p.1304 八月十五夜ノ月ヲ賞スルコトハ、支那人ニ傚ヒシモノニテ、寛平延喜ノ頃ヨリ、之ヲ以テ高興ト爲シ、宴ヲ設ケ詩歌ヲ賦スルコト、漸ク盛ニシテ、後世ニ至ルマデ衰ヘズ、而シテ民間ニテハ、芋、團子等ヲ月ニ供シ、又互ニ贈遺スルヲ以テ例トス、
九月十三夜ノ月ヲ賞スルコトハ、醍醐天皇ノ時ヨリ起リ、爾後八月十五夜ト相對シ、並ニ此夜ヲ稱シ、以テ明月ノ夜トス、
p.1304 月見(ツキミ) 名月〈八月望夜〉
p.1304 つきみ 中秋十五夜は秋の最中なれば、至て清明なるをもて、倭漢ともに賞し來れり、
p.1304 十五日、中秋節、〈秋九十日、是日爲二中秋一、是夕月中レ天是正、乃太陰朝レ元、宜二守レ夜燒一レ香、〉三五夕、〈三五十五夜〉
p.1304 十五日、中秋といふ、秋九十日の最中なる故なり、〈◯中略〉今宵は秋の最中にて、殊に月を賞する故に、月夕とも、三五夕ともいふ、歌人騷客の晴を期する夕なり、林羅山野槌にいはく、今夜月を玩ぶ事、大かた李唐の世より盛にして、詩人文人其詠おほしといへども、古樂府に孀娥怨の曲あり、漢人の中秋の月なきによりて、此曲を作るとある時は、漢の世よりもある事にや、又
p.1305 もろこしには、今宵餅を製して、いろ〳〵の状に作り、月餅と號して相をくり、又月餅、西瓜等を食して、看月會をするよし、月令廣義にみへたり、
p.1305 中秋 中秋節前、諸店皆賣二新酒一、重新結二絡門面綵樓、花頭畫竿、酔仙錦旆一、市人爭飮、至二午未間一、家々無レ酒、拽二下望子一、是時螯蟹新出、石榴榲勃梨棗栗孛萄弄色棖橘皆新上レ市、中秋夜、貴家結二飾臺榭一、民間爭占二酒樓一翫レ月、絲管鼎沸、近二内庭一居民夜深遙聞二笙竿之聲一、宛若二雲外一、閭里兒童連宵嬉戲、夜市駢闐至二於通曉一、
p.1305 八月十五日、九月十三日は、婁宿也、此宿清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす、
p.1305 八月十五夜 八月十五夜の月を賞すること、島田忠臣の集にはじめて見えたり、その年記さだかならずといへども、齊衡三年詠史百四十六首を奉り、貞觀元年調三百六十首を奉れるよし、家集の自注に見えたれば、その時代大概しられたり、そののち貞觀六年八月十五日、菅原是善卿後漢書の竟宴せし時、聖廟の作られたる序に、滿月光暉咸陳二中庭之玉帛一とあれば、その宴夜に及びしこともしらる、〈本朝文粹〉また聖廟の八月十五夜、望月亭にて桂生三五夕といふことを賦させ給ひし時は、紀納言詩の序をかけり、〈同上〉大内にて賞し給ひしは、醍醐天皇の延喜九年なり、〈同上〉仙洞にて賞し給ひしは、寛平法皇の亭子院にて行はれし時、菅原淳茂の詩序かけるや〈同上〉はじめならん、歌は貫之、躬恒、素性法師などのをはじめともいふべきにや、〈貫之集、古今六帖、〉林道春は、古樂府の孀娥怨を引て、西土にては、漢の代よりもありしにやといひて、されど盛なりしは、李唐の代よりなりと〈野槌〉いへり、
p.1305 明月之得レ名者八月十五夜也、雖レ得二其名一、晴又希有也、今夜銀漢卷レ翳、金波鋪レ影、可レ謂二千載一遇一歟、難レ得易レ失時也、何可二默止一乎、褰レ箔登レ樓之興、聊欲レ追二前蹤一、詩客四五人、伶人兩三輩、不レ期而來會、是皆當世之好士也、只依レ遲二尊下之光臨一、豫空二座右一耳、抑恩慶之甚也、忝廻二花軒一、素懷可レ足、下若酒、上林
