p.1119 更衣ハコロモガヘト云ヒテ、冬春ノ衣服ヲ更ヘテ、夏秋ノ衣服ト爲シ、夏秋ノ衣服ヲ更ヘテ、冬春ノ衣服ト爲スヲ云フ、朝廷ニテハ四月朔日ト、十月朔日トニ於テ之ヲ行ヒ、其殿中ノ鋪設モ亦之ヲ改ム、後世ハ其年早ク寒キ時ハ、九月ニモ袷衣ヲ以テ、夏衣ノ上ニ襲フコトアリ、徳川幕府ニテハ、五月五日ヨリ八月末マデ、帷子ヲ用ヰ、九月九日ヨリ五月ノ末マデ、綿入ヲ用ヰ、四月一日ヨリ五月四日マデ、及ビ九月一日ヨリ同八日マデハ、袷衣ヲ用ヰル、民間モ多ク幕府ノ例ニ依ル、
p.1119 ころもがへ 四月にいふ、春衣を更て夏衣にする也、冬の衣がへは十月也、倶に朔日に行はるヽ式也、
p.1119 衣裝の事 一衣裳のかはり候時節の事、三月中はあはせにうす小袖、四月朔日よりあはせを著候、〈◯中略〉五月五日迄はあはせ、五日より男衆はかたびら、女中は殿中には、すヾしうらのねりぬきをめし候、御腰まきもすヾしうら、六月朔日より七月中、かたびらをめし候、八月朔日より又ねりぬきをめし候、御腰まき染付の小袖を各御用候、男衆もいにしへは、八月一日よりあはせを著したるとて候、今は九月朔日よりあはせ、九日より小袖を著し候、
p.1119 今制通二官民一端午始服レ衫、九月朔服二夾衣一、重陽始服二複衣一、至二四月朔一服二夾衣一、故名二四月一曰二更
p.1120 衣一、按、唐員外郞起璘因話録云、徳宗嘗暮秋獵二于苑中一、是日天色微寒、上謂二近臣一曰、九月衣レ衫、二月衣レ袍、與二時候一不二相稱一、欲レ遞二遷二月一、翌日命二翰林一議二承旨一、李吉甫請下宣二示萬方一編中之於令上、學士李程奏曰、月令十月始裘、月令是玄宗皇帝刪定、不レ可二改易一、上乃止、由レ是與二吉甫一不レ協、
p.1120 同日〈◯四月朔日〉更衣〈攺衣トモ云〉
是今日夏冬ノ御衣ヲ被二召改一義也、南殿ノ御裝束ハ裝束ノ史、并史生、官掌等奉二仕之一、清涼殿ノ御裝束ハ出納、〈役號也〉掃部寮御藏、〈役號也〉南座、〈役號也〉奉二仕之一、
p.1120 同日〈◯朔日〉掃部寮撤二冬御座一、供二夏座一事、
p.1120 一日改二御裝束一事
このひのあしたに、行事のくら人、ならびに宮づかさら、たちはき、ところの衆、女官等をして、冬の御しやうぞくをあらため、なつの御しやうぞくをよそふ、なつはかべしろをかけず、ござこれをしきあらたむ、かたびらかけあらため、てん上をよそほひ、所々のたヽみこれをしきあらたむ、大ばむ所には、ひヾつをとる、てんしやうにはひヾつをとりて、ゐぎのばむををく、
こんあんに、よるのおとヾのふるき御丁のかたびらども、をよび所々のござは、大ばむ所にたてまつる、女房に是をわかち給はる、ひのござをば、によくわむにわかちたまふ、たヾしござを給はず、とばのゐんの御時、ちやうぢぐわむねんの四月に、すけあきすゑのあそん三位のヽち、すけいまださだまらざるあひだ、大進あきたかれうを、ゐん〈◯白河〉より給はりて、とヽのへたてまつる、おなじきとしの十月の、ころもがへのとき、れいにまかせて、女房によくわむにわかち給ふべし、しかるをひれいなりとて、ゐんのおほせにて、女房によくわんに給はず、ちやうどをさだめたるによくわむらうれへ申、これによりてすけためふさのあそむ、ごぎしよのわたをめして、一人に一とむ、これを給はる、二でうのゐんの御時、このれいによりて、ゐん〈◯鳥羽〉のおほp.1121 せによりて、きうじゆ二ねむのなつ、みちやうのかたびらをも、おなじきふゆ女房によくわんにこれをたまはらず、是によりてすけちかたかのあそむ、わたくしにわたをたまふ、又所々のてんじやうに、ゐぎだんぎのばむををく、しかるを春宮の殿上には、だむぎのばむををかざるなり、
