p.0001 雙六ハ、スグロクト云フ、後ニ訛リテ、スゴロクト云フ、支那ヨリ傳來セシモノニテ、盤上ノ戲中最モ古キモノナリ、持統天皇ノ三年ニ之ヲ禁斷セシコトアレバ、當時旣ニ盛ニ行ハレシコト知ルベシ、
雙六ニハ、又佛法雙六、官位雙六ノ類アリ、紙ヲ以テ盤ト爲シ、文字或ハ繪畫ヲ用イタルモノニテ、兒童婦女ノ戲玩ニ供スルモノナリ、今假ニ名ケテ紙雙六ト云ヒ、此篇ノ末ニ倂載ス、
p.0001 雙六 兼名苑云、雙六子、一名六采、〈今按、簙奕是也、簙音博、俗云須久呂久、〉
p.0001 大和物語所レ云、波久衣宇、卽博奕之轉、卽謂二雙六一也、故源君謂二雙六一爲二簙奕一是也、〈○中略〉通鑑唐紀胡三省注、雙陸者投レ瓊、以行二十二棊一、各行二六棊一、故謂二之雙陸一、按、皇國雙陸、白黑十二棊、都用二廿四棊一、與二胡氏所一レ言不レ同、或曰、雙六骰子貴二二采疊出一、其目有レ六、所レ謂疊一疊二朱三朱四疊五疊六、故名二雙六一、又名二六采一、其説亦通、
p.0001 雙六〈スクロク〉 六采 六子〈已上同〉
p.0001 雙六(スゴロク)〈又云二博陸(バクチ)一〉
p.0001 雙六(スグロク)〈六采雙六並同〉
p.0001 雙陸(すくろく) 雙六 握槊 長行局〈須久呂久〉
p.0002 雙六(スグロク)〈本名六采、本北胡戲也、又其枰曰レ局曰二雙盤一、〉握槊(同)
p.0002 雙陸(スゴロク)〈唐律釋文、雙陸今名二選采一也、〉 選采(スゴロク)〈見レ上〉 博塞(スゴロク)〈杜詩、相與博塞爲二歡娯一、註、邵寚曰、博塞賭博爲レ樂也、博局戲博盡二關塞之宜一得二周通之路一、若二今之行棋一也、〉 博陸(スゴロク)〈宋劉孝孫事原〉 六甲(スゴロク)〈元虞裕談撰、雙陸之戲最盛二於唐一、嘗考二其技一、凡白黑各用二六子一、乃今人所レ謂六甲是也、〉 長行(スゴロク)〈譜雙序、以二傳記一考レ之獲二四名一、曰握槊、曰長行、曰波羅塞戲、曰雙陸、蓋始二於西竺一、流二於曹魏一、盛二於梁陳魏齊隋唐之間一、〉 波羅塞戲(スゴロク)〈見レ上〉 握槊(スゴロク)〈通鑑陳紀、和士開善二握槊一、辨誤、握槊局戲也、李延壽曰、握槊蓋胡戯、近入二中國一、劉禹錫觀博曰、握槊之器、其制用レ骨、觚稜四均、鏤以二朱墨一、耦而合レ數、取二應日月明覗二其轉止一、依以爭レ道、五雜組、雙陸一名二握槊一、本胡戲也、曰二握槊一者象レ形也、曰二雙陸一者、子隨レ骰行、若得二雙六一則無レ不レ勝也、〉 樗蒲(スゴロク)〈樗蒲經略、博之流爲二樗蒲一、爲二握槊一、爲二呼博一、爲二酒令一、體製雖レ不二全同一而行レ塞、勝負取二決於骰一則一理也、〉
p.0002 昔人彈碁、握槊、長行、波羅、雙陸、諸藝後多失レ傅、而近代唯雙陸盛行、或曰握槊卽今之雙陸、長行卽古之彈碁、恐亦未レ然、
p.0002 雙陸一名二握槊一、本胡戲也、云胡王有二弟一人一、得レ罪將レ殺レ之、其弟於二獄中一爲二此戲一以上、其意言二孤則爲レ人所一レ擊以諷レ王也、曰二握槊一者象レ形也、曰二雙陸一者、子隨レ骰行、若得二雙六一則無レ不レ勝也、又名二長行一、又名二波羅塞戲一、其法以二先歸一レ宮爲レ勝、亦有下任二人打一レ子布二滿他宮一、使二之無一レ所レ歸者上、謂二之無梁一、不レ成則反負矣、其勝負全在二骰子一、而行止之間貴二善用一レ之、
p.0002 すぐろく 雙陸の音なり、和名抄に見ゆ、倭人甚好レ之のよし、宋洪遵譜雙に見えたり、
p.0002 日本雙陸
白木爲レ盤、濶可二尺許一、長尺有五、厚三寸、刻二其中一爲レ路、置二二骰子於竹筒中一、撼而擲二諸盛上一、視二其采一以行レ馬、馬以二靑白二色琉璃一爲レ之、如二中國棋子狀一、馬先歸二一處一者爲レ勝、倭人甚好レ之、兩 對局自レ朝至レ暮不レ已、傍觀者亦移レ日不レ去、
p.0002 すごろく 雙陸の音也、もと天竺に出て波羅塞戯といふ、其後西土にて魏曹植はじむといへり、
p.0003 事始
雙陸劉存馮鑑皆云、魏曹植始製、考二之北史一、胡王之弟爲二握槊之戯一、近入二中國一、又考二之竺貝一、雙陸出二天竺一、名爲二波羅塞戯一、然則外國有二此戯一久矣、其流入二中州一、則曹植始レ之也、
p.0003 雙陸〈○中略〉
按、類要云、雙六乃出二天竺一、 槃經名二波羅塞戯一者是也、然則始二於胡國一者佳也、日本紀云、持統天皇令レ禁二雙六一、則可レ知本朝雙六始先二於圍碁一也、然未レ知二誰人傳來一也、
p.0003 雙六
梁武帝天 年中日本へわたす、本朝二十六代武烈帝に當る、
p.0003 雙六
夫雙六の基は、遠西天の古より、近く東土の今に至まで絶ざる翫、樣々の品を顯はす、〈○中略〉是を陰陽に象、盤の局をきざみては、此十二廻に象、かるが故ゑに則其名を雙六とよぶとかや、三十石を並ては、黑白月の一廻十五の石を分立、 に又十二の目を定、十二時に拵して、行度は筒の中をば夜とし、外に出事は晝とす、倩其風を思とけば、勝負を互にあらそふ樣、世のわたらひの端も皆、浮も沈もとにかくにあざなはれる繩の、一筋に思さだめん方ぞなき、〈○下略〉
p.0003 平雙陸〈一名契丹雙陸〉
凡置レ局、二人白黑各以二十五馬一爲レ數、用二骰子二一、據二彩數一下レ馬、白馬自レ右歸レ左、黑馬自レ左歸レ右、凡馬盡過レ門後、方許二對レ彩拈出一、如白馬過レ門擲二六二一、卽出二左後一梁左後五梁一、馬遇二他彩一亦然、拈レ馬先盡贏二一籌一、或拈盡而敵馬未レ拈贏二雙籌一、
p.0003 雙陸 山崎美成
思ふに、馬は今云いし(石)のことなり、
p.0004 雙陸
雙陸呼曰二新五六古(スゴロク)一、排馬之法各分三路一、一路各排二五馬一、共一十五馬、移レ馬之法亦照二骰子點數多少一行レ之、但骰子不レ用二手擲一、置二一小竹筒一、長四寸、圓六寸餘、將二骰孑一放二入筒内一、各手搖レ之倒出、驗二點數一行レ馬、以防二手擲之弊一、骰子名曰二賽移一、竹筒名曰二大吉那子(タケノツ)出一、口内呼曰レ七(チツ)、其勝負與二中國一同、
p.0004 於二戲論之遊一者、圍棊雙六(○○)也、〈○中略〉婆羅門雙六(○○○○○)、〈○中略〉是於二局上之遊一、尤容易者也、可レ被二張行一之、
p.0004 抑住山之間、余吟然之遊戲爲レ宗、然者改年初月遊宴、〈○中略〉雙六、石抓、毗沙門雙六(○○○○○)、七雙六(○○○)、一二五六雙六(○○○○○○)、
p.0004 三年十二月丙辰、禁二斷雙六一、
p.0004 一チヨボイチ〈○中略〉 雙六を打ツ事を樗蒲の戲といふ也、スゴ六ハ博奕の本也、故に古是を禁制せられし也、
p.0004 凡博戯賭レ財、〈謂博戯者、雙六樗蒲之屬、卽雖レ未レ决二勝負一、唯賭レ財者皆定也、〉在レ席所レ有之物、〈謂官物者非、其雖レ賭而在レ外者、亦不レ得レ爲二在レ席之物一、但馬牛雖三是非二在レ席之色一、而見在賭者亦同二在レ席之例一也、〉及句合、出九、〈謂和二合兩人一令二相敵對一、是爲二句合一也、擧レ九取レ利、是爲二出九一、卽以レ九爲レ例、餘須二准知一也、〉得物、爲レ人糺吿、其物悉賞二糺人一、卽輸レ物人及出九句合、容止主人能自首者、亦依二賞例一、官司捉獲者、〈謂監臨官司非レ因二撿挍一、而別自捉獲者也、〉减半賞レ之、餘沒官、唯賭得レ財者、〈謂勝人其句合出九之人、不レ首二己罪一、唯吿二博人一者、雖二糺吿之物已依レ例賞一、而所レ犯之罪亦准レ法坐、卽其所レ得利物、亦不レ在二沒限一、〉自首不レ在二賞限一、其物悉沒官、
