茶室

〔書言字考節用集〕

〈二/乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 數奇屋(スキヤ)〈奇又作寄、今按數奇、不遇之謂也、凡草亭茅屋方事之經營、假用貧窶不遇之式、故曰數奇、〉

〔和爾雅〕

〈五/居處〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 茶寮(スキヤ)〈俗云數奇屋〉

〔倭訓栞〕

〈中編十一/須〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 すきや 茶寮をいふ、數奇屋の義、侘と稱する意なりといへり、橘直幹の文に、固知儒業之拙、總是數奇之源也と見ゆ、されど透屋なるべし、透垣の類なり、

〔倭訓栞〕

〈前編六/加〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 かこひ 世に茶寮をかこひと穩するは、珠光慈照寺の界内東求堂の東北に一室を設け、同仁齋と名け、四席半方丈の室になぞらへ、屛障是を圍めり、よて此穃あり、四疊半もまた此におこるといへり、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 茶室
小座敷とも云、數寄屋ともいふ、家の内をしきりて茶室をしつらふを圍(かこひ)と云、四疊半の小座敷を東山殿〈○足利義政〉はじめて作られしより、人々の物數寄にて、だん〳〵今の間取とはなれり、

〔茶道早合點〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 茶の湯の大概
茶の湯を又數寄共云、故に茶室を數寄屋と云、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0543 草庵附數奇屋
釋氏要覽曰、草を以て座を覆ふ、是を菴といふとあり、草菴は出世間法にして、自由天然の妙處也、 休居士〈○千利休〉鷗〈○武野紹鷗〉に談じ、艸茨の貳疊敷を作らる、是露地草菴の最初なり、數奇はものゝ相そなはらざる形にて不偶なるを云、〈○中略〉

昔廣座敷の隅を屛風にてかこみて、五六疊敷程にして茶をたてし事有、草菴未だ流行せざる比の事と云々、一説に爐をかこみ居るを以て圍と云、圓座抔言類にて、圍居同じと云々、此説も左可有也、今時も別に草菴などしつらひ侘人は可有事なり、

〔茶譜〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0544 一利休流ニ數奇屋ト云事無之、小座敷ト云、此小座敷ハ棟ヲ別ニ上テ、路地ヨリクヾリヲ付テ客ノ出入スルヲ云ナリ、又圍ト云ハ、書院ヨリ襖障子ナド立テ茶ヲ立ル座敷ヲ圍イト云ナリ、之ハ床ヲ入テモクヾリヲ付テモ、中柱ヲ立テモ、或ハ突上窓、或ハ勝手口、通口有之トモ、廣座敷ノ内ニ間仕切テ、茶ヲ立ルヤウニ造ルユへ圍ナリ、
右當代ハ數奇屋トナラデハ不云、又書院ノ脇ニ襖障子ヲ立テ、或ハ三疊、或ハ四疊半、或ハ六疊敷ニシテ小座敷ノゴトクナレバ、之モ數奇屋ト云、又小座敷別ニ棟ヲ上テ、書院ト離タモ圍ト云、何レモ誤ナリ、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0544 珠光眞座敷
紹鷗四疊半 〈木格子 竹格子 張付 土壁 爐〉
珠光四疊半、是四疊半の根本也、眞の座敷と云、鳥の子紙白張付、杉板の節無シ天井小板ぶき、寶形造、一間床也、秘藏の圓悟禪師の墨跡を掛、臺手をかざり、其後爐を切て、弓臺を置合せられしとかや、又床には二幅對の掛畫勿論、一幅の畫などもかけられしなり、前には卓に香爐花入、或は小花瓶二色に立花、或は料紙硯箱、短尺箱、文臺、盆山、葉茶壺抔も飾られし也、大方書院の飾物等置れけれ共、物數抔は略有しとかや、紹鷗に成て、四疊半座敷所々改、張付を土壁にし、木格子を竹にし、障手 の腰板をのけ、床の塗緣、薄塗又は白木にし、是を草の座敷といふ、此座に臺子はかざられず、弓臺の時は、掛物置物大かた珠光同前、袋棚の時は、床に墨跡花生の外は未置、品により珠光かざりの内、少々ゆるして可用事もあり、爐の廣狹不定、釜の大小に隨て切し也、休公〈○干利休〉と相談有て二疊敷出來、向爐隅切に、臺子のかねをとりて壹尺四寸の爐を始られ、其後四疊半にても京疊のには一尺四寸也、又田舍間四疊半あり、爐の寸等口傳、
深三疊二樣
古作のしつらひ也、圖に記、〈○圖略〉是は板の上に風爐釜を置て茶を立し也、其後板の前に壹尺四寸の爐を切て黠茶す、休の二疊敷方寸已後の事也、〈○中略〉
紹鷗利休二疊敷附爐之定寸
兩居士相談の上を以て二疊敷を作也、鷗の山里、休の妙喜菴等也、其外數々あり、是露地點茶の最初なり、客席の詰らぬ樣にとて三疊敷に成、年々月々色々の事になれり、爐の定寸左に記すごとく、鷗休相談の上、臺子風爐の座壹尺四寸を疊に移し候寸法也、勿論田舍間の疊にて、小臺子風爐の座の寸と心得べし、二疊敷隅切の向爐草菴第一と心得べし、其後轉じ來て客付向爐になる、
平三疊附集雲菴平三疊
平三疊向爐にも、又は脇爐にも切ル、床の付樣、窓の配り、夫々物數奇次第也、集雲菴の三疊は宗啓師の住居也、爐を持出シて切しは、勝手の方間半くつろぎて、自在抔釣りて尤なる住居也、〈○中略〉
二疊臺目三疊臺目
二疊三疊、又は四疊半にも臺目をつくる、〈○中略〉
臺目の規矩
中柱の右に爐を直したるを臺目切と云、六尺三寸の疊の内、臺子の幅一尺四寸と、臺子先の屛風 の厚サ一寸とかきてのけ、則其一尺四寸の幅、元來一尺四寸の風爐の座を客疊に出して爐を切たり、一枚疊の内、臺子の髱目分切のける故、臺目切の疊、臺目かきの疊といふ也、柱なし臺目切も有、自由なれども柱有本式也、何〈茂〉五陽六陰のかねを用、秘事多々、口傳、

〔嬉遊笑覽〕

〈一上/居處〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0546 茶室に臺日と云は、一疊を四ツに分ち一分减たるなり、堺にて藥種一斤を四分一减たるをだい目と云、文字可考といへり、按るに其大なる方を大目と云ならん、蓆にて廣狹あるなり、

〔茶器名物集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0546 三帖敷ハ、紹鷗ノ代迄ハ、道具ナシノ侘數奇專トス、唐物一種成トモ持候者ハ、四帖半ニ悉座敷ヲ立ル、宗易異見候、廿五年以來、紹鷗ノ時ニ同ジ、當關白樣御代十ケ年ノ内、上下悉三帖敷、二帖半敷、二帖敷用之、去ドモ珠光替ハ、ワラ屋ニ名馬ヲツナギタル好ト舊語ニ有時ハ、名物ノ道具、ソサウナル座敷ニ置タル當世ノ風體、猶以面白歟、〈○圖略〉
此二帖半ノ事、紹鷗ノ時ハ天下ニ一ツ、山本助五郎ト云人紹鷗一ノ弟子也、其人ニ好テ茶湯ヲサセラレ候也、侘數寄也、〈○圖略〉
細長イ三帖敷、宗易大坂ノ座敷ノ寫也、但道具物茶湯ノ後者ハ仕也、侘數奇初心ナル茶湯ノハ無用歟、〈○圖略〉
二帖敷ノ座敷、關白樣ニ有、是ハ貴人カ名人カ、扨ハ一物モ持ヌ侘數寄力、此外平人ニハ無用也、又宗易京ニ一疊半ヲ始テ作ラレ候、當時珍敷コト也、是モ宗易一人ノ外ハ如何、〈○中略〉山上京二、大坂ノ座敷、細長三疊ジキ也、右座敷ノ指圖六ツ仕候、此外作事ハ百ハ百ナガラチクチク替者也、當世ハ大形此一書ノ通歟、〈○中略〉
一二疊半、三疊敷、細長三疊敷、大方同作也、少ヅヽ替事ハ作次第、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0546 小座鋪之部 四疊半已下を小座敷といふ、四疊已下は初後とも坐掃をなす、四疊已上は道具疊計坐掃をなす、尤はきこみなし、皆坐はきをするときは騷しきゆへなり、圍の始りは、珠光東山殿正寢十八疊の間を四ツ一ト分かこひたるが濫觴なち、其後紹鷗六疊をこのみ、夊四疊半になすなり、道幸をつくるは利休形なり、
四疊半疊之名所 紹鷗好の四疊半は、二枚障子にて、左右にマイラあり、張壁なりしを、利休居士塗壁にして、塗殘し窓を明〈ケ〉、クヾリ口を付る也、〈○圖略〉
二疊臺目 少庵京師二條に住居の節初めてこのみ、中柱を入、臺子の形を殘したるゆへ臺目といふ、夫ゆへに羽箒を置に、直に置くは眞のあしらひ也、當時は通じて利休形といふ、
尤此席の事は、少庵利休相談の上好なり、此席に利休通口をはじめて好む、是は太閤御招のため也、此通口をむかしは禿口といふ、
一疊半 少庵好の二疊臺目を見て、あまり自由過るとて、利休居士一疊半をこのむ、居士其頃一條通葭屋町に住居の節は、四疊半と一疊半との小座敷なり、一疊半に床をつけしは原叟好也、今長者町天王寺屋の下屋敷にあり、尤入床にして疊あり、
一説に一疊半に板床は宗旦このみなり、大德寺中芳春院にあり、
二疊敷 利休好なれども勝手あしきゆへ、向を小間中切落し一疊半をこのむ、尤此二疊へ八寸の中板を入るは啐啄齋好也、
二疊向板 吽翁好
二疊中板 如心齋好
一尺四寸中板入爐切也、尤上〈ゲ〉臺目、
一疊半中板 一翁好 江岑一翁兩人相談の上好、尤風呂先ヌリ廻し、板巾八寸、又中板入臺目切、
三疊敷 江岑好、壁床也、
三疊臺目 織部好
三疊四疊五疊六疊までも、臺目切は皆織部より好始る、今三疊臺目藪内にあり、是も織部好、三疊向板入るゝは啐啄齋也、利休の一疊半と、江岑の三疊とを合て啐啄齋好まるゝといふ、
長四疊 元伯好
大德寺見性庵にあり、上〈ゲ〉臺目なり、
不審庵 少庵本法寺前へ變宅の節、利休居士の遺圖によつて建らる、〈○圖略〉
四疊臺目 織部好、總じて四疊半、二疊臺目、一疊半、此三座敷が小ざしきの濫觴也、其餘のこのみは、此三座敷より變じて來るなり、
但し廣間は、四疊半已上をいふなり、

〔茶道要錄〕

〈上/主法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0548 座席之段々同床之事
座席ハ一疊半ヨリニ疊、同半、三疊、同半、又平三疊ト、深三疊アリ、平ヨリ入ヲ平三疊ト云、狹キ方ニ口有テ容ヲ深三疊ト云リ、長四疊、四疊半、此分定レル小座席也、六疊八疊敷タリト云共、勝手ハ右同然也、各牀モ堂庫モ可有、架モ一重二重筋違アリ、何モ悉ク寸法アリ、

〔茶譜〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0548 一利休流ニ、座敷ノ疊一間ニ不足ハ、半疊ニ不限何レモ半ト云、或ハ一疊半、或ハ四疊半ト云ナリ、依之何疊半ノ座敷ニ中柱ヲ立タ座敷ト云、又ハ何疊半ノ小座敷ニ茶立所ヲ付テト云、
右宗旦曰、當代中柱ヲ立テ茶ヲ立ル、疊一間ニ一尺六寸ホド短ヲ大メト云、此大メト云子細、曾テ不聞屆誤ト云々、
右當代ハ何疊大メトナラデハ不云、之モ古田織部時代ニ、或ハ四疊半ノ圍ニ又中柱ヲ立テ、茶 ヲ立ル所別ニ一疊ヨリモ短疊ヲ敷時、四疊半半トモ難云ユへ、大工共ノ心覺ニ云シヲ、其以後人毎ニ聞觸テ、歷々ノ茶湯者モ大メト云ナリ、依之今ハ大メト云ハザレバ不聞受ヤウニナレリ、

〔紳書〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0549 本朝茶湯之事、茶寮をも數寄屋と稱したり、是は定りたる法制有ル事ぞかしがこいといふは芝かるべき所を引かこふ故に稱すと云々、紹鷗迄は四疊半にて、天井は鏡天井にして、柱は角にて、間に合の紙にて壁を張て、床も一疊の床なりき、利休に至りて丸柱を用ひ、赤土の壁にて腰ばりをし、天井も半は有之、半は屋根かはらを見て、つき上ゲをして、座席をよろしき程に日の光をうけぬるやうにす、にじりあがりなどを付たり、此時迄は臺目といふ名は定まりしにや、二疊半、一疊半のかこいなど有し、されど其弟子古織〈○古田織部正〉に至て、臺目の名は出たり、宗羽按ずるに、臺目といふ事、其説分明ならず、但し利休迄は爐の茶立る事にてはなかりき、古法こと〴〵く臺子を用たり、しかるに古織に至りて、臺子をとゞめて爐にて茶立るに、彼臺子を飾りしほどを切りて捨て、其餘ル所にて爐をかまへ、又床をもつゞめたり、總て茶の法に疊の目を以て度とする事なれば、臺子のたけの疊目をたちて捨て、其餘を用る故に、臺目とは申すと存ずると云々、

〔翁草〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0549 當代奇覽と題せるものに、あらゆる雜談有り、十が一爰に拾ふ、
一古老の云、〈○中略〉圍ひも利休作にて、泉州堺淨土寺の椽側を三疊敷屛風にて圍ひ、茶ノ湯をせしより始る、去に仍て圍ひはあらたに造ると雖片庇也、數寄屋は棟を別に建る也、中くゞりは遙後に出來たり、利休時代は中くゞり無く、猿戸にて有し、古田織部正重勝中くゞりと云事を仕出さる、圍ひの住居種々の事は古田の作多し、中柱は利休子の道安が初て仕出しけるを、父の利休是を見て、無類の物數寄也、しかし汝が仕出したりと云はゞ、後世用ひざる事もや有んとて、頓て崩させて利休が圍ひに中の柱を建しと也、

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0550 古ヨリ紹鷗時代マデ、茶湯座敷ハ八疊敷、或ハ六疊敷ニ仕テ、其外ニ緣ヲ付、松木ノ極上ノ眞ヲ削、木賊ヲ以揩、椋ノ葉デ磨テ、色付ノ角柱ニシテ、座中へ不見壁ヲ端板ヲ打、床中ヲ白鳥子ノ紙張、揩板ノ鏡天井ナリ、眞塗ノ臺子ヲ置、唐物ノ茶入ヲ盆ニ乗テ、臺天目ヲ用ユ、〈○中略〉
千宗易曰、古ヨリ歷々茶湯ヲ玩來ドモ、茶ノ道ハ侘度コト也ト云テ、昔ノ松角柱ヲ立シヲ、松ノ皮付柱ニ仕替、又ハ杉丸太ノ柱ヲ立、端板ヲ取テ、座中床ノ中マデ壁塗ニシテ、其壁ノ上塗土ニ、長スサト云テ、四五寸ホドニ藁ヲ切、朽ラセ和テ土ニ塗コミ、壁ニサビヲ付ルト云テ、黑クフスモルヤウニ見セ、葦ノ皮付ヲ以、壁下地ニシテ窓ヲ塗アゲ、天井ノ鏡板ヲ取テ、蒲ヲ編テ張、靑竹ノフチヲ打天井ニ用ユ、又ハ杉力弜檜(サワラ)木ノ長片板ヲ、其幅一寸バカリニシテ、少黑ク色ヲ付、網代ニ組テ天井ニ張、女竹ノ皮ヲ取、二本宛ナラベテフチニモ打、又靑竹一本宛モフチニ打、壁ノ腰張湊紙、又ハ輕イ座敷ハ常ノ反古ヲ以モ張、床中ハ腰張無之、茶堂口通口ノ太鼓張ノ障子ハ、白キ奉書紙ニテモ、又常ノ反古ニテモ張、茅葺竹椽ニシテ庇ヲ付、座中其庇ノ所ヤネウラニシテ突上アリ、此庇ハ木ノ皮付杉丸太ノ椽也、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0550 茶室
大目切にて、爐の先にある板疊を向板と云、〈○中略〉向板と爐の間にある板を小板と云、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0550 小座鋪之部
中板 大德寺の行者山田氏に、元伯好の中板の席有、是中板の始也、〈山田氏といふは、無盡油といふかうやくを製する家にて、大德寺まへなり、〉
二疊中板、巾一尺四寸、 如心齋好
一疊半中板、巾八寸也、

〔茶傳集〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0550 一一疊半の圍爐裏先の板疊の巾一寸八九分、杉の目通りたる板目脇にする也、面は糸 面也、曲柱の有には、柱の前つらと爐ぶちの外を合候故、板の寸不入也、高サは地敷居の糸面程下ル、爐緣は板疊ゟ分半程上ル、疊は爐緣ゟ壹分によわく下ル也、

〔茶傳集〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0551 一臺子の間、又は草庵にも五寸板といふは亭主疊勝手の方に、巾五寸の板を入ル事有、是を五寸板といふ、松板よし、
一向切の爐、客附ノ方に巾壹寸七分五厘の板を入ル事も有、杉目通よし、
一隅爐には勝手ノ方爐丈ケにして、巾一寸七分五厘の板を必入ル也、無左候へば柄杓引にくゝ、爐のほめきにて壁痛ム也、
一向爐隅爐共に丈ケ爐丈ケ、巾貳寸ノ板を入、杉柾目也、
一疊巾ノ向板三通り有、向爐隅爐ニ入ル、巾五寸、巾四寸五分、巾一尺五寸、何も長サ疊巾だけにして木は松也、一尺五寸ノ板を入ル事、向爐ノ最初也、右板入ル跡四尺八寸、臺目疊ト云、一尺五寸ノ板〈江〉、今ノ如長板置シ也、風爐置所〈江〉爐を不切と云は、右一尺五寸ノ内へ爐は不切して、前ノ臺目疊に、向爐なり隅爐なり切事也、尤隅爐ト云は、古法ノ言葉になし、右向左向といふがよしと被仰候、
一中板とて、二疊ノ眞中ニ一尺ノ巾ノ板を入、松ノ木吉、〈一尺四寸モ〉

〔神谷宗湛筆記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0551 天正十五年正月七日、羽柴みの守樣〈○秀勝〉が御會、宗宗及深三疊天目床杉のかまち、竹葉にてふきて、屋根裏大目の先道有、二枚障子立て、四方爐、さる釜、五とく居、 廿日、藪内道和堺にて宗平三疊に床、爐七寸五分木緣也、

〔笈埃隨筆〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0551 御茶屋松原
天正十五年夏、豐臣秀吉公筑前國箱崎に、六月七日より凡廿日計り御滯座の中、日々茶の湯有けり、細川玄旨法印も、丹後より北海を船にて廻り著して陪從也、數寄屋は萱葺の假屋也、數寄者に は、千利休、施藥院、天王寺屋宗及、小寺休夢等也、中にも六月十八日、箱崎松原海道の南なる松が枝に鏁を置て、雲龍の小釜を釣て利休茶を奉る、今其邊を御茶屋松原といふ、

〔太閤記〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0552 殿下秀吉曰、今世のすき者共、其道の實を失ひ華を垓て衒ふなう、然間伏見山里に茶屋をいとなみ、諸侯大夫其外茶の道をすき侍る輩をあつめ、いにしへよきすき者どもの言葉の露しめさんとて、此亭を立おかれしに、承兊長老記て曰、
學問所記
城州伏見里者、天下勝境也、大相國相攸築大城華第、栽松竹深林、建高堂學問所、堂之四維構茅屋、屋中一々賦倭歌詠風景矣、集故人英豪、煎仙茶而爲數奇可否、堂前有長橋、過此橋者、見江山烟景歸期、故名之以日昏、於數奇其心親切者、臨此橋上希求、不親疎咸景慕之深、招以欲賓客、大相國外隆作勝遊、内不干戈、大明已入貢、朝鮮悉征伐、四夷聞風來享、寔古今名相也、
慶長三年戊戌盂春十一日 前南禪承兊謹誌焉

〔南浦文集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0552 茶室記
爰有藤氏一士、予之莫逆也、素有才之美、而克勤家業、傍學聖賢書、未敢厭一レ之、事君事長之暇、好嗜茶事、慕陸蔡二公之爲一レ人也、是故以茶聞於一郷、比來引余於茶室、卽應命赴之、我觀茶室之勝狀、外設篳門、内爲圭竇、圭竇之中、鞠躬而入、入則毎足跡一小石、蓋欲其履之不一レ濕也、一木榻之上置數箇蒲團者、蓋欲其膝之易一レ安也、眄其庭際、移千株之珍松、種數片之怪石、靑苔之堆其錦、野草之鋪其茵、卽有俗出塵之想矣、雖禪寂無塵之地、豈復若之哉、所謂靜裏乾坤、閑中日月也、中有一露地、灑之掃之、不一塵、不一芥、不畳令人逍遙於風塵之外矣、旣而入茶室、茶室縱横不七尺、然而有大厦高堂之勢、而無峻宇雕墻之奢、其室中之所有者、一鼎松風、耳得之而爲聲、一瓶桃花、目遇之而爲色、〈○中略〉曩昔維摩居士築方丈之室、中容三萬二千之猊座、千歲以筆之於書矣、今也公之小室、不於方丈、而超 三萬里之弱水、坐到蓬萊佳境、然則勝於居士之室者遠矣、於斯之時、公眇觀大瀛海於一室内、洗除九衢塵於一甌中者也、它日予亦著芒鞋、扶竹杖、從子於小室、以終吾生矣、歲在己酉春三月旣望、南浦玄昌書之、旹慶長之十四年也、

〔雍州府志〕

〈八/古蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0553 愛宕郡 千利休宅 在本法寺前、豐臣秀吉公賜之、利休所設鏁間(クサリノマ)于今存、倭俗以鐵鏁釜、置爐上湯、故斯處種鏁間、倭俗床上稱何間、或號某間、呼其稱號以別之、〈○中略〉
大黑菴跡 在室町四條北、茶人武野紹鷗、始名武田、因幡守仲村、則武田信光之裔也、〈○中略〉仲村成長後專嗜茶、入京師四條室町惠美須社南隣、倭俗以惠美須大黑一雙、以其居在其隣大黑菴、終剃髮號一閑齋武野紹鷗、隱遁後避武田氏、改稱武野、今其跡爲民家、〈○中略〉
古田織部正重能茶亭 今堀河三條南、藤堂和泉之第宅、元織部正重能之所住也、故茶亭幷露地猶存、〈○中略〉
利休松 始豐臣秀次公在聚樂城、時々赴鷹峯鳥銃使町而覽之、〈○中略〉于時千利休於鷹峯土手上南設茶亭、爲秀次公休憩之處、自點茶而之、倭俗謂堤曰土手、前山鷲峯頂植松、爲茶亭窓前之眺望、今猶存、土人稱利休松、〈○中略〉
金森法印茶亭 在同寺〈○大德寺〉中金龍院、豐臣秀吉公在伏見城、時金森法印設書院幷茶亭、屢饗秀吉公、爾後移書院幷茶亭於金龍院中、今現存、

〔雍州府志〕

〈九/古蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0553 乙訓郡 千利休茶亭 在山崎寶積寺麓妙喜菴之中、妙喜菴慧日山東福寺末院也、千利休構茶亭於斯菴、而時々來棲之、豐臣秀吉公亦屢有來臨、凡六尺三寸床敷疊一帖、其外有一疊、設爐於其處、是謂一帖臺、世人之設一帖臺也、必以此茶亭本而傚之、

〔茶道望月集〕

〈三十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0553 一世に所謂山崎妙喜庵の圍とは、則太閤秀吉公朝鮮御歸陣名護屋より御上洛之折、山崎邊に而御茶可召上候而、利休先達而罷登り、其用意可仕由の義上意、則今の妙喜庵 の座敷先に有る古松にたよりて、利休其時たづさへたる杖のさきにて、此圍の地割指圖をして大工へ申付て、出來して用たる座敷と云傳る事也、此座敷は則平三疊と云物也、其三疊の外に八寸五分の板を、相伴衆の居る次の座敷のかべぎわへ入て、クツロゲタル意味、旁奧ニ云が如し、猶委くは圖を以知べし、〈○圖略〉
一此座敷の趣向心得は、極貴人を奉請て、御正客御一人床前に御座をしめられて、御相伴二三人は、居敷を隔て次の間に着座し給ふて、扨茶を點るは正客の目前にて點るために、敷居の立付に小壁を付て、其隅へ向點本がまへの入爐に切たる物也、此炭櫃の角々を丸く塗廻したる心は、其刻は四方釜を被用たる故と云傳ふる也、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0554 一我〈○久保利世〉庭前七尺の堂の起は、東大寺大佛再建の聖俊乘上人の影堂を、中井大和守改かへられし、その古き堂とて面白きものなれば、去人に申請て、前栽の中に移つくろひて茶所に用たり、堂のうちわづかに方七尺、其内に床あり押入あり水屋有て、茶具を取入、床に花掛をして、押入床を持佛堂にかまへて、阿彌陀の木佛を安置し、客に茶湯出せどもせまき事なし、鴨長明は維摩の方丈を學て隱居リ、人に交らざるを樂しみ、只一筋にみだをねがへり、我堂は方丈にたらずといへど、餘多の人を入て茶湯せしなれば、淨名居士の獅子の坐には叶へりとそ思ふ、何ぞ長明を求んや、但彌陀の木佛は幸に俊乘の古堂なれば、似合しく思て安置すといへども、我更に彌陀を賴んとてはあらず、俊乗は法然の弟子たりといへば、上人の禮義をなせるのみなり、
江月和尚江戸にましませし時、此堂いとなみしまゝ、便につき御文奉りし次に此事をのべて、此阿みだへ狂歌に、
せまけれど相住するぞあみだ佛後の世たのみをくと思ふな、といひしを書付て送りし御返事に、やさしくも詩歌を以て答給へり、 觀音は同坐とこそは傳しに相住居するみだはめづらし
盡大三千七尺堂、堂中同坐佛無量、自由一箇自然樂、今作西方古道場
然に小遠江殿〈○小堀政一〉或時爰にましませしに此事を語、額一ツ書て給はり候へと申せば、打咲給ひ、さらばとて長闇堂三字を書付給へり、いかなる義にて有ぞと問申せば、昔の長明は物しりにして智明かに成故、明の文字叶べり、其方は物しらずくらふして、しかも方丈も好めるによりて、長の文字をとり、闇は其心なりと笑給へり、去程に七尺の堂をさして長闇堂と名付、長闇子を我表德號となせり、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 享保十二年三月十三日、參候、此程大德寺へ成ラセラレタル御噂マチ〳〵也、トカク今ノ世ノ宗旦流ト云フモノハ心得難シ、咋日芳春院へ御成ニテ御覽ナサルヽニ、又宗旦ハ各別ノモノ也、先兼テ一疊ダイメノ圍居ト御聞ナナレシ故、三人マデハイカヾト思召テ、左典厩一人ヲ召連ラレタリ、行テ御覽アレバ、三人マデハ樂ニ直ラルヽ、上手ナル立樣ナリトテ、御噂〈○近衞宗熙〉ノ趣ヲ左ニ記ス、〈タトヘバ書院ノ床ノウシロニテ、カタハイニ屋ヲヲロシテ、ケラバノカヨリ入ルヤウニヨシラヘタルモノナリ、〉
〈コレモ兼テ聞及シ、二ツギリ二疊ハツキクダシノモノニテ、ノキノ方ヨリ入ルヤウニ承ル、ソレハ珍シト申上グ、サレバトヨ、脇ノ方ニテノキヒキク、勝手口アキタルトキニ、ヒキヽ屋根ウラノミエテ、イトモ殊勝ナリト仰ラル、〉
十四年二月廿六日、大德寺龍光院へ渡御、〈旭峯、拙、○山科道安〉
待合 客殿ノ脇十二疊〈衣桁、硯箱料紙、東山時代、○中略〉 圍居〈四疊半ニ大目ノ疂ヲ入タル座席ナリ、書院ノ奧ナリ、客殿ノ待合ヨリ〓ヅタヒニ行ク、〉

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 道陳小座敷は西表にて有しを、さる人晝の客に西日が入て惡ク候はんといへば、陳朝ばかり茶湯すれば、西日のよしあし覺えずとこたふ、

〔明良洪範續篇〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 台德院樣〈○德川秀忠〉ニハ茶道ヲ御好ミ遊バサレ、小堀遠江守常ニ咫尺シ奉ル、此人ノ宗匠トシテ、何事ニ寄ラズ物數〈○數下恐脱寄〉抔尹格別ニテ、諸人ノ手本ト成事多シ、御城中御數寄屋 モ遠州ノ差圖ナリシ、寬永年中ニ、御居間ノ脇ニ御學間所ヲ建ラルベシ迚、遠江守ニ仰付ラレ、其造作出來シ上覽有所ニ、一向上意ニ叶ハズシテ、偏ニ茶屋圍ノ如クニシテ軒モ卑シ、天井ナゾモ物ズキ過テ、手ゼマニ犬樣ナ戸事無リシカバ、思召相違シテ、頓テ作リ替ラレ、御張付ナドモ、皆砂子ノ泥引也シヲ、墨繪ニテ四季耕作ノ形、菓菰ノ類ニ仰付ラレシト也、其所仰ニ依テ相應ノ物ズキ有ベキ事也、心得有ベシト其頃ノ人評セリシ、

