p.0043 圍碁ハ單ニゴトモ云フ、懷風藻ニ、大寶年中、僧辨正ガ唐國ニ遊ビ、圍碁セシコトヲ載セタリ、圍碁始テ此ニ見ユ、古來圍碁ニハ必ズ賭物アリ、或ハ布帛ヲ以テシ、或ハ紙ヲ以テシ、又錢ヲ以テス、其錢ヲ指シテ碁手錢ト云フ、後世德川氏ニ至リテ、物ヲ、賭スルコトヲ禁ゼリ、
德川幕府ニ於テハ、碁所ヲ置キ、京都寂光寺中ノ僧、本因坊算砂ヲ學ゲテ之ニ世祿ヲ與フ、算砂ハ碁ヲ善クスルヲ以テ、織田信長、豐臣秀吉ノ時、旣ニ其寵遇ヲ受ケタル者ナリ、其後井上、安井、林ノ三家モ亦徵サレテ碁所ト爲レリ、
圍碁ハ、其巧拙ニ由リテ階級アリ、初段ニ始マリ九段ニ訖ル、九段ヲ最ト爲シ、是ヲ名人ト云ヒ、八段ヲ半名人ト云ヒ、七段ヲ上手ト云フ、初段ニ至ラザルモノハ、皆素人ト爲ス、
綴五ハ四目殺(ヨツメゴロシ)ト云フ、彼我互ニ碁石ヲ並べ、我四石ヲ以テ敵ノ一石ヲ圍ム時ハ之ヲ殺シ、其數ノ多寡ヲ以テ勝敗ヲ決ス、
格五ハ五目並(ゴモクナラベ)ト云フ、亦互ニ碁石ヲ縱、横、筋違ニ並べ、敵ニ先ジテ五箇連續シタルヲ以テ勝トス、
p.0043 圍碁 博物志云、堯造二圍碁一、〈音期、字亦作レ棊、世間云五、〉一云、舜之所レ造也、中興書云、圍碁、堯舜以敎二愚子一也、
p.0044 奕棋
孟子曰、奕秋通國之善奕者也、趙岐注曰、奕、博也、或曰、圍棋、論語曰、不レ有二博奕一者乎、又注云、有レ人名レ秋、據二趙氏注一、以二博奕一兼論、是未レ曉二其義一也、予按、春秋襄公二十五年左氏傳、太叔文子曰、今寗子視レ君不レ如二奕棋一、其何以免乎、奕者擧レ棋不レ定、不レ勝二其耦一、而況置レ君而弗レ定乎、杜預注曰、奕、圍棋也、揚雄方言曰、圍棋謂二之奕一、自レ關東齊魯之間、皆謂レ奕、故説文、奕從レ廾、言竦二兩手一而執レ之棋者所レ執之子也、奕者擧レ棋不レ定、不レ勝二其耦一、謂擧レ子下レ之、不レ定則不レ勝二其耦一、是棋爲レ子也、以レ子圍而相殺、故揚雄杜預云二圍棋一、
p.0044 圍碁〈コ〉 〈亦作レ棊、舜作レ之、〉
p.0044 圍碁〈又云二手談一〉
p.0044 棊(ゴ)〈碁棋、並同、〉
p.0044 圍碁(井ゴ)〈博物志、堯造二圍碁一、丹朱善レ之、〉 碁(ゴ)〈本字棊、音奇、〉
p.0044 手談〈碁〉
p.0044 棊(ゴ)〈音奇〉 圍棋 碁〈同〉 坐隱〈晉王中郎所レ名〉 手談〈晋支公所レ名〉
p.0044 圍棊有二手談坐隱之目一、頗爲二雅戯一、但令二人耽憤癈喪一實多、不レ可レ常也、
p.0044 王中郎以二圍棊一是坐隱、支公以二圍棊一爲二手談一、
p.0044 坐隱手談
豫章奕棊詩、坐隱不レ知二巖穴樂一、手談勝下與二俗人一言上、按世説、王中郎以二圍棊一是坐隱、支公以二圍棊一爲二手談一、又語林曰、王以二圍棊一爲二手談一、在二哀制中祥後一客來、方幅爲二會戯一、然唐杜陽編云、大中間、日本國貢一玉棊子一云、本國南有二集眞島一、島上有二手譚池一、池中出二棊子一、此又何耶、
p.0044 於二戲論之遊一者、圍棊雙六也、是又唐堯虞舜之聖主、憐二其子商均丹朱之愚一、仍作レ之敎也、所レ謂爲レ戒二終日飽食而無レ爲者一也、非三偏好二戲論之一門一、聖人之依レ物立敎、誠如二應レ病之藥一也、雖レ然石之生 死 之覆仰不二存知一、則不レ可レ向二其局一、
p.0045 抑住山之間、余吟然之遊戯爲レ宗、然者改年初月遊宴、〈○中略〉手增之圍碁、亂圍碁、
p.0045 ご〈圍碁〉
圍碁は、堯造レ之とも、又舜造レ之とも〈和名鈔〉見えて、兩説一定しがたし、皇國へ傳來せしことは、いつの比といふこと詳ならず、今に碁琴不二制限一とあり、是ものに見えたるはじめにて、續紀聖武天皇天平十年紀に、大伴子蟲中臣東人と碁を圍みし事見えたり、吉備の大臣入唐して歸朝のみぎり傳へられし由、あまねくいへども、正しき書に見えたることなし、たゞこの大臣の入唐の繪詞に、大臣碁をしり給はずして、かの地にておぼえられたるよし見えたれども、此繪詞ははるかに後のものにて證となしがたし、貝原好古が和事始に、右の傳へは全く俗説にて、取るにたらずとのみいひて、傳來の考は何とも見えず、思ふに吉備の大臣の入唐は、元正天皇の靈龜二年にて、歸朝は聖武天皇の天平七年なれば、在唐二十年なり、吉備公秀才經史を硏窮し、群藝を學び得て、碁雙六も此時より傳來せしならんとおもふもうべなれど、これよりさき文武天皇の元年に、禁二博戯一遊手徒其居停、主亦與レ居同罪と〈續日本紀〉見えたるなどおもひわたすに、文武天皇の元年は、吉備公歸朝の年に先立つ事三十九年なり、此時旣に雙六樗蒲の類ははやく渡りて、流行甚しかりしと見えたり、しかれば雙六樗蒲の類のみ渡りて、碁のみおくれて渡りこしものともおもはれず、かつ碁は令に不二制限一と見えたれば、此時の停止には猶もれておこなはれしものならんか、其よしは元明天皇の和銅四年、太安麻呂奉レ勅て古事記を撰し時、稗田阿禮が口づからいふことを、一言もたがへず書き移されたるよし序に見えたる、かの記の神代の段に、於乃碁呂島と碁字を古の假名にかりもちひられたるを見れば、其比專ら流行して行はれたるものならんか、さあらではふと書出る假字に、耳遠き字を用ふべきことかは、しかれど字は早く渡りて、物の渡りこざりしもの も有りぬべければ、字さへ渡りてしりたらんには、書出ぬことやはあるともいふべけれど、吉備公の入唐の繪詞に見えたる如く、かの地にて碁といふものは何物ぞといふやうにとはるゝばかりしれざるものゝ、文字のたとへ渡りゐたらんにも、ふとにはかにおもひ出て、物もしれざる耳遠き字を書くべき事かは、かの記中、右の外にも見えたる所あり、とにかく吉備の大臣の入唐以前に渡りし事しられたり、たゞし吉備公歸朝ありしよりして、碁譜口訣等も傳はりて上達せしことは、この頃よりやさかんなりけん、吉備公入唐は玄宗の時なれば、西土もこの道に高手のもの多かりし時とおもはる、さて此後よりして天下さかんにおこなはれ、圍碁の沙汰くはしくなりもて來れるが故に、吉備公の傳來のやうにふといひ出たるものならんか、又ある人の考に、圍碁の傳來は、恐らくは朝鮮よりならんか、其故は吉備公入唐は、玄宗の開元四年なり、朝鮮史略に、國人善レ碁詔、以二參軍楊季鷹一爲二副璹一、到レ國獻二道德經一とあるなど思ふに、朝鮮ははやくより碁を能するもの多くありしと見えたり、此時西土にても楊季鷹を遣はして、學ばせしものならむとおもはる、とにかく朝鮮は皇國に通ぜしは、崇神天皇の御時より渡り初めて、西土の來聘よりははるかに以前なり、殊に百濟より王仁の類ひ來りて經書わたり、又三十代欽明天皇の御代に佛經渡り、すべて西土より先に種々の物を渡し來さしめしものならんかといへり、此説によるべきにや、とにかく吉備公の歸朝まへに渡りし事は正しくしられたり、
p.0046 凡僧尼作二音樂一、及博戯者、〈謂雙六、樗蒲之類也、〉百日苦使、碁琴不レ在二制限一、
p.0046 承和二年三月十五日、弘法大師有二遺吿等一、碁琴非二制限一之由、雖レ載二僧尼令一、門弟等圍碁雙六、總以可二停止一、
p.0046 凡聞二父母若夫之喪一、匿不二擧哀一者、徒二年、〈○中略〉雜戯、杖八十、〈(中略)雜戯、謂二雙六圍碁之屬一、〉
p.0046 慶長十年八月 附曰、十日伏見城御制法、〈○中略〉 一圍碁象戯、諷灑打(シナイウチ)、扇切、相撲以下、於レ仕レ之者、可レ致二言上一事、
p.0047 覺
一町中ニ而、碁將棊雙六、當座之慰にも、金銀之儀は不二申及一、蠟燭一紙一錢之諸勝負かけ、堅仕間敷候、
辰八月〈○承應元年〉
右は八月十三日御觸、町中連判、
p.0047 碁盤〈○中略〉 倭俗爲二碁雙陸之戯一謂レ打、
p.0047 碁ノ手ニ付テ、ウチカフ、ノゾクナド云、其字ハ何ゾ、左樣ノ宇、皆碁經ニアルベシ、取分テ卅二字ノ難字アリ、
衝(サシイル) 幹(ウチカフ) 綽(ヲシカヘス) 約(ヲサフル) 飛(トバス) 關(トホル) 劄(ツムル) 剳(同) 粘(ツグ) 頂(ヲフ) 尖(スルド) 覻(ノゾク) (同) 闋(トムル) 打(キル) 斷(タチキル) 行(ノフル) 立(タチヘタツル) 捺(ウチハサム) 聚(メナル)點(ナカデ) 跨(マタガル) 夾(サシハサム) 拶(セムル) 㠔(ウチテトル) 勒(カラム) 擈(同) 征〈○塵添壒囊抄傍訓シチヤウ〉 持(チ) 殺(コロス) 鬆(ミタル) 槃(タスク) 等也
p.0047 圍棊三十二字釋義
立 歷也、浩レ邊而下レ子者曰レ立、恐三彼子有二徃來相衝之患一也、
行 行也、連レ子而下曰レ行、使レ有二粘連不斷之緖一也、
飛 走也、隔二一路一而斜走曰レ飛、有レ似二禽鳥斜飛義一也、
尖 儉也、兩路斜儉而下レ子曰レ尖、使レ有二覻レ之之意一也、
粘 連也、彼欲二以レ子斷一レ之、我卽以レ子連レ之、故曰レ粘、
幹 間也、謂二以レ子間一レ之曰レ幹、
綽 侵也、以二我子一斜侵レ彼子之路一而欲レ出レ之曰レ綽、
約 攔也、以二彼子一斜攔レ我之頭一而反閉レ之曰レ約、 關 隘也、爾手相對而立者謂二之關一、有二單關雙關之名一、
冲 突也、直連レ子而入レ關謂二之冲一、
覻 視也、有二可レ斷而不レ斷、先以レ子視一レ之曰レ覻、
毅 提也、棊死而結レ局曰レ毅、旣毅而隨レ手毅曰二復毅一、俗又謂二之提一、今集中但以二提字一音レ之、欲レ易レ曉レ之耳、
劄 也、有下若二兩虎口相對一者上、夾而 レ之、使レ有二復毅一、
頂 撞也、我彼之子同路而直撞レ之之謂レ頂、
捺 按也、以レ子按二其頭一曰レ捺、自レ上而按レ下也、
蹺 翹也、我彼之子、皆相倚聯行、而我子居レ下、勢不レ能レ張、而欲三先取二其勢一、則以二我子一斜出二一路一、而拂二彼 子之頭一、若二翹レ首之狀一也、經曰、寧輸二數子一、勿レ失二一先一、正此意也、
門 閉也、閉レ之使レ不レ得レ出曰レ門、隔二一路一曰二小門一、二路曰二大門一、
斷 段也、段レ之而爲レ二曰レ斷、
打 擊也、謂レ擊二其節一曰レ打、迚二打數子一曰レ赶、
點 破也、深入而破二其眼一曰レ點、旁二通其子一透點、
征 殺也、兩邊逐レ之、殺而不レ止曰レ征、
嶭 截也、謂以二我子一住二彼之頭一、緖次著斷也、使二之急應一曰レ嶭、
聚 集也、凡棊有下未二全眼一者上、則反聚而點レ之、有二聚三、聚四、花聚五、聚六之類一、
刧 奪也、先投子曰レ抛、後應レ子曰レ刧、乃有二實レ東擊レ西棄レ小圖レ大之功一也、
拶 逼也、以レ子促而逼レ之曰レ拶、
撲 投也、以二我子一投二彼穴中一、使二其急救一曰レ撲、
勒 策也、使二其無一レ眼曰レ勒、與二劄刺之義一小異耳、 刺 刺也、連レ子而直入曰レ刺、若二戈戟之傷一、此亦使レ無二全眼一也、
夾 甲也、兩子夾二一子一曰二實夾一、兩子自夾曰二虚夾一、
盤 蟠也、兩棊隔絶、而欲レ連レ之、沿レ邊度レ子曰レ盤、
鬆 慢也、棊家取下其珍瓏透二空疎一而不漏之謂上也、
持 和也、兩棊相圍而皆不レ死不レ活曰レ持、有二兩皆無レ眼者一、有二兩棊各有レ刧者一、有二各一眼活者一、有下彼棊兩段各一眼、而我棊一段無レ眼、間二其中一而倶活者上、蓋取二其鷸蚌相持之義一曰レ持、
p.0049 圍棋
其圍棊呼音曰レ俄(ゴ)、棋盤亦分二三百六十一著一、棊子亦分二黑白二樣一、圍佔之法、大意相同、亦知レ打急呼曰二過戸之(ゴウチ)一、著識接斷、呼曰二子吾(ツク)一、其兩不レ入、呼曰二了無是一、但負勝與二中國一殊、假如圍佔著數、將内所レ得彼棋子捨二于手一各收二之待盤内一、兩圍佔畢、然後各將二所レ得棋子一、塡二彼所レ佔空内一、兩皆塡滿爲二和局一、如塡滿是爲二輸局一、塡滿内多二一著一、是爲二贏局一、外和局呼曰二是我(ジゴ)一、贏曰二各打(カツタ)一、輸曰二埋吉打(マケタ)一、
p.0049 三人僧徒關東下向事
昔天竺波羅奈國ニ戒定慧三學ヲ兼備シ給ヘル一人沙(ノ)門ヲハシケリ、一朝國師トシテ四海倚賴タリシカバ、天下人歸依渴仰セル事、恰大聖世尊出世成道如也、或時其國大王、法會ヲ行ベキ事有テ、説戒導師ニ此沙門ヲゾ請ゼラレケル、沙門則勅命ニ隨テ鳳闕ニ參セラル、帝折節碁ヲ被レ遊ケル砌へ傳奏參テ、沙門參内由(ノ)ヲ奏シ申ケルヲ、遊シケル碁ニ御心ヲ入ラレテ是ヲ聞食レズ、碁手(ノ)ニ付テ截(○)ト仰ラレケルヲ傳奏聞誤テ、此沙門ヲ截トノ勅定ゾト心得テ、禁門外ニ出シ、則沙門首(ノ)ヲ刎ニケリ、〈○下略〉
p.0049 碁之詞字
一碁、に三十三法あり 立(たつ)〈おりきる おりさがる〉 行(のぶる) 飛(けいまとび) 尖(こすみ) 粘(つぐ) 幹(へだつる) 約(おさゆる)
綽(はぬる)〈はねかくる〉 衝(さしいる) 開(一けんとび)〈せむる〉 覻(のぞく) 䝘(うつてとる) 劄(とむる)〈つむる あたる〉 頂(かしらにおく)
擦(からむ)〈ひらよりおす〉 蹺(はねあがる)〈わたる またがる〉 門(あしだ) 斷(たちきる) 打(うつてとらんとす)きる 點(なかて) 征(しちやう)
嶭(つゞかせぬ) 㠔(うちきる) 聚(めなる) 刧(こう) 拶(せむる)〈ついてゆく〉 楪(うちかう) 勒(つぶす)〈からむる〉
勅(やぶる) 夾(はさむ)〈さしはさむ〉 盤(わたる)〈たすけわたる〉 鬆(ゆるくとむる) 持(せき)
一右のほかにつかふ詞字
逴(をしかへす) 闋(とる) 覗(のぞく) 除(のぞく) 塗(ぬる) 馺込(はねこむ) 跨(またげる)
突(つく) 咀(のむ) 抑(おさゆる) 刺(さしやぶる) 八道(むさし) 聖目(せいもく) 星目(せいもく)
井目(せいもく) 爭レ道(あらそふてだてを) 贏輸(かちまけ) 强弱(つよくよわし) 持碁(ぢご) 助言(じよごん) 先(せん)
碁笥(ごけ)
綴五(てつこ) 饒三(ねうさん) 硬節(かうせつ) 虎口(ここう)
p.0050 碁打の花見
きさらぎ中比、四方の花ざかりなりとて、京中の男女、老たるも若きもいさみあへる、我も友びとに誘れ、先東山の花と急ぎ、四條河原鼠戸の前をゆくに、上下となく立こみて、ゆくとも歸るともあしもとをしられず、かちくくゞり出て、祇園の櫻門に立やすらひ、をくれし友を相待けるに、我よりさきだちて、いづくともしらぬ人ふたり、心しづかにみえて、打かたらひゆけり、ひとりは色白(○)なる男と、ひとりは色黑(○)き人也、井垣のもとに、まだつぼみたる花あるをながめ入て、色白なる男のいふ、
ひらかざる(○○○○○)花のかたちや重(テウ/○)か半(ハン/○)
跡に先に諸人のゆくを見て、黑き男、 我がち(○○)につゞきて出る花見哉
林に幕をうたせける人のあるを見て
幕串はすみかけてうて(○○○○○○○)花の下 白
ふしぎなる事をいふ人々かな、此句作をきくに、皆碁の手の詞也、日ごろ碁の友にて遺恨は有ながら、互ににくからぬ中なれば、けふは打つれ出づるが、かゝるいひすてまでもはげむにやと推し(○○)たり、そこにて彼二人がつれたる供の者どもをよびて、汝らは淸水山に行て花の陰に待べし、芝居は何人のをさゆる(○○○○)ともをしてとれ(○○○○○)、先をとらるゝな(○○○○○○○)といひて、
花によき所をとるや先手後手(○○○○) 黑
人々の入こまんに、幕を打て、したをはふ(○○)て出入せよといひつけて、
遊山する地をやぶられな(○○○○○○○)花の陰 白
おかしき事と思ひ、猶跡をしたひてきく程に、かたわらに幕打まわし、大勢ならびゐたる中に、おさなき人影も見へて、うたひまふ聲しければ、
兒や花のぞき手(○○○○)もがなまくの内 黑
花見にはせめあひ(○○○○)なれや順の舞 白
中手(○○)こそならぬ花見のまとゐの場 黑
此二人の知たる人ひとり、たど〳〵しくゆくを見付て聲をかけけれど、しらず過ければ、
手をうつ(○○○○)をしらざるは何花の友 白
つひには此人もあいつれて
見をとし(○○○○)をせぬやなみ木の花ざかり 黑
あれを見ん、これをといふをきゝて、 四町(○○)にやかゝりがましき花の友 白
淸水の花はけふを盛也、其中にかつ咲殘りたるもめり、又枯て時しらぬもまじれりけるを、
所々だめ(○○)をさゝゐやはなざかり 黑
いたみてやまだ目をもたぬ(○○○○○)花の枝 白
鹽竈といふは、大かた散過たるを、
あげはま(○○○○)となるしほがまの櫻哉 黑
爰に垣ゆひまはし、あたりへ人をよせざるあり、色ことさらにみえければ、
守るてふ關(○)はやぶらじ花盛 白
山に行て、爰かしこに酒盛しけるを、
さしかはす花見の酒やかたみ先(○○○○) 黑
よわからぬ相手(○○○○○○○)もがもな花見酒 白
花にゑいて皆持(○)となるや下戸上戸 黑
あまりに呑過して、歸るさうたてかるべし、ひかへられよといふて、其のむ人にかはりて、
興さむるかため(○○○)はいかに花の醉 白
此三人も、をのが芝居に入て盃さし出けれど、ひとりは下戸とみえて、さかづきをもとりあへねば、
さかづきは打て返し(○○○○)よ花の友 黑
あれなるを一枝おりて、家づとにせまほしけれど、人の見るめ、をとなげなし、おらじといへば、後にあいたる友のいふ、これ程たくさんなる花なれば、何のくるしかるべき、たゞ〳〵おられよといへりければ、 花の枝は助言(○○)のごとく切てとれ(○○○○) 白
おる人にはねかけよ(○○○○○)かし花の露 黑
よそを見る顏しておるや打かひ手(○○○○) 白
折えたる花や梢の猿はひ手(○○○○) 黑
花守のとがめたらん時には
手(○)を見せよおるかおらぬか花の枝 白
花守やおるを見付て追おとし(○○○○) 黑
見とれては目あり目なし(○○○○○○)よ花の色 白
花あらば這(○)ても見まし岩根道 黑
打(○)はさめちる二またのはるの雪 白
高みよサ飛手(○○)にちるな花の枝 黑
木ずゑまでわたり手(○○○○)もがな花盛 白
手づから茶をたてゝ
こう(○○)たてゝ見るは花なる白茶哉 黑
家の内にて、ちいさき枝を見るさへうれしきに、まして此遊山はとて、
花少しいけ(○○)てだに見し竹のふし 白
けふ此山に打むれたる人々、いくらにやといひて、
もく算(○○○)のならぬ群集や花の山 黑
種や人まくに及ばぬはる(○○)の山 白
夕日にはむかへど花はひがし山 黑 けふ此二人のおかしき手あひをみて、こなたには何事も思ひよらず、あまりほゐなさに、
斧の柄は朽ぬにもどる(○○○○○○○○○○)花見哉
寬文二年三月中旬 立圃
