p.0673 竹ハ、タケト云フ、其種類甚ダ多シ、神代既ニ竹ニテ刀及ビ籠ヲ造リ、又筍ヲ食料ニ供セシコトアレバ、以テ竹ノ利用セラレシ事モ甚ダ古キヲ知ルベシ、而シテ竹ハ又弓箭ノ料ト爲シ、或ハ笛、竿、樋、垣籬等ノ材ト爲シ、割リテ席ニ編ミ、簾ヲ製シ、綰ネテ箍ト爲シ、又籜ハ笠ヲ縫ヒ、履ヲ織リ、食品ヲ裹ミ、竹茹ハ綯ヒテ火繩ニ爲ス等、其用途頗ル廣シ、
p.0673 竹〈篁附〉 四聲字苑云、竹〈 六反、和名多計、〉草也、一云非レ草非レ木、兼名苑注云、 〈王麏反〉竹總名也、孫愐切韻云、篁〈音皇、和名太加無良、俗云太加波良、〉竹藂也、
p.0673 冬生艸也、〈云冬生者謂二竹胎一、生二於冬日枝葉不レ凋也、云レ艸者、爾雅竹在二釋艸一、山海經有云其艸多竹故謂二之冬生艸一、戴凱之云、植物之中有二艸木竹一、猶動品之中、有二魚鳥獸一也、〉象形、〈象二兩兩竝生一、 玉切、三部、按廣韵張六切、〉下 者 箬也、〈恐人未レ曉二下 之 一、故言レ之、〉凡竹之屬皆从レ竹、
p.0673 竹(タケ) 篁(タカムラ/タカハラ)〈同、和名類聚、〉 (タケ)〈同〉 此君(シクン) 瀟洒侯(セウシヤコウ)
p.0673 竹(タケ)〈異名石母草、又此君、時珍云、小曰レ篠、大曰レ簜、〉
p.0673 竹 かは くれ むら いさヽむら〈万〉 さヽ ふえ より なよ わか〈源氏〉 うへ〈万、値也、〉 とよ〈初學〉 まの 万にやはしのしの から〈俊抄〉 いし〈竹名〉 ゆさヽ ちひろの いほつヽのたかむらこをむすびてつりはり水し竹なりあなさよけ〈是は竹のはのうへなり、在二古語拾遺一、〉源氏曰 むつかしきさヽのくまをこまひきとむる程もなくと 云り、さヽのくまは、たヾさヽの生たる所なり、源氏曰、くれたけのわざとなくかぜにこぼれたるにほひといへり、雖レ非二薫香一ものヽいろにつれてにほひといへり、竹にもいふべし、
p.0674 竹河竹 くれ竹 谷のくれ竹 むら竹 さヽ竹 いさヽむら〈或はいさヽむら竹とも云歟〉 ふえ竹 より竹 なよ竹〈よながきとよめり〉 わか竹 うへ竹 とよ竹〈初學〉 やはしのしの からはし〈竹名〉 ゆさヽ ちいろの竹 もヽしきの玉のみぎりのみかい竹 われ竹 しのへ竹 の竹 まの竹 とよらの竹 あはら竹 から竹 さヽわくる袖 さヽ枕 さヽのはら〈又のヽ字なくても〉 さヽの葉 をさヽ をさヽ原〈又をさヽかはら共、かの字ありても、〉 谷の竹ふ いはねのを竹 岩まの竹 たま竹こ竹のはら あさ篠原 木にもあらず草にもあらぬ竹 いほつヽのたかむら〈こをむすひてつりはりもとめし也〉 むつかしきさヽのまくら〈源氏〉 くれ竹のわざとなくかぜにこぼれたるにほひといへり、〈源氏也、雖レ非二薫香一、物の名につけて匂といへり、竹にもいふべしと云々、〉 千色草〈たけの異名也〉 小枝草〈同〉 河玉草〈同、秋風はまとなる松にかよふなり河玉草をなにといふべき、藏玉、〉 夕玉草〈これはたけ露をかく云也、月にきくゆふ玉くさのあき風に音はいつころね覺とはまし、藏玉、〉竹のふりね むらさきの竹 にが竹〈古今〉 竹のさ枝 さヽの葉のさやく たけのつほえ 葉かへせてとしふる竹のかきうち 篠むすびしづがかきねのさヽくろめ〈新六〉 色かへぬ竹のは、ちいろあるかけ〈是竹也〉竹のは山 こさヽ生にされたる竹〈屈竹也、ゆがみたる體也、源氏、〉
p.0674 竹(タケ) 高きなり、けとかと通ず、筍は旬日の間に長じて、高き事天にそびゆ、是草の中いと高き物也、
p.0674 竹タケ 萬葉集抄に、タとは高き義なりといひけり、ケとは古語に木をケといふが如し、タケとは其生じて高きをいふなり、
p.0674 たけ〈◯中略〉 竹は一旬にして長高きの意也といへり、八月を伐の時とす、群芳譜 に竹小春といへり、
p.0675 題しらず よみ人しらず木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしに我身は成ぬべらなり
p.0675 竹 タケ〈和名抄〉 コヱダグサ〈古歌〉 ユウタマグサ カハタマグサ チイログサ チヒログサ カクバシラ〈共同上〉 一名處士〈事物紺珠〉 瀟洒侯 瀟碧 青玉 蒼雪 蒼琅 青癯子 蒼庭 貞柯 碧玉 明玕 管若虚〈共同上〉 抱節君〈事物異名〉 此君 妬母草 化龍枝 君子 戸魯孫 青士〈共同上〉 賞靜〈輟耕録〉 比封君〈典籍便覽〉 寒玉〈正字通〉 華草〈廣東新語〉
p.0675 竹 〈たけ〉竹の物にあらはれしは、天照大御神乃伊都の竹鞆をとりおはしてと〈古事記〉みえたるぞ初なるべき、〈◯中略〉名用(ナヨ)竹、名湯竹、細竹、目刺竹、宇惠竹、辟竹、打竹の名は、萬葉集に出、河竹に川竹呉竹斑竹等の稱は、延喜式にみえたり、その河竹に箸竹の字を塡めしは、和名抄に辨色立成を引、呉竹に笄竹の字、また於保多介に淡竹の字を塡めしは、同書に楊氏漢語抄を引るを始とす、〈◯中略〉扨西土の書に、たヾ竹と稱するものは、即大小の通名なるは論なし、我古に竹とのみ稱せしは、全く大なる物にして、篠と稱するものは、即小なるものなり、故に小竹宮小竹祝小竹田の類は、皆その字の如くになるものなれども、竹林、竹屋、竹爲レ筏類は、すべて大なる物をさしていふ、既に萬葉集に刺竹宇惠竹辟竹の名ありといへども、其竹はかならず名湯竹細目竹をさしていへるにあらず、且刺竹宇惠竹は、原より一種の竹の名にあらざるによれば、名湯竹細目竹の外に、舊より別種の竹の大なるものありし也、されど今世のごとくに、それ〴〵の漢名を命じて、區別せしものにあらざれば、それをばすべて竹とのみ稱し、或は刺竹宇惠竹などヽ歌にはよめるなるべし、また雄略天皇の御製に、木の根の根はふ宮、竹の根の根足宮といへる事みえたり、其木の根は小木根をさしてい へるにあらざれば竹の根もまた小竹根にはあらざるべし、然るを或人の説に、皇朝自然生の竹は、すべて篠類にして、大竹は皆後世外國より持來れるが繁衍せしなりといへり、これは魏志倭人傳に、其竹篠簳桃支といへる文によりて、しかいへるなるべけれども、それは全く我産物の十が一を、おほよそに西土にて書しるせし物なれば、或は我海濱諸島上には、多く篠簳類の小竹を産するを見て、その一偏に拘はりて、さらに國中に大竹ある事をしらず、又は信濃加賀越前越後などの雪國には、古より今に至るまで、絶て大竹あることなし、たヾ熊笹須壽竹の類のみにして、出羽及び陸奧なども、南部領に至りては、生涯竹をみざる者あるよし、續東遊記にみえたり、これによれば皇朝といへども、竹は暖國の産にして、寒國には絶てなきもの、おそらくは西土の人、かかることを傳へ聞て、漫にその説をなせしもしるべからず、
p.0676 於レ是若日下部王令レ奏二天皇一、背レ日幸行之事甚恐、故已直參上而仕奉、是以還二上坐於宮一之時、行二立其山之坂上一、歌曰、〈◯中略〉夜麻能賀比爾(ヤマノカヒニ)、多知邪加由流(タチザカユル)、波毘呂久麻加斯(ハビロクマカシ)、母登爾波(モトニハ)、伊久美陀氣(イクミダケ/○○○○○)淤斐(オヒ)、須惠幣爾波(スエヘニハ)、多斯美陀氣(タシミダケ/○○○○○)淤斐(オヒ)、〈◯下略〉
p.0676 伊久美陀氣淤斐(イクミダケオヒ)は、伊(イ)は伊理(イリ)の理(リ)を省けるなり、久美(クミ)は、師説に〈◯賀茂眞淵〉久麻加斯(クマカシ)の久麻(クマ)とひとしくて、葉の繁ければ、隱(コモ)り竹と云を約めて、久美竹(クミダケ)と云なりとあり、〈冠辭考さす竹の篠に見ゆ、其説の中に、(中略)伊を發語なりと云はれたるもいかヾ、發語に伊と云は用言に限れり、體言の頭に置る例なし、此の久美は本は用言なれども、久美竹と云ときは、體言なれば、然るときに發語の伊を置ことはなきなり、〉又思ふに、物の彼と此と一に相交はる意にもあるべし、〈組と云名も糸を相交へたるよしなり〉されば伊久美竹は、葉の茂くして、彼此相入交り合へるよしなるべし、〈俗言にも事の彼此と繁く雜り合を、入くむと云も同言なり、契冲が、いくみ竹は、竹の名なりといへるはたがへり、一種の竹の名には非ず、たヾしげれるよしなり、〉淤斐は生なり、〈◯中略〉多斯美陀氣淤斐は、師説に立繁竹生(タチシミタケオヒ)なりとあり、〈冠辭考さす竹條に見ゆ〉立は生立るさまを云るにて、万葉一〈二十三丁〉に、春山跡(ハルヤマト)、之美佐備立有(シミサビタテリ)などもあり、立榮(タチサカユル)の立も同じ、〈契冲がたしみ竹を、竹の名なりと云るは違へり、〉さて上の伊久美竹と、此と 二種には非ず、共にたヾ凡の竹の貌(サマ)なるを、かく二〈ツ〉に分〈ケ〉て云は、古歌に此類多し、
p.0677 節(○) 野王案、節〈音切、和名布之(○○)、〉竹中隔而不レ通者也、兩節間 文選笙賦注云、黄帝使下伶倫〈靈鄰二音、汪竹樂人也、〉斷二兩節間一而吹 之、〈兩節間俗云與(○)、故以擧レ之、〉
p.0677 節(フシ)〈 同〉
p.0677 節(フシ)〈竹〉
p.0677 節(フシ)〈音切〉按竹中隔而不レ通者曰レ節、〈和訓布之〉兩節間俗云レ與、竹青皮曰レ 、〈音云〉禮記云、猶二竹箭之有 、筍皮曰レ籜、凡竹物之有二筋節一者也、故筋節字从レ竹、
p.0677 扶竹(フタマタタケ/○○) 〈雙竹、天親竹、相思竹並同、〉
p.0677 雙岐竹(ふたまたたけ)五雜俎云、武夷城高巖寺後有レ竹、本出レ土尺許、分二兩岐一直上、此亦從來未レ見之種、 五行志云、太平興國寺亦有、按、攝州天王寺有レ之、淡竹之二岐者處、處亦希有、
p.0677 (タケノハ)〈竹葉(○○)也〉 (同)〈同上〉
p.0677 竹葉 淡竹葉〈草有二淡竹葉者一、同名異物也、〉淡竹葉〈辛苦寒〉 除二新久風邪之煩熱一、止二喘促氣勝之上衝一、煎レ湯洗二脱肛不 收、同レ根煎洗二婦人子宮下脱一、
p.0677 佐々村、品太天皇〈◯應神〉巡行之時、猿嚙二竹葉一而遇之、故曰二佐々村一、
p.0677 百葉竹(ひやくえふちく/○○○)本綱、百葉竹一枝百葉、按、一枝百葉竹未レ知二有也否一、今苅二下枝葉及中心稍一、頂上一處遺二枝葉一、則葉甚茂盛、如二一枝百葉一作成 者也、
p.0678 たけ〈◯中略〉 雄竹をから竹(○○○)といふ、常の竹也、雌竹をみがこ(○○○)といふ、後まで皮つけり、業平竹(○○○)は雄竹にて、節は雌竹のごとし、よて名く、箱根竹(○○○)は細長し、品川竹(○○○)は川竹(○○)の如し、薩摩竹(○○○)は雌竹の品、兼好竹(○○○)は竹うるはしく、葉ものびやかなる物也、三(○)〈ツ〉股竹(○○)は武藏足立郡芝村にあり、實竹(○○)あり、よなしとぞ、又節一ツにて段々まきあげたるあり、美濃高須の南かちあひといふ所の八幡の社内に豐竹(○○)あり、圍四五寸もあり、寒竹(○○)の大なる如し、八月筍を生ず、當摩のまんだらにつきたる軸、一節一丈餘あり、今洛東の禪林寺にあり、こは南廣の篔簹竹(○○○)なるべし、葉竹(○○)は淡竹、眞竹(○○)は苦竹、土用竹(○○○)は鳳尾竹、鳳凰竹ともいふ、筍を生ずる三伏にあり、南京竹(○○○)は義竹、しゆろ竹(○○○○)は椶竹、金竹(○○)は對青竹、島竹(○○)は、黄金間碧、玉竹淡竹(○○○○)と呼は秋蘆竹、玳瑇竹(○○○)、班竹(○○)、箭竹(○○)の稱は和漢同じ、漢竹(○○)可レ爲二桶斛一者は豐後より出、黒竹(○○)は薩摩にあり、和漢の稱同じ、簜竹(○○)如二蘆葦一といふ者も和漢同じ、布袋竹(○○○)は佛面竹、觀音竹(○○○)和漢同じ、四方竹(○○○)は方竹也、乳兒竹(○○○)は山白竹、根篠(○○)は千里竹、かしろ竹(○○○○)は皮白の義、䈽竹也、翁竹(○○)あり、葉に島あり、雪竹(○○)の類也、夜叉竹(○○○)あり、北地に出、一節ごとに四方に枝さし出る竹は吉野竹林院にあり、孟宗竹(○○○)は近年渡來す、對青竹は美濃にあり、一節に兩方に枝さすふたまた竹(○○○○○)は天親竹也、紫竹(○○)を竿などに忌は、湘浦の故事によれりと埃囊抄にみへたり、
p.0678 竹 〈たけ◯中略〉すべて竹の舊より歌によみ來りしを、おほよそに集めて書しるせしは、八雲御抄を始とす、それより下りては和漢三才圖會大和本草等、をの〳〵その種類を載るといへ共、僅に十餘種なり、本草一家言に至り、頗る増補ありといへども、いまだ穿鑿を遂ざるを以て、大略二十餘種に過ず、そもそも竹は皇朝固有の物といへども、また近時海外より渡りこし物も多し、今を以てこれを見れば、その種類殆百種にも近かるべし、
p.0679 淡竹〈陶景注云、竹瀝唯用二淡竹一、仁諝音徒敢反、崔禹云、有レ花無レ實、〉一名緑虎、〈出二兼名苑一〉和名久禮多介(○○○○)、
p.0679 竹 唐韻云、 竹〈徒敢反、上聲之重、楊氏漢語抄云、淡竹於保多介(○○○○)、今按淡宜レ作レ 歟、〉竹名也
p.0679 淡竹、和名今按阿和多計(○○○○)、俗云波知久(○○○)、
p.0679 竹(オホタケ)
p.0679 竹タケ〈◯中略〉 倭名抄に、〈◯中略〉淡竹は漢語抄にオホタケといふ、今按淡宜レ作レ と見えし、オホタケとは大竹也、即今俗にタンチクといふも、其字音をもて呼て、或はこれをハチクといふは、白竹なり、
p.0679 竹〈◯中略〉淡竹 白竹、〈俗云波知久〉其筍籜白味淡甘、其竹亦色白、節間促二於苦竹一、大者四五寸、長二三丈、〈此内亦有二賀里竹一〉
p.0679 おほたけ(○○○○) 〈はちく〉おほたけ、一名からたけ、一名あはたけ、一名はちくは、西土にいはゆる淡竹一名水竹也、その高さ凡二三丈、圍み七八寸にして、すべて地上より一二尺の間は節密にて、毎節相去る事二三寸、それより以上は節疎なる事、六七寸より或は八九寸に至る、其節の合たる貌、上節少しく高く起るといへども、下節の籜の脱せし跡よりも稍低し、これを細査する時は、毎節上に細小粒の如き物、横にならび付て、その大さ頗る瞿粟殼子のごとし、これは全く細根となるべき物の、地を離れて發する事、あたはざるを以て、皮中に其きざしを含めるなり、此種太高きものは、地上より十五六節、或は十七八節以上にて、始めて枝を生じ、丈低きものは十一二節、或は七八節以上にても枝を生ずるなり、その始の枝は雙枝にて、其次の一節は獨枝を生じ、又其次の一節より以上は、皆雙枝なるもあれば、又始め獨枝にして、其次の一節よりは直に雙枝となるものあれども、大概は始より雙枝は多くして、獨枝は少なし、凡枝を生じて雙枝なるは、始の一節の左枝は太く、右枝は細く、其 次の一節は右枝は太く、左枝は細し、毎節相互にかくの如くして梢上に至る、其雙枝よりまた小枝を生じ、小枝よりまた細枝を分ちて、其梢ことにをの〳〵葉をつく、其葉長さ二三寸廣さ二分許にて、其先に葉相對し、三葉は其下につきて、すべて五葉を一朶とす、又三葉のもの、及び二葉相對して其葉細小なるものありといへども、それは全く年を經て、下葉のおのれと枯落しにて、必ずその性質にはあらず、またはちくの本竿節は、ま竹より低といへども、枝節は却てま竹よりも高く、其状頗る鶴膝の如し、扨其枝を生ずるかたは、左にても右にても、節上より竹身に細長なる一道の凹處ありて、枝を生ぜざるかたは全く正丹なり、また其竹身すべて白粉を帶るといへ共、殊に下節の本の周圍は、純白なる事、恰も一分許に截し白紙を、別に貼せしが如し、或人曰、舊より相模國小田原に大竹とよぶものあり、即淡竹にして、其竿高さ三四丈、圍み八九寸にして先こけず、故に幟竿旗竿の用には、必ずこれを供する也、今は此竹林大久保加賀守御預りにて、漫に採る事を禁ずるを以て、土人或はおとめ竹ともいふといへり、〈◯下略〉
p.0680 苦竹、和名仁加太計(○○○○)、今按末太計(○○○)、
p.0680 苦竹(カハタケ/マタケ)〈或作二 竹一〉
p.0680 竹タケ〈◯中略〉 苦竹は〈◯中略〉古にカハタケといひ、即今俗にマタケといふ是也、
p.0680 まだけ 眞竹の義、苦竹をいへり、
p.0680 苦竹 國俗呉(クレ)竹ト云、又眞竹ト云筍ノ味微苦、ハチクニヲトレリ、筍生ズル事ヲソシ、其大ナル者周尺餘、其籜紫白色斑文アリ、用テ笠トシ履ノ緒トス、其外用多シ、
p.0680 竹〈◯中略〉苦竹(マタケ) 眞籜竹、〈和名加波多計〉本朝式爲二河竹一、其筍籜紫斑味苦辛、其竹色青節間不レ促、大者周一尺六寸、長六七丈、
p.0681 またけ(○○○) 〈にが竹〉またけ一名にが竹は、漢名を苦竹といひ、筍を 苦筍といふ、近邊處在、これあるものは、多く細小のものなりといへ共、青梅練馬村、及び下總松戸邊に出るものは、肥大にして圍み一尺餘、長さ三四丈に至る、其根上より二三尺の間は、はちくと同じく節密にして、それより以上は、はちくよりも節疎なり、其密なるは毎節相去る事凡四五寸にして、その疎なるは一尺より一尺五六寸に至る、其節の合たる貌、本竿も枝節も皆一様にして、上節高く起りて、下節は極て低し、正にはちくの本竿節は低しといへ共、枝節は却て高きものとは、その状全く異なり、此種丈高きものは十七八節以上にて、始めて枝を生じ、丈低きものは八九節、その至て細小なるものは、或は四五節より枝を生ず、其始の枝は獨枝にして、其次の一節よりは雙枝なり、また始めより雙枝にして、絶て獨枝なきもあり、すべて一様ならずといへ共、これははちくと違ひ、根上の數節に一分許の小黄芽ありて、舊年の竹今年に至り、新葉を生ずる比は、其黄芽おのづから抽出て、小青筍となりて、舊枝の外に別に新枝を出す、その枝はおほく獨枝なり、
