p.0173 小弓ハ、古ク高貴ノ間ニ翫バレタル遊戲ニシテ、毎ニ小弓會アリキ、
雀小弓ハ、雀ヲ糸ニテ括リ、小弓ヲ以テ之ヲ射ル、中テタル者ハ、其雀ヲ得ルナリ、
破魔弓ハ、正月小兒小弓ヲ以テ的ヲ射ル戲ナリ、後ニハ射ル事ハ廢レテ、年始ノ祝儀ニノミ用イタリ、原ト厭勝ノ爲ニ行フ所ナリト云フ、
p.0173 小弓(コユミ)
p.0173 (コユミ) 小(同)弓
p.0173 こゆみ をいふ、小弓と字彙又東鑑に見ゆ、源氏枕草紙などにも見ゆ、雀小弓ともいへり、
p.0173 一小弓と云物は武器にはあらず、楊弓などの如くたはぶれのもてあそび物也、
p.0173 小弓引〈昔内裏にて此事あり、地下にも春の遊びとす、〉
p.0173 寶治二年百首 西行上人
しのためてすゞめ弓はるをのわらはひたひゑぼしのほしげなるかな
p.0173 雀とは物の小きをいふ、草木の名などにも小なるを雀といひ、是に對して大なるを烏といふ、此義にて小弓を雀弓ともいひしなるべし、
p.0174 一時節事
嗜二此道一之家、不レ嫌二時剋一雖レ致二稽古一、以レ春被二賞翫一者也、おほかた日うらゝかに、風しづかならば、可レ成二其興一也、但ものゝしむ事は晩景也、仍賞レ之、凡季節事、夏は炎暑も難レ堪、又弓のためにべくつろぎて、弓をはる事不レ任レ意之間、其興少、冬又風はげしくて、或的をうらがへし、或矢を吹いたましむる間、其興みだれてしまず、極熱聊寒共以不レ宜、秋は又弓のため被レ浸二霧露一事あり、能々可二斟酌一者也、仍以レ春被レ賞也、
一裝束事
色ふし只如レ常、裝束こはく、頸紙つまりてさゝうる事ある時は、おもひの外に矢はづるゝなり、されば裝束たをやかに、頸かみひきく、さはる所なくしたゝむべき也、
一體拜事
立二左膝一持二押(ス)手之臂一懸(ヲカン)手者右のほう下くちわきに引つくる也、然者弓の弦眉の間にあたる也、乙矢を右の手に拳持也、但隨二座敷一斟酌也、凡小弓のうけたるといふは、こぶしの上、手のくびにあるべし、又うちあげに兩説あり、一には膝の上にをきたるひぢをはなたずして、うちあぐる事あり、家時卿はひざの上の臂をはなたず、其謂は居長はひきく膝はたかゝりしゆへ也、予〈○藤原基盛〉はひぢをはなちてうちあぐる也、古の上手皆如レ此、覺ところさらに無二異矢一、但家時卿弓の體たくみ也き、予が弓に違する所たゞうちあげばかり也、末代此道の好士傳二聞彼卿之體拜一可レ覺也、又弓を取り矢をはぐる事最用也、可レ專二其體一、其故は五善の體の中には、弓つよく體拜すぐれたる事を、第一第二にたてたり、あたる事は第三也、然者則可レ執二和容一歟、凡此義不二相應一者、縱矢數あたるとも小弓にあるべからず、隨二其かたち一不二相叶一者、矢數あるべからず、能々可レ調者也、
一持二弓矢一出二其砌一事 分二持弓矢於左右事雖レ有二一説一、あまりに事麗見也、弓矢具二持右手一宜也、猶可レ用レ之、
一可レ致二稽古一事
大的にのみむかひて向二小的一之時者、以外に相違あるなり、然者常可レ取二替大少一也、稽古之間不レ捨レ心、雖レ爲二一矢一可レ執者也、又不レ向レ的致二稽古一事有レ之也、向レ的引レ弓之時、只志放(テニ)不レ知二身體拜一、然者雖二不レ向レ的引一レ弓、正二射髄一向レ的之時、自然浮二面影一、體拜もよく、又矢數もあるなり、稽古の手意可レ准レ之、
一分中的事
第一大事在レ之、只至極ひかうべきもの也、弓を的にをしあつるは、あしまかなひ、〈○あしまかなひ恐有二誤脱一〉次此拳は的のいづくの程にあたりたるぞとまぼり、さて小眼に分縮てこぶらのくろむところを放也、如レ此相應而中を上手とは名也、但不レ及二善惡一分別、自矢數ある射手ありといふも迷矢也、始終中事あるべからす〈○す恐衍字〉ざる者なり、されば能々ひかへて可レ放者也、弓の引放なるは病也、譬欲レ治レ病不レ待二療治一如レ死也、閑寸分も無レ違放にはづるゝ事不レ可レ有者也、家はひろしといへども、家主の寢所は一間也、的は雖レ大、上手の矢所は三寸内也、自然雖レ有二相違一、無レ出二七八寸之外一、如レ此稽古拔群之後、至二于上手之位一也、うちまかせて世間の人、但雖レ翫レ之、不レ入二稽古道一之間、上手出來事無レ之也、