〔獨語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0556 近き世に人の、もてあをぶ茶の道こそ、いと心得ぬことなれ、〈○中略〉かこひのつくりは、傳へ聞く維摩居士が方丈の室よりも今少しせばくして、小き窓をあけたるのみなれば、白晝にもくらく夏は甚あつし、客人の出入る口は狗竇の如くにて、くゞリはらばひしていれば、息こもりて冬もたへがたし、〈○中略〉又物ずきとて、家作より諸の調度に至るまで、常にかはりて珍らしくやさしきことをばすれども、茶人の家居は、必柱なども細く、障子の骨迄も風にたへぬばかりにほそくす、或はまろくゆがみたる柱を皮ながら用ひなどして、ものずきをかしと興ず、

〔茶窻閒話〕

〈上一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0556 むかしは茶會の席とて、別に定めてはなく、其席々々に見合せて爐を切て點じ、珠光の座敷などは六疊敷なりしとぞ、但し爐の切所は何疊にても三所あり、其傳に、あげて切と、さげて切と、道具疊のむかふの地、敷居へおしつけて切との三ツなり、しかるに武野紹鷗が四疊半の座敷を作りはじめて、爐を下中に切しより已來、四疊半構といふ事ありて、其後千利休三疊大目構の座敷を造り、初て爐を中に上て切しより、大目構の爐といひならはし、其頃より昔からいひ傳へし、あげて刧、さげて切といふ詞は据りはてゝ、今の世などは、むかしかゝる事ありしといふ事もしらぬ茶人多しとなん、

〔茶道八爐圖式〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0556 四疊半は維摩の方丈に象り、丈四方の度を以て、珠光紹鷗の比より興り、紹鷗利休に及で其法寢備り來、夫より休居士侘の一語を發明して、一疊半向爐を新製し、妙喜庵を隅爐 とし、不審庵を臺目とし、各左右を分別して八爐とはなれりけり、又代々の宗匠無量の數寄屋有といへども、此八爐の外に出る事あるべからず、能々分別する時は、自在是に過たるはなし、

〔翁草〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 賞代奇覽と題せるものに、あらゆる雜談有り、十が一爰に拾ふ、憙老の云、〈○中略〉珠光紹鷗迄は、皆臺子風爐の茶湯にして、爐と云事はなし、利休始て爐と云事を仕出せり、〈○中略〉丸き鐵のどうこを板に切入れしは、珠光紹鷗時代より有しよし、今爐の灰を隅をあげて丸き形にするは、鐵のどうこの丸き形を表するよし云説あり、其虚實は不知、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 一利休一疊屋に圍爐を初はすみ切にせしを、さびしきとて客の方へ入かへけれども、又客三人の下一人より亭主の後三人惡きとて中へ入かへて、扨先の一こまはいらぬ物とて切捨、一疊臺目と云なり、

〔三百箇條〕

〈下之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 一數奇屋は四疊はん、一疊はん、貳疊大、此座敷にて自餘のさし圖可分別事、
怡溪曰、〈○中略〉右三通の座敷圍爐裏の切樣、左勝手、右勝手は常體なれば不及記、其内大切目小切目とむかしよりいふは、一疊の先に切たるを大切目、大目の先に切たるを小切目といふ、畢竟一疊はんと一疊はん構と也、四疊はんと四疊はん構大目と大目構とのこと也、

〔茶道望月集〕

〈三十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 一此座敷〈○一疊半〉に爐を切る時、むかふて表の方に、切を出爐と云、又勝手の方、角に切たるを入爐と云、凡て本式は出爐なり、則一疊半切と云、又向ふ切とも云也、人によりて此切樣をツヽ切と云人有、惡しヽ、ツヽ切とは、奧に云處の分ン物也、

〔茶道望月集〕

〈三十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 一當時突切爐と云物は、前に云一疊半座敷の切樣をさして云と見へたり、古法の突切爐と云は左にあらず、たとへば長三疊敷の座敷ならば、勝手口より踏込疊を亭主疊として、其むかふ中の疊にむかふて、左の方の手先きに爐を切入タルを云也、然ればむかふて左の方の壁ぎわへ爐を付て切たる物也、是を突切と云也、尤一疊半の座敷にても、向ふへ突付て切た る物とは云ながら、是は勿論一疊半切、むかふ切などと云習はしたる事にて、向ふ點也、然れば突切と稱スル物は、右に云ごとく、むかふて左の手先きに切、又勝手によりて右の手先きに切たるを云と可知也、

〔類聚名物考〕

〈調度十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558
一尺四寸四方にして、内法九寸六分、緣の厚さ二寸四分、緣(ロフチ)木厚二寸、利久居士は一尺五寸四方、内法一尺と云、或説内法一尺、爐緣二寸、緣二寸、合せて一尺四寸と云、銅爐石爐有、千家にては爐緣木を黑塗にして菊桐の卷ゑをす、

〔喫茶指掌編〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558 紹鷗時代までは、爐の廣さ一尺五寸七分半四方也、紹鷗利休と談合して、一尺四寸四方と定しとなり、

〔和漢茶誌〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558 地爐
按、昔圍爐方一尺六寸、其席以長六尺五寸度、宗易、宗吸、宗及、嘗定於一尺四寸、其席亦長六尺三寸、至今爲好、爐緣栗木造之、古今或以桑心柿等之、其於堂傍茶房者用其質、或別構茶亭四席半、則必用漆製、又以金銀粉之者、適施院閣堂上、美則美矣、然侈麗奢靡、却妨風雅

〔茶之湯六宗匠傳記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558 小堀遠江守宗甫公自筆の寫
一總體爐緣にて壹尺四寸四方と云事、因緣有儀也、口傳、又爐の角を四所切事も古事有事也、口傳、切樣に丸みの付處、かどの立處、みな習事也、

〔茶道望月集〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558 一イロリの炭櫃の大サハ、土段へ右の一尺四寸のふちを入ての大キサと可知、扨土段ヲ見る分先は一寸也、或は中以下の釜は一寸分半にもする、又大釜の時は九分にもする也、又一向大釜の時は、土段を二三分も釜の丸みに合せて、四方にくりて仕掛る事も有、是を欠キ爐と云、先一寸の土段としては、イロリの内法九、寸五分四方と可知、扨土段と炭櫃のふちのふか さ五分也、しかれば右にいふ爐ぶちの高サにて五分引ケば、板敷と爐ぶちの天との高サ一寸七分也、是則よせ敷居の高サと同寸法也、然ば疊のあつさ一寸六分半に仕立る事よし、
一炭櫃の板の厚サ七分、手がかりのあつさ一寸、此高サ二寸三分、形は下すぼりにさし立る也、恰好は上と下と五分違ほど也、總高サは一尺四寸計、杉の上板にて仕立る事よし、扨爐の内ぬり立る心得は、上土段一寸ならば、下ほどクツロゲて廣くする事よし、同じはゞにすぐにぬれば、必下せまく見えて上より見分惡し、小手數を不入、ざんぐりとぬり立る事よし、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0559 爐緣附木地薄塗
香ぐるみ抔よし、折々洗へば木の杢されてよし、洗緣と云、冬は塗緣、春は木地緣抔云説あれども、侘には何も〳〵木地緣相應也、四疊半に成ては薄塗、又は眞の座敷ならば、眞の黑塗も可相應

〔茶道要錄〕

〈上/主法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0559 爐同緣之事
春ハ洗緣ヲ用ユ、陽氣堁ヲ擧ル故ニ見テ惡シ、故ニ用、客毎ニ洗ヒテ用ベシ、澤栗ノ目通ヲ以テ作ル、冬ハ塗緣ヲ用ユ、洗緣ノ古ビタルヲ搔合ニ漆塗テ用、是侘ナリ、又不侘人ハ眞塗ヲ用、是ハ檜木地也、徑リ一尺四寸四方、幅一寸一分、高サ二寸也、爐壇ハ一寸内ノ廣サ九寸六分也、末流ニハ爐壇九分ニスト也、鍑ヲ掛ル時、爐壇ヲ欠事アリ、末流ニハ欠目ノ不見ヤウニ欠也、角ヲ立テ欠タルト見ヤウニスベシ、下ノ止リモ如其スベシ、

〔貞要集〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0559 爐五德居樣之事附灰の仕樣之事
一爐緣古來は口切木地、春は塗緣と在之候、然れども世上押並て冬は塗緣、春は木地緣に成申候、かようの事は多分に付たるが能かと覺候、丹羽五郎左衞門長重公御自筆の御覺書に、十月四日古田織部口切に、釜霰、爐緣は木地、勢高の茶入袋なりと、御自筆御書付有之候、されども誤り來るを世上並に可致候、我計知たる樣にも不宜候、

〔茶傳集〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0560 一爐ぶち 塗下檜木、栗、シホシ、桑、黑柿、ケヤキ、櫻、松、杉、四疊半ゟハ冬眞ぬり、春木地、三疊以下侘座敷は夏冬木地も吉、塗緣ならば薄塗よし、高サ二寸一分半とも云、疊ゟ一分高ニ居ル、

〔三百箇條〕

〈上之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0560 一圍爐裏五とくすへ樣之事
口傳曰、一ツ爪の方少し廣くすべし、總別一ツ爪、ざしきによりておき所替るもの也、書付がたし、乍去大むかしのざしき、後床にて左右向あがりの有之ざしき、前に一ツ爪置候四疊はん、左に床の有ざしき、左へ出爪をする也、大身のざしきとては一ツ爪右也、一疊はんにては一ツ爪向におく、風爐の如くにする也、如此申候へば一ツ爪床へ付、あがりの方に二ツ爪をと申樣にて候得ども、亦一疊はん幷にふろにでは、向へ一ツ爪置候ゆへ、さのみ座へとも、あがりの方へ向とも難申、人々尋し時は、とかくざしきに寄候とこたへ可申候哉、

〔茶道望月集〕

〈十七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0560 一イロリフサグ心得嗜とは、爐中の灰を皆、捄上ゲて、能ふるいぬきて、霰灰みぢん灰は分ン〳〵にして、杉の桶か大壺かの類に入て、夫へ濃きあくをすゝぎて、夫にて灰心の能程に打しめして、土藏の下屋か、其床かの下の、しめり氣の有所に、ふたを能して取置事よし、扨來る開爐の刻、其灰を出し候時は、色能黃ばみて見事に成て有物也、其時霰灰を能打まじへて、冬中春かけて用る事よし、古流には霰の餘りこまか成は不好、一分四方、一分に二分計にても丸み有を好也、此霰灰は分ンに求るにあらず、則爐中のこげ灰を右の大キサニクダキ、あくにて能しめして、右に云如く半年中嗜み置時は、能霰灰何ほども出來する事も可知、風呂の灰も、當時は色白き字治のほいろ灰とて用る事なれども、夫に不及、古法は只爐の灰を隨分こまかなるすゐのふにてふるいぬきて、是を用る事と可知也、
一爐の五德は、此時揚ゲて能洗ひ、ふき切て風透の所に、又一向古き重寶の五德ならば、箱に納て置事也、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561
草庵の破風、又は玄關庇下にも掛、庵の名其外にても主の心持次第也、草庵の額見所多く景過たるは惡シ、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 小座鋪之部
額 小坐敷にては不審庵形を本とす、杉の木にて古溪和街の書也、彫て胡粉を入る、〈○圖略〉燒杉は元伯好、緣を殘して彫込の丸額は吽翁好み也、彫額又は打付書兩樣とも用ゆ、紙額は用ひず、

天井

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 小座鋪之部
天井 小坐敷は、網代(アジロ)、蒲(カマ)、長片(ノネ)、此三遖也、板天井は小坐しきに用ひず、嵯峨西芳寺に、居士〈○千利休〉このみの三疊敷の緣の上に土天井あり、光悦大虛庵は、八疊の内六疊は土天井なり、カケ込 上の板はワリノネ平打ノネ、横フキ板は宗全好み、いづれも竹タルキなり、スヽ竹幅八分の割をハサミに打は、江岑好なり、

〔和泉草〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 一天井昔板天井しま〳〵板、長へぎ板などにてかろくして、おしぶちは大形木竹にても仕候也、此板天井張付の六疊敷の時用事に候、何れ之座敷にも、板天井之時可此作法也、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 茶室
下座の方にある床を下座どこと云、床もなく壁に床の形ばかり有て、掛物花入をかけるを壁床といふ、〈○中略〉
床 上壇有て緣ある床は本式なり、緣なく上だんなきを蹈込床(ふみこみとこ)といふ、土にて塗廻したるを室床(むろとこ)といふ、洞(ほら)のごときを洞床と云、床の眞中を軸前(ぢくまへ)といふ、客の向の方を軸先(ぢくさき)といふ、上座客の居る方を軸脇(ぢくわき)といふ、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 床之部
利休形 二方天井まで塗廻し、妙喜庵の床是也、
板 カマチの入たるを板床といふ、利休形、
踏込 カマチなしに、座と板と一樣なるをいふ、少庵好、
土 ムロ床の通りにして、疊の所も土にて塗、其上を紙にて張也、左官土齋へ元伯好み遣す也、
洞(ホラ) 利休形は、臺目に小間中の洞也、 間口一間に間中の洞は原叟好、龕破(カンワリ)床といふ、
壁床 利休形也、席中の壁に懸物をかくるをいふ、

〔和泉草〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 一床のはゞ一間、深さ二尺九寸五分より貳尺三寸迄、はゞ四尺四寸、深さ二尺四寸、幅四尺六寸、深さ二尺四寸六分、はゞ四尺、深さ〈二尺四寸、三尺三寸、〉

〔茶窻閒話〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 紹鷗が四疊半は一間床なり、道安四尺三寸にちゞめし床を休師〈○千利休〉見て、是は一段よしとて、其後四疊半を建し時に、四尺三寸の床になせしより、今も多くはこれにしたがへりとなん、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 柱類
床柱 松杉檜椎は原叟好、浪華海部屋、三疊の席にはじめてこのむ、臺目床の柱に用ゆ、
但し花入釘、凡疊入坐より上へ高〈サ〉三尺六寸五分、板床なれば二寸七分か三寸程上〈ル〉なり、尤柱釘は向壁よりは一二寸高きがよし、
中柱 松の皮付、樒〈大工方にてはコブシといふ〉いにしへは直木を用ゆ、近來原叟時代よリユガミ柱を用ゆ、
塗出〈シ〉柱〈俗にヤウジ柱と云、杉丸太、〉元伯好、又隱の隅にあり、いづれの席に用ゆるとも、又隱の寸法を用ゆ、又隱は座より天井まで高〈サ〉六尺五寸の寸法にて、一尺一寸下りて花釘を〈俗に柳釘といふ也〉打也、其割にて天井の高下にかまはず、床下より五尺四寸に打べし、 捨柱 軒の至て深くして、桁を用ゆるに端のおさまりのなき所にて立る柱也、杉丸太、栗のナグリ、
間柱 塗殘し窓の外ヅラへ添る竹也、窓の大小にかまはず、柱間の真に打ゆへ間柱といふ、元來壁の助〈ケ〉なり、竹は白竹にて先四寸廻り、但し間柱ある時は、簾かけ釘寸法少し長し、

〔茶譜〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 一利休流、二疊半ノ火爐裏脇ニ立ル柱ヲ中柱ト云、
右宗旦曰、中柱ト云能名ノ有ニ、當代之ヲ曲桂ト云、賤言葉ナリト云々、
右此柱不曲ハ如何可云、之モ大工ノ云初シヲ、今又不之シテ人毎ニ云シ誤ナリ、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 享保十三年九月廿一日、夜參候、〈○中略〉世間一統ニ、圍居トサヘイヘバ、必ズユガミ柱ヲ立ルコト如何ナル譯ニヤ、定メテ田舍山居ノ、アルニマカセタル風流洒落ナラント存ズ、ソレ故〈拙○山科道安〉此度ノ圍居ニ、ユガミ柱ヲ忌ミテ直ナル柱ヲ建タリ、而シテ後ツク〴〵詠メテ初テ感ズ、昔人ノ仕置タルコトノ、後世用テ不止ハ、ヨク〳〵譯アリテノコト也、壁トマリノ木〈世間流ハ、大方一尺三寸バカリ、宗和ノ形カ、准后(近鵆家煕)ノ御圍居ハ一尺九寸三分、〉ヨリ上、正直ニ細クシテ壁土ヲ見ルコト多ク、下ガ明タレバ、何トヤラン上ガアキタルヤウニテスマヌモノ也、ユガミガ入レバ、壁止リノ上ガ壁土格別ニ細ク、上ニテハ又ヒラキテ、色々ニ廣狹ガアル故ニ、正直ニモナシ、細長ニモ見エヌ故ニテハアルマジキヤト申シ上グ、如何樣ニモ左アルベシ、ソレモ直ナルヲ仕テ見テ覺ヘタル實見也ト仰〈○近衞家熙〉ラル、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 茶室
客の居疊を客疊といふ、道具をなをし置疊を道具疊と云、〈○中略〉大目疊と云は、長さ四尺七寸五步なり、又大(だい)ともいふ、半(はん)ともいふ、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 小座鋪之部
疊 六尺三寸にかぎる、京間は厚〈サ〉一寸七分也、大坂は一寸八分六尺五寸疊は、〈二寸二分なり〉

〔茶傳集〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 一疊のへりは、書院廣座敷ゟ二疊一疊半の侘小座敷ニ至ル迄、一寸ベリ定法也、

〔貞要集〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 疊敷樣の事
一疊にさし表さし裏有、床疊は床緣にさし表成申候樣に敷申候、道具疊大目ぬめ敷居の際は、水指置合るに疊の目數に合る也、疊緣曲り柱ぬめ敷居際まで、一分二分幅狹く成ても、丸目を見申候樣に疊屋へ好可申候、疊の緣半目に懸らぬやうに致候、總て床前は床形に丸一疊を見申候樣に敷申候、四疊半敷樣は、床疊、客疊、蹈込疊、道具疊、爐疊は半疊に切申候、然共床の付樣によりて、半疊を勝手口に敷、丸一疊に爐切申事あり、それは床前丸疊を見申候樣に敷申故也、風爐にはいつとても半疊を勝手口に敷申事也、又四疊半の疊敷樣、疊の藺筋、客疊と道具疊の緣へ眞直に通り候樣に、爐如法切也、爐際の疊は、緣道具疊の向の緣ち際に付也、藺筋客疊道具疊と見通す也、疊緣は幅七分也、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 享保十一年正月十一日、參候、常修院殿〈常修院殿、梶非宮慈胤二品親王、○中略〉常ニ御物語ニ、疊ニ本末ト云コトアリ、多ハ人ノ知ラヌモノ也、本末ヲ吟味シテ敷タルタヽミハ少ナキ者也、氣ヲ付テミルベシト仰〈○近衞家熙〉ラレシガ、眞ニナキモノ也、疊ノヌヒ出シノ方ヲ本トス、目モロクニシテ、ネジレモナシ、ヌヒサキハ何トシテモ目モ半ニカヽリ、ネジレアル故ニ、爐ノキハ本ノ方ヲ敷カネバ、ジダラクナルモノ也ト仰ラル、 十四日、參候、疊ニ本末ト云コトアリト仰ラレシヲ再ビ窺フ、仰ニ、ヌヒ出シノ所ハ、キハモ正ク、目通リモ正シ、是ヲ本トス、ソレナリニ推出シテイデ、向ノ方ハナリ次第ニヘリヲツクル故ニ、目通リモナニトシテモ正シカラズ、ネジレモアルモノ也ト仰ラル、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 茶室
風爐の先にある窓を風爐(ふろ)先窓(さきまど)と云、〈○中略〉
突上窓(つきあげまど) てんまどなり、尺八竹とて七寸二三分なり、又鴫のはしとて木にても作、竹は長きはふ し一ツあり、よきほどにあくる、又外の窓には、天氣によりてすだれをかける、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 小座鋪之部
窓 紹鷗好の四疊半の張壁を塗壁にして、ヌリ殘しの窓を明る事、居士〈○千利休〉より始るなり、
定家卿の歌に 大壁に窓ぬりのこす庵までもすさめずてらす秋の夜のつき
連子 突揚窓 北向道陳の好とも、居士のこのみともいふ也、おもやの雪を見るために、道陳つき上〈ゲ〉窓をこのむともいへり、窓上〈ゲ〉の木は、萱ブキに用ゆ、長短とも杉の角、外〈ニ〉吽翁好のみじかき木あり、風雨つよき節に用ゆ、竹は長短ともタヽキ屋根に用ゆ、目を前にしてさかさまにして用ゆ、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 窓附塗殘名アル窓
住居によりて色々有、風爐先に塗さしを明しは休〈○千利休〉の物好也、田舍にて誠の塗さしを見て數奇屋に用られしと也、和泉河内邊は、壁下地よし多き所故、大方竹なしに、よしにて總つりをかく也、かつらの掛やう、間渡しの平竹〈一本角〉入樣など、能々了簡すべし、口傳あり、連枝窓もあり、臺目疊の内、左に地敷居に付てはき出し窓もあり、床の内の窓は古織〈○古田織部正〉好也、夫故織部窓といふ、見越窓も古織なり、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 小座敷に衝上を明〈ケ〉たるは道陳、床を四尺三寸に縮たるは、道安にてありしが、休〈○千利休〉もよしとおもひけるにや、その通りにしつる也、〈○中略〉また休が衝上の障子をかけはづしにして、不自由なるを、さる人見て、上に溝をほりて、ひきあけ給へといへば、いやさやうに操ること、われは好ずといふ、

〔三百箇條〕

〈中之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 つきあげ是亦昔はなし
口傳曰、大和大納言殿〈○豐臣秀長〉郡山城中の數奇屋に御成のために被立候、大木の松の木の下にた てたる數奇屋にて、松を下より見る處能として、座敷の内より是を見度よしおほせられ候に付、引窓にして戸を引、利休あけられ候、此窓むかしは大和窓と申候よし、左近物がたりに被仕候、其後こまいを切、杖にて突揚候よし之事、

〔茶傳集〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 一突上ゲ、其町屋〈○堺〉にて明り取べき樣なく、屋根を切拔、明りを取たるを見て、夫ゟ利休廣サ恰好を極て、數奇屋ニ仕候由被仰候、

腰張

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 反古張附腰張高下
古もありたる事也、誠の反古を用べし、裏書等ゟ多くては惡し、墨跡目移り等能々心得有べし、腰張高下、二疊敷抔は一段と高く張たるに利あり、妙喜庵茶室の腰張抔高し、

〔茶傳集〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 一腰張の事、湊紙ふつくり、其長にて張も吉、但三丈ケ合テ三尺三寸四分也、狹キ座敷は腰張高キが能也、中敷居など有所にては、切合て二丈ケにも半にもする也、長く紙を繼て一方ゟ張て吉、無左候へば繼目一所に依て、前後同廣サニ成て惡シ、紙の繼目二分計也、
一四疊半の座敷は、みの紙一枚丈ケ、又一枚半にもはる也、繼目右同じと申候、

戸/簾/障子/襖

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 小座鋪之部
戸 夜咄は皆戸を入るゝ、見付のクヾリの上窓ばかり障子なり、客に入る處を知らすため也、障子 昔は下ざまの障子は竹を骨にせし故、小座敷に荏て竹骨を用ゆ、
竹障子の骨は、横は皮付を上へ、竪は一本ならば皮を見付、三本は中の皮を見付、左右の二本は向ひ合せ、二本とも向ふへ合す、尤竹障子は小障子に限る、木にて作るは貴人方なり、〈○中略〉簾 小坐しきは皮付の葭、廣間は皮ムキの葭、白竹は勿論、伊豫竹にてもよし、
襖 いにしへは出合なし、千家は黑塗緣にかぎる、唐紙形は桐、白張の袋ばりは引違ひに限る、靑士佐の袋張四枚は、江岑好の三疊に用ゆ、原叟好也、 引手 玉子は利休形、桐は原叟好、木瓜菊大德寺形也、いづれも煮黑み大小あり、竹にて節の所を用るは如心齋好、茶革樂燒原叟好、但し茶革靑土佐は袋張に用ゆ、

〔茶傳集〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 一窓れんじの簾夫々の廣サに切合、端しを揃へ、靑糸にてあみて懸被申と見へたり、乗物すだれの樣にかたく見へて惡シ、古歌に有伊豫簾よし、侘は須摩簾も懸申也、

〔和泉草〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 座鋪ニ簾掛ル事
一座鋪ニ簾掛る事、夏ハ掛テ吉、自然ニ水ニテヌラシテモ用ル、冬ハ簾不好、乍去座鋪ノアカリヲ作ル時ハ、冬モ用ベシ、口傳、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 享保十一年二月廿八日、待合ニテノ御咄ニ、〈○近衞家熙、中略、〉鹿圍(カコイ)ニ、フスマノモヂリタルハ、ドチガアクヤラ、シレヌモノニテ、客ノ心遣スルモノ也、トカクニ上ニナリタル方ハ、アカヌ筈也ト心得ベシト仰ラル、

潜口

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 茶室
潜口(くゞりぐち) にじり上りともいふ、茶室へ入口なり、大〈サ〉まどのごとし、軒に喚鐘、奴鑼、木魚、客板等、あい圖の道具を釣たるもあり、

〔茶譜〕

〈十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 一利休流ニ、小座敷へ入口ヲクヾリト云、
右宗旦曰、クヾリト云能名ノ有之ニ、當代之ヲ蹃(ニジリ)アガリト云、賤言葉ト云々、
右蹃上ト云コト、古田織部時代ニ大工ノ云初シヲ、其以後之ヲ云觸テ、歷々ノ仁モ蹃上ト云誤也、

〔橘庵漫筆〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 茶室の潜口をにじり上りと云、貴賤長幼の分なく此處より出入す、全穴居の制にもとづくもの歟、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 蹸上り 二疊敷三疊四疊半にもあり、休居士〈○千利休〉二疊敷の時の作也、

〔和泉草〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 一座敷潜り高さ二尺二寸五分、はゞ一尺九寸五分、方立の厚九分、はゞ一寸九分半、たてこみ九分四方、敷居鴨居ははさみ也、同はゞ、〈一寸七分、一寸七分半、〉同厚〈七分、七分半、〉

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 小座鋪之部
クヾリ口 至て大なるは妙喜庵にあり、牧方の漁人の家の小き戸口より出入するを見て、居士〈○千利休〉始て好む、

通口/勝手口

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 茶室
亭主出入する口を勝手口と云、又茶立口(ちやたてぐち)とも云、上の方をまるくぬりたる口を瓦燈(ぐばとう)口と云、又通口(かよひぐち)ともいふ、〈○中略〉大目切向板にて中柱のあるに、横手の壁にをとしがきある口をかぢや口と云、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 小座鋪之部
勝手口 ホタテ口と火燈口は勝手口に限る、〓火燈口スリマハシは、勝手口と通ひ口と兩樣なり、席によりて釣襖(ツリフスマ)もあり、古風には引違ひ襖にて、勝手口と通ひ口と兼用するもあり、堺鹽穴寺利休好の二疊臺目あり、引違〈ヒ〉なり、デグチつけられぬ席ゆへ也、
通口 ヌリマハシに限る、茶の湯の節、菓子煙草盆通ひ口より出す、通口の濫觴は、臺目切にては、點茶の節、貴人の前へ行て急なる用向など、勝手口より申上難きゆへ、利休勝手口の外に通ひ口を明る也、夫故に是を禿(カブロ)口といふ也、禿ロの出入する爲といふ意なり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 火竇口附櫛形甕頭
草庵たは緣なし、塗廻しよし、火責は火燈の器なり、其形に似たる故火とう口といへり、櫛形甕形、夫々におふする名也、

〔茶傳集〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0568 一境の町人に侘數寄有、俄に利休に茶の湯仕事有て、勝手口の壁を切拔、其口を紙に て張て一會仕候を、利休面白く存、其後形恰好ヲ好ミ、櫛形ト名を付、數奇屋の勝手口に仕候由仰〈○細川三齋〉也、

〔茶道要錄〕

〈上/主法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 座席之段々同床之事
一通口之事、鴨居下三尺六寸、横二尺五分也、勝手口ト同寸也、必ズ瓦燈口ニスル也、

〔茶傳集〕

〈十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 圍座鋪之事
一通口巾一尺九寸、又二尺五分にも、高サ鴨居の内法三尺八寸八分、内八分は額ノ土付申分、櫛形ゟ肩をいからかし、左右は鴨居の下はゟ七寸下り也、
一勝手口に傍立口と云は、鴨居の見付九分、傍立も九分にして、鵬居は傍立にいたゞかせ、鴨居の鼻の出端は九分、高サ巾櫛形の寸法也、