p.0681 苦竹(まだけ)〈本草〉 花鏡曰、竹園宜下用二大麥糠、或稻穩一、添二河泥一壅上、又死猫引二他人竹一、杉林の間へ植こめば、竹長くのび、又雪折も少し、總て竹の根もとへ藁を置ば根腐ものなり、馬糞籾糠は多く入てよし、植替は五月十三日よし、又正月元日二月二日三月三日植てもよし、冬月は惡し、材に用るには八月に切ば竹實して虫少し、
p.0681 にがたけ しげはる命とて露をたのむにかたけ(○○○○)れば物わびしらに鳴のべの虫
p.0681 竹 文字集略云、 〈音甘、楊氏漢語抄云、呉竹也、和語云久禮太介(○○○○)、〉似レ䈽而節茂葉滋者也、
p.0681 (クレ)竹 呉(クレ)竹〈同和名 竹〉
p.0682 呉竹(クレタケ)
p.0682 竹(カンチク クレタケ)〈此亦與二淡竹一同、或云別種也、〉
p.0682 竹(クレタケ)〈順和名〉呉竹(同)
p.0682 竹タケ〈◯中略〉 倭名抄に、 竹は漢語抄にいふ呉竹也、クレタケといふと見えしは、即今俗にカンチクといふもの、其字の音をもて呼ぶなり、雪竹を俗に寒竹といふものには異なり、
p.0682 竹 呉竹 〈和名久禮太計、初來二於呉國一而名レ之乎、又有二漢竹唐竹等一、皆異品也、〉文字集略云、 竹似レ䈽而節茂葉滋者也、吉田兼好云、呉竹葉細河竹葉濶、按、 〈音甘〉實中竹也、本草無二 竹者一、今據二倭名抄一則淡竹之類、小細黄潤長不レ過レ尺、人多植二庭院一、可二以爲一レ杖、或爲二格子櫺子一佳、
p.0682 呉竹呉竹は、古より仁壽殿前の北のかたに植られし竹にて、即淡竹(ハチク)の一種、細小なるもの也、故に今俗またこれをさしてはちくといひ、漢名を 竹、一名 竹といふ、その高さ大抵一丈許にて、枝葉極めて繁茂し、其状頗る淡竹に彷彿たりといへども、毎節却て淡竹よりも密にして高し、順朝臣の文字集略を引て、 は䈽に似て、節茂り葉滋きもの也と〈和名鈔〉いひ、兼好法師、及び一條禪閤の説にも、呉竹はよの常の竹より葉細しと〈徒然草、榻鴫曉筆、〉いへるは即これなり、凡呉竹の名は、古今和歌集、竹取物語等にみえたれど、萬葉集にはいまだその名を載ざるによれば、此竹の呉國より來れるは、平城天皇よりはるかに後の事なるべしと思ひしに、日本紀略に、弘仁四年、天下の呉竹こと〴〵く枯しよしみえたれば、その天皇よりも以前に此種の渡りこしものなるはしるし、されば呉竹臺、河竹臺を作られしも、そのはじめ詳ならずといへども、いと舊くよりの事なるべし、呉竹臺の竹の枝を折て、臨時祭試樂の時に、實方中將の插頭花に伐られし事は、古事談にみえ、その臺に生 ぜし筍を採て、これを石灰壇にて燒て奉りしは、清凉殿にて御酒宴の日なるよしも同書にみえ、また呉竹を以て、木燧及び杵箕等の臺の足に作りし事は延喜式にみえ、人多く庭院に植おきて杖となし、或は格子の櫺子となすよしは、和漢三才圖會にみえたり、今江都にては此竹を以て火に炙り、瀝を去て曝し竹となし、作簾家の用にそなへ、或は若竹を採て釣竿となし、其枝は別に縛束して、若竹をその柄とし、以て掃箒とす、其使用多きなり、扨日本紀略に、天下の呉竹悉く枯るといひしは、此竹のみ枯て、その餘の竹は枯る事なき意なれば、本草辨疑に、寛文六年より本朝の竹悉く枯て、皆根を斷つ、淡竹の外はかれずといへるに、その意全く同じければ、いよ〳〵古に呉竹と稱するものは、即淡竹の類なる事、これにても押はかるべし、
p.0683 踐祚大嘗祭儀中時刻悠紀主基共發レ自二齋場一詣二大嘗宮一、〈◯註略〉其行列也〈◯中略〉次木燧一荷、〈納二白筥二合一、呉竹爲レ臺、〉
p.0683 弘仁四年、此歳天下呉竹實如レ麥、其後枯盡、
p.0683 題しらず よみ人しらずよにふれば言の葉のしげき呉竹のうきふしごとに鶯ぞなく
p.0683 延長九年〈◯承平元年〉是歳呉竹枯失、
p.0683 東宮の御前にくれ竹うへさせ給けるに きよたヾ君が爲うつしてうヽるくれ竹にちよもこもれる心ちこそすれ
p.0683 一條院御時、臨時祭試樂、實方中將依二遲參一不レ賜二插頭花一、逐加レ舞之間、進二寄竹臺許一折二呉竹枝一插レ之、優美之由滿座感歎、依レ之試樂插頭、永用二呉竹枝一云云、
p.0683 五月ばかりに、月もなくいとくらき夜、女房やさぶらひ給ふと、こゑ〴〵していへば、出て見よ、れいならずいふは誰ぞと、おほせらるれば、いでヽこはたそ、をどろ〳〵しふきはやかな るはといふに、物もいはでみすをもたげて、そよろとさしいるヽは、くれ竹(○○○)のえだ成けり、おいこのきみにこそといひたるをきヽて、いざやこれ殿上にゆきてかたらんとて、中將新中將六位どもなど有けるはいぬ、頭弁はとまり給ひて、あやしくいぬる物どもかな、おまへの竹ををりて歌よまんとしつるを、しきにまいりて、おなじくは女房などよび出てをといひてきつるを、くれ竹の名をいととくいはれて、いぬるこそおかしけれ、たれがをしへをしりて、人のなべてしるべくもあらぬ事をばいふぞなどのたまへば、竹の名ともしらぬ物を、なまねたしとやおぼしつらんといへば、まことぞえしらじなどの給ふ、まめごとなどいひあはせてゐ給へるに、此君とせうすといふ詩をずして、又あつまりきたれば、殿上にていひきしつるほいもなくてはなど、かへり給ひぬるぞ、いとあやしくこそありつれとの給へば、さる事には何のいらへをかせん、いと中々ならん、殿上にてもいひのヽしりつれば、うへ〈◯一條〉もきこしめして、興ぜさせ給ひつるとかたる、
p.0684 呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし、御溝にちかきは河竹、仁壽殿の方によりて植られたるは呉竹なり、
p.0684 同帝〈◯櫻町〉被レ爲レ造二竹臺一事寛政の内裏には、中殿のまへにかは竹くれたけ、かげをならべてたてられしにわたりぬ、
p.0684 竹 四聲字苑云、 〈音與レ苦同、辨色立成云、苦竹加波多計(○○○○)、本朝式用二河竹二字一、今案苦宜二從レ竹作 歟、〉竹名也、
p.0684 竹(カハタケ)
p.0684 女竹(○○) 淡竹苦竹ノ内ニ雌雄アリ、其雌竹ニハアラズ、國俗ニ女竹ト云テ葉モ身モカハレルアリ、大竹トナラズ、皮ヲチズ、故ニ皮竹ト云、又苦(ニガ)竹ト云、筍ノ味苦キ故ナリ、呉竹ノ漢名苦竹ト云トハ別也、吉田兼好ガ曰、呉竹ハ葉細ク皮竹ハ葉廣シト云ヘリ、又小ナルヲバ篠(シノ)竹ト云、女竹ニ二種アリ、節高ト節低トナリ、筍ノ味苦クシテ呉竹ニ甚ヲトル、壁ノ材トシ簀竹ニ用ヒ、魚笱 トスルニ呉竹ニマサレリ、民用多シ、矢箟竹ハ節ヒキク直シ、肉厚ク葉大ナリ、篠竹ノ類也、
p.0685 川竹 〈なよ竹 女竹〉かは竹は舊より呉竹臺にむかひて、御溝ちかきかたに植られし竹にて、古歌には奈用竹(○○○)、或は名湯竹(○○○)といひ、俗にはない竹(○○○)、一名をんな竹(○○○○)、一名め竹(○○)、一名みかま竹(○○○○)、一名にが竹(○○○)といひ、漢名もまた苦竹(○○)といふ、其幹正圓にして高さ一丈五六尺、あるひは二丈許にして、其節の状、上節なだらかに隆起して、下節の籜を生ぜし所と、其間男竹に比すれば、やヽ疎にして節々相さる事、凡八九寸より或は一尺五六寸に至る、此竹新年のものは、大略三枝にて、二年にいたれば三枝の間、別に二小筍を抽出て、新舊相交りて五枝となり、また新年のものといへども、その中幹より以上は、始より五枝或は稀に六枝を生ずるもあり、葉はすべて細長にして、長さ八寸廣さ六分許にて、或は新枝舊枝によりて、廣狹のことなることありといへども、皆六葉を以て一朶とするは、此竹の性なり、あるひは四葉五葉なるもあるは、その六葉のうちの、をのれと枯落しにて、かならず全形にはあらず、また延喜式に小川竹あり、これは其竹前條よりは細小にて、篠竹よりもやヽ大なるをさしていひしなり、別種にはあらず、扨此竹性濕に耐て、朽腐する事最も遲きによりて舊より人家宮殿の壁の棧とす、むかし狛光高といへる舞人、興福寺維摩會の時、その寺の垣壁の竹を採て、笛に作りしを助支丸と名付、累代相傳して則房の世までありしよし、詳に體源抄にみえたり、今俗に女竹をもつて、篠笛草苅笛を作るものは、即この遺風なるべし、されば廣倭本草に、此竹を以て本草綱目に載る所の笛竹なりといひしも、また意味あり、又筆管竹秋竹あり、ともに竹譜詳録にみえたり、蓋し女竹の類なるべし、
p.0685 川竹 穗八月中旬也、穗も葉も葦にして大きく、莖の圍り二寸計なり、初め小竹の箏の如き芽、三月より生じ、五月末專ら盛なり、又株元より上の方六分目に至まで、毎節に枝 を生じ、青々として冬枯せず、よて川竹と呼なるべし、插花には頗る雅趣あれど、水上がたし、是は食鹽の苦水に、枝葉を強く浸して用ふべし、
p.0686 御贖料〈◯中略〉 小川竹(○○○)廿株
p.0686 御輿一具〈◯中略〉蓋下棧料、川竹(○○)十株、
p.0686 吉備津采女死時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌秋山(アキヤマノ)、下部留妹(シタヘルイモ)、奈用竹(ナヨタケ/○○○)乃(ノ)、騰遠依子等者(トヲヨルコラハ)、〈◯下略〉
p.0686 なゆ竹とは唐竹を云にや、なよ竹といへり、ゆとよと同内相通也、なよ竹のよながきなどもよめり、唐竹にあたれり、よながくして、とをくなみよれば、なゆ竹のとをよるよことよそへたり、
p.0686 なゆたけの〈とをよるこら みことも〉卷三に、〈長歌〉名湯竹乃(ナユタケノ)、十縁皇子(トヲヨルミコ)云々、こはたをやかなる女の姿を、なよヽかなる竹に譬へて冠らせたり、なゆ竹は女竹にて、〈是を皮竹ともいふ〉ことになよヽかにたわめばしかいひ、〈なゆなよ音通へり〉且とをよるも、たをやかてふに同じくて、共に音かよへり、古事記に、〈大名持命を祭る詞〉打竹之(ウチタケノ)、登(ト)々遠々登(ヲヽト)々遠々邇(ヲヽニ)〈疊字をかく書て、訓はとをヽとをヽとよむは、古への例也、〉獻二天之眞魚咋一也ともあり、
p.0686 かはたけ(○○○○) かげのりのおほぎみさよふけてなかばたけゆく久かたの月吹きかへせ秋の山風
p.0686 あはれなる物川竹の風にふかれたる夕ぐれ
p.0686 女ともだちのつねにいひかはしけるを、久しくおとづれざりければ、十月ばかりに、あだ人のおもふといひし言のはといふ、ふることをいひつかはしたりければ、竹のは かきつけてつかはしける、 よみ人しらずうつろはぬなに流れたる河竹のいづれのよにか秋をしるべき
p.0687 䈽竹、和名今按加和志呂太計(○○○○○○)、
p.0687 竹一種竹長ジテ全ク粉アリテ、霜ノ如キ者ヲカシロダケ(○○○○○)ト云、是䈽竹ニシテ淡竹ノ一種ナリ、
p.0687 かはしろ竹 〈かしろ竹〉かはしろたけ一名かしろ竹は、漢名を䈽竹一名水白竹といふ、これ即はちくの一種なり、故に其状すべてはちくと一様にして、たヾ全身白粉ありて、霜のごときを異なりとす、〈◯下略〉
p.0687 漢(カン)竹
p.0687 漢竹漢竹は、和漢通名なり、江村如圭は漢竹伊豫に生じ、以て桶に入るべしと、〈本草觿〉いひ、谷川士清は漢竹桶となすべきもの、豐後よりいづると〈和訓栞〉いへり、また相模の金子村に産するものこれと同種なるべし、おもふに此種は、蓋しま竹のその土地に應じてよく生育し、其幹極めて長大にして、圍み二尺餘にいたるものにて、別種にはあるべからず、また竹譜詳録に、籠葱竹生二羅浮山一、因名二羅浮竹一、竹皆十圍といへるも、大略此類なるべしとおもひしに、籠葱竹は、惠陽志に、葉如二芭蕉一、大長及二一丈一といひ、番禺志に、籠葱竹、葉大如レ手、徑二三尺といふ時は、これとは別種なり、扨佐藤成裕壯年の比遊歴せし時、肥後の小國といふ所より、二里ばかり山間の人家なき所を過て、豐後の肥田といふ所に行しに、その間に竹村あり、その名は忘れたれども、すべて其所はいと高き土山にして、其山頭に大竹幾萬幹群り生じて、水田はなく、たヾ畠のみ少しはありといへ共、其畠にも夏の比はおのづから筍を生じて、拔とらざれば忽ちに竹藪となる、かく竹の多き處故に、土人の家居は 皆竹を以て作れば、床はさらなり、柱も障子も、薪までも皆竹を用ゆるなり、そこの男女は終日竹の事にのみかヽりて、別に農業を勤むる事もなし、これは古よりの竹村なれば、三度の飯にも竹箏の乾したるを糧とし、小兒の時より痘瘡も至て輕くして、壯健なる事世にたぐひなし、また別に惡病も煩ふ事なければ、醫を頼む事もなしと、それをのみ土人はほこりがほに物語しけり、又筍を製するには、柔き比採て湯に浸し、或は蒸などして、日に乾し、用ふる時に水に浸し、煮て食するに、其味殊によろし、凡半里餘も左右皆竹林にして、其道傍に材木を積みたるが如く、竹を切て積置、或は輪竹にして近國へ出し、また屋材の用に供す、凡かくの如く、竹の夥敷ある所は、世にはまたとあるまじきなり、扨その家居のさまは、皆人々の巧にまかせて面白く作りしものなれば、中々に言葉には述難しといへり、和訓栞に、漢竹豐後より出るといへるは、蓋し此村の事なるにや、本朝俗諺志云、相州西郡の内金子村〈さかわより二里半〉に、金子市左衞門といふ百姓あり、此藪の竹一尺八寸廻り、六七間の末にて一尺廻り程あり、藪はやう〳〵十間に廿間ばかり、一間に一本づヽあり、めづらしき竹藪なり、此竹所望すれば、最初の契約にて根からはきらず、三尺ばかり上より切て、切口に何か藥をぬり、竹の皮にて幾重も包み、大切にする也、
p.0688 胡(コ)竹
p.0688 こちく 八雲御抄に胡竹也と見え、律書樂圖に横笛本出二於羗一也と見えたり、拾芥抄には呉竹と見えたり、又周禮に孤竹之管、注に竹特生者と見えたれば是にや、後拾遺集に、いつかまたこちくなるべき鴬のさへづりそめし夜半の笛竹、此方へ來といひかけたる成べし、千載集にもよめり、
p.0688 おきな竹翁竹、一名杢目竹(○○○)は、漢名を間道竹(○○○)といふ、其幹節并に苦竹に似て、高さ一丈餘、圍み四五寸に至る、 此竹始め獨枝にして、後に雙枝のもの多し、その雙枝を、必ず左右互に大小の異なる事なり、なを苦竹の如し、葉は大抵淡竹葉に似て、五葉を一朶とす、また三葉のもの、四葉のものあるは、年を經て二葉或は一葉の、をのれと枯落しにて、全形にはあらず、其葉表裏の透りて、淡黄白色の縱道三五行青葉中に間して、兒篠の如く、葉本より葉先に至る、また梢葉に至りては、却て青色にして、縱道なきもあり、此即西土にいはゆる間道竹なりといへ共、邦産たヾ幹水竹の如く、毎叢或は十四五葉に至らざるを異なりとす、今松平越中守大塚の下邸に、杢目竹といふものあり、即これと同種なり、又一種その葉大なる事、苦竹と一様にして、毎青葉のうち、たま〳〵左枝に一葉、或は右枝に一葉、その葉の正中或はかたよりて、一行二行の間道あるものあり、これは全く苦竹の變生なり、
p.0689 琉球竹(○○○) 又コサン竹(○○○○)ト云、琉球ヨリ來レリ、大サハ如二杖鞭一、形状其葉ハ呉竹ノ如シ、節間或近或遠、近者五六分、遠者五六寸、一本ノ内ニテ遠近アル事如レ此、筑紫有レ之、
p.0689 暴節竹(こさんちく) 虎攅竹〈俗〉本綱、暴節竹出二蜀中一、〈今之四川〉高節 砢即筇竹也、按出二於日向佐渡原一、有下名二虎攅竹一者上、高五六尺、其葉小自レ根上一尺許間、有二節七八數一、 砢甚奇也、即筇竹良、恨稍痩細性不レ勁、是所レ謂暴節竹乎、〈 本作レ磊、 砢衆石貌也、 當レ作レ 、〉
p.0689 布袋竹(○○○) 〈琉球竹〉布袋竹、一名琉球竹(○○○)、一名虎攅竹(○○○)は、漢名を多般竹(○○○)といふ、此竹根上より二三節以上は、其節密なること凡五六節、或は八九節、其最密なるは十一二節に至る、其節或は斜或は正にして、毎節擁腫、宛も人面のごとく、或は鶴膝のごとく、或は蠐螬の如く、或は縮頸の鼈の如し、それより以上は節疎にて、節の状眞竹に似て、上高く下低し、凡密節上より末に至りては、其節下に擁腫なきは此竹の 常なれども、稀には擁腫あるもあり、葉ははちくに似てやヽ長大にして繁し、その先二葉相對し、一葉はその下に付て、すべて三葉を一朶とす、姑の枝は、その擁腫をなす密節上よりして並び生じ、或は密節中、及び密節下よりも生ずるものあり、又はじめの枝獨枝なるもあれば、その節に黄芽を含めるもあり、其枝を生ずる方は、竹身互に凹處ありといへ共、其正中少しく高く起りて、其凹處全く兩道なり、此竹高さ八九尺より一丈許に至る、邦人從前此竹を杖とす、その質至て輕して雅趣あり、實に扶老の材なり、此筍状小なりといへ共、味衆筍に勝れたり、されども人多くこれを啖ふ事をしらず、又俗に武田竹(○○○)とよぶものあり、これは武田信玄存生の時、手づから杖を土にさし込置しが根付しものにて、今に其竹を節の所よりきれば、花菱の紋あらはに見ゆるといひ傳ふ、此竹の産する處は、甲斐國府中の傍なる信玄居城の跡なるよし、今松平越中守の大塚の下邸に、その種を移し植られしを親見するに、全く今の布袋竹なり、別種にはあらず、〈◯中略〉釋名布袋竹〈本草一家言、本草綱目啓蒙、〉此竹、節間圓起突出、頗る畫にかける布袋和尚の面のごとく、またその腹の如くなるによりて名づく、琉球竹〈大和本草〉此竹、もと琉球より來る、故に此名あり、虎攅竹〈和漢三才圖會、大和本草、本草綱目啓蒙、〉按に、三才圖會に、虎攅竹は俗稱なりといへども、其名義に至りてはいはず、本草一家言に古散竹に作り、廣大和本草には五三竹に作る、此竹の節、或は三或は五、相連れるによりての名なるよし、又古散竹はこれと別物なれば、たヾ音通にてその名を假借せしのみなり、或はコサンは 鼓山にて、閩中の地名なるもしるべからず多般竹〈竹譜詳録〉此竹、毎節極めて多般、故に名づく、 正誤和漢三才圖會云、虎攅竹、是暴節竹乎、按に、暴節竹は俗にこぶ竹といふ、即筇竹にして、皇朝にかつてなきもの也、本草一家言云、鶴膝竹一名佛面竹、一名鷄膸竹、倭名布袋竹、按に、鶴膝竹と佛面竹とは、もと兩種にて、また布袋竹とも異なり、然るを今三種混同して一ツとなすものは誤れり、又鷄膸竹の名は、廣群芳譜にみえたり、これも鶴膝竹の一名にして、布袋竹にあらず、本草綱目啓蒙云、ホテイ竹ハ漢名人面竹ト〈本草 言〉云ヘリ、按に、人面竹は、通雅によるに佛面竹の小なるものなれば、布袋竹とは別種なり、其状布袋竹は毎節擁腫する事人面の如く、或は鶴膝の如くにして、人面竹は兩節の間突起する事人面の如く、また佛面の如きものなれば、もとより一種にはあらざる也、