p.0004 凡僧尼作二音樂一及博戯者〈謂雙六、樗蒲之類也、〉百日苦使、碁琴不レ在二制限一、
p.0004 一雙六事
雜律云、博戯賭二財物一者、各杖一百、贓重者各依二己分一准レ盜論、
p.0004 凡聞二父母若夫之喪一、匿不二擧哀一者徒二年、〈○中略〉雜戯杖八十、〈(中略)雜戯、謂雙六圍碁之屬、〉
p.0005 太政官謹奏
禁二斷雙六一事
右頃聞、官人百姓不レ畏二憲法一、私聚二徒衆一、任意雙六、至二於淫迷一、子無レ順レ父、終亡二家業一、亦損二孝道一、望請遍仰二京四畿内七道諸國一、固令二禁斷一、其六位已下無レ論二男女一决二杖一百一、不レ順二蔭贖一、但五位者、卽解二却見任一、及奪二位祿位田一、四位已上停二廢封戸一、職國郡司阿容不レ禁亦皆解二見任一、若有下顯二申廿人已上一者上、無位叙二位三階一、有位賜レ物、絁十匹、布十端、其所レ賭資財皆悉沒官、臣等商量如レ前、伏聽二天裁一、謹以申聞、謹奏、奉レ勅依レ奏、
天平勝寶六年十月十四日〈○又見二續日本紀一〉
p.0005 近來側聞、被レ淫二雙六一之由、禁制綸旨、先後重疊、六位以下决杖一百、五位者則解二却見任一、奪二位田位祿一、四位以上停レ給二封戸一、其由具見二弘仁格一、勾合出九、誰人所爲乎、早々可レ被二停止一也、又文選博奕論、無益之由已以分明也、於二碁琴一者有二何事一乎、不レ貪爲レ寶、聖人炳誡也、穴賢穴賢、謹言、
月 日 左京大夫
主殿頭殿
p.0005 凡雙六者、無レ論二高下一、一切禁斷、
p.0005 永久二年五月十七日、付二忠盛一奏事、近日天下雙六、摺衣滿盈事、仰云、縱雖二院下部一、 可二搦召一者、仍下知了、〈○下略〉
p.0005 嘉祿二年正月廿六日壬午、以二田地領所一雙六賭博戯事、幷出擧利過二一倍一、及擧錢過二米錢一事、任二宣旨之狀一、一向可二禁斷一、有二違犯輩一者、可レ注二進交名一之旨被二仰下一云云、
p.0005 檢斷條目事 追加
一以二田地所領一爲二雙六賭一事
右博戯之科、禁制惟重、而近年非三啻背二制符一、剰以二田地一爲レ賭之由〈○由下、新編追加有二世間二字一、〉有二其聞一、自今以後可レ被二 停止一、若猶令二違犯一者、早可レ被レ處二重科一、可レ令レ沒二收其賭一矣、
寬喜三年六月六日 武藏守
相模守
駿河守殿
掃部助殿
p.0006 一博奕事、侍雙六者、自今以後可レ被レ許レ之、下﨟者、永可レ被二停止一、四一半錢目勝負以下、種種品態、不レ論二上下一、一向可レ被二禁制一、於二違犯輩一者、任レ法有二其沙汰一、可レ被レ召二所職所帶一、至二下賤之族一者、可レ被レ處二遠流一也、以二此旨一可レ被二相觸一之狀、如レ仰執達如レ件
寬元二年十月十二日 武藏守判
p.0006 碁盤〈○中略〉 倭俗爲二碁雙陸之戯一謂レ打、
p.0006 雙六ノ名目
相見 品態 扣子 平 乞出 入破 採居 立入 袖隱 透筒 要筒 定筒
p.0006 大君夫者、高名博打(ハクウチ)也、筒父(ノオヤ)擢レ傍、簺目任レ意、語條盡レ詞、謀計究レ術、五(グ)四尚利目(ナヲリメ)、四三小切目、錐徹、一六難呉(ノクレ)流、叩子(シウヽイロ)、平塞、鐵塞、要筒、金頭、定筒、八破(ツワリ)、康(タウ)〈○據レ訓恐唐誤〉居(スエ)、樋垂(エヒタレ)、品態、簺論、猶勝二宴丸道弘一、卽四三一六豐(ノ)藤太、五四衝四竹(ノ)藤掾之子孫也、字尾藤太名傅治(スケハル)、目細鼻䐔宛如二物核(サ子)一、一心二物、三手四勢、五力六論、七盜八害無レ所レ缺乎、
p.0006 推はかりにいはゞ、八破は入破なるべく、康居は採居、透箇は透筒なるべし、
p.0006 雙六
抑博奕品々に、謀計術を究つゝ、あの語條言を盡せり、五四尚切目振返し相見立入品態、四三小切目の一六難の呉流、叶子平 捼馴し要筒金 金頭定筒入破採居歟、出透筒袖隱竹藤置か平仕負 博のおかしきは集居ての言種には、各利 を取々に、我先前にと爭投の下に數つめられては、古昔のそも よはけにみゆれば、九條筵の打ほうけ差違をや構まし、
p.0007 簺(サイ)采〈二字義同、博奕所レ挼也、夫毎二采目一過半用二重字一呼レ之、云二重一、重二、朱三、朱四、重五、重六一、然至二四三目一云レ朱何哉、其義云、後一條院與レ臣打二雙六一、探レ簺急呼二四三目一、心中祈念、若四三出來、別使三其目爲二五位一、時采之目轉躍而成二四三一、院大悦與二簺五位一而賜二朱衣一、由レ之呼二四三目一曰二朱三朱四一也、朱色五位之衣也、又唐玄宗皇帝、與二楊貴妃一采戰之時一、將レ負心欲二重四一連呼叱、骰子轉成二重四一、帝大悦賜二四緋衣一云云、和漢共有二此故事一可レ記、馬骰亦采也、緋衣卽朱衣也、〉
p.0007 重一(デツチ)〈骰子目名、下同、〉 重二(ヂウニ) 朱三(シユサン) 朱四(シユシ)〈唐明皇故事、本邦後一條帝亦有二此事一、二皇之事可レ謂二暗相合者一也、〉 重五(デク) 重六(デウロク)〈以上骰子目名也〉
p.0007 雙陸〈○中略〉
按〈○中略〉其勝負雖レ在二骰子一、至修練者隨レ所レ好出レ之、謂二之目打一、
重一(テツチ)、重二(チウニ)、朱(シユ)三、朱四、重五(テツク)、重六(チヤウロク)、俗謂二之重目(チヤウメト)一、
p.0007 雙六につかふ詞字
朱三(しゆさん) 朱四(しゆし) 重一(でつち) 重二(ぢうに) 重五(でつく) 重六(ぢやうろく) 五四(ぐし) 芇(おめ) 重目(てうめ) 淀(よどむ) 殿(おくれ) 蒸(むし) 欠(かく) 下端(おりは) 筒(だう) 簺(さい)局(ぱん)
p.0007 〈今井似閑頭書或書〉の詞にも、てうさんてうしと侍れども、これも重三重四とかきて、シユサンシユシとよむべきにや、一二(イチニ)、三一(サンミチ)、四一(シツチ)、五一(グイチ)、一六(イチロク)、三二(サンニ)、四三(シサウ)、五三(グサン)、三六(サブロク)、五四(グシ)、五六(ゴロク)、同ジ目二ツ一度ニイヅルヲ重目ト云、或曰、習三習四トモ書也、
p.0007 叡山物語事
四方山ノ御物語ゾ有ケル、扨モ雙六ノ簺ノ目ニ、一ガ二ツオリタルヲバ疊(デツ)一ト云、二ガ二ツオリタルヲバ重二ト云、五六ヲモ疊五(デク)疊六ト申ス、是レ皆重ル儀ナルニ、三四計ヲ朱三朱四ト云コソ心得子、是ヲ御尋候ヘカシト被レ申ケレバ、法皇〈○烏羽〉ゲニモトテ、信西ヲ被レ召テ、此由ヲ被二仰下一ケレ バ、サン候、昔ハ同ク重三重四ト申ケルヲ、唐ノ玄宗皇帝ト楊貴妃ト雙六ヲ遊シケルニ、重三ノ目ガ御用ニテ、朕ガ思フ如クニ出タラバ、五位ニナスベシトテ遊シケレバ、重三ヲリキ、楊貴妃又重四ノ目ヲコフテ、我ガ心ノ如クニヲリタラバ、倶ニ五位ニナスベシトテ打給フニ、重四出タリキ、依テ天孑ニ俗言ナシ、同五位ニナサムトテ被レ成ケルニ、何ヲカ驗シニスベキト云ニ、五位ハ赤衣ヲ著レバトテ、重三重四ノ目ニ朱ヲサヽレテヨリ以來、朱三朱四トヨブトコソ見ヘテ候ヘト奏シケレバ、諸卿皆理ニヤト感ジアハレケル、
