p.0949 子日ハ、古ヘ正月子ノ日ニ、高ニ登リテ遠ク四方ヲ望ミ、以テ陰陽ノ靜氣ヲ得ルニ原ヅクト云フ、我國ニテハ、其第一ノ子ヲ初子(ハツネ)ト云ヒ、第二ノ子ヲ弟子(ヲトネ)ト云フ、若シ子日三アル時ハ中子(ナカノネ)ヲ用ヰ、或ハ二月ニ之ヲ行ヒシコトアレドモ、初子ヲ以テ主トスルナリ、此日朝廷ニテ宴ヲ賜ヒ、野ニ行幸シ給フコトアリ、故ニ臣庶ニ在リテモ、亦野外ニ遊ビ、小松ヲ引キ、若菜ヲ摘ムヲ以テ例トス、
p.0949 子日(ネノヒ)〈初學記、歳首祝二松枝一、男七、女二七也、十節記、正月七日登レ岳遠望二四方一、得二陰陽之靜氣一、除二煩惱一之術也、〉
p.0949 子日(ネノビ)〈十節録、正月子日、登レ岳遥望二四方一、得二陰陽靜氣一、則除二憂惱一、〉
p.0949 節日由緒 正月子登レ岳〈正月子日、登レ岳遥望二四方一、得二陰陽靜氣一、除二憂惱一術也、〉
p.0949 ねのび 正月初の子日、野邊に出て小松を引て祝とす、子の日を根延によせて、根ごめにするなるべし、小松も又子松の義に取なるべし、
p.0949 子日遊〈◯中略〉 子日に、初子、中子(ナカネ)、弟子(オトネ)のみつあり、
p.0949 おほきさいの宮に宮内といふ人の、わらはなりける時、だいごのみかどのおまへに、さぶらひけるほどに、おまへなる五葉に鶯のなきければ、正月はつねのひ(○○○○○)つかうまつりける、
p.0950 松のうへになくうぐひすのけふをこそはつねの日とはいふべかりけれ
p.0950 けふ中の子(○○○)とはしらずやとて、ともだちのもとなりける人の、松をむすびてをこせて侍ければよめる、 むまのないし
たれをけふまつとはいはんかくばかりわするヽ中のねたげなるよに
p.0950 かくてきさいの宮賀、正月廿七日にいでくるをと子(○○○)になむ、つかまつり給ける、
p.0950 廿五日〈◯正月〉にいでつるをとねは、いぬ宮御百日にあたりけり、〈◯中略〉右大將、
姫松はをとねのかぎりかぞへつヽちとせの春はみずとしらなむ、とてさしいづれば、〈◯下略〉
p.0950 天平十五年正月(○○)壬子、〈◯十二日〉御二石原宮樓一、〈在二城東北一〉賜二饗於百官及有位人等一、有レ勅鼔レ琴任二其彈歌一、五位已上賜二摺衣一、六位已下祿、各有レ差、
p.0950 二年〈◯天平寶字〉正月三日、〈◯丙子〉召二侍從竪子王臣等一、令レ侍二於内裏之東屋垣下一、即賜二玉箒一肆宴、于レ時内相藤原朝臣、〈◯内麻呂〉奉レ勅、宣二諸王卿等一、隨レ堪任レ意作レ歌并賦レ詩、仍應二詔旨一、各陳二心緒一作レ歌賦レ詩、〈未レ得二諸人之賦詩并作歌一也〉
始春乃(ハツハルノ)、波都禰乃家布能(ハツネノケフノ)、多麻婆波伎(タマハハキ)、手爾等流可良爾(テニトルカラニ)、由良久多麻能乎(ユラグタマノヲ)、
右一首、右中辨大伴宿禰家持作、但依二大藏政一、不レ堪レ奏レ之也、
p.0950 平城天皇大同三年正月戊子、〈◯六日〉曲宴賜二五位已上衣被一、 庚子、〈◯十八日〉曲宴賜二侍臣衣被一、
◯按ズルニ、類聚國史ニ、子日曲宴部ヲ立テヽ、之ヲ其首ニ收メタリ、
p.0950 弘仁四年正月丙子、〈◯二十二日〉曲二宴後殿一、命二文人一賦レ詩、賜レ祿有レ差、
