官民名字有天字、悉令之、此皆可善令也、釋氏或妄以日月名、則最無忌憚也、

〔十駕齋養新録〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 政和禁聖天等字命一レ
政和八年五月、戸部幹當公事李寛奏、欲望凡以聖爲名字者並行禁止聖旨、依閏九月給事中趙野奏、陛下恢祟妙道、寅奉高眞、凡世俗、以君皇聖三字名字者、悉命革而正之、然尚有天字稱者、竊慮一當禁約、依奏〈能改齋漫録〉容齋續筆云、政和中、禁中外龍天君王帝上聖皇等名字

〔令義解〕

〈一/職員〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 治部省
卿一人掌本姓、〈○中略〉諱〈謂諱避也、言皇祖以下名號、諱而避之也、〉及諸蕃朝聘〈○註略〉事

〔令集解〕

〈四/職員〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0754 釋云、皇祖以下御名避、古記同之、伴案、假令名有春日王者、春日山者、稱東山耳、跡云、諱 者不死生、時有諱之事者、此司〈○治部〉申發令諱耳、穴云、諱避也、隠也、忌也、

〔禮記〕

〈曲禮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 卒哭乃諱、禮不嫌名、二名不偏諱、逮父母、則諱王父母、不父母、則不王父母、君所無私諱、大夫之所有公諱、詩書不諱、臨文不諱、廟中不諱、夫人之諱、雖君之前、臣不諱也、婦諱不門、大功小功不諱、入竟而問禁、入國而問俗、入門而問諱、

〔唐律疏議〕

〈十/職制〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 諸上書若奏事、誤犯宗廟諱者杖八十、口誤及餘文書、誤犯者笞五十、
疏議曰、上書若奏事、皆須宗廟諱、有誤犯者、杖八十、若奏事口誤、及餘文書、誤犯者、各笞五十、
即爲名字觸犯者、徒三年、若嫌名及二名偏犯者不坐、〈嫌名謂禹與雨、丘與一レ區、二名謂徴不在、言在不徴之類、〉
疏議曰、普天率土、莫王臣、制字立名、輙犯宗廟諱者、合徒三年、若嫌名者、則禮云、禹與雨、謂聲嫌 而字理殊、丘與、區、意嫌而理不一レ別、及二名偏犯者、謂複名而單犯、並不坐、謂孔子母名徴在、孔子云、 季孫之憂、不https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00022.gif 、即不徴、又云、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00164.gif徴、即不在、此色既多、故云之類

〔韓文〕

〈六/論説〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 韓辯
愈與李賀書、勸賀擧進士、賀擧進士名、與賀爭名者毀之曰、賀父名晉肅、賀不進士是、勸之擧者爲非、聽者不察也、和而倡之、同然一辭、皇甫湜曰、若不明白、子與賀且罪、愈曰、然、律曰、二名不偏諱、釋之者曰、謂若徴不在、言在不一レ徴是也、律曰、不嫌名、釋之者曰、謂若禹與雨丘與蓲〈○註略〉之類是也、今賀父名晉肅、賀擧進士、爲二名律乎、爲嫌名律乎、父名晉肅、子不進士、若父名仁、子不人乎、夫諱始於何時、作法制以敎天下者、非周公孔子歟、周公作詩不諱、孔子不諱二名、春秋不嫌名、康王釗之孫、實爲昭王、曾參之父名哲、曾子不昔、周之時有騏期、漢之時有杜度、此其子、宜如何諱、將其嫌遂諱其姓乎、將其嫌乎、漢諱武帝名徹爲通、不又諱車轍之轍某字也、諱呂后名雉野鷄、不又諱天下之治某字也、

〔日知録〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0755 二名不偏諱 二名不偏諱、宋武公名司空改司空司城、是其證也、〈○中略〉
嫌名
衞桓公名完、楚懷王名槐、古人不嫌名、故可以爲一レ名、
按嫌名之有諱、在漢未之聞、晉羊祜、爲都督荊州諸軍事、及薨荊州人爲祜諱名、室戸皆以門爲稱、改戸曹辭曹、此諱嫌名之始也、

〔廿二史箚記〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 唐人避諱之法
唐人修諸史時、避祖諱之法有三、如虎字淵字、或前人名有之者、有字則稱其字、如晉書公孫淵稱公孫文懿、劉淵稱劉元海、褚淵稱褚元回、石虎稱石季龍是也、否則竟刪去其所犯之字、如梁書蕭淵 明蕭淵藻、但稱蕭明蕭藻 、陳書韓檎虎、但稱韓檎是也、否則以文義易其字、凡遇虎字皆稱猛獸、李叔虎稱李叔彪、殷淵源稱殷深源、陶淵明稱陶泉明、魏廣陽王淵稱廣陽王深是也、其後諱世爲代、諱民爲人、諱治爲理之類、皆從文義改換之法、

〔日本書紀〕

〈二十五/孝德〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 大化二年八月癸酉、詔曰、〈○中略〉王者之兒、相續御宇、信知時帝與祖皇名、不於世、而以王名輕掛川野、呼名百姓、誠可畏焉、凡王者之號、將隨日月遠流、祖子之名、可天地長往、如是思故宣之、

〔續日本紀〕

〈六/元明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 和銅七年六月己巳、若帶日子姓、爲國諱、〈○成務御名〉改因居地、賜之國造人姓、除人字、V 享祿本類聚三代格

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 勅頃者百姓之間、曾不禮、以御宇天皇及后等御名、有姓名、自今以後、不更然、所司或不改正、依法科罪、主者施行、
天平勝寶九年五月廿六日
V 享祿本類聚三代格

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0756 勅入國問諱、先聞有之、況於今何曾无避、頃見諸司入奏名籍、或以國主國繼名、向朝奏名、可寒心、或取眞人朝臣字、以氏作字、是近姓、復用佛菩薩及聖賢之號、毎聞 見、不于懷、自今以後、宜勿更然、昔里名勝母、曾子不入、其如此等類、有先著者、亦即改換、務從禮典、主者施行、
神護景雲二年五月三日〈○又見續日本紀

〔續日本紀〕

〈三十八/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 延暦四年五月丁酉、詔曰、〈○中略〉臣子之禮、必避君諱、比者先帝御名、及朕之諱、公私觸犯、猶不聞、自今以後、宜並改避、於是改姓白髪部〈○光仁御名〉爲眞髪部、山部〈○桓武御名〉爲山、

〔日本後紀〕

〈十四/平城〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 大同元年七月戊戌、改紀伊國安諦郡在田郡、以詞渉天皇諱〈○安殿〉也、

〔十駕齋養新録〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757諱改郡縣名
漢文帝、名恒、改恒山郡常山、光武叔父趙王、名良、改壽良縣壽張、殤帝、名隆、改隆慮縣林慮
呉大帝孫權、立子和太子、改禾興縣嘉興、景帝孫休立、避諱改休陽縣海寧
隋文帝父名忠、改中牟縣内牟、雲中縣曰雲内、中郷縣曰眞郷、煬帝名廣、改廣州番州、廣潤縣曰靈武、 唐高祖、名淵、改長淵縣長水、澶淵縣曰澶水、太宗、名世民、改萬世縣萬歳、富世縣曰富義、興勢縣曰興道

〔類聚國史〕

〈二十八/帝王〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 大同四年九月乙巳、改伊豫國神野郡新居郡、以上〈○嵯峨〉諱也、

〔續日本後紀〕

〈二/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 天長十年七月癸巳、天下諸國、人民姓名、及郡郷山川等號、有諱者皆令改易

〔權記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 長保六年〈○寛弘元年〉七月廿日壬寅、有陣定、改元事也、寛弘云々、初以寛仁定、而左大辨申、仁字爲當時諱、〈○一條御名懷仁〉可避歟云々、

〔百練抄〕

〈五/鳥羽〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 天永三年十月十三日、遷幸大炊殿之由奉幣宣命、改大炊御門字洞院、炊字從火之上、大炊爲廢帝〈○淳仁〉諱字之故也、

〔山槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0757 仁安二年六月廿五日辛卯、今日列見也、〈○中略〉權少外記物部宗言覽文、大理見之、有威儀師盛 仁官符、件名字訓、通二條院御諱、〈○守仁〉仍外記來前之時、縣右食指於筥、外記警屈立、大理被跪之由、外記跪拔笏候、盛仁事、若有沙汰哉之由被問、而申旨不分明、仍可尋大外記之由被仰、仍稱唯、經本路大外記、歸參申云、爲上被下之文、被印可宜也、上卿被命曰、相尋沙汰之有無也、然者可印之由示之返給、〈○註略〉請印之、

