p.1139 五月五日ハ節日ニシテ、端午ト稱ス、朝廷ニ於テハ節會ヲ行ヒ、中務宮内ノ二省ヨリ菖蒲ヲ獻ジ、皇族及ビ臣下ニ藥玉ヲ給ヒ、宴ヲ賜フ等ノ儀アリ、中世以後此儀絶エタレドモ、猶ホ節日トシテ菖蒲ヲ獻ズルコトアリ、藥玉ハ五綵ノ絲ヲ以テ、菖蒲艾等ヲ貫キシモノナレドモ、後ニハ時花若シクハ造花ヲ以テ飾レルモノアリ、又菖蒲ヲ屋上ニ葺キ、或ハ鬘ト爲シ、枕ニ用ヰ、之ヲ湯ニ投ジテ浴ミ、之ヲ酒ニ和シテ飮ム等ノ事アリ、皆邪氣ヲ避クルノ法トセリ、粽モ亦此日ノ節物ニシテ、後世ノ柏餅ハ、之ニ代フルニ似タリ、又屋内若シクハ庭上ニ旗幟ノ類ヲ立テ、菖蒲冑、菖蒲刀、冑人形等ヲ飾ルモ、亦此日ノ事ニシテ、專ラ男兒ノ戲翫ニ充ツ、舊制此日ヲ騎射節、又馬射節ト稱シ、天皇射場ニ出御アリテ、近衞兵衞ノ騎射ヲ覽ルノ事ハ、武技部騎射篇ニ載セ、又此日競馬ヲ行フ事ハ、同競馬篇ニ載セタリ、
p.1139 端午(タンゴ)〈五月五日事、又端五、〉
p.1139 弘仁格云、勅供二奉端五之節(○○○○)一國飼御馬、自今以後、宜下附二專知官一貢進上、〈(中略)寶龜五年五月九日〉
p.1139 初五日 端五日〈端正也、始也、〉端午〈五月建レ午、故曰二端午一、◯中略〉重五〈五月五日、故曰二重五一、〉
p.1139 端午トハ何ゾ、五月五日名也、端字ヲハジメトヨム、風土記仲夏端午ト云ヲ註シテ云、端ハ始也ト、譬ヘバ楚ノ屈平五月五日午日ナル日、汨羅江身ヲ投テ死、其端午投二汨羅一云ヘリ、仍五月五日端午ト云也、午ニ當ルヲ幸トスル也、猶五月五日午日也、五日是節日也、午ニ當ルヲ相應トシテ、端ノ午ト云習ハセルヨリ事起歟、歌ニモ端午ヲバ五日ノ心ヲヨメリ、
p.1139 五月端午、端、始也、蓋亦宜レ以二上午日一與、然戰國之時、既有レ忌二五月五日生子一、後凡以二五日一爲二端午一、未レ見二其明據一焉、唐人之文、八月五日亦稱二端午一、謝肇淛引二容齋隨筆一辨レ之、又李濟翁資暇録云、周處風土記、仲夏端五、烹二騖角黍一、端、始也、謂二五月初五日一也、今人多書二午字一、其義無レ取焉、予按、詩人多以二屈原一、爲二五日故事一、然荊楚歳時記、五月五日、競渡、俗爲下屈原投二汨羅一日、傷二其死一、故並命二舟檝一以極上レ之、邯鄲淳曹娥
p.1140 碑云、五月五日、時迎二伍君一、逆レ濤而上、爲レ水所レ淹、斯又東呉之俗、事在二子胥一不レ關二屈平一也、越地傳云、起二於越王勾踐一、不レ可レ詳矣、
p.1140 五日、端午と云、又重五ともいふ、〈五雜爼にいはく、張九齡上二大衍暦一序にいはく、謹以二開元十六年八月端午一獻レ之、又宋璟が表にいはく、月惟仲秋、日在二端午一、しかる時は凡毎月の五日みな端午と稱すべし、此月にのみ限るべからずとなん、しかれども世俗には、專五月五日を端午と稱す、〉
p.1140 五月五日曰二重五一、九月九日曰二重九一、宋王楙、野客叢書云、三月三日、亦宜レ曰二重三一、觀二張説文集一、三月三日詩、暮春三月日重三、又曲水侍宴詩、三月重三日、此可レ據也、予謂、重三則可レ言也、更稱二三月一者、無二乃鄭重一乎、曰二九月重九、五月重五一者、未二之見一也、
p.1140 民間歳節上 五月五日謂二之端午一〈◯中略〉 珊瑚鉤詩話曰、端五之號、同二於重九一、後世以二五字一爲レ午則誤矣、 事言要玄曰、歳時記、京師以二五月一日一爲二端一一、二日爲二端二一、三日爲二端三一、四日爲二端四一、五日爲二端五一、提要録、五月五日爲二天中節一、 容齋隨筆曰、唐玄宗以二八月五日一爲二千秋節一、張説上二大衍暦一序云、謹以二開元十六年八月端午一獻レ之、唐類表、有下宋璟請三八月五日爲二千秋節一表上、云、月惟仲秋、日在二端午一、然則凡月之五日、皆可レ稱二端午一也、僕觀二續世説一、齊映爲二江西觀察使一、因二徳宗誕日端午一、爲二銀缾高八尺一以獻、是亦有二端午之説一、 農圃六書曰、初五日爲二地臘一、又曰二蒲節艾節一、午時謂二之天中節一、
p.1140 五日 端五〈又重五◯中略〉 今日家々に飾冑、菖蒲刀、〈◯中略〉あるひは武將の人形を飾る、〈◯中略〉是を俗に男の節句(○○○○)といふて、專ら男兒の翫とす、
p.1140 凡正月一日、〈◯中略〉五月五日、〈◯中略〉皆爲二節日一、其普賜、臨時聽レ勅、
p.1140 小儀〈謂二告朔(中略)五月五日一◯又見二左右衞門式、左右兵衞式一、〉
p.1140 五日節會
天皇武徳殿に出御なりて宴會をおこなはれ、群臣に酒を給ふなり、内辨なども四節に同じ、人々みなあやめのかづらをかく、日蔭のかづらのごとし、典藥寮あやめの御案をたてまつる、群臣にp.1141 藥玉をたまふ、五色のいとをもてひぢにかくれば、惡鬼をはらふと申本文侍るにや、
p.1141 五月五日觀(○)二馬射(○○)一式(○)
前一日、所司供二張〈供張之儀所司存〉於武徳殿一、〈◯中略〉其日未明、中務省置二尋常位於庭中一、兵部省置二奏事位於垺東門南掖一、又東南去二丈許置二兵部卿位一、南去一許丈置二大輔位一、又南去一許丈置二少輔位一、所司設二御饌并上下群臣饌一如二常節一、平明、皇帝出レ宮就二御座一、諸衞服二中儀一、警蹕侍衞如レ常、〈◯中略〉群臣趨各就レ座、〈升レ殿者升レ自二東面南階一〉訖中務率二内藥一、宮内率二典藥一、舁下盛二昌蒲一机上、自二垺東馳道一進、未レ到二垺東門一八許尺留候、闈司二人經二右近東陣南頭一、分二立垺西門南北掖一、大舍人一人進二垺東門南邊一、北面立叫レ門、闈司就二版位一奏云、昌蒲草〈此間謂二漢女草一〉進〈牟止、〉中務省官姓名等〈謂二輔已上一〉叫レ門故〈爾〉申、勅曰、令レ申、闈司傳宣、大舍人進共稱唯退出、兩省率二寮司一、舁下盛二昌蒲一机上置二庭中一、二省輔各一人留二机後一、自餘皆退出、頃之中務輔就レ版奏曰、中務省申〈久、〉内藥司〈乃〉供奉〈禮留、〉五月〈乃〉五日〈乃〉昌蒲草進〈樂久乎〉申賜〈久止〉申、訖退出、次宮内輔奏曰、宮内省奏〈久、〉典藥寮〈乃〉奉〈禮留、〉五月〈乃〉五日〈乃〉人給〈乃〉昌蒲草進〈樂久乎〉申賜〈久止〉申、〈並無二勅答一〉退出、闈司還入、兩近衞將曹各一人率二近衞各一人一、令レ閉二垺西門一、〈通蹕之時已被レ開、仍今閉レ之、〉大臣喚二内豎一二聲、内豎〈各著二當色一〉稱唯、當二左近東陣西一立、大臣宣、喚二内藏寮一、稱唯、出喚二允以上一、一人入立二前處一、大臣宣、進〈禮留〉昌蒲草收レ之、稱唯退出、率二寮舍人等一、從二大舍人幕一北經二左近東陣南邊一參入、各就二机處一、即搢レ笏取二昌蒲机一退出、女藏人等執二續命縷一、〈此間謂二藥玉一〉賜二皇太子已下參議已上一、〈女藏人當二太子倚子一、西面而立、太子起至二初謝座處一、北面跪受、女藏人跪授、即還、次授二親王已下一、即隨レ賜受取、下レ自二東面南階一出二東南庭一、北上西面、立定、太子佩レ之拜舞著座、次親王以下倶佩、拜舞上レ殿、〉午刻内膳益供、〈上下群官起座〉主膳益供、大膳益賜、皆如二常節一、
p.1141 五月五日節儀
平明皇帝御二武徳殿一、諸衞服二中儀一、警蹕侍衞如レ常、〈◯中略〉中務丞取下奏二菖蒲一版上、入レ自二同門一置二於中庭一退出、訖中務率二内藥一、宮内率二典藥一、舁下盛二菖蒲一机上、進レ自二馳道一未レ到二埒東門一八許丈候、闈司二人經二右近陣南頭一、分立二埒西門南北掖一、大舍人寮官人一人、率二舍人四人一立二於埒東門外南邊一、喚二闈司一二聲、闈司問阿誰、大舍人p.1142 稱二姓名一而申〈久、〉漢女(アヤメ)草進〈牟止、〉中務官姓名等〈謂二輔以上一〉叫レ門故〈爾〉申、〈宮内省被レ率中務省奏聞〉即闈司進就レ版、奏如二大舍人申辭一、勅曰、令レ申〈與、〉闈司稱唯、退就二本所一、告二大舍人一云、姓名〈乎〉令レ奏〈與、〉大舍人稱唯而退、爰中務省率二内藥司一、盛二供御菖蒲於二黒木案一、進置二版位東北一、宮内省率二典藥寮一、盛二人給菖蒲於二黒木案一、置二版以南一、〈去レ版二許尺、二案南北相去四許尺、其第一案、省丞左右一人在レ前舁レ之、輔并内藥正各一人在レ中扶レ之、藥生二人在レ後舁レ之、第二案、内藥官人二人在レ前舁レ之、藥生二(二下恐脱二人字一)在レ後扶レ之、藥生二人在レ後舁レ之、若無レ丞者、内舍人代レ之、人給料菖蒲者、第一案、宮内丞二人在レ前舁レ之、省輔寮頭在レ中扶レ之、省録二人在レ後舁レ之、第二案、典藥屬二人在レ前舁レ之、助允各一人在レ中扶レ之、醫二人在レ後舁レ之、置二版以南一相去同レ上、〉兩省輔各一人便留二案後一、自餘從レ下退出、訖中務輔就レ版奏曰、中務省申〈久、〉内藥司〈乃〉供奉〈禮留、〉五月〈乃〉五日〈乃〉菖蒲草進〈樂乎〉申賜〈久止〉申、訖退出、宮内輔奏曰、宮内省奏〈久、〉典藥寮〈乃〉奉〈禮留、〉五月〈乃〉五日〈乃〉人給〈乃〉菖蒲草進〈樂乎〉申賜〈久止〉申、〈並無二勅答一、〉退出、闈司還入、左右近衞將曹各二人令レ閉二埒西門一、〈通蹕之時已開、仍令レ閉レ之、〉大臣喚二内豎一二聲、内豎〈各著二當色一〉稱唯、當二左近陣西一立、大臣宣喚二内藏寮一稱唯、出喚二允以上一人一、入立、〈内豎立處〉大臣宣進〈禮留〉菖蒲草收レ之、稱唯退出、率二藏部等一、從二大舍人幕北一經二左近陣南邊一參入、各就二机處一、即取二菖蒲机一退出、女藏人等執二續命縷一〈此間語藥玉〉賜二皇太子以下參議以上一、〈女藏人太子倚子、西面而立、太子起至二初謝座處一、北面跪受、藏人跪授、即還、次授二親王以下一、受取下レ自二南階一出二東南庭一、西面北上、立定、太子佩レ之、拜舞著座、次親王以下倶佩、拜舞上レ殿、〉午刻内膳益二供御饌一、〈上下群官起座〉主膳益二供東宮饌一、大膳益二賜群臣饌一、内藏取二菖蒲机一出畢、
p.1142 五日節會事〈◯註略〉
天皇出御、〈著二昌蒲蘰一、如二日景蘰一、◯中略〉諸仗居、宮内省獻二昌蒲一、〈省率二典藥一、舁二昌蒲机四脚一、兼立二治部幄前一、進レ自二馳道一、未レ到二東埒門一八丈、闈司二人經二右近陣南頭一進行、分二立埒西門西邊南腋一、大舍人四人進レ自二埒東門外南邊一叫レ門、闈司一人就レ版奏云々、勅答令レ申ヨ、闈司唯歸、大舍人唯退、闈司歸、所司立二机庭中一、輔留就レ版奏、無二勅答一、了退出、内藏允以下入レ自二左近陣南邊一、取レ机退出、◯中略〉賜二續命縷一、〈内侍執レ之直度二御前一、當二太子倚子西南邊一立、太子起座、北面跪受、内侍跪授レ之、太子小拜立、内侍還入、女藏人等又取レ之、進二御前一、東廂西面列立、王卿以下一一進、共跪挿レ笏受、小拜、左廻下レ自二南面東階一、共出二東面南庭一一列、〈西面北上〉太子先佩拜著座、懸二右肩一垂二左腋一、即相二分其緒一結レ腰、次王卿共佩、拜舞畢復座、承和年、依二降雨一於二東檻邊一跪佩レ之、〉供二御膳一、〈内膳出レ自二右近陣南頭一、自二東面北階一供、采女傳供、群官立、〉主膳供二太子膳一、〈自二南面西階一供、宮采女傳、〉大膳賜二群臣饌一、二獻後國栖奏、〈於二左兵衞陣外一發聲◯下略〉
p.1142 弘仁七年四月乙巳、右大臣從二位勳五等皇太弟傅藤原朝臣園人、上レ書請レ停二今年
p.1143 五月節一、不レ聽レ之、
p.1143 承和九年五月乙未、勅、五月五日供節、四衞府六位官人已下裝束、除二甲冑飾一之外、不レ得レ用二金銀及薄泥一、五位已上走馬之鞍并馬飾、不レ論二新舊一、聽レ用二金銀一、但薄泥不レ在二聽限一、
p.1143 凡金銀薄泥、不レ得レ爲二服用并雜器飾一、但五月五日諸衞府甲冑之飾、不レ在二制限一、
p.1143 凡四月駒引、及五月節、預前一日、裝二飾武徳殿一、綴二雜飾一料、熏革半枚、絲五兩、車駕行幸者、懸二御在所帳幔一、
p.1143 凡五月五日節、前一日、武徳殿構二立斗帳又軟障臺二基一、〈立二御座壇以南西二間一〉其神泉苑立二斗帳一亦同、但軟障十基、〈御帳東西各五基〉
p.1143 五月五日節、立二七丈幄七宇、五丈幄七宇、平張二宇一懸レ幔、
六日、立二七丈幄六宇、五丈幄六宇一懸レ幔、
p.1143 五月五日節
米一斗三升、糯米一斗七升、糯稻五束、〈燒米料〉糯粟糒各二升、大豆二升、小麥四升、胡麻子荏子各四升、酒一斗、酢油各五升、醤一斗、鹽二升、鳥腊四斤、東鰒一斤十兩、長門鰒、阿波鰒、出雲鰒、隱岐鰒各二斤五兩、鮭二隻、烏賊一斤五兩、煮堅魚螺各十三兩、腊五升、紫菜五兩、海藻一斤五兩、干栗子一斗、生栗子一斗七升四合、麁筥二合、生絲二分四銖、青蒋十圍、竹一圍、炭四石、薪六十斤、供奉膳部卌人、〈卅人御、十人中宮、〉各給二紺布衫一領一、
p.1143 延長五年五月五日、節會如レ例、但依二雨濕一無二謝座酒禮一、而賜二藥玉一間、頗燥、仍拜舞如レ例、
p.1143 臨時供御〈内、院、宮儀、◯中略〉 五月五日 赤飯 御菜 御菓子八種〈一種粽◯中略〉 已上小預給二料米一備二進之一
p.1143 五日〈朝〉 初獻、よもぎの露御さらに入、くちなはいちご十ヲ計、小皿に入
p.1144 出ル、硯ぶたの臺にのせ出ル、 ちまきをむき、こぐち切あいのかわらけに入出る、鹽を高盛にしてこヽろけに入置、 二獻、常の如く朔日の通、〈せうぶをこまかに切、こヽろけに入置、御酒の中へ入ル、〉 三獻、右同斷、
p.1144 天平寶字二年三月辛巳、詔曰、朕聞孝子思レ親、終レ身罔レ極、言編二竹帛一、千古不レ刊去天平勝寶八歳五月、先帝〈◯聖武〉登遐、朕自レ遭二凶憫一雖レ懷二感傷一、爲レ禮所レ防、俯從二吉事一、但毎レ臨二端五一、風樹驚レ心、設レ席行レ觴、所レ不レ忍レ爲也、自レ今已後、率土公私、一准二重陽一、永停二此節一、
