p.1294 此篇ハ妃夫人嬪、若クハ女御更衣ニアラズシテ、殊ニ幸ヲ蒙リシモノヲ擧ゲタリ、而シテ其收ムル所ニハ、當時ソノ職名アリテ史册ニ佚セルモノモアルベシ、
p.1294 一時天皇越二幸近淡海國一之時、〈◯中略〉故到二坐木幡村一之時、麗美孃子遇二其道衢一、爾天皇問二其孃子一曰、汝者誰子、答白、丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣、天皇即詔二其孃子一、吾明日還幸之時入二坐汝家一、故矢河枝比賣委曲語二其父一、於レ是父答曰、是者天皇坐祁理、〈此二字以レ音〉恐之我子仕奉云、而嚴二飾其家一候待者、明日入坐、故獻二大御饗一之時、其女矢河枝比賣令レ取二大御酒盞一而獻、於レ是天皇任レ令レ取二其大御酒盞一而御歌曰、許能迦邇夜、伊豆久能迦邇、毛毛豆多布都奴賀能迦邇、余許佐良布、伊豆久邇伊多流、伊知遲志麻、美志麻邇斗岐、美本杼理能、迦豆伎伊岐豆岐、志那陀由布、佐佐那美遲袁、須久須久登、和賀伊麻勢婆夜、許波多能美知邇、阿波志斯袁登賣、宇斯呂傳波、袁陀氐呂迦母、波那美波志、比斯那須、伊知比韋能、和邇佐能邇袁、波都邇波、波陀阿可良氣美、志波、邇波、邇具漏岐由惠、美都具理能、曾能那迦都邇袁、加夫都久、麻肥邇波阿氐受、麻用賀岐、許邇加岐多禮、阿波志斯袁美那、迦母賀登、和賀美斯古良、迦久母賀登、阿賀美斯古邇、宇多多氣陀邇、牟迦比袁流迦母、伊蘇比袁流迦母、如レ此御合生御子、宇遲能和紀〈自レ宇下五字以レ音〉郞子也、
p.1294 七年十二月壬戌朔、讌二于新室一、天皇親之撫レ琴、皇后起儛、儛既終而不レ言二禮事一、當時風俗於二宴會一儛者、儛終則自對二座長一曰、奉二娘子一也、時天皇謂二皇后一曰、何失二常禮一也、皇后惶之、復起儛、儛竟言奉二娘子一、天皇即問二皇后一曰、所レ奉娘子者誰也、欲レ知二姓字一、皇后不レ獲レ已而奏言、妾弟名弟姫焉、弟姫容姿絶妙無レ比、其艷色徹レ衣而晃之、是以時人號曰二衣通郞姫(ソトホシイラツヒメ)一也、天皇之志在二于衣通郞姫一、故強二皇后一而令レ進、皇后知之、不三輙言二禮事一、爰天皇歡喜、則明日遣二使者一喚二弟姫一、時弟姫隨レ母以在三於近江坂田一、弟姫畏二皇后之情一、
p.1295 而不二參向一、又重七喚、猶固辭以不レ至、於レ是天皇不レ悦、而復勅二一舍人中臣烏賊津使主一曰、皇后所レ進之娘子弟姫、喚而不レ來、汝自往之召二將弟姫一以來、必敦賞矣、爰烏賊津使主、承レ命退之、裹二糒裀中一到二坂田一、伏二于弟姫庭中一、言天皇命以召レ之、弟姫對曰、豈非レ懼二天皇之命一、唯不レ欲レ傷二皇后之志一耳、妾雖二身亡一不二參赴一、時烏賊津使主對言、臣既被二天皇命一、必召率來矣、若不二將來一必罪レ之、故返被二極刑一、寧伏レ庭而死耳、仍經二七日一伏二於庭中一、與二飮食一而不レ飡、密食二懷中之糒一、於レ是弟姫以爲、妾因二皇后之嫉一、既拒二天皇命一、且亡二君之忠臣一、是亦妾罪、則從二烏賊津使主一、而來之、到二倭春日一食二于櫟井上一、弟姫親賜二酒于使主一慰二其意一、使主即日至レ京、留二弟姫於倭直吾子籠之家一、復二命天皇一、天皇大歡之、美二烏賊津使主一、而敦寵焉、然皇后之色不レ平、是以勿レ近二宮中一、則別搆二殿屋於藤原一而居也、 