p.0851 味噌ハ、ミソト云フ、初メ未醬ノ字ヲ用イタリ、豆醬ニシテ、大豆ヲ煮熟シ、搗キテ泥ノ如クシ、漸ク乾燥スルニ及ビ、別ニ米麴ト鹽トヲ攪匀シテ之ニ合セ、更ニ搗キテ桶ニ收藏スルコト二三十日ニシテ成ル、麴ノ多キヲ上品トス、而シテ白味噌、赤味噌、玉味噌等數種アリ、豉ハ、クキト云フ、大豆ヲ用イテ製スルモノニシテ、鹽ヲ加ヘザルヲ淡豉ト云ヒ、鹽ヲ加ヘタルヲ鹽豉ト云フ、又納豆ハ、豉ノ類ニシテ、大豆ヲ用イテ製シ、鹽ヲ加ヘザルモノナリ、
p.0851 未醬 楊氏漢語抄云、高麗醬、〈美蘇、今按辨色立成説同、但本義未レ詳、俗用二味醬二字一、味宜レ作レ末、何則通俗文有ニ末楡萊醬一、末者搗末之義也、而末訛爲レ未、未轉爲レ味、又有二志賀末醬飛騨未醬一、志賀者近江國郡名、各以二其所レ出國郡名一爲レ名也、〉
p.0851 新井氏曰、美蘇是韓語、宋孫穆雞林類事、譯二韓語一云、醬蜜祖、今朝鮮語猶爾、與三漢語抄辨色立成云二高麗醬一合、其説可レ從、源君引二通俗文一、謂レ宜レ作二末醬一者非レ是、按説文、 楡 也、 擣楡醬也、齊民要術引二四民月令一云、楡萊色變白將レ落、可レ作二 03993一、又載下作ニ楡子醬一法上云、治二楡子仁一升一、擣末篩レ之、淸酒一升醬五升合和一月可レ食レ之、本草蘇注、亦有二楡人醬一、所レ謂末楡萊醬即是、〈○中略〉味醬〈○中略〉皆假借字耳、或作二味噌一、皇國俗字、見二扶桑略記所レ引天慶元年年代暦文一、今俗用二是字一、志賀末醬飛騨末醬、未レ見レ所レ出、
p.0851 譯語♯ 飮食 醬〈彌沙○ミソ〉
p.0852 味噌
p.0852 味噌(ミソ)
p.0852 一味噌ト云フハ正字歟、アテ字歟、 正字ハ末醬ナリ、ソレヲ書キアヤマリテ未醬ト書ナス、末ハ搗抹義也、末セザルハ常ノヒシホ、末シタルハミソナリ、コノユヘニ末ヲ用ルベキヲ、字ノ相似タルユヘニ、末ヲ未ト書ケリ、今ノ世ニハ未ノ字ニ口篇ヲクハヘテ、味トカキ、醬ヲバ曾トナシテ、アテ字ニナリタル樣ナリ、醬ノ字ヲバヒシホトモ、アヘモノトモヨム、
p.0852 未醬♯和名抄ニミソ、漢語抄ヲ引テ云ク、高麗醬、又細註ニ云、俗ニ味醬二字ヲ用フ、味宜レ作レ末、何ントナレバ通俗文ニ末楡萊醬アリ、末者搗末之義也、シカルニ末ヲアヤマリテ未トナシ、未ヲ轉ジテ味トナス、元升曰、此ノ説ヲミレバ、未ノ字味ノ字ハ俗用ノアヤマリトシテ、末醬トナスベシトス、今案ズルニ、未ノ字味ノ字トモニ其ノ理アリ、末ノ字ハ反テ意味ナシ、古人ノミソハ麴ヲモチヒズ、大豆ヲ煮熟シテ搗キ、泥ノゴトクニシ、ツク子テ餅子トナシ、數日ヲ經テ上ニ黄色出デタルトキ、切リ碎キテ鹽ヲ入レテ、又ツキアハセテ桶ニ入レ、押シカタメテ熟シテ後チニ用フ、是レ未醬ノ義ナリ、後世ノミソハ大豆ヲ煮熟シテ、米麴ト鹽トヲカキマゼ搗キ、泥ノゴトクニシテ桶ニ入レ、押シカタメ熟シテモチフ、是レ味醬ノ義ナリ、本艸ヲ考フルニ、醬アリ、未醬ナシ、醬ノ造法、皆ナ麴ト鹽ト水トヲ用フ、未醬ニハ麴ト水トヲモチヒズ、イマダヒシホナラザルノ意ナリ、味醬ニハ麴鹽ヲモチヒテ水ヲ用ヒズ、其ノ味ハ醬ノ意ナリ、故ニ今ノミソハ味醬ト書クベシ、末醬ハカヘツテ其ノ理ナキニ似タリ、
p.0852 醬ヒシホ 倭名鈔に四聲字苑を引て、醬は豆醢也、ヒシホといふ、別に唐醬ありと注し たり、ヒシホといふ義は不レ詳、楊氏漢語抄辨色立成には、高麗醬をミソといひ、漢人の書にも、雞林にしては、醬を蜜祖といひ、我國にしても醬を彌沙(ミソ)といふとしるしたれば、ミソといふものゝ醬なりし事は、疑ふべくもなし、醬またヒシホといふ事の如きも、ミソといひしに異なる詞也とも聞えず、ヒといひ、ミといふは轉語也、シホといふは、即ソといふ語を開き呼びし也、たとへば芭蕉紫苑などいふものゝ如き、漢音をもては、バセウ、シヲンなどいふを、我國之語には、バセヲ、シヲニといふが如くに、其初は高麗醬の如きも、彼國の方言にてはミソといふを、我國之語には、ヒシホといひしを、後に又唐醬の製に傚ひ、造れるものゝ出來しに及びて、高麗醬を呼ぶ事は、彼國の方言のまゝに、ミソといひ、我國にて造れる物をば、ヒシホといふ事になりしかば、令の如きも、ミソといひ、ヒシホといふ事を分つべきために、未醬の字を用ひて、讀でミソとなし醬の字讀でヒシホとはなされたる也、これよりして後ミソといひ、ヒシホといふ事、異なる詞の如くになりてければ、順の博識なるも猶其疑を致しける也、〈今の如きも、俗には醬を呼びて甘味噌とも云ひ、又味噌といふ言をもて加へ呼ぶ醬の製も少からぬ也、〉
p.0853 女房ことば♯一みそ むし(○○)
p.0853 一味噌を女の詞にむしと云由、上﨟名之記にみへたり、みとむ五音通ずる也、〈マミムメモ、サシスセソ、〉然る間みそをむしと、詞をいひかへたる也、五音通ずる故なり、
p.0853 村岡茂兵衞あるじまうけの事♯見しは今、江戸通町或人のもとに、思ふどち六人さしあつまり、世上の事身の上までも、心に殘さず語る處に、〈○中略〉およそみそと云事を、香といふ子細有、源氏にいはく、香づくしにひくらしといふ香の名有、又公卿殿上人はみそをひくらし(○○○○)とのたまふ也、雜人中人のことばにみそを虫と云、是はひくらしといふ名をもて、香といひ虫といふ也、
p.0854 造雜物法♯未醬料、醬大豆一石、米五升四合、〈糵料〉小麥五升四合、酒八升、鹽四斗、得一石、