釣棚

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 釣棚之蔀
一重 利休形也、桐にて竹の釣木、向切に中柱あるは客付、中柱なきは勝手、但し杉もあり、中柱ある席には杉は不用、利休形の臺目にて中柱なきは、勝手の方へ杉の一重棚を釣る、尤少し寸廣し、二重 利休形、むかしは吹貫より上にてとまる、不審庵三疊臺目吹貫より下にて釣る、天井よりは釣竹也、棚より棚はかしの釣木也、
釘箱棚 仙叟好、杉にて左勝手に好、當時は右勝手にも用ゆ、裏流則五疊敷にあり、今は表にも啐啄齋よりはじめて用ゆ、
利休堂 仙叟好杉、當時蛤棚といふ、釣木竹也、〈○圖略〉
炮烙棚 元伯好杉、又隱の勝手に用ゆ、是濫觴也、
料紙棚 了々齋好杉、床脇に用ゆ、釣木竹也、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0569 釣棚附小棚中棚通り棚集雲庵棚 小棚又挑(クヽリ)棚共いへり、柱ありの臺目に釣、五かねの二つにて九寸八分也ばしばみと横木もたれと合て壹尺六步也、幅九寸、又は八寸八分に釣、秘事口傳、此棚の上は一圓に陽也、中棚一尺三寸七分、幅一尺也、疊の上のかねを通して用、陽二陰三ツ也、右小棚中棚とも、小柱ありの臺目に釣棚なり、通棚九寸一面なり、
集雲庵棚、左の壁付に釣、一尺貳寸三分也、疊の緣ゟ塵共に壹寸貳分、合て一尺三寸五分也、挑棚とかね同心持也、壁付よりかねをとれば違也、幅九寸三分、柱ありの臺目につればかね相違する事あり、能々了簡すべし、二重棚は古織〈○古田織部正〉好にて休〈○千利休〉の時代にはなし、雲雀棚共云、かね心得がたし、

〔三百箇條〕

〈上之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 一棚之事、むかしは同樣なる棚を三重、釣候、夫を利休二重になし、古織〈○古田織部正〉より上を違えられ候なり、

〔和泉草〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 葭棚
一座敷ノ棚、古ハ同棚ヲ三重ニ釣シ也、中興二重ニ成、又一重ニ成也、
一上ノ棚ヲ大ニシテ、下ノ棚如常小ニシタルハ、古田織部之作也、
一桑ノ木地四本足水指棚、桑山左近作也、二本ノ柱ニシテ、ヒレヲ付タルモ有、
一上ノ棚大目間半ヲ通シ、下ニ常ノ棚一重釣ル、片桐石見守作也、
一竹ノ水指棚、袋棚ノ天井ノナキモノ也、前ニ同作也、

道幸

〔書言字考節用集〕

〈一/乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 道幸棚(タウカウダナ)〈茶室所言、蓋道幸者、泉南人嗜茶、老後便起居之座右、以貯茶器故名、或云、道幸業傀儡用者、則其匣而已、〉

〔茶道望月集〕

〈三十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0570 一右道幸を見立初めたる事は、手グツ人形をツカイ初タル者を道幸の坊といふ也、箱をせおふて旅行自由する樣に拵、夫に色々人形を入てツカイ步行せし、其箱より見立初し事と也、其人の名を取て、今以道幸と云と也、今も西の宮より出て、手グツ坊まはしとて、其餘 風有也、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 釣棚之部
道幸 利休形杉、後に開戸あり、杓釘袋懸〈ケ〉釘あり、吽翁よう袋釘をとる、極老は後の開より水さしへ水を加ふ、板敷にも置き、疊の上にも置なり、
飾道幸は疊スレあり、手前は臺目ハコビ手前の通り、吉野杉なり、
水屋道幸 元伯好、今日庵に用ゆ、竹簀一重棚なり、後打拔、常は戸を入る、夏は戸をはづし簾を懸る、夜分は桐の懸燈臺を用ゆ、極老は水遣兼用にもなす、釣木向は杉の木、前は竹なり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 洞庫三樣
休〈○千利休〉の洞庫横三尺にして前一枚、襖内の棚一段也、うしろにば小障子有、茶具等さし入る樣にしたる也、又一樣は、下段を竹すのこにして、水桶のちいさきを置、こぼしなしに手前ははたらかれたる事も有しと也、二段棚をつりしに他流也、一樣は、横三尺、入壹尺四寸にして板を張、かねにても、又は土やきにても、丸くして落しいれ釜を掛る、上は小襖を立て茶具を入る也、又下にも小棚一重釣もよし、板の上に水指を置也、勝手に如此する事也、客席の茶所にてはなし、

〔和泉草〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 道幸
一道幸ハ中興出來タル也、座鋪へ切々出入セマジキ爲也、老人用テ吉、置合朝晝ノ替有、朝ハ茶ニ遠キ物、晝ハ茶ニ近キ物置合也、茶立ル時、道幸ノ障子ヲ明、諸具所々〈ニ〉置合茶ヲ立ル也、水指ノ水用ル時、水指ヲ少シ前〈江〉引出ス物也、仕廻ノ時道具ソコ〳〵〈ヘ〉直シ、水覆持勝手〈ヘ〉入、水次持出、水指ニ水ヲ次、初餝タル所〈ヘ〉入置也、道幸ノ置合ハ物置ニテ候間、客見ヌガ吉ト云人モ有、見テ吉ト云人モ有、マチ〳〵也、道幸の置合見ル事ハ、袋棚ノ置合見ルニ同前吉ト定タリ、

水屋

〔倭訓栞〕

〈中編二十五/美〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0571 みづや 神社茶寮にいへり、水屋の義、沃盥の處なり、水屋桶あり、

〔茶道早合點〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 水屋(みづや)
茶室の臺所はしり元なり、道具常に入置、茶室の勝手にあり、置水屋(おきみづや)とて持直す水屋あり、水遣りともいふ、

〔茶式花月集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 一數奇屋之事〈附水屋〉
一水遣飾
小棚ノ上ニ片口、同下ノ棚ニ灰ホウロク、大棚上ニ炭斗、同眞中ニ茶通箱、内ニ茶入(セマキ水ヤハ)箱ノ上ニ帛、右脇ニ薄茶器、茶杓、同下ノ棚ニ茶碗、柄杓、蓋置也、下ニ水鉢、カイケ、水コシ、茶巾洗ニ茶筌、茶巾、水ヲ入置也、水指、花入釘ニ、釜、布巾、雜巾、手拭也、
同一間ノ内ニ炭切溜、花切溜、半多底取、長火箸置、右之通無相違、一ツモ法ヲタヾシク飾事ナリ、不用ノ品々ハ不置、

屛風

〔茶道早合點〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 風爐先屛風
兩面二枚屛風なり、長さ二尺ばかり、はゞいろ〳〵有、紙張又はあじろ等有、流義によりて品多し、

〔茶道筌蹄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0572 集雜
風爐先屛風 利休形、白張黑塗緣、鳥の子紙、爐風呂とも通用、 同金張付 利休形の通りにて、金箔を置きたるは如心齋好、又仙鶴舟引の畫あるも如心齋好なり、 同長片(ヘギ) 仙叟好、白竹押へ杉緣、利休形より一寸低し、 同桑捻梅 如心齋好なり 同葭 如心齋好なり 同亂桐 了々齋好なり 同網代腰 了々齋好なり 六枚屛風 利休形、白張黑塗緣、金砂子あるは了々齋好なり、 同葭 寸法利休形の通りにて、葭は原叟好、 勝手二枚屛風 利休形、白張黑ヌリ緣、 同葭 利休形なり 同網代 如心齋好なり 屛風挾鴛鴦 唐金樂燒とも覺々齋好

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 屛風
勝手口にたつる、究りたることはなし、休公〈○千利休〉の網代屛風は、木地骨のさびたるにて有しと也、百舌野の茶亭勝手の方に立られしとかや、堂上方の網代屛風は塗骨にて結構也、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 享保十三年五月三日、風爐先ノ小屛風ハ、必ズ立ルコトニハアラズ、壁モナク兩方トモニ、フスマナドノ處ニハ、小屛風ナケレバシマラヌモノ也、又風爐ヲ前へ引出シテ餝レバ、尚以テ入ラヌ也、眞ノ風爐ヲ眞中ニカザリテハ、屛風ヲ立ルコトアリ、是ハ又格別ナリ、

燈燭具

〔茶道筌蹄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0573 燈燭器
短檠 矢筈穴 兩樣とも利休形、矢筈は居士〈○千利休〉の内室宗恩の好なりとぞ、二疊臺目已上に用ゆ、尤臺目切に四疊半切なり、樂の油盞火皿長燈心は短檠に限る、
竹檠 利休形、地板杉、樂燒油盞、二疊臺目已上に用ゆ、
仙叟好は切明の所長し、外は利休形の通りなり、〈○中略〉
木燈臺 利休形、蜘手桐、柱檜木、臺は松二枚、土器、但し油盞用ひてもくるしからず、
菊燈臺 宗全好、蜘手桐、柱檜、坐は樂燒にて黃グスリ菊の形なり、
同原叟好 坐アメ藥、宗全好より高く、菊の數少し、尤金入なり、
結燈臺 加茂神前にあるを如心齋かり用ゆ、但し一寸巾の美濃紙をコヨリにして上より三寸五分下にて五卷マムスビ、二本は前、此間へ火皿をさし込み、油盞も上よりさし込む、木は何にても皮付を用ゆ、但し四疊半迄用ゆ、
坐敷行燈 利休形、杉の木地、竹の手、火皿の上へ竹の輪を置き油盞を置く、曉の茶の湯には、かならず此行燈を用ゆ、〈○中略〉
半月行燈 如心齋好、大小あり、大は八疊、小は六疊、席の廣狹によりて、此二品をはからひ用ゆ、 竹行燈 啐啄齋好、大臺ト手松のスリ漆、千家にてはすべて紙のあるは燈心三すじ、
懸燈臺 元伯好、竹油盞を用ゆ、
同桐 利休形、二枚土器、水遣の場に用ゆ、
手燭 利休形、銅眞黑塗、
小燈(トモシ) 靑磁 瀨戸 樂燒〈啐啄齋好、香爐クスリ、〉小坐敷席中は小燈を用ひ、廣間と庭中は手燭を用ゆ、
金入小燈 了々齋好、善五郎作、
菊燭臺 原叟好、柱ケヤキ、蜘手桐、菊タンハン金入、
同小道具
油盞 短檠、露地、何れも利休形、
土器 行燈、水遣懸燈臺、何れも利休形、燈籠は了々齋好、
火皿 短檠利休形、行燈啐啄齋好、香爐藥カキ色にて、四ツ目垣の摸樣、
搔立(カキタブ) 黑モジは席中、杉は庭中に用ゆ、何れも利休形、
油次 利休形、黑塗なり、

〔茶道要錄〕

〈上/主法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0574 座席之段々同床事
一燈器之事、中柱ナキ座席ニハ挂燈械(カケトウガイ)ヲ用テモ吉、是〓(サビ)タルノ爲體也、此時燈下ノ壁ニ付テ下皿ヲ置、鎩(ソギ)楊枝ヲ一本置、是燈㮇(カキタナキ)也、木燈臺ハ大小二ツ有、小ハ一疊半ヨリ二疊迄ニ用、大ハ二疊半ヨリ三疊迄ニ用、三疊半ヨリ四疊半ニハ短檠ヲ用、各燈㮇ヲ下皿ノ内ニ手形ニ横ニ置也、短檠ノ下皿ハ、紙ヲ二枚重四半ニ折テ敷載置、燈心ハ何レモ七筋入ル、長シテ末ヲ結テ置也、燈械、燈臺、短檠、行燈共ニ悉ク寸法アリ、燈盞、下皿ニモ各形アリ、座ノ大小ニ不寄、必ズ朝ハ行燈ヲ用、燈心五筋入ル、燈盞ニハ常ノ土器ヲ一枚下ニ重ネ、下皿ノ上ニ竹ノ輪高サ八分ニ伐テ置、其上ニ土器共ニ載 テ、燈㮇ヲ火口下ニ手形ニ横ニ置也、總ジテ燈器類ハ何レニテモ、燈盞ニハ常ノ土器ヲ一枚下ニ重テ可置、方燈ノ取手、竹ニテ節一ツ有、其竹ノ本ヲ我方へ置也、必ズ是ヲ朝用ル事ハ、寢起ナル故アカリ過タルヲ嫌フ故也、都テ燈器ノ置所ニ定リ有ト末派ニ云リ、一切サニアラズ、第一床ノ内、次ニ茶堂前ノ置合能見ヤウニ置事肝要ナリ、蠟燭ハ炭ヲ置時ト、茶ヲ點ル時バカリ用吉、置所座ノ勝手ニ因テ各替リ有、口傳、蠟燭ノ炬シ掛ヲ用ユ、是ハ蠟燭ノ多ク立タルヲ客ニ知セズシテ、夜ヲ咄シ明サン爲也、少細キヲ用ユ、油煙ヲ厭ガ爲也、

露地

〔書言字考節用集〕

〈一/乾坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 廬地(ロヂ)〈又作露地

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 本來白露地之號
露地は草菴寂莫の境をすべたる名なり、法華譬諭品に、長者の諸子三界の火宅を出て露地に坐すると説き、又露地の白きと云ひ、白露地共いへり、一身淸淨の無一物底也、いにしへより在家の庭を露地といふ事なし、庭外面砌りなどいへり、寺院には露地の號あり、點條の一境を、かの白露地にもとづきて名付、是利休居士世間の塵勞垢染を離れ、淸淨の心地と表したる本意なり、かの書院臺子結構の式よりかねをやつし、露地の一境を開き、一宇の草菴に點茶して、世間の塵境を囲し導かんと也、露地淸淨の外相は、樹石天然の一境也、休の詠に、
露地は唯浮世の外の道なるに心の塵をなぞちらすらん

〔羅山文集〕

〈五十六/雜著〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 肩衝
夫嗜茶之侈、起乎窮口腹之欲、吾今觀之、營一屋之制、一木一竹一壁一戸一窓之繁多碎瑣、必求其奇異者、然後衆工費巧、繞屋植花木、其通路布石而踏之、旦夕洒掃、桔槹無俯仰之暇、奴僮手不帚箕、所謂鹵路也、擇異石之高且長而斫之、穿其上以貯水而立諸檐下、所謂洗手石也、〈○下略〉

〔茶道獨言〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0575 露地といふことは、能阿彌珠光の二流より出たるにあらず、また陸羽七碗などの茶味 より出るにもあらず、專ら休〈○千利休〉の開闢にて、人我の相をうち破て風雅をなせり、其後古織〈○古田織部正〉小遠州〈○小堀政一〉など、聞へし時の宗匠たりといへ共、休の心入と少しく違び有て、草庵露地に事よせ、猛きを柔らげ、交りの道を本意とし、又人々の才を試みなどせんのため、大命を蒙りて宗匠たり、小兒の及ぶ所にあらず、然りといへ共、またかく用ひ給ひしほどの人々故、休の露地などのこと心入もありながら、時の命に違ふを憚り、むなしく過給ふこと押て知べし、しかし休の露地とても、ふしぎの法を出したるにあらず、本書院臺子の規矩より出て、かへつて規矩を忘れ、自ら一風をなせり、

〔和泉草〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 路地
一古來ハ路地ナシニ、表ニ潜ヲ切開キ、座敷〈ヘ〉直ニ入タル也、侘テ面白シト也、

〔貞要集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 三重路次之事附堂腰掛之事
一待合、堂腰掛、中腰懸有之候路地を、三重路地といふ也、是を本式の路次とて、古來より有來る也、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 廬路の圖〈○圖略〉
中くゞりの内を内廬路(うちろぢ)と云、中くゞりの外を外廬路(そとろぢ)と云、内にも外にも腰かけあり、略するときは内ばかりなり、

〔三百箇條〕

〈中之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0576 外露地むかしは無之事
口傳曰、むかしなしと申は、數奇者の仕たる物とてはなく候、數奇にいらぬもの也、乍去勝手よきものとて、利休も輕き腰掛を後に被致候よし申事也、
怡溪曰、外うじ待合は、侘の意味にあらず、手重きゆへか、むかしは無之、夫ゆえ客の遲速に構なく、來儀次第、直に圍へ請じ入、晝の茶湯には、先うす茶など出すことも有之候よし、宿りは台德相公〈○德川秀忠〉就御成、金森古雲可重公初ていたさる、其已後近代は大方外うじ有之、貴人御出之 時は、外ろじの入口の外迄迎に出、常の客には入口の戸少し明掛おく、其時は客案内におよばず明て待合迄入る、客揃ふとき、亭主中潜迄迎に出る、外ろじ内ろじの仕樣廣狹、諸事習多し、其内、外ろじは何之樣子も無之、狹く陰氣にいたし、中潜を明け内ろじを見込とき、景氣改り氣轉る心持肝要、然るゆへ内外不似樣にするものゝよし、委細は口傳、但待合といふ事は無之ゆへ、入口の外に輕き腰掛計するは、むかしより自然に有之由云つたふ、

〔翁草〕

〈三十八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 一或人數寄屋庭の物好を利休に尋しに、古詩一句にて答ふ、靑苔日厚自無塵、又遠州へ尋しに、朧月海すこしある木間哉と答られ、又宗旦に問ば、心とめて見ればこそあれ秋の山ちかやにまじる花の色々、物好は心々に替る事斯なん、利休は幽玄に奇麗也、遠州は閑靜に物さび、宗旦は侘體餘りて、細かに心付しとふるき書捨に在、

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 一利休流路地ハ、在郷ノ側ニ、古森ノ陰ニ、隱遁者ノ菴室ヲ仕テ居ルト見ルヤウニ藪ヲ植、細イ道ヲツケテ、竹ノシホリ戸、或ハ猿戸ヲ立、侘テ靜カナ體ナリ、石頭爐、幷手水鉢、苔ツキ殊勝成體ナリ、飛石モムナク無之ヤウニシテ、キラ〳〵磨コトハ無之、植木ノ下ハ篠芝ノ其間々ハ木ノ葉ヲ蒔、木ノ葉ハ柏椋ノ葉松葉、加樣ノ類取集テ蒔、山出シノ木葉ニ塵ノナイヤウニシテ蒔、其森ノ大木ノ木葉風ニ散テ、土モ不見ト云ゴトシ、道筋バカリ掃ノケテ和ニ見ヘシ、

〔茶傳集〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0577 一露地取樣の事、元來露地は天然のあり樣なれば、其所の次第によるゆへ云がたし、書付にも仕がたく、露地にて庵主の心中知るゝともいふ也、先道の付樣、水打口、勝手の方へ行やう道を付、數奇屋へは立寄樣にしてこそ、露地物深くのこる心ありて、一段と意味淺からず候、數奇屋へ直に道を付、とまりたる所にスキヤありては、露地淺く詰りて惡し、されど其とり樣なりがたき、狹く詰たる地もあるもの也、ひたすらにも云がたし、只鍛錬の所にあり、狹くて廣くも見へ、廣くてせばくも見ゆるもの也、能々勘辨あるべしとの仰〈○細川三齋〉也、

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0578 一古田織部ハ千宗易弟子也、依之宗易流ニモ近シ、然ドモ其比宗易流ハ侘過タヤウニ云テ、只奇麗成ヤウトバカリ心得、茶湯ノ仕樣、幷諸具共ニ堅シ、和ナルコトヲ不知、路地ノ體、深山ノゴトシ、大路地也、樹木ハ大松、大樅、木穀、加樣ノ類ヲ深植込、其奧ニ茅屋有ヤウニシテ、成ホド靜ニ人音遠體也、外腰掛内腰掛有、外腰掛ニ堂葺ト云テ、四方棟ノ瓦葺有、六疊敷也、此所ハ相客來テ待合、又ハ裝束改所也、飛石幷タヽミ石ヲ付テ、其外ハ黑キ河原ノ栗石ヲ蒔、屋根下拜タヽミ石ノ間間ハ、タヽキ土ナリ、雪隱ノ中モタヽキ土ナリ、飛石ハ大形御影石多、其外根符川石ナド取交テ、或ハ四五尺ホドノ大石モ有、又タヽミ石ノ耳ニ以白河石、其長サ五六尺、幅一尺三四五寸ノ切石ヲ取合テ居ル、石燈籠ノ形一樣ニ定ル、則別ニ切形有、手水鉢ハ古キ櫃石ヲ立テ、水溜ヲ掘テ用之、則切形別ニ記、屋根下クヾリ廻タヽミ石ノ壇、其石ノ間々ヲタヽキ土ニ打コト、赤土ニ石灰ヲ合テ打故石ノゴトシ、樹木ノ下不殘松葉ヲ一本ヅヽ揃テ、外ノ木葉少モ不交シタ蒔之、下土ノ不見エホド、〈○中略〉
織部曰、手水鉢近邊ノ樹木幷腰掛邊ノ飛石ハ成程聲花(ハナヤカ)ニ姝仕(ウルハシク)テ吉、小座敷ヨリ出テ氣ヲ晴ス心吉ト云云、木ノ植ヤウ谷見越ノ所ノ奧高ニ前下ニ植テ吉、手水鉢ノ邊力、又ハ腰掛ヨリ遠山ヲ見越ヤウニ路地ヲ造ルコト本意ト云云、然ドモ之ハ其屋敷ニヨルベシ、遠山ハ不見ドモ、含其心塞ヤウニ木ヲモ可植コト肝要也、
右織部流ノ路地ハ深山ノゴトクト云テ、大木ヲ植塞ト云ニハ無之、右ニ記ゴトク、其所々ニ氣ヲ付テ、晴ヤカニ靜成體也、然ニ大屋敷ヲ持、上京住者有、先祖ハ古田織部流ノ茶湯者故、路地ナド大木ニ成テ、其景氣奮、猶以殊勝ニ面白體也、其以後普請仕テ、數奇屋書院路地ニテ、去者ニ賴造ラセシ、最初ハ北山不殘見越、東ハ比叡山、西ハ愛宕山見へ、木ノ間ヨリ妙顯寺ト云法華寺ノ堂、幷五重ノ塔マデ見ヘテ、京中ニ珍敷ホドノ景有所也、然ニ此度其堂塔幷愛宕山見ユル方ニ風呂ヲ造、比 叡山ノ方ヲ後ニシテ數奇屋ヲ造、北山ノ方ニ大木ヲ植塞、手水鉢ヲ廂屋根下ニ置テ、剰其向ニ方方壁ヲ塗塞、腰掛ハ本屋ノ陰ニ付、一景モ不見、空地無之、誠ニ苦々敷體也、亭主モ雖之不是非、笑止至也、思之ニ指圖モ路地モ兼テ可心得コト也、

〔茶湯古事談〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 一上京後藤が露地は、小堀遠州の好みにて出來し、加茂川をし、かけて大キなる泉水あり、待合より堂腰懸までは船ニ而行なり、舟頭は小坊主のよくこぐ者也、中流にて舟ちんに肩衣十德おかせ給へと、無理にとらせて、夫より袴ばかりにて路次入なり、數寄屋は三疊大目也、刀懸とにじりあがりとの石を壹つにて兼ぬ、巾三尺ばかり長サ七尺餘もあらん、其石より飛石五ツ有之、長サ貳間半の疊石に、幅八寸めんを切たる切石、相手石も三尺餘有、長石に小石をとりまぜ、其外木立物ふり、面白さいふばかりなかりしとなん、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 さる方の朝茶湯に利休その外まいられたるが、朝嵐に椋の落葉ちりつもりて、露路の面さながら山林の心ちす、休あとをかへりみ、何もおもしろく候、されど亭主無功なれば、はき捨るにてぞあらんといふ、あんのごとく後の入らに一葉もなし、その時休總じて露路の掃除は、朝の客ならば賓にはかせ、晝ならば朝、その後は落葉のつもるも、そのまゝ掃ぬが功者也といへり、

〔茶窻閒話〕

〈上一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 織田有樂、或時人々と會しはなされし、高山左近が茶の湯に大病あり、高山は所作も思ひ入もよけれども、淸めの病ありて淸き事をしらず、路次の邊はいふに及ばず、方々わきわきのえんの下まで掃淸め、曾て掃除の際もなし、其世話をやく事、沙汰に聞さへいきだはしく覺ゆ、潔き費を曉らず、數奇道へ行ぬ事ではをりないか、但し今の世には、高山が類病多しといはれしかば、一座の外の人までも聞傳へて、尤といひしとなん、

〔茶傳集〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0579 一松葉敷樣之事、下地能はきて、初は薄くまく、茶湯一兩日も前にまくが吉、色能を撰 て用べし、俄まきはおり合ぬもの也、いづくも惡シ、うき〳〵と有が吉、餘慶に惡しく薄過たるも惡、松葉飛石ぎわなど、都而横計にならぬやう、立にも横にもしどけなくはき寄たる樣に、さすがきわを立たるが吉、石爪のきわ、一方は石壇際へまき付、一方は四五寸程間を除けて吉、松柔のうへに、爰かしこに松かさ、又は落葉など散し置もよし、總別松の木なき所は、松葉敷かぬもの也、其代に落葉など敷も吉、靑葉は惡し、

〔茶式花月集〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 一路次仕樣之事
一松葉ヲ敷事、植込ノ内見合、所々敷也、
右之通口切ニ敷、正月元日ヨリ少々ヅヽ松葉ヲ揚ル、此仕ヤウハ、大晦日ニ數奇屋ノ方ヲ揚、〈但シ是ハアラタメテ春チムカヘル心〉又正月末、或ハ二月へ入テ、其次ヲ見合揚ル、扨風爐ニ替リタル時、待合不殘揚ルナリ、
〈但シ風爐ニ揚ル時モ、待合計ニ松葉アリ、風爐ヨリ不殘取ル、附利休大晦日ニ年暮ノ禮ニ紹鷗ヘ御出被成候節、紹鷗路次ニテカレ薄ヲカリ被居候由、此時直ニ茶ノ湯アリ、花ビラ餠ニ味噌卷牛房ノ菓子ニテ有之由、夫ヨリ利休モ薄ヲカリ、大晦日ニ松葉モ少々揚候由、是ハ改テ春テ迎ルナリ、〉

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 享保十四年十一月廿日、參候、世間ニ何ゴトニモセヨ、スルホドノコトヲ利休々々トイヘドモ、利休ヨリ後ニ出來タルコトモ多シ、〈左馬頭ノ庭ニ、松葉ヲシカレタルヲ御覽(近衞家熙)アリテ、〉庭ニ敷松葉シタルコトハ、織部〈○古田織部正〉ヨリ始レリト云、客ヲ口切ニヨビタルニ、朝ノ寒氣甚シキニ、土地コホリテ霜柱ノタチタルヲ見苦トテ、松葉ヲシキタルト云、尤ナルコトナリ、

〔梵舜日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 慶長廿年七月三日丁丑、金子八郎兵衞ヨリ申來、二條御城數奇屋路地ニ敷松落葉、卅俵持遣也、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0580 露地水打樣の事
茶會の日、其刻限を考て、露地内外腰掛等悉水打べし、飛石に水たまらぬ樣にすべし、就中腰掛の 石、刀掛石、蹸上石、水氣能拂べし、手水鉢の前右に水掛ぬ樣にすべし、始に水打時水氣あらば、能々水氣を拂てよし、總て水の打樣大凡に心得べし、茶の湯の肝要、唯此三炭三露にあり、大概にいはば、客露地入前に一度、中立前に一度、會濟て客立るゝ時分一度、都合三度也、朝晝夜三度の水、すべて意味深事と心得べし、後の水を立水といふ、宗及などは、立水心得がたし、何ぞや客をいねといふ樣にあしらう、是いかゞと被申候よし、休〈○千利休〉の云、夫大に本意の違なり、總て侘の茶の湯、大體初終の仕舞二時に過べからず、二時を過れば、朝會は晝の刻にさわり、晝會は夜會にさわる、其上侘小座敷に、平振舞遊興のもてなしの樣に、便々と居候作法なし、わび亭主濃茶呑、薄茶まで仕廻、又何の事をか致すべき、客も長物語止て、被歸事尤也、其歸ル時分ゆへ、露地を改メ、疎略なき樣に手水鉢にも又水をたゝへ、草木にも水を打抔すべし、客も其程を考へて立也、亭主露地口迄相送り、暇乞申べきよしの給ふ也、

〔茶道織有傳〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 内外ともに路次にかわる事なし、冬は水うつべからず、さうじのみねんを入べし、二月時分より十月あたりまでは客前に一度、中だち前に中水一度、うす茶の時立水、以上三度うつべし、就中夏はおほくうつ也、時の温寒によるべし、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 古人は露地の水打かげんを吟味したり、譬ば口切の時分は、客の入りに、一つの飛石三分程晞(ヒ)あがりたるをよしとす、甚、ダ寒する時は水打ずとも、夏は凉敷やうに打しめしたるよし、くゞリ口の石一つは、ぬらさぬが故實にて有ル也、
附 客を見かけて、水おほく打はいとさはがしく、裳もぬれ、木などに打たるは、そのしたゝり衣におちて、いぶせくこそ侍れ、

樹木

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0581 露地之部 木之栽やう
市中の宅邊とても、深山幽谷をうつし來たる心也、木植樣等さま〴〵心配有べし、深山は松ある 谷には其實落て松多し、杉有所は又杉多し、其心を以て栽るとなり、作り木、又は珍敷木抔植て惡し、何となく木深く、樹竹共に天然の體にすべし、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 宗易、露地の樹は、凡松竹、した木には茱萸をうへたり、織部は僧正が谷にて、樅の木のものふりたるをみて面白思ひ、はじめて庭にうつす、

〔茶傳集〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 一利休露地に桐木をうへ申は、古歌に、
桐の葉もふみわけがたくなりにけりかならず人を待となけれど、此こゝろにてうへたるとなり、

〔和泉草〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 路地
一古路地松竹ヲ植シ也、近代サマ〴〵結構也、モミノ木ハ古田織部植初シ也、南天ハ桑山左近植初シ也、

〔茶之湯六宗匠傳記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 古田織部殿自筆の寫
一數寄屋の植込の内に、たんほゝの木を植て有、是は花有木也、總じて數寄屋かこひの庭には花有木をきらへども植給ふ、山鳩をうへごみの内に置なかせ給ふ、