一夜弓事
夜弓といふは、聊も的みゆる程は非二夜弓一、全分暗時の事也、初心の程は、的をみ出てこぶしをあてんともとむる僻事也、こゝのまかなひをもちて的を察する也、されば拔群之後は、弓をうちあげてをじあつれば、拳の前に的は出現する也、稽古不レ至者、其事不レ可レ叶者也、
p.0175 殿上賭弓
延喜二年〈○月闕〉廿九日、射場有二小弓一、左大臣取レ弓參入、侍臣射、藏司進懸二酒肴花藁縵一、前後書別、比御息所懸二女裝束一、大臣中科、源更衣獻レ物、
p.0176 延長五年四月十日、彈正親王内裏にて小弓のまけわざせさせ給ける、酒肴などはてゝ夕べになりて、淸凉殿の東の廂にて又小弓有けり、前には彈正親王、重明、のちには三品親王、淸貫民部卿、此外の人々も仕けり、女裝束一かさねかけ物に出されたりけるを、彈正親王の宮とり給ひにけり、勝方の拜など有けりとかや、そのまけわざは廿三日にこそし給けれ、
p.0176 承平六年三月十三日壬寅、於二飛香舍一、有二小弓結番事一、
p.0176 殿上賭弓
應和二年七月九日、致平親王供二小弓負態一、天皇御二出殿上一、公卿候、獻物立二小庭一、〈稱レ名付二御厨子所一〉給レ祿、〈納言白褂袴、伊尹褂、〉依レ仰唱、四年九月小弓負態、御物忌、於二東又廂一獻レ物、〈奏レ名付二御厨子所一、次射咸居云々、〉
p.0176 なかのとをか〈○三月〉のほどに、この人々かたわきて、こゆみのことせむとす、かたみにいでゐるとぞ、しさわぐしりへのかたのかぎりこゝにあつまりてなすひ、女ばうにかけ物こひたれば、さるべき物やたちまちにおぼえざりけむ、わびざれにあをきかみを、やなぎの枝にむすびつけたり、
山風のまつよりふけばこの春のやなぎの糸はしりへにぞよる
かへしくち〳〵したると、わするゝほどおしはからなむ、ひとつはかくぞある、
かず〳〵にきみがたよりてひくなれば柳のまゆも今ぞひらくる
p.0176 二月十五日に、院のこゆみはじまりて、いでぬなどのゝしる、まへしりへわきてさうぞげば、そのこと大夫により、とかうものす、その日になりて、かんだちめあまたことしやむごとなかりけり、こゆみおもひあなづりて、ねんぜざりけるを、いかならむとおもひたれば、さいそにはいでてもろやしつ、つぎ〳〵あまたのかず、このやになんさしてかちぬるなどのゝしる、さて、又二三日すぎて、大夫のちのもろや、はかなしかりしかなゝどあれば、ましてわれも、〈○下略〉
p.0177 右近大將道綱家に人々小弓いて遊びける時、まかり侍らで申つかはしける、
贈法印慈應
あづさ弓いてもかひなき身にしあればけふのまとゐにはづれぬるかな
返し 道命法師
あづさゆみ君しまとゐにたぐはねばともはなれたる心ちこそすれ
p.0177 萬壽三年二月十三日庚申、今朝御物忌也、依レ有二御庚申事一、夜部有レ召參入、及レ曉内藏寮、飯酒羞二殿上一、次有レ召侍從參二御前一、先別二前後一小弓、次御遊、次内藏寮進二碁手錢一、〈御料侍從料之〉
p.0177 一品宮〈○後一條皇女章子内親王〉はあけくれめかれずかしづき奉らせ給ひて、御對面などあるべしとあれど、一品にならせ給ぬるはかたじけなし、御みづらなどゆはせ給ふて、のぼらせたまはんとてとゞまりぬ、なべてならずいみじくもてかしづき聞えさせ給、殿上人朝夕にまゐりまかで、まりけ、小弓いなど、をかしく遯びあへり、