p.0950 内宴記曰、弘仁四年始有二内宴一、唐太宗之舊風也、正月一二三日間有二子日一、著二件日一行レ之、藏人式清凉記等、此日注曰、一二三日之間、若有二子日一便用レ之、
p.0951 弘仁五年正月甲子、〈◯十六日〉宴二侍臣一、賜レ綿有レ差、 八年正月甲子、〈◯四日〉曲二宴後庭一、淳和天皇天長八年正月壬子、〈◯十三日〉曲二讌仁壽殿一、參議以上預焉、賜レ祿有レ差、
p.0951 天安元年正月乙丑(○○)、〈◯二十六日〉禁中有二曲宴一、預レ之者不レ過二公卿近侍數十人一、昔者上旬之中、必有二此事一、時謂二之子日遊一也、今日之宴修二舊迹一也、
◯按ズルニ、丑日ニ子日宴ヲ行ヒシハ蓋シ特例ナリ、
p.0951 寛平八年閏正月(○○○)六日、〈◯戊子〉有二子日宴一、行二幸北野雲林院一、其扈從者、皇太子〈◯醍醐〉及一品式部卿本康親王、上野太守四品貞純親王、四品貞數親王、大納言正三位源朝臣能有、中納言從三位藤原時平、中納言源光、中納言菅原道眞、參議從三位藤高藤、從三位藤原有實、參議源眞、參議正四位下源貞恒、參議源希、殿上六位以上、皆著二麹塵衣一、
p.0951 扈二從雲林院一不レ勝二感歎一聊叙レ所レ觀〈并序扶五〉
雲林院者、昔之離宮、今爲二佛地一、聖主玄覽之次不レ忍レ過レ門、成二功徳一也、侍臣五六輩翫二風流一而隨喜、院主一兩僧、掃二苔蘚一以恭敬、供奉無レ物、唯花色與二鳥聲一、拜謝有レ誠、唯至心與二稽首一而已、予亦嘗聞二于故老一、曰上陽子日野遊厭レ老、其事如何、其儀如何、倚二松樹一以摩レ腰、習二風霜之難一レ犯也、和二菜羹一而啜レ口、期二氣味之克調一也、况年之閏月、一歳餘分之春、月之六日、百官休暇之景、今日之事今日之爲、豈非二爲レ無レ爲事レ無一レ事乎、予雖二愚拙一、久習二家風一、廻レ輿有レ時、走レ筆無レ地、聊擧二一端一、文不レ加レ點云爾、謹序、〈◯詩略〉
p.0951 御記曰、御賀事、延長二年正月廿一日、右大將藤原朝臣來レ自レ院有レ仰云々、近間寂然甲子日朝摘二若菜一奉レ入レ之、二十五日甲子、此日自レ院賜二子日宴一云々、
p.0951 天慶六年正月九日戊子、於二御前一有二子日之興一、
p.0951 此式部卿の宮〈◯爲平親王〉は、よにあはせ給へるかひ有おり、一度おはしまし〳〵たるは、御子日のひぞかし、御をとどのみこたちも、いまだおさなくおはしまして、かのみやおとな
p.0952 におはします程なれば、よおぼえ御門の御もてなしも、ことにおもひ申させ給へるあまりに、その日こそは御ともの上達部殿上人などのかりさうぞく馬くらまで、だいりのうちに、めし入て御らんずるは、またなき事とこそはうけ給はれ、たきぐちをはなちては、布衣のものうちにまゐる事は、かしこき君の御時もかヽる事の侍りけるにや、おほかたいみじかりし日の見物ぞかし、物見車は大宮のぼりに所やは侍りしとよ、さばかりの事こそこのよには候はね、とのばらののたまひけるは、おほぢわたる事はつねなり、ふぢつぼのうへの御つぼねにつどふ、えもいはぬうちでども、わざとなくこぼれいでヽ、后の宮うちの御ぜんなどさしならび、みすのうちにおはしまして、御らんぜしに、御まへとほりしなむたふれぬべき心ちせしとこその給ひけれ、又それのみかはおほぢにも、宮の出車十ばかりは、ひきつヾけてたてられたりしは、一町かねてはあたりに人もかけらず、瀧口さぶらひの御前どもに、えりとヽのへさせ給へりし、さるものヽ子どもにて、心のかぎりけふはわがよと人はらはせ、きらめきあへりしきそくどもなど、よそびとまことにいみじうこそ侍りし、