p.0054 圍碁記 白色空陽の大極は、形よりうへの至誠の具、黑色相陰の無極は、象より下にあらはれて明德の器なり、所レ謂二(テウ)か一(ハン)かの顯密、動靜端なく、變化窮りなきの矩ぞおかしきや、焉によりて是を慮に、棋一局の上に、盤法棊一の修行あり、一手いつれの先(セン)にかへる、一三をうみ、三亦三をよびて、九曜を聖目(ヒジリメ)と名づく、細目(サヾレメ)は年月のたゝかひ、三百六十の骨頭の奴婢も思慮に退屈、手に無盡の公案を困じにたれば、九萬八千の毛孔の眷屬も分別に汗を倦、兩人二儀の中央、土臺四角の金色盤、其色黃なる薢盤を錬合し、その音宮の響、子聲丁々然たり、石に黑白の凡聖を見せ、四敎五時の手だて、八宗に經緯たり、中にも九年盤壁の蘆の葉入道、自己の心眼を二 (ツメナリ)て上根上智の (アタマ)から水をかけ、高談善巧の唇に蕃椒を吸つけしも、しらぬ顏したるぞ世一の碁所とはいふめる、此玉盤會下に、不變常先の碁祖六祖、七目亂のつくり物をむねとし、一千七百則の碁鏡をつゞり、四目(ツ)ごろしの狗子髫髮、六目むさしの野狐童をはじめとして、高慢魔心の障費しを鏖にせんとなるべし、嗚呼先手は旣に沙羅林にさり、後手はいまだ鷄頭城の碁笥より出ず、番除の中座に覷(ノゾキデ)を見て、無門のせきのやぶれに爪彈し、不禪の根なし石にかたづをのむ、亂碁粉灰の抓合になりて碁代をあらそひ、あるは竹の節の囿に逍遙し、寢濱の原に遊戯す、下手の永膝、百會の禪鞠をおとし、五陰幻城の責合に馺(ハネコミ)を進み、四虵泡軍の追落しにすくみ手をうち、又は三有沈淪の仇(ムダ)手、五夢顚倒の悔手、碁敵の因果、綽(ムクヒテ)をいどみ、碁罵(ゴタハコト)に舌をかへさぬ、文に曰く、横無初終二世碁心、たがひに前生の罪を質とり手だまし、五慾の鬆、三毒の飛(ケイマトビ)に、袒裼ト俛焉ト無明の手負石に煩惱の門(アシダ)をはく、かつ邪正一目を捨、十地に蹺(ハネアガリデ)をねらひ、無爲の畾地(/ライチ)に尖(コスミ)まはる、ある時は二河 の粘橋(ソキテバシ)を盤(ワタリデ)にかゝり、三界唯關(イツケントビ)、を見損じ、心外無間の穴へ挾しを、毒虵の口網をもて㠔(ウツテトリデ)ぞあいなきや、有無の中碁に至りては、諸方實目に見まはし、崩限(クヅシギハ)の終焉、目まぎれに惑ては、過去塵點の刧のたて替なく、外にむかつて助言を求、左右に著して宮仕小性の目せゞして、小盞の抑(ヲサヘデ)を握り、肴を捺(ウチハサミデ)に、手爲見(テミセ)禁の扱をもきゝいれず、あなや生死の點(ナカテ)におどろき十廾卅棒(トウハタサンジウバウ)の目算に跨(マタガリデ)ある時は善惡不二の幹(ウチカへデ)をくらはし、 槃ともに斷(タチギリデ)をいれ、直指人身の掌に隱濱をしては、見生上手の品をあらはし、修多羅の碁經は、徒目(ダメ)さす指のごとし、八萬諸勝負の奧の手も一目不切、碁聖別傳、不立凡石、只あらまほしきは本來の待石を見立、不行不來の征(シテウ)を悟、盤中乾坤の夢石を直し、有漏の消地(ケチ)をさゝむよりは、事理持碁にうちなし、檜栢(ヒノキカヤ)のばんじを放下して、無念無生の線香を杖につき、非空の心庵にかへり、碁勢不可得の定石を見つけ、贏輸(カチマケ)の境を離れ、鷺烏(シロクロ)の間に居らば、無無無無と (エミヲフクム)こそおかしけれ、
p.0055 定石(○○)〈碁〉
p.0055 先手事
初番の先手(○○)をひとしくあらむにをいては、むねとの人、若は先達にはうたせずしていそぎすべし、所ををく義なり、聖目(○○)に可レ打、さけてをくは樣々しくてけましき也、次の手は心にまかすべし、先の手をば中聖目(○○○)に打入べくやとおぼゆ、其故は中に打つればかさ(○○)をうたる、中の池をとられず、四丁(○○)不レ被レ懸、又我爲には此等の事に皆便ある也、但是はこのみによるべきにこそ、
p.0055 くるしきまでもながめさせ給ふかな、御碁うたせ給へといふ、いとあやしうこそはありしかとはのたまへど、うたんとおぼしたれば、ばんとりにやりて、我はと思て、せん(○○)せさせたてまつりたるに、いとこよなければ、またてなをしてうつ、
p.0055 せん〈○中略〉 圍碁にいぶは先の字音、先手をいへり、唐書朱全忠先手、通鑑正誤 に、如二奕棊之先手一也と見ゆ、
p.0056 聖目の事
近來上州邊の老人の話に、局面の中央へ先を置事を太閤先といふよし、其の義は豐臣太閤秀吉公、圍碁を好みたまひけるが、中央へ先手を置きて、敵手の眞似をすれば負ることなし、持碁か一目勝になる理なりとのたまへりといふ、圍碁口傳に、敎深が説に曰、まねび碁といふ事あり、普通の人は不レ知云々、眞似碁の事をいふか、若くは太閤先の事ならば、極て僻説なり、十八手にて眞似不レ成打方あり、
p.0056 和漢同趣
筭哲天文の理を考へ、寬文年中螢中釣覽の圍碁に、本因坊道策と先著を、勢子の中央へ置く、然れども算哲九目碁を負たり、淸朝の國手汪漢年なる者、大極へ先を置きし事あり、國は和漢を分ち、人は先後を隔といへども、相似たる事なり、
p.0056 互先(タカヒセン/カタミセン)〈圍碁所レ言〉
p.0056 つちみかどの齋院と申て、稹子内親王と申ておはしき、〈○中略〉歌なども、人々まゐりてよむをりも侍けり、水のうへの花といふ題を、ときのうたよみどもまゐりてよみけるに、女房の歌、とり〴〵におかしかりければ、むくのかみとしよりも、むしろにつらなりて、このうたは、圍碁ならばかたみせむ(○○○○○)にこそよく侍らんなど、とり〴〵にほめられけるとぞ、
p.0056 仙榮碁ずきの事
むかし〈○中略〉小田原に、武與左衞門順衞木齋藤などゝいひて、碁よく打者共あり、ばか山田にたがひせん(○○○○○)の碁、いづれも眞野には三つ四つの碁なり、
p.0056 今石九ツおくを、せいもく(○○○○)といへど、此九ツ置べき處の黑星は、一ツにても聖目な り、今人の碁うつを見るに聖目をさけて打、古法と異なり、殊に先手に中の聖目に打こと見及ばず、
p.0057 目算(○○)事
石を大旨立てと、半番と、結ちかく成てと三度すべき也、せめていどむときに、合ては敵のはまをうちとらむ度に、かぞへて可レ知也、敵のはまの員をしりなば目算不レ可レ違、十目計の勝負は習にて我よはく覺也、其心を行はからふべし、勝になりぬと覺ゆるばかりにてかぞへぬは、あやまちの時にいでくるなり、必かぞへ勝負をば可レ存なり、目算第一の大切也、目算のよきといふは、かぞふるともみえぬ樣にて、さりげなく見せながら勝負をみる也、上手なれども目算をろかなるは、たのもしからぬ事也、二ぢうなれども、目算よくすればまけをせぬなり、見證の目をたのむべからず、かならずあしき也、また石を打たる番は、かちとみえて負る事のあるなり、
p.0057 元久二年閏七月廿六日辛亥、右衞門權佐朝雅候二仙洞一、未二退出一之間、有二圍碁會一之處、小舍人童走來、招二金吾一吿二追討使事一、金吾更不二驚動一、歸二參本所一令二目算一之後、自二關東一被レ差二上誅罰專使一、無レ據二于遁逃一、早可レ給二身暇一之旨奏訖、〈○下略〉
p.0057 劫(コフ/○)〈事類、宋王景文圍レ碁爭レ劫云々、又説文、人欲レ去以レ力脅止曰レ劫、〉
p.0057 こふ〈○中略〉 圍碁にいふは劫字也、源氏におもきこふにといふも、劫にとりてつむる意也、
p.0057 劫事
我石をば、かねて劫なきやうに打置て、敵の石を劫(○)に多成樣に打成(ント)思ふなり、打てとらるゝ跡に、手を打、劫をせむとするまで案ずる也、碁の手を案ずるといふは、劫に成員をかぞふるなり、劫をするには吉番をばたばうて、つまりてさしかへむずる所にあてむと思也、また始は劫をきらは ず用る事有也、
p.0058 建長五年十二月廿九日、法深房のもとに形部房といふ僧有、かれとふたり圍碁を打ける程に、法深房の方の石、目一つくりて其うへこうを立たりければ、たゞにはとらるまじといはれけり、形部房云、目は只一也、こう有とても又目つくるべき所なし、そばにせめあふ石もなし、にげて行べき方もなし、いかでかとらざらんと、法深房が云、それはさる事なれ共、外に兩こうの所有、是をこうにしゐたらんずれば、まさる敵を取て勝べし、兩こうの石をおしまれば、目一のうへのこうつがさすまじければ也、形部房云、兩こうはさる事にて候へ共、それをたのみて目一の石いくまじきをせめて候へと候〈○候原脱、今據二一本一補、〉いはれなき事也と、たがひにあらそひて、ことゆきがたきによりて、懸物を定めてあらがひに成にけり、當世圍碁の上手共にことはらせける、先備中法眼俊快にとひたりければ、兩こうにかせう一ツとはこれが事なり、法深房の理り也と定めつ、次に珍覺僧都にとふに、又法深房の理也とさだむ、次に如佛にことはらするに、判に云、目一ありといへ共、兩こうのあらんには、死石にあらずといへり、自筆に勘て判形くはへてをくりたりけり、此上は又判者なければ、法深房の勝に成りてげり、形部房懸物わきまへ風呂たきなどして、きらめきたりけり、抑しはすの二十九日、さしものまぎれの中に、圍碁をうつだに、打まかせては心付なかりぬべきに、所々人つかひをはしらかして判ぜさせけるこそ、罪ゆるさるゝ程の數奇にて侍れ、俊快法眼は感歎入興しけるとぞ、
p.0058 本能寺にて圍碁の事
天正十年、信長公明智光秀が中國の毛利征伐援兵に趣く武者押しを、御覽成されべき爲め、近州安土より御登りなされ、京都本能寺に御逗留なり、六月朔日、本因坊と利玄坊の圍碁を御覽、然るに三劫(○○)といふもの出來て、其碁止めとなり、拜見の衆中も奇異の事に思ひけるとなり、子の刻過 ぐるころ、兩僧歸路半里ばかりにて、金鼓のこゑ起るを聞きおどろきしが、是れ光秀が謀反して攻め來たり、本能寺を圍むにてぞ有ける、翌二日同所にて信長公御生害なり、後に圍碁のことを思ひ出だして、前兆といふこともあるもの哉と、衆皆々云ひあへりといふ、またその時の碁譜成とてつたへたり、此の碁をおもひ見るに、利玄が隅の石をとらるゝを見損じたる本因坊が、布置手配の樣子、是亦前兆ともいふべき歟、
p.0059 いつの年なりけん、本因坊、死に臨みて口吟せし歌とて人見す、自家の業に合せて、いと面白し、
碁ならばやかうにもたてゝ生べきを死ぬる道には手一つもなし
p.0059 征點(シテウナカテ/○○)〈圍碁所レ言〉 止長(シチヤウ)〈同上〉
p.0059 しちやう〈○中略〉 圍碁にいふは四張の義にや、征字を譯せり、
p.0059 先手事
先の手をば中聖目に打入べくやとおぼゆ、其故は中に打つれば、かさをうたる、中の池をとられず四丁不レ被レ懸、
p.0059 姉何
あづま路のはてとおもへど碁を打て 四てうにかくる佐野の船はし
p.0059 はま(○○)〈○中略〉 碁に濱といふも、濱の眞砂の意にとるなるべし、
p.0059 天曆御時〈○村上〉一條攝政〈○藤原伊尹〉藏人頭にて侍けるに、おびをかけて御ごあそばしける、まけたてまつりて、御かずおほくなり侍ければ、おびを返し給ふとて、 御製
しら浪のうちやかへすとまつほどにはまのまさごの數ぞつもれる
p.0059 だめ(○○) 碁にいへり、むだめの略にや、徒目など書り、或は儺目と書り、方相氏の四
p.0060 第六圖
天正年中
〈中押勝〉本因坊算砂
〈先〉鹿鹽利賢
百三十手
p.0060 第三十六圖
延寶二年
本因坊道策
〈二子一目勝〉安井春知
劫トル 全 劫ツク
劫トル 劫トル 二ノ十三
三ノ九 㒰 ツク
劫二ノ十三 㒰 㒰
二百手以下略
後世此ノ棋ヲ以テ棋聖道策一世中ノ傑作ト稱セリ 目に據にや、或〈ハ〉攤の目にや、源氏には、けじめさすと見えたり、
p.0061 けち(○○)〈○中略〉 源氏などに、のり弓にいふけちは、結の音也、碁のだめさす事をも、けちさすといへる亦同字也、
p.0061 結事
半番過る程より、結を心にかけて、結鼻をとりて、敵に一手も先手を取せじと、次第を案つゞけてさす也、はたをばかねて、結にいたまぬ樣に打をくなり、敵の石をさしよ、き樣に打なしてをかむとおもふ也、所詮勝負結により、能させば二十目などの負をさしよする也、手をとりなれども、鼻をだにも取はじめられぬれば、上手こたへて無レ術事なり、
p.0061 なぞかうあつきに、このかうしはおろされたるととへば、ひるより西の御かたのわたらせ給て、碁うたせたまふといふ、〈○中略〉ごうちはてゝ、けちさすわたり、こゝうとげにみえて、きは〳〵しうさうどけは、おくのひとは、いとしづかにのどめて、まち給へや、そこはぢにこそあらめ、このわたりのこうをこそなどいへど、いで此たびはまけにけり、すみのところ〴〵、いでいでと、をよびをかゞめて、とを、はた、みそ、よそなどかぞふるさま、いよのゆげたもたど〳〵しかるまじう見ゆ、
p.0061 越年は、〈○大永三年〉薪酬恩庵傍、捨密下爐邊、六七人あつまりて、田樂の鹽噌のついで、誹諧たびたびに、〈○中略〉
碁盤のうへにはるは來にけり
うぐひすのすごもりといふつくり物(○○○○○○○○○○○○○○○○) 宗鑑
朝がすみすみ〳〵までは立いらで 宗長
是も愚句、つけまさりはべらんかし、
p.0062 ぢご(○○) 持碁の義也、兩方勝負なきをいふなり、
p.0062 聖目の事
圍碁贏輸なきを持碁といふは正字にあらず、歌合に勝負左右にこれなきを持ちといふにならへるなるべし、然れども圍碁三十二宇釋義をみれば、持はせきのことをいふなり、持碁の正字は芇なり、通玄集に、勝敗なきを芇といふとあり、又停路を芇と爲とも見えセり、停は定なり、違はぬと云ふ意なり、芇はものを二つ分にするを云ふ、本邦にて勝て路多きを中押勝(○○○)といふ、〈○中略〉
駿府大御所樣御前に於て、本因坊利玄坊との圍碁に、四十九目勝と、筭砂が勝負記にあり、中押勝もあり、思ふにこれは、大御所樣何程の勝ちかつくりて見よと、御意ありしなるべし、當今にても負方の任意なれども、二十目以下は止合するなり、又慥に負としれば、十目餘なれば中押負にするものもこれあるなり、古譜に於て余が觀たる大負は、筭哲が道策に廿五目負、右同人道悦に廿二目負、仙德が烈元に三十一目負、是れは相良侯〈田沼殿〉にての圍碁なり、互にはやき性質故、四時より圍み初め、八ツ時半に畢、目筭を不レ爲故なりといへり、然れども高段の圍碁には、不相應戒むべく、また耻づべきことなり、筭節が知得との圍碁に、四目負の碁を不二止合一、中押にせしは奇異のことなり、是れは勝ちにも成るべくおもふ碁をまけしゆえ、憤怒せしなりといへり、その碁を見るに、雙方氣骨ありて頗る有レ趣、稀なる事故其の譜を載せたり、
p.0062 弘化元年五月、是月下旬、碁方井上因碩上書、〈圍碁の術としても、只能自己を守を以て一と仕候、勝負を論候者は、素人之事にて、極意に至候而者、白石を取候得者、必負申候、卽治亂皆一局に表し申候、右之對局に、若誤て損毛又は不慮之難に逢候得者、益己を守り候より外無レ之、俄に其損毛を補はんと急候得ば、忽敗亂と相成申候、〉
p.0062 一盤〈碁ノ事也〉 一目〈碁〉
p.0062 碁將棊に幾ばんといふばんの字 碁將棊に幾ばんといふばんの字を、番と書は誤也、一枰二枰など枰の字を書べし、舊本今昔十二卷卅三語に、碁一枰打、〈タムト〉弱氣ニ云バ云々とあり、
p.0063 列見
事畢、公卿自二後戸一出著二朝所一、〈○中略〉四獻〈此以後用二例土器一〉居二餅餤一、大辨拔レ箸執レ笏候二氣色一、上卿不レ拔レ箸不レ執レ笏揖許、〈或上古此間有二圍碁声一〉
頭書 圍碁沼二公卿若辨少納言中、能レ碁之輩一圍レ之、〈○中略〉其儀六位外記二人、持二碁盤〈碁笥居レ上〉二枰一、置二公 卿座東一、〈二枰東西相對〉史二人取二菅圓座四枚一、敷二碁枰南北一、上首二人居二北圓座一、上首把レ黑、下﨟把レ白、公卿以 下移著二碁所一、相分爲二念人一云云、
p.0063 向局事
先石のふたをあけて、黑きを敵のかたへやりて、白を我は取べし、
p.0063 萬躾方の次第
一主人碁をあそばし候はゞ、碁盤をなをす時、賞翫の方へ黑を置べし、但夜は白あがりたるべし、何も陰陽の心得也、去ながら又は主人の御意にもまかすべし、
p.0063 躾式法の事
一主人と碁雙六參る事、主人には白石にてうたせべし、其故は夜るなど參には、我が石にまぎるるゆへ也、
p.0063 色々の事
一圍碁は百目宛を春夏秋冬にあつる物也、さて貴人と碁を參らん時は、盤の上に二ツ候ごげを御好みにまかせて御取候時、殘たるを可レ給、こなたより參らせば、白を進すべし、
p.0063 一碁盤將棊盤持て出る事 何時もあかりを横に請て、ゆがまぬように竪に置也、碁盤の上にごげ置ながら、わろく持ては自然すべりて落る物也、持にくきと思は 先碁盤を出し、後にごげを持て出、盤の上にたてに置くべし、北東に白を置樣にすると云説有、それは餘り物しりがほにてわろし、何となく長き方に、たてにごげ二ツならべて置べし云々、〈ごげは碁笥なり〉
p.0064 古昔碁子、貴人及高手黑を用ゆ、今しからずといへり、前にもいへるごとく、上手とて黑を取にあらず、貴人長者は黑をとる也、二人同等の人ならば、上手のかた取べきにや、貞德が油粕、握られん物かやたゞは置まじや調半とふもつらき碁がたき、吾吟我集、ちやうはんと名のりかけ碁の勝負にはぬすみをするは道理せんばん、續山井、如貞、握る手をてうか半とやかき蕨、
p.0064 辨正法師者、俗姓秦氏、性滑稽善二談論一、少年出家、頗洪二玄學一、大寶年中、遣二學唐國一、時遇二李隆基龍潜之日一、以レ善二圍棊一、屢見二賞遇一、
p.0064 吉備入唐間事吉備大臣、入唐習レ道之間、諸道藝能、博達聰慧也、唐土人頗有二耻氣一、〈○中略〉唐人議云、才ハ有ドモ藝ハ必シモアラジ、以二囲碁一欲レ試ト云テ、以二白石一擬二日本一、以二黑石一、擬二唐土一テ、以二此勝負一殺二日本國客一樣ヲ欲レ謀間、鬼又聞テ令レ吿二吉備一、吉備令レ問二聞圍碁有一レ樣、就二列樓一計二組入一、三百六十目計別〈天〉指二聖目一、一夜之間、案持了之間、唐土圍碁上手等、撰定集テ令レ打ニ、持ニテ打、無二勝負一之時、吉備偷盜二唐方黑石一飮了、欲レ决二勝負一之間、唐負了、唐人等云、希有事也、極テ恠ト云テ計レ石〈爾〉黑石不レ足、仍課二卜筮一占レ之、盜テ飮ト云、推レ之大〈爾〉爭〈爾〉在二腹中一、然者潟藥ヲ服セシメントテ、令レ服二呵梨勒丸一、以レ止レ封不レ潟之、遂勝了、