p.1144 延暦十年五月乙丑、天皇以三天下諸國頻苦二旱疫一、詔停二節宴一、
p.1144 承和七年五月庚辰、停二五日節一、以二後太上天皇〈◯淳和〉不豫一也、
p.1144 貞觀元年五月五日庚申、停二端午之節一、諒闇〈◯去年八月、文徳帝崩、〉也、
p.1144 貞觀二年五月五日甲寅、帝不レ御二武徳殿一、停二端午之節一、
p.1144 貞觀七年五月乙酉、停二端午之節一、
p.1144 元慶五年五月五日壬子、停二端午之節一、諒闇〈去年十二月、清和帝崩、〉也、
p.1144 延喜七年五月五日、無二節會一、
p.1144 延喜廿二年五月五日、節會依二京中病苦一停止、
p.1144 延長二年五月五日壬寅、停二節會一、 三年五月五日丙申、止二端午節一、
p.1144 安和元年八月廿二日癸酉、右大臣參二仗座一、停二五月五日節一、依二先皇〈◯村上〉忌月一也、
p.1144 五日書司供二菖蒲一事〈先レ是進二請奏一結二付御帳一〉
節會久絶、就レ中承保聖代〈◯白河〉已當二御忌月一、〈◯延久五年五月、後三條帝崩、〉但未被可レ停二止件節一詔也、
p.1144 五日節會事
件節會停止時、奉二宣旨一之日仰二外記一、四月廿八日、駒牽以前可レ被レ仰歟、
p.1144 五月〈◯中略〉五日の節、絶て久し、
p.1145 一五日、〈◯五月〉御對面常の如し、内々の御祝いつものごとし、
p.1145 朔日御祝如レ常、同五日御祝御同前、公方様御單物、御紋逢菖蒲、因レ茲諸人此紋ハ致二斟酌一也、
p.1145 五月朔日 日光御門主、端午之御祝儀使僧被レ差二上之一、 二日 端午之御祝儀、御三家方始諸家、以二使者一時服獻二上之一、 五日 五ツ時染帷子長袴、端午之御祝儀有レ之、如二上巳一、
p.1145 三日端午之爲二御祝儀一、御三家并萬石以上より時服帷子單物獻二上之一、〈◯中略〉
但シ極たる日限等は非ずといへ共、大方例年如レ此獻上、何方より御觸被二仰出一も無レ之、御三家より御伺之日限を承り、諸家より獻上する也、 但シ享保十八年五月三日、證明院様御逝去以後二日となる、〈◯中略〉
一日光御門主よりも、端午之御祝儀二種一荷、以二使僧一御二進上之一、於二燒火之間一謁二老中一、
p.1145 十九番 右 端午參賀
御園生の竹のこのよも幾千はたかぶとの花にとりそへて見む〈◯中略〉
端午は、軒毎にさうぶ蓬をさしはさむ事は、都鄙のへだてなし、出仕の人々皆長袴著て、ことぶきをのぶ、其式上巳にかはる事なし、此日より麻の御ぞを奉れり、若君誕生あれば、兩御所をはじめ、御方々より菖蒲冑を參らせられ、國主外様譜代の大名よりも是を獻ず、北のとのヽ前なる大路に假屋を建、壇をまうけて是をすゆ、其數いくもヽちなる事をしらず、白地に御紋の旗二十ながれ、紅白の吹ながしなど風にひるがへり、傍に鑓薙鉈弓矢なぐひの類、すべて兵仗いかめしく立つらねたるけはひ、實に武門の有様也けりと見ゆ、
p.1145 五日 端午御祝儀、諸侯御登城、粽獻上有、
p.1145 一年中行事并月記事
p.1146 五月例 五日節菖蒲蓬等供二奉太神并荒祭宮、月讀宮、瀧原宮、伊雜宮一、及諸殿〈仁〉供奉、然則藥御酒神宮并荒祭宮供奉、然後禰宜内人物忌等集二御厨院一、菖蒲蘰藥酒直會被レ給畢、即御厨參向〈氐〉大饗被レ給畢、
p.1146 五日、大宮祭、大宮司、大禰宜、物忌、
今日端午之節會ニハ、御供ニ粽、是ヲ付テ奉レ備二神前一、此例、昔高辛氏之惡子、五月五日船ニテ海ヲ渡ルトテ、惡風俄ニ吹出浪沈、水神ト成、常人ヲナヤマス有レ時、五色之糸ヲ以、粽ヲシテ海中エ提ゲ入ケレバ、青龍ト成リ、其ヨリ海神人ヲナヤマス事ナシ、自レ爾以降、諸社ニテ粽ヲ神ニ奉リ、君臣上下祝レ之、
p.1146 くすりがり 推古紀に、五月五日、藥二獵於莵田野一と見えて、萬葉集に多くよめり、鹿茸を主にて、百藥をも採なるべし、天台訪隱録に、以二端午日一入二天臺山一採レ藥と見えたり、
p.1146 十九年五月五日、藥二獵於莵田野一取二鷄鳴時一集二于藤原池上一、以二會明(アケボノ)一乃往レ之、粟田細目臣爲二前部領一、額田部比羅夫連爲二後部領一、 二十年五月五日、藥獵之集二于羽田一以相連、參二趣於朝一、其裝束如二莵田之獵一、
p.1146 乞食者詠二首
伊刀古(イトフルキ)、名兄乃君(ナアニノキミハ)、〈◯中略〉八重疊(ヤヘダヽミ)、平群乃山爾(ヘグリノヤマニ)、四月與(ウヅキト)、五月間爾(サツキノホドニ)、藥獵(クスリカリ/○○)、仕流時爾(ツカフルトキニ)、〈◯下略〉
p.1146 加吉都播多(カキツバタ)、衣爾須里都氣(キヌニスリツケ)、麻須良雄乃(マスラヲノ)、服曾比(キソヒ/○○○)獵(カリ/○)須流(スル)、月者伎爾家里(ツキハキニケリ)、
右六首歌者、天平十六年四月五日、獨居二於平城故郷舊宅一、大伴家持作、
p.1146 藥玉(タマ)
p.1146 藥玉(クスタマ)〈五月五日、小兒袖懸レ之也、〉
p.1146 五月五日觀二馬射一式 女藏人等執二續命縷(○○○)一〈此間謂二藥玉一〉
p.1147 五月五日、〈◯中略〉以二五綵絲一繫レ臂、名曰二辟兵一、令二人不一レ病レ瘟、又有下條達等織組雜物以相贈遺、取二鴝鵒一教中之語上、 按、仲夏繭始出、婦人染練、咸有二作務一、日月星辰鳥獸之状、文繡金縷貢二獻所尊一、一名長命縷、一名續命縷、一名辟兵繒、一名五色絲、一名朱索、名擬甚多、青赤白黒以爲二四方一、黄爲二中央一、襞二方綴於胸前一、以示二婦人計一レ功也、此月鴝鵒子、毛羽新成、俗好、登レ巣取養レ之、以教二其語一也、
p.1147 初五日 賜二續命絲一、〈風俗通、五月五日賜二五色續命絲一、俗説益二人命一、〉壽索〈李肇翰林志、五日賜二百福百壽索一、〉長命縷〈即五綵絲、亦名二續命絲一、北人午日、以二雜絲一結二合歡索一纏二于臂一、〉綵絲繫レ臂〈荊楚記、五日繫二五綵絲于臂一、辟レ兵厭レ鬼、令二人不一レ染二瘟疾一、口内常稱二游光厲鬼四字一、知二其名一則鬼遠避、〉辟兵繒〈裴玄新語、五日繫二五綵繒一、謂二之辟兵一、〉合歡索〈初學記、北人端午、以二雜絲一結二合歡索一纏二手臂一、一名條達、又名條脱、織二組雜物一以相贈遺、及日月星辰鳥獸之状、文繡金縷帖畫貢二獻于所尊一、〉
p.1147 くすだま 長命縷(○○○)をいふ、風俗通に見ゆ、延喜式に藥玉と見え、五月五日の儀式にある事也、三代實録陽成天皇の七年に始て見えたり、御記に、糸所供二奉藥玉一、撤二去年九月茱萸一、以二藥玉一、差二替御柱一、前例也と見ゆ、綵糸をもて花を造る、よて清少納言にも、縫殿より御くす玉とて、色々の糸をくみさげて進らせたる、道長公の記にも、絲所藥玉持參と見えたり、藥の玉をつくるをもて藥玉といへる也、内々行事に、若宮は左の御袖、姫宮は右の御袖のかたそぎにつくる、御年は八ツ九ツの内也と見ゆ、
p.1147 釋名 くすだま 仲田顯忠曰く、くす玉は、藥玉とかけるによれば、藥玉の意かともおもはるれど、なほしかはあらで、奇玉のこヽろならん歟、さるは、くしは、奇(クス)しく靈なる意にて、くしなだ姫、くしみたまなどいへる類ひのくしの轉用にて、漢土にて、靈絲などいへるや、やがてかなふべからん、さらば藥玉の邪氣をはらひ、疾を除く靈あるもの故、そを稱へて名付たるなるべし、かくはいへども、續後紀などにすら、既に藥玉とかヽれたれば、醫師を、くすしといふ類にて、もとより邪氣をのぞくの藥となれば、藥玉の意としても、一わたりは聞えなんかし、
p.1147 五日〈◯五月〉には、〈◯中略〉くす玉などえならぬさまにて、所々よりおほかり、
p.1148 光くすだまなど 續命縷 靈絲 綵絲 彩索などいへり、いづれも藥玉の體也、〈◯中略〉御記曰、延喜十三年五月五日丙午、糸所供奉藥玉如レ常、〈撤二去年九日茱萸一、以二藥玉一替懸差二御柱一、前例也、〉
延長三年五月五日丙申、書司立二菖蒲瓶一、糸所奉二續命縷一如レ常、 五月五日、糸所藥玉を供ず、去年の茱萸を撤して、御帳の東の柱に結付也、
p.1148 せちは 五月にしくはなし、〈◯中略〉そらのけしきのくもりわたりたるに、きさいのみやなどには、ぬひどのより御くすだまとて、いろ〳〵の糸をくみさげてまいらせたれば、みちやうたてまつる、もやの柱の左右につけたり、九月九日の菊を、あやとすヾしのきぬにつヽみてまゐらせたる、おなじはしらにゆひつけて、月比あるくすだまとりかへてすつめる、又くすだまは、菊のをりまであるべきにやあらん、されどそれはみないとを引とりて、物ゆひなどしてしばしもなし、〈◯中略〉つぢありくわらはべの、ほど〳〵につけては、いみじきわざしたると、つねにたもとをまもり、人に見くらべ、えもいはずけうありと思ひたるを、そばへたることねりわらはなどに、ひきとられてなくもをかし、
p.1148 くすだま〈藥玉〉 くす玉は、そのはじめ漢土よりおこりて、皇朝にも世事となれり、さてその造なせるさまは、ふるくは五綵の糸にて、菖蒲艾などを貫たるもの也、それを後には、なでしこ、あぢさゐ、その外色々の時の花どもしてかざれるよし、新古今集の歌などにて、しかおぼえたり、これを後々は絲花にてつくれり、すなはち今の世にも見所あるさまに造なしたるものあり、此國にては嘉祥二年五月に、はじめて群臣に藥玉を給へるよしみえたり、もろこしにてもはやくよりのことヽ見えて、風俗通などにもしるせり、さて漢土にて續命縷といひ、又長命縷、五色縷、あるひは縷索、辟兵、繒などもいひ、さて五月五日に、是をひぢにかくる時は、あしきやまひをうけず、かつ壽命をのぶといへり、されば續命縷の名もあるなるべし、さて内裏には、此藥玉を
p.1149 糸所より奉りて御帳にかけられ、群臣にも給はる事あり、司々にて是をまうくるよしは、延喜式にみえ、さて帶るさまなどは、小野宮年中行事等に出たるがごとし、さるは糸所奉れる藥玉を、去年の九月九日に御帳にかけられたる茱萸の囊、かつ御前におかれたる菊瓶などヽともにとり拂ひて、藥玉にかけかへて、九月まで是をおく事とぞ、さてかくる所は、夜の御殿の御帳の東の柱にかくるよしなり、そも〳〵皇朝にも此日藥玉を用ふる事は、邪鬼をはらひ、疫をのぞく術にて、民家にも五月五日、婦女子の翫ものに、色々の造り花を糸につけ、紙にて張などしてもてあそぶは、もと禁中にせさせ給ふを習ひて、下々にもなすことヽみえたり、
p.1149 五月 問て云、同此日〈◯五日〉藥玉とてかくるは、何のゆへぞや、 答、凡けふをば藥日(○○)といひて、一切の藥をばこの日とるなり、〈◯中略〉さればけふ藥草を五色のいとにてとヽのへて、ひぢにかくれば、惡氣をはらふとも申本文侍るにや、公にも群臣に藥玉を給事の侍るなり、
p.1149 家集夏歌 惠慶法師
くすりび(○○○○)のたもとにむすぶあやめ草たまつくりえにひけばなるべし
p.1149 今朝自二或所一給二藥玉一旒一、作以二百草之花一、貫以二五色之縷一、摸二草虫形一栖二其花房一、芳艷之美、有レ興有レ感、古人云、此日懸二續命縷一、則益二人命一云々、若此物之謂歟、欲二報賽一之處、忽無二其物一、唯綴二和語一、聊可二答謝一、纔雖レ成二篇什一、未三猶弁二首尾一、爲レ承二取捨之訓説一、先以進覽、幸加二一字一、不レ屑二千金一者歟、事是嗚呼也、莫レ及二外聞一、謹状、
五月五日 權右中將
兵部大輔殿
p.1149 一藥玉 今世京都に在る藥玉、右の體也、今在ルハ紅白のツヽジの花〈糸花なり〉艾草菖蒲を少結付て、花枝の中央に玉あり、香物を合たるカケ香也、草蟲の形はなし、五色の糸
p.1150 六七尺計垂レ下る、御簾に掛る也、上に釘にかくる輪あり、
p.1150 一藥玉之法
麝香〈一兩〉 沈香〈一兩〉 丁子〈五十粒〉 甘松〈一兩〉 龍腦〈半兩〉 右者和家之傳
麝香〈半兩〉 沈香〈一兩〉 丁子〈一兩〉 甘松〈二匁〉 藿香〈二匁〉 白檀〈三匁〉 龍腦〈二匁〉 右者丹家之方
藥玉一聯〈十二〉閏月のある年は十三
一粒の大さ、〈◯圖略〉これ程にてさぶらふ也、
袋は用二錦或紅練(ベニネリ)一、紐は攝家は白く、清華羽林家は紫、其以下は縹色(ハナイロ)を用ひ侍る也、
p.1150 藏司
五月五日續命縷絲五十絇、紅花大三斤、年料、槽四隻、麻笥二口、橧一口、水瓶一口、大案一脚、杓二柄、
p.1150 凡五月五日藥玉料、昌蒲艾〈揔盛二一輿一〉雜花十捧、〈盛レ瓫居レ臺〉三日平旦申二内侍司一列二設南殿前一、〈諸府准レ此〉
p.1150 同日〈◯五日〉絲所獻二藥玉二琉一、〈又差二内竪一送二諸寺一〉藏人取レ之、結二付晝御座母屋南北柱一、〈撤二蕦萸袋一攺二著彼所一、請二料糸一、〉
p.1150 三日、六衞府獻二昌蒲并花一事、〈◯中略〉
九條右相府記(裏書)、佩二續命縷一體、〈件縷緒有二四筋一〉先留二左腋一、以二一筋一從二右肩一起、以二一筋一自二左腋一出而相合、當レ前結、以二二筋一當二革帶上一、自レ後前廻而結二右袖下一、但二重之緒、四筋隨レ草垂也、
p.1150 むかし武徳殿にて、五日〈◯五月〉節會行れて騎射の事あり、その時宮内省典藥官人あやめを獻ず、又内侍藥玉を太子以下に給ふ時、くす玉を右のかたにうちかけて、左のわきへたれて、二の緒を分て腰にゆひて、各拜舞するなり、