〔平戸記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 寛元三年三月八日癸卯、今日被小除目云々、中務丞淸原行眞、〈○中略〉中務丞名字〈行眞〉者、後白河院御法名也、如何、云職事上卿、執筆等不存知歟、又執柄無御覺悟歟、不審々々、後聞經數日、此沙汰出來、遂被改了云々、

〔正安三年大嘗會記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 從五位上和氣幸良〈近江權大掾、俄改名、元ハ敦 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 、渉後朱雀院御諱之訓、漏叙位之間、改名之上ハ可叙之由申沙汰了、〉

〔釋日本紀〕

〈十六/秘訓〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 世人〈古點ヨヒト、爲御諱字、(後宇多)引合可ヒト也、下皆効之、〉
土俗(ヒト)〈古點クニヒト、爲後嵯峨院御諱、可ヒト也、下皆効之、〉
大伴連遠祖〈爲淳和御諱(大伴)可トモ、下皆効之、〉

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 避諱
草子物語の讀法にすら、後嵯峨院御名邦仁(クニヒト)を憚て、國人の字をクニタミと讀、後宇多院御名世仁(ヨヒト)を憚て、世人の字をヨノヒトと云、或はヨビトと濁り、靈元院御名識仁を憚て、里人と云ふ詞をさけ、桃園院御名遐仁(トホヒト)を憚て、詠歌に問人(トフヒト)と云へる詞をよまざるも、皆偏諱せざる證なり、

〔薩戒記〕

〈部類二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0758 釋奠詩書樣事 應仁卅一二十一
抑詩書樣等之事、依故實、相尋大内記爲淸朝臣、注送之趣如此、
仲春釋奠聽論語同賦
民興於仁詩一首〈○中略〉
今日題、民興於仁、略件於字之時、興仁也、是崇光院御諱也、今日詩多載彼兩字、尤不可然云々、

〔日本書紀神代講述抄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 右ハ延佳〈本名延 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 、避御名(後西院御名 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 仁)改佳、〉神主、日本紀ヲ抄セムト書ソメラレケレド、〈○下略〉

〔續史愚抄〕

〈後光明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 母壬生院光子〈元繼(ツグ)子、依主上御名字同訓改名云、○中略〉
同〈○寛永〉十九年十二月十五日、立親王、〈御歳十御名字紹(ツグ)仁〉

〔八水隨筆〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 仙洞樣〈○中御門御名慶仁〉御在位の時は、京にて末々のものまでも、改年の御慶とはかヽず、御諱をさけて吉兆嘉瑞などヽ書し、江戸のものは、それに氣もつかず、隠居すれば慶庵の慶齋のと付し人も多し、その氣からは中村吉兵衞、澤村宗十郎、〈○德川吉宗ノ名ヲ避ケズ〉何の心かあらん、是をさへすて置て、竹之丞が卯左衞門、萬藏が龜藏〈○德川家治幼名竹千代及ビ重好幼名萬次郎ノ名ヲ避ク〉もまた何事ぞ、

〔白石問答〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 勲位 野宮前黄門定基卿答
承平將門官逆ノ時、藤原忠文賜節鉞候へ共、不其戰途中歸洛候テ、無其賞候、天 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00098.gif (○)〈依御諱(中御門御名慶仁)用古字〉純友陷西府候ヘドモ、海賊ノ儀ニ候ヘバ、小野好古モ大功ナガラ勳位ノ沙汰マデハ不及類ト存候、
○按ズルニ、六書通ニ慶ノ古文 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00099.gif トアリ、本書 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00098.gif 字ハ蓋シ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00099.gif ノ誤寫ナルベシ、

〔三代實録〕

〈三十/陽成〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 元慶元年二月廿二日甲子、掌侍從五位上春澄朝臣高子、改名洽子、以中宮諱〈○淸和后藤原高子〉也、 閏二月七日己卯、正五位下安倍朝臣高子、改名基子、外從五位下葛木宿禰高子、改名賀美子、以中宮諱也、十三日乙酉、從五位下源朝臣高子、改名雅子、以中宮諱也、

〔日本後紀〕

〈十二/桓武〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 延暦廿三年六月甲子、散位正五位下小倉王上表曰、〈○中略〉伏請依去延暦十七年十二月廿四日、友上王賜姓故事、同蒙淸原眞人姓、又繁野名語觸皇子、改繁曰夏、〈○中略〉謹以申許之、

〔百一録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0759 寛永四年四月廿九日、儲君御方、〈○中御門〉有親王宣下、上卿二條内大臣、勅別當德大寺大納言、奉行頭中將、經慶卿改經敬、儲君御諱慶仁、依之也、五月朔日、隆慶卿改隆賀、季慶朝臣改季通、依 御諱也、