p.0177 長曆二年三月十七日、殿上人十餘人野の宮へ參りたりけるに、御殿の東庭に疊を敷て小弓の會有けり、又蹴鞠も有けり、夕に及て膳をすゝめられける間、簾中より管絃の御調度を出されたりければ、則絲竹雜藝の興も有けり、又和歌も有けるとかや、むかしはかく期せざる事もやさしく面白事常の事なりけり、いみじかりける世なり、
p.0177 承曆五年三月七日、小弓合、左右方人定事、〈前方會二東三條一、合舞龍王、次出二河原一有二奉幣事一云々、後方會二六條亭一云々、〉
p.0177 寬治三年二月卅日、殿上小弓合方人被二相分一、 三月四日、小弓合左方事始、 七日、右方事始、廿六日、有二殿上小弓合一、
p.0177 寬治三年三月廿六日、殿上小弓合、
p.0177 康和元年三月廿八日辛未、於二内裏一有二蹴鞠小弓之興一、
p.0178 長治二年二月十三日、仙洞有二小弓會一、
p.0178 長治二年二月十三日、後聞、今日候レ院北面人々、相分有二小弓合興一、講筵了後、於二北御所北壺方一、御覽、左右方念人射手皆布衣、〈装束如レ花云々〉射手〈左、左少將通季、參河守伊通、越後守顯輔、丹波守仲章、筑前守宗章、右、右少將信通、左中將俊忠、左少將實隆、丹後守家保、散位家時、〉三度左多勝、懸物檀紙十帖、從二御前一被レ下、 籌刺〈左、上野守季安、右、上野前司邦宗、〉 的付〈左、伊賀守孝淸、右、散位隆忠、〉
左方、頭伊豫守國明朝臣、右方、頭尾張守長實朝臣、兼日七八日以前駒取、不レ論二君達諸大夫一、只依二北面人許一者、講筵之後參入、公卿七八人許有レ召、小弓合間候二御前一、〈内大臣以下云々〉
p.0178 長治二年閏二月三日辛未、辰刻許參二御前一、於二宮御方一有二小弓一、申刻許退出了、 九日丁丑、今夜内内密々小弓事云々、兵衞佐宗能無二懸物一云々、仍送レ鞠、
天永二年二月十四日丁未、辰剋許參二鳥羽殿一、〈直衣〉中納言相具、寢殿南庇にて主上〈○鳥羽〉有二小弓事一、余〈○藤原忠實〉又同、上皇〈○白河〉同御、中納言同候、
p.0178 う月の比、帝〈○崇德〉宮の御かたに、こ弓の御あそびに、殿上人かたわかちて、かけ物などいだされ侍りけるに、あふぎかみをさうしのうたにつくりて、歌かきつけられたりけり、そのうたは、
これをみておもひもいでよ濱千鳥跡なきあとを尋けりとは、と侍りける、返し、公行の宰相右中辨とて、おはせしぞし給ひける、
はま千鳥跡なきあとを思ひいでてたづねけりとも今日こそはしれ、とぞうけ給りし、歌は殿〈法性寺〉のよませ給へるにや侍けん、拾遺抄に侍るをのゝ宮の大臣の古事思ひいでられて、いとやさしくこそきこえ侍しか、
p.0178 長承二年四月七日壬辰、師仲依レ召參二内裏一、小弓會、〈中宮御方〉入レ夜歸、
保延元年六月七日己酉、有二眞卷小弓會一、御所被レ儲二懸泉一云々、主上〈○崇德〉與二師仲一令レ射二小弓一給云々、入レ夜 還御、上皇〈○鳥羽〉又還御、御儲御膳幷御扇等被二進送一云々、
p.0179 小朝拜
平家はさぬきの國八島のいそにおくりむかへて、年の始〈○壽永三年正月〉なれ共、元日元三のぎしき事よろしからず、〈○中略〉花のあした月の夜、詩歌、くはんげん、まり、小弓、扇合、ゑ合、草づくし、虫づくし、さまざまけう有し事共思ひ出かたりつゞけて、永き日をくらしかね給ふぞ哀なる、
p.0179 建久三年八月廿八日、余〈○藤原兼實〉參内、朝座行道之間也、〈○中略〉事了參二御前一、有二小弓沙汰一、暫伺候退出了、
p.0179 正治二年二月五日、院御讀經僧達上北面輩、依二小弓興一舞狂云々、
p.0179 へいせんじ御見物の事
辨慶ばかりまかり候はんとて、おひとつてひつかけて、たゞひとり行ける、とがしが城をみれば、三月三日の事なれば、かたはらにまり小弓のあそび、かたはらに烏あはせ、又くはんげんさかもりと打みえて、酒にゑひたる所もあり、
p.0179 承久二年五月廿日甲戌、右京兆、相州前武州會二合于大官令禪門亭一有二小弓會一云々、