p.0952 式部卿爲平親王子日事
康保元年二月(○○)五日壬子、爲平親王遊二覽北野一、子日之興也、平旦天陰、及二午刻一漸晴、同刻召二爲平親王、參議伊尹朝臣於前一、又召二覽陪從殿上侍臣、鷹飼等被馬一、〈四位著二直衣一、五位著二狩衣一、鷹飼四人、著二野裝束一、〉又召下從二親王一小童三人上、其騎馬等同覽、未刻許爲平親王使三藏人所雜色藤原爲信、獻二鮮雉一翼一、助信朝臣所二捕獲一云々、入レ夜爲平親王、右衞門督藤原朝臣朝忠、伊尹朝臣等、還參二候侍所一、即於二侍所一給レ酒、侍臣等執二獻物一列立、藤原朝臣問之、即重光朝臣稱三親王獻二御贄一、各稱二物名一、藤原朝臣仰、令レ給二御厨子所一、侍臣酣酔、奏二絃歌一、良久賜二王卿等祿一、先レ是親王退下、不レ給レ祿、亥刻入内、
p.0952 一可レ遠二凡賤一事
p.0953 村上御宇、爲平親王子日時、布衣輩渡二御前一、〈◯中略〉如レ此例雖レ多、不レ可レ有二尋常一事也、
p.0953 康保三年二月五日庚子、令二守平親王及小童等一、於二東庭一有二子日之戲一、其後召二侍臣於梅樹下一給レ酒奏二絃歌一、
p.0953 寛和元年二月十三日戊子、朱雀院太上天皇〈◯圓融〉出レ自二堀河院一幸二于紫野一、騎二御馬一爲二子日興一也、扈從公卿以下、布袴狩衣、各以任レ意、奉二絲竹一獻二和歌一、
p.0953 寛和元年二月十三日戊子、巳時許參院、〈◯圓融〉今日御子日也、御二御車一令レ向二紫野一給、左右丞相、大納言爲光〈大將〉中納言文範〈途中布衣〉顯光、重光、保光、右近權中將義懷、〈散三位布衣〉參議忠清、〈右衞門督布衣〉右近中將道隆、〈散三位布衣〉公卿皆騎馬著二直衣下重一、以レ纓柏插、左大臣追候二野口一、太上皇於二野口一乘二御御馬一、右衞門尉惟風、左馬允親平等、爲二御馬龓一、殿上侍臣皆悉布衣、京路野邊見物車如レ雲、即御二御在所一、其裝束立レ幄敷二板敷一、又立二簾臺一懸二御簾一、其中立二輕幄一、〈南向〉其東爲二公卿座一、〈南面〉其幄東又立レ幄〈子午妻〉爲二侍臣座一、御前四方立二屏㡢一、御前植二小松一、御在所幄後立二膳所幄一、御厨子所供二御膳一、〈懸盤〉陪膳權中納言顯光、〈顯光、重光、保光著二布袴一、〉次居二公卿及侍臣衝重一、一巡之後、大納言爲光以下侍從等起座、執二籠物十及折櫃四本一列二御前一、左大臣於二御前一問云、各稱名云々、〈左大臣所レ儲也〉次居二檜破子於御前一、左大將并正清、懷遠、時通、下官等添調儲也、次召二和歌人於御前一、〈先給レ座〉兼盛朝臣、時文朝臣、元輔眞人、重之朝臣、曾禰善正、中原重節等也、公卿達稱レ無二指召一追二立善正重節等一、時通云、善正已在二召人内一云々、召二兼盛一、左大臣仰下可レ獻二和歌題一之由上、即獻云、於二紫野一翫二子日松一者、以二兼盛一令レ獻