p.1306 菓、聊以儲レ之、乞莫レ嫌二下劣一、謹言、
八月十五日 兵庫頭
謹上源兵衞佐殿
p.1306 八月十五日御獻 是名月ノ御獻也、初獻、二獻ハ、自二男居一供レ之、又供二禮酒一、
p.1306 十五日、名月御さかづき、つねの御所にて參る、まづいも、次に茄子を供ず、なすびをとらせまし〳〵て、萩のはしにて穴をあけ、穴のうちを三反はしをとほされて、御手にもたる、御さかづき參りてのち、御前のをてつす、せいりやうでんのひさしに、かまへたる御座にて月を御覽あり、彼の茄子の穴より御覽じて御願あり、これらも專世俗に流布の事也、禁中には、いつの比よりはじまれることにか、
p.1306 十五日 名月和歌御會 芋ノ獻 甘酒 伊豫殿局ヨリ調進
p.1306 十五日、名月おこん、 九月十三日同事 初獻、さといも三計、かわらけに高盛、直に三方におく、常の御はしそへ、
二獻、小きなすび三計、かわらけに高盛にして、三方一ツに二ツを置、御はし、はぎのはし、なすびにはぎの御はしにて丸くあなをあけ、月の御覽のよしなり、
三獻、あまざけ、伊豫の局よりあがる、荷桶に入上ル、常のあまざけをひきこしてなり、御まへ〈江〉はてうしに入出ル、
p.1306 十五夜〈◯八月〉良辰とて、和漢兩朝いまもたへせぬ名におふて、天氣に任せ、詩歌管絃堂上御近臣を被レ召、内々之酒饌を被レ下、上達部も後免を蒙り、新月の情をのべ、風雅を口に嘯き、いと面しろき嘉會也、
p.1306 延喜九年閏八月十五日、夜、太上法皇〈◯宇多〉召二文人於亭子院一、令レ賦下月影浮二秋池一之詩上、
p.1307 八月十五夜、侍二亭子院一同賦三月影滿二秋池一、應二太上法皇〈◯宇多〉製一、 菅淳茂
洛陽城内、有二一離宮一、竹樹泉石如二仙洞一爾、蓋世之所レ謂亭子院焉、太上法皇雖下人二三密之道一出中萬乘之家上、猶未レ捨二此地風流一、以助二彼岸寂靜一、故今商飈半暮之秋、漢月正圓之夕、阿耨池淨、摩尼光浮、懸二鸞鏡於波心一、似二楊州之鑄出一、浸二冰綃於潭面一、如二泉室之織成一、况珠露萬點、倚二荷葉一而助二桂花一、玉沙數重、穿二魚衣一而宿二蟾影一、水月之相應、空觀自生、心目之不レ離、煩慮即滅、宜哉我后、偏命二斯遊一、既而其屬レ事者千萬種、其應レ製者八九人、俗物去而無レ來、囂塵絶而不レ起、詠歌一曲、奏二水閣之秋聲一、盃酌數行、促二華池之夜宴一、嗟呼天氣爽也、地形勝也、物色幽也、人心切也、筆不二毛擧一、聊記二口談一云レ爾謹序、
p.1307 延喜御時、八月十五夜月宴歌、 源公忠朝臣
いにしへもあらじとぞ思ふ秋の夜の月のためしはこよひなりけり
p.1307 寛治八年〈◯嘉保元年〉八月十四日、明夕爲二御覽月一、可レ有二乘船興一、著二布衣一可二參入一之由、從二鳥羽殿一〈◯白河上皇〉有レ召、 十五日、午時許候二大納言殿御車後一、參二入鳥羽殿一、〈◯中略〉殿上人船、頭中將國信朝臣四十人許、皆布衣、此外御隨身、副二小船一前行、先出二御船一有二御遊一、藤大納言拍子帥大納言、〈琵琶〉左大將、〈筝〉宰相中將、〈笛〉宗忠、〈笙〉有賢、〈和琴〉皇大后宮權大夫并政長朝臣付歌、先雙調、紀伊州、席田、鳥破急、平調、大平樂破、伊勢海、廻急、五常樂急、帥大納言朗詠、盤渉調、秋風樂三帖、青海波、蘇香急、各及二數反一、于レ時雲收二天末一、月明二池上一、絲竹之調興入二幽玄一、〈◯下略〉
p.1307 慶長八年八月十五日はるヽ、めい月の御さか月一こん參る、せいりやうでんへならしまして、月おがませらるヽ、女ゐんの御所より、まき、御てうし參る、
