https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 嘉祥ハ、カジヤウト云フ、又嘉定ノ字ヲ用ヰル、六月十六日ヲ以テ之ヲ行フ、其例ハ朝廷ニテハ、七種ノ菓子ヲ用ヰ、幕府ニテハ十六種ノ菓子ヲ用ヰル、民間ニテモ錢十六文、米一升六合ヲ以テ物ヲ買ヒ食ヲ調ヘ、又ハ錢十六文ヲ以テ直ニ食物ヲ買フ、

名稱

〔書言字考節用集〕

〈二時候〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 嘉祥(カジヤウ)〈傳云、仁明帝朝、承和十五六月、豐後國獻白龜、故朝廷設宴、改元於嘉祥、是濫觴、〉嘉定(カヂヤウ)〈傳云、後嵯峨帝潛龍時、以宋嘉定錢十六文、此日適有饌供之義、踐祚後猶用其式、是權輿、〉

〔倭訓栞〕

〈前編六加〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 かじやう 六月十六日の儀式也、仁明帝の時より事起りて、年號の嘉祥も同じきよし、鴨長明が四季物語に見えたり、後嵯峨帝の時、嘉定通寳の錢の事いへる説も侍り、されど嘉祥は宋寧宗の年號、後嵯峨帝の踐祚よりは、わづか二十年前の事也といへり、禁中にてかつうともいへり、よて嘉通とも書り、實は納凉會成べし、

〔世諺問答〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 六月 とふていわく、嘉定と申事は何のゆへぞや、 答、この事はさらに本説ありがたきことにや、たヾかの錢の銘に、かぢやう通寳と侍れば、勝と云みやうぜんを、しやうくわんするよしをぞ承をよび侍りし、

〔日本歳時記〕

〈四六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1202 十六日、此日かじやうといふ事あり、歌林四季物語にいはく、かじやうは嘉祥とかきて、仁明のすべらぎ、承和の比ほひに、御代のさか行ことをいのらせおはして、賀茂上の御やしろにたてまつりて、御はらひなどなしそめ給ひたまへり、六月十日あまり六日なん、吉日なるよし、御うらの人々かうがへ申せばとて、その日おこなはれ、年號をもあらためて、嘉祥とものせ

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 しかば、ながく此事嘉祥と、ねんがうによりて、さだめられしと、當社縣主賀茂の道幹が日記に侍る、又羅山子の説には、近比世俗に云傳るは、室町家大樹の時に、六月納凉のあそびのために、楊弓を射てかけものとし、負たるもの嘉定錢十六文を出して、食物を買て、かちたるものをもてなすなり、嘉定は宋の寧宗の年號にて、十七年あり、其年毎に鑄たる錢に、元年より十六年までのしるしあるを、十六錢あつめて、今日一人ごとのもてなしものヽ代に定むるなり、右の本説たしかならざれども、ならはし來ることかくのごとし、 今按ずるに、四季物語の説にしたがへば、そのよつて來る事、誠に久しき事になん侍る、されども延喜式、江家次第、公事根源、年中行事などにも見えず、まして國史にもしるさヾれば、いぶかしき事にこそ覺え侍れ、羅山子の説のごとく、ちかき世よりの事なるにや、猶本朝の故實にくはしからん人を待のみ、

〔改正月令博物筌〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 十六日 嘉祥祝〈嘉定飡、嘉定錢、かつう、仁明帝の時、豐後國より白龜を奉る、吉兆として年號を嘉祥と改む、一説に同帝の時、御代の榮を、賀茂に祈らせ給ふ、今日吉日也とて御祓あり、年號嘉定と改るとあれども、實記見えず、一説には室町家の納凉の遊に楊弓を射て、負たるもの嘉定錢十六文を出す、嘉定は宋の年號十七年まで、毎年錢を鑄さしめ、年毎にしるしあり、此元年よりの錢十六文を用ひしと也、〉