p.1121 朔日更衣事 藏人令レ供二夏御座一、雖レ無二南殿御出一、殿上人必參内、入二平座見參一、今日裝束、無文冠、夏袍、白縑半臂、下襲、〈宿老之人、雖二平絹一無レ憚二著用一、〉白張單衣、例表袴、〈雖下被レ聽二禁色一人上、今日不レ著二綾羅一例也、但宿老藏人頭或不レ著二白重一歟、〉今日以後、宿衣之時、蹔不レ著二直衣一、并著二冬袍一、著二同指貫一、藏人頭著二夏直衣一之後、非職改レ之、御禊之比、多改レ之歟、
p.1121 一御更衣 御帳并御几帳帷〈可レ相二催諸國一注文在レ別〉 御座覆〈内藏寮〉 燈爐綱以下〈行事所沙汰以二相模武藏貢物一勤レ之、〉 圍碁彈棊局〈料木召二土産國國一〉 御座以下所々疊〈一向掃部寮沙汰〉
p.1121 四月ついたち、御衣がへなれば、所々御しやうぞくあらたむ、御殿御帳のかたびら、おもてすヾしにごふんにて繪をかく、かべしろみなてつす、よるのおとヾもおなじ、とうろのつなおなじ物なれど、あたらしきをかく、たヽみおなじ、しとねかはらず、御ふくは御なをし、御ぞすずしのあやの御ひとへ、御はりばかま内藏寮より是をたてまつる、女房きぬあはせのきぬども、衣がへのひとへからぎぬ、すヾし、も〈裳は上らう薄物、小上臈うす色、〉つねのごとし、
p.1121 朔日、〈◯中略〉こよひの御盃より女中ひとつゑり也、うはぎ〈張うらの袷〉ひとつを著する也、
p.1121 四月朔日、御祝御盃等如レ常今日より更衣也、冬ノ御衣、几帳ナドテツシテ、夏ノスヾシニ取カヘラル、女房皆板物〈白キ羽二重也〉著シ、賀茂祭より葵ヲ獻ズ、是ヲ御殿ノ四方ニ掛ル也、調ヤウ、葵ヲ七クサリ桂ノ枝サゲテ、簾ノコマルノ輪ニ指入ナリ、 此外指タル事モ不二及見一、不レ知也、 女中皆葵ヲカツラニ掛ルナリ、
p.1122 朔日 今日常御殿立炭御火鉢被レ撤〈◯中略〉
紫宸殿御帳臺御更衣 奉行 四位五位職事或六位藏人勤レ之 裝束使史生御帷子調進 左右官掌 官之召使 清涼殿御帳臺御更衣 奉行 四位五位職事六位藏人 出納御帷調進 掃部寮 御藏 南座
p.1122 朔日更衣 是は御服類夏に改られ、清紫兩殿、御帳臺を帷壁代を夏の飾にしかへらるヽなり、紫宸殿は史生、行事官、官掌等勤む、
p.1122 扠四月朔日衣替、天子今日より奧向御内證はとまれ角まれ、綿入御服を改て袷御服に被二召替一、冬春召れし綿入御服、典侍内侍御下之女臈へ、五十、三十、十七は配賦して拜領有、尤一尺四寸幅之白羽二重之御服也、毎朝新調之御服一つ宛は、上著に被二召替一御事なれば、夥敷御事ならめ、
p.1122 朔日 更衣、今日稱二更衣節一、禁裏諸家自二今日一被レ著二夏袍一、自二今日一紫宸殿清涼殿改二御裝束一、紫宸殿者裝束使、史生、官掌奉二仕之一、御裝束者行事官調進、清涼殿者出納、御藏小舍人、掃部寮等奉二仕之一、御裝束者出納調進、至二九月晦日一、几帳等用二單紗一、地下良賤亦改二綿服一著二袷衣一互相賀也、
今日より五月四日まで袷を著るゆへに、今日を衣がへといふなり、
p.1122 寛治六年四月一日癸丑、藏人右兵衞尉高階爲行率二所雜色等一、依レ例撤二冬御裝束一供二夏御座一、
p.1122 元永二年四月一日、今日依二日蝕一不レ改二御裝束一、不レ被レ行二平座一、納言云、康和比、蝕不レ現、仍改二兩殿御裝束一、件事覺給哉如何、下官〈◯源師時〉不二覺悟一、日不レ蝕入了、 二日、今日改二内裏御裝束一、
p.1122 保安五年四月一日戊申、今朝奉二仕更衣御裝束一、雲州所レ獻御几帳十帖、別納疊等令レ改二鋪殿上座一、本間一間改二三間一、
p.1122 建久二年四月一日戊寅、中宮御方依二御更衣一被レ改二御裝束一、奉行宮司六位進行方也、而遂以不參