p.1307 康保三年八月十五夜、月宴せさせ給はんとて、清凉殿の御前に、みなかたわかちて前栽うゑさせたまふ、〈◯中略〉御遊ありて上達部おほくまゐり給て、御祿さま〴〵なり、
p.1307 康保三年閏八月十五日丙子、御座前兩壺分レ方、有二前栽合一、
p.1308 八月十五日 明月御祝參二於内儀一也、茄子きこしめさるヽ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調二進之一、 御いも、御かゆ、茄、大草調二進之一、
p.1308 八月 名月月見之御祝 金かわらけに而さヽげ奉る
p.1308 八月十五夜宴レ月
夜明如レ晝宴二嘉賓一、老兎寒蟾助二主人一、欲レ及二露晞一天向レ曙、未三曾投レ轄滯二銀輪一、
八月十五夜惜レ月
月好偏憐是夜深、三更到レ曉可レ分レ陰、爭教三天柱當二西崎一、礙二滯明光一不二肯沈一、
p.1308 八月十五夜宴、各言レ志探二一字一得レ亭、
隣レ月情多暗數レ蓂、逐レ光移レ座最西亭、若令下他夕如中今夜上、不レ惜明朝一莢零、
◯按ズルニ、田氏家集八月十五夜宴月ノ詩ノ下ニ、晩秋陪二右丞相開府一賜レ飮、于レ時美作獻二白鹿一、仍命賦二四韻一ト題セル詩アリ、美作國ヨリ白鹿ヲ獻ゼシハ、貞觀四年ノ事ニシテ、三代實録九月二十七日ノ條ニ見エタリ、以テ此詩ノ貞觀四年ニ係レルヲ知ルベシ、
p.1308 八月十五夜、嚴閣尚書授二後漢書一畢各詠レ史得二黄憲一、 菅贈大相國〈◯菅原道眞、中略、〉
貞觀六年甲申歳八月十五夜、訓説雲披、童蒙霧散、〈◯中略〉於レ是赤帝之史、倚二席於白帝之秋一、三千之徒、式宴二于三五之日一、嚴凉景氣、方酔二上界之烟霞一、滿月光暉、咸陣二中庭之玉帛一、數盃快飮、一曲高吟、不レ可三必趨二瑤池一、不レ可三必臨二梓澤一、
p.1308 八月十五夜、同賦二映レ池秋月明一、〈并序可レ注〉 善相公〈◯三善清行〉
八月十五夜者、秋之仲、月之望也、風驚二蕭索一、蒼天卷二其群翳一、雲收二蒙朧一、碧落晴而踈 、今夜初更銷レ暗、團月褰レ光、清景外徹、照二天地於冰壺一、浮彩傍散、變二都城於玉府一、長安十二衢、皆蹈二萬項之霜一、高宴千萬處、各得二一家之月一、斯乃良夜之美、足二愛玩一者也、况乎秋水澄徹、夜池平鋪、對二絳宵之明月一、倒二素光一而映レ波、玉鏡p.1309 沈レ景、與二止水一而可レ鑑、金波凝レ色、混二細浪一而難レ分、于レ時詩賦之客、筆硯得レ時、遇二幽閑之月夜一、取二縱容於池亭一、周遊忘レ歸、似二行瑤池之曲一、風情漸高、疑レ入二銀河之中一、所三以爲二佳會一也、與下夫魏夜徘徊、開二西園之敬愛一、晋月玲瓏、催二北堂之賞玩一者上、論二其風流一、足レ誇二在昔一也、嗟呼人之一遇、時不二再來一、盍下命以二篇章一述中其中情上云レ爾、
p.1309 八月十五夜、陪二菅師匠望月亭一、同賦三桂生二三五夕一、 紀納言〈◯序略〉
p.1309 經信卿太宰帥に任じて下向の時、八月十五夜に筑前國筵田驛につきたりけるに、天はれ月あきらかなるに、館の前に大きなる槻ありけり、枝葉ひろくさしおほひて、月をへだてければ、人をめしあつめて、たちまちに其木を切はらはせて、月にむかひて、夜もすがら琵琶をかきならして、心をすまして天あけぬれば、たヽれにけり、かヽるすき人も、今はなき世なりけり、
p.1309 大江朝綱家尼直二詩讀一語第二十七