p.0064 天平十年七月丙子、左兵庫少屬從八位下大伴宿禰子虫、以レ刀斫二殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人一、初子虫事二長屋王一、頗蒙二恩遇一、至レ是適與二東人一任二於比寮一、政事之隙、相共圍碁、語及二長屋王一憤發而罵、遂引レ劒斫而殺レ之、東人卽誣二吿長屋王事一之人也、
p.0065 呰下讀二法花經品一之人上而現口喎斜得二惡報一緣第十九
昔山背國有二一自度沙彌一、姓名未レ詳也、常作レ碁爲レ宗、沙彌與二白衣一倶作レ碁時、乞者來讀二法花經品一而乞レ物、沙彌聞レ之輕咲呰、故㑦二己口一該レ音効讀、白衣聞レ之、碁條恐矣、白衣者作レ碁毎レ遍而勝、沙彌者遍猶負、於レ是卽坐沙彌口喎斜、令二藥治療一而終不レ直、 碁〈五反〉
p.0065 天長十年三月壬寅、天皇御二紫宸殿一賜二群臣酒一、有二圍碁之興一、訖賜二親王以下御衣被一、各有レ差、
p.0065 承和元年七月庚申、是中旬之初也、上御二紫宸殿一賜二侍臣酒一、乃至二促親王大臣座於御床下一、令二以圍一レ碁焉、夕暮而罷、賜二親王大臣御衣、次侍從已上祿一、各有レ差、
p.0065 承和三年三月庚戌、是中旬之初也、天皇御二紫宸殿一賜二侍臣酒一、至二御床之下一促二侍臣座一、令三以圍レ碁、且彈二琵琶一、日斜酒罷、賜二大臣御衣一、
○按ズルニ、承和元年七月庚申、三年三月庚戌、並ニ十一日ナリ、類聚國史之ヲ旬宴ニ收メタリ、
p.0065 承和三年六月戊午、天皇御二紫宸殿一賜二侍臣酒一、且令レ圍レ碁、天皇依二炎熱一脱二御靴一、勅二侍臣一同亦脱レ之、喚二相撲司一幷令レ奏二音樂一、侍臣具醉、賜二親王已下、五位已上御衣被一有レ差、
p.0065 仁壽三年四月甲戌、大内記從五位下和氣朝臣貞臣卒、〈○中略〉貞臣爲レ人聰敏、質朴少華、性甚畏レ雷、不レ留二意小藝一、唯好二圍碁一、至二於對レ敵交一レ手、不レ覺二日暮夜深一、
p.0065 圍碁
延喜十六年〈○十六年、一本作二六年一、〉六月四日、御二南殿一、〈北庇西第三間大床子御座〉令二侍臣依レ仰圍碁一、其負者賜レ酒、
p.0065 碁擲寬蓮値二碁擲女一語第六
今昔、六十代延喜ノ御時ニ、碁勢、寬蓮ト云フ二人ノ僧、碁ノ上手ニテ有ケリ、寬蓮ハ品モ不レ賤シテ、宇多院ノ殿上法師ニテ有ケレバ、内ニモ常ニ召テ御碁ヲ遊シケリ、〈○中略〉此テ常ニ參リ行程ニ、内 リ罷出テ一條ヨリ仁和寺へ行トテ、西ノ大宮ヲ行ク程ニ、衵袴著タル女ノ童ノ穢氣无ク、寬蓮ガ童子ヲ一人呼ビ取テ物ヲ云フ、何事ヲ云ニカ有ラムト思テ見返リ見レバ、童子車ノ後ニ寄來テ云フ、彼ノ候フ女ノ童ノ申候也、白地ニ此ノ邊近キ所ニ立寄ラセ給へ、可レ申キ事ノ有ル也ト申セト候フ人ノ御スル也トナム申スト、寬蓮是ヲ聞テ、誰ガ云ハスルニカ有ラムト恠ク思ヘドモ、此ノ女ノ童ノ云フニ隨テ車ヲ遣セテ行ク、土御門ト道祖ノ大路トノ邊ニ、檜墻シテ押立門ナル家有リ、女ノ童此也ト云ヘバ、其ニ下テ入ヌ、見レバ前ニ放出ノ廣庇有ル板屋ノ平ミタルガ、前ノ庭ニ籬結テ、前栽ヲナム可レ有カシク殖テ砂ナド蒔タリ、賤小家ナレドモ故有テ住成シタリ、寬蓮放出ニ上テ見レバ、伊與簾白クテ懸タリ、秋ノ頃ノ事ナレバ、夏ノ几帳淸氣ニテ簾ニ重子テ立タリ、簾ノ許ニ巾鑭(カザリキラメ)カシタル碁枰有リ、碁石ノ笥、可咲氣ニテ枰ノ上ニ置タリ、其傍ニ圓座一ツヲ置タリ、寬蓮去テ居タレバ、簾ノ内ニ故々シク愛敬付タル女ノ音シテ、此寄ラセ給ヘト云ヘバ、碁盤ノ許ニ寄テ居ヌ、女ノ云ク、只今世ニ並无ク碁ヲ擲給フト聞ケバ、而モ何許ニ擲給フニカ有ラムト極メテ見マ欲ク思エテ、早ク父ニテ侍リシ人ノ少シ擲ト思テ侍リシカバ、少シ擲習ヘトテ敎へ置テ失侍テ後、絶テ而ル遊モ重ク不レ爲ニ、此通リ給フト自然ラ聞侍ツレ、〈○此間恐有二誤脱一〉憚乍ラ咲テ云ク、最可咲ク候フ事カナ、而テモ何許遊バスニカ、手何ツ許カ受サセ可レ給キトテ、碁盤ノ許ニ近ク寄ヌ、其ノ間簾ノ内ヨリ空薫ノ香馥ク匂出ヌ、女房其簾ヨリ臨合タリ、其時ニ寬蓮、碁石笥ヲ一ハ取テ、今一ツヲ簾ノ内ニ差入タレバ、女房ノ云ク、二共給ヒヌレ、然テ其ニ置給ヘト申何テガ耻カシク擲ム、〈○一本此下有二ト字一〉寬蓮最可咲クモ云フカナト心ニ思エテ、碁石ノ笥ヲ二ツ乍ラ前ニ取置テ、女ノ云ハム事ヲ聞カムト思テ、碁石笥ノ蓋ヲ開テ石ヲ鳴シテ居タリ、此寬蓮ハ、故立テ心バセナド有ケレバ、宇多院ニモ而ル方ノ者ニ思シ召シタル心バセナレバ、此ヲ極ク興有テ可咲ク思フナルベシ、而テ几帳ノ綻ヨリ卷數木ノ樣ニ削タル木ノ、白ク可咲氣ナルガ、二尺許ナ ルヲ差出テ、丸ガ石ハ先ヅ此ニ置給ヘト云テ、中ノ聖目ヲ差ス手ヲ可二受申一ケレドモ、未ダ程モ不二知ラ一バ、何トカハト思ヘバ、先ヅ此度ハ先ヲシテ、其程ヲ知テコツハ十廿モ受ケ聞エメト云ヘバ、寬蓮中ノ聖目ニ置ツ、亦寬蓮擲ツ、女ノ可二擲ツ一手ヲバ木ヲ以テ敎フルニ隨テ擲持行ク程ニ、寬蓮皆殺シニ被レ擲ヌ、讒生タル石ハ結ニ差マヽニ手重ク不レ擲トモ、大方ヲ守テ手向へ可レ爲クモ非ズ、其時ニ寬蓮思ハク、此ハ希有ニ奇異ノ事カナ、人ニハ非デ變化ノ者ナルベシ、何デカ我レニ會テ、只今此樣ニ擲ツ人ハ有ラム、極メテ上手也ト云フトモ、此ク皆殺シニハ被レ擲ナムカト、怖シク思テ押シ壞ツ、物可レ云方モ思ハヌニ、女少シ咲タル音ニテ亦ヤト云ヘバ、寬蓮此者ニハ亦物不レ云ゾ吉キト思テ、尻切モ履不二敢へ一、逃テ車ニ乘テ散シテ、仁和寺ニ返テ、院ニ參テ而々ノ事ナム候ツルト申ケレバ、院モ誰ニカ有ラムト不審ガラセ給テ、次ノ日彼ノ所ニ人ヲ遣シテ被レ尋ケルニ、其家ニ人一人モ无シ、只留守ニ可笑氣ナル女法師一人居タリ、其ニ昨日此ニ御座ケル人ハト問ヘバ、女法師ノ云ク、此ノ家ニハ、五六日東ノ京ヨリ土忌給フ人トテ渡リ給ヒシカド、夜前返リ給ヒニキト、院ノ御使ノ云ク、其渡リ給ヒケル人ヲバ誰トカ云フ、何ニカ住給フト、女法師ノ云ク、己ハ誰トカ知侍ラム、此家主ハ筑紫ニ罷ニキ、其ヲ知リ給へル人ニヤ有ケム不二知侍一ト、御使返リテカクトカタリケレバ、其後ハ沙汰无クテナム止ニケル、内ニモ此由ヲ聞召テ、極ク奇異ガラセ給ニケリ、其時ノ人ノ云ハ、何デカ人ニテハ寬蓮ニ會テ皆殺シニハ擲タム、此ハ變化ノ者ナドノ來リケルナメリトゾ疑ヒケル、其頃ハ此事ヲナム世ニ云合ヘリケルトナム語リ傳ヘタルトヤ、〈○又見二古事談一〉
p.0067 空也上人、松室興時僧都ノガリ行給ヒタレバ、仲算大德ノ幼少ノ時出合テ、留守ノ由聞エケレバ、上人此兒獨ヲハスル事ヲ哀テ、内ニ入テ、アノ圍局取テイマセ、碁打チ見セ奉ラントノ給ヒケレバ、仲算此局ヲ持上ントシタマフニ、更ニアガラザリケルヲ、聖見給ヒテ、此念珠ヲ上ニ 置給ヘトテ、持玉ヘル念珠ヲ投ラレケルヲ取テ、局ノ上ニ置レケレバ、此局獨リ歩テ、聖ノ前ニ來リケル也ト云事アリ、此上人モ打給ヒケルニコソ、
p.0068 多武峯增賀聖人語第三十三
今昔、多武峯ニ增賀聖人ト云人有ケリ、〈○中略〉龍門寺ニ有ル春久聖人ト云ハ、此聖人ノ甥也ケレバ、年來極テ睦ジキ間、其ノ聖人來テ副ヒ居タリケレバ、聖人極テ喜テ、萬ノ事共ヲ語リテゾ有ケル、而ル間聖人旣ニ入滅ノ日ニ成テ、龍門ノ聖人幷弟子等ニ吿テ云ク、我ガ死セム事今日也、但シ棊枰取テ來レト云ケレバ、傍ノ房ニ有碁枰取テ來ヌ、佛居エ奉ラムズルニヤ有ルラント思フニ、我レ搔キ發セト云テ被二搔起一ヌ、其枰ニ向テ、龍門ノ聖人ヲ呼テ、碁一枰打タント弱氣ニ云ヘバ、念佛ヲバ不二唱給一シテ、此ハ物ニ狂ヒ給フニヤ有ラムト、悲シク思ヘドモ怖ロシク止事无キ聖人ナレバ、云フ事ニ隨テ、寄テ枰ノ上ニ石十許、互ニ置ク程ニ、吉々不レ打ト云テ押壞ツ、龍門ノ聖人、此レハ何ニ依テ碁ハ打給フゾト恐々ヅ問ヘバ、早ウ小法師也シ時、碁ヲ人ノ打シヲ見シガ、只今口ニ念佛ヲ唱ヘナガラ心ニ思ヒ出ラレテ、碁ヲ打バヤト思フニ依テ打ツル也ト答フ、〈○下略〉
p.0068 碁うち給とてさしむかひ給へる、かんざし御ぐしのかゝりたるさまども、いと見所あり、侍從のきみけんぞし給とて、ちかうさぶらひ給に、あに君たち、さしのぞき給ひて、じゞうのおぼへこよなくなりにけり、御ごのけんぞゆるされにけるをやとて、おとな〳〵しきさましてつゐゐ給へば、おまへなる人々とかうゐなをる、
p.0068 勝負を傍に居て見るものをけんぞといへり、源氏、〈竹川〉玉かづらの姫君兄弟碁をうつに、姫君の弟侍從の君、けんぞし給とて近う侍ひ給ふといふことあり、注に見證なり、鞠などにもありといへり、
p.0068 ひるつかた參り給へれば、大宮もこなたにおはしまして、もろともに碁うたせ給ふなり けり、とくまゐりけんぞつかうまつるべかりけりとて、ちかやかにゐ給へるに、ちいさき御木丁などもおしやられて、つねよりもはれ〴〵しければ、宮はいとはしたなしとおぼせど、はゝ宮の見給へば、例のやうにもえそむき給はず、
p.0069 件僧正〈○禪林寺深覺〉大二條殿〈○藤原敎通〉御病危急之時、〈御腹フクル〉參入シテ、圍碁ヲアソバスベキ由申行之、諸人嘲レ之、然而テ猶强テ被レ申ケレバ、相構奉二搔起一圍碁一局アソバス間、病腦忽平癒、已以尋常、諸人爲レ奇云々、〈○又見二繽世繼一〉
p.0069 眞衡〈○淸原〉子なきによりて、海道小太郎成衡といふものを子とせり、年いまだわかくて妻なかりければ、眞衡成衡が妻をもとむ、〈○中略〉眞ひらこの女〈○多氣宗基孫〉をむかへて成衡の妻とす、あたらしきよめを饗せんとて、當國隣國のそこばくの郎等ども、日ごとに事をせさす、〈○中略〉出羽國の住人吉彦秀武といふ者あり、〈○中略〉秀武おなじく家人のうちにもよほされて、この事をいとなむ、さま〴〵のことどもしたる中に、朱の盤に金をうづたかくつみて、目上に身づからささげて庭にあゆみいでたり、庭にひざまづきて、盤をかしらのうへにさゝげてゐたるを、眞衡、護持僧にて五そうのきみといひける奈良法師と圍碁をうちいりて、やゝひさしくなりて、秀武、老のちから疲てくるしくなりて、心におもふやう、われまさしき一家の者なり、果報の勝劣によりて主從のふるまひをす、さらむからに老の身をかゞめて、庭にひざまづきたるを、久しく見いれぬ、なさけなくやすからぬことなりとおもひて、金をば庭になげちらして、にはかにたちはしりて門のほかに出て、そこばくもちきたる飯酒をみな從者どもにくれて、長櫃などをばかどのまへにうちすて、きせながとりてきて、郎等どもにみな物のぐせさせて、出羽國へにげていにけり、眞衡、圍碁うちはてゝ秀武をたづぬるに、かう〳〵してなんまかりぬるといふを聞て、眞衡おほきにいかりて、たちまちに諸郡の兵を催して秀武をせめんとす、兵雲霞のごとく集れり、
p.0070 寬治八年〈○嘉保元年〉十二月十一日、辨侍來云、神今食合卜右少辨、俄穢氣、仍相二催他辨一之處、皆以故障所二出立一也、入レ夜先參内、次參二神祇官一、〈○中略〉已及二鷄鳴一、上卿以下起座行二向神殿前一、撤二打拂坂枕疊等一、各退出、〈○中略〉 上卿命云、近代腰衾、幷圍碁之興絶了、〈○下略〉
p.0070 天養元年八月四日癸未、依二西京雜記意一、遣二侍尾張兼忠惟宗盛言一合手於二實長家北戸竹下一令二圍碁一、〈二枰〉兼忠共勝レ予、〈○藤原賴長〉平常兼忠負云々、今日有レ興事歟、可レ有レ福之象也、 二年〈○久安元年〉二月十一日丁亥、列見、〈○中略〉有二圍碁興一、〈東座權右中弁朝隆朝臣、左少弁師能、西座少納言成隆、同能忠、余已下相分爲レ念〉〈○念下恐脱人字〉〈歟、○又見二本朝世紀、百練抄一、〉
p.0070 久安元年、列見式日にをこなはれけるに、宇治左府〈○藤原賴長〉内大臣におはしましける、參給て事々おこし行はれけり、朝所にて盃酌の後、圍碁有けり、權右中辨朝隆朝臣、左少辨師能、又少納言成隆、能忠等、二雙つかうまつりける、むかしは公卿ぞうちける、辨少納言つかうまつる事は、例たしかならね共、時代によりて定られけるとぞ、公卿は念人にてぞ有ける、此事絶て久しく成てけるに、めづらしかりける事也、
p.0070 仁安三年五月十一日壬午、依二徒然一與二冠者一成二圍碁之戯一、
p.0070 時光茂光御方違盜人事
金田府生時光ト云笙吹ト、市允茂光ト云篳篥吹アリ、常ニ寄合テ圍碁ヲ打テ、果頭樂ノ唱歌ヲシテ、心ヲ澄シタレバ、世間ノ事、公私ニツケテ何事モ心ニ入ザル折節、内裏ヨリ、トミノ御事アリテ、時光ヲ被レ召ケリ、イツモノ癖ナレバ、時光耳ニモ聞入ズ、勅使コハ如何ニトイヘドモ不レ驚、家中ノ妻子所從マデモ大ニ騷テ、如何ニ如何ニト勸メケレ共、終ニ聞ザリケレバ、御使力及バズ、内裏ニ參テ此由ヲ奏聞ス、何計ノ勅勘ニテカアラント思ケル處ニ、主上仰ノ有ケルハ、勅命ヲ不レ顧、萬事ヲ忘テ心ヲ澄シ、面白カルランヤサシサヨ、王位ハ口惜キ者哉、サヤクノ者共ニ、行テ伴ハザルラン事ヨトテ、御涙ヲ流シ、御感有ケレバ、事ナル子細ナシ、
p.0071 建久二年七月廿七日癸酉、大將來、〈直衣也〉今日召二圍碁上手二人一催二其興一、
p.0071 建曆三年〈○建保元年〉五月二日壬寅、義盛〈○和田〉館軍兵競集、〈○中略〉于レ時相州〈○北條義時〉有二圍碁會一、雖レ聞二此事一、敢以無二驚動之氣一、心靜加二目筭一之後、起レ座改二折烏帽子於立烏帽子一、裝束水干一、參二幕府一給、
p.0071 文安元年六月十日戊子、傳聞細川九郎、〈總領也、十三歲、〉去月廿六日覽二圍碁一、〈香西子與二荷田子一十五歲也〉香西子碁手、九郎助言、仍荷田子出二怨言一、追立候畢、其後九郎歷々子立歸拔レ刀、亂二入平臥之席一、〈○以下缺損〉
p.0071 明應二年六月十二日、有レ人吿レ予云、院内衆、近來碁將棊以レ之爲レ業、翁知レ之否、予云、曾不レ識レ之、誰某專嗜レ之乎、云成首座昌藏主擅場也、自餘衆皆效レ之云々、予聽レ之召二昌子一問レ之、則不レ及二一言一、予責レ之、昌云、往事不レ可レ回、於二後々一可二停止一、予云、然者使三予見二其驗一、於レ爰昌取二小刀二一金打云、於二以後一碁幷象棊手レ之者、蒙二伊勢大神宮御罰一、可レ爲二白癩黑癩一云々、
p.0071 永正三年正月廿三日、今夜月待也、與二隣松軒一令レ戰レ碁、曉鐘之後入レ閨、
p.0071 永正十四年八月廿九日、有二御楊弓一、入レ夜又於二御三間一、有二勝負之御碁一令二休窟一了、
p.0071 城ノ大手ノ向ノ山ニ、人數百五十隱置、扨海野ノ向ノ竹原ニ、相圖ノ旗ヲ持セ遣置ケル、〈○中略〉サテ寄手ハ時ヲ不レ移、大手へ差向テ攻懸ルトイヘドモ、眞田〈○昌幸〉少モ不レ驚、來福寺ト云、星占ヲ得タル眞言坊主ト圍碁シテ居ラル、舍弟左衞門佐十八歲、子息伊豆守信幸十三歲ナルガ、此兩人城ヨリ出テ敵ヲ會釋ヒ、大手口マデ引付、能時分申聞セヨト有、兩人能程人數ヲツレ出會釋フ、大手マデ引付、能時分ナリト云遣、其時安房守、〈○昌幸〉來福寺ニ星ヲ繰リ時ヲ考サセ給へバ、來福寺謹デ勘へ、今少早キト申ス、左アラバ、碁ノ德ヲシテ勝負ヲ可レ見ト打懸ル、圍碁コヽロ静ニ仕廻、モハヤ時到來ナルベシ、湯漬ヲ仕出シ候ベシト云、畏候トテ程ナク湯漬ヲ出シケレバ、湯漬ラ食シ終テ、城中ヨリ相圖ノ旗ヲ振ル、〈○下略〉
p.0072 天正十五年閏十一月、碁打ノ本因坊、駿河エ下ル、家康公、圍碁ヲ數寄給間、日夜碁アリ、翌年有二圍碁勝負一、自餘ノ上手ニ先强ク、本因坊ヲ天下第一ニシ給、
p.0072 松平左衞門大夫康直、〈○中略〉此康直、兄康國が妻にそふ、或時御家人の内にて、康直と碁を圍みて負けし人の、我は圍碁には負るとも、兄の妻を我妻とはすまじいものをと云ひしかば、康直怺へず打切り逃げ去りぬ、
p.0072 十八日〈○慶長元年十一月〉吉田へ歸り侍りぬ、其日幽齋老、碁の會御興行、京中の碁打、皆々被レ參候、本因坊など也、せんやも被レ參候也、
p.0072 八年四月十九日、於二禁中一當代上手碁有レ之、從二右府一可レ被レ備二叡覽一之由、内々有二奏聞一云々、内内衆十人計、從レ召伺候、予同伺候畢、碁打四人、本因坊、利玄、仙角、道石等也、先御黑戸之前、打板をかまへ、其上に疊一帖を敷爲座、見物之公、家衆、其遶に圓座を敷、巳刻計に始、先本因坊利玄打之、持碁也、次仙角道石打之、道石三目勝、次本因坊利玄打之、利玄三目勝之、次道石仙角打之、仙角負、入レ夜終、亥刻各退出、碁打四人に一束卷物各被レ下之、
p.0072 慶長八年七月八日壬戌、昨日モ今日モ、將軍〈與○德川家康〉淺野彈正少弼〈與○長政〉御碁有レ之、
p.0072 慶長十一年十二月四日己亥、豐國二位於レ宅碁會、本因坊、利玄坊、是弇、六藏、春智、其外本因坊弟子碁衆十三人同道、終日令二興行一也、
p.0072 慶長十二年十一月、於二大坂本丸一、本因坊、利玄、有二圍碁一、秀賴公見物シ給、利玄先ニテ貳番、始利玄勝、後同利玄先ニテ持碁、三番目本因坊先ニテ本因勝、 十三年卯月十日、碁打利玄下二著駿府一、道石ト毎日碁有レ之、三十番内、七番道石勝越ケルト云々、道石ハ本因坊令二同道一、六月下旬令二歸洛一、此比ハ女性ニ碁有二存知人一、夜ハ大御所見給之ト云々、 十五年九月九日、今日於二駿府一、近習之衆幷年寄衆出仕、大御所面〈江〉少之間出給、奧ニテ碁アリ、本因坊德番ニテ利玄四目勝、又道石ト門入碁有、門 入勝、
p.0073 長政は、實名安井氏にて、淺野は養姓也、〈○中略〉同〈○慶長〉八年より十五年迄之内、圍碁之爲二御相手一度々被二召出一、是者兩御所〈○德川家康、秀忠、〉御密々にて、天下御政務御相談在といふ、同十六辛亥年四月七日、長政春秋六十五歲、常州眞壁におゐて逝去、則於二同所一傳正寺に葬る、法名者傳正院殿功山道忠大居士と號す、此趣達二上聽に一甚惜思召より、後者東照宮圍碁之御遊を止られ、是を誠に古人割琴の智御眞實なりと、世以奉二稱感一となり、
p.0073 或云、家康公ト淺野彈正ト碁ヲウタセ玉フニ、廣間ノエンニ日影サシタルニ、カラカサヲサヽセ玉フ、彈正申ケルハ、本因坊助言ヲ申上ル間、ウチ申間敷ト申、本因坊助言申間敷、笠ヲサヽセト有リテ、本因坊御笠サシテ、家康御目ノ不レ行シテ大事ノ所ノ有ツルニ、本因坊笠ヲソロ〳〵ト引テ、大事肝要ノ所ニ、日ノカゲヲウツシテ見セ奉ル、家康公則時合點マシ〳〵テ、碁ニ勝玉フト也、本因坊道ニカシコキトテ譽玉フトナリ、