p.1150 五日、いと所くすだまをたてまつる事、
p.1151 くら人これをとりて、ひのござの御ちやうのまへ、ひだりみぎにむすびつく、あるひはみやうぶまいりて、これをむすびつく、
p.1151 五日、〈◯五月〉いと所くす玉を御帳左右の柱にむすびつく、
p.1151 五日〈◯中略〉けふは御所々々くす玉をかけてまゐらるヽ、一兩日已前、此御所より給はる也、いと所の藥玉を御帳の左右のはしらに結びつくなど、かなの年中行事にはあれど、此ごろはさたもなくなりぬ、
p.1151 五月 一端午、藥玉(匂袋也)扇ヲ別當より女藏人マデニ被レ下、扇ハ中廣ナリ、片ボネニ付て源氏繪ヲ書也、裏ハギンノスナゴナリ、是ヨウスヤウト云、
p.1151 五日藥玉 藥玉色々のきれにてふくろをぬひ、三ツ作り花に付る、作り花大サ一尺計、 若宮は左の袖、姫宮は右の袖、そでのかた先に付る、宮々方八ツ九ツまでの内計、
p.1151 五日 藥玉 是は糸にて赤白の杜鵑花、并艾菖蒲を作り、五色の糸をかけたるもの也、又糸にてあみたる橘の實あり、内に藥を入らるヽと云、延喜式、凡五月五日藥玉料、菖蒲艾雜花十捧とあれば、むかしは菖蒲艾橘などの藥ものを時節の花にて飾、五色の糸にて調たるものゆへ、藥玉といふ、後世藥物雜花をも糸にて作る故、藥を入らるヽにや、當時御所〈江〉上るは藥を入られず、西宮記に、五月五日、糸所、獻二藥玉二琉一、藏人取レ之、結二付晝御座母屋南北柱一、又五日節會、賜二續命縷一とあれば、むかしは糸所より調進して、御所にも掛られ、人にも賜りたると見ゆ、今は御出入の職人上るなり、
p.1151 嘉祚二年五月戊午、天皇御二武徳殿一、覽二馬射一、〈◯中略〉有二勅命一、文矩等〈◯渤海使〉陪レ宴、宣レ詔曰、天皇〈我〉詔旨〈良万止〉宣〈布〉勅命〈乎、〉使人等聞給〈止〉宣〈久、〉五月五日〈爾、〉藥玉〈乎〉佩〈天〉飮レ酒人〈波、〉命長〈久〉福在〈止奈毛〉聞食〈須、〉故是以藥玉賜〈比、〉御酒賜〈波久止〉宣、日暮乘輿還レ宮、
p.1152 元慶七年五月五日庚午、天皇御二武徳殿一、覽二四府騎射、及五位已上貢馬一、喚二渤海客徒一觀レ之、賜二親王公卿續命縷一、伊勢守從五位上安倍朝臣與行引レ客、就レ座供レ食、別勅賜二大使已下録事已上續命縷、品官已下菖蒲鬘一、
p.1152 東三條内神報二僧恩一語第卅三
今昔、何レノ程ノ事トハ不レ知ズ、二條ヨリハ北、西ノ洞院ヨリハ西ニ、西ノ洞院面ニ住ム僧有ケリ、〈◯中略〉五月五日ニ、昌蒲共葺渡シ、藥玉ノ世ノ常ナラズシテ、〈◯下略〉
p.1152 女のもとに、しろきいとをさうぶのねにして、くすだまををこせ侍て、あはれなる事どもを、あるおとこのいひおこせ侍ければ、 よみ人しらず
聲たてヽなくといふとも郭公たもとはぬれじそらねなりけり、
p.1152 五月五日、右大將殿より、さうぶあはせしたるあふぎに、くす玉ををきて、これがかちまけさだめさせ給へとありしに、との〈◯藤原道長〉は左大臣におはせしかば、
ひだりにやたもとのたまも結ぶらん右はあやめのねこそあさけれ
p.1152 なまめかしきもの 五月のせちのあやめの藏人、さうぶのかづら、あかひもの色にはあらぬを、ひれ〈◯領巾〉くたい〈◯裙帶〉などして、くすだまを、みこたちかんだちめなどのたちなみ給へるに、奉るもいみじうなまめかし、とりてこしにひきつけて、ぶたうしはいし給ふもいとをかし、
p.1152 はかなう五月〈◯長和五年〉五日にも成にければ、大宮〈◯藤原彰子〉より、ひめ宮〈◯禎子内親王〉にとて、くす玉奉らせ給へり、それに、
そこふかくひけどたえせぬあやめ草千とせをまつのねにやくらべん、御かへし中宮〈◯藤原姸子〉より、
年ごとのあやめのねにもひきかへてこはたぐひなのながきためしや
p.1153 五月〈◯寛仁二年〉五日、院〈◯小一條〉より姫君〈◯禎子内親王〉の御かたにとて、くすだま奉らせ給へり、
この比をおもひいづればあやめ草なかるヽおなじねにやともみよ 御かへし
いにしへをかくるたもとは見るからにいとヾあやめのねこそしげけれ
p.1153 枇杷どのヽ皇太后宮〈◯三條后藤原姸子〉わづらひ給ひけるとき、所をかへて心みむとて、ほかにわたり給へりけるを、かくれ給ひて後、陽明門院一品親王〈◯禎子〉と申ける、枇杷どのにかへり給へりけるに、ふるき御ちやうの内に、菖蒲くすだまなどのかれたるが、侍りけるを見てよみ侍ける、 辨乳母
あやめ草泪の玉にぬきかへてをりならぬねを猶ぞかけつる
返し 江侍從
玉ぬきしあやめの草はありながらよどのはあれむ物とやは見し
p.1153 御帳にかヽれるくす玉も、九月九日、菊にとりかへらるヽといへば、さうぶは菊のおりまでもあるべきにこそ、枇杷皇太后宮〈◯三條后藤原姸子〉かくれ給ひてのち、ふるき御帳の内に、さうぶ、くす玉などのかれたるが侍りけるを見て、をりならぬねをなをぞかけつると、辨のめのとのいへる返事に、あやめの草はありながらとも、江の侍從がよみしぞかし、
p.1153 應永二十五年五月四日、早旦菖蒲葺如レ例、續命縷室町殿〈◯足利義持〉進レ之、付二常宗一進レ之、若公内内付二女房一進レ之、御返事共御祝著之由奉レ之、藥玉前々遣所共皆賦レ之、
p.1153 五月御くすだまの事
一五月五日の御くすだまは、御所さまへは十二すぢづヽのが參り候、上らふたちより御下までは九すぢにて候、御びでうは六すぢづヽにて候、内裏伏見殿こりやう殿より、大なる御くす玉參p.1154 り候、わきあけの上臈たちへ參らせ候て、そと御かけ候て、わきあけの程御かけ候、
p.1154 五月五日 一藥玉 禁裏様ヨリ參 一藥玉 伏見殿ヨリ參 〈但四日にも參也〉
p.1154 永祿八年五月五日、武家へ爲二御使一くす玉參候也、申次伊勢七郞左衞門也、
p.1154 藥玉并燈籠 小川人家、〈◯中略〉藥玉等物賣レ之、以二彩絲一作二花枝一、貼二白紙上一掛二之於女兒背後一、是謂二藥玉一、古以二藥丸一交二其間一避二穢氣一、則中華所レ謂長命縷之類也、
p.1154 五日 端五〈今日端五節、(中略)女兒插二菖蒲於頭髮一、繫二長命縷於背後一、凡高貴長命縷今日用レ之、後命二修驗道山伏先達一、而令レ納二大峯一、〉
p.1154 あやめのこし〈菖蒲輿〉 あやめのこしは、五月三日平旦、六衞府より禁中へ奉れり、藥玉料昌蒲蓬、〈揔盛二一輿一〉と、〈延喜近衞府式〉みえたるを始とせり、これよりして、あやめのこしの名目おこれる也、六府立二昌蒲輿瓫花〈各一荷、花十捧、〉南庭一と〈西宮記〉見えたり、又しやうぶのこし、さうぶのこしともいへり、いはゆる五月五日になりぬれば、御藥玉、しやうぶのこしなどもてまゐりたるもと〈世繼物語〉見え、又三條の宮におはしますころ、五日のさうぶのこしなどもちてまゐりと〈清少納言枕雙子〉見え、五月四日夕つかたに成ぬれば云々、さうぶのこし、朝がれひのつぼにかきたて〳〵、殿ごとに人々のぼりて、ひまなくふきしこそ、みつのヽあやめも、今はつきぬらんとみえしかと、〈讃岐典侍日記〉かけるによれば、くす玉の料、あるは御殿ごとにふくあやめを、輿につみてかきもてありけば、とりまはしよき故に、設けられしものなり、しかるを後世はさなくして、別段あやめのこしをつくりなせり、これを菖蒲の御輿とも、又あやめの御殿ともいへり、其製法は、以二連根菖蒲一爲二棟梁一、且以二細木一爲レ柱造二小殿形一、以二桧葉并菖蒲一蓋二殿宇一と〈日次紀事〉見え、菖蒲の御殿とは、菖蒲を以て小き殿を作り物にして獻レ之と〈故實拾要〉見えたり、昔は六衞府より奉りしかども、近世は東坊城家より獻ぜらるヽよしなり、菖蒲の御輿を、昔は六府〈左右近衞、左右衞門、左右兵衞、〉より調進せし事古記にみえたり、近代は東坊城家より獻ぜらると〈夏山雜話〉見え、菖蒲輿、東坊城家人副二衞士土佐一調進、下行壹石と〈年中下行帳〉見えたり、黒川道祐説に、菖
p.1155 蒲御輿料木、自二梅畑一供御人納二今出川家一、即遣二衞士一、衞士作レ之と〈日次紀事〉見えたり、古製は山岡俊明説に、菖蒲のこしは、五月端午禁裏の宮殿へふき、又藥玉などの料にあやめを持まゐる時、車に積て來る、それを輿とはいふなりといへるぞ穩に聞え侍る、さすれば別段ことやうにつくりなしたるものにはあるべからざるにや、しかはあれど、ふるき圖式なければ、其製作しるべからず、雲圖抄に、あやめのこしすゑし場所の圖を載たれど、輿の圖は見え侍らず、近代のものは、藤井家調進のよし傳ふる圖あり、これ和土記、故實拾要などにいふ所の説に粗あへり、これをあやめの御殿ともいへり、そのさまは、二本柱にして屋根あり、小殿の形ちを作りなせるものなり、やねの四すみ棟等の六所には、蓬あやめをさすよしなり、さて和土記、文龜三年五月五日の條に、あやめの輿をつくれる木材を、八瀬より調進する事見えたり、其調の材をもてつくれるあやめのこしならば、藤井家調進の二本柱につくれる輿の説にあへり、文龜三年より今茲天保辛丑迄、三百四十二年に及べり、またはるかに後れて、延寶の頃は、あやめの根を以て棟梁となすと〈日次紀事〉記したれば、藤井家調進のものとは異なる様に推はからるヽなり、さて小殿の形をなせるものは、應永の頃よりありしとみえて、其體如レ屋形之飾二菖蒲一、是菖蒲輿也と〈薩戒記〉みゆれど、古代の輿の形、詳にしれがたし、猶考べし、
p.1155 凡五月五日、進二昌蒲生蒋一〈寮家充レ之〉黒木案四脚、〈二脚供御、二脚人給、並寮儲レ之、〉苧六兩、黒葛四斤、〈申レ省〉省輔已下寮頭已下、共執入進、訖即退出、輔留奏レ之、〈詞見二省式一〉中宮東宮黒木案各二脚、〈一脚供御、一脚人給、〉
p.1155 五月 問て云、五月五日にしやうぶをもちゆるいはれは、何のゆへにて侍るぞや、 答、昆明百節のしやうぶとて、一寸がうちに百ふしのあるしやうぶあり、あのしやうぶの根、萬病をいやすといへり、されば百ふしなけれども、これをいはひ侍るなり、酒中に入、あるひは帶にし、あるひは沐浴に入侍る事は、本草、また大戴禮、月令などヽいふ書に侍るとなり、
p.1156 五月五日書司供二菖蒲一事
p.1156 【圖】
p.1156 二間
p.1156 件巽坤角柱結二〈付〉茱䒶一〈重陽日結付之〉五日撤之更結二〈付〉薬玉一也藏人監臨之
p.1156 書司供二菖蒲二瓶一居レ机
p.1156 東庭
p.1157 五月五日書司供二菖蒲一事
p.1157 【圖】
p.1157 大床子
p.1157 石灰壇
p.1157 殿上
p.1157 御倚子
p.1157 小板敷
p.1157 神仙門
p.1157 右青璅門
p.1157 無名門
p.1157 長橋
p.1157 菖蒲輿
p.1157 下侍
p.1157 菖蒲輿人給䉼
p.1158 凡諸衞府所レ獻昌蒲并雜彩時花、寮官率二史生藏部等一撿收、附二絲所一、
凡典藥寮所レ獻昌蒲并艾、奏進之後、寮允以下參入撤レ之、若官人已下不足者、召二加内竪一、
p.1158 凡五月五日、典藥寮進二昌蒲草一、舍人叫レ門、其詞曰、漢女草進〈良牟止、〉宮内省輔姓名門候〈止〉申、
p.1158 凡典藥寮、五月五日進二昌蒲一、省輔已上與二本司一共入奏進、其詞曰、宮内省申〈久、〉典藥寮〈能〉進五月五日〈能〉昌蒲、又人給〈乃〉昌蒲進〈登〉申、
p.1158 凡五月五日、典藥寮進二昌蒲一、官人率二侍醫一人藥生等一、持二昌蒲案一候二西門外一、坊官令二舍人引迎一、入就二西細殿南一、典藥官人以下舁二供料雜給料案各一脚一、進立二殿庭一退出、主藏官人舍人揔八人、入舁レ案退出附二藏人所一、雜給料附二坊官一、
p.1158 三日、六府立二菖蒲輿瓫花、〈各一荷、花十捧、〉南庭一、〈見二近衞府式一也、先申二内侍一、〉内藏寮官人行事藏人等給二糸所女官一、五日、早旦書司供二菖蒲二瓶一、〈居二机二脚一、立二孫廂四間一、近代不レ見、◯中略〉無二節會一之時、典藥供二菖蒲輿四脚一、〈二脚供御、立二明義門前廊下一、二脚人給料、立二下侍西邊一、〉内藏寮官人撤レ之、〈見レ式也〉
p.1158 三日、六衞府獻二菖蒲并花等一事、〈於二紫宸殿前一獻レ之〉 早朝諸衞舁二立南庭一之後、内藏寮官人以下史生以上撤レ之、
p.1158 三日、〈◯五月〉六府昌蒲の輿を南殿の階の東西にたつ、四日、あさがれゐの庭に一これをたつ、
p.1158 獻二菖蒲一 三日
六府あやめの輿を南殿の階の東西にたつ、また時の花を折そへて、おなじくをく、四日はあさがれゐの庭に是をたつ、主殿寮所々にしやうぶふく、〈◯中略〉弘仁式にも、菖蒲よもぎ花など、三日は早旦に南殿の前におくとあり、
p.1159 弘仁十四年五月戊午、〈◯五日〉御二紫宸殿一宴二侍臣一、中務省率二所司一、獻二菖蒲一如レ常、日暮賜レ祿有レ差、
p.1159 天徳四年五月三日辛丑、六衞府獻二菖蒲輿一、
應和二年五月三日己未、諸衞獻二菖蒲輿雜花於南殿一、 五日辛酉、典藥寮獻二菖蒲輿一、
p.1159 天元五年五月五日丙申、典藥寮進二昌蒲一、舁二立御前庭中一、糸所進二藥玉一、〈置二中殿一〉彼所女官相扶參上、立二御前簀子敷一、女孺四人及下女四人、賜レ祿有レ差、〈女孺疋絹、下女布二段、〉依二路程遠一殊所レ給、但令レ仰二不レ可レ爲レ例之由一、女官等申云、件祿是爲二恒例一、又荷中取衞士等賜レ布者、依レ無レ故不レ給、