〔輪池叢書〕

〈六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1203 嘉定 嘉定、何代より起るといふこと未詳、或は平城天皇の大同中よりといひ、或は仁明天皇嘉祥元年よりといひ、又は後嵯峨院御宇よりともいひ、一説には、室町殿の御時よりともいひ、一説には、元和元年大阪事終りて、京師へ入せられ、初ての賀儀なりともいへり、諸説區々にて一决しがたく、かつは妄説信じがたし、其うち室町殿の御時よりと云説を信ずべきにや、道春先生曰、近代俗云傳ふるは、室町家の時、六月納凉の遊興あり、楊弓射負たる者、嘉定錢十六文を出して食物に代て、勝たる者をもてなすに始れり云々、本説たしかならざる事也、弘賢謹按ずるに、本説たしかならずといへども、是を以據とすべき也、其ゆへは慈照院殿御代年中行事、ならびに申次記、及享祿三年以前の年中出御對面の記、其他此時代の諸書に所見なくして、蜷川親俊の

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1204 天文日記には毎年記せり、此日記殘缺三册あり、天文八年六月十六日、嘉定イリコノフトニと書し、十一年には、嘉定如恒例之と記せり、しかのみならず、御湯殿上日記に、天文二十年六月十六日、長はしよりとし〴〵のごとく、かつうまいるとみえ、後圓明寺關白〈兼冬公〉の世諺問答に〈〇中略〉みえたり、是も天文十三年の作なれば、此三書を以、道春先生の説を徴すべきにや、文安の下學集、壒囊抄、塵添壒囊抄の類には、所見なき事なれば、慈照院殿御代よりは後、天文よりは前に始りし事なるべき也、凡今の御代は、萬の事室町の式を用ひさせ給へば、かたのごとくさる例をおはせ給ひしなるべし、或問曰、禁裏にも此事ありといふは誠にや、其式などはいかやうなるにや、答曰、當時年中行事〈後水尾院御製〉に見えたり、〈〇中略〉清閑寺大納言熙房卿説云、御内々ノ諸家へ料進被下、〈諸家陪臣於御臺所請取、白米三斗宛ノ由也、〉以彼料心次第菓子等進調、兼日銘々紙ニ裹ミ、御前ヘ持出被服之、〈大納言以下到殿上人〉其後謠三曲等ト有之、〈第一大納言獻之〉古ハ御酒ヲ持出飮レタルモ有之也、此儀何頃ヨリ始リタルヤ不分明由云々、又女房私記、異本當時年中行事等にもみえたり、然れども内々の御儀なれば、柳原年中行事には記さず、ふるき年中行事には、まして所見なきことなれば、もしは武家の習をうつされしもしるべからず、問曰、武家の式、室町の御時の親俊日記にみえたるおもむきにや、今のごとく八種と定まりて、嚴重に行はるヽは、いつの比よりぞや、答曰、くはしくしりがたし、但し駿府政事録慶長十七年六月十六日、嘉定如例云々、珍菓、嘉肴、片木ニ如山積之、所候之輩頂戴之と見えたれば、此比より今のごとくの品々にて有けるにや、

朝廷嘉祥

〔故實拾要〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1204 六月十六日嘉祥 是親王以下諸家中ニ御祝ノ物ヲ玉フ也、多クハ御菓子也、但於院中黒米等ヲモ玉フ也、

〔後水尾院當時年中行事〕

〈上六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1204 十六日、兼日おの〳〵嘉定をたぶ、院、女院などへは勿論參る、御所御所攝家方門跡方、その外人々時宜によりてたぶ、定たるやうなし、つねにならします方にて、嘉定

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 何にても七種とりならべて、御前に供ず、親王御同宿のとき、女御などあるときは御相伴なり、御前を撤して後、女中御かつうを持參して、御前にて給る、今日は女中の衣しやう、すヾしのうらのねりに、こしまきをする也、こしまきはねりにても、まろすヾしにても、おもひ〳〵なり、内々の男衆は、兼日長はしより、ふれ催して參る、常の御所の南面をとり放て、ひさしと申の口との間に、翠簾をかけわたして、女中見物の所とす、男衆おもひ〳〵にかつうを持參してすのこに候ず、公卿一列、殿上人は、公卿の後に又一列也、上段の南のはしに、しとねばかりを、しかせおはしまして御見物也、とり〴〵かつうを給はる、事はてヽ下臈よりしりぞく、更に各すヽみ出て、元の座につく、六位の藏人てうしに肴の臺などもて出て、御とほしあり、五ど土器などいでヽ、うたひなどうたふ、毎度ゑひ過たるもの多くしてにぎはし、