p.0073 なべてえうなき御遊戯はこのませ玉はざりしが、時としては申樂を御覽じ、あるは圍碁將棋などもて、御稍閑にもてあそばされし事もありしかど、ふかく御心とめられしにもあらず、
p.0073 慶長十三年正月十日、京より宗桂をめし下し、本因坊筭砂と對局せしめらる、
p.0073 仙榮碁ずきの事
むかし我知人なりし眞野仙樂齋は、關東にて碁の上手といはれしが、よの事はかたくなにゆくりなき人にて候ひし、又伊豆國下田と云在所に、山田と云者あり、此の者萬にたらざりけるゆへ、皆人ばか山田と名をよべば、なにぞとこたへて腹立る事をしらず、されども碁をばよくうちたり、先年北條氏直公、在世の時分、其のばか山田、用所有てや、折々小田原へ來り、舟方村に宿有しに、 其頃小田原に武與左衞門、須衞木齋藤などゝいひて、碁よく打者共あり、ばか山田にたがひせんの碁、いづれも眞野には三つ四つの碁なり、これらの人、やれ下田のいくぢなしのばか山田の、舟かた村へ來り居ると云ぞ、急ぎつれてこよ、來まじきと云とも頭をもたげさすな、首に繩を付て引て來よとて、つれよせ集て打けれども、終に碁には打負ずと語れば、人聞て、孔子のたまはく、狂にして直ならず、侗にして愿ならず、悾々として信ならず、吾是を知らずと云々、此の三ツは、惡くとも又とりえ有所あらば、せめての事なり、若さもなくば、何のやうにもたゝぬ捨者、孔子も如何共すべきやうなしと云々、此の山田は、碁を打一道のとりえあり、笑ふべからずといへち、彼の馬鹿山田、今江戸へ來り、石町の六郎右衞門が處に有て入道し、仙榮と名付たり、今の上手には二ツの碁なり、此の者碁ずきにて、あひてをきらはず、夜る晝るわかで打けり、或時仙榮碁打所へ、兄の六郎左衞門、病死唯今成べし、急來れとつぐる、仙榮聞て、此の碁打はたさずして、兄の死めにいかであはんやといふ間に、死たりとわらへば、人聞て、物にすき、勝負をあらそふには、賢愚によらず、むかしもさる事あり、〈○中略〉仙榮も後は如何なる者になり、如何樣なる金言をいひのこさんもしらずといふ、或時仙榮鼻紙を十帖、慈悲なる人より得たりとて、持てあるき人に見せ、鼻紙かけに碁を打べしといふ、我も人も是がをかしさによび入、人集て四ツ五ツせいもくおき、鼻紙かけにうたんとて、手を見石をつきよせ、集て助言をいひ、ともかくもして打勝て、ばか仙榮をわらはんとせしかども、碁にはかしこくして却て紙をとられ、こなたがばかに成し事の無念さよといへば、仙榮聞て、いや方々は勝べきと思ふ故にまくる、我はまけじと用心する故に勝、各々の寶をたくはへ給ふも、得失の心得は、わが碁打に定て同じ事成べし、得をばおごる事なくして、わざはひの來らん事をつゝしむ、失をよくつゝしめば、必得來るべしといふ、げいは道によて賢とかや、
p.0074 丸橋忠彌奧村八郎右衞門口論の事 夜の雨の足をしのぶ藁屋の軒は、おのづから閑居の思となりて、是發心の中立なり、崩たる忠彌が槇の戸の雫を拂ひ、奧村八郎右衛門、油井正雪落合、二ツ三ツの咄も四方山の梢に渡りて、飛花落葉斷(ノコトワリ)を吿る碁といふ者こそ勇ましけれ、いざと八郎右衞門碁石をとりて正雪をすゝむ、丸橋もいさみて見物しけるが、丸橋わたらば錦中や絶なんと諷ければ、正雪渡りを引、八郎右衞門忠彌が袖を引て、めいわくの謠かなと制しける、やゝ有て忠彌又首かき切てと諷ふ、正雪切ける、八郎右衞門忠彌をはたと白眼て、日頃にも似合の忠彌がふるまひかな、盤上の助言再三なるぞや、おとなげなくも某をあなどり給ふか、一命は毫毛よりも輕し、名は萬代に殘るものぞ、一寸の虫にも貳尺三寸の魂ぞと、刀に手をかける、忠彌は色をもかへず尻打たゝいて、ぎやう〳〵しの八郎右衞門どのと興じける、そのまゝ正雪中に立て、忠彌を白眼て奧村に向ひ、只今の一手を用るにこそあれ、畢竟碁なり、是ほどの事に遺恨なるべき、唯打給へと碁盤押直し打立けり、半過たる碁に、正雪十四五目も勝なるべきを、打損じて三目正雪負ぬるにぞ、奧村も心とけて、閑は時の忠なりと笑に成ぬ、去ばこそ油井は、古今の勇士、智仁を兼たる武士のやたけ心ぞおしまるゝ、そもそも此の八郎右衞門、眞先に一味すべき身の、其の沙汰をのがれぬる事は、此の口論故なりとかや、
p.0075 寬文九年閏十月廿日ニ、御城ニ於テ圍碁幷ニ象戯ヲ仰セ付ラル、依テ見物ノ爲トシテ、松平讀岐守、井伊掃部頭、松平美作守登城ナリ、黑書院ニ於テ卯ノ刻ヨリ始ル、本因坊先置テ三知ト打、道策先置テ三哲卜打、道策十三目勝、門入先置テ知哲ト打、門入四目ノ勝、〈○中略〉算知ト本因坊、御城ニ於テ勝負ツカズシテ、土屋但馬守宅ニシテ打ツグ也、算知九目ノ勝、
p.0075 寬文十年十月十七日ニ、圍碁ヲ仰セ付ラル、依テ井伊掃部頭、見物ノ爲ニ登城シテ、黑書院ニ於テ卯ノ后剋ヨリ始ル、 一算哲先ヲ置、道策九目勝、 一門入先ヲ置、智哲七目勝、 一亦門入先ニテ智哲ト打、門入二目勝、
p.0076 圍碁の圖に題する詞
やよひのすゑ、つれ〴〵のまゝに、人々碁をうち侍る、わが〈○豐岡光全〉子の尚資も、十一ばかりのわらはにて、光香朝臣とうち侍るに、はまをひろふとき、かの朝臣のかたに、石をかくし持てまけぬるよしいひて、後その石を出して勝になり侍りしを見をりて、たはむれによみけるを、弟なりける政煕なんそのうたをゑがきて、尚資にそのうたかゝせよとこひけるになん、かきつけさせ侍る、うちよする手なみにばまをかくされてうちしも今はうづもれにけり
p.0076 應永廿五年五月十一日、圍碁有二回打一、予〈○後崇光〉椎野長資朝臣打レ之、
永享四年五月十日、圍碁廻打、予、前宰相持經等打、已及レ晩之間、不レ付二勝負一欲二退出一、然而今一番勝負、持經負者、今夜祇候、一獻可二申沙汰一、予負者、可レ被レ下二重寶一之由申、醉中申固打レ之、而予勝、其興無レ極、仍可二祗候一之由申、然而持經、以外沈醉之間先可二退出一之由仰罷出、 九年八月五日、行豐持經等朝臣重仲候、廻圍碁打、予懸物兩種出、〈皿十、檀紙十帖、〉碁勝負不レ付之間、目勝打、持經朝臣勝取レ之、聊有二盃酌一、
p.0076 承和六年十月己酉朔、天皇御二紫宸殿一賜二群臣酒一、召二散位從五位下伴宿禰雄堅魚、備後權掾正六位上伴宿禰須賀雄於御床下一令二圍碁一、並當時上手也、〈雄堅魚下二石二路一〉賭物新錢廿貫文、局所レ賭四貫、所レ約總五局、〈須賀雄、輸二四籌一贏二一籌一、〉
p.0076 總五局〈須賀雄、輸二四籌一贏二一籌一、〉 今の俗、一番二番といひ、石幾子かちまけすと云ふ是なり、
p.0076 貞觀十六年八月廿一日丁丑、公卿設二宴會於侍從局一、招二引三品行兵部卿兼上總太守本康親王、彈正尹四品惟彦親王一、終日酣賞、詔二後院一賜二新錢十貫一、令レ充二手談賭物一、
p.0076 元慶四年六月七日己丑、從四位上行大貳安倍朝臣貞行、詣レ闕辭見、賜二御衣一襲一、拜舞而出、是日親王公卿參二侍仗下一、遮二留貞行一聊命二別酌一、以二内藏錢一萬一充二圍碁賭物一、酣暢方罷、
p.0077 圍碁
延喜四年九月廿四日、石二寬蓮、右少辨淸貫等一、令二圍碁一、〈唐綾四匹、法師勝、有二別祿一、〉
p.0077 延喜四年九月廿四日、右少辨淸貫、寬蓮法師を召て圍碁をうたせられけり、唐綾四段、懸物にはいだされけり、寬蓮勝て給けり、聖代にも斯樣の勝負禁なかりけるにこそ、同御時、碁勢法師、御前にて圍碁を仕りて、銀の笙をうち給りてけり、生涯の面目に思ひて、死けるときは棺に入べきよしをなんいひける、
p.0077 碁擲寬蓮値二碁擲一女語第六
今昔、六十代延喜ノ御時ニ、碁勢、寬蓮ト云フ二人ノ僧、碁ノ上手ニテ有ケリ、寬蓮ハ品モ不レ賤シテ、宇多院ノ殿上法師ニテ有ケレバ、内ニモ常ニ召テ御碁ヲ遊シケリ、天皇モ極ク上手ニ遊シケレドモ、寬蓮ニハ先二ツナム受〈○受一本作レ劣〉サセ給ヒケリ、常ニ遊バシケル程ニ、金ノ御枕ヲ懸物ニテ遊シケルニ、天皇負サセ給ニケレバ、寬蓮其ノ御枕ヲ給リテ罷出ルヲ、若キ殿上人ノ勇ヌルヲ以テ奪ヒ取セ給ヒニケレバ、此樣ニ給ハリテ罷出ルヲ、奪ハセ給フ事度々ニ成ニケリ、而ル間猶天皇負サセ給テ、寬蓮其ノ御枕ヲ給ハリテ罷出ケルヲ、前ノ如ク若キ殿上人數追テ、奪取ラムト爲ル時ニ、寬蓮懷ヨリ其御枕ヲ引出テ、后町ノ井ニ投ゲ入レツレバ、殿上人ハ皆去ヌ、寬蓮ハ踊テ罷出ヌ、其後井ニ人ヲ下シテ枕ヲ取上テ見レバ、木ヲ以テ枕ニ作テ金ノ薄ヲ押タル也ケリ、早ク實ノ枕ヲバ取テ罷出ニケリ、而ル枕ヲ構へ持タリケルヲ投入レケル也、而テ其枕ヲ打破テ、仁和寺ノ東ノ邊ニ有ル彌勒寺ト云フ寺ヲバ造ル也ケリ、天皇モ極ク構タリトテ咲ハセ給ヒニケリ、
p.0077 延喜七年正月三日庚辰、午二刻行二幸仁和寺一、奉レ拜二法皇一〈○宇多〉如レ例、法皇召二式部卿親王、左大臣一令レ侍、仰二親王大臣等一曰、還御時可二寂寥一、宜二圍碁一、將懸物有二好馬一、則召二碁局一、式部卿敦實親王與二左大臣時平朝臣一碁、其間御厩別當春野、牽二鹿毛御馬一立二庭中一、一局終、左大臣勝、
p.0078 御庚申御遊
延喜十八年八月廿日、御庚申、〈○中略〉内藏寮調二酒肴一、〈侍臣〉又進二碁手錢十三貫一、〈一貫御料、九貫男房、三貫女房、〉亥時侍臣提二賭物一參上、供二天酒一給二侍臣等一、奏二歌絃一倭歌、
p.0078 承平七年正月十一日、右大臣家〈○藤原仲平〉の饗に、中務卿宮おはしましたりけるに、中務卿と右大臣と圍碁のこと有けり、碁手は錢にてぞ有ける、むかしは斯樣のはれの儀にも懸物にいでけるにこそ、近代にはたがひてこそ侍りけれ、
p.0078 貞元元年二月十五日壬子、太政大臣〈○藤原兼通〉始遷二桂芳坊一、内藏寮奉二仕所々饗一、副進棊手三萬錢、卽分二給所々一、
p.0078 内侍馬が家に、右大將實資がわらはに侍ける時、ごうちにまかりたりければ、もの かゝぬさうしを、かけ物にして侍けるを見侍て、 小野宮太政大臣〈○藤原實賴〉
いつしかとあけてみたればはま千鳥跡あるごとにあとのなき哉
返し
とゞめても何にかはせんはまちどりふりぬる跡は浪にきえつゝ
p.0078 圓融院御時、中將公任と碁つかうまつりてまけわざに、しろがねのこに虫いれ て、弘徽殿に奉らせ侍ける、 小野宮右大臣〈○藤原實資〉
萬世の秋をまちつゝなきわたれ岩ほに根ざす松むしのこゑ
p.0078 けふのし れ、つねよりことにのどかなるを、あそびなどすさまじきかたにていとつれ〴〵なるを、いたづらに日ををくる、たはふれにてもこれなんよかるべきとて、碁ばんめしいでゝ、御碁のかたきにめしよす、いつもかやうに、けぢかくならしまつはし給にならひにたれば、さにこそはと思ふに、よきのり物はありぬべけれど、かる〴〵しくはえわたすまじきを、 なにをかはなどの給はする御けしき、いかゞみゆらん、いとゞ心づかひしてさぶらひ給、さてうたせ給に、三ばんにかずひとつまけさせ給ぬ、ねたきわざかなとて、まづけふはこの花ひとえだゆるすとの給はすれば、御いらへ聞えさせで、おりておもしろきえだをおりてまいり給へり、
p.0079 かくて院〈○後鳥羽〉のうへは、〈○中略〉御碁うたせ給ふついでに、わかき殿上人どもめして、これかれこゝろのひき〴〵に、いどみあらそはさせ給へば、あるはこゆみしゆぐろくなどいふことまで、思ひ〳〵にかちまけをさうどきあへるも、いとおかしう御らんじて、さま〴〵のけうあるのり物ども、たうでさせ給ふとて、なにがしの中將を御つかひにて、修明門院〈○後鳥羽后藤原重子〉の御かたへ、なにゝてもおのこどもにたまはせぬべからん、のり物と申されセるに、とりあへず、ちいさきからびつのかなものしたるが、いとおもらかなるをまいらせられたり、この御つかひのうへ人、なにならむといといぶかしくて、かたはしほのあけて見るに錢なり、いと心えずなりて、さとおもてうちあかみて、あさましとおもへるけしきしるきを、院御らんじおこせて、あそんこそむげにくちおしくはありけれ、かばかりの事しらぬやうや〈○や原脱、今據二一本一補、〉はある、いにしへより殿上ののりゆみといふことには、これをこそかけ物にせしか、さればいまかけものと聞えたるに、これをしもいだされたるなん、いにしへの事しり給へるこそ、いたきわざなれとほゝゑみてのたまふに、さはあしくおもひけりとこゝちさはぎておぼゆべし、大かたこの院のうへは、よろづのことにいたりふかく御心もはなやかに、物にくはしうなどぞおはしましける、
p.0079 大永六年七月十九日、午刻參内、竹内殿御祗候有二御碁一、懸物、予〈○藤原隆康〉拜領、尤祝著也、
p.0079 慶長八年五月廿二日、於二豐國二位宅一、勝負碁興行、懸物、〈三百疋〉刑部豐後兩人、晩食用意申也、
p.0079 賭碁流行の事
圍碁雙六ともにいにしへは賭物ありしと見えたり、然れども其の甚だしきに至るゆえ、憲章賭 を禁ぜられたり、天正の頃より別て流行し、寶永正德までの際は、賭碁のこと聞えず、享保の末年より其の端を開きし樣に見えたり、寶曆明和に至りて、賭碁渡世のもの間にきくことあり、備中に源五郎といふもの出て、諸州を遊歷し、賭碁に凡そ三千兩の金子を勝得たりといふ、其金にて田畑等を買、豐富に家をおこせしものたゞ一人なり、唯其の後尾張の德助、阿波の米藏等も、三千兩ばかり勝ちたりといふ、然れどもみな〳〵酒食遊女博奕等にのみ遣ひ果し、終りを能くするものを聞かず、圓次政五郎、周平三之助等、明和安永の頃、各賭碁をもつて業とせしものどもなり、
p.0080 碁盤〈○中略〉凡能レ碁者、其酋長稱二碁所一、代々仕二公方家一受レ祿、
p.0080 碁 將棊之者
世職なれ共、輕きものなり、是も御吉例を以、毎年碁將棊手組被レ仰二付之一、
p.0080 御碁所
〈京極通寂光寺内 江戸芝金杉 卅石五人扶持〉本因坊 〈三十石鐵砲町〉林門入 〈三十石本兩かへ町〉安井仙角 〈三十石〉井上因碩 〈三十石〉井上因節
p.0080 御碁所
〈五十石十人フチ本所相生町二丁メ〉 本因坊秀和 〈五十石十人フチ芝新せんざ〉 井上因碩 〈三十石芝金杉片町〉 林門入
〈十人フチ 本因坊弟子同居 跡目〉秀策 〈安井仙知弟子〉坂口仙得 〈十人フチお玉が池〉 伊藤松和
p.0080 京都連歌師、碁打、將棊指、町人、知行御扶持方御切米被二下置一候者、〈○中略〉
米三拾石、外拾貳人扶持、 安井算哲 米貳拾石、外五人扶持、 安井算智
拾人扶持〈同斷〉 因碩 米貳拾石〈同斷〉 安井智哲
p.0080 本因坊筭砂〈出生京都〉
天正の頃、京都に本因坊と云僧有、碁將棊共に能す、其頃本因坊に及ぶ碁將棊なし、信長及レ聞レ之、呼 出し棊を翫ぶ、信長本能寺逗留の節、本因坊も本能寺へ參り夜詰す、夜九つ過夜詰を引、本能寺を出、三四町過しと覺しき時分、物さわがしき聲聞ゆ、明智光秀本能寺を圍む、信長生害なり、夫より太閤へ被二呼出一棊有レ之、〈○中略〉此時分より權現樣へ御出入申上る、權現樣にも本因坊に五宛にて被レ遊候となり、此時分本因坊にせり合の相手は、古筭哲、林利玄、中村道碩なり、道碩は本因坊弟子也、林利玄は權現樣御側坊主にて、御譜代の家なり、林門入の元祖なり、ある時本因坊と利玄とに碁を爲レ打被レ遊二御覽一候、利玄二番つゞけて負なり、權現樣上意に、利玄今日は殊外不出來に見ゆると上意有時、利玄此間久々碁不レ仕候故、仕にくきと申上る時、又上意に、其方は何を家業に致候哉と上意有しと也、其後本因坊義別段權現樣へ被二召出一、此時寂光寺といふ寺一本寺に奉レ願、則被二仰付一、貳拾九石之御朱印被二下置一、寺は京都寺町にあり、日蓮宗也、寺役は兼帶にて別僧勤、棊は本因坊勤る、其後又別段本因坊へ現米五拾石拾人扶持被二下置一、貳拾九石之御朱印の分は寺へ附る、〈○中略〉筭砂は禁裏へも昇殿致し棊被二仰付一、其節法印に被二成下一、右大辨よりの宛所にて御墨付頂戴仕、本因坊家に在、其節長柄傘御免、乘物下乘まで御免なり、今に本因坊計は下乘まで乘物御免なり、御入國の始め、日本橋にて一町ほど屋敷を被レ下、其時分は草原にて圍にこまり、右の屋敷差上申候由、利玄も鐵砲町にて一町ほど屋敷を被レ下、是も同く差上候也、何〈茂〉上方住居ゆへ、古來よりの格にて、現米三拾石は今に伏見の御城にて被レ下レ之、拾人扶持計江戸御藏にて被レ下、筭砂時分よりの今に格なり、偖大橋宗桂といふ者出、將棊を能致すにより、此時將棊を宗桂に讓り、筭砂は棊計になる、〈○中略〉扨筭砂病氣づき候故、中村道碩に棊所を讓り、元和四年五月十六日に死す、法名日海、
p.0081 寂光寺 在二京極大炊御門一、號二空中山一、日淵上人開基、而日蓮宗二十一箇寺之一員也、有二寺産少許一、織田信長公時、此寺中本因坊僧筭沙之弟子宰相精二圍碁一召見二其術一、爾後自二東武一本因坊幷將棊巧手宗桂共賜二五十石之年俸一、自レ是後此坊住僧雖レ不レ知レ讀二經卷一、撰下天性通二圍碁一者上剃レ髮爲レ僧、年 年赴二東武一謁二見柳營一、凡圍碁將棊之奕徒立レ家受レ祿、是本朝之流風也、
p.0082 和田義盛説工藤祐經計和話
碁所の始祖本因坊筭砂、法印日海、豐臣太閤の御時、天下の上手ども數輩と、試みの碁、手合せ仰せ付られ候處、本因坊諸人に勝越候ニ付、はじめて碁所に仰せ付られ、手合已下の法度申付べき旨、御朱印御證文成し下さる、時に御加恩等拜領す、天正十六年閏五月十八日なり、御證文に閏五の日月を記して年號なし、秀吉公治世中の閏月を撿するに、文祿二年なり、思ふに此の時朝鮮の役和して、無事閑暇の日なれば、果してこのときと考へ定めぬ、其の後筭砂の圍碁勝負日記を見しに、慶長八年の條下に、十九年以前、試みの碁仰せ付らると云ふこと見えたり、これに由てまた疑ひを發して、曆書を推すに天正十三年なり、考ふるに、十四年四國を平らげ、十五年九州を鎭め、誠に天下泰平に歸し、十六年聚樂城へ天皇の幸を願ひ、獨り關東の北條が不廷のみにて、一統同樣に成りし故に、百廢を興す御志にて、碁所をも設け置きたまひしと見えたり、これに依て圍碁は、日本海外の國より勝れり、〈○中略〉圍碁本朝に於て翫び來る事尚しといへども、就レ中信長公の御時より世に流行し、秀吉公碁所を置きたまひし以來、手合等相定るなり、閏五の事をまた考ふるに、日本文明の頃より天正の半まで、東西南北、一日も易からざるを、秀吉公の武威にて次第に平擾したまひぬる、其の功蹟偉なり、天正十二年夏、柴田勝家を亡して、間もなく十一月廿日、秀吉公大納言に任ず、同十三年、内大臣に成り給ふ、是より宣下なけれども、世人將軍と稱す、然ばこの年より旣に天下の權威秀吉公に歸す、國家多事といへども意とせず、技藝の詮議に及ぶ、其大量推察すべし、試みの碁被二仰付一しは十三年にて、御證文を賜しは十六年なり、其の文中に、但仙也儀は、師匠のことに候ゆえ、互先可レ爲とあり、如レ是の小事にも師弟の禮を存したまふ、行き屆し御事と感じ入りぬ、〈○又見二爛柯堂碁話一〉
