p.0190 楊弓ハ、小弓ノ類ニシテ、初ハ楊ヲ以テ造レリト云フ、或ハ云フ、唐玄宗ノ楊貴妃ガ、未央宮ノ楊ヲ截リテ之ヲ造リシニ起レリト、此技ハ、我國ニテハ應永以後ノ書ニ見エテ、盛ニ宮掖ノ間ニ翫バレ、七夕七遊ノ一タリ、後世專ラ俗間ノ戲トナル、
吹矢ハ矢ヲ筒ニ入レ、口氣ヲ以テ之ヲ吹キ、小鳥等ニ吹キ中ツルモノナリ、
p.0190 楊弓〈唐玄宗時、楊貴妃始射レ之、依レ之曰二楊弓一也、〉
p.0190 楊弓(ヤウキウ)〈小弓也〉
p.0190 春始御祝向二貴方一先祝申候畢、〈○中略〉楊弓、雀小弓勝負、〈○中略〉近日打續經二營之一、
p.0190 楊弓ハ公卿ノ御弓也、アヅチヲ九ノ杖ニコシラヘテ、廣緣ナドニテ射也、ユンホコハ三尺六寸也、
p.0190 楊弓(ヤウキウ)
p.0190 夫楊弓之 觴者、貴妃資始レ之、明皇兼二明妃一長生私言、誓曰、在レ天願爲二比翼鳥一、在レ地願爲二連理枝一、可レ謂二漆膠交一、于二造次一于二顚沛一、事二勝遊一而盡レ善盡レ美、於レ是截二未央楊柳一削レ弓、折二太液芙蓉一爲レ矢、矢羽 々相二似比翼鳥一、弓弦切々恰如二連理枝一、古今風流美談也、爾來傳二楊弓於吾本朝一、以射者多、〈○下略〉
p.0190 安齋云、楊弓其始をしらず、本は小童の、楊の枝を弓に作て、もてあそびとせしより起りたることなどにやといへり、かくいひては雀弓と異なることなし、按るに、養由基の楊の葉 を射たりと云傳ふる事によりて、さゝやかなる的矢なれば、楊弓とはいふなるべし、〈○中略〉其起原は唐玄宗に始れるよしいへるは取にたらず、
p.0191 楊弓
芝撮(しばつかみ) かの五郎未碩〈○兩人並元祿時代人、楊弓名手、〉がなす所也、矢をつまむに、食指を曲て撮むに、芝撮は食指を伸てつまむ也、矢のぬけ心よしと專傚ふ、
p.0191 凡矢數者以二二射一、從二中古一爲レ四、是表二四季一、以二五十度一爲二百手一也、
凡雖レ中レ的、有二堋聲一之時不レ用レ之、
凡矯レ矢卒發、過二一間一則不レ能二射改一、不レ過二六尺一則再令レ射レ之、以レ之爲二常法一、
p.0191 楊弓射樣の事
抑楊弓の射やういろ〳〵ありといへども、習なくして射るときは、たとひ矢數おほく中るとも、金貝の射手常住金貝ならず、泥書の射手常住泥書ならず、席毎に不同ありて、終には矢數おちて、朱書もならず、是習得ざるがゆへ也、能ならひ得て射こむときは、常住さだまりて矢數おつることなし、他流はしらず、予〈○今井一中〉が流といふは、先弓矢の拵やうに口傳あり、一々道理をせめて造れり、扨楊弓を射るに第一心持あり、假にも散亂の心あるときは、中ることなし、心を鎭め氣を煉して、他へ心氣をうつさず、一念に一矢一矢を大事にすべし、一度のうち一矢はづるゝは、わづかのやうなれども、百手にかさなる時は、大きなる違となる、先左の膝を的のとをりにむかはせ、右の膝を堋の左の足のとをりにむかふと心得べし、弓をとり矢を番るにも、心しづかにして、つまみの所、百手ともにおなじやうにつまむべし、押手のかた、左の大指を弣の右のかどへかけ、左へ押出すやうにすべし、左の人差指を弣にのせて矢臺にすべし、是を指臺といふ、殘り三つの指はうきものにて、すこしもりきむべからず、右の付人々の勝手ありといへども、先は親指を右の鼻 の穴へ入、はなのへだてへ親指の頭をあてゝ、是を定規とすべし、矢をはげ膝の上にて一はいに引つめ、すこし間をあらせて、打上て覘ふべし、的をねらふにいろ〳〵あれども、的の上ぶち下ぶちなどねらふはあしき事也、的と堋の横木との間にてねらひをさだむべし、いづかたをねらふとさだめずして、空なるところをねらふといふ事、是大事のならひ也、總じて早氣は弓の病にして、早氣の分はみな中らず、もしあたるともまぐりあたり也、隨分たもちてよくねらひ、矢つぼさだまりたる時、押手と付と張合せて放す時は、あたらずといふ事なし、一度に矢四本あり、一の矢射るに、殘りいまだ三本あるとのたのみにて、麁末の心あり、一矢一矢を大切にして射るべし、右大概のをしへ也、くはしき事は書面にしるしがたし、口授ならではつたへがたし、よく〳〵工夫あるべし、
p.0192 凡射場者、以二七間間半(ナカ)一爲二定數一、漢家本朝之流例也、