p.0854 味噌♯集解、味噌者、本邦毎日所レ用之汁也、用二黄白大豆一而造レ之、其法用二好大豆最肥大者一、浸レ水一夜、取出煮熟、要レ不レ取二其豆之粘汁一、若取則味不レ美、粘汁俗稱二豆飴一、惟釜中可二煮乾一爾、待三其豆之煮熟變作二赤黄一、而搗レ臼者數千杵令レ如レ泥、攤二干板上一令二略乾一、夏月乾レ之半日、冬月不レ可レ乾レ之、別用二精白米麴好白鹽一拌匀、以揉二合于豆泥一、再搗二臼中一亦數千杵、取出收二藏木桶一、經二二三十日一而成、此法有二上中下之三品一、大抵以二麴多一爲レ上、用二好肥大豆一斗、精白米麴一斗五六升、或七八升、白鹽二合餘一而合造者上品也、經二數月一而易レ敗不レ能レ經レ年、欲二經年收貯一者、倍レ鹽則不レ敗、若敗而生二酸味一者用二牛房根一、去二黑皮一入二于味噌中一則佳、然甚敗者不レ能レ收レ之也、中品者用二好大豆一斗、精白米麴一斗餘、白鹽二合餘一而合造、此可二經年收貯一也、其下品者麴不レ白而少、亦經レ年而好者也、大家之厨悉上品造、而夏月一兩月間造、冬月四五月間造、新舊相逐而用レ之、其中下者一家侍僕之用、士商之家、隨二其貧富一而造二用之一也、有二玉味噌(○○○)者一、煮豆半熟而以二庖刀一打碎令二麁細合一レ之、麴少鹽多揉合爲レ丸、令二打鞠大一、裹レ之以二稻草一、用レ繩縛定繫二之簷間一、經レ年用之、此亦下品、或用二大豆煮熟一交二麴鹽一合二米糠一而造成、此最下品、其下品者以二經年能保不一レ敗爲レ好也、有二白味噌(○○○)者一用二白大豆肥大者一浸レ水煮熟去二外薄皮一杵搗、成レ泥一斗、精米白麴一斗七八升、白鹽二合許搗合、充レ桶緊封二十餘日而成、其味雖二太甘一而不レ爲レ美、亦不レ可レ人、惟愛二新奇一、經レ日必易レ敗、若用レ之者合二舊味噌一則佳、此常嗜二鹽梅一之家、巧二其調和一、今官家後宮用二白味噌一耳、凡用二味噌一收藏者、禽魚肉菜蔬之類、此亦用二舊味噌一而可也、或有二山椒味噌(○○○○)、生姜味噌(○○○○)、山葵味噌(○○○○)、番椒(トウガラシ&○○)味噌(○○)、胡麻味噌(○○○○)、芥子味噌(○○○○)、罌粟(ケシ&○○)味噌(○○)、蓼味噌(○○○)、鳥味噌(○○○)、堅魚味噌(○○○○)等類一、臨時造レ之、又近時有二金山寺味噌(○○○○○)、登宇古味噌(○○○○○)、油味噌一(○○○)、此皆納豆之類也、京師市上有二法論味噌一(○○○○)、而傳二送于江都一、此出二于南都諸寺一、用二黑大豆一而造レ之、其味佳有レ香、世以賞レ之、此類不レ可二勝計一而已、
p.0855 味噌♯味噌即豆醬也、此方人平常所レ食者、法大豆一斗煮熟舂千杵、入二麴一斗鹽三升一、拌再舂、缸藏凡七十五日、臨レ用龢レ水擂爲レ 、煮二魚鳥蔬菜一、按味噌或作二味醬一、見二三代實録一、和名類聚鈔曰、楊氏漢語鈔云、高麗醬美蘇、〈辨色立成同、〉熙按、味噌之法、蓋傳レ自二高麗一、故又有二高麗醬(○○○)之名一、味噌乃高麗語、云レ醬也、宋穆雞林類事曰、醬曰二密祖一、噌薛一、俊日本寄語曰、醬曰二彌沙一、蓋密祖美蘇味噌味醬彌沙、國音相近、皆一音之轉訛耳、味噌有二赤白二品一(○○○○)、又有二五斗味噌一(○○○○)、大豆一斗煮熟、糟一斗、米糠一斗、醬油滓一斗、鹽一斗、合擣缸藏、
p.0855 未醬♯味醬ノ造法ハ、大豆一斗水ニテ煮熟シ、麯一斗鹽三升入レカキマゼ、ウスヅキアハセテ泥ノ如クシ、桶ニカタクツメヲキ、五十日過テヨク熟ス、昔ハ飛騨未醬(○○○○)、志賀未醬(○○○○)アリ、其ノ法ハ麯ヲモチヒズ、今モ飛騨信濃美濃ニハ麯ヲ入レズモチフル人アリ、
p.0855 座附四季味噌吸物之部♯春 常みそ(○○○)〈○中略〉 上赤みそ(○○○○)〈○中略〉 田舍みそ(○○○○)〈○中略〉 さのみそ(○○○○)〈○中略〉 煮こしみそ(○○○○○)〈○中略〉 三わりみそ(○○○○○)〈○中略〉 並みそ(○○○)〈○中略〉 南部みそ(○○○○)〈○中略〉 夏 中白みそ(○○○○)〈○中略〉 三州みそ(○○○○)〈○中略〉 尾張みそ(○○○○)〈○中略〉 秋 仙臺みそ(○○○○)〈○中略〉 四季汁之部♯伊勢味噌(○○○○)〈○中略〉 麥麴みそ(○○○○)
p.0855 未醬♯白未醬(○○○) 造法大豆一斗、淘洗浸レ水、稱漫則皮皺、時以二束繩一挼レ之離レ皮、用二水三斗一煮レ之、一沸皮浮二于釜面一、扱二去之一、則豆潔白也、不レ可二煮過一、去二豆汁一舂爲二大團子一、薄切片細刻、和二白麴一斗六升、鹽一升三合一、〈夏秋一升五合〉能擣和收二藏之一、冬春十日、夏秋四五日而成也、難二久貯一、
p.0856 未醬♯近年風味ヲ好ミ造レルミソハ、大豆一斗皮ヲサリ、水ニヒタシ蒸熟シテ、上白ノ米麯一斗三升、アルヒハ一斗五升、アルヒハ二斗、鹽三升入レアハセテ、ヨクウスヅキ泥ノ如クニシ、桶ニツメヲキ、三十日バカリニシテモチフ、其ノミソ味ヒキハメテ甘ク、其ノ色シロシ、是ヲ諸白味醬(○○○○)ト云フ、又白味醬ト云フ、近年ヨリシテノ造法ナリ、
p.0856 四方赤味噌(○○○○○)〈新和泉町〉♯劔菱瀧水土藏充、上戸往來嘗レ舌通、出店分家行處在、味噌赤似二四方紅一、
p.0856 味醬♯今世京坂ノ市民毎冬自製スル者多シ、〈○中略〉江戸ハ赤味噌(○○○)、田舍味噌(○○○○)ヲ買食シ、自製スル者無レ之、
p.0856 燒蛤〈井〉時雨蛤♯溜味噌(○○○)の制は、大豆をよく煮て藁に裹みて の上に懸け、一月許にして臼に搗き、鹽を和して水を加れば、上すみて溜る汁を、醬油にかへて用ひ、底を味噌とす、〈是を以て魚を煮るに、若稱鯘たる魚も復して味よし、今も官驛の日用とす、〉