p.0083 抑圍棋の事は、神祖好ませ給ひしに仍、京師法華宗寂光寺塔頭、本因坊筭砂と云もの、其頃碁の妙手なる故、江都へ召れ、御扶持を賜ひ、碁所に被二仰付一、夫より相續て安井筭知、本因坊道策など、獨歩の國手段々に出て其道を輝す、就レ中道策は本因坊道悦弟子にて、小僧の時ゟ生れながらの奇材也、其頃の名人筭知と手相を望て廿番碁有り、筭知に勝て碁所に任ぜらる、名人ゟ優りたれば、可レ稱名目なしとて古今の名人と呼、此道始つて和漢にかゝる傑士なし、師匠道悦、他の弟子を諭して、必道策を學ぶべからず、渠は古今傑出の者にて靈妙有り、普通の人之を學ばゞ、究て邪路に入なんと戒たり、是寬文ゟ元祿中也、右之外井上因碩、林門入など、皆碁家に仰付られ、各勵て碁所に成ん事を願ふ、、碁所になれば、殘る碁家の者共を始、此道に携る者、皆碁所の支配にて、道の事に於て何に不レ依違背する事ならず、碁所は御紋の時服を被レ下、去れども急度御目見以上の格にも非ず、格外なるもの也、今の本因坊察元、井上因碩、〈半名人〉と手相を願ひて、之を遂て當時の名人碁所に任ぜらる、享保年間、本因坊道知死して後、名人絶て、井上因碩漸く半名人にて有しを、察元志を勵して竟に碁所を復せり、本因坊は、元祖以來代々經ても住居は京都、召に仍て在府の格にて、御宛行は今以京二條御藏ゟ渡る、安井、井上、林の三人は東武御藏にて御宛行を被レ下也、
p.0083 安井筭哲が事
十一歲の時、榊原式部大輔殿御取持にて、伏見の御城に於て、初めて權現樣へ御目見仕、慶長十七年月、御切米二十石六人扶持下だし置かれ、駿河へ相詰候内は、一倍十二人扶持くだし置かれ、實子御座なく、筭知義を養子に願ひ奉り候處、願の通り仰せ付られ候、筭知義、部屋住にて相勤候處、家業相勝候に付、新規御切米二十石、在江戸中五人扶持、一倍十人扶持下だし置かれ、其の後筭哲實子出生仕、家業相應に仕候に付、筭哲跡式、實子に下だし置かれ、二代筭哲と申、相勤め候處、天 文相勝、宜候段上聞に達し候て、天文役仰せ付られ、碁の節の御切米御扶持方上り、新規二百五十石下し置かれ、還俗仰せ付られ、澁川助左衞門と相改め申候、當澁川主水先祖に御座候、筭哲義は、慶安五壬辰年九月九日病死仕候、右筭哲、初名六藏と云ひ、元祖本因坊筭砂が弟子にて、名人上手間の手合八段に進む、中村道碩と同門にて、ひとしく高名なり、然るに道碩は諸弟子に秀でたるに依て、印可狀、幷太閤御所より賜はりたる碁所之御證文を添えて讓レ之、是れより道碩義、碁所仰せ付らるゆえ筭哲に定先置かせ打ちしとなり、台德院樣〈○德川秀忠〉碁を御好遊ばされ、不斷御前にて筭哲道碩が手合仰せ付られ、御上洛の節も御供仰せ付られ、御在京中、二條御城に於て、圍碁上覽これあり、碁譜も數局傳えあるなり、改めて仰せ付られ、勝負碁といふにはこれなくといへども、互に競爭せしなり、數年の間に百二十番手合せ、道碩四十番勝ち越し候となり、
p.0084 寬文八年十月十九日ニ、筭知碁所ニ仰セ付ラル旨ヲ、加々爪甲斐守宅〈江〉招テ傳フ、
p.0084 碁所
碁所本因坊に被二仰付一候書付とて、人の見せ侍りし儘、しるし置ぬ、
享保六丑年六月九日例
大まにあひ竪紙
圍碁秀逸之間、今般碁所被二仰付一候、向後手合等之事、遂二吟味一可二差計一者也、
明和七年閏六月廿三日 佐渡守書判〈板倉なり〉
周 防 守〈松平なり〉
右京大夫〈松平なり〉
右近將 〈松平なり〉
本因坊 右於二御黑書院溜一、御老中主殿頭〈田沼なり〉列座、寺社奉行へ右近將 渡レ之表御祐筆組頭持二出之一、
寺社奉行不レ殘罷出、本因坊碁所被二仰付一候旨、
p.0085 近年の碁家井上因碩〈當時在京、山崎主税實父、〉は半名人にて上手には少優りぬれども、今少の違ひにて碁所に不レ至、兎角する間に年も老、其上所勞に仍、其身碁所の望も絶、久敷名人中絶して道衰るに似り、此上は本因坊察元未年も不レ老、家藝我に優りて見ゆれば、是を因碩ゟ上表して、碁所にせんと欲る所に、察元因碩が老衰病屈を見込て、進て勝負を望む、因碩素より右の主意なれば、なじかは否とは申べき、去ながら老衰所勞の上なれば手談の試に不レ及、察元を吹擧せんと欲れども察元不レ諾、是非古例の通手相の上にて勝敗に可レ任と申に仍、不レ得二止事一其趣を言上して察元との碁有、果して察元勝果せて、望の通察元へ碁所を命ぜられぬ、仍雙方の徒互に快からず、陰にて色々評せりとなん、因碩は勝負に不レ及察元を吹擧せば、老人の執計世に聞えてもおとなしく難なかるべしとの主意也、察元は古來勝敗を以命ぜらるゝ事を、夫に不レ及して經上る時は、世人の伏せざる處也との意なるべし、雙方一理有て可否奈何とも難レ評、
碁家、本因坊、井上、安井、林也、各同格にて、仲か間也、碁所になれば、殘三家を支配して、其道の棟梁たり、其身御紋の時服を拜領し、一等格式違ふ也、されども御目見以上と云にも非ず、先は格外なる物也、四家互に勵競も理りなり、
p.0085 弘化元年五月、是月下旬、碁方井上因碩上書、〈不レ顧二恐怖一奉二言上一候、抑微臣之祖は、慶長年間、東照宮、兵法之一助にもとの神慮を以被二召出一、折々技藝軍慮之行法等御尋有レ之、賜二世祿一之後、台廣公(德川秀忠)之御治世より唯今迄、數代公祿を奉レ貪、全く不二奉公一、年に一度上覽之御用、一統之奉行被二仰付一、○下略〉
p.0085 碁道珍話
本因坊代々 知行五十石二十人扶持
元祖〈名人〉筭砂 二代〈名人〉道碩 三代〈名人〉筭悦 四代〈名人〉道悦 五代〈名人〉道策 六代〈名人〉 道知 七代知伯 八代秀伯 九代伯元 十代〈上手〉察元 十一代烈元
本因坊元祖、京寺町寂光寺中本因坊也、日蓮宗、今に至淸僧、毎年十二月御暇、四月參勤、〈但近來は定府〉本因坊は、天正年中、〈寶曆五年迄百八十年餘〉織田信長公の時、御相手に被二召出一、碁所〈與〉被二仰付一、世々碁所と成、近來は四家に相分、名人碁所となる、道知已來、名人無レ之、半名人、上手、先々先也、四家之外、名人、半名人は勿論、上手も無レ之、右之外は先々先也、〈○中略〉
井上因碩 知行四十石十人扶持
元祖玄覺 二代〈上手〉道妙 三代〈名人〉道節 四代〈半名人〉休山 五代〈上手〉春碩 春達
因碩家妻帶、毎年十二月御暇、四月參勤、
安井仙角 知行二十石十人扶持
元祖筭哲 二代筭知 三代知哲 四代仙角 五代仙哲
仙角家妻帶、毎年十二月御暇、四月參勤、
林門入 知行二十石十人扶持
元祖門入 二代實孑門入 三代〈實子〉玄悦 四代門入 五代因長 六代門利 七代門入 八代門入
門入家妻帶、毎年十二月御暇、四月參勤、
p.0086 圍碁段付
諸國初段以上碁打姓名
濱町矢の倉 〈八段〉安井仙知 ゆしま 本因坊元丈 矢のくら 安井知得 芝新錢座〈六段〉井上因碩 辨慶ばし 〈五段〉林門入
右は碁所也〈○中略〉 段取碁打、都合七拾三人、〈○中略〉
右者文化七八年之頃之名面也
p.0087 三十二番 左 碁將基御覽
世にすめば誰もこゝろのかちまけを石とこまとの上にみるかな〈○中略〉
碁將棊御覽は、十一月十七日、碁は本因坊井上安井林のたぐひ、將棊は大橋伊藤の者どもをめされ、黑書院の廂にして御覽あり、執政の人々は庇の西に候し、寺社奉行はみな次の間に侍り、事はてゝけふの勝負をしるして奉れり、安永天明の頃は、殿中伺候の輩のうちよりめし合せられし事もありき、
p.0087 十一月干七日
一如二例年一碁將棊手合被二仰付一、午上刻、御黑書院出御、御下段御著座上覽有レ之、老中若年寄も出席、
本因坊 安井仙知〈碁所〉 大橋宗桂 伊藤宗看〈將棊所〉勤レ之
p.0087 期月、圍碁將棊之徒、受二祿於公方家一之輩、各赴二東武一、
p.0087 碁之者
一參上之御禮四月朔日、御次一同、獻上扇子一箱宛、
但本因坊、並碁所へ被二仰付一候者は名披露、
一十一月十七日、碁所作被二仰付一、御黑書院御緣頰出御、上覽被レ遊候、
一十二月七日御暇、於二躑躅之間一御老中被二仰渡一銀十枚づゝ、部屋住へは時服二づゝ被レ下之、
一本因坊碁所被二仰付一候得ば、御暇之節、時服二、金二枚被レ下之、
一外碁之者、碁所被二仰付一候得ば、御暇之節、時服二、銀十枚被レ下之、
一本因坊繼目之御禮、御次一同名披露、獻上扇子一箱、 一當主並部屋住とも、初て御目見、御次一同名披露、獻上扇子一箱、
一在府中、月次五節句御吉凶、總出仕罷在候、
一御々樣御法事之節、願之上、拜禮罷出候、
p.0088 本因坊筭砂〈出生京師〉
御入國後、毎年三月中旬に上方より下り、四月朔日五本入扇子差上、參上之御目見申上る、十一月御城棊被二仰付一、十二月御暇被二下置一、其節は白銀拾枚拜領す、古來は十二月御暇被二仰出一候得者、上方へ被二罷歸一、又來三月中旬江戸表へ參著致し、直に御月番の寺社御奉行樣へ御屆申上、四月朔日棊將棊之者五本入扇子箱差上、一統御目見申上る、其節御奏者番樣方御披露あり、本因坊棊將棊之者共參上之御禮申上候と御披露在レ之候由、夫より退出、直に御老中樣方、若御年寄樣方、寺社御奉行樣へ罷越、今日參上之御目見被二仰付一、難レ有仕合に奉レ存候段御禮廻す、十一月於二御城一棊將棊一統被二仰付一候日限は、御代々にて相替儀在レ之候、十二月之御暇も日限、御代々にて相替儀在レ之候得共、四月朔日參上之御目見計は、權現樣〈○德川家康〉御代より急度四月朔日に參上之御目見被二仰付一候、十一月之棊將棊之日限、有德院樣〈○德川吉宗〉御代より十一月十七日に成り、御城棊被二仰付一候日は、明六時より御門へ相詰、御太鼓打御門明き候と、直に致二登城一、御黑書院御緣頰へ罷出、此節御月番之寺社御奉行樣方、早朝に被レ成二御登城一相詰候樣にと御差圖有レ之、則御黑書院御緣頰にて棊將棊始る、御火鉢出る、被レ遊二上覽一候時も、上覽無レ之時も、御規式は上覽之通、御しとね御刀掛出る、上覽無レ之節は、御老中樣方御座敷廻りの節、不レ殘御列座被レ成候と、直に固め仕廻、勝負被レ成二御覽一候、尤固めきわまで打詰め候へて、御老中樣方御列座を相待罷有候事也、朝夕二汁五菜之御料理、木具にて被二下置一、御吸物御酒御菓子御茶被二下置一候、皆權現樣御代之格式也、棊相濟、夫より致二退出一、御老中樣方、若御年寄樣方、寺社御奉行樣方へ、今日所作被二仰付一、難レ有仕合に奉レ存候由申上、御禮に廻る、扨十二月 御暇之節は、家督へ銀拾枚、部屋住へ時服一重被二下置一候、此節も例之通御禮廻りす、古來は御暇被レ下、四五日〈茂〉過、上方へ歸る、今は御暇出候ても在江戸也、此譯道悦所に記す、乍レ然古來之例にて御暇之内、正月より三月迄は拾人扶持上る、四月より十二月迄は十人扶持被レ下候、江戸詰之内故なり、部屋住へも拾人扶持被レ下候、
p.0089 本因(三代目)坊道悦〈出生石見〉
御城棊被二仰付一候前に、下打仕候事は、筭知道悦二十番せり合棊之内、六ケ敷棊出、御老中樣方御退出之時分迄に相濟不レ申候に付、御月番之御老中樣へ下り相濟申候、重ては被二仰出一候は、向後御城にて勝負付候樣と被二仰出一候、依レ之御城棊下打致候事、此時より始り申候、夫迄は古來より道悦迄も、下打と申事なく御城にて直打なり、扨又古來は御暇出候得者、上方へ罷歸候得ども、筭知道悦せり合被二仰付一候節、上り下り仕候ては、出會打候も間遠に相成、第一棊磨のためにも障候に付、此儀も奉二願上一候處、尤之由にて願之通被二仰付一候、是より御暇出候ても、今に江戸に罷在候樣に成申候、然共四月朔日參上之御目見被二仰付一、十一月御城棊被二仰付一、十二月御暇、拜領物等仕候格式は相替不レ申、
p.0089 寬永十二年十二月朔日、碁將棊師等、祿秩あらざるをもて、大津に於て廩米をたまふべしと令せらる、
p.0089 延寶三年ノ參勤御暇ノ扣下
十一月廿八日ニ、圍碁象戯ノ面々御暇ヲ下サル、算知本因坊宗看、各白銀十枚、算哲道策宗桂、各白銀十枚ニ時服二、宗與門入因碩、各白銀十枚、春知時服二ヲ玉フ、
p.0089 碁道珍話
手直 初段三、二段二ツ三、三段二、四段先二、五段先、六段先先先、七段上手、八段半名人、九段名人、碁所ト云、
p.0090 一六俳園立路が隨筆寐覺硯の中に
碁の手直りは二目也、中手と云はなし、俗に五目は星目の中なれば五目を俗に云、
p.0090 碁に手直りと云事有り、世上の碁を嗜む人、それ〴〵碁家の門弟と成り、其藝募りて、上手へ對し三子著(ミツヲク)する位になれば、手直りの事を望む、上手碁を見て、位相應に手を直し遣す、是に六段有り、初段は三ツ、二段は二ツ三ツ、三段は二ツ、四段は先〈ン〉二ツ、五段は先〈ン〉と半石ヅヽ上るなり、六段は畢竟上手と等しけれども、師弟の譯を以、三番の内、二番先〈ン〉を著シテ、一番上手より先〈ン〉を置、五段六段の弟子は世に希也、碁所は又上手に一石上也、三の碁は四ツ、二ツ三ツの碁は三ツ四ツと云格也、
p.0090 碁道珍話
手直上手〈江〉三手合免狀
貴殿事、圍碁不レ淺執心、依レ之仲間一統遂二吟味一、今般對二上手一三手合免レ之畢、猶以不レ可レ有二懈怠一者也、仍免狀如レ件、
月日 本因坊誰
誰殿
p.0090 大家の人、この伎〈○圍碁〉に巧手なるは希なりと見ゆ、寬政中、雲州老公〈○不昧〉初段になられしに、免狀の例なく、林門悦これを漢文に書たりとぞ、恭惟、閣下嘗以二國務之暇一、游二衍群藝之場一、好二圍碁一、頗得二其妙一、蓋以二韜略盈虚之機一、符二於此技一者歟、今玆寬政十二年辛酉新正、門悦與二同職等一謀、謹品二第一級位最初一矣、自今而後、對二於上手一、不レ過レ布二置三碁子一、閣下因レ是而進焉、則奇正相生、循環無レ端、至二五級六級一亦何以爲レ難也哉、林門悦再拜上、羽林次將備前州太守源老公閣下、と書けりとぞ、
p.0091 本因(四代目)坊道策〈出生石見〉
常憲院樣〈○德川綱吉〉御代、琉球人來朝之時、松平薩摩守光久公ゟ御使者を以、道策方へ申來候譯は、此度琉球國より親雲上濱比賀と申者參候、尤中山王にも願に有レ之候間、道策と圍碁所望之由なり、依レ之來駕賴入之段使者述レ之、道策直に返事ならず、是より御返事可レ仕由申達、使者を返す、其譯は異國之者と申、例無レ之事故、御月番之寺社御奉行樣へ、書付を以、右之段伺申候之處、翌日道策を寺社御奉行樣へ被二召呼一、此度之儀、勝手次第仕候樣にと被二仰渡一候、依レ之光久公へ道策伺公可レ仕旨申遣し、日定り、道策弟子共四五人召れ、光久公へ參る、道策其時分は名人なるにより、濱比賀四つ置く、道策拾四目勝也、濱比賀又一番を願ふ、道策濱比賀が願にまかせ、又棊始る、其棊濱比賀二目勝なり、同日に二番有レ之打分なり、翌日右之趣寺社御奉行樣へ御屆申上候、其後濱比賀手を直らん事を願ふ、依レ之光久公より使者を以、濱比賀願を道策方へ申きたる、光久公よりも御挨拶有レ之、依レ之濱比賀が願に任せ、上手に對して二つの棊にゆるす、尤漢文にて免狀遣す、此免狀は林大學頭樣御弟子作レ之、重而光久公より爲二御挨拶一白銀七拾枚、卷物二十、泡盛酒二壺來る、濱比賀よりも自分にて白銀拾枚謝禮なり、
p.0091 碁は本ト漢土に始りし物なれども、今は中華の人甚弱く、日本の孫弟子也、琉球は日本に次ぐ、琉球の聘使來る時、あの方の國手副し來て、日本の許可を請る、中にも粹なるものは五段に直り、大かたが四段ほど也、此琉球人、中華に聘する時、中華の國手たるもの是を待請て、琉球の許狀を貰ふ、傳え聞く所、琉球の四五段に直ると也、然れば日本の碁よりは、二ツも三ツも弱きと知べし、爰を以見れば、萬藝異國より本朝の方優らん事必然也、
p.0091 貞觀八年九月廿二日甲子、是日大納言伴宿禰善男、〈○中略〉處二之遠流一、〈○中略〉相坐配流者八人、從五位上行肥後守紀朝臣夏井、配二土佐國一、〈○中略〉夏井兼能二雜藝一、尤善二圍碁一、伴宿禰少勝雄、以レ善二奕 碁一、延曆聘唐之日、備二於使員一、以二碁師一也、堂父善岑爲二美濃守一、少勝雄爲レ介、夏井時年十餘歲、習二圍碁於少勝雄一、一二年間、殆超二于少勝雄一、
p.0092 碁檀越往一伊勢國一時、留妻作歌一首、〈○歌略〉
p.0092 碁師歌二首〈○歌略〉
p.0092 圍碁
碁聖 寬連 賀陽 祐擧 高行 實定 敎覺 道範 十五小院 長範 天王寺冠者
説云、碁聖者、圍碁上手之稱也、賀陽者、外記賀陽宣政也、祐舉者、石見守平祐擧也、高行者、右衞門入道也、實定者、豐後守中原實定也、敎覺者、三井院人也、道範者、嵯峨闍梨、十、五小院者、〈○以下闕〉
p.0092 或問曰、若僊必可レ得、聖人已修レ之矣、而周孔不レ爲レ之者、是無二此道一可レ知也、抱朴子答曰、夫聖人不二必僊一、仙人不二必聖一、〈○中略〉世人以下人所二尤長一、衆所レ不レ及者上、便謂二之聖一、故圍レ棊之無レ比者、則謂二之棊聖一、故嚴子卿、馬綏明于レ今有二棊聖之名一焉、
p.0092 正治二年二月四日、午時許、依レ石參二八條殿一、中將殿參給、九條殿可御無仰也〈○可以下五字恐有二誤脱一〉未時許御共參入、中將殿小童、圍碁上手也、件碁御覽之料也、召二御前一了
p.0092 文龜二年四月三日乙巳、住二彼寺一〈○誓願寺〉中重阿彌打レ碁、天下第一上手也、〈相手增位(マスイ)、〉〈實名不知〉〈細川政元朝臣被官、〉見物輩、成二奇異之思一、自二二條殿一賜レ笋、〈宰相方前給之〉
p.0092 慶長十一年二月八日、大御所、〈○德川家康〉於二江戸一伊達政宗へ有二御成一、終日可レ有二遊興一とて、圍碁ノ上手、〈本因坊、利玄、道石、〉同象碁ノ上手〈宗桂〉以下令二祗公一之處、風烈ニシテほこり座中へ吹入事甚シ、依レ之膳部終テ後頓て令二還御一給、此外ニ御成無レ之、