p.0691 佛面竹 〈佛肚竹〉佛面竹は和漢通名にて、一名を人面竹、一名を鬼面竹、一名を佛肚竹、一名を佛眼竹といひ、また俗名を拉母七狐といふ、下野國茅橋邊の竹林〈丹州圖竹〉及び伊豫國吉田領大乘寺境内にありと〈國史艸木昆蟲考〉いへり、其状大小のたがひありといへ共、すべて地上一二節或は三四節より、左右邪正兩節相對して、大龜甲紋の如く、中間高く起りて、頗る人面のごとく、また佛肚の如し、方于魯が墨譜に、毎節間二句一聯の七佛偈を鐫成せしは、即此竹にて西土にも至て稀なりと〈丹州圖竹〉いへり、
p.0692 龜文竹龜文竹は、人面竹の類にて、世に稀なるものなり、西土にては崇陽縣寶陀岩に生じて、僅に一本のよし〈秘傳花鏡〉いひ傳ふれども、往時琉球に産せし事ありしも、まためづらし、その竹高さ一丈餘、節間矮促にして、節々龜甲紋をなすと〈琉球産物志〉いへり、國産いまだこれある事を聞かず、
p.0692 暴節竹、和名今按不志太加太計(○○○○○○)、
p.0692 高節竹 〈節竹〉高節竹一名筇竹、一名暴節竹は、俗名をこぶたけ(○○○○)といふ、近頃舶來なしといへ共、六七十年以前には、まれに舶來ありしを、松平播磨守園中に移し植られしが、わづかに三四年を經て、二間四方程にも繁茂せしよし、今は絶てなし
p.0692 疎節竹疎節竹は和漢通名にて、その節間極めて長き竹なれば、笛を造るに至てよし、その節間三尺許なるは笛二管をとり、四尺許なるは三管を取べし、今筑後國柳川にありと〈丹洲圖竹〉いふ、
p.0692 尺八節 〈無節竹(○○○)〉尺八竹は、漢名を通竹、一名通節竹、一名無節竹といふ、〈◯中略〉本邦にては備後國に産すると〈本草觽〉いへり、その他また有ことをしらず、
p.0692 筱竹〈◯中略〉業平竹 似二長節竹一、而葉似二苦竹葉一者名レ之、中將業平之容貌、人以爲レ女而男也、此竹擬レ之名乎、
p.0692 竹増、〈◯中略〉一種ナリヒラ竹アリ、竹ハ節低クシテ、メダケニ同クシテ、葉ノ形濶ク長ク繁密ナリ、又臺明竹ト書ク時ハ隅州噌唹郡清水山ノ名竹ニシテ、同音異物ナリ、
p.0693 業平竹業平竹一名和合竹(○○○)、一名なよ竹(○○○)は、高さ一丈四五尺にして、圍み一寸六七分、その根上第一節より毎節左右互に凹處および小黄芽あり、その凹處は下節より上節下に至るといへども、常竹よりはその幅至てせまくして且淺し、〈◯中略〉此竹今本所中の郷南藏院境内なる業平天神の社側、および龜井戸天神の社前、その外本所中處々に多し、〈是は蓋し竹譜詳録に載る所の、龍尾竹の一種にてもあるべきにや、〉
p.0693 小町竹こまちたけ(○○○○○)は漢名を簜竹といひ、琉球名を麻手古竹(○○○○)といふ、今本所外手街辨天小路青木曙左衞門庭中にあり、其竹高さ一丈五尺許、徑六七分、節隆起して頗る筇竹の趣ありといへども、筇竹よりは至て低し、その節間相さること、おほよそ一尺餘、毎節三枝を生じ、その枝諸竹より長し、毎枝七八葉、或は十葉、或は十二三葉をつく、その一葉の状苦竹に似て、極めて大にして、頗る若葉の如く、その葉本すべて細褐毛ある事、又苦竹の如し、此筍諸竹と同じく、四五月の頃に生ずれども、秋に至れば、また根節上再び小筍を抽出て、年を經て枝となる、此竹嶺南に生ずるものは、秋根旁大筍を出し、綿々として絶ずと〈竹譜詳録〉いへ共、本邦のものは然らず、これは風土に寒暖の異なる事あるによりて也、〈◯下略〉
p.0693 大名竹 倭名ナリ、節間長ク赤黄條アリ、竹柔ニシテ不レ堪レ爲二器用一、
p.0693 筱竹〈◯中略〉大妙竹(○○○) 状似(/○○)二長節竹(ナヨタケ/○○○)一而大、周三寸許、葉亦大也、可レ作レ笛、
p.0693 ふえたけ(○○○○) 笛の竹なり、通雅に、有二雅笛一有二羗笛一、注雅羗共以二美竹( /メタケ)一作、俗呼曰二笛竹一と見えたり、
p.0693 四季竹 一名四時竹 花鏡、四季若四季生レ筍、幹節長而圓、取爲二樂器一、聲中二管籥一、若生二山石一者、音更清亮可レ人、〈◯中略〉肥後ニアリ、甚寒氣ヲ畏ル、竹質慈竹(ナンキンダケ)ノ如ク、節高シ、脆シテ剛勁ナラズ、葉數少シテ大ナリ、方竹葉ニ似テ幅廣ク、深緑色ニシテ小箬葉ノ如シ、四時共ニ筍ヲ生ズ、慈竹ノ筍ノ如シ、近年肥後ヨリ移栽ユ、兩三年ニシテ枯タリ、惜ベシ、
p.0694 臺明竹 〈青葉笛竹〉臺明竹(○○○)一名大妙竹、一名大名竹は、古名を青葉笛竹(○○○○)、一名二葉笛竹(○○○○)、或はその二字を略して、たヾ笛竹(○○)ともいひ、漢名は四季竹(○○○)一名四時竹(○○○)といふ、此竹古より大隅國囎唹郡清水郷臺明寺山中に産す、〈◯中略〉予〈◯屋代弘賢〉が往時〈本多甲馬〉より惠まれしを家にひめしは、其竹長節竹に似て、徑一寸許にて、節間相去る事一尺五六寸、其節低きことまた長節竹の如し、今江都に有物は、その高さ一丈五六尺、圍み三寸餘、その根上より二三節はその節密にして、その間相去る事三四寸、それより以上は節疎なること、八九寸より或は一尺五六寸に至る、また地上の第一二節には、周圍に細小根連なり出て、頗る方竹の如もあり、此竹始めの枝は三枝或は五枝なりといへども、中幹より以上は、すべて七八枝を叢生し、それに籜付て、年を經ておちず、葉は全く長節竹に似て、細長にして、大低八九葉を一朶とす、此筍大隅國に産する物は、四時を期して生出るといへども、江都に移し植るものは、夏月のみ最盛なるは、まさに風土の寒暖によりての事なりといへり、されども今江都にある物は、予がひめ置し竹とは、更に別種の物なりとおもはる、
p.0694 薩摩 大名竹子〈四季共ニ有ト云〉
p.0694 鳳尾竹(クワンヲンタケ)〈泉州府志云、俗呼二觀音竹(○○○)一、〉
p.0694 鳳尾竹 俗呼二觀音竹一、泉州府志出、本邦ニモアリ、葉ヒロク、竹小ナリ、綱目ニ所レ謂鳳尾竹、葉細三分、與レ此異、
p.0695 鳳尾竹(ほうびちく) 鳳凰竹(○○○)〈俗〉 孟宗竹(○○○)〈俗〉本綱、鳳尾竹葉細三分、按此俗云鳳凰竹也、筱竹之類、而高不レ過二五六尺一、葉細三分許甚茂、竹太如二筯及箭箟一而肉厚、今年生者葉亦竹略肥大、舊年者却痩細、九州平戸多有レ之、其笋冬月生、故俗呼曰二孟宗竹一、呉孟宗之母冬好レ筍天感レ孝也、雪中生レ筍、取令レ吃レ之、此竹雖レ非二其種一、唯以二冬生一好事者名レ之、此筍最細長、甚苦不レ可レ食、
p.0695 竹鳳尾竹ハ花戸ニ誤テ鳳凰竹ト云、一名土用ダケ(○○○○)、〈同名アリ〉シユンヤウチク(○○○○○○○)、〈土州〉サンシヤウダケ(○○○○○○○)〈播州〉小ギンチク(○○○○○)、〈薩州〉人家ニ多ク栽ユ、叢生シテ幹細ク、長サ五七尺、葉濶サ二三分、長サ一寸許、排生シテ榧葉或ハ番蕉葉(リウキウソデツノ)如シ、冬ハ葉枯ル莖ハ枯レズ、夏土用中ニ筍ヲ生ズ、故ニ土用ダケト云、泉州府志ニ俗呼二觀音竹一ト云、
p.0695 慈竹 本草曰一名義竹、叢生不レ散、人栽爲レ玩、今按是近年所レ來唐竹歟、或曰南京竹、天寶遺事云、有レ竹叢密、笋不レ出レ外、因號二義竹一、
p.0695 南京竹 〈慈竹〉南京竹は俗稱なり、漢名を慈竹、一名義竹、一名孝竹、一名叢竹といひ、また一名子母竹、一名兄弟竹、一名慈孝竹、一名慈姥竹、一名孝順竹、一名王祥竹、一名釣絲竹、一名雲蓋ともいふ、これ即鳳尾竹の別種なり、故にその枝幹並に鳳尾竹に似て、毎葉鳳尾竹よりも長し、その高きものは二丈許、〈竹譜詳録〉低きものは六七尺、〈本草綱目啓蒙〉叢生數十百竿に至り、根窠盤結して他處に引ず、〈竹譜詳録〉その筍一年に兩出し、夏筍は中より發して凉を母竹に讓り、冬筍は外より發して母竹の寒を護ると〈致富全書、遵生八牋、〉いひ、また數種あり、節間相去る事八九寸なるを籠竹と〈益部方物略記〉いひ、一尺許なるを苦竹と〈同上〉いふ、そ の 弱くして地にたるヽを釣糸竹と〈同上〉いふ、扨江都にて、舊より義竹といへるは、多摩川のこなたなる、新田社の境内にあり、その葉並常に尋常の苦竹と一様なりといへども、その筍叢外に發する事なし、これは福以南有レ竹長刺レ雲慈竹類也と〈岡部疏〉いへるに、その趣相似たりといへども、此筍の叢外に發せざるは、植しより數百年を經て、皆人常に其邊を往來して、其地至堅なるを以ての故なるよし、或人いへり、されば此義竹は慈竹類にはあらざるべし、
p.0696 竹〈◯中略〉慈竹一名義竹ハ、和名ナンキンダケ、竹細シテ高サ六七尺ニ過ズ、其筍叢外ニ出ズ、一名慈姥、〈事物紺珠〉慈孝竹、〈同上〉孝竹、〈汝南圃史〉叢竹、〈楊州府志〉
p.0696 寒山竹寒山竹は即篠竹の一種にして、漢名を篲篠(○○○○○)一名拂雲箒竹といふ、その質女竹に似て節低く、高さ七八尺大さ小指の如し、毎節相去る事六七寸許にて、其枝は五枝、或は十枝、或は九枝なり、また左右によりて、互に大小の異なるあり、凡女竹の類は、その始皆三枝なるも、年をへて新葉を生ずる比は、その舊枝の節間に、また二小筍を生じて、新舊相交りて五枝とはなれるものなれば、此枝の九枝十枝なるも、それと同じ事なるべし、その枝はすべて女竹よりも、殊に長くして繁し、故に掃帚となすによろし、その葉また女竹よりも細密にして、五葉或は四葉を以て一朶とし、遠くこれを望めば、頗る地膚子草の状の如し、この種今本所押上村の種樹家にあり、その佗おほくこれあることをしらず、
p.0696 黄金碧(○○○) 竹譜ニ出タリ、黄竹ニシテ青筋アリ、雄竹ナリ、大名竹ニ似テ不レ同、京都北野草木屋ニモアリ、又一種スヂ竹ト云竹アリ、女竹ノ類ナリ、白キタテ筋アリ、是亦大名竹ト不レ同、
p.0696 銀名竹(ぎんめいちく/○○○) 紗地竹 按、俗云銀名竹者、 色白、惟溝中緑色甚美也、槁則緑變一如二尋常竹一、一種有二金名竹(○○○)一、外黄溝中緑色、
p.0697 竹増、金銀竹(○○○)ハ一名キンメイチク〈本草正僞〉トモ云フ、漢名對青竹ナリ、竹ノ質黄色ニシテ、溝ノ處緑色ノ筋アリ、〈◯中略〉紀州有田郡山ノ保田山中ニ、方言スヂ竹ト呼者ヲ産ス、形メダケニ似テ、質白粉ヲ傅クルガ如ク、竪ニ青色六七條アリ、コレ七絃竹ナリ、臺灣府志附考ニ、臺海采風圖ヲ引テ曰、七絃竹幹白有二青線紋五六七條一、葉與レ竹同ト云リ、漢名ノ筋竹トハ別ナリ、
p.0697 金明竹 〈金竹〉金明竹、一名金竹、一名筋竹、一名しまだけは、漢名を黄金間碧玉竹、一名金鑲碧嵌竹、一名黄金間碧、一名斑桃枝竹、一名對青竹、一名青黄竹、一名越閃竹、一名界金竹、一名閃竹、一名黄竹、一名間竹といふ、岡村尚謙曰、本所押上村の人家に一叢林あり、高さおほよそ一丈五六尺、圍み二三寸、其幹地上より四五節を經て、始めて双枝、或は獨枝を生ず、其枝左右細大の異なる、及び其節の隆起頗る苦竹と一様なりといへども、枝を生ずる節より以上は、凹處皆青色にして、枝を生ぜざるかたは黄色也、されども黄色なる中にも、其青色なる凹處を少しく離れて、別に一行の深青細縱道あり、其細縱道二行相並ぶものは、青色やヽ薄し、又下節の枝なくして、正圓なる所も青黄色を互にする事、頗る上幹の如し、其幹を二つにわれば内白、肉は外面の青黄に拘らず、すべて淡青色を帶て常竹の如く純白ならず、其葉また苦竹に相似たりといへども、葉上に細縱白道二三行雜出し、すべて青色ならざるは、苦竹に異なり、此筍また苦竹とおなじく、五月の頃に生じ、その籜青黄紅の數縱道あり、其状頗る刷絲の如くにして、紫斑點ある事、又苦竹のごとし、其奇麗最竹幹よりも勝れ り、味は大抵苦竹筍と相似て食ふべし、また幹葉共に小にして、毎節間三枝を生ずるものあり、その左右の枝は大にして、中枝は至て細小なり、これは尋常の苦竹のたま〳〵三枝を生ずるものあるに同じ、別種にはあらず、又和漢三才圖會に、銀明竹、一名紗地竹あり、その荺色白して溝緑色とみえたり、これは金明竹の、土地によりて其色を變ぜし物なるべし、一種碧玉間黄金竹あり、これは竹身緑色にして、節間の凹處一道黄色なる物なれど、今甚稀なり、また一種竹身半は青く、半は紫にて、二色相快ずるものを、舊は對青竹といふよし、僧賛寧が筍譜にみえたり、本邦には絶て此種ある事をきかず、 高麗竹 〈すぢ竹〉高麗竹一名蘇枋竹、一名筋竹は、漢名を金絲竹、一名白絲竹、一名刷絲竹、一名七絃竹一名箭竹といふ、その幹節並に女竹に似て、高さ三五尺、大さ小指の如し、毎節相去こと五寸許にて、三枝五枝或は七枝を叢生す、〈◯中略〉扨此竹わかき時は、通幹艷紅色なる事、頗る蘇枋を以て物を染しが如し、それに五六七行の青線洛ありて、宛も刷絲の如く、老る時はその紅色、をのづから淡黄に變じて、青色また薄し、今種樹家往々これを培養するものあり、其奇麗最愛すべし、往時此竹を薩摩より東都に奉りし事あるよし、これは今ある物は蓋しその遺種なるべし、
p.0698 竹方竹ハシカクダケ、琉球産ナレドモ、今ハ諸國ニ多シ、徑七八分、形四稜ニシテ鋭ナラズ、全身ニ沙(ザラツキ)アリ、根上ノ三五節、四圍ニ小根連リ出テ刺ノ如シ、故ニ斷テ土ニ 插シテ活シ易シ、用テ杖トス、唐山ニハ大竹ニモ方ナル者アリ、
p.0698 四方竹 〈四角竹〉四方竹一名四角竹は、漢名を方竹一名刺竹といふ、今江戸所々にこれあるといへども、もとは肥 後國の産なりと〈丹洲圖竹〉いひ、また琉球より來りしものなりとも〈本草綱目啓蒙〉いへり、所レ謂江戸にあるものは、その高さは九尺より一丈許に至り、毎節相去る事三四寸にして、いづれの節間にも、上によりて細澀砂ありて、砂紙を摩するが如し、また地上より一二節には、周圍に細小根つらなり生じて、それより以上は毎節すべて細小根となるべきもの、皆突起して頗る黍粟の類をならべたるが如く、粒々まばらに付て、その先或は尖りたるもあり、その所より切て二三節をこめて、地中に插置ときは、をのづから黍粟状の如きもの延び出て、遂に細小根となるといへ共、五月の此の梅雨しきりに降つヾきぬる時にあらざれば、大方は根付難きものなり、扨此枝は根上十二三節にて、始めて獨枝を生じ、それより雙枝三枝となりて梢上に至る、これ新竹の形状なり、年を經る時は、その枝節よりまた二筍三筍を抽出て、五枝六枝或は七八九枝をも叢生す、その葉の状矢竹に似て、極めて細く、長さ五寸餘、廣さ五分計にして、葉先最細尖なり、新枝は四葉三葉を一朶とし、舊枝は五葉六葉或は七葉を一朶とす、その葉先に至りては、皆二葉相對して、正に木槵子葉の葉先の如し、此笋秋末より生じ、冬に至りて成長す、その籜すべて紫色なる小斑點ありて、愛すべく味またよし、
p.0699 瑇瑁竹瑇瑁竹は今駿河國藤川の傍なる木島郷にあり、即ま竹の一種、斑文ありて最長大なるもの也、〈◯中略〉或人の其地に至る時、土人此幹を擘て篾となし、蛇籠を作りて藤川に於て、洪水を遮ぎりしといへり、かヽる奇竹を以て尋常の用に供するものは最おしむべし、扨此瑇瑁竹は舊より駿河國にのみ産して、その他諸國またこれある事なきを以て、諸家本草絶て此竹を載せず、 玳瑁竹 〈紫篛竹〉玳瑁竹は、漢名を紫篛竹といふ、其高二尺許、葉は熊笹に似て、細小にして長八九寸、廣さ一寸餘、其 葉おほよそ七八葉を以て一朶とす、我は五葉六葉のものあるは、必ず下葉の枯落しにて、全形にはあらず、其葉面また熊笹の如く、正中に淡黄花なる一縱道ありて、其左右おの〳〵八線路相並て、共に葉本より葉先に至る、此竹小なりといへども、其節間獨枝を生じ、及び籜おちざる事、また熊笹の如し、但毎節下紫黒色なるを異なりとす、此種今松平越中守大塚下邸にあり、 に移し植しより十餘年を經るといへども、其時の儘にて更に生長する事なしといへり、されば此竹は大竹には非ずして、箸の類なる事明らけし、
p.0700 黄金竹黄金竹は漢名を金竹(○○)といふ、此種江淅の間に生ずるものは、その状淡竹の如く、〈竹譜詳録〉琉球薩摩等に産するものは、その苦竹に似て小なり、〈丹洲圖竹〉また安房よりいづるものは、高さ二丈許にて、生竹の時はさまでの黄色にあらずといへども、乾す時は其色鮮黄頗る眞金の如し、〈佐藤成裕説〉又黄竹一名黄皮竹あり、竹譜詳録に、黄竹叢生與二慈竹一一類といひ、晉安海物志に、黄竹節紫色黄とみえたれば、金竹と同種にはあらざるなり、