二和歌序一、此間有二蹴鞠事一、左大將、左衞門督、源中納言、兩三位、藤宰相、余〈◯藤原實資〉及殿上侍臣等、蹴鞠事及二黄昏一、仰云、至二于和歌一於レ院可レ獻二序并和歌等名一者、秉燭還二御本院一、召二公卿於御前一有二歌遊之事一、召レ余爲二和歌講師一、右大臣以下獻二和歌一、左大臣不レ獻如何、左右兩丞相賜二御衣一、納言以下賜二白褂一、侍臣疋絹、又給二御隨身一、深更各々分散、御二紫野一之間、從レ内使右近少將信輔有二御訪一、即召二御簾外一給二圓座一申二御消息一、余執レ祿被レ之、拜舞之間失禮太多、今日四位五位六位皆著二綾羅一如何、下官著二白襖薄色袴
p.0954 等一、〈◯又見二古事談一〉
p.0954 我君としごろ、民をめぐみ國をおさめおはしますこと、御まつりごとかずおほくて、山にのぼり水にたはぶれ給ふおほみあそびもみえざりき、西はをぐら山の秋のもみぢ、いたづらにその色をうしなひ、東はむらさい野の春の梅、むなしうそのかげをうしなひ、きしのほとりみづきようすみ、山の聲たかうよばふ、風はえだをならさず、あめはつちくれをやぶらず、世中もたのしければ、けふの御幸もありますなり、かぎりなき我君の御とくを、おいたるは老たるをよろこび、わかきはわかきをよろこぶ、世中のたのしきことは、けふの御幸をためしとすべしとつけしめて、其日の和歌、
子日してよのさかゆべきためしにはけふの御幸をよにはのこさん
p.0954 伊勢國に侍ける比、むつきのはつねの日、ねいみ(○○○)といひて、家をいでヽ野にいきて、ひねもすにゐくらして、かやをかりてこがひするおりに、えびらといふなる物にすなるを、そのついでに、ことのもとなれば、松をなをざりにひきてかへるとてよめる、
春たてば初子のいみにたびゐして袖のしたなる小松をぞひく
p.0954 九日、例日タル間、御祝等無レ之、但初子日ニ相當時、見好法師參テ種々ノ祝言ヲ申、根松ヲ三本持テ參、其時評定衆之子共親類ノ間、以二上意一直垂ニテ松ヲ受取テ扇ニ置テ、御二間ノ御妻戸ヨリ、十二間ヘ令二持參一時、松ヲ御請取アツテ被レ置也、見好法師ハ管領評定奉行ノ亭ヘモマカリ出、自二公方様一御祝、自二政所一下行、其外祝言アリ、
p.0954 廿九日、ふねいだしてゆく、〈◯中略〉む月なれば、京のねの日の事いひいでヽ、こまつもがなといへど、海なかなればかたしかし、ある女のかきていだせるうた、
おぼつかなけふは子の日かあまならばうみまつをだにひかましものを
p.0955 正月廿三日、子の日なるに、左大將殿の北方わかなまいり給、〈◯中略〉けふの子日こそなほうたてけれ、しばしは老をわすれても侍べきをときこえ給、かんのきみもいとよくねびまさり、もの〳〵しきけさへそひて、みるかひあるさまし給へり、
わか葉さすのべの小松をひきつれてもとの岩ねをいのるけふかな、とせめておとなひ聞え給、ぢんのをしきよつして、御わかなさまばかり參れり、御かはらけとり給て、
小松ばらすゑのよはひにひかれてやのべのわかなもとしをつむべき、などきこえかはし給て、上達部あまた、みなみのひさしにつき給、
p.0955 題しらず たヾみね
ねのひする野邊に小松のなかりせば千世のためしに何をひかまし