p.0008 上〈○玄宗〉與レ妃〈○楊貴妃〉采戯將レ北、唯重四轉レ敗爲レ勝、連叱レ之、骰子宛轉而成二重四一、遂命二高力士一賜レ緋、
p.0008 〈今井似閑頭書〉私云、源平盛衰記〈○源平盛衰記恐平治物語誤〉少納言信西、雙六ノ目、シユ四朱三トイへルハ、玄宗ト楊貴妃ト雙六ヲ撲玉ヘル時、コヒメニシユ四シユ三ノ出タレバ五位ヲサヅク、五位ハ赤衣ナレバ、夫ヨリ朱四朱三トイヘルヨシヲイヘリ、今案、此説智アル人ハイツハリ多シトイヘルタグヒニテ、法皇ノオモハズモ信西ニ尋サセ玉ヘバ、廣才ノ聞エアル人ナレバ、サスガニシラズトハイナビガタク、ツクリゴトニイハレタルナルベシ、總ジテ雙六ノ重リタル目ノ詞ハ、皆重ノ字ノ轉語ナリ、重一(ヂヅチ)〈チヤウノ漢音轉語〉重二(ヂウニ)〈呉音〉重三(シユサン)〈シユウノ轉語〉重四(シユシ)〈又シユウシトモ云〉重五(デツク)〈クトゴト通ズ〉重六(ヂヤウロク)、〈チヤウノ轉語〉是ニテ音ノ無窮ナルコトヲ知ベシ、本字ニヨリテ五音通ジ、假名ノタガヘルコト一ツモナク、音便ヲム子トセリ、
p.0008 こゝろゆくもの てうばみに、てうおほくうちたる、
p.0008 雙六の遊びにて、偶數を勝とする也、
p.0008 鎌倉の修理大夫時房朝臣のまへにて、雙六の勝負有けり、九郎三、〈○三原脱、今據二一本一補、〉參河房、信濃七郎など有けるに、懸物を出して、ひき目うちたらんもの取ベしと定てけり、一番に信 濃七郎すゝみて、筒をしばしふりてぬきければ、三を打たりけり、次に參河房すゝみて調一(でつち)を打たりけり、人々目をおどろかして、此うへは何をかうたん、參河房懸物とりつと、のゝしりあへるに、九郎三〈○三原脱、今擦二一本一補、〉すゝみて、よく久しく筒をふりて、調一をおり重たりけり、凡夫のしわざにあらずとて、九郎三とりてけり、
p.0009 ばんどうや才介
淺草新寺町にすご六のばん、さい、どうなどつくる事めいじんの細工人あり、江戸中よりあまねくあつらゆるものもおほかりける、さるによつて弟子なども四五(○○)人ありて、ふつきにくらし、名をばんどうや才介とつきけり、さてうらにやぶのありしに、此竹をきりてどうにつくるほどに、竹の子などのじぶんは、ずいぶんたいせつにしたり、さればもしや人の、竹の子をぬすみて、きりもやせんとおもひて、かぞひしるしなどをつけておきしに、いつのまにか、竹の子十四五本もぬすみとりたり、才介もつての外に立腹して、弟子どもよびて、とかく外からぬすむべきにあらずと、こと〴〵くせんぎするに、きけばすきとすごろくの事にて申あいけり、やいそこなでつち(○○○)めはしらぬか、でつちきいて、わたくしが重二(○○)や三にて、そもやそも此竹の子をとりませうか、一六(○○)におといなされいと申、一六をよびてせんさくすれば、うらに母いんきよしていらるゝに、いんきよのしゆ三(○○○)さまにおきゝなされいと云、さらばとて、さい介いんきよへゆきて、しゆ三坊こなたは、竹の子はきりたまわずやといふに、ゐんきよ、さて〳〵おてまへのたいせつにしらるゝものを、おのれきる物か、そなたのぶせうからおこつたじやう六(○○○○)ばかりかいていて、うか〳〵としたるゆへ、でく(○○)介や三四(○○)郎をよびてきゝやれ、あいつらが一二(○○)をあらそふて、四かねるやつでないといわれて、又兩人をよびてとふに、我々四六(○○)年もほうこうつかまつります、ずいぶんふぎはつかまつらぬ物を、六地に御意なされい、われらがばん(○○)はしませず、たとひどう(○○)ぎりになります るとても、ぞんじませぬといふ、さい介きいて、おのれらがあたしはさい(○○)〳〵の事じや、一をうつてばんをしるおのれが、おふめにみていれば、目のない(○○○○)ものじやとおもふが、たま〳〵ものをいひつけても、ぐし〳〵ばかりぬかして、しろ(○○)きをくろ(○○)とあらそひても、あらそわせぬぞ、くつともぬかすときるぞ、手はみせぬといふ、その時三四郎、いかにでく介、もはやばんじきわまつた、此うへはどうもならぬ、だんなむし〳〵いわしやればせひなし、おみとをれとさしちがひ四の二(○○○)さと、いろをちがへていへば、四の二といわれて、さい介ものぼりつめてをりばがなかつた(○○○○○○○○○○○○○○)、
p.0010 きよげなるおのこの、すぐろくを日ひとひうちて、猶あかぬにや、みじかきとうだいに火をあかくかゝげて、かたきのさいをこひせめて、とみにもいれねば、どうをばんのうへにたててまつ、かりぎぬのくびのかほにかゝれば、かた手してをしいれて、いとこはからぬゑぼうしをふりやりて、さはいみじうのろふとも、うちはづしてんやと、心もとなげにうちまもりたるこそほこりかに見ゆれ、
p.0010 采を筒に入るゝゝは、敵のふりたる采なれば、筒は我もつて、采は敵に入さする、其時敵さいをとりてこひのろふなるべし、
p.0010 雙六の上手といひし人に、其てだてを問侍りしかば、かたんとうつべからず、負じとうつべきなり、いづれの手かとくまけぬべきと案じて、其手をつかはずして、一めなりとも遲くまくべき手につくべしといふ、
p.0010 御すぐろくなどあそばし候とて、ばんをめしいだす事あれば、まづ石の袋をもちてまいり、そののちばんをまいらせ、さてちと御けしきをうかゞひて、うつしてむかひのいしをたてゝ、御二人のなかへまいらせらるゝことなり、めしつかはるゝ人にも御をしへ有べし、
p.0010 色々の事 すぐろくをまいらば、これも袋を取て石をうつして、筒をも貴人へまいらすべし、又貴人の石をさのみかへる事も、さいをこふ事も尾籠なり、さやうの事は、時により樣によるべし、分別有べし、
p.0011 小野宮は、むかし惟高のみこの雙六のしちに取給へる所也、かのみこは、たのしき人にてなんおはしましける、むかしもかゝる輕々の事は有けるにこそ、
p.0011 中納言長谷雄卿は、學九流にわたり、藝百家に通じ、世におもくせられし人なり、或日ゆふぐれがたに、内へまいらんとせられける時、見もしらぬおとこのまなこゐかしこげにて、たゞ人ともおぼえぬ來て云、つれ〴〵に侍ば、雙六をうたばやと思給に、そのかたきおそらくは、君ばかりこそおはせめとおもひよりて、まいりつるなりといへば、中納言あやしうおもひながら、心みむと思ふ心ふかくて、いと興あることや、いづくにてうつべきぞといへば、これにてはあしく侍ぬべし、わがゐたる所へおはしませといへば、さらなりとて、ものにものらず、とものものをもぐせず、たゞひとりおとこにしたがひてゆくに、朱雀門のもとにいたりぬ、此門の上へのぼり給へといふ、いかにものぼりぬべくもおぼえねど、男のたすけにてやすくのぼりぬ、すなはちばむてうどとりむかへて、かけものにはなにをかし侍べき、われまけたてまつりなば、君の御心に、みめも、すがたも、心ばへも、たらぬところなく、おぼさむさまならむ女をたてまつるべし、君まけ給なばいかにといへば、我身にもちともちたらんたからを、さながらたてまつるべしといへば、しかるべしとてうちける程に、中納言たゞかちにかちければ、男しばしこそよのつねの人のすがたにてありけれ、まくるにしたがひてさいをかき、心をくたきける程に、もとのすがたあらはれて、おそろしげなる鬼のかたちになりにけり、おそろしとおもひけれどもさもあれ、かちだにしなば、かれはねずみにてこそあらめとねむじてうちける程に、つゐに中納言かちはてにけり、
