p.0047 神器ニ三アリ、其一ハ寶鏡、即チ八咫鏡、其二ハ寶劍、即チ草薙劍、其三ハ神璽、即チ八坂瓊曲玉、之ヲ合セテ三種神器ト稱ス、初メ天祖天照大神ノ、皇孫彦火瓊瓊杵尊ヲ以テ、豐葦原中國〈日本國ノ舊名〉ノ主ト定メ給フヤ、此器ヲ授ケテ天降シ、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊ヲ歴テ、大祖神武天皇ニ傳フ、天皇位ニ橿原宮ニ即キ給フニ及テ、殊ニ之ヲ尊崇シ、殿内ニ奉安セラレシガ、崇神天皇ノ時ニ至リ、其神威ヲ 涜センコトヲ畏レ、鏡ト劍トヲ摸造シ、舊物ヲバ、大和國笠縫邑ニ遷シ、神籬ヲ立テ、齋ヒ祭リ、〈後ニ寶鏡ハ、伊勢大神宮ノ神魂代トナリ、寶劍ハ、尾張熱田宮ノ神魂代トナル、〉摸造ノ二種ト、曲玉トヲ以テ、護身ノ寳器トシ給フ、其後歴朝踐祚、此器ヲ授受シテ其信憑トシ、常ニ至尊ノ御身ニ遠ザカルコト無シ、但南北分立ノ際、暫ク吉野宮ニ在リシト雖モ、程無ク兩統合一シ、都ニ歸座アリテ、長ク皇室ノ鎭護タリ、サテ三種ノ内ニ於テ、神璽ハ、天孫降臨以來ノ舊寳ニシテ、聊モ水火ノ難ニ毀損セシ事無シ、寳劍ハ壽永年中、海底ニ沈沒セシカバ、一時晝御座御劍ヲ以テ之ニ替ヘ、後又祭主進ル所ノ神劍ニ引キ替ヘラル、件ノ二種ハ、舊ト御寢殿ニ、二階厨子ヲ居ヱテ奠カレシガ、近世ニ至リ、同ジ御殿ノ上ノ間ニ、劍璽ノ間ヲ設ケテ、安置シ奉ルトカヤ、寳鏡ハ、天照大神ノ、吾ヲ視ルガ如クセヨトノ神勅アリシ謂レニヤ、何レノ時ヨリカ、之ヲ温明殿ニ遷シ、〈江家次第、禁秘御抄、公事根元等ニハ、垂仁天皇ノ時ナリト有レド、古事記、日本書紀、古語拾遺ニハ見エズ、又温明ト云フ殿ノ名モ、其時代ニハ有ル可ク〉 p.0048 〈モ無シ、後ニハ之ヲ春興殿ニ遷シ、近代ニ至リ、特ニ内侍所ト云フ殿ヲ建ラル、〉伊勢大神宮ニ擬ヘテ齋ヒ祭リ、内侍ヲシテ守護セシメ、歳時ニ神樂ヲ奏シ、又疾病事故ニ由リ、祈願スルコト有リ、此寳鏡、又賢所(カシコドコロ)ト稱ス畏敬スベキノ謂ナリ、天徳以來數度ノ火災ニモ灰燼トナラズ、壽永ノ亂、海底ニ沈マズ、嘉吉ノ變、敵手ニ渡ラズ、其威靈眞ニ畏ムベシ、賢所ノ稱是ニ於テ益々驗アリ、〈恐所、威所、尊所等ノ文字、賢所ト同ジク、皆カシコドコロト訓ム、〉又内侍守護スルヲ以テ、内侍所トモ稱ス、近世學者、三器輕重ノ差別ヲ説クモノアレド、古書ニ於テ、未ダ確徴ヲ見ザレバ、姑ク置テ論ゼズ、女官、御燈、又璽筥、劍櫃ノ類、神器ニ縁由アルモノハ、爰ニ附載ス、
p.0048 三のたから(○○○○○)〈まがり玉 やたのかヾみ 草なぎのつるぎ、是は自レ天下寳也、〉 やたかヾみ〈古語神璽也〉
p.0048 三種の寳物の心を 從一位教良
神代より三くさのたから(○○○○○○○)傳はりて豐蘆原のしるしとぞなる、
p.0048 題しらず 後村上院御製
四海浪もをさまるしるしとて三のたから(○○○○○)を身にぞつたふる、
p.0048 題しらず 大江廣秀
くもりなきやたの鏡(○○○○)や岩とあけし天てる神のみかげなるらん、
p.0048 天徳四年九月廿四日辛酉、鏡三、〈加之古止古呂(○○○○○○)◯節略〉
p.0048 家集 中原師光朝臣
やまとにもまがりのたま(○○○○○○)とくさなぎのつるぎ(○○○○○○○○)は國のたからなりけり、
p.0048 爾速須佐之男命、〈◯中略〉猶其惡態不レ止而轉、天照大御神坐二忌服屋一而、令レ織二神御衣一之時、穿二其服屋之頂一、逆二剥天斑馬一剥而、所二墮入一時、天衣織女見驚而、於レ梭衝二陰上一而死、〈訓二陰上一云二富登一〉故於レ是天照大御神見畏、閇二天石屋戸一而、刺許母理〈此三字以レ音〉坐也、爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因レ此而常夜往、於レ是萬神之
p.0049 聲者狹蠅那須〈此二字以レ音〉皆滿、萬妖悉發、是以八百萬神、於二天安之河原一、神集集而、〈訓レ集云二都度比一〉高御産巣日神之子思金神令レ思〈訓レ金云二加尼一〉而、集二常世長鳴鳥一令レ鳴而、取二天安河之河上之天堅石一、取二天金山之鐡一而、求二鍛人天津麻羅一而、〈麻羅二字以レ音〉科二伊斯許理度賣命一〈自レ伊下六字以レ音〉令(○)レ作(○)レ鏡(○)、科二玉祖命一令レ作二八尺句璁之五百津之御須麻流之珠(○○○○○○○○○○○○○○○)一而、召二天兒屋命、布刀玉命一〈布刀二字以レ音、下效レ此、〉而、内二㧞天香山之眞男鹿之肩一㧞而、取二天香山之天波波迦一〈此三字以レ音、木名、〉而、令二占合麻迦那波一而、〈自レ麻下四字以レ音〉天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而、〈自レ許下五字以レ音〉於二上枝一取二著八尺句璁之五百津之御須麻流之玉(○○○○○○○○○○○○○○○)一、於二中枝一取二繫八尺鏡(○○○)一、〈訓二八尺一云二八阿多一〉於二下枝一取二垂白丹寸手、青丹寸手一而、〈訓レ垂云二志殿一〉此種種物者、布刀玉命布刀御幣登取持而、天兒屋命布刀詔戸言祷白、〈◯下略〉
◯按ズルニ、八尺句璁之五百津之御須麻流之玉〈下文日本書紀、八坂瓊之五百箇御統亦同、〉ハ、即三種神器ノ一ナル神璽ニシテ、八尺鏡〈下文日本書紀、八咫鏡亦同、〉ハ、即寳鏡ナリ、
p.0049 瑞八坂瓊之曲玉〈先師説云、當時璽筥中物者、此曲玉也、〉
p.0049 寳劔神璽
神璽自二神代一于レ今不レ替、壽永自二海底一求出、上以二青色絹一裹レ之、以二紫絲一結レ之如レ網、内侍持レ之間、下緒指入程緩、是二〈◯寳劍神璽〉夜御殿御帳中御枕二階上案、覆赤色打物、自二内藏寮一進レ之、内侍雖レ持レ之自不レ取レ之、典侍取レ之傳レ之、讓位時計直取也、此故僧女、又上臈内侍外人不レ入二夜御殿一、白地案二朝餉一之時、同不二近候一、凡重輕服人不觸レ手、月障内侍者、闕如之時或持レ之、不レ可レ然事也、内侍近衞將外更不レ觸レ手也、自二神代一如レ見レ我被二誓置一、尤可レ敬事也、筥中鏡一程物動、返々不レ可レ傾、匡房曰、不淨人不レ觸レ手、他行之時以二内侍一令二守護一、又夜御殿火不レ可レ消、是爲二劔璽一也、〈以上江記説〉
p.0049 八咫鏡〈私記曰、問謂二之八咫一有二何意一哉、答、未レ詳、但延喜公望私記云、于時戸部藤卿進曰、嘗聞、或説、八咫烏者、凡讀レ咫爲二阿多一者、手之義也、一手之廣四寸、兩手相加正是八寸也、故書傳謂レ咫爲二八寸一也、今云二八咫一者、是八八六十四寸也、蓋其鏡圓數六尺四寸歟、其徑二尺一寸三分餘也、是則今在二伊勢一大神也、貴神遠レ人甚遠、未レ詳二其實一也、師説亦許レ同レ之、私問、咫者手之義、兩手〉
p.0050 〈相加爲二八寸一、今謂二八咫一、是八八六十四寸、鏡之圓數六尺四寸、其徑二尺一寸三分餘云云、而天徳内裏燒亡之時、内侍所神鏡、在二灰燼之中一不二燒損一云云、其鏡徑八寸許、頭雖レ有二小瑕一專無レ損之由見二御記文一、然則徑八寸鏡歟、八咫之義、相違之條疑殆多端、又頭小瑕如何、兩事欲レ披二蒙霧一矣、答、如二御記文一者、八咫之義、己以相違、加二八ノ字一之條、若二古人之説一歟、輒以二淺才一難レ決二奧旨一、又案、此紀一書文、日神方開二磐戸一而出焉、是時以レ鏡入二其石窟一者、觸レ戸小瑕、其瑕於レ今猶存云云、以レ之思レ之、今内侍所神鏡者、崇神天皇御時更所レ鑄也、然則本鏡有レ瑕、所レ鑄之新鏡不レ違二本様一、鑄二付其瑕一歟、〉
◯按ズルニ、古事記傳ニハ、神鏡ノ形状ヲ八ツ花形ナラント云ヒ、伴信友ノ神鏡想像考ニハ、今世ノ鏡ノ如ク圓形ニシテ柄アルモノナラント云ヘリ、共ニ長文ナレバ略シテ擧ケズ、
p.0050 素戔嗚尊之爲レ行也、甚無レ状、〈◯中略〉是時天照大神驚動、以レ梭傷レ身、由レ此發レ慍、乃入二于天石窟一、閉二磐戸一而幽居焉、故六合之内常闇、而不レ知二晝夜之相代一、于時八十萬神、會二合於天安河邊一計二其可レ祷之方一、故思兼神深謀遠慮、遂聚二常世之長鳴鳥一使二互長鳴一、亦以二手力雄神一立二磐戸之側一、而中臣連遠祖天兒屋命、忌部遠祖太玉命掘二天香山之五百箇眞坂樹一、而上枝懸二八坂瓊之五百箇御統(○○○○○○○○○)一、中枝懸二八咫鏡(○○○)一、〈一云、眞經津鏡、〉下枝懸二青和幣、〈和幣此云二尼枳底一〉白和幣一、相與致二其祈祷一焉、
p.0050 一書曰、日神尊以二天垣田一爲二御田一時、素戔嗚尊春則塡レ渠毀レ畔、〈◯中略〉及レ至下日神當二新嘗一之時上、素戔嗚尊則於二新宮御席之下一、陰自送レ糞、日神不レ知徑坐二席上一、由レ是日神擧體不レ平、故以恚恨、迺居二于天石窟一閉二其磐戸一、于時諸神憂之、乃使二鏡作部遠祖天糠戸者一造(○)レ鏡(○)、忌部遠祖太玉者造レ幣、玉作部遠祖豐玉者造(○)レ玉(○)又使二山雷者一採二五百箇眞坂樹八十玉籖一、野槌者採二五百箇野薦八十玉籖一、凡此諸物、皆來聚集時、中臣遠祖天兒屋命則以二神祝一祝レ之、於レ是日神方開二磐戸一而出焉、是時以レ鏡入二其石窟一者、觸レ戸小瑕、其瑕於レ今猶存、此即伊勢崇秘之大神也、
p.0050 一書曰、〈◯中略〉至三於日神閑二居于天石窟一也、〈◯中略〉於レ是天兒屋命掘二天香山之眞坂木一、而上枝懸二以鏡作遠祖天拔戸兒、石凝戸邊所レ作八咫鏡(○○○)一、中枝懸二以玉作遠祖伊弉諾尊兒、天明玉所作八坂瓊之曲玉(○○○○○○)一、下枝懸二以粟國忌部遠祖、天日鷲所レ作木綿一、乃使下忌部首遠祖太玉命執取上、而廣厚稱辭祈啓矣、〈◯下略〉
p.0051 素戔嗚神奉二爲日神一行甚無状、〈◯中略〉于時天照大神赫怒入二于天石窟一、閇二磐戸一而幽居焉、爾乃六合常闇、晝夜不レ分、群神愁迷、手足罔レ措、凡厥庶事燎レ燭而辨、高皇産靈神會二八十萬神於天八湍河原一、議二奉レ謝之方一、爰思兼神深思遠慮、議曰、宜レ令下太玉神率二諸部神一造中和幣上、仍令下石凝姥神〈天糠戸命之子、鏡作遠祖也、〉取二天香山銅一以鑄中日像之鏡(○○○○)上、令三長白羽神〈伊勢國麻續祖、今俗衣服謂二之白羽一、此縁也、〉種レ麻以爲二青和幣一、〈古語爾伎弖〉令三天日鷲神、津咋見神、穀木種殖之以作二白和幣一、〈是木綿也、巳上二物一夜蕃茂也、〉令三天羽槌雄神〈倭文遠祖也〉織二文布一、令三天棚機姫神織二神衣一所謂和衣、〈古語爾伎多倍〉令三櫛明玉神作二八坂瓊五百箇御統玉(○○○○○○○○○)一、
◯按ズルニ、鏡ヲ鑄ルニ銅ヲ用ヰシコトハ、神宮雜例集ニモ見エタリ、
p.0051 其時諸神の上首にて、高皇産靈尊といふ神まし〳〵き、〈◯中略〉此神天のやすかはの邊にして、八百萬の神を集へて相議給ふ、其御子に思兼と云神のたばかりによりて、石凝姥と云神をして、日神の御形の鏡を鑄せしむ、其はじめ鑄たりし鏡、諸神の心にあはず、〈是は紀伊國日前の神にます、〉次に鑄給へる鏡うるはしくまし〳〵ければ、諸神悦あがめ給ふ、〈初は皇居にまし〳〵き、今は伊勢五十鈴の宮にいつかれ給ふ、是なり、〉又天の明玉の神をして八坂瓊玉をつくらしめ、天の日鷲神をして青幣白幣をつくらしめ、手置帆負、彦狹知の二神をして、大峽小峽の木を切て、瑞の殿をつくらしむ、
p.0051 於二速須佐之男命一、負二千位置戸一、〈◯中略〉故所二避追一而、降二出雲國之肥〈上〉河上在鳥髮地一、此時箸從二其河一流下、於レ是須佐之男命、以爲人有二其河上一而、尋覓上往者、老夫與二老女一二人在而、童女置レ中而泣、爾問賜之汝等者誰、故其老夫答言、僕者國神大山〈上〉津見神之子焉、僕名謂二足〈上〉名椎一、妻名謂二手〈上〉名椎一、女名謂二櫛名田比賣一、亦問汝哭由者何、答白言、我之女者自レ本在二八稚女一、是高志之八俣遠呂智、〈此三字以レ音〉毎年來喫、今其可レ來時故泣、爾問二其形如何一、答白、彼目如二赤加賀智一而、身一有二八頭八尾一、亦其身生二蘿及檜榲一、其長度二谿八谷峽八尾一而、見二其腹一者、悉常血爛也、〈此謂二亦加賀知一者、今酸醤者也、〉爾速須佐之男命詔二其老夫一、是汝之女者奉二於吾一哉、答白、恐亦不レ覺二御名一、爾答詔、吾者天照大御神之伊呂勢者也、〈自レ伊下三字以レ音〉故今自レ天降
p.0052 坐也、爾足名椎手名椎神、白然坐者恐立奉、爾速須佐之男命、乃於二湯津爪櫛一取二成其童女一而、刺二御美豆良一、告二其足名椎手名椎神一、汝等、醸二八鹽折之酒一、且作二廻垣一、於二其垣一作二八門一、毎レ門結二八佐受岐一、〈此三字以レ音〉毎二其佐受岐一置二酒船一而毎レ船盛二其八鹽折酒一而待、故隨レ告、而如レ此設備待レ之時、其八俣遠呂智信如レ言來、乃毎レ船垂二入己頭一飮二其酒一、於レ是飮酔死由〈◯死由二字恐皆誤〉伏寢、爾速須佐之男命拔下其所二御佩一之十拳劔上切二散其蛇一者、肥河變レ血而流、故切二其中尾一時、御刀之刄毀、爾思レ怪以二御刀之前一刺割而見者、在二都牟刈之大刀(○○○○○○)一、故取二此大刀一思二異物一而、白二上於天照大神一也、是者草那藝(○○○)之大刀也、〈那藝二字以レ音〉
◯按ズルニ、草那藝之大刀〈下文日本書紀、草薙劍亦同、〉ハ、即三種神器ノ一ナル寳劍ナリ、
p.0052 寳劔神璽
御劔者、神代有二三劔一其一也、子細雖レ多不レ能レ注、其後爲二寳物一傳來、
p.0052 素戔嗚尊自レ天而降、到二於出雲國簸之川上一、時聞三川上有二啼哭之聲一、故尋レ聲覓往者、有三一老公與二老婆一、中間置二一少女一撫而哭之、素戔嗚尊問曰、汝等誰也、何爲哭之如レ此耶、對曰、吾是國神號二脚摩乳一、我妻號二手摩乳一、此童女是吾兒也、號二奇稻田姫一、所二以哭一者、往時吾兒有二八箇少女一、毎年爲二八岐大蛇一所レ呑、今此少童且臨レ被レ呑、無レ由二脱免一、故以哀傷、素戔嗚尊勅曰、若然者汝當二以レ女奉一レ吾耶、對曰、隨レ勅奉矣、故素戔嗚尊立化二奇稻田姫一爲二湯津爪櫛一、而挿二於御髻一、乃使下脚摩乳手摩乳醸二八醞酒一、并作中假庪〈假庪、此云二佐受枳一、〉八間上、各置二一口槽一、而盛レ酒以待之也、至レ期果有二大蛇一、頭尾各有二八岐一、眼如二赤酸醤一、〈赤酸醬、此云二阿箇箇鵝知一、〉松栢生二於背上一、而蔓二延於八丘八谷之間一、及二至得一レ酒、頭各一槽飮酔而睡、時素戔嗚尊乃拔二所レ帶十握劍一、寸二斬其蛇一、至レ尾劍刄少缺、故割二裂其尾一視レ之、中有二一劍一、此所レ謂草薙劍(○○○)也、〈草薙劍、此云二倶娑那伎能都留伎一、一書曰、本名天藂雲劔、蓋大蛇所レ居之上常有二雲氣一、故以名歟、至三日本武皇子一、改レ名曰二草薙劍一、〉素戔嗚尊曰、是神劍也、吾何敢私以安乎、乃上二獻於天神一也、
p.0052 一書曰、是時素戔嗚尊下二到於安藝國可愛之川上一也、彼處有レ神、名曰二脚摩手摩一、其妻名曰二稻田宮主簀狹之八箇耳一、此神正在二姙身一、夫妻共愁、乃告二素戔嗚尊一曰、我生兒雖レ多、毎レ生輙有二八岐大
p.0053 蛇一來呑、不レ得二一存一、今吾且レ産、恐亦見レ呑、是以哀傷、素戔嗚尊乃教之曰、汝可下以二衆菓一醸中酒八甕上、吾當二爲レ汝殺一レ蛇、二神隨レ教設レ酒、至二産時一、必彼大蛇當レ戸、將レ呑レ兒焉、素戔嗚尊勅レ蛇曰、汝是可レ畏之神、敢不レ饗乎、乃以二八甕酒一毎レ口沃入、其蛇飮レ酒而睡、素戔嗚尊拔レ劔斬之、至二斬レ尾時一、劔刄少缺、割而視レ之則劔在二尾中一、是號二草薙劔(○○○)一、此今在二尾張國吾湯市村一、即熱田祝部所レ掌之神是也、其斷レ蛇劔號曰二蛇之麤正一、此今在二石上一也、
p.0053 一書曰、〈◯中略〉素戔嗚尊乃計醸二毒酒一以飮レ之、蛇酔而睡、素戔嗚尊乃以二蛇韓鋤之劔一斬レ頭斬レ腹、其斬レ尾之時、劔刄少缺、故裂レ尾而看、即別有二一劔一焉、名爲二草薙劔(○○○)一、此劔昔在二素戔嗚尊許一、今在二於尾張國一也、其素戔嗚尊斷レ蛇之劔、今在二吉備神部許一也、
p.0053 一書曰、〈◯中略〉素戔嗚尊乃以二天蠅斫之劔一、斬二彼大蛇一、時斬二蛇尾一而刄缺、即擘而視レ之、尾中有二一神劔一、素戔嗚尊曰、此不レ可二以吾私用一也、乃遣二五世孫天之葺根神一、上二奉於天一、此今所レ謂草薙劔(○○○)矣、
p.0053 享保十九年正月七日、白馬節會也、今夜内侍有レ障、典侍一人候レ璽之事、近世雖レ如レ此、劔中臈、璽上臈之儀有レ難歟、若者依レ爲二内侍一哉、雖二典侍一候レ璽歟、從二今年一内侍一人之時、典侍可レ候レ劔之由可レ有レ仰歟、内々〈宗建〉可レ尋宣下之旨、先日蒙レ仰刻、申二殿下一處、殿下仰云、思召之旨可レ然從二中古一以レ璽爲二第一一、以レ劔爲二第二一、〈寳劔沈三西海一後歟〉而其後又被レ改二次第一以レ劔被レ爲二第一一、雖レ然實者以レ璽有二御崇敬一、依レ之璽内侍代爲二典侍一歟、然者如二近世一可レ然歟、猶可レ有二叡慮一之旨、可レ申之由也、仍以二此旨一及二言上一之處、於レ然ハ可レ有二近世例一之由有レ仰、
p.0053 此三種を連擧る次第は、鏡劔玉とか、鏡玉劔とか有べき理なるに、此記にも書紀にも玉を先にし、書紀には殊に玉及鏡と、鏡の上に及字をさへ置れたるは如何と云に、水垣朝〈◯崇神〉御代に至て、此御鏡劔をば他處に齋祭り給てより、天皇の御許に坐は神代の舊物には坐さず、たヾ玉のみぞ今大御神〈◯天照大神〉の授賜へるまヽの物にて坐故に、彼御代よりしては、三種の中に、玉を第一とぞせられけむ、然れば其御代より後は、常に玉を先に申しならひたる、其次