p.0092 慶長十二年二月八日、伊達越前守政宗櫻田の邸に、大御所臨駕したまふ、〈(中略)創業記、貞享書上、寬永系圖、大三河志をはじめ、諸書に、この事十一年二月八日にのせしは誤なり、貞享書上によれば、十一年二月は、政宗封地にありしかば、江戸の邸にならせらるゝゆへな〉 〈し、貞享書上によりここゝにおさむ、〉
p.0093 慶長十二年十二月廿四日、圍碁之上手本因坊、法花宗淸僧也、〈○中略〉此比圍碁手相ノ事、本因坊、〈是ハ利玄ニ、半石强シ、年四十九、〉利玄、〈年四十三〉道石、〈年廿七八〉五三ケ年以前ヨリ、利玄ト手相同事也、ナミノ上手事、仙也老人、鹿鹽、仙角、〈是仙也子、當春於二筑紫一、喧嘩シテ死ス、〉壽齋、〈年五十餘〉是算〈年廿二、是モ當夏病死、〉門人六藏等也、並ノ上手ト云ハ、本因坊ニ先ノ碁ナリ、
p.0093 慶長十六年十月朔日丁卯、本因坊筭知自二京師一來、是當時圍碁之名譽也云々、
p.0093 碁利玄
日蓮宗ノ僧ニシテ、碁ノ上手也、南莊湊村ノ海濱ニ菴ヲ構テ住ス、寬永年中ニ、專碁ノ術ヲ以テ天下ニ流布ス、
p.0093 碁
本朝は吉備大臣にはじまる、〈○中略〉中世後土御門院の朝に、意雲老人妙術たり、そののち後陽成院の朝に、寂光寺本因坊日海法印天下の巧手とす、代々本因坊と稱す、頃年の本因坊道策は、古今の妙術たり、碁聖といふべきか、
p.0093 一道策本因坊は、近世圍碁の名人と云、察元、亦其頃の妙手にして、道策と碁を圍むに、勝負たがいにして、其優劣を見る事なし、但碁盤を四面寄並べて一面として圍む時は、察元遙に劣りて一番も勝事能はず、是盤面廣くなれは、察元が眼力行屆きて見る事能はざる故なり、是人才の庶人たる時は、格別常人に異なることあらざるに、擧て用る時は、大に其功をあらはすがごとし、
p.0093 秀吉公兩將を評し給ふ事
本因坊道策身まかりて後ちは、井上因碩また一代の名人、碁博士の上首たり、或人問ふ、たとへば 故先生世にいまして、足下に競ひたまはゞ如何あらむといふ、因碩この事は予も年來考ふる事にて候、予先を置なば、百戰百勝おそらくは相違はあらじ、先生は此の道の聖にして、前に古人なく、後に來者なく候へども、予先だにせば、必ず負じと存じ候なり、碁の位はあらまし知れければ、さとりたまへといふに、其の人、實に世人の評にも、また足下の申給ふやうに申候なりとほむれば、因碩これもまた年來思ひ考ふる事にて候、今先生と眞の勝負を試み候はゞ、某三目弱かるべしと云ふ、其の人不審顔しければ、世の人いかでか予が碁の位を知り候はん、今の局は十九道を縱横にして三百六十一目なり、此の局の上の手段は、予みな悟り居候へば不覺は致すまじく、また此の局を四ツ合せ候へば、一千四百目となり候、もしこの局上にて戰はむとき、某は望洋することも候はんずれども、先生は猶も廣かれとこそおぼすらめ、然れば三目にても覺つかなく候と答へし、藝も智もかぎりなきものなり、
p.0094 快全圍碁
當時圍碁の名人は、遠國波濤を越て爰に遊行する内に、備中の國より源五郎と云者來る、此男は五十年以來の名人なり、年毎に江府へ出て能人の知る所なり、彼源五郎が息男なりとて、前髮立の三松といふ小忰を、一兩年以前より連來る、是又碁打の生來ともいふべし、器用不思議の上手なり、玆に江戸常住して圍碁の名人と云は、增上寺塔中所化全快、〈若僧なり〉是今の世の碁に妙を得たる人なり、今年若なれば、此上後年は、日本にて此僧の上を越す碁は有べからずと云、不思議の上手出來るものぞかし、
p.0094 碁道珍話
宮本貞佐 知行百五十俵 有浦貞理 同
右兩人十二三歲之比、碁を能致候ニ付、文章〈○文章二字有レ誤〉院樣御治世之節、桐之間へ被二召出一、御家人 相成、貞佐嫡子忠五郎、今御祐筆、貞理嫡子はいまだ若年故小普請、
相原可碩 知行百五十石 坪田觀碩 同
右兩人十二三歲之比、碁能致候ニ付、文章院樣御治世之節、桐之間へ被二召出一、御家人ニ相成、右四人芝三田ニ而屋敷を賜二四人一割二付一所一、相原可碩十二歲ニ而琉球人ト碁ニ勝チ、今至碁打申候、四人共御家人ニ而御役相勤、碁之家にては無レ之、
p.0095 明和中、大坂〈所親名失念〉虎之助と云八才の小兒有、幼年にして碁を打、當地下立賣烏丸西へ入町に所緣之者有て、彼處に來て逗留す、近隣之者彼と碁を挑むに皆負たり、其町に余〈○神澤貞幹〉が知音有て、虎之助を倡ひ來、余に勝負を勸む、故に其手相を尋るに、凡余に四子を著してよかるべしとて、虎之助四ツ置て打レ之に、其碁勢余が如き鈍材の及處に非ず、去れども流石小兒なれば、間々に虚手有故、四ツにて勝敗午角なりし、孰に尋常ならぬ器用と見えし儘小島道芝〈始名大六、後號二登曾進一、五段の手直りなり、〉に是を語に、其棋を見度由道芝申に仍、小島方會日に、余誘引して伴ひ行、あれ是と打けるを、道芝倩閲て、是普通の才に非ず、江都の家元に係る奇材を常々搜索る事なれば、何とぞ彼を家元へ吹擧して下し度と、虎之助親元を疾と承合ぬる處に、虎之助兄弟もあまた有て、親は荒商賣の者之由、依レ之道芝大坂に所用有て彼地へまかりし序に、其親元へ尋行て、爾々の由を伸るに、親諾して虎之助を道芝に任す、爰に於て道芝ゟ江府へ其由を吿て、虎之助を下しけるに、果して一を聞て十を知の良材にて、幾年を經ずして元虎と稱し、五段の手直りと成る、〈此名元虎之助ノ謂なるべし、寬政二年に凡三十才計歟、〉余戯に、我は元虎に四ツ强しといへば、皆人興じて、元虎に四ツ强き人、恐らく棋局始て以來有べからず、足下は開闢以來の妙手也と笑ひぬ、また靑門主の御内何某が女に、以保子と云小婦有、容儀も十人並にて醜からず、至て秀才伶悧にして、總て女工何によらず巧ならずずと云事なし、十歲の頃より碁を知て打レ之に、洛に於て二三番目の打手也、江府家元にて、此棋の 寫を見て、古へゟ家の弟子に婦人は殊外寡し、此小婦が如き未有事なし、何とぞ出府せば、先當時の格にては、初段の手直り、二段を許すは程なかるべし、猶執行せば、其上へも至るべしとの沙汰成しに、十三四才の頃、田沼氏繁榮の折柄、彼方ゟ呼寄せられしが、下向以來何の沙汰も聞えず、いかゞ成しや、今は是も三十歲計なるべし、〈○下略〉
p.0096 當時碁名人名
八段 武州 本因坊烈元 七段 江都 元丈 五段 江都 水谷琢元 遠州 山本源吉 四段 紀州 外山算節 上總 伊奈秀助 水戸 舟橋元美 三州 若山立元 三段 武州 奧貫知策 江都 水谷琢順 甲州 渡邊多宮 二段 遠州 井口孫太郎 江都 太田權之右衞門 忍 三田平八 同 佐藤彌大夫 初段 江都 松平藤九郎 同安藤大和守 同 北邑季春 越後 神田利總次 同 土屋市之丞 勢州 藏田周八 尾州 伊奈金藏 賀州 松原左源太 伊賀 落合慶右衞門 防州 岸隆廣 雲州 猿木隆昌信州 關山虎之助 長州 熊谷三郎 上州 田奈邊出勝 江都 葛野松之助 伊勢 村田七郎兵衞 江都 林徹元 同 石川新五右衞門 〆三拾三人
八段 江都 安井仙知 七段 豆州 安井知得 三段 越後 福永彦右衞門 江戸鈴木知淸 甲州 石原八十八 二段 羽州 長坂猪之助 上州 栗原源次 江戸 水井吉太郎 同 片山知的 初段 備中 田中仙悦 同 岡田賴母 江戸 多賀孫六 碩水 佐藤源次 〆拾四人
七段 井上因碩 五段 信州 井上春策 同 服部因徹 四段 肥後 吉田三碩 越後 稻垣太郎右衞門 京 山崎因砂 三段 江戸 井上淸七 京 山崎主税 藝州 片島周伯 二段 仙臺 村田泰陽 初段 藝州 信岡虎藏 南部 柏村直右衞門 仙臺 淸八 江戸 森春甫 同 堀部因琢 〆拾五人
六段 林門悦 初段 江戸 一心齋 同 片岡主膳正〈○無段八人略〉
文化二乙丑年改
p.0097 本因坊道悦碁の問答
或人本因坊道悦と閑話の序に、碁の上手名人と云ふには、如何やうにしてなるものに侍るやと問ひけるに、道悦答へに、上手名人といふ地位にいたるものは、其の人の生得の器用に侍る、大抵十人並の器用の者能く敎へ、其の身も此の藝にはまりて能く勤め、數年を經れば上手にふたつまでの碁には、修行にてなるものに侍る、何ほどをしえ、その身もつとめても、上手名人といふには、其の器量の生得ならではなるものにてはなし、さるによりてこの藝をたしむもの多くあれども、上手名人といふは、むかしよりわづかなりといへり、
p.0097 碁局 唐韻云、枰〈皮命反、一音平、〉按、簙局也、陸詞云、局、〈渠玉反、棊局、俗云、五半、〉棊板枰也、
p.0097 按説文、枰平也、謂二凡木器之平一稱レ枰、釋名釋牀帳之枰、棊局之枰、皆其一端、〈○中略〉按説文局、博所二以行一レ棊、蓋枰局並本六簙盤、後借爲二圍碁盤之名一也、急就篇、棊局博戯相易レ輕、注、棊局謂二彈棊圍棊之局一也、
p.0097 碁盤(ゴバン)
p.0097 碁盤(ゴバン)〈棋枰、棊局、並同、〉路(ロ/メ)〈今按、此云レ目也、〉罫(クハ)〈碁盤線間方目也、博局又同レ之、〉
p.0097 棊局(ゴバン)〈杜詩、老妻畫レ紙爲二棊局一、〉 棊枰(ゴバン)〈正字通、材宜棊枰一謂二之楸枰一、〉 木枰(ゴバン)〈類書纂要〉 楸枰(ゴバン)〈同上、皆棋盤也、〉 棋盤(ゴバン) 楸局(ゴバン)〈同上〉 棊盤(ゴバン)〈明紀全載、棊盤花瓶等項、〉 石棊盤(イシノゴバン)〈葉介老詩、碧桃花滿石棊盤、〉 木野狐(ゴバン)〈拊掌錄、人目二棋枰一爲二木野狐一、言下其媚二惑人一如上レ狐、也〉 畫路(ゴバンノスヂ)〈太宗問對、李靖曰、敎レ士猶レ布二棋於盤一、若無二畫路一棊安用レ之、〉 線道(ゴバンノスヂ)〈宋朝擬棊經序、局之線道謂二之枰一、線道之間謂二之罫一、〉
p.0097 棊〈○中略〉 棊局 枰〈音平○中略〉 罫(ゴバンノメ) 〈音話〉 枰線間方目、以レ漆畫レ之、縱横各十九道、
p.0098 碁十七道、或十八道者、古有レ之、其十九道者、今用レ之、
p.0098 棊局
韋昭博奕論、枯棊三百、孰二與萬人之將一、李善注、引二邯鄲淳藝經一、棊局縱横各十七道、合二百八十九道、白黑棊子、各一百五十枚、沈存中云、奕棊、古局用二十七道合二百八十九道一、與二後世法一不レ同、今世棊局、縱横各十九道、未レ詳二何人所一レ加、予嘗見二李逸民忘憂淸樂集一、〈棊譜也〉首載下孫策賜二呂範一、晉武帝賜二王武子一兩局上、皆十九道、疑後人假託也、
p.0098 棋枰
棋局高尺許、脚二三寸、面厚七八寸、極堅重、使レ不二傾側一、〈○中略〉人皆善レ奕、謂二之悟棋一、下時不レ用二四角黑白勢子一、局終數二空眼多少一、以定二虧嬴一、不レ數二實子一也、
p.0098 畫紙局〈洞覽云、王積薪、毎レ出必携二圍碁一、具三畫紙局與二碁子一、道中雖レ遇二匹夫一、亦與レ之對下耳、〉
p.0098 畫レ紙爲二棋局一、敲レ針作二釣鉤一、
杜子美詩云、老妻畫レ紙爲二棋局一出、東晉李秀四維賦曰、四維戯者、衞尉摯侯所レ造也、畫レ紙爲レ局、截レ木爲レ棋、
p.0098 碁局ヲ作ル法、高六寸、長一、尺四寸、廣一尺三寸八分、一目ノ分七分ニシテ、一年ヲ表シテ三百六十ノ目ヲ盛リ、九曜ヲ像リテ九ノ聖リ目アリ、晝夜ニ擬シテ黑白各三百六十ノ石アリ、
p.0098 男問云、世ノ中ニ圍碁雙六、又ハ將棊ナンド申、盤ノ上ノ遊ビ多ク侍リ、何樣ナル事哉、聖答云、圍碁ハ是十八界ヲ表、盤ヲ一尺八寸ニ廣サヲ作ル也、四方ノ同キハ四季ヲ顯也、九ノ星目ハ九曜ノ星ヲ表セリ、其目ノ三百六十目ナルハ一年三百六十日ヲ顯ス、圍碁石ノ白黑ナルハ白月黑月ヲ顯ス故也、
p.0099 躾式法の事
一碁盤のすみの事、大内の御物は、立目一寸づゝ、横目八分、あつさ四寸五分、足三寸五分也、一平人の碁盤は、立目八分、横め七分、あつさ四寸五分、あし二寸五分、總じて高サは七寸也、
p.0099 聞書
一碁盤の寸法、内裏のは、たつめ一寸、よこ八分、あつさ四寸五分、あし三寸五分以上、高さ八寸なり、武家は、たつめ八分、よこめ七分、あつさ四寸貳分、あし二寸八分以上、高さ七寸なり、
p.0099 碁局寸法
長一尺四寸八分 廣一尺四寸 高六寸二分 木厚三寸四分 足高三寸二分
此寸法大旨なり、只見吉ほどに可レ計、石各以二貳百一爲二一具一、
p.0099 碁道珍話
碁盤寸法
總高 七寸八歩ニ極 盤厚 三寸九歩 長サ 一尺四寸五歩 横 一尺三寸五歩緣 三歩
右ハ本因坊四代目名人道悦定レ之、板垣善兵衞吟味之上、
p.0099 棊〈○中略〉
按、枰大抵厚六寸、縱一尺四寸、横一尺三寸八分、方罫七分、各十九罫、其木以レ榧爲レ良、檜次レ之、桂爲レ下、新榧枰、如見レ (ヒヾキ)者、急藏レ箱、經レ久則愈如レ故、
p.0099 聖目 せいもく 碁盤の目也 〈今昔〉井目
p.0099 碁局寸法〈○中略〉
聖目之事、由緖未二分明一、説云、局目三百六十は一年に宛、其中に九有は九曜也云々、本文につきて聖 目とも、又云聖目と此字を用事、極僻事也、際目とは此字を用と云々、さかひしり目と云なり、さかの兩字を略して聖目と云習へるなり、
p.0100 聖目の事
按ずるに、〈○中略〉局面九ツ黑星を勢子の座とす、勢子の置き樣圖を見て知るべし、子は種なり、碁子のことなり、碁をうつ種なるゆえ名とす、勢子を定むる事、日本にもいにしへありしことやしらず、兼好が徒然草には聖目と書り、また俗に九ツの黑星を井目といふけらし、予幼年の時、貴家の奧方にて、老女の圍碁を好むものこれありしが、其の言には勢子目といひぬかくのごとく傳へしところもありしと見えたり、勢子の座正字なれども、九曜によれば星目も義あり、井田の形によれば、井目も理なきにあらず、聖目ひぢりめは、實に僻字成べし、
p.0100 木畫紫檀碁局一具〈牙界花形眼、牙床脚、局兩邊著レ環、局内藏二納棊子亀形器一、納二金銀龜甲龕一、〉
p.0100 碁盤〈○圖略〉 一尺六寸三分四方碁石瑚瑚瑪瑙 〈石笥龜形石各悉有二花鳥繪一〉
p.0100 せいもく〈○中略〉 南都正倉院所藏の盤に、一は常の聖目に四ツ多くて、中の四ツなり、一は五ツならびにて、五々二十五點あり、其點櫻花に繪けり、
p.0100 勅封藏開撿目錄 北藏〈○中略〉 朱漆韓櫃廿六合〈○中略〉 一合納〈○中略〉紫檀圍碁枰一枚〈○中略〉 中藏〈○中略〉 一合納〈○中略〉圍碁枰一枚 椙辛櫃五十八合〈○中略〉 一合納〈○中略〉切目圍碁枰一脚〈○中略〉 一、合納〈○中略〉圍碁枰一脚〈在二錦覆蓋一○中略〉 建久四年八月廿五日
p.0100 康治元年五月五日丁酉、是日法皇〈○鳥羽〉幷入道大相國〈○藤原忠實〉於二東大寺一登壇受戒、 六日戊戌、早旦開二勅封倉一御二覽寶物一、〈○中略〉寶物之中、聖武天皇玉冠及鞍御被枕棊局、〈○下略〉
p.0100 碁盤の足の山、梔子形なるは、助言をいましむる所以なりとはかねて聞ぬ、瑯琊代醉に、盤の裏面の切子形は血溜にて、助言せし者の首を切てすゆる處なりといへり、
p.0101 殿上
圍碁彈棊等盤、在二臺盤所一、〈近代冬不レ置レ之、上古尋常置レ之、〉
p.0101 慶長十三年十一月四日、二位殿〈○豐臣秀賴〉碁盤見ニ、誓願寺之盤屋迄御出、予モ罷也、 廿日、晩歸寺、碁盤屋へ壹貫文遣也、
寬永七年三月十二日壬辰、碁盤屋來、淨勝院殿二面之分、於二當院一申付、但一面、〈シラケ〉銀二文目五分、手間也、二面五文目也、 十三日癸巳、碁盤屋來、申付也、 十七日丁酉、予碁盤白ラケ、目ヲ盛ル事、手間銀二文目二分遣也、同大工名二兵衞ト云也、 九年二月廿一日、碁盤將棊盤、兩面ニ目染ニテ誂出來也、手間料錢五分目遣了、
p.0101 碁道珍話
本因坊寶物
一萆薢(トコロ)碁盤 一面〈但黃色にて虎符あり〉 一蒔繪碁、盤 同斷〈總金蒔繪〉 一浮木之碁盤 同斷
p.0101 本因坊家什寶の事
本因坊の家にて例年正月、松の内床に掛る畫軸あり、養朴が筆にて楊貴山の肖像なり、〈○中略〉又床の間の上面に、トコロの盤と稱するものを置く、盤上の碁笥は金梨子地菊桐の紋なり、左に置くは、浮木の盤と稱して、形の厚きよりおもひ合すれば、甚だ輕きものゆえ名づけし成べし、右の方に置くは、糸柾と唱ふる栢の碁盤、奩は極上の金なしぢにて、葵の御紋なり、浮木の盤上に置く碁笥は、黑漆金まき繪、櫻楓の寫眞なり、さくらの方は鷹司左大臣殿、
君が代に逢ふべき春はおほけれどちるともさくらあくまでぞ見む
楓の方は近衞右犬臣殿
色ふかきやしほの岡のもみぢ葉はこゝろをさえにそめて見るかな 右兩大臣仰せ合はされ、一雙づゝ一雙の碁笥なり、珍寶といひつべし、其の寵遇のあつきを思ふべし、
右トコロの盤と菊桐紋の二具は、始祖筭砂法印本因坊へ、豐臣太閤より賜るものなり、さくら楓一雙の碁笥は、近衞鷹司兩大臣より恩賜なり、金梨子地葵の御紋の碁笥は、東照宮より賜ふとも、或は台德廟よりたまふとも、兩説ありて未詳ならず、
p.0102 本因(囚代目)坊道策〈出生石見〉
琉球より薩州公へ棊盤幷棊笥石共に差上る、光久公被レ獻二上之一、道策又拜領す、盤は柏之根之由にて、あめ色にして、一面にうずまきの如く木目有レ之、棊笥は堆朱にて、一面に毛彫あり、石は煉物也、形は饅頭形にして、すわるかたひらめなり、上へは丸し、唐石と申由也、本因坊に床飾物にしてあり、唐の石なり、唐にては打んと思ふ所へ、先丸之方を置案る也、手極る時、平めの方を直し置時、打手に極るなり、地の作り樣も日本とは違ふ也、
p.0102 文化四年二月廿八日庚子
碁盤〈栢厚サ五寸三歩、廣サ壹尺三寸七分、長サ壹尺四寸八分、高サ九寸、〉〈古物書有〉碁石〈那智中高上石、百八十一宛有レ之、〉碁笥〈麁相也〉
右盤石ニ而、代金壹兩三歩、今日藪下道具屋ニ而相調、善次郎世話、此間中毎々往來、漸今日相談相整被二求歸一也、實ハ壹兩貳歩貳朱五百文也、
p.0102 ふかそぎの事、〈○中略〉この樣體は、下賀茂御手洗川の石をとりて、左右の手にもたせ候て、ごばん(〇〇〇)の上にあがらせ、さて髮をよくときさげ候て、かみのすそをはさみ候て囗候、はやし候に口傳候、同石を左右の足にも一づゝふまへさせ申なり、
○按ズルニ、碁盤ヲ著袴、深曾木等ノ時ニ用イル事ハ、禮式部著袴、深曾木ノ二篇ニ詳ナリ、參看スベシ、
p.0103 圍碁〈○中略〉 磐を造る所は、二條通麩屋町の西、久右衞門、四條通堀川筋、大坂天滿天神の裏門右、川原町通、三條下ル二丁目に有、江戸磐作所、南傅馬町、乘物町、新兩替町、