〔續日本紀〕

〈二十/孝謙〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 天平寶字二年六月乙丑、大和國葛上郡人從八位上桑原史年足等、男女九十六人、近江國神埼郡人正八位下桑原史人勝等、男女一千一百五十五人、同言曰、伏奉去天平勝寶九歳五月二十六日勅書偁、内大臣〈○藤原鎌足〉太政大臣〈○鎌足子史〉之名、不稱者、〈○中略〉望請依勅一改史字、因蒙同姓、於是桑原史、大友桑原史、大友史、大友部史、桑原史戸、史戸六史、同賜桑原直姓、船史、船直姓

〔續日本後紀〕

〈四/仁明〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 承和二年正月己巳、左京人右馬寮權大允淸友宿禰眞岡、散位同姓魚引等、賜姓笠品宿禰、非其願也、公家避贈太政大臣橘氏之名〈○仁明母后橘嘉智子父淸友〉耳、

〔大鏡〕

〈三/太政大臣實賴〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 これたヾひらのおとヾの一男におはします、小野宮のおとヾと申き、〈○中略〉おとヾの御わらはなをばうしかひと申き、さればその御ぞうは、うしかひをば、うしつきとのたまふ也、

〔神皇正統記〕

〈一條〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 攝政〈○藤原兼家〉病により、嫡子内大臣道隆にゆづりて出家、猶准三宮の宣をかうぶらる、〈執政の人出家のはじめなり、そのころ出家の人なりしかば、入道殿となん申ける、よりて源の滿仲出家したりしをも、はヾかりて新發とぞいひける、〉

〔陸奥話記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 賴義(ヨリヨシ)朝臣、〈○中略〉拜爲陸奥守兼鎭守府將軍、令賴良(ヨリヨシ)、〈○中略〉俄有天下大赦、賴良大喜、改名稱賴時、〈同太守名、有禁之故也、〉委身歸服、

〔中右記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 天永三年十一月十六日己巳、爲隆談云、後二條殿〈○藤原師通〉御時、被印之時、御名上字、依用被師字、而大殿〈○藤原師實〉上字、又師字也、同字可憚歟如何、被尋申處、大殿御返事云、全不憚、只可師字也、昔被先祖印常事也、以之思之、同字不憚者、此事尤有興、仍所記置也、

〔康富記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 應永八年五月十二日庚子、今日右大辨高橋秀職出家、〈○中略〉子息大學助範職、本名光職、二條殿、〈○滿基〉御名字讀故改之、

〔薩戒記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0760 應永卅三年十月十七日丁丑、依當番、自早旦候院、〈○中略〉貫主羽林被合予〈○中山定親〉云、三條 納言賜雜任折紙、〈申左衞門右兵衞等尉〉一人橘吉實、一人平吉眞等也、件名字福光薗院殿下名〈 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00018.gif 實〉同訓也、難宣下由返答、納言重被命云、遠國之輩不苦歟、但猶不然者、雖何字之云々、如何、予曰、件兩名共不叶、以實字貫字、以眞字貞字宜歟、其字之體、相似之故也者、貫首諾之、

〔薩戒記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 正長二年三月廿二日戊辰、山科宰相〈家豐〉來臨、被問除目中永顯官擧書樣作法等、談云、依柳營御改名、〈○將軍足利義宣改名義敎〉敎字有憚、仍我改家豐、民部卿敎有卿改行有、内藏頭敎右朝臣改繁右、中將持敎朝臣改持俊、右少將敎具〈民部卿息〉改行具、右少將敎尚改行尚云々、

〔親長卿記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 文明十年三月一日、言國朝臣息叙爵事申之、名字敎康云々、予申云、敎字、普廣院殿〈○足利義敎〉御字也、將軍御字、不名字之由、有申置之人不審、返答云、尋或仁之處、不苦云々、此上者不是非奏聞勅許、其後予重申云、古來將軍御名字被下之外、無名乗之人、自然自武家御不審者、無先例之分、可申歟如何、仍重談合之處、伺武命云々、不然之由有仰云々、

〔雍州府志〕

〈六/土産〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 齒牙藥 丹波康賴之孫俊雅、任近江掾、其子俊通、爲侍醫、〈○中略〉二十五世孫賴元、有數子、山城州人賀茂玄泰、依賴元親族、其子醫術、是號兼康(カネヤス)、〈○中略〉近世避御諱〈○德川家康〉稱金保(カネヤス)、在京師者以兼康之、