p.0054 第のまヽに、此記も書紀も記せるものにして、神代より然るには非ずなむ、今此に大御神の授賜ふ時を以云はヾ、鏡第一なることは更なり、次には劔、其次に玉なるべし、〈◯中略〉然はあれども天皇の大御許にしては、此玉のみぞ今に至るまで、大御神の授賜へりしまヽの物にましませば、傳持給ふ三種の御璽の中には、殊に貴き御寳なりけり、〈後世に神璽と申すは、此玉の御事なり、〉
p.0054 この三くさの御寳の次第を、人々の心々さま〳〵にあげつらひまつれど、實は大御神〈◯天照大神〉の大御心を、いかで凡夫の身のはかなきさとりもて推量りまつるべき、既に云如く、もとは三種共に、迩々藝命の皇御國をしらし給へるにつきて、大御神より傳へ授け給へる御璽にて、こは食國を保ち給ふに此神璽なくてはかなふまじき由の御言は、記〈◯古事記〉紀〈◯日本書紀〉共に見えずして、實は唯皇御孫命の天降ますにつきて、くさ〴〵の御品はいづれなるも天津神の作りましヽ物にて、又有難きくすしき御寳なれば、皇御孫をいつくしみおもほし給ふ御心より、五伴緒の神たちに添給ひて傳へ授け給へるなめれば、いづれを第一第二などきはやかなるけぢめはあらざるべし、されど強て試みに申まつらば、御玉御鏡御劔とも次第まつるべきか、然思ひとらるヽ由は、記紀共に句玉を第一に載たるか上に、記紀又共に岩屋戸の段に、御璁をば上枝につけられ、御鏡は中枝にとあるを思ひ合せて、上枝なる御玉を第一とし、中枝なる御鏡を第二とし、御劔は此二くさよりもやヽ後の物なる故に第三とはいへるなり、されどかくあげつらひまつるも、すべてうけばりていへるには非ず、後學猶考ふべし、
p.0054 爾天照大御神、高木神之命以、詔二太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命一、今平二訖葦原中國一之白、故隨二言依賜一、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白、僕者將二降裝束一之間子生出、名天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命、此子應レ降也、此御子者、御二合高木神之女萬幡豐秋津師比賣命一、生子、天火明命、次日子番能迩迩藝命〈二柱〉也、是以隨レ白之、科二詔日子番能迩迩藝命一、此豐葦
p.0055 原水穗國者、汝將レ知國言依賜、故隨レ命以可二天降一、〈◯中略〉爾天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命、并五伴緒矣、支加而天降也、於レ是副二賜其遠岐斯八尺句璁(○○○○)、鏡(○)、及草那藝劔(○○○○)亦常世思金神、手力男神、天石門別神一、而詔者、此之鏡者、專爲二我御魂一、而如レ拜二吾前一伊都岐奉、次思金神者、取二持前事一爲レ政、此二柱神者、拜二祭佐久久斯侶伊須受能宮一、〈自レ佐至レ能以レ音〉
◯按ズルニ、文ニ遠岐斯(ヲキシ)八尺句璁鏡ト云ヘリ、遠岐トハ招クコトニテ、此玉鏡ノ二物ハ、八百萬神ノ天照大御神ヲ天石屋ヨリ出シ奉ラントテ祷リシ幣物ナルヲイフ、
p.0055 一書曰、故天照大神乃賜二天津彦彦火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉(○○○○○)及八咫鏡草薙劔(○○○○○○)三種寳物一、又以二中臣上祖天兒屋命、忌部上祖太玉命、猿女上祖天鈿女命、鏡作上祖石凝姥命、玉作上祖玉屋命、凡五部神一使二配侍一焉、因勅二皇孫一曰、葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可レ王之地也、宜二爾皇孫就而治一焉、行矣、寶祚之隆、當下與二天壤一無上レ窮者矣、
p.0055 一書曰、是時天照大神手持二寶鏡(○○)一授二天忍穗耳尊一而祝レ之曰、吾兒視二此寳鏡一、當レ猶レ視レ吾、可下與同レ床共レ殿以爲中齋鏡上、
p.0055 天祖天照大神、高皇産靈尊乃相語曰、夫葦原瑞穗國者、吾子孫可レ王之地、皇孫就而治焉、寳祚之隆、當下與二天壤一無上レ窮矣、即以二八咫鏡(○○○)、及草薙劔(○○○)、二種神寳一、授二賜皇孫一永爲二天璽一、〈所レ謂神璽之劔鏡是也、〉矛玉(○)自從、
p.0055 大殿祭
高天原〈爾〉神留坐〈須〉皇親神魯企神魯美之命以〈氐〉、皇御孫之命〈乎〉天津高御座〈爾〉坐〈氐〉、天津璽〈乃〉劔鏡(○○)〈乎〉捧持賜〈天〉言壽宣〈志久、〉皇我宇都御子皇御孫之命、此〈乃〉天津高御座〈爾〉坐〈氐〉、天津日嗣〈乎〉萬千秋〈乃〉長秋〈爾〉、大八洲豐葦原瑞穗之國〈乎〉、安國〈止〉平〈氣久〉所知食〈止〉言寄奉賜〈比氐、◯下略〉
p.0055 また三種の神寶をさづけまします、〈◯中略〉この鏡のごとくに分明なるをもつて、天下に照臨したまへ、八坂瓊のひろがれるがごとく、曲妙をもつて天下をしろしめせ、神劔をひ
p.0056 きさげては順がはざるものをたいらげたまへと、勅まし〳〵けるとぞ、此國の神寶にして、皇統一種たヾしくましますこと、まことに是らの勅に見えたり、三種の神器世に傳ふこと、日月星の天にあるにおなじ、鏡は日の體なり、玉は月の精なり、劔は星の氣なり、ふかきならひあるべきにや、そも〳〵かの寳鏡は、さきにしるしはべる石凝姥命の作りたまへりし八咫の御鏡、玉は八坂瓊の曲玉、玉屋の命作りたまへるなり、劔は素戔烏乃尊の得たまひて、大神に奉られし藂雲の劔なり、この三種につきたる神勅は、まさしく國を手持ますべき道なるべし、鏡は一物をたくはへず、私のこヽろなくして、萬象を照すに是非善惡のすがたあらはれずといふことなし、そのすがたにしたがひて感應するを徳とす、これ正直の本源なり、玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり、劔は剛利決斷を徳とす、智惠の本源なり、この三徳を翕受ずしては、天下のをさまらんことまことにかたかるべし、神勅あきらかにして、詞つヾまやかにむねひろし、あまさへ神器にあらはしたまへり、いとかたじけなきことにや、中にも鏡を本とし、宗廟の正體とあふがれたまふ、鏡は明をかたちとせり、心性あきらかなれば慈悲決斷はその中にあり、またまさしく御影をうつしたまひしかば、ふかき御心をとヾめたまひけむかし、天にある物、日月よりあきらかなるはなし、よりて文字を制するにも、日月を明とすといへり、我神、大日の靈にましませば、明徳をもつて照臨したまふこと、陰陽におきてはかりがたし、冥顯につきてたのみあり、君も臣も神明の後胤をうけ、あるひはまさしく勅をうけし神達の苗裔なり、たれかこれをあふぎ奉らざるべき、この理をさとり、その道にたがはずば、内外典の學問もこヽにきはまるべきにこそ、されど此道のひろまるべきことは、内外典流布のちからなりといひつべし、魚をうることは網の一目によるなれど、衆目のちからなければこれを得ることのかたきがごとし、應神天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より釋教をさかりにしたまひし、これみな權化の神聖にましませば、天
p.0057 照大神の御こヽろをうけて、わが國の道をひろめふかくしたまふなるべし、
p.0057 逮二于神武天皇東征之年一、〈◯中略〉妖氣既晴、無二復風塵一、建二都橿原一、經二營帝宅一、〈◯中略〉天富命率二諸齋部一、捧二持天璽鏡劔(○○)一奉二安正殿一、並懸二瓊玉一、陳二其幣物一、殿祭祝詞、
p.0057 至二于磯城瑞垣朝一、〈◯崇神〉漸畏二神威一、同レ殿不レ安、故更令二齋部氏一、率二石凝姥神裔、天目一箇神裔二氏一、更鑄(○)レ鏡造(○○)レ劔(○)、以爲二護身御璽一、是今踐祚之日所レ獻、神璽之鏡劔也、仍就二於倭笠縫邑一、殊立二磯城神籬一、奉レ遷二天照大神及草薙劔一、令二皇女豐鍬入姫命奉一レ齋焉、
p.0057 五年、國内多二疾疫一、民有二死亡一者、且大半矣、 六年、百姓流離、或有二背叛一、其勢難二以レ徳治一レ之、是以晨興夕惕、請二罪神祇一、先レ是天照大神〈◯即寶鏡〉和大國魂二神、並祭二於天皇大殿之内一、然畏二其神勢一共住不レ安、故以二天照大神一託二豐鍬入姫命一祭二於倭笠縫邑一、仍立二磯城神籬一、亦以二日本大國魂神一、託二渟名城入姫命一祭、
◯按ズルニ、日本書紀ニ寳鏡遷座ノ文アリテ、寳劍遷座ノ文無シ、上ニ掲グル所ノ古語拾遺ニ據テ、鏡劍並ニ遷座セシヲ見ルベシ、
p.0057 即位六年、己丑の年、〈神武元年辛酉より、此己丑までは、六百廿九年、〉神代の鏡造り石凝姥の神の初子をめして、鏡をうつし鑄せしめ、天目一箇の神の初子をして劔をつくらしむ、大和の宇陀の郡にして此兩種をうつしあらためられき、護身の璽として同殿に安置す、神代よりの寳鏡、および靈劔をば皇女豐鍬入姫命につけて、大倭笠縫の邑といふところに神籬を建てあがめ奉らる、これより神宮皇居各別になれりき、
◯按ズルニ、崇神天皇ノ朝、造リタマフ所ノ鏡劍ハ、歴世傳ヘタマヘル神器ナリ、大倭ノ笠縫邑ニ遷シ祭リタマヒシハ、伊勢神宮ノ御正體ノ御鏡ト、熱田神宮ノ御正體ノ御劍トナリ
p.0057 齋部氏家牒
p.0058 御間城入彦天皇〈◯崇神〉御世、漸神威畏給而、天富貴命六世孫玉櫛命、〈小狹槌命子〉石凝姥命八世孫羸津足命、〈足月陰命子〉天目一箇命八世孫國振立命〈國振別命子〉勅、更鑄二八尺鏡一造二八束劔一爲二守身御璽一、是至レ今天津日嗣高座即之日、獻所神璽鏡劔是也、
◯按ズルニ、玉櫛命、國振立命ノ鏡劍ヲ作リシコト、他書ニ見エズ、姑ク録シテ異聞ヲ廣ム、
p.0058 内侍所御神樂事
内侍所者、神鏡也、本與二主上一御二同殿一、故院被レ仰云、帝王冠巾子左右有レ穴、是内侍所御同殿之時、主上夜不レ能二放レ冠給一、御眠之時、御冠屢落、仍以二挿頭華一、自二巾子穴一通二御髻一也、垂仁天皇世始御二別殿一、
p.0058 賢所
凡禁中作法、先二神事一後二他事一、旦暮敬神之叡慮無二懈怠一、白地以二神宮并内侍所方一不レ爲二御跡一、萬物隨二出來一、必先置二臺盤所棚一、召二女官一被レ奉、或如二内侍一參奉レ之、近代者、如二内侍一不レ候二内侍所一、上古多以二温明殿(○○○)一爲レ局、自二僧尼及憚人許一所レ進之物不レ奉レ之、源雖レ出二僧尼家一、男女進物奉レ之、所レ謂關白所レ進菓子、多興福寺別當所レ進也、然而不レ憚レ之、自二神代一爲下神鏡如二神宮一奉上レ仰、爲二伊勢御代官一被二留置一也、神事次第同二伊勢一、世始同殿御座之間、主上朝夕不レ放二御本鳥一、仍冠巾子融レ緒被レ結、御冠穴此故也、垂仁天皇御宇、始爲二別殿一、御二温明殿一、〈◯中略〉自二一條院御時一、十二月〈◯寛弘二年〉有二御神樂一、但多隔レ年行レ之、近代毎年有レ之、新所之時、或被レ行レ之、又有二臨時御神樂例一、壽永大亂之時、御二西海一經二三年一、還洛之時、有二三夜神樂一、是別例也、即位始供二神物四十合一、自二内藏寮一進レ之、毎月一日神供二十合也、自二臺盤所一紙二帖、内藏寮絹五匹、幣料串八筋、黒塗平紋也、又如二墨筆一自二納殿一進レ之、薄様同奉レ之、賢所習不レ押二齋文一、有二瑞相一鳴動光、堀川院御時、寛治八年頃度々有二此事一、〈天徳燒亡之時、又鳴云云、〉如二院御所行幸之時一、以下號二念誦堂一而薫二護摩烟一之所上爲二御在所一、雖レ有レ例甚不レ可レ然事也、是非二只謂一レ有二人夢想一、又其子細多也、天慶元年、依レ有二種々妖一、温明殿修理之間、奉レ渡二後涼殿一、于時暗雨滂沱如レ沃、女官祈申有二渡御一、左右近衞五位藏人供二奉之一、行幸之時如レ此、入御之時、主上下レ地御、辛櫃二合、又p.0059 五合、大刀契鈴印等也、即位最前供物、擇二吉日一之由有二舊説一、觸穢之時、恒例供神物先例不レ同歟、寛治八年陽明門院崩之時、無二沙汰一有二内侍所之御供物一、〈三月一日也〉去々年、内大臣穢及二禁中一時供レ之、今度諸社祭雖二延引一准二彼例一有二供物一、但又被レ止有レ例、可レ在二時議一事歟、賢所御衣、上古被レ奉、自二中古一絶、周防内侍曰、女御裝束也、但只以二夏生衣冬練絹一被レ奉也、〈從二位親子、私奉二美麗女裝束一也、〉
p.0059 夜御殿
御枕有二二階一、奉レ安二御劔神璽一、皆有レ覆、〈蘇芳也〉
p.0059 爲二温明殿女御一、〈◯清和女御源貞子〉奉レ賀二尚侍殿下六十算一、修徳願文、〈貞觀十三年十二月十六日◯願文略〉
◯按ズルニ、神器ヲ別殿ニ奉ゼシハ、何ノ世ニ在リシカヲ審ニセズ、江家次第、禁秘御抄等ノ諸書ニハ、垂仁天皇ノ時ト爲シ、本朝事始〈禁秘御抄階梯所レ引〉ニハ、崇神天皇ノ時ト爲セドモ、並ニ確實ナラザルガ如シ、其説ニ温明殿ニ御スト云フヲ視テモ、其後ニ在ルヲ知ルベシ、カヽル名稱ノ當時ニ在ルベクモアラネバナリ、温明ノ字面ハ、漢書霍光傳ニ見エテ、光薨、上〈◯宣帝〉及皇太后、親臨二光喪一、賜二金錢繒絮東園温明一ト云ヒ、服虔ノ注ニ、東園處二此器一、形如二方漆桶一、開二一面一漆畫レ之、以レ鏡置二其中一、以懸二屍上一大歛并蓋レ之ト云ヒ、顏師古ノ註ニ、東園署名也、屬二少府一、其署主作二此器一也ト云ヘルガ如シ、七修續稿ニハ之ガ説ヲ爲シテ云ク、世之古鏡、多出二北方古墓一、人知而寳レ之、未レ知二墓出一故也、按、漢書霍光傳、光之喪賜二東園温明一、服虔註、以二東園一出レ鏡之所、予恐温明鏡名也ト、殿ヲ温明ト名ヅクルハ、蓋シ鏡ノ名ニ由レルナラン、而シテ崇神垂仁ノ朝ニ此名ナキヤ必セリ、
p.0059 内侍所は、むかしは清涼殿にさだめおかせまゐらせられけるを、おのづからぶれいのこともあらばそのおそれ有べしとて、温明殿にうつされにけり、此事いづれの御時のことにかおぼつかなし、かの殿、清涼殿よりさがりたる便なしとて、内侍所にさだめられたる方をば、板敷をたかくしきあげられたりけるとぞ、
p.0060 内侍所御供 一日〈◯正月〉
是は毎月に供せらるヽ也、寛平年中に始らる、此内侍所と申は、三種の神器の其一也、千早振神代の事にや、天照大神の天の磐戸をさし籠給ける時、石こりどめと申神の爲レ移給日神の御かたちの鏡也、是を八咫の鏡となづく、其後地神第三代天津彦彦火瓊瓊杵尊の、あし原の國の主と成給てくだり給し時、天照大神みづから三種の神寳をさづけ給とて、此鏡をば我を見るがごとくせよとの給し也、代々の御門、傳て寳物とし給しに、人皇第十代崇神天皇の御時、此御鏡をいかへられて、神代より傳りし御鏡をば、伊勢國五十鈴川の上にあがめ申さる、是則今の伊勢皇大神宮也、さて彼新造の御鏡をば、皇居に置申さる、垂仁天皇の御宇には、漸神威を恐させ給て、別座に安置申さる、温明殿是也、村上の天皇の御宇、天徳の燒亡の時は、此御鏡灰の中に有て、更に燒損ずる事なかりし由御記にのせられたり、有説に神鏡南殿の櫻木に飛かヽりて有しを、小野宮の關白〈◯藤原實頼〉の袖に移し申され侍しといふ説も侍れど、猶村上の御記をぞ實説とは申べからん、壽永のみだれに、二位の尼〈◯平清盛妻、時子、〉先帝〈◯安徳〉を懷奉りて、わたつみのもくづとなりし時も、此鏡はことゆゑなく都へかへり參けるぞかし、今に至まで神宮と等しくあがめ申されて、あからさまにも、主上は、神宮内侍所のかたをば御跡にはせられ侍らぬ事也、また内殿に御座有し時は、主上御もとどりをはなたれぬ事にて、御冠にあなをあけ、糸をとほしてゆはれけるにや、主上の御冠に必穴をあくるはこの故也、今は内侍所にあがめ申されて、女官守護をいたす、白川院被レ仰けるは、内侍所の神鏡とび出て、天にあがらんとし給しを、女官の衣の袖にかけて留申けるよりして、女官は守護し申事に成たるとなん、かの一日の御供は毎月の事也、御即位の時はとり分て供せらるる事あり、それは吉日をえらばる、是はたヾ毎月の事なれば、日次の善惡にはよらず、内裏觸穢の時も猶供せらるヽ例あり、またとヾめらるヽ事も侍るなり、
p.0061 内侍所御事
内侍所をば、御誓の御詞に任せて、あるじと同殿におはしましけり、崇神天皇御位の時、恐れをなし奉らせ給ひて、別の殿にうつしたてまつりにけり、宇多の帝の御時より(○○○○○○○○○)、温明殿にいらせ給へりけり(○○○○○○○○○○○○)、
p.0061 天皇遷御事
若御二綾綺殿一、以二清涼殿一爲二内侍所一、移二納齋鏡等一、天慶例也、
p.0061 天慶元年七月十三日、地震、内侍所遷二清涼殿一、〈◯本朝世紀、作二後涼殿一、〉貴所等同遷、