凡切穴者、於二中(アタル)人一懸二十錢一、朝廷之於二宸宴一者、以二於洲賀(ヲスカ)一〈○五錢〉爲レ賭、雖レ入レ穴令レ抽(ヌケ)者爲二一矢一、
p.0192 道具の事
一錐穴 あてたる人に括(くゝり)を渡す、もし穴に入といふ共、抽るときは一ツあたりになる也、射抽は各別也、
p.0192 楊弓〈○中略〉 凡矢二本稱二一手一、二百本謂二百(モヽ)手一、〈○中略〉凡射者座、去レ堋七間半也、
p.0192 楊弓〈○中略〉
堋與レ席相去七間半、毎以二五矢一决二勝負一、二百矢謂二百手(モヽテ)一、百手内五十矢以上中レ的者爲二朱書一、百矢以上爲二泥書一、百五十以上爲二金書(カナカイ)一、百手悉中者爲二皆矢(カイヤ)一、最希有也、
p.0192 應永卅三年三月六日庚子、晩未向二中御門宰相亭一、有二楊弓興一、入レ夜歸レ家、
p.0192 文明十二年七月七日、今目有二七種事一、 一鞠 一楊弓 一樂 一郢曲〈依二人々故障一無レ之、俄改二圍碁一了、〉 一和漢〈五十韻〉 一和歌〈○註略〉 一七盃飮〈○中略〉酒畢、又有二楊弓碁鞠等一、依レ乘レ興也、
p.0193 永正十四年十月廿七日、中納言方人々來、楊弓云々、 十五年七月七日、今日内裏和歌、題月前望二二星一、詩題禁庭巧夕、宣秀卿兩席共詠二進之一、各不二持參一、内々付二甘露寺大納言一、余得度以後不二詠進一也、御人數者、御月次衆許也又於(及レ夜有二御樂一)二此亭一〈大納言〉七種法樂、左金吾、〈同中將基親朝臣〉四條、山科左少以下來、和歌連歌一折、楊弓鞠花酒(七瓶)橐麵等也、
p.0193 大永六年十一月一日庚辰、午時參内、有二御楊弓一、入レ夜御盃儀如レ恒、
p.0193 天文九年七月廿日、以二晴光一内々被二尋下一、今日近衞殿、大覺寺殿など御參、右京兆も祗候、御楊弓一獻在レ之、〈○中略〉昨日御楊弓一獻及二深更一云々、佐退出夜半過也云々、今日御人數、公方樣〈○足利義輝〉近衞殿、大覺寺殿、一乘院殿、久我殿、藤中納言殿、右京大夫殿、其外御供衆少々、已下又進藤筑後も同御人數也云々、 廿一日、昨日御楊弓御矢、公方樣近衞殿御矢をば祐阿給之云々、其外御人數矢をば歲阿松阿給之云々、奏者松平也、 九月廿三日、佐攝州、豆州、及二夜陰一重而各來臨、子細者、今日於二勢州一陽弓の會候に、朝倉右衞門大夫入道同參會候、就レ其本郷常州も其人數候て遊ゑん也、其樣體共御耳に入て、本郷常陸介事生涯させられ候べき段被二仰出一之、まい〳〵上意之趣、委細乍レ有二存知一、如レ此働一段曲事由仰也、次伊勢守事も、朝倉右衞門大夫如レ此參會、種々儀曲事候間御ぎぜつ也、但伊勢守事はがねて不レ被二仰聞一候條、さも候べき歟、然共上意分は、其隱あるまじき事にて候處、如レ此段曲事之由仰也云々、次本郷常州は、今夜ちくてん也、
p.0193 天文十一年六月十日己丑、貴殿近衞殿へ御出之、終日御楊弓、 廿八日丁未、藤中納言殿楊弓、貴殿御出之、 七月朔日己酉、貴殿無二御出仕一也、藤中納言殿御出楊弓在之、 二日庚戌、粟津修理楊弓砌御酒まいらする、貴殿御長太刀被レ遣之、 廿四日壬申、朽木殿楊引、粥在之、 八月八日乙 酉、大智院興禪軒楊弓在之、 九日丁亥、楊弓貴殿在之、 十三日辛卯、藤中納言殿楊弓在之、 十四日壬辰、於二興禪軒一三淵殿楊弓興行、在レ粥、 九月十九日丙寅、貴殿楊弓在之、
p.0194 天文十五年三月九日丙寅、禁裏御楊弓有之間、四時分參内、御人數曼殊院宮、〈十一〉勸修寺大納言、〈廿二〉權大納言、〈十二〉予、〈十三〉四辻中納言、〈十三〉永相〈十六穴一〉等也、百手有之、萬里小路中納言祗候見物也、高倉數取、矢取阿古丸、〈坊城俊藤〉源爲仲等也、 十八年八月四日辛丑、竹内殿御楊弓七十五度有之、御人數如二一昨日一、一盞有之、〈杉原六十七枚勝〉 八日乙巳、禁裏御楊弓有之、先御雜談暫有之、次御楊弓五十五度有之、六十一枚勝了、七時分御小積有之、御人數御矢(御穴一)、〈廿四〉曼殊院宮、〈廿八〉予(穴一)〈卅四〉四辻中納言(穴一)、〈廿四〉新中納言〈廿一〉等也、御矢取鶴壽丸、基孝朝臣兩人也、御用心之時分候間、其間ニ御添番ニ祗候、當番衆新中納言基孝朝臣也、御添番予、鶴壽丸、重保朝臣等也、 十九年三月廿六日庚寅、正親町一品禪門楊弓之由被二申送一之間罷向、六十五度有之、人數亭主、〈廿二〉中山、〈五〉予、〈廿七〉四辻、〈廿七〉中御門、〈三〉滋野井、〈廿四穴一〉甘露寺、〈六〉牧雲〈十四穴一〉等也、先一盞有之、後ニ白粥有之、申下刻歸宅、予鵝眼四十二勝了、