〔人見雜記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 伊藤元助〈○仁齊〉初は元吉と字せしが、常憲廟〈○德川綱吉〉の世になり、御名の字を避けて、助にはなりしよし村越忠左いへり、

〔閑散餘録〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 伊藤仁齋先生、初ノ名ハ維貞(コレサダ)、時ニ兵部大輔貞維(ツナ)朝臣ナル人アリ、其名ヲ避ケテ維楨ト改ム、

〔閑散餘録〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 徂來、名はハ雙松ソノ頃憲廟〈○德川綱吉〉ノ世子德松君トイヘルアリ、早世シタマヘリ、ソノ諱ヲ避テ、字ヲ以テ茂卿ト稱セリ、

〔海録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0761 寛永二乙亥年十月、吉利死丹宗門無之旨、起請文案文を以て被仰出候、是則島原一揆の二 年前也、吉利死丹の宗、如此の處、切支丹と書改之、常憲院殿〈○德川綱吉〉御諱之字を憚て改之、

〔憲敎類典〕

〈一之十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 元文二丁巳五月廿八日
竹千代樣〈○德川家重幼名〉と奉稱候ニ付、竹之字之名者改可申事候、尤何レも心付可申儀ニ而者御座候へども、大目付心得物語申候儀、本多中務大輔殿被仰聞候、苗字抔者替不申儀者勿論に御座候、右之段御觸ニ而者無之、寄々御物語通達申候趣之事、

〔嘉永明治年間録〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 嘉永五年九月朔日、將軍家十二男長吉郎君生ル、
長吉郎御母於の方、杉三之丞養女、實は紀伊殿家老水野土佐守娘也と云ふ、此時人名、長の字を諱べき旨觸達あり、

〔飯山文存〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 伴林光平傳
伴林光平、稱六郎河内志紀郡人、初爲一向僧、名周永、年十八、聞近江僧大觀在大和、往師之、觀没後、到京師學儒、一日舟下淀川、舟中有因幡客、粗通國學、永與之論佛言屈、論儒亦屈、乃請弟子、客以其僧之、固請、客曰、盟而後可、曰舟中倉卒、何以爲盟、請改名光平可乎、蓋光字爲本願寺世諱、一向僧不敢犯也、客奇而許之、

缺畫

〔古今要覽稿〕

〈姓氏〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0762 爲字不成
文書の内、御諱の字にあへば、其字を書しながら闕畫して、他字に替るに及ばずと云事は、唐の制なり、西土にて、漢の世には、諱に替て行ふべき字を豫め定しを、唐に及て斯の如く改しは、尤簡易の法、從べき事なり、是を爲字不成と云ふ、六典に見えたり、夫より以來今にいたるまで因循せり、西土に在ても、二名を偏諱せよと云る制は聞えざれど、世々偏諱せるは、其俗の禮に過たるにて、盟て學ぶべからざる事なり、皇國律令格式の設、偏に唐の制度によりて取捨せられし所なり、然るに此闕畫の事のみ行れざるは、固より皇國の俗に從て、訓を以避よとありし故なり、それも日 本紀一部には、諱を避る制なく、却て御名を以、國郡の名、官職の名、姓氏の名とせられしあり、是を御名代(ミナシロ)と云、續日本紀より避諱の制ありて、今日に至る、但し江家次第に、六典を引きて、闕畫の沙汰ありしかども、行はれしにはあらず、然るに近世朝廷に闕畫の事行る、故實にはあらざるなり、此事何の年よりと云事をしらず、おもふに陽明家〈○近衞家〉に、六典を上木せられて、普く翫ばれしより始りけるにや、往昔六典をしらざるにはあらず、和漢制度差別ある事、仰ても猶餘ある事也、一度闕畫行れてより、避諱の事、兩途に分る、又をのづから偏諱せるに至る、歎ても猶歎べき事也、東都〈○江戸幕府〉には幸に未だ此制あらず、中古以來、公武制を殊にす、京都に拘らずして、後來此制なからん事を希のみ、