p.0700 斑竹 兼名苑云、斑竹一名涙竹、〈此間斑竹、音篇遲久(○○○)、〉
p.0700 斑竹(ハンチク)
p.0700 斑竹(トラフタケ) 州府志云節間有二斑文一、似二湘妃涙痕所レ餘者一、今按本邦處々ニアリ、
p.0700 虎彪竹(とらふだけ) 〈俗稱〉按、虎彪竹出二於豐後姥之嵩一、筱竹之類而竹黄白色有二黒斑文一、微似二虎皮之紋一故名レ之、用爲レ筇爲二煙筒一佳、
p.0700 とらふだけとらふだけは、西土にて斑竹、また涙竹といひしものなり、皇朝にわたりこし始は、延喜前後にもやありけん、源順朝臣倭名鈔をかヽれし時、未だ和名なく、斑竹の音を以て唱へしにてしられた り、しかれども近世になりて、豐後國姥が嵩、〈倭漢三才圖會〉越前肥後土佐〈本草綱目啓蒙〉より出るといへば、全く皇朝になしともいひがたきにや、 篇遲久(○○○) 〈沙古丹竹(○○○○)〉篇遲久は斑竹の字音にて和漢通名なり、其一名を花斑竹、一名斑皮竹、一名研竹、一名箭竹ともいふ、これに數種あり、今とらふ竹(○○○○)、一名とら竹(○○○)、一名まだら竹(○○○○)、一名らう竹(○○○)、一名沙古丹竹、一名豐後竹、一名玳瑇竹、一名鼈甲竹といへるは、其高さ大抵五六尺にして、徑三分餘、毎節相去る事四五寸、枝は中幹より以上に生じ、すべて獨枝にして、その高さ本幹と同じ、或は四枝或は二枝なるもあれども、葉は其梢杪に並びつきて、六葉を以て一朶とす、或は四葉五葉のものは、下の一二葉の枯落しにて、その葉長さ一尺一寸、廣さ二寸八分許、また肥地に植るものは、長さ一尺五寸餘、廣さ三寸二分許に至る、葉の正中には尋常の熊笹と同じく、葉本より葉先に通じて、一縱に道あり、其左右また十二三道の細縱理相並びて、共に葉本より葉先に至る、此種蝦夷地方に産するものは、風雪に襲はれて、本根をのれと彎曲して、状弓影の如くなれ共、他國に産するものはしからず、すべて毎節下紫黒色にして斑紋あり、その斑毎幹上節より染出て下節に至る、されども大方は半はにして、一節間すべて紫黒色なるもの少なし、また此竹中幹より以上は、たヾ青色にして尋常の熊笹と同じく、斑文絶てなし、此種は今小笠原相模守本所柳島の別莊にありて、數百萬幹池邊に叢生し、灑々最愛すべし、又松平越中守大塚の下邸にも多し、〈◯下略〉
p.0701 竹斑ハ斑竹ナリ、マダラダケ、トラフダケ、トラダケ、〈薩州〉豐後ダケ、ラウダケ、老撾(ラウ)ハ東天竺ノ國ノ名、占城ニ近ク安南ノ西北ニ接ス、其國斑竹數品アリ、最初此竹ニテ烟管ヲ造リ渡ス、故ニ今煙管ニ用ユル細竹ヲ、總ジテラウト云、斑竹ハ皮上ニ黒斑アルヲ云、豐後、越前、肥後、土佐、其餘諸州ニ出、大小 ノ別アリ、
p.0702 附考並餘考從來呼下煙筒接二頭尾一之竹木簳上、稱二辣烏(ラウ)一、辣烏蓋羅浮也、羅浮産二斑竹一、載二煙筒多用 焉、我方亦已傳用レ之、漸爲二通稱一乎、肥之前后諸國等、於レ今非レ用二斑竹一不レ稱二羅浮竹一、其用二他物一者、稱二竿竹(サヲタケ)一云、又嘗西川釣淵曰、老撾(ラウ)地屬二南印度一、西隣二暹羅國一、多産二斑竹一、大小數種、其小者用爲二煙筒一、今之辣烏竹(ラウタケ)即是也、二説併記以備二他日考一爾、
p.0702 豐後 キセル竹〈 符有レ之〉
p.0702 くろちくくろ竹は漢名を黒竹一名烏竹といふ、即和漢通名なり、また一名を篶竹、或は烏歩竹ともいふ、此竹小野蘭山は播磨にありと〈本草綱目啓蒙〉いひ、谷川士清は薩摩にありと〈和訓栞〉いふ、佐藤成裕曰、薩摩の産はその竹雄竹に似て、幹極めて紫黒色なりと、この種播磨に産するものと、同種なるや否をしらず、今松平越中守大塚の下邸にあるものは、高さをよそ七八尺、枝葉並びに紫竹に似て、其色紫竹よりも極めて黒し、此種は即漢産のよし、一種觀音竹(○○○)あり、また黒竹と名づく、その幹細小にして長さ二丈八九尺、状古藤の如し、〈瀛海勝覽 苑詳註〉また一種烏竹あり、筍をいだす時、その色黒し、〈竹譜詳録〉また絲竹一名黒竹あり、〈茅亭客話〉ともに和産これある事をきかず、
p.0702 紫(シ)竹
p.0702 紫竹(シチク)
p.0702 紫竹(シチク/ムラサキタケ)
p.0702 紫手 色紫黒、淡濃紫白相雜レリ、
p.0702 しちく 紫竹也、續拾遺記に見えたり、
p.0703 むらさき竹(○○○○○) 〈胡麻竹〉むらさき竹は、今いふ紫竹にして、即和漢通名なり、その一名を紫君、一名紫苦、一名觀音竹といふ、〈◯中略〉俗に胡麻竹(○○○)といへるは、紫黒色の斑點ありて、別種のやうに見ゆれども、その實は紫竹の年を經て、再びその色を變ぜし也、今隅田川木母寺のうしろ、及び榎木戸、また河口邊此竹殊に多し、
p.0703 寒竹 冬筍生ズ、孟宗竹トモ云、色黒ク細シ、
p.0703 竹〈◯中略〉紫ハ紫竹ナリ、和名カンチク、モウサウチク〈同名アリ〉人家ニ栽テ籬トス、小竹ナリ、高サ五六尺、甚繁茂ス、冬月笋ヲ生ズ、故ニ孟宗チクト云、〈◯中略〉寒竹成熟ノ者ハ、黒色斑ヲナス、大ナル者ハ傘ノ柄ニ用ユ、今別ニ紫竹ト呼ブ者アリ、即苦竹ノ品類ナリ、生ジタル年ハ緑色ナリ、翌年ヨリ變ジテ紫黒色トナル、コレモ漢名紫竹ト云フ、
p.0703 寒竹 〈孟宗竹(○○○)〉寒竹一名孟宗竹は、漢名をまた紫竹といふ、その性叢をなして數十百幹に至る、故に人家多く分ち植て藩籬とす、此竹徑り三四分にして、高さは九尺或は一丈許、節極めて繁し、中幹より以上は、大略一尺の間五節にして、それより以下は四節なり、
p.0703 孟宗竹(マウソウチク)
p.0703 孟宗竹(マウソウチク)レ〈本名莟、寒冬生レ筍、故云レ爾、蓋孟宗事實出二晉書一、〉
p.0703 孟宗竹 〈わせたけ〉孟宗竹一名唐孟宗一名わせたけは、漢名を狸頭竹、一名猫彈竹、一名猫兒竹といふ、その高さ二丈餘、圍み八九寸にして、毎節間はちくより短かし、其節の状上段至て低く、下邊は稍高し、これを細査すれども、全く下邊のみにて、上段なきが如し、凡諸竹は半體以下、その太さ毎節大概同じけれ ども、孟宗竹は根上第一二節よりして、第三四節は少しく細く、第三四節よりはまた、第五六節はやヽ細し、毎節漸々にかくのごとくして、梢上に至る故に、下麁にして上細なるは、即此竹の性也、その根上より六七節の間は、節殊に密にして、すべて節下は粉白なることはちくの如し、その大なるものは、即十七八節以上よりして枝を生ず、小なるものはそれに準てしらる、これも始の一節は獨枝にして、後に雙枝なるもあれば、始の一節は雙枝にして、後に獨枝を生じ、それより以上は、また雙枝なるもあり、葉は全くはちくの葉に似て、はちくよりも極めて繁く、毎枝みな三葉にして、時に二葉なるも交はれり、凡はちくま竹の類の大なるものは節低くして、小なるものは、殊に節高しといへ共、孟宗竹は細大の別なく、すべて本幹節は毎節低くして、枝節は却て鶴膝状をなして、はちくの枝節よりもやヽ高して、常竹と異なるは、此竹の性なり、扨孟宗竹は舊より皇朝になかりしものにて、正徳の比、西土の種をはじめて琉球より傳へしを、薩摩に移し植しが、今は四方にひろまりしより、國史艸木混蟲攷にみえたり、さればそれより以上は、寒竹及び鳳尾竹などの、冬同筍を生ずる物を以て、孟宗竹とは名付しなり、これ即此竹の舊より我にあらざる確證なり、
p.0704 孟宗竹薩隅の邊に唐孟宗竹といふ竹あり、人家に多し、常の竹よりは薄く、節低く葭に似たり、然れども甚だ太くして、大なるものは二尺廻り以上に至る、花生等に用ひて、甚見事なり、此竹冬笋を生ず、味甚だ美なり、寒中にも平皿一はひの笋を生ずること、他國にはいまだ見ず、京都にも甚だ細く指ばかりなるは、早春に出して料理に用ゆれども、名計り珍らしくて、味は宜しからず、孟宗竹の笋は、大ひにしてしかも和らかに、味夏の笋におとらず、若此笋を京都に送り登さば、希代の珍味なるべけれども、道路三四百里を隔てたれば、其事叶はず、おしむべし、風の透間のなき様に送れ ば、漸々長崎までは、無事にして屆けりといふ、夫より遠方へは、損じて送りがたしとなり、此笋元來常の竹の子よりも、格別和らかなるゆへ、尤損じやすしとなり、孟宗竹の孟宗は、古人の名なり、親の爲に冬笋を得たる事、廿四孝に見へたり、此笋寒中にも出るゆへに、孟宗竹といへり、元來唐土より渡り來れりといふより、薩州にては唐孟宗と呼なり、
p.0705 安永八年己亥薩州侯品川の前邸へ、琉球産の笋を始て植らる、諸人これを珍賞す、〈世に孟宗笋と稱す〉
p.0705 孟宗竹近頃〈◯文化頃〉は江戸に大なる竹藪、諸所に出來たり、明和の比は、皆人珍らしく思ひし竹にて有しなり、四五年以來、笋も太くして一尺四五寸、二尺廻りの大なるが夥しく出て、八百屋毎に賣事なり、何地より出るやしらず、薩摩國にては、此笋を紙に漉よしなり、
p.0705 江南竹(まうさうちく/○○○)〈八閩通志〉 又雪竹(せつちく)とも云、本暖國の産なり、今所々に植、春早く笋を生ず、根もとへ籾糠を多く入べし、早く筍を生ず、植移は五月十三日を竹酔日といふ、此日に植ればよく活なり、竹よく實入たる時、枝の所の三分一梢を切たるもよし、
p.0705 鞭竹 草津の鞭竹は美濃より出る也、本は草津の土産にあらず、
p.0705 箟 唐韻云、箟〈音昆和名乃(○)〉箭竹(○○)名也、
p.0705 箟説文作レ箘、云菌簬也、禹貢云、惟菌簬楛、三邦底貢、楚亂匕諌、哀時命、並云、箟簬雜二於黀蒸一兮、箟簬即、菌簬也、或單言菌、中山經云、暴山其木多二竹箭䉋箘一、郭注云、箘亦篠類、中箭、王念孫曰、菌之言圓也、説文云、圜謂二之囷一、方謂二之京一、是囷圓聲近義同、菌竹小而圓、故謂二之箘一也、竹圓謂二之菌一、故桂之圓如レ竹者、亦謂二之箘一、名醫別録云、箘桂、正圓如レ竹、按戴凱之竹譜云、箭竹高者不レ過二一丈一、節間三尺堅勁中矢江南諸山皆有レ之、劉逵呉都賦注云、箭竹細小而勁實、可二以爲 箭、通竿無レ節、江東諸郡皆有レ之、又按箭竹古單名レ箭、詳見二征戰具箭條一、
p.0706 篠(ノタケ)〈文選〉 箘 (ヤノダケ)〈尚書〉箭簳(同)竹〈類書纂要〉
p.0706 竹タケ〈◯中略〉 倭名抄に、〈◯中略〉箟はノ、箭竹名也と見えしは、即今俗にノダケとも、ヤノタケとも云ひて箭簳となすもの是也、ノとは古語に直を云ひてノといひけり、
p.0706 箟竹 箟〈音昆〉 箘〈同〉 〈和名乃〉按箭箟竹葉大二於馬篠一、而竹似二鳳尾竹一、節間長肉最厚 、用作二箭箟一甚佳也、出二於肥州大村一、字書云、箟美竹名、可レ爲レ矢者是也、
p.0706 の 〈やだけ〉の、一名のたけ、一名やたけ、一名やのたけは、漢名を箘簬、一名筓箭、一名箭幹竹といふ、〈◯中略〉天武天皇の御時箭竹二千連を、太宰府に送り下せしも、また畿内の産なるべし、今も年ごとに、大和の芳野より難波の大城へ、此竹二千二百幹を貢するよし、〈採藥紀行〉また備中の矢島、及び丹波等にも、此竹を産し、その餘の諸國にも、また極めて多し、今江都にて皆人使用するものは、上總より來るといふ、さて延喜の比は、此竹を以て熬笥煠籠薫籠及び籮茶籠等を作りしものなれども、今竹器を作るには、多く篠竹、或は箱根竹、或は淡苦の二竹を用ひて、此竹を用ゆる事を聞ず、 一種矢竹一種の矢竹は、今松平越中守大塚の下邸にあり、その高さ大抵五六尺にして、枝幹全く矢竹のごとし、葉も亦矢竹に似て、五葉或は四葉を以て一朶とし、その上葉は、すべて二葉相對して、毎葉白色間道あり、また一株のうちといへども、間道なくして、その色矢竹と一様なるもの交はれり、此種は往時清俗の擕到せしを、長崎より輸せしものなりといひ傳ふ、その他またこれあることをしらず、
p.0706 年料竹器 薫籠大一口〈口徑二尺二寸、高二尺七寸、〉料、箟竹五十株、中一口〈口徑一尺八寸、高二尺、〉料、箟竹卌株、漉レ紙簀十枚〈長各二尺四寸、廣一尺四寸〉料、箟竹各廿株、茶籠廿枚〈方二尺〉料、箟竹各六株、
p.0707 凡雜機用度料箟竹河竹各百株、毎年山城國進、又箟六百株大和國進、
p.0707 雜給料〈◯中略〉箟竹卅株〈作二匜口及篩柄一料〉
p.0707 竹 竹一名澀竹、一名澀勒竹は、今松平越中守大塚の下邸にあり、その高さ大抵五六尺にして、枝幹全く矢竹の如し、葉もまた矢竹に似て、五葉或は四葉を以て一朶とし、その上葉はすべて二葉相對して、毎葉白色の間道あり、又一株の中といへども、間道なくしてその色矢竹と一様なるも交はれり、此種は往時清人の携來し物なるよし、今その全形を詳にするに、これ即矢竹の一種、その葉間道あるもの也、故に籜おちざる事また矢竹の如し、
p.0707 通絲竹通絲竹は枝幹並に矢竹に似て、節の平らかなることも、亦矢竹の如し、その葉皆仰出して上に向ひ、下垂する事なきは此竹の性也、その葉の状矢竹よりも極めて細小にして、長さ一尺許、廣さ三四分を過ぎず、毎莖おほよそ五葉を以て一朶とし、その五葉のうちにて、上の二葉は對生にして、下の三葉は互生なり、その幹新年のものは籜ありといへ共、年を經れば皆落る事矢竹の如し、此種その根窠盤結して、叢生數十百幹に莖るもの、今松平越中守大塚の下邸にあり、一種仰葉竹あり、その竹前條と一様にして、毎莖上八九葉或は六七葉つくるを異なりとす、此種今巣鴨の種樹家にあり、
p.0707 村松竹村松竹は越後國村松に産する竹にして、其幹矢竹と一様なりといへ共、毎節矢竹よりも密にし て、其間僅に三寸より三寸五分を過ず、その性柔靱にして折難きによりて、領主堀丹波守の藩にては、皆此竹を以て打毬杖を作れり、
p.0708 篥〈方標反、平、竹也、細竹也、篠也、志乃(○○)、又保曾太介(○○○○)、〉
p.0708 篠 蔣魴切韻云、篠〈先鳥反、和名之乃、一云佐佐、俗用二小竹二字一謂二之佐々一、〉細細竹也、
p.0708 長間竹(シノヽメ)〈竹作 和名〉
p.0708 長間竹(シノベタケ/シノタケ) 百葉竹(同) 篠(シノ) 細竹(同)〈万葉〉
p.0708 竹タケ〈◯中略〉 倭名抄に、〈◯中略〉蔣魴切韻を引て、篠は細々小竹也、シノ一にサヽといふ、俗用二小竹字一と見えしは、即今サヽといふもの、其種類大あり、シノといふは、シとはサといふ語の轉ぜしにて即細也、ノとは即箟也、サヽとは即細也、〈日本紀に小竹 てシノといふと見えたり、和名抄に俗用と云ひしこと心得られず、シヌといひ、シノといふ、轉語せしにて、義異なるにあらず、〉
p.0708 しの日本紀に篠、又小竹、新撰字鏡に篥をよめり、しなふの義成べし、又小蔑の義也といふ、〈◯中略〉しのヽめ 萬葉集に細竹目と書り、めはむれ〈ノ〉反、篠の群竹の義也といへり、
p.0708 筱竹 長節間竹(ナヨタケ)〈俗云奈與太介、兩節間稱レ與、略言也、〉 女子竹(ヲナゴダケ)〈桑軟状似二婦女一、故名レ之、〉按筱小竹也、〈和名之乃〉篠同、〈俗云之乃布竹〉高六七尺、周二寸許、其葉深青色、節不レ隆、其籜白色脆而難レ脱、節間長、其筍味甚苦 不レ可レ食、其竹節際有二白粉一、如濕熱甚浸則愈多變二黄色一、人取充二天竹黄一可レ辨也、其竹民家用爲二天井及壁骨菅笠骨一、本草蘇頌曰、肉薄間有レ粉者此竹矣、
p.0708 しぬ 〈しの〉しぬ一名しの、一名ほそたけは、漢名を筱といふ、これは延喜式にいはゆる小川竹の、やヽ小なるものにて、今所在極めて多し、その幹深青色にして、高さ七八尺、その枝は五枝なるもあれば、三枝 なるもありて、すべて一様ならず、凡篲篠の如きは、年を經る時は、一節の間九枝或は十枝を生ずれども、此竹はしからず、その葉長さ七八寸、廣さ四五分にして、毎莖六葉を一朶とす、此筍は四五月の比に生じ、青色にして味至て苦し、これは和名抄にいはゆる長間笋にして、此笋また抽出て、忽ちに若竹となる時は、その節上節下並に粉白なる事、小川竹よりも甚し、一種伊豆の大島に産するものを、俗に大島竹(○○○)といふ、今おほく此竹を以て庭砌の藩籬とす、その竹細長にして節間殊に長し、一説に此種は有徳廟の御代の事なるよし、矢竹に代用ゆべきと上意有て、その谿間に植付させ給ひしが、今は多く繁衍せしといへり、又一種箱根竹(○○○)あり、矢竹よりまた細長にして、枝葉は大略前條と相似て、やヽ細小にして、其葉さらに落がたきによりて、そのまヽにて掃箒となすによろし、其性いたつて柔靱なるをもつて、竹籠を作るもの、多く此竹を用ひ、或は筆管となし、或は烟管となすも、また此竹なるよし、これは嘉興縣志に、いはゆる竹篠にして、延喜式にいはゆる小竹、徑二分長八尺といへるも、此類をさしていひしなるべし、扨此竹を舊より箱根竹といへば、その産地はかならず相模國なるべしとおもひけるも、或人の説に、箱根竹は伊豆國に産せしにて、相模國にはあらずといへり、よつて和漢三才圖會を閲せしに、伊豆國土産箱根竹とありて、相模國の土産には此竹を載ず、これによれば箱根竹は、全く今の淺草海苔のたぐひにて、或人の説妄ならざるべし、