p.0856 酒井讃岐守忠勝君御側に被二召仕一し、福島雲南といふ小坊主は、御厩中間小頭の子なりしが、毎度今朝の飯の菜は何なるぞと尋給ふ、折節は彼が手の内に鰹節幾節、または何程と御自筆にかゝせられ、是を證據として、臺所役人に貰候へと仰られしことありしとなり、或時今朝は何ぞ菜ありたるかと尋給へば、豆腐を味噌にて煮て給候と申せば、汝が親の身上にて、大豆の味噌は持まじ、糠味噌にてあるべしと宣へば、いや御馬の大豆の内を取、いつとても大豆の味噌をこしらへ候と申上ければ、大に笑はせ給ひ、馬の大豆にて味噌を拵ゆるとも、少しづゝとるべし、多く取て馬を痩させなと、親に申べしと仰けるとなり、
p.0857 金山寺醬(キンザンジヒシホ)〈事見二居家必用一〉
p.0857 經山寺未醬(きんざんじみそ)♯按此亦納豆之類也、唐僧多造レ之云、經山寺始造レ之、其法大豆一斗炒粗磨碎レ半去レ皮、大麥一斗浸レ水一晝夜、取二出之一、豆麥混合蒸レ之、握試レ之如二強飯一爲レ準、盦レ(子サシ)麴別用二越瓜(シロウリ)三十箇一、四破粗剉、鹽少許和合、以レ石壓レ之取レ汁、與二瓜豆麥三物一混合、再加二鹽二升八合一、用二瓜汁一和二合之一、盛レ桶以レ石壓レ之、毎レ至二五日一拌レ之也、四五度候二能和合一、生薑木耳麻仁等物皆略瀹レ之加拌、擣二收于桶一密封、夏月造レ之、冬春食レ之、或入二茄子一亦可也、
p.0857 金山寺豆豉法♯黄豆不レ拘二多少一、水浸一宿蒸爛候レ冷、以二少麪一摻二豆上一拌匀、用レ麩再拌、掃二淨室一、鋪レ席匀攤、約厚二寸許、將二穰草麥稈或靑蒿蒼耳葉一、蓋二覆其上一、待二五七日一、候二黄衣上一、搓挼令レ淨、篩二去麩皮一、去レ水淘洗曝乾、毎レ用二豆黄一斗一、預刷洗二淨甕一候下、鮮菜瓜〈切作二二寸大塊一〉 鮮茄子〈作刀劃作二四塊一〉 橘皮〈刮淨〉 蓮肉〈水浸軟切作二兩半一〉 生薑〈切作二厚大片一〉山椒〈去レ目〉 茴香〈微炒〉 甘草〈剉〉 紫蘇葉 蒜辨〈帶レ皮〉♯右件將二物料一拌匀、先鋪二下豆黄一一層、下二物料一一層、摻レ鹽一層、再下二豆黄物料鹽一各一層、如レ此層層相間、以レ滿爲レ度、納實レ箸、密口泥封固、烈日曝レ之、候二半月一取出、到二一遍拌匀一、再入レ甕、密口泥封、晒七七日爲レ度、却不レ可レ入レ水、茄瓜中自然鹽水出也、用レ鹽相度、斟二量多少一用レ之、
p.0857 此月、醬油、ひしほ、納豆などを製すべし、〈○中略〉♯金山寺豉の製法、〈和州達摩寺の秘方也、又居家必用にもあり、〉大豆一升いりて引わり皮を去り、麁と細とをふるひ分べし、大麥一斗能しらげよく〳〵 洗、水に一宿浸し、右麥と麁抹の大豆とを一ツにして蒸し、熟したる時細末の豆粉を拌ぜ土室に入、ねせて麴となす、さて麴塵の付べき一日前に、茄〈切て四ツとし、切たる茄子壹升ほど、〉白瓜〈これも香物ほどに切、壹升ほど、〉鹽四合、右茄子と瓜とを四合の鹽に合せ、桶に入おしをかけ一夜置、明 日上に出たる水を取、麴をひたし瓜茄子もおなじくかきまぜて、桶に入ふたをしておもしをよくかけ置、毎日一二度かきまぜ、十日許過て後、茴香、山枡皮、山椒、穗蓼、紫蘇を能ほどに切て拌、又前のごとくふたをして、重石をかけ置、毎日かきまぜ七十日過て用べし、三四十日に及べば、漸味つくなり、後に加る五味は、分量その人の好みによるべし、
p.0858 金山寺豆豉♯金山寺豆豉、俗呼爲二金山寺味噌一、周必大高宗幸二張府一節次略所レ謂金山鹹豉是也、李果食物本草曰、豆豉各處所レ造不レ一、今金焦二山所レ作佳、居家必用有二金山寺豆豉法一、豆豉有二淡鹹二種一、詳見二本草綱目一、其淡者用入二湯藥一、鹹者乃充二食品一、鹹豉亦有二數品一、大氐今俗所レ謂納豆之類也、納豆亦有二濱納豆唐納豆諸品一、
p.0858 金山寺みそは、紀州若山金山寺の名物にて、江戸に流行出しは、享保年中よりとなむ、他州にはなし、東坡金山贈二寶覺長老一詩、誰能斗酒博二西凉一、但愛齋厨法厨香、また寄園寄所寄に、天下第一者、金山寺鹽豉と云、博物類纂〈十二〉諸州名産を擧たる内にも、江陰縣河豚、金山寺鹹豉云々といひて、皆爲二天下第一一、他處雖レ效レ之終不レ及、また乾道庚寅奉事録、〈宋周必大〉鎭江府金山龍遊寺に至りし處に、會二飯於方丈一、白絲糕、黑鹹豉、糖豆粥、三者山中之精饌也云々、今こゝの金山寺みそ赤黄にして黑からず、其製異なるべし、其方は居家必用などにも出たり、又日本歳時記六月條に、和州達磨寺の秘方とて載たり、江戸名物徑山寺味噌、麻の實の音面白し四十雀といふ句あれば、種々の物を入しと見ゆ、♯長崎歳時記、正月四日の條、古へより延命寺の僧徒、金山寺味噌といふを、曲物につめて檀家へ配る、其製唐土の金山寺より傳へたるよし、家々これを得て珍味とす、
p.0858 醬油 玉井醬(○○○)〈世に金山寺味噌といふ〉♯ 右二種在田郡湯淺村にて製するもの上品なり、諸州へ多く出す、
p.0859 上方にて買(かう)て來るを、江戸にては買(かつ)て來る、〈○中略〉金山寺の類を嘗物(なめもの)、
p.0859 味醬♯金山寺味噌、三都トモ有レ之、金山禪寺ヨリ造リ始ムト云意ニテ名トス、虚實詳ナラズ、大豆ニ麥麴ヲ合セ、砂糖或蜜ヲ和シテ甘クス、茄子紫蘇生薑等ヲ交ヘタリ、櫻味噌大坂堀江阿彌陀池前及井池ニ賣レ之店アリ、自家ニテ製シ賣ル也、往々近年ハ江戸ニモ來ル也、製金山寺ト相似タリ、
p.0859 法論味噌(ホロミソ&○○○○)〈本朝南都法論時用レ之故云レ爾、但世俗所レ言也、〉
p.0859 法論味噌(ホロミソ)