p.0179 貞永二年〈○天福元年〉正月十一日丙辰、今日院御所小弓云々、 十二日丁巳、昨日小弓〈東馬場殿庭、内府大將見證、〉以二孔子一賦二分左右一、勝方〈左〉隆親卿、基氏卿、〈御讓位以後入番常參〉資季朝臣、家定朝臣、家任朝臣、實淸朝臣、行綱、〈北面〉業時、負方具實卿、爲家卿、光俊卿、成實卿、有資、資隆朝臣、親氏朝臣、博輔、繁茂、
p.0179 應永廿五年二月廿八日、東庭築二花壇一栽二草花一、又南庭拵二小弓場一、則雀小弓、射レ之、菊第預置二小弓二張一召寄、 三月一日、雀小弓張行、出二懸物一射レ之、予〈○後崇光〉三位重有朝臣、長資朝臣、阿賀丸、地下康知、良村、善國等射レ之、 十一日、有二小弓會一、三位以下候、勝負一瓶也、 廿三日、有二小弓會一、七所勝負也、懸物出レ之、三位勝小一獻、爲二順役一、三位申沙汰、 四月十五日、小弓張行申、三位射之時的中否、壽藏主諍レ之、 負態酒海云々、兩度三品射中勝了、壽藏主負態申沙汰云々、逸興也、長資朝臣爲二順頭一懸物出レ之、〈鵝眼〉予、三位勝取レ之、抑錢懸物事、賭弓之時錢を被レ出定法也、非二見苦事一、 五月一日、於二殿上前一射二小弓一、懸物三位出レ之、此間順頭也、於二田向一可レ射二百手一之由有二有增一、 二日、射二小弓一、明日百手事治定、一獻等三位ニ申付了、 三日、雨降、百手會延引、而晡時屬レ晴、可レ有二百手一之由、三品申之間、田向ニ行、先有二一獻一、次射二百手一、中央雨灑、其間又一獻、雨晴、又射卅餘度了、又一獻、及二昏黑一之間、的場立二臘燭一、射手前供二掌燈一、入レ夜小雨降、然而猶射、亥剋百手射了、又兩三獻、懸物錢負衆出レ之、三位一勝也、一獻予沙汰也、而三位重有、長資朝臣、地下輩申沙汰及二數獻一、深更歸了、射手人數、予、椎野、三位重有、長資等朝臣、地下行光、禪啓、俊阿、廣時、良村、有善、善祐等也、弓場東向懸壺也、堂上自レ内射レ之、地下候二庭上一、
p.0180 永享五年後七月三日、殘暑以外也、冷然之餘、寝殿南面構二小弓場一射レ之、養二閑情一者也、 八月二日、勝寶院來臨、有二小弓一、 四日、勝寶院光臨、有二手分弓一、終日鬪二雌雄一、頗以逸興也、
嘉吉三年六月五日、今日小弓場拵レ之、 七日、有二小弓百矢一謝レ之、〈○謝恐射誤〉
p.0180 安永四年二月二日庚辰、於レ院〈御簾外〉有二小弓一、關白〈内前〉權中納言紀光已下三人祗候、
p.0180 一矢羽可レ依レ人事
後鳥羽院御代者、以二雉羽一被レ賞二翫之一、當代無二此儀一、凡鷹羽鷲羽之色々、或上首或堪能、就二羽之善惡一被レ用レ之、頗仰二上裁一者也、雖二往古之例一有レ之、
一弓懸事
錦革可レ有二斟酌一者歟、又兩方のきりくちをまとひ縫也、又縫目にふせぐみをする事もあるなり、
一弓籐事
村籐小長籐常用レ之、繁籐二所簾於二小弓一不二庶幾一、家時卿はつねにつくりたる籐を本末弓 の上下にまきたるを賞用レ之、但好士所用心之也、 一弓袋事
錦革 紫革 藍革 なめし等也、うらは生の絹なり、繼目にふせぐみをするなり、
一矢立事
唐木〈紫檀〉 〈花梨〉 梅 朴 黑柿等也、隨二好士之所一レ意可レ用レ之、
一的寸法繪樣事
式的は一尺八寸也、但往古繪樣は一尺七寸六分也、其外或一尺、或六寸也、家時卿内々は常用二三寸一云々、用レ小向レ大者安平なる故也、されば内々はいかにも可レ用二小的一也、總式的九十九の射手自然雖レ有レ之、六寸的の十矢難レ有者也、矢數之至極也、家時卿手盛などにこそ、四五度五々度までも十矢ありしが、最大事の物也、又的のさねは椙の板也、いたうすきは、をとのわろきなり、すこしあつきがよき也、はる事晴時は唐紙のきらがみなどにてはるべし、つりをよこなは藍革を細くきうてつくる也、又竹を輪にしてはる事、近代常用レ之、無二其難一者也、〈○中略〉
一弓場事