〔文用例證〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 諱ノ字ヲ缺畫シテ書スル例ハ、容齋隨筆ニ、蜀本石經、皆孟 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00100.gif 時所劾、其書淵世民三字皆缺畫、蓋爲唐高祖太宗諱也、マタ知不足齋叢書十三集ノ相臺書塾刊正九經三傳沿革例ニ、石經考異ヲ引テ曰、唐太宗、諱世民、若單言民則闕斜鈎而作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00101.gif 、若從偏傍則闕上畫而作氏、如庚盤之不昏作一レ勞、呂刑之 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00082.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00082.gif 棼棼、マタ淸朝至テ、天子之轟ヲ書スルニ皆缺畫ス、譬バ康熙帝ノ諱 ヲ玄曄云、曄ノ字ヲ缺畫シテ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00165.gif 書ス、又淸人著述ノ書、ミナ夫子ノ諱ヲ缺畫ス、

〔金石萃編〕

〈四十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0763 等慈寺塔記銘
附攷碑文避諱字
古者臨文不諱、漢法邦字曰國、盈字曰滿、恒字曰常、啓字曰開、徹字曰通、弗字曰不、詢字曰謀、奭字曰盛、驁字曰俊、欣字曰喜、衎字曰樂、秀字曰茂、莊字曰嚴、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00102.gif 字曰著、肇字曰始、隆字曰盛、佑字曰福、保字曰守、炳字曰明、續字曰繼、志字曰意、宏字曰大、協字曰合、皆臣下所避、以相代也但用改字、未嘗缺畫、至本書見經傳、未嘗改易、其見于書冊者、如説文遇諱字直書上諱、而本字不上レ書、今漢碑中、有開母廟石闕銘、因景帝諱啓爲開、漢諱之見於碑文者祇此、〈漢書武帝紀、元封元年春正月、行幸緱氏、詔曰、朕用事華山、至于中獄、見夏后啓母 石云云、未嘗作開母居、殆後人校定、漢書直作啓母、在武帝時、詔或作開母也、〉餘碑皆不避諱之文、魏晉而下、至於北朝、所録諸碑字多別體、不定其何者爲避諱字、如戊戌字、缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00103.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00104.gif 、其體至唐宋間之、且遼碑中、如 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00105.gif 州石經幢記、戌尚作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00104.gif 、當由別體流傳、後人好奇、相沿用之、故避諱至唐宋碑文、始確有按、唐列祖諱、在諸稗中、惟開成石經爲最備、今總紀于前、凡經中虎字、皆缺末筆 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00106.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00107.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00108.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00109.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00110.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00090.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00111.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00112.gif 、皆同、避太祖諱、淵字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00113.gifhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00114.gif 字亦作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00115.gif高祖諱、世字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00116.gif 、泄作洩、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00133.gif絏、棄作弃、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00137.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00117.gif 、葉作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00118.gifhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00119.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00120.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00121.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00122.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00123.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00124.gif 、皆改從云、民字缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00101.gif 、氓作甿、岷作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00125.gif 、涽昏緍 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00126.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00127.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00128.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00129.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00130.gif 、皆改從氏、避太宗諱、亨字皆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00131.gif 、避肅宗諱、豫字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00132.gif 、避代宗諱、适字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00134.gif 、避德宗諱、誦字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00135.gif 、避順宗諱、純字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00136.gif 、肫作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00138.gif 、避憲宗諱、恒字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00139.gif 、避穆宗諱、湛字皆缺筆作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00140.gif 、葚作 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00142.gifhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00166.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00143.gif 、避敬宗諱、乃若高宗諱治、中宗諱顯、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00144.gif 宗諱旦、元宗諱隆基、文宗諱 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00145.gif 、皆不缺筆者、天子事七廟、自肅至敬七宗、而高祖太宗創業之君不祧、元宗以上則祧廟也、故不諱、〈冊府元龜、寶歴元年正月、元宗祧遷不諱、〉文宗今上也、生則不諱、〈左傳、文公宣公卷内、昻字不諱、〉成城皆缺末筆 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00146.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00147.gif 、此爲朱梁補刻避諱、〈穀梁、襄昭定哀四公卷、及儀禮士昏禮皆然、〉其散見于各碑者、仍以次拈出之、〈○下略〉

〔安齋隨筆〕

〈前編七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0764 一忌君諱字點畫 近頃儒學の徒、文を著すに、家を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00148.gif とし、康を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00149.gif とし、吉を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00150.gif とし、宗を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00151.gif とし、重を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00152.gif とし、治を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00153.gif とするは、將軍家〈○德川氏〉の御諱を憚て、點畫を省くと也、是近世渡來の書に傚へる也、然れ共朝廷先王の御諱、近く今皇の御諱の字をば憚らず、一を知て二を知らず、左を知て右を知らずと云べし、豈儒と云はんや、