p.0859 小塔院趾〈西新町にあり、元興寺の一院にして、護命僧正の住給ひし所也、(中略)法論味醬といふあり、護命僧正の製作也、故に人みな護命ともいひ、又此所飛鳥川のほとりなれば、又の名飛鳥味噌ともいふ(○○○○○○○○○○○)、〉
p.0859 法論味噌 在二柳馬場五條一、洛下唯一家也、倭俗末醬謂二味噌一、凡製二法論味噌一法、黑豆煮レ之、碎而作二豆豉一、南都所レ製、布巾搾レ之、取レ汁爲二煮レ物之料一、是謂二伊呂一、採二其汁一者、乾燥而不レ堪レ食レ之、洛下製造不レ取レ汁、故滑潤而味美、相傳南都元興寺小塔院僧正護命始製レ之、講問時爲二衆僧半齋之添菜一、故號二法論味噌一、又或稱二護命味噌一、護命一日使レ止二山門戒壇一之人也、
p.0859 法論味噌 黑豆にて製するよし、町へ賣にいづる男、柿染のかたびらを上張にきる事、是法論味噌うりの簡板也、曲物に奇麗なるこもをおほひ、さし荷ない、何方にても下にすぐにおく事なし、一方を高き所へもたせおき、人にふみこゑさせぬよし、子なき女此ぼうをこゆれば、かならずくわいにんすといへり、
p.0859 鹽尻に法論みそ、もと南都の製なり、興福寺維摩會十月法論日をわたる、講師等小 水のために、座をしりぞく事をうしとして、黑豆豉を食ふ故に、法論みその名ありとかやといへり、本草にも豆豉は血痢などを治すことは見えたれど、小水を截むることは聞えず、此功ある事をしらざりしとみゆ、
p.0860 式部大夫敦光朝臣のもとへ、ならなりける僧のあすかみそ(○○○○○)といふ物をもてきたりけるに、いつのぼりたるぞととひければ、僧かくなん、♯きのふいでゝけふもてまいるあすかみそ♯敦光朝臣♯みかのはらをやすぎてきつらん
p.0860 永享二年八月十四日癸未、天足畠中ナラミヤゲ手樽壹ツ、ホロンミソ(○○○○○)壹曲物持參、谷ノ法眼ヨリ手樽ホロンミソ參、
p.0860 抑客人光臨、結構奔走奉レ察候、〈○中略〉鳥醬(○○)、蟹未曽(○○○)、〈○中略〉或買貸或乞索令レ進レ之候、
p.0860 鳥醬 鳥味噌なり
p.0860 魚鳥味噌(○○○○)♯白みそに酒を入、鳥の毛を去、丸ながら入て、連日にれば、綿の如くなる時、たゝきて醬油にて又煮る、分量鳩一羽ニ酒一升、鴨鳩雀鶉の類よし、魚みそ右ニ同じ、分量鮒一尾ニ酒一升、鯛鯉鮒よし、
p.0860 味醬♯鯛味噌(○○○)近年大坂淡路町八百源一名二重ト云割烹店ニテ製レ之賣リ、江戸ニモ漕シテ一二戸傳賣ノ店アリ、常ノ米麴味噌ニ鯛肉ヲ磨交ヘ製シタル物也、
p.0860 柚味噌(ユミソ&○○○)
p.0860 柚♯ 附録、柚未曾、〈用二柚一箇一不レ拘二靑熟一、以二蒂上五六分一切作二蓋子一、取二實中辨膜一作二盌形一、用二好酒一和二味噌一、合二胡麻胡桃薑栗等物一以充二柚盌一、緊掩二蓋子一、置二于炭火上一徐々煮レ之、至二柚皮略焦一、則味噌湧出、此爲レ度食レ之、味甚香美、而開レ膈推レ食健レ胃也、或味噌入二柚醋一、爲レ佳、又代二鳥肉雞卵一亦佳、〉柚邊志〈或作二柚壓一ベシ、其法略似二柚未曾一、然柚味噌者用レ酒和、或加二柚汁少許一研如レ泥而煮レ之、柚壓者、先采二熟柚子一、以二蒂上五六分一切作二蓋于一、刳二去實中辨膜一作二盌子一、別用二未噌垂汁一、煉二糯粉或糒一令レ如レ餠、合二胡麻仁榧子胡椒山椒之類一、以充二柚盌一、緊掩二蓋于一投二于淡漿中一而煮熟、取出放攤二于木板上一、以二片木板一徐々壓レ之、日日晒乾而收二藏之一、一法用二全柚實一、去レ蒂洗淨、投二于酒漿合汁中一、而煮レ之兩三時取出、放攤二于木板上一、以二片木板一徐々壓レ之者、如二前法一、倶本邦僧家多造レ之、〉
p.0861 柚べしの仕樣 柚味噌のごとく口をきり實をすて、味噌、生姜、胡椒などよくすりて、かや、ごま、あんにん、そのまゝ入まぜて、ふたをあはせからげ、よくむしてほし、あまにつ り候てよし、
p.0861 榧味噌(○○○)♯やきみそ百目、榧四拾匁いりて荒皮を去、粉にして黑胡麻いりて壹合、大白砂糖廿匁、唐がらし五匁、おの〳〵すり合、壺に入れおくべし、
p.0861 茄子みそ(○○○○)♯なすびをきざみ、一番の醬油の實に、糀多く入漬おき、七八月比漬て霜月比ニ用、
p.0861 南蠻味噌(○○○○)♯味噌へ麻の實栢山椒等をいれて、油ニて揚る、加味時節次第心に任すべし、
p.0861 物の名♯上總に九十九里といふ濱あり、白里と書り、これ義訓也百の一を去れば九十九になる、〈○中略〉亦浪華にて味糩の中へ番椒何くれとなく、辛きを搨まじへたるを天竺味糩(○○○○)といふ、からすぎれば天竺へ至るの謎なり、その滑稽殆絶倒す、野夫にも功者ありとはかゝる事をやいふべからん、
p.0861 阿蘭陀味噌(○○○○○)♯柚五ツ内の實を去、皮ばかり細かにきざみ、醬油三合ばかり水五勺ばかり入、炭火にて煮摺つぶ し、すいのうにてこし、栢刻生姜唐がらし、其ほか好次第、
p.0862 東都にて味噌の中へ種々の加藥の入しを、鐵火味噌(○○○○)と云は、京攝にて諸味の中へ大根生姜など切込しを、泥坊漬と號るに同じ、
p.0862 味醬♯鐵火味噌ハ江戸平日用ノ味噌ニ牛房生姜蕃菽スルメ等ヲ加ヘ、胡麻油ヲ以テ煎リツメタル也、ナメモノ屋ニテ賣レ之、
p.0862 織部味噌(○○○○)♯黑胡摩拾五匁、芥子拾匁、栢拾五匁、生姜七匁、二色割唐がらし壹匁、摺山椒七匁、砂糖拾五匁、みそ三拾匁、右酒にてのべる、
p.0862 練味噌(子リミソ&○○○)
p.0862 應永元年十二月廿一日壬戌、未ノ刻夕御膳〈御燒物鮭〉子リ味噌、〈牛房エイ〉