十丈に的を立て、後を二尺五寸のけて布答をば可レ立也、うちまかせて人の十丈五尺と申はひが事也、堋を十丈五尺にはつく也、的答の寸法は的より上五寸、兩方のそは各二寸七分、下二寸五分をすかす也、下の横貫の竹より下をば隨二座敷高下一可二相計一也、的の答は竹にてひらくまろやうに削候也、晴時はなめしにてぬいくゝむ也、又十丈を打定之時、地形高下有て、丈尺にてうつ事かなはざる時には、十丈の繩をもちて引渡無二相違一者也、
一布答事
高四尺八寸、廣五尺八寸、布六のをたくぬいにしておりかへして、ぬいめをすそになす也、文をつけて染用事在レ之、思々の事也、但裏はしろかるべし、夜弓の時、うちかへす事有レ之、又白て用レ之常事 也、又布の細薄は矢通也、中へおりいれて三重にする也、たゞいたくほそくうすからぬよき物也、けしやう革、おもてはなめし、うらは赤なめしたるべし、第二表は藍革、裏は赤革也、革の廣さ一寸二分、長さ六寸五分、又つらぬきをば布答にぬいくゝみてはたかたよりかくるなり、又つらのきをば略して、よこ答に布答をいるゝ事在レ之、異説也、
一作弓事
强弓は竹五重合、中は四重、弱弓は三重也、性吉竹無レ村削て、がむぎにてすりこそげて、にべをかきて打なり、後竹の弓 のまはりに節をあてず、又ふしのちかきは惡也、後竹に節三に不レ可レ過、凡後竹は弓の命なり、きはめてねばく、性吉竹を可レ打也、大方前後中へまで節を一所にあて、され打て後、兩三日は日にあつれば、組くつろぎ針自然拔也、其時針をもぬき、組をもときて後も、猶一日など日にあてゝ火の上にたかくつりて、煙にあつるなり、十四五日廿日を經てこきたるなり、但卒爾に一束にこきたてつれば、弓の心地をこしらへころす也、漸々にこきたてつればそりけさす矢心地もよき也、又張顔不二落居一やがて不レ可レ引、經二一日一後可二引試一也、如レ此事入二稽古一之後得二其意一者也、長四尺一寸也、此内〈上筈一寸、下筈五分、〉弓 高〈下筈よりゆづるの上のはづれまで一尺五寸也、但弓によるべし、〉弓 廣〈二寸一分也、但籐間也、籐まかぬはすこしみじかくみゆる也、可レ得二其意一也、〉
一弦筈絹事
弓の力によりてふとさほそさはし合すべし、あひ弦にて矢心ちはよき也、のがけのいと上一寸七分、下一寸五分、筈絹は白可レ用也、さぐりのいと三寸三分、矢より上一寸五分、一寸八分也、
一括矢事
箭太細者、可レ依二弓之强弱一也、但不レ依二弓力一、依二人好一用二太細一事有レ之、能ためこしらへて赤漆にぬるなり、二はけぬりたるよき也、寸法長一尺七寸一分、箭頸八分六毫、此内〈筈一分、但はずまきより上也、毫とは一分を十にわりたる一也、〉 筈卷〈七毫〉羽付〈二分二毫〉羽長〈二寸六分五毫〉元卷〈四分五毫〉履卷〈一寸五毫〉各漆をさしたてたる定也、くすね糸〈三分〉但自二往古一所二用來一之弓、本樣矢引懸的繪樣此定也、今も用レ之、爲下不二所持一者上所レ注レ之也、又銀筈角筈在レ之、雖二庶幾一强弓は筈こらへず、つゐにそんずる間用レ之也、
p.0183 一半弓の握皮の木は、にはとこのかわ也、
p.0183 十日ばかりありてふみあり、なにくれといひて、帳のはしらにゆひつけたりしこゆみのやとりてとあれば、これぞありけるかしとおもひてときおろして、
おもひいづるときもあらじとおもへとてやといふにこそおどろかれぬれ、とてやりつ、〈○又見二後拾逶和歌集一〉
p.0183 陸奧國府官大夫介子語第五
繼母喜キ物カラ心騒テ居タルニ、此男立出テ見レバ、折シモ同樣ニ遊ブ童部モ无テ、此兒小弓胡錄提テ會タリ、
p.0183 このおほいまうち君〈○源雅實〉おこり心ちわづらひ給けるに、白川院より平等院の僧正〈○行尊〉をつかはして祈せ給けるに、おこたりたるふせに、馬を引給ける、大方云しらぬ、あくめになん侍ければ、院聞しめして、吾こそふせもうべけれと、もりしげと云しをつかはして仰られければ、有難物參らせんとて、武藏の大德隆賴がつくりたるこゆみの、ゆづかのしもひとひねりしたるを取出て、うるしのきらめきたるさしてすりまはして、にしきのゆづる取捨て、みちのくにがみして引卷て、にしきの袋にも入ず、唯みちのくにがみにつゝみて、奉られたりければ、いと珍らしき物なりと、立歸り仰られけるとぞ聞侍りし、