p.0061 天慶元年七月十三日戊午、〈◯中略〉中納言藤原實頼卿、參議源是茂朝臣聽レ政、戌二刻、内侍司(○○○)避二温明殿一遷二後涼殿一、〈今年自二春初一妖言不レ絶、災異多端、就レ中四月十五日、大地震動、損害無レ極、其後洪水泛溢、成レ害尤多、毎レ有二卜筮一奉二爲主上一有下可二愼給一之告上仍隨二陰陽家等申一、以二來八月一避二常寧殿一、可レ移二御綾綺殿一、爰所司件綾綺温明兩殿可レ加二修理一、女官移徙蓋爲レ此也、〉齋辛櫃二合、〈件辛櫃自二往古時一號二神明一、在二内侍司一、相傳云、伊勢大神分身也、觸レ事毎二祈祷一靈驗奇異云々、今日自二彼所一供二奉移一、是舊貫也、左右駕輿丁相舁、〉又細櫃等五合、〈大刀契櫃在二此中一、内豎相二舁件辛櫃等一、出レ從二温明殿一欲二運移一間、雨脚如レ注、往還難レ通、仍令二女官一於二齋辛櫃前一、祈二祷雨可レ止之由一、于時祈祷有レ感、雨脚暫留、移畢之後、更又雷電雨降如レ初、又欲レ遷二件神明一之由、擇二女官堪レ事者一人一、令二祈祷一有レ感、藏人仰二内藏寮一、令レ進二五色幣、并祭物料壹貫文一也、〉左近衞將監宇治當用、右近衞將監藏垣秋實各率二近衞兩三人一副レ之、掌侍藤原朝臣灌子、女史壹志宿禰篤子等率二女官等一相二從之一、主殿寮官人秉レ燭在二前後一、〈前二人、後二人、〉後涼殿之馬道西、有二納殿二所一、〈南北〉件等辛櫃納二於北納殿一、
p.0061 貞元元年八月四日戊戌、内侍所(○○○)自二縫殿寮一奉レ渡二堀川院一、内侍一人、左右近將監番長各一人、近衞六人相從、又女孺捧二五色御幣一歩二行御前一、
p.0061 寛弘二年十二月九日癸未、左頭中將來、乍レ立云、今日酉刻、神鏡(○○)自二太政官一奉レ移二東三條院一、可レ供二奉其事一者、前例少將奉仕之由奏聞、仰云、中將供奉何事之有也者、仍可二供奉一者、〈◯中略〉頭中將歸宿、示送云、奉レ移二神鏡一之由、勅使可レ帶二弓箭一乎否者、答云、可レ帶二弓箭一歟、 十日甲申、頭中將示送云、神鏡昨奉レ移、但開二舊御韓櫃一、爲レ奉レ納二新辛櫃一之間、忽然有下如二日光一照耀上、内侍女官等同見、神驗猶新、最是足二恐驚一者、〈◯十日、法〉
p.0062 〈成寺攝政記、及權記作二九日一、〉
p.0062 弘安六年正月六日辛酉、卯刻許、日吉神輿、〈十禪師、八王子、客人宮、〉并祇園、京極寺、赤山等、奉レ振二内裏一、門々守護武士、全分無レ人、仍任レ意奉レ振、〈◯中略〉宮仕法師己下雜人數十人、作レ杖打二破四足門一、濫二入常御所臺盤所等一、雜人馳入、推二下御服御物等一、所々妻戸障子切レ之、南殿御簾引二落之一、狼籍之體超二過先例一、絶二常篇一歟、主上〈◯後宇多〉行二幸別殿一、日出之程、殿下〈◯藤原兼平〉己下月卿雲客馳參、〈◯中略〉主上駕二腰輿一、〈御引直衣、御袴、〉三條宰相中將、〈公貫卿〉役(○)二劔璽(○○)一供奉(○○)、〈◯中略〉賢所渡御(○○○○)敷二筵道一、〈◯中略〉於二近衞殿一〈◯藤原家基〉要輿寄二南階一下御云云、
p.0062 賢所(カシコドコロ)〈春興殿本號也(○○○○○○)、又内侍所、〉
p.0062 嘉吉元年四月二日戊辰、後聞、今夜風雨之時分、盜人參二昇内侍所一〈春興殿也(○○○○)〉神前取二御鈴一、〈付二御辛櫃一御鈴事歟、◯下略〉
p.0062 後土御門院崩御之時、内侍所依レ無二他御所一〈儲君御所〉無二渡御之儀一、仍彼爲レ隔畢、以二伯卿之議一、南殿與二春興殿(○○○)一間、立レ柱結二付竹一張二注連一畢、
p.0062 永正十七年七月三十日、傳聞、從二今日一内侍所御殿上、檜皮風損御修理也、仍有二遷座一云云、巨細在二御歸座之日記一、 八月八日、春興殿(○○○)御修理了、有二歸座一云々、先例御殿之上御修理之時、如レ奉レ移二別殿一云々、雖レ然公人下行等、當時不二事行一之上、不レ苦之由各有二議定一、仍奉レ寄二移同間之傍一云々、御神體御辛櫃、刀自一人、得選〈謂二博士一〉一人奉レ舁レ之、
p.0062 天文十年八月五日、麻生兵部大輔方より、書状〈三月七日日付也〉今日到來、彼御修理料事、令二運送一候、可二預取合一候由被レ申之也、取次富森左京亮也、 八月十七日、麻生兵部大輔より、内侍所御修理料(○○○○○○○)三万疋〈金十兩〉進二上之一、一段御かんあるべきよし、自二禁裏一御申間、御供衆に被レ加レ召之由事、
p.0062 内侍所、今の御殿は假殿なり、〈◯中略〉中古神威を恐れ覺しめして、内侍所を温明殿に被レ移たり、大内裏すたれて後は、温明殿も無レ之候間、今のは假殿にて温明殿の代なり、
p.0063 寛保二年二月廿八日
清涼殿ヨリ内侍所之ロウカノ御道筋莚道ノ上ニ布毯引 内侍所ノ方下マヘナリ
布毯アヤ地花ワチガヒ表紅御紋花ワチガヒ白ノカタモンウキ紋ニアラズ
コマイヌ フタン 清涼殿 上マヘ 布毯 布タン 布タン 下マヘ 此カイノ下ニ入ル 南 キリ戸 下ニ道 西向 フタン 御庭 土間 ダン トウロ 内侍所 ロウカ 神前 ロウカ 小御所p.0063 【図】
p.0064 内侍所 クモハシ
p.0064 【図】
p.0065 内侍所内之圗
落椽 唐戸 中シキイセウジ 両面ヤリ戸猿頰セウジ 同 侍所南座敷取合 ヤリ戸 両面ヤリ戸猿頰セウジ 上段間 廿二帖半 両面ヤリ戸猿頰セウジ 中シキイセウジ 羽目 両面ヤリ戸 内陣拭板敷 落椽 唐戸 御羽車置 戸ニ 同 内室 雲楹 戸 廊下 中シキイ戸ニセウジp.0065 【図】
p.0066 凡踐祚之日、〈謂天皇即レ位謂二之踐祚一、祚位也、福也、〉中臣奏二天神之壽詞一、〈謂以二神代之古事一、爲二萬壽之寳詞一也、〉忌部上二神璽之鏡劔一、〈謂璽信也、猶レ云二神明之徴信一、此即以二鏡劔一稱レ璽、〉
◯按ズルニ、伊勢貞丈ノ神璽考ニハ、本文ニ據リテ、上代ノ神器ハ、鏡劍ノ二種ナリト爲シタレド、今採ラズ、
p.0066 至二于磯城瑞垣朝一、〈◯崇神〉漸畏二神威一、〈◯謂二三神器一〉同レ殿不レ安、故更令二齋部氏一、率二石凝姥神裔、天目一箇神裔二氏一、更鑄レ鏡造レ劔、以爲二護身御璽一、是今踐祚之日所レ獻、神璽之鏡劔也、
p.0066 讓國儀
今帝下レ自二南階一、去レ階一許丈、拜舞訖歩行歸レ列、内侍持二節劔(○○)一追從、所司供二奉御輿一、皇帝辭而不レ駕、衞陣警蹕、少納言一人率二大舍人等一、持二傳國璽櫃(○○○○)一追從、次少納言一人率二大舍人、闈司等一、持二鈴印鑰(○○○)等一進二於今上御所一、次近衞少將率二近衞等一、持二供御雜器一進二同所一、訖今上御二春宮坊一、諸衞警蹕、侍衞如レ常、
◯按ズルニ、節劍ハ即チ寳劍ナリ、江家次第等ノ諸書ヲ考フベシ、傳國璽トハ、大刀契ヲ云フ、下ノ小右記ニ見エタリ、
p.0066 御讓位
内侍二人、執二神璽寳劔一候、〈◯中略〉内侍等以二神璽等一相二從新帝一就二御在所一奉レ置、〈◯中略〉少納言、〈二人〉大舍人、持二傳國璽櫃一追從、少納言、大舍人、闈司持二鈴印一、進二今上御在所一、
p.0066 五年正月、瑞齒別天皇崩、〈◯反正〉爰群卿議之曰、方今大鷦鷯天皇〈◯仁徳〉之子、雄朝津間稚子宿禰皇子〈◯允恭〉與二大草香皇子一、然雄朝津間稚子宿禰皇子長之仁孝、即選二吉日一跪上二天皇之璽(○○○○)一、元年十有二月、〈◯中略〉爰大中姫命〈◯允恭后〉仰歡則謂二群卿一曰、皇子將レ聽二群臣之請一、今當レ上二天皇璽符一、於レ是群臣大喜、即日捧二天皇之璽符(○○○○○)一再拜上焉、皇子曰、群卿共爲二天下一請二寡人一、寡人何敢遂辭、乃即二帝位一、
p.0066 元年二月甲午、大伴金村大連乃跪上二天子鏡劔璽符(○○○○○○)一再拜、
p.0067 勾大兄廣國押武金日天皇〈◯安閑〉崩無レ嗣、群臣奏二上鏡劔(○○)於武小廣國押盾尊一、〈◯宣化〉使レ即二天皇之位一焉、
p.0067 當二于泊瀬部天皇〈◯崇峻〉五年十一月一、天皇爲二大臣馬子宿禰一見レ殺、嗣位既空、群臣請二渟中倉太珠敷天皇〈◯敏達〉之皇后額田部皇女一、〈◯推古〉以將レ令二踐祚一、皇后辭讓之、百寮上レ表勸進、至二于三一乃從レ之、因以奉二天皇璽印(○○○○)一、
p.0067 元年正月丙午、大臣及群卿、共以二天皇之璽印(○○○○○)一獻二於田村皇子一、〈◯舒明〉
p.0067 天豐財重日足姫天皇〈◯皇極〉授二璽綬(○○)一、禪二位於輕皇子一、〈◯孝徳〉
p.0067 大同元年三月辛巳、天皇崩二於正寢一、春秋七十、皇太子哀號擗踊、迷而不レ起、參議從三位近衞中將坂上大宿禰田村麻呂、春宮大夫從三位藤原朝臣葛野麻呂、固請扶下レ殿、而遷二於東廂一、次璽并劔櫃、
p.0067 嘉祥三年三月己亥、帝崩二於清涼殿一、〈◯中略〉參議從四位上左兵衞督藤原朝臣助率二左右近衞少將將曹等一、賚二天子神璽寳劔符節鈴印(○○○○○○○○○○)等一、奉二於皇太子〈◯文徳〉直曹一、
p.0067 嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩二於清涼殿一、于時皇太子〈◯文徳〉下レ殿御二宜陽殿東庭倚廬一、左右大臣率二諸卿及少納言左右近衞少將等一、獻二天子神璽寳劔符節鈴印(○○○○○○○○○○)等一、
p.0067 天安二年八月乙卯、帝崩二新〈◯新下文作レ親〉成殿一〈◯中略〉大納言安倍朝臣安仁率二少納言近衞少將主鈴等一、令レ賚二璽印(○○)櫃等一、奉二入直曹一、
p.0067 天安二年八月廿七日乙卯、文徳天皇崩二於冷泉院親成殿一、〈◯中略〉大納言正三位兼行右近衞大將民部卿陸奧出羽按察使安倍朝臣安仁、率二從五位上守左近衞少將兼行備前權介坂上大宿禰當道、從五位上守右近衞少將兼行伊勢權介藤原朝臣有貞、將監以下一、奉二天子神璽(○○)、寳劔(○○)、節符(○○)、鈴印(○○)等、於皇太子〈◯清和〉直曹一、
p.0068 元慶八年二月四日乙未、天皇出レ自二綾綺殿一遷二幸二條院一、〈◯中略〉文武百官供奉如レ常、但少納言不レ奏二給レ鈴之状一、諸衞不レ稱二警蹕一、神璽寶劔鏡(○○○○○)等依レ例相從、驛鈴傳符内印管鑰等、留二置承明門内東廓一、〈◯中略〉會二文武百官於院南門一、詔曰、現神〈止〉大八洲御宇日本根子天皇〈加〉御命〈良萬止〉宣御命〈乎〉、親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給〈止〉宣、食國〈乃〉政〈乎〉末遠聞食〈倍喜乎〉、御病時々發〈己止〉有〈天〉、萬機滯〈己止〉久成〈奴〉、天神地祇之祭〈乎毛〉怠〈己止〉有〈奈牟加止〉危〈美〉畏〈利〉念〈保之天〉、天皇位〈乎〉讓遜給〈天〉、別宮〈爾〉遷御坐〈奴止〉宣御命〈乎〉、親王等大臣等聞給〈部〉、承レ詔〈天〉恐〈美〉畏〈母〉國典〈爾〉准〈天〉、太上天皇之尊號〈乎〉進〈留〉、又皇位〈波〉一日〈母〉不レ可レ曠、一品行式部卿親王〈波、◯光孝〉諸親王中〈爾〉貫首〈爾毛〉御坐、又前代〈爾〉無二太子一時〈爾波〉、如レ此老徳〈乎〉立奉之例在、加以御齡〈母〉長給〈比〉、御心〈母〉正直〈久〉慈厚〈久〉愼深御坐〈天〉、四朝〈爾〉佐仕給〈天〉政道〈乎母〉熟給〈利〉、百官人天下公民〈末天爾〉謳歌所レ歸、咸無二異望一、故是以天皇璽綬(○○○○)〈乎〉奉〈天〉、天日繼位定奉〈良久乎〉、親王等王等百官人天下公民衆聞給〈部止〉宣、中納言在原朝臣行平於レ庭誥レ之、百辟群寮並立侍焉、事畢王公以下拜舞而退、於レ是以二神璽寶劔鏡(○○○○○)等一付二於王公一、即日親王公卿歩行、奉二天子神璽寶劔鏡(○○○○○○○)等今皇帝〈◯光孝〉於東二條宮一、
p.0068 仁和三年八月廿六日踐祚、〈新主宣耀殿、舊主仁壽殿、〉上卿太政大臣藤原朝臣、〈基經〉劔璽使公卿、及少納言左右近衞少將將監以下主鈴等、令レ賚二天子神璽寶劔符節鈴印(○○○○○○○○○○)等一、奉二於皇太子〈◯宇多〉直曹一、〈◯又見二皇年代略記一、〉
p.0068 延長八年九月廿二日壬午、天皇逃レ位讓二於皇太子寛明親王一、〈◯朱雀〉詔曰、左大臣藤原朝臣〈◯忠平〉保二輔幼主一攝二行政事一、内侍執二劔璽(○○)一參二宣耀殿一、
p.0068 康保四年五月廿五日癸丑、巳時天皇〈◯村上〉崩二於清涼殿一、〈年四十二〉子刻奉二璽劔(○○)於皇太子〈◯冷泉〉直曹襲芳舍一、
p.0068 寛和二年六月廿三日庚申、今曉丑刻許、天皇密々出二禁中一、向二東山花山寺一落飾、子時藏人左少辨藤原道兼奉レ從レ之、先二于天皇一密奉二劔璽(○○)於東宮一、〈◯又見二榮花物語、百練抄等諸書一〉
p.0069 寛和二年六月廿二日庚申、夜半天皇生年十九、出二鳳闕宮一、向二花山寺一落飾入道、法號入覺、藏人左少辨藤原道兼、僧嚴久二人陪從出二縫殿陣一參二元慶寺一、即時令下左近少將藤原道綱持二神璽寶劔(○○○○)一、獻中東宮〈◯一條〉御在所凝華舍上、件三人外、他人不二敢知一レ之、禁省事秘故也、
p.0069 嘉承二年七月十九日、攝政殿〈◯藤原忠實〉出二殿上一示二給諸卿一云、欲レ有二御讓位一俄以晏駕、〈◯堀河〉於レ今者、神璽寶劔(○○○○)可レ奉二東宮〈◯鳥羽〉御所一者、諸卿從レ之、攝政殿令レ候二晝御座御帳北邊一給、密々命二内大臣一、〈◯源雅實〉令レ置二璽劔於御帳内一、〈◯中略〉殿下褰二御帳帷一、兩少將取二劔璽(○○)一、從二簀子敷一南行、下レ從二中殿南階一、殿下相從〈劔取笏捨也、諸司敷二筵道一、〉於二中門下一諸衞諸卿從之、〈◯中略〉入レ從二東宮御所西門一云々、〈其路敷二筵道一、毎レ辻引レ㡢、〉于時儲皇〈◯鳥羽〉御二大炊御門東洞院亭一、〈本以二寢殿一爲二御所一、以二西對一代レ廊、爲二殿上一也、西門出入、内々陰陽師所レ申也、〉兩次將置二劔璽(○○)於御所本宮一、大夫權大納言公實卿、辨權大夫雅俊卿共褰二御簾一、入二之鈴印唐櫃一、少納言時俊令レ持レ之參入、又晝御座大床二脚、其上御厨子二脚、師子形二、殿上御倚子、時簡、御膳棚、御笏被レ渡、又諸司腋陣床子、陣座疊、并時杭、右近陣腰輿、諸陣諸司南殿版位、各本司者被二相渡一歟、
p.0069 建久九年正月九日丁未、天皇〈◯後鳥羽〉遷二幸大炊殿一、内侍所同渡御(○○○○○○)、 十一日己酉、讓二位於第一皇子一、〈◯土御門、中略、〉先レ是渡二御閑院一、戌時被レ渡二劔璽一、〈◯中略〉璽劔渡御之間、見物車濟濟焉、無二先規一事歟、
p.0069 廢帝、諱は懷成、順徳の太子、〈◯中略〉承久三年春の比より、上皇〈◯後鳥羽〉おぼしめしたつ事ありければ、俄に讓國し給ふ、順徳御身をかろめて、合戰の事をも一つ御心にせさせ給はん御はかりごとにや、新主に讓位ありしかど、即位登壇までもなくて軍破れしかば、外舅攝政道家の大臣の九條の第へのがれさせ給ふ、三種の神器(○○○○○)をば、閑院の内裏に捨置かれにき、
p.0069 承久三年四月廿日、受禪、七月九日、廢レ之、〈神璽鏡劔(○○○○)棄二置閑院一、密令レ退二九條第一給、未二即位一、〉
p.0069 仁治三年正月廿日、踐祚、〈◯中略〉召二攝政庇車一渡二御冷泉亭一、〈權大納言隆親卿家〉諸卿群二參大行皇帝〈◯四條〉御在所一、〈閑院、〉率二三種寶物(○○○○)一被レ參二新帝御所一、
p.0070 寛元四年正月廿九日己未、讓位〈◯後嵯峨〉也、〈◯中略〉被レ渡二劔璽一、累代之御物己下、悉被レ渡レ之、
p.0070 南帝受禪事
十月三日、〈◯延元四年〉大神宮ヘ奉幣使ヲ下サレ、第七ノ宮〈◯後村上〉天子ノ位ニ即セ給フ、〈◯中略〉洛外山中〈◯吉野〉ノ皇居ノ事、可二周備一ニアラザレバ、如レ形三種神器ヲ拜セラレタル計ニテ、新帝位ニ即セ給フ、
p.0070 踐祚大甞祭儀
辰日、〈◯中略〉神祇官中臣、〈◯中略〉跪奏二天神之壽詞一、忌部奉二神璽之鏡劔(○○)一共退出、
p.0070 大甞會
神祇官中臣捧二賢木一、〈◯中略〉跪奏二天神之壽詞一、〈◯中略〉忌部奉二神璽鏡劔(○○○○)一共退出、〈群臣起、寛平式云、天長以來此事停止(○○○○○○○○)、清凉抄云、近代不レ給二此神璽一、只奏二其詞一者、而寛平以後記文、忌部總不二參入一、天慶記云、頼基中云、件鏡劔、自二御所一暫下給奉レ之、而天長或奏輒給二重物一、非レ無二事危一者、其後忌部雖レ申不レ給、〉
p.0070 大甞會
神祇官中臣捧二賢木一、〈◯中略〉奏二天神壽詞一、〈群臣共跪〉忌部奉二神璽鏡劔(○○○○)一共退出、〈群臣起〉近代無(○○○)二此事(○○)一、〈長元、忌部爲賀奉仕之、〉
◯按ズルニ、大甞會ハ、踐祚即位ト關聯スルモノニテ、上代ニハ劍璽ノミナラズ、神鏡ヲモ奉リシコト、此等ノ文ニヨリテ知ルベシ、
p.0070 他所御所〈江〉有二行幸一時、賢所渡御間、必有二警固一、或年始行幸、無二警固一事有レ之、白地時、賢所不二渡御一十ケ日許、無二其難一歟、宗忠公記、爲房卿記、於二一旬之中一者、有二何事一哉之由、註レ之、