p.0862 慶長九年六月廿九、未明ニ赴二大佛齋筵一、〈○中略〉御齋遲故、大佛森殿之私宅ニテ休息、先至則昆布、雹餠盆ニ出、次茶、且アツテ酒肴者、燒味噌(○○○)、干瓜、各々小盞ニテ一盞已尾赴二齋筵一、
p.0862 一河うそうけみいりの事、〈○中略〉すましみそ(○○○○○)一はいに、すめ味噌(○○○○)小わん一ツいれ、〈○下略〉
p.0862 一すめみそと云事、大草流の庖丁方の書にあり、すめみそは味噌をすりて、こしたるをいふ也、すめらかにしたるみそと云事なり、すめらかとは、なめらかを云、すべ〳〵する心也、
p.0862 未醬 楊氏漢語抄云高麗醬〈(中略)又有二志賀末醬(○○○○)、飛騨末醬一(○○○○)、志賀者近江國郡名、各以二其所レ出國郡名一爲レ名也、〉
p.0862 山城 同寺〈○悲田院〉内白味噌 大和 法論味噌
p.0863 四郎君受領郎等刺史執鞭之圖也、〈○中略〉得二萬民追從一、宅常擔二集諸國土産一、貯甚豐也、所レ謂〈○中略〉河内鍋、〈又味噌○下略〉
p.0863 味噌〈○中略〉♯倭名類聚鈔有二志賀飛騨二品一、今有二名護屋味噌一(○○○○○)、
p.0863 味噌♯ふるさとへまめをしらせの旅づとは岡崎味噌(○○○○)のなれて送る荷 松 蔭 八丁の礫の名ある玉味噌(○○○)はむかしも今も世に聞えけり 〈ミツケ〉竹の舍
p.0863 造釀♯尾州參州等ノ麥麴ニテ造リタル、三年味噌ハ、頗ル世ニ用ラル、
p.0863 味噌♯發明、味噌者本邦自レ古上下四民倶旦夕之供、榖食之佐、而昔何人之所レ造、一日不レ可レ無也、大豆甘温下レ氣寬レ中活レ血、解二百藥毒一、得二麴甘温一入レ胃而消二食及諸積一不レ令二閉塞一、運二元氣一行二營血一、得二鹽鹹寒一而引入二心腎肺脾肝一、斂二氣血一滋二筋骨一、解レ毒凉レ血潤レ燥定レ痛止レ痒、復能引二食氣一而行、於レ是味噌者二温一寒相和相助、遇レ熱則凉レ之、遇レ寒則煖レ之、強則和レ之、弱則壯レ之、急則寬レ之、緩則堅レ之、散則止レ之、聚則解レ之、上下左右無レ不二通達一、其性平而微温、所下以爲二食之佐一而滋中養一身上也、或諸痛諸腫折傷者、先敷二味噌一艾二灸患處一、則能散能温、止レ之收レ之、加旃城壘軍營常貯、經レ年者以爲二糧助一、若失火急而塗二倉庫之窻戸一、無二泥土一以二味噌一代レ之、然則人家日用之外、不レ可レ不レ蓄レ之乎哉、
p.0863 味噌♯閩山釋茞亭傳所レ著蕭鳴草の中に、崎陽寄二故園諸君子一十首あり、其一に、♯不レ辨殊方語、山童在二指揮一、那知鄕思痩、但説味噌肥、〈風俗以レ豆爲レ之、土語米梭、食能肥レ人、〉力疾酬二人事一、孤吟羨二鳥飛一、悲哉 秋瑟々、長憶槍柴扉、♯南都の僧始て味噌を嘗めて未曾有といひしより、味噌の名ありと、春臺紫芝園漫筆に載せ、一本堂藥選に和名抄の未醬を以て、味噌なるべしといひしも思ひ出らる、
p.0864 未醬 (○○○)〈○中略〉 右卅三 西市
p.0864 十八番 右 ほうろみそ賣(○○○○○○)♯夏まではさし出ざりしほうろみそそれさへ月の秋をしるかな♯うとくのみならの都のほうろみそほろ〳〵とこそねはなかれけれ
p.0864 味噌屋(○○○) 簡板に節掻を出す、調味和する能あつて、人身の保養する處、一日も離べからざるものなり、
p.0864 江府名物〈井〉近國近在土産♯御膳白味噌 神田れんじゃく町 小田原や 所々家々に有といへども、此家を以て最上とす、
p.0864 味噌屋♯店ニテ賣ハ三都トモニ在レ之、擔ヒ巡ル賣ハ定扮ナシ、淺キ箱三五重ニ納ム、此賈京坂ノミニテ未江戸ニ見ズ、價十二文十六文廿四文卅二文四十八文百文許、以上ヲ數箇籜ニ裹ミ箱ニ納メ巡ル、蓋嘗味噌等トハ別賈ニシテ唯汁製ノ味噌ノミヲ賣ル、京坂ハ糀ミソニシ食レ之、特ニ麴多キヲ料理味噌ト云、饗客等ニハ用レ之、此二品ヲ賣ル味噌製造ノ巨戸ヨリ奴僕ヲ出シ賣ル也、故ニ陌上ニ呼ズ、專ラ得意ノ戸ニ問ノミ、
p.0864 味醬〈○圖略〉味噌屋招牌(○○)也、京坂今モ有レ之江戸ニ無レ之、唯南傳馬町ノ味噌ヤ元結ト云、元結招牌ニ此形ヲ用フ、 昔ハ味噌賈ニテアリシナラン、是ニハ此圖ト上下ヲ逆ニス、雷盆ノ味噌ヲ取ル具ノ形也、此具號テセツカヒト云、又ウグヒスハ形ヲ以テ號ク、女詞也、
p.0865 銀のなる木は門口の柊♯爰に越前の國敦賀の大港に、年越屋の何がしとて、有德人所に久敷住なれて、味噌醬油をつくり、はじめはわづかなる商人なるが、次第に家榮ける、世の万にかしこく、分限に成そも〳〵は、山家へ毎日賣ぬる味噌を、いづれにても小桶俵を拵へ、此費かぎりなし、時に此親仁工夫仕出し、七月玉祭の棚をくづして、桃柿瀨々を流るゝ川岸に行て、捨れる蓮の葉を拾ひ集め、一年中の小賣味噌を包めり、この利發世上に見習ひ、是につゝまぬ國もなし、
p.0865 伊豆國天平十一年正税帳♯毎年正月十四日讀金光明經四卷、又金光明最勝王經十卷、合壹拾肆卷供養料稻肆拾玖束、〈○中略〉 末醬貳升肆勺捌撮價稻肆束壹把、〈○中略〉♯依二太政官天平十一年三月廿四日符一、講説最勝王經調度價稻壹仟肆伯玖拾伍束、〈○中略〉♯供養料稻伍拾伍束〈○中略〉♯末醬貳升參合肆撮價稻肆束陸把