〔洞中年中行事〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 十六日嘉祥御盃の事如常、女房言にかつうと云は、嘉祥通寶の中りやくしての事也、

〔禁中年中行事〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 十六日 御嘉通 〈院中攝家親王門跡御連枝方、内々公家衆女中方御内上下〈江〉被下、〉

〔禁中近代年中行事〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1205 十六日 嘉定、女中ことばにかつうといふ、
晝すいせん上ル、葛切の事なり、銀のはちに入ル、三方に銀の大ざら七寸程の銀のちよくに、しやうゆの汁入ル、銀のすくひ有、ゆのこすくひなり、御はし有 次に七かじやう むくぐわし七色、あいのかわらけ七ツに入、七色の内うづら餅有、うづらの鳥のごとし、親王法親王方へ大まんぢう被下、さし渡し五六寸ほど、是をたいぶまんぢうといふ、親王方女中方より、いろ〳〵の蒸ぐわし獻上なり、 攝家、親王、清華、諸家の堂上、御内の地下の北斗迄に、くろ米壹升六合已下、此米を一條どほりの二口屋といふくわしやへ遣し、米壹升六合相應のむしぐわしをとり、堂上方此くわしを御所へ持參してまゐる也、

〔禁中恒例年中行事〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 十六日 嘉定 是は七嘉定とてむかし菓子七色清所より上る、黒米一升六合宛、錫盛にもりて、院中親王門跡方、堂上方所々〈江〉御祝儀下さるヽ也、

〔御湯殿の上の日記〕

〈慶長八年六月十六日、かつう、女ゐんの御所、女御の御かた、宮の御かた、大御ちの人より參る、この御所よりも、いつものごとく女ゐんの御所、御所々々、女中、おとこたち、下々までたぶ、おとこたちしこうなり、のち、だいの物いでヽ、くもじ參る、御ひし〳〵也、めでたし〳〵、〉

〔時慶卿記〕

〈慶長八年六月十五日、明日嘉通ノ御觸アリ、かしこまりてうけ給候ぬと申入、 十六日、公宴へ所勞御理申入、不參、但嘉定ノ料ヲバ給、嘉定進上ノ所々別ニ記、女院御所、同女御殿へ、饅頭一ヅヽ、御袋へ初而進入、金團、大聖寺殿、同女院御所之衆別ニ記、大聖寺殿衆同、予ハ食不成故ニ、少祝計也、多阿、御城、孝臧主内衆不殘遣、 九年六月十六日、嘉通如例、女院御所、女御殿、大聖寺殿、御袋へ進上候、此方ヘモ女御殿ヨリ、少納言兩人ニ給、御所ニハ、將軍〈〇徳川家康〉御參内ノ有増ニテ、嘉通無之、女院御所ヨリ、嘉通三人ニ給、予ニハ御酒ナリ、則半分飮、其儘酔臥、 十年六月十五日、明日嘉通ノ料ヲ、女御殿ヨリ拜領、少納言ヘモ初而給、 十六日、嘉通如例、御所々々其外下々ヘモ、調合飯籠鮓五切ヅヽ、女院御所、女御殿、大聖寺殿、政所殿ヘ進上、其外ハ金團也、但砂糖ハ當時忌ミ物ニテ不加、女院御所ヨリハ、御酒、内儀へ鮎鮓五ケ、金丸ヘ串鮑認テ給、御所ノ御嘉定ハ各不召、如何可之、去年ハ料ヲ給處、當年ハ各モ無其沙汰ト云々、〉