今昔、村上天皇ノ御代ニ、大江朝綱ト云博士アリケリ、〈◯中略〉其朝綱ガ家ハ、二條ト京極トニナム有ケレバ、東ノ川原遙ニ見エ渡テ、月 ク見エケリ、而ルニ朝綱失テ後、數ノ年ヲ經テ、八月十五夜ノ月極ク明カリケルニ、文章ヲ好ム輩、十餘人伴ヒテ月ヲ翫バムガ爲ニ、去來故朝綱ノ二條ノ家ニ行カムト云テ、其家ニ行ニケリ、其家ヲ見レバ、舊ク荒テ人氣无シ、屋共モ皆倒傾テ、只煙屋許殘タルニ、此人々壞タル縁ニ居並テ、月ヲ興ジテ詩句ヲ詠ジケルニ、踏レ沙被レ練立二清秋一、月上二長安百尺樓一、ト云詩ハ、昔シ唐ニ云ケル人、八月十五夜ニ、月ヲ翫テ作レル詩也、其ヲ此人々詠ジケルニ、〈◯下略〉
p.1309 八月 同夜〈◯十五日〉月見 江府之諸人、三ツまたへ舟に而行、花火立、
p.1309 名月〈名高き月、けふの月、今宵の月、十五夜、三五夜、望月、月見、中秋、十五夜の月を玩ぶこと、中ごろより和漢みな然り、民間今日 を製し、同器に芋と枝豆とを盛り、并に神酒尾花を月に供し、或は互に相贈る、今の清人の説に、八月十五夜雨ふれば、來年元日快晴也、若十五夜晴るヽときは、元日雨ありといへるよし、或物に記したり、兩三年これをこヽろみるに、多くは違はず、〉 新月〈三五夜中新月色、白樂天詩、〉端正月〈事文類聚、今の人八月十五夜を以、良夜とするは誤也、書言古事に、良夜は深更なりとあり、しからば秋の夜にも〉
p.1310 〈限べからず、〉芋名月〈俗間、今日必芋と團子とを食ふ、故に芋名月の名あり、〉
p.1310 十五日 看月諸所賑へり〈家々團子、造酒、すヽきの花等月に供す、清光のくまなき、うかれ船を浮べて、月見をなす輩多し、〉 今夜吉原の賑ひ大方ならず、廓中のならひとして、遊女より馴染の客へ杯を送る事、寶永の頃角山口の太夫香久山より始りけるとぞ、又待宵既望ともに賑へり、 元祿の頃迄は、良夜に三派の月見とて、船にて大川へ出たのしめる事あり、此夜に限り官のゆるしを得て、花火をともしけるとなり、享保の頃にいたりては、此事少かりしよし、江戸砂子拾遺にいへり、中古迄は麻布六本木芋洗坂に、青物屋ありて、八月十五夜の前に市立て、芋を商ふ事夥かりし故、芋あらひ坂とよびけるなり、近來は坂上に市立り、
p.1310 月見には團子を製すること江戸と同じ、しかし汁烹にすることは稀なり、きなこ、又はあんを附て食ふ、芋を賞玩す、故に十五夜の月を賞して、芋名月といふ、
p.1310 八月十五夜、賞レ月俗ニ月見ト云、
三都トモニ今夜月ニ團子ヲ供ス、然レドモ京坂ト江戸ト大同小異アリ、江戸ニテハ圖〈◯圖略、下同、〉ノ如ク、机上中央ニ三方ニ團子數々ヲ盛リ、又花瓶ニ必ラズ芒ヲ挟テ供レ之、京坂ニテハ芒及ビ諸花トモニ供セズ、手習師家ニ此机ヲ携ヘ行キ、此引出シ、筆、硯、紙、手本等ヲ納メ、京坂ノ如ク別ニ文庫ヲ携ヘズ、京坂ニテモ机上三方ニ團子ヲ盛リ供スコト、江戸ニ似タリト云ドモ、其團子ノ形、圖ノ如ク小芋ノ形チニ尖ラス也、然モ豆粉ニ砂糖ヲ加ヘ、是ヲ衣トシ、又醤油煮ノ小芋トトモニ、三方ニ盛ルコト各十二個、閏月アル年ニハ十三個ヲ盛ルヲ普通トス、江戸ノ俗、今日若他ニ行テ酒食ヲ饗サルヽ歟、或ハ宿スコトアレバ、必ラズ九月十三日ニモ再行テ今日ノ如ク宿ス歟、或ハ酒食ヲ饗サルヽコトトスル人アリ、不レ爲レ之ヲ片月見ト云テ忌ムコトトス、俗諺ノ甚シキ也、片付身ト云コトヲ忌ナルベシ、此故ニ大略今日ハ他家ニ宿ラザルコトトス、p.1311 ◯