治安三年五月四日丙寅、少將良頼、實康、著二行東宮廳一、進二菖蒲蓬等一、
p.1159 長久元年五月三日丁巳、諸衞獻二昌蒲一其事如レ例、有二時花一盛レ壺也、 四日戊午、昨日早旦、六衞府獻二昌蒲輿并時花一、其儀諸衞官人參入、〈官人不參失也〉舁二件輿等一列二立南庭一、左右近輿當二御階東端一立、時花等各盛二十壺一居二三机帳一、當レ輿南行立レ之、次々衞府在二其東一、列立如二近衞一也、西方又如レ之、解文插二輿上一、不レ可レ然歟、官人可レ付二内侍所一也、以二件解文一内侍奏レ之、〈女官取傳云々〉晩頭内藏寮官人已下參入、撤二件輿花等一了、〈女官取レ之云々〉輿一腰、女官舁レ之立二朝餉御前一、是非二指事一、只爲レ備二叡覽一也云々、 五日己未、今日糸所女官、獻二藥玉縷一、藏人取レ之結二付御座柱東西一、但撤二茱萸袋一、又圖書女官獻二昌蒲瓶二脚一、立二孫廂御座間一、〈有二臺并小席等一〉入レ夜撤レ之云々、又典藥寮官人獻二昌蒲案四脚一、二脚御料、立二南廊壁内一、二脚人給料、立二殿上下侍北戸前一、初立二殿上前一、豫令レ改二立件所一也、晩景内藏寮官人撤レ之云々、
p.1159 堀川院の御時、五月五日、江帥菖蒲をたてまつりたりける状に、
進上 水邊菖蒲
千年五月五日 大江爲武
この状を殿上にいだされて、人々によめと仰られけれ共、誰も其心をしる人なかりけるに、師頼p.1160 卿其時弼少將とてさぶらひけるが、あんじえてよみ侍ける、
たてまつり( /進)あぐる( /上)かはべ( /水邊)のあやめ( /菖蒲)ぐさちとせ( /千年)のさ( /五)月いつか( /五日)たへせん( /大江爲武)
p.1160 應永卅三年五月六日己亥、晩頭藏人中務丞重仲〈一臈〉來臨、談曰、昨日自二所々一所レ進二於内裏一之菖蒲在二三ケ所一、一所者南殿南面、〈簀子上〉一所者御殿東面簀子、一所者内侍所也、入レ夜主上〈◯稱光〉密々被レ召二具女房一出御、件所令レ取二菖蒲一給之事、例年之儀也、而今年所レ置二南殿一之昌蒲無レ之、若遲參歟之由被二思食一、數刻令二相待一御之處、遂不レ進レ之、違例不便之由頗逆鱗、然而彼昌蒲所二進候一所々不二知食一、又祗候之輩不二覺悟一、仍召二衞士一被レ尋二問之一、申云、所二進置一御殿、并内侍所之昌蒲者、衞士所二持參一也、於二南殿事一者、不二存知一云々、又申云、可レ被レ尋二典藥寮一歟云々、仍内裏御使則向二典藥頭郷成朝臣宅一問レ之、答下不二存知一之由上、猶不審之餘、向二官外記許一、問二件所レ進之司一、各申下不二覺悟一之由上、如レ此間、後日可レ有二御沙汰一之由被レ仰了、件事今日猶八講堂諸人成二不審一之處、日野中納言談曰、去比自二滿濟僧正〈三寶院〉知行所領一、可レ進二菖蒲於内裏一、可レ爲二何様一哉之由、可レ伺二申入道殿一之由、彼祗候女房被我、然而付二他人一可レ申之由答了、若件事歟云々、其後付二藤中納言入道一申二入道殿一無二御返事一云々、仍不レ及二進入一歟、不便々々、予〈◯藤原定親〉案二此事一、五月三日、六衞府獻上昌蒲花一之事、見二年中行事一、是則當時衞士所二持來一之昌蒲也、又同五日、書司供二昌蒲一云々、當時如何、又同日典藥寮供二昌蒲一云々、是近來所レ進二於兩殿一之昌蒲也、其體如二屋形一作レ之飾二昌蒲一云々、是昌蒲輿也、抑彼典藥寮所レ進昌蒲事、寮頭郷成朝臣不二覺悟一歟、不レ足レ言事歟、彼寮頭爲二別納一、故廣成朝臣女〈◯註略〉知二行之一、存生之間、毎年進二件昌蒲一、死去之後、彼所領爲二入道内相府殿沙汰一、被レ寄二進三條八幡宮滿濟僧正一、依レ爲二彼宮別當一知二行件領一、無二左右一被レ寄二附寺社一了條、不レ可レ然事歟、尤可レ被レ付二寮頭一事也、
p.1160 十五番 左〈持〉 五日節會〈五月五日〉 經賢僧都
御酒たまふけふのためとや菖蒲草六の司もかねてひきけん〈◯中略〉
左、五月の節會の心なり、五日宴を群臣に給也、今は絶てなきにや、左右近衞、左右衞門、左右兵衞、p.1161 菖蒲を奉る、あやめの輿とて、南殿にかきたて侍也、
p.1161 五月四日 一根菖蒲 恆例 細川小四郞
p.1161 五月四日 根菖蒲臺にすはる、細川陸奧守進二上之一、
p.1161 天文七年五月四日丙子、從二細川奧州一爲二嘉例一、根菖蒲貴殿へ被レ進レ之、其御状ニ、來年ハ若子御誕生アリ、甲莊ニさせらるべき由にて歌アリ、
ひく心あさかの沼にあらぬとは君ぞあやめのねざしにもみん
於二當座一色々返歌可レ仕候由候間 親俊
君がひく心のそこゐあさからぬあさかの沼のあやめともみん
p.1161 五日、〈◯中略〉清凉殿の東庭、おにのまのとほりに、高らんに添て、さうぶの御殿とかいふものをたつ、あやめのこしなるべし、あやめのこしは、六府のさたとみえたれど、いかなることにか、此ごろは東坊城家より材木下行等の物を出して、衞士をしてつくらしめて是を奉なり、又ないし所の西にもたつ、是は梅が畑と云所より材木を出して、是も衞士作りて調進する也、
p.1161 五日 菖蒲御殿 東坊城殿調進
p.1161 五日 菖蒲御殿 是はいつの頃よりや、東坊城家より材木等の品を出さる、衞士是を作りて奉る、清凉殿の東庭、鬼の間通に高欄に添て立らる、又梅ケ畑村より材木を出し、是も衞士作りて奉る、内侍所の西の縁にて立らる、西宮記に、五月六府立二菖蒲輿南庭一といへる遺風なるべし、
p.1161 五日 菖蒲御輿〈御輿料木、自二梅畑供御人一納二今出川家一、即遣二衞士一、衞士作レ之、其法以二連根菖蒲一爲二棟梁一、且以二細木一爲レ柱、造二小殿形一、以二桧葉并菖蒲一蓋二殿宇一、衞士獻二禁裏一也、〉
p.1162 元祿三年五月五日、清凉殿御拜間ノ階ノ南ニシヤウブノ御殿立、〈◯圖略〉
p.1162 軒のあやめ〈葺二菖蒲一〉 五月四日の夜、軒にあやめふく事は、中むかしよりはじまれり、國史式等にしるさヾれば、さだまりたる恒例にはあらざるなり、しかはあれど、五月四日夜、主殿寮内裏殿舍葺二菖蒲一と〈西宮記〉みえたれば、此頃よりはじまりて、定例となりしにや、又よもぎをさうぶにそへてふくことは、いはゆるさうぶよもぎなどのかほりあひたるもいみじうおかし、ここのへの内をはじめて、いひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげくふかむとふきわたしたると、〈枕草子〉みえたるによれば、此ころほひには、菖蒲よもぎともに軒にふきし事しられたり、こヽのへの内をはじめて、いひしらぬ民のすみかまでといふをもてみれば、世にあまねく定例となりしことおしはからる、既にかげろふ日記にも、我いゑにとまれる人のもとより、おはしまさずとも、しやうぶふかではゆヽしからむをと、みえたると、西宮記との二記をおもへば、九百年前、千年ちかきむかしよりのならはしにして、たかきいやしきなべて家の軒にふきしなり、さて聟とりたる家、三箇年ふかずといふ説あれど、これもはヾからざるよし山槐記に見え、新造の家、三箇年不レ葺よしの説あれど、これも不レ憚よし同書にみえたり、又新宅不レ葺よし、後成恩寺殿の説〈諒闇記〉なり、されども新造家必葺レ之、代々例也と、〈年中行事秘抄〉みえたれば、ふく説にしたがふべきなり、さうぶふく事、諒闇中不レ憚と〈後成恩寺殿諒闇記〉みえ、喪家には、あるひはふき、或はふかざる説あれども、多くは憚らざる説なり、文暦元年五月四日、故女院舊院不レ被レ葺二菖蒲一、世俗之説、終焉御所不レ葺と〈百練抄〉みえ、但建久六條殿葺レ之、嘉承堀河院葺レ之、治承高倉舊院不レ葺と〈同上〉みえ、不吉家、或葺、或不レ葺と〈年中行事秘抄〉みえたるによれば、二書ともにたしかならざれども、多くは葺説なれば、ふく方に隨ふべきなり、殊に山槐記、後成恩寺殿諒闇記等の説によれば、新造の家、諒闇、喪家にいたるまで不レ憚よしなれば、これにしたがふ、且そのうへ凡葺二菖蒲一事者、爲レ除二火災一也、非二家飾一、仍不レ憚レ之也と〈後成恩寺殿諒闇記、恒例行事〉
p.1163 〈略、〉いへり、げにさあるべき事なり、
p.1163 民間歳節上 五月五日謂二之端午一、插二艾及菖蒲于門簷一、〈◯中略〉 四時寶鏡曰、五日採レ艾懸二於戸上一、以禳二毒氣一、 帝城景物略曰、五日漬レ酒以二菖蒲一、插レ門以レ艾、 熙朝樂事曰、端午爲二天中節一、家々買二葵、榴、蒲、艾一、植二之堂中一、
p.1163 端午 端午節物、如二百索艾、花銀様、鼔兒花、花巧畫扇、香糖菓子、糉子、白團、紫蘇、菖蒲、木瓜之類一、並皆葺、切以二香藥一相和、用二梅紅匣子一盛裹、自二五月一日及端午前一日一、皆賣二桃柳葵花蒲葉佛道艾一、次日家々鋪二陳於門首一、與二糉子五色水團茶酒一供養、又釘二艾人於門上一、士庶遞相宴賞、
p.1163 四日夜、主殿寮内裏殿舍葺二菖蒲一、〈不レ見レ式〉
p.1163 五月四日 主殿寮葺二内裏殿舍菖蒲一、
p.1163 四日、〈◯五月、中略〉主殿寮所々にしやうぶふく、
p.1163 四日、さうぶは主殿寮ふくとあれど、此比は丹波國小野といふ所〈小野郷丹波境鷹峯より北三里山城の内也、勸修寺殿也、去二帝土一こと三里、平之丞、兵庫、淺井淺之進とて、以上三人有、〉より獻ず、同所のものあまたまゐりて、御てんごとにふきわたす、
p.1163 四日 御殿菖蒲 小野六郷ヨリ勤レ之
p.1163 五月菖蒲の節句御儀式、故實には、古賦に、菖葉樗花回二鸞殿一とあれば、菖蒲、艾蓬、樗花三色を軒に指し事にや有けん、弘仁式に曰、五月五日平旦、菖蒲蓬花置二於南殿前一云々、是其證ならんか、今は五日の未明に、葛野郡小野郷六村家々に此役を傳へて、郷人菖蒲蓬を持參して葺レ之、往古は禁中の被官として、官務之催し方、主殿寮の史生を勤たりし餘流とかや、下行米一石五斗被レ下レ之、
p.1163 四日 殿舍葺二菖蒲一〈古者禁裏院中殿舍菖蒲、主殿寮葺レ之、當時山城國小野庄六郷之民、著二烏帽子素襖袴一葺レ之、到二于中古一、小野悉主殿寮領二知之一、依レ之于〉
p.1164 〈レ今自二小野一勤レ之、〉
p.1164 殿中從二正月一十二月迄、御對面御祝已下之事、
一三日〈◯五月〉曉、御殿の軒に昌蒲に蓬をそへてふき申也、桧皮師の役也、
p.1164 五月四日 蓬、菖蒲、御殿にふかるヽ、檜皮師の役也、公人相添、下行在レ之、
p.1164 五日昌蒲事 淀刀祢卅駄 蓬十駄 根十荷 大津御厩廿五駄 蓬五駄 垂水東牧卅駄 同西十駄 橘御園卅駄 散所百十駄〈公種方七十駄、兼弘方四十駄、〉 件菖蒲者、四月下旬、以二例文句一案主成上、政所御下文下二知之一、 葺所々 當時御所 東三條殿 棧敷殿 一條殿 塔本殿 御厩 執事家司 宣旨殿 法成寺 京極殿御堂 御所〈并〉東三條殿、四日召二檜皮葺木守等一、其請取葺レ之、於出納物美菖蒲根者、五日隨レ召進レ之、
p.1164 五月にもなりぬ、我いゑとさたにとまれる人の本より、おはしまさずとも、しやうぶふかでは、ゆヽしからんを、いかヾせむずるといひたり、
p.1164 あくれば五日〈◯五月〉のあか月に、せうとたる人ほかよりきて、いづらけふのしやうぶは、などかおそうはつかうまつる、よるしつるこそよけれなどいふにおどろきて、しやうぶふくなれば、みなひともおきて、かうしはなちなどすれば、しばしかうしはなまいりそ、たゆく香さへうせん、御らんぜんに、もともなりけりなどいへど、みなおきはてぬれば、ことをこなひてつかす、昨日のくもかへすかぜ、うちふきたれば、あやめのかは、やうかへていとおかし、
p.1164 せちは 五月にしくはなし、さうぶよもぎなどのかほりあひたるもいみじうおかし、こヽのへの内をはじめて、いひしらぬたみのすみかまで、いかでわがもとにしげくふかんと、思ひさわぎてふきわたしたる、猶いとさまことにめづらし、いつかことおりはさはしたりし、
p.1164 はかなく五月〈◯長保二年〉五日になりぬれば、人々さうぶあふちなどのからぎぬ、
p.1165 うはぎなどもおかしうおりしりたるやうに、さうぶのみへがさねのみ、木丁のうす物にて、たてわたさせ給へるに、かみをみれば、みすのへりもいとあをやかなるに、のきのあやめもひまなくふかれて、心ことにめでたくおかしきに、御くす玉、しやうぶの御こしなど、もてまいりたるも、めづらしうて、わかき人々みけうず、
p.1165 五月〈◯寛弘五年、中略、〉五日かみにはひまなくふかれたるあやめも、ことおりににず、おかしうけだかし、
p.1165 五月〈◯嘉承三年〉四日、夕つかたに成ぬれば、さうぶいとなみあひたるをみれば、こぞのけふ何事思ひけん、さうぶのこし、朝がれゐのつぼにかきたてヽ、殿ごとに人々のぼりて、ひまなくふきしこそ、みづ野のあやめも、今日はつきぬらんと見えしか、
p.1165 五日 端五〈今日端五節、(中略)市中家家插二菖蒲艾葉於檐間一、〉
p.1165 四日 國俗今日艾菖蒲を屋ののきに挟む、 按ずるに、歳時記に、五月五日艾をむすびて、人の形のごとくして戸上にかくれば、毒氣をはらふと見えたり、國俗艾菖蒲をのきに挟むも、かヽる遺意なるべし、
