p.1288 御息所トハ、天皇ノ御寢ニ侍スルモノナリ、其名モト天皇ノ休憩シタマフ便殿ヨリ起レルヲ以テ、更衣ヲ指シテ言ヘルナリ、然レドモ亦女御ヲモ謂ヒ、或ハ御寢ニ侍スレドモ、其職名ナキ者ヲモ謂ヘリ、之ヲ要スルニ、一箇ノ私稱ニシテ、東大寺要録ニ引ケル惠運ノ記ニ既ニ此名アルヲ視レバ、清和天皇ヨリ前ニ起リシナリ、鳥羽天皇以後ニハ亦見エズシテ、專ラ皇太子、親王ノ妃ノ稱ト爲レリ、皇太子ノ御息所ハ別ニ擧ゲタリ、
p.1288 みやすむどころ
p.1288 みやすどころ
p.1288 惠運僧都記文
貞觀三年四月廿五日、皇太后〈◯仁明后、藤原順子〉并北御息所(○○○)〈◯文徳女御、藤原古子、〉剃頭出家、
p.1288 堤の中納言の君、十三のみこ〈◯醍醐皇子章明親王〉の母御息所〈◯醍醐更衣桑子〉を内に奉りけるはじめに、御かどはいかヾおぼしめすらんなどいとかしこく思なげき給けり、さてみかどによみて奉り給ける、
ひとのおやの心はやみにあらねども子をおもふみちにまどひぬるかな、先帝いとあはれに思しめしたりけり、御返しはありけれど人えしらず、
p.1288 又在衡のあぜち大納言のむすめ、あぜちの御息所〈◯村上更衣〉とてさぶらひ給ふ、小一條の師尹のおとヾの御むすめ、〈◯芳子〉いみじううつくしくて、宣耀殿のにようご〈◯村上〉ときこえさす、又廣幡の中なごん廣明のおほんむすめ、廣幡のみやすどころ〈◯村上更衣計子〉とておはす、さてもこのおほんかた〴〵、みな御子むまれ給へるもあり、御子むまれ給はぬ御息所たちもあまたさ
p.1289 ぶらひ給ふ、
◯按ズルニ、古説ニ女御更衣ノ御子ヲ生メルモノヲ御息所ト云フトアレドモ然ラズ、本文ニ依ルニ、御子生レ給ハヌヲモ御息所ト稱セリ、
p.1289 おやにするばかりにてぞ、またも西わたりには、更衣などいますかり、その更衣は、宰相の中將のひめみこの母なり、むめつぼのみやすどころといひし、
p.1289 その年の夏、みやすどころはかなきこヽちにわづらひてまかでなむとし給を、いとまさらにゆるさせ給はず、〈◯中略〉内より御つかひあり、三位のくらゐおくり給ふよし勅使きてその宣命よむならんかなしき事なりける、女御とだにいはせずなりぬるが、あかずくちをしうおぼさるれば、今ひときざみの位をだにと贈らせ給ふなりけり、
p.1289 さるの時に内にまゐり給、みやす所御こしにのり給へるにつけても、父おとヾのかぎりなきすぢにおぼし心ざして、いつきたてまつり給ひし有さまかはりて、すゑの世にうちを見給にも、物のみつきせずあはれにおぼさる、十六にて故宮にまゐり給て、廿にておくれたてまつり給ふ、卅にてぞけふまた九重を見給ける、
そのかみをけふはかけじとしのぶれど心のうちにものぞかなしき
p.1289 むかし清和のみかどの御とき、かた〴〵おほくおはしけるなかに、ひとりのみやす所〈◯女御藤原多美子〉の、太上法皇〈◯清和〉かくれさせ給へりけるとき、御經供養してほとけのみちとぶらひたてまつられけるに、みのりかきたまへりけるしきしのいろの、ゆうべのそらのうす雲などのやうにすみぞめなりければ、人々あやしくおもひけるに、むかし給はりたまへりける御ふみどもをしきしにすきて、みのりのれうしになされたりけるなりけり、
p.1289 二條后〈◯清和女御高子〉のとう宮のみやすむ所(○○○○○○○○○)ときこえける時、正月三日おまへにめし
p.1290 ておほせごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらにふりかヽりけるをよませ給ひける、
ふんやのやすひで
春の日の光りにあたる我なれど頭の雪となるぞわびしき
p.1290 此みこ〈◯源氏〉むまれ賜ひてのちは、いと心ことにおぼしおきてたれば、坊にもようせずばこのみこの居賜べきなめりと、一のみこの女御(○○○○○○○)はおぼしうたがへり、
p.1290 むかし春宮の女御(○○○○○)の御かたの花の賀に、めしあづけられたりけるに、〈◯歌略〉
p.1290 東宮の御息所
二條后は、清和天皇の中宮也、貞觀八年に女御となり賜ひ、同十年に貞明親王を生奉り賜ひ、同十一年に其親王皇太子に立せ賜ふ、これ陽成天皇におはします、これよりして元慶元年に中宮となり賜ふ迄のあひだ、女御にて皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申けること、契沖が餘材抄、勢語臆斷などにいへるが如し、東宮の御母女御、御母御息所といふことなり、
p.1290 故式部卿〈◯宇多皇子敦慶〉二條のみやすどころにたえ給ふて、又のとしのむ月のなぬかの日に若菜奉り給ひけるに、
ふるさとヽあれにし宿の草の葉も君がためとぞまづはつみけるとありけり、
◯按ズルニ、二條のみやすどころハ、三條のみやすどころノ誤ナルベシ、三條御息所ハ醍醐天皇ノ女御藤原仁善子ニシテ三條右大臣定方ノ女ナリ、
p.1290 桂の御子〈◯宇多皇女孚子〉の御もとに、よしたねが來たりけるを、母御息所きヽつけ給て、門をさヽせ給ければ、夜ひと夜たちわづらひてかへるとて、かく聞え給へとて、かどのはざまよりいひいれける、
p.1291 こよひこそなみだの河にゐる千鳥なきてかへると君はしらずや
p.1291 おなじ右のおほいどの〈◯藤原定方〉のみやすどころ(○○○○○○)、〈◯醍醐女御仁善子〉帝おはしまさずなりて後、式部卿の宮〈◯宇多皇子敦慶〉なんすみたてまつり給けるを、いかヾありけんおはしまさヾりける頃、齋宮の御もとより御文たてまつりたまへりけるに、みやすむどころ宮のおはしまさぬ事など聞給うておくに、
しらやまにふりにし雪の跡たえていまはこし路の人もかよはず、となんありける、御返あれど本になしとあり、かくて九の君の侍從の君にあはせ奉り給ひてけり、
p.1291 成明親王〈◯村上〉の位につかせ給ひたりけるに、女御あまたさぶらはせ給ひける中に、廣幡の御息所は、ことに御心ばせあるさまに御門もおぼしめしたり、
p.1291 御門の御おほぢにはおはせねど、春宮〈◯實仁親王〉やみやたちの御母におはせしは、後三條院の女御にて、侍從の宰相基平の御むすめこそおはせしか、その宰相は小一條院の御子におはしき、その源氏のみやす所(○○○○)、御名は基子女御とぞ申し、
p.1291 さてこの御時にみやす所(○○○○)はこれかれさだめられ給へりけれども、御をばの前齋院〈◯後三條皇女篤子〉ぞ女御にまゐり給ひて中宮にたち給ひし、ことのほかの御よはひなれど、をさなくよりたぐひなくみとりたてまつらせ給て、たヾ四宮をとかや仰せられければにや侍けん、まゐらせ給ひけるよも、いとあかぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、あか月ちかくなるまでぞ心もとなく侍ける、鳥羽の御門の御母の女御どのもまゐり給ひて、院もてなし聞えさせ給へば、はなやかにおはしましヽかども、中宮はつきせぬ御心ざしになんきこえさせ給ひし、
p.1291 亭子院〈◯宇多〉に、御息所あまた御そうしして住たまふに、河原院の見所あるさまに、いとめでたくつくらせ給ひて、京極御息所〈◯尚侍藤原褒子〉一ところをのみ具し奉りて、わたらせ給ひけり、