十月八日戊辰、禁裏御楊弓有之、四十三度有之、御懸物可二持參一之由有之間、牛黃圓〈一貝〉持參、御人數、御矢、〈廿〉勸修寺大納言、〈廿〉予、〈十七〉四辻中納言、〈十五穴一〉新中納言、〈九〉重保朝臣、〈十三〉永相朝臣〈八〉等也、御懸物新中納言拜領也、杉原十帖御帶一筋也、勸修寺二人之分茶(庭)垸杉原(右佐)一帖被レ取之、予杉原二帖取之、右衞門佐香(勸)箸牛(予)黃圓取之了、於二淸凉殿一有之、小積如レ常、及二黃昏一退出了、四十七枚勝了、
p.0194 天正十八年六月九日、禁裏にて御楊弓參候へば、くわんらん相煩不二出申一也、 十九年三月八日、禁裏御楊弓にしこう申候、 九日、御楊弓十五人にてあそばし候、百手ニ予卅五かさ也、
p.0194 慶長八年十一月五日、御やうきうあり、おとこたちもしこう、
p.0194 近年〈○寬永十年頃〉の聞書 世上に楊弓のはやりはんべりければ
楊弓の下手の座敷や夏ごたつ
p.0195 安永三年八月十日辛卯、於レ院有二楊弓一、〈御簾外也〉關白〈内前○近衞〉已下上達部殿上人等四五人參仕、權中納言紀光〈○柳原〉爲二人數一、
p.0195 凡賭者檀紙、椙原、短尺、孔方兄等也、以二一錢一云二餓鬼一、以二二錢一爲レ地、以二三錢一名レ山、呼二五錢一號二於洲賀(ヲスカ)一、十錢云レ括(クヽリ)、二十錢爲二草冠一、以レ百云レ牛、是古今之世説也、
p.0195 楊弓
賭に一錢を紅白の紙に包し也、是を字と云、近年は素字とて裸錢を用ゆ、美麗の業も世くだりていやしくなれり、
p.0195 投壺記
楊弓や其始唐帝貴妃の戯におこり、未央の柳を弓とし、太液の芙蓉を矢になづらへ、矢の羽の飛を比翼の鳥にかたどり、弓の弦のつらなれる連理の枝にたぐふ、然れども我國に來りていまだ宴席に翫ぶ事を聞ず、只賭を爭ひ、しかも一錢に餓鬼の名あつて、百錢に牛の異名あり、殆博に近きの譏をのがれず、
p.0195 結改之事
一結改は、大前よりまはしはじむる也、百手の間五度づゝにて結改かはる、五人よりうへの乳母は鬮乳母なり、うしろにて結改とり納めのものおなじ紋の鬮二本あらば、落(から)乳母といふ也だとへば松と竹との紋あらば、いづれにても乳母といふべし、結改かはりの時、筒あるかたにて鬮をあつめ、筒に入鳴し、後より二結改目よりまはす也、のちも段々おなじ儀也、
一まはし結改とも、まはり乳母ともいふことあり、三人の時ある事也、結改まはすにおよばず、初度大前の者、乳母誰と名のれば、殘り二人は組誰々と名のる、尤五度づゝにてかはる、但六度目より十度までは中の者、乳母誰と名のる、前後の者又組誰々と名のる、十一度目には、うしろの者、乳 母となのり、前二人組誰となのる、如レ此五十度が間、段々乳母を廻す也、
p.0196 凡鬮者文字或繪等爲レ驗、取レ鬮時以レ不レ合爲二乳母(ヲチ)一、乳母之矢中時以二二矢一雍レ之、又乳母不レ中之時出二懸二分也、又號レ笠者、同鬮之時一人中之時、同鬮雖レ不レ中免レ取レ懸、
p.0196 凡乳母之號者、童子之乳母之儀也、乳母者依レ禁二婬奔一寡也、仍似二鰥鬮一號二乳母一、又指之號呼二下品乳母一云レ指之故、
p.0196 楊弓
詰改一表、矢員二百本也、中所五十本以上は朱書、百本以上は泥書、百五十本以上金貝、百八十以上大金貝と云、
p.0196 廿五日楊弓結改(ケツカイ)總會、〈古板結界に作るは非なり、結改とは鬮を結び改るの謂なり、則百手の内五度ヅヽ十度結び改る故なり、五月と九月の廿五日、年に二度興行す、山の手の輩は、山王寶藏院に會し、下まちの輩は、雨國邊の酒樓に集り、勝劣を爭ひ、勝れたるを定て江戸一と稱す、結改一表矢員二百本なり、中る所五十本以上は朱書、百本以上は泥書、百五十本以上は金貝、百八十本以上は大金貝といふ、其作法委しくは貞享五年刊する所の今井一中が作の楊弓射禮書を見て知るべし、この書は天文十八年述作の楊弓射禮蓬矢抄といへるに注解を加へ、ことごとしく書つらねたる物也、〉
p.0196 廿五日、楊弓結改(ケツカイ)の惚會五月に同じ、
p.0196 楊弓