p.0012 元方式部卿のむまご、まうけの君にておはするころ、みかどの御庚申せさせ給ふに、この式部卿まいり給へる、さらなり、九條殿〈○藤原師輔〉さぶらはせ給ひて、人々あまたさぶらひてご〈○ご、一本作レだ、〉うたせ給ふついでに、冷泉院のはらまれおはしましたるほどにて、さらぬだによひといかゞとおもひ申たるに、九條殿こよひのすぐろくつかうまつらんと、おほせらるゝまゝに、このはらまれ給へるみこ、おとこにおはすべくば、でう六いでことて、うたせ給ひけるに、たゞ一どにいでくるものか、ありとある人、めを見かはして、かんじもてはやし給ひ、わが御みづからも、いみじとおぼしたりけるに、この式部卿のけしきいとあしうなりて、いろもいとあをくこそなりたりけれ、さてのちにれいにいでまして、その夜やがて、むねにくぎはうちてきとこそのたまひけれ、
p.0012 ことし〈○康保三年〉は、せちきこしめすべしとて、いみじうさわぐ、いかで見むとおもふに、ところぞなき、みむとおもはゞとあるをきゝはさめて、すぐろくうたんといへば、よかなり、ものみつぐのひにとて、女うちぬ、よろこびてまかるべきさまのことゞもしつ、
p.0012 いまのうへ〈○村上〉の御心ばへ、あらまほしくあるべきかぎりおはしましけり、〈○中略〉そこらの女御みやす所まいりあつまり給へるを、〈○中略〉御物忌などにて、つれ〴〵におぼしめさるゝ日などは、おまへにめし出て、ごすぐろくうたせ、へんをつかせ、いしなどりをせさせて御覽じなどまでぞおはしましければ、みなかたみになさけをかはし、おかしうなんおはしあひける、
p.0012 入道殿〈○藤原道長〉みたけにまいらせ給へりし道にて、帥殿〈○藤原伊周〉の方より便なきことあるべしときこえて、つねよりもよををそれさせ給ふに、たひらかにかへらせ給へば、彼殿もかゝる事聞えたりけりと人の申せば、いとかたはらいたくおぼされながら、さりとてあるべ きならねば、まいり給へり、道のほどの物がたりなどせさせ給ふに、帥殿いたくおくし給へる御氣色のしるき、おかしくも又さすがにいとをしくもおぼされて、ひさしく雙六つかうまつらで、いとさう〴〵しきに、けふあそばせとて、雙六の枰をめしてをしのごはせ給ふに、御氣色こよなうなをりて見え給へば、殿をはじめ奉りて、まいり給へる人々、あはれになん見たてまつりける、さばかりの事をきかせ給ひけれど、入道殿はあくまでなさけおはします御本性にて、人のさおもふらん事をば、をしかへしなつかしくもてなさせ給ふ也、この御はくやうは、うちたゝせ給ひぬれば、ふたところながら、はだかにこしからませ〈○からませ、原作二かうまらせ一、今據二一本改、〉給ひて、夜半曉まであそばす、
p.0013 鎭西人打二雙六一擬レ殺レ敵被レ打二殺 女等一語第二十三
今昔、鎭西ノ國ニ住ケル人、合聟也ケル者ト雙六ヲ打ケリ、其人極テ心猛クシテ、弓箭ヲ以テ身ノ莊トシテ過ケル兵也、合聟ハ只有者也ケリ、雙六ハ本ヨリ論戰ヒヲ以テ宗トスル事トスル、此等 論ヲシケル間ニ、遂ニ戰ニ成ケリ、〈○下略〉
p.0013 自二京方一修二行東國一之僧、武藏國ニ落留テ、法花經ナド時々讀テアリケルガ、國人ト雙六ヲ打間、多負テ身ヲサへ掛テ打入畢、勝男陸奧へ將入テ馬ニ替トシケルヲ、熊ガエノ入道ガ弘メオキタル一向專修之僧徒聞、不便事也トテ、各布ヲ出合テ請留トシケレバ、此僧モ悦入、勝男モ以二三百段一雖レ可レ被二請替一、上人奉レ發二憐愍一令レ請給事ナレバ、半分ヲバ不レ可レ取、今百五十段ヲ給テ可レ奉レ免也ト云ケレバ、念佛者輩モ神妙也トテ、已欲二請出一之間、念佛輩云、此恩ヲ思知テ、自今以後可レ爲二專修一也云々、爰此僧云、縱馬ノ直トナリテ繩ヅラヌキテ奧ヘハ罷向トモ、奉レ弃二法花經一、一向專修ニハ不レ可レ入トテ涕泣、依レ之念佛輩、然者不レ能二請出一トテ忽分散、仍被レ付レ繩以追立、入二陸奧方一畢、
p.0013 賴朝擧二義兵一平家退治事 兵衞佐〈○源賴朝〉宣ケルハ、頸ハ故池殿ニ續レ奉ル、其芳志ニハ大納言殿〈○平賴盛〉ヲ世ニアラセ申侍リ、髮ハ纐纈源五ニツガレタリ、但盛安ハ雙六ノ上手ニテ、院中ノ御雙六ニ常ニ被レ召、院〈○後白河〉モ被二御覽一ナレバ、君ノ召仕セ給ハン者ヲバ、爭呼下スベキト思テ、斟酌スル也ト語給ヘバ、此由源五ニ吿タリシカドモ、天性雙六ニスキタル上、院中へ參入ヲ思出トヤ存ケン、終ニ不レ下ケリ、
p.0014 仁安二年六月廿六日、參二東宮一數刻之後參院、〈○後白河〉以二少將定能一入二見參一、歸來云、令レ申了、 密談云、御雙陸云々、〈片手兵衞尉能盛云々〉
p.0014 壽永三年〈○元曆元年〉四月廿一日己丑、自二去夜一殿中聊物忿、是志水冠者〈○源義高〉雖レ爲二武衞〈○源賴朝〉御聟一、亡父〈○源義仲〉已蒙二勅勘一被レ戮之間、爲二其子一其意趣尤依レ難レ度、可レ被レ誅之由、内々思食立、被レ仰二含此趣於眤近壯士等一、女房伺二聞此事一、密々吿二申姫公〈○賴朝女義高妻〉御方一、仍志水冠者廻二計略一今曉遁去給、此聞假二女房之姿一、姫君御方女房圍レ之出、而海野小太郎幸氏者與二志水一同年也、日夜在二座右一、片時無二立去一、仍今相二替之一入二彼帳臺一臥二宿衣之下一出レ髻云々、日闌後出二于志水之常居所一、不レ改二日來形勢一、獨打二雙六一、志水好二雙六之勝負一朝暮翫レ之、幸氏必爲二其合手一、然間至二于殿中男女一只成二于レ今令レ座給思一之處及レ晩縡露顯、武衞太忿怒給、則被レ召二禁幸氏一、又分二遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路一、被レ仰下可二討止一之由上、姫公周章周章銷レ魂給、
p.0014 袈裟之德事
去文永七年七月十七日、尾張國下津宿ニ雷墮テ、道行馬三疋踢損ジテ小家ニ走入テ、帷ニ袈裟掛テ、雙六打イタル法師ノセナカニカキアガリテ、帷ヲバ散々ニ搔裂テ、袈裟ヲバ少モ不二損サ一、法師モ无レ恙ケリ、
p.0014 千劒破城軍事
長崎四郎左衞門尉、此有樣ヲ見テ、此城〈○千劔破〉ヲ力責ニスル事ハ、人ノ討ルヽ計ニテ、其功成難シ、唯 取卷テ食責ニセヨト下知シテ、軍ヲ被レ止ケレバ、〈○中略〉或ハ碁雙六ヲ打テ日ヲ過シ、或ハ百服茶褒貶ノ歌合ナンドヲ翫テ夜ヲ明ス、〈○中略〉名越遠江入道ト、同兵庫助トハ、伯叔甥ニテ御座ケルガ、共ニ一方ノ大將ニテ、責口近ク陣ヲ取リ、役所ヲ雙テゾ御座ケル、或時遊君ノ前ニテ雙六ヲ打レケルガ、賽ノ目ヲ論ジテ、聊詞ノ違ヒケルニヤ、伯叔甥二人突違テゾ レケル、兩人ノ郎從共、何ノ意趣モナキニ、差違差違片時ガ間ニ、死ル者二百餘人ニ及ベリ、
p.0015 應永廿四年八月廿二日、雙六有打勝、八朔餘慶懸物ニ出レ之、又落孔子ニ取面々入興、左道物共各取レ之、 廿六年二月二日、徒然之間、雙六有二廻打一、出二懸物一、予〈○後崇光〉椎野三位重有朝臣等打レ之、