p.0865 天保七〈申〉年十一月♯味噌鹽醬油之義者、米榖ニ續、日用第一之品柄ニ有レ之處、此節米榖類鹽等高直故、自ら仕入直段ニも相響、相場引上ゲ候義者、無二餘儀一筋ニ相聞候得共、右ニ而者小前之もの共者、別而難儀ニおよび候、既に米價之義ニ付、追々御仁計を以取續候時節柄ニ付、右三品之義者、問屋仲買等より賣前勘辨芳情ニ申諭候處、厚御趣意中之趣相辨、當分之内、問屋仲買賣德之内歩引致度段、當十月中申立、無二不同一賣出候筈ニ候、然上者乍レ聊問屋直段も相弛候事故、右品々小賣ニいたし候もの共ニおゐ ても同樣相心得、是迄も不相當之賣德有レ之間敷候得共、猶更元直段ニ順じ可レ成丈致二勘辨一可二賣渡一候、♯右之通從二町御奉行所一被二仰渡一候間、其渡世向之者共者不レ及レ申、町中不レ洩樣可二申繼一候、♯右之通被二仰渡一奉レ畏候、爲二御請一御帳ニ印形仕置候、以上、♯〈申〉十一月十日 〈南北小口〉年番♯右者樽藤左衞門殿被二申渡一候間、御達申候、以上、♯十一月十日 〈組合〉 年番
p.0866 一極上味噌 〈是迄賣直段、金壹兩ニ付目方三拾三貫目、錢百文ニ付同四百六拾目、引下直段、金壹兩ニ付目方三拾四貫五百目、餞百文ニ付同五百三拾目、〉♯一上味噌 〈是迄賣直段、金壹兩ニ付目方三拾八貫目、餞百文ニ付同五百四拾目、引下直段、金壹兩ニ付目方三拾九貫目、餞百文ニ付同六百目、〉♯一下味噌 〈是迄賣直段、金壹兩ニ付目方四拾三貫五百目、餞百文ニ付同六百拾目、引下直段、金壹兩ニ付目方四拾四貫貳百目、餞百文ニ付同六百八拾目、〉♯右之通、直段引下候間、此段奉二申上一候、以上、♯ 拾貳番組諸色掛り 天保十三年寅年八月廿日 〈本郷四丁目〉名主 又右衞門印
p.0866 正月最勝王經齋會供養料、〈○中略〉醬三合、滓醬麁醬豉各一合、麁味醬二合、〈○中略〉♯仁王經齋會供養料〈○中略〉♯味醬四合五撮〈好物料一合、茹菜料四勺、漬菜料二合五撮、汁物料二勺、羹料一勺、菓餠料三勺、〉
p.0866 仁和二年六月七日乙卯、勅、唐僧湛譽供料、日白米三升二合、鹽三合、味醬二合、〈○下略〉
p.0866 承平八年〈○天慶元年〉年代暦云、天台山東塔法花三昧同僧平忍、座主尊意和尚入室弟子也、〈○中略〉詣二於師一言、平忍今日可レ生二兜率内院一焉、無レ言歸去、座主驚異、語二僧信賢一云、平忍之言頗以可レ奇 若風痾更發、神心違レ例歟、相二送白米和布味噌等一、可レ問二訊之一、送使還來言、平忍已以入滅、〈○下略〉
p.0867 二月ばかり、みそを人がりやるとて、♯花にあへばみそつゆばかりをしからぬあかで春にもかはりにしかば
p.0867 平宣時朝臣老の後むかしがたりに、最明寺入道〈○北條時賴〉あるよひの間に、よばるゝ事ありしに、やがてと申ながら、ひたゝれのなくてとかくせしほどに、又使來りて直垂などのさぶらはぬにや、夜なれば、ことやうなりとも、とくとありしかば、なへたる直垂うち〳〵のまゝにて、まかりたりしに、てうしにかはらけとりそへてもて出て、此酒をひとりたうべんがさう〴〵しければ申つる也、さかなこそなけれ、人はしづまりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでももとめ給へと有しかば、しそくさして、くま〴〵もとめし程に、だい所の棚に、小土器にみその少つきたるを見出て、これぞ求えてさぶらふと申しかば、事たりなんとて、心よく數獻に及びて、興にいられ侍りき、其世にはかくこそ侍しかと申されき、
p.0867 同君〈○酒井忠勝〉の時、鹽噌奉行何某、鹽噌を私用に取遣よし訴ありければ、忠勝君其者を召、御尋有ければ、味噌の上はなみ、桶はだは風味あしきゆゑ、中間どもに給させ、中のよろしきところを、諸士等の料理に用ひ候、ケ樣の事を私曲と申にやと申上ければ、さも有べし、いよ〳〵念を入るべしと宣ひ、御吟味はなかりし、
p.0867 南方蜂起事附畠山關東下向事♯其比何ナル者ノ態ニヤ、五條ノ橋爪ニ高札ヲ立テ、二首ノ歌ヲ書付タリ、〈○一首略〉 何程ノ豆ヲ蒔テカ畠山日本國ヲバ味噌ニナスラン
p.0867 關東方言♯昔よりいふ諺は、今に遺れるもおほかり、〈○中略〉ふるき諺の遺れるを二ツ三ツ左に記す、〈○中略〉狼狽 する事を味噌をつけるといふ、これは太平記卷の三十五に見えたり、桃井直常敗軍の段に、當時の人の落首なりとて、唐橋や鹽の小路の燒しこそ桃井殿は鬼味噌をすれ、といふ狂歌を載たり、この下の句の味噌をすれといふは、今俗に味噌をつけるといふ事と聞ゆ、直常は勇敢無雙の大將にて、世人鬼桃井と稱せしとぞ、かゝる人の狼狽したれば、鬼味噌をすれとはいふならん、村酒を鬼ころしといふごとく、鬼味噌とは蕃椒味噌の事にや、上の句にから橋とおきて、からき鹽とつゞけ、小路を麴にかけて、燒し鬼味噌とづゝけたれば、鬼味噌は蕃椒味噌の事と聞ゆる也、又食物の赤くて、その味の鹹きを鬼といふ、鰕を醬油の漬燒にゝたるを、鬼から燒といふ類おほかり、
p.0868 二條殿故攝政〈良基公〉仰云、大人ノ輕々シキハ小人ノ重キニハ劣レリ、大人ハ物ヲ見ル事虎ノ如クニシ、歩ム事ハ牛ノ如クニスト云本文有云々、去ナガラモ上﨟ノ上﨟シキト、味噌ノ味噌クサキハ下品ナリ、御利口有ト云々、♯ ○
p.0868 豉〈市至反、去、鳥頭也、久支、〉
p.0868 豉〈音是義反、豆所作也、〉和名久岐
p.0868 豉 釋名云、豉〈是義反、和名久木、〉五味調和者也、
p.0868 原書作下豉嗜也、五味調和、須レ之而成、乃可二甘嗜一也上、此恐誤、〈○中略〉按説文、 配レ鹽幽レ尗也、豉俗 、从レ豆、段玉裁曰、廣雅説飮食云、鬱幽也、幽與レ鬱同義、以レ豆鬱レ之、齊民要術説作レ豉、必室中温煖、所レ謂幽レ尗也、云食經造レ豉法、用二鹽五升一、所レ謂配レ鹽也、依レ之今俗呼二納豆一者近レ之、
