p.0038 意錢ハ、ゼニウチト云フ、錢ヲ地上ニ投ジテ、勝負ヲ爭フ戲ニシテ、其法詳ナラザレドモ、後ノ穴一ノ類ナルベシ、
穴一ハ、地上ニ錢大ノ穴ヲ穿チ、此ニ錢ヲ投入シ、入リタルモノハ其所得トシ、外ヅレタルモノハ、更ニ他ノ錢ヲ以テ、敵ノ指示スル所ニ隨テ之ヲ擊チ、中ツレバ勝トシ、中ラザレバ負トス、穴一ノ類ニ、木槵子打、面打、紋打等アリ、
p.0038 意錢〈攤字附〉 後漢書注云、意錢〈世間云、世邇宇知、〉今之攤錢也、桂苑珠叢抄云、以レ手有レ所レ搓、謂二之攤一、〈唐韻曰、挪音諾何反、搓挪也、字亦作レ攤、世間云、䭾搓音七何反、手攤レ錢也、訓毛無、〉
p.0038 意錢〈此間云、セニウチ、雜藝具、〉
p.0038 意錢〈セニウチ〉 攤錢〈同〉
p.0038 一可レ停二止博戯輩一事〈嘉祿二〉
右同狀〈○嘉祿元年十月廿九日宣旨、中略、〉抑意錢之好者、餘戯之内也、當時濫吹起レ從二斯事一、一切加二禁遏一、同令二斷罪一者、C 手法
p.0038 意錢 和名世邇宇知、俗云、穴伊知、穴擊之訛乎、按、意錢俗云穴擊之類乎、錢擊之和名叶レ之、但錢攤之訓不レ叶レ之、今僮兒多弄レ之、二人或三人錢出合、互更擊レ之、横引二筋於地一撒レ錢、一錢有レ掌〈此名玉〉以レ之擊二敵所レ指錢一、中則爲レ勝、如誤中二他錢一則〈此名二倍留一〉爲レ負、初撒時誤出二筋外一則〈此名二太禮留一〉爲レ負、
p.0038 意錢は、〈○中略〉錢をうち中る事とも聞ゆれど、和名抄に毛無とも訓せたるをみれば、うつ事とは異なるべし、もむは揉字などをもよみて、兩手にてするわざ也、されど攤うつと云事 もあるは、錢を兩掌の内に持てよく念じて擲ち、其なめとかたとのあらはれたるをもて、勝負する事なるべし、
○
p.0039 意錢 和名世邇宇知、俗云穴伊知、穴擊之訛乎、
一種地堀レ穴、大可レ容レ錢、而覘レ穴擲レ錢、入レ穴者爲二自得一取レ之、穴外錢任二敵請一擊レ之、中則爲レ勝、其餘如二上法一、〈○意錢〉近世有二鍋島、開保、六道等數品一、皆與二擊壤一同レ趣者也、
p.0039 穴一は元隣が寶倉に、花見の處幕のこかげには、雙六のどう〳〵とふりならし、ぢやうさいとこのみ、穴一のあなかしましき聲たてゝ、われ一とのゝしり云々、これ雙六のことにいひたれば、穴一は采の目なるべし、一の采は目の穴の如くなれば是をいふか、よりて此戯もそのやうに穴の似たれば、名づくるなるべし、嘉良喜隨筆に、穴一外へ出るを左遷といふ、流さるゝ心なり、始め誰が敎たるぞ、其碩が賢女心粧一、をのこのすなる石取、穴一などの似合ざる惡遊び云々有る、長崎歲時記正月二日條に、此日は、〈○中略〉下賤の輩はスホ引、ヨセ、ケシ、カンキリ、カラバ、筋打などして、樂むものあれども、右は博奕に似たるとて、親々堅くこれは禁ずるもあり云々、この下に圖説あり、スホ引は寶引なり、ヨセ以下はみな錢を投る戯れにて、カンキリは常の穴一、カラは一名穴ボンと云は、穴の廻りにわをかきたり、筋打は江戸にてキズと云もの也、ヨセは小き木を地に立て、錢を投るに、その木の本によるをよしとす、ケシは地にうづ卷をかき、投る錢その正中によるほどを勝とす、うつ錢をハツソウと名付、二文又は三文を、飴をもてかさねつける、ハツソウは蠻語かといへり、古錢家に繪錢の厚きものを、福一玉と云る是なり、物類稱呼に、劵螺相州三浦にてつぼがいと云ふ、さゞえのふたをとうもいちといふ、是は童部の戯玩に、穴一といへる事をすなり、浦里にてあれば、錢のかはりに用るものかと云り、〈按に、とうもいちとは、投壺を和名にとをなげとある、とをなるべく、〉 〈いちは穴一の一なり、〉さて此戯錢をもてうつことは意錢(セニウチ)の名にも似つかはし、江戸にても木槵子を用ひし也、故にむく打(○○○)とも、むくろんげとも云り、明和の初の川柳點、むくろんげおぶつてするが上手なり、近頃は瓦にて作れる小き面がた、又は紋盡しなどを用ゆ、めんてう(○○○○)、紋打(○○)など云り、
p.0040 穴市
アナイチ(○○○○)ハ、アナウチノ訛也、穴打ヲ本トス、京坂ノ兒童行レ之、今世ハ錢ヲ用ヒズ、虊子或ハゼヾガイヲ以テス、ゼヾ貝江戸ニテ、キシヤゴト號ク、小螺也、
壁或ハ塀ノ下ニ、亘リ二三寸ノ半圓形ヲ地ニ穿チ、三四尺前ニ一系ヲ引キ、コヽニ立テ虊子及ゼゼ貝ヲ投ゲ入レ、穴中ニ納ムヲ勝トシ、若一二粒ニテモ穴外ニ出ルモノハ、別ノ虊子錢貝ヲ以テ打當レ之ヲ勝トシ、打過ルヲ負トスルノ戯ナレドモ、右ノ虊子ゼヾガイトモニ賭物トスル故ニ官禁アリ、虊子ハ皮ヲ去リ黑子ヲ用フ、號テツブト云、粒也、皮ヲ未レ去物ヲムクロジト云、手玉ニハ用レ之、又京坂ノ小兒錢ヲゼヾト云、是ニ用フ、小螺代錢ノ意ニテ、ゼヾガイト云ナラン、〈○中略〉右ノアナイチヲ、今世ノ小兒ハカボイレノ戯ト云、
今世ノ兒童ノアナイチト云ハ、地上ニ横二系ヲ引ク、二系ノ間三四尺也、下系ノ下ニ立テ上系ノ上ニ、ツブ及ビゼヾ貝ヲ投散シ、同物一粒ヲ以テ打當ルヲ勝トス、一粒ヲ以テ當ル料ヲ玉ト云、此玉ニ用フツブニハ、内ヲ空ニシ鉛ヲ納ルモノアリ、ゼヾ貝ニハ無レ之、
p.0040 天保三辰年十月廿二日
一土ニ而面形又は紋抔を作り、彩色いたし候、子供翫之品を以、小兒共集り、右品を投、當り候者之勝ニ相成、勝負致候由、錢ニ而取遣り不レ致候共、勝負之筋者同前ニ而、幼年之者共、風俗にも抱り、不レ宜儀ニ付、以來右體之儀爲レ致申間敷候、〈○中略〉
右之通被二仰渡一奉レ畏候、仍如レ件、 天保三辰年十月廿二日 〈佐内町名主八右衞門煩ニ付〉代 長藏〈○下略〉
p.0041 辰〈○天保十五年〉二月六日 〈市中取締役〉名主共
市中明地往還等ニ而、めんち打(○○○○)と唱、子供遊び致候由、右者賭事ニ紛敷候間、右體之儀無レ之樣、町役人共ゟ申諭、且已來右めんちと唱候品、堅賣買致間敷旨、組々不レ洩樣可二申通一、
右之通被二仰渡一奉レ畏候、爲二後日一仍如レ件、
〈長谷川町名主〉鈴木市郎右衞門〈外廿四人〉
右者、今日甲斐守樣御白洲ニ而被二仰渡一候間、組々急速不レ洩樣申通、早々行屆候樣、御取計可レ被レ成候、 但本文被二仰渡一、太筆に認、自身番屋〈江〉張出候樣御取計可レ被レ成候、以上、
二月六日 定世話掛