p.0070 壽永二年七月廿二日、源氏軍兵己著二坂本一、相二率大衆一登山云々、上皇〈◯後白河〉召二諸卿一有二議定一、〈◯中略〉賢所渡(○○○)二御城外(○○○)一無(○)二先例(○○)一、可レ憚哉、〈◯中略〉福原行幸之外無(○○○○○○○)二賢所城外之例(○○○○○○)一、或云、賢所於二今度一者可レ奉レ具、雖レ無レ例各別有一其恐一、或云、猶可レ被レ渡二温明殿一、 廿四日、天皇俄行二幸法住寺殿一、〈上皇御所〉内侍所同渡御(○○○○○○)、 廿五日、平家黨類前内大臣〈◯平宗盛〉己下率二一族一出二奔西國一、天皇建禮門院同奉二相具一、内侍所神鏡、神璽、寶劔、時簡、上御倚子、玄上、鈴鹿、皆以相具、〈◯下略〉
p.0071 元暦元年七月五日辛卯、今夜自二閑院一遷二幸大内一、〈◯中略〉内侍所渡御(○○○○○)、〈内侍所自二西海一未二還御一、只御辛櫃許也、用二如在例一、〉無二左將一、右少將忠季〈初度雖レ可二供奉一、陣依二闕如一勤レ之、〉藏人宮内權少輔親經供奉、無(○)二劔璽(○○)一行幸我朝始也(○○○○○○)、可レ悲々々、〈◯又見二玉海一〉
p.0071 文治三年六月十二日壬午、此日御方違行幸也、法皇〈◯後白河〉御二參籠今熊野一之間、大炊御門亭無二指合事一、仍有レ行二幸于彼亭一、明後日〈十四日〉依二御靈會一可下避二閑院一給上、賢所同可レ有二渡御一、仍白川押小路殿爲二京外一之間、〈内侍所不レ御二京外一例也〉無二臨幸一者也、〈◯中略〉今日内侍所供奉、〈少將信清、五位藏人宗隆、〉依二内侍所渡御一、今日無二留守一、但女房少々留候、仍藏人瀧口、并大番武士等令レ守二護之一、
p.0071 文永元年六月六日己酉、爲レ被レ避二祇園神輿路一、行二幸一院〈◯後嵯峨〉御所一、〈萬里小路殿〉至二十四日一可レ爲二御所一者、賢所不(○○○)二渡御(○○)一、行(○)二幸仙洞(○○○)一例也(○○)、
p.0071 此度の行幸〈◯應永十五年〉には、かしこ所をばぐし申されず(○○○○○○○○○○○○)、都の外には(○○○○○)、渡らせ給はぬ事にてあるとかや(○○○○○○○○○○○○○○)、さりながら、もし御逗留の日數も久しくなり侍らば、さのみ御留守におき申されん事もいかヾとおぼしたり、
p.0071 行幸
時刻御二南殿一、〈◯中略〉上臈次將開二輦戸一、〈置二璽筥一、後閇レ之、〉自餘臥レ弓跪候、内侍置二御劔(○○)於輦中御前一、〈右レ頭外レ刄、舊例後置レ之云々、〉即御レ輿、大將發二警蹕聲一、次璽筥(○○)傳二授初人一、令レ置二左邊一、
p.0071 凡大朝會、則奉レ寶以進二于御座一、車駕行幸、則奉レ寶以從二于黄鉞之内一、
p.0071 延長五年丁亥二月十四日、行二幸六條院一、〈◯宇多〉巳四刻上二御輿一、〈◯中略〉右中辨英明朝臣執レ劔、左少辨希世執二璽筥一、
p.0071 永暦元年十二月廿七日辛未、今夜行二幸大内一、元三間可レ御之故也、戌刻出御、〈◯中略〉御輿寄二南階一、予開二輦戸一置二御劔一、次乘御、次入二璽筥一閇二輦戸一出御、
p.0071 承元四年十二月十日甲子、今日爲レ被レ立二伊勢幣一、行二幸神祇官一如レ法、〈◯中略〉忠信
p.0072 卿昇レ階跪二南簀子一、置レ弓刷二下重一、更立進來開二輦戸一、經二筵道西一昇二長押一、更東行取レ劔、經二本路一入二御輿一、
p.0072 永享九年十月廿一日、今日依二御方違一行二幸室町亭一、數日御逗留、可レ有二種々御興遊一云云、〈◯中略〉酉刻出御、其儀等如レ例云々、〈◯中略〉寄二鳳輦於南階一、徳大寺宰相中將〈公有朝臣奏慶〉役二劔璽一、〈◯下略〉
p.0072 一條院御時、永延比、相撲㧞出日、還御之時、左大臣雅信候二御劔(○○)一、右大臣爲光候二御筥一〈◯神璽〉云々、前頭中將實資朝臣云、内宴及臨時事、乘輿之時、大臣大將、持二候御劔一有二其例一、不レ兼二大將一之大臣、候二御劔一之事無レ例歟云々、攝政同有二許諾之氣一云々、寛弘七年十月廿二日、還二御本殿一之時、諸卿候二御供一、左大將公季内大臣、〈◯内大臣三字一本無〉候二御劔一前行云云、
p.0072 天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥三刻、内裏燒亡、〈◯中略〉 廿四日辛酉、昨夜鏡三、〈和名加之古止古呂〉并大刀契不レ能二取出一、今日依レ勅令レ捜二求餘燼之上一、已得二其實一、但調度燒損、其眞猶存、形質不レ變、甚爲二神異一、召二大藏省韓櫃一令レ奉レ納之、 十月三日己巳、縫殿大允藤文紀參申云、去月廿四日、依二宣旨一御二座内裏一賢所三所、奉レ遷二縫殿寮一之間、内記奉レ納二威所三所一、一所鏡、件鏡雖レ在二猛火上一、而不二涌損一、即云、伊勢御神云云、一所、眞形無二破損一、長六寸許、一所鏡己涌亂破損、紀伊國御神云云、〈◯中略〉左近少將源伊陟、將監藤原佐理、左近少將藤原助信、將監源時中、藏人主殿助藤原爲光、出納雀部有方、女官等同以祗候云云、〈◯又見二扶桑略記一〉
p.0072 内侍所御神樂事
故院被レ仰云、内侍所神鏡、昔飛上欲レ上レ天女官懸二唐衣一奉二引留一、是依二此縁一女官所レ奉二守護一也、天徳燒亡、飛出著二南殿前櫻一、小野宮大臣〈◯藤原實頼〉稱レ警、神鏡下入二其袖一、
p.0072 天徳四年九月御記曰、天徳四年九月二十四日、鑿二求温明殿所レ納之神靈鏡、并大刀契等一、申時重光朝臣來申云、瓦上有二鏡一面一、其鏡徑八寸許、頭雖レ有二小瑕一專無レ損、圓規并蔕等甚分明、見レ之者無レ不二驚感一、廿五日、又求二得燒損鏡一面一、外記記曰、威所三所、一所齋鏡、〈件御鏡、雖レ在二猛火上一、而不二偏損一即云、伊勢御神、〉一所魚
p.0073 形、〈無二破損一、長六寸許、◯魚形、扶桑略記作二眞形一、〉一所鏡、〈已涌訖破損、紀伊國御神云々、〉
p.0073 天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて、内侍所もやけにしが、神鏡は灰の中より出し奉る、圓規損ずる事なくして分明にあらはれ出給へり、みたてまつる人、驚感せずといふ事なしとぞ御記にみえ侍る、此時に神鏡の、南殿の櫻にかヽらせ給ひけるを、小野宮實頼の大臣、袖にうけられたりと申事あれど、ひが事をなん云傳へ侍るなる、
p.0073 天徳内裏燒亡に、神鏡みづからとびいで給ひて、南殿の櫻の木にかヽらせ給ひたりけるを、小野宮殿ひざまづきて、御目をふさぎて、警蹕をたかくとなへて、御うへのきぬの袖をひろげて、うけまゐらせられければ、すなはちとびかへりて、御袖にいらせ給たりと申つたへて侍り、されども此事おぼつかなし、其日の御記に云、天徳四年九月廿四日、申の刻重光朝臣來申云、火氣頗消罷、至二温明殿一求レ之、瓦上に有二鏡面一、其徑八寸、頭雖レ有二一瑕一、圓規甚以分明、露出俯二破瓦上一、見レ之者無レ不二驚感一、御記かくのごとし、小野宮殿の事みえず、おぼつかなき事なり、
p.0073 寛弘二年十一月十五日己未、子時宮中火、殿上皆燒亡、〈◯中略〉神鏡同燒損、 十六日庚申、左近少將重尹奉二宣旨一、奉レ求二賢所一之間、灰中神鏡二面奉レ求二出之一、又燒亡穢中、神事各可レ停二止之一、 十八日壬戌、左大臣〈◯藤原道長〉仰二外記一云、神鏡燒損、可レ被二鑄改一歟、將乍レ燒可レ奉二安置一歟、仰二諸道一可レ令二勘申一者、
p.0073 寛弘二年十一月十五日己未、子刻許、隨身番長若倭部高範自先第一來云、内裏燒亡者、乍レ驚馳參、左大臣〈◯藤原道長〉帥〈◯藤原伊周〉相二逢郁芳門内一、相共參入、此間火勢太猛、下人云、主上〈◯一條〉御二神嘉殿一者、仍參著、中宮同御座、〈◯中略〉人々云、火起レ自二温明殿一、神鏡〈所レ謂恐所〉大刀、并啓〈◯啓恐契借字〉不レ能二取出一、〈◯中略〉少選幸二式御曹司一、〈◯式曹司ハ職曹司ナリ、〉而破壞殊甚、不レ可レ然二御所一、仍又幸二官朝所一、左大臣招レ余〈◯藤原實資〉云、將一人差二遣火所一、可レ令レ守二護恐所(○○)一者、余答云、將更不レ可レ仰、只可レ被レ召二仰左右少將一、相府諾、被レ差二遣左右少將一、又可レ守二護燒亡御物一之由、被レ仰二撿非違使等一、臨二曉更一參二東宮一、〈御二桂芳坊一〉諸卿同參、卯刻許退出、 十六日庚申、參内、〈朝所〉左大臣
p.0074 以下參仕、民部卿式部大輔不參、諸卿候二朝所西庇一、〈地上敷レ疊〉大略被レ問二行幸日於光榮朝臣一、申云、來月十六日者、依二坎日一不動申二左府一云云、明日可レ定二雜事一、諸卿可二參入一者、左府云、燒亡藏人三人祗候、二人者依レ仰令レ運二出御物一、今一人候二御共一、又中宮侍人二人、主上后宮徒歩御二中院一、此間路無二參會上下人一云云、極悲事也、入レ夜參二中宮一乍レ立歸、詣二左府宿所一、卿相多會談二雜事一、相府深嘆二恐所(○○)燒損事一、秉燭退出、 十七日辛酉、定二申神鏡燒損事一、其定趣者、可二改鑄一歟、將如何者、諸卿定申旨一同也、神鏡趣并相准事等、先令レ勘二諸道一可レ被レ定歟、若可二改鑄一者、以二俗銅一不レ可レ混二神物一、以下所二燒遺一神物等上、可レ奉レ齋歟、猶可レ被二安置一鏡體新以レ銅奉レ鑄、相副奉二安置一如何、抑先令レ進二道々勘文一、後又令レ祈二申伊勢大神宮一、兼依二御占一可レ被二鑄造一歟、昨或識者卿相等、於二左府宿廬一有下可二加鑄一之議上、餘不二甘心一、今日未レ有二事定一之前、於二殿上一談二彼是一、今及二定時一變二昨議一、從二愚案一如何、定申詞左大辨書レ之、左府令二奏聞一、被レ仰下可レ令二諸道勘申一之由上、〈◯中略〉神鏡大刀契盡燒亡、鏡僅有レ蔕、自餘燒損無二圓規一、失二鏡形一、又有二大刀契一、但魚符等少々在矣云云、村上御記云、天徳四年九月廿四日燒亡云云、廿四日、重光朝臣申云、罷二到温明殿一所レ求二見瓦上一、在二鏡一面一、〈其鏡徑八許寸、頭雖レ有二一破一、專無レ損二圓規并蔕等一、甚以分明、露二出破瓦之上一、見レ之者無レ不二驚感一、〉又求二得大刀契等一云々、又以所レ求二得大銅魚形二隻、〈女官等或偁、是亦神也、然而未レ知二眞僞一、〉大刀四柄、〈室握並燒失、只遺二種種小調度一、〉金銀銅魚符契合卌九隻一、〈或銘發兵解兵符其國、或銘其官契、皆作二魚形一、相合如二木契之趣一、又有二片々不レ合者一、又有レ鐘占合不雖(雖恐離)者、此燒損之所レ致、〉云々、廿五日清遠伊渉等令レ申、又求二得燒鏡一面、銅魚契卅餘枚、合レ前七十四枚、雜劍卌柄一〈之中可レ有二節刀一、又加二金銀銅等小調度一、〉云々、故殿御日記云、恐所雖レ在二火灰燼之中一、曾不二燒損一云々、〈鏡三面中、伊勢大神、紀伊國日前國懸云々、〉如二件説一似二三面一、 廿七日辛未、有二犬産穢一、〈◯中略〉内侍所依二穢間一不レ可レ奉レ渡、撰二吉日一後日可レ奉レ渡者、天徳燒亡時、蹔奉レ安二置縫殿一、左右近衞并寮官奉レ護、移二御冷泉院一之後、撰二吉日一更奉レ渡、仍二彼例一後日可レ奉レ移、又左右近衞、并史一人可二護候一由被レ下二宣旨一、戌二點、自二朝所一幸二東三條院一、〈警蹕侍衞如レ恒、左大將於二東門内一、仰二御綱可レ張由一、〉大刀契鈴印等持候如レ例、但大刀契燒損、納二新韓櫃一所二持候一也、大刀只有レ刄、契無二殊損一、魚符損或不レ損云云、〈◯又見二法成寺攝政記、權記、百練抄一、〉
p.0074 寛弘二年十二月十日甲申、差二遣參議右大辨行成卿於伊勢大神宮一、被レ申二神鏡燒損事一、
p.0075 有二宸筆宣命一、 十八日壬辰、大祓、伊勢使復命、
p.0075 内侍所事
神宮記云、寛弘二年乙巳十一月十五日、内裏燒亡、而去天徳四年以來、度々内裏燒亡之間、不二被レ燒給一〈佐留〉内侍所神鏡(○○○○○)、今度燒亡〈爾〉被二燒損一給、因レ茲件神鏡改、而可レ被レ奉二鑄替一之由、且被レ行二陣定一、且可レ被レ卜三筮吉凶於二神祇官陰陽寮一之由、公卿僉議之間、各勘奏云、件神鏡者、是非二人間之所爲一、既天地開闢之初、當二於高天原一〈天〉、鏡作神〈乃〉遠祖天香山命〈乃〉八百萬皇神達共〈爾〉、以レ銅〈天〉鑄造之神鏡也、〈或云、天香山命共鑄二作之一、〉件神鏡元三面也、廣皆方尺、而一面坐二伊勢國一〈須〉、一面坐二紀伊國一〈須〉、一面坐二内侍所一、是件鏡也、〈具二見于日本紀一〉以レ之謂レ之、件神鏡、改而被レ奉二鑄替一之事未二分明一也、縱件御鏡雖下被二燒損一給上、尤可レ被レ奉四鎭二安三置於本所一也者、仍元神鏡御坐也云々、同年十二月十四日、公卿勅使參宮、參議左大辨從三位藤原朝臣行成王〈◯王恐衍字〉中臣忌部卜部等也、是内裏燒亡之時、件神鏡被二燒損一給事、所レ被二謝申一也、〈◯又見二大神宮諸雜事記一、〉
p.0075 内侍所(○○○)は、〈◯中略〉寛弘のぜうまうには、やけ給たりけれども、すこしもかけさせ給はざりけり、其時の公卿勅使行成卿なり、宸筆の宣命はこの御時はじまれり、長久燒亡にぞやけそんぜさせ給にける、それよりそのやけさせ給ひたる灰をとりて、からびつに入奉りて、いまおはします是也、世のくだりさま神鏡の御さまにてみえたり、神威いつとても、なじかはかはり給ふべきなれども、世のくだり行さまをしめし給ふゆゑに、かくなりゆかせ給ふにこそ、今行末いかならん、かなしむべきこと也、
◯按ズルニ、寛弘ノ燒亡ニ、少シモ缺ケズト云フハ誤ナリ、前後ニ引ケル、日本紀略等ノ諸書ニ就キテ見ルベシ、
p.0075 寛弘三年六月十三日癸未、仰二諸道一令レ勘下神鏡(○○)燒損可二改鑄一否事上、 七月三日癸卯、召二仰公卿於御前一、令レ定二申諸道勘申神鏡事一、不レ可二改鑄一之由群議了、
p.0076 寛弘三年七月三日癸卯、午時參内、諸卿參會、申時藏人頭實成召二諸卿一參、即上二殿上一候二御前座一、其座如二除目座一、但無二大臣圓座一、當二大丞座一置二圓座一枚一、是讀二勘文一宰相座、垂二御簾一、于時召レ余〈◯藤原道長〉賜二諸勘文一、被レ仰云、去年燒亡次、御二内侍所一神鏡損、可二改鑄一歟、令レ申二其由一可二左右定一、申云、召二左大辨行成朝臣一、令レ讀二勘文一、從二御簾前一著二圓座一賜二勘文一、大辨對二御簾一讀レ之、先紀傳、次明法、次陰陽道、讀了書授レ余著二本座一、余仰二諸卿一云、道々勘申如レ此定申者、從二下臈一一々定申、内大臣〈◯藤原公季〉右大將、尹中納言、權中納言、新中納言、勘解由長官、左大辨等定申云、非レ可二改鑄一、雖レ不レ全二本形一神代物也、尊レ之可レ奉二安置一、又其有レ靈、於二官司一奉レ入二辛櫃一日、放二光耀一給、是其靈也、余、帥、左衞門督等申云、諸道勘文云、禱二請神祇一龜占筮二吉凶一云々、難レ申二一定一、如二勘申一、禱請筮依二其告一可レ被二一定一歟、仰云、所レ申非レ一、又々相定申云、申レ非レ可レ鑄人々、又非レ可レ申云、帥、左衞門督等、尚禱請後可二一定一申、余申、件事難レ思、若可レ奉レ鑄、以二他金一可レ奉レ鑄、本金有二其恐一、又以二他金一奉レ鑄、本金爲レ之如何哉、損像者、金像二像、御二禁中一如何、付二尊名二像御事一猶難レ思、本像加二禱請一奉、可二安置一歟、定間、從二御殿上一白蛇降在二庭前一、從二南殿北階上一行二西方一、是内侍所方、衆驚恐無レ極、定了一々立レ座候レ宿、〈◯又見二帝王編年記、百練抄一、〉
p.0076 長久元年九月九日、皇居上東門院燒亡、主上〈◯後朱雀〉先御二法成寺東金堂廊一、内侍所神鏡(○○○○○)在二灰燼中一燒損、神鏡在二灰燼中一、遣二藏人頭左中將資房、左少將經季等一令レ求レ之、〈◯中略〉 九月十二日、諸卿於二御前一定二申火事以後雜事一、又定二申神鏡燒損事一、任二寛弘二年例一、可レ被レ行之由定申了、
◯按ズルニ、禁秘御抄賢所ノ條ニ、長久燒亡、少納言經信欲レ奉レ出、火盛不二合期一、而有レ光入二唐櫃一、實不レ燒ト記サセ給ヒシハ、順徳天皇ノ深キ叡慮アリテノ事ナルベシ、燒損セシコトハ、上文ニ掲ゲタルガ如シ、
p.0076 長久元年九月九日辛酉、丑三刻許、家人告レ之、北方有レ火云云、即馳二參内一間、行人云、内裏燒亡者、心神失レ度、營參之處、西對〈内侍所也〉燒了間、宮人云、主上渡二御御堂一〈◯法成寺〉早了者、即自二東陣一馳參、主上御二女院御