八年二月、幸二于藤原一、密察二衣通郞姫之消息一、是夕衣通姫戀二天皇一而獨居、其不レ知二天皇之臨一而歌曰、和餓勢故餓、句倍枳豫臂奈利、佐瑳餓泥能、區茂能於虚奈比、虚豫比辭流辭毛、天皇聆二是歌一則有二感情一、而歌之曰、佐瑳羅餓多、邇之枳能臂毛弘、等枳舍氣帝、阿麻多絆泥受邇、多儾比等用能未、明旦天皇見二井傍櫻華一、而歌之曰、波那具波辭、佐區羅能梅涅、許等梅涅麼、波椰區波梅涅孺、和我梅豆留古羅、皇后聞之且大恨也、於レ是衣通郞姫奏言、妾常近二王宮一、而晝夜相續欲レ視二陛下之威儀一、然皇后則妾之姊也、因レ妾以恒恨二陛下一、亦爲レ妾苦、是以冀離二王居一、而欲二遠居一、若皇后嫉意少息歟、天皇則更興二造宮室於河内茅渟一、而衣通郞姫令レ居、因レ此以屢遊二獦于日根野一、 十一年三月丙午、幸二於茅渟宮一、衣通郞姫歌之曰、等虚辭陪邇、枳彌母阿閇椰毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、余留等枳等枳弘、時天皇謂二衣通郞姫一曰、是歌不レ可レ聆二他人一、皇后聞必大恨、故時人號一濱藻一、謂二奈能利曾毛一也、先レ是衣通郞姫、居二于藤原宮一、時天皇詔二大伴宿屋連一曰、朕頃得二美麗孃子一、是皇后母弟也、朕心異愛之、冀其名欲レ傳二于後葉一奈何、室屋連依レ勅而奏可、則科二諸國造等一、爲二衣通郞姫一定二藤原部一、
p.1295 延暦十五年十月壬申、正四位上因幡造淨成女卒、淨成女元因幡國高草郡之釆女也、天皇特加二寵愛一、終至二顯位一、
p.1296 弘仁八年八月戊午朔、散事從三位橘朝臣常子薨云々、皇統彌照天皇〈◯桓武〉納二之後宮一有レ寵、生二三品大宅内親王一、延暦年中授二從四位下一、宮車晏駕、出家爲レ尼、太上天皇敬二重之一叙二從三位一、
p.1296 弘仁八年八月戊午朔、散事(○○)從三位橘朝臣常子薨、左大臣正一位橘諸兄之曾孫、正五位下兵部大輔島田麻呂之女也、皇統彌照天皇〈◯桓武〉納二之後宮一有レ寵、生二三品大宅内親王一、宮車晏駕、出家爲レ尼薨年卅、
p.1296 弘仁元年九月己酉、藤原朝臣藥子自殺、藥子贈太政大臣種繼之女、中納言藤原朝臣繩主之妻也、有二三男二女一、長女太上天皇、〈◯平城〉爲二太子一時、以レ選入レ宮、其後藥子以二東宮宣旨一出二入臥内一、天皇私焉、皇統彌照天皇〈◯桓武〉慮二婬之傷一レ義、即令二駈逐一、天皇之嗣レ位、徴爲二尚侍一、巧求二愛媚一恩寵隆渥、所レ言之事、無レ不二聽容一、百司衆務、吐納自由、威福之盛、熏二灼四方一、屬二倉卒之際一與二天皇一同レ輦、知二衆惡之歸一レ己、遂仰レ藥而死、
p.1296 承和十四年十一月己巳、尚藏從二位緒繼女王薨、女王能有二妖媚之徳一、淳和太上天皇殊賜二寵幸一、令レ陪二宮掖一、薨時遺命不レ受二葬使一、于時年六十一、
p.1296 貞觀五年正月三日丙寅、大納言正三位兼行右近衞大將源朝臣定薨〈◯中略〉定者嵯峨天皇之子也、母百濟王氏、其名曰二慶命一、天皇納レ之、特蒙二優寵一、動有二禮則一、甚見二尊異一、宮闈之權、可レ謂レ無レ比、官爲二尚侍一、爵至二二位一、及レ薨贈二一位一、始太上天皇〈◯嵯峨〉遷二御嵯峨院一之時、爲築二別舘一令レ爲二居所一、號曰二小院一、太上天皇所レ居爲二大院一、尚侍所レ居、爲二其次一故也、權勢之隆至レ如レ此焉、定生而岐嶷、太上天皇在二鐘愛一、