配石

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 飛石
ふみ石の外にある、あいしらいの石をひかへいしと云、脇へはなしてすゆるを捨石といふ、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0582 庭之部
飛石 一番石は石の上へあがりて、坐敷の敷居へひざのかゝる高〈サ〉をよしとす、壁より六寸明〈キ〉、二番石の高〈サ〉は、一番石と三番との間也、一番と二番との明〈キ〉は、草履を横に入るゝ程、次第次第に此明〈キ〉なり、三番石より高〈サ〉二寸、
但し三番石を定め高〈サ〉二寸也、二番を居ゆるに、一と三と見合て、其後に二番を定る也、 捨石 顚きなき石を用ゆ、數極りなし、庭の摸樣によるなり、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 一路次に飛石するとの始を云に、東山殿〈○足利義政〉の御時、洛外の千本に道貞といふ侘ずきの者ありて、其名譽たるによりて、東山殿御感有て、御鷹野の歸るさに、道貞の庵へ御尋有し時、御脚口わらんづなりければ、童朋に雜用を敷せて、御通り有しを學びて、其後石を直せるとなり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 飛石附名有石
露地飛石をすゆる事云に丕及、蹸上りの口に遣ふ石を初の石といふ、刀掛石、手水鉢の前石、相手石、額見石抔さま〴〵あり、大戸より外の石を一ツ石といふ、是にて雪蹈をはきかへ露地に入ル也、總じて飛石有露地の時、蹸上り又は障子にても、初の石の上にて雪蹈を蹈揃へ蹸入り、雪蹈をなをすべし、裏と裏を合て腰板に寄掛置てよし、扨亦休居士の露地に飛石なしあり、其時は玄關の外にひきく竹すのこにても、板はりにても小緣を付て、下駄にても雪蹈にてもふんぬぎて、小緣にあがり、それより挑にても障子にても明て入也、此時は勿論くつを手にてあつかふまじきとての事也、中立まへに人をやりてくつ直し、客衆其儘はく樣にしたるが能也、休のもず野は、露地すべて芝生なりとかや、飛石なき事相應なり、當國抔砂地多石無きもよろし、苔地抔はせきだの裏しめりて惡し、飛石にすべし、

〔茶之湯六宗匠傳記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 古田織部殿自筆の寫
一飛石を路地に伏るに、習は石の表を外の方へして伏るなり、又書院の前の飛石は、表を書院の方へ向て伏る、

〔三百箇條〕

〈下之上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0583 一狹きろぢ廣き露地石の事
口傳曰、狹きろぢには、石を多く木も多きよし、廣きろぢは石も少く木もすくなき方よし、片ちく也、

〔喫茶指掌編〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 道安利休を招時は、露地の陰に人を置て、䚹判もあらばと伺しける、或時利休路地にて相伴の人に咄して、此石の内に一分程高き石あれども、道安氣の付ぬにやと笑けるを、早斯と吿ければ、我も日頃左はおもひつれど、執紛て直さずと云て、中起前に直させて、左あらぬ體にて有しを、利休中起の時相見て立留り、此石は早直したるやらん、よく居りしと云り、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 享保十一年正月十一日、參候、當世ニ露地ノ石ヲ高クスユルコトハ、意得チガヒ也ト、毎度中井定覺ガハナセシガ、尤ナルコト也、妙喜菴ノ石ノ高サ二寸バカリアリトテ、此ヲ法トスルハ違也、妙喜菴ニハ、本ハ小石ヲ敷タル庭ニテ、定覺ナド若キ時マデ覺エタリ、ソレヲ近年トリタル跡ノ石ノ高サ也、常式タルベカラズト云、イカサマ左モアルベシト仰〈○近衞家熙〉セラル、

〔茶道要錄〕

〈上/主法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 廬地之制大概之事
一四目牆之事、猿戸ノ所必ズ四目垣ニスベシ、高サ四尺一寸程、横四本、上下ヲ六寸ヅヽ置テ割合ニスル也、柱付ハ穴ヲ横竹ノ入程穿チ、其内ニテ釘ヲ以テ留ル、竹ハ各切鎩也、枝付又ハ細木ヲモ結添ベシ、是侘タル一體ナリ、

〔茶傳集〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 利休垣の事
一藻刈竹と細キ丸太ト取交、間四寸計に横緣ヲ狹ミ内外に立候、横緣四通り也、横緣ノ一ト三ト外ゟ當、二ト四ト内ゟ當る、二本ヅヽ挾テ、横緣當候方ゟ蕨繩にて結び申候繩ノ節も指三ツ伏程殘して切、兩面也、高サセイ丈ゟ高キハ見ニクシ、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 一休柴垣など結するに、蕨繩ばかりは惡しゝ、繩まぜてゆへといふ、竹籬はうへの長短を揃へず、

門/中潛/戸

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0584 庭之部
萱門 利休形萱ブキ屋根、裏よしず、檜の堀込、柱戸より上に松の皮付三本入るゝ、下ケヅリ木の ヌメシキ一枚の大開戸の内に、小クヾリ戸あり、鐵の横關貫を打懸にてとめる、
中クヾリ 織部〈○古田重勝〉伏見の屋敷にて、武用のためはじめて好まれしよし、杉の堀込柱に壁を付て、ニジリ口より大ぶりの戸を用ゆ、板屋根兩方へさしおろし戸尻に塗殘し、長窓障子なし、簾ばかりなり、
角戸〈猿戸ともいふ〉利休形大小あり、堀こみ栗のナグリ、柱の根に戸あり、
揚簀戸〈半蔀ともいふ〉好み物にあらず、むかしよりあるを假用ゆ、小坐敷二ツありて、路二ツに分る、露地などに用ゆ、揚簀戸おりてあらば、かた〳〵の道を行なり、此簀戸用る時は、客より前に揚置く、又左なき時にても用ゆ、〈○圖略〉
梅軒門 檜の堀込柱、杉皮屋根、竹簀戸の兩ひらきなり、廣庭の見切に用ゆ、所によりてこれより客をむかふるもくるしからず、
京クヾリ 檜の大引戸に小間の戸めり、外露地に用ゆ、

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 猿戸
見切にすれば板戸、垣すれば猿戸也、

〔茶傳集〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 一角戸 誤て猿戸ト云、角柄戸は別也、猿戸は猿ヲ付、角柄戸はかけがね也、猿戸は高ク、角からは低シ、是を以別と可知、〈○中略〉
一なるこ戸 三齋翁二疊敷掛樋の手水鉢、此木戸外露地は細道左右畑也、

〔茶傳集〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 一外の出戸を京戸といふ、是は地に付けて付敷居仕候ゆへ、石も平めなる大キなるを内外に居へ申候、此石の上にて雪駄をはきかへる也、夫故石の面ラ廣キが吉と仰〈○細川三齋〉なり、C 塵穴

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0585 麈穴〈はきためなり〉
敷松葉とて廬路に松葉をしく事あり、塵穴の中に靑竹の箸あり、廣き庭には四方にもする、口切 のときは敷松葉を用ゆ、
塵箸 靑竹にて作る

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 庭之部
塵穴〈丸角〉丸は凡七寸、角は凡一尺二寸四方、しかし庭の大小による、緣は八分、地より二分上〈ゲ〉る平シツクイは緣なし〈○中略〉
庭廻小道具之部
塵箸 禪家にて籌子といふ

腰掛

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 腰掛〈まちあひとも云〉
中立の後こゝにこしかけ居て、茶室の掃除等出來るを待合す、廬路行燈、羽箒、たばこぼん、料紙硯の類を置、流義によりて、ゑんざを置、冬は手あぶり等を置、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 庭之部
待合、腰懸、 外露地を待合といひ、内露地を腰懸といふ、
堂腰懸 利休形、外露地にあり、疊はクレを用ゆ、元來辻堂にかたどりたる故、堂腰懸といふ、原叟好の牛部屋は堂腰懸へ中クヾリを引付たるなり、待合、腰懸、堂腰懸ともに圓座、烟草盆は末席壁のある方に置也、烟草盆は、煙管を客の方へ向くやうに置なり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0586 腰掛附堂腰掛中偃
休居士〈○千利休〉時代は、何方も一重露地なり、往還の道路より直に露地の大戸を開き内に入、大戸のきわに腰掛あり、板緣又は簀子等の麁相成仕立なり、露地草庵、是侘の茶の湯なれば、誠に中やどりのやすらひ迄なり、其後古田織部正、小堀遠州等に至て、治世のともにひかれて、大名高貴の心に應じ、萬般自由能樣にとて堂腰掛と言もの出來、衣装等をも着かへし也、夫故衣装堂とも云な り、家來共、堂腰掛までは自由に出入する樣にして、扨今一重内に塀をかけ、中挑をかまへ、中挑の内に又腰掛を付、初入は主中挑迄むかひに出ル、扨懷右濟中立の時、堂腰掛までは不行に、中挑の内に付たる腰掛に居て案内の鉦を待、〈○中略〉
腰掛に置べき諸具之事
看板 版、但喚鐘にても柝にても、 圓座、但客の數次第幷上座下座、 硯文庫 當日客名付 烟草盆
案内のなり物を初め、腰掛の諸具右のごとし、圓座のとぢめ壁付にすべし、腰掛二ツあらば、上座下座分て置べし、硯箱の内、筆二本、小刀、墨、此分入べし、書院方には墨さし抔も入るなれども、腰掛の硯箱には無用也、筆一本はおろし墨付たるを、ぼうしなしに入れ、一本は帽子を掛て入る也、帽子の寸抔も有、秘事口傳、文庫の内、奉書美濃紙一帖ヅヽ入べし、口傳有、當日客の名付、賞客と思ふ客を壹番に書付べき事勿論也、烟草盆の事、休の時代迄はまれ〳〵に用ひし故、烟草盆の一具抔なかりし也、漸八九十年來、世なべて用る事になれり、利休たばこ盆抔云あり、是休の名をかりたるなるべし、

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0587 一堂葺ト云ハ、外腰掛ノ脇ニ造ル、此屋根ヲ瓦葺ニスル、之ハ數奇屋ト同ヤウニ見間敷タメ、又路地ノ體、深山ノ物靜成ヲ見立テ造ユへ、幸ニ寺ナドモ有心ヲ含テ、則瓦葺ニハ造シ也、第一ハ此所客人ノ裝束改所、又相客ヲ待合所ナリ、寒氣ノ砌、老人ハ腰掛ニ相客ヲ待居モ難儀スベキタメ旁造之、則堂葺ニ添テ腰掛有之ヲ外腰掛ト云、此近所ニ雪隱有、夫ヲ外雪隱ト云、中クヾリノ内ニモ腰掛アリ、之ヲ内腰掛ト云、此近所ニモ雪隱有、夫ヲ内雪隱ト云、〈○中略〉
一古田織部流、外腰掛ニ續テ堂葺有、六疊敷又八疊敷モ可之、眞中程ノ大道ノ方へ突出シテ出格子有之、釣格子ニシタ竹ヲ打ナリ、竪柱五本ニ横ニ通入テ、格子ノ内ニ腰板ヲ打、然ドモ其中路 地入口ノ見ユル方ハ腰板ヲ不打、

〔茶式湖月抄〕

〈四編下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 露地腰掛附堂腰掛 中傴入(クヾリイリ)
堂腰掛圖〈○圖略〉 寶形作九尺 床四尺三寸 腰カケ一尺八寸 巾一尺六寸 屋根柿ブキ
堂中ニ半鐘ヲツル、客ノツロヒシトキ打也、
額腰掛〈袴ゴシト云巾六寸二分、厚五分見分、〉 柱桁マデ高上バマデ九尺 カウバイ七寸二三分
破風貫出一尺二三寸 破風下六尺三寸 柱九尺

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 享保十一年正月廿三日、進藤左馬頭へ御成、〈廣瀨外記、拙○山科道安、中略、〉 待合〈上ノ圓座タテカケ、次ノ圓座二枚カサネ、上ノ煙草盆、新相樂ノ火入、靑竹灰吹、下ノ烟草盆、一力ンバリ、染付火入、靑竹灰吹、〉
十五年正月七日、御茶湯始、〈拙、二三、〉 御居間ツヾキノ御圍居 御待合、御書院ノ次ノ間、常信ガ彩色ノ屛風一雙ヒキマハシ、内ニ薩摩燒ノ火鉢バカリ、〈○下略〉

雪隱

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 莊雪隱(かざりせついん) 當代は小便所とも號
白きわり石をまくなり、大便所にはあらず、大便所は下腹雪隱とて、中廬路の外にあり、侘人は下腹雪隱ばかりなり、石雪隱なりとも、砂を置ときは下腹雪隱としるべし、下腹雪隱は壺をふせをくなり、尤踏板なり、砂雪隱へ大便する法、先觸杖にて砂をかきのけ紙を多くしき、大便して上へ又紙をきせ、觸杖にて砂をかきよせ多くかけをくしかしながら先大便はせぬことなり、莊雪隱の内、はゝき、觸杖、塵穴あり、穴の中に箸あり、小便たごにてはあらず、爐のときは月を立置、風爐の時は戸を明置、又明ざる流義もあり、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0588 庭之部
雪隱 露地口より外にあるが下腹、〈大便を通ずる雪隱也〉露地口の内にあるがクレ板雪隱、〈クレ板八枚、セツインの廣サ、内四尺、或は外四尺、是よりせまきは、庭の勝手による也、〉クレ板八枚の内二板切ヌキ、左右六枚也、内露地は砂雪隱なり、 砂雪隱 堀込柱内に、踏石、丸き塵穴、蕨箒、觸杖、籌子あり、御影石か白川石かの屑を眞中と偶とに盛る、入口の石を戸下の石といふ、兩方を踏石といふ、向を小便返しと云、後をウラ返し、此四ツの石の間より砂を撫込み勝手の方に積む、砂雪隱ある庭には、外に蕨箒不用なり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0589 雪隱
露地雪隱は、禪林の淸規百丈の法式つまびらか也、總て茶堂腰掛は、侘一偏にて、古柱古竹等も用る也、便所道具は、侘にても新敷淸淨成を用る事肝要也、會の時は客雪隱の内を見る事も、禪林に便所の役を淨頭(ジンチウ)とて、歷々の道人和尚達のせらるゝ例多し、修行の心持有る事也、客も其心持有、又侘にも亭主は雪隱を格別に改め心を用る故、客も主の心入をしるため共云へり、又利休の比迄は、亂世の砌故、野心の者雪隱にかくれて仇をなしたる事共有り、漢和其類あり、客の内末座に醫者隱者等加りては、殊更に心を付て、上客より先に雪隱に氣を付る事肝要也、曉會夜會殊更也、露地の雪隱、禪林の淸規を以てする事といへども、少ヅヽの差別有、手桶、面盆に糠塵取帚抔品々の事共有、塵取を塵穴に仕替持する樣に、少は差別有、掛り緣打樣等秘事口傳、外に用を辨ずる爲、常のごとくしたる雪隱あるべし、〈○中略〉
雪隱之内用意之事
客來前、疾と水を打、掃除仕舞て、其後乾キ砂を手桶に取寄、山なりに立、其上に觸杖をさす、路次に路の淸にも乾砂を立、御幸御成の道邊にも乾砂勿論の古例なり、俄にいかやうの不淨出來べきも計がたし、其時の淸メの爲也、夕立抔に水たまりも有事也、根本鹽湯をとり淸をする本意也、雪隱の砂も不淨をおほひ淸むる爲也、いつとなく常住に砂を入置、又水を打掛て濡砂にする事、大成違却也、開戸水にて流して立べし、夏の夜會には開戸明置たるよしと云説有、さしこめたる所には蚊抔多く籠り居て、うつ〳〵敷故の事なるべし、

〔茶道便蒙抄〕

〈二/客方〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 雪隱之事
雪隱は石を居、砂を入る、是壹ツにて古は用といへども、當代は是を小便所と號し、中廬地に下腹雪隱とて、かめを居ふみ板を敷、是には大調ふ、尤しかるべし、されども侘は砂雪隱壹ツならではなし、此時大用は調間敷か、砂雪隱に大用調樣、口傳、

〔茶傳集〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 雪隱ニ付、針屋宗春方にて、戸田民部、熊谷半次、奈良や三助、此三人客に而茶の湯ありしが、夜會にて夕さり申の下り露地入、宗春も雪陰の内能見て迎に出しなり、中立ノ時、三助雪陰を見るに、大の男一人壁に添て立テ居ル、三助誰人と問、上客二客は通り過て、腰掛に行三助に申は、豐島大之進と云兵法者也、今日ノ客中ノ内戸田民部正に遺恨ノ者也、一刀うらみ候心也、民部を是へ引出給へと云、今日ノ茶會に刃物ザンマイ無用、宿意あらば重而打べし、從是逃去ば一命を助くべしと云、大音にのゝしり候故、二客何事かと立出ル、早くも三助心得、民部に怪我有ては詰ノ役不濟と、小脇差をぬく手も不見、大之進を雪陰外ゟ内へ入〈レ〉突留、夫ゟ兩人被露地、行燈に而能々見候へば、民部見知有物也、甘(クツロ)グ間もなく後入して茶濟、御露地ノ御便所を穢し候由挨拶して、シカ〳〵と申候へば、宗春驚申、又三助は武士ニ取立、戸田三助と爲名乘、法體して三入と成、甲斐々々敷町人也、夫ゟして曉會夜會は亭主も入念雪陰を改め、客も能々見る事也と仰〈○細川三齋〉也、

〔茶傳集〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 一下腹雪陰とて外露地に仕置事也、雪陰の内ノ壺はかめを居へ申候、又桶にても吉、ふみ板を置、跡には小砂を置かけて、砂かきを立掛て可置、内露地の如く石を居へ、砂利を付る事なし、奇麗に候では入られざるものなり、

手水鉢

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0590 庭之部
石手水鉢〈杉の杓長柄〉 水溜さし渡し七寸、深サ六寸程、尤石の大小にもよる、利休所持の四方佛 手水鉢は、今淸水寺にありて梟の水といふ、何者か仕たりけん、其上へ角なる手水鉢を重ね、筧にて水吹上る、
手水桶〈蓋〉 椹木(サワラ)の桶、松の蓋、檜杓、不淨水にも淸淨水にも兩樣とも用ゆ、
不淨藥鑵 二重露地の狹き所は藥鑵を用ゆ、廣露地には桶を用ゆ、一重露地は廣狹にかゝはらず手水鉢ばかりなり、不淨水なきとき、不淨の手を淸くするは、まづ杓の端を持、扨片手をあらひ、其手にて杓の中程を持て、かた〳〵を洗ひ、後に口をすゝぐ、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 享保十五年四月廿五日、參候、宗和流ノ手水鉢ニハ、錢形、瓢簞形トテ二色アリ、燈籠ニ形アルコトハ、終ニ古モ御覽ナサレズ、世ニ織部形、利休形等アリ、遠州形ト云モノコレアリヤ、錢形ト云ハ、丸キ大ナル鉢ヲ、玉ブチノヤウニ口ヲ丸ク大ニ小キハアリ、キリヲトシテ、眞中ニ眞四角ニ水溜ヲキリタルモノナリ、丁度錢形ナリ、コレハ夏ハ丸キ切落マデ、一ハイニ水ヲ張ト云コトナリ、冬ハ四角ノ口バカリニ水ヲハルナリ、瓢簞ハ竪ナル鉢ナリト仰〈○近衞家熙〉ナリ、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 一昔は四疊半えん差にして、六疊四疊土間屋根の下有手水、それにすはりぬけの石船すえ、又本をもほり、桶をもすえしなり、織部殿〈○古田織部正〉の時、大石の五十人百人して持石鉢となれり、長鉢は南都橋本町の川橋ぎぼうし有けるを、中坊源吾殿へ某申請て持候なり、遠江守殿取給ひて、長二尺八寸に切、六地藏の路次にすえ給ひしを、後台德院樣〈○德川秀忠〉へ上りて江戸へ下りしなり、

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0591 手水鉢附蓋附手水鉢高下
居所不定也、休居士〈○千利休〉は大かた露地の中にすえられたりとかや、腰掛にすえしは、天王寺屋宗及の作なり、玄關の庇の下にもすえる、總而手水鉢、珍敷見事成大石抔無用也、水多してはあしゝ小手桶の水にてそろりとかゆる程と云々、晝は蓋に不及、曉會夜會雨雪の時は蓋すべし、曉會抔 は、只今改めたる水なれども、虫など落入、木葉ちりなどして落る事あり、休居士時代の手水鉢は、皆々つくばひて仕ふ樣にひきし、秀忠公の御時、古織〈○古田織部正〉江府御城御數寄屋山里の露地をつくられし時、手水鉢高くすえられたり、其後家光公の御時、小遠〈○小堀遠江守〉に露地のもやう抔も仕かへ候へとの仰あり、所々しげり抔をすかし、さまでの仕かへもなし、御手水鉢計ひきくすえかへ置れたり、上覽の上其故を御尋あり、小遠の御請は、古田織部時代は、家康公御在世にて駿府に御在城被成、折節の御茶もありし故、御手水鉢高くすえしなり、今になりては御一門を初、皆々つくばひて手水仕候故、ひきくすえ候由御請あり、甚御感有しとかや、誠に時節に隨ふ事、尤の了簡也、

〔東照宮御實紀附錄〕

〈二十五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0592 御茶室の露地の手水鉢を、つくばひてつかはるゝ程になされしに、本多上野介正純、今世の數奇人は、手水を立ながらつかふと申せば御氣しき損じ、我露地にては、たとひ將軍たりとも、立ながら手水つかはれんや、まして外々の者をやと仰られしなり、

〔貞要集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0592 手水鉢居樣之事
一手水鉢の事、内腰懸より蹸上りの間に見合居る、臺石を居、手水鉢を載せ居るなり、地より二尺四五寸迄、前石は景よく大成石を居る、前石の上面より手水鉢の上端迄、一尺より一尺五六寸迄、又前石の前面より手水鉢水溜の口迄、一尺八寸、一尺六七寸迄、柄杓を置見申、遣能程に居申事第一也、水門は兩脇景能石を居、松葉をしき、流上に水はぢきの小石、又は古瓦抔置申候、道安流の水門仕樣有之候、〈口傳〉
一湯桶石、手水鉢我右の方水門へ掛て居ル、其前に相手の石とて居ル也、是は貴高の相伴のもの、御手水懸申時の爲に居る石也、又手水鉢中潜軒下、蹸上り軒下に居る、雨降候時の爲とて、近代軒下に手水鉢居ル事也、
一手水鉢水溜を掘申寸法は、横六寸八分、竪は一尺一寸、深サ七寸二分、飯櫃に丸ク掘申候、是は大 キなる鉢の寸法也、小キ鉢には七八寸九寸丸ク掘り、深サ六七寸程に掘申候、尤見合第一、また丸鉢には水溜角に掘申事も有、

燈籠

〔千家茶事不白齋聞書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 石燈籠之事
一六角は利休、四角は古織、〈○古田織部正〉 名高きは大德寺に有り、利休ゟ細川三齋〈江〉遣ス、うづまさ是は一度被盜候處、何方〈江〉行テモ主にたゝり在、京中ノ道具屋買取、又うづまさ〈江〉上ル、 北野賴政之寄進也、殊之外さびたるもの、兩面之口計り有り、半月などもなし、 わらび堂 二月堂 三月堂 くわんこ寺 般若寺、何れも奈良、 柚之木ノ下奈良、さびて面白もの也、

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 庭之部
石燈籠蓋 〈油盞〉 古寺古社にありしを用ゆ、其外名物あり、蓋は杉板に半月のすかし、〈但し八日月なり〉障子は十文字明〈ケ〉、勝手にて兩樣を用ゆ、利休形、 油盞は了々齋好、彌助作赤、〈今是を用ゆ〉
木燈籠〈輪〉 〈油盞〉 利休形、障子と三日月とむかひ、滿月と半月と向ふ、油盞を居る輪は竹なり、
仙叟好は滿月が角になるなり〈尤仙叟好、滿月と障子と對すあれども、表流には不用、〉
金燈籠 利休形、菊のすかし、鎧くづしの二ツなり、其餘は古寺古社にてふるびたるを用ゆ、今千家の利休堂にあり、
燈籠臺 利休形、栗のナグリ木の蜘手、高サ一尺八寸、江岑好の石の臺あり、一尺六寸也、蜘手寸法二寸、高〈キ〉は蜘手燈籠の底へ十文字入るゝが故に、江岑好石臺同樣に成る也、〈○圖略〉

〔南方錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 燈籠附石燈籠木燈籠弦月すかし
露地の趣に隨ひ、手水鉢の邊、又は木陰の闇き所に置べし、石燈寵の古びたるよし、木燈籠は利休燈籠といへり、手水鉢の邊につり、又は蜘手をしてすべてよし、又三日月のも有り、

〔貞要集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0593 石燈籠之事 一石燈籠の置所は、手水鉢近邊、砂雪隱の邊、又は蹸上りの邊、あかり用に立所を見合置が本意なり、半月の有方を西へ成樣に居申筈と有之候へ共、其路地の場に寄べし、廣き路次には石燈籠二ツも可置、内路次に石燈籠二ツ置不申沙汰も有之候へ共、長路次には二ツも三ツも置申度候、然共石燈籠、古キ見事成を路次の景氣に置申事に候へば、少々明りの惡敷所にても景氣に置申候、夜會には燈心長ク入申候、朝會には燈心短ク入申候、夜は客長座のため、朝は夜深より客待申心持にて、燈心長短有之候、石燈籠路次に置候は、利休鳥邊野通りて、石燈籠の火殘り、面白靜成體思ひ出て、路次へ置申候よし云傳有之候、又等持院にてあけはなれて、石燈籠の火を見て面白がり、夫より火を遲く消し申由云傳る、石燈籠前に火燈シ石とて、大ぶり成石を居へ、とび石居へ續る也、朝會には、夜あけ候て會席出し候と其儘、燈籠火を消申候、

〔南龍公言行錄〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0594 小堀遠州作の石燈籠の事
御隱居可成五六年前ニ、酒井讃岐守入道空印、此方御城附ニ向て、大納言殿ニ者、小堀遠州作之石燈籠御所持と承候、拜見仕度と所望也、賴宣君御機嫌ニ而、庭之摸樣を作り替候へとて、公儀之御庭作山本道勺鎌田庭雲を御呼、御庭之作直有、御庭出來、石燈籠を立る日、千宗左病氣ニ而不出、千賀道味も指合有て不出、道勺庭雲彼石燈籠をみて、小袋の日形月形の窓狹ク、當世ニ合不申候、びろげ候はゞ可然と有、承りの役人蔭山宇右衞門石工を數人呼寄、火袋の窓を道勺庭雲指圖の通りニ鑿り廣げて、石燈籠を立て歸る、其晩石燈籠立候段、宇右衞門申上候付、賴宣君御出御覽被成ニ、火袋の窓をほりひろげ候を御覽付、大きニ御驚、是は何たる事を致候と御尋、蔭山承、道勺庭雲指圖にて候と申上ル、そこニて大ニ御氣色替り、奉行ハ何の役ぞ、彼等が申とて、何とて此方へ不伺、大事之古石燈籠疵付候へば、最早用ニ立ぬ捨り物也、さて〳〵惜き事かな、遠州の指圖の窓を道勺庭雲ほりひろげ候事、不屆不調法申も愚也、空印へ約束はしたり、何とかすべきと御叱、宇 右衞門め己は何の爲ぞと、旣ニ御腰物ニ御手被懸候へば、宇右衞門は貳拾間程しさり、頭を地ニ付、赤面して罷在候、賴宣君御目を被塞、良暫御意被成、加納五郎左衞門直恒を召、扨々大事之道具ニ疵を付捨たり、我此前御上洛供奉之時小堀遠州ニ此石燈籠を賴候時、物者貳ツがよしとおもひ、其時二ツ賴、萱つは此地へ下シ、只今捨り燈籠なり、今壹ツの燈籠は、紀州粉川の別業竹籔之内ニ、蘚をつけ古さんとおもひ入置たり、取寄て此度空印を呼候間ニ可合かと御相談、五郎左衞門承り、扨々遠き御思案ニて、貳ツ被仰付置れ候物哉、鯨船にて水手を撰、押切せ候はゞ、成程手ニ合可申とて、則早道之御飛脚を以紀州へ申遣、鯨船に石燈籠をつみ、水手を撰、晝夜のさかひなく推ける程ニ、海上風波穩ニ、石燈籠無恙八丁堀ニ著岸、千宗左を被遣、車ニつみ、御中屋敷へ取寄御覽有ニ、貳十餘年林之内ニ而雨露ニうたれ、苔むし古びたる事千年を經たるがごとし、則御庭ニ立たるニ、前の燈籠ハ物之數ニてもなし、御機嫌不斜、長門守、若狹守、五郎左衞門、左五右衞門、千宗左、千賀道味迄も、君之御智慧遠き御思案を奉感、皆感涙を流しける、空印御招請候ヘバ、此燈籠を見被申、空印も其珍物を深く被感、御茶の湯も一入興有けると也、

行燈

〔茶道筌蹄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 燈燭器
露地行燈 利休形、檜木地春慶ヌリ、覆眞黑ヌリ、火皿にホウツキ有て、一枚の油盞を置く、風なき夜は覆をとるなり、

笠/杖/履物

〔茶道早合點〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 竹子笠 廬路の腰かけ、又は廬路の邊にあり、雨ふりに用ゆ、ひもなし、釘にかけるひもあり、手に持てきる、
雪踏 間に皮を入て、しめり表へとをらぬためなり、利休物ずきなり、是を數寄屋ざうりと云、廬路下駄 雨ふりにはく

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0595 庭廻小道具之部 笠 利休形、竹の皮熊野笠、檜網代組用てもよし、
草履 むかしはひとへなりしを、利休、竹の皮の裏付をこのむ、是雪踏の始りなり、裏あるをすべて雪踏と唱〈ル〉よし、雪をしのぐ爲也、
下駄 利休形、杉に竹の皮のハナヲ也、
杖 利休形、白竹の上を竹の皮にて包み、紺苧にて卷く、