p.0955 三條院の御時に、上達部殿上人など子日せんとし侍けるに、齋院の女房、ふなをかにものみんとしけるをとヾまりにければ、そのつとめて齋院にたてまつり侍ける、 堀河院右大臣
とまりにし子日の松をけふよりはひかぬためしにひかるべきかな
p.0955 小野宮太政大臣〈◯藤原實頼〉の家に子日し侍けるに、よみ侍ける、 清原元輔
千年へんやどの子日の松をこそ外のためしにひかむとすらめ
p.0955 此ころの歌よみ、子日といふ題に、小松をよみて若菜をよまず、子日遊の子細をしらざる也、後撰集ニ子日の歌五首ある、小松のなき歌もまじれヽど、若菜よまぬはなし、小松も菜の一種なり、されど千年萬代と、めでたる物なる故、とりわきたるにて、つひには小松引ばかりの事に人おもへり、かの後撰集のうた、朱雀院の子日におはしましけるに、さはる事侍りてえつかうま
p.0956 つらずして、延光朝臣につかはしける、左大臣、松もひきわかなもつまずなりぬるをいつしか櫻はやもさかなむ、院の御かへし、まつにくる人しなければ春の野のわかなも何もかひなかりけり、小松引になんまかると人のいひければ、君のみや野べに小松を引にゆく我もかたみにつまむわかなを、宇多院、子日せんと有ければ、式部卿のみこをさそふとて、行明親王、故郷の野べ見にゆくといふめるをいざ諸ともにわかなつみてむ、子日しにまかりける人のもとに、おくれ侍りてつかはしける、みつね、春の野に心をだにもやらぬ身は若菜はつまで年をこそつめ、と有、五首こと〴〵く若菜をよみて、二首は小松をよまず、正明これにこヽろづきて、子日に若菜をみづからもよみ、人にもおしへてよまする事なり、七種の菜は、すヾなすヾしろなどヽは、たがへる物也、年中行事秘抄にや有けん、白河院仰に、松を添て奉るはひがごと也、菘と書てなとよむ也と、の玉へりし事みえたりき、其頃はやう松はくはざりし也、〈◯中略〉今時好事のひと、子日に野外に遊びて小松はひけど、何にすべき物ともしらず、俊成卿歌に、さヾなみやしがの濱松ふりにけり誰世にひける子日なるらん、とあるは、引栽しことなれば、はやう實をうしなひし也、
p.0956 若菜〈わかな〉 正月子日に、若菜のおもの調して奉りし事は、嵯峨天皇の弘仁四年を始とす、〈河海抄引内宴記〉これは唐の大宗の舊風にならひ給ひしと〈同上〉いへり、それより代々の天皇も、つぎつぎに此事を行ひ給ひしなり、おほよそ若菜とは、皆人食ふべき春草の若苗をさしていひし名なれども、その食ふべき春草の中にも、初春の頃に生出るものは、薺、をはぎ、芹などのたぐひにて、今いふつまみな、或はうぐひすなの類にてはあるべからず、その若菜をつむには、人々野邊に出て子日するとて、小松を引けるよすがに、此菜をもつめばなり、その故に寛平八年、宇多天皇の雲林院に行幸し給ひし時の序文に、倚二松樹一以摩レ腰、習二風霜之難一レ犯也、和二菜羮一而啜レ口、期二氣味之克調一也と〈菅家文草〉いひ、藤原元眞が歌にも、霞たつ野邊の若菜をけふよりぞ松のたよりにと〈家集〉いひ、