p.1165 五日 端午御祝儀、〈◯中略〉貴賤佳節を祝す、〈家々軒端に菖蒲蓬をふく〉
p.1165 四日 禁中にて御殿に菖蒲をふかせらる、上代は主殿寮これをふきし由、今は小野の郷の百姓まいりてふくなり、人家にて艾菖蒲を軒にさすは、中華艾虎の遺風にて、清少納言が草紙、鴨の長明が無名抄の説によれば、古代よりの風俗にや、陸奧にては菖蒲なきゆへ菰の葉にてふく、西國にて楝の葉を菖蒲にまじへさす、是もまた邪氣を除く本文あるゆへにや、此日をふき籠りの祝(○○○○○○)といふ、あやめふくゑんによりて、福こもると云意なるべし、
p.1165 四日 葺二菖蒲一事 新造家必葺レ之〈代々例也〉 不吉家、或葺或不レ葺、〈◯下略〉
p.1166 養和二年〈◯壽永元年〉五月五日甲寅、喪家所之外、雖二重喪家一葺二菖蒲一也、
◯按ズルニ、喪中菖蒲ヲ葺クヤ否ヤノ事ハ、禮式部服忌篇喪中雜制ノ條ニ載セタリ、
p.1166 屏風に 大中臣能宣
昨日までよそにおもひしあやめ草けふわがやどのつまと見るかな
題しらず よみ人しらず
けふみれば玉のうてなもなかりけりあやめの草のいほりのみして
p.1166 陸奧守橘爲仲と申、かのくにヽまかりくだりて、五月四日、たちに廳官とかいふもの、としおいたるいできて、あやめふかするを見ければ、れいの菖蒲にはあらぬくさをふきけるを見て、今日はあやめをこそふく日にてあるに、これはいかなるものをふくぞと、とはせければ、つたへうけ給はるは、このくにヽは、むかし五月とて、あやめふくことも知り侍ざりけるに、中將〈◯藤原實方〉のみたちの御とき、けふはあやめふくものを、いかにさることもなきにかとのたまはせければ、國例にさる事侍らずと申けるを、さみだれのころなど、のきのしづくもあやめによりてこそ、いますこし見るにもきくにも、心すむことなれば、はやふけとのたまひけれど、このくにヽはおひ侍らぬなりと申ければ、さりとてもいかヾ日〈◯日字恐衍〉なくてはあらん、あさかのぬまのはなかつみといふもの有、それをふけとのたまひけるより、こもと申ものをなんふき侍るとぞ、むさしの入道隆資と申はかたり侍ける、もししからば、引くてもたゆくながきねといふうた、
p.1167 おぼつかなく侍り、實方中將の御はかは、みちのおくにぞ侍なるとつたへきヽ侍りし、
p.1167 郁芳門院根合にあやめをよめる 藤原孝善
あやめ草ひくてもたゆくながきねのいかであさかの沼に生けん
p.1167 五月の頃、圓位上人〈◯西行〉熊野へ參りける道の宿に、あやめをばふかで、かつみをふきたりけるを見て、よみ侍りける、
かつみふく熊野まうでのやどりをばこもくろめとぞいふべかりける
p.1167 あやめのかづら〈菖蒲鬘〉 あやめのかづらは、五月五日未明、禁中に糸所より獻ずるを、天子かけ給ひて武徳殿に行幸ましまし、例の節會行はる、内外の群官も皆かくる事なり、是は時の疫邪惡氣などをさけんためにせしめ給ふ也、これ往古よりの仕來りなりしを、聖武天皇の御時の比は、既に此事廢せしとみえて、天平十九年五月、太上天皇〈◯元正〉詔に、むかしは五日の節、常にあやめをもつてかづらとなす、比來すでに停二此事一、今より後あやめのかづらにあらざるものは、宮中に入ることなかれと、〈續日本紀〉みえたるによれば、いづれの御代よりか、此事行なはれざりしを、此御時よりして、年々の五月五日には、文武群官、必ずあやめのかづらをつけて、宮中に出入せしめしより、定例となりし事、この詔にて明也、萬葉集に、詔ありし年より四五十年前、あやめのかづらをよめる歌みえたり、則山前王の作歌に、ほとヽぎす、なくさつきには、あやめ草、花橘を、玉にぬき、かづらにせんと、とよまれたるは、文武天皇の御宇にてやありけん、山前王は養老七年十二月卒すとみえたれば、天平十九年にさきだつ事二十五年なれば、かにかく山前王の世にいませし比は、あやめのかづらを用ひられしこと、かの歌にてしられたり、又それより後、家持卿の歌に、あやめぐさかづらにせんひとも、菖蒲草よもぎかづらきとも讀れたるによれば、よもぎをもあやめにそへて、かづらとせられしなり、しかはあれど、あやめの鬘製作の事、九條右相府記に、く
p.1168 は敷しるされたれど、よもぎを用ひられし事みえねば、時によりて其製作は異なりしにやあらん、延喜式、西宮記等には、内外群官、皆著二菖蒲鬘一とも、天皇出御著二菖蒲鬘一とのみにて、異なる事なし、小野宮年中行事には、くは敷しるされたれども、萬葉集にみえし、花橘を、玉にぬき、かづらにせんと、よめる歌には合はず、これ皆時世によりてたがひあるのみ、
p.1168 天平十九年五月庚辰、〈◯五日〉天皇御二南苑一、觀二騎射走馬一、是日太上天皇〈◯元正〉詔曰、昔者五日之節、常用二菖蒲一爲レ縵、比來已停二此事一、從レ今而後非二菖蒲縵一者、勿レ入二宮中一、
p.1168 凡五月五日、天皇觀二騎射并走馬一、弁及史等撿二校諸事一、〈◯中略〉是日内外群官皆著二昌蒲鬘一諸司各供二其職一、〈事見二儀式一〉
p.1168 凡同日〈◯五月五日〉節會、文武群官著二昌蒲蘰一、
p.1168 造二五月五日昌蒲珮一所、支子一斗七升、橡一斗七升、黄蘗八斤、紫草五十斤、茜五十斤、汁灰一斗七升、酢七升、藁十圍、薪八荷、折櫃廿合、〈十五合納二諸寺昌蒲佩一料、五合雜用、〉敷料調布二端、安藝木綿十二枚、商布一段、紙廿張、土器百枚、錢百五十文、油一升、生絹一丈、油絹一疋三丈、調布一丈、筵一枚、〈已上寮物〉飯六斗、糟三斗、雜魚一斗五升、陶由加二口、酒槽二隻、〈已上官物〉四衞府駕輿丁十二人、〈左右近衞各四人、左右兵衞各二人、〉充二雜駈使一、
右料物、送二絲所一造備、但件昌蒲佩、供御并人給料外十五條、内竪爲レ使供二諸事一、〈東西、(各二寺)梵釋、崇福、常住、東名、出雲、聖神、法觀、廣隆、東藥、珍皇、佐比、嘉祥、寶皇、〉
p.1168 三日、六衞府獻二昌蒲并花一事、〈◯中略〉
九條右相府記(裏書)、〈◯中略〉造二昌蒲蘰一之體、用二細昌蒲草六筋一、〈短草九寸許、長草一尺九寸許、長二筋、短四筋、〉以二短四筋一當二巾子前後一各二筋、以二長二筋一廻二巾子一充二前後一、草結二四所一、前二所、後二所、毎レ所用二心葉縒組等一、
p.1168 五月〈◯寛徳元年〉最勝の御八講に、うへの御つぼねにおはします、さうぶをみなうちて、やがてさうぶの唐ぎぬ、くすだまなどつけて、ながきねを、やがておまへのみすのまへのやり
p.1169 水にひたして、いでゐたるもおかし、麗景殿〈◯後朱雀女御藤原延子〉も、おり〳〵の裝束おかしう、細どのにて、ことびはひきあはせて、殿上人など、もの誦しなどしてあそぶ、五日、加賀左衞門、一品宮〈◯後一條皇女章子〉のいではに、
たもとにはいかでかくらむあやめぐさなれたる人のそでぞゆかしき、といひたりければ、いではのべん、
へだてなくしらせやせましこヽのへのおろかならぬにかくるあやめを
p.1169 せちは 五月にしくはなし、〈◯中略〉御せくまいり、わかき人々は、さうぶのさしぐしさし、ものいみつけなどして、さま〴〵からぎぬ、かざみ、ながきね、おかしきおりえだども、むらごのくみして、むすびつけなどしたる、めづらしういふべき事ならねど、いとおかし、
p.1169 今日〈◯五日〉婦人女子、たはぶれに菖蒲を頭上に插み、又腰にまとふ、如レ此すれば、病を除くと、俗にいひならはせり、 歳時雜記に、端午の日、菖蒲艾を割て、小き人形に作り、又は葫蘆の形のごとくし、これを帶れば邪氣を辟と記せり、かヽる遺俗にや、
p.1169 同石田王卒之時、山前王哀傷作歌一首、
角障經(ツヌサハフ)、石村之道乎(イハレノミチヲ)、朝不離(アサカレズ)、將歸人乃(ヨリケムヒトノ)、念乍(オモヒツヽ)、通計萬四波(カヨヒケマシハ)、霍公鳥(ホトヽギス)、鳴五月者(ナクサツキニハ)、菖蒲(アヤメグサ)、花橘乎(ハナタチバナヲ)、玉爾貫(タマニヌキ)〈一云貫交〉蘰爾將爲登(カヅラニセムト)、〈◯下略〉
p.1169 詠レ鳥
霍公鳥(ホトヽギス)、汝始音者(ナガハツコヱハ)、於吾欲得(ワレニガモ)、五月之珠爾(サツキノタマニ)、交而將貫(マヂヘテヌカム)、
p.1169 國掾久米朝臣廣繩以二天平二十年一附二朝集使一入レ京、其事畢而天平感寶元年閏五月二十七日、還到二本任一、仍長官之館設二詩酒宴一樂飯、於レ時主人守大伴宿禰家持作歌一首并短歌、〈◯中略〉
保止止支須(ホトトギス)、支奈久五月能(キナクサツキノ)、安夜女具佐(アヤメグサ)、餘母疑可豆良伎(ヨモギカヅラキ)、佐加美都伎(サカミツキ)、安蘇比奈具禮止(アソビナグレト)、〈◯下略〉
p.1170 あやめのまくら〈菖蒲枕〉 五月五日、菖蒲をもて枕にしく事は、中むかしよりはじまれる事也、前中納言雅頼卿歌に、都人引なつくしそあやめ草かりねの床の枕ばかりは、又俊成卿の、立花にあやめの枕にほふ夜は、とよまれたるによれば、七百年ばかりのいにしへよりして用ゐられしもの也、嘉禎四年五月四日、自二將軍家一、被レ調二進昌蒲御枕并御扇等於公家一と〈東鑑〉みえたるによれば、嘉禎の比は、あづまにても用ゐられし事しられたり、又明應の比には、世にあまねく用ゐられしものとみえて、五月五日、今宵は菖蒲の枕しく夜也とて、しき侍りてと〈關東海道記〉みえたるにて明らか也、凡五月五日、あやめ草をもて屋の軒にふき、或はかづらとなし、或は續命縷につくり、或は枕にしく事、皆時の邪氣をさけはらはん爲に用ゐらるヽなり、菖蒲は辟二瘟氣一と〈荊楚歳時記〉みえたり、又同日、あやめの筵を用らるヽ事、三百年前よりあり、五月四日の夜、昌蒲の御筵御枕參りて、しかせられて御しづまり候と〈殿中御對面記〉みえたり、是も邪をさけ、あしき虫などをよくるまじなひに用ひられしにや、さて又禁中へは、五月四日新藏人あやめの御枕獻ずるよし、禁中年中行事、年中下行帳にみえたり、枕のつくりかたは、菖蒲をたけ五六寸ばかりにきりて、五寸廻りばかりに、跡さきをかみひねりにて結びて、兩方の小口によもぎをさし挟むよし、後水尾院當時年中行事にしるさせ給へり、
p.1170 五日 菖蒲御枕〈自二六位藏人一獻二禁裏院中一〉
p.1170 四日〈◯中略〉あやめの枕〈薄やうにつヽむ〉一對、こよひ御枕本にあり、薄やうは極臈調進す、御枕は勾當内侍より出す也、其やう、あやめをたけ五六寸ばかりに切て、五寸廻りばかりに跡さきを、かうひねりにて結びて、兩方の小口によもぎをさしはさむ、
p.1170 五日 菖蒲御枕 是は菖蒲をふとさ四寸廻り、長さ三四寸ばかり、跡先を紙捻にて結たるもの也、長橋局より獻らる、上包の薄様は、極臈より調進す、
p.1171 慶長三年五月四日、しやうぶの御まくら、くわんじゆ寺大なごんよりまいる、じゆごうの御かた、ひろはしながはしより、しやうぶの御まくらまいる、しやうぶの御まくらつつみ候うすやう、しんくら人よりまいる、
p.1171 寛政四年五月朔日戊戌、菖蒲枕獻上、今年初年也、朝飯後青侍〈ふくさ麻上下〉長橋奏者所へ爲レ持遣、
菖蒲枕〈二把〉 一包〈元上々奉書、當時御省略中故、用二次奉書一、次奉書二枚重、白紅水引ニて絬レ之、表書無シ、〉
二重繰目録臺ニ乘セ
〈下ケ札〉 大江とし矩〈上〉
右之通ニ仕立、獻上相濟、仙洞、女院、右同様、各後到可レ有二披露一旨、返答承り歸由也、
文化十二年四月十四日己巳、菖蒲枕之事不二伺來一故、今朝新町下立賣經師五兵衞方へ申付遣處、昨年五兵衞病死、妻子分散、其後家大宮下立賣ノ寺へ、臺所賄ニ參居由、町之會所ニ而承歸故、又々其寺へ尋ニ遣處、今ハ其寺ニモ不レ居、新烏丸夷川邊ニ宿有レ之間、其宿ニ而可二尋合一、其寺ニ而被レ教、下ノ町へ罷越漸尋當り、裏屋ニ後家一人居候由、仍菖蒲枕之事相尋處、猶相しらべ明日有無之御返事、可二申上一由承歸也、 十五日庚午、表具屋源七〈當時高辻通油小路西ヘ入所ニ住居云々〉來、是經師吉兵衞忰也、親吉兵衞前廉菖蒲枕年々調進候處、吉兵衞死去後ハ相續難レ仕、右菖蒲枕之形、經師五兵衞へ預ケ置、此者より年々調進仕候處、右五兵衞儀も昨年病死仕、相續難レ仕候ニ付、則菖蒲枕之形、私方へ相戻シ申候故、當年より私調進仕候間、不二相替一御用被レ爲二仰付一被レ下度奉レ願候、尤自二先日一罷出、此段御斷申上可二相伺一心得ニ罷在候處、日々多用ニ取紛、且遠方故、一日々々延引仕候處、昨日御使被二成下一候由、五兵衞後家より申聞ニ付、不二取敢一今日御伺參上仕旨申來也、仍吉兵衞儀ハ、前廉調進候事、當家ニも存居事故、無二子細一之間、如二前々一當年より可二調進一、當月二十五日迄ニ可二相納一様申付了、尤來年よりは四月p.1172 差入ニ可二伺出一旨申付置候、畏入候由申レ之、且又仕立之事、大様相覺居候得共、久敷不二手掛一候故、重子ノ色目不分明之由相尋ニ付、古キ薄様之折形見せ遣、一覽シテ歸候、 十三年五月一日庚辰、菖蒲枕今日令二獻上一、 禁中東宮〈已上附二長橋奏者所一獻上〉中宮等三御所也、如二昨年一〈高貴宮、猗宮等不レ及二獻上一、依下雖二儲君一親王宣下以前不上レ獻也、〉以二次奉書二枚一包レ之、以二白紅水引二把一結レ之、居二二重繰目六臺一、下ゲ札大江とし矩〈上〉ト認、三御所共同様令二獻上一、一昨年之通也、長橋奏者所取次荒木大江之助、中宮御所奏者所取次茨木安太郞使〈平松道次、著二服紗麻上下一、〉例年之事故、一統可レ及二披露一由、即席返答申之由也、