〔大江俊矩公私雜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1206 文化三年六月十六日壬辰、嘉祥御盃、巳刻參勤、助功、常顯、俊常等四人相揃後屆議奏卿包物各持參、互相振廻如例、〈〇中略〉今日持參包物、如近年黄青白饅頭十六也、
文政十一年六月十三日辛巳、嘉祥御盃長橋回文到來、如例加奉返却、留在往來、 嘉祥米申出〈山本和門印形持參〉差遣、如例年拜領了、 十六日甲申、嘉祥御盃巳刻參朝、一臈三臈四臈同之、相揃ト屆議奏卿、〈當番園池〉包菓子持參、相振廻如例、 一午半刻過御催、未刻過有召、公卿三人、鷲尾前大納言、勘解由小路宰

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1207 相、廣橋左大辨宰相、殿上人八人、公連朝臣、爲國朝臣、雅壽朝臣、光宙、大江俊常、〈予、〉丹波頼永、源常保等也、各包物持參、如形開之喰了、直自下臈退入、此時有出御、女房出座如例、議奏各出座也、入御之後、公卿以下再參候、御盃之儀如例、初獻巡流、二獻俊常取酌、〈替酌予〉二獻小掛、三獻酌俊常、加〈予〉、肴頼永、常保舁之、萬事如例了、未半刻頃各退出了、

〔憲法類編〕

〈二十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1207 嘉祥米并玄猪御祝ノ事
第三百廿一 戊辰〈〇明治元年〉六月三日
來ル十六日嘉祥ニ付、從當年嘉祥米被下候間、來ル十二日十三日巳刻ヨリ未刻迄、會計官へ申出可之候事、 但他國在勤之向ヘハ不下候事、
第三百廿二 己巳〈〇明治二年〉六月 日辨事達
今後嘉祥米、官中之輩ヘハ不下候間、此段爲心得相達候事、

幕府嘉祥

〔武徳編年集成〕

〈四十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1207 慶長三年六月十六日、夜ニ入嘉祥ノ祝アリ、秀吉ハ上段褥ノ上ニ蒲團ヲ布テ著座、秀頼其傍ニ侍座セラル、其下段中央ニ、片木ニ色々ノ菓子ヲ積ンデ並ベ置、此席ヘハ、中老、五奉行、近習ノミ出座シテ是ヲ頂戴ス、其餘毎席如是ノ品々ノ菓子積ミ置、官職ノ高下ニ依テ其席ヲ異ニシ、皆菓子ヲ得テ退クコト恒例ノ如シ、秀吉、中老、奉行ニ向テ曰、吾願フ處ハ、秀頼十五歳ニ及バヾ、海内ノ政ヲ讓ント欲スルコト日アリ、渠天下ヲ管領シ、此嘉儀ヲ成スコトヲ見バ、吾本懷タラン、吾命既ニ以竭ントス、遺恨少ナカラズトテ落涙アリ、伺候ノ輩涕泣シテ退ク、

〔幕朝故事談〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1207 諸侯 御嘉定の御菓子十六色なり、一品宛へぎ板に載て、御前に並置なり、御嘉定の御祝儀申上候て、御老中方、大暑の節故、入御被遊寛々頂戴可仕旨被仰渡、御簾なり、四品以上は三人宛進て頂戴、帝鑑の間衆は五人宛進て頂戴す、布衣以上の御役人迄なり、其以前に中奧御小姓衆、御給仕の習禮あり、進物番の習禮あり、其後初て出勤の大名、習禮稽古す、