近年みやこ一中此道を得たり、一表二百本のこらず的中したりと云、此もの楊弓の書を編す、元祿の頃、芝に五郎、未碩と云兩人の者、そのころの上手にて、百八十四五の矢員、江戸中詰改場の看板に記し、無雙の上手といへり、頃年は百八十四五は常の事にして、百九十四五、あるひは七八におよぶ、しばらくのほどに、世人かくは上手になれり、
p.0196 都一中、〈○中略〉一中は上るりの外に楊弓の名手にて、一表二百のこらず的中したりとかや、されば一中といふ名は、もと楊弓のかたに付たる名なるべし、
p.0197 享保十一年八月廿五日夕參候、世ニ楊弓ホド、カハリタル藝ハナシ、何ノ藝モ同ジコトナレドモ、器用ナル人ハ、朱引カナガヒ、程ナク長ゼルガ、若シオツル段ニナリテハ、甚ダオツルモノ也、御前〈○近衞家熙〉ニハ、若キ御時、此藝ヲ遊バセシガ、今ニテハ、六七年モ御ステナサレテ、弓トラレシコトモナシ、凡御學ビナサレシ、御手跡御畫ヲ初トシテ、御楊弓ホドナレバ、世上ニ推出シテ、耻カシカラヌホドナリ、六七年モ遊バサ子ドモ、イデ今日アソバシタリトモ、古ヘニサマデ劣ルマジト思シ召也、コレニハ殊ニ譯ケアルコト也、世上ニ、射ハジメカラ、器用ニテ中ル人ハ、下ルモ又早シ、〈尤モ器用ニテ稽古シゲキ人、常ニアタリテオチヌモ、頭カラ中ラヌ人モアリ、〉コレ、ハ何トシテ中ル、何トシテ中ラヌ、此道理ニテ中ル、カカル譯ニテオツルト、ソレ〴〵ノ譯ヲ、トクト合點シタル楊弓ニ、各別ニ落ルハ少シ、其譯ヲ合點セズニ、唯稽古ト、拍子ニテ中ルハ、今日ハ見事ノ中リニテ、明日ハ各別ニ落ルハ、コヽ也ト仰ラル、コレハ本ガ獅子吼院殿〈○堯恕法親王〉ノ御傳授ニテ、御覺リナサレシト也、〈御園意齋御前ニ候シテ、榮君ノ御方ヒトコロハ、各別ノ御中リナリシガ、此ゴロハ何トシテカ、各別ニヲチタリト申サレシヨリシテ、御意下ノゴトシ、意齋ノヨキコト申上ラレタリトコソ覺ユレ、〉今ニテモ、進藤一葉、細野久兵衞ナドガ楊弓、イツマデモ落ベカラザル筈也、其譯ヲ呑込タル故也ト仰ラル、〈御前ニ若キ御トキ、奈良ヘ御成アリシニ、細野マイリテ吹矢ヲ射ル、上手也、イデ楊弓ヲト望シニ、終ニ射タルコトナシトテ射シガ、一本モ中ラズ、サテハ吹矢ノ力ニテモイカヌヨトナリトテ、皆々笑シガ、ドレニテモアレ、弓匕トツカシタマヘトテ、取カヘリ、旅宿ニテ、コレハ何トゾ中リソウナルモノナリ、何トシテハヅルヽト、譯ヲ工夫シテ、一夜射徹シケルガ、翌日參リテ、五十三本中リタリ、コレラ分ヲ合點シタル楊弓ナリト仰セラル、〉憚リオホキコトナガラ、毎々御咄ンヲ承ル事ニ、感拜スルコトノミナレドモ、是ハ又就レ中各別ノ御事也、身ニアテヽ、アリガタクコソ覺ユレ、凡ソ天下ノ藝ニテハ、サテハ醫術ト楊弓トナルベシト申上テ、大笑アソバス、〈余(山科道安)毎ニ人ニモ語リ、自ラモ工夫シテ思フニハ、イカナレバ諸藝ノ如クニ、醫術ハナキコトヤラン、余程ノ人品、人物ノ人モ時ニヨリテハ、カナガイホドノ器モ、明日ハ朱引ニモタラヌノミカ、一本モ中ラヌ程ニハ、イカニ諸藝ハ、アガレバアガルホドノ功アリテ、彼ニハ增リ、コレニハ劣ル際アルニ、此術ニナリテ、際ノナキコトヨト、數十年來ノ不審ノ、今日融ケルコトノ有ガタサヨ、世上ノ醫ニ、余ハ及バズト思フホドノ手柄ハ、ソノ日ノ楊弓ノ出來中リ也、アクル日ノアシニテハナシトサミスルハ、ソノ日ノ、不出來中リ也、所詮ドウシタワケニテキク、ドウシタ譯ニテ中ルト云、底ノ見エヌウチハ、出來不出來トモニ、楊弓ノ如シ、サルホドニ、一病人ニテモ、タマタマ其譯ケノミエタルニ、心覺シテ〉 〈治スルハ、ソノ一人ノワケノ見エタル也、何ヤラシラズニ直リタルハ、拍子ニテ中リタル楊弓也、サルホドニ直ラヌ譯ケモ、合點ユカヌ筈也、サテサテアリガタキ仰ヲ承テ、數十年來ノ惑ヒトケテ、剰ヘ此譯チ知リ徹リタキ一念起レリ、今マデハ生ヲ易タリトモ、知ルマジト思ヒシガ、阿トゾ古今ノ事歷チ經ル中ニ、此一筋ノ譯ダケダニ見出シタラバ、此ハ見エ、コレハ見エヌホドノ位ニ、イタルマジキコトニアラズト工夫ス、〉
p.0198 楊弓
楊弓未レ詳二其始一、貴賤毎射レ之賭二勝劣一、遊戯之具、其弓以二楊柳一作レ之故名、近年用二蘇方、華櫚、紫檀等一、多繼弓、