p.0015 應永卅三年九月廿六日丙辰、依二當番一參院、〈○後小松〉盡日終夜祗候、權大納言、藤中納言、四辻宰相中將等參會、有二御雙六一、
p.0015 永享五年三月廿四日、冬三未レ有レ之、仍冷然之餘、召二集家僕等一、於二予前一打二雙六一、當座有二負態一、尤入興者也、 後七月廿二日、依レ番參、仙洞〈○後小松〉有二手分之御雙六一、
p.0015 永正十七年四月十三日、參二伏見殿一、朝供御有二御相伴一、雙六之負事御銚子事也、
p.0015 大永七年正月廿七日乙巳、晝時分中御門へ罷候、〈○中略〉左少辨ト雙六ヲウチ候、十一番打六番マケ候了、葉室ト二番打勝候、
永祿七年三月十三日乙卯、四條所梶井殿へ參一盞有之、中山、予、持明院、按察、雲松軒、盛巖等雙六有之、懸物ニ臘燭三丁被レ出之、日暮不レ决二勝負一、皆同盤數也、 十四日丙辰、四條亭梨門へ參、咋日之雙六更五盤勝有之、予代薄打之勝之云々、臘燭予ニ賜之、又一盞有之、雙六打之了、
p.0015 永祿八年三月八日、今日さかいより書狀共上候、則返事申也、將棊くだし申也、於二竹門一雙六候つる、
p.0015 貞享五年〈○元祿元年〉八月十三日、元庵幷助給晝ゟ來話、夕飯後ゟ元庵内呼知香樂各打寄 雙六、又者女訓誦ニ而遊、亥刻計被レ歸了、
p.0016 雙六
博堂上座道興院 難波内竪春府掌 禰能凡太秦先生 冠者論代南參軍 沓之(クツユキ)坂極眞卿 宴丸道供上座院 刑三文三薄先生
説云、博堂上座、〈道興三職之〉 春府掌〈鞠足春述之〉 南參軍〈修理史生村主南賴〉 文三〈字文三大夫名完成也〉 刑三〈字刑別當刑部佐賴也〉 薄小先生〈客縣河陽之人也〉
p.0016 局(スグロクバン) 〈雙盤同〉
p.0016 雙陸盤(スゴロクバン)〈宋洪遵譜雙、盤馬制度有二北雙陸盤廣州雙陸板一、〉 博局(スゴロクバン)〈見レ前〉 雙陸局(スゴロクバン)〈事原、曹子建製二雙陸局一、〉 雙盤(スゴロクバン)〈樗蒲經略、北人打二雙陸一曰二打雙一、盤曰二雙盤一、馬曰二雙馬一、番禺打二雙陸一曰二打雙陸一、盤曰二雙陸板一、馬曰二雙陸子一、〉 雙陸板(スゴロクバン)
p.0016 木畫紫檀雙六局一具〈牙床脚 納二染緣籧篨龕一、龕裏悉漆〉
p.0016 勅封藏開撿目錄 中藏〈○中略〉 一合納〈○中略〉雙六枰一枚 一合納〈○中略〉雙六枰一面〈○中略〉 建久四年八月廿五日
p.0016 碁盤〈○中略〉 雙陸盤、以二櫻木或黑柿一製レ之、
p.0016 局、四季表シテ厚四寸、八方ニ表シテ、廣八寸、十二月ニ當テ長サ一尺二寸ニシテ、竪ニ十二目盛リ、天地人ノ三才ニ像リテ、横ニ三段ヲ分チ、陰陽ノ二儀ニ擬ヘテ、内外ノ二陣ヲ成シ、一月ヲ司ドリテ、黑白卅ノ石アリ、日月ニ擬シテ二ノ骰アリ、須彌ノ三十三天ニ表シ、筒ノ竹ヲ三寸三分ニ切ル、是日月ノ行度ヲ隱ス故也、是ヲ工ノ口傳ニハ、局ヲ ノ目ヲ以テ作ルト云、則疊六ヲ以テ、長ケヲ一尺二寸ニシ、四々ヲ以テ、廣サヲ八寸ニシ、重二ヲ以テ厚サヲ四寸ニスト云共、當時ノ局ハ厚サ六寸アル也ト云リ、加樣ノ事マデモ、古體ノ改ルコソ無念ニ侍レ、
p.0016 男問云、世ノ中ニ圍碁雙六、又ハ將棊ナンド申、盤ノ上ノ遊ビ多ク侍リ、何樣ナル事哉、 聖答云、〈○中略〉雙六盤ノ長サ一尺二寸、廣サ七寸二分也、長一尺二寸ハ十二月ヲ顯ス、廣七寸二分ハ七十二日ノ土用ヲ表ス、白ノ十五ハ白月十五日、黑ノ十五ハ黑月十五日也、二ノ ハ日月、筒ハ須彌山ヲ表ス、一六ノ目ハ六度萬行ヲマナブ、五二ノ目ハニ佛並座ノ佛ノ五位ノ修行ヲ明シ、三四ノ目ハ三身如來ノ四弘誓願ヲ表ス、亦人ノ内ハ我春、我内人ノ春、我前ハ人ノ夏、人ノ前ハ我夏、人ノソトハ我秋、我ソトハ人ノ秋、人ノ内ハ人ノ冬、我内ハ我冬也、春種ヲ出テ、夏田畠ヲ作ヲ秋取マトメテ冬内收由表ル也、是皆三十佛 ノ變身、慈悲衆生濟度ノ方便、三十番神深キ意ノ剝益ノ姿也、是 心ノ種子ニアラズヤ、
p.0017 三日曲水宴事
天平二年三月三日、行二幸松原宮一豐樂、五位以上賜二雙六局一、又喚二文人一作レ詩、
p.0017 永享六年四月七日、抑雙六盤新造盤始、有二廻打一、人數、予、〈○後崇光〉南御方、東御方、御乳人、前宰相、源宰相三位、重賢等打、懸物各茶一袋出、源宰相打勝、取二掛物一〈茶九袋〉有二盃酌一、
p.0017 元和の御時、沈の御すごろく盤を人の奉りけるが、其盤ありがたき香ありければ、きらせ給ひて、うへの人々に給はせけり、たが里とぞ名付させ給ひける、とはましものを梅がかにと、いふ歌のこゝろばへなるべし、
p.0017 貞享二年二月廿日、お六祝言道具、昨晩今晩ニ遣、
貝桶一荷、〈○中略〉雙六盤一箱、〈○下略〉
p.0017 因果の關守
暮れての物憂さ、明けての淋しさ、塵紙にて細工に雙六の盤を拵へ(○○○○○○○○○○○○○○)、二六、五三と乞目を打つ中にも、そこを切れといふ、切るの字心に懸けるも可笑し、戸口をしめて出さぬといふは、なほ嫌ふ事あり、
p.0018 雙六采 楊氏漢語抄云、頭子、〈雙六乃佐以、今案見二雜題雙六詩一、〉
p.0018 按、資暇錄云、投子者、投二擲於盤筵一之義、今或作二頭字一、言其骨頭所レ成、非也、演繁露亦云、今世通名二骰子一也、本書爲レ投、後轉呼爲レ頭、北史周文命二丞郎一、擲二樗蒱頭一、則昔云レ投者、遂轉爲レ頭矣、則是也、又按、采、樗蒲子之名、樗蒲經略云、采本采色之采、指二其文一以言也、如二黑白之以レ色別、雉犢之以レ物別一、皆采也、投得二何色一、其中レ程者勝、因遂名レ之爲レ采、是可レ知二采樗蒲子之名一、又頭子卽骰子、雙六所三投以行二馬子一者、其狀四方六面、各著二其目一、自レ一至レ六、其數都二十一、故理學類編、謂二地形正方爲一レ如二博骰一、演繁露云、五木止有兩面一、骰子則有二六面一、故骰子著レ齒、目レ一至レ六、淸異錄云、博徒隱語、以二骰子一爲二惶々二十一一、是其形與二樗蒲采一絶不レ同、然至三投レ之以定二勝負一則一、故皇國俗謂レ之亦爲レ采也、
p.0018 頭子〈雙六ノサエ〉
p.0018 采〈サイ雙六也〉 簺 頭子〈已上同〉
p.0018 雙六菜〈スクロクノサイ〉
p.0018 骰子(サイコ)〈雙六之采、又 、〉
p.0018 骰(サイ)〈采也、投子同、〉
p.0018 雙陸 投子 采 骰子〈雙六乃佐以〉
p.0018 骰子(サイ)〈雙六具、見二活法一、〉 采(同)〈一名梟盧、又云頭子、〉
p.0018 さい〈○中略〉 倭名抄に、頭子を雙六のさいとよめり、采の音也、
p.0018 長忌寸意吉麻呂歌八首〈○中略〉
詠二雙六頭(ノ)一歌
一二之(ヒトフタノ)、目耳不有(メノミニアラズ)、五六(イツヽムツ)、三四佐倍有(ミツヨツサヘアリ)、雙六乃佐叡(スグロクノサエ)、
p.0018 大芹
おほぜりは、くにのさたもの、こぜりこそ、ゆでゝもうまし、これやこの、せんばん、さんたのきの、ゆ しのきのばん、むしかめのどう、さいかくのさい、ひやうさいとさい、りやうめん、かすめうけたる、きりとほし、かなはめばんぎ、五六がへしの、一二のさいや、四三のさいや、