p.0709 於レ是化二八尋白智鳥一、翔レ天而向レ濱飛行、〈智字以音〉爾其后及御子等、於二其小竹(○○)之苅 一雖二足跳破一、忘二其痛一以哭追、此時歌曰、阿佐士怒波良(アサジヌハラ)、許斯那豆牟(コシナヅム)、蘇良波由賀受(ソラハユカズ)、阿斯用由久那(アシヨユクナ)、
p.0709 小竹は志怒(シヌ)と訓べし、〈上卷には訓二小竹一云二佐々一とあれども、此は然は訓まじきなり、〉御歌に、志怒(シヌ)とあればなり、書紀神功卷に、小竹此云二之努(シヌ)一と見え、萬葉一〈八丁〉にしぬひつと云借字にも、小竹櫃(シヌヒツ)と書、又細竹(シヌ)とも書り、和名抄に篠細竹也、和名之乃一云佐々、俗用二小竹二字一謂二之佐々一とあり、〈古は志怒と云るを、後には志〉 〈能と云は野角樂忍(ヌツヌタヌシシヌフ)などの類なり、然るに萬葉一に、人麻呂の歌に、四能とあるは、めづらしきことなり、〉さて志怒(シヌ)とは、細竹を始めて、其外薄葦などにも云て、然(サル)類の物の、幹の總名なるを、〈萬葉一に、旗須爲寸、四能乎押靡などあるも、薄の幹を云り、しの薄と云も、たヾ薄のことなり、一種の名には非ず、又葦にも葦の篠屋など云り、〉もはら小竹細竹など書は、主とある物に就てなり、〈同く小竹と書けども、佐々と云は竹に限れる名、志怒は竹には限らず、〉さて志怒てふ名の意は、なよヽかに靡(シナ)ふよしなり、〈俗に云しなやかなる意なり、奴と能と那とは、よく通ふ例にて、心も志奴に思ふ、又戀志奴布など云志奴も、心のしなひしをるヽ由なり、思ひしなえてとも多く云ると、合せてさとるべし、されば小竹も其例と同くて、志那比と云意にて、志怒とは云なり、然るを繁き意とするは非なり、後世に繁きことを志能爾と云へど、其は古は無きことなり、〉此の小竹は、細竹にても薄などの類にてもあるべし、
p.0710 伐二新羅一之明年〈◯元年〉二月、更遷二小竹宮一、〈小竹此云二之努一〉
p.0710 たかしの(○○○○) 〈おほしの(○○○○)〉たかしの一名おほしのは、漢名を箖竹といふ、即女竹の一種長大なるものなり、近時琉球より其種を傳へて、今薩摩にあり、水戸殿本草者佐藤成裕云、一種の女竹はその大さとい竹の如くにして、極めて高く、枝葉梢杪にのみむらがり生じて、下幹には絶てなし、その葉全く女竹に似て大也、凡此竹長さ百尺なるを以て、行路八九町もこなたより、其梢杪あらはにみゆなどいへる、〈予(屋代弘賢)藏する所のものは、やヽ小なるものなりといへども、これを尋常の女竹に比するに三倍して、頗る吹火筒の如し、されどもその筍の味、甘美なるや否をしらず、〉また箖於竹あり、その葉薄して廣し、〈竹譜〉即 若の類なりと〈物理小識〉いへるは、これとは別種なり、
p.0710 篠(スヽ)
p.0710 篠(スヾ)
p.0710 みすヾかる しなぬ万葉卷二に、水篶苅(ミスヾカル)、信濃乃眞弓(シナヌノマユミ)云云、〈こたへ歌にも同じくつヾけたり、今本には篶(スヾ)を薦(コモ)に誤りぬ、〉こは眞篶(マスヾ)を苅(カル)野とつヾけたり、荷田大人のいへらくは、水篶(ミスヾ)は眞(マ)すヾ也、〈水は借字、美と麻はことに通へり、〉神代紀に、使下山雷者、採二五百箇眞坂樹八十玉籤一、野槌者採中五百箇野篶八十玉籖上云々〈今本は是も薦に誤ぬ〉これによるに、すヾてふ小竹(シヌ)をかる野 につヾけし物也と、こは古意也、さか木の八十玉ぐしに對へる、野すヾの八十玉串は小竹(シヌ)なるべきもの也、〈集中の神まつりの歌に、竹玉(タケタマ)を繁(シヾ)に貫垂とよめるも、此玉ぐしなるべしと、吾友菅原信幸がいひしはあたれること也、〉篶はしのめ竹の類にて、いとちいさくて、色黒き竹なり、それを阿波土佐などの國にては須々と云といへり、東國の山邊にては、笶竹をもしかいふものヽあれど、猶別也、後世の歌に、吉野の嶽にすヾ分てとよめるも、かの野篶也、〈旅人のすヾのしのや、さヽのやなどいへるもおもひ合すべし、〉
p.0711 すヾ〈◯中略〉 小竹の類をすヾといふは涼しき意にや、吉野の嶽にすヾ分てとも、大たけのすヾ吹風にとも、すヾの下道ともよめる是也、神代紀に五百箇野薦といへるも此物成べしともいへり、或説に薦は篶の誤り、篶は黒き小竹也とぞ、鈴竹の筍をすヾといひしは、風雅集に、たかむなのほそきを奉られて、是はすヾか竹かいづれと見わきてと見え、古今著聞に、石泉法印鞍馬の別當にて、彼よりすヾを多くまうけたるを、或人の許へ遣すとて、此すヾは鞍馬の福にてさむらふにさればとて又むかでめさるな、筍の皮をむかぬを蜈蚣に寄ていへり、蜈蚣は鞍馬の福といひならへり、
p.0711 すヾ 〈やまだけ(○○○○)〉すヾ、一名みすヾ、一名すヾたけ、一名やのたけ、一名やま竹は、漢名を箬箭(○○○○○)といひ、筍をすヾだけのこ、漢名を 、一名箭 といふ、これは雪國の山に生ずる小竹にして、信濃に多し、〈詞草小苑〉その葉箬に似て、幹高く、本根屈曲すと〈本草一家言〉いへり、また加賀越前等に産するものは、その葉箬よりも至て長大にして、葉邊變白せず、幹は矢竹に似て、毎節平かにして、高さ一丈許、大さ指の如し、また肥前の大村よりいづるものは、その節間殊に長し、〈和漢三才圖會〉即一物なり、歌には大和の吉野、山城の鞍馬、紀伊の熊野等の諸山のもの其名高し、されど太古の時、五百箇野 と〈日本書紀〉いへるは、山生のものにあらず、此筍籜青緑にして、その籜枯るときは色白し、すべて北國地方にては、大竹稀なるを以 て、土民古より、此筍を採て、雪花菜に鹽をまじへて藏し置て、食用とす、西土にても、周禮に 菹雁醢といひ、爾雅に 箭 といへるは、即此竹の筍なれば、彼土にても此筍を食用に供せしかば、由て來ること久しき事なり、扨西土にて矢に作れる竹數種ありといへ共、古より會 に産するものその名高く、即今のすヾたけにして、山居賦にいはゆる箬箭なれば、和漢三才圖會にいはゆる大村の箭竹、葉大二於馬篠一といへるに暗合のもの也、蓋し大村の産は、此竹のその所を得て、本根といへ共屈曲せず、矢に作るには至てよろしきものなるべし、されども古より皇朝にて、矢に作りしは尋常の䈂箭にして、此箬箭を用ゆる事を聞ず、凡箬箭は諸國山中に極めて多きものなれば、今より後は肥前人の用ひしにならひて、此竹を以て矢に作りなば、その勁強、西土會 の産にも劣らざる事明らけし、
p.0712 竹増〈◯中略〉一種山中路傍ニノスヾ(○○○)ト云フ者アリ、高サ二尺許、莖ノ色紫褐ヲ帶ブ、節ゴトニユガミアリテ、正直ナラズ、京都祇園ノ社ノ後ニ、多ク産スルモノハ、山中自生ノ者ヨリ莖高シ、漢名山篠、〈廣東新語〉
p.0712 篠(サヽ)
p.0712 篠(サヽ)〈説文、小竹、〉 笹(同) 翠篠(サヽノハ)〈杜律〉 (サヽノミ)〈竹實〉 䈜(同)
p.0712 小竹(サヽ) 凡小なる物をさヽと云事、まへにしるすが如し、萬葉に小竹とも細竹ともかけり、
p.0712 さヽ 神代紀に狹々と見えたり、古事記に訓二小竹一云二佐々一、萬葉集に小竹細竹をよめり、さヽやかなる竹也、篠は倭名抄にみゆ、笹は倭の俗字也、神功紀の歌にさヽといふを釋に謂レ樂也と見えたり、神樂さヽのうたに、 瑞籬の神の御代より篠の葉を手草にとりて遊びすらしも、此意成べし、萬葉集には神樂をもよめり、江次第石清水臨時祭試樂に、舞人呉竹をもて插頭とし、竹文青摺袍をきるよしいへり、されば神樂に篠を用る其故ある也、天照大神磐窟かくれませし時に、天鈿女命の俳優したまひし、是ぞ神樂の始めなりける、その時以二竹(サヽ)葉一爲二手草一といふ、舊事紀古事に見えたり、
p.0713 故於レ是天照大御神見畏、閉二天石屋戸一而刺許母理〈此三字以レ音〉坐也、〈◯中略〉天宇受賣命〈◯中略〉手二草結天香山之小竹葉(○○○)一而、〈訓二小竹云二佐佐一〉於二天之石屋戸一伏汙氣〈此二字以レ音〉而、踏登杼呂許志、〈此五字以レ音〉爲二神懸一、
p.0713 小竹葉は佐々婆(ササハ)と訓べし、下卷輕太子の御歌に見ゆ、萬葉十四〈九丁〉にも佐左葉とよみ、今世にも然云り、さて萬葉集に佐々那美(サヽナミ)〈下の佐を濁るは誤なり〉といふに、神樂聲浪と書る〈略て神樂浪とも樂浪ともかけり、和名抄に但馬國氣多郡郷名に、樂前と書て佐々乃久萬とよめるもあり、〉は、此の故事に因て、神樂には小竹葉を用ひ、其を打振音の、佐(サ)〈阿(ア)〉佐(サ)〈阿(ア)〉と鳴に就て、人等も同く音を和せて、佐〈阿〉佐〈阿〉と云ける故なるべし、〈猿樂の謠物に、さつ〳〵の聲ぞ樂むと云も、松風の颯々と云音より、是に云かけたるなり、〉又竹葉の名を佐々と負るも、此音よりぞ出つらむ、〈細小の意以て名づけしには非ず、小竹と書る小字は、幹の小きを云るにて別なり、〉神樂歌古本殖槻總角大宮湊田などの處に、本方安以佐々々々、末方安以佐々々々と云ことあり、是は佐々佐々と唱たるか、又は佐〈阿〉佐〈阿〉を如レ此書るか、何にまれかの小竹葉の音に和せたる聲より出づることなるべし、古語拾遺には、以二竹葉飫憇(オケ)木葉一爲二手草一〈今多久佐〉とありて、飫憇振二其葉一之調也と云り、
p.0713 採物歌 篠此(本)さヽは、いづこのさヽぞ、とねりらが、こしにさがれる、ともをかのさヽ、ともをかのさヽ、さ(末)ヽわけば、袖こそやれめ、とね川の、いしはふむとも、いざ川原より、いざかはらより、 或説さ(本)ヽの葉に、雪ふりつもる、冬のよに、豐の遊びを、するがたのしさ、するがたのしさ、 み(末)づがきの、神の御代より、さヽの葉をたぐさにとりて、遊びけらしも、あそびけらしも、
p.0714 篠 筱〈同〉 小竹〈和名之乃、一云佐々、〉按篠叢生如レ草、俗用二笹字一、出處未レ詳、凡篠有二數種一、
p.0714 さヽさヽは小竹の總名にして、漢名を筱といひ、野にあるを野ざヽ(○○○)といひ、籔にあるを根ざヽ(○○○)といひ、箱根山中に生ずるを箱根笹(○○○)といふ、〈増補地錦抄〉今處々の山野及堤坂上に、數百歩叢生し、その高さ一二尺、葉は女竹に似てやヽ小さし、一種八丈筱あり、其高さ僅に一尺を過ず、その葉尋常のものと相似たり、今松平越中守大塚の下邸にあり、此種は西土にいはゆる趁篠の類にても有べきにや、又隅田村に鐙摺のさヽあり、その高さ鐙より上に出る事なしと〈江戸砂子〉いへり、その他種類なほ多し、
p.0714 越王竹(ネザヽ)〈多識編〉
p.0714 箬〈◯中略〉又路傍ニ ク生ズル小ナル竹アリ、高サ三五寸ニ過ギズ、コレヲネザヽ(○○○)ト云、是通雅ニ載スル所ノ千里竹ナリ、
p.0714 篠〈◯中略〉馬篠(ムマサヽ/○○) 〈俗云久末佐佐(○○○○)〉葉大一枝六七葉、其大者尺許、廣二寸、至レ秋出二縱文點一、黄白色甚美、本草所レ謂龍公竹葉若二芭蕉一者、恐此類矣、〈◯中略〉燒葉(ヤキハ/○○)篠(/○)〈夜木波佐々〉高不レ過レ尺、葉端周如二枯焦一故名レ之、
p.0714 箬 チマキザヽ(○○○○○) クマザヽ(○○○○) ネマガリダケ(○○○○○○)〈羽州〉 一名白蒻葉〈三因方〉 増一名箬竹葉〈閩書南産志〉 葉ノ大ナルサヽナリ城州貴船山鞍馬山ノ奧ニ多シ、苗高サ六尺餘、葉濶サ二寸、長サ八寸許リ、端午ニ此葉ヲ用テ粽ヲ包ム、故ニチマキザヽト云、唐山ノ箬葉ハ、至テ長大ナル故、笠ニモ製スト時珍云リ、此ヲ箬笠ト云、本邦ニテハ竹籜ヲ用テ笠ヲ作ル、此モ漢名箬笠ト云、竹籜ニモ箬ノ名アル故ナリ、又高山ノ頂ニ多ク生ズルサヽハ皆高二三尺、葉ハ箬ヨリ小ク、徑リ一寸許、長サ七八寸、老レバ葉邊皆白シ、故ニヤキバザヽ(○○○○○)ト云、是竹ノ條ニ載スル所ノ山白竹ナリ、
p.0715 箬〈音若〉 篛〈與レ箬同〉 葉 〈俗云於加阿之(○○○○)◯中略〉按箬生二堤岳平澤一似レ蘆、故俗呼曰二岡葭一、
p.0715 くまざヽ 〈やきばざヽ〉くまざヽ、一名うまざヽ、一名やきばざヽ、一名へりとりざヽは、漢名を箬竹、一名篛竹といふ、其幹矢竹に似て、細小にして高さ凡三四尺、或は六七尺、その三四尺のものは、毎節相さる事三四寸にして、六七尺のものは、それに準じて稍疎なり、その枝はまた矢竹の如く、獨枝にして長し、一幹中四枝或は五枝を生ず、又一幹獨立して絶て枝なきものあれば、その枝却て本幹より太きもあり、すべて一様ならずといへ共、其葉は 杪に横出して、頗る傘蓋の如し、毎梢大低六葉にして、下の一葉は甚細小なれども、その餘の五葉は長大にして、長さおの〳〵七寸餘、廣さ二寸許、新葉はすべて青色にして、その正中に黄白色なる一縱道ありて、葉本より葉先に至る、その左右また相並びて、細十線路ありて、ともに二十線路、葉本より葉先に至る事、全く正中の一縱道に同じ、その老葉は、葉の周圍皆三分許變白して、恰も刀劒の燒刃に異ならず、またその葉中に方解石の細小なるものを並べし如くに、かどだちたる斑文をなすものあり、和漢三才圖會に、秋出二縱文點一、黄白色といへるは、蓋しこれをさしていひしなるべし、一種こぐまざヽ(○○○○○)あり、其高さ六七寸、或は一尺許にて、一幹に兩三枝を生ずるものあれば、また本幹のみにして傍枝なきもありて、その頭おのお の五葉或は四葉をつく、状くまざヽに似てやヽ小なり、此葉も若き時は青色にして、老る時は葉邊一分許變白する事、くまざヽに同じ、また和漢三才圖會に、くまざヽ燒葉ざヽを以て兩種とし、燒葉ざヽはその高さ不レ過レ尺といへるは、即ち此こくまざヽの事なるべし、扨くまざヽは、諸國山中極めて多きものにて、江都にも處々これあるがうちに、四谷大木戸の前なる笹寺のもの、其名殊に高し、これは寛永の比御鷹狩の時、この寺に立よらせ給ひしに、そこにこざヽ熊ざヽいと多かりけるをみそなはし給ひて、以來は笹寺とよぶべしと上意ありしよし、江戸砂子にみえたり、今も方一坪程にくまざヽを植置しは、即その遺跡なりといへり、
p.0716 竹〈◯中略〉 一種篠葉毎二一枚一、葉端周圍細白似二刀刃一、是謂二刃篠(○○)一、此篠莖短而著レ土、茶人愛レ之、種二茶亭之前庭一、凡洛北山上寒氣甚而霜雪重、故葉端瘁(カシケ)白、土人掘來而鬻二京師一、
p.0716 篠〈◯中略〉五枚篠(○○○) 〈五末伊佐佐〉高尺餘、葉深青色、似二篠竹葉一而短、毎レ莖五葉叢生能繁茂、植二庭院一玩レ之、所レ謂越王竹高止尺餘者、此等之類乎、
p.0716 五枚篠 〈おかめざヽ(○○○○○)〉五枚篠、一名豐後篠、一名おかめざヽは、高さ一尺八九寸より、或は三四尺に至る、その幹極めて細小なりといへ共、毎節隆起する事、頗る雄竹の如し、此竹すべて根上二三節より、三枝或は四枝を分ちて、三葉四葉を一蓋とし、それより以上は、毎節五枝を別ちて、五葉を一蓋とす、その枝長さ四五分にして、二節あり、葉は即其二節上より生じて蓋をなすを以て、これを熟視せざる時は、唯葉莖のみにして枝なきが如し、其梢上に至りては、また三枝を生じ、三葉を一蓋とする事、なを根上の二三節と同じ、扨根上の三葉節の左側に付て生ずる時は、其次の五葉は必ず節の右側に生じ、二葉は左に向、三葉は右に向ふ、その右に向ふ三葉は、中の一葉大にして、左右の二葉はやヽ小さ し、其大なる一葉は左に向、二葉の小さきは根上の三葉とその大さ略同じ、その葉の状、大抵雄竹に似て、雄竹よりは短く、また濶大にして甚薄し、その幹すべて葉のつくかたは扁にして、中に一線路高く起り、葉のつかざるかたは、全く正圓なる事常竹と一様なり、今人此竹を採、瀝を去りて箸とす、甚だ雅趣あり、また此筍は四月の末五月のはじめに生じ、状茅針に似てやヽ扁たく、其籜紅紫淡黄の兩色相交りて、別に紅紫色の細縱道ある事、全くはちくの如し、
p.0717 篠〈◯中略〉兒(チコ/○)篠(/○) 〈知古佐佐〉高尺許、葉最細長、八九枚生二於頂上一、有二白縱理一如レ線、青白相交甚可レ愛、本草所レ謂龍絲竹指二此等一乎、
p.0717 兒篠兒篠、一名しまざヽ、一名やなぎ葉ざヽは、即龍須竹の一種なり、その高さ僅に五六寸、或八九寸、その葉細長、頗る根笹に似て、毎葉青白色の細縱道あり、佳麗最愛すべし、故に皆人これを以て庭砌間の石傍、或は小樹下に植へてかざりとす、その小樹下にありて年を經るものは、その樹とその高低をあらそひて、樹もし三尺許なる時は、此さヽもまた三尺許に至る、その三尺許のものは、大低五節にして、梢上に五七葉をつけ、或は一兩枝を生ずるものあり、その枝幹並に細小にして、恰も篠の如し、
p.0717 龍鬚竹龍鬚竹、一名龍絲竹は、もと西土より來る、その幹極めて細小にして、鍼の如く、また絲の如し、高さ僅に八九寸、その葉また細小、ほヾ結縷草に似たり、此種は辰州に生ずるよし本草綱目にみえたれば、今あるものも蓋しその地の産なるべし、又一種幹高さ六寸許にて、根旁別に二白須を生じて、其長さ本幹よりも五倍するものあるよし、竹譜詳録にみえたれども、此種舶來ある事を聞ず、
p.0718 竹増、〈◯中略〉ササウヲ(○○○○)ハ同書〈◯百品考〉ノ魚尾竹ナリ、飛騨ノ高山、日光ノ赤沼ガ原ニ多シ、枝葉箬(チマキサヽ)ニ似テ山白竹(ヤキバザヽ)ヨリ大ナリ、幹ノ高サ四五尺、梢ニ七八葉互生シ、節ノ處ニ魚形ノ物ヲ生ズ、或一或二三相對シテ生ズ、巨サ拇指ノ如シ、小籜相重テ末細ク先曲レリ、長サ三四寸許、殆魚形ニ似タリ、故ニ日光土人ノ説ニ、此ササウヲ逆流川ニ飛入テ魚ニ化スト云フ、竹譜ニハ四月老翁魚ヲ竹ニ貫キシガ、化シテ此竹トナルト云ヘリ、其説相反ス、共ニ謬談ニ屬ス、