p.1292 寛平法皇、〈◯宇多〉與二京極御休所一同車、渡二御川原院一、歴二覽山河形勢一、入レ夜月明、令レ取二下御車疊一、假爲二御座一、與二御息所一被レ行二房内一之間、開二塗籠之戸一有二出之聲一、法皇令レ問給、對云、融候、欲レ賜二御息所一、法皇答云、汝在生之時爲二臣下一、我天子、何漫出二此言一哉、早可二退歸一者、靈物忽抱二法皇御腰一半死御坐、前驅等皆候二中門外一、御聲不レ可二及達一、牛童頗近侍食二御牛一、召二件童舍人一差二寄御車一、令レ乘二御息所一、顏色無レ色、足不レ能二起立一、令二扶抱乘一、還御之後、召二淨藏大法師一令二加持一、纔蘇生云々、法皇依二前世行業一、爲二日本之王一、雖レ避二寳位一、神祇奉二守護一、追二退融靈一也、件戸面有二打物跡一、守護神令二退入一押覆也云々、
p.1292 延喜七年正月九日、貞信公記云、御息所御令二良少將一奏二大殿一、自二大納言一至二左兵衞督及氏五位以上一十餘人、於二左近陣東庭一拜舞、亦參二東宮一令レ啓、
p.1292 延喜御屏風伊勢御息所讀二和歌一語第三十一
今昔、延喜天皇〈◯醍醐〉御子ノ宮ノ御著袴ノ料ニ御屏風ヲ爲サセ給テ、其色紙形ニ可レ書キ故ニ、歌讀共ニ各和歌讀テ奉レト仰セ給ヒケレバ、皆讀テ奉タリケルヲ、小野道風ト云手書ヲ以テ令レ書給ケレバ、春ノ帖ニ櫻ノ花ノ榮タル所ニ、女車ノ山路行タル繪ヲ書タル所ニ當テ色紙形有リ、其ヲ思シ食シ落シテ、歌讀共ニモ不レ給リケレバ、道風書キ持行クニ其歌ナケレバ、天皇此レヲ御覽ジテ、此ハ何カセムト爲ル、今日ニ成テハ俄ニ誰カ此ヲ可レ讀キ、可咲所ノ歌シモナカラムコソ口惜ケレト被レ仰テ、暫ク思食シ廻シテ、藤原伊衡ト云殿上人ノ少將ニテ有ケルヲ召ヌ、即チ參ヌ、被レ仰テ云ク、只今伊勢御息所ノ許ニ行テ、此ル事ナム有ル、此歌讀テトテ遣ス、〈◯中略〉然テ此御息所ハ極テ物ノ上手ニテ有ケル、大和守藤原忠房ト云人ノ娘ナリ、亭子院ノ天皇ノ御時ニ參テ有ケレバ、天皇極ク時メキ思食シテ、御息所ニモ被レ成タルナリ、形チ心バセヨリ始メ、故有テ可咲ク微妙カリケリ、和歌ヲ讀ム事ハ、其時ノ躬恒貫之ニモ不レ劣リケリ、
p.1292 昔おほやけおぼしてつかう給ふ女〈◯藤原高子〉の、色ゆるされたる有けり、おほみやすん(○○○○○○)
p.1293 所(○)とていますかりけるいとこ成けり、
◯按ズルニ、おほみやすん所トハ藤原明子ヲ指スナリ、清和天皇ノ朝ニ、御生母ナルヲ以テ皇太夫人トナリ、尋テ皇太后トナレリ、
p.1293 いづれの御時にかありけん、おほみやすん所(○○○○○○○)と聞ゆるみつぼねに、やまとにおやある人さぶらひけり、おやいとかなしうして男などもあはせざりけるを、御息所の御せうととしごろいひわたり給、〈◯下略〉
◯按ズルニ、此大御息所ハ、醍醐天皇ノ皇太夫人藤原温子ナリ、
p.1293 故源大納言宰相におはしける時、京極のみやすどころ、〈◯尚侍褒子〉亭子院〈◯宇多〉の御賀つかうまつり給とて、かヽる事をなんせんと思ふ、さヽげ物一枝ふた枝せさせ給へと聞え給ひければ、ひげこをあまたせさせ給ふて、俊子にいろ〳〵にそめさせ給ひけり、しきものヽおりものども、いろ〳〵にそめよりくみ何かと、みなあづけてせさせ給ひけり、
p.1293 寛仁三年四月十一日戊戌、去夜者左大臣〈◯藤原顯光〉二娘〈院御息所(○○○○)◯延子〉忽以己逝云々、心勞云々、
◯按ズルニ、院トハ小一條院敦明親王ノ事ナリ、上皇ニアラズト雖トモ、名稱ノ同ジキヲ以テ兹ニ附載ス、