p.0077 堂一、〈猶御腰輿也〉不レ著二御御直衣一、但著二御御冠一、太不便事也、此間御直衣持參、予令レ奉レ著二御之一、藏人左少將定房六位藏人兩三人供奉云云、瀧口衆二三人許同祇候了、女房等皆徒歩在二御供一云云、此間關白〈◯頼通〉已下參集云云、仰云、内侍所神鏡(○○○○○)不レ能レ奉レ出、已在二灰燼中一、悲歎之甚、未レ知レ所レ爲、世間盡了、大刀契、節刀、并内侍所印等僅以取出云云、資房早向二彼所一可レ奉二堀求一者、是關白傳仰也、予所レ思者、天徳燒亡時、不レ遣二藏人頭一、又一條院御時又如レ之、而今般差二遣資房一、〈◯藏人頭〉已無二先例一之内、又有二愚案一、天徳年中、件神鏡(○○)雖レ在二燼中一、圓規不レ損、全以分明也、一條院御時、其神體已燒火云云、今此時已爲二澆末一、定不レ遺二其神體一歟、世運次第如レ此之故也、今被レ差二允件使一、是不運之甚也、然而王命不レ可レ背、何處可二遁避一哉、仍即向二其所一、先召二左右近官人己下五六人一、相共行向之、又仰二撿非違使等一、令レ禁二固東西一、爲レ遏二絶雜人濫吹一也、此間火焰猶盛不レ能二相向一、時刻推移、仍乘レ舟自二南池一到二南庭一、予招二藏人義綱一令レ申云、事旨非レ輕、一人難レ行、加二遣次將一人一、共以行之少時左少將經季朝臣來向之、相共可レ行二雜事一之由、依レ有二其仰一參來者、煙火猶不レ消、仍以二左右近陣吉上一、令レ渡レ汲二池水一、〈用二各桶一也〉消二熾盛之焰一、頗以減滅、即相二向西對一程、又令二官人等一取二失雜木并土瓦一、積置如レ山也、火氣猶盛、以レ水欲レ消、池水不レ淨也、又吉凶不レ量、只可レ待二火消一、定房含二綸言一來云、只今如何奉二求得一哉、予返答云、火氣猶盛未レ能二進退一也、内侍所女官等可二召給一也、可レ奉レ入之物同可レ給、又令レ引二廻㡢一如何、依汎渡後也、良久之、定房又來云、女官遣レ召了、奉レ裹レ絹可レ奉レ入二折櫃一也、早可二進上一由仰二内藏寮一了、引レ㡢尤可レ宜、又仰二主殿寮一了、是皆勅命也者、左中辨經長來云、可レ奉レ安二置辛櫃一、依レ仰遣レ取已了、〈納二官厨家一也〉可レ奉二堀求一之事可レ待二火消一、外人不レ可二濫入一、是關白命也者、主殿寮以レ㡢引二廻四面一、〈火 焰之所、不レ能二引廻一也、◯中略〉内侍所女官等來向、此間日景已及二巳刻一未レ及二左右一、短慮彌迷、不レ知レ所レ出、即以二女官一推二定其程一、漸令レ掃二却火一、奉二堀求一之間、先得二御辛櫃金物一、以レ之知二其所一、仍奉レ求間、僅奉レ堀二得御體一、〈燒殘五六寸許〉掃部女官〈字稱二河乃邊子一云云、古老者也、〉先得二此體一、即奉レ裹レ絹入二折櫃一、又得二一切一、〈二三寸許也〉其體燒損不二分明一云云、次次得二二三寸許一、各段段也、又如二玉金一之物數粒得レ之、隨又奉レ加二入彼絹一也、予見レ之非レ無二其恐一、然而又先世之宿縁歟、可二怖畏一之々々々、又可レ悲事也、世運全
p.0078 盡了之故也、此間關白相府率二一家公卿一來向、關白即以レ豫令レ奏二御體奉レ得之由一、予馳二參御在所一、〈女院寢殿〉奏二此由一、仰云、以二神體纔存一爲レ望、爰知世運之猶在、悲歎無レ極、令二渧泣一給又無レ極、予歸二本所一、内侍所女官惠子入二折櫃一奉レ捧レ之、關白命曰、至二于今一奉レ安二置辛櫃一、可レ奉レ送二御在所一也、辛櫃底敷レ絹、又以レ絹可レ爲レ覆、以二布綱一可レ奉レ結也、件料物等内藏寮忽難レ進歟、仍仰二隆佐朝臣一遣レ取已了持來者、以二此旨一可レ行也、又命云、左右近將各一人、將監已下各一人可二供奉一、左予、右隆俊也、〈少將〉予申云、次將以下可二束帶一歟、命云、事已忽然也、不レ可レ整二衣裳一者、執柄已下歸給了、予、經季、并右少辨資仲、〈依二關白命一行レ之也〉女官等相共奉レ入二辛櫃一也、御體先裹レ絹〈于時巳二點許也、無二勘文一、又不レ被レ問二時刻如何一、〉入二甲折櫃一、以レ絹覆奉レ結、〈十文字奉レ結、絹二疋、布二段、自二關白第一持來也、〉又辛櫃底先敷レ布、其上敷レ絹、四面同敷レ絹了、以二折櫃一安二置其中一了、覆二辛櫃蓋一爲レ覆、以レ布十文字奉レ結、即安二案上一、〈新造之案也、官方所レ作也、佐中辨經長行レ之云々、〉召二左右近荷輿丁各二人一奉レ令レ荷之、〈◯中略〉入二院東門一到二中門一之間、供奉官人等暫留候矣、關白迎謁給、即令二女官等〈本自供奉候也〉舁一レ之、安二置東對南唐廂中一、〈南面居之〉件所兼以令二清洗一也云々、先以レ薦爲二下敷一、其上敷レ莚、奉レ居二御辛櫃一了、所々障子戸等皆塞レ之、予手自役仕、勤公之至也、女官等可レ候由且仰レ之了、〈博士命婦可レ候之、典侍芳子、掌侍善子、依レ仰遣二彼所一云々、〉此間未二點許也、〈◯中略〉 十日壬戌、午時許、關白命云、内侍所女官二人夢想云、一人夢云、彼本所有二小蛇一、頗有二惱氣一云々、一人夢云、彼本所有レ人云、吾相離、獨身在二此所一云々、博士命婦、并他女官等相引廻二本所一、〈件所、昨日依二關白命一垣二籠其廻一、爲レ禁二濫入一也、〉奉二鑿求一之處、如二金玉一求二得二粒一、即奉レ入レ絹了奉二將向一、只今安二彼御辛櫃上一、未レ奉レ入也、事已有二靈驗一、可二感歎一云云、汝早參向、内侍所可レ奉レ入、只以二古老女官一可レ令レ奉レ入、典侍掌侍〈典侍藤原芳子、掌侍三善子、〉從二昨日一候二彼所一也、但典侍等殊不レ可レ令二相示一、只可レ用二女官一也、是主上仰也者、予即參二彼所一、〈依レ仰不二束帶一了〉即以二博士命婦、并古老女官一、〈稱二河邊子一〉奉レ開二御辛櫃并折櫃等一、奉二加入一已了、又同奉二結固一如レ初了、即參二御前一奏二事由一了、〈主上着二御直衣一〉關白命云、彼本所土壤尤有レ恐、不レ可二棄置一也、仍其方六七尺許土拂取入二新桶一、蹔安二置可レ然之所一、以二後日一可レ置二神祇官一也、其桶等可レ儲也者、予即令レ仰二内藏寮一已了、 十二日甲子、旦、〈宿衣〉率二左右近府生各一人、主殿官人一人、下部等、〈桶三口具レ之、内藏寮所レ進也、〉并藏人所出納一人一、相二向彼内侍所舊跡一、〈西對〉其
p.0079 所土壤方一丈許拂取、〈左右近府生以二木鋤一拂取也、皆所二新作一也、〉掃部女官一人相從、主殿官人拂集、入レ之以二桶三口一令二積入一已了、安二置廳屋南妻一、〈仰二修理職一先令レ垣二其所一、令二主殿寮洗清一、〉仰二左右近衞各二人一令二守護一、即參二御前一奏二此由一、又申二關白一了、〈座宿所〉密々被レ仰云、此處寢食忘レ味、萬事迷亂、謂二神鏡事一、悲歎不レ盡、以二不肖之身一貪二尊位一之徴也、何縁乎、抑又取二本所壤一事爲レ有レ餘レ恐也、可レ置二何處一哉、此間事等、向二右大臣〈◯實資〉許一可レ問也、予參二右府一傳二申此由一、被レ申云、神鏡事深所レ難レ申也、但天徳〈◯村上〉燒亡時、雖レ在二火中一不二燒損給一、一條院御時圓規初損、至二于此度一者、所二思給一者、皆悉燒損、不レ遺二其體一歟、是依二世運之次第一也、而玉體猶殘給、是希有之事也、以レ之知レ之、王法猶存矣、還可二感歎一事也、〈◯中略〉以二件土一被レ置二神祇官一尤可レ宜者、〈◯中略〉今日諸卿定申云、御體只以二此遺體一可レ奉レ崇之由所申也、仍彌可レ致二信心一之旨同可レ仰也者、即仰二典侍一了、 廿八日庚辰、今日神鏡奉レ入二新造唐櫃一之日也、〈◯中略〉臨二昏黒一參内、束帶即向二東對一、爲レ見二案内一也、〈賢所在二此對一也〉先レ是左中辨義忠朝臣參入、舁二立御辛櫃一、〈新造也、加二臺并床子一、其寸法體様等注在レ奧也、〉相加可レ奉レ入之筥、〈平文〉并御衾綱等予見二其様一、已異二物體一、寸法皆違二初様一、以〈◯以恐似字誤〉厨子、長四尺許、高三尺許、廣一尺五六寸、臺間床等黒漆也、又二重床等白木也、而此御辛櫃不レ似二厨子一、細高之辛櫃也、其足平文、又第一之床黒漆、次臺赤漆也、御辛櫃同前漆也、〈朱砂上、少許用レ漆云々、〉金銀金物并莊嚴太以華麗也、事々似二今案一、豫先日示二大略一、而今如レ之何々々、義忠云、件體無三指見二昔體一也者、仍或依二女官説一、或只推量所二行候一也者、事之旨似レ有レ私、豈神意哉、抑又何爲哉、内府著二宿衣一被レ覽レ之即退出了、予參二御前一奏二御辛櫃事一、仰云、義忠申下加二今案一之由上、奇怪事也、是只訛二人之心一也、可レ惡可レ惡、至二于今一何爲々々、〈◯中略〉少時關白被レ向二東對一見二御辛櫃一、命云、頗雖レ非二古體一、其嚴甚以華麗也、又何等之事有哉、伊勢大神宮昔無二金物并木尻一云々、今皆用レ之、如レ然之心者、奉二遷入一之間主上可二渡御一也、是故一條院御例也、仍可レ供二御座一也、即上二南庇中間御格子一、〈當二賢所御座之間一也、母屋御也、女官上レ之、但立二御座御屏風等一之後、上二仲御格子一、依二其露一也、〉其又庇間〈當二中央一〉敷二端長莚等一、廻二立大宋御屏風一、〈東西南三面也、北方當二御在所一、例不レ立也、〉其中敷二少莚二枚一、其上供二短疊一〈北面供レ之也〉如レ例、御拜御座、御屏風之外、〈東方〉供二燈臺一基一也、關白命云、件御辛櫃等可二舁入一也、渡御之後爲レ奉レ入也、即令二女官等一奉レ入令二舁入一、即
p.0080 暫安二賢所御前一了、關白命云、可レ供二奉件事一之女官、一兩人相定可レ令レ候、自餘女官暫可レ退之由、可レ仰二典侍藤原芳子一也、〈件芳子、并掌侍貴子、博士命婦等皆祗候了、〉即仰了、〈此間義忠朝臣祗候、被レ問二物具一也、但不二近候一也、〉關白又參二給御前一、即上二南面御格子一間一、〈藏人右少將定房上レ之、〉御出、〈先供二御挿鞋一〉藏人定房、〈五位〉公基、信房、義綱等、執二脂燭一供奉、〈公基候二御笏一〉予依二關白命一候二御下襲尻一、關白在二御後一、予帶二弓箭一、〈暫撤レ弓了〉他侍臣等不レ可レ候由、關白被レ命也、仍只職事供奉耳、不レ候二御劍一、依二關白命一也、若依二謙下之心一歟、可レ然事也、即入二御御在所一了、關白命云、汝并可二供奉一之女官、〈可レ不レ避二一兩一〉相共參入、可レ奉二遷入一、汝可レ執二脂燭一、先例〈一條院御時〉近衞司二人供二奉之一、至二此度一者汝一人可レ候、依レ有二多見其憚一也者、予乍レ帶二弓箭一〈不レ取レ弓〉取二脂燭一近參進、令二掃部女官有子〈年七十餘老者也、又先例女官奉レ裹、不レ用二内侍等一、〉一人一令レ供二奉此事也、但博士命婦一人可レ候レ之、其故者件有子依二老耄之氣一也、關白在二簾外一、在二御所之傍一也、行事先令二博士命婦并有子等一、〈又御門守惠子頗近候、依二古老之者一也、〉解二御辛櫃綱等一、〈本自奉レ入之御辛櫃也、是假櫃也、〉即開二其蓋一、先レ是以二清薦等一暫敷二御笏一、奉レ取二出御體一、〈入二折櫃一也〉博士奉レ捧レ之、此間令二女官二人一〈有子、惠子、〉撤二去本御辛櫃一、以二薦等一敷二滿其跡一、〈本薦撤二去之一了〉全安二置臺并床子一〈臺上敷二繧繝端一枚一、其上立レ床、件臺床同様也、〉了、次以二有子一取二新造御筥一〈暫在二御辛櫃一也〉令レ置二薦上一、〈用レ蓋也〉又以二御體奉レ入之折櫃一、同安二置其傍一、〈博士供二此事一、〉即奉レ取二出御體一、〈博士并有子供二奉之一、自餘女官皆令二退去一了、此間典侍芳子參進云、先例典侍掌侍供二此事一、女官等專所レ不レ知也、仍可二供奉一也者、關白命云、先例專可レ然事也、内侍只候レ之、各近不レ候、女官獨供二此事一、是例也、早可二退去一者、予令二芳子退去一了、〉奉レ遷二入錦中一、〈依二此外仰一、内藏寮令レ進、是自二官方一所レ供也、〉御體頗分斷數多御也、予不二細見一、依レ有二怖畏一推裹、又其上以レ絹裹レ之、〈不レ結二其上一也、件絹本奉レ入之絹也、〉了奉レ入二新造御筥一覆二其蓋一、以二緋細綱一十文字奉レ結了、又以二御衾一〈件御衾、長四尺、并四幅也、以二白絹一入レ綿、内藏寮所レ進、以二縫殿女史一令レ縫云々、是又官方所レ行也、〉奉レ裹二御筥一、〈不レ結二其上一、只推裹也、〉了開二新造御辛櫃一〈是又并立二御薦上一也、〉奉レ入、了覆二其蓋一〈是等皆女官奉仕也、〉閇二鎖之一、了以レ鎰同結二付其鎖一、了即供二覆錦一、〈淺黄色兩面之錦也、先例紫色也、今如レ此何々、〉以二緋綱一融二間床一奉レ結二御辛櫃一、〈非二十文字一、面之(面之二字恐誤字)有二二結一、此間上臈女官一兩令二召供一也、〉安二置床子上一、〈女官舁レ之、予近參林(林恐誤字)手奉レ令二安置一〉典侍芳子〈少將〉云、西向可レ奉二安置一、爲レ向二御在所一也、是例事也者、關白命云、御二在温明殿一之時、北向安二置之一云々、專不二御在所方一只用二便宜一也、此度所得二南便一、仍南向可レ奉レ居也者、安二置南向一了、〈又以二緋綱等一引二廻御前一、三面懸二御鈴一如レ例、女官懸レ之也、〉其前敷レ薦立二八足机二脚一、〈妻合立レ之、官方所レ令レ作也、〉供二御幣高器二本一、〈内藏寮所レ進也、以二用紙一、又折櫃二合、居二高器二本一、女官供レ之、〉又其前立二御
p.0081 燈臺一臺一、關白被レ命云、女官等暫可レ退、依レ可レ有二御拜一也、〈女官云、内藏寮依レ例奉二絹御幣一、而今日不二奉了一云々、遷二御新宮一之日可レ奉也、專今日不レ可レ奉レ入也、女官存二其由一退去、〉予仰令二退去一了、〈豫又退去〉御拜也、還御、〈供奉人々似レ如レ初〉即令三女官等下二格子一了、予申云、御神樂可二初行一歟、關白命云、至二于今日一早可レ令レ行者、予歸二向東對一、行二御神樂事一、〈◯又見二古事談一〉
p.0081 寛弘六年十月五日、皇居一條院燒亡、主上御二職曹司一、延喜〈◯醍醐〉天歴〈◯村上〉二代御記、及累代御物等燒亡、但神鏡奉二取出一了、
p.0081 寛弘六年十月四日、里内裏〈後一條院〉燒亡、〈◯中略〉内侍所燒給、雖レ陰圓規不レ闕、諸道進二勘文一、爲レ被レ進二勘文一被レ立二伊勢公卿勅使一、〈行成〉宸筆宣命始也、
◯按ズルニ、帝王編年記ハ、上文寛弘二年ノ事ト混ジタルモノニテ、内侍所燒給云々ノ文ハ、江家次第ノ、寛弘燒亡、雖レ陰圓規不レ闕トアルヲ取リテ、寛弘ハ二年ノ事ナルヲ六年ト誤リタルナリ、此時神鏡ヲ取リ出シ奉リシ事ハ、百練抄ノ文ノ如ク、又公卿勅使ヲ伊勢神宮ニ進ラザリシコトハ、二所大神宮例文ヲ視テ知ルベシ、宸筆宣命モ二年ニ始マリシナリ、
p.0081 長和三年二月九日乙丑、今夜亥刻、火起二登華殿一、 三月十四日己亥、神鏡渡二御松本曹司一、
p.0081 長和三年二月九日亥終許、師重云、西方有レ後、〈◯後恐火誤〉其程大遠、驚見己當二宮中一、〈◯中略〉恐所(○○)奉レ出畢云々、大刀諸事不二問計一也、取出歟、 四月九日、今日幸二批把第一、中宮同移給、〈◯中略〉今夜神鏡行幸、同時移給、
p.0081 永承三年十一月二日、戌刻内裏燒亡、天皇遷二幸官司一、内侍所神鏡安二置松本曹司一、
p.0081 永承三年十一月二日、戌刻内裏燒亡、天皇御二於太政官朝所一、内侍所神鏡安二置於松本曹司一、
p.0081 天永三年五月十三日、皇居高陽院燒亡、天皇遷二御小六條一、或記云、御持僧行尊法印取二劒
p.0082 璽一入二御輿一、
p.0082 内裏燒亡
劒璽主上自持給有レ例、近衞將公卿何可二隨候一、但行尊持レ之、後日被二謝申一、無レ何人不レ可レ取レ之歟、
p.0082 保延四年二月廿四日、内裏燒亡、〈二條東洞院◯中略〉内侍所暫御二他所一、此事如何有二議定一、大外記隆俊、神鏡事准二佛像一申云々、關白〈◯忠通〉被二咎仰一、但小野右府〈◯實資〉准二乎五臺山文殊一、議定由事、
p.0082 寶治三年〈◯建長元年〉二月一日、子時許、南方有レ火、相尋之處皇居〈◯閑院後深草〉云云、倒レ衣馳參、〈◯中略〉參二御輿邊一、予〈◯藤原兼經〉相二尋人人一曰、賢所大刀契(○○○○○)慥御坐哉、玄象、鈴鹿、御倚子、時簡以下、累代重寶等奉二取出一歟、上下皆答云、悉奉二取出一畢、余又問云、劒璽(○○)慥御二坐御輿内一乎、萬里小路大納言答云、慥御坐云々、
p.0082 二月一日、〈◯建長元年〉公忠の中將候か、まことに騷ぎたるけしきにて、せうしの候、皇后宮の御方に火のといふ、あさまし共おろかなり、〈◯中略〉勾當内侍どの、頓て夜の御殿へいりて、劒璽(○○)取出し參らす、
p.0082 文永七年八月廿二日己丑、去夜夜半、高辻宿所西隣、放火事出來、〈◯中略〉餘㷔及二皇居一〈五條殿◯龜山〉之間、行二幸〈腰輿〉仙洞一、萬里小路殿御留守間也、〈◯中略〉内侍所(○○○)、劒璽(○○)、玄象、鈴鹿、御倚子、時簡、仁壽殿觀音、累代重寶等無爲奉二取出一、天下之慶也、
p.0082 廿日〈◯文永十年十月〉のよひ、二の對〈◯大炊御門殿〉より火いできたり、あさましともいはん方なし、上下立騷ぎのヽしるさま思やるべし、大宮の院も内におはしましける比にて、いそぎ出させ給、御車の棟木にも既に火もゑ付けるを、又さしよせて春宮たてまつらせけり、其夜しも、勾當の内侍里へいでたりければ、塗籠の鎰をさへもとめうしなひて、いみじき大事なりけるを、上〈◯龜山〉聞召て、あらヽかにふませ給たりければ、さばかり強き戸の、まろびてあきたりけるぞおそろしき、さなくばいとゆヽしき事どもぞあるべかりける、故院〈◯後嵯峨〉の御處分の入たる御小唐櫃、なにく
p.0083 れの御寶、ことゆゑなくとりいだされぬ、
◯按ズルニ、文ニ何くれの御寶ト云フ、神器モ自ラ此中ニ含マルヽナルベシ、
p.0083 弘安元年閏十月十三日壬辰、丑刻皇居〈◯二條殿〉炎上、予倒レ衣馳二參殿下一、〈◯藤原兼平〉御二出萬里小路殿一、〈◯中略〉主上〈◯後宇多〉駕用レ輿出御、即渡二御萬里小路殿一、玄象鈴鹿己下重寶、内侍所(○○○)無爲奉レ出レ之、出御之時、人人不レ及二參會一、少將資邦朝臣自レ元祗二候局一歟、白衣勤(○)二劒璽役(○○○)一云云、
p.0083 永仁五年四月十八日、未刻自二大炊御門京極一火出來、冷泉富小路皇居燒亡、天皇駕二腰輿一行二幸春日殿一、内侍所(○○○)同渡御、