〔南方錄〕

〈拾遺一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 露地の出入は、客も亭主もげたをはく事、紹鷗の定め也、草木の露ふかき所往來する故如是、互にくつの音、不功者功者をきゝしるといふに、かしかましくなきやうに、又さしあしするやうにもなく、をだやかに無心なるが功者としるべし、得心の人ならで批判しがたし、宗易好みにて、此比草履のうらにかわをあて、せきだとて當津〈○堺〉今市町にてつくらせ、露地に用られ候、此事を聞申たれば、易の云、げたはく事、今更あしきにはあらず候へども、鷗の茶にも、易ともに三人ならで、げたを踏得たるものなしと鷗もいわれし也、今京堺奈良にかけて、數十人のすき者あれども、げたをはく功者は、僧ともに五人ならではなし、これいつもゆびを折事也、されば得道したる故は云に不及事也、得心なき衆は、先々せきだをはきて玉はれかし、亭坊別而かしましさの物ずきなりと笑はれし、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 昔はわら草履にて有しを、利休より雪踏となれり、足袋も昔ははかざりしなり、

流派

〔茶傳集茶人系譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0596 千宗易
千道安 桑山左近 片桐石見守〈石州流ノ祖〉
千宗淳 千宗旦
千宗佐〈江岑ト號、旦ノ二子也、杷州ニ仕、今ニ連綿タリ、不審庵、千家表ト云、〉
千宗室〈仙叟ト號、旦ノ三子也、加州ニ仕、今ニ連綿タリ、今日庵、千家裏ト云、〉 千宗守〈一翁ト〓、旦ノ季子也、讃州高松ニ仕、今連綿タリ、官休庵、千家武者小路ト云、〉
利休家筋旦翁ノ後、右三家ニ分ル、
藤村庸軒〈庸軒流ノ祖〉
杉木普齋〈普齋流ノ祖〉
山田宗偏〈宗偏流ノ祖〉
織田有樂〈諱長益、信長ノ弟、源五郎、有樂軒、如庵ト號、有樂流ノ祖ナリ、〉
細川三齋〈諱忠興、幽齋ノ男、(中略)剃髮シテ三齋ト號、(中略)利休ト交深ク、茶咀遺休ノナス所ニシテ私智ヲマジヘズ、〉
一尾伊織〈三齋遺言ニヨリ以來一尾流ト號ス〉
古田織部正〈諱重勝、稱印齋、(中略)織部流ノ祖タリ、〉
小堀遠江守〈諱政一、髮落シテ宗甫、古田重勝、佐久間眞勝ヲ以穩三宗匠ト、遠州流ノ祖也、〉
藪内紹智〈藪中齋劍仲、又燕庵隱齋ト號、依良如上人招本願寺、今藪内流ト云其祖タリ、〉
南宗寺宗慶〈左海集雲庵首座、一休ノ法嗣ス、宗咎トモ云、(中略)南坊流ノ祖タリ、〉

〔古今茶人系譜〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 織田可休 織田主計頭貞置〈(中略)有樂齋没後、貞置ヘ茶道相續ノ血脈ユルサル、仍テ世ニ貞置流ト云、〉

〔茶窻閒話〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 むかし利休が比までは、古流の誰かれ殘り居れり、中にも津田宗吸、今井宗久などは、肩をならべて宗匠たりし故、千家の系圖に載らざる高名の茶人あまたありし、いつぞのほどにや、古流は徹々になりて、あれども無がごとくにて、千家のみさかんになりし、今の世に三齋、 古織 有樂 遠州 一尾 舟越 佐久間 多賀 金森 片桐 貞置 宗偏などの流々、各別のやうに一流を立れども、其根本皆々千家より出ざるはなし、千家は茶道の大宗匠といふべし、

〔茶話眞向翁〕

〈坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0597 千家および藪内を茶の家本と唱ふ、これもおほやけならず、私の唱也といふべし、利休居士の聟万代(モヅ)屋宗安の末葉、肥後細川家につかヘて、今に茶家を唱ふとなん、又紹翁晩年の 子武野宗瓦の子孫尾州に有とぞ、加州に小堀家、金森家有、此類猶ありぬべし、其人其道に堪能ならば、家と稱すとも可なるべし、
立花家池坊は、室町家治世より連綿して、今に花の家本たり、其餘諸藝の家もと、みなおほやけに有、茶家に限りて其沙汰なきは、居士〈○千利休〉ことありて後、織田常眞公、織田有樂翁、細川三齋翁等の諸歷々、就中古田織部、小堀遠州、片桐石州等、つゞいて公上の御師範たり、されば家本の沙汰あらぬ成べし、

〔茶傳集附錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 三齋翁の門下に、茶道執心の輩多といへども、中にも一尾徹齋其一にして秀達也、或時翁物語に、茶は流有てなきもの也、予休門下にして、休の旨要を其儘守といへども、人皆利休流とは不云して、三齋流といへり、武門之家に生れ、茶道に名を殘す事有まじ、休より傳る所を徹齋に傳へ、翁の覺書不殘徹齋にゆづり、徹齋又三齋の物語を始、其旨、要を筆記ス、今ゟ一尾流にして數寄の妙所に至るべしと深々物語有、

〔老人雜話〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 茶の會にノ觀流と云あり、是は上京坂本屋とて茶の會を好む者あり、をどけたる茶の會を出す、初め號を如夢觀と云、後に改めて丿觀と、云、一溪故道三の姪壻也、丿の宇、人の字の偏ばかり也、人に及ばぬと云意とぞ、宗易より少し後也、

〔茶人大系譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0598 〈織部流祖〉古田織部正〈諱重勝、従五位下、織部正、領一萬石、性嗜茶事、能識鑒古器、(中略)利休之後、同有樂宗匠、以茶事台德君(德川秀忠)師範、曾見春屋國師參學弟子、扁所居印齋、元和元年六月十一日、有罪自殺、○中略〉
慈胤法親王〈梶井宮、後陽成帝皇于、二品天台座主、號常修院宮、〉
近家家熙公〈(中略)號豫樂院
鷹司輔信公〈號有隣軒、受茶法於滋胤親王、後患眼疾而愈嗜茶事、〉
近衞信尋公〈(中略)號應山○中略〉
小堀政一〈從五位下、遠江守、號孤蓬庵宗甫、爲遠州茶流之祖、〉

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 古田織部ハ、千宗易以後世ニ用テ師トス、其比マデハ人ノ心モ正シテ、茶ノ道織部一流聊不相背、宗易流ヘモ近シ、今代世ニ玩ブ茶湯ハ、織部流ヲ根本ニシテ少宛我流ヲ仕出シ、剰織部流ヲ古流ユヘ不用ナド云人多シ、不案内ユヘナリ、當代ノ座敷其外茶湯ノ仕樣織部流也、
小堀遠江守ハ、古田織部流ヲ根本ニシテ、宗易時代改捨シ古流ヲ聞出シ、吾一流ノ種トス、古道具ヲ集、棚毎ニ餝置、物數奇ト云テ枕ヲ荒、偏ニ唐物商買ヲ見ルゴトシ、道具ヲ集ユへ、古新ノ目利也、第一初心者ニ面白ガラレン謀多シ、茶湯ノ病ハ此比ヨリ發テ猥ニ成シ、〈○中略〉
一金森宗和ハ、古田織部流ヲ根本ニシテ、小堀遠州流ヲ指加、自分ノ物數奇少宛仕替、自ラ道安流ト名付タリ、然ドモ世ニ用ユル人モ有、又不用モ數多也、依之一生上京ニ住居仕テ、宗匠トハ不成、

〔茶人大系譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 〈石州流祖〉片桐貞昌〈従五位下、石見守、領和州小泉一萬石之地、曾爲玉室和尚俗弟子、而乞法名道稱、以三叔宗關之、寬永某年、剏高林院予紫野、請玉公開祖、學茶法於桑山宗仙、〉〈云學利休或及小堀遠州〉〈遠州之後、片桐貞昌、船越吉勝、多賀左近之三家、稱茶家宗匠、曾寬文五年十一月、獻茶於嚴有君、延寶元年十一月廿日卒、牌子題三叔宗關居士、爲石州茶流之祖、〉

〔茶傳集〕

〈茶人系譜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 石州流
片桐石見守〈從五位下、初貞俊、後貞昌、能改庵、(中略)石州流ノ茶祖タリ、○中略〉
〈稱石州流鎭信派〉松浦鎭信〈四品肥前守、初信俊、後鎭信、入道號式部卿法印、天禪庵、無外庵圓惠、元祿十六年十月六日卒ス、年八十、(中略)石州ノ 門ニテ重々傳ヲ石州家老藤林助之丞隱居シテ宗源ト云シ者、常ニ鎭信ガ方ヘ來テ受之、元一尾流皆傳ノ人ナリ、依台命石州流トナル、然レドモ元一尾秀達ノ門人ナレバ一派ヲナシ、鎭信派ト稱、一尾ノ法ニ相似タリ、改流ノ後モ一庵ト交リ深クアリシト云フ、〉〈石州流恰溪派〉怡溪和尚〈高源院開祖、名宗悦、大德寺、又東海寺ニ住ス、正德四年五月五日卒ス、〉
〈石州流道間派〉淸水道間〈京都ノ人、風爐道間、古道間トモ稱ス、澁紙庵ト號、初織部門也、遠州肝煎ニテ仙臺ノ茶道ト成、石州ノ賴ニマカセ石州流ニナルトナリ、慶安元年六月廿日沒、〉
松尾流
〈原叟宗佐門〉松尾宗二〈京師ノ人、樂只齋、喜隱軒、茶法ヲ初秋波ニ學、後原叟ニ學、寶曆二年九月五日沒、年七十六、〉

〔喫茶餘錄〕

〈初篇下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0599 久田宗榮〈茶道ヲ宗易ニ受、途ニ茶事ヲ職トス、久田流ノ祖、寬永元年甲子三月六日沒、〉

茶式傳授

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 相傳物之事
習事十三ケ條 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾 眞臺子
右何れも相傳物ゆへ此書に不記、但し習事は原叟時代より始る也、其後啐啄齋十三ケ條まで習事にするなり、

〔茶式花月集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 傳授前之ケ條
長緖 仕組點 組合點 茶筌飾 盆香合 軸飾 壺飾
臺飾 茶碗飾 花入飾 名物飾 花所望 炭所望
一傳授之分
茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾

〔紳書〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 臺子の事、織田信長、利休をめして茶を立させられしに、臺子の體こと〴〵く新意を出して古制にあらず、信長其よしを尋申されしに、古制によらざる意趣逐一に其理ありければ、大に感じ給ひたり、其後豐臣太閤の時、利休をめして臺子の法制を能々傳授し給ふて、其上に利休に誓紙を參らすべし、一子にも我ゆるしなくば傳ふまじとちかへとあれば、利休誓詞を奉りて、これよりのち茶會には爐を用ひしに、太閤より傳授之人々七人ありて、これを臺子の七人衆と申せし也、其後織田有樂も傳授し給へと申せしに、太閤利休に仰せて傳授すべきよし也、有樂は臺子の制式は利休よりの傳也、細川越中守入道三齋も七人衆のうちなれど、其家々あれば傳授は仕らざりき、見習し事は有よし市尾伊織申されし也、今織田貞置め茶式は臺子をもはらとす、是則有樂傳也と、これも宗羽申しき、

〔茶事談〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0600 珠光門人多キ中ニ篠道甘〈或ハ志野、又篠屋、〉臺子ノ式法ヲ傳受ス、道甘ヨリ十四屋宗悟ニ傳受シ、宗悟ヨリ紹鷗ニ傳受シ、紹鷗又宗易〈利休居士〉ガ茶事ニ器量アルコトヲ知テ宗易ニ傳受ス、宗易ニ 至テ太閤秀吉公ノ命ニヨリ、茶會ノ極意ハ一子相傳トナル、宗易嫡男眠翁紹安蹇病ナル故ニ、少庵宗淳傳受ス、宗淳ヨリ其子宗旦ニ讓ル、〈或曰、宗旦ハ紹安ノ子ニシテ、宗淳ノ養子〓云、不知、〉宗旦故有テ藤村庸軒ニ讓置、庸軒又宗旦ノ子江岑宗佐ニ讓歸ス、江岑其子良休宗佐ニ讓リ、良休又原叟宗左ニ讓リ、〈原叟宗左ハ久田宗全子ニテ、良休ノ甥ナル故ニ養子トナル、〉原叟宗左故有テ先々師三谷良朴宗鎭傳受ス、〈時ハ正德六年四月二十三日、不審庵ニテ傳受ス、次席ハ靑木如永、服部道圓、兩人ナリ、次席ト云ハ、次ノ間ニ居テ茶事ノ法ヲ見ルノミ、〉宗鎭是ヲ以テ藝州侯ニ仕官ス、實子賴母ト云、法體シテ宗鎭ト號ス、近年沒ス、臺子傳受次席ノ人々ノ姓名記書一卷アリ、

〔茶道聞書集〕

〈甲〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 傳有て傳なし、法有て法なし、時有て時なし、
元伯の歌に、茶の湯とは耳にてつたへ眼につたへ心に傳へ一筆もなし、

〔貞要集〕

〈一上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 織田氏臺子傳來
一太閤秀吉公へ臺子の茶式御相傳申、秀吉公御秘藏にて、利休に誓詞を以、私に他へは傳授仕まじき由仰付られ、臺子の傳授は秀吉公御直に相傳あそばされしなり、御直傳の衆は、先關白秀次公、蒲生氏郷、細川越中守、木村常陸介、高山右近、瀨田掃部、芝山監物、七人なり、其後織田有樂公執心にて願ひ給へば、有樂は年來數寄功者なれば、利休直傳仕べき旨上意にて、秀吉公御前におゐて、利休直に相傳せしにより、有樂は右七人の外也、其時退出の砌、利休ひそかに有樂へ、御前なりし故茶道の極意を殘すよし申ければ、有樂聞給ひて、臺子相傳の上に、何事を殘されけるぞ、承度と望たまひければ、利休の答に、さ、らば口傳の秘事を語り申さん、總而茶道に大事の習と云事さらになし、皆自己の作意機轉にて、ならひのなきを、臺子の極意とするぞといへるよし、誠に此道の名言なり、

茶人

〔酒茶論〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 滌煩子曰、〈○中略〉本朝諺、謂茶者數寄者

〔古今著聞集〕

〈六/管絃歌舞〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0601 小監物源賴能は、上古に耻ざる數寄の者也、玉手信近に順て横笛を習け り、〈○中略〉賴能は博雅三位の墓を知て、とき〴〵參向して拜しける、まことによく數寄たるゆえなり、

〔甲陽軍鑑〕

〈十四/品第四十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 一此次に高坂彈正申さるゝ、四國牢人に村上源丞と申者は、堺、の紹鷗が雜談をきゝたるとて、我等にかたる、數奇者(すきしや)と茶湯者(ちやのゆしや)は別なり、茶湯者と申は、手前よく茶たてゝ、料理よくして、いかにも鹽梅よく、茶湯座敷にて、振舞する人を申、扨又數奇者と申は、振舞に一汁一菜なりとも仕り、茶は雲脚にても、心の奇麗なるを數奇者と名付てよび候、元來數奇は禪僧から出たるわざにて如件、諸宗は佛語、禪宗は佛心とて、廬地を肝要にして、まことおほき心指を執行人のたつる茶を、數奇者の振舞と、村上源丞がかたると、きんば、數奇者と茶湯者は各別と聞候よし高坂彈正がかたる也、

〔茶人大系譜〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0602 〈茶道鼻祖〉〓珠光〈俗姓村田、南都稱名寺僧也、年二十五、來寓止于洛陽三條街、性敏而茶事故實莫通曉、其室四顧四筵之外加半筵、以爲茶處矣、世墓其風雅、其名聞宇内、將軍義政公嘗召光問茶禮、茶道稱宗工者始于此、文明年間人也、壽滿八十矣、〉
眞能〈稱能阿彌、號鷗齋又春鷗齋、仕足利家同朋、能茶禮書畫、能識鑒古器焉、按、眞能仕足利家同朋事、蓋普廣院義敎將軍之時也、又造茶杓名、是宗師造茶杓之初歟、〉
眞藝〈眞能男、稱藝阿彌、號學叟、仕足利家、爲同朋、能茶事及書畫、不於家聲、〉
眞相〈眞藝男、稱相阿彌、號松雪齋鑑岳、仕左大臣義政公、父祖相續爲同朋、嗜茶禮書畫、賦詩詠和歌、又達香道、倍從公左右、毎從事宴會之席、又嘗爲茶具之主役、能識鑒古器及書畫、人皆服焉、〉
空海〈俗名左近、不其姓、受茶法於眞能、而傳其法於荒木道陳、〉
北向道陳〈本姓荒木、沙界舳ノ松ノ人、居北向家、故以北向氏、嗜茶道、受其法於空海宗易、鷗沒後以道陳宗匠、曾參普通國師、而爲南宗寺之外護、蓋宗易薙髮以前師也、某年王月十八日沒、年五十八、〉
利久〈始受茶法於道陳、後就紹鷗其蘊、〉
義政公〈足利尊氏八代孫、征夷大將軍從一位左大臣准三后、號天山、文明十一年、公年四十五、讓位于常德院義尚公、建銀閣於東山、束求堂内、設四筵半茶亭同仁齋、障壁之畫、皆眞相〉 〈所書也、世謂茶亭之權輿焉、賜勅命東山殿、延德二年正月七日薨、年五十六、諡慈照院、蓋吾邦茶禮盛于世者始于公、○中略〉
篠道甘〈一作志野、住沙界、達香道、又従珠光眞臺子法、○中略〉
宗悟〈住洛陽六條、松本氏、稱十四屋休齋、同門宗陳、並従篠、道甘眞臺子法云、〉
宗陳〈住洛陽、興宗悟同門、〉
武野紹鷗〈初名仲村新五耶、號一閑居士、父因幡守者、武田伊豆守信光之後也、世家南都、少而上京師、就宗陳宗悟二居士茶術、又謁西三條逍遥公和歌、構宅於四條戎堂之隣、因篇所居大黑庵、歸依普通國師俗弟子、時茶禮大起、傅其術於千宗易、後移沙界津、珠光之後爲茶家宗匠、永祿元年十月晦日浸、年五十三、葬沙界南宗寺之後林、〉武野宗瓦〈紹鷗男也、號方寸齋、慶長某年、早世、〉
瀧新右衞門〈鷗之外孫瓦之壻也、仕尾州侯、一時有茶名、能眞臺子之法、、〉
津田宗達〈住沙界、天王寺屋號大通、世稱富商、〉
津田宗吸〈一作宗及、宗達男、號幽更齋天信、江月和尚父也、仕闘白豐臣公、領三千石、叙法眼和尚位、(中略)天正二十年八月九日卒、〉
細川幽齋〈正四位下兵部大輔藤孝、祝髮號幽齋玄旨二位法印、泉州岸和田城主、(中略)窮歌道蘊奧、學茶法於紹鷗、世稱文武兼備名將、慶長十五年八月廿日逝、年七十七、號泰勝院、○中略〉
今井宗久〈又作宗休、和州今井人、住沙界、鷗之婿也、仕豐臣太閤二千石、其子宗薰倶爲昵近、擢大藏卿法印、能茶事、與宗易宗久茶家三宗匠、見古溪和尚參學弟子、○中略〉
千利休〈初稱納屋與四郎、沙界今市坊人也、姓田中氏、其先仕于室町家而爲同湖、名曰千阿彌、因後改千氏、號抛筌齋利休居士、曾爲普通國師剃髮弟子、受法諱焉、聞茶道於道陳紹鷗二居士、而大成於其道矣、蓋令茶道有一レ四焉、能和、能敬、能淸、能寂、因茶祖珠光故事立云、遂以茶道右府信長公、後仕太閤秀吉公、領三千石、受命改定茶法、損盆補否之精、一無捨、其法偏行于海内、爲列國諸侯重、世以稱百世之宗師、蓋元龜年間因正親町上皇之勅、製茶具奉之、賜居士號、初薙髮謁古溪和尚參學徒、窮妙參玄殆盡力、某年擲資財閣於紫野山門上、而置諸尊像及己肖像、豐臣公怒之爲罪、因賜死、實天正十九年二月廿八日也、年七十四、葬紫野衆光院、牌面曰、利休宗易居士、○中略〉
信長公〈織田備後守信秀男也、擢從一位右大臣、甚好茶禮、召紹鷗利休其法、〉
秀吉公〈初氏羽柴、後改豐臣、擢關白太政大臣従一位、大好茶禮、使千宗易定茶禮、於是茶禮大備矣、或曰、其撰公亦與焉又曰織田豐臣兩公嗜茶禮、而茶法全備焉、〉
古田織部正〈諱重勝、稱印齋、弟子多、○中略〉
薮内紹智〈號劔仲、稱藪中齋又藪隱齋、又燕庵、弟子多、〉 織田有樂〈諱長益、稱源五郎、信長公舍弟也、擢從四位下、號有樂軒如庵、法名融覺、利休之後稱茶道宗匠、亦重禪法、爲紫野之外護、元和七年十二月十三日卒、年七十、〉
利休門七哲俗稱七人衆
織田有樂 細川三齋 蒲生氏郷 荒木攝津 瀨田掃部 芝山監物 高山右近

〔茶人系傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0604 統傳未考人物
丿貫〈按、丿貫異名歟、不其姓名、住洛東山科、淸貧而甚好茶事、貯異物雅趣、氣質活動、人大賞、與醫師道三友善、〉 有馬了及〈號名存庵臥雲、叙法眼位、以醫術于世、好茶事、元祿十五年十二月七日沒、壽六十九、〉 三滴〈大津隱士〉 上田宗古〈仕淺野長政〉 横田宗朴〈住洛陽〉 伊達正宗〈權中納言從三位陸奧守、寬永十三年五月十四日逝、年七十三、〉 前田利家〈菅原姓、加賀大納言從二位、〉 淀屋ケ庵〈住浪華、名言當、好戯畫、又善連歌及茶事、從于源光寺祐心、而受古今傳、一作古庵、〉 岡本宗唫〈住浪華〉 舟木又甫〈住浪華、貞享中人、〉 市川心齋〈住浪華、貞享中人、〉 中西立佐〈住洛陽〉 城宗信〈住坂城、仕土岐豫州侯、正德元年七月沒、〉 慶嚴 本行坊〈妙蓮寺中〉 宗柏 高山南方 烏丸光廣卿〈從二位權大納言、法名泰翁、號法雲院、又有鳥有子號、寬永十五年七月三日薨、年六十、〉 京極高廣朝臣〈丹後宮津城主、從四位下侍從丹後守、剃髮號闇知、隱居洛東岡崎村、久須疎庵、石川自安、共稱岡崎村三老、〉 宗祇〈飯尾氏、紀伊人、號種玉庵、又見外齋、自然齋、文明三年祇翁年五十三、從東野州古今傳、而傳逍遙院實隆卿、後至細川幽聾玄旨法印、文龜二年七月廿九日寂、壽八十二、〉 因果居士〈住洛北細川村、自稱金華山瀧下十界因果大居士、能茶事、安土論判者、〉 通圓〈大敬庵、住宇治橋南岸、以賣號茶爲業、其遺墨在大德寺中、〉 釋元政〈姓菅原氏、石井、名日政、年十三仕彦根侯、年十九以病致仕、祝髮持法律、深草瑞光寺開基、有不可思議霞谷山人春妙子等之號詩文及和歌、與石川丈山陳元贇友善、寬文八年二月十八日寂、年四十六、〉 釋一絲〈岩倉木工頭具堯朝臣三男、名文守、號桐江、西加茂靈源寺及丹波千カ畑法常寺開基、烏丸光廣卿之參師、與小堀遠州瀧本坊、爲方外友、正保三年三月十九日寂、年三十九、諡佛頂國師、〉 石川丈山〈稱嘉右衞門、名重之、參州人、退隱于洛北一乘寺村、剏詩仙堂、有四明山人、遷齋、漱芳窩、壽春翁、六々山人、頑仙、子凹等數號、寬文十二年五月〓三日沒、年九十、〉 岡本半助〈名宣就、初名熊井田新八、號無名老翁及飯袋子喜庵、彦根侯軍師、與松花堂友、能書、好連歌及茶道、風流名于一世、明曆三年三月十一日沒、年八十三、〉
利休同時師門不詳人物
無三 此村屋宗悟 伊丹屋紹無 立石紹林 械屋堅佐 水落宗惠 武田左吉 米屋與十郎壽命院 紹安 良壽 宗純 圓啁 玄庵 流安 紹二 大文字屋養淸 葉院〈已上京師〉
小西彌三〈沙界〉 佐世與三左衞門 宍戸善兵衞 博多宗室 堅田兵部 長岡休夢 宮木藤左 衞門 水谷伊勢守 石田木工頭 寺澤忠次郎 上田佐太郎 小瀨信濃守 、寺西筑後守 高山勘右衞門 伊勢立阿彌 松井佐渡 熊谷半次郎 蒔田權助 長谷川右兵衞 醫師玄勝井口伊右衞門 千秋式部大輔 田原四郎三郎 柳川權助 柳川藤内 天野屋宗也 龍造寺六郎次郎 大屋道頓 久阿彌 養藏坊 圓阿彌 柘左京 無樂 歸齋 山口宗古 木下半助 松岡左京 福藏坊 津田隼人 覺甫 有覺 宗彌 道七〈已上諸所〉 桂州和尚〈名道倫、號含旭、天龍寺僧、住延慶庵、寬政六年寂、年八十一、〉 宗納〈雲州太守、諱治卿、號不昧、稱一々齋及一閑子、嗜茶事、識鑒冠于一世、文化中逝、〉

〔古今茶人系譜〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 東山義政公御師範、南都稱名寺珠光、 織田信長公御師範、武田因幡守紹鷗、 豐臣秀吉公御師範、田中與四郎宗易、 台廟〈○德川秀忠〉御師範、古田織部正重勝、 猷廟〈○德川家光〉御師範、小堀遠江守政一、 嚴廟〈○德川家綱〉御師範、片桐石見守貞昌、
右、世ニ六宗匠ト稱ス、皆將軍家之御師範タルニ依テ也、

〔京都將軍家譜〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 義政
晩年於東山慈照寺内東求堂居焉、蓄古器、求名畫、喫芳茗、以遣世慮、世稱東山殿、〈大館刑部大輔政重、畠山中務少輔、伊勢因幡守貞誠、爲御供衆、細川治部少輔政信、一色兵部少輔義遠、爲御部屋衆、後藤佐渡守、藤民部、爲走衆、大館、畠山、及伊勢右京亮貞遠、伊勢上野介貞繼、爲申次、其餘番衆、及同朋吉阿彌、調阿彌等奉仕焉、〉

〔茶器名物集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0605 凡古今茶湯ノ名人ノ名、大形注シ侍リ畢、
〈普光院(足利義敎)御代〉一毎阿彌 〈慈照院東山殿御代〉能阿彌 〈同〉藝阿彌 〈同〉相阿彌四人
代々公方樣ノ御同朋也、御繪之外題此衆也、能阿彌名人也、忠昌藏主天下一ノ手書也、此仁ニ能阿彌好ニ就テ、菓子ノ繪ヲ始テ外題多シト也、
〈奈良光明院〉一珠光 〈山名殿年寄衆〉松本珠報 〈公方御藏〉篠香爐家 〈京千本〉道提 〈京粟田口〉善法〈カン鍋一ツニテ、一世ノ間、食ヲモ茶湯ヲモスル勇上ヲ樂、胸ノキレイナル者トテ、珠光褒美候、〉 〈和州〉古市播州〈數寄ノ名人、珠光ノ一弟子也、名物其數所持ノ人也、〉 〈南都〉西福院 〈珠光跡目〉宗珠 〈下京〉宗語 〈京粟田口〉善好 〈堺〉引拙〈名人、名物其數多シ、〉 藤田宗理〈目聞也、紹鷗ノ姑ノ坊主、〉 〈堺金田屋〉宗宅〈珠光ノ弟子〉 〈堺竹藏屋〉紹滴〈花ノ上手〉 紹鷗〈名人、名物六十色程有、〉 〈堺北向〉道陣〈目聞〉 〈堺ムクノ〉宗里〈コヒタル覺悟、一世ノ聞侍人也、〉 〈堺津田〉宗達〈臺主ノ莊一世樂人也〉 〈三好豐州〉實休〈名物其數多シ〉 此外數奇者ニ可之、關白樣〈○豐臣秀吉〉此外武士衆ハ不入、〈大阪ニ被召置堺衆ノ分〉 〈田中〉宗易 〈今井〉宗之 〈津田〉宗及 〈山上〉宗二 〈重〉宗甫 〈住吉屋〉宗無 〈モス屋〉宗安 〈田中〉紹安
大方百五十年以來之茶湯者此衆也
一茶湯名人ニ成テノ果ハ、道具一種サへ樂ハ彌侘數奇ガ專也、心敬法師連歌語ニ曰、連歌ノ仕樣、枯カシゲ寒カレト云、此語ヲ紹鷗茶湯ノ果ハ如此有度物ヲナド、常ニ申サルヽノ由、辻玄哉語傳候、但茶湯ハ風體年々珍可替ノ條、其時ノ先達ニ可習者也、
一此玄哉ハ紹鷗一ノ弟手中、壺大事迄一人ニ相傅也、心ノ深者也、〈但目聞ハメクラ也、茶湯モ下手也、〉
一紹鷗ハ五十四而遠行、茶湯ハ正風體ノ盛ニ死去也、物ニタトウレバ、吉野ノ花ノ盛ヲ過テ、夏モ越シ、秋ノ月紅葉ニ似タリ、
一引拙ハ、十月時雨ノ比、木葉亂時節ニ似タリ、七十而遠行、
一珠光ハ及八十歲遠行、極月冬木ノ雪ノ遠山ニ似タリ、
一右三老ノ行、色々ニ替ト云也、但何モ面白シ、
一宗易茶湯モ早冬木也、平人ニハ無用歟、老年及七十
一名物持ハ其年程ニスル也、侘數奇ハ年ヨリ若ク可然云々、是古人傳也、
一紹鷗ハ始ハ歌道者也、此詠歌大概之序ヲ逍遙院殿へ聞テ、扨茶湯之名人ニ被成、是ヲ密傳ニス、宗易道陳ハ禪法ヲ數奇ノ師匠ニス、拙子式モ右三老ノ跡ヲ續也、