p.0198 楊弓〈○中略〉 凡弓本懸レ弦所謂二本筈一、長二寸、是表二牽牛織女之二星一、其弓末插レ弦所謂二裏筈一、其長二寸八分表二二十八宿之星一、其餘亦滑稽爲レ文、
p.0198 凡弓者象二二十八宿一、以二二尺八寸一爲レ長、裏弭九分者表二九曜星一、本弭二分者象二牽牛織女一、弦則織女之機糸也、弣長三寸七分者表二三秋七日之數一、弓者以レ楊作レ之、蓋夫後世人好二美色一、以二蘇㭶或花櫚紫檀等一削レ之、
凡藤者以レ細爲レ善、或以レ樺卷レ之、
凡弣者以二金襴緞子一裹レ之、或以二金鮐魚鮐等一裹レ之亦佳也、以二金銀鹿角等一爲二竪横飾一、
凡弦者可レ用二琵琶三四絃間一、若捻レ弦則以二生糸一分二四分一合レ之、以レ糊練レ之、可レ引二梔子一也、
凡橐者唐綾蜀錦緞子金襴隨レ所レ好縫レ之、其長三尺五寸、横之廣可レ爲二三寸一、縫目可レ用二臥組一、以二丸緖一爲レ緖、近代多以二紅線一組爲レ緖、
p.0198 道具の事
一弓 蘇㭶の目のつまりたる節なき木にて削べし、むかふ直に、前丸みを付て創る、是予〈○今井一中〉が流也、弓あまりつよきは手前りきむゆへに、癖出來てあたらず、引五寸五分より六寸二三分の間、人々のこのむところにしたがふべし、曲弓(そりゆみ)あり、張弓あり、望みにまかすべし、弓の長は本末の筈をのけて二尺八寸なり、 一弣 中比までは木地、あるひは金鮐魚鮫にて上を包み、金銀鹿の角をかさね、また唐蒔繪を以て竪横の飾とせり、近代本阿彌何某此道をこのみ、旦暮に工夫をこらし、洛陽天神の厨子正阿彌といへる弓師を招き、角弓(かどゆみ)を削らせ、弣も下細く、下地を金襴緞子にて包み、上を紫のほそき絹にて鴴にまきそめしより、左の手のうちおやゆびの押かけこゝろよく、稽古に年數をかさねず、矢數のあたる事となりぬ、また中比までは弓も圓く尤弱く、矢もかろかりしゆへ、矢數おほく中る人まれなり、當代は一二ケ月射ならひし人も、矢數おほく中る事、是倂本阿彌某の工夫による也、其上弓師矢師も名人出來て、其心持のごとく、弓矢を製するゆへなるべし、予が流は、弣の上の幅八分、下の幅七分半に作る也、弣の幅ひろきは持よく、其上能道理ども有也、弣の上の差込の弓の金物、いろ〳〵物ずきあれども、指臺の爲にあしき也、筒金一筋入か、又は繪樣なしのかなものよき也、下のさしこみのかな物は、いかやうにもかざるべし、
一弦 琵琶の三四の間の緖を用ゆべし、さりながら今はいろ〳〵の弦あり、弦に大小あり、細きつるは矢差、太きつるは矢落るもの也、しかれども太きは矢ちらぬ物也、銀にて露を入る事定りたる事也、予が流は露をいれず、搜(さぐり)もなき也、いろ〳〵の道理ある事也、扨右の攫付(つまみつけ)ひだりの押掛心の拍子覘込、いづれもひやうし揃へ、心もち楊弓の氣になりて、矢を放らたらば、大かた逃るといふ事有まじき也、よく〳〵稽古あるべし、
一橐 むかしはのべつけの弓なりしゆへ、ふくろも長かりき、近代すべて繼弓となりぬ、それゆへに袋のたけも短くなりぬ、さして定れる寸法なし、好む所に隨ふべし、
p.0199 楊弓〈○中略〉 今造二楊弓幷矢一人在二所々一、京極下御靈前小倉出羽之製造爲レ良、
p.0199 楊弓師 中にも下御靈の前小倉出羽椽其名聞ゆなり、江戸は神田天神の前、
p.0199 楊弓興隆なれば、弓師矢師の本各所付まで記す、〈○中略〉 洛陽弓師
室町通一條上町 琴屋今井長門 上京天神之厨子 正阿彌長左衞門正長 四條立賣高倉東〈江〉入町 荒井孫左衞門忠良 白山(ふや町)通四條上〈ル〉町 田左兵衞定廣〈○中略〉
江戸弓矢師
湯嶋天神門前 深谷源太郎 同所 同 久左衞門 湯嶋妻戀町 同 勘左衞門
p.0200 諸細工名物
楊弓矢師 所々に有レ之中、すぐれたるものをしるす、
湯島 文車喜之 同 東江正貫 同 近藤元利 同 藤原舍具 同 藤原政春
同 藤原行續 同 藤原一知 同 藤原忠董 同 藤原秀之 同藤原董利
同 藤原義廣 芝 藤原勝董 同 藤原正證 同 藤原盛定 同藤原正繼
同 三輪正富 兩國米澤町 銘六一知 已上
p.0200 凡矢長九寸、罰一寸八分、樺長四分、木賊四分、絲作二分、凡矢之木者以二草朴一爲レ上、或雖レ用二朴木櫻樛木一、是皆下品也、