p.0183 公實卿のもとにまかりたりけるに、侍らざりければ、出居におきたりける小弓をとりて、さぶらひにこれはおろしつとふれていでにけり、かの卿歸りて弓をたづねければ、 時房まうできてとりつと申ければ、おどろきて院の御弓ぞ、とくかへせといひにつかはしたりければ、御弓につけてつかはしける歌、 藤原時房
あづさ弓さこそはそりの高からめはるほどもなくかへるべしやは
p.0184 貞永二年〈○天福元年〉正月十一日丙辰、今日院御所小弓云々、〈是實之小弓也、近代往年雖レ有二小弓一、各其物新物新作物也、非二大弓一非二小弓一中央物也、令二復舊一、尤可レ謂二尋常之儀一、〉
p.0184 請二嚴命一事
藏人少將度々被レ招、是小弓事歟、懸物何珍哉、募以二枸椽一云々、百發百中之藝、雖レ無二其能一、於レ决二雌雄一何憚之有乎、一日以レ的爲レ皮、御和讒也、明朝於二右大將軍幕下一、可レ企二佳遊一之由、源少納言所レ被レ示也、被レ擇二射的之輩一云々、左、新中將、四位少將、藤少納言、源武衞、藤李部、右、權左中辨、右馬頭源侍從、式部大夫、左金吾校尉等也、念人各五六輩、懸物銀鞍云々、盃盤之設前江州歟、雲客群遊令レ構二故障一、可レ作二絶交論一之由、頭中將所レ被レ定也、努力努力莫レ慕二閉戸先生一、悚息謹言、
姑洗日 左衞門佐高階
謹上藤拾遺尊閣座右
p.0184 こゆみいたまふ日、大將の君たち、大とのへあまた參りたり、
p.0184 三月ばかりの空うらゝかなる日、六條院に兵部卿宮衞門督などまゐり給へり、おとゞ出給て御物語などし給、〈○中略〉何わざしてかは、くらすべきなどの給ひて、〈○中略〉いとさうざうしきを、例のこゆみいさせてみるべかりけり、
p.0184 殿上ののりゆみ、二月とありしをすぎて、三月はた御き月なれば、口をしと人々思ふに、この院にかゝるまとゐあるべしときゝつたへて、例のつどひ給ふ、左右大將さる御なからひにて參り給へば、すけたちなどいどみかはして、こゆみとの給しかど、かちゆみのすぐれた る上ずともありければ、召いでていさせ給、
p.0185 西宮源大納言、大饗の所に立べき、四尺屛風調ぜらるゝれうの歌、
小弓射る所
春ふかき山にいればや梓弓ふく風にさへ花のちるらん
p.0185 したりがほなるもの 小弓いるに、かたつかたの人、しはぶきをし、まぎらはしてさはぐに、ねんじて音たかういてあてたるこそ、したりがほなるけしきなれ、
p.0185 あそびは こゆみ
p.0185 左近衞權中將藤原朝臣基盛撰
夫以天下自レ古有二嘆名而相對者一、所レ謂文武詩歌管絃蹴鞠小弓等也、皆是治國謀、和民媒也、就レ中蹴鞠小弓者、朝庭狀觀、臣下遊藝也、爰好二蹴鞠一家、繼レ踵不レ絶、翫二小弓一道、偏始二廢情一、案レ之蹴鞠堪能之家雖レ多之、小弓上手九牛一毛也、不レ可レ有二藝之勝劣一、但是成二於難一歟、近古有二侍從三位家時卿一、則當家之老哲、此道之達者也、百發能具備、五善之體無レ缺、不レ耻二上古一、當世無雙也、予雖レ續二業於箕裘一、恰拙二猿臂之射一、然且爲二忘年之友一、日夕成二射的之興一、矢毎離レ弦、亂不レ出レ的、頻爭二雌雄一、曾未二優劣一、後嵯峨聖朝、於二此藝一賞翫之餘、愚臣忝依二天命一侍二砌下一、卽付二九十九之果一、乍顯二拔群之譽一、在二叡感之寵一、數預二纒祿一、左右驚レ目、遠近普聞、凡厥物擧有二式節一、小弓道亦宜哉、因レ玆廣考二上古一、遍撰二家門一、集作二一卷一、聯爲二二十篇一、名曰二小弓肝要抄一、庶興レ廢續レ今、之業傳二永世一、專爲二累葉之龜鑑一、而敢不レ可レ及二外見一而已、