〔茶之湯六宗匠傳記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0606 一珠光 和州奈良の人〈兩説〉〈光明寺稱名寺〉の僧にて十年餘住し、廿四五の比より在京して、三條に小庵をかまへ、相阿彌が花の弟子になる、京家の便を得て知音を求め、天性茶道を好 み、唐物の茶入を見せて給われと望ありきし人なれ共、自然と名高く、茶道俊逸のほまれ、慈照院義政公聞召及ばれ、まみへ奉り、還俗し、六條堀川さめうし通の西に茶亭をかまへ住居せり、義政公珠光が宅〈へ〉時々入御し給ふ、珠光庵主といふ額を遊され下し給ふを、京都の住人中尾氏宗言といふ表具師の本に于今傳りて有り、茶式におひてはかたのごとく古實を覺、畫工を好、是亦眞相が弟子也、
一宗珠 珠光の一男也、又印説齋と云、父の遣跡を請、世に名高し、六條堀川に住す、予師道可先生の常に被申し、此事は江府にて山田宗二の書去方に有り、是にて印説の事を慥におもふ、一武野紹鷗 俗名武田因幡守仲村と云、甲斐源氏武田信光の末裔也、剃髮の後、一閑齋武野紹鷗と改、又居住京室町通四條上町、北隣にゑびすの社有、よつて大黑庵と號す、生國は泉州堺の住也、天性茶道を愛し世に名高し、和歌の道を能す、千利休師匠と成て世に名高し、是より茶人の宗匠と云事定る也、死後一閑居士と號す、京都五山の其一ツ建仁寺の内正傳院と云は、織田有樂息左門長好の建立する處也、左門剃髮して道八と號す、茶道をもてあそび、紹鷗が風をしたひ分正傳院に筋違の數寄屋とて今に有、其かたはらに織田有樂の塔と、道八の塔と、紹鷗の塔有、紹鷗の死去は弘治元年十一月廿九日也、元祿十五年迄、百四十八年に成る、〈○中略〉
一千利休は、生國泉州堺の人にて、本名田中氏なり、先祖は足利の公方家に仕て同坊たり、千阿彌と號す、故に末裔千の字を氏とする、利休俗名千與四郎と云て、堺にて魚問屋をして富貴也、其比刀脇指の目利を仕覺へ、藤四郎吉光の脇指を金子七拾五枚に買取、壹尺有しを五步あげ、九寸五分にして指、ひたと目利講に出られし、今のあらみ藤四郎と云は是なる由、其後與風茶之湯の事知度と思ひ立、紹鷗の弟子となる、其生得器用にして鷗の心に叶、有時小さき水飜を持て出、濃茶を點られしに、鷗の心に不審有つらん、濃茶の跡に、薄茶を九服まで所望ありしに、任師たてられ しに、水飜の一はいにみちず其心をかんじ、利休は宗匠の器量ありとゆるされし、唐物の茶入、利休見てほしく思ひ、右の藤四郎の脇指をうりて、七拾五枚に茶入をかい取、あまり見事なるにかんにたへ、不覺頭巾を取てなげし故、當座になげ頭巾と名付、茶之湯を被成しに、天然と名高く秀吉公被聞召及、被召出、三千石の領地を被下し、其より次第々々に名發達し、一天下の諸大名門弟となり給ひ、貴て和尚と被仰しゆへに、茶の宗匠を今の世まで和尚穃ス、此時よりはじまる、利休の別號を抛筌齋と云、宅地は上京本法寺の前に有、豐臣秀吉公此地を給ふなり、利休炉まゆる所の鎖の間今にあり、末裔今程此所に住居し侍る、總じて茶之湯の世に行れ、今以人の取はやすは利休より此方全(マツタク)なる、其故中古開山なり、後おごり有て、禁裏より御いましめにあひ、逐電し自滅す、其時天正九年二月廿八日に死す、死後宗易と云、二條院の陵船岡山の麓に有、陵の上に五重の石塔ありしを、其九輪を取て自己の塔とす、大德寺の内聚光院にあり、其塔の銘千利休宗易居士と有、天正九年ゟ元祿十五年迄、百二拾二年に成、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 秀吉公御上洛有て、天下治りおだやかにして、御身は大坂城にまし〳〵て後、御心もやすめ、御慰の品々、御茶湯をもあり、其時千宗易天王寺なり、宗及ならなち、宗久三人は堺より召出され、御領地被下、專御茶湯なれば、下々に至るまで此道たしなみあへり、南北に宗及弟子六十人計、宗易弟子三十人程有しを、秀吉公御師匠に召れしより、世の中皆宗易がゝりの茶湯とはなれる物なり、

〔晴豐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0608 天正十九年二月廿六日、宗易、利休事也、曲事有之よりちくてん、大德寺三門に利休木ざうつくり、せきだといふこんがうはかせ、つへつかせ、つくり置候事曲事也、其しさい茶の湯道具新物共、くわんたいにとりかわし申たるとの事也、その木ざうじゆらくの橋の下はた物にあげられ、ぬしめしよりにました右衞門丞さかいこし申候由候也、見物にも有之由候、とり〴〵のさた どもなり、廿七日、利休事もさたのみ也、

〔豐臣秀吉譜〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 天正十八年十二月、千宗易利休精于茶湯者也、秀吉酷嗜茶湯、故宗易受其恩眷厚矣、世人頗敬之、宗易撿定茶器之新舊可否、而决其價數、因是家得富贍、宗易與大德寺僧宗陳〈號古溪〉相議彫己木像之于寺内山門上、頃年宗易含私僻之意、其見茶器也、依己親疎好惡之異同、而或以新爲舊、或以否爲可、以假爲眞、高下其售、屢多騙人、秀吉聞之怒曰、是國賊也、國賊不禁、則予之大過也、豈不將來嘲乎、卽收宗易之、大權現、〈○德川家康〉利家、細川越中守忠興、德善院法印玄以等、受秀吉之命、赴大德寺破之、爲宗陳置宗易木像于山門上也、乃往寺召宗陳等長老數輩而詰難之、宗陳密插卯於懷中、不敢喪一レ精曰、佛法之通塞、時節到來耳、與奉行等相互間駁、而遂不屈、宗陳意蓋謂、事若不已、則必把其短刃、自貫亢而死耳、亦何傷乎、故辭氣最壯、大權現熟視曰、宜玄以罪而解秀吉之怒也、玄以歸而言之、秀吉宥之、因是不却大德寺、其後秀吉梟宗易首於一條反橋下、掲彼木像使其首、以柱夾立之數日、視者如市、

〔茶窻閒話〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0609 利休のむすめおさん万代屋へ嫁して、子も有て後に若後家となりしが、天正十八年の春、世中靜になりしかば、秀吉公諸大名の方へ御成りもしげく、御茶の湯御能等もをりをりあり、又御鷹野にも毎々御出ありし、彌生のはじめつかた、東山邊へ小鷹狩に御出なされ、南禪寺の前より黑谷邊へさしかゝり給ふ、御供には佐々淡路守、前波半入、木下半介、其外御小姓三人許にて、御自身御鷹をすゑられ、山陰の細道を過給ふ所に、むかふの方より女一人下女二三人めしつれ、乘物を後につらせ、破籠やうの物あやしき下部に荷はせ、山々の花の梢をながめやり、いと靜なる體にてかちよりぞ出來りけり、木下半介御先へ立て扇をあげ、上樣の御成なるぞ、笠帽子をぬげよとよび、供の下部は乘物を田の中へすゑ頭を地につけぬ、かの女房はうちおどろきたれども、とりしづめたるけはひにて、帽子をばぬぎ、額綿ばかりにて、枝たけ咲 みだれたる花の木陰に立寄しを、秀吉公御覽あるに、女のとしごろは三十にあまりもやせん、白小袖に紅の中ぎぬかさね、うへには紫繻子に金糸のちらし繡を着、腰のあたりしなやかに、長きもすそをかいどりて、花の下にかくれんとあゆみながら、面はゆげに公の方を見やりたる目つき顏のうるはしさ、花も及ばざる風情なりければ、公も御供なる人々も、目もまがひ、胸うちさわぐばかりなりしかば、御小姓をもていかなるものぞと御たづね有しに、千利休がむすめ、万代屋が後家にて侍るよし、供の女申上けるに、内々美女と聞えしに違はざりし、官女にもかゝる姿はあらじと仰せられける、やがて艶書をつかはされ、ひそかに聚樂へめされしかども、御いらへ申上けるは、夫に別れ、かなしびの涙かはきえず、をさなき子どもゝ候へば、御ゆるしあれとて、御返しだにせざりしかば、公もいやましにおぼしめされ、御内々にて富田左近を御使にて、父利休に、聚樂へ御宮づかへさせよとしきりに仰ありしかども、利休もむすめがみさほを立るこゝろざしを破らせがたく、其上娘を妾に出して身を立ん事をくちをしく思ひて、遂に御請申上ざりければ、公も義理のすぢは破られず、わりなき御もの思ひより、内々はふかくいきどほりあらせ給ひしに、折節大德寺の山門を再興し、棟札を打、我木像をあげし事など、世にかくれなく御耳に達し、さん〴〵不屆なるものとおぼしめす所に、佞臣ども便りよしと見すまし、近年道具の目利に私曲ありといひ、或は賄賂を受て御とりなしを申せしなどと、種々あらぬ讒言かさなりしが、前々ならば御僉議もありて、聞召直さるゝ事もあらんかなれども、内々御不快のみぎりなれば、終に刑せられしとなん、大德寺の山門は、連歌師宗長が建立せしが、久しくして頽破せしを、利休家富たりし故、其檀越宗陳と相議し、古溪和尚へ申て再興し、棟札打、木像を作らせ、つぶ桐の紋の小袖、其上に八德を着せ、角頭巾を右へなげさせ、尻切をはかせ、杖をつかせ、立て遠を望める體にて、樓上にあげ置し、後日何かと御とがめありしか ども、宗陳一人して其罪を引うけし故、大德寺別事なかりしとなん、

〔雲萍雜志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611 山科の隱士丿貫は、利休と茶道を爭ひ、利休が媚ありて世人に諂多きことを常にいきどほり、又貴人に寵せらるゝことをいたく歎きて、つねに人にかたりけるは、利休は幼ときの心はいと厚き人なりしに、今は志薄くなりて、むかしと人物かはれり、人も二十年づゝにして志の變ずるものにや、我も四十歲よりむて自ら棄るの志氣とはなれり、利休は人の盛なることまでを知て、惜かなその衰ふる所を知らざる者なり、世のうつりかはれるを、飛鳥川の淵瀨にたとへぬれども、人は替れることそれよりも疾し、かゝれば心あるものは、身を實土の堅きに置ず、世界を無物と觀じて輕くわたれり、みなさやうにせよとにはあらねど、情欲限りあり、知れば身を全うし、知らざれば禍を招けり、蓮胤は蝸牛にひとしく家を洛中に曳く、我ば蟹に似て他のほれる穴に宿れり、暫しの生涯を名利のためにくるしむべきやと、いとをしくおもふといへりとぞ、丿貫世を終るの年、みづからが書たる短册を買得て灰となし、風雅は身とともに終るとて沒しぬ、無量居士と號す、

〔雍州府志〕

〈八/古蹟〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0611 愛宕郡 針屋宗春宅 在上立賣室町西、宗春茶人也、豐臣秀吉公一時來臨宗春宅、茶亭釜湯沸騰、宗春則供菓獻茶、秀吉公大咸宗春之嗜一レ茶賜祿、子孫於今傳領之、自茲後毎年九月、獻炭之康瓠二箇於東武
了頓辻子 三條南室町與新町之間也、相傳廣野了頓祖、元足利家之從臣、而至義晴公義輝公之時采地少許、至末裔落民間斯所、剃髮號了頓、甚嗜茶、故構茶亭、常置釜於爐、人來訪則供菓點茶而遇之、豐臣秀吉公在播州姫路城時、入洛日必被新町三條南伊藤某之宅、伊藤與了頓其居相近、秀吉公豫不了頓、一時俄然入了頓宅、於茲逆履而出迎之請茶亭、于時釜湯沸騰、則點茶而獻之、秀吉公亦嗜茶、故大感了頓之志、則賜家領、其末孫到今然、故此町號了頓辻子

〔藩翰譜〕

〈十二/古田〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 織部正藤原重勝は、豐臣太閤の御家人たり、重勝又は重能とも重然とも記せり、〈○中略〉若き時より茶の事を好きて、千利休居士が門弟にして、此事を好きし人々は重勝を以て一世の宗とす、
此程は此事の師範する人をば和尚と稱す、この人利休が高弟にて時の和尚にてありけり、〈○中略〉
同〈○元和元年〉六月十一日、織部正重勝、其男山城守某、父子二人切腹、其餘黨悉く誅せられてけり、
織部正は、古き玩器の全きをば、餘りに思ふ所なしとて好まず、されば書晝やうの物をも、かしこを切り、こゝを斷ち、凡の茶具をも多くは損ひ毀りて、又補ひ綴りてぞ用ゐける、世の人皆興ある事に思ひ學びて、世に全き者のなからんとす、松平伊豆守信綱の實父大河内金兵衞久綱、常にかたへの人に言ひしは、必禍ひに罹りて死すべき者なりといひき、其後この人罪蒙りて誅せられしかば、人々大に驚き、如何で兼てより斯くは相知れるぞと久綱に問ふに、古の寶器と聞えしも、世々の亂に失せて、今ある所の物は、皆神佛の護持してこそかく世には殘るらめ、それにおのれ一人の所存に隨ひて損ひ破ること、必鬼神の憎む所にやあるべき、さらば其人も又身を全くして終る事を得べからずと思ひきと言ひしとなり、さる名言たるよしふるき人の物語りを承りき、此事萬にわたり心得あるべき事にや、

〔慶長日記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 慶長十五年九月、此比古田織部〈茶ノ湯數奇老ノ隨一也〉駿府江戸へ下り、師ト而將軍家數奇仕給間、上下馳走ト云々、會毎膳部ニカハラケヲ用ユ、

〔駿府政事錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0612 慶長十七年八月十四日、朝召一乘院御茶、日野入道、金地院、藤堂和泉守爲相伴、折節古田織部介重然下着、仍今朝立御茶、織部者當時數奇之宗匠也、幕下甚崇敬之給、諸侍志茶湯輩、朝于晩有茶湯

〔茶之湯六宗匠傳記〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0613 小堀遠江守政一公之像
一御先祖は織田常眞に仕へ、小堀彌介と云し人の末裔也、御當家被召出、大名と御成被成し、彌介殿之知行、今に泉州和州に有、御居住近江の小室也、御子孫代々此所に居住也、遠州は織部の秘藏門弟にて、分〈テ〉器用御目利隨一、世に名高く、御一代に名物之茶入多く御取出し名を付、今の世まで世の重寶となるのみか、末代の鏡也、其外器物多く物數寄をしとふ、其功如神、宗甫公〈○政一〉の後に茶之湯の宗匠絶終〈ヌ〉r、是と云も遠州公ほどの人なき故ならん、正保四年二月六日、行年六十九歲にて卒去したまふ、此年元祿九年二月六日、五十年回忌に相當る、則孤蓬庵に御墓所有、

〔藩翰譜〕

〈六/小堀〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0613 遠江守藤原政一は、〈初名は新助、其號は宗甫、〉近江國住人小堀勘解由左衞門某孫新助某が子なり、〈○中略〉政一初め豐臣家に仕へて、其後德川殿に召仕はれ、〈近江國にて一万二千石〉元和九年、伏見奉行職に補せられ、職にある事二十餘年、正保四年二月六日、六十九歲にて卒しぬ、〈○中略〉古田織部正重能、利休上足の弟子にして、政一又古田が第一の門人なり、其道の事は云ふに及ばず、手能く書き、歌よみ、眼高く、書畫萬の器珍、悉く其鑒定を待て世の價を高下す、されば水より出し氷、藍より出る靑色、世世の先達を超過して、上中下のもてなし、譬を取るに言葉なし、其子備中守政之、父が家を繼ぎ、父が風を殘せり、

〔嚴有院殿御實紀附錄〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0613 茶技は室町家中葉よりはじまり、豐臣殿下の頃となりては、いとさかんになりもてゆき、軍陣騒擾の間にもこれをもて風流の雅戯とし、はては互に門戸をたて、流派をきそふに至り、茶博の徒はいふもさらなり、大名にも古田織部正重勝、小堀遠江守政一、片桐石見守貞昌など、名あるものども出來たり、大猷院殿〈○德川家光〉にも常にこの御好おはしましければ、當代〈○德川家綱〉もおなじくすかせ玉ひ、燕間の折からは一爐の松風に御心をすましめ、三椀の雲腴に世塵を洗はしめ玉ひき、其外三家の就封、京坂兩職を餞せらるゝにも、老臣の燕見にも、これもて 饗應の一途となし玉ひけり、またその頃石見守貞昌と船越伊豫守永景とは、こと更陸家の風をおこし、玉川の流に遡り、年久しく茶事の宗匠として、その名一時にたかゝりしかば、寬文五年霜月の頃、兩人を御茶室に沼れ、其技をなさしめて御覽あり、老臣も陪席して彼等がその技に練熟せしさまを賛嘆し、公にも殊に御氣色にかなひしとて、兩人に饗賜ひ、物など下されしとぞ、

〔筆のすさび〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0614 茶人の名家たる久田宗全は、雛屋勘兵衞と云て、一條新町に居住す、江岑宗佐の弟子なり、宗全先祖は久田刑部と云て、江州佐々木牢人なり、刑部妻は千利休の妹なり、刑部の男を久田新八と云、入道して宗榮と號す、宗榮の子を久田理兵衞と云、入道して宗理と號す、此人宗旦の弟子にて、江岑宗佐の妹おくれを妻とす、理兵衞實弟を源兵衞と云、藤村宗德の養子となる、宗理の嫡男宗全なり、宗全の弟も亦江岑宗佐の養子と成る、隨流宗佐是なり、宗全の嫡男も亦千家の養子となり、原叟宗佐是なり、
藤村宗德も佐々木牢人にて、江州藤村の人なり、藤村は藤堂邑の隣村なり、故に高虎朝臣、後に宗德を御伽に被召て、五十人扶持を下し賜はる、宗德實子なくして、久田理兵衞が弟源兵衞を養子とす源兵衞も亦宗旦の弟子にて、後に反古庵庸軒と號せし人是なり、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0614 利休ノ臺子直傳ハ藤村庸軒一人存命ノ由、此人若シ時古織〈○古田織部正〉ヲ學ビ、遠州公〈○小堀政一〉ニ親炙ス、强年ニ及ンデ千家ノ蘊奧ヲ探リ、齡八十ヲ過テ一日モ爐火ヲ斷サズ、加之平日書ヲ讀ミ詩ヲ題スルコトヲ好ム、暇アル時ハ茶匙竹筒ヲ製シテ俗事ニ渉ラズ、門流甚ダ多シ、

〔桃源遺事〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0614 一水戸城神崎といふ所に、若き蒔より數寄をたしなみ、友なき時も獨此業を友として年月を送る老翁有、〈桑屋三夢〉よはひ旣に八旬に餘れり、立居も叶はざれ共、此事は尚昔に替らず、明暮翫び樂とす、西山公〈○德川光圀〉彼叟が事を聞召被及、或時宅邊を過させ絵〓迚、人をして案内せさせ給ひ、頓て御立入候、家は藁を以葺、膝を入るに不過と云まほしき程の住居なれば、增して數寄 屋といぶもの作べきカもあらねば、唯庵の内をかた計をかしくしつらひ、爐を構へり、斯狹き家也ければ、御供のもの共はみな垣の外に留りて、内へは御近臣二人のみ參りぬ、彼叟足を痛みけるが、貴人の御前にて爭か無禮には坐可申と、いたく侘候を御聞付、不苦候間おり能樣に坐し可申と被仰候へば、御免を蒙り、二三歲なる稚子の坐したる如にして、御茶を奉りける、茶入のこと樣なるを御覽被成、名を御尋候へば、名は無御座候由答申候、其茶入のか、たのめぐりに、雲のやう成物有ければ、横雲と呼候へと被仰候、御茶過て御歸りなされ、あしや釜を彼翁に被下候、〈此段は御隱居後なり〉

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 享保十二年十月十五日、參候、中井主水定覺ガ常修院殿〈○慈胤法親王〉ヘノ咄シニ、昔シ加藤越中守ハ、武威ノ天下ニカクレナキ者ナリシガ、茶ノ湯ノ沙汰ハナマデ聞ザリシガ、或時ノ所望ニテ金森宗和へ參ラレシガ、甚ダ唱嘆ニテ、宗和ノ茶ハ名人ト謂ツベシ、我所望セシハ全ク茶ノ儀ニアラズ、其氣ノビハツル所ヲ見ント欲シテ也、ニヨツト炭取ヲ持テ出ラレシヨリ一禮ヲ述グルマデニ、スキマアラバ鑓ヲ入ベシトネライシガ、氣ノ滿タル處、一毛ノスキマモナクテ、終ニ鑓ヲ得入レズト語ラレシガ、誠ニ御上手也ト承リ及ビヌト申タリケレバ、常修院殿ナコソアルベケレトテ、大ニ嬉ガリ也、

〔〈明和新增〉京羽二重〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 茶湯者
上京本法寺前町 千宗左 同 千宗室 武者小路西洞院西〈江〉入町 千宗守 西洞院七條上〈ル〉二丁目 藪内常知 上長者町新町東〈江〉入町 大森有斐

〔茶傳集〕

〈茶人系譜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 石州流
伊佐幸琢 松平出羽守〈砌佐渡守、後出羽守、從四位、少將治郷、號不味宗納、稱一々齋又一閑子ト、文化逝、○文政元年四月卒、〉

〔筆のすさび〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0615 茶事に長じたる人、古より名家數多あり、おのれ〈○橘彦通〉壯年あころより往來して、目 のあたり見聞しける宗匠家といふ分、三十人ばかりもありぬべし、その中に、鈴木宗川、久田宗溪、同弟宗參、鈴木知足庵、速見宗達、この五家ほど事實式禮等に精しく、茶手前もよく、茶の湯も上手にて、幷に詩歌の風流にもわたりし人は見當らず、この餘にもありぬべし、予がしれる人の内ばかりをいふ、

作意

〔茶譜〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 千宗易、泉州堺ノ町ニ住居、侘ノ比ヨリ茶ノ道不懈玩ブ、然ニ其時代ニ紹鷗ハ茶湯者ト云テ、世ノ人甚用テ師トス、或時紹鷗ハ宗易住所邊ヲ通、折節門前ニ水ヲ打、掃除奇麗ニ嗜テ住者有、紹鷗立寄テ亭主ノ名ヲ尋シニ千奧四郎ト云、則呼出テ知人ニ成、今朝他へ先約無之バ、此庭ノ槿ヲ見テ茶湯ニ可逢モノ殘念也、明朝必可參、茶ヲ振舞玉ヘト約束シテ歸、與四郎悦、翌朝紹鷗來ヲ待、紹鷗不契約ヲシテ與四郎宅へ行、路地口ノ戸ヲ開テ見ルニ、前日ノ槿一莖モ無之、紹鷗思玉フ、近比野人ナル亭主ニ出合、槿マデ空スルコト殘念ト、腹立シテ可歸ト思ヘドモ、立歸テ座敷へ入テ床ノ中ヲ見レバ、釣花入ニ槿只一輪有、紹鷗見之、自最前ノ我心ヲ耻テ、庭ニ一本モ無之ハ尤ナリ、我ニハ幾計增與四郎ト感入テ、之ヨリ猶因深成ト也、其後愈天下ニ崇敬セラレ、宗易ト云シナリ、又紫野大德寺門前ニ菴室ヲ造、堺ヨリ折々來テ聚光院笑嶺和尚ノ參下ニ成テ、利休居士ヲ受、此菴室ヲ不審菴ト云、四疊半ヲ造テ茶ヲ玩ブ、

〔茶話指月集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 一宗易庭に牽牛花みごとに咲たるよし、太閤に申上る人有、されば御覽ぜんとて、朝の茶湯に渡御ありしに、朝がほ庭に一枝もなし、尤無興におぼしめす、扨小座敷へ御入あれば、色あざやかなる一輪床に生たり、太閤を初〈メ〉、召れられし人々、目さむる心ちし給ひ、甚〈タ〉御褒美にあづかる、是を世に利休があさがほの茶湯と申傳ふ、

〔備前老人物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0616 筑紫にて蘭白秀次、小倉の色紙をもとめ得給ひ、御座敷をあらため、色紙をひらきの御會あり、利休を上、客として、相伴に三人あり、比は四月廿一日餘、曉がたのころなりしに、風呂 の御茶湯也、人々座敷にありけれども、短檠の火もなく、釜のにへをとのみにて、いかにもしづしづとしたる樣體也、いかなる御作意ならんとおもひ居ける折柄、利休の居られしうしろの障子、ほの〴〵とあかくなるを不思義におもひ、障子をあけられければ、月影あかく、御座のうちにほのぼのと移 けるまゝに、さればよと思ひ、にじりよりて見れば、小倉色紙の御かけもの也、その歌に、
ほとゝぎす鳴つる方をながむればたゞ有明の月ぞ殘れるとある、誠に折にふれ、おもしろき事いはんかたなし、其時利休その外の人も、さても名譽不思義の御作意かなと、同音に感じ奉る、

〔槐記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 享保十三年三月廿二日、參候、昔ノ茶湯ニハ墨跡バカリニテ、歌ノモノヲ掛クルコトハ、利休ガ時分ニ、或茶人ガ利休ヲ請招シテ行カレシガ、中クヾリヲ開タレバ、草茫々トシテ飛石モミヘガタキホド也、如何ナルワザニヤト推シテ、漸々ニ草カキ分テ入ラレシガ、鉢前ハイトキレイニ掃除シテアリケル故、イカニモ分アリケリト、中ニ入テ床ヲ見ラレタレバ、其家ノ重代ニ、定家ノ小色紙ヲ所持シタリシガ、此色紙ガ八重むぐらノ歌也シカバ、利休モ尤モナリト感ジタリシガ、此レ歌ノカケモノヽ掛初メ也ト申ス、御前〈○近衞家煕〉ノ御説ニハ、利休ガ太閤秀吉ヲ請招シ、テ、初テ定家ノ小色紙ヲ掛タリ、其歌ハ、天原ふりさけみればノ歌也、秀吉ノ不審ナリシニ、利休ガ返答ニ、此歌ハ日本人ガ唐ニテ讀テ、月一ツニテ世界國土ヲ兼テ讀盡シタル歌ナレバ、大燈虚堂ニモヲトルベカラズト申シ上シヨリ、歌ノモノ掛タルト御聞ナサレシ由仰ナリ、

〔老の波〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0617 作意なしに茶たてよ、法に隨へとはいへど、又琴柱ににかはする事は、いと風流を失ふ事なり、作意新意も其出る所おもしろがらせんと、例の輕薄の情より出ては、いと拙くして、はてはいかに流れゆかむも知るべからず、只我物になすべきなり、我ものになせば、臨機應變其程を得るなり、〈○中略〉森口といふ所にわび人あり、宗易知人なりけるにぞ、ある冬の夜、ふと夜ふかく立よ りたり、主悦びて迚へ入れたり、住居のいとわびたるもをかしく思ひたるに、窓の外面に人の音しけり、みればあるじ燈に竹竿もちそへて、柚の樹の下にゆき、竿もて柚を一つばかり打落して袖にして入りぬ、うち見るより是を一種の調菜にしぬるなり、いとをかしきわざかなと思ふに、さればぞ柚味噌にして出しけり、酒一獻すぎて、大阪より到來しつるとて、いと美、しき餅をいだしぬ、宗易さらばよべより知らする者ありて、かくはとゝのへけむ、初めのわびたるさまは皆作ちもの也と興さめて、その會未半ならざるに、京に用事ありとて急ぎ歸りけり、あるじとゞむれどもきかざりしとぞ、今の茶は皆作り物なれば、宗易め心おもしろくかたらふ友は、いまの茶をなす人には少なくやあらん、是も三齋翁のかたられしに、むかし宗無といふわび人の茶に、宗易ら客にゆきけり、あるじいでて、唯今名水到來候とて、釜を引上げて勝手へいりけり、其内に宗易棚より炭とりおろして、すみをさしくべけり、あるじぬれがまをもち出て、暫く炭をみて釜をかけゝり、予も此席に在けるが、是程おもしろかりつるはなかりしといひ給ひけるとなむ、主客の意の合したる事など、これらをみても知るべし、名水を待ちうくるに常度にかゝはらざりしぞ、實に活動ある所作にて、これらをみても其實意よりいでて、わが物になりしは、みな臨機應變かくはありけるてふ事を知るべきなり、