p.0718 しほ竹しほ竹は阿波國の名産なり、予〈◯屋代弘賢〉此頃得しは、幹の長さ三尺許にて、周圍に凹處數縱道ありて、下節上より上節下に至る、その凹處にまた巨細の異なる有て、各おなじからず、節は五節にして第一節は節間相去る事四寸九分、第二節はその間五寸六分、また第三節四節に至りては六寸六分、或は七寸二分もあり、其節の状苦竹よりも低くして、頗る淡竹の如し、又竹肉を細査すれば、上下の肉は左右の肉よりも少しく厚きを以て、たての徑一寸九分、よこの徑一寸七分にして、竹身正圓ならざるものは、此竹の性也、一種山竹(○○)といふ物あり、これを前條に比するに、その凹處やや淺し、〈本草一家言〉此二種は實に本邦の異竹にして、西土廣しといへども、いまだこれ有事をきかず、
p.0718 棘竹、和名今按牟波羅太計、
p.0718 棘竹(いばらだけ) 竻竹〈 字未レ詳、疑竻乎、竻即筋本字也、〉本綱、棘竹、是乃竹別種、芒棘森然大者圍二尺、可三以禦二盜賊一、
p.0718 竹苗竹ハ、トウヨシ也、蘆葦形状ニ似テ、甚大ニシテ厚シ、颶風ノ時海濱ニ漂著ス、世人用テ花尊トス、薩州ニハ栽ル者アリ、トウギンチク(○○○○○○)ト呼ブ、其根甚大ナリ、根ノ形似タルニ因テ、猫頭竹〈事物紺珠〉ト名 ク、
p.0719 雜樹の部影向竹 上野中堂の前にあり往昔比叡山におゐて、八幡春日影向ならせ給ひし所へ、生じたる竹なりといへり、一説に天竺祇園精舍の竹を、震旦の天台山へうつされしを、傳教大師持來り、比叡山中堂の前に植おかれしを、東叡山にうつすともいへり、又説傳教大師の持來り給ふ所の、三國傳來の竹は、比叡山竹林院にありといへり、此影向竹といふは、葉のさき丸く跡先なきやうにて、常の竹葉とは異也、
p.0719 沈竹沈竹は、漢名を蟲竹(○○)といひ、その産地は肥前國佐賀に有と〈本草一家言〉いふ、此種西土に産するものは、毎節蟲を生じて、新蝉のいまだ翼を生ぜざるものに似たりと〈竹譜詳録〉いへ共、本邦に産するものは、其蟲の形飛廉の如しと〈本草一家言〉いへり、凡西土にては、此竹七閩山中、及び婺州福州等にありといへども、本草にては、たヾ肥前國のみにして、その他これある事を聞ず、
p.0719 實竹實竹一名實中竹、一名實心竹は、和漢通名にて、舊より陸奧國松島の竹島、〈本草觽〉及び阿波國一宇山に〈本草綱目啓蒙〉産するもの、その名殊に高し、〈◯中略〉陸奧國松島に産するあり、近頃大窪柳太郞、〈秋田の藩人、字を天民といひ、號を詩佛、また江山といふ、〉その地に遊歴して、二竿を携來りて杖とせしをみるに、一竿は長さ四尺餘、徑り五分許にて、毎節ま竹よりも高くして、その間相去ること三寸許、その枝を生ずるかたは溝渠ありて、常竹よりも至て深くして、下節上より上節下に至る、一竿は長さ五尺許にて、その節間六七寸、或は八寸許なるものありてやヽ太し、いづれも根に近き所の二三節は、常竹と同じくその節間つまりて短し、その根のきり口は、共に充實して心なしといへども、梢上のきり口に至ては、鍼 を穿つべき程の細小竅あり、又小野蘭山の見たりしは、徑り一寸餘のものにて、舶來せしは徑を二三寸のものと〈本草綱目啓蒙〉いひ、栗本瑞仙院の杉原氏により贈りしといへるも、また蘭山の見しと同じく、その徑一寸許のものなれども、別に圖せしは長さ五寸許の竹にてやヽ細し、すべてこれ一物なり、
p.0720 桃(タウ)竹
p.0720 椶竹、和名今按豆惠太計、俗云須呂太計、
p.0720 椶竹(シユロタケ)〈一名實竹(○○)、俗所レ謂棕櫚竹也、〉
p.0720 椶竹(シユロチク)〈桃竹(○○)、實竹並同、東坡志林、〉
p.0720 椶竹(/シユロチク) 椶竹ニ大小アリ、大ニ二種アリ、一種ハ葉短クツヨシ、小ニシテ不レ高、一種ハ色淡黒、葉大ニ莖高ク長ジヤスシ、是犬椶櫚竹ト云、ヲトル、又別ニ一種小椶竹アリ甚小也、盆ニ植テ可レ愛、葉莖與レ大同、本草曰、一名實竹其葉似レ椶可レ爲二柱杖一、甚寒ヲオソル、暖處ニ宜シ、冬春ハ上ニヲホヒヲスベシ、、一處ニ叢生ス、其莖杖ニシテ輕ク勁クシテ不レ折、諸草木ノ内、杖ニ用ルモノ多シ、是ヲ尤ヨシトス、
p.0720 椶竹(しゆろちく) 實竹本綱、椶竹其葉似レ椶可レ爲二柱杖一、按、椶櫚竹來二於琉球一、葉似二椶櫚葉一而無レ枝、高者丈餘、身有二黒毛一節不レ高、喜二陰處一惡二風日霜雪一、年久者開レ花、亦似二椶櫚花一、其竹不二中空一、故雖レ曰二實竹一爲レ筇弱脆、觀音竹(○○○) 椶竹之小者、人植レ盆玩レ之、初出二琉球觀音山一故名レ之、
p.0720 虎散竹(かんをんちく)〈竹譜詳録〉 琉球より觀音竹と名づけ來る、桃竹(しゆろちく)の一種なり、長大ならず、笋多きを異なりとす、三月の末に暖窖(たうむろ)より出し、糞水を澆ぎてよし、暑 中土に干鰯を雜へ植かへてよし、盆は擂盆の如く上の開きたるものよし、寒を恐るヽ事椶竹よりも甚し、冬乾かして枯槁ず、又水多てはわるし、加減肝要なり、むろ入前一度糞水を澆てよし、
p.0721 椶櫚竹 花の色赤茶、形ち少し、開花五月中旬、方三分陰、地三分濕、土えらばず、肥大便寒中に入べし、分株春彼岸後よし、又秋の土用後芽を缺分植べし、同種に觀音竹といふあり、長二尺許に過ず、上品とす、育方同じ、
p.0721 椶櫚竹 〈しゆろちく〉椶櫚竹は、和漢通名にて、その一名を椶竹、一名桃竹、一名桃枝竹、一名陶竹、一名桃絲竹、一名實竹、一名木竹、一名石竹、一名蒲葵竹、一名古散竹、一名綯竹、一名桃笙といふ、此種に大小の異なるあり、其大なるを俗に大椶櫚竹といひ、漢名を樸竹といふ、葉の状全く椶櫚に似て少さく、深緑色にして光澤あり、その幹また椶櫚に似て、至て細小にして、高さ四五尺、毛多く節繁く、中心實して頗る實心竹の如し、年を經るものは、梢の葉間に七八寸の穗を抽出て、細小華をつく、状金栗藺華に似てやヽ粗なり、小なるを俗に琉球椶櫚竹(○○○○○)、一名觀音竹(○○○○○)といひ、漢名を筋頭といふ、その状大椶櫚竹に似て至て少さく、高さ僅に一尺許に過ず、葉は淡緑にして薄く、光澤ありて、葉の先すべて下垂するものは、此竹の天稟なり、又一種椶櫚竹あり、漢名を短栖といふ、その葉幹また大椶櫚竹に似て、高さ僅に二尺許に過ざるを異とす、近時別に一種觀音竹といふものあり、其葉厚して大椶櫚竹よりも闊く、色深緑にして、葉先下垂せず、幹最肥大にして毛あり、其幹三五年をふるものは、大椶櫚竹とおなじく、梢の葉間に穗をなし華をつく、状及己華に似て、はじめ淡黄色にして、後白色に變じ、また根上より毎幹おの〳〵筍を抽て、叢生恰も枝の如し、これ尋常の椶櫚竹に異なるところなり、思ふに此種は、杜臺卿の准賦にいはゆる檳榔竹にてもあるべきにや、
p.0721 筒 唐韻云、筒〈音同、一音棟、俗用二去聲一、〉竹名也、
p.0722 呉都賦劉注引二異物志一云、射筒竹(○○○)、細小通長、丈餘亦無レ節、可三以爲二射筒一、
p.0722 筨竹 唐韻云、 〈音含、字亦作レ筨、〉竹名也、
p.0722 竹竹をうゆる地は、高くして平かなる所、山の麓谷川近き所の、黄白軟の地に宜しとて、尤肥て性よく、沙がちなる和らかなる地、濕氣のもれやすきを好むと知べし、うゆる法、正二月、一かぶに三本も五本も多く立たるを、はちを廣く付て、廻りの根をよく切る物にて、さけくだけざる様に切廻し、末をも枝をも少づヽとめで、屋敷内ならば、東北の隅に地を廣くほり、根先の方を西南の方にひかせ直にうへて、土をおほふ事五七寸、風に根のうごかぬ様に、三方よりませをゆひをくべし、踏付かたむる事なかれ、踏付る事竹をうゆるに甚いむ事なり、尤活付までは切々水をそヽぎ、其後牛馬糞、麥稻のぬかなどをいかほども多く入べし、竹は取分あけ土の浮たるにうへて盛長早き物なり、又竹はうへてわきより棒にてつきたるはよし、手風に觸、又は手足を洗ひたる汁、女の面など洗ひたるあか汁をかくれば、盛長せずして、却て痛み枯る物なり、又月庵と云古人が竹を栽し法は、溝を深くほり、乾馬糞を泥にまぜ一尺ばかりもをきて、夏は間をうとく、冬はしげく、三四本を一かぶとして淺くうへ、肥たる土を以ておほひ、泥土をかけ、ませを二通りゆひて、根の土をばきびしくうち堅むべからずと云り、又竹林の南の方の科(かぶ)をほり取、此方にて北の方にうゆれば、根必南にさすゆへ、よくさかゆる物と云り、雨の中か、雨を見かけてうゆべし、若西風の時はうゆべからず、竹にはかぎらず諸木も皆西風にうゆる事は忌物なり、又諺にも竹をうゆるに時なし、雨を得て十分生と、又竹を栽るは五月十三日、是を竹酔日とも、竹迷日とも云て、此日竹をうゆれば、百活うたがひなく、即さかゆる物なり、又必五月にかぎらず、毎月廿日竹をうへて皆活共云り、又正月一日、二月二日、三月三日、是も又よく活る物なり、又辰の日は毎月うゆべしとも云り、 いづれも根の土を厚く廣く掘取一科を數人にて持ほど、大かぶにしてうゆれば、盛長せざる事なし、又菊と竹とは、根ながく上に向ひ出る物なれば、泥を多く添て、廻りよりおほふほどがさかゆる物なり、又云竹を種るに、一人してかぶをうゆれば、十年にしてさかへ、十人して持程のかぶは、一年にしてさかゆるものなり、又太き竹を好みても、かぶ小さければふとからず、小き竹にてもかぶをふとくして、月菴がいへるごとく、根の下に糞を多く入るれば、ほどなくさかへ、大竹となる物なり、又竹を引取事は、籬を隔たる竹林の此方のかきねに、狸か猫を埋み置ば、明年筍多く出る物なり、又東家に竹を種れば、西家に土を種ると云事あり、たとへば隣に竹をうゆれば、一方の屋敷には、其とをりに土を置ば、隣の竹皆土の高き方に、うつるといへり、竹を伐事、三伏の中か、又七八月をよしとす、又臘月きれば、虫喰ず、竹を伐に、三を留、四を去と云事あり、竹は七八年も過れば花を生じ、立枯する物なり、三年竹をば殘し留めて、四年になるを伐べし、是竹林を生立(そだつ)る定法、肝要の事なり、四年にならざるはかならずきるべからず、跡の竹甚いたみて、大き竹林も小さくなる物なり、又竹は山間の物は柔かにしてかたからず、平地の園林は竹老てつよしと云り、〈是山間の竹は氣つよくさして其性はしかく、常の里なるは氣やはらかにして、ねばりけあるを云なるべし、山のはつよ過るならん、〉是を桶ゆひにたづねとへば、山林の竹はねばりけ少なくはしかく、平林のはねばり氣ありてやはらかなりと云、竹の性春はうるほひありて枝葉に發し、夏はしんにおさまり、冬は根に歸る、其故冬竹を伐ば、日數をへて後われさけて性強からず、夏はよけれども竹林痛む物なり、二つながら全き様にはならざるゆへ、七月末八月を中分とする事なり、又竹をうゆる時、枝を三四段をきて、末を節きはよりそぎ切て、きりたる節に水のたまらぬ様にすべし、竹皮などにて末を包みたるよし、されども多くうゆるには、なりがたき故かくはするなり、
p.0723 種レ竹 〈中國所レ生不レ過二淡苦二種一、其名目奇異者列二之於後條一也、〉宜二高平之地一、〈近二山阜一尤是所レ宜、下田得レ水則死、〉黄白軟土爲レ良、正月二月中 取、西南引レ根并レ莖芟去レ葉、於二園内東北角一種レ之、令二坑深二尺許覆レ土厚五寸一、〈竹性愛二向西南一引、故園東北角種レ之、數歳之後自當レ滿レ園、諺云、東家種レ竹西家治レ地、爲二澀蔓一而來生也、其居東北角者、老竹種不レ生、不レ能二滋茂一、故須下取二西南一引中少根上也、〉稻麥糖糞レ之、〈二糠各自堪レ糞、不レ令二和雜一、〉不レ用二水澆一、〈澆則淹死〉勿下令二六畜一入 園、二月食二淡竹笋一、四月五月食二苦笋竹一、〈蒸煮炰酢在二人所 好〉其欲レ作レ器者經レ年乃堪レ殺、〈未レ經レ年者軟未レ成也〉
p.0724 竹太く作方の傳竹地植にて太く大竹になさんには、初穴のごとくなる地所低き、黒土の處へ植て吉、年々掃溜の類入れば、地所も自然に高く成、竹も太く出來る也、親竹はいかにも細き新竹吉、太き古竹にては子生ぜず、上根は多くからみたれば、地かたくなる故、上根は掘捨てよし、厩肥掃溜など多く入れば、上根むれて腐るゆへ、掘世話なく別してよし、上根よりは太き子生ぜず、赤土場所にては、笋ひがらく苦みあり、黒土は上なり、自然に生ずる、ふきも同様にて赤土場は甚苦し、
p.0724 竹並小笹 方日向、地半濕、土回塵或芥埃眞土雜も可也、砂は宜しからず、肥油粕酒糟獸魚大小便等、總て強く厚き物よし、又藁芥埃いか程も厚く置べし、株は植んとおもふ筍を立て、其已後に下枝五七節殘して、末の方を剪止置ば、葉よく繁茂(しげり)て根もよく殖る也、翌年を經て、又翌年の秋彼岸より冬迄に移し植べし、小竹小笹ともに並び同じ、
p.0724 裁竹日異名竹をうヽるに五月十三日をよしとすること諸書に見えて、其日の名をさま〴〵に呼り、宋黄徹が䂬溪詩話には、世傳五月十三日爲二竹迷日一、凡種竹多以二五月一、杜云、東林竹影薄臘月更須レ栽、則唐人權竹用二季冬月一也、又云、平生憩息地必種二數竿竹一、嘗欲レ闢二小軒一、以必插目レ之とあり、是竹迷日と稱するなり、岳州風土記曰、五月十三日謂二之龍生日一、栽レ竹多茂盛とあり、是龍生日と稱するなり、藝苑雌黄に、種レ竹者多用二辰日一、又用二臘月一、惟五月十三日、人謂二之竹酔日一、又謂二之竹迷日一、栽レ竹多茂盛、或陰雨則鞭 行、明年笋莖交出とあり、是竹酔日と稱するなり、皆詩料となすべし、又釋梅國が櫻陰腐談に、蒔レ竹莫レ如レ蒔レ笋、蒔レ竹則艱焉、移レ之之勞、種レ笋則便焉、移レ之之速、大要笋出レ上二三寸許、堀レ地欲レ廣、不レ傷二其根一、須レ留二宿土一、而移時大飮爲レ好、無下百不二一活一者上、此余所二親見一、以告二竹之愛同レ予者一焉とある、いまだ不レ試ども序にかいつく、
p.0725 五十七年九月、造二坂手池一、即竹蒔二其堤上一、
p.0725 建久五年二月廿二日甲寅、自二三浦澀谷等一竹數十本被レ召二寄之一、今日被レ栽二南御堂後山麓一、將軍家〈◯源頼朝〉令二監臨一給、三浦介奉二行之一云云、
p.0725 公〈◯徳川吉宗〉殊に林園泉石の觀をもてあそばせ玉ふ事もなく、一草一木の微にいたるまでも、みなものヽ用にたつべきものを、うゑさせ玉へり、そのなかにも竹はわきて實用の物なりとて、年々に數種をうゑられしが、これより先吹上の御庭に、田舍といへる茶亭のありしを、こぼたしめ玉ひ、其あとに眞竹六百株を植させ玉ひしが、享保十年、植木門より半藏門までの、裏山通に移しうゑられ、それよりまた大土手なだれに四百株、また大道通矢來内外の土手にも三百株、一の門内に淡竹三百株、また草加驛よりも大竹六株をうつされ、小なへ竹なども追々植られしに、裏山通の竹年々に繁茂せしかば、この笋をもて日毎の厨料にもせられ、又年年材木奉行に下して、材木の用とせられ、折損せしをば園丁等にあたへ、かれらが所徳とせしめ玉ひしとなり、
p.0725 國産の事に心を用ひ玉ひ、〈◯中略〉孟宗竹、八幡の竹の根生姜、さつま芋、館たばこの種を求て播しめ、〈◯下略〉
p.0725 竹 所々有レ之、西郊産特大也、其至巨者直破レ之、其本末留二一節一、其餘悉刳二去其節一横二屋檐一、受二屋上所レ滴之雨水一、自二端末圓穴一傳二竪通樋一、是謂二横通樋一、又不レ破レ之内刳二去其節一、建二横通樋雨水落所 之穴下一、是謂二竪通樋一、朝市毎レ屋無レ不レ用レ之、其次半割レ之代二屋瓦一、又爲二屋椽一、其次小者編二連之一爲レ床、又貼二窻牖一、其外竹之爲用也、不レ可二勝數一、其中苦竹爲レ良、凡諸竹陸地黒壤生者多巨大、然竹性柔脆也、生二山間石地一者、其性堅實而不レ蠹、近江國園城寺山之産、剛直宜レ作レ弓、其細者用爲二旗竿一、倭俗旗謂二農保利一、旗竿或上賀茂并石清水八幡山生者伐二用之一、是爲下依二神力之冥助一而得中勝利上也、凡伐レ竹自二秋八月一至二冬十月一、是謂二秋切冬切一、他月伐レ之則速朽腐而不レ堪レ用、一種其莖細長而其葉片大也、是稱二女竹一、又謂二忍竹一、建レ是比並而爲レ垣、又半破レ之縱横結二束之一、爲二墻壁之骨一、或貼二窻間一、
p.0726 竹屋 近世二條京極所々并四條京極東、以レ竹造二諸品物一、第一傚二茶人之舊製一、而以二大竹一切二插レ花之筒一、又削二掬レ茶之杓一、或引切或柄杓悉製レ之、〈◯中略〉竹具 建仁寺町大佛前、亦以レ竹造二諸品物一、竹輿竹床竹椅竹枕竹簾杖杖及菓籠等物無レ不レ有、
p.0726 竹用をいふときは、中々に凡草衆木の及ぶ處にあらず、まづ弓材となし、矢料となし、旗竿となし、竹束となし、竹鎗となし、筧となし、棧となし、傘骨となし、扇骨となし、簫笛となし、床簀となし、竹椅となし、編筵となし、書架となし、籠筥となし、柱杖となし、水尊(ハナイケ)となし、水滴となし、杓となし、箸となし、松明となし、火繩となし、筆管烟管となし、釣竿黏竿となし、 となし、簾となす、その用殊に多くして、さらにその徳を君子に比するのみならず、また凡草衆木にも勝れて、實に天下の良材なり、
p.0726 諸工商人所付〈いろは分〉た 京之介 竹ざいく(○○○○) 四條寺町ノ東
p.0726 駿河國中名物出所之部竹細工〈府中の町にて作る、花入硯箱餌ふごいろ〳〵あり、〉
p.0726 木代軸竹 同郡〈◯能勢〉木代村ヨリ切出セル筆ノ軸竹也、其曲節アルヲ破魔弓 ノ箭竹トシテ、京大坂ノ市店に送ル、湯山竹細工 同郡〈◯有馬〉有馬湯元ニアリ、料紙硯匣笥等ノ器用、竹ノ内皮ヲ張テ繡竹ヲ以テ、畫紋或ハ詩歌ノ文字隨レ所レ好作レ之、