p.0185 右條々大概如レ此、家時卿談義事共、隨二思出一所レ註レ之也、彼卿常會合して百手を射し時は、五々度ばかりよりは的に二の穴出來き、中なる穴は予〈○藏原基盛〉が矢所也、下なる穴は彼卿が矢所也、彼卿は矢長のひきゝことをのみ執思て、敢矢のさがらんずる事をば不レ恐、爲二至極之達者一故也、終矢各二の穴をのみ通之間音なかりき、百手はてゝ後に、彼的をとりよせてみるに、中の黑より 外には總以無二矢目一、於レ今者是ほどの事も可レ難レ有とかや、凡彼卿人にかはりたることもありき、第一には矢色なり、たとへば上手の鞠、長は高けれども位昇する事閑也云々、如レ然矢長ひきくして的をすいよする樣にみえて中き、不思議事也、其時我をも世人相對して申しかども、我身の事は難レ注レ之、若累葉中に爲下欲レ嗜二此道一者上、如レ形所二記置一也、更に不レ可レ有二外見一、穴賢々々、
○
p.0186 雀(スヾメコ)小弓(ユミ)〈又云二雀的一〉
p.0186 春始御祝向二貴方一先祝申候畢、〈○中略〉楊弓、雀小弓勝負、〈○中略〉近日打續經二營之一、
p.0186 雀小弓トハ殿上人ノ態也、ユミノホコ二尺七寸ナリ、的ヲ四寸ニシテ中ニツリ、五間口ヲイテ射也、
p.0186 すゞめのこゆみ 雀の小弓の義、遊興の具、楊弓の如し、
p.0186 雀小弓と云は、生たる雀を糸にてくゝり、つり置て、小き弓矢にて射てあてたるもの、雀をとるたはむれ也、近世迄田舍には有しとぞ、
p.0186 建曆三年〈○建保元年〉二月十五日、念誦不二出行一、内裏此間有二雀小弓一云々、〈此事不レ聞事也、弦太凡卑如何、〉
p.0186 建保四年四月廿五日己未、有二雀弓會一、隨二勝負一令二亂舞一有二其興一、 廿六日庚申、有二雀小弓會一、如二咋日一有二亂舞一、
p.0186 應永卅一年三月二日、雀小弓射、予〈○後崇光〉若宮、重有朝臣、長資朝臣、慶壽丸等射、若宮箭二的的中、初度之間、可レ有二箭開一之由面々申間、則有二賀酒一、逸興也、
p.0186 大永七年六月廿六日、午後參内、有二御楊弓一、百手了、又有二雀小弓一、當御代初度也、
p.0186 大永七年七月十日乙酉當番之間八過時分參候、禁裏ニ雀小弓御入候、見物仕候、御矢ヲ阿茶茶丸被レ取候時ニ予取候、予可レ仕由被レ仰候間、ソト仕候、 十八年九月廿一日丁亥、禁裏ニ雀小 弓廿度有レ之、御所作無レ之、
p.0187 諸門跡ノ藝ハ、詩歌茶香ノ會、春ハ雀小弓也、然シテ近代春蓮院尊道親王、理性院僧正宗助、圍碁會張行有レ之云々不レ可レ有事也、東寺ノ門徒殊可二斟酌一者也、
p.0187 楊弓〈○中略〉 近世雀小弓亦玩レ之
p.0187 雀小弓は雍州府志に、近世亦翫レ之といひしは、天和年間の事にて、其後すたれたるにや聞えず、
p.0187 破魔弓(ハマユミ)〈年始小兒遊戯具〉
p.0187 年の始に童子の破魔弓とて射るは、治れる世にも武を忘れざる意なるべし、但むかしは射禮とて、正月に内裏にて弓射る事のありしなり、孝德天皇の御宇に、大内にて正月に弓をいさしむといふ事、古き文にも見えたり、かゝる事を下にうけて、いにしへは年のはじめに、年長ぜる人も弓を射たりしにや、文獻通考日本の部にも、毎レ至二正月一日一必射戯すと記せり、
p.0187 はま弓の事