凡羽者以二白鳥君不一レ知爲レ上、若付二靑絞一則以レ糊繪レ紋、以レ藍染レ之、恐是類レ見二松間殘櫻一、又易レ色有レ求レ紅、則以レ葛繪レ紋、以レ茜可レ染二其色一、紅二於霜楓一、又成レ黃則以レ餅繪レ紋、以二黃蘗一染二其色一、如レ對二重陽菊花一、或鴈尾羽斑鴫等爲二下品一、已下猶不レ足レ言也、
凡木賊者可レ用二信濃木賊一、三七日溺レ水刮レ裏欲レ隣之(ウスロガン)時、作レ形以レ䞓(ベニ)染レ之、或以二黃蘗一染レ之、又以二靑花一染レ之、以二白粉一塗レ裏也、紫者以二蘇㭶一染レ之、欲レ付レ之時、以二其色繪具一加二白粉一、合二餅糊一可レ付レ之、雖レ爲二家珍秘術一、爲二後世一誌レ之者也、
凡矢羽絲者唐紅爲二本色一、或以二靑糸一作レ之、凡爲二玳瑁一羽中者、四五遍引二膠羽下一、以二椋葉一琢レ之、其後以二朱漆一 可レ押レ薄、
凡丁(ビヤウ)者以レ鐵打レ之、重二水牛鹿角一以レ膠堅レ之、以レ鑢琢レ之、以二石砥合砥一礪レ之、
凡絲羽幷樺作等者、以レ膠可レ付レ之、以レ絲卷二樺上一、當二烙鐵一以二椋葉一琢レ之、是無雙秘傳也、
p.0201 道具の事、
一矢 是もいにしへとは長きあり、短きあり、中比五分長の矢あり、それより此かた、九寸二分三分の矢をつくらせ射る人あり、尤矢たけ長きは間數ちかき道理あるべし、間數近ければ人生によつて落手あり、差手あり、落手の人是を好むべし、しかれども近世九寸二分を用ゆる也、〈○中略〉
一矢代箭の事、用ゆべき作法あり、〈○中略〉今爰に是をもちゆるは射手の人數席に望むとき、前後のあらそひあり、其時に、矢代箭を面々より出して、盲どりにとつて、後手にてさぐり、一矢づゝ座におきて去、さて我矢のある席に著くなり、矢の仕樣は人の望む處に隨ふべし、
一木賊 竪に付るあり、横に付るあり、右木賊左木賊あり、望にまかすべし、又太き細きあり、つまみは古作よりは長きよし、六分半上卷ともに九分、或は前切(まへきれ)後切あり、落指(おちさし)あり、緩む縮るあり、其人のつまみによるべし、望に隨ふべし、〈口傳〉
p.0201 天文十三年五月廿日戊午、滋野井被レ來、楊弓矢之木草朴所望之間遣了、
p.0201 楊弓興隆なれば、弓師矢師の本名所付まで記す、〈○中略〉
洛陽矢師
寺町通下御靈之前 小倉出羽掾中親 御幸町通姉小路上〈ル〉町 島村平十郎貞道 四條通長刀鉾之町 田村八郎四郎由治 四條立賣富小路東〈江〉入町 柴田九郎兵衞定景
p.0201 凡矢筒者長一尺、其丸事可レ任二時俗之意一、木者以二蘿漆一爲レ本、蓋者用二象牙一、此升唐木蒔繪之筒又佳也、
p.0202 大永七年十月八日壬子、源少將ヨリ書狀アリ、楊弓之矢ヅヽノ木所望之由候、又予本樣ニ被レ借候、又矢筒之文夾此方へ被レ預候、又木ニテ〈○以下缺〉
p.0202 楊弓(やうきう) 楊弓〈以二字音一呼〉 堋〈音彭、射埓也、用二黑革一張レ之、〉 的〈大サ三寸許リ〉
p.0202 楊弓〈○中略〉 繫レ格臺謂レ堋、格中央有二小穴一、是謂二喜利穴一、中二其穴一者、稱二美之一、
p.0202 楊弓ノ的ヲ施スモノヲぼうがたト云、是乏形(ボウカタ)也、大射禮乏一名レ容、似二今云屛風一、以二牛革一鞔漆レ之、鄭曰唱獲(アタリヲヨブ)者所二蔽以禦一レ矢也ト、今此形ニ似タルヲ以テぼうがたト云ナリ、
p.0202 堋之圖
總高三尺三寸
横一尺五寸
此間一尺七寸
革ニテ張
的ヲ釣ニ習アリ、的ノ高弦無ノ弓ヲ疊ニ
立テ、鋒先ノ屆クホドニ釣ヲ本式トス、
如レ此釣也 大きに御座候、是は兼入了簡にて、むかしは弱弓に輕き矢にて御座候ゆへ、中りにて堋さのみゆるぎ申さず候、當世は强弓に重き矢にて、中りつよく御座候ゆへ、ことのほかゆるぎ申に付、此圖の寸法に被レ致候、無落(ぶら)は金森公御物ずきは切籠(きりこ)にて御座候へ共、瓢簞に兼入改申され候、此二色の外は皆々後水尾院樣の御時に改申候格にて御座候也と云云、
p.0203 楊弓興隆なれば、弓師矢師の本名所付まで記す、〈○中略〉
洛陽楊弓的幷筥師
御幸町通五條上〈ル〉町 六兵(玉屋)衞 宗房
p.0203 凡衡者竪横五尺、幕者以二金襴緞子紋紗繻子精好等一縫レ之、以二紫皮一爲二裝束一、尋常人張二水色布一爲レ幕、
p.0203 楊弓興隆なれば、弓師矢師の本名所付まで記す、〈○中略〉
四條立賣柳馬場西〈江〉入町 右兵(筥師)衞 定淸 室町通(弓モ造ル)今出川上〈ル〉町 淸(同)兵衞