p.0019 一篇の總意は樗蒲などの大ぜりの博奕こそ國の大禁なれ、雙六などの小糴(ゼリ)、はあながち害にもならねば、その事の忘れがたくて、つら〳〵其具を打守るに、 檀、珊瑚、柞(ユシ)の木の盤、牟些喰(ムシハメ)の筒、犀角のさい、平賽(ヒヤウサイ)、投賽(トサイ)とかぞへゆくに、兩面かすめ浮(ウケ)たる、うき紋の盤の如く、うす〳〵われらも名ざしにあづかれど、こは切通しの盤の如く、上下一同の事なればいかにせん、これや此かなはめ盤の鉗(カナギ)をはめられぬともすべもなし、たゞ五六がへしの一二のさいよ、四三のさいよと投うちて、心をやりをると云なり、
p.0019 雙六頭一百一十六具一隻未造了二具〈納二小皮箱一〉
p.0019 勅封藏開撿目錄 北藏〈○中略〉 木地厨子一脚 納〈○中略〉 雙六賽一筥〈○中略〉建久四年八月廿五日
p.0019 つれ〴〵なる物 むまおりぬすぐろく
p.0019 馬は の事也、晋書袁彦道が傳に、投レ馬絶叫とあり、是博局にむかひての事也、むまおりぬは、雙六に思ふ目のおりぬなり、
p.0019 長保五年八月二日、雙六采入二第二内親王〈○媄子〉鼻内一、僧慶圓加二持之一出レ之、給二度者一、
p.0019 一雙六ノ采 貞丈按、第二親王は、一條院第二ノ皇女媄子内親王也、長保二年十二月十五日降誕、長保五年には齡四歲也、雙六ノ采生長の人鼻の穴にも入るべからず、况や四歲の皇女の鼻の穴に入べからず、前陰の中に入たるを女房穩秘して、鼻内に入ると云たるなるべし、加持の驗は有べからず、女房ほり出したるなるべし、
p.0019 ぐわんだての事 かも川の水、すご六のさい、山法師、これぞ我御心にかなはぬ物と、白河の院も仰なりけるとかや、
p.0020 十九番 右 さいすり
一か二かめも消はつるつぶれざいそれだにみゆる秋のよの月〈○中略〉
ねたやげにかたづきしたるえせざいのかくかひもなきめをもみる哉
p.0020 師 雙六の これをつくる、所々に住す、
p.0020 筒〈トウ 雙六筒也〉
p.0020 筒(トウ)
p.0020 やがて此御かたのたよりに、たゝずみおはしてのぞき給へれば、すだれたかくをしはりて、五せちのきみとて、ざれたるわか人のあると、すぐろくうち給、てをいとせちにをしもみて、せうさいせうさいといふこゑぞ、いとしたどきや、あなうたてとおぼして、御ともの人のさきをふをも、てかきせいし給て、なをつまどのほそめなるより、さうじのあきあひたるをみいれ給、この人もはた氣色はやれる、御返しや〳〵、と、どうをひねりつゝ、とみにも打いでず、中に思ひはありやすらん、いとあまへたるさまどもしたり、
p.0020 とうをひねりて 雙六也、近江君筒ヲヒ子リテ、セウサイ〳〵トコウナリ、
〈後聞非レ爪、依レ堪二細工一依レ作二雙六筒一切レ手、〉
p.0020 嘉祿三年〈○安貞元年〉十一月廿四日、傳聞伊時卿、去比切二手爪一之間、誤切二其指一、〈○中略〉仍出家云々、
p.0020 雙六子(スグロクノイシ)
p.0020 雙馬(スゴロクノイシ) 雙陸子(スゴロクノイシ)〈○註略〉 白子(シロイシ) 黑子(クロイシ)〈樗蒲經略、番禺人以二黃楊木一爲二黑子一、桄榔木爲二黑子一、底平柄短、如二截柿一、如二浮屠形一、〉 馬子(スゴロクノイシ)〈譜雙、馬子排置、〉 白馬(シロイシ) 黑馬(クロイシ)〈同上、北雙陸盤以二白木一爲二黑馬一、以二黑木一爲二黑馬一、富者以二犀象一爲レ之、如二今搗衣椎狀一、〉 敵馬(サキノイシ) 己馬(テマヘノイシ)〈同上、敵馬未レ出、己馬拈盡、〉 博棊子(スゴロクノイシ)〈眉公筆記、范文正公家古鏡背具二十二時一、如二博棊孑一、毎レ至二此時一、則博棊中明如レ月、循環不レ休、〉
p.0020 雜玉雙子六百六十九〈水精卅五 琥碧卅五 黃琉璃廿 藍色琉璃廿 淺綠琉璃十五 綠琉璃十五 白碁子十四 黑碁子十五 納二小皮箱一〉
p.0021 勅封藏開撿目錄 北藏〈○中略〉 木地厨子一脚 納〈○中略〉 同〈○雙六〉石一筥〈○中略〉建久四年八月廿五日
p.0021 予廿餘季以還、歷一觀東西二京一、今夜猿樂見物許之見事者、於二古今一未レ有、就レ中〈○中略〉獨雙六、〈○中略〉都猿樂之態鳴 之詞、莫下不二斷レ膓解一レ頤者上也、
p.0021 雙六をうつ時の口遊幷追まはし
廢れし遊びは雙六なり、予〈○柳亭種彦〉をさなき頃も、雙六をうつ者百人に一人なり、されど下(お)り端(は)を知らざる童はなかりしが、近年はそれも又廢れたり、さて雙六をふるときの口遊(すさび)にいふことありし、五四(ぐし)をふれば、五四(ぐし)々々と啼くは深山の時鳥、三六なれば、三(さぶ)六さつて猿眼、又重五(でく)をよするとき、さつとちれ山櫻、五は櫻の花に似たり、それが二ツ並びていづるは、櫻のちるさまなればなり、是等は父にならひて、予が童のとき、いひつゝ雙六をうちしなり、今おもへば此口遊びはふるき事なり、三六さつて猿眼は、飯をたく法、どう〳〵火に、ちよろちよろ火、親が死ぬとも蓋とるな、三尺さがつて猿ねぶりといふ諺の、もぢり口なるべし、
俳諧世話燒草〈一名世話盡し、承應三年、土佐國圓滿寺の僧皆虚撰、明曆二年刻、〉雙六の話、二(に)くい坊主の布施好、さつとちれ山櫻、ししめせ坊主聲の藥に、ぐつと呑んで實をはけ、六尺をどれ沖のこのしろ、いちに(/一 二)ほうきはうりかひの升、ぐいち(/五 一)かす酒髭につく、しら〴〵は馬にめす、十人ぎりは曾我兄弟、いちちんいふぞ和田のよしもり、さゞ(/三三)波や志賀の都、下(シモ)作りは船が速い、ぐに(/五二)ん夏の虫、ぐし(/五四)〳〵腹のたつばかり、ぐに(/五二)くま太郎てゝは藤四郎、その間に月はぶら〳〵、
至來集〈延寶四年胡兮撰〉 さつとちれの雙六盤山櫻、冷笑子とあり、さつとちれ山櫻のみ予がおぼえし如くなり、ぐにん夏の虫といふは予もいひたるを忘れ、此册子を見て思ひ出したり、此ほか此書に鰻之目、手打、かどや、棒さし、おりは、追曲など、雙六にかゝつらひし詞を寄たり、此手打といふ 事、源氏常夏の卷に、あふみの君が手うたぬ心ちし侍れとあるこれなり、おなじ條に同じ君がせうさいせうさいとのたまふも、はやく絶たる彼口遊にはあらずや、小采にては聞えがたきやうなり、近き承應の口遊すら、今しれざるが多し、ましてや源氏の頃の俗語考へうる事かたかるべし、予雙六はたゞ並べるのみをおぼえし故にや、世話燒草に記し詞解せざるうちに、追まはしといふ事は、童のときならひたり、〈○中略〉
俳諧崑山集〈慶安四年印本〉 鹿 田のさい(采堺)目しゝの角ふるや追まはし 三德
俳譜天水抄〈慶安五年寫本、 〈前句〉印本とは別本、〉まづはきれたり〳〵
〈附句〉打續きよ目の出たる追まはし 貞德
夢見草〈明曆二年休安撰〉 暮て行年や雙六追廻し 義陳
昔はおこなはれしとおぼしく、是等の句多くあり、又五ケの津餘情男〈元祿十五年印本〉に、芝居の時このはやり歌、二上りの三味線にのせて、拍子もかまはずわめき、是もおもしろうないと、追まはしのおりは雙六などいふ事あり、
p.0022 雙六