正月男子のもてあそびに、はま弓射る事は、邪鬼を退治するの表相なり、はまとは破魔と書て、魔を破るの義なりといふ説あり、さも有べきやうに聞ゆれども、はまの正説にあらず、はま弓のたはふれ、昔は京にも何方にも有し事なる、べけれども、今は絶て、たゞその弓矢を賣り、童のもてあそび物にするのみなり、されども遠國には、其たはふれ今に殘れり、土佐國の人の物語に、土佐國畑といふ所の山中の民家にて、正月に幼童はま弓を射る、的は藁繩を以て作る、其形圓座の如し、徑り壹尺ばかり、其中に徑二三寸の穴あり、是を名付てはまといふ、射手弓矢を持て一列に立並て待時、一方よりかのはまを轉し走らしむるを、各射るなり、はまの穴を射るをあたりとするなり、はま走り終れば、又一方よりまろばし返して各射るなり、はまをまろばす事は、射手の中より、 かはる〴〵出てまろばすなり、是をはまを射るといふ、また大和國吉野郡上市村の人の物語にも、大和にて、はまを射る事右の如し、大和にては、はまころを射るといふ、はまころとは、はまをころばすといぶことなるべし、土佐の人大和の人のいふ所同じ趣なり、然ればはまは的の名なり、破魔にはあらずかし、
p.0188 はま弓は、はまと弓と二物なり、此ことは先に著しゝ雜考の内にいへり、舊説破魔の字義によりていふは非なり、はまは藁にて造る、それを小弓にて射る戯は、今も田舍にありといへり、〈○中略〉はま弓、はま矢といへども、弓はまといふことは物に見えず、鷹筑波、暖な日はくるふ童濱弓を一入下手や削るらん、又佐夜中山集、〈付句〉みつばよつば作る若殿のはま矢かな、西鶴が、世の人心に、五月の節句に甲、正月に破魔弓進して祝義とる事もわきまへなく、乳母の奉公になれざるものぞかし、〈今は乳母よりかゝる物贈ること、江戸にはなし、〉醒醉笑、いはひすぐるもいなものゝ條、そうりやうの子六歲なり、こ弓にこ矢をとゝのへもたせけるが、元日の朝、矢を一つはなし、俵にいつけ云々、日本歲時記の畫にも、正月こどもの小弓いる處あり、はま弓、今はたゞ祝儀の物たれども、昔は射らるゝやうに造りて賣し也、寬文七年十一月朔日町觸、はま弓結構に致さず、射られ候樣可レ仕候、但人形作り物、一切可レ爲二無用一事、類柑子、いなつかの灯の條、破魔弓の矢筒とゞろはげたるを火吹とし、畫けるまゝの名を松鶴とよぶ云々、これ畫やうはかはらねども、吹竹に用ひしは、今の如く紙のはりぬきにはあらじ、
p.0188 破魔弓
今正月、わらべのもてあそぶはま弓といへるものは、世諺問答卷の上曰、孝德天皇の御宇に、正月に弓をいさしむ、凡まとは蚩尤の眼と名付て、これをいたましむるなり、〈滑稽雜談卷の一曰、或説云、然れば正月に射戯する濱弓は、蚩尤が眼を射破る義なれば、實は破目弓なるべし、通唱の宜きによりて、濱弓はま矢と稱す、この説破目義然るべし、〉今は世にたえて、はまを射るわざ たえたり、俳諧五節句〈貞享五年印本、内田順也作、〉曰、吾妻の方の子共、細繩をまうめ玉とし打時に、破魔まいると聲かけ打、破魔矢にて左右に立別れ、玉を射てあたるを勝とす、都にも昔は射たるとなり、大路禮者の足もとへ矢を射あつるゆへ、玉は木なり、棒、竹箒、乳切木、ぶり〳〵やうの者を持とむるなり、當時破魔有て玉を射ず、毬打も玉をこめるなり、これにてそのおもむきつばらなり、
p.0189 慶安元子年十二月
一如二例年一、正月之破魔弓、はま矢、幷羽子板、金箔、蒔繪、金糸類、少も付申間敷候、勿論商賣物ニも不レ及レ申仕間敷事、〈○中略〉
十二月
p.0189 寬文八申年三月
覺〈○中略〉
一金銀之から紙、破魔弓、羽子板、雛の道具、五月之甲、金銀之押箔、一圓ニ無用之事、〈○中略〉
右之通、江戸町中へ從二町奉行一相觸候間、可レ被レ得二其意一候、以上、
三月日
右之貳通、京都、大坂、奈良、堺、伏見、長崎、駿府、山田へも被レ遣之、
p.0189 寶曆九卯年閏七月
覺
一破魔弓 金銀之箔、幷かな物無用、たん、ろくしやうにて彩色可レ申候、總體菖蒲甲に可レ准事、〈○中略〉右之趣候處、近來猥に相成候段相聞候、彌以享保六丑年相觸候通、急度可二相守一者也、
閏七月
p.0189 長久の江戸店 常の賣物店は捨置いて、正月の景色、〈○中略〉破魔弓一挺を、小判二兩などにも買ふ人ありけるは、諸大名の子息に限らず、町人までも萬に大氣なる故ぞかし、