p.0203 一洛陽幷江戸の射場の所付を記す事、若は田舍より楊弓を心がけ席に望む人おほし、且又楊弓興隆なれば、弓師矢師の本名所付まで記す、
洛陽射場所付
上京大峯之厨子 祐淸 粉川通下立賣下〈ル〉町 五郎(伏見屋)右衞門慶有 白山通(ふや町とをり)誓願寺下〈ル〉町 甚兵(蠟燭屋)衞 延長 西洞院通生洲町 利兵(松屋)衞 松利 車屋町通御池下町 源右(丸屋)衞門
上長者町室町西〈江〉入町 遊行
江戸射場所付
橘町二丁目 鈴木三意 一計 湯嶋天神之門前 柏屋甚兵衞
此外所々雖レ有レ之、打出而之射場ニハアラズ、故ニ不レ記、
p.0204 道具の事
一的 櫻、藤木よし、大きさ三寸已下也、是も中比より三寸二分、三分、五分までに造り出す也、的を奉書の紙にて張、白粉をうす糊にまぜ、村のなきやうに引、そのうへに大輪を書べし、大輪書やう、まとのふちより三分のけて、輪のふとさ四分たるべし、或はまとのうちに鬼といふ字を書こともあり、〈○中略〉
一堋 高さ三尺五寸といへり、今は是に三寸ながくする也、黑皮に綿を入れ、皮のたけ一尺九寸、下一尺九寸、合て三尺八寸なり、
往年堋の寸法の事、去御方へたづね侍しに、左のとをり御書記し給ひしなり、〈○圖略〉
總高三尺八寸、〈○中略〉右の外布衡六尺四方、〈色ハ紺ニテモ黑ニデモ〉
添書
後陽成院樣の御時の堋は、御時代不レ知、御藏に納り候古き堋を御用被レ遊候由、
總高三尺九寸 幅二尺六七寸計
太鞁の内高さ幅と同位にて、四角に相見〈江〉申候、馬皮にて張、眞中に貘(ばく)を彩色に畫レ之候由、右高さは相違無二御座一候、其外の寸法はとくと知れ不レ申候由、馬皮にてはり申候は、堋音と的の音、よくわけの聞へ申すやうにとの御事に、可レ有二御座一との推量に御座候由、
後水尾院樣御時に、右の堋御改被レ爲レ成、高さは古製のとをり三尺九寸にて、幅一尺七寸五分程にとの勅意を以て、一條惠觀公より、金森宗和公へ仰せ付させられ、右の寸法にて、其外木のふとみ、形の恰好、物ずきに被レ成被レ下候樣にとの、御事にて御座候處に、右のとをりにて、幅御取合不レ申樣におぼしめし候哉、壹尺七寸に五分御ちゞめ被レ成、其外皆宗和公御物ずきに而、御仕立被レ成被二爲上一候由、圖を仕り進じ候、本阿彌兼入〈光叔楊弓の別號也〉堋も、此御極の格にて御座候、しかしながら足は少
p.0205 諸細工名物
楊弓結界場を記す
筋違橋御門外 楊水 瀨戸もの町 次名 本郷春木町 桂風 柳原新橋向 圓志 芝かわらけ町 波翁 湯島天神前 文車 芝切通し 都住 牛込榎町 辨天
淺草行安寺前 完爾 四谷 芝交 小石川すは町 丹治 數寄や橋御門外 松林 赤坂一木町 古文 以上
p.0205 廿五日、楊弓結改楤會、〈(中略)貞享の頃、江戸射場橘町三丁目鈴木三意一計、湯島天神門前柏屋甚兵衞とあり、寬延の江戸鹿子には、結改場十三ケ所を擧たり、當時(天保)結改場山の手に二ケ所、下タ町に四ケ所あり、卽左に記す如し、下タ町は湯島辨天、木挽町雪好、芝赤羽根以慶、羽應、山の手は飯田町桂風、牛込義好等なり、〉
p.0205 藝者は人をそしりの種
諸藝を鍛錬する事、それ〴〵の家業の外は、ふかう其道に入る事なかれと、古人の言葉ひとつもたがふ事なし、〈○中略〉殊更楊弓官女の業なり、いかにしても大男の慰み事にはぬるし、なをまた諸職人の鎚鋸を持たる手には似合はず、よし又百筋ながら當り、あるひは大金書の看板に付てから何、此矢自然の時の用に立ち、せめて盜人を射るめるにもあらず、肴引猫にあてゝも更におどろく事なし、
p.0205 戀の捨銀
折節楊弓始まりて、各やう〳〵朱書位に爭はれしに、或御方の道具を借りて、取弓取矢にして、四本はづれず、一筋は切穴に通れば、座中目を覺まして、なほ所望するに數あり、
p.0205 妖孽寬濶女
都にて大内の官女、楊弓ものし給ふさへ、替り過ぎたる慰のやうに思ひしは、これはそも〳〵楊貴妃の弄び給へると傳へければ今も女中の遊興に似合はしき事にぞ、
p.0206 神明