p.0103 碁盤師
南傳馬町一丁目 庄九郎 通乘物町 淸左衞門 新兩かへ町四丁目 加兵衞
p.0103 碁笥(ゲ)
p.0103 碁奩(ゴゲ)
p.0103 碁奩(ゴゲ)〈又作二碁笥一〉
p.0103 棋籃(ゴゲ)〈遵生八牋〉 圍棋(ゴ)礶(ゲ)子〈同上、圍棋礶子、近日永嘉以レ藤編爲レ礶、〉
p.0103 ごけ 南都正倉院所藏の碁笥は、碁盤の足に抽匣(ヒキダシ)をして、龜の形に石を入たり、足も箱ざしにして梔子形ならず、
p.0103 勅封藏開撿目錄 中藏〈○中略〉 椙辛櫃五十八合〈○中略〉 一合納香納一具〈銀手洗一口 圍碁笥等○中略〉 建久四年八月廿五日
p.0103 本因坊筭砂〈出生京都〉
天正の頃、京都に本因坊と云僧有、碁將棊共に能す、〈○中略〉太閤〈○豐臣秀吉〉より金梨子地菊桐の紋付たる碁笥を給る、形は平目にして鉢の子の如し、今に本因坊家に在、不形なる物なり、
p.0103 碁道珍話
本因坊寶物
一碁笥 一對〈但金梨地菊桐之御紋あり、禁中樣より拜領之由、〉 一同 一對〈梅に鶯の模樣、内朱、信長公より拜領、〉 一同 一對〈堆朱、金葵御絞有、〉 一同 一對〈一は櫻の模樣、近衞殿より拜領、一は紅葉の模樣、鷹司樣より拜領、〉
p.0103 心にくき物 夜いたう更て、人のみなねぬるのちに、とのかたにて殿上人など物いふ に、おくにごいしげにいる音のあまた聞えたる、いと心にくし、
p.0104 院〈○朱雀〉の殿上にて、みや〈○昌子〉の御方より碁盤いださせ給ひける、ごいしげのふたに、 命婦淸子
をのゝえのくちんもしらず君がよのつきんかぎりはうち心みよ
p.0104 二月中の十日、年のはじめのかうしん出來るに、〈○中略〉頭中將、〈○中略〉ぢむのはこに、しろがねこがねのすぢやりて、しろがねのごいしげに、しろきたま、こむるりのいしつくりて、すぐろくのばんてうど、かくの如くにてさまかへて、ごてのぜに、しろがねにて、おなじはこにて奉れたり、
p.0104 碁子 藝經云、白黑碁子、各一百七十枚、
p.0104 碁石(イシ)
p.0104 碁子(ゴイシ)
p.0104 碁子(ハマ)〈指南、碁子云二白瑤玄石一、〉 碁子(ゴイシ)
p.0104 攝津 備後町褶碁石(スリコイシ)
p.0104 碁盤〈○中略〉 圍碁之所レ用黑白石、始自二紀伊海濱一來、其形之大小、自然有下適二其用一者上、今絶、故多磨二白貝黑石一而作レ之、
p.0104 圍棋
圍棊子非二造成者一、乃本國沼海之傍、而有二生成石子一、儼如二做成一精緻、名曰二天威子(ゴイシ)一、出二于養久山沿海之處一、白子出二于大隅山海傍一、皆大隅州所屬之地、
p.0104 棋枰
黑子磨二黧石一爲レ之、白子磨二螺蛤頂骨一爲レ之、
p.0105 天巧碁子 長州赤間關ノ西北一里、筋ノ濱ト云處ニ、天然ノ碁子ノ五色ナルアリ、人工ニアラズ、又紀州ノ那智ノ黑石モ、爲二碁子一如二人工一、
p.0105 ごいし 碁石也、白黑ともに紀伊國に出、黑は那智黑と稱せり、〈○中略〉又いはく、〈○山冢集〉答志郡すが島の内に烏崎といふあり、此濱の小石皆黑し、又鷺島もほど近し、又豐後佐賀の關に、黑が濱白が濱とて、黑白をわかちて天然の碁子あり、長門國筋が濱にも然り、〈○中略〉古昔は皆自然の石子を用ゐたる成べし、今は黑石をいし、白は海蛤をもて磨琢して造成せり、〈○中略〉今唐山舶來の碁子は練成したる物也、雲林石譜には、自然の棋子の事をいへり、南都正倉院所藏の碁子は、珊瑚瑠璃瑪瑙を用ゐて、悉く花鳥の畫あり、
p.0105 郡南卅里藻島驛家、東南濱碁子、色如二珠玉一、所レ謂常陸國所レ有麗碁子、唯是濱耳、
p.0105 勅封藏開撿目錄 北藏 厨子一脚 納〈○中略〉 圍碁石一笥〈白黑○中略〉 木地厨子一脚 納〈○中略〉 圍碁石六笥〈白黑○中略〉 建久四年八月廿五日
p.0105 はりまのかみ、〈○藤原行成〉ごのまけわざしける日、あからさまにまかでゝ後にぞ、ごばんのさまなど見給へしかば、けそくなどゆへ〳〵しくして、すはまのほとりの水にかきまぜたり、紀の國のしらゝの濱に拾ふてふこの石こそは巖ともなれ
p.0105 伊せのたうしと申島には、こいしのしろのかぎり侍濱にて、くろはひとつもまじらず、
むかひてすがしまと申は、くろのかぎり侍る也、
すがしまやたうしのごいしわけかへてくろしろまぜようたのはまかぜさぎしまのごいしの白をたかなみのたうしの濱に打よせてけり
からすざぎのはまのごいしと思ふ哉白もまじらぬすがしまの黑
あはせばやさぎをからすとごをうたばたうしすがしま黑白の濱
p.0106 むかしさる所に、貧なる人の碁をこのむあり、冬のさむき時には、碁石をいりて、あたゝかにしてうちぬ、〈○下略〉
p.0106 文花五年十一月廿三日甲申、下立賣へ、今朝米之儀ニ付人遣序、碁盤戻ル、黑石二ツ不足、近日拜面可二申入一也、大切之石故也、
p.0106 觀二王度圍一レ碁獻二主人一
一死一生爭レ道頻、手談厭却口談人、殷勤不レ愧相嘲哢、漫説當家有二積薪一、〈世有二大唐王積薪碁經一卷一故云〉
p.0106 王積薪
玄宗南狩、百司奔二赴行在一、翰林善二圍碁一者、王積薪從焉、蜀道隘狹、毎三行旅止二息中道之郵亭一、人含多爲二尊官有力者之所一レ見レ占、積薪棲棲而無レ所レ入、因沿レ溪深遠、寓二宿於山中孤姥之家一、但有二婦姑一、止給二水火一纔暝、婦姑皆闔レ戸而休、積薪棲二于簷下一、夜闌不レ寐、忽聞堂内姑謂二婦曰、良宵無二以爲一レ適、與二子圍碁一賭可乎、婦曰、諾、積薪私心奇レ之、況堂内素無二燈燭一、又婦姑各處二東西室一、積薪乃附二耳門扉一、俄聞、婦曰、起東五南九置レ子矣、姑應曰、東五南十二置レ子矣、婦又曰、起西八南十置二子矣、姑又應曰、西九南十置二子矣、毎レ置二一子一、皆良久思惟、夜將レ盡二四更一、積薪一々密二記其下一、止二三十六一、忽聞、姑曰、子已敗矣、吾止勝九枰耳、婦亦甘焉、積薪遲明具二衣冠一請問、孤姥曰、爾可下率二己之意一而按二局置上レ子焉、積薪卽出二槖中局一、盡二平生之秘妙一而布レ子、未レ及二十數一、孤姥顧謂レ婦曰、是子可三敎以二常勢一耳、婦乃指二示攻守殺奪救應防拒之法一、其意甚略、積薪卽更求二其説一、孤姥笑曰、止レ此已無レ敵二於人間一矣、積薪虔謝而別、行十數歩、再詣則已失二向之室閭一矣、自レ是積薪之藝絶無二其倫一、卽布二所レ記婦姑對敵之勢一、罄二竭心力一、較二其九枰之勝一、終不二得也、因名二鄧艾開蜀勢一、至レ今碁圖有焉、而世人終莫二得而解一矣、
p.0106 問、孤山老姥之説信乎、曰、或有レ之、然非二積薪之自爲一レ神也、好事者假二神、而抑二積薪一之語也、所二謂指示以二攻守劫殺之方一甚略、曰、是子可三敎以二常勢一耳、其抑二積薪一可二見也、
p.0107 建長三年正月十七日、〈○中略〉すけやすがもとに、ゐき(圍碁)のふ(譜)のあるまいらせよといふ心、うたによみてやれとおほせごと有ければ、少將内侍おりくに、
こ(○)けのむすの(○)やまのおくのふ(○)もとにてこ(○)れをみをへ(○)てかへりけん
返し中將
ふ(○)るさとのは(○)なの盛をも(○)ろともにみましむ(○)かしなりやと
なほせめにやれと仰ごと有しかば、辨内侍、
ふ(○)る里のは(○)なよりもけにお(○)もひやれそ(○)れよりおくのし(○)がの山ごえ
p.0107 この古碁樞機は、年久にわが家に傳へぬる書にして、遠つ祖筭砂上人よりして、代々の名高き人達の、後のよまでもつたへぬる圍碁にして、更にまたたぐひなきふみなり、おのれ朝ゆふこれをとり出て、そがまゝをまねびかこみ見るに、その妙なること、たえてひとのおもひよるべくもあらぬ手どもなんおほかりける、しかるに今かゝる靜けき大御よにあひて、たれもたれも此ことを明暮のなぐさとして、をのゝえもくだすばかりたのしみ物する時なれば、かくてひめおかむもいとあたらしく、はて〳〵はかぐつちのあらびにもあひ、しみの住かともなりぬべきに、こたび彼上人の二もゝとせのむかししのぶむしろに、つらなれる人にもわかち、ひろくよ人のめをもおどろかさむとて、板にゑらせつることゝは成ぬ、
文政五のとしの春 本因坊元丈しるす
p.0107 當流碁經大全序
圍碁は其來る事ひさしく、古賢これを翫ぶ者おほし、本朝本家深く秘して其圖をいだす事をゆるさず、世に圍碁の書多しといへども取にたらず、一日門人來て懇に其圖を求む、予辭するを得ず、策元直傳を以て此書をあらはす、妙術至極に於ては、口授に非ざれば喩べからず、その器によ りて更に相傳ふべし、此圖本家の直傳なれば、猥に他見有べからざるもの也、
時享保五庚子載二月日 秋山仙朴 正廣〈花押○中略〉
右者〈○圖略〉八所之角ヨリ外ニ打手無レ之ト可レ知、是本因坊道策家傳也、今道策流ヲ學者予ヨリ外ニ無レ之、爲二後之一書置者ナリ、
p.0108 小倉道喜
道喜事、道策死後、譯有レ之家を退き、秋山仙朴と名を改、泉州の堺に住居し、享保十年新撰棊經といふ棊の本をあみたて、ばい〳〵に出す、道策師し道悦未だ存命にて京都に安居し、此事を聞および、江戸道知方へ絶板の事を申遣す、道知が曰、是式の本にて家の障に成り、棊の邪摩と成候樣なる事にてはあらずと云て、捨置べきよし申せしなれども、序に法外なる事を書記候につき、無二止事一絶板を願、其譯は、今道策流を學ぶもの、予より外に無レ之と申事、書記候計にて絶板を願しなり、本家のさわりに成るにより、絶板を願にはあらず、序の法外の一くだりにて絶板を願しなり、絶板を願候前に、仙角へは屆計、因碩門入其外道策弟子存命の分、境道哲、中村玄碩、木村道全、高橋友碩、其外自分の弟子は申におよばず、一統に道知宅へ招き、道知皆々へ申て曰、此度仙朴法外の一くだり書記し候につき、道悦方よりも申遣せしにより、絶板を願也、若仙朴存寄有レ之、勝負を願ふまじきものにあらず、其時は各方其ふまへ有やいなやと道知問ふ、其時皆々得心のまし申により、夫より道知御月番の寺社奉行黑田豐前守樣へ、右の仙朴編立し本を持參仕、委細の譯を申上、絶板を願ふ、則御聞濟にて、願之通絶板被二仰付一候、堺にて仙朴七日戸〆被二仰付一候、此方にて深く取候とは違、仙朴も勝負の存寄も無きと見へ、何の沙汰もなし、此時の本を世に仙朴集といふ、此時の因碩は名人因碩の跡なり、門入も隱居して朴入と申せし門入なり、
p.0109 長谷川知仙
偖知仙㝠加の爲と存付、先の石立一册、二ツ三ツ四ツ五ツ迄の石立一册、二通りにいたし、其外作り物等を拵へ、宮樣〈○東山皇子公寬親王〉へ差上る、然所近代此石立何方より出候哉、賣本の樣になり、先の石立の方には何者の仕業やらん、きぬふるひと名付、ゑしれぬ序を書、又一通りの石立の方は、追加と名付、奧書に宮樣の仰に依て、道知指圖して、知仙筆を染しと有レ之なり、跡方もなきもの也、此二通りの石立、道知はしかと見もせぬ事なり、我等〈○石井恕信〉若き時の事にて、宮樣へ差上候作物、手傳して押遣せしなり、依レ之此譯能しれり、道知が拵へ、知仙が筆を染しと奧書に有レ之の大なる空言也、道知が存寄と、知仙が存寄とは何程か違べし、日を同じふして語がたし、道知が存寄にて拵たるにあらず、知仙我一存にて拵し石立なり、昔道策百番棊と申て、いまだ道策流を立不レ申前、拵し石立百番ながら皆古流なり、是より外道策も拵し石立は無レ之、名人因碩も角定石と申一通、石配と申て一通、是より外因碩も不レ拵、作物は數を不レ知拵し也、因碩作しつくりもの、凡人のおよぶ所にあらず、道知拵し石立と申は、四拾番の石立と申て、先十番、二ツ十番、三ツ十番、四ツ十番、是を四十番棊と申也、道知も是より外拵し石立なし、道策因碩道知此三人拵し石立、序も奧書も無レ之、知仙拵宮樣へ差上候石立にも、序も奧書も無レ之、然をゑしれぬ序を書、跡かたもなき奧書を書て、知らぬ人の心を迷わするものなるゆへ、序ながら爰に記す、
○按ズルニ、碁經ノ書頗ル多シ、今其二三ヲ錄シテ、他ハ省略ニ從フ、
p.0109 圍碁雙六好てあかし暮す人は、四重五逆にもまされる惡事とぞおもふと、或聖の申し事、耳にとゞまりていみじく覺え侍る、
p.0109 一よき友をもとめべきは手習學文の友也、惡友をのぞくべきは、碁、將棊、笛、尺八の友也、是はしらずとも耻にはならず、習てもあしき事にはならず、但いたづらに光陰を送ら むよりはと也、人の善惡みな友によるといふこと也、三人行時、かならずわが師あり、其善者を撰て是にしたがふ、其よからざる者をば是をあらたむべし、
p.0110 有馬凉及
有馬氏凉及の名、父子兄弟に及ぼして、四世醫を業とす、〈○中略〉初代凉及號二臥雲一、又存庵といふ、後水尾院、特徵て御醫とし、階法印を賜ふ、〈○中略〉ある時急に沼るゝに、折ふし碁を圍みて參内遲々に及び、頻に御使を下さるれども、猶局を結ざりしかば參らず、是に罪せられて京師を逐れ、大津に蟄す、然もほどなく召還されぬるとぞ、
p.0110 祗南海終身圍碁を絶事
紀藩の士、祗園與一は、十餘歲、一夜百首の詩を賦し、稍成長益進、詩名一時に高し、性又圍碁を好み、家にて一日客と碁をかこみ居たるに、隣家の婢あわてながら走り來り、今日主人の家、皆々他行、婢壹人留守として、幼年の子息を庭前にて遊し居たるに、側をはなれし暫時の間に、兒あやまちて泉水に落給ふ、とく來て助け給はれと云すてゝ走り歸りぬ、與一は今行べしといひながら圍碁に耽り、餘念もなくかこみ居しうち、時刻過ぬる故、遂に溺れて兒は死す、驚き悔めども爲べき樣なく、隣家へ對し云解べき言葉もなく、其の日より終身碁局に向ふ事を絶たりと云、この話、侗庵古賀先生に聞ぬ、
p.0110 雙六をうつ人、もし七目を塞がれては術なき事、膓を斷ちて悶え焦る、碁を圍む人は敵に取込めちれ、 (なかで)おろされては、逃遁れんとものする有樣、多く負けぬれば、後は腹立ち怒り、助言する人あれば、穴勝に怨を含む、誠に我執といひながら、愚なる事になん、味方を生して敵を殺さんと、手を盜み僞を構へ、主從父子師弟兄弟と雖も許さず、四重五逆の罪にも過ぎたりと、兼好がいひけんも道理ぞかし、これほどに心を入れてすべくば、何れの事か感應の上手となら ざらん、あたら光陰を徒に費す事、聖賢の旨に違ふらんとぞ覺ゆるといひければ、世に高麗胡椒とて好む人、その辛き事魂を消り、胸を爛らかして、これを見しと思ひたる彼の圍碁雙六に負色付きて、憤(いきどほ)しきを慰みにせば如何せん、蓼食ふ虫もあるものをと、呟く人も有りけり、
雙六に七目塞がれ碁にしちやう唐椒より辛う覺ゆる
p.0111 碁將棊に遊ぶ人の箴
碁象棊握槊、その品はかはれども、人の心を奪ふ事は同じ、或は一二の遊侶を迎へ、或は旅路の憂をわすれ、鬱をひらき生を慰めんにはよし、又何もつとむるいとなみもなく、手を拱き人ごとなどいはんよりは、物と相忘れんはよかるべし、平生の勢力を是につくしてんは、その器小きに似たり、誠に局にのぞむときは、盛衰勝敗ありて、甚おもしろきものゆゑ、夜のあけ、日のくるゝもしらざる物なり、よりて是を木野狐ともいへり、晉の陶侃といひし人、枰を江にしづめしも、事に害ある事を察してなり、近頃黑田如水軒、石田三成と怨をむすばれしも、その事碁より起れり、畠山が讒にあひしも、平賀武藏守と六郎重保と碁を爭ふよりおこれり、さいへばとて、此事しらざれといふにもあらず、身謙り、人と爭ひいかる心をやめて遊ばゞ、時として養生の道ともなるべし、
p.0111 葉濤好二奕棋一、王介甫、作レ詩切責レ之、終不レ肯レ己、奕者多廢レ事、不レ以二貴賤一、嗜レ之率皆失レ業、故人目二棋枰一爲二木野狐一、言其媚惑レ人如レ狐也、
p.0111 つくしに侍ける時に、まかりかよひつゝごうちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける、 きのとものり
ふるさとは見しごともあらず斧のえのくちし所ぞ戀しかりける
p.0111 信安郡有二石室山一、晉時王質伐レ木至、見二童子數人棊而歌一、質因聽レ之、童子以二一物一與レ質如二棗核一、質含レ之不レ覺レ饑、俄頃童子謂曰、何不レ去、質起視二斧柯一爛盡、旣歸無二復時人一、
p.0112 問、王質欄柯之説信乎、曰不レ然也、堯至レ今三千六百年耳、度不レ能二十局一也、則爲二神仙一者曷壽焉、
p.0112 棊をやんごとなき人のうつとて、ひもうちとき、ないがしろなるけしきにひろひをくに、をとりたる人のゐずまゐも、かしこまりたるけしきに、ごばんよりはすこしとをくてをよびつゝ、袖のしたつまかた手にて、引やりつゝうちたるもおかし、
p.0112 したりがほなるもの ごをうつに、さばかりとしらでふくつけさは、又こと所にかゝぐりありくに、ことかたよりめもなくして、おほくひろひとりたるもうれしからじや、ほこりかにうちわらひ、たゞのかちよりは、ほこりかなり、
あそびは こゆみ ゐんふたぎ ご(○)
p.0112 棋はおかしきものなれど、國ををさめ、いくさするにたとふべき事多し、ある棋をよくせるといへる人のことばに、棋をよくせんとならば、まづ心の工夫をしたまへといひしとぞ、これはつねの棋うちにはあるまじ、
p.0112 夫後人事業、皆不レ及レ古、惟推歩與二奕棋一、則皆勝二前古一、故宋元國手、至レ明已差二一路一、淸則差二一路半一、何則袒二古人一、手談所レ及、更復專心致志、人々相繼、探レ奧鉤レ玄、故得レ積二分黍之功一、以出二古人之右一、然則今之所二以勝一レ古者、其唯奕棋乎、後之君子、豈可三以不二貴重一之乎哉、而世之曲士、不レ察二其故一、猥加二木野狐之稱一、以爲下其迷二惑人一不上レ亞二酒色一、雖レ然古之聖人造レ之、以敎二其子一、而謂爲レ之猶賢二乎己一、若果如二世之所一レ言、則是聖人、故造二不仁之器一、擧以敎二其子一也、則其所レ爲、固亦不レ賢二乎己一、何聖人之不二自愛一、是亦不レ思之甚也、且古之仁人君子、往々好レ之、皆以爲二忘憂消日之具一、甚有下當二齎レ藥賜レ死之際一、猶爭レ劫畢上レ局、聞二天子廢立之變一、猶下レ子不レ已者、世之曲士、徒囿二於拘墟之見一、而不レ察二達人解者往々如一レ此、猥認以爲二荒惑之具、淫湎之比一、豈不二亦惑一乎、是非曲直、固無レ待レ辨者、〈○下略〉