〔嘉定私記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1208 嘉定之御規式被仰出候、慶長年中之頃〈與〉申傳候、其以前嘉定御祝儀候義之初者、元龜三年、味方原御合戰之時、羽入八幡にて嘉定錢、裏に十六〈與〉鑄附たるを被御拾、御利運被思召候、折節先祖大久保藤五郞、六種の御菓子奉獻候處、時節能奉差上、直ニ御軍勢へも被下、此度之御陣御勝利不疑との上意有之候、此砌藤五郞未鐵砲疵に而歩行難相成上和田ニ罷在、右御菓子調製仕、仙水清左衞門、熊井五郞左衞門差添、御陣中へ奉差上候處、御陣勢へ被下之旨被仰出、御目通におゐて長持之蓋へ菓子等盛之候、且嘉定御祝之儀者、聖武帝之御時、嘉定錢珍菓を以、御祝有之事被思召、嘉定御祝儀可仰出候處へ、嘉定錢并六種之菓子一時に御手に入、御機嫌ニ被思召候旨蒙上意、右御例に而嘉定渡ニ盛奉獻上、御時服拜領仕來候處、御祝六月十六日御規式〈與〉被仰出候節より、銘々白片木へ盛、饅頭、羊羹、鶉やき之外、三種者寄水、金飩、あこや〈與〉可相唱旨被仰付、此節より御用多ニ相成、御代銀被下置、右者此度御尋御座候ニ付、代々申傳候を以奉申上候、以上、
  文化六巳年七月十日       大久保主水

〔殿居囊〕

〈武家年中行事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1208 六月十六日、五時染帷子長、嘉祥御祝儀、萬石以上、同嫡子、高家、交代寄合、無官之面々、雁之間詰、御奏者、菊之間御縁頰詰、同嫡子共、諸番頭、諸物頭、御三卿家老、諸役人、御番方、五百石以上之寄合、御留守居子共、大番頭子共、御醫師御同朋迄出仕、御菓子頂戴、御三家方出仕無之ニ付、使者差出伺御機嫌之、

〔徳川年中行事〕

〈六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1208 十六日
一嘉定御祝儀在
一出仕之面々染帷子長袴著用之、表向五半時各登城、
一御三家方、同嫡子方、松平加賀守、松平左兵衞督ハ登城無之、
  〈但松平加賀守、同嫡子、部屋住之内ハ登城、大廣間ニ著座、御祝頂戴之在之、家督ニ而者登城無〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1209之、〉
一辰中刻西詰橋通大納言様御本丸〈江〉被成、御禮過而被還御
一辰下刻大廣間公方様大納言様出御〈長袴〉 御先立 月番老中 公方様 御刀 御小性 大納言様御刀 御小性 御中段御著座〈御褥 御刀掛〉
一月番之老中ハ、二之間御縁頰二本目御柱際著座、
一老中之内壹人、二之間北之御襖障子之方一本目御柱際ニ著座、
一溜詰外之老中、西丸共三之間御縁通、衝立之内氈之上ニ列居、
一御奏者番者同所、老中之向通板縁伺公、
  〈但京都諸司代、大阪御城代、在府之節者、老中之次ニ著座、〉
一御禮著座之次第 侍從已上(國持御連枝方)
右壹人宛出席於懸椽御目見、直ニ御向ニ著座、此節 御熨斗餅〈御三方 御給仕〉兩御番頭 御菓子〈御三方より三ツ〉 右同斷 右順ニ持出之御前、著座之面々〈江も〉御菓子出之、給仕進物番役御前〈江〉被上之、何も頂戴之、御熨斗より之御菓子引之、著座之面々御菓子持之、末座より退座畢る、
一月番且著座之老中之内、此兩人著座を立、三之間御縁通衝立之内、外之老中列著座、何も書面之通出席、御菓子頂戴之、畢而傍座、 但二之間北之方御襖障子際著座、壹人者御菓子頂戴之後、最初通著座、 溜詰 老中 在府之節京都諸司代 松平大和守 御譜代侍從 高家〈但少將者其席順々著座〉 表向四品 御側御用人 在府之節大阪御城代 右四品以上之分者、官位隨前後順々壹人ヅヽ出座、 右不殘頂戴相濟而、月番老中御下段御敷居際ニ著座、四品之面々迄御祝頂戴相濟候段、言上之時は、暑氣之節候故、不殘頂戴相濟迄者御著座不遊、御目見被仰付之旨、其段出仕之面々〈江〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1210申渡旨上意有之、老中退座、四之間御敷居際ニ老中著座、上意之趣一同出仕之面々〈江〉傳達之、過而二之間御菓子在之邊迄、公方様、大納言様御一同出御、御次伺公之面々、一同御目見相濟而入御、〈〇中略〉
一西丸之面々准御本丸罷出、右之通不殘御菓子頂戴之
  〈但頂戴之面々退座之節、三之間末掛椽より薄縁通、御白書院御番所前へ退散、〉
一御側御用人、若年寄、中大廣間、三之間、北御襖際ニ列居、出御之内西御椽御納戸構、御側衆并奧向之面々伺公、御納戸構後御使番兩人勤仕、
一不殘御菓子頂戴之、相濟而出仕之面々退出、畢而大廣間二之間懸椽南方老中列座、次御奏者番、芙蓉之間御役人、小普請奉行、御目付迄順々御車寄之方迄列居、御祝儀之御菓子、且素麺御酒被下頂戴之
  〈但老中給仕者御同朋勤之、其餘表坊主勤之、〉
一御三家方、同嫡子方、當日御祝儀、御表〈江〉就入御、爲御機嫌、使者被出之、於躑躅之間月番老中
一今朝出御已前より大廣間二之間より東方迄、御菓子順々並置之、 一熨斗もち 數貳拾壹宛 一饅頭 三宛 一羊羹 五宛 一鶉餅 同 一よりみつ 三十宛〈しんこ黄白〉 一あこや 廿一宛〈いたヾき白〉 一きんとん 三十宛、白團子也、〈青豆粉黒ごま付〉 一ふ 五宛 右八品、一品宛枌ニ檜葉敷之、其上ニ右御菓子盛之、南北〈江〉貳拾六通リ、東西〈江〉六十九通、都合千七百九十四膳置之、
一御城中御門ニ出御、道具餝之、與力染帷子麻上下、同心對之羽織著之勤仕、 塀重御門、御先手御弓頭一組、 中之御門、同斷御鐵炮頭一組、 御臺所前、右同斷一組、 右之通加番勤之、御玄關前中之被筵敷一レ之、