p.0083 應永八年二月廿九日、寅刻内裏〈◯土御門殿〉燒失、自二小御所方一火出來、當時無レ人之處、不慮儀事也、雖レ有二付火之疑一、猶以不審、奇異之火災也、等言長朝臣奉レ負二宸儀一、自二北門一御出、可レ幸二日野大納言亭一、風下近々、仍腰輿舁之參進云云、神璽(○○)御手自二三管被レ召之外、御具一物、不レ及レ被二取出一、和漢之文書、代々御記録、化二一時之灰燼一、及重寶紛失、内侍所(○○○)無爲同三寶院卿以下濟濟下姿參集、日野大納言參二北山殿一〈◯足利義滿〉申二此由一、於二橋邊一奉參〈◯奉參恐可奉誤〉入二於室町殿一之由、被二歸參一〈◯參恐奏誤〉則臨幸、先内侍所(○○○)臨幸、
p.0083 應永八年三月三日、予招二出左兵衞權佐永俊朝臣一、〈衣冠近臣也、〉申二入祗候之由一、是先日火事之時分雖二馳參一、其後依レ爲二穢中一、〈失火〉至二今日一不二參仕一、可レ得二其意一之旨委細令レ申レ之、〈◯中略〉被二仰下一云、雖レ被レ消二御肝一、神器等無爲、
p.0083 文明八年十一月十三日、着レ寢之處、亥刻許稱レ有二火事一、俄起出之處、已爲二近所一、〈◯中略〉暫魔風吹靡、餘㷔懸二宮中一、仍自二一對妻一被レ召二御車一、〈大納言典侍持二劍璽一、〉内侍所(○○○)駕輿丁奉二舁出一、出二御小川御所一、〈◯下略〉
p.0083 文明八年十一月十三日、夜四時分ニ、ソウ門ノ脇、サカヤヨリ火出シ、ヤケアガル也、〈◯中略〉十四日、〈◯中略〉北御所ヘ行幸也、〈◯中略〉カリノ屋ヲ南方ニタテ了、内侍所渡御ノ御アトニ、兩傳奏被
p.0084 レ參了、〈◯中略〉御門方ニ内侍所御座由、〈◯下略〉
p.0084 文明八年十一月十三日、今夜子刻燒亡、室町殿〈◯足利義政〉西半町許、在家〈土倉酒屋〉放火無レ程東西南北燒廻、即至二于室町殿一、風吹付自二西面四足門一火付始、御殿以下不レ殘二一宇一拂レ地炎上、〈◯中略〉御所火付之間、主上〈◯後土御門〉駕二御車一御出、有レ行二幸於小河新造御所一、内侍所(○○○)同渡御、〈◯中略〉禁裏御物、累代御器、御記抄物以下悉燒失、准后其外女中御物等、同無レ殘燒失、〈◯中略〉翌朝辰刻、主上自二小川御所一、行二幸于北小路殿一、〈◯中略〉内侍所御車之御後、駕輿丁等奉レ舁レ之入御、暫庭上乍レ舁御逗留、臨二東庭一構二假屋一奉レ安レ之、主上御車内侍一人同車、神璽寶劔等被レ入二御車一歟、
p.0084 文明十一年七月一日、曉天〈寅刻歟〉有二火事之聞一、自二番衆所一起出見之處、自二御所一北方也、已禁中近邊也、驚躁也暫人々馳參、御物等令二用意一、管領馳參、御物等少々渡レ之、御文車二輛、同管領引出、已餘煙及二皇居一之間、被レ召二用輿一、〈◯中略〉令レ出二御所一給、入二御安禪寺殿一、〈◯中略〉内侍所(○○○)御二座庭前一、有二假覆一、〈◯下略〉
p.0084 文明十一年七月一日乙卯、今夜丑刻燒亡、内裏御近邊在家火出、〈◯中略〉火煙自二北方一掩二皇居一、内侍所奉レ舁二出庭上一、腰輿寄二砌下一、〈◯中略〉火既懸二御殿一之間、主上駕二腰輿一自二東門一御出、内侍所先行、〈◯中略〉至二于安禪寺一、〈◯中略〉内侍所南庭東方、修理職構二假屋一奉二安之一、
p.0084 文明十一年七月一日乙卯、寅刻北方有二火事一、北小路内裏近々云云、仍進二時顯朝臣一、然而火已覆二御殿一云云、則餘馳參、主上已乘二御腰輿一、内侍所(○○○)、劔璽(○○)等奉レ取二出之一、其余御物等少々被二取出一云云、則臨二幸安禪寺殿一、餘候二御供一、
p.0084 承應二年六月廿三日、今日午刻許、禁裏悉炎上、近比絶二言語一驚入事也、余依三所勞不二足立一不參、傳聞、主上〈◯後光明〉者、俄法皇〈◯後水尾〉ヘ行幸云云、依二事急一非二鳳輦一、常ノ御輿ニテ被レ成云云、女中等モ歩行之爲レ體云云、又神璽寶劔(○○○○)モ被レ入二御輿一、内侍所(○○○)萬宗壇諸元壇モ、無レ恙被レ渡二法皇之御殿一云云、御泉水之御茶屋ニ、内侍所二ノ箱被二安置一、云云、又御文庫被レ入樂器亦被レ出云云、古代古物之御道具、爲レ一不二燒
p.0085 却一之由也、
p.0085 萬治四年〈◯寛文元年〉正月十五日丙寅、二條殿ヨリ出火之由、〈◯中略〉二條殿御殿燒落不レ申内ニ、女院〈◯東福門院〉御所、廣橋一位、鷹司殿ヘ火移リ、坤風強、艮方ヘ燒申、中筋、二階町、梨木町、寺町ヘ燒出申、禁中別儀有間敷ト衆人存候處ニ、西園寺、花山院、大炊御門、西洞院ヘ附申、此火内侍所ヘ移リ、臺所ノ椽ノ下ヨリ火出申ニ付、青木遠江守、小田切美作守手勢ニテケシ申處、又内侍所(○○○)ノ檜皮ヘ付申故、風ハ強シ、ケシ申事不レ成、北西ヘ燒申也、廣橋ヘ付申時、天子〈◯後西院〉先花町殿御殿ヘ行幸、近由被二仰出一、八條殿ヘ行幸、一度内侍所(○○○)ヘツキ申火ケシ申故、天子殿上迄還幸ノ處ニ、又燒出申故、西門ヨリ室町通ヲ北川原ヘ行幸、自レ其白川照高院殿ヘ行幸、内侍所(○○○)遷幸、堂上地下追々供奉也、
p.0085 延寶三年十一月廿五日、巳下刻西方有二火事一、程遠之由沙汰之間猶豫、雖レ然依二風烈一、着二衣冠一參内之處、皇居〈◯近衞亭〉既危直參二御前一、〈◯靈元〉可レ有二出御一由言上、走歸立二寢殿庭一、忽寢殿軒燒上之程主上漸出御、〈御板輿〉添二御輿一月卿雲客圍繞、四足門之程、車寄等炎盛也、内侍所(○○○)御唐櫃二合、立二御輿前一、鳳輦尤相添、先行二幸法皇〈◯後水尾〉御所一、猶危之間行二幸東河原一、〈二條〉於二此所一公卿僉議、可レ御二大佛一哉、可レ御二吉田一哉、評定不二一决一、雖レ然吉田可レ然之由、關白、〈◯鷹司房輔〉左府〈◯九條兼晴〉頻被レ申レ之、〈◯中略〉諸卿一同之間幸二吉田一、月卿雲客供奉至二吉田一、於二途中一、今度新造内裏奉行松平伊豫守、内々依二關東命一、從二兼日一上京之間、以二多人數一消レ火、仍新造御所無レ恙之由、以二永井伊賀守一〈諸司代〉言上、諸人嘉悦不レ少、此後僉議云、明後日可レ有レ遷二幸新造一之間、先假可レ御二法皇〈◯後水尾〉御所一哉、又新殿女御御局〈◯鷹司房子〉可然歟、取々雖レ申レ之、猶可レ入二御女御御方一之由一决、則招二永井伊賀守一、關白、左府、余、内府等列座、示二含此趣一、則伊賀守向二新殿女御御局方一構レ之、〈◯中略〉日入之程入御、諸人成二安塗之思一了、
p.0085 寶永五年三月八日、午半刻從二下京一出火、即着二衣冠一馳二參于内裏一、參二内侍所(○○○)一、須 火熾盛、炎二上仙洞〈◯靈元〉御所棟一、事急間先出二羽車一、日野中納言參二御所一、〈◯東山〉被レ伺下可レ有二御動座一哉由上、〈議奏通誠卿〉聞召了、則
p.0086 御動座、引二放御肌簾一、余等奉レ舁二出之一、駕輿丁少々參集舁レ之、經二南殿前一出二四脚御門一、至二清所門前處一、從二此門一行幸也、先内侍所(○○○)、次鳳輦、次御輿、〈密乘二御御輿一也、〉次東宮〈◯中御門〉御輿、余内侍所供奉、先行二幸于關白殿一、〈近衞殿〉暫時也、行二幸于御靈社一、〈御路室町通柳原〉拜殿張レ幕、別當居所等也、行二幸于東河原一、奉レ舁二居砂上一、〈莚等連連用レ之〉此間良久、關白〈◯藤原家熙〉騎馬向二賀茂社一、被レ計下會可二行幸一間事上、關白歸參給後、行二幸于賀茂一、以二幣殿一爲二内侍所(○○○)御所一皇居故也、〈◯中略〉依三關白殿不二燒亡一、可レ爲二彼殿一云云、暫被レ催二行幸一、先内侍所(○○○)、次第如レ始行二幸于近衞殿一、以二寢殿南面一爲二内侍所御所一、余等奉レ舁二居之一了、此時丑刻也、〈◯中略〉上安全、三種神器安穩令レ渡給、大變中慶也、
p.0086 天明八年正月三十日癸巳、曉更寅刻許云云、自二河東一有二放火之義一、小時京極大路、佛光寺大略飛火、佛光寺門跡囘祿云云、〈◯中略〉入レ夜雨下、戌斜火鎭消之沙汰、人々珍重申處、火炎再盛、内裏既危云云、于時子刻許、行二幸鴨一、自二南門一奉レ出二鳳輦一、三條大納言以下若干候二供奉一、予有二此中一、深泥人々其體、難澁不レ忍レ言、相續内侍所(○○○)渡御、〈◯中略〉須 鴨又危云云、再行二幸聖護院宮室一、寅刻許也、此程火彌北烈、内裏炎上、可レ悲可レ悲、仙洞〈◯後櫻町〉以下、御所御所各炎上云云、
p.0086 或人物語曰、天明の内裏囘祿のときに、聖護院室を假皇居として渡御ありしより、内侍所もおなしく聖護院に渡御あり、寢殿の上段の間を假の内侍所とせさせ給ひ、さて後に假殿を立られ、渡御ありし、〈◯下略〉
p.0086 嘉永七年〈◯安政元年〉四月六日甲戌、午斜從二芝北殿一、〈當時敏宮御在所、元新清和院御在所、〉出火㷔盛、直馳二參内裏一、于時賢所火移、先參二番衆所一之處無レ人、參二議奏候所一同無レ人、予非常之節、雖二劔璽(○○)守護一、賢所(○○)氣遣之間、先馳二付賢所一之處、一所ハ奉レ出、之後也、一所爲二刀自雜人等一奉二舁出一、自餘御唐櫃二合出レ之、又御大切之御品之由御筥一ツ、家君〈◯實久〉采女等舁レ之被レ出、〈◯中略〉又馳二參御在所一〈◯孝明〉之處、御二御東司廊下一、廣橋前亞相、前菅亞相、自餘二三輩、女房二三輩等在二御前一、奉レ拜二龍顏一、次參二劔璽間一之路ニテ、三位中將行逢、早劔璽(○○)被レ奉レ抱之間、守護之事頼置、馳二參和宮御在所一、此時御二于御服所一、火益熾、常御殿一面火也、主上從二清
p.0087 所口御門一御立退云云、〈◯中略〉于時御二近衞殿一之由風聞之間、彼御亭馳參之處不レ御、直同家出二裏門一、久我家於二門前一遇二劔璽(○○)一、〈三位中將奉レ抱〉而御在所不二分明一之間、通行之者、及二尋問一之處、今出川ヲ東被レ爲成之由承、三位中將、予等、奉二劔璽(○○)一守護、先拂使番一人等馳行之處、鴨社へ御立退之由承、於二伏見宮邊一予取レ璽、此時源中納言、三條中納言等來會〈此兩卿、劔璽御行末被レ尋處云々、〉共守護、于時源黄門取レ劔、御在所馳參、鴨社樓門前御座所也、則劔璽奉レ捧、自令レ取御、此時始安堵、小時御二御服所一、追々人々馳參、是迄之事難レ及二筆端一、賢所(○○)奉レ安二舞殿一〈此社迄、非常附人僅兩三人供奉云々、◯中略〉未下刻、聖門室〈◯聖護院〉へ遷御御治定、〈◯中略〉從二河合社西一川原へ、新道南へ、桝形出町橋ヲ東、川端堤南へ、春日通東へ、入二御聖門室一、
p.0087 元治二年〈◯慶應元年〉六月廿七日庚申、當時劔璽(○○)假ニ被レ納二白桐筥一、是嘉永七年燒亡之時、人々狼狽奉二取出一儀遲引、漸長橋取出授二醍醐一、奉レ移二下鴨一也、〈以二御間帷一卷レ之〉頗危事也、仍有二御沙汰一、被レ納二此一筥一、新造之時、受二政通公〈◯鷹司〉命一、予專預二此事一、於二御前一取二寸法一了、事注二其月日記一、予所存今少小形可レ爲二便宜一歟、但從レ仰者也、尤可レ稱二假御筥一也、
p.0087 院御所夜討附信西宿所燒拂事
去程ニ、信頼卿ハ、同九日〈◯平治元年十二月〉夜子刻許ニ、左馬頭義朝ヲ大將トシテ、其勢五百餘騎、院〈◯後白河〉ノ御所三條殿ヘ押寄、四方ノ門門ヲ打固、右衞門督〈◯信頼〉乘ナガラ、年來御イトホシミヲ蒙ツルニ、信西ガ讒ニ依テ、信頼討レ進ラスベキ由承候間、暫ノ命助ラン爲ニ、東國方ヘコソ罷下候ヘト申セバ、上皇〈◯後白河〉大ニ驚カセタマヒテ、何者カ信頼ヲ失フベカナルゾトテアキレサセ給ヘバ、伏見源中納言師仲卿御車ヲ差寄、急ギ召ルベキ由申サレケレバ、ハヤ火ヲ懸ヨト聲々ニゾ申ケル、上皇アワテヽ御車ニ召ルレバ、御妹上西門院モ一ツ御所ニ渡ラセ給ヒケルガ、同御車ニゾ奉リケル、信頼、義朝、光泰、光基、季實等、前後左右ニ打圍テ大内ヘ入進ラセ、一本御書所ニ押籠奉ル、
p.0087 光頼卿參内并清盛自熊野路歸洛事
p.0088 去程ニ、内裏ニハ同十九日、〈◯平治元年十二月〉公卿僉議トテ催サレケリ、勸修寺左衞門督光頼卿、〈◯中略〉荒海障子ノ北、萩ノ戸ノ邊ニ、弟ノ別當惟方ノオハシマシケルヲ招寄、〈◯中略〉サテ主上〈◯二條〉何クニオハシマスゾ、黒戸御所ニ、上皇ハ、一本御書所ニ、内侍所(○○○)〈◯神鏡〉ハ、温明殿ニ、劔璽(○○)ハ何クニ、夜ノオトヾニト、左衞門督次第ニ尋給ケレバ、別當角ゾ答ラレケル、
p.0088 主上六波羅行幸事
去程ニ、主上〈◯二條〉ハ北陣ニ御車ヲタテ、女房ノ飾ヲ召シテ御鬘ヲ奉ル、同御寳物共ヲ渡シ奉ラントテ、内侍所(○○○)ノ御唐櫃モ大床迄出シタリケルヲ、鎌田ガ郞等怪シメ奉リテ留進ラセケルヲ、伏見源中納言師仲卿ニ申合セテ、坊門局ノ宿所ヘゾ遷シ奉リケル、
p.0088 八條太政大臣〈◯平清盛〉以下さもある人々、世はかくてはいかヾせんぞ、信頼、義朝、師仲等が中に、まことしく世を行ふべき人なし、主上二條院の外舅にて大納言經宗、ことに鳥羽院もつけまゐらせられたりける惟方檢非違使別當にて有ける、この二人、主上にはつき參らせて信頼同心にてありける、そヽやきつヽ清盛朝臣ことなくいりて六波羅の家に有ける、とかく議定して六波羅へ行幸をなさんと議しかためたりけり、其使は近衞院東宮の時の學士にて、知通といふ博士有けるが子に、尹明とて内の非藏人ありけり、惟方は知通が聟なりければ一つにてありける、此尹明さかしき者なりけるを使にはして、言かはして、尹明は其頃は勅勘にて内裏へもえ參らぬほどなりければ、中々人もしらでよかりければ、十二月廿五日乙亥、丑の時に六波羅へ行幸をなしてけり、そのやうは、清盛尹明に細かに教へけり、晝より女房の出んずる料の車とおぼしくて、牛飼ばかりにて下簾の車を參らせておき候はん、さて夜さしふけ候はんほどに、二條大宮の邊に燒亡をいたし候はヾ、武士どもは何事ぞとて其所へまうで來候なんずらん、其時其御車にて行幸のなり候べきぞと約束してけり、〈◯中略〉内の御方、〈◯二條〉この尹明候なれたる者にて、筵を
p.0089 二枚設けて、筵道に南殿の廻廊に敷て、一枚をあゆませ給ふほどに、いま一枚をしき〳〵して、内侍には伊豫内侍、少輔内侍二人ぞ心えたりける、これ等先しるしの御筥(○○○○○○)と寳劒(○○)とをば御車に入てけり、支度のごとくにて、燒亡の間さりげなしにてやり出してけり、さて火消て後、信頼は、燒亡は別事候はずと申させ給へと、藏人して伊豫内侍に云ければ、さ申候ぬとて、此内侍どもは小袖ばかり着てかみわきとりて出にけり、尹明はしづかに長櫃を設けて、玄象、鈴鹿、御笛の箱、大刀契(○○○)の唐櫃、晝の御座の御大刀(○○○○○○○○)、殿上の御倚子など沙汰し入て、追ざまに六波羅へ參れりければ、武士ども押へて弓長刀さしちがへ〳〵して固めたるに、誰か參らせ給ふぞと云ければ、高く進士藏人尹明が、御物もたせて參て候なりと申させ給へと申たりければ、やがて申てとく入れよとて參りにけり、ほの〴〵とするほどなりけり、
p.0089 内裏には信頼、〈◯中略〉紫宸殿の大床にたちて、よろひとりてきける時、大刀契の唐櫃の小かぎを守刀に付たりけるを、師仲は内侍所の御體をふところに入て持たりけるが、たべ〈◯給ヘノ義〉そのかぎこれにぐしまゐらせてもたん、その刀に付て無益なりといひければ、まことにとてなげおこせたりければ、とりていづちも御身をはなれ申まじきぞとて、あゐずりの直垂をぞきたりける、
p.0089 平治亂逆之時、師仲卿奉レ取二内侍所(○○○)一、奉レ安二置家〈姊小路北、東洞院之西角ト云、〉之車寄妻戸中一、其體新外居〈足高〉之上敷二薦一枚一、乍レ裹奉レ置云云、翌日奉レ尋二出内侍一人、博士已下女官等一參二仕之一、奉二裹替一之後、渡二御大内一、供奉職事一人、近將二人云々、
p.0089 内侍所之事
永暦元年二月十一日宣命云、猥以二愚昧一〈天〉忝傳二神器一〈多利、〉晨兢夕惕〈シ天〉如レ履二薄氷一〈シ〉、爰去年〈◯平治元年〉十二月十日、事出レ不レ圖〈天〉兵革俄起之間、爲二凶惡之輩一雖レ被レ掠二取内侍所(○○○)一〈毛、〉依二宗廟之厚助一〈天、〉奉納之櫃雖二紛p.0090 失一〈毛〉、正體自然出來給〈ヘ利、〉王法〈乃〉不レ盡〈シ天、〉正體〈乃〉不二紛失給一〈サル〉事〈ヲ〉深欣悦〈ヒテ、〉新櫃奉レ造〈天〉所レ欲レ奉レ納〈ナ利、王、兼資王、中臣、權少祐爲仲、忌部孝友等也、〉
p.0090 永暦元年四月廿九日、内侍所神鏡(○○○○○)奉レ納二新造辛櫃一、去年十二月廿六日、信頼卿亂逆之間、師仲卿破二御辛櫃一奉レ取二御體一、於二桂邊一經二一宿一、其後奉レ渡二清盛朝臣六波羅亭一、造二假御辛櫃一奉レ納、自二師仲卿姊小路東洞院家一、所レ還二御温明殿一也、左中將忠親朝臣依二長久例一候レ之、自二今夜一三ケ夜御神樂、
p.0090 正應も三年になりぬ、〈◯中略〉三月四日五日の頃、紫宸殿の師子こま犬なかよりわれたる、驚きおぼして御占あるに、血流るべしとかや申ければ、いかなる事のあるべきにかと、誰も〳〵かくおぼし騷ぐに、其夜九日、右衞門の陣より恐ろしげなるものヽふ三四人、馬に乘りながら九重の中へはせ入て、うへにのぼりて、女孺が局の口に立て、やヽといふものをみあげたれば、たけ高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋おどしの鎧きて、たヾ赤鬼などのやうなるつらつきにて、みかど〈◯伏見〉はいづくに御よるぞと問ふ、夜のおとヾにといらふれば、いづくぞと又とふ、南殿よりひんがし、北の隅とをしふれば、南さきへ歩みゆく間に、女孺内より參りて、權大納言典侍殿、新内侍殿などにかたる、うへは中宮の御方にわたらせ給ひければ、對の屋へ忍びてにげさせ給ひて、春日殿へ女房のやうにて、いとあやしきさまをつくりて入らせ給ふ、内侍劒璽とりて出づ、女孺は玄象鈴鹿とりてにげヽり、〈◯中略〉此男をば朝原のなにがしとかいひけり、〈◯中略〉かヽる程に、二條京極のかヾり屋みこの守とかや、五十餘騎にて馳參て時をつくるに、合する聲わづかに聞えければ、心やすくて内に參る、御殿どものかうし引かなぐりて亂れ入るに、かなはじと思ひて、夜のおとヾの御しとねの上にて、朝原自害しぬ、