p.0868 鹽豉♯廣雅曰、苦李作レ豉、廣志曰、苦秦豉、則豉自一物爾、謝承後漢書羊續爲二南陽太守一、鹽豉共レ器、三輔決録曰、南陽舊語曰、前隊太守范仲公、鹽菓蒜業共二一筒一、史記貸殖傳曰、孽麯鹽豉千答、蓋四物也、今京俗 謂レ豉曰二鹽豉一、或因レ此云レ然、晉世已爲二此名一、世説武子云、千里蒪羹未レ下二鹽豉一、
p.0869 大豆豉〈久岐今俗云唐納豆〉
p.0869 豉クキ 倭名鈔に釋名を引て、豉はクキ、五味調和者也と注せり、令式等に其字は見えしかど、今は其名も聞えずして、クキといふ義も亦不レ詳、〈漢にして豉といふものには、淡豉(○○)あり、鹽豉(○○)あり、豉汁(○○)あり、其方製もまた同じからず、我國にして古の時にクキといひしもの、いかなるにやありけむ、其方製も不レ詳、即今の醬油といふものは、古の時には聞えず、庭訓往來、下學集などにいふ者の如きにもしるさず、今これを造るの法は、たとへば我國にして、ヒシホといふものを造る如くにして、其既に熟しぬるに及びて、簀といふものを中にたてゝ、其簀の内に漏れ入る汁を汲取る也、古語に漏る事をばクキといふ、也少彦名神の父神の指間より、クキチチシなどいふが如きこれ也、古の時に豉を名づけてクキといひしは、即漏(クキ)之義にして、今の醬油といふもの、其遺製なる也、造釀の法、異朝の醬油の方の如くなれば、それに傚ひて呼びて、醬油といふに至りて、古にクキといひし名は隱れて、世の人知る事なきに至れる也、又俗にタマリといふ物の如きも、味噌の自然汁の溜りぬるをいふ也、俗に溜を呼びてタマリといふは、猶豉汁の漏(モ)り出ぬるを取りて、クキと名づけし、事の如し、これも又豉汁の類也、〉
p.0869 女房ことば♯一くき くもじ(○○○)
p.0869 造雜物法♯豉料、大豆一石六斗六升七合、海藻四斤八兩、得一石
p.0869 大豆豉(だいづし)〈 音示、豉之本字、秦漢以來始作レ豉、蓋尗乃豆字也、和名久木、〉♯本網有二淡豉鹹豉二品一、治レ病多用二黑大豆淡豉一也、釋名云、豉嗜也、調二和五味一可二甘嗜一也、〈造レ之法原出二外國一、而康伯乃傳二法於中國一、〉♯淡豉(○○)造法 用二黑大豆二三斗一、六月内淘浄水浸、一宿瀝乾蒸熟、取出攤二席上一、候二微温一蒿覆、毎二三日一一看、候二黄衣上遍一不レ可二太過一、取晒篏浄以レ水拌、乾濕得レ所以三汁出二指間一爲レ準、安二甕中一築實、桑葉蓋厚三寸密封泥、於二日中一晒七日、取出曝一時、又以レ水拌入レ甕、如レ此七次、再蒸過、攤二去火氣一、甕收築封即成矣、此豉入レ藥、鹹豉(○○)造法 用二大豆一斗一水浸三日、淘蒸攤詈、候レ上レ黄取出、簸浄水淘漉乾、毎四斤入二鹽一斤薑絲半斤 椒橘蘇茴杏仁一、拌匀入レ甕、上面水浸過一寸、以レ箬蓋封レ口、晒一月乃成也〈此外有二麩豉瓜豉醬豉之諸品一、皆造レ之充二食品一、○中略〉♯豉汁(○○)造法 十月至二正月一、用二好豉三斗一淸麻油熬令二烟斷一、以二、一升一拌レ豉蒸過攤冷、晒乾拌再蒸、凡三遍、以二白鹽一斗一搗和以二湯淋汁三四斗一入二淨釜一、下二椒薑葱橘絲一、同煎三分減レ一、貯二於不レ(ザル)津(モラ)器中一、香美絶勝也、♯氣味〈苦甘寒濇〉 治二傷寒頭痛寒熱煩燥滿悶一〈得レ葱則發レ汗、得レ鹽則能吐、得レ酒則治レ風、得レ薤則治レ痢、得レ蒜則止レ血、炒熟則又能止レ汗、亦麻黄根節之義也、〉♯按豉者食中常用而五味調和者也、本朝亦有二昔用一レ之、如今用二未醬一不レ用レ豉用二醬油一不レ用二豉汁一也、近時有下稱二納豆一者上、亦鹹豉之類也、
p.0870 大豆豉♯ 黑大豆ヲ (ネサ)シテ製ス、淡豉鹹豉ノ別アリ、鹽ヲ入ザルヲ淡豉ト云、藥ニハコレヲ用ユ、鹽ヲ入テ製スルヲ鹹豉鹽豉ト云、コレハ食用ナリ、又藥ニモ用ユ、淡豉ノ法ハ、集解ニ詳ナリ、舶來モ稀ニアリ、其粒小シ、和製ハ臭氣甚シ、コレハ製法惡シクシテ腐リタルナリ、法ハ齊民要術ニ詳ナリ、法ヲ誤リタルハ、腐臭シテ猫犬モ食フコトアタハズト云リ、傷寒論ニモ、香豉トアレバ臭ナル者ニ非ザルコト知ルベシ、鹹豉ハハマナツトウノ類ナリ、年首ニ寺院ヨリ在家ニ贈ル、
p.0870 交易雜物♯武藏國〈絁五十疋、布一千五百端、商布一万一千一百段、豉六石五斗、〉
p.0870 仁王經齋會供養料〈○中略〉♯豉一合二勺〈好物料五勺、海菜料七勺、〉
p.0870 駿河國天平九年正税帳♯豉料大豆漆斛伍斗直稻漆拾伍束〈斛別十束〉
p.0870 大同三年正月乙未、遣レ使埋二斂京中骼胔一、勅〈○中略〉給二京中病民米井鹽豉等一、
p.0870 八日〈○正月〉♯ 〈永正十三〉一久喜 二桶 〈高雄山〉神護寺〈例年進上之〉♯ 十二日♯〈永正十三〉一久喜二桶、 梅漬一桶、梅剥一桶〈例年進上之〉 宇治大路三郎
p.0871 納豆(ナツトウ)
p.0871 納豆(ナツトウ) 唐納豆(カラナツトウ&○○○)
p.0871 納豆(ナツトウ)
p.0871 唐納豆(カラナツトウ)
p.0871 豆豉(ナツトウ)〈本草〉 納豆(同)
p.0871 酢菜者、胡瓜甘漬、納豆、煎豆、
p.0871 女房ことば♯一まめなつとう いと
p.0871 濱納豆(○○○)は 大豆壹斗味噌のごとくたきて上候て、うどんのこを壹斗入、よくあはせてねさせて、こもをふたにして、三日ばかり置てみれば、よくね申候、ね候はゞふたをとりそとさまして、うへをしたへかへして又ねさせ候、よくね候はゞかきよせ、水六鹽三にてつくり入候、水五にてもいよ〳〵よし、さて時々かき合候、三十日候間、はかきてよし、土用に作り入候へ共、九月九日ごろまで置候てよし、ねさせやう口傳、戸板に入候へば、戸のさんの高さほどにもりてよし、あつく候へばあしく候、三十日もかき大かたなれ申候時、から皮生姜など入候て、くちをよくいたしをき申候也、