p.1172 殿中從二正月一十二月迄、御對面御祝已下之事、
一四日〈◯五月〉の夜、昌蒲の御筵御枕參りて、しかせられて御しづまり候、
p.1172 嘉禎四年〈◯暦仁元年〉五月四日戊寅、及レ晩自二將軍家一、〈◯藤原頼經〉被レ調二進昌蒲御枕〈鏤二金銀一〉并御扇等於公家一云云、件御枕者、爲二六位定役一調進者也、而依レ被レ求。御進物之次如レ此云云、
p.1172 五日 端五〈今日端五節、(中略)今夜大人小兒用二菖蒲枕一、〉
p.1172 千五百番歌合に 皇太后宮大夫俊成
立ばなにあやめの枕にほふ夜ぞむかしをしのぶ限なりける
p.1172 あやめの湯〈蘭湯〉 あやめの湯は、菖蒲の根葉をきざみて湯に入て、五月五日に浴する事なり、しやうぶの根沐浴に入る事、本草又大戴禮月令などといふ書に侍ると〈世諺問答〉見え、五月五日、昌蒲の御湯御行水ありと〈殿中御對面記〉見えたり、是は菖蒲の功能多くあるのみならず、可レ作二浴湯一と、本草に出たるによれる也、いはゆる開二心孔一、補二五臟一、通二九竅一、明二耳目一、出二音聲一云々、久服輕レ身、不レ忘不二迷惑一、延レ年益二心智一、高レ志不レ老云々、四肢濕痺不レ得二屈伸一、小兒温瘧身積不レ解、可レ作二浴湯一と〈本草綱目〉見えたるにても、貴藥なる事しられたり、しかはあれど、殿中御對面記、世諺問答等によるに、四百年以降の遺風なり、又蘭湯に浴する事も此日なり、五月五日採レ蘭、以レ水煮レ之爲二沐浴一と〈拾芥抄〉見えしは、蓄
p.1173 レ蘭爲二沐浴一と〈夏小正〉いへるによれるなり、しかれば蘭湯に沐浴する事は、周世よりの遺事なり、夏小正は周公旦の手に成しよしいひ傳へたり、又楚辭、大戴禮、歳華紀麗等にも蘭湯の事見え、其外騷客の詩賦に載たれば、西土にては、專ら端午には蘭湯に沐浴せし事としられたり、菖蒲の事は、本草綱目に見えしのみにて、外に所見なく、且そのうへに端午のみにかぎりたるには非ず、病症によりて可レ作二沐浴一よし記したり、偖皇國にては、二百年來、都鄙の良賎、おしなべて菖蒲湯に浴せり、近代は又五日六日兩日ともに、あやめの湯をたきて入湯せり、京師にては端午屋擔にふく所の菖蒲をとりて、六日に湯となすよし〈花實年浪草〉記せるは、古くはなき事ながら、五日の夜の露を受たるを用るは、金門記にいへる、神水の説によるとなり、さはあれど世諺問答に、五月五日しやうぶをもちゐるいはれは何のゆゑぞ云々、酒中に入、或は帶にし、あるひは沐浴に入侍る云々といへるによれば、むかしは五日に限れる事としられたり、
p.1173 六日 菖蒲御湯〈自二釜殿一獻レ之〉
p.1173 五日〈◯中略〉けふはさうぶの御湯參ル、よべのさうぶの御枕一對をうすやうにつヽみながらかなへどに出ス、かなへど、かうひねりを引ときて御ゆに入、御ゆどのヽ御湯の中に、さうぶはみえねど、匂ひはなはだし、
p.1173 六日 菖蒲湯 釜殿調二進之一
p.1173 殿中從二正月一十二月迄、御對面御祝已下之事、
一五日、〈◯五月〉昌蒲の御湯の御行水あり、 一勢州へ御成、御風呂、但昌蒲御湯參る、
p.1173 六日 諸人菖蒲湯に浴す
p.1173 嘉吉三年五月五日己未、蒲節幸甚、浴二蒲葉一、飮二蒲根一、昨夕蒲根一雙、自二甘露寺一有二芳志一、毎年不易之儀也、
p.1174 慶長八年五月五日、神拜、粽ヲ供、先早々菖蒲湯浴、
p.1174 五月五日、〈◯中略〉是日採レ蘭、以レ水煮レ之、爲二沐浴一、令下人辟二除甲兵一、攘中却惡氣上、〈大戴禮〉
p.1174 初五日 浴二蘭湯一〈楚詞浴二蘭湯一兮沐二芳華一、大戴禮、五日蓄レ蘭爲二沐浴一、本草云、蘭乃澤蘭香草、非二今之勾蘭花一也、〉
p.1174 大治四年五月五日壬午、裏書、〈◯中略〉御湯被レ入レ蘭、
p.1174 文安元年五月五日甲寅、蒲節幸甚々々、沐二浴蘭湯一、壽酒祝著如レ例、
p.1174 五日 端午御祝儀、〈◯中略〉貴賎佳節を祝す、〈(中略)小兒、菖蒲打の戲れをなす、〉
p.1174 洛陽集に、割ばさみいづれあやめぞ蓬ぞと、〈行正〉中古風俗志に、享保のころまでは、所々の廣小路へ童集り、菖蒲にて大きなるふとき三ツ打の繩をこしらへ、或は長竿等を持出、往來の子供へしやがめ〳〵といひて、下座をさせ、もし下座をせざれば打かヽりなどして、使につかはしたるは、小裯布など重箱をこはされ、はう〳〵逃かへりし事などありしが、今は絶てなしといへり、されど予〈◯喜多村信節〉が幼き頃までも、童共人家の簷なるあやめを、竹のわりばさみにて取あつめ、三ツ打に組で持あるき、他所の小供を見れば、此繩にて地を打、草履を脱で下座せよと云ふ、されども下座する童もなく、又絶てさするに及ばず、唯かくして遊ぶことなりき、今も此戲する處もあるべし、
p.1174 或曰、端午ノ印地打止テ印地切〈インジユギリト訓ズ〉トナリ、正保慶安ノ頃ハ、此日專ラ童ノ挑爭フ印地切モ停テ菖蒲打(○○○)トナル、〈◯註略〉後廢テ唯吉原ノ禿ノミ行レ之、衆禿二隊トナリ、號テ江戸町方京町方ト云、待合ノ辻ニ行レ之コト、上ニ云ルガ如シ、是寛延ノ書ニ載タリ、何ノ時ニカ是モ廢ス、
p.1174 あやめざけ〈菖蒲酒菖華酒〉 菖蒲酒は、あやめの根の一寸九節のものを取てこまかにきり、縷のごとくになして、さけに汎て五月五日に飮ば、瘟氣或は蛇蟲の毒をさくるよし、和漢と
p.1175 もに所見あり、いはゆる取二菖蒲根七莖一各長一寸、漬二酒中一服レ之と〈拾芥抄〉記せり、世俗はたヾ根節の數に拘らず用ゐ侍れども、一寸九節のもの尤驗あるよし〈荊楚歳時記、千金方、本草綱目、〉いへり、一説に、一寸のうちに、百ふしあるしやうぶあり、かのしやうぶ萬病をいやすと〈世諺問答〉いへるは、いづれの書に據りしにや、いまだ其出所を詳にせず、偖酒中に浸し用る菖蒲に、功能多あり少あり、池澤に生ずるものは泥蒲也、溪澗に生ずるものは水蒲也、水石間に生じ、葉に有二劍脊一〈◯脊一本作レ背、下同、〉者、石菖蒲也と〈本草綱目、群芳譜、〉見えたるを以て考ふれば、其生ずる所によりて、各名あるなり、此水石間に生ずるものを撰びとりて、酒に浸し用べきなり、これ眞の石菖蒲にして、功能枚擧すべからず、くはしくは本草に見えたり、しかるを近世は、池澤溪澗をきらはずして用ゐ侍るは、甚だ無稽なり、必ず水石間に生じ、葉劍脊ありて、一寸九節のものを撰びとりて用ゐば功驗あらはるべし、世俗は盆に水をたくはへ、石上に植るものを石菖とすれど、これは本草にいはゆる錢菖なり、葉にも劍脊なくして、細小なるを以て錢菖の名あり、眞の石菖蒲は長さ二尺の餘に及べり、又菖花とて菖蒲の花をも酒に浸し、端午に用る事あり、菖華汎レ酌堯樽緑なりと、章簡公端午帖子に見えたり、
p.1175 五月朔日 同じ御祝〈◯朔日〉之御酒に、菖蒲をきざみて入也、
p.1175 五日 端五〈今日端五節、(中略)市中家々(中略)細刻二菖蒲葉一、入二酒中一而飮レ之辟レ瘟云、凡中華謂二菖蒲一者石菖蒲也、本朝以二水菖蒲一爲二菖蒲一、端五用レ漬レ酒者非也、〉
p.1175 五日、端午と云、〈◯中略〉國俗今日粽をくらひ、菖蒲酒をすヽむ、〈◯中略〉 菖蒲酒をのむ事、歳時雜記に、午日菖蒲を取て縷のごとくし、或細末して酒にうかべてこれをのめば、陽氣を助け年をのぶといへり、山澗九節の菖蒲よしとなん、
p.1175 初五日、菖蒲酒、〈神農書、午日以二菖蒲一、或縷或屑泛レ酒、助二陽氣一延レ年、以二山澗九節者一佳、笑談録、五日菖蒲未二酒服一、亦解酒痛飮不レ酔、〉
p.1175 五日 菖蒲酒〈石菖を切て酒にひたして是をのむ、雄黄を少しばかりくはへて、ます〳〵よし、一切の邪氣をさくる、〉
p.1175 五日 端午御祝儀、〈◯中略〉貴賎佳節を祝す、〈家々(中略)菖蒲酒を飮み、又角黍(チマキ)柏餻を製す、〉
p.1176 糉 、粽、〈三形、作王反、去、並知萬支、〉
p.1176 糉 風土記云、糉、〈作弄反、字亦作レ粽、和名知萬木、〉以二菰葉一裹レ米、以二灰汁一煮レ之、令二爛熟一也、五月五日啖レ之、
p.1176 玉燭寶典引作下俗重二五月五日一與二夏至一同云々、先二此二節一一日、又以二菰葉一裹二粘米一、雜以レ粟、以二淳濃灰汁一煮レ之令レ熟、二節日所二尚啖一也上、藝文類聚引作下仲夏端五、烹二鶩角黍一、端、始也、謂二五月五日一也、又以二菰葉一裹二粘米一、煮熟謂中角黍上、初學記引作下以二菰葉一裹二粘米一、以象丙陰陽相抱裹未乙分散甲、太平御覽三十一引作下仲夏端五云々、先レ節一日、又以二菰葉一裹二粘米一、以二栗棗灰汁一煮令レ熟、節日啖上、齊民要術引作乙俗先以二二節日一、用二菰葉一裹二黍米一、以二淳濃灰汁一煮レ之令二爛熟一、於二五月五日夏至一啖レ之、粘黍一名糉、一名角黍、蓋取下陰陽尚相裹未二分散一之時象上也甲、御覽八百五十一引略同、各書所レ引、皆有二小異一、而齊民要術所レ引、與レ此略同、
p.1176 糉〈綱目〉 釋名、角黍、〈時珍曰、糉俗作レ粽、古人以二菰蘆葉一裹二黍米一、煮成二尖角一、如二椶櫚葉心之形一、故曰レ糉、曰二角黍一、近世多用二糯米一矣、今俗五月五日、以爲二節物一相餽送、或言、爲レ祭二屈原一作レ此投レ江、以飼二蛟龍一也、〉氣味、甘温無レ毒、主治、五月五日取二椶尖一、和二截瘧藥一良、〈時珍〉
p.1176 節日由緒
五月五日荃纒(チマキ) 高辛氏惡子、乘レ船渡レ海、忽暴風、五月五日沒二死海中一、其靈成二水神一、以二色糸荃纒一投二海中一、變化二五色蛟龍一、海神惶隱敢不レ成レ害、
p.1176 五月 問て云、けふ〈◯五日〉ちまきくふは、何のゆへにて侍るぞや、 答、むかし高辛氏の惡子、五月五日に、舟にのりて海をわたりし時、暴風にはかに吹て、なみにしづみけるが、水神となりて人をなやましけるに、ある人五色の糸にて、ちまきをして海中になげ入しかば、五色の龍となる、それよりして海神人をなやまさずと申つたへたり、または屈原汨羅にしづみ魚腹に葬せし、楚人のまつりし供物とも申にや、
p.1176 五花絲粽 屈原五月五日投二汨羅水一、楚人哀レ之、至二此日一以二竹筒子一貯レ米投レ水以祭レ之、漢建
p.1177 武中長沙區曲、忽見二一士人一、自云二三閭大夫一、謂レ曲曰、聞君當レ見レ祭、甚善、常年爲二蛟龍一所レ竊、今若有レ惠、當以二楝葉一塞二其上一、以二綵絲一纒レ之、此二物蛟龍所レ憚、曲依二其言一、今五月五日作レ粽、并帶二楝葉五花絲一遺風也、
p.1177 五月五日節料
粽料、糯米、〈參議已上別八合、五位已上別四合、〉大角豆、〈五位已上一合〉搗栗子、〈參議已上四合、五位已上二合、〉甘葛汁、〈五位已上一合〉枇杷、〈參議已上二合、五位已上一合、〉笋子五圍、箸竹、串竹、各三圍、青蒋十一圍、生絲三兩一銖、鮮物臨時買用、〈參議及三位已上料、七月九月准レ此、〉大陶盤、洗盤、各四口、叩瓫五口、〈並納二煮腊雜物一、九月節盤瓫亦同、〉
p.1177 五日 御獻粽 道喜調進之
p.1177 五日 眞薦粽〈今日、製レ粽家渡邊道喜獻二眞薦粽於禁裏院中一、〉
p.1177 五月四日 一粽百 恒例 眞木島次郞
五日 一粽百 例年進上之 伊勢守
p.1177 五日 端五〈今日端五節、(中略)今日良賤造二角黍一食レ之、昔日屈原汨羅沒レ水死、後人毎年以二五色絲一絡二粔數一而弔レ之、此其始也(中略)市中家々(中略)各造レ粽食レ之、或互相贈、〉
p.1177 四日、沐浴、粽を製すべし、餌粽を製するには、もちよねを用ひず、粳米をきはめて白くし、細末して沸湯にてこね作り、又沸湯にてにる、又うるし米と、もち米等分にして水にて和し、沸湯にて煮もよし、凡ちまき餌などは、米を磨にて引たるはわろし、臼にてつき、末してよし、又粽を煮に、稻柴の灰汁にて煮べしと、月令廣義に見えたり、唐の代に端午の粽其品多し、角粽、茭粽、角黍、百素粽、九子粽あり、粽を角のごとくにし、又錐のごとくにし、又菱角のごとくし、又竹の筒のごとくし、また秤の鏹のごとくにし、或五色の糸を繩になふて、數珠の如くつなぐもあり、〈我國にもいにしへは、粽を五色の糸にてかざりけるとなん、されば伊勢物語にも、人のもとよりかざり粽をおこせりとかけり、又拾遺集十八の詞書にも、ちいさきかざりちまきとあり、〉或だんごのごとくして、九つらぬるもあり、いづれもまことの葉にてつヽむなり、是を角粽とも、角黍とも
p.1178 いふなり、今日或は明日、粽を親戚に送べし、
p.1178 民間歳節上 五月五日、謂二之端午一、〈◯中略〉飯二蒲酒一食レ糉、〈◯中略〉 月令廣義曰、一統賦註、夏至俗食二麥粽一、歳時記、午日以二菰葉一裹二粘米一、謂二之角黍一、取二陰陽包裹之義一、又粽即角黍同レ類、唐時歳節、端午粽子名品甚多、形制不レ一、有二角粽、錐粽、茭 、筒粽、秤錘粽一、又有二百索粽、九子粽一、事物紀原、食粽一名角黍、一曰因二屈原一也、異苑、屈原姉所レ作、〈糉類詳見二第八卷一〉 山堂肆考曰、歳時記京師以二端午一爲二解糉節一、以二糉葉長者一勝、短者輸、
p.1178 五日端五〈又重五◯中略〉 今日良賤粽を製して祝ふ事は〈◯中略〉 〈其製いにしへは、茅をもつて卷し故、ちまきといふ、今京師は鞍馬山の奧より出る隈篠の弱葉をもつて、團子をつヽみ、藺をもつてこれを卷、爾して甑に入蒸ば、篠の香團子に移りて、味ひ尤よし、是を篠粽といふ、京師專らこれを用る故、四月下旬より此篠を持出、市中を賣歩行者多し、大坂其餘田舍にては、蘆の葉にてまく葦粽といふ、又菰にてまくもあり、菰ちまきと云、今五日禁裏御用粽所川端道喜菰粽を製して禁裏に獻る、又一種團子を柏の葉つヽみ蒸す、柏餅といふ、是も柏の香移て味ひよし、武家專ら用レ之、又伊勢物語にかざり粽とあるは、種々の色に飾たるをいふと也、〉
p.1178 昔男有けり、人の許より、かざり粽をこせたりける返事に、
あやめかり君はぬまにぞまどひけるわれは野に出でかるぞわびしき、とてきじをなんやりける、
p.1178 ちまき 大江千里
のちまきのをくれておふるなへなれどあだにはならぬたのみとぞきく
p.1178 長谷の前大僧正、五月五日、人々にちまきをくばりけるに、俊惠法師聞て、其うちにいるべきよし申つかはすとてよみける、
あやめをばほかにかりてもふきつべしちまきひくなるうちに入らばや、返し僧正、
はづかしやよどのあやめをおきながらちまきひくなの空にたちぬる
p.1178 泰覺法印、五月五日、人の許へ菖蒲をつかはすとてよみ侍りける、
p.1179 わりなくぞあやめのふちを心ざすちまき馬をや引いだすとて
p.1179 五月五日、ちひさきかざりちまきを、山すげのこに入て、ためまさの朝臣のむすめに心ざすとて、 春宮大夫道綱母
心ざしふかきみぎはにかるこもはちとせのさ月いつかわすれん
p.1179 嘉吉三年五月五日己未、蒲節幸甚、〈◯中略〉丹州角黍自二五辻一到來、貢物萬歳祝著々々、小原兩程送二遣之一、是又例也、
文安四年五月五日丙申、蒲節幸甚々々、〈◯中略〉東南院僧都状到來、〈◯中略〉
節供之義珍重候、兼而雖二比興候一、粽百進候、可レ有二御祝著一候、毎事期二後信一候、恐惶謹言、
五月五日 持覺
萬里小路殿
p.1179 寶徳二年五月五日、壽濃淨人獻、小粽子五首〈◯首恐誤〉非二此物一、今日空過二佳節一耳、所レ謂粽子、此方俗、謂二之茅卷一、蓋以レ茅裹レ之也、凡店所レ賣者、以二竹葉一代レ茅、非二貴人之食一、今淨人所レ獻是也、
p.1179 寛正六年五月五日辛亥、御祝物粽已下三御方〈御所様、上様、今出川殿、〉分令二調進一候畢、
文明十三年五月四日戊寅、御料所播州松井庄右方公事、粽千五百進納、自二貴殿一被レ副レ人〈杉江〉御方御所之御末へ被レ納レ之、〈◯中略〉桐野河内より粽まいる、 五日己卯、定光院〈猿菊丸〉粽百進二上之一、
p.1179 柏餅〈むかし、あふちの葉につヽめり、柏も神道に用ゆるめでたきものなればもちゆるなるべし、すべて今日のかざりもの、毒邪を拂ふため也、夏は毒虫多く、人の家にも入り來るにより、粽は虵の形に表す、是を食すれば彼を降伏する心にて、夏の中わざわひなき事を表して、祝すなるべし、〉
p.1179 菖蒲人形〈冑人形〉 江戸の俗、端午に を製し、裏に饀を裹み、楢の葉を以これを覆ふ、名づけてかしは餅といふ、其角が附句に、餅作るならの廣葉を打合〈セ〉などせしは是也、
p.1179 五日 端午御祝儀、〈◯中略〉貴賤佳節を祝す、〈家々(中略)角黍柏餻を製す〉
p.1180 端午には、〈◯中略〉柏餅を製するは稀なり、すべて茅卷を用ゆ、
p.1180 粽并柏餅
京坂ニテハ、男兒生レテ初ノ端午ニハ、親族及ビ知音ノ方ニ粽ヲ配リ、二年目ヨリハ柏餅ヲ贈ルコト、上巳ノ菱餅ト戴ノ如シ、〈◯中略〉 江戸ニテハ初年ヨリ柏餅ヲ贈ル、三都トモ其製ハ米ノ粉ヲネリテ圓形扁平トナシ、二ツ折トナシ、間ニ砂糖入赤豆饀ヲ挟ミ、柏葉大ナルハ一枚ヲ二ツ折ニシテ包レ之、小ナルハ二枚ヲ以テ包ミ蒸ス、江戸ニテハ砂糖入味噌ヲモ饀ニカヘ交ル也、赤豆饀ニハ柏葉表ヲ出シ、味噌ニハ裏ヲ出シテ標トス、
p.1180 端午日賦二艾人一〈寛平元年扶三〉
艾人形相自蒼生、初出二雲溝一束帶成、運命歡レ逢二端午日一、追尋恐レ聽二早鷄鳴一、有二時當レ戸危レ身立一、無レ意二故園信レ脚行一、只合二萬家知採用一、縱焚二筋骨一不レ焚レ名、
p.1180 賦二艾人一 藤原明衡
建午月逢二端午日一、艾人懸レ戸屬二蕤賓一、備レ形偏任二園中露一、尋レ跡空離野外塵、鸞殿蝸廬無レ擇レ處〈◯處一本作レ地〉樗花菖葉自同レ辰、荊州秘術長傳レ妙、菅氏美詞更識神、〈菅原集中有下賦二艾人一之詩上〉籬菊非レ秋誰足レ貴、庭蘭當レ夏可レ稱レ臣、親朋憐汝宜レ憐レ我、蓬髮蹉跎餘二七旬一、
p.1180 五月五日、四民並蹋二百草一、又有下鬪二百草一之戲上、採レ艾以爲レ人、懸二門戸上一、以禳二毒氣一、
按、宗則字文度、嘗以二五月五日鷄未レ鳴時一採レ艾、見二似レ人處一、撹而取レ之、用レ灸有レ驗、師曠占曰、歳多レ病、則艾先生、
p.1180 端午 此日毎レ家立二旗及甲冑刀等兵器一、〈俗呼曰二冑人形一〉其刀以二菖蒲一飾レ之、仍號二菖蒲刀一也、荊楚歳時記云、荊人皆蹋二百草一、採レ艾爲レ人、懸二於門上一、以禳二毒氣一、此與二冑人形一趣相似矣、
p.1180 菖蒲かぶとは、元は石打の戲れより起りて、少童のもてあそびなり、近年美を先とし、
p.1181 金銀の箔だみて甚費多かる、殊に東都には、大方かぶとの外、大なる木偶人あまた立ならべ侍る、一形のあたひ數百匁に及ぶ有とぞ、是もまた時尚の觀なりし、〈◯下略〉
p.1181 今世五月端午の節、兒輩菖蒲兜とて翫ぶ、是を山城國藤の森の祭りより起りしやうにいふは非也、端午の鎧の事、史にも見えて久し、亦中頃關東の武士、五月六日野馬乘鞍とて、甲冑を帶し、馬上にて兵術の手合せをなす、刄引の太刀長刀を以てする由、伊豆日記〈嘉應元年五月〉等にみゆ、〈◯中略〉後河原石打其遺風にして、兒輩はたを立、甲を著、木太刀をもつて戲れし、今石打の事なくなれり、大家の小兒のみあらず、市井村落迄のぼりを立、かぶとをつらぬるも、唯壯觀を事として、何事といふをしらず、東都の如きは、時尚人形をのみ多く置て、いよ〳〵いにしへに遠ざかり、本を忘るヽにや、
p.1181 藥玉并燈籠 小川人家、〈◯中略〉端午所レ用木刀、或謂二菖蒲刀一、以二其状之相似一、准二節物一而稱レ之、兒輩横二腰間一、端午石戰戲後、多以二斯刀一相戰、是謂二菖蒲切一、菖蒲與二勝負一倭語相近、故寓二一戰勝負之義一者乎、
p.1181 冑人形 増鏡うちのヽ雪の條に、五月五日、所々より御かぶとの花、くす玉など、色色におほくまゐれり云々とあり、かくいへるは、八十八代後深草院位につかせ給ひて、いとけなくおはしましヽ建長三年辛亥五月五日の事なり、南畝叢書に載る某の隨筆に、右の増鏡の文を引て云、冑花は紙をもて冑をつくり、其上にさま〴〵の花をかたどり、あるひは紙にて人形をつくりすゑなどして、わらはべのもてあそびにするとなり、今の端午の菖蒲冑は、此遺制なるべしといへり、おのれ此説により、ふとこヽろづきて、日本歳時記〈貞享五年印本〉のうちの繪を見るに、冑の上に人形をつくりすゑたる圖あり、これをもておもふに、冑人形といふ名目は、原冑の上に人形をつくりすゑたるゆゑにしかいひしを、後に冑と人形と別の物になりて、人形ばかりをも冑人形
p.1182 といひ、略して冑とばかりもいひたるなるべし、然則右の隨筆に、冑の花は、冑のうへに紙にて、人形をつくりすゑなどするといへる説によく合、冑人形は、冑の花の遺制なること疑なからん、
p.1182 削りかけの冑は、俳諧懷子〈明暦二年〉甲をみれば削りかけなり、殊更にもる鹿茸や馳走ぶり、〈重頼〉内田順也が俳諧五節句、〈貞享戊辰〉大かた桧物師細工なり、人形に武者あり、舟あり、平家物語の體有り、麁相なる張貫もあり、しころに木をつぎ、かんなにて削り、短册の長きやうなるを色々に染、いくつともなくぶらさげるによりて、削りかけの甲といひ賣にや、又けづりかけにあらぬも有り、此頃は宮殿寺社兒法師女さま〴〵の古事どもあり、江戸にては張良辨慶など、名ある武者を只一騎作て、張良々々辨慶々々と賣り、冑とは賣ありかぬ也、〈◯中略〉 鷹筑波集〈三〉安井正親、けづりかけの冑のだしは鰹節、これ彼厚紙にて作りて、冑の上に付たる物をだしといへり、江戸にて今神祭のだしといへるものも、うへに付たる人物草木何くれの作り物をいふ名なり、此句は右の作り物と、鰹節のだしとをかねていへり、又世話盡〈三〉明暦二年刻、夏の冑をかさはむる窓、桧物師の軒もあやめの節句にて、是も削りかけとはなけれ共、桧物師といへるにてしるべし、 正保慶安の町ぶれにも、前々より小旗之義、絹布一圓仕間敷候と仰付らるヽ、萬治二年四月十六日、毎年如二申觸候一、五月節句の甲結構に仕間敷、勿論作りもの作り花糸類、金物金銀の箔漆につけ、商買堅仕まじく候、いかにも麁相なる人形、一つ二つより外付申まじく候、寛文七年十一月朔日、町觸の内、五月のもてあそびの甲、古へのごとくかぶり候やうに拵へ、人形ほり物可レ爲二無用一、但甲に立物は不レ苦候、すべて結構に不レ可レ仕事、此頃かざり物をむねとして、かぶられぬ冑を作れるとみゆ、今の上り冑といふ物、麻を垂たる木の削りかけに、かへたるなるをむねとして、かぶられぬ冑を作れるとみゆ、今の上り冑といふ物、麻を垂たる木の削りかけに、かへたるなるべし、もとうへに付し人形を、後には別に作ることヽなりても、猶冑人形とはいふなり、上り甲とは、やごとなき
p.1183 あたりへ奉るの義なり、ひなにも此名ありしとみゆ、類柑子、廣蓋を車大路やあがりひな、〈適山〉ひなは小きものなればなり、 世説故事苑、〈寶永七年板〉冑及人形を造り門戸にかけ、紙に畫きて門に出すといひ、五元集に、五月雨や傘につる小人形とは、雨日には傘を其うへにさしかけたるを、傘につると作れるにや、又菰の葉にて馬を作り、戸外に立と歳時記にいへり、
p.1183 繪のぼり、懷子〈三〉五月幟、門や又立榮ゆべき紙のぼり、〈正村〉其外紙のぼりといふ句多きは、寛永頃は端午のぼり、皆紙にてありしなり、羅山文集、慶安辛卯五月端午云々、家々挿レ蒲造レ粽、且爲二童兒一立二紙幡木曾一、また一代女、〈六〉五月の處、のぼりは紙をつぎて、素人繪をたのみ云々、五元集拾遺、なよ竹の末葉のこして紙のぼり、今も田舍にはこれを用ゆ、又五元集に、卯月十七日、或人の愛子にねだり申されて、郭公幟そめよとすヽめけりと云もあれば、此頃より下ざまにても、布のぼり行はれしにや、武者繪の板すりて、蘇枋黄汁等にて彩れり、江戸にても鍾馗のぼりは紙を用るもあれど、それも此ごろは少なきにや、板行の繪などは絶たり、〈奧村文角などが、墨繪の鍾馗を板にて摺たる目玉に、金箔置たるなどありし、〉續山井、繪にかくや目に見ゆる鬼かみのぼり、〈風鈴軒〉又色三線に手遊の幟賣あり、
p.1183 今世ノ飾リ鎧兜、其製金革ヲ用ヒズ、厚紙ヲ重子張リ、胴草摺小手脚當用レ之テ製造シ、或ハ切小ザ子ノ如ク、其他種々外見眞ノ甲冑ノ如ク、蠶ノ組糸ヲ以テ威レ之、紙張リ表ニ漆シ、或ハ黒ヌリ、又ハ鐵粉ヲ塗リ、所ニヨリ鉑ヲ押シ蒔繪ヲ描キ、金メツキノ銅具ヲ打テ精製ナルアリ、大サモ著用ニ足ルアリ、又ハ小形モアリ、粗製ハ紙張ノ表ニ、緋縮緬等ヲ張リ製スモアリ、
今日ノ飾具足、及ビ其他武器、摸造ノ諸物、總テ京坂ノ方花美精製ヲ用フ家多ク、江戸粗製多シ、上巳雛遊調度ハ反レ之、京坂甚粗也、
p.1183 五月四日 御甲の菖蒲、檜皮師進上之
p.1183 五日 今日、山城紀伊郡深草の里藤の森の祭に、大鎧を著して競馬あり、〈◯中略〉都
p.1184 端午圖【圖】
p.1185 端午圖【圖】
p.1186 鄙の童子、今日菖蒲のかぶと太刀をもてあそぶ事も、此祭をまなぶとなり、されば此事、むかしは厚き紙に人形をほり付、薄き板を胄の形にこしらへ、或菰の葉にて馬を作り、或木を鎗長刀のごとくけづりなどして戸外に立侍りしが、近年は風俗美巧をこのみて、木をもつて人馬の形をきざみ、又はりこにして綵色をほどこし、或甲胄をきせ、劒戟をもたせ、戰鬪の勢をなさしめて戸外にたて侍る、是をかぶとヽいふ、又紙旗にいろ〳〵の繪をかきて長竿につけ、是をも戸外にたて侍る、これをのぼりと云、或絹を用るもあり、或は長旒を加えて、是を吹ながしと云、朔日より五日まで、兒童の弄事とす、按ずるに、もろこしにもこれに似たる事侍り、歳時雜記にいたく、端午に都の人天師を畫て賣、又土にて天師を作り、艾を以て鬚とし、蒜を以て拳とし、門上に置、又艾を採、結んで人の形に作り、門戸の上にかくれば、毒氣をさくといへり、〈按ずるに、道家に、後漢の張陵を祖師として天師とす、〉
p.1186 謹勘二舊記一、當社三所天王者、神護景雲年中、山城國紀伊郡藤尾之靈地垂跡者也、人皇四十九代光仁天皇第二皇子早良親王、年來御崇敬異二于他一也、爰天應元年四月一日、超二御兄山部親王一〈◯桓武〉立二太子一、今年異國蒙古責來之由有二風聞一、以二立太子一爲二大將軍一、可レ有二退治一之由有二宣旨一、依レ之立太子大軍勝利事被レ祈二申當社一、同年五月五日、御出陣之處、大風吹而大海飜二波浪一、件蒙古不レ及二一戰一、悉以令二滅却一畢、以二此因縁一、毎年五月五日、祭禮神幸之時、在地之神人等、鎧二甲胄一帶二弓箭一列二騎馬一事、第一異國降伏之表示、第二天下泰平之瑞相、第三疫病消除之祈禱也、自レ爾以降、洛中洛外、至二邊土遠國一、小男童兒帶二作太刀刀等一、以二菖蒲一飾レ之、稱二菖蒲刀一、是則當社祭禮供奉行粧也、依二此等本縁一、以二當社一被レ奉レ號二弓兵政所一者也、