〔茶窻閒話〕

〈上一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0618 京師眞如堂の僧に東陽坊といふあり、茶道を好みて利休の弟子となり、尤侘數奇の名譽ありけり、掛物には尊圓親王の六字名號を、利休の好みにて紙表具にしたる一幅、伊勢天目一ツにて、一世の間爐を絶さざりし、或時秀次公の近臣を請じ茶湯せしが、薄茶をたてゝ、さて各には暇なき方々に候へば、薄茶に手間とらず、大服にたてゝ進ずべきほどに、吸茶になされ候へとたて出しけり、此作意時に應じてよろしきと、休師も稱美せられ、世人もほめて、其頃は薄茶をも吸茶にせし事はやり、彼が名をかりて、大服に點るを東陽に仕るなどいひし、

〔茶窻閒話〕

〈上二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 小堀遠州侯伏見におはせし比、筑前守黑田某、歸國の次手立寄候はん間、御茶給り候へと、道中より申越れければ、其用意ありけるに、何がし俄にいたはりありて、大津驛にて養生せらるゝをもて、當日の茶會ことわりの使者を立られければ、遠州にもほいなく思はれしをりふし上林竹庵京の數奇者兩人を携へ見舞に上りければ、幸今日は催せし事侍りぬ、路次へまはり候へ、茶をふるまはんとありければ、三人甚だよろこび、有がたき段申けり、比は六月はじめつかた、夕立の雨さわがしく、中立なりかぬるほどなりしが、晴ての跡はいと凉しかりけり、かくて案内にしたがひて入しに、花なき床の壁に、さと水打そゝぎしあとばかりなりければ、各いかにと思ふ所へ侯出給ひて、けふの夕立、路次の樹々のぬれそぼちて、いさぎよきを見られし目にては、いかなる花にても賞翫あるまじとて、生ざるなりと仰られしに、三人あと感じて、人々にもかたりきこえければ、京中の生茶人、雨さへ降ば床をぬらして、花いけざりけるよし、遠州侯傳へ聞給ひて、大に笑はれけり、

茶人之弊

〔和漢茶誌〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 茶道
世人以動作之容貌茶道者、其實非也、自古及今、有用茶道二字、有茶之道言者、所連用者、卽以茶由道之意、字義重、插之字者、泛言茶之義、今呼茶職以稱茶道者、行茶之法有司也、其意亦通、苟知動作之爲茶道、而不道説義、則言語躁妄、擧動輕浮、日日貪邪利、夜夜謀姦詐、或竊弄筆以寫和漢舊墨、或勞力以制木竹新器、亂眞鬻贋、只要於人、其計不行、則後騙詐典賣、以欺他人其利、其心無時而已、不貪、則自病怨人、寢計寤較、欲自已已、駸駸陷乎不義之地、謂之茶人而可也乎、是皆不茶道之罪也、不辨、

〔獨語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0619 近き世に、人のもてめそぶ茶の道こそ、いと心得ぬことなれ、〈○中略〉人に茶を飮まするには、先づかこひとて、一間なる狹き所に集らて、食ひ物も人によそはすることなく、手らもりくひ、酒も 自らくみ飮みて、其器をも、手ら洗ひ拭ひて撤す、點心くひて後に、出でて口そゝぎて入る、主自ら茶を點じ客人に奉れば、一つの茶碗に點じたる茶を、上座の人少し飮みて次の人に傳ふ、三人にても、五人にても、次第に飮みて、末座の人殘りなく飮みて、其茶碗を上座に授く、上座の人取りて、子細に見て珍器なることを譽めて、又次座の人に傳ふ、次座の人も子細に見て、次第に傳へて末座に至る、末座の人見をはりて主にかへし、客人一同に謝詞をいだして頓首す、次に茶碗の袋をこひ見、次に茶入を見、次に茶入の袋を見、次に茶杓をみる、見るべきほどの珍器にあらざれども、請ひてみるを禮とす、爐に炭をおくも子細ありと云へば、主の炭をおくをば、客人さしよりて見て是をほむ、瓶に花をさせばほむ、大方何事も主のすることを見て譽めずと云ふことなし、諂の至と云ふべし、かこひのつくりは、傳へ聞く維摩居士が方丈の室よりも、今少しせばくして、小き窓をあけたるのみなれば、白晝にもくらく、夏は甚あつし、客人の出入る口は、狗竇の如くにて、くぐりはらばひしていれば、息こもりて冬もたへがたし、飮み食ふ物も、人、の口に好み惡む物あるに、主のいかに心づかひせりとも、口にかなはぬ物を、必のこさずくはんとするもくるし、させることもなき器を、珍らしげに譽むるもそら耻かし、又物ずきとて、家作より諸の調度に至るまで、常にかはりて珍らしくやさしきことをばすれども、茶人の家居は、必柱なども細く、障子の骨迄も、風にたへぬばかりにほそくす、或はまろくゆがみたる柱を皮ながら用ひなどして、ものずきをかしとて興ず、物食ふ折敷も、足の高きをきらひて平をしきを用ふ、すべて茶人の物ずきと云ふは、萬何事も貧くやつ〳〵しきさまを學びたる物なり、〈○中略〉我國にては、鎌倉の時、五山の禪僧異國より茶を持ち來りて弘めしが、世の人さのみもてはやすこともなかりしに、室町の公方義政、是を好み給ひ、朝暮に是を翫び、東山の慈照院の銀閣にて、茶の會しば〳〵なり、しかれども義政は天性奢侈を好み給ひし故に、茶を玩ばるゝにも、茶室より茶の具に至るまで、必堅緻にて美 麗なることを好み給へり、今の世の茶人の如くに非ず、東山殿の調度とて、今に傳はれるを見るべし、近き世の茶人は、利休居士を祖師とす、利休は獨身の禪門にて貧賤なるが、草の庵のせまき内にて茶を樂めるを、當時の諸侯富貴の樂にあきて、利休が貧賤寒酸の樂をしたひ、大廈高堂をさけて、一間なる所をしつらひ、其内にて手づから茶を點じて、人に飮ませて樂めるなり、もと獨身の禪門の、貧くやつ〳〵しき者の樂をまなびたる故に、一間の作より始めて諸の器に至るまで、皆あら〳〵しき物を用ふ、食物も美膳をきらひて淡泊なる物を好む、凡茶人のなすわざ、ことごとく貧賤なる者のまなびなり、されども富貴なる人は、貧賤なる者をまなびて樂とするもいはれあり、元より貧賤なる者、何ぞ更に貧賤のわざを學びて樂むことあらん、今の世に富貴なる人、己が好む心より、貧賤なる者を茶に請ずるは心得ぬことなり、〈○中略〉近世に茶の道を弘めし人は、利休宗旦等が外には、片桐石見守貞昌、小堀遠近守政一なり、此の人々は貴賤異なれども、皆聖賢に非らず、常の人なるに、今の茶人、必此の人々のしわざを學びて、是は利休が法、是は遠州の法、是は石州の法とて、禮法を守る如く、一向に堅く守りて少しもたがはじとす、かたはらいたきことなり、今にてもあれ、世に勢ある人茶を玩び、先輩にかはりて新きわざをし出ださんに、くみする人數多ありて、是彼にて其しわざを學びてせば、やがて一流となるべし、是茶の道に一定の法無き故なり、我〈○太宰春臺〉も平生茶をたしむ故に、人の許にて美膳などくひたる後に、上品の抹茶を濃く點じて出ださるれば、口にかなひて甚快し、但それも廣き座敷にて、食ひものを心にまかせてくひ、酒も人にくませてのみ、點心もよく食ひて、茶をも新しき茶碗にて、つかふるものゝ點じたるを、人々別なる茶碗にてのむはよし、今の茶の道は、きはめていとはしきわざなり、茶を貯ふるは、此方の磁器にもさるべきものあり、さもなくば棗の形なる漆器よし、銀器錫器もよし、茶を抄ふには銀の茶匙を用ふべし、茶碗はいかにも新しきを用ふる潔く快し、

〔茶事談〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 近代萬方茶ノ會ヲコノミテ諸流ヲフカチ、ソノ流々ヲ論ジ、タヾ賓主應對ニ敬禮モナク、タヾウツハモノヽ善惡、アルビハアタイノ高下ヲキソヒ、容貌動作ヲ論ジ、衆人茶室ニ羣居シテ、終日淫媟戯慢スルバカリナリ、カクノゴトクニテハ、日々ニ茶會ヲモヨホスト雖、又何ノ益アランヤ、茶誌ニ、南川子云、唯侈麗奢靡ニシテ、却テ妨風雅ト云、又世俗茶ハ驕ノ本トイヘルハ、近代京師浪花ノ有德ノ者、茶事ヲ好テ雅器ヲアツメ、茶會ニハ古物ナクテハカナハズト心得、過分ノ財ヲ出シテコレヲモトメ、或ハ寺院ノ戸帳、佛閣ノ石燈籠、古井筒ナドヲ乞求メ、美食ヲモフケ、茶器ノ新古ヲ競ヒ、或ハ他ノ茶會ニ行テモ、一會善惡ヲ論ジ、又ハ主ノ越度ヲ見付ントシ、會席飮食ノ取合セヲ笑ヒ、彼ハイカン此ハヨシト毀譽ノミニテ、風雅ト禮ト法トハ一向ニ無之ユへ、茶會ハ驕ノ沙汰ニナレリ、又茶器ヲ商者モ、唯金銀ヲ貪リテ茶器ノ新古ヲワカタズ、唯怪キ器物ヲ以テ財ヲムサボリ、又由緖アル雅器ハ、人ノ耳目ヲ驚スホドノ金銀ヲ乞、此等皆近代茶事ノ風雅ヲ妨グ源ナリ、總ジテ茶人トシテハ、第一驕ヲ戒メ、其門人ニ禮ヲ學バセ、其人ヲ化スル事、茶道ノ本ナリ、近代ノ茶人、茶ヲ愛スレドモ其道ヲ不知、門人ニモ富有ナル者ト見バ媚諂イ、惡コトヲモ却テホメ、或ハ和漢ノ書畫珍器ヲウツシ、木竹ヲ製シ、人ノ目ヲ僞ル、又茶ヲ愛スル人ニモ、無益古器ニ金銀ヲツイヤシ、終ニハ先祖ノ家ニモ離レ、漂泊ノ身トナル人コレ多シ、〈○中略〉又茶人トシテ、茶器ヲ藏ムル箱ノ裏ニ、其姓名ヲ書シ花押ヲスエ、其門人ニアタヘテ禮物ヲウクル人アリ、コレ茶人ノ耻ル所ナリ、往昔ノ珠光ハ茶ノ德ヲ尊ミ、水ト茶ノ香ト服トヲ論ジ、茶ヲ能保ツ茶入ヲ愛シ、水ヲ能保ツ水壺ヲエラミ、茶ヲヨク浮ム茶盌ヲ求メ、無鉎釜ヲ用ユ、コレ茶ヲ尊ム本意ニ依テ、茶味ヲヨクナサン爲ノ風雅ニ非ズヤ、

〔閑田耕筆〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0622 茶の態の益は、いとふつゝかにあら〳〵しき人も、是を翫べば起居おとなしく、物をとりあつかふも見ざまよく成ぬ、又主客の禮節、たとへば夜會にあるじ手燭を携へ出て客を迎 へ、燭を石上などに置て禮して退く、客其燭を取て庭の木立など見るふりして、わざとなく主の歸る道を照らすなどやうの心づかひ、禮の實に愜ひて此意をめぐらさば陰陽成べじ、さるに俗流の弊風、得がたきをもとめ、金錢を費し、あるはまた其産業ならぬ人も、〓智あれば是をもて利を射るにも及び、心ざまよからず成行もまゝみゆ、富豪の家に茶を翫ぶことを禁ずるがあるも、子孫過奢に及んことを懼るゝと也、利休のことばとかや、釜ひとつもてば茶湯はなるものをよろずの道具好むはかなさ、釜なくば鍋湯なりともすき給へそれこそ茶湯日本一なれ、かくいへば有道具をもおしかくしなきまねをする人もはかなき、〈○中略〉
一人茶を翫びて、苔むしたる石の盥水盤を愛し、今參の男に水かへさせけるが、彼苔を殘りなく洗ひ捨つるにおどろきて、かくはするものかとむづかりしにこたへて、さきに見侍れば、蚯蚓蜒蚰蝸牛やうの虫、苔をよすがに宿りしかば、口をも嗽ぎ給ふものをと思ひて、能淸め侍りしといふ、あるじこゝにして思惟すらく、彼がいふはことわりにして、吾古びを好むは僻めりと、これより古器の潔よからぬをさとりて、つひに茶事を廢せり、

〔花月草紙〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0623 やんごとなき人ありけり、茶たつることをこのみて、かの宗易が流をくみて、かれがもたるうつはなどおほくとりあつめ、宗佐よりいまの代々のつくらせたる什器やうのものまでも、かくることなくそなへしなどゝ、みづからおひ給ひてけり、ある時宗易が像をかべにかけて、かくたうとびぬるは、われにまさるものやあらんなど、かたはらのものにもあさ〳〵しくいひて、茶ひきて居給ひしが、かの像より、煙のごときりのたつやうにみえしが、宗易來りて、われはもとよりいやしきものなるが、物にかゝはらず、心だかき氣象ありければ、太閤〈○豐臣秀吉〉のとり用ひ給ひてけり、茶たつる事は一時の心やりにて、なしてもありなん、なさでもあるべきものなれど、そのころいともてあそび草となりて、さま〴〵心にまかせ、つゐには法もなく禮もなく、みだ れもてゆくべきと思へば、さゝやかなる道ながら、式をたて法を定めて、人にもおしへものしたるを、いまはいとおもき事のやうに心得て、その道しらぬもの其室にいれば、かほあかめて一言も出し得ざるやうに、人の心にそみわたりしも、いと愚かなることゝ悲しび思ふ、さるに君は人にもかずまへられ給ふ身にて、わがごときものをたうとび、このみちのはかなきをもしらで、いとおもきことゝ心得給ふ、心のひきくつたなさは、われもいといやしみ思へど、さすが流れくみ給ふえにしもあればかたりぬ、君いま心だかうて、其身のほどにしたがひ、なすべきことをつとめ給はゞ、きみが手ならしつるうつはものよとて、千とせの後もつたへものすべし、これをわれより古をなすといふなり、いやしきわれらのもたるうつはものなどに、おほくのざえを盡してかいもとむるのはかなさにては、このさゝやかなる道とても、心にはいかで得給ふべきと、はたとにらむと思へば、ねぶりもさめにけりとぞ、

〔心の草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 茶たつる事は、いとたふとき道と心得て、客まねきつゝ、主人いかにもしりがほに出でてもてなし、此かけ物は虚堂の墨跡、多くの黃金出だして買ひたり、この釜はあしやにて、何千貫の折紙こそあなれ、この茶わむはほり出しなれど、世に有るべしとも覺えず、殊に我は禪味しれば、名だたる宗匠もなどて及ばむ、ひさく斯く持ち、水斯く汲みて、斯く釜にいるゝに、松風の吹きたえて諍かなるごときは、心の妙とやいふべきと、心におもふ客もそれ〴〵の心に有りけり、

〔隨意錄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0624 世有茶道者、予〈○冢田虎〉私顧之、其爲道也、會親友於狹室、相歠一碗苦茶、而交歡心、物示素樸、以戒浮華、居不膝、食不味、淸談閑語、以相樂餘暇、是其所以爲本意者與、而今世人以是爲一技藝、而觀此技、其會宴之室、供張之具、好設古奇、競陳珍異、則商賈乘之以貧贏利、蠻夷之器皿、僧侶之墨蹟、藏卑拙物、貴價以售之、而其好之者、徒得其價之貴以相夸焉、其賓主相會也、威儀曲節尤繁、妄褒美其器皿墨蹟、其要唯在歠苦茶、而非敢交歡心、亦非敢有聞之談語、甚則面相褒美焉、退而誹 謗其供具者、我未其趣意、士君子或爲是荒志費財者、不亦惑焉乎、
諸侯名茶技者、古田金森小堀之輩、其家往往滅絶、是雖其當主之愚闇也、然亦可怪也、因竊顧之、神祖〈○德川家康〉謂東山義政、及今川氏眞、皆忘武職而好茶戯、遂破其家、以爲懲誠者、今之諸侯大夫、寧可畏焉乎哉、

茶湯書

〔茶話眞向翁〕

〈坤〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 世に梓行の茶書
細川茶湯書 茶湯古織傅 草人木 右 作者未
茶道便蒙抄 茶道要錄 右 山田宗偏著
茶話指月集 茶話別集 右 藤村庸軒説 久須美素庵編之
茶湯三傳集 茶湯流傳集 茶湯評林 茶湯六宗匠傳 右 遠藤元閑述
茶道全書 右 洛南江染山鹿庵自叙有
此外猶あれども、今時に不適は勿論、昔年を顧るにも不審のみおほくて、諸道の諸抄のごとく軌則となることなし、傳寫の書には、其流々の筆記なきにしもあらねど、夫だに猶取捨有べし、

〔茶道便蒙抄〕

〈一/序〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0625 參地有一人、氏山田、名宗偏、顔其齋四方菴、予斷金之友、而好淸之士也、雖跡於官路塵裏、而遊心於麈外風致、汲惠山之淸泉、煎建溪之芳茗、怡情遣興、其遺世之靜慮、誠可愛也、〈○中略〉中世有紹鷗、以點茶法于世、紹鷗以是傳之利休、利休滋添潤色、其法隆盛、所于列國諸侯、兒童誦利休、走卒知千氏、世以爲點茶百世宗師也、利休傳之少菴、少菴傳之嗣子宗旦、宗旦性好隱逸、不榮利、秪甘淡泊、以點茶樂矣、宗偏遊彼門、有于茲、直傳其衣鉢、而以得利休家法之正脉也、噫近世其法漸廢、而愛之者鮮矣、儻若有之人、亦弗古法之正式、或好異樣、或迷謬説、以誤傅誤、往々皆然也、於是宗偏獨憂其法彌久彌失其傳、作爲斯書、以授之弟子、名曰茶道便蒙抄、顧其爲書、至賓主送迎、茶室周旋、點茶法式、茶具定則、匪悉不一レ記焉、其學之者、細閲此書、則猶炙于利休而視其所送迎、觀其 所周旋、察其所點茶、聴其所談説矣、然則宗偏、卽今之利休也、豈爲茲書外別有利休哉、鳴呼利休旣沒、茶法不茲乎、
貞享乙丑嘉平下弦武城中根素菴揮筆惟梅軒窻下

〔和漢茶誌〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 茶誌序
京之中于國也、開創最居先焉、故制作大備、文物至盛、加以風致之高雅、賞鑒之精到、較視四方、莫之與二也、是以百家衆技、非諸京、則不上游矣、世之掉鞅于文墨之林、游刃乎術藝之揚者、皆莫輻湊星聚、規取定準矣、方今治安百年、庶藝殷興、而於賞茶尤盛、王侯貴人、固使其職上レ之、至于間人遊民、坐甘冷乏、强標枯寂、紈袴金夫、務事侈靡、競鬪珍奇、浮采濫費、驕抗成風、或誇世傳、衒家秘、範圍印定、契舟守株、而不時隨宜、領略活法、要皆無學以文一レ之也、三谷氏耑好茶事、亦少日自西州、來取徵於京、而深歎世之賞茶家無學以文一レ之、故習因仍、有志未立、予嘗以蔡襄茶錄一編贈、蓋警發之也、三谷氏見之大喜、始知非學以文一レ之、則茶事拘蔽、無權變、爾來立志學文、茶事所係、渉獵頗多、而後益知、華之賞茶、肇於唐陸羽、弘於宋蔡丁數人、幾情玄趣、至於近時高濂李漁之徒而極焉、其風流好尚、神運意匠、皆無先得我心矣、何可學以文一レ之乎哉、吾邦之稱宗工者、珠光紹鷗宗易織部遠州、姑無論已、其他聞人、指不屈、而亦皆由學以文一レ之、遂致隠沒無聞、著錄不傳、所道固陋、無一レ述據、三谷氏、今之賞茶家之巨擘、蓋已取徵於京、以其技鳴焉、比年志茶志、大凡茶事之名稱物數、與華人所言爲相合者、搜索裒謄、僕々不倦、釐成三卷、質之同好、在賞茶家、從前所嘗有之書也、可學以文一レ之矣、予與善志、爲作序言云、
皇和享保丁未仲秋旣望京兆香川修德太冲父書于一本堂

茶進獻

〔將軍德川家禮典錄〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0626 〈五月六月〉之内日限不
一禁裏仙洞へ御茶御進獻ニ付、傳奏衆へ可申入旨、所司代へ宿奉書を以老中より達之、 但右御茶之儀は、字治へも差遣候御數寄屋頭新御茶御壺へ詰上候而、所司代御役宅へ持參、所司代請取置候段、老中へ申越次第達御聞候上、御進獻之儀所司代へ達之、

〔京都御役所向大概覺書〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0627 同所〈○宇治〉御物〈幷〉御通御茶師之事〈附〉御茶料御茶摘初御試仕立詰上候日積〈幷〉御步行頭之事
一禁裏法皇御所〈江〉御壺二御進獻、關東御壺仕舞之日、右貳ツ之御壺、御徒頭所司代〈江〉持參被申候、
一御茶道頭〈幷〉組之御茶道、京都旅宿御賄出不申候、御步行衆八人者、宇治に罷在候御茶詰次第被罷下候故、逗留之日限極り無之、逗留中御賄被下、門太郎御代官所御物成之内を以相渡候、〈○中略〉
一例年禁裏〈江〉御進獻之御茶之儀、所司代故障之節者、奉行所〈江〉請取之、御淸所〈江〉差上候先例有之候間、先格之通ニ可仕之旨、紀伊守殿〈○京都所司代松平信庸〉被申聞候、
右御茶六月〈○寶永四年〉四日、大岡忠右衞門、野村休盛、攝津守、〈○京都町奉行中根正包〉役所へ持參、式臺ニ而請取之、但假臺を仕立、其上〈江〉居置候樣に用意いセし置請取申候、駿河守〈○京都町奉行安藤次誠〉儀も御茶着前より相詰、廣間〈江〉出向申候、中小性四人麻上下着請取之、書院〈江〉持參、床ニ假臺を置、其上ニ載置申候、當日詰合之當番與力取次役人用人證文方與力、麻上下着、
一大岡忠右衞門、野村休盛者、御茶ニ引續被参、料理出申候、御徒衆者、表之對面所に而料理出申候、忠右衞門、休盛、峯順、又兵衞にも、常之座敷ニ而料理出申候、
一御茶着之案内申遣、紀伊守殿家來壹人參、書院ニ致面談、御壺包之儘相渡之、直御淸所〈江〉持參之、麻上下着之もの五人、其外足輕中間召連參候、尤前日御附衆〈江〉も、案内承合候而遣申候、
一右御茶入候箱之鍵者、休盛持參請取之置、翌五日、紀伊守殿〈江〉持參相渡置候、
右之箱者、ござ包ござ屋根有之、棒指に而持參、内之箱之儀、峯順〈江〉相尋候處、
桐板ニラ高サ一尺七寸五分、横一尺一寸五分、 外家錠前有之 高サニ尺五分、横一尺四寸 之由申之、
右御茶上京之節、大佛正面通〈江〉同心二人、三條堀川ニ同心一人付置、大佛迄御茶見〈江〉候時、二人之内一人、紀伊守殿用人迄案内申達候樣ニ申付候、三條堀川之者は、奉行所〈江〉注進申之、
右御進獻之御茶之儀、追而傳奏衆〈江〉之御奉書到來之節、箱之鍵御添、傳奏衆迄被差越披露有之由〈○中略〉
禁裏法皇御所御茶壺之事
禁裏御茶壺〈但御壺一つ黃金一枚詰〉
一延命御壺 上林門太郎 一石上御壺 上林又兵衞 一無銘御壺 同人
一細谷川御壺 星野宗以 一新御壺 同人 一嶋津御壺 上林三入一新御壺 同人 一新御壺 木村宗二
合御壺八つ
法皇御所御茶壺〈但御壺一つ黃金一枚詰〉
一松倉御壺 上林又兵衞 一駒御壺 尾崎有庵 一玉簾御壺 星野宗以
〈正德五未年秋詰ニ被仰付候由〉一山の井御壺 上林三入 〈同斷〉一一つ松御壺 長井仙齋
合御壺五つ
右之通正德五未年被仰付、例年禁裏法皇御所御壺一所ニ被仰付、御取次之内三人〈幷〉小堀仁右衞門手代三人宇治〈江〉參候由、
一關東御壺宇治御出行相濟、星野宗以より御案内申上、其以後日限被仰付、御壺宗以宅〈江〉御着、御茶師銘々〈江〉相渡、御茶詰上ゲ、宗以方〈江〉御壺不殘相揃、當日御所〈江〉上ル、
右御壺宿支配宗以〈江〉被仰付候、從後陽成院樣御時節、御代々御用相勤候由、 一禁裏法皇御所、右御壺愛宕〈江〉御登山有之候得者、所司代組與力兩人兩御所〈江〉參、御取亥より御茶壺請取、直に愛宕へ持參、坊中之内〈江〉相渡、手形取之候由、御壺御下山之節は、右與力愛宕〈江〉罷越御壺請取、御所〈江〉參、御取次中〈江〉相渡候由、

德川幕府茶壺

〔宇治古文書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 當年茶詰事、從來朔日何も可相詰、其以前ニ壺在所ヲ出事停止候也、
三月廿三日 家康〈朱印〉
上林掃部之助どのへ
森彦右衞門どのへ

〔殿居囊〕

〈武家年中行事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 四月朔日、宇治御茶御用御數寄屋頭御暇、

〔享保盛事實錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 一山城國宇治の里の茶をめさるゝ事は、寬永九年よりはじまりて、其かみは茶道頭一人坊主二人その事を奉り、徒頭壹人、組の老衆を引具して道路の警衞す、されば名有る茶壺どもあまた携へ行て、宇治にて茶を求、それを京の愛宕山に百日餘り收置、ふたゝび山より取出して府に持かへる事なり、その往來のむまや〳〵に御料の地代官所よりこれを供し、私領は領主々々よりあつくもてなし、其おごそかなるさまたとふるにものなし、嚴有院殿〈○德川家綱〉の御時より、茶壺を愛宕山に收むる事は止られ、甲斐國谷村に收め置、護送の人は皆府にかへり、秋に至り、又かしこにおもむきて携へかへることゝせられしかば、猶驛路の費、役夫の勞少からず、公かねて其由をしろしめしければ、道すがら護送の者どもを饗する事をやめられ、又徒頭の警衞をもとゞめられて、二條城に在番する大番一人をそへらるゝことゝなりしに、元文三年より谷村に收置事もやみて、今は京より直に府に送り、富士見の櫓に入置るゝ事となれり、かゝりし後は行役の勞苦をはぶく事少からざりしとなん、

〔大猷院殿御實紀附錄〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0629 步行頭して宇治採茶の事にあづからしむるは、寬永十年二月、朽木與五 郎友絅、神尾宮内少輔守勝、近藤五左衞門用行、安藤治右衞門正珍、巡年に宇治にまかり、茶詰の事とり行ふべしと命ぜられしより起りしなり、

〔享保令典永鑑〕

〈雜〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 享保八卯年四月
御茶壺宇治往來之節、道中之儀、御徒頭罷越候儀相止候事ニ候間、自今ハ左之通可心得候、
一町中〈幷〉替間掃除等申付、奉行給人差出候ニ不及候事、
一町中御茶壺先拂足輕兩人程相立可然事
一大御番御數寄屋頭、先拂足輕相立候ニ不及候事、
一御茶壺町並屋敷玄關前、臺居差置候儀ハ、可只今迄之通候事、
一火之番物頭、足輕石つれ相廻り候ニ不及候事、
一雨天之節、次之宿迄御茶壺桐油等遣候ニ不及候事、
一大御番御數寄屋頭旅宿へ、町支配之者用事等可承旨ニ而罷越候儀ハ格別、年寄役之者など罷越候ニハ不及候事、
一大御番御數寄屋頭幷坊主へ、町並屋敷ニ而料理出し候義、且又總供之者ニ料理給させ候義相止候事、
一次之泊宿迄、以使者音物等ニ不及候、一宿計ニ而大御番御數寄屋頭へ兩種、坊主へ一種充被贈候儀ハ勝手次第之事、
一下り之節も、泊休ニ候ハヾ右同斷之事、
一爲迎送問屋庄屋ども、町はづれ迄人多に罷出候ニ不及候、四五人程も罷出可然事、
以上