神明亦南郭一繁昌社也、一坐戯場、數棚觀物、楊弓肆、冶郎院、連二演史落語所一、縱横圍レ社一夥、士人、一夥僧侶林箭雨發、拙手爭レ巧、發二彼有的一、以祈二爾爵一、蓋以レ酒賭也、其客右手不レ如二娣左手之巧一、只見纎手挽二起紅袖一、觀音一臂、嫦娥代レ夫、拈レ弓摘レ箭、看二括于鼻一以發、香頰又添二著一捻靨痕一來、弦盈羽飛、正是秋月行レ天、流星落レ地、紛々林々、鏑去羽沓、百發百中、舍レ矢如レ破、早已安二排一桌酒殽一來、勝飮レ不レ勝、射法古例、〈○下略〉
p.0206 夫楊弓之濫觴者、貴妃資始レ之、〈○中略〉爾來傳二楊弓於吾本朝一、以射者多、而於二北闕一七夕七遊以レ之爲二第一一、恭惟今上皇帝、〈○後奈良〉内正二三綱五常義一、以遵二周公孔子道一、外起二萬機百司政一、而追二延喜天曆跡一、偏悲二諸藝之潦倒一、能廻二再興之恩澤一、是故世以頌二其德一、以誇二其化一、謂二之請レ天聖主、奉レ地明君一、亦不レ宜哉、加之、朝誦暮吟、旬煆月煉、共以妙、句句言言、鱠二炙人口一、集大成者歟、若有二閑暇一、則詔二諸臣一翫二楊弓一、春賭レ花、秋賭レ月、上持滿末發、則百一無レ不レ中、鳴呼奇哉奇哉、養由藝、飛衞術、爭及レ之乎、文武兩道者、治レ世一端也、雖三橐レ弓撫二四夷一、揚弓更非二戰士之業一、只令二蚩尤傷一レ之政也、有レ誰謂二不可一哉、天智天皇者、詔二大夫士等一見二大射一、仁德聖主者、又勅二盾人宿禰一畚レ彀レ的給、且復向二春節一見二賭弓一者、禮記之所レ誌也、至二冬季一望二射場一者、儀式之所レ定也、見レ今猶古、擧レ世無レ長無レ少、左手提レ弓、右手提レ矢、惜二寸陰分陰一、實依二俙隋煬帝好レ舟、天下競裝レ舟、唐玄宗愛レ身、九重人飜レ袖、呉王翫レ劒、擧レ國横レ劒、景公調レ馬、境内集一レ馬者也、人皆莫レ捨二楊弓一、則惡魔不レ侵、富貴耀レ前、猶三春於二牡丹一、善哉善哉、國寶也、于レ時龍集天文著雍〈○十八年〉作噩仲呂强圉單閼日、墨戯之次、卒作二楊弓賦一以招二世俗嘲一云、
p.0206 楊弓 相傳、自レ古公家之所レ玩也、楊弓射禮舊本有二二卷一、
○
p.0206 ふきや 水滸傳に、吹筒也といへり、
p.0206 楊弓〈○中略〉 又一種有二吹矢一、長三尺或四尺圓木、突二貴其内一、入二矢於其頭一、以レ息吹レ之、其矢 中レ鳥則立斃、其所レ用之筒長短、應二吹レ之人氣息强弱一、
p.0207 兒童之戯、有三吹レ箭獲二小鳥一、唐山亦有二同者一、方干詩云、吹レ箭落二翠羽一、垂レ絲牽二錦鱗一、是也、
p.0207 加藤出羽守吹矢筒之事
讃州丸龜城は、寬永十八年、山崎甲斐守家治拜領にて居レ之、相續ひて二代目を志摩守と號、志州卒後、采邑五萬石之内、合弟勘解由〈江〉五千石配分、四萬五千石を嫡子虎之助領レ之、丸龜在城の處に、虎之助無レ程早世、無レ嗣して仍其跡斷絶す、就レ右與州大洲城主加藤出羽守泰興に、城請取在番共に仰付らる、因レ玆羽州は人數を卒し丸龜に被二差向一、其行列巍々堂々たり、然るに羽州自分の馬脇に、吹矢筒に吹矢を添て持せられたり、係る嚴重の行列の中に、異樣にぞ見へし、此羽州は隨分武の心懸賢く鑓の達人成し去れば右の吹矢筒には、何卒子細有べし、其家來に是を尋れども、所以を知たる人無し、異風成事故、爰に記し畢、
p.0207 前朝〈○德川綱吉〉生禁の嚴なりしをもて、〈○中略〉吹矢といふものにて雀を打し事あらはれ、采地收公せらるゝたぐひ少からざりき、
p.0207 神明
小厮抽レ矢盛レ筒持レ筒審固、覻得親切、一氣吹送、識的有レ響、鯨鐘墜レ鬼、怪雲走レ雷、金時面前、魅童送レ茶、賴光頭上、蜘蛛撒レ絲、戯一具百色、應レ響轉レ機、奇々怪々、現レ異呈レ變、甚有二古色一、蓋前人所レ悦、此所以外今不二復多觀一焉、昔者武王克レ商、散レ軍郊射而貫革之射息、周末之亂、貫革復尚、孔子嘆レ之曰、射不レ主レ皮、於戯方今太平之久、土人 二貫革一、餘暇得レ遊二這戯射場内一、豈不二昌平之澤一乎、
p.0207 つなをつけて人形などを出す吹矢は、からくり的と云ふ、松の落葉、四條河原凉八景といふ加賀節に、からくり的、おやまか鬼に、うちかへり、鬼か佛になむあみだぶつ云々、其砧、せつかく握る飯にくもる日、〈春旭〉吹矢的つまる所か息まかせ、〈橋佐〉娘容義に、心底はからくり的、段 段にかはるなど云り、江戸名物鑑、富が岡吹矢、みた計り初雷の吹矢かな、胴 が勢多唐巴詩、吹レ箭射二唐操的一、腹减息亦弱、試吹十本前、偶中レ的不レ離、更無二人形轉一、
p.0208 首途
吹竹筒さげて非番の茶道衆 達支
雪は粟津へそれる夕立 里紅