p.1311 後月宴(ノチノツキミ)〈九月十三夜〉
p.1311 九月十三夜 按、俗八月十五夜煮レ芋食、稱二芋名月一、今夜煮二莢豆一食、稱二豆名月一、
p.1311 九月十三夜 九月十三夜を賞することは、延喜十九年内裏にて、月の宴せさせ給ひしぞ始なるべき、〈躬恒集にみえたり、中右記には、寛平法皇の仰より、明月の夜とすとみえたり、〉然るを菅家の詩作よりといひ、又は天暦七年八月十五夜、先帝の御國忌をさけられしより、はじまるといへるは、みなあやまりなり、
p.1311 清凉殿の南のつまに、みかは水ながれいでたり、その前栽にさヽら河あり、延喜十九年九月十三日に賀せしめ給ふ、題に月にのりてさヽら水をもてあそぶ、詩歌心にまかす、
もヽ敷の大宮ながら八十島を見るこヽちする秋のよのつき〈◯又見二拾遺和歌集十七一〉
p.1311 弘賢曰、これ九月十三夜、賞月のはじめなるべし、これより前には所見なきにや、
p.1311 長承四年〈◯保延元年〉九月十三日、今夜雲淨月明、是寛平法皇、今夜明月無雙之由被二仰出一云々、仍我朝以二九月十三夜一爲二明月之夜一也、
p.1311 十三日、〈◯九月〉今夜は名殘の月とて眺賦せる事、異朝には例なし、和國にては後朱雀院いまだ潛龍の御時、樞要の公卿御發鬱之御爲にて、彼御所へ參上して御遊を催し、枝豆を供じて慰め奉る、其明の年御位に即玉ひしかば、御佳例と有て、明の年よりも九月十三夜の月をも、賞し詠させたまひける例とかや、
p.1311 十三夜 後の月、二夜の月、豆名月、栗名月、七十五代崇徳院保延元年九月十三日、今宵雲清く月明らか也、是むかし寛平法皇明月無雙のよし仰出さる、依て我朝九月十三夜を以
p.1312 明月の夜とす、〈中右記〉今夜の月を翫ぶや、無題詩に載る所の藤原忠通公の詩、證とするに足れり、菅家の作の如き、配所に在て、たま〳〵九月十五日の月を詠じ給ひし也、後人妄りに五の字を以三となし、證とするものあり、或は兼好が婁宿の説の如き、又信とするに足らず、亦建仁寺三益和尚十三夜の詩の序に、延喜の御時始まると記せり、はたこよひの月は、唐山にも賞すると見えて、明の十二家詩に、鄭少谷、何大復が詩あり、本朝の俗、九月十三日を豆名月と稱し、又栗名月と名づく、是栗を以節物とし、或は を製し、莢豆を烹てこれを食ふ、こヽをもて名づく、又俗間今宵必芋子を食ふ、その芋子外皮を除ずしてこれを烹る、この芋を呼て衣かつぎといふ、後の月は八月十五夜を前とし、九月十三夜を後とするの稱、二夜の月は、中秋、季秋、兩夜月を賞する故にいふ也、
p.1312 十三夜 九月十三夜は、婁宿にあたれるによりて晴明なるよし、つれ〴〵草に書たれどさにはあらず、たヾ何となく、寛平の帝、九月十三夜のこよなう晴明なりし年、興じさせ給ひて、仰られし事よりおこれり、〈◯中略〉勅撰に十三夜と出たるは、拾遺集がはじめなり、
p.1312 兼好云、八月十五日、九月十三日、皆婁宿也、以二此宿清明一翫レ月以爲二良夜一、斯古人之所二以未發一歟、將有レ所レ據焉歟、婁宿金氣與二月之水氣一相和、以特清明、此説頗似レ有レ理矣、然仲秋之月、史傳論二星宿一者未二之有一レ所レ見焉、且賞二九月十三夜一者、獨我方之事、而基二乎寛平法皇一、然是其當時特以二此夜清光可一レ愛也、謂二其星宿一者則未二之有一也、或資二乎菅相公宰府詩一、以爲二十三夜之濫觴一者、固不レ是也、