p.1123 云々、尤奇怪、仕所并掃部寮進二御座已下疊等一、廳進二御帳帷御几帳等一如レ例、女官并宮侍〈著二衣冠一〉勤二雜役一、母屋不レ懸二壁代一、夏季不レ懸之例也、
p.1123 建仁三年四月一日、日蝕現了、〈◯中略〉今日更衣之儀、人々案不レ同云々、不レ可レ有二不審一歟、 二日、昨日入レ夜可二更衣御裝束一由、俄有二沙汰一、諸國難レ濟、大略今朝改レ之云々、
建暦三年四月一日壬申、今日實時中將著二染重束帶一參内云々、是宿老者所爲歟、壯年近將尤不レ可レ然、後日聞、或識者達云、上官職事之外、近代不レ著レ之云々、近代何代乎、足レ爲レ奇、文治建久之比、自他大略著レ之、依二如レ此説一出來、末代彌衰微歟、 三日、少將退出云、今日侍從參内著二染重二云々、更衣之後、三四日之内、猶不二甘心一事也、不レ具レ之令レ然歟、
p.1123 文化十二年四月一日丙辰、更衣、卯刻〈豫〉參勤、出納代〈山科長門守生直〉以下諸司五六輩參仕申、届二議奏卿一、〈加勢廣幡中宮權大夫〉如レ例令二奉仕一了、辰刻過退出了、
p.1123 四月朔日 從二今日一五月五日迄袷(○)を著也
p.1123 四月朔日 五ッ時、のしめ袷、麻、今日より足袋不レ用、
p.1123 朔日
一月次御禮在レ之、熨斗目袷、麻上下、〈◯中略〉
一今日より殿中足袋不レ用
p.1123 十七番 左 更衣
今朝よりは夏にあはせのころもがへ是もあづまの手ぶりなりけり〈◯中略〉
更衣は京都には此日よりひとへの衣を用ふ、こヽには旬などいふ事もなし、唯袷のしめにかぎる計也、是よりは束帶衣冠のをり、單の袍を著す、
p.1123 長祿三年四月一日癸丑、俗自二此日一不レ綿、故訓二四月一日之字一、讀爲二綿拔朔一也、
p.1124 朔日 國俗今日より五月四日まで袷を著ゆへ、今日を衣がへといふ、古歌におほくよめり、
p.1124 朔日 更衣と云、俗に綿ぬきの祝といふ、人家此日より袷を著す、中華には四日にはじめて紗衣を服すと見えたり、
p.1124 朔日、更衣、〈今日より五月四日迄、貴賤袷衣を著す、今日より九月八日まで、足袋をはかず、庶人單羽織を著す、〉
p.1124 五月五日 從二今日一帷子(○○)也、女中衆は袷也、
p.1124 五月五日 五ツ時、染帷子(○○)、長、端午之御祝義有レ之、如二上巳一、
p.1124 五日
一端午之御禮有レ之 染帷子、長袴、
p.1124 五日 端五〈(中略)自二今日一良賤各著二帷子一、倭俗布衣謂二帷子一、或依レ年暑氣未レ到、則良賤亦綿服上著レ之、謂二表帷子一、於二公家一著二衣冠一之輩者無二此儀一、禁裏院中命婦各著二地白帷子一、〉
p.1124 五日 貴賤今日より麻の袗衣を著して、八月卅日に至る、
p.1124 九月朔日は衣替、四月に相同じ、併是迄夏中袷御服也、夫を今日より綿入に被二召替一御事也、夏中召たる御袷をも、お局方配分して拜領有レ之也、
p.1124 九月朔日 今日より九日迄あはせ(○○○)也 九日 從二今日一小袖(○○)也
p.1124 九月朔日 五ッ時ふくさ袷、麻、月次御禮有レ之、〈◯中略〉 九日五ッ時、花色小袖、長、重陽御祝儀、萬石以下花色ニ不レ限、
p.1124 朔日
一月次御禮有レ之、服紗袷半袴、
九日p.1125 一重陽之御禮有レ之、花色小袖麻上下、
p.1125 廿五番 右 九月更衣
咲菊の花の籬のきせわたを人のうへにもけふやかさねむ〈◯中略〉
更衣は九月朔日より、袷のきぬに更る也、また九日には綿入小袖にあらたむ、束帶及びすべてのそう束は、四月朔日より九月晦日迄、夏のを用ひ、十月朔日より三月つもごりまで、冬のを用ふる也、