p.1296 六月〈◯康保元年〉つごもりに、みかど〈◯村上〉の覺しめしけるやう、式部卿の宮〈◯重明親王〉の北方〈◯藤原登子〉はひとりおはすらんかしとおぼし出て、御文物せさせ給ふに、后の宮〈◯藤原安子〉の御おとヽの御かた〴〵をとこ君たち、たヾおやともきみとも宮をこそたのみ申つるに、ひをうちけちたるやうなるをあはれにおぼしまどふ、〈◯中略〉みやの北の方はめづらしき御文をうれしうお
p.1297 ぼしながら、なき御かげにもおぼしめさん事、おそろしうつヽましうおぼさるヽに、そのヽち御文しきりにて參り給へ〳〵とあれど、いかでかはおもひのまヽにはいでたち給はん、いかになど覺しみだるヽ程に、おほんはらからの君達に、うへしのびて此事をのたまはせて、それ參らせよとおほせられければ、かヽることのありけるを、みやのけしきにもいださで、としごろおはしましけることヽおぼす、なにヽつけてもいとかなしう思いで聞え給、さてかしこまりてまかで給て、はやうまゐりたまへなど聞え給へば、あべい事にもあらずおぼしたれば、いまはじめたる御事にもあらざなるをなど、はづかしげに聞え給て、この君たち同じ心にそヽのかし、さるべき御さまにきこえ給ふ、うちよりはくらづかさにおほせられて、さるべきさまのこまかなる事ども有べし、さはとていでたちまゐり給を、御はらからの君たち、さすがにいかにぞやうちおもひ給へる御けしきどもヽ、すヾろはしくおぼさるべし、さて參り給へり、登花殿にて御つぼねしたる、それよりとして御とのゐしきりて、こと御かた〴〵あへてたちいで給はず、故宮〈◯安子〉の女房、みやたちの御めのとなどやすからぬことにおもへり、かヽる事のいつしかとなる事、たヾいまかくはおはしますべき事かはなど、ことしものろひなどしたまひつらんやうにきこえなすも、いと〳〵かたはらいたし、御かた〴〵には宮の御心の哀なりし事をこひしのびきこえ給ふに、かヽることさへあれば、いと心つぎなきことにすげなくそしりそねみ、やすからぬことにきこえ給、まゐり給てのちすべてよるひるふしおきむつれさせ給ひて、よのまつりごとをしらせ給はぬさまなれば、只いまのそしりぐさにはこの御事ぞありける、わたりなかりしおり、あやにくなりしにやとおぼされつる御心ざし、いましもいとヾまさりていみじう思聞えさせ給てのあまりには、人のこなどうみ給はざらましかば、きさきにもすゑてましとおぼしめしの給はせて、内侍のかみになさせ給つ、