p.1186 民間歳節上 按、貝原氏歳時記曰、〈◯中略〉嗚呼貝原氏時、距レ今百餘年、風俗雖二已變一、古意未レ泯、余猶記、幼時市肆有下賣二紙脱甲冑一者上、至二近日一絶無二復有一焉、而今人馬木胎粉飾、以レ玉爲レ眼、衣服甲冑、鞍轡器械、皆錦綺繍繢、鈒花鍍金銀以飾レ之、金銀彩漆以髹レ之、其旗幟或有下用二綵緞繍帛一者上、而世不二
p.1187 以爲一レ侈矣、風俗之日嚮二淫靡一、有二若レ斯者一焉、官毎曉二示禁限一、以矯二其弊一、然而不二獨不一レ得レ復二菰馬紙人之朴一、欲レ如二貝原氏之時一、亦已難矣、
p.1187 五日 端五〈今日端五節、(中略)以二柳木一作二大小之刀一、是謂二菖蒲刀一、男子横二之於腰一著二頭巾一、傚二山伏體一、〉
p.1187 紙冑人 朔日ヨリ五日マデ、童ノ遊ニ紙ノ冑ヲ作リ、或ハ板ニテモコシラヘ、亦ハ張拔ノ人形ニ甲サセテ、弓箭ヲ持セテ、合戰ノ勢ヲナサシメテ、戸ノ外ニ立侍ル、是ヲ冑人ト云フ、亦紙ノ旗ニ色々ノ繪ヲ書、亦ハ絹ニテモコシラエテ、是ヲ竿ニツケテ同ク立侍ルナリ、是ヲノボリト云、
p.1187 飾兜〈けづり掛の冑〉菖蒲刀 幟 菖蒲人形〈冑人形〉 菖蒲刀は菖蒲を以て飾るゆゑの名也、〈和三〉菖蒲人形も又同じ、此人形は力士の形を摸して作れる多し、江戸にて元祿の頃までは、市中を賣ありきしにや、其角が、五月雨や傘に付たる小人形、などいふ發句あり、今は十軒店、人形町、その外便りよき街にて是を賣る也、但幟の吹流しにすといふ、ちひさなる紙製の鯉は、今も賣ありく也、
p.1187 五日 端五〈又重五〉 今日家々に飾、冑、菖蒲刀、および弓、鐵炮、鎗、長刀、幟等の武器、あるひは武將の人形を飾る、皆木偶師の細工物にして、眞の物に非ず、是を俗に男の節句といふて、專ら男兒の翫とす、男子は軍陣に出て、武威を逞して國郡を領するを功とす、故に出陣威勢の體をなして、武器をかざる、十一月始て一陽生ず、卦に在ては地雷復、夫より一月に一陽ヅヽ生じ、四月に至て純陽となり、五月に至り始て一陰生ず、卦に在ては天風姤なり、是陰氣陽に逆ひ、地を冐すの節、陰は叛逆の意にして、是を退治するの器を飾るならん歟、〈(中略)今月朔日より男兒ある家には幟を立、武者人形、及び諸の武器をかざり、又粽を製して、親族知己の方に贈て祝義とす、粽の製は次下に記す、初生の男子あれば、其親屬より諸武器を贈て壽とす、是にはかならず、銀箔をもつて飾たる頭巾を添る、四日より五日に至り、飾置る所の武者人形に、神酒并に粽を供じ奠レ之、然れ共神祭等の如き、崇敬し如在の禮を致せるにあらず、畢竟兒童の遊戲にして、三月雛祭と同じ、夜は灯燭を點じ、〉
p.1188 其體甚壯麗なり、又親戚懇意の人など來集し、宴を設け、其家兒の爲に詩を賦し、歌を詠じ、或は連俳等、夫々の賀辭を述、興來酒酣に及んでは、吹管彈絃など、時に臨んで盛なり、又下野國の方言に、此兜人形を志賀美人形といふ、
p.1188 四月廿五日 男子ある家には、大かた今日より五月六日迄のぼりを立る、
五月五日 端午御祝儀、〈◯中略〉貴賤佳節を祝す、〈(中略)武家は更なり、町家に至る迄、七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、冑人形等飾る、又坐鋪のぼりと號して、屋中へかざるは、近世の簡易也、紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也、出世の魚といへる諺により、男兒を祝するの意なるべし、たヾし東都の風俗なりといへり、初生の男ある家には、初の節句とて別て祝ふ、〉
p.1188 慶安元子年四月
一五月節句之甲、結構蒔繪梨子地金物糸類仕間敷候、縱何方より誂候共仕間敷候、御城様〈江〉上り申候甲は不レ苦候事、
一小旗之儀、絹布一圓仕間敷候、布木綿は不レ苦候事、
一いかにも麁相成人形貳ツ三ツ有レ之、かぶとは不レ苦候事、
四月
明暦二申年五月
一甲之事、結構ニ仕、商賣ニ仕間敷旨、例年先日も相觸候處、猥ニ有レ之由ニ候、此上結構成ル甲以下商賣仕候者は、家主共に急度可二申付一候、勿論結構成、甲小旗吹貫等立候事、堅可レ爲二停止一候、附り節句ニ人形多、あやつり、からくりなどいたし、人集仕まじく候、若違背候輩有レ之におゐては、當人は不レ及レ申、五人組共に曲事たるべし、
五月
寛文七未年十一月
覺〈◯中略〉p.1189 一五月持遊の甲、古への如く冠り候やうに拵、人形作り物可レ爲二無用一、但甲に立物は不レ苦候、總而結構に不レ可レ仕事、〈◯中略〉
十一月
p.1189 寛文八申年三月
覺〈◯中略〉
一金銀之から紙、破魔弓、羽子板、雛の道具、五月之甲、金銀之押箔、一圓ニ無用之事、〈◯中略〉
右之通江戸町中へ從二町奉行一相觸候間、可レ被レ得二其意一候、以上、
三月日
p.1189 寛文十二子年十二月
覺〈◯中略〉
一五月之兜、幟、鑓、長刀、脇差、結構ニ仕間敷候、尤大人形、からくり人形、一切不レ可レ立レ之、其外何ニ而も目に懸り候物可レ爲二無用一事、〈◯中略〉
十二月
p.1189 元祿十七年申年二月
覺〈◯中略〉
一はま弓、菖蒲甲、束帶之雛、并雛の道具、結構に仕間敷候、〈◯中略〉
右之通被二仰出一候間、急度可二相守一候、以上、
p.1189 享保六丑年四月
覺
一菖蒲甲、立物計箔置可レ申候事、p.1190 一鉢しころ何もすみぬりに可レ仕候、紋ゑがき候はヾ、たん、ごふん、ろくしやうにて、少し彩しき可レ申候事、 但織物類ニ而包申間敷事
一鑓、長刀、はく置申間敷候、其外塗彩しき、甲同様之事、 但人形可レ爲二無用一事
右獻上之菖蒲兜たりといふ共、此定より宜仕間敷候、是より麁相成は、只今迄用ひ來り候通たるべく候、以上、
四月
右之通先達而町奉行へ渡候間、此通可レ被二相心得一候、當年之儀は、町方より願之品有レ之、拵置候分は商賣仕候筈に候、誂候とても、一切定之外不レ成候、尤來年よりは、相觸候通急度可二相守一候、
p.1190 神田旅籠町名主中村氏書留抄書 丑〈◯享保六年〉四月十三日、ならや、 一菖蒲甲人形類之義、先達て御法度之趣被二仰付一候へども、當年は商賣御免之事、
p.1190 五月五日、所々より御かぶとの花、くす玉など、いろ〳〵におほくまいれり、
p.1190 五月〈◯建長四年〉五日につ〈◯此間恐有二脱文一〉女房たちに、しやうぶかぶとせさせ、花ども〈◯此間恐有二脱文一〉あやめのかつらかけば、けしきほどに、〈◯下略〉
p.1190 文安元年五月六日乙卯、傳聞、去朔日於二大炊御門烏丸邊一女房輿過候、童部等、あれは誰が御輿、大炊殿御輿とはやしけるを、共の男、童部の頭をはるまねして過候けるを、あとにさがりて共シタリケル男が、以外沈酔けるが、それと見て、件童部を様なく三刀さして過けり、〈◯中略〉件童部は八歳になりける、父已死、孤露也、菖蒲冑ノ刀ニテモ持タラバ、敵はとるべかりし物と云ケルト云云、
p.1190 文明二年正月五日、予謂都鄙之間、无レ眞无レ俗乘輿過、則四五歳小兒、必唱二阿禮和誰御輿大リヤウ殿御輿一、
p.1191 天文七年五月五日丁丑、若公様御菖蒲刀御太刀、貴殿御進上、中島仕レ之、
p.1191 甲申〈◯正保元年〉端午
端午登レ府、被二或達官誘導一、入二厨門庭一、縱觀二侯伯士大夫所レ獻木冑木長刀一、皆篆刻彩飾、以盡二華靡一、冑二百十七八刎、長刀六十柄許、又揚二白旗十五竿於石堞上一、風飄二長旒一、與二奇雲一共映二於遠處一焉云レ爾、於レ是登レ階入レ殿、任レ例若徒列坐、少焉禮畢退、今日春齋亦同登、
端午朝來黴雨晴、宮橋車馬做二群行一、艾人帶得菖蒲劒、結構平城傀儡棚、
p.1191 天和元辛酉年
菖蒲御甲之覺
一御甲作り也、三拾貳間、或は拾貳間、或は八間、筋金間銀、八幡座、まびさし、紺青緑青にて彩色、繪様あり、其外椎なり、或は桃なり、或頭なりに可レ仕事、
一御しころ五枚下り、總金革おどし、紫革、或赤革、花色之革、十五通すがけひし縫之板に、葵の御紋と鶴の丸の繪様有、上四枚は紺青緑青に而彩色、しころの裏は朱に可レ仕事、
一御前立物、丸之内に葵の御紋すかし、紺青緑青にて彩色、丸は金御紋之下にしかみあり、亦はくわがた、又は上り半月、其外わり立物、或後立物可レ仕事、
一御うけ裏、さや、ちりめん、羽二重之類可レ仕事、
一御忍び之緒、同前之事、
一御ひき廻しすが糸、白或は花色、或は赤色、或は黄色、或は金砂まぜ候而も可レ仕事、
一御面ぼう金、内朱、鬚すが糸白、よだれかね五枚下り、御しころ同前に可レ仕事、
一御置甲立、白木可レ仕事
以上p.1192 一金銀金具無用之事
一はぐま、しやぐま、こぐまの類無用之事、
一糸之類、おどしに遣申間敷事、
一うるし遣申間敷事
一御甲立、檜梅之外無用之事、
p.1192 寛政三年九月十三日、正室ニ男子誕生シ玉ヒ、上下擧テ歡抃限リナク、名ヲ太郞丸君ト稱シ奉リテ、乃チ保國公〈諱ハ定永〉是ナリ、同月二日侍妾中井氏ニモ、男子出生シ玉ヒシガ、次郞君ト名付玉ヒ、〈◯中略〉翌年五月初幟ノ祝式、旗、弓、鐵砲、長柄ノ槍ヲ飾リ玉フ、〈其數ノ多少ヲ以テ、嫡庶ノ等ヲ分チ、菖蒲兜ノ類ハ到來ニ任セテ並ベ立玉ヒ、旗ニ招キ付タレドモ、世ニ云ノボリトハ異ナレリ、後弓鐵砲長柄モ、誕生毎ニ新調スベシト定メラル、武器ヲ増シテ不虞ニ備フベキ賢慮ナリトゾ、〉
p.1192 五月幟、甚少なし、人形は所々にあり、
p.1192 初幟銘
鯉風を含て魚木にのぼり、劒鞘を出て鬼地をはしる、あがりかぶとの金箔は、延喜式の儉約をつたへ、淺香の沼の花がつみは、中將殿の歌枕にしく、頃は五月の初のぼり、紋のあやめもあざやかに、月ののぼりのごとく、日ののぼりのごとく、終南山の進士のごとく、柏もちの葉の茂がごとく、菖蒲刀のはかけずくずれず、猶竿竹の直なる道をたて、つけたるちヽをはづかしむる事なかれといふ、
p.1192 二十五日 今日より三都の木偶人店に、端午に飾る武者人形、菖蒲太刀、甲冑、鎗長刀、弓鐵炮の類を賣る、其箇所三月雛店に同じ、
p.1192 飾甲〈◯中略〉
今世飾幟飾兜ノ市、總テ雛市ト同ジ、京師ハ四條、大坂ハ御堂ノ前、江戸ハ十軒店、尾張町、麹町ニテp.1193 賣レ之、江戸ハ四月二十五日ヨリ中店ヲ構ヘ、又他賈ノ店ヲモ幟市トスルコト、雛市ト異ナルコトナシ、蓋三都トモ平日此類ヲ商フ店ハ、大略三月五六日限リ、雛ノ類ヲ藏ニシ、明年ヲ待テ賣レ之、三月六七日ヨリ、直ニ幟兜等五月物ヲ店ニ置テ賣レ之、
p.1193 四月〈廿七日より五月四日迄〉 甲人形賣 中橋 十間棚 尾張町壹丁目 淺草かや町 人形丁 神明前、此所に而賣なり、 五月〈三日より六日迄〉 江戸中、甲人形のぼり立、
p.1193 十軒店 本町と石町の間の大通をいふ、〈◯中略〉端午には、冑人形、菖蒲刀、こヽに市を立て、其賑ひをさ〳〵彌生の雛市におとらず、
p.1193 廿五日 今日より五月四日迄、冑人形、菖蒲刀、幟の市立、〈場所は三月の雛市に同じく、往還に小屋を構へ、甲冑、上り冑、幟旗挿物、馬印、菖蒲刀、鎗長刀、弓箭、鐵砲、偃月刀、其外和漢の兵器、鍾馗像、武將勇士の人形等を售ふ、夜にいたれば、燈燭にかヾやきてうるはしく、買人晝夜にたえず、 再刻の江戸總鹿子に云、通鹽町、昔は此町にて冑人形細工人多く、鹽町人形と號し、其製麁なり、價の賤を以、田舍人のもてはやしける、今はこの名をだに知る人稀なり云々、 此節より菖蒲刀、街を賣歩行、〉
◯按ズルニ、雛市ノ場所ハ、三月三日篇ニ載セタリ、
p.1193 せちは 五月にしくはなし、〈◯中略〉むらさきのかみにあふちの花、あをきかみにさうぶの葉、ほそうまきてひきゆひ、又白き紙をねにしてゆひたるもをかし、いとながきねなど、文のなかにいれなどしたる人どもなどもいとえんなる、返り事かヽんといひあはせ、かたらふどちは、見せあはせなどするおかし、人のむすめ、やんごとなき所々に御文きこえ給ふ人も、けふは心ことにぞなまめかしうおかしき、夕ぐれのほどに、郭公の名のりしたるも、すべておかしういみじ、
p.1193 永承六年五月五日、内裏に菖蒲の根合(○○○○○)有けり、此こと去る三月晦日、堪能の上達部ひとりふたり殿上人等をめして、弓の勝負ありけり、又鷄合も有けり、其勝負なきによりて、菖蒲の根をあはせて、勝負を决せられける也、
p.1193 五日 端五〈今日端五節、(中略)京俗毎二佳節一各食二赤小豆飯一、今日忌レ之不レ食、不レ知二其謂一、〉
p.1194 端午には、汁にふき、茗荷の子、小赤豆、細根大根にあぶら物、燒物には鹽さわらを用ふといふ、
p.1194 五月節句に、髮置の白髮やうのものを賣る、男の子へは、菖蒲刀を祝ひやり、女の子へは、其しらがやうのものをいはひ遣す、この名を玉つばきといふ、八千代といへるこヽろなるべし、
p.1194 六日 今日婦女子の佳節と稱して遊樂を事とすれども、未その據るところを知らず、