p.0121 亂碁ハ、ランゴト云フ、言繼卿記ニハ之ヲ訓ジテ、チキリト云ヘリ、其術詳ナラズ、
p.0122 らんご 亂碁〈歟〉
思ふに、今も童子の戯に、亂碁とて白石のみにて打、四ツ目殺しといふことなす事有り、それをいふ歟、又は石なとりの事にて、石なごともいへば、言便になごをなんごともいへるにや、上總の俗、長柄郡の海に錦砂子有るを、女兒のともがらいしなごと云ふ、又はなんごともいへり、もしその事歟、されどもまづは亂碁なるべし、
p.0122 享保十七年十月十八日、滋野井入道殿〈○公澄〉仰ラレシハ、昔シ亂碁ト申コトアリタリ、ソレハイカヤウニ致スコトニヤ、梅輪内燈臺ナドノ類ニテ、源氏物語ナドニ、ミダレゴト云、連歌ナドニ能ツカフコト也、其法アリヤト申上ラル、仰ニ〈○近衞家熙〉後水尾院ノ御前ニテタビ〳〵アリタルコト也トテ、アソバシテ御ミセアソバス、コレヲメヤスランゴト云、先石ノ白黑ヲ一ツニマゼテ、碁盤ノ目ヲ四方ニヒトメノコシテ、ヒシト並べテ、四方ノ角ニ白石二ツ、黑石二ツ、已上四ツヲ置テ、是ヲメヤストス、扨人五人カ七人カ並テ、〈丁ニスルハワロシ、ハンニスルガヨシ、〉ソノ石ヲ目ニ從テ横ニ走リテ、タトヘバ白石ナレバ、白石ノ縱ニ多クナラビタル處マデ、縱ノ白石ノツヾキタル石ダケヲトル也、又黑石ナレバ、ソノ次ニ横ニ走リテ、横ニ黑石ノツヾキタルダケヲトル也、ソレハ一度ハ白石、一度ハ黑石ヲツカフ也、人ガ五人カ七人カナレバ、同ジ人ガ一度ハ白、一度ハ黑ヲツカフニナリテヨシ、サナケレバ同ジ石ニアリテハ兼テアシヽ、ケ樣ニシテトリ〳〵シテユケバ、後ニハ皆ニナル也、中々ニ古風ニテ面白キワサ也、
p.0122 一今俗彈碁(ハジキ)と亂碁と、するやうをしらざる多し、〈○中略〉らんごは、指につけて碁子ををして取り、多く得たるを勝とする也、
p.0122 鹽尻に、亂碁は指につけて碁子を取、多く得たるを勝とする也、名物考に、今も童子の戯に、亂碁とて白石のみにて打、四ツ目殺しといふことをなす、それをいふかなどありて定か ならず、今碁盤の筋のうへに石をならべ、その筋を順に石をとる、筋違にはとらぬ事あり、これらも亂碁の遺法か、
p.0123 宮の御方に、うへおはしまして、らごとらせ給ひて、かたせ給へるかちわざ、六月十六日に、うへせさせ給ふ、
p.0123 天祿四年〈○天延元年〉五月廿一日、圓融院のみかど、一品宮にわたらせ給て、らんごとらせ給けるに、まけわざを七月七日に、かの宮より内の大ばん所にたてまつられける、扇にはられて侍けるうすものにをりつけて侍ける、 中務
天河かはべすゞしきたなばたに扇の風を猶やかさまし
p.0123 こ中宮の姫宮、二條の大宮とて、女院の御弟おはしましゝ、令子内親王とて、齋院になり給て、後には烏羽院の御母にて、皇后宮に成給て、大宮にあがらせ給にき、いと心にくき宮のうちと聞侍りしは、侍從大納言、〈成道〉三條の大臣など、まだげらうにおはせし時、月のあかゝりける夜、樣やつして、みやばらを忍びて、立聞給けるに、〈○中略〉うちに源氏よみて、榊こそいみじけれ、葵はしか有など聞えけり、だいばん所の方には、さゞれ石まきて、らんご拾ふおとなどきこえけるをぞ、昔のみや原もかくや有けんと侍りける、
p.0123 みかど、〈○後深草〉ましておさなくおはしませば、はかなき御あそびわざよりほかいとなみなし、攝政殿〈○藤原實經〉さへわかくものし給へば、よるひるさぶらひたまひて、女房のなかにまじりつゝ、らんご、貝おほひ、てまり、へんつきなどやうの事どもを、おもひ〳〵にしつゝ日をくらし給へば、さぶらふ人々も、うちとけにくゝこゝろづかひすめり、
p.0123 應永廿九年三月十九日、退藏庵洪得喝食參、蔭藏主相伴被レ來、〈○中略〉有二酒盛一、廣時廣輔庭上候、歌舞其興不レ少、秉燭事了、洪得召留、面々遊戯、亂碁等拾レ之、
p.0124 大永十八年九月廿五日辛卯、禁裏御楊弓之間、四時分參内、各直參之間、八時分始、〈○中略〉御楊弓之後、亂碁有レ之、御懸物被レ出、薄樣、〈五枚〉白貝、〈三〉香包〈二〉入レ之、右衞門佐拜領也、同各杉原十枚宛出之、五時分退出了、
天文十八年九月一日丁卯、七時分、御楊弓ニ早々可レ參之由有レ之、則參内、御楊弓廿一度有レ之、〈○中略〉其後亂碁有レ之、御見物、〈○中略〉博士亂碁有レ之、新中納言勝也、 二日戊辰、禁裏御楊弓之由候間、巳刻參内、〈○中略〉次亂碁有レ之、各杉原五枚懸レ之、永相朝臣勝也、酉下刻退出了、 三日己巳、禁裏東坡點之事ニ參内、竹内殿、予、新中納言、菅宰相等、於二記錄所一沙汰之、竹予新於二番衆所一亂碁(チキリ)有レ之、出御御覽了、新中納言勝也、杉原不數、新〈ニ〉七枚、竹門ニ三枚、予負了、