p.0871 納豆 大豆煮レ之、加二生姜紫蘇葉芥子等物一製二造之一、所々有レ之、然大德寺中眞珠菴之所レ製也、傚二一休和尚之製法一、故謂二一休納豆一(○○○○)、又聚樂淨福寺、蓼倉法雲寺、嵯峨淸凉寺爲レ佳、凡納豆中華所 レ謂豆豉也、又一方有下稱二金山寺味噌一者上、案食物宜忌所レ載八寶豉之類也、則以レ出二金山一爲レ勝矣云々、然則本朝所レ傳、傚二斯製法一者乎、
p.0872 納豆♯ 集解、納豆似レ豉、其製法殊矣、今有二二種一、一種用二好白大豆一水煮熟、候二水盡豆熟一而取出、攤二于席上一、入二土窖中一、候レ生二粘泥一而裹二于稻草一收二貯之一、用時板上剉末水研煮作レ汁、和二鹽酒及魚鳥菜一、此稱二納豆汁一、放二芥菜子泥一而食最佳、一種好白大豆一斗水煮熟、取出攤二于席上一、用二炒大麥粉炒小麥粉各五升一抹二熟豆一、入二土窖中一令レ作レ麴、候二于花衣生一而晒乾三日、復別用二白鹽三升水七升一、混二合于鐺中一而煎レ之、少頃待レ冷放二木盤一浸二三種麴一而拌合數次、以二厚紙一覆レ之、重以二木蓋一覆レ之、疊二小石于木蓋上一而壓レ之、經二三十日許一取レ蓋、用二大木匙一令レ翻二覆上下一、而後合二紫蘇葉穗及子蓼葉穗生薑山椒樹皮等物一、以收貯而用、或用二黑豆一造レ之亦有、此製不レ一、家々有レ法、近代爲二僧家用一、其修造勝二于俗家一者多、僧侶自二夏月一造レ之、正月奉二贈檀越一、復有二濱名納豆(○○○○)者一、昔神大君在二駿城一時、命二遠州濱名大福寺摩迦耶寺之僧一而造レ之、其状茶褐色而不レ粘如レ乾、其味甘鹹帶二微苦一、但合二山椒樹皮一耳、椒皮亦不二尋常一、皮厚甚辣、此納豆造法二寺深秘不レ泄、故知者少矣、有二唐納豆(○○○)者一、和之南都洪福寺東大寺之僧造レ之、京師淨福寺亦造レ之、故復號二淨福寺納豆一(○○○○○)、其法夏六月用好黑大豆一斗一、煮熟如二味噌一、小麥炒レ香一斗、磨レ礱爲二粗未一、二味拌合攤レ席、置二暖處一作レ麴、日晒三五日、以二乾堅者一磨レ礱細末飛羅、取二其粗者一復日晒乾二堅飛レ羅悉篩二盡之一、別用二白鹽三升水七升一煮レ鐺、一時待レ冷煉二麴粉一而收二之桶中一、取出搗二于木臼一者一月一次、毎日晒乾夕收二于桶中一、至二冬十一月一入二山椒粉一、復搗二于木臼一、而後經レ日嘗レ之、至二味之佳時一而作二木葉状一、或作レ泥食亦爲レ佳、♯氣味甘鹹、微温無レ毒、主治、下レ氣調レ中進レ食解レ毒、♯發明、納豆雖二與レ豉殊一、然性本相似、故以下不レ合二其鹽麴一者上代レ豉用、入レ藥亦稍好、以二黑豆一造則尚佳、惟吐法可レ用其餘不レ足レ用レ之、
p.0873 桂川地藏記、〈弘治二年の跋あり〉賣買之物少々記レ之とある内に、坐禪納豆(○○○○)、法論味噌と見えたり、この坐禪納豆、は濱名納豆の製なるべし、後に煮染の大豆を坐禪豆といふも、これより出たり、坐禪も小水の爲に、これを用ひしなり、むかしは茶食(クワシ)にもせしものとみえて、醒睡笑に、見たところうまさうなれやこの茶の子名はから糸といふてくれなゐ、から糸とは納豆の異名なり、糸ひくをいふ、紅梅千句に、薪の能の棧鋪とり〴〵〈可賴〉納豆をさげ重箱に組入て〈正章〉柚べしには唯手を掛もせぬ、〈友仙〉安部泰邦卿東行話説〈寶暦十年〉濱名納豆は見つきに似ぬ味にて、酒の肴にはえならぬものなり、今此邊にありやと尋ければ、本坂越の路三ケ村の大福寺より出るものにて、此邊にはなしといふ、然れば濱名の産にもあらず云々、かさゝぎのはしもとかけし橋杭も朽てはまなのなとふばかりぞ、〈濱名納豆は鼠糞の樣にて、かびの生たるものなり、○中略〉♯今の寺納豆も、法論みそ坐禪納豆の遺製、京師大德寺眞珠庵にて造るを一休納豆(○○○○)と云、
p.0873 扣納豆(○○○) 薄ひらたく四角にこしらへ、細菜たうふを添うる也、ねやすく早業の物、九月末二月中うりに出る、富小路通四條上ル町、
p.0873 天文十年十一月十五日、相州左馬助殿一兩日出京、今日下向也、仍唐納豆〈號二池田唐納豆一○○○○○也〉十給レ之、取次むこ千世也、
p.0873 山城 淨福寺納豆(○○○○○) 遠江 濱名納豆(○○○○) 近江 觀音寺納豆(○○○○○)〈汁ニ用レ之〉
p.0873 井上武三郎正甫〈○遠江濱松〉 時獻上〈寒中〉濱名納豆(○○○○)
p.0873 名物♯節分の茶には入ずて大福寺皮山椒もまじる納豆 正雄
p.0873 本鄕森川宿御先手組屋敷に、内山氏といへる同心あり、其先祖は北條家旗下の士にて、氏政よりの下知状數通を藏せり、其中に内山氏出陣の節、ある桑門より見舞の書状あり、一 見するに、♯態令二啓達一候仍今般之御出陣御越河一入御辛勞已識察候、然者雖二分少候一、納豆壹合已進レ之候、誠以音問迄候、諸餘御歸陣之時分、委曲可二申述一候、恐々謹言、三月上旬 〈淨安寺〉欽譽花押内山彌右衞門尉殿〈御陣所〉
p.0874 御所此よしを聞めし、大きに驚かせ給ひて、本人なれば先納豆太に告よと仰ありければ、律師が弟子けしやう文といふ物をもつてつげけり、折ふし納豆太藁の中にひるねして有けるが、ね所見ぐるしくや思ひけん、涎垂ながらかばとおき、仰天してぞ對面する、
p.0874 納豆賣(○○○)♯大豆ヲ煮テ室ニ一夜シテ賣レ之、昔ハ冬ノミ、近年夏モ賣二巡之一、汁ニ煮、或ハ醬油ヲカケテ食レ之、京坂ニハ自製スルノミ、店賣モ無レ之歟、蓋寺納豆トハ異也、寺納豆ハ味噌ノ屬也、