p.1298 白河院の御世にきさきみやすどころなどかくれさせ給て、さるかた〴〵もおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき、その人待賢門院をばやしなひたてまつり給ひて、院も御むすめとてもてなしきこえさせ給しなり、その白川殿あさましき御宿世おはしける人なるべし、宣旨などはくだされざりけれども、世の人ぎをむの女御とぞ申めりし、もとよりかの院のうちのつぼねわたりにおはしけるを、はつかに御らんじつけさせ給て、三千の寵愛ひとりのみなりけり、たヾ人にはおはせざるべし、賀茂の女御と世にはいひて、うれしきいはひをとて、あねおとうとのちにつヾきてきこえしかど、それはかの社のつかさ重助がむすめどもにて、女房にまゐりたりしかば御目ちかヽりしを、これははつかに御覽じつけられて、それがやうにはなくて、これはことの外におもきさまにきこえ給ひき、
p.1298 治承四年四月十二日甲午、今日初齋院、〈御年四歳、新院(高倉)第一御女内親王也、母權中納言成範御女號二小督殿一、即新院女房也、◯下略〉
p.1298 小がうの事
主上〈◯高倉〉は、れんぼの御涙に思召しづませ給ひたるを、申慰め參らせんとて、中宮の御方より、小督と申女房をまゐらせらる、そも此女房と申は、櫻町の中納言しげのりの卿のむすめ、禁中一の美人、ならびなき琴の上手にてぞまし〳〵ける、冷泉の大納言たかふさ卿未だ少將なりし時、見そめたりし女房なり、〈◯中略〉入道相國〈◯平清盛〉此よしを傳聞給ひて、中宮と申も御娘、〈◯徳子〉冷泉の少將も又聟なり、小がうの殿に二人の聟を取られては、世の中よかるまじ、いかにもして小がうの殿を召出、いて失なはんとぞ宣ひける、小督此よしを聞給ひて、我身の上はとにもかくにも成なん、君の御爲御心ぐるしと思はれければ、或夜内裏をばまぎれ出て、行へもしらずぞ失られける、主上御歎き斜ならず、晝はよるのおとヾにのみ入せ給ひて御涙にしづませおはします、夜は南殿に出御成て、月の光を御覽じてぞ慰ませまし〳〵ける、入道相國此よしを承つて、扨は君は小督p.1299 ゆゑにおぼし召しづませ給ひたんなり、さらんに取てはとて、御かいしやくの女房達をも參らせられず、參内し給ふ人々もそねまれければ、入道の權威に憚かつて參り通ふ臣下もなし、男女打ひそめて禁中忌々しうぞ見えし、頃は八月十日あまりの事なれば、さしもくまなき空なれども、主上は御涙にくもらせ給ひて、月の光もおぼろにぞ御覽ぜられける、やヽ深更に及んで、人やある人やあるとめされけれども、御いらへ申者もなし、稍あつて彈正の大ひつ仲國、その夜しも御宿直に參りて遙に遠う候ひけるが、仲國と御いらへ申す、汝ちかう參れ、仰下さるべき旨ありと仰せければ、何事やらんと思ひ、御前ちかうぞ參じたる、汝若小がうがゆくへや知たると仰ければ、爭かしり參らせ候べきと申す、誠や小がうは嵯峨の邊、かた折戸とかやしたる内にあると申者のあるぞとよ、あるじが名をばしらずとも、尋て參らせてんやと仰ければ、仲國あるじが名を知り候はでは、爭か尋ねあひ參らせ候べきと申ければ、主上げにもとて御涙せきあへさせましまさず、仲國つく〴〵物を案ずるに、誠や小督の殿は琴ひき給ひしぞかし、此月の明さに君の御事思ひ出參らせて、琴引給はぬ事はよもあらじ、内裏にて琴ひき給ひしとき、仲國笛の役にめされ參らせしかば、其琴の音はいづくにても聞しらんずる物を、嵯峨の在家いく程かあらん、打廻てたづねんに、などか聞出さであるべきと思ひ、左候はヾあるじが名はしらず候とも、たづね參らせ候べき、たとひ尋ねあひまゐらせて候とも、御書など候はずば、うはの空とや思召れ候はんずらん、御書を賜つて參り候はんと申ければ、主上げにもとて、頓て御書をあそばいてぞ下されける、寮の御馬に乘てゆけと仰ければ、仲國れうの御馬賜はつて、明月にむちをあげ、西をさしてぞあゆませける、小鹿なく此山里とえいじけん、嵯峨のあたりの秋のころ、さこそはあはれにも覺えけめ、かた折戸したる屋を見付ては、此内にもやおはすらんと、扣々聞けれども、琴ひく所はなかりけり、御だうなどへも參り給へる事もやと、しやか堂をはじめて、堂々見まはれども、小
p.1300 督のとのに似たる女房だにもなかりけり、空しう歸り參りたらんは、參らざらんより中々惡かるべし、是よりいづちへも迷ひ行ばやとは思へどもいづくか王地ならぬ、身をかくすべき宿もなし、いかヾせんとあんじわづらふ、誠や法輪は程近ければ、月の光にさそはれて參り給へる事もやと、そなたへ向ひてぞあくがれける、龜山のあたり近く松のあるかたに、幽に琴ぞ聞えける、峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覺束なくは思へども、駒をはやめて行程に、かた折戸したる内に琴をぞ引すまされたる、ひかへて是を聞ければ、少もまがふべうもなく、小督のとのヽつまをとなり、樂は何ぞと聞ければ、夫を想てこふとよむ想夫戀といふ樂なりけり、仲國さればこそ、君の御事思ひ出參らせて、樂こそ多けれ、此がくをひき給ふ事のやさしさよと思ひ、こしよりやうでうぬきいだし、ちつとならひて門をほと〳〵とたヽけば、琴をばひきやみ給ひぬ、是は内裏より仲國が御使に參りて候、あけさせ給へとてたヽけども〳〵、とがむるものもなかりけり、漸あつて内より人の出るおとしけり、うれしう思ひて待つ所に、ぢやうをはづし、門をほそめにあけ、いたいけしたる小女房のかほばかりさし出て、是はさやうに内裏より御使など給はるべき所でも侍らはず、若かどたがへてぞ侍らふらんといひければ、仲國へんじせば、門たてられ、ぢやうさヽれなんずとやおもひけん、ぜひなく押あけてぞ入にける、つま戸の際なるえんに居て、何とてかやうの所に御わたり候やらん、君は御ゆゑに思召しづませ給ひて、御命も既に危くこそ見えさせまし〳〵候へ、かやうに申さばうはのそらとや覺召れ候らん、御書を賜りて候とて取出て奉る、ありつる女房とりついで、小督のとのにぞ參らせける、是をあけて見給ふに、誠に君の御書にてぞありける、頓て御返書かいて引むすび、女房の裝束一かさねそへてぞ出されたる、仲國御返事のうへは、とかう申に及び候はねども、別の御使にても候はヾこそ、直の御返事うけ給はちでは、爭か歸り參り候べきと申ければ、小督のとのげにもとや思れけん、みづから返事し