p.0957 また院のみやの御息所、わかなを給ふに小松ありて、片岡の野邊のこまつを雪間より〈同上〉などみえたり、扨子日の遊を、或は朱雀院、圓融院などの御時より有けるにやと〈公事根源〉いへども、大伴家持の歌に、初春の初子のけふの玉はヽきと〈萬葉集〉よめるによれば、いと舊より此遊はありしなり、され共その歌に、小松引よしはみえねども、柿本人丸の子日の歌に、二葉より引こそうゑめと〈家集〉よめるにて、子日に小松引ける事は、承平の頃より始りしにはあらざるなり、然るを後の世に至りて、子日の若菜といへば、ひたすらに七種の菜をそろへて奉るとのみおもへるは、古をしらざる誤り也、
p.0957 若菜 上子日、内藏、内膳、各供二若菜一、
p.0957 上子日、供二若菜一事、〈内藏寮、内膳司、各供レ之、〉
p.0957 上子日、内藏司供二若菜一事、
内膳司同供レ之 十二種若菜 若菜、薊、苣、芹、蕨、薺、葵、芝、蓬、水蓼、水雲、松、〈菘、河海、◯河海抄〉 白河院仰云、松字如何、師遠申云、若菘、上皇被レ仰云、相二具松一進上、此僻事也、〈蕰菘、和名古保禰、〉 七種菜 薺、蘩、蔞、芹、菁、御形、須々代、佛座、
p.0957 供二若菜一 上子日
内藏寮ならびに内膳司より、正月上の子日是を奉る也、寛平年中より始れる事にや、延喜十一年正月七日に、後院より七種の若菜を供ず、又天暦四年二月廿九日、女御安子の朝臣、若菜を奉れるよし、李部王の記に見へたり、若菜を十二種供事あり、其くさ〴〵は、若な、はこべら、苣、せり、蕨、なづな、あふひ、芝、蓬、水蓼、水雲、松とみへたり、此松の字の事、白川院御時師遠に御尋有しかば、若松と書て、こほほねと讀也、若此事にて侍ると申き、松をそへて奉る、さてはひが事也と、上皇被レ仰侍き、尋常は若菜は、七種の物也、薺(ナヅナ)、はこべら、芹、菁、御形、すヾしろ、佛の座など也、正月七日に七種の菜羹をp.0958 食すれば、其人萬病なし、又邪氣をのぞく術も侍ると見へたり、
p.0958 能宣、父頼基ニ語云、先日入道式部卿御子日ニ宜歌仕テ候、頼基問レ之如何、能宣云、
ちとせまでかぎれる松もけふよりはきみにひかれてよろづよやへむ、世以稱レ宜云々、頼基暫詠吟シテ、カタハラナル枕ヲトリテ打二能宣一云、慮外昇殿有二帝王御子日一之時、以二何歌一可レ詠哉、ワザハヒノ不覺人哉云々、能宣須臾ニ起テ逐電云々、
p.0958 春日野遊〈和漢任レ意〉 橘在列
夫上年之候、仲春之天、出二槐林之深窻一、望二松樹之遠地一所レ謂好客之群遊也、于レ時嵩岳之西脚、洛水之東頭、嘯二野煙之春光一、各吟二一句一、酌二山霞之晩色一、皆酔二數盃一、倚二松根一而摩レ腰、千年之翠滿レ手、折二梅花一而插レ首、二月之雪落レ衣、斯蓋吾朝之風俗、子日之嘉會也、志之所レ之、盍レ命二翰墨一云レ爾、
p.0958 早春詠二子日一和謌一首〈并序〉 前藤都督
王春初月子日令辰、月卿雲客陪二椒房一之者多矣、蓋浴二皇澤一謌二聖徳一也、于レ時亘二鴈橋於前池一、展二燕席於中島一、歩二沙草一而徙倚、蹤踏二三分之緑一、携二林松一而徘徊、齡伴二千年之陰一、誠是上陽之佳猷、却レ老之秘術者也、况亦庭草色々、窈窕之袖添レ薫、宮鸎聲々、鳳凰之管和レ曲、命二希代之勝遊一、課二習俗一兮諷詠、〈◯下略〉