我朝の近比、道々に長ぜる人を得給、一條の院の御宇とかや、主殿寮に侍し丹治の比手勝は、雙六の譽世に勝、名を又異朝におよぼし、藝を化人に感ぜしむ、時は南呂無射かとよ、此正に長夜もすがら、獨明月にうそぶき、大内山に木隱、彼方此方にさすらひて、右近の馬庭を行過、緣の松原にたたずむに、松嵐稍に冷敷、虫の音藪にしげくして、五更に夜閑なりしに、松の上に聲有て、汝が好長ずる道を感じて、昔の殷の目揚令こゝに來れり、恐るゝ事なかるべし、雌雄を决せんと望しかば、比手勝更に恐ず、則勝負に向て、はるかにときをうつすまで、數を競て良久し、夜旣に明なんとせしかば、日比の執心是なりと、慇にかたらひを成つゝ、紺碧瑠璃犀角の調度をかたみとおぼしく て、天の戸の明行空の横雲に、入にし事ぞ不思儀なる、
p.0023 無心所著歌
吾妹兒之(ワギモコガ)、額爾生流(ヒタヒニオフル)、雙六乃(スグロクノ)、事負乃牛之(コトヒノウシノ)、倉上之瘡(クラノウヘノカサ)、
右歌者、舍人親王令二侍座一曰、或有下作二無レ所レ由之歌一人上者、賜以二錢帛一、于レ時大舍人安倍朝臣子祖父、乃作二 斯歌一獻上、登時以二所レ募物錢二千文一給レ之也、
p.0023 題しらず よみ人しらず
すぐろくのいちはにたてるひとづまのあはでやみなん物にやはあらぬ
p.0023 雙六調度
黑白の爭ひきほふ雙六によしあし六の逍やわきけむ
p.0023 雙六より出たる詞
一小者を二才といふより、重一(でつち)といふ名出たり、 一簺の目に切 一筒がよはひ 一重五(でつくり)とした 一重六(ぢやうろく)かく
○
p.0023 雙六廿八種
淨土雙六四種 古畫〈南無分身諸佛〉 古板〈同〉 阿部侯藏版〈一二三〉 西村屋版〈同〉 道中雙六〈延寶天和の比の板行〉 惠方參詣雙六〈笠森於千土平飴あり〉 おでゞこ雙六〈莞爾模刻〉 藤川平九郎大てけ雙六〈鱗形屋板〉 伊勢は津でもつ雙六 鳴もの盡し雙六〈大坂板〉 岩戸雙六〈鶴金板〉 市村顏見世雙六〈丸小板〉 福神雙六 染分手綱雙六 かわるが、早い雙六〈鱗形屋板〉 ほうしやもゝ雙六 甘露壺雙六〈鶴屋板〉 道中名所雙六〈西宮板〉 同〈鱗形屋板〉 同 京大坂船路雙六〈四條升屋板〉 せりふ雙六 顏見世雙六〈岩戸屋板〉 振分道中雙六〈澤村板〉 太郎稻荷雙六〈和泉屋板〉 東歌伊呂波雙六 江戸巡り雙六〈山田屋板〉 同〈○中略〉
扨この後一鋪の紙にしるしたる雙六いで來にけり、名目雙六〈天台の名目をしるす〉官職雙六〈位階の昇進をしるす〉あり、これらみな飛雙六にて、童子をしてそのことをしらしめんが爲也、猶くだりては、淨土雙六、ばけ物雙六等あり、また一變して道中雙六といふものあり、そのはじめを詳にせずといへども、余〈○山崎美成〉が藏したるものに、京師の圖に二條の御城の天守をゑがけるを見れば、天守燒亡の前にいで來りしものにやあらん、これは采の目の順に數をかぞへ進めり、近松作の丹波與作と云淨るりに、道中雙六といふげいとあり、これ〳〵御らんぜ、うたしやんせ、是こそ五十三次を、ゐながらあゆむひざくりげ、馬はいしい道中すご六、南無諸佛ぶんしんと、かいた六字を六かくの、さいかさくら木、花の都をまん中に、思ひ〳〵のしるしをおゐてとあり、これを思ふに、常のさいを用ず、右の六字をしるしたるは、淨土雙六よりうつり來にけるものなり、また遊學往來に、毘沙門雙六、七雙六、一二五六雙六、一卜半打盜人隱、有哉立、島立、太々立、十六目石、百五减、十不足、郎等打、これらの戯、いまこと〴〵く考ふべからず、東鑑の四一半、古今著聞集の七半の類などにもあらんか、記して後考を俟つ、後世坊間に刻する所、おでゞこ雙六、福神雙六等、枚擧にいとまあらず、
右拙案一篇は、松蘿館珍藏のふるき雙六くさ〴〵を、こたび耽奇會に出し給へるに付て、思ひよれるふしもあらば、聞まほしとのことなりければ、聊そのよししるして贈り侍るになん、
文政乙酉〈○八年〉春正月二十日 山崎美成記
p.0024 選仙圖
今俗集二古仙人一作レ圖、爲二賭錢之戯一用二骰子一、比色先爲二散仙一、次陞二上洞一、以レ漸而至二蓬莱一、大羅等列則衆仙慶賀、比色時首重緋四爲レ德、次六與レ三爲レ才、又次五與レ二爲レ功、最下者 則謂二之過一、凡有レ過者謫作二採樵一、思凡之類遇德復位、此戯宋時已有之、王珪宮詞云、盡日間牕賭二選仙一、小娃爭覓二到盆錢一、上籌須占 蓬萊島、一擲乘レ鸞出二洞天一、卽此戯也、所レ云到盆錢當下卽如中里俗陞官圖戯、卑者出レ錢與二尊者一、謂二之見面錢一之類上耳、
p.0025 陞官圖(クワンイスゴロク/○○○)〈○中略〉 彩選格(クワンイスゴロク)〈卻掃編、彩選格起二唐李郃一、本朝踵レ之者、有二趙明遠尹師魯一、元豐官制行、有二宋保國一、皆取二一時官制一爲レ之、至二劉貢父一、獨因二其法一取二西漢官秩陞黜次第一爲レ之、又取下本傳所二以陞黜一之語上、注二其下一、局終遂可下類二次其語一爲中一傳上、博戲中最爲二雅馴一、〉
p.0025 すぐろく〈○中略〉 官位雙陸あり、五雜爼にいふ陞官圖なりといへり、
p.0025 序曰、開成三年春、予〈○唐房千星〉自二海上一北徏舟行次、洞庭之陽有レ風甚急、繫二舡野浦下一三日、遇下二三子號二進士一者上、以二穴骰一雙々爲レ戯、更投二局上一、以二数多少一爲二進身職官之差一、數豐貴而約賤、卒局座客有下爲二尉椽一而止者上、有下貴爲二相臣將臣一者上、有下連得二美名一而後不レ振者上、有下始甚微而歘升二于上位一者上、大凡得失酷似、前所レ謂不レ繫二賢不肖一、但卜二其偶不偶一耳、達人以二生死一爲二勞息一、萬物爲二一馬一、果如レ是、吾今之貴者、安、知二其不一レ果、賤哉、彼眞爲レ貴者、乃數年之榮耳、吾今貴者亦數刻之樂耳、雖二久促稍異一、其歸二於偶一也、同下列禦寇叙二穆天子夢遊一事上、近者沈拾遺述二枕中事一、彼皆異類微物、猶且竊二爵位一以加レ人、或一瞬爲二數十歲一、吾果斯人也、又安知二數刻之樂果不一レ及二數年之榮一耶、因條所レ置進身レ職官遷黜之爲二選格一、
p.0025 唐李郃有二骰子選格一、宋劉蒙叟楊億等有二彩選格一、卽今陞官圖也、諸戯之中最爲二俚俗一、不レ知尹洙張訪諸公何以爲レ之、不二一而足一、至三又有二選仙圖選佛圖一、不レ足レ觀矣、
p.0025 佛法雙六(○○○○)といふものあり、天台の名目を集め、初學の僧に覺えさせんが爲に作りたるものとぞ、故に是を名目雙六ともいふ、繪はなきもの也、
p.0025 此雙六は、是迄通例の雙六と違ひ、算木を〈信疑善惡 〉と定、ふりはじめ、此世界南膽部州にて〈善 〉此目をふり出せば、聖道門に入、布施、持戒、忍辱、精進、禪定、知惠等の諸行をつとめ、佛果に至りがたく、又〈信 〉此目をふり出せば、淨土門他力易行の大道に至、速に極樂往生をとぐ、又〈疑 〉此目を出ば、天人の吾衰、人道の四苦、又は殺生、偷盜、邪婬、妄語などにいたる也、又〈惡 〉此目をふれば、 貪欲、瞋恚、愚癡より餓鬼、畜生をへて地獄に落、又中途にても信善をふれば、上段〈江〉進み、疑惡をふれば、次第に三惡道に落、如レ此算木の目、信疑善惡の差別にて、千變萬化して誠におもしろく、他力安心稱名相ぞくの御緣とす、 〈寺町四條下ル〉菊屋喜兵衞