p.0112 上手〈起二於碁一也〉
p.0112 下手(ヘタ)〈起二於碁一也〉
p.0113 一物の上手にならむ事大事也、碁打重阿に、ある人兄弟ながら先にて碁うてるに勝負なし、又人重阿に、兄弟碁の事をとふに、兄まされりと答ふ、人皆云、いづれもせんにてうつに、兄のまさるといふはいかんといひしに、重云、弟は打手さだまりて、はや我流と見えたり、其流と見えば、はやすぐるゝ事有まじきといふ也、面白き詞也、
p.0113 碁有二別才一
家先生、嘗謂二一碁客一曰、碁有二別才一、必重遲騃治而善レ之、如夫輕俊浮慧、神氣 越、不レ能レ入二碁格一也、余〈○南部伯民〉初以爲レ戯、後讀レ史、云唐李重恩善レ奕、形神昏戇、人謂二之李憨一、碁外一無レ所レ曉、對奕昏睡、但開レ目隨レ手、應出二人意表一、余以三其有二暗合一也、不レ覺抵掌、按、宋又有二王憨一工レ碁、能與二劉仲甫一角、
p.0113 圍碁之術、虚實損益、奇計百出、頗似下有二智謀一者上矣、博物志云、堯舜以二子愚一故、作二圍碁一以敎レ之、其法非レ智不レ能也、此張華之説、固傅會耳、且世之善二此技一者、未二必有智之人一、其於二世事之計一、則反愚者多焉、又且總角幼童、未二曾修錬一、而得二其妙工一、亦往往有焉、是亦理之不レ可レ解者也、
p.0113 備雲石武士變レ志事
忠興〈○細川〉大内尼子ノ勝敗ハ、其理適當シテ覺エ候、〈○中略〉夫棋ヲ圍ミ候ニ、下手ナル者ハ、三石モ五石モサキニ置テ打候ヘバ、上手ニモ勝事ニ候、然ル故ニ天下ノ碁所ニモ、或ハ上手ノ手相ヲ免シ、又ハ先二ツ三ツナド定メ候、晴久ハ將ノ器ヲ比喩セバ、當時日本ニテハ上手カ、先先先、先ノ手相マデハ下リ候ハジ、更バ誰ヲカ碁所ト定メ可レ申ヤ、〈○中略〉サテ先ニ申ス如ク、元就ノ武勇、棋ニ比セバ、國手ニテモアレ、上手ニテモアランカシ、敵手ニ五石六石、乃至星目置セヌレバ、勝ヲ取事ハ稀コシテ負ル事ハ多シ、晴久ハ先先先ノ棋ニナシテ、元就ノ碁所ニ對セバ、手相ハ先二ツナラン乎、其軍勢ハニ十倍シヌ、多少ヲ論ゼバ碁ノヒジリ目ヲモ杳ニ過タリ、先先モ、或ハ先ナドノ敵手ニ聖目モ置セタランハ、勝ナン事ハ希有ニシテ、敗績ノミ多カルベシ、是ヲ以テ思ヘバ、元就ノ分際 ニテ晴久ヲ亡サン事ハ、中々難キコトニテゾ有ント被レ申ケレバ、隆通否トヨ左ニ非、忠興ノ比喩、似タルコトハ似タレ共、是ナルコトハ不レ是、今諸國、十二諸侯七雄ノ如クニ分レテ、奕棋ノ如クニ亂レタリ、〈○下略〉
p.0114 碁をかこむものに目なし、かたはらにみるもの目ありといふ、たがはぬたとへなり、然るにこれは、をのれに求むる心うすくて、人をせむる心のあつきが上にやあるらん、弓ゐるものゝ、をのれにかへす心にはおとりたり、ある人碁をかこみたるに、いしをおろし、またあげて、こゝにやをかん、かしこにやおろさんと、かたはらなる上手にとふに、さればしかも、ありなん、かくもありなん、まどはしとこたふ、いなのたまへ、學びがてらにせんといへば、さりとて盤にむかはぬものを、わき目にはゑこそわかたねといふ、この人は弓ゐるものゝたぐひなるべし、
p.0114 むかし、さる人のもとに、人々寄合碁をうてり、その中にもすぐれて碁ずきなるといふ人のふぜいを見聞こそおかしけれ、かの人、ごにさへうちかゝれば、萬の用所を正(はた)とかき、こうくわいする事かぎりなし、何ぞ物をみすれば、當座はたしかに見たると云て、後にとへば、何でもみぬと云あらそひ、又のみ食物をあたふれども、はら十分にのみくふて、後にとへば、其味の五味をしらず、或はかしらの上に火をつけ水をながせども、夢にもわきまへしらず、たゞ碁にわるくすきて、なぐさみと云事を覺えず、げにも〳〵聖人の詞に、心こゝにあらざれば、きけどもきかず、みれどもみず、食すれどもあじはひをしらずと、此外此心持、萬事に心得らるべし、
p.0114 塵墳の知里
碁打に馳走するは無益也、それも深く耽らぬ人はいかゞあらむ、我如き好士は、碁にかゝりては哺を忘れ、萬の事を放解、饗するも邪魔に成ゆへに、あるじの心をこめて饗するもはやくたうべ、不興顏にそこ〳〵に挨拶して、はやたうべ仕廻ひて盤に向はん事を思ふ、ある好士、此情を自ら 能覺へて、己がもとへ碁の友來れば、其家内に云含て、菓子盆に燒飯を堆く盛て、茶瓶を添出し置、扨碁にかゝりて他念なき中に、流石空腹になれば、うつし心の中にも、主客ともに彼燒飯をとりて喰ふ、長座に成て其飯盡なんとすれば、勝手ゟ心得て、又能き程に替りを入れ置、飼鳥の餌を入るに等し、左有て一晝夜打ても飢る事なく、家内の世話も少く、客もあるじへの心置なく、快く碁を樂む也、是に過たる碁の饗應はなし、穴賢碁好に尋常の馳走はせんなき事と知べし、
p.0115 今碁將棊雙六の三ツの内、碁にはむだ言をいひつゝ打つこと稀なり、世話盡、〈明曆二年刻〉打たる狸のはら鼓御地何ほど蛭の瘡尋、その外少々出せり、其内手みせきんとありて、註に三盤にわたると書たり、今略きて手みきんといふ、廣く賭博に用とかや、續山井、花のあとや風の手みきん石の竹、〈政好〉手ぞみたき風にみだれ碁石の竹、〈山石〉
p.0115 本因(三代目)坊道悦〈出生石見〉
道悦時分より袈裟を取り、衣の袖も短く成る事は、筭知と二十番のせり合の時分より也、御城にて棊仕候節、又は上覽之節、手を突候故、袈、裟衣盤の上へ障り、上覽之節御目通りに候へば、石を直し候も仕にくゝ、第一相手も兎や角と申、棊の障になり、殊に負候得者遠島の御請申上候故、大切之棊に候へば、心障候ては仕にくゝ御座候間、向後袈裟を取、衣の袖も短く仕度奉レ存候由御屆申上候、尤之由被レ仰候、此時分より衣も短く、袈裟も取申候、
p.0115 碁指南會所
一京四條通室町東へ入ル町 石丸三左衞門
p.0115 塵塚の塵
寶曆の頃、岡和仙〈初段ぐらゐの碁也〉四條道場内の空坊にて碁屋をはじめける時、或人、
碁屋ならば寄大炊などゝ有べきををかわせんとは御手違ひ哉 是も言葉巧にておかし、
p.0116 享保中の板にて、智惠較と云ものあり、四ツ目總どり碁と云あり、〈○中略〉この外に四ツ目總どり、三ツ星そうどりと云あり、いづれもいくたりにても、順にとりてまはすなり、又一人にてとるは、ひろひ物とも、とりもの共云、其形升八ツはし矢万字等あり、寬保三年刻、御伽雙紙と云ものに、ひろひ物には中字井筒などさま〴〵あり、いづれもごばんの筋を順にあともどりせぬやうにとる也、碁石にてする戯、色々あり、
p.0116 碁石鼻に入たるを治す
ある人戯れに、碁石二ツ鼻の穴に入しが、何としても出ざりしに、紙よりをして一方の穴に入ければ、くさめ〳〵して石出たりと也、
p.0116 去冬過二平右軍〈○右近衞少將正範〉池亭一對二乎圍棊一、賭以二隻圭新賦一、將軍戰勝、博士先降、今寫二一通一詶二 一絶一、奉レ謝二遲晩之責一、
先冬一負此冬詶、妬使三隻圭降二奕秋一、閑日若逢二相坐隱一、池亭欲レ決古詩流、
p.0116 述懷古調詩一百韻
優遊何所レ詠、身上舊由緣、七歲初讀レ書、騎レ竹繫二蒙泉一、九歲始言レ詩、擧レ花戯二霞阡一、十三加二元服一、祖父在二其筵一、提レ耳殷勤誡、努力可レ攻レ堅、我以二稽古力一、早備二公卿員一、汝有二帝師體一、必遇二文王田一、少年、信二此語一、意氣獨超然、下レ帷不レ窺レ園、閉レ戸不レ趁レ權、圍碁厭二坐隱一、投壺罷二般還一、〈○下略〉
p.0116 皓隱齋説
意雲老人、蓭二居泉南一、自號二可竹一、又以二皓隱一扁レ寢、從容謂レ余〈○僧彦龍〉曰、昔巴園人收二大橘一、剖レ之有二二叟一對碁、曰橘中之樂、不レ减二商山一、但恨不レ得二深レ根固一レ蔕爾、以レ水噴レ地、爲二二白龍一而去、故丹溪先生、名レ橘爲二皓隱一有レ以哉、我非下以二角黃綺園一而隱者上、隱二于橘一也、非二以レ橘而隱者一、隱二于碁一也、有二敵手知音一、則引レ盤敲レ子、燈火夜落、谷鳥 晝驚、忘二老之將一レ至、所レ謂橘中之樂、不レ减二商山一、商山之樂、豈有レ加二我皓隱一哉、余曰、老人欺レ人歟、皓隱之義、我知レ之、在レ竹不レ在レ橘也、鄜延長史有二大竹一凌レ雲、可二三尺圍一、伐二剖之一、見下内有二二仙翁一相對上、云平生深レ根勁レ節、惜爲二主人一所レ伐、言畢乘レ雲而去、黃庭堅曰、此與二昔人橘圓叟之事一無レ異矣、老人乃可レ竹之人、竹乃可二老人一者、而以二皓隱一爲レ扁、不レ在レ橘在レ竹者決矣、頴子進曰、主客言皆隘矣、夫碁者、聖人之所二以敎一レ子也、四皓之後、能者不二世出一矣、典午謝安石賭二薔薇之野一、天水王安石賭二梅花之詩一、一時美談也、林徵君之二不能、蘇長公之三不如人、碁居二其一一焉、棊之難也如レ此矣、况隱二于棊一者乎、而隱云隱云、巴橘云乎哉、鄜竹云乎哉、商於六百里之靑云乎哉、自レ吾視レ之、支竺倭三國、一棊隱也、我大日本國有二凝露臺一、臺上有二手譚池一、池上有二玉棊子一、冬則暖、夏則冷、嘗有二王子一、以二玉棊子玉棊局一奉二太唐天子一、天子令下待詔與二王子一對棊上、是我國實棊之靈區、而棊亦我國之異産也、彼月氏國十八尊者、以二五天一爲二一面棊盤一、眞諦爲レ白、俗諦爲レ黑、十八界内、奪レ角爭レ先、未レ證レ果者、不レ知二斧柯爛一焉、已登レ地者、以二桃花五北斗七一待レ之焉耳、雖レ然吾言猶隘矣、五十歩而咲二百歩一也、天之圓者、吾棊子也耶、地之方者、吾棊局也耶、大千沙界吾棊隱也耶、森羅萬象、吾棊隱隱具也耶、五千四八、風花雪月、吾一卷棊經也耶、西乾四七、東震二三、不レ知三黑白未レ分、先有二高一著一、濟下三要印子、洞上五位圈兒、難レ爲二彷彿一焉、後浮山錄公對二今韓愈一、撾レ皷上レ堂、十九路頭、擒縱殺活、横説竪説、無二餘薀一矣、九原可レ作、吾從二錄公一聞二皓隱之説一矣、於レ是乎、余避レ席謝二頴子一曰、余之於レ棊、林君蘇公之流亞也、束閣卷懷可也、請記二子言一以爲レ説、
p.0117 大中〈○唐宣宗年號〉中、日本國王子來朝、獻二寶器音樂一、上設二百戯珍饌一以禮焉、王子善二圍棋一、上勅二顧師言待詔一爲二對手一、王子出二楸玉局、冷暖玉棋子一云、本國之東三萬里、有二集眞島一、島上有二凝露臺一、臺上有二手談池一、池中出二玉棋子一、不レ由二製度一自然黑白分焉、冬温夏冷、故謂二之冷暖玉一、又産二如レ楸玉一、狀類二楸木一、琢レ之爲二棋局一、光潔可レ鑑、及二師言與レ之敵手一、至二三十有三一、勝負未レ決、師言懼レ辱二君命一、而汗手凝思、方敢落指、則謂二之鎭神頭一、乃是解二兩征勢一也、王子瞪レ目縮レ臂、己伏不レ勝、廻語二鴻臚一曰、待詔第幾手耶、鴻臚詭對 曰、第三手也、師言實第一國手矣、王子對曰、願見二第一一、曰王子勝二第三一、方得レ見二第二一、勝二第二一方得レ見二第一一、欲三躁見二第一一、其可レ得乎、王子掩レ局而吁曰、小國之一、不レ如二大國之三一信矣、今好事者、尚有二顧師言三十三鎭神頭圖一、
p.0118 問顧思言三十三著、而勝二神頭王一信乎、曰一説日本王也、奕至二三十三著一而決レ勝、所レ謂通レ神者也、其猶在二坐照上一乎、師言於レ品不レ登二第一一、而攷二之史一、古未レ有二神頭國一、而日本王由來不二入朝一、將無三好事者爲二此勢一、以附二會其説一乎、未レ可レ必也、
p.0118 花浣碁聲
端齋侍者袖二詩卷一見レ示、且曰、此題乃先小補所二親筆一也、光甫藏主得二之於書笥之中一、自招二諸孤一以同 賦焉、聯輝萬松聞而詠レ之、詩皆佳也、予讀レ之而有レ感二于懷一也、補翁語レ予曰、我少壯之日、傍有二碁盤一、受 業者斫レ之、蓋戒三我之移二於他藝一也、予書レ紳矣、幸次二壓卷詩韵一、以述二早臆一云、
莫レ伐師翁所レ舍棠、花陰咫尺限二閑忙一、碁聲院々皆遊手、宜了殘書燕日長、
p.0118 海の中にも碁を打にけり、といふに、加賀の千代が付しとぞ、
白まけて黑に目をもつかれい哉
p.0118 萩
碁のみにて百八十の日をつぶし軒ばの萩の風に手をうつ
p.0118 碁より出たる詞
一愚なる者を、碁かなるといふは、よはきといふ事也、又うつ共いふ、 一征(しちやう)にかゝる 一隅に目を持ている 一劫をたつる 一持碁にはなす 一ねばまかある 一人に綽(はねかく)る 一一を打て盤をしる 一人の助言をいふ ○
p.0119 綴五(ヨツメゴロシ)〈圍碁所レ言、出二漁隱叢話一、〉
p.0119 碁之詞字
綴五(てつこ)
p.0119 らんご 亂碁〈歟〉
思ふに、今も童子の戯に、亂碁とて白石のみにて打、四ツ目殺し(○○○○○)といふことなす事有り、
p.0119 享保中の板にて、智惠較と云ものあり、四ツ目總どり碁と云あり、これ名物考にいへるものなるべし、
p.0119 盤面遊曲集
目碁(○○) 〈尤白碁共いふ、碁盤四分一の片隅目の内にて打なり、〉
此打方、白ばかり兩方共に縱ば三十目宛手に持、先手後手定おき、先の方より何れの處へも一手打、浮手の方より其先手の石につけて打也、又其石に付段々付て打、四ツ目に成時は打て取也、打て取、被レ取打、行末に至り繪圖の〈○圖略〉如く目碁の形に自成也、其時手に殘る石多〈キ〉方、何目勝と知る也、工夫もの能々勘辨有べし、
p.0119 格五新譜 土井有恪〈故人〉
原名第一
格五之名、見二漢書吾邱壽王傳一、蘇林孟康劉德及顔師古各有二訓釋一、迄レ今讀レ之、矒不レ知二其何戲一、本邦是戲、五而格レ之、就レ實求レ名、不二甚相遠一、故借以命レ之、戲之同異、則所レ未レ審也、世俗稱二伊都都那良邊一、妄人字レ之曰二五聯一、要乖二雅馴一、往年土佐間埼生嗜二此戲一、寄レ詩曰、五石驚レ人定幾場、此本三公羊有二是字面一、姑取供二使用一、非二指而名一レ之、不レ知何者傳播、遂如下爲二定稱一者上、今就二漢文一改定、以俟二後之識者正一レ之、
式例第二 格五、小數也、方枰横竪三十又八路、兩匳黑白三百六十又一子、皆假二之於奕一、不レ煩二特設一、但甲置レ黑、乙布レ白、與レ奕相反、而還合二淸奕之式一、其交戰、對手輸レ先、自レ乙開レ局、在下布二一子一而下上則甲首、首者記二名氏一居レ上、無レ論二勝敗品級一、亦爲二淸式一、迄レ戰、白黑迭擲二一子一、不二移動一不二提打一、無レ別二縦横斜一、唯能一路先聯二五子一者爲レ勝、雖レ聯二五子一、於二次著一敵聯二六子一則和、在二布レ子而下一、雖レ和亦以レ甲爲レ勝、連勝四局、或十局對勝、並品進二一等一、
品級第三
凡棊品頒二七等一、能一時無レ敵、是爲二聖手一、坐二特等一、有二一坐之聖一、有二一郷之聖一、有二國道天下之聖一、與二聖手一差二半子一者、輸レ先不レ許三甲第二子近二四傍一、此爲二亞等一、差二一子一者、豫布二一子一在二枰中一、其四正斜不レ許二次著靠近一、此爲二三等一、四等、布二二子一、間二二路一而斜對、五等、大布三二子至二四子一、間二十又一路一而遙斜對、六等、布二三子一如レ布二二子一、而加二一隅一、七等爲二最下品一、大布三五子至二九子一、皆在二星上一、如二弈之例一、同等爲二對手一、毎二一局一互換二黑白一、是鬪二格五一者不レ可レ不レ知、〈○中略〉
布勢第六
眎レ勝而後勝、其爲レ勝也无レ幾知レ敗而後防、其爲レ防也又无レ幾、故將レ學二格五一、先習二布勢一、布勢强則强、布勢弱則弱、布勢勝則勝、布勢敗則敗、付二勝敗於布勢一、不三爭以二私智一、熟二一勢一、敵不レ變二其勢一、則累二百千局一、我不三肯換二其一著一、務使下換レ勢之權、在二於我一不上レ在二於敵一、是爲二進レ技至要一也、〈○中略〉
決勝第九
縱横斜戰固有二四路一、業已布レ局、則甲勝二一路一、乙勝二一路一、自餘二路、不レ過レ爲二隙地一、故甲不レ勝則乙不レ勝、乙不レ勝則甲不レ勝、彼之勝則我之勝也、爭二先後一而已、世俗所レ患者、求二我之勝一、遂引二敵之勝一、慮二敵之勝一、遂失二我之勝一、殊不レ知不レ勝不レ敗、不レ敗不レ勝、求レ勝而怯二於敗一者、猶不レ求レ勝也、豈能爲二必勝一哉、古之爲二是言一者孟施舍、使三之習二格五一、亦必無レ敵二於天下一矣、〈○中略〉
〈渫菴翁於二將棊一、於レ奕、非レ無二知解一、以三其妨二學課一也、皆未レ入レ品而廢焉、唯格五終二其身一不レ廢也、所二以然一者、世上此技尚屬二混沌一、一意競レ勝、而其所二以勝一者、不レ遇三徼幸與二偶中一、喩如二天正之奕、慶長之將棊一、雖レ强猶有〉 〈レ所レ未レ强、必有二算砂氏者出一、旌旗壘壁、爲レ之一新、渫翁之於二格五一、蓋以レ沙自待、而至二其微妙一、則有レ俟二于後來之勁一云、其所レ撰布勢對戯、業已成レ卷、詞章徵二諸四方一、未レ爲二大成一、合以爲二格五譜一、而十篇卽開首也、近聞二活字署閑一、因請二於翁一、搨二取十篇一、以授二好事一、併附以二將棊譜二紙一、在昔物徂徠作二廣將棊譜一、時人以爲、其胸中多二閑日月一、渫翁無用之用、比二物氏一又甚焉、所三以宜レ廢而未二肯廢一也、己未(安政六年)仲冬、吐山秋田嘉柔識、〉
p.0121 吾丘壽王字子贛、趙人也、年少以レ善二格五一召待レ詔、〈蘇林曰、博之類不レ用レ箭、但行梟散、孟康曰、格音各、行伍相各故言レ各、劉德曰、格五棊行簺法曰、塞レ白乘レ五、至レ五格不レ得レ行、故云二格五一、師古曰、卽今戯之簺也、音先代反、〉
p.0121 一對手(タガヒセン)局〈○圖略〉
此一局五連之極意ニテ、予〈○土井有恪〉ガ積年ノ苦辛盤面ニ現ハル、筆説ノ盡スベキニ非ズ、
輸先局ハ腹ニツガサヌ規矩ナレバ、中央ヲ打ヲ利トス、對手局ハ目ヲハヅシ、一ト打テ敵ニ目ヲ打タスヲ利トス、幾微ノ爭ナリ、〈○下略〉
p.0121 我津有下善二將棊一者上、兵春靑溪其佳也、學二古文於拙堂氏一、所レ作漢高帝上杉謙信等論、辭義雙美、而其於二格五一亦一時無レ匹、〈○中略〉 星月名信篤、熟二 稗史一、頗諳二兵法一、其於二此戯一歷二三日夜一不レ倦、與二靑溪一皆中道夭折、惜矣夫、〈○中略〉 靑甫生二於名門一、夙善二此戯一、戯之有二布勢一、實權二輿是人一、而䇍庵與有レカ焉、〈○下略〉
p.0121 宋有二格五一、除德善レ之、降而不レ能、我師亞焉、前世格五、止用二數棋一、今者、下レ子、寡者數十、多者往々一二百子、雖レ同二其名一、而實之相距也遠矣、師先有二布勢之著一、同游對レ戯入レ品者頗多、譜而存レ之、約有二五卷一、師乃摘二抄其佳者五十局一、又增二十四局一作レ卷、白黑星羅、倬然可レ觀、抑此戯也、世未二甚知一、巧手則鮮矣、有二嘲レ之者一、師亦甘心受レ之、顧師之所二以爲一レ師者、固自有在焉、區々遊戯得失、不二必屑々置一レ辨也、戊午〈○安政五年〉杪冬大垣井田讓拜跋、