p.0090 壽永二年七月廿二日、源氏軍兵已着二東坂本一、相二率大衆一登山云々、上皇〈◯後白河〉召二諸卿一有二議定一、依二賊徒事一可レ有レ行二幸院一、可レ憚二復日一哉、賢所(○○)渡二御城外一無二先例一、可レ憚哉、武士猶可レ守二護院御所一哉、三ケ條
p.0091 也、福原行幸之外、無二賢所(○○)城外之例一、或云、賢所(○○)於二今度一者可レ奉レ具、雖レ無レ例各別有二其恐一、或云、猶可レ被レ渡二温明殿一、 廿四日、天皇俄行二幸法住寺殿一、〈上皇御所〉内侍所同渡御、夜半上皇密々出二御法住寺殿一臨二幸叡山一、院中男女不レ知レ之失レ度、 廿五日、平家黨類前内大臣〈◯宗盛〉已下、率二一族一出二奔西國一、天皇建禮門院同奉二相具一、内侍所神鏡(○○○○○)、神璽(○○)、寳劒(○○)、時簡、殿上御倚子、玄上、鈴鹿皆以相具、六波羅已下家〈◯平氏第宅〉同時放火、洛中騷動無レ物二于喩一、 廿七日、上皇自二叡山一還御、着二御蓮華王院一、依二歸忌日一也、 廿八日、上皇召二公卿一有二議定一、前内大臣已下奉レ具二幼主一、赴二西海一之間、神鏡劔璽已下取畢、何様可レ有二沙汰一哉事、 三十日、召二官寮於仙院一、令レ卜二申三種寳物事一、民部卿成範卿奉二行之一、御出家之後、官御卜如何之由、
p.0091 平家都落事
去程ニ、平家ハ日來法皇〈◯後白河〉ヲモ西國ヘ御幸ナシ進ラセント支度シ給タリケレ共、カク渡ラセ給ハネバ、憑ム木本ニ雨ノタマラヌ心地シテ、去トテハ行幸計也トモ有ベシトテ、卯時ノ終ニ出御アリ、御輿ヲ指寄ケレバ、主上〈◯安徳〉ハイマダ幼ナキ御齡ナレバ、何心モナク召奉ル、神璽寳劒(○○○○)取具シテ、建禮門院御同輿ニ召ル、内侍所(○○○)モ同渡入奉ル、平大納言時忠卿庭上ニ立廻テ、印、鎰、時ノ簡、玄上、鈴鹿、大床子、河霧御劔以下、九重ノ御具足、一モ取落スベカラズト下知セラレケレドモ、人皆アワテツヽ我先ニ我先ニト出立ケレバ、取落ス物多カリケリ、晝御座ノ御劒モ殘留メタリケルトカヤ、〈◯又見二平家物語、醍醐雜事記一、〉
p.0091 壽永二年七月廿六日戊子、納言云、神璽寳劔内侍所(○○○○○○○)賊臣悉奉二盜取一了、而無二左右一可レ追二討平氏一之由、被二仰下一之條、甚不便、先可レ有二劒璽安全之沙汰一、仍奏聞、 八月十二日甲辰、一昨日夜、所レ遣二時忠卿許一之御教書、返札到來、其状云、京中落居之後、可レ有二還幸一、劒璽已下寳物等事、可レ被レ仰二前内府一〈◯平宗盛〉歟云云、事體頗似レ有二嘲哢之氣一、又貞能請文云、能程可二計沙汰一云云、 十九日辛亥、早旦問二昨日定子細於兼光朝臣許一、〈國行奉書〉注送之旨如レ此、參入公卿八人、
p.0092 左大臣〈◯經宗〉 實房 忠親 成範 雅頼 長方 通親 親宗〈◯中略〉
劒璽之事
己上諸卿一同申云、於二踐祚一者、忩可レ被二遂行一、一日曠レ之、庶務違亂歟云云、其後被二祈請一者、何不レ令二還座一哉、
源中納言〈◯按二公卿補任一有二前權中納言源雅頼一是、〉
其趣同レ上、但無二劒璽一者、行幸之夜、頗可レ無二禮儀一、以二累代御劒一、蹔可レ爲二御護一歟、
◯按ズルニ、寳劍ニ代フルニ累代ノ御劍ヲ以テセントスル議、始テ此ニ起ル、
p.0092 壽永二年七月三十日壬辰、〈◯中略〉召二官寮一被レ行二御卜一、民部卿奉行也、〈直衣〉神鏡神璽寳劔(○○○○○○)等事也、共卜申云、相二具三種寳物一有二還御一歟、五十日内甲乙庚辛日、及冬節中云々、成範卿奉二院宣一仰二遣時忠卿許一、又内々有下仰二遣貞能許一之旨等上云云、
p.0092 壽永二年十一月八日戊戌、今日備前守源行家爲レ追二討平氏一進發、見物者語云、其勢二百七十餘騎云云、太爲レ少如何々々、〈◯中略〉抑神鏡劔璽(○○○○)無事奉二迎取一之條、朝家第一之大事也、而君臣共無二此沙汰一、仍余竊以二此趣一、含二行家一了、〈全無二親眤之縁一、然而偏依レ思二社稷一招、或具以聞達了、中心之誓、上天可レ鍳耳、〉
p.0092 源氏勢汰事
九郞義經ハ、平家追討ノ爲ニ、西國ヘ發向スベシト聞シ召ケレバ、義經ヲ院〈◯後白河〉御所六條院ヘ召テ、我朝ニハ神代ヨリ傳タル三種ノ御寳アリ、則神璽寳劔内侍所(○○○○○○○)是也、天津御神ノ國津主ニ傳テ、百王鎭護ノ神寳、萬民豐饒ノ靈珍也、相構テ無二事故都ヘ奉二還入一トゾ被二仰含一ケル、義經畏ツテイト事安ゲニ、子細ヤ候ベキトテ罷立ケレバ、法皇御嬉氣ニ被二思召一ケリ、
p.0092 壽永三年二月廿日己卯、去十五日、本三位中將〈◯重衡〉前左衞門尉〈◯重國〉於二四國一、告二勅定旨於前内府一、〈◯宗盛〉是舊主、〈◯安徳〉並三種寳物(○○○○)可レ奉二歸洛一之趣也、件返状今日〈二十一日〉到來、委承候畢、藏人右佐〈◯右衞門權佐定長〉書状同見給候畢、主上、〈◯安徳〉國母〈◯建禮門院〉可レ有二還御一之由、又以承候畢、去年七月行二幸西海一之時、自二
p.0093 途中一可二還御一之由院宣到來、〈◯中略〉還御事毎度差二遣武士一、被レ禦二行路一之間不レ被レ遂、前途已及二兩年一候畢、於レ今者早停二合戰之儀一、可レ守二攘災之誠一候也、云二和平一、云二還御一、兩條早蒙二分明之院宣一可二存知一候也、以二此等之趣一、可レ然之様可下令二披露一給上、仍以執啓如レ件、二月廿三日、
p.0093 重衡京入并定長問答事
定長院宣趣、條々委重衡卿ニ被二仰含一ケル中ニ、三種神器(○○○○)ヲ都ヘ返入奉ラバ、頼朝ニ仰ラレテ死罪ヲモ被レ宥、西國ヘモ可レ被二返遣一トゾ仰ケル、重衡卿院宣ノ御返事被レ申ケルハ、先祖平將軍貞盛ガ時ヨリ、故入道相國〈◯平清盛〉ニ至マデ、代々朝家ノ御守リトシテ、一天ノ御固タリキ、而ヲ入道薨去之後、子孫君ニ棄ラレ進セテ、西海ノ浪ニ漂フ、通盛已下ノ一門、多ク一谷ニシテ被レ誅、其首獄門ニ掛ラレヌ、重衡又懸ル身ニ成ヌレバ、一人西國ニ歸下テ候共、負ベキ軍ニ勝事侍マジ、不レ被二返下一共、勝ベキ軍ニ負事候マジ、宿運忽ニ盡テ、一門ノ中ニ重衡一人虜レテ、故郷ニ歸上リ耻ヲサラス、サレバ親キ者ニ面ヲ合ベシ共不レ覺、今一度見ント思フ者ハヨモ候ハジ、若母ノ二位ノ尼ナドヤ恩愛ノ慈悲ニテ無慙トモ思候ハン、其外ハ哀ヲ懸ベシ共不レ存、就レ中主上〈◯安徳〉ノ歸入セ給ハザランニハ、三種神器計ヲ奉レ入事ハ難レ有コソ存候ヘ、然而忝蒙二院宣一上ハ、若ヤト私使ニテ申試侍ベシトテ、平左衞門尉重國ト云侍ヲ可二下遣一由被レ申ケリ、
p.0093 重國花方帶院宣西國下向同上洛奉返状事
同十五日〈◯壽永三年二月〉ニ、重衡ノ使平左衞門尉重國、院宣ヲ帶シテ西國ヘ下向、院〈◯後白河〉ヨリハ御壺召次ニ花方ト云者ヲ被二副下一ケリ、彼院宣ニ云、
一人聖帝〈◯安徳〉出二北闕九重之臺一、而幸二于九州一、三種神器(○○○○)移二南海四國之境一、而經二數年一、尤朝家之御歎、亡國之爲レ基也、彼重衡卿者、東大寺燒失之逆臣也、任二頼朝申請之旨一、雖レ須レ被レ行二死罪一、獨別二親類一已爲二生虜一、籠鳥戀レ雲之思、遙浮二千里之南海一、歸鴈失レ友之情、定通二九重之中途一歟、然則於レ奉レ返二入三種神器(○○○○)一者、速可p.0094 レ被レ寛二宥彼卿一也者、院宣如レ此、仍執達如レ件、
元暦元年二月十四日 大膳大夫業忠奉
平大納言殿
トゾ被レ書タル、三位中將〈◯平重衡〉モ、内大臣〈◯平宗盛〉并平大納言〈◯平時忠〉ノ許ヘ、院宣ノ趣委被二申下一ケリ、母二位殿ヘモ、御文細ヤカニ書テ、今一度重衡ヲ御覽ゼント思召バ、内侍所(○○○)ヲ都ヘ返入進スル様ニ、ヨクヨク大臣殿ニ申サセ給ヘトゾ書下シ給ケル、〈◯中略〉二十七日ニハ、西國ヘ被二下遣一重衡卿ノ使、重國、召次花方兩人歸洛シテ、右衞門權佐定長ノ宿所ニ行向テ、前内大臣宗盛ノ被レ申タル、奉二院宣一御返事、定長則院參シテ是ヲ奏聞ス、彼状ニ云、
右今月十四日院宣、同二十四日讃岐國屋嶋浦到來、謹所レ承如レ件、就レ之案レ之、通盛已下當家數輩、於二攝津國一谷一已被レ誅畢、何重衡一人可レ悦二寛宥之院宣一哉、抑我君〈◯安徳〉者、受二故高倉院之御讓一、御在位既四箇年、雖レ無二其御恙一、東夷結レ黨責上、北狄成レ群亂入之間、且任二幼帝〈◯安徳〉母后〈◯建禮門院〉之御歎尤深一、且依二外戚外舅之愚志不一レ淺固辭二北闕之花臺一、遷二幸西海之藪屋一、但再於レ無二舊都之還御一者、三種神器爭可レ被レ放二玉體一哉、夫臣者以レ君爲レ體、君者以レ臣爲レ體、君安則臣不レ苦、君憂則臣不レ樂、謹思二臣等之先祖一、平將軍貞盛追二討相馬小次郞將門一、而自レ鎭二東八箇國一以降、傳二子子孫孫一、誅二戮朝敵之謀臣一、及二代代世世一、奉レ守二禁闕之朝家一、就レ中亡父太政大臣〈◯平清盛〉保元平治兩度合戰之時、重二勅威一、輕二愚命一、是偏奉レ爲レ君非レ爲レ身、而彼頼朝者、父左馬頭義朝謀叛之時、頻可二誅罸一之由、雖レ被レ仰二下于故入道大相國一、慈悲之餘所レ申二宥流罪一也、爰頼朝已忘二昔之高恩一、今不レ顧二芳志一、忽以二流人之身一、濫列二凶徒之類一、愚意之至、思慮之讎也、尤招二神兵天罰一、速期二廢跡沈滅一者歟、日月爲二一物一不レ暗二其明一、明王爲二一人一不レ枉二其法一、何以二一情一不レ覺二大徳文一、但君不レ思二召忘亡父數度之奉公一者、早可レ有レ御二幸于西國一歟、于時臣等奉二院宣一、忽出二蓬屋之新舘一、再歸二花亭之舊都一、然者四國九國如レ雲集靡二異賊一、西海南海如レ霞隨誅二逆夷一、其時主上帶二三種神器一、幸二九重之鳳闕一、若不レ雪二曾稽p.0095 之耻一者、相二當于人王八十一代之御宇一、我朝之御寶、引レ波隨レ風赴二新羅高麗百濟契丹一、雖レ成二異朝之財一、終無二歸洛之期一歟、以二此旨一可レ然之様、可下令レ洩二奏聞一給上、宗盛頓首謹言、
元暦元年二月廿八日 内大臣宗盛請文
トゾ被レ書タリケル、
◯按ズルニ、當時平家ノ形勢タル、元暦ノ年號ハ用ヰルベカラズ、壽永三年ヲ用ヰシナルヘシ、元暦元年ハ、恐ラクハ後人ノ改メ書キシモノナラン、
p.0095 元暦元年六月廿三日庚戌、依二神鏡(○○)并神璽寳劔(○○○○)等御祈一、被レ立二廿二社奉幣使一、
p.0095 元暦元年六月廿四日辛丑、頭辨光雅朝臣、御即位〈◯後鳥羽〉之間條々來、院宣云々、〈◯中略〉抑愚案之所レ覃、忽被レ行二即位大禮一之條、理不レ可レ然、此事去年爲親任二奉行一、被二尋問一之時、粗雖レ奏二聞子細一、大略如レ無二許容一、重奏聞似レ有二其恐一、然而愚心内動、上奏不二外顯一者、可レ招二冥顯之恐一、仍憖所二驚奏一也、先我朝之習、以二劔璽(○○)主一爲二國主一、不レ待レ璽踐祚之例、書契以來未二曾聞一、然而依レ無二止事一有二立王事一、天子位不レ虚二一日一之故也、然至二于即位一者、待三劔璽被二歸來一可レ被二遂行一也、神鏡劔璽(○○○○)當時在二賊徒之手一、大都類二紛失一歟、而可レ被レ待二歸來一之由、令レ申之條殆爲二嘲哢之甚一、又可レ謂レ背二時議一、然而中心之襟、鬱陶未レ散、所以何者、去年七月以後、劔璽(○○)歸來事無二籌策一、無二祈禱一、已以無二沙汰一、日月不レ墜レ地、神明亦守レ國、佛法又不レ可レ空、訴二皇天后土、諸神明三寳一指二其期一、一向可レ被レ遂二征伐一也、國家運不レ盡者、必無爲可二歸來一、其後〈◯後原無今補〉被レ遂二即位一、尤可レ謂二上計一也、若又紛失期至者、沈二海底一任二灰燼一歟、見二定其左右一之後、其時實可レ及二議定一也、未レ及二如レ此之沙汰一、暗不レ帶二劔璽一、被レ行二即位一之條、恐不レ重二彼三神一〈◯三種神器〉歟、國土之亂逆、于レ今不レ休、偏以由レ此之、假令十月被二即位一之日以後爲レ期、抛二萬事一之祈禱之、征討一向有二沙汰一者、事也雌雄一時可レ決也、佛神之利益、可レ被レ期二片時一哉、國家第一之大事、棄而無二沙汰一之條、天之警如何如何、光雅朝臣深甘心退出了、
p.0095 文治元年〈◯中略〉去三月廿四日、於二長門國一平家興二源氏一合戰、平家被レ打了、〈◯中略〉不レ知二行方一
p.0096 人、先帝〈◯安徳〉八條院、修理大夫經盛、内侍所(○○○)〈御坐〉進止(○○)〈同〉寳劔(○○)〈不レ見〉女院、二宮、
◯按ズルニ、進止ハ借字ニテ、神璽ナリ、
p.0096 文治二年三月廿四日、於二長門國壇浦一、義經與二平氏一合戰、外祖母准后二品〈入道相國(平清盛)後室〉取二寳劔(○○)一、奉レ懷二先帝一、〈◯安徳〉沒二于海底一崩御畢、
p.0096 元暦二年〈◯文治元年〉三月廿四日丁未、於二長門國赤間關壇浦海上一、源平相逢、各隔二三町一艚二向舟船一、平家五百餘艘分二三手一、以二山峨兵藤次秀遠、并松浦黨等一爲二將軍一、挑二戰于源氏之將帥一、及二午刻一平氏終敗傾、二品禪尼〈◯平清盛妻〉持二寳劔(○○)一、按察局奉レ抱二先帝一、〈春秋八歳(安徳)〉共以沒二海底一、建禮門院〈藤重御衣〉入レ水御之處、渡部黨源五馬允以二熊手一奉レ取レ之、按察局同存命、但先帝終不二令レ浮御一、〈◯中略〉其後軍士等亂二入御船一、或者欲レ奉レ開二賢所(○○)一、于時兩眼忽暗、而神心惘然、平大納言〈時忠〉加二制止一之間、彼等退去訖、是尊神別體、朝家總持也、〈◯中略〉澆季之今猶顯二神變一、可レ仰可レ恃焉、
p.0096 二位禪尼入海并平家亡虜人々付京都注進事
二位殿〈◯平清盛妻〉今ハ限トミハテ給ヒニケレバ、練色ノ二衣引纏ヒ、白袴ノソバ高ク夾テ、先帝ヲイダキ奉リ、帶ニテ我身ニユヒ合セマヰラセ、寳劔(○○)ヲ腰ニサシ、神璽(○○)ヲ脇ニハサミテ船耳ニ臨ミ給フ、先帝〈◯安徳〉ハ八ニゾナラセ給ヒケル、御年ノ程ヨリハ子ビトヽノホラセ給ヒテ、御形アテニウツクシ、御髮黒クフサヤカニシテ、御脊ニカヽリ給ヘル御貌、タグヒナクゾミエサセ給ヒケル、御心マヨヒタル御氣色ニテ、コハイヅクヘユクベキゾト仰セラレケルコソ悲シケレ、二位殿ハ兵共ガ御船ニ矢ヲ進セ候ヘバ、別ノ御船ヘ行幸ナシマヰラセ候トテ、
今ゾシルミモスソ河ノ流ニハ浪ノ下ニモ都アリトハ、トノ給モハテズ、海ニ入リ給ケレバ、八條殿同クツヅキテ入給ニケリ、〈◯中略〉兵共先帝ノ御船ニ亂入テ、大ナル唐櫃ノ鏁ネヂ破リテ、中ナル箱ヲ取リ出シ、箱ノカラゲ緒キリ解テ蓋ヲアケンズトシケレバ、忽ニ目眩鼻血タル、平大納言p.0097 時忠卿見給テ、内侍所(○○○)ノ御箱ナリ、狼籍ナリトノ給ヘバ、判官〈◯源義經〉是ヲキヽテ制止ヲ加フ、武士共御船ヲ罷出ヌ、即平大納言ニ申テ、如レ本御唐櫃ニ納入レ奉ル、末代ト云ヘドモ、カク靈驗ノ御坐スコソ目出ケレ、神璽(○○)ハ海上ニ浮給タリケルヲ、片岡太郞經春取上ゲ奉ル、〈◯中略〉同四月四日、〈◯文治元年〉九郞判官義經合戰ノ次第注進シテ、以二飛脚一院〈◯後白河〉御所ヘ奏申ケリ、注進状ニハ、去三月廿四日午刻、於二長門國壇浦一、平氏悉討取、大將軍前内大臣〈◯平宗盛〉已下虜、神璽内侍所(○○○○○)無爲可二歸入御座一、寳(○)劔嚴島神主景弘仰、探二求海底一、〈◯中略〉トゾ注シ申タリケル、〈◯中略〉同日ニ徳大寺内大臣實定、院御所六條殿ヘ被レ參タリ、以二大藏卿泰經卿一、神鏡神璽ハ無爲ニ御座、寳劔ハ嚴島神主仰二景弘一、探二求海底一之由義經言上ス、生虜前内大臣已下ノ罪科、何様ニ可レ被レ行哉ト被二仰下一ケレバ、實定畏テ璽鏡(○○)事、辨官并近衞司等ヲ雖レ可レ被二指遣一、定テ及二遲參一歟、先爲二軍將沙汰一奉レ渡二淀邊一事由ヲ奏セバ、供奉人等參向シテ、奉レ迎之條可レ宜歟、生虜ノ輩ガ罪ノ所レ致、只可レ被レ决二叡慮一トゾ被レ申ケル、〈◯又見二平家物語、愚管抄一、〉
p.0097 文治元年四月四日丁巳、早旦人告云、於二長門國一討二伐平氏等一了云々、未刻、爲二大藏卿泰經奉行一、義經伐二平家一了由言上、其間有下可レ被二仰含一事上、可二參入一之由被二仰下一之、灸治無レ術之間、相二勞今兩三日之間一、可レ參之由申了、相次頭辨光雅朝臣來臨、余如レ例隔二障子一謁レ之、依二灸治一不レ能二衣服一之故也、光雅仰云、院宣云、追討大將軍義經去夜進二飛脚一〈相二副札一〉申云、去三月廿四日午刻、於二長門國團一合戰、〈於二海上一合戰云々〉自二午正一至二晡時一、云二伐取之者一、云二生取之輩一、不レ知二其數一、此中前内大臣〈◯平宗盛〉右衞門督清宗〈内府子也〉平大納言時忠全眞僧都等爲二生虜一云々、又寳物等御座之由、同所二申上一也、但舊主〈◯安徳〉御事不二分明一云々、次第如レ此、此上事何様可レ被レ行哉、先生虜等事如何、次三種寳物(○○○○)歸來之間事又如何、此兩條殊可二計申一云々者、余申云、生虜等事短慮難レ及、只在二叡慮一、三種寳物(○○○○)歸來事、自二戰塲一歸洛之間事偏爲二武士之沙汰一、公家不レ可二知食一歟、只不二事問一、無二左右一奉レ相二具三神一可二歸洛一也、其後始可レ達二天聽一、其來着之所、鳥羽御所可レ宜歟、豫得二其告一先法皇〈◯後白河〉可二渡御一也、其後奉レ迎二取劔璽神鏡(○○○○)一、更可レ被レ告二申公家一也、其時忽從二車駕臨幸一奉レ爲レ先、劔璽(○○)還二御内