〔時文摘紕〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0764 今の世の人、淸國の人の文に、缺畫をなせる事あるを見て、それにならひて https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00154.gif https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00155.gif など書く事あり、此は謹愼の事なれば、尤むべき事にはあらねど、皇朝には別に諱之の法ある事を考へずして、みだりに淸人の所爲にならふはいかヾあらん、今考に、續日本紀に延暦四年詔曰、臣子之禮、必避君父諱、比者先帝〈○光仁〉御名、及朕〈○桓武〉之諱、公私觸犯、猶不聞、自今以後、宜並改避、於是改姓 白髪部眞髪部、山部爲山と見えたるは、先帝の御諱は白壁、延暦の御諱は山部なれば也、又此時山〈ノ〉邊の姓をば改められず、此はヤマノベと、ノの詞をそへて唱ふる姓なれば、避ざる事と見ゆ、又淳和天皇の御諱を大伴と申せしより、大伴の姓を改めて、伴となしたる事も有、かヽれば、古は、二名は偏諱せざる事明らか也、又職員令に、治部省、卿一人、掌國忌諱云云事、義解云、諱〈ハ〉避也、言〈ハ〉皇祖以下名號、諱而避之也とある、これにて五世すぐれば、諱ざる事も明らけし、此は全く唐制にならはれたるもの也、但文字の畫を缺く事も、顔眞卿も碑帖などに、民を https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00101.gif などあるを見れば、唐より此法はありつれど、皇朝にては、此を用ひられざりし事と見えて、今もたま〳〵存する金石などの遺文に、其例ある事なし、されば二名を偏諱し、文字の畫を缺くなどは、皇朝の制に無き事なれば、此を犯したりとて、不敬なりとてとがむべき事ともおもほえず、ことに今の世には、諱の事正しき制令も無く、官家の公文などには、さくる事は無き法なれば、あながちに事を好みて、下より其法を始めん事はあるまじき事也、又淸國の學者の新意にて、孔子の名をさけて、丘字を口口などかける事のあるを見て、それにならふ人も世にあり、この孔子の名を避くといふ事は、心得ぬ事也、名をいむといふは、もと人情の上より出たる事にて、其死したる人のまぢかき世には、其名をいふに忍びざるよりいむ事也、されば禮に、舎故而諱新といふ事あり、鄭玄が注に、故〈ハ〉謂高祖之父遷者也といひ、王肅が注に、故〈ハ〉謂五廟諱者とも見ゆ、五世すぐれば其名をいまざる事、聖人の定め也、禮は人情に本づきたるものなれば、五世以前の祖を、輕慢せんとにはあらねど、おのづから人情遠ざかるまヽに、五世以上をばいまざる事也、此にて聖人諱之の法を立たる本意明らか也、さるを淸國の學者、此意にくらくして、みだりに千載の下より、孔子の名をさけんとするは、聖人の禮を制したる意に甚そむける事也、されば明國までは、孔子の名を避くといふ事は無りし也、たヾ文辭の上にて、其人をさしいはん時、孔丘など書んは不敬なるべけれど、他の文辭の上にて 丘の字ありとて、それを避ん事あるべからず、我國にて此にならふ輩は、事の現非をも正さず、目なれぬ新奇なる事を好む輕薄の情より、本孔子を尊敬する心にてなすにはあらで、人に奇を誇らんとてなすわざなれば、かヽる類の事は、厭ふべく笑に堪へぬ事也、

〔二條家番所日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0766 文政元年五月十八日乙卯、近衞左府樣〈御使中川三河介〉御順達如左、
御諱相避、且臨文省末畫之儀、爾來各覺悟之事候、雖然、至中古而有避之輩、自今以往、不異説、 從國史職員令、幷唐六典之文、一不國諱之由、更被仰出候事、
十九日丙辰、上〈○仁孝〉御諱字末畫可憚義ニ付、諸席〈江〉被仰渡左、
上御諱字、私名字ニ相用候事は、堅可相憚義、且日用筆記文通等ニ、無據相用候節は、末畫可相省義は勿論之事候處、今般改而被仰出候間、自今以後、彌以前文之通可相心得旨、御當職より御傳達有之候事、
但末畫相省候分は
上御諱 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00156.gif
仙洞〈○光格〉御諱 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00154.gif
右之通相認可然候事
但草字も可之候事