p.1301 給ひけり、そこにも聞給ひつらんやうに、入道あまりにおそろしき事をのみ申と聞しが淺ましさに、或夜ひそかに忍びつヽ内裏をばまぎれ出て、今はかヽる所の住ひなれば、琴ひく事もなかりしが、明日より大原のおくへ思ひ立事の侍らへば、主の女房こよひばかりの名殘ををしみ、今は夜もふけぬ立聞人もあらじなどすヽむる間、さぞなむかしの名殘もさすがにゆかしくて、手なれし琴をひくほどに、やすうも聞出されけりとて、御泪せきあへ給はねば、仲國もそヾろに袖をしぼりける、やヽあつて仲國泪をおさへて申けるは、明日より大原のおくへ思し召立事と候は、定めて御様などもや替させ給ひ候はんずらん、然るべうも候はず、扨君をば何とかし參らせ給ふべき、努々かなひ候まじ、相かまへて此女房出し參らすなとて、ともに召ぐしたる馬部吉上など留めおき、そのやを守護せさせ、我身は寮の御馬に打乘て、内裏へかへり參つたれば、夜はほの〴〵とぞ明にける、仲國やがてれうの御馬つながせ、女房のしやうぞくをば、はね馬の障子に打かけて、今は定めて御寢もなりつらん、誰してか申べきと思ひ、南殿をさして參るほどに、主上はいまだ夕べの御座にぞまし〳〵ける、南にかけり北にむかふ、かんうんを秋のかりにつけがたし、東に出で西にながる、たヾせんばうをあかつきの月によすと、御心ぼそげに打ながめさせ給ふ所に、仲國つと參りつヽ、小督のとのヽ御返事をこそ參らせけれ、主上斜ならずに御感あつて、さらば汝やがて夕さりぐして參れとぞ仰ける、仲國、入道相國のかへり聞給はん所は恐ろしけれども、これ又勅定なれば人に車かつて嵯峨へ行向ふ、小督のとの參るまじき由宣へども、やう〳〵にこしらへ奉りて、車にのせ奉りて、内裏へ參りたりければ、幽なる所に忍ばせて、夜な夜な召れ參らせける程に、ひめ宮御一所出來させ給ひけり、坊門の女院、〈◯土御門准母範子〉とは此みやの御事なり、入道相國小督が失たりといふは、跡かたもなきそらごとなり、いかにもして失はんと宣ひけるが、何としてかたばかり出されたりけん、小督のとのをとらへつヽ、尼になしてぞ追放た
p.1302 る、年廿三、出家はもとより望みなりけれども、心ならず尼になされ、こき墨染にやつれはて、嵯峨のおくにぞすまれける、無下にうたてき事どもなり、主上はかやうの事どもに御なうつかせ給ひて、終にかくれさせ給ひけるとかや、
p.1302 立后事〈付〉三位殿御局事
阿野中將公廉ノ女ニ、三位殿ノ局ト申ケル女房、中宮ノ御方ニ候ハレケルヲ、君〈◯後醍醐〉一度御覽ゼラレテ、他ニ異ナル御覺アリ、三千ノ寵愛一身ニ在シカバ、六宮ノ粉黛ハ、顏色無ガ如ク也、都テ三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一女御、曁後宮ノ美人、樂府ノ妓女ト云ヘドモ、天子顧眄ノ御心ヲ付ラレズ、啻ニ殊艷尤態ノ獨ヨク是ヲ致スノミニ非ズ、蓋シ善巧便侫、叡旨ニ先タチテ奇ヲ爭シカバ、花ノ下ノ春ノ遊、月ノ前ノ秋ノ宴、駕スレバ輦ヲ共ニシ、幸スレバ席ヲ專ニシ給フ、是ヨリ君王朝政ヲシ給ハズ、忽ニ准后ノ宣旨ヲ下サレシカバ、人皆皇后元妃ノ思ヲナセリ、驚キ見ル光彩ノ始テ門戸ニ生ルコトヲ、此時天下ノ人、男ヲ生ム事ヲ輕ジテ、女ヲ生ム事ヲ重ザリ、サレバ御前ノ評定、雜訴ノ御沙汰マデモ准后ノ御口入トダニ云テケレバ、上卿モ忠ナキニ賞ヲ與ヘ、奉行モ理アルヲ非トセリ、關唯樂而不レ淫、哀而不レ傷、詩人採テ后妃ノ徳トス、奈何セン傾城傾國ノ亂、今ニ有ヌト覺テ、淺増カリシ事共也、