p.0098 裏一、次第尤穩便歟、故何者、先公卿次將等參二戰場一事、太不レ叶二物儀一、還可レ爲二擁怠之基一、仍武士等無二左右一奉二相具一、可二參洛一也、次入二御内裏一之次第、次將奉レ持レ之、公卿歩行供奉之條、偏可レ似二讓位之儀一、頗有レ憚、此外又無二他計一、仍爲レ奉レ迎二三神一、有二行幸一之條、於レ儀可レ謂レ崇二重靈器一、於レ禮又穩便歟、次可下來二著鳥羽一給上之由、令レ申故者、武士等奉レ具、不レ備二威儀一令レ入二洛中一給之條、尤非二穩便一歟、仍可レ有レ行二幸鳥羽一之由所レ申也、愚案之所レ及大概如レ此者、光雅云、上皇宮劔璽(○○)渡御如何、余云、此儀可レ然、但劔璽渡御之時、避二正居一可レ御二他屋一也、是恐思食之儀也、總非二院御所一之條者、還又可レ無レ便、隨レ宜之儀何難之有哉、又云、歸京之間、海陸其路如何、餘云、以レ無レ恐可レ爲レ先、可レ被レ尋下知二案内一輩上也、光雅私示云、欲レ被二十二社奉幣一、而既成二追討之功一了、然者於レ今者蹔被二延引一、可レ被レ申二此慶由一歟、是内々所レ申也、余云、努々不レ可レ然、殆可レ被二縮行一也、其追討之條雖レ無レ疑、三種寳物(○○○○)事猶以有二不審一、〈是脚力申状、不二分明一之由光雅所レ申也、〉縱雖二安穩御坐一、非レ無二歸路之恐一、然者彌依レ得二此告一、雖二片時一可レ被二急立一也、不レ可レ及二異儀一云々、光雅甘心退出了、
p.0098 神鏡神璽還幸事
同〈◯文治元年四月〉二十一日、神鏡神璽(○○○○)還幸事、院御所ニテ議定アリ、左大臣經宗、右大臣兼實、内大臣實定、皇后宮大夫實房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、前源中納言雅頼、左衞門督實家、源中納言通親、新藤中納言雅長、左大辨兼光ゾ被レ參タリケル、頭中將通資朝臣諸道勘文ヲ左大臣ニ下シケレバ、次第ニ傳下ス、左大辨讀レ之、群議之趣雖二事多一、神鏡神璽入御事、供奉之人鳥羽ニ參向シテ奉レ渡二朝所一、朝所ヨリ儀ヲ整テ、可レ幸二大内一トゾ被二定申一ケル、
p.0098 老松若松尋レ劒事
潛キスル蜑ニ仰テ探リ、水練ノ者入レテ被レ求ケレ共終ニ不レ見、天神地祇ニ祈請シ、大法秘法ヲ被レ行ケレ共無レ驗、法皇〈◯後白河〉大ニ御歎アリ、佛神ノ加護ニ非ズバ難二尋得一トテ、賀茂大明神ニ七日有二御參籠一、寳劒ノ向後ヲ有二御祈誓一、第七箇日ニ有二御夢想一、寳劒(○○)ノ事、長門國壇浦ノ老松若松ト云海士ニp.0099 仰テ、尋聞召ト靈夢新ナリケレバ、法皇有二還御一、九郞判官〈◯源義經〉ヲ被レ召テ、御夢ノ旨ニ任テ被二仰含一、義經百騎ノ勢ニテ西國ヘ下向、壇浦ニテ兩蜑ヲ被レ召、老松ハ母也、若松ハ女也、勅定ノ趣ヲ仰含、母子共ニ海ニ入テ、一日アリテ、二人共ニ浮上ル、若松ハ子細ナシト申ス、〈◯此間恐脱二老松二字一〉我力ニテハ不レ叶、怪キ子細アル所アリ、凡夫ノ可レ入所ニハアラズ、如法經ヲ書寫シテ身ニ纏テ、以二佛神力一可レ入由申ケレバ、貴僧ヲ集テ、如法經ヲ書寫シテ老松ニ給フ、海士身ニ經ヲ卷テ海ニ入テ、一日一夜不レ上、人皆思ハク、老松ハ失タルヨト歎ケル處ニ、老松翌日午刻計ニ上、判官待得テ子細ヲ問、非レ可二私申一、帝ノ御前ニテ可レ申ト云ケレバ、サラバトテ相具シ上洛、判官奏シ申ケレバ、老松ヲ法住寺御所〈◯後白河〉ニ被レ召、庭上ニ參ジテ云、寳劔(○○)ヲ尋侍ランガ爲ニ、龍宮城ト覺シキ所ヘ入、金銀ノ砂ヲ敷、玉ノ刻階ヲ渡シ、二階樓門ヲ構、種々ノ殿ヲ並ベタリ、其有様不レ似二凡夫栖一、心言難レ及、暫總門ニタヽズミテ、大日本國ノ帝王ノ御使ト申入侍シカバ、紅ノ袴着タル女房二人出テ、何事ゾト尋、寳劒(○○)ノ行ヘ知召タリヤト申入侍シカバ、此女房内ニ入、ヤヤ在テ暫ラク相待ベシトテ又内ヘ入ヌ、遙ニ在テ大地動、氷雨フリ、大風吹テ、天則晴ヌ、暫アリテ先ノ女來テ是ヘト云、老松庭上ニスヽム、御簾ヲ半ニアゲタリ、庭上ヨリ見入侍レバ、長ハ不レ知、臥長二丈モヤ有ラント覺ル大蛇劒ヲ口ニクハヘ、七八歳ノ小兒ヲ懷キ、眼ハ日月ノ如、口ハ朱ヲサセルガ如シ、舌ハ紅袴ヲ打振ニ似タリ、詞ヲ出シテ云、ヤヤ日本ノ御使、帝ニ可レ申、寳劒(○○)ハ必シモ日本帝ノ寳ニ非ズ、龍宮城ノ重寳也、〈◯中略〉此劒日本ニ返事ハ有ベカラズトテ、大蛇内ニハヒ入給ヌト奏シ申ケレバ、法皇ヲ奉レ始、月卿雲客皆同成二奇特思一給ニケリ、偖コソ三種神器ノ中、寳劒ハ失侍リト治定シケレ、〈◯又見二愚管抄、醍醐雜事記、吾妻鏡、平家物語一、〉
p.0099 元暦二年〈◯文治元年〉四月廿四日丁丑、賢所神璽(○○○○)令レ着二今津邊一御、仍頭中將通資朝臣參二其所一、入レ夜藤中納言、〈經房〉宰相中將、〈泰通〉權右中辨兼忠朝臣、左中將公時朝臣、右少將範能朝臣、藏人左衞門權佐親雅等、參二向桂河大渡一之後、經二朱雀大路并六條一、自二大宮一入二御待賢門一、渡二御官朝所一、〈經二東門一〉此間大夫判官
p.0100 義經着レ鎧供奉、候二官東門一、督長着二布衣一、取二松明一在レ前云云、
p.0100 文治元年四月廿五日戊寅、雅頼密々相二具行事辨一、參二向草津一、私侍五人、辨侍一人在レ後、行事辨相二具深沓并裏無等一、爲レ備二歩行一也、史生盛安、官掌爲久等、今朝沙汰具二幄㡢等一、參二向草津一了云々、酉始參二着高畠橋下方一、不レ幾付二御船一、〈二尾(一本作レ瓦)河市古幣船也、中程懸二隔簾一爲二神殿一、女房一人在二御船一稱二内侍一、不レ知二誰人一、〉其御船岸上、北方立レ幄〈東西行〉爲二上卿參議辨等座一、〈◯中略〉内侍所命婦〈讃岐守女稱二之一博士一〉女官等參仕、秉燭之後、職事等入二御船中一、令二博士一奉レ令レ移二入賢所(○○)於省辛櫃一了、次泰通卿參入、取二神璽(○○)一奉レ入二同辛櫃一了、女官等奉レ舁二出之一了、駕輿丁奉レ荷二賢所(○○)一、衞士奉レ荷二神璽(○○)一了、此間頭中將乘レ車先行了、次行事辨着二深沓一前行、次參議、〈蒔繪劔〉次上卿次將、〈蒔繪劔、壺胡籙、〉次御辛櫃以二兩面一覆レ之、以レ綱奉レ結レ之、次神璽御辛櫃、〈同上〉次藏人佐等供奉、路間或騎馬各別路云々、行事辨兼忠始終歩行云々、路自二作路一經二羅城門一、自二朱雀大路一北行、於二六條朱雀一有二院〈◯後白河〉御見物一、〈御車云々〉自二六條東大路一北行、自二待賢門一官東門入御、奉レ安二朝所一、隆職宿禰伺候也、伺候女官交名、〈追可二尋註一之〉 廿七日庚辰、此日神鏡神璽自二朝所一入二御大内一、先有二行幸一云々、子細可二尋記一之、自二今夜一即被レ行二内侍所御神樂一云々、 廿八日辛巳、傳聞、其夜入二御諸司一之時、供奉之輩參仕、無二諸卿皆參之儀一、先行幸、其後渡御云々、神鏡御二温明殿一之後、奉レ移二元御辛櫃一云云、神璽(○○)同入二御温明殿一、開二辛櫃蓋一、頭中將通資朝臣取レ之、持二進御殿一云云、〈◯又見二百練抄一〉
p.0100 神鏡神璽都入并三種寳劒事
同〈◯文治元年四月〉廿五日、神鏡神璽(○○○○)入御アリ、〈◯中略〉神鏡神璽(○○○○)ハ入御アレ共、寳劒(○○)ハ失ニケリ、神璽ハ海上ニ浮ケルヲ、常陸國住人片岡太郞經春ガ奉二取上一ケルトゾ聞エシ、神璽ヲバ注(シル)シノ御箱ト申、國手璽(テシルシ)也、王者ノ印ナリ、有レ習云々〈◯又見二平家物語一〉
p.0100 大臣殿舍人〈附〉女院移二吉田一并頼朝叙二二位一事
同〈◯文治元年四月〉廿七日、主上〈◯後鳥羽〉閑院ヨリ内裏ニ行幸有ケリ、大納言實房卿以下ゾ被二供奉一ケル、内侍(○○)p.0101 所神璽(○○○)官廳ヨリ温明殿ヘ被レ奉レ渡、上卿、參議、辨、次將、皆モトノ供奉人ナリケリ、三箇日被レ行二臨時御神樂一ケリ、
p.0101 元暦二年〈◯文治元年〉五月五日丁亥、爲レ可レ奉レ尋二寳劒(○○)一之、以二雜色一爲二飛脚一、下二知參州一、〈◯源範頼〉
p.0101 文治元年五月六日、今日爲レ報二賽平家追討事一、被レ行二廿二社奉幣宣命一之趣、去三月廿四日、魁首以下生虜既多、神鏡御璽(○○○○)安穩歸御、神所レ致也、但爲二凶黨一寳劒(○○)投二海底一訖、冥徳可二顯現一之子細等也、神宮依二別御願一、被レ獻二神馬并金銀幣一、又可レ被レ立二公卿勅使一之由、被レ載二辭別一云云、
p.0101 文治元年六月廿二日、平家生取等、自二坂東一將レ上二入京一、〈◯中略〉寳劒者(○○○)被レ問二内大臣一〈◯平宗盛〉之處、最初者奉二伊津久志麻乃神一之由陳申云云、後者内大臣掬レ手入レ海落入失了云云、
p.0101 御門はじまりてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申おはしき、〈◯中略〉壽永二年八月廿日、御とし四にてくらゐにつかせたまひけり、内侍所神璽寳劒はじやうゐの時、かならずわたる事なれど、せんてい〈◯安徳〉つくしにいでおはしにければ、こたみはじめて三の神器なくて(○○○○○○○)、めづらしきためしになりぬべし、後にぞ内侍所しるしの御箱ばかり歸りのぼりにけれど、寳劒は、つひにせんていの海に入給ふ時、御身にそへてしづみけるこそいとくちをしけれ、
p.0101 寳劔神璽
御劒者、〈◯中略〉壽永入レ海紛失之後、院〈◯後鳥羽〉御時以後廿餘年、被レ用二清涼殿御劒(○○○○○)一、仍以レ璽爲レ先、而承元〈◯土御門〉讓位時有二夢想一、自二伊勢一進レ之已來、又准二寳劒一、以レ劒爲レ先也、此劒普通蒔繪也、
◯按ズルニ、清涼殿ノ御劍ハ、晝ノ御座ノ御劍ト稱スルモノナリ、此劍ヲ以テ寳劍ニ擬セシコト二十餘年トアルニ據レバ、後鳥羽天皇ノ建久元年庚戌ヨリ、土御門天皇ノ承元四年庚午ニ至ル迄、二十一年間用ヰラレシナリ、下ニ引ケル心記ヲ考フベシ、晝御座御劍ハ、別ニ其條アリ、參看スベシ、
p.0102 文治六年正月三日、天皇〈◯後鳥羽〉御元服、〈◯中略〉今日始被レ相二具晝御座御劒一、依二其沙汰一、日景傾、〈◯下略〉
p.0102 文治六年〈◯建久元年〉正月三日、御劒(○○)間事、自二舊年一有二沙汰一、又夜前被レ問二人々一、只今又神祇大輔兼友、參二御直廬一申二龜卜趣一、御劒事、可レ被レ用二晝御座御劔(○○○○○)一之由事切畢、日來璽箱爲レ先レ之、内侍持レ之、行幸時立二右方一、而被レ用二晝御座御劒一者、璽如レ元在レ前、劒可レ在二御後一云云、
p.0102 建久九年正月十一日己酉、今日有二御讓位〈◯後鳥羽〉事一、〈◯中略〉次神璽、次御劒、〈寳劔沈二海底一之後、被レ用二晝御座之御劔一也、〉
p.0102 崇光院受禪事
天正本云、貞和四年戌子、〈◯中略〉十月二十七日、興仁王〈◯崇光〉南面ノ位ヲ踐セ給ヒシカバ、即三種ノ神器ヲ渡サレケリ、〈◯中略〉此内寳劔ハ、安徳天皇西海ノ波ニ沒シ給フ時沈失ケル後、晝御座御劔是ニ準ジ用ラル、
p.0102 承元四年十二月十日甲子、今日爲レ被レ立二伊勢幣一、行二幸神祇官一如レ法、〈◯中略〉公卿列立之後寄二御輿一、先レ是左中將資家、右中將公氏見二御座覆一、忠信卿以下公卿將二人、猶相二從于御輿一、太〈◯太恐誤〉列二階東西一、忠信卿昇レ階跪二南簀子一、置レ弓刷二下重一、更立進來開二輦戸一、經二筵道西一昇二長押一、更東行取レ劔、經二本路一入二御輿一、此御劒大神宮御物也、依二夢想告一、祭主卿〈◯大中臣親俊〉令レ進二後白河法皇一、被レ納二蓮華王院寳藏一、而寳劔沈二海底一之後、以二晝御座御劒一爲二寳劒代一、院〈◯後鳥羽〉新院〈◯土御門〉御在位之時、兩代如レ此、件晝御座御劔(○○○○○)、近衞入道攝政〈◯藤原基通〉所レ被二造進一也、依レ爲二代劔一有二豫儀一、以レ璽爲レ先、以レ劔爲レ後、日來如レ此之條、強不レ可レ然歟、然而二代御在位之間、如レ此馳過了、而可レ被レ用二神宮御劔一之由、上皇被レ仰二合人々一、〈松殿入道關白、(基房)近衞入道攝政、(基通)入道左府、(經宗乎)〉一同尤可レ然之由被レ申之、仍去五日被レ進二禁裏一、今日行幸如レ元、以レ劒爲レ先、
p.0102 壽永二年六月廿三日、近曾祭主親俊奏二法皇一云、夢想云、參二神宮一平二伏庭上一、父親定并親章卿〈兩人過去者〉在二堂上一、以二親定一傳レ仰云、於レ我者令レ向二天宮一給畢、禪定法皇〈◯後白河〉卿事、所下令レ申二付荒祭宮一給上也、可レ被レ奉二御劒一、早可レ進レ院也、又當宮守護事、以二泰經一可二申沙汰一也、此後夢醒了、後朝内宮一禰宜、成長
p.0103 持二來御劒一〈蒔レ虎〉云、可レ進レ院之由有二夢想一、仍自二寳殿一所二取出一也、請二取件劔一忽上洛者、〈定日可二尋注一〉
◯按ズルニ、此劍ハ實宣卿記ニ據ルニ、壽永二年ニ祭主ヨリ進レルモノニテ、百練抄ニ擧ゲタルモノナルベシ、故ニ此二書ヲ附載セリ、然レドモ禁秘御抄ニハ承元四年順徳天皇受禪ノ時ニ進ル所トス、禁秘御抄ハ當時親ラ禪讓ヲ受ケテ記シ給ヘルモノナレバ、今並ベ擧ゲテ識者ノ考ヲ俟ツ、史ヲ按ズルニ、順徳天皇ノ受禪ハ、十一月二十五日ニシテ、禁秘御抄ニハ、此日ニ此劍ヲ用ヰルトシ、實宣卿記ニハ、始テ此ヲ用ヰルヲ以テ十二月五日ノ事トス、是必ズ其間ニ一誤アルベシ、要スルニ此劍ハ萬世無窮ノ寳器ト爲レリ、
p.0103 三位入道藝等事
惡右衞門督信頼ガ天下ニ秀タリシ時、殿上ノ刻ミ階ニ夫男一人立タリ、信頼彼ハ何ニ、狼籍也ト申ケレバ、掻消様ニ失ヌ、某(ソレ)ニ〈◯某ニ(○○)トハ然ルニト云フ意ナリ〉一ノ劔アリ、信頼クセ事也ト思テ、寳物ノ御劔ニモ候ラン、燒鐔ノ劔ナラバ、山ヲモ岩ヲモ可二破崩一トテ、此劒ヲ㧞、御坪ノ石ヲ切ルニ、劒七重八重ニユガム、曲ナキ者也トテ、温明殿ノ椽ニ棄置レヌ、折節頼政參會タリ、信頼欺レ之イカニ劒ハ見知給ヘルカト申、頼政弓矢取身ニテ侍ル、如レ形知タル候ト云、其時少輔内侍ト云以二女房一、大床ニ棄置所ノ劒ヲ被二召寄一ケルニ、曲タル劒忽ニ直テ鞘ニ納ル、不思議也トテ頼政ニミセラル、頼政打見テ仰テ、マメヤカノ御劔也、朝家ノ御守タルベシ、其故ハ大神宮ニ五ノ劒アリ、當時内裏ニ御座ス寳劒ハ第二ノ劒、是ハ第三ノ劔也、但頼政イカヾシテ神劔ヲ知侍ルベキナレ共、作人ニ依テ劔體ヲ知、其上今夜ノ夜半ニオヨビテ、天ノ告示給事アリ、國ヲ守ラン爲ニ皇居ニ一ノ劔ヲ奉ル、即寳劔是也、亡國ノ時ハ此劔又寳劔タルベシ、爲二用意一奉二權劒一ト見テ候、折節今日御劔出現之條、併國ノ御守ト覺ユト申、其時信頼卿フシギ也ト思ヒ、サラバ劔ノ徳ヲ施給ヘト云、頼政靈劔自由ノ恐アリトイヘ共、仰ニテ侍バ、何事ヲカ仕ベキト申、御前ノ坪ノ石ヲト聞ユ、畏テトテ頼政彼石ヲ切ルニ、カケp.0104 ズ散々ニ切破テ見參ニ入奉ル、禁中サヽメキ、上下驚レ目、信頼始ハ欺テ云タリケレ共、今ハ恐クゾ思ケル、サテ劒ノ咒返ヲ滿テ、鞘ニサシテ温明殿ニ移シ置ル、加様ニ勘申ケレドモ、不肖〈◯不肖(○○)ハ不請ナリ、其言ヲ信ゼザルナリ、〉ニ被二思召一ケレバ頼政ガ言ヲ不レ被レ信、元暦二年三月廿四日ニ、寳劔浪ノ底ニ沈マセ給テ後、彼劔寳劔ト成シ時コソ頼政實ニ非二直者一ト被二思召一ケレ、
◯按ズルニ、此ハ伊勢ヨリ進リシ神劍ニ就テノ、一箇ノ妄説ナルベシ、
p.0104 四月一日、〈◯元弘三年〉大仙寺に可レ然衆徒等を召て勅定〈◯後醍醐〉有けるは、御在所の内しかじかなる劍可レ有、取て進せよと被二仰下一、罷歸て奉レ見ば、品々の劍も候けるが、如二勅定一なる劍はなし、乍レ去とて似たる劍を取て進らする、是にてはなし、能々見て參れと勅定なり、頻に求けれども無レ之由を奏す、唯見て參れ、能々尋て進せよと有二勅定一間、進退きはまりなく、衆徒等以の外仰天して、重て見る處に、御神體の御膝の下に、何の代より納りたりとも知ず御劍あり、是にて渡らせ給けりとて悦けり、其時備中青江と申鍛冶、大仙權現の夢想あり、我劍をば船上山の君に可レ進事あり、其代に長さ一尺九寸の劍を作て進よ、又我劍に五分まさりたる劍を作て、船上山の君に進よと示現を蒙り、其ごとく作て參て候なりと申、折節劍を求出したりける時分に參合たりければ、不思議の思をなし、青江が作りたる劍を、求出したる劍にくらぶれば少も不レ違、誠權現の御託宣なりと頼敷思て、衆徒等代の劍をば在所に籠て、求出したる劍と、青江が作りたる劍と二つ持て參たり、是こそよと勅定ある、何なる御告にてや有けん、不思議なりし事どもなり、鍛冶には恩賞を被レ下けり、
◯按ズルニ、富永芳久ノ寳劍考證ニ、大仙權現ヲ以テ出雲大社ノ事トスレドモ、今取ラズ、