〔三條實萬傳奏日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0766 嘉永元年八月二日
文政元年、更被仰出、可國史職員令唐六典等之文事、
皇祖以下
光格天皇御代
桃園院〈遐仁〉 後桃園院〈英仁〉 當今 但又後櫻町院〈智仁〉雖皇祖御受讓之御次第、且格別被尊重之問、一同憚之候哉之事、
仁孝天皇御代
同上
光格天皇、上皇にて御在世之間、奉上皇元避之候哉之事、
崩御後不伺改哉之事
但天保二年、院御會始、鶯契遐年御題、減畫有無兩樣、無減畫方々、
當殿下 齊信公 尚忠公 忠熙公〈此外兩端之趣候事〉
當御代〈○孝明〉
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右令文之通可心得哉、昨年自議奏相伺治定之事、
但諸向者、文政度可令文觸示有之候事故、更不觸示哉之覺悟ニ而、別段觸示ハ無之候事、 右ニ付、當春正月式にも智積院不減畫候事、兩局心得相尋候處、是又令條之通御三代相避候覺悟之旨申候事、
御諱減畫一件、殿下答命之趣、委細橋本へ申入置候、猶被觸示方、宜勘考、其上可相示武邊へも申達候、且武家官位姓名之字ニ付、此節取調居候間、兩三日中可申示樣申入置之、
五日
一御諱之儀、議奏伺定今日可申渡、昨日示合之處、今日御德日如何、諸向ハ後日可仰出歟、但武 家官位口宣之内、姓〈越智〉名有之間、今日不達候而者、不都合候間、昨日分被申渡樣示合可然哉、殿 下申入之處、其分可然被命之、議奏申入之、
一御諱相避之儀、如別紙殿下昨日被伺定、諸向被觸示之旨、議奏〈廣橋〉被示、御諱相憚之事、 當御代、如令條皇祖以下御三代、可減畫事、
右一紙被渡候、向々自議奏去文政元年五月被觸候通被告示之、但彼時、院中藏人上北面以下自院傳觸示よし、今度後院之輩へは、從當役觸之旨也、〈非職人、上北面、主典代、廳官所衆、下北面、取次、北殿 北面、〉又輪門本願寺、其外無住内々門跡有無住共、外樣門跡比丘尼等は、從御世話々々達、同役より被之、〈右觸方、文政元年之例見合、〉後刻所司代へ申達、別紙之通被仰出、一同へ相觸旨爲心得申達由、〈僧尼も觸示由〉又外ニ九所添之、
御諱相避、且臨文減畫之義、去文政二年十一月、先役より御先役へ申進候次第も有之候、其節に は、
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右五字相避候義申進候得共、當御代にては、
御皇祖以下之御諱
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右三字被避之候、其許御心得ニ猶又申進置候事、
八月
別段以演説申、 https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00157.gif ノ字皇統、御系統之類ハ、不末畫、爲此分之由、淸宣申述之
各承知自跡可返答
皇統之字、不缺末畫歟、是有禁忌之故、今案且有其説之歟、仍殿下申伺之處、皇統之時ハ、偏 ノ https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00161.gif 、如此可减被命、
一今日、稻葉出羽守位記宣旨口宣案相調所司代へ達之、〈越智ノ智字、不旁、前文爲心得申候、〉

〔取次日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0768 嘉永元年八月六日、左之通議奏衆御達、書面御附衆被見、 御諱、相憚之事、
當御代〈○孝明〉如令條皇祖以下御三代、可减畫事、
右之通、昨日被仰出候事、
右之趣、爲同役諸役所心得申觸、後院幷北御殿當番へ廻章申渡、

〔憲法類編〕

〈二十一/國法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 戊辰〈○明治元年〉十月九日御布告
https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00156.gif 〈○仁孝御名字〉
https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00157.gif 〈○孝明御名字〉
https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00162.gif 〈○今上御名字〉
右三字、御諱ニ付、名字等ニ相用申間布儀ハ勿論、刻本等ニハ闕畫可致候事、
壬申〈○明治五年〉正月廿七日第二十四號御布告
御名睦字、自今闕畫ニ不及候事、
但恵統二字、可同樣事、

〔法令全書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0769 第百十八號〈三月二十八日布○明治六年〉
御歴代御諱、幷御名ノ文字、自今人民一般相名乗候儀、不憚事、
但熟字ノ儘相用候儀ハ不相成候事


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:16