p.1312 我方賞二九月十三夜一、蓋初二於寛平中一、而其來久矣、而明十二家詩、鄭少谷、何大復、有二九月十三夜詩一、此必我方之事、傳以傚二乎彼一爾、
p.1312 九月十三日御獻 是名月ノ御獻也、八月十五夜ノ如二御獻一、
p.1312 十三日 名月和歌御會 芋之獻 甘酒 伊豫殿ヨリ上ル
p.1312 東三條院關白太政大臣、〈◯藤原兼家〉九月十三夜の月に、東北院の念佛に參給へる
p.1313 に、夜もうちふけて、世の中もしづかなるほどに、齊信民部卿をめして、今宵たヾにはいかヾやまん、朗詠有なんやと仰られければ、いとかしこまりて、しばし煩ふけしきなるを、人々耳をそばだてヽ、いかなる句をか詠ぜんずらんと待程に、極樂の尊を念ずる事一夜とうちいだしたりける、たぐひなくめでたかりけり、此句かきたる齊名、やがて御供にさぶらひけり、我句をしもさばかりの人の朗詠にせられたりける、いかばかり心の中のすヾしかりけん、此句は、勸學會の時、攝念山林を賦する序なり、
念二極樂之尊一一夜、山月正圓、 先二句曲之會一三朝、洞花欲レ落、
これは三月十五夜の事なり、九月十三夜に詠ぜられける、いかにとおぼゆ、但念佛の義ばかりにとれるにや、古人の所作、仰而可レ信歟、
p.1313 賀陽院におはしましける時、いしたて瀧おとしなどして、御らんじける頃、九月十三夜になりければ、 後冷泉院御製
岩まよりながるヽ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき
p.1313 九月十三夜翫月 法性寺入道殿下
閑窓寂々月相臨、從レ屬二窮秋一望叵レ禁、潘室昔蹤凌レ雪訪、蒋家舊徑蹈レ霜尋、十三夜影勝二於古一、數百年光不レ若レ今、猶憑二前軒一廻レ首見、清明此夕價千金、
星河皎々月蒼々、從レ屬二窮秋一最斷膓、訪レ古無レ如二今夜影一、經レ年豈忘二此時光一、洛中各領二吾家雪一、塞外定疑萬里霜、起倚二前軒一廻レ首立、金波朣朗足二相望一、
p.1313 平氏九月十三夜歌讀事
九月〈◯壽永二年〉十三夜ニ成ヌ、今夜ハ名ヲ得タル月也、秋モ末成行バ、稻葉ヲ照ス電ノ、有カ無カモ定ナク、荻ノ上風身ニシミテ、萩ノ下露袖濡ス、海士ノ篷屋ニ立煙、雲井ニ昇面影、葦間ヲ分テ漕船ノ、p.1314 波路遥ニ幽也、十市ノ里ニ搗砧、旅寢ノ夢ヲ覺シケリ、ヨハリ行蟲音、吹シホル風ノ音、何事ニ付テモ、藻ニスム蟲ノ風情シテ、我カラ音ヲゾナカレケル、更行秋ノ哀サハ、何國モト云ナガラ、旅ノ空コソ悲ケレ、冷行月ニアクガレテ各心ヲ澄シツヽ、歌ヲヨミ連歌セラレケルニモ、都ノ戀シサアナガチ也、會紙ヲ勸メケルニ、寄レ月戀ト云題ニテ、薩摩守忠度、
月ヲ見シコゾノコヨヒノ友ノミヤ都ニ我ヲ思ヒ出ラン〈◯中略〉各加様ニ思ツヾケ給ヒテモ、互ニ御目ヲ見合テ、直垂ノ袖ヲゾ絞ラレケル、
p.1314 建保六年九月十三日辛巳、明月夜、御所和歌御會也、一條羽林、李部已下好士七八輩、被レ候二其座一、
p.1314 九月十三日 明月御祝參二於内儀一也、茄きこしめさるヽ、御祝調進儀、八月十五日同、
p.1314 九月 同夜〈◯十三日〉 月見舟遊山
p.1314 十三日 看月〈後の月宴といふ、衣被、〈かはむかぬいも〉栗、枝豆、すヽきの花等月に供ず、船中月見多し、〉
p.1314 十三夜には團子を製することなし、うで豆一式を多く調へ置て、家内下女、下男迄に、多く是を食はしむ、故に十三夜の月を、市中にて豆名月といふ、