p.0026 選佛圖(ジヨウドスゴロク/○○○)
p.0026 繪雙六は淨土雙六といふもの古し、望一千句、願ふこそ唯極樂の花の緣永きひねもす打繪すご六、是は南閻浮洲よりふり出し、いづる目のよきあしきに依て、或は天堂に上り、あるは地獄に墮、その内永沈(エウチン)とて、一度こゝに落ぬれば、出ることあたはず、故に永沈とはいふなり、これによて永沈雙六とはいふ、
p.0026 淨土雙六附冶良雙六、冶良紋楊枝、道中雙六、
繪雙六といふもの、漢土にはふるくよりあれども、本朝にはふるき書には見えず、淨土雙六といふものぞ、繪雙六のはじめなるべき、それさへいつの頃よりある歟詳ならず、俳諧の發句には、萬治寬文中よりあり、假字草紙に見えたるは、貞享元年の印本、西鶴二代男に、吉原の遊女の遊びたはぶれて居ることをいふ條に、或は手相撲、火わたし、淨土雙六、心に罪なくうかれあそぶを云々、又初音草噺大鑑〈元祿十一年印本〉に、九月の中頃日待をせしに、明がたき夜のなぐさみとて、小歌淨瑠璃物まねなど、さま〴〵なる中に人の心の善惡は、これで見ゆるものぢやと、淨土雙六をうちけるに、やうちんへおつるもあり、餓鬼道へゆくもあり、一人は佛になりたうとてよろこぶ云々、又今樣廿四孝〈寶永六年印本〉六の卷に、高下貧福世間は淨土雙六をうつが如し云々、又野傾旅葛籠に、あの淨土雙六打て居る、色のあさ黑女の子云々といふことあり又舞臺萬人鬘にも、淨土雙六を少年のうつ事を載たり、この二書は刻梓の年號なし推量おもふに、正德年間の草紙にやあらん、なほちかく見えたるは、潜藏子〈享保十六年著、元文五年印本、〉上の卷に、此節弘誓の船にはのるべき人もなくて、廿五の 菩薩も毎日の隙ゆゑ、遷佛圖(じやうどすごろく)ふりてあそび居給ふ云々、是等の書にいふところをもつて、むかしはかの雙六の流行しをおもふべし、〈○中略〉さて此雙六は南無分身諸佛の六字を、四角あるひは六方の木に書て目安とし、南閻浮州よりふり出し、あしき目をふれば地獄へ墮、よき目をふれば天上に登り、初地より十地等覺妙覺等を經て佛に止るを上りとするの遊戯なり、〈○中略〉万治寬文の書籍目錄掛物の部に、淨土雙六と載たるは是なり、寬永正保の頃梓刻せしものなるべし、又延寶天和の書目錄に、淨土雙六、同中、同小とあるは、この雙六いよ〳〵流行(おこなはれ)て、あるひは抄略し、或は縮圖したるを彫せしなるべし、又貞享元祿の書目錄に、淨土雙六、同懷中、道中雙六、野良雙六とならべ出せり、懷中といふは、前の小とあるに同物なるべし、〈○中略〉
淨土雙六の牌匣〈○圖略〉 或人淨土雙六の札筥いふ物を藏す、牌は紫檀にてつくり、花鳥を蒔繪したるものなりしが、小兒の玩弄にうせたりとぞ、此札をおのれ〳〵が目印として、かの雙六をうち廻りしものなるべし、匣の大サ竪四寸九分、横三寸六分、深サ壹寸五分あり、
p.0027 淨土雙六附冶良雙六、冶良紋楊枝、道中雙六、
元祿十三年、役者評判記談合衝の序に、春雨しめやかにふり、子供相手に道中雙六(○○○○)、まければ天目に水一盃づゝのかけ六云々、これよりふるく道中すご六のことをいまだ見いでず、〈○中略〉道中雙六は貞享の比つくり出し、寶永正德の比より專流行しものなるべし、
p.0027 道中雙六に類して、さま〴〵作り出たるものあり、今も春毎に新板出づ、
p.0027 江門節物詩
道中雙六
兒女新年戯玩之名、圖下自二江戸一至二京師一路上驛站上、以爲二局戯一、各署二名於小牌子一、又記二骰子一、以二數目一投レ之、 依二其數一歷レ站送二牌子一、因以二至レ京前後一、爲二輪贏一者也、首春同二寶船圖一叫二賣街頭一、 太平歲月奉二春王一、百里行程不レ裹レ糧、兒戯何人寓二深意一、葵心都向九陽光、〈楚詞注、湯谷上有二扶木一、九日居二上枝一、一日居二下枝一、〉
p.0028 おでゞこ雙六(○○○○○○)は、正德ごろの物なるを、上りの處、おでゞこは、後に古板へ入木といふ事をしてかへたる故、畫のさま異なり、
p.0028 おでゞこは、でこと云ことに、おもじを添ていひたる也、でこはでくのぼうなり、〈○中略〉其内一種おでゞこといふ人形あり、古き繪雙六にみゆ、
p.0028 おでゞこ雙六年代考 按ずるに、此雙六は、正德享保の頃のものなるべき歟、此中に團十郎もぐさと云あり、今淺草東本願寺の門前に、この艾を鬻家ありて、其店の招牌に、此雙六にある所の晝にひとしき艾賣の人形を出し置り、むかし此艾うり始の頃、ひろめの爲、俳優の名家市川團十郎なるもの、〈二代目團十耶、幼名九藏、後に改て海老藏と云、〉寶永六年己丑の秋、傾城雲雀山といへる狂言に、久米八郎の役、艾賣の姿にて艾盡しのせりふありし事、其家口牌に傳ふ、是團十郎艾の權輿なりといへりとぞ申けりとある下に、角前髮の人物上下を著し、手に三絃を携へたる圖あり、按に當時の物貰なるべき歟、予先年ある人の家にして、英一蝶の戯畫にかける人物の圖あるを見たり、仍て考ふるに、一蝶其先多賀朝湖と云、寶永六年謫居より歸りて後名を英一蝶と改むるとぞ、然れば此畫も寶永以降のものにして、團十郎もぐさと時代を等うすべし、故に此雙六を正德享保の頃のものなりといへり、
文化乙丑初冬 江戸 莞齋藏
右はおでゞこ雙六を、さる處にて再板せる時の上袋に記しありし文なり、莞齋何人といふ事 をしらず、
p.0028 淨土雙六附冶良雙六、冶良紋楊枝、道中雙六、
貞享元祿の書目錄に、淨土雙六、同懷中、道中雙六、野良雙六(○○○○)とならべ出せり、〈○中略〉野良雙六は延寶 の比よりあり、〈其證下に見えたり〉天和の書目錄に誤て漏しゝにやあらん、〈○中略〉
京都の俳士伊藤信德江戸に來り、松尾桃靑、山口信章〈素堂の實名〉と、三吟の三百韻を催す、于レ時延寶六年、是を江戸三吟と題て上木す、其卷のうちに、
前句 風靑く楊枝百本けづるらん 桃靑
附句 野良ぞろひの紋のうつり香 信章
又附 雙六の菩薩もこゝに達(だて)すがた 信德
〈今はかゝる附意を嫌へど、是延寶の調にて、昔を考るには却て便あり、〉
此附意を按るに、楊枝に野良の紋と附たるは、野良紋楊枝なり、紀子大矢數〈延寶五年獨吟〉〈前句〉、息のくさきも伽羅のかをり歟、〈附句〉、絞楊枝十双倍に賣ぬらん、又西鶴大鑑〈貞享四年印本〉七の卷に、えびす橋筋に根本浮世楊枝とて、芝居の若衆の定紋をうちつけ置しに、それ〴〵のおもはく、其子に枕のかたらひ及びがたき人、せめては心晴しに、此紋やうじを手にふれて云々とあるを、てらし合て考べし、さて野良揃の紋といふに、雙六と附たるにて、前の書目錄の條に論ぜしごとく、當時〈延寶をさす〉旣に野良雙六をもてはやしゝを思ふべし、淨土雙六の菩薩も、野良揃ひの達姿(だてすがた)に移りかはりしといふ吟にて、此三句の渡り、延寶の昔を見るが如し、
類柑子 〈前句〉瘦たうて夷もくはぬ花盛 其角
〈附句〉これぞ雨夜の野良雙六 琴風
かゝる句もあれば、野良雙六といふもの、元祿の頃までは存在せしなるべし、
p.0029 文化二年正月二日丁亥、越前東隣岡田へ禮に行、あふぎ貳本、すご六壹枚貰來、