p.1125 一日〈自二今日一至二九日一、武家并地下良賤各著レ袷、〉 九日 菊酒〈今日良賤著二縹色小袖一〉
p.1125 朔日、今日より八日まで袷衣を著、 九日、〈◯中略〉國俗今日より絮衣を著、 十日、國俗今日より足衣をはく、三月晦日に至て終る、但いにしへより定れる禮式にはあらず、
p.1125 朔日、今日より八日迄、諸人袷衣を著す、 九日、良賤今日より絮衣を著す、
p.1125 同日、〈◯朔日〉掃部寮撤二夏御座一、供二冬御座一事、
p.1125 一日御ころもがへの事 そのぎ四月にみえたり、たヾしかべしろをかく、又でむ上にゐぎのばむをとりて、火びつをすへたり、又大ばん所にも、火びつをたてまつる、
p.1125 朔日更衣事 其儀同二四月一、抑於二宿衣一者、藏人頭著二冬直衣一後、非職雲客改レ之、貫首二人之内、雖二一人一相改之後無レ憚著二用之一、而近代兩貫首被レ著之後、非職雲客所二著用一也、十月以後、著二直衣一以前、夏宿袍同二奴袴一用レ之、又稱二紫苑色一、自二去月晦日一用二冬指貫一也、夏袍雖レ用二冬指貫一、冬袍不レ著二用夏指貫一也、當初或雲客十一月一日、著二冬直衣一云々、是准二公卿一歟、衆人斷腸、一身招レ耻云々、此事能可二用心一也、
p.1125 一一日改二御裝束一〈同二夏季一、但壁代加二調之一、〉
p.1125 十月一日、御衣がへ、ひら座四月におなじ、
p.1125 旬 朔日
p.1126 十月一日は先御衣がへあり、掃部寮夏の御裝束を撤して、冬のにあらため給ふ、
p.1126 二十八番 右 十月更衣 爲邦朝臣
たちかへて露ものこらぬころもでをいまはたぬらすはつしぐれかな
p.1126 朔日、毎年つねのごとく、けふよりつねの御所御座の左の方におき、炭の火鉢をおく、炭の立やうあり、けふより女中わたの入たるものを著用、九月中はわたの入たるものをきず、さむきときは袷をとり重ねてきる也、夕方の御いはひより張うらのねりを著ると云、
p.1126 朔日〈今日ヨリ來年四月朔日迄、立炭御火鉢、常御殿御中段ノ間ノ内、上殿ノ敷居間北ノ方ニ被レ置、〉
紫宸殿御帳臺御更衣 奉行 職事六位藏人勤レ之〈◯餘同二四月一〉
清涼殿御帳臺御更衣 奉行 職事六位藏人勤レ之〈◯餘同二四月一〉
p.1126 朔日更衣 是は御服類冬に改られ、清紫兩殿の飾を冬の飾にしかへらるヽ儀、四月朔日の如し、
p.1126 一日 開爐節〈(中略)自二今日一被レ掲二紫宸殿清涼殿之壁代一、其儀同二于四月更衣之式一、諸公家自二今日一至二來年三月晦日一、各被レ著二冬袍一、〉
p.1126 十月一日 十月一日、宰臣已下受レ衣著二錦襖一、三日、〈人則五日〉士庶皆出レ城響レ墳、禁中車馬出道者、院及西京朝陵、宗室車馬亦如二寒食節一、有司進二煖爐炭一、民間皆置酒、作二煖爐會一也、
p.1126 仁安二年十月一日乙未、未時參内、〈著二白重一、但堅文表袴冠如レ元、〉藏人藤原爲賢、奉二行更衣事一、夏御裝束於二五條殿一燒失了、御帳帷、御几帳、壁代等新調如レ例、
p.1126 文治六年〈◯建久元年〉十月一日壬午、中宮御方御更衣、行事小進兼時、仕所進二御疊御帳御几帳等一、廳沙汰云々、御服所獻二御衣一、
p.1126 仁治三年十月一日、中宮御方更衣也、但長元十年四月依レ相二當忌日一延引、二日被レ改了、
p.1127 久安惡日仍雖二延引一、任二式目一今度獨被レ改レ之、
p.1127 文政四年十月一日戊寅、更衣、卯刻〈豫〉參勤、出納代〈生靜〉以下諸司、同刻追々出仕如レ例、屆二議奏卿一、〈前番園池前相公〉仰二出納一令レ供二改晝御座御裝束一、供畢後加二撿知一、屆二議奏卿一、申二渡諸司一退出、辰刻斜令二退出一了、〈開二平唐門一事申レ端如レ例〉