p.0727 竹籠 竹工元嚴島之人、而今在二府治一、割レ竹以編二造花籠菜籠筐筥簽篩之類一也、竹器 在二今府治一、以レ竹作レ匙、又製二小刀柄一、巨竹 所々有レ之、爲レ椽爲レ柱、又代二屋瓦一、或作二花筒一、春末生レ筍、風味爲二尤佳一也、箭幹竹 出二于安南郡海上竹島一、矢人取レ之造レ箭、兵器之内特所レ爲レ用也、
p.0727 一書曰、〈◯中略〉以二竹刀(○○)一、截二其兒臍一、其所レ棄竹刀終成二竹林一、故號二彼地一曰二竹屋一、一書曰、〈◯中略〉彦火火出見尊具言二其事一、老翁即取二囊中玄櫛一、投レ地則化二成五百箇竹林一、因取(○)二其竹(○○)一作(○)二大目麁籠(○○○○)一、内二火火出見尊於籠中一投二之于海一、
p.0727 竹田川邊連同命〈◯火明〉五世之孫、建刀米命之男、武田折命之後也、仁徳天皇御世、大和國十市郡刑坂川之邊、有二竹田神社一、因以爲二氏神一、同居住焉、緑竹大美、供(○)二御箸竹(○○○)一、因レ 賜二竹田川邊連一、
p.0727 七年九月、勾大兄皇子〈◯安閑〉親聘二春日皇女一、〈◯中略〉口唱曰、〈◯歌略〉妃和唱曰、莒母唎矩能(コモリクノ)、簸都細能哿婆庾(ハツセノカハユ)、那峨例倶屢(ナガレクル)、駄開能(タケノ)、以矩美娜開(イクミタケ)、餘嚢開(ヨタケ)、漠等陛嗚磨(モトヘヲバ)、莒等儞都倶唎(コトニツクリ/○○○○○○)、須衞陛嗚磨(スエヘヲバ)、府曳儞都倶利(フエニツクリ/○○○○○○)、府企儺須(フキナス)、〈◯下略〉
p.0727 白雉四年七月、被レ遣二大唐一使人高田根麻呂等、於二薩麻之曲竹島之門一合レ船沒死、唯有二五人一、繫二胸一板一流二遇竹島一、不レ知二所計一、五人之中門部金採(○)レ竹爲(○○)レ筏(○)、泊二于神島一、
p.0727 凡應レ供二大嘗會一竹器熬笥(○○○○)七十二口、煠籠(○○)七十二口、〈料篦竹口別六株〉乾(○)二索餅(○○)一籠(○)廿四口、〈口別十三株〉籮(○)六口、〈口別十五株〉預前造備送二宮内省一、 凡年料雜籠料、竹四百八十株、用二司國園竹一、
p.0728 一竹葭(○○)の類用る事禁忌也、諒闇の時倚廬の御所のしつらひ、こと〴〵くみな竹葭を用るがゆゑなり、
p.0728 あき人を誹諧師と聞違へし事江戸のかた邊りに、烟管のらう竹(○○○○○○)ひさぐ家あり、日毎にあき人ども來りて、らう竹買うけて業ひにぞすなる、〈◯下略〉
p.0728 竹樓記姫路藩執政河合君、就二其室東偏一、起二小樓一、材多用レ竹、曰二竹樓(○○)一、乙酉之秋、余〈◯頼山陽〉蒙二其延請一、嘗一登觀、蓋其屋既葺以レ竹、自二椽榱欄楯一、又無二往非 竹、明潔雅素、登者無レ不二肅然一也、聞君當レ國以レ儉爲レ政、百弊盡革、居第敝不二敢修一、而侯時來臨莫二以待一焉、所三以有二此樓一、而凡其竹材取二之園中所 生、不レ足者補充、窻櫺之間、往々用二敗弓故箭一、曰是亦竹也其示二儉朴一非レ好レ事、可三以見二大臣之用心一矣、而請二余記 之、余嘗見下宋王元之亦有二竹樓一而自記 之、蓋因二其所レ管州多 竹、用代レ瓦、以二價廉工省一、而元之亦倣レ之、則與二君之創意爲レ之、用心有レ在者一異矣但其取二廉省一同耳、且彼之用レ竹獨瓦、故其謂下宜二急雨一宜二密雪一宜中鼓琴圍棋上者、特謂二其外之聲一也、豈如二此樓内外皆竹、快レ心悦 目歟、則所レ謂瓦之易レ朽、此不二必憂一也、然以レ瓦言レ之、亦有二異焉者一、彼游官奔走、不レ得二久居一、故望二後人嗣葺一、得二以不 朽、如二君之世祿一、又獲二其君一、非二元之比一、雖三東西于役莫二寧處一、而私第與二公室一並存者、奕葉依然、則竹樓之樂可二以永享一矣、而乃子乃孫嗣葺不レ絶、屢朽屢葺、園中之竹伐而復生、刳二心腹一效二力用一、又猶二君之世忠藎一也、君之竹樓寧有レ墜哉、是可二以爲 記、
p.0728 孟宗竹〈◯中略〉都て暖國には竹よく生育す、寒國は竹にあしく、信濃の國には竹一本も生ぜず、甚だ不自由成事なり、桶の輪には竹にあらざれば叶ひがたきゆへ、三河尾張より輪につくりて送り來り、甚だ高 直なり、壁のゑつりは山茅を用ゆ、大ひなる茅ある故に、多くは竹のかはりにこれを用ゆ、他より思ふとは格別にして、又相應にかへ用ゆるもの生ずるも天地の妙なり、それより北方越後、出羽奧州も南部領邊は、人民一生竹を見ざるもの有、太き竹は絶てなし、夫故人家の邊に、南國のごとく竹藪といふものなし、山中に笹あり、是も熊笹にて竹の用に立べきものに非ず、南國にては竹ほど人家の重寶に成るものはなく、一日なくて叶はぬやうに覺ゆれども、斯の如く竹なくてもさのみ不自由なる様にも見えず、只桶の輪のみ何方にても難儀に見ゆ、津輕秋田邊にては、榎の木の皮の様に見ゆるものを曲て、樺にてとぢ、桶として用ゆ、又太き木をくりぬきたるも見ゆ、邊土は人民にいとま多きゆへ、丁寧なる細工をしても用は足りぬにや、
p.0729 筍笋〈同息元則元二反、笋也、太加牟奈、〉
p.0729 竹胎也、〈醢人注曰、筍竹 、按許與レ鄭稍異、胎言二其含苞一、 言二其已 一也、呉都賦曰、苞筍抽レ節引伸爲二竹青皮之偁一、尚書云、 重筍席禮器如二竹箭之有一レ筍、聘義浮筍旁達皆是其音、爲贇切、今字作レ 、〉从レ竹旬聲、〈思允切、十二部、今字作レ笋〉
p.0729 笋筍〈上通下正〉
p.0729 竹笋〈崔禹云、笋作二筍子一、〉一名草華〈出二養生要集一〉和名多加牟奈、
p.0729 笋 爾雅注云、筍〈音隼、字亦作レ笋、和名太加無奈、〉竹初生也、本草云、竹筍味甘平無レ毒、燒而服レ之、長間笋 兼名苑注云、長間笋〈今案和名之乃女〉笋青最晩生味大苦也、
p.0729 笋(タケノコ/タカンナ) 〈筍同字和名類聚〉 龍孫(レウソン)〈同〉
p.0729 筍(タカンナ/タケノコ) 笋(同)〈篛、 茁並同、〉初篁(同) 竹 (同)〈爾雅〉竹胎(同)〈説文〉竹子(同)〈本草〉竹芽(同)
p.0729 笋から玉、〈笋の異名也、藏玉にあり、〉たけの子ともよめる也、〈今さらに何おひつらむたけのこのうきふししげき世とはしらずや〉 たけのふるねのおひかはる、〈拾遺、是たかんなをよめり、〉 をくれてさせるねたかんな かきねにおふるたけのこ 雪の したなるたけのこ
p.0730 物おもひける時、いとけなきこをみてよめる、 凡河内みつね今更に何おひいづらん竹のこ(○○○)のうきふししげき世とはしらずや
p.0730 笋ををさなき人におこせておやのためむかしの人はぬきけるを竹のこによりみるもめづらし かへし雪をわけてぬくこそおやのためならめこはさかりなるためとこそきけ
p.0730 御寺のかたはらちかきはやしに、ぬきいでたるたかうな(○○○○)、そのわたりの山にほれるところなどの、山里につけてはあはれなれば奉れ給ふとて、〈◯下略〉
p.0730 女房ことば一竹のこ たけ(○○)
p.0730 笋〈訓二太加牟奈一、今訓二竹乃子一、〉釋名、筍、〈源順曰、音隼字亦作レ笋、必大按作レ笋者非也、籜者筍皮也、〉集解、今本邦所レ食之筍者、苦竹淡竹長間(シノ)竹之筍也、苦竹者俗稱二眞竹一、或稱一唐(カラ)竹一、古稱二加波多計一、淡竹者俗稱二波(ハ)竹一、古稱二於保多計一、長間竹者俗稱二奈伊竹一也、淡竹筍者籜有二紫黄黒斑一而美、筍肉亦廿脆碧色、有レ香大美、江東少京師多而最肥美、從レ古以二醍醐蒸筍一爲レ珍、然不レ如二采レ生煮食一、而鞍馬嵯峨及東北山中之産爲二第一一、和河紀攝江丹諸州多出而太美、海西諸州亦淡竹筍多、苦竹筍少、雖二儘有一亦不レ用レ之、江東惟苦筍最多、其味甜苦相交、其中以二甜多苦少一爲レ佳、淡筍希有、當世販レ菜者二三月末レ生レ筍時、深掘二竹根一得二小筍一、以二其早一爲レ珍貪レ價、其味不レ好矣、長間筍者諸州倶有、味尚苦多甜微、不レ耐二多食一也、今洛及畿内醃藏而貢二獻之一者悉是、淡竹筍江東惟雖下以二苦筍一而醃中藏之上、或不レ久或易レ腐、味亦不レ佳、故收造者少矣、凡籜皮 紫黒斑者、采收晒乾以爲二器用一、白者亦用、故民間多采レ之貨二于四方一、淡筍籜者皮厚而難レ敗、苦筍皮薄弱易レ損爾、苦筍、氣味、苦甘寒無レ毒、主治、化レ痰除レ熱、下レ氣利レ水解二酒毒一、淡筍、氣味、甘寒無レ毒、主治、消レ痰除レ熱、婦人驚悸、小兒驚癇倶治、長間筍、氣味、苦寒無レ毒、主治、下レ氣利レ膈爽レ胃、然多食動二蟲積一、令二人上氣嘔吐一、發明、諸筍倶雖二寒冷無 毒、性 難レ消、消去後復滑利無レ益二於脾胃一、惟其淡甘可レ愛、最不レ宜レ人之理、然則豈可二多食一哉、
p.0731 竹筍 タカンナ(○○○○)〈古名〉 カラダマ(○○○○)〈古歌〉 タケノコ(○○○○) タンコ(○○○)〈上總、房州、〉 カツポウ(○○○○)〈防州〉 一名竹鼠〈事物異名〉 龍孫 籜龍 玉板兒 玉板和尚 玉板師 玉嬰兒〈共同上〉 筍兒拳〈劒南詩稿〉 刮腸篦〈發明〉 子筍〈筍譜〉 竹牙〈同上〉 菌〈事言要玄〉 毛頭〈名物法言〉 䇦〈洪熙字典〉 笖〈同上〉 龍雛〈事物紺珠〉 籜龍兒 稚子 佛影蔬 楊妃指 犢角馬蹄 邊幼節字脆中 玳瑁簪〈以下苦竹筍名〉 錦䙀兒〈共同上〉 錦株子〈書言故事〉 増一名 〈爾雅〉 箭萌〈同上〉 甘鋭侯〈清異録〉 竹篛〈筍譜〉 穉龍〈竹譜〉日華胎〈雲笈七籤〉 羊角〈事物異名〉 蒼龍骨 春龍 玉虬 黄犢角 獰龍〈共同上〉晉ノ戴凱之ノ、竹譜ハ、百川學海ニアリ、宋ノ僧贊寧ノ筍譜ハ説郛ニアリ、淡竹筍ハ早ク生ジ、籜ニ斑ナシ、味薟ナラズ、苦竹筍ハ後テ生ジ、籜ニ斑アリ、味苦薟煠カザレバ食レズ、凡ソ竹ハ八月ニ根横ニ引テ鞭ヲ生ズ、コレヲ行鞭ト云ソノ鞭頭筍ノ形ヲナスヲ、採リ食フヲムチコト云、一名ハヱボウ、〈筑前〉ケイボウ、〈筑後〉是ヲ僞筍ト云、又二筍ト云、共筍譜ニ出、又冬月筍ノ土中ニアル者ヲ堀出シ食スルヲ冬筍ト云、食物本草ニ出ヅ、
p.0731 竹筍ヲ作ル法ハ、獨活芽ヲ作ルト其意大略相似、然レドモ竹ハ能作リテ肥太成長セシムルトキハ、極テ有用ノ多キ材ナルニ、其筍ヲ採食テ僅ニ舌上三寸ノ賞味ト爲スコ トハ、天威ノ畏レ無キニ非ズ、故ニ竹筍ヲ作ルコトハ、江南竹(コウナンチク)ニ限ルコトヽ知ルベシ、江南竹ハ俗ニ孟宗竹ト名ルモノ即是ナリ、此竹モ成長セシムルニ至テハ、器物ヲモ造ル者ナレドモ、多クハ玩弄ノ物ト爲ル、眞竹ヨリハ性脆ガ故ナリ、又眞竹ノ筍ハ作ラズシテ、五月十三日以後ニ生ズル者ハ採テ食フベシ、凡筍ノ五月十三日以後ニ生ジタルハ、大抵竹ノ用ハ爲サザル者ナリ、江南竹ヲ作テ筍ヲ採ニハ、早ク出スヲ妙トス、二月三月ニ出スガ如キハ、人モ亦奇トセザルヲ以テ、農家ノ利潤ヲ爲スコト少シ、此物ヲ早ク生ジ、早ク肥太セシムルノ法ハ、荒廢ノ野原ヲ新ニ墾キ、赭腐壚(アカノツチ)、黒鬆土(クロボコ)ノ論ニ拘ズ、先ヅ深三尺幅二尺許ノ長溝ヲ堀リ、臘土(ラウド)ト腐糠(フカウ)〈此二物ノ製法ハ、培養秘録ニ詳説アリ、〉ト各一石宛ニ馬溺鹽(バネウエン)〈此モ亦秘録中ニ詳ナリ〉二斗調合シタル糞土ヲ、其底ニ敷コト一尺二三寸、此糞土ノ上ニ江南竹四五本ヅヽヲ一株ニシテ、繁カラズ遠カラザルヤウニ植並ベ、肥タル眞土ト河底ノ埴泥トヲ交テ、上六七寸許モ覆ヒ、根ノ風ニ動搖セザルヤウニ控抗ヲ打立テ、柵垣ヲ丈夫ニ結置キ、其根覆ノ土ヲバ壓堅ルコト勿レ、
p.0732 御札之旨、大齋之體、心事難二申盡一候、〈◯中略〉御齋之汁者、〈◯中略〉笋、蘿蔔、
p.0732 茶子者〈◯中略〉干竹笋(○○○)、乾胡蘆、
p.0732 日域諸國名産菜蔬類 書寫筍子〈播州〉久野筍〈遠州〉四季筍〈薩州〉酸筍〈京師醍醐〉二月笋〈因州〉
p.0732 竹笋 處々出、凡苦竹之外總謂二淡竹一、又名二雷竹一、物號二甜竹一、倭俗稱二半竹一也、淡竹所レ生之笋、其生也早矣、然其味淡脆、醍醐邊苦竹多、俗稱二眞竹一、眞竹所レ生之笋、其形大而味厚、煮食レ之、籜皮有二斑點一者爲レ佳、醍醐寺僧蒸レ之而食レ之、世稱二醍醐蒸笋一、是爲二春末之珍味一、蒸レ之法不レ去二籜皮一、連レ根入二大釜一、盛レ水燒二大榾柮一、蒸レ之二三日、柔脆至レ如レ綿則止、然後聶而截レ之、合二醋醤或熬酒一而食レ之、近世彼寺僧以二青竹一插レ之、贈二遠方一雖レ歴二數日一不二朽腐一、
p.0733 雜菜之品 竹笋 眞竹也 醍醐 八幡
p.0733 於レ是伊邪那岐命見畏而逃還之時、其妹伊邪那美命言令レ見レ辱レ吾、即遣二豫母都志許賣一〈此六字以レ音〉令レ追、爾伊邪那岐命〈◯中略〉刺二其右御美豆良一之湯津津間櫛引闕而投棄、乃生レ笋、是拔食之間逃行、
p.0733 笋は字鏡に筍笋太加牟奈とあり、〈後の物に多加宇奈とも云り、凡て牟を宇と云なす例多し、音便なり、〉名の意は竹芽菜(タカメナ)なり、〈菜は食に添て喰物の凡の名なり、かヽれば笋も菜にするときの名を、たかむなといひ、たヾには竹子と云故に、歌には竹子とのみよめり、此は拔食とあれば菜なり、〉
p.0733 都勢野山、〈◯中略〉笋茅等物叢生、
p.0733 奉寫一切經所解 申請用雜物事合請新錢廿三貫九百九十三文〈◯中略〉 用一十七貫五百六十文〈◯中略〉 五十文竹子二束直〈束別廿五文◯中略〉以前、起去閏三月一日、盡今月廿九日、請用雜物并殘等、顯注如レ件、以解、寶龜二年五月廿九日 散位正六位上上村主馬養〈◯以下署名略〉
p.0733 髑髏目穴笋掲脱以祈レ之示二靈表一縁第廿七白壁天皇〈◯光仁〉世、寶龜九年戊午冬十二月下旬、備後國葦田郡大山里人品知牧人爲レ買二正月物一、向二同國深津郡於深津市一而往、中路日晩、次二葦田郡於葦田竹原一、所レ宿之處有二呻音一言、痛レ目矣、牧人聞レ之、竟夜不レ寢而踞、明日見レ之有二一髑髏一、笋生二目穴一而所レ串レ之、掲レ竹解免、自所レ食餉以饗レ之言、吾令レ得レ福、到レ市買レ物、毎レ買如レ意、疑彼髑髏因レ祈報レ恩矣、
p.0733 造二雜物一法笋子一圍〈擇二得二升一〉料、鹽九合、搗糟三升、 右釋奠料
p.0733 供奉雜菜日別一斗、〈◯中略〉笋四把、〈五六月〉中宮准レ此、其東宮雜菜五升〈◯中略〉笋二把、
p.0734 二日 臨時客御料次第 六獻薺汁 根笋(○○) 可二用意一近代否レ之歟、
p.0734 太上天皇〈◯花山〉の御名は、ながくくださせ給ひにき、〈◯中略〉冷泉院にたかんなたてまつらせ給へるおりは、 よの中にふるかひもなきたけのこはわがへんとしをたてまつるなり、御返し、 としへぬるたけのよはひは返してもこの世をながくなさんとぞ思ふ、かたじけなくおほせられたりと、御集に侍るこそあはれに候へ、まことにさる御心にも、いはひ申さんと、おぼしめしけんかなしさよ、此花山院は風流者にこそおはしましけれ、〈◯中略〉あて御ゑあそばしたりしさまにけうあり、〈◯中略〉たかんなのかはを、おとこのをよびごとにいれて、めかヽうして、ちごをおどせば、かほあかめてゆヽしうおぢたるかた、又とく人たよりなしの家のうちつくり、法などかヽせさせ給へりしが、いづれも〳〵さぞありけんとのみ、あさましうこそ候ひしか、
p.0734 一條院御時、於二清涼殿一有二御酒宴一之日、讃岐守高雅朝臣奉二仕庖丁一、左府〈◯藤原道長〉拔二竹臺笋一、石灰壇ニテ燒テ、シヒ申サレケレバ、度々聞食ケルヲ、高雅朝臣微音ニ、本自方戸ハト云ケリ、
p.0734 天文十一年五月四日癸丑、清水 養坊卷數竹子一束到二來之一、眞木島里より竹子二束到二來之一、 十二日辛酉、豐島但馬竹子到來之、
p.0734 掟一竹子折事堅停止、若於二相背一者、萬貫可レ爲二過怠一事、見付申上者、右壹貫爲二褒美一可レ遣事、〈◯中略〉 慶長二年三月廿四日 盛親〈在判〉 元親〈在判〉
p.0734 貞享三寅年五月 覺〈◯中略〉一竹の子 四月節より〈◯中略〉右之品々致二商賣一候儀、先年月切ニ御定被レ成候得共、自今以後は此書付之通に、節ニ入候日より可レ致レ商二賣之一、〈◯中略〉若右之趣相背者於レ有レ之は、急度曲事可二申付一者也、 五月
p.0735 前田大和守利以〈◯上州七日市〉 時獻上〈五月〉笋堀田相模守正順〈◯下總佐倉〉 時獻上〈五月〉笋土屋但馬守英直〈◯常陸土浦〉 時獻上〈五月〉笋
p.0735 國府寺筍〈并〉島左近が事一今は昔、播州姫路の太守たるひと、年々筍の生ふる時分、姫路の城下國府寺次郞左衞門といふ富家へ、振舞にゆき給ふ事あり、かの國府寺は、由緒正しきものにて、太閤よりの御朱印頂戴す、境内に大藪有りて、年々筍出づる事夥し、其太守を招請申す事先例なり、また此藪へ入りて筍を盜むもの、必罰せらるヽ事、律令なりとかや、ある時筍の時分、太守の中間年十七八許なる若もの、ひそかに彼やぶに忍び入りて、筍を多く盜み取りけり、此事露顯に及び、吉岡某といふ家老のはからひにて、禁獄のうへ、彼者打首に致しけり、其節吉岡至りて出頭して、肩をならぶる者なし、こヽに其翌年夏、例の筍時分、國府寺次郞左衞門太守を招請し奉るによりて、吉岡もしたがひ行きけり、亭主次郞左衞門罷り出でヽ、いつもの如く、藪の筍を御覽下されかしとて、先へたち案内す、太守見物まし〳〵て、うしろを振廻り、筍はいつもはゆるが、人はと仰せられて、 をこぼし給ひければ、吉岡ぞつとしたるよし、下劣の小童の命一つといへど忘れ給はで、筍を見給ふにも、かれが死ををしませ給ふ、人君の思召いと有りがたし、凡是までは、大概此筍を盜む咎は、死刑に極まり しに、太守半句の謎を以て、其後は永代死刑をまぬかるヽやうに成りしこそ、徳行とも申すべけれ、