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 一老中退出已後平服
一西丸當番詰番之面々、西丸於席々御菓子、

〔要筐辨志〕

〈一年中行事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 同〈〇六月〉十六日
一嘉祥爲御祝儀、辰刻前出仕、染帷子長袴、
一國主、御連子方、溜詰、御譜代大名、并外様大名、嫡子とも、高家、交代寄合、無官之面々、雁之間詰、御奏者番、菊之間御縁頰詰、同嫡子共、諸番頭、諸物頭、御三卿御家老、諸役人御番方、五百石以上之寄合、御側、御留守居子共、大御番頭子共、御醫師、御同朋迄出仕、御菓子頂戴之、
御三家様御出仕無之、加賀守越前守も同じ、

〔嘉定私記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 御菓子總數千六百拾貳膳 木地片木杉之葉鋪
一饅頭三盛、百九十六膳、總數五百八十八、 一羊羹五切盛、百九十四膳、同九百七十切、 一鶉燒五盛、二百八膳、同千四拾、 一阿古屋拾二盛、二百八膳、同二千四百九拾六、 一金飩拾五盛、二百八膳、同三千百五拾、一寄水三拾盛、二百八膳、同六千二百四拾、一平麸五盛、百九十四膳、同九百七拾、 一熨斗二拾五筋盛、百九十六膳、同四千九百筋、 右並場所 大廣間二の間下の方、〈竪二拾七膳、横二拾六膳、〉同所三の間上の方、〈竪三拾五膳、横二拾六膳、〉 前日御退出後並置申候 夜中火笠掛燭臺六本 但張番附居申候 右之外 一切麥素麪御酒詰錫陶其外共、當朝相廻、

〔幕朝年中行事歌合〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 二十番 右 嘉祥
千代の數敷ならべつヽもろ人の手にまかせたるけふの賜もの
嘉祥は室町の頃より初りしにや有らむ、當家にては代々の佳例となれり、六月十六日兩御所大廣間に渡御有、二三の間にかけて、菓子ひとくさづヽ折敷にもりて並べおく、其數二ちヾばかりもやあらん、此日兩御所には大廣間の中段におはします、松の間の中少將侍從の面々一