〔京都御役所向大概覺書〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0630 同所〈○宇治〉御物〈幷〉御通御茶師之事〈附〉御茶料御茶摘初、御拭仕立、詰上候 日積、〈幷〉御步行頭之事、
一御物御壺 十八 上林門太郎
但御壺一、黃金、一枚宛、臺乘、
虹御壺〈半三十詰四斤七〉 望月御壺〈半二十詰六斤半〉 彌勒御壺〈半二十詰二斤八〉 弦月御壺〈半二十詰二斤半〉
村雨御壺〈半二十詰五斤二〉 朝日山御壺〈半二十詰五斤〉
〈禁裏〉御進獻御壺〈半二十詰三斤〉 〈月光院樣〉〈江〉〈被進〉新御壺〈半二十詰二斤八〉 〈法皇〉御進獻新壺〈半二十詰三斤〉 〈養仙院樣〉〈江〉〈被進〉新御壺〈半二十詰三斤半〉
〈一位樣〉〈江〉〈被進〉岐阜御壺〈半二十詰二斤八〉 〈法心院樣〉〈江〉〈被進〉新御壺〈半二十詰三斤半〉 〈瑞春院樣〉〈江〉〈被進〉白雨御壺〈半二十詰二斤八〉 〈蓮淨院樣〉〈江〉〈被進〉新御壺〈半二十詰二斤八〉
〈日光准后〉〈江〉〈被進〉御眞壺〈半二十請四斤八〉 〈日光御靈屋〉新御壺〈半二十詰三斤〉 〈東叡山御靈屋〉新御壺〈半二十詰三斤七〉 〈增上寺御靈屋〉新御壺〈半二十詰三斤半〉
右之御壺年々不同、外之御壺被仰付儀有之、
獻上 御試御壺 壹〈極上半三御詰二斤〉 獻上 御茶湯御壺 六ツ〈極上半壹御詰貳斤〉
但增上寺御靈屋 御壺貳 東叡山御靈屋 御壺貳 紅葉山御靈屋 御壺貳
同 歲暮 御茶筌拾本 年頭 御柄杓五本
一御壺宇治着之日、上使御用向相濟、御奉書頂戴、拜御茶 袋致拜領候、尤御茶入念詰上候樣御申渡、且又御茶詰上候刻、御茶料之外、爲御褒美、古來者御紋付御時服二拜領仕候、近來者御時服代銀拾五枚拜領、其外御茶師中拜領物無之、〈○中略〉
一御茶初發、何年以前より仕來り候哉、往古茶仕初候もの年數等不相知
御茶仕立詰上ゲ候を日積之次第
一御茶摘初〈立春より八十日目、但年ニより五三日遲速有之、其年之旬相考摘始申候、先は大樣八十日目ト相考、時節相極候而者、役所へ難申越候由、尤其砌見合、何日より摘始可申旨、所司代〉〈幷〉〈兩役卵〉〈江〉〈も申來候、〉
一御茶御試〈御壺試之儀、摘初より廿六日目、大概積之由、但年ニより御茶撰手間掛り候年は、五日十日も延引、其刻門太郎より時分申來、於所司代兩奉行御目付衆立合試有之、料理出〉 〈申候、〉
一御壺御着〈御試より十二三日目、但例年日積如此、御壺御用ニ付被登候御步行頭衆、上京日限之義、毎年四月末五月上旬、宇治〉〈江〉〈直ニ着、御壺被相渡候、逗留中は伏見に居被申、御賄者出不申候、〉
一御詰日 御壺御着より九日目、但例年日積如此、
一御發駕 御詰日より凡七日目、但土用二日前江戸御着、
一總御壺其儘江戸〈江〉下り申候、愛宕〈江〉者上り不申候、
一御茶料者、御茶詰上候刻、御壺一つニ付、黃金一枚宛致拜領候、霜覆御茶摘賃、其外諸入用共、自分入用に仕立申候、御茶袋紙、門太郎又兵衞始、御物御茶師十一人共、年々致拜領候、尤美濃〈江〉被仰付、辻六郎左衞門より請取、右銘々〈江〉相渡候、此外御入用不下候由、

〔類例略要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0632 御茶壺御用宇治〈江〉御徒頭卽日御暇
明曆二〈申〉年〈閏〉四月十八日 石川六左衞門
同三〈酉〉年四月十九日〈金一枚時服二〉六〈ノ〉廿一歸御禮 朝倉仁左衞門〈○中略〉
御茶壺宇治御用卽日御暇ニ無之分、但御徒頭、
寬文二〈寅〉四月九日〈金一枚時服二〉六〈ノ〉十九歸御禮 天野佐左衞門〈○中略〉
享保七〈寅〉二月十一日 八〈ノ〉廿八歸御禮 小出助四郎
此以後大御番衆より御差添ト成〈京上リ大坂下リ、扣は其組ニ而相定、○中略〉
右御暇之節、金三枚時服二の外羽折被下、
延寶九〈酉〉年二月六日 稻生七郎右衞門
甲州天目山、谷(ヤ)村〈江〉御茶壺御用、
天目山〈江〉 寬文六〈午〉十〈ノ〉八帥日賜御朱印 大森半七郎 谷村〈江〉 天和三〈亥〉八〈ノ〉廿二 九〈ノ〉七歸御禮 小出下野守

〔幕朝年中行事歌合〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0633 十六番 右 茶壺
木の芽つむ里の手振も語れ人宇治めわたりに往返りつゝ
茶壺と申は、數寄屋の頭に茶つぼをもたせて、宇治にのぼせ、新茶をくだしめらる、もとは徒頭をそへられしが、今は大番の士是に添へり、壺の口開かるゝ時は、數寄屋のかしら茶を點じ、宿老少老の人々是を試し後、御宮みたまやにも供せらる、

茶師

〔柳營新編年中行事〕

〈二/二月〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0633 一宇治の茶被召上次第、上林家之起り、其外茶師家々の名付幷茶之銘、
一上林越前政重は、幼名又市といふ、本國丹波、生國は山城にて、三州岡崎に至り神君に奉仕、爲土呂郷奉行、〈土呂郷に松平甚介と云人あり、此近邊に越前屋敷有、〉遠州味方が原より相州小田原陣迄數度功勞あり、尾州長久手陣之時、森武藏守が騎兵二人を討取故、感狀幷御鎗賜る、神君秀吉公と御和談にて、茶屋四郎次郎宅御坐之時、依嚴命越前侯御側植村五郎、渡邊半藏共由緖有之故、兩人〈江〉嚴命に而、岡崎町奉行となる、其後上方爲案内、第一大坂城中、西國大名行跡、以日記注進可申、幷御茶仕立上べき旨にて宇治に被遣、竹庵に改メ、秀吉公薨後、井伊兵部少輔指圖にて一騎物見に出る、此時榊原式部康政江州勢田ゟ馬を早め伏見に著、亂髮にて御前〈江〉被出候時、竹庵物見より歸り委細言上、依之康政同席に而、御手づから御熨斗、又御印籠之息命丹を竹庵に賜り、馬にかひ候へと也、慶長五年、關東御下向之時、我等式御留守には如何可仕やと伺ひ候へば、鳥居彦右衞門申合候へと台命に依て、騎士十三人、雜兵百三十貳人にて、伏見之城に籠り、大鼓の丸を堅め、采幣を持、赤根染之鉢卷にて下知、粉骨を盡申討死す、今に上林が赤手拭〈と〉云傳ふる也、竹庵が子三人、兄は林藤四郎養手に成る、元和元年五月七日、高木主水手にて討死、二男林伊賀守は秀康卿に仕へ奉る、秀康卿逝去之時殉死、三男又市竹庵家相續也、竹庵討死之時幼少ゆへ、高野山中性院に蟄居、關東亂後被召出、板倉 伊賀守に預られ、大坂冬夏兩陣共に功勞あり、依之采地二百石加增にて三百石を領す、且壹万三千石代官を賜り、小幡又兵衞、織田家中野又兵衞、今川家吉兵衞、又兵衞に劣らざる者也とて、又兵衞に改めらる、是は上林家之傳説なり、〈○中略〉
茶師姓名
林夕春 上林家八人 味卜 法順 竹庵 三入 通入 春生 龍賀 道庵
一宇治御茶壺御茶師左之通
上林岸順 上林竹庵 上林平入 上林味卜 上林春生 上林三入 永井貞甫
酒多宗有 尾崎有庵 星野宗伯 竹田道雪
御通御茶師
御袋茶 長釜宗味 御袋茶 堀真朔 同 永井仙齋 同 上林平加 同 辻善德
同 吉村道夕 同 山田友保 同 八島德庵 御通御茶祝甚三郎
以上

〔茶道筌蹄〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0634 茶師幷茶名
上林は元丹波より宇治へ來る人也、公儀の御用を勤むるを御袋茶師と云、次の御用を勤るを御通茶師といふ、其次を次茶師といふ、其外は木幡大鳳寺也、
御物茶師
上林六郎 宇治〈○茶銘略、以下人名下亦同、〉同又兵衞 同味卜 同春松 同平入 酒多宗有 尾崎有庵星野宗以 上林三入 堀眞朔 長茶宗味 辻善德
右は御物茶師之分
御袋茶師 上林牛加 八島德庵 祝甚兵衞 堀正法 佐野道意 木村宗二 竹田紹旦 上林道庵
竹田道雲
右は御袋茶師之分
御通茶師
片岡道二 宮村權大夫 西村了以 竹田紹淸 河村宗順 橋本玄哥 馬場宗園 森本道加長茶淸兵衞 喜多立玄 同彦八 松原宗左衞門 菱木宗見 滿田宗惠 長田七郎右衞門小山勝右衞門 吉田六右衞門 北川太郎右衞門 藤科金兵衞 宮林六之丞 大鳳寺 梅林宗雪 森江宗左衞門
右は御通茶師之分
外茶師
宇治
滿田道林 尾崎彦六 竹林紹二 川崎德意 佐藤勘六 中村彌右衞門
大鳳寺
山上善大夫 同幸二 竹林六之助 河下彦八郎 梅林源治
木幡
猪家庄右衞門 松尾忠助 同治右衞門 同喜平治 同長悦
槇島
辻千太郎
此外にも外茶師多く有之〈○下略〉

雜載

〔享保集成絲綸錄〕

〈十九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0635 元祿十七申年二月 覺〈○中略〉
一總而結構成道具等取集候儀は無用候、たとひ振廻又は茶の湯抔仕候共、諸事輕く有合之品を可用事、

〔今川大雙紙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 躾式法の事
一御茶を持て參には、片手をつきて、片手に參らする也、兩方の手にては參らせべからず、人前にて茶のむには、臺ながらのむ也、臺置てのむ事なし、但樣體によつて臺を置てのむ事も有、

〔宗五大草紙〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 公私御かよひの事
一御茶まいらする事、右の手にて臺を持、左の手にて建盞と臺とをかゝへて、ちと差出して令之、まいらせさまには兩の手にて臺を持てまいらすべし、聞し召て後は、兩の手に臺ばかり持と申候へ共、たゞ前のごとく持たるがあぶなくも候はでよく候、

〔北條五代記〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 房州里見家の事
元正のあかつきより、やかた義高の御前へ諸侍出仕の時、其人のくらゐによつて禮の次第色々かはる、主君のかはらけをいたゞき持て立人おほし、かはらけをいたゞく上に、片肴の禮と云て、肴を其人へ引もあり、又兩肴の禮とて、主君の前へも引事あり、其上片茶の禮、兩茶の禮と云事あり、其時は一人のまず、兩方見合同時に茶をものむが定る禮義なり、

〔信長記〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0636 九鬼右馬允大坂表大船推廻事
翌日佐久間甚九郎御茶上申、終日ノ會ナリケリ、同三日歸洛、翌ノ夜話ニ信長公白ケルハ、甚九郎數寄事外ニ上手也ト覺エタリ、去共羨キ事ナラズト被仰、二位法印其御事ニ候、國守等此道上手ニ成テハ、世間物毎奢侈大過シテ且ハ武道モユルガセニ成申ベシ、其ヨリ事發テ、或京都職人方ノ若キ者、或ハ藝才ノ弟子共、彼過高ヲ自然ニ似セテ、富モ貧モダテヲノミ嗜ベシ、驕ノ種ニ成ベ キハ唯數奇道也、侘テ心意ノ氣味ヲ宗トシ、珍肴奇物ヲ事トセズ、安ラカナル道具ナドヲ淸浮ニ成ベクンバ、數寄ハ殊絶ノ慰タルベク候、夫武士ノ道ハ、諸人ニ情ヲ深フシテ、美膳等ノ結構ヲバサシヲキ、人ノ出入多キヤウニシ、賢愚ノ品々ヲモ能々見分、擧措其所ヲ得バ、萬善日新、百惡日消スベシ、夫物毎主ル所其勤有、連歌ノ宗匠ハ、其日百韻ノ主將ニシテ、句ノ善惡ヲ味ヒ、棟梁ハ、其大厦ノ主將ニシテ、工善惡、木ノ長短曲直ニ至ルマデ其所ヲ得國主ハ人ノ賢愚剛弱、知之明、行之果、信之篤、國器ノ大小等能知テ、天地萬物一體ノ仁ヲ守ヲコソ其務トハ申ベク候ヤト申上ケレバ、扨モ殘ル所ナク云ツル物哉ト、再三御褒美有ケルトカヤ、

〔總見記〕

〈十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 信長公自攝州引返坂本對陣事
柴田モサスガ鳴呼ノ者ニテ、追カケ參ラセ、信長公ノ馬ノ轡ノ水ツキニヒシトスガリテ申上ルハ、我等ハ父土佐守ヨリ某マデ二代ノ内、合戰ニ向テ終ニ老ボレタル不調法ハ不仕候、モシ四疊半敷ノ數寄屋へ入テ、茶ナドヲタベ候ニコソ不調法ナル事モ有ベク候ト申システ、アザ笑テ罷歸ル、サスガノ信長公モ返答ニツマラセ給ヒテ、御詞ナク打通ラセラル、

〔茶話眞向翁〕

〈乾〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 或人利休居士に、茶の秘事は如何なる事か候と問けるを、居士云、茶はふくのよきやうにたて、炭は湯の沸やうに置、花は其はなの樣にいけ、さて夏は凉しく、冬はあたゝかにする、此外秘事なしと答へられしにて、問人不興して、夫は誰も合點のまへにて候といふに、居士云、合點ならば其如くして見られよ、御弟子になるべしと也、

〔備前老人物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0637 總じて茶の湯は世をのがれ、閑居隱者のなすわざなれば、不辨に麁相にしていさぎよきをもとゝす、元來ぶどふを本とす、さればにや上田主水茶湯の會にきやく來りて、くゞりの明を待居たるに、大づゝの鐵炮を玉なしにうちはなして客を請待せしと也、又多賀左近の雲州御在番に、茶の湯の時、はなはなくて甲をおかれしと也、皆其本をわすれぬ心なるべし、萬事お もひおもひ心々なれば、是を是とし非を非とするにあらず、たゞ當然の理にしたがふべし、

〔和泉草〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 壁書
一賓客腰かけに來り、同道人相待候はゞ、板を打て案内を報ずべし、
一手水之事、專心頭をすゝぐを以、此道の肝要とす、
一庵主出請して客庵に入べし、茶飯諸具、不偶にして美き事も又なし、露路の樹石、天然之趣、其心を不得輩は是より遙にかへりされ、
一沸湯松風に及び、鐘音に至らば、客再來、湯あひ火めひのたがいと成事多罪ミ也、
一庵内庵外におゐて、世事の雜話古來禁之、
一賓主歷然の會、巧言令色を入べからず、
一會始終二時より過べからず、但法話淸談に時うつるは例外、
右七ケ條は茶會の大法也、嗜茶輩不忽者也、
天正十二年九月十二日 南坊在判
宗易在判

〔別本黑田家譜附錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0638 如水遺事
如水茶道の水屋に法度書をはり置るゝ、其文に曰、

一茶引候事、いかにも靜に廻し、油斷なく滯らぬ樣に引可申事、
一茶碗以下、あかつき不申樣に度々洗可申事、
一釜の湯一ひしやく汲取候はゞ、又水一ひしやくさし候て、まどひ置可申候、つかひ捨のみ捨に仕間敷事、 右我流にてはなく、利休流にて候間、能々守可申事、總じて人の分別も、靜とおもへば油斷になり、滯らぬと思へばせはしくなり候て、各生付得方になり候、又隨分義理明白なる樣にと思へ共、欲あかにけがれ安候、又親主の恩を始、朋輩家人共の恩も預り候事多候處に、其恩を可報と思ふ心なく、終に神佛の罰をかふむり候、然者右三箇條、朝夕湯水の上にても能々分別候爲、書付置候也、
慶長四年正月日 如水

〔喫茶餘錄〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 遠州宗甫居士壁書
それ茶の湯の道とても外にはなく、君父に忠孝をつくし、家々の業を懈怠せず、殊に朋友のまじはりをうしなふことなかれ、春はかすみ、夏は靑葉がくれのほとゝぎす、秋はいとゞさびしさまさるゆふべの空、冬は雪の曉、いづれも茶の湯は風情ぞかし、道具とてもさしてよすべからず、めづらしき名物とても、そのむかしはあたらし、只家に久しくつたはりたる道具こそ名物ぞかし、古きとても形いやしきは用ひず、新しきとてもかたちよろしきはすつべからず、數多き事うらやむべからず、すくなきをいとはず、一品の道具なりとも、いくたびももてはやしてこそ、末々子孫に傳はる道もあるべけれ、一飯を進むとても、志うすきは、早瀨の鮎、水底の鯉とても味あるべからず、まがきの露、山路は蔦かづら、明暮こぬ人をまつの葉風の釜のにゑおと、絶る事なかるべし、

〔甲子夜話〕

〈九十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0639 松月齋〈○松平齊匡〉茶令
一茶の道は質素を主とし、風雅を客とし、まごゞろのもてなしあらば、萬のみやび盡したるにも增りぬべし、
一おのれ好む所とて、わりなく人に勸め、己れがくむ流もて、よそ人をそしる、いづれもあさましかるべし、 一物しる人のおのづから風流なる詞いふはめでたし、なまじひにまねびいふは拙し、時めく人をねたみて其あしき事のみあげ、富る家をうらやみて其寶をかぞへ、あるはへつらへる、あるはほこれる、又價尊きものを賤しく得つといひ、賤しきものを貴くもとめしと語る、いづれもあし、一書畫調度ふうたるを慕ふとも、いたく耽り翫ばゞ、志を喪ふ事に至りなん、飮食瓶花も時ならざるをめづる事なかれ、異ざまなるを好む事なかれ、調度もまたしかなり、何事も僞りかざらぬさまこそよけれ、
一おのづから風流なるこそ眞の風流とすべし、つとめて風雅ならんとするは、なか〳〵に山の井の淺き心みらるゝわざなるべし、
こはおのれ松の嵐をきゝ、軒端の月にうそぶき、碧眼をこゝろむるとて、何となく心に浮び思ひ出らるゝまゝを、みづからしるし、自ら警むるになん、

〔雲萍雜志〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0640 江戸葛飾のほとりに、權兵衞といへる村長あり、ある年の春、伊勢大神宮へ太々神樂を奏せんとて、村民十三人とともに御師何某が家に宿るに、山海の珍味を盡し、馳走ありて後、おのおのに薄茶まゐらせんとて、案内して茶室へ招請しければ、かの村長を始として、十三人席につけば、御師は丁寧にあいさつして、心を配り茶を建て、權兵衞が前に出しおきけれども、農夫の身なれば、茶道の心得はいさゝかもなければ、大に心をくるしめ、場うてして思ひけるは、いかにして飮べきや、人の咄にも、茶は飮たる上にて順にまはすなどゝ聞しが、十三人へ一杯ばかりの茶を飮かけ、まはしたりとも足るべからず、又ひとりして飮み、他のものへ鼻あかせんこと、いかがなれども、われ村長の身として、今更聞て飮まんも口をしきことなりと、さま〴〵心のうちに思ひめぐらすうちに、御師は先に出せし口取菓子を村長が前へさし出し、いざ召れ給へとしゐければ、はつと茶を取あげて殘らず飮み、前におきければ、御師は取て茶椀をそゝぎ、又建て村長 かまへに出しつゝ、いざ菓子をとり給へといふに、この度は菓子を取て食ひ、また茶をのこらず飮て前におきければ、御師又取りて、もとの如くたてゝ、又村長が前へ出す、村長いひけるは、我等はもはや澤山くだされたりと云ふに、さあらば次の方へ御おくりあるべしとて、この順にして各一椀づゝ飮、辭退して座しきへ入て、おの〳〵ひそかにその心勞をもの語りつゝ臥し、又も茶の饗應あらば、いかばかり迷惑すべし、はやくいとま乞して歸國するにはしかじとて、あくるを待て發足せり、後に權兵衞、予〈○柳澤里恭〉がもとに來りて、願ひたきことの候へといふに、いかなることぞと問ければ、過し春伊勢にて耻を得しこと侍れば、茶の手續を敎へ給はるべしとて、しかじかの事を物がたり、今にわすれがたくはづかしく、又口をしくおぼへしといふに、予大にわらひて、そのもとは、日ごろに似げなき不見識の人なり、農夫は農家に人となりて、農業のことにさへくはしければ、耻かしきことなかるべし、茶はもと隱遁の手すさびにして、その道日用に足れりといへども、農夫町人などのいたすべきことにあらず、世をのがれし隱居の後などはともあれ、其許もし茶を學ばゞ、一村みなこれにならひて、農時に怠りなば、田畠はこと〴〵く不作なるべし、村長茶道を知らざるが故に、耕耘收藏時にたがはず、國中百人耕して五十の遊民あらば、その國かならず飢ぬべし、百人耕して十人あそばゞ、その國果して豐なりといへば、權兵衞感じて、茶の湯を習ふ心をおもひとゞまりぬ、
生駒山を越ける日、秋篠といふ村はづれに、如意輪觀音を安置する堂あり、さすが名におふ山色風景、郊野のながめおもしろければ、此堂に立寄てたばこくゆらしけるに、堂守とおぼしく、片目しひたる男の卒都婆を造りゐたるを見て、主は細工せらるゝにやといへば、削りさしたる卒都婆をかたへに置て、圍爐の灰かきならし、かんな屑焚て、ふるびたる鑵子に湯をたぎらせ、茶澁のつきたる茶碗を丁寧にあらひそゝぎて、大坂よりもらひし茶なりとて、懇に煎じあたへぬ、予も 心よく二三碗を喫してしばし憩へるうち、主のいへるは、我はもと此地の産にてもなかりしが、もと調度のさし物を職として、二十一年ほどは京にくらしつれども、不仕合なること打つゞきて、歲はより、目はわろし、少しのしるべにて、今はこの地に老朽ぬるなり、茶の湯といへることも、はじめはかゝるすさびより起りけるにやなどいひつゝ、菓子を椀に盛ていだしつれば、予とりて見るに、たゝらの木の芽に味噌をくるみて炮りたるなり、珍らしき口取かなとて、いとうまく食て、茶數碗を過しけるうち、主の申は、我が京に在し頃、數々の茶人宗匠など馴染まゐらせて、茶席にも迎へられ、薄茶建ることも習おぼえ侍れど、大かたの人は、茶の湯を別のことのやうに心得給ひて、あつらへ物等もいとむつかしく候、東山にて何庵とか申宗匠の建たる席を羨しく思ひて、その好のかたに建たしとて注文取しに、床板を松にして節七ツあるを好めり、我等思ふには、いかなるわけにて節數七ツ、ある板をもとむるにやと、いぶかしさに問ければ、師の建たる席に、床板の節七ツありければ、それを擬するなりといへり、笑ふべきの甚しきにあらずや、師の造られしときは、定めて節なき板のなきまゝに、ふしある板にてせられしなるべし、さあれば、いかに師のあとを慕へばとて、わざ〳〵疵あるものを求むるは、道を嗣にはあらで、顰にならひて師の疵をあらはすと同じかるべしとおもへり、この道は只きよらにせよといふにはあらず、きたなからず、あり度道具とても、足らぬ所を何かにて、その時の間に合するを馳走とはするなるべし、すべておもしろきことは足らぬところにありて、足り過たるに雅なることなし、人にはみなくせありて、さま〴〵に好みを致せども、くせを捨ざれば、風流の道人にはあらず、理に入て理を遁れたる人ならねば、茶好といふのみにて、茶道の人とは思はれ侍らずとて、その立居ふるまひなどおくゆかしく、この者を蓮行て、家にて養ひおきたく思へり、

〔長闇堂記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0642 一數寄をたしなまんは、、ふだん茶獨たてまじきものなり、本客の時、かの自由思はず出 てみぐるしきなり、總別茶の湯に手上手浦山しからぬ物なり、手くら品玉取をみる心地せり、又功者もうとましきものなり、あぶらじみしたるもむさげあり、只浦山しきは目利の人、作意ある人、是數寄の根本たるべし、

〔細川茶湯之書〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 茶之湯數奇道に習なし、上手のとりおこなふをにせるこそ其身も面白、然れ共習なければ、にせ得る事不叶、唯面々器用次第、上手のほまれを諸人にもちひほめらるゝ也、都に數奇者多しといへど、其時の師匠になれそひ、色々さま〴〵に數奇道を執行するといへども、さながらおしゆるといふ子細なきによりて、習事もなしたゞ師のおこなへるを似せ、また眼前の事のみうつすといへども、上手下手の差別わからず、其年の口切の時とりいだす道具、作事、料理、以下獻立を、年の暮まで用る、日夜朝暮たねんなくするを數奇者といふ、或は能道具を取出し、其身の覺悟、一心不亂に奇麗ずきして、萬事にわだかまらず、涌淪に老若の隔なく、能人の目明のつよきこそ上手とはいへり、先年利休茶之湯の師となり、弟子數千人餘これありといへ共、上手と成弟子は、五人十人にしかず、去ながら高もいやしきも、老若ともに、當世のはやりものなるに、舊先少也、しかるべきため如此なり、

〔雲萍雜志〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0643 茶道を好むものゝ、他の手前をも辨へなく、わが習たる義のみ心得、これこそはわが流になくて叶はぬ品なりなどゝ、無益の器を高料にもとめ飾おきたるは、ふる道具店にもひとしく、見るさへなか〳〵にうるさかるべし、又利休居士が詞にも、貴き價の器物を愛するは、心利欲に走るがゆゑなり、缺たる摺鉢にても、時の間に合ふを茶道の本意とすといへり、數奇屋咄といふものにも、主人家居と道具に自負し、客にたのみて云けるは、わが好けるすきやのうちに、何によりたることゝはなしに、よろしからざるものあらば、詞にしたがひはぶくべし、少しも遠慮し給はずいひ給はれとありければ、客は諂なき人にて、家といひ器といひ行屆かざる所もなけ れど、只このうちに、そのもと壹人なからましかば、風流雅境、これに過たることはあらじといへり、こはいとおもしろき諷諫なり、

〔明良洪範〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 秀吉公伏見ニテ、神君〈○德川家康〉ト前田利家ヲ誘ハレ、聚樂ニ行テ遊覽シ給フ、歸途德川殿ノ館へ立寄リ給フ、聚樂ニテ美食ノ上ナレバ、茶ノミ參ラスベシトテ、神君自ラ壺ノ口ヲ切給ヒ、茶道坊主朱齋ニ茶ヲ挽セ給フニ、茶減ジケレバ、其由問セ給フニ、水野監物タベ候ト申上ル、神君又外ノ壺ノ口ヲ切給ヒ、又挽セ給フ、此時加賀爪隼人申上ケルハ、唯今ヨリ又挽セ給ヒテハ、遲ク相成ベシ、初挽タル御茶ヲ御用ヒ遊バサレ然ルベシ、減ジ候共太閤へ上ラルヽニハ足リ申ベシト云、神君仰セニ、汝ハ余ガ口眞似ヲモスル者ナルニ、是等ノ事ニ心得ナキヤ、譬へ遲ク成リ、太閤御不興ニ思召ス共、人ノ飮タル餘リヲ進ル道ヤ有ル、其志シニテハ、汝奉公向モ正シカラジト誡メ給へリ、神君ノ律儀ニ御座ス事斯ノ如シ、

〔常山紀談〕

〈二十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 周防守重宗〈○板倉〉京都の職に有こと凡三十餘年、〈○中略〉重宗職に任じて後、毎日决斷所に出る時、西面の廊下にして、遙に伏拜む事有て决斷所に出、此所に茶磨一ツすゑ置、あかり障子引たてゝ其内に座し、手づから茶ひきて訟を聞、人皆不審しあへりけるに、遙に年經て後問人有しに、重宗答て、〈○中略〉訴をわかつ事の明かならぬは、我心の事にふれて動くが故なりと思ひなしぬ、よき人は自ら動かざらんやうにこそあらめど、重宗それまでの事は及び難く、唯心の動と靜なるとを試るには、茶を挽てしる、心定りて靜なる時は、手もそれに應じて磨のめぐる事平かにして、きしられておつる所の茶いかにも細やかなり、茶のこまやかに落る時にいたりて、我心も動かぬと知り、其後やうやく訴をわかつ、〈○下略〉

〔嬉遊笑覽〕

〈十下/飮食〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0644 和名抄木器類茶硏、章孝標集有黃楊木茶碾子詩、碾音與展同、訓岐之流、茶碾子俗謂之茶硏とあり、今本に茶硏の旁にキシルと點あるはわろし、茶硏は音にてよむなるべし、磑にて 磨(スル)と、碾にて輾(キシ)るとは殊ながら〈○がら恐れど誤〉抹となるは似たり、古法は是を煮たるなり、磨をも今は挽とのみいひてするといはず、昔はすり茶といへり、犬筑波集〈活字本〉すきの衆あづまの旅におもむきてたづぬやすり茶つぼのいしぶみ、稻のもみをば今もするといへり、
茶を磨(ヒク)こき、むかしよりおろそかなり、多くはあるじの留主に、挽するならひなれば、手づから磨ことはいと稀なり、俳諧埋木、また留守をして茶臼ひけとや、續山井、松風の音や茶をひく神の留主、後撰夷曲集、口切の會を催す十月は神の留主しつ茶をひいつなり、俳諧染糸、殊の外ねごきは留主もたのみがた、茶はとにかくに自身ひくべし、古き前句付に、春に成けり〳〵、唯ゐてもねぶりきようの茶ひき坊、多くは茶ひき坊は盲人なり、茶は手つから點るにあらすや、然らば磨も手づからすべき事なるべし、

〔人倫訓蒙圖彙〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0645 挽茶屋 宇治茶を挽て商所々にあり、


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Last-modified: 2023-04-14 (金) 14:48:17