p.0736 竹の子は孟宗殊に多く、十月比より出、江戸よりも出は早くして且多し、正月頃江戸の三月頃と大體大さも相對す、暖國故なるべし、味ひも優劣なし、多き故江戸より廉なり、尤五月比は不斷出れども、二三月頃を盛んに賞玩す、續てはちく出れども、是は江戸より少き方なり、眞竹は至て少なし、是近年諸國竹拂底なる故なるべし、
p.0736 かたへのものヽそれに附て云、ある者筍を食する事、あまりに多くして、面目より下た板の如くになりて、くるしみぬるに、藥をあたへぬれど驗なかりしとき、加賀の國より來りたる扇子うりありしが、これを見て妙方に候、用ひて御覽候へとて、宿にかへり藥を調じて持來り、煎じて二服ばかり喉に入ければ、少しづヽ和してやヽありてくつろぎぬ、そこにてこれいかなる妙藥にやと問れければ、甘草にて候、加賀にて骨竹を制するに、甘草水に浸しぬれば、しめやかに和らぎ、心のまヽにつかひ候故、存寄たるに候とこたへけり、
p.0736 籜 蔣魴切韻云、籜〈音擇、和名笋乃宇波加波、〉竹上大皮也、
p.0736 籜本从レ艸作レ蘀、説文艸木凡皮葉落二 地一爲レ蘀、轉以二笋上大皮落一爲レ蘀、俗變レ艸从レ竹、再轉爲二竹上大皮之名一也、
p.0736 篾 孫愐切韻云、篾〈莫結反、和名竹乃加波、〉竹皮也、
p.0736 籜(タケノコノカハ) 〈和名類聚タカンナノカハ〉
p.0736 籜〈音託〉 笋皮〈太介乃古乃加波〉按、籜可二以織 履、可二以縫 笠、又堪レ裹二膠飴一、淡竹籜淡赤乾色、苦竹籜黄有二黒點一潤色、山城嵯峨爲レ上、丹波次レ之、若狹豐後又次レ之、筑前安藝其次也、
p.0737 諸工商人所付〈いろは分〉た 江戸之分 竹のかは 同所〈◯新橋南通〉
p.0737 竹皮直段引下ゲ高書上一大飛包皮百文ニ付〈當五月直段百貳拾目、當時引下〈ケ〉直段百三拾目、〉 一並大包皮百文ニ付 〈當五月直段百六拾目、當時引下〈ケ〉直段百七拾目、〉一中包皮百文ニ付 〈當五月直段百八拾目、當時引下〈ケ〉直段百九拾目、〉一相中皮百文ニ付 〈當五月直段貳百目、當時引下〈ケ〉直段貳百貳拾目、〉一小包皮百文ニ付 〈當五月直段貳百七拾目、當時引下〈ケ〉直段三百目、〉 一上葉竹笠皮百文ニ付〈當五月直段百八拾目、當時引下〈ケ〉直段貳百目、〉一同並笠皮百文ニ付〈當五月直段貳百七拾目、當時引下〈ケ〉直段三百目、〉 一尺長大枝皮百文ニ付〈當五月直段五拾五匁、當時引下〈ケ〉直段六拾目、〉一並枝皮百文ニ付 〈當五月直段九拾目、當時引下〈ケ〉直段百目、〉右竹皮類者、船間ニ而品切多、當時商賣仕直段引下ゲ候方取調、此段申上候、以上、 名主新右衞門(諸色掛り南傳馬町)天保十三寅年八月二十一日
p.0737 諸色引下ゲ直段書 竹皮類一本白長竹皮(去子(元治元年)六月書上直段拾貫目ニ付銀三百拾五匁) 銀四百六拾五匁(今般(慶應二年)引下直段拾貫目ニ付)但當時直段四百九拾匁内貳拾五匁直下ゲ一本白脇竹皮(右同斷銀百七拾壹匁) 銀貳百七拾匁(右同斷) 但同斷、貳百八拾五匁内拾五匁直下ゲ、一上脇竹皮(右同斷銀五拾四匁) 銀八拾九匁(右同斷) 但同斷、九拾五匁内六匁直下ゲ、一はら皮(右同斷六拾八匁) 銀百八匁(右同斷) 但同斷、百拾五匁内七匁直下ゲ、一羊カン皮(右同斷銀四拾七匁) 銀四拾七匁(右同斷) 但同斷、五拾匁内三匁直下ゲ、一笠皮(右同斷銀三拾三匁) 銀三拾貳匁五分 但同斷、三拾五匁内貳匁五分直下ゲ、 一白土佐竹皮(右同斷四貫目ニ付銀拾匁) 銀拾貳匁三分(右同斷四貫目ニ付) 但同斷、拾三匁内七分直下ゲ、一中なし竹皮(右同斷銀六匁五分) 銀七匁五分(右同斷) 但同斷、八匁内五分直下ゲ、一葉竹皮(右同斷拾貫目ニ付銀拾壹匁五分) 銀拾三匁(右同斷拾貫目ニ付) 但同斷、拾四匁内壹匁直下ゲ、
p.0738 竹實(タケノミ)〈形如二小麥一、以爲二荒年之兆一、又鸞鳳所レ食竹實非レ是、詳二本草一、〉 䈜(同) (同) 十年枯(ジネンコ)〈陸佃云、竹六十年一花結實、其竹則枯、見二太平御覽一、〉 自然粳(同)〈俗字〉
p.0738 竹實 國俗自然粳(ジネンガウ)ト云、或曰、阿含經ニイヘル劫初自然粳米ニナゾラヘテ云ニヤ、竹實ナルハ竹疫ナリ、凶年ノ兆シナリ、竹實生ズレバ竹必枯ル、古昔鸞凰ノ所レ食ノ竹實トハ別ナルベシ、
p.0738 竹實(たけのみ) 俗云自然穀(ジネンコ)本綱、今竹間時見レ開レ花、小白如二棗花一亦結レ實如二小麥一、子無二氣味一而濇可二爲レ飯食一、謂二之竹米一、以爲二荒年之兆一、其竹即死、必非二鸞鳳所レ食者一、一種有下生二苦竹枝上一者上、大如二鷄子一、竹葉層層包レ之、其味甘勝レ蜜有二大毒一、須下以二灰汁一煮二度、煉訖乃茹食上、煉不レ熟則戟二人 一出レ血、手爪盡脱也、是此一物恐與二竹米之竹實一不レ同、古今醫統云、竹多年則生レ米而死、初見二一根生 米、則截二去上梢一、近レ地三尺通去レ節、灌二入犬糞一、則餘竹不レ生レ米也、按草實有二自然穀者一如レ麥也、竹實相二似之一、故俗名二自然穀一乎、天和壬戌之春、紀州熊野及吉野山中竹多結レ實、其竹高不レ過二四五尺一、枝細而皆小篠、其實如二小麥一、一房數十顆、山人毎レ家收二數十斛一、以爲二食餌一、至二翌年春夏一、然大資二荒年飢一、而後五穀豐饒、米粟價減レ半、予〈◯寺島良安〉亦直見レ之、然則荒年極當レ爲二豐年一之時出乎、
p.0738 丙戌ノ晩秋、某氏ヨリ糝糖ヲ贈ル、信州ヨリ出ス所ト、淡緑色ニシテ、育鳳鸞ト銘ゼ リ云フ竹實ヲ以テ製スト、記文ヲ添フ曰、〈◯中略〉夏のころより、山谷のみすヾ實をむすぶ事おびただしく、みな人打つどひ、是をひろひあつむるに、日々に兩三俵を得たり、あらかじめ是を數へたらむに、凡五六萬に過し、是まつたく戸隱の惠ならんこと尊ぶべし、 戸隱のみすヾの竹になれる實はふりにし神のめぐみなるらむ 邦守右竹實をもて製し侍る御菓子なり、則戸隱山の御供を御戴被レ成候にひとしく御座候間、宜御披露可レ被レ下候、以上、 みすヾかる信濃國いもゐの里白雪齋製 信州善光寺西町御菓子所 府野屋清吉
p.0739 竹茹、和名今按太計乃阿末波太(○○○○○○○)、
p.0739 竹茹 俗云竹甘膚〈可レ用二淡竹一、削二去筠一取二用皮肉間一、〉氣味〈甘微寒〉 治二嘔啘、吐血、鼻衂(ハナチ)、五痔、膈噎、傷寒、勞復、婦人胎動、小兒熱癇一、 按、用二竹茹一綯二糾繩一爲二火繩一、以爲二行人煙草火一、獵人爲二鳥銃之用一、勢州鈴鹿關作レ之者多、
p.0739 竹黄 竹膏 天竺黄(○○○)本綱、竹黄諸竹内所レ生、如二黄土一著レ竹成レ片者往往得レ之、今人多燒二諸骨及葛粉等一雜レ之、氣味〈甘寒〉 治二小兒驚風天弔一、去二諸風熱一鎭レ心明レ目療二金瘡一、治二中風失音不語、小兒客忤癇疾一、按、天竹黄即諸竹三四月斫者、經レ日破二裂之一、内多有二天竹黄一、蓋濕熱熾二於内一、暑熱蒸二於外一自生レ蛀、然乎、未レ見二蟲形一、黄粉輕虚者也、藥肆取二筱竹外節所レ有黄粉一、充二竹黄一、不レ可レ用、一種有二竹蛀屎一、古竹生レ蠹者、内肌食盡有二小孔一、腐爛而生二白粉一、此與二天竹黄一一物異品也、瘡癤膿爛者 レ之愈、
p.0739 天竹黄 タケミソ(○○○○) 一名空箇玄〈藥性纂要〉 路戰娜〈金光明經〉 天竹黄ハ竹中ニアル粉ナリ、苦竹淡竹皆アリ、初ハ水ナリ、後漸ク凝テ紛トナル、數品アリ、塊ヲナシ、竹中ニ滿タルモアリ、碎テ沙ノ如クナルモアリ、細ニシテ粉ノ如モアリ、白色牙色黒褐色ノ等アリ、牙色ニシテ微透ナル者上品ナリ、本草原始ニ、天竺黄通二天下市一者、形塊如二豆大一、亦有レ如二指頂一、大者有二黒色一有二牙色一、有二碧色一者味甘、牙色者善、碧色者次レ之、黒色者下ト云、痘疹金鏡録ニ、天竺黄點二於舌上一麻澀者眞ト云、舶來ノ者ハ皆小塊ヲナシタルヲ碎キタルナリ、黒アリ白アリ牙色アリ、皆内ニ炭或ハ灰多ク雜レリ、
p.0740 篁〈タカムラタケハラ〉
p.0740 やぶ 新撰字鏡、倭名抄に藪をよめり、彌生の義なるべし、日本紀の歌に、やぶはらとも云へり、仙覺説に、やぶは水つきてあしなどしげれる所をいふ、俗にやはらといふといへり、〈◯中略〉説文に、藪は大澤也と注せり、俗に竹やぶのみに心得るは非也、たけやぶは竹箐(○○)と見えたり、
p.0740 四年二月甲子、天皇幸二美濃一、左右奏言之、兹國有二佳人一曰二弟媛一、容姿端正、八坂入彦皇子之女也、天皇欲二得爲 妃、幸二弟媛之家一、弟媛聞二乘輿車駕一則隱二竹林(○○)一、〈◯下略〉
p.0740 二年〈◯用明〉七月、物部守屋大連資人捕鳥部萬、〈萬名也〉將二一百人一守二難波宅一、而聞二大連滅一、騎レ馬夜逃、向二茅渟縣有眞香邑一、仍過二婦宅一而遂匿レ山、朝廷議曰、萬懷二逆心一、故隱二此山中一、早須レ滅レ族、可レ不レ怠歟、萬衣裳弊垢、形色憔悴、持レ弓帶レ劒、獨自出來、有司遣二數百衞士一圍レ萬、萬即驚匿二篁藂(○○)一、以レ繩繫レ竹引動、令三他惑二己所 入、衞士等被レ詐、指二搖竹一馳言、萬在レ此、萬即發レ箭一無レ不レ中、衞士等恐不二敢近一、萬便弛レ弓挾レ腋、向レ山走去、〈◯下略〉
p.0740 阿用郷、郡家東南一十三里八十歩、古老傳云、昔或人此處山田佃而守レ之、爾時目一鬼來而食二佃人之男一、爾時男之父母竹原(○○)中隱而居、爾時竹葉動之、爾時所食男云二動々(アヨアヨ)一、故云阿欲、
p.0741 讃岐の高松に宗鑑が一夜庵あり、山崎に庵をむすび、門は設といへども常は鎖せり、かくて藪をかまへけるに、〈今にあり、宗鑑藪といふ、〉其竹他に異なれば、諸人これを所望するに、後には籔もまばらに成ければ、手本可レ賣、竹林不レ賣と、門に札を立建たり、
p.0741 他計甚麼、〈日本風土記〉また竹島と書は、此島〈東の方大坂浦にあり〉に大竹籔あり、其竹極めて大なるは、周圍二尺ばかりなるものあり、〈竹島圖説〉よつて號る也、
p.0741 十二番 右 たけ賣(○○○)手あたりのよき枝あらばをるもうし花の圍ひのもかり竹めせ二十八番 右 竹賣うりかぬるじねんご竹の末の露もとの雫のまうけだになし
p.0741 金銀 竹木 土石竹 弓竹旗竿は賀茂八幡を用 竹屋町通西 烏丸通五條二丁下 高倉二條下町
p.0741 諸工商人所付〈いろは分〉た 京之分 竹屋 竹や〈ほり川のにしひがし〉 同 〈ほり川のにし四すぢめ、松ばら上ル丁、〉 同 高くら二條下ル丁 た 江戸之分 竹屋 三十間ぼり 同 新材木南通 同 北こんや北八丁ぼり 同 新橋竹町 同 京橋竹 同 麴町十丁目 同 四谷御門の外 同 本所一ツばし 同 淺くさ駒かた堂た 大坂之分 竹屋 江戸ぼり 同 天滿ほり川 同 長ほり 同 天ま二丁目
p.0741 竿竹賣衣服ヲ洗ヒ曝ス竹竿ヲ賣ル故ニ、四時賣レ之ト雖ドモ、特ニ夏ヲ專トス、又夏月ハナヒ竹ノ竿ヲモ賣リ、詞ニカタビラサホ〳〵ト云、坐邊ニ掛レ之テ夏衣ノ汗ヲ晒スニ用フ、又樋竹ヲモ賣リ來ル、乃 チ檐端ニ架レ之テ雨滴ヲ受ル具也、俗ニトユダケ、或ハトヒダケトモ云、竿賣樋竹賣トモニ肩ニシテ巡ル、
p.0742 郡南二十里香澄里、〈◯中略〉東山有レ社、榎、槻、椿、椎、竹(○)、箭(○)、麥門冬、往往多生、
p.0742 今はむかし竹とりの翁といふものありけり、野山にまじりて竹をとりつヽ、萬の事につかひけり、名をばさぬきの宮つことなむいひける、其竹の中に本光る竹なむ一すぢ有けり、あやしがりて寄て見るに、つヽの中ひかりたり、それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり、翁云やう、我朝毎夕毎にみる竹の中におはするにてしりぬ、子になりたまふべき人なめりとて、手に打入て家にもちて來ぬ、めの女にあづけてやしなはす、うつくしき事限なし、いとおさなければ、こに入てやしなふ、竹とりの竹をとるに、此子を見つけて後に、竹とるにふしを隔て、よごとにこがねある竹を見つくる事、かさなりぬ、かくてをきなやう〳〵ゆたかになり行、
p.0742 一元祿年中、駿府の寺に、一夜の内に、庭に假山の如く、地形凸に成る、怪見るに一兩日過れば笋生たり、近隣に藪無きに、希有の事也と沙汰する内に、追日笋成長し大竹(○○)と成、目通り凡三尺廻有、前代未聞の事と、諸人群集して是を見る、其後往來の御番衆某是を聞及て、彼寺に立寄見物して、住僧に所望す、住持も此竹故に寺内に人の群るを厭て、幸に伐之て彼士に與ふ、彼士是を携歸、人々に配分して、思ひ〳〵の器物とす、丸盆烟管盆、或は樽抔に製して珍器とす、或人飯器にして翫しを見たりと語れる人有、其大さわたり八九寸有しとぞ、
p.0742 竹根化(○○○)レ蝉(○)越前府中の南二里に、粟田部といふ所あり、〈◯中略〉此所に粟生寺といふ寺あり、天台宗にて坂本西教寺の末寺にて、頗る大寺也、此寺の住持は、余〈◯橘南溪〉が方外の親友ゆゑ、北遊の時も、廿日計逗留せり、其前年の事なりし由、此寺の北面にある藪を堀開く事ありしに、竹の根こと〴〵に蝉に變化 して、旣に生氣備はれり、動搖して早地上に出かヽりたるもあり、いまだ半ば竹にて、半蝉に變じかヽりたるもあり、色々ありて其數百千に及べり、初は小僧奴僕なども珍らしがりしが、あまり多きゆゑ、後にはもてはやすともなく、住侍は生類を害せんことを憐れみ、又土に埋み蝉に化せしめられしとや、珍らしさに余も兎角して、二ツ三ツを求得て携へ歸れり、其中に背中より子生ひ出たるも有り、京に歸りて人に語るに、草の根の虫に變ずること多きもの也、竹の蝉に變ずるもある事なりといへり、誠に冬は虫に成り、夏は草になるものも、本草などにも見えぬれば、是等も其類ひにてやあらん、
p.0743 竹化石(○○○)賦〈并序〉若水稻子之家有レ竹化レ石長二寸餘、闊半レ之、厚又半レ之、色如レ瑿、有二一節一居レ中云、三年之前稻子請二新井君美與 余以求レ詩、且言曰、竹之化レ石自レ古有レ之、間於二稗史小説一見レ之、蓋竹之斷根漂二流出三沒於端沙之間一、不レ知二其幾百年一、而日曝風乾受二寒暑之變一、則其化レ石者、時或有レ之、此亦天地間至難レ得者也、故人以爲二溝中之斷一、而余以爲二天下之奇一、雖二千金一不レ願レ易也、〈◯下略〉
p.0743 七不思議一逆様竹(○○○)は、むかし親鸞上人此國〈◯越後〉へ配流の時、携へ來り給ひし杖を、さかさまに地にさし、我説所の法世に弘らば、此杖の竹再び榮ゆべしといひ置給ひしに、其杖さかさまながらに枝葉しげり、其後其根に生ずる所の竹皆逆様なりしとなり、今は其古跡のみ鳥屋野といふ所に殘れり、
p.0743 靈形竹子生、右根より石蛇堀出候儀ニ付、申上候書付、私御代官所武州足立郡舍人町之儀者、道尺より赤山往來有レ之、同村地内右往來際ニ字二〈ツ〉橋と申所ニ、百姓嘉七瓦燒立候場所有レ之、右地内ニ壹反分程之藪有レ之候處、右藪角壹尺五六寸之所壹寸廻り、長壹尺より貳三尺位之竹の子、數七十本餘生立候を、右嘉七見候處、不レ殘先之處曲り有レ之、如何 と存候内、村方之者承り、追々見候處、外之笋者通例之通り生立有レ之、纔ニ壹尺五六寸之場所〈江〉過分ニ生立、殊に先曲り候を不思儀ニ存、右脇を堀見可レ申ト、鍬を以堀候處、石ニあたり候間、脇より壹尺五六寸程堀候得者、丈九寸程の處、差渡七寸五分程有レ之石ニ而彫み候蛇、當月廿四日堀出候旨訴出候、右始末村役人共得と相糺候處、嘉七屋敷之儀、前々よりの屋敷地ニ而、當時者瓦燒場ニ致し、右廻りは灼地ニ而、いつ頃より藪地ニ成候哉、其儀者不二相分一旨申し候、右之品堀出候ニ付、怪敷筋毛頭無レ之旨申立、無二相違一相聞候間、右兩品爲二差出一見分仕候處、別紙麁繪ニ申上候通リニ而御座候、依レ之御屆申上候、以上、〈午〉五月〈◯文化七年〉 大貫次右衞門
p.0744 出世竹此度武州日光道中草加宿在、足立郡中曾根村農家忠藏ト申者屋敷うちへ、古今まれなる竹の子生ず、是を名付て世人出世竹と唱へける、〈◯中略〉當五月中旬、こぞの如く夢の御告にて、稀なる竹の生ずべしとありし處、一兩日の内不思議なるかな、眞竹山〈江〉ふしま〳〵に玉の付候竹の子、五拾本餘生じ、ふきのとうのごとく生立にしたがひ、枝葉風流にして、世の常の竹にあらず、名竹誠に權現の御神徳、正直一致の身體加護まし〳〵、あら有がたの言の葉を、世の人に知らしめんためにあら〳〵筆に記す、 中曾根村錦山忠藏
p.0744 慶應二年二月、世々木村燈柄ノ竹枝ヲ生ズルノ記東都之西有レ邑曰二世々木村一、有二農夫某者一、生質温厚而能憐レ人、嘗有二窮夫一、偶於斯雇行以爲レ業、居歳餘而値レ疾益病、農夫某者閔レ之、尤加二恩意一且與レ藥、朝夕來而看二寒暖之節一久而不レ衰、窮夫毎曰、我非下與二此人一有中親子之恩上、然視二吾病一殊加二恩愛一而不レ止、吾何以報レ之乎、死亦不レ忘也矣、口不レ絶而死、農夫某者又傷レ之涕泣而葬二之於我墓所一、修二浮屠之法一、送葬用二竹柄之燈一、葬終而樹二之於埋葬之上一、旣今玆經二三年一而自二其燈 柄一生二枝葉一、時農夫之隣人偶有二葬事一、而到二於斯一見レ之、乃大驚而語二村長一、村長視レ之亦大怪、告二諸官府一云、聞レ之四方來見者多、余偶到二於斯一見レ之、則恰如二植竹一也、里俗之説、奇者祈福驗多焉、賽者日來而不レ絶二於路一、墓所遽爲レ市、依レ之農夫自補二藥貨葬費一、而更謂レ得二不虞之福一、夫古人有レ言曰、出二於爾一者反二於爾一者也、是亦恩感之所レ到乎、不レ可レ誣也、慶應二年丙寅二月某誌、