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 人づヽ出て、板縁に著座あれば、打蚫菓子を御まへに進め、相伴の輩にも出す、各折敷もちてまかづ、夫より譜代の中少將侍從四位の人々ひとり〳〵出て、折敷を持てしぞく、此間暑によりて入御あるの旨を、宿老より列座の面々に傳ふ、二間まで渡御有てのち入御あり、譜代外様の大小名、百の司々番士同朋のたぐひに至る迄、或は五人、あるは九人ひとしく出て、彼の折敷をもちてまかづ、

〔享保集成絲綸録〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 正徳二辰年六月
一嘉定御祝之節、布衣以下之寄合五百石以上は登城、五百石以下之分者不出仕候間、被其意相觸候、

〔徳川禁令考〕

〈三十年始嘉節〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 慶應三卯年三月廿三日
   御祝儀事御廢止之件々
  河内守殿御渡       大目付〈江〇中略〉
嘉祥、〈〇中略〉右御祝儀御禮等御廢之事、〈〇中略〉
右之趣向々〈江〉可相觸
  三月

〔駿府政事録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 慶長十七年六月十六日、嘉定如例、日野惟心、水無瀬一齋、飛鳥井中納言、冷泉三位、土御門左馬權助、舟橋式部少輔出仕、在府之諸武士伺候、午刻出御南殿、〈御座上壇〉宰相殿、〈〇徳川義直〉中將殿、〈〇徳川頼宣〉少將殿、〈〇徳川頼房〉同相隨給、日野大納言入道、水無瀬宰相入道、飛鳥井、冷泉、土御門、舟橋等、〈各座疊上〉依上意山名禪高召疊上、其餘皆候御縁、御前御膳、〈御三方〉日野、飛鳥井、〈三方〉冷泉、土御門、舟橋、水無瀬、山名、〈足付〉其後珍菓嘉肴、片木如山積之、所候之輩頂戴之、 十九年六月十六日、御嘉定如例、巳刻南殿出御、宰相殿、中將殿、少將殿御列座、御祝之時、三人公達御少年故、令御座給事御無用之由、陪膳西尾丹後

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1213 守、次日野大納言入道、〈三方〉傳長老、〈足付〇中略〉御縁山名禪高、〈片木〉佐々木中務、〈片木〇中略〉其外諸侍不勝計

私人嘉祥

〔諸國圖會年中行事大成〕

〈四六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1213 十六日嘉定喰〈〇中略〉 今日公家武家嘉定の御祝あり、所謂嘉定通寶十六枚をもつて、食物を買調へて服すれば、其家に福あり、故に今に至て其例にならふ、又嘉通と勝と訓近し、軍に勝の義に取て、特に武家吉兆錢とす、此日五色の團子、并に諸品の肴を、土器兩箇に盛、各白紙をもつてつヽみ、水引をもつて是を結び、群臣に賜ふ等の儀有、是即十六錢をもつて、求得るの遺意なり、諸家も亦此儀あり、或は孔方十六枚、米一升六合を家人に與ふ、其人々是をもつて、雜品諸物を調て是を獻ず、又土器に杉葉を敷、其上に大饅頭三箇を盛、杉原紙にてこれをつヽみ、凡て物毎に十六の數を用ゆ、今夜諸家の中十六歳の人、振袖を切て詰袖とす、其土器にもる大饅頭の正中に穴を穿ち、其穴より月を見る、これを月見といふ、今宵袖を留るの式なり、

〔慶長日件録〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1213 慶長十年六月十六日、從掃部頭嘉定給之、梅龍軒より鮒鰭給之、〈〇中略〉家中嘉定如例、各切麺、次自九條殿嘉定給之、

〔東都歳事記〕

〈二六月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1213 十六日 嘉祥御祝儀、諸侯御登城、良賤佳節を祝す、〈家々餅を製す、下賤の者は、錢十六文を以て食を調へ、食する事、かへつていにしへの例にかなへるにや、〉


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:19