p.0743 酒者柳一荷、加之天野(○○)、南京(○○)之名物、兵庫(○○)、西宮(○○)之旨酒、及越州豐原(○○○○)、賀州宮腰(○○○○)等、相二副瓶子并銚子、提子一、所レ調二設之一也、
p.0743 山城 南蠻酒(○○○) 大和 僧坊酒(○○○) 河内 天野酒 攝津 伊丹酒 富田酒 遠江 菊川酒 若狹 小濱酒 越前 大野酒 出雲 杵築酒 備前 小島酒 備後 尾道酒 三原酒 伊豫 島後酒 豐前 小倉酒
p.0743 醍醐の花見 秀吉公父子其外上臈衆かちにて、いとしづかなる有さま、人間の住家にはあらざるにやとおもはれて艶也、〈○中略〉御供にあらぬ諸侯大夫并京堺の歴々より、折作物珍物其員をつくし、名酒には加賀の菊酒(○○○○○)、麻池酒(○○○)、其外天野(○○)、平野(○○)、奈良の僧坊酒(○○○○○○)、尾の道(○○○)、兒島(○○)、博多の煉(○○○○)、江川酒(○○○)等を捧奉り、院内にみちて院外にあふれにけり、
p.0743 酒 凡京師井水、其性淸而柔、其味淡而芳、以二斯水一釀レ酒、故其味甘美、總謂二京酒一(○○)、又稱二地酒一、凡其他之出生、其所之造釀總謂レ地、堀川大炊通北花橘酒(○○○)、近世又有二蘭菊酒(○○○)等一爲二特宜一、又京北町口一條北酒店、有下稱二重衡一(○○)者上、平重衡滅二南都伽藍一、凡酒自レ古以二南都一爲レ勝、此酒味勝二南都之酒一、故有二此號一、
p.0743 松平甲斐守保光〈○大和郡山〉 時獻上〈二月〉南都酒(○○○)
p.0744 富田林(○○○)、〈南河内都會の地也〉いにしへは富田芝とて、廣き野にてありしが、天正の頃、公命によりて、市店建續きて商人多し、特には水勝れて善れば、酒造る業の家數の軒をならぶ、
p.0744 御佛名 今夜羞二栢梨一(○○)、〈左近衞府攝津莊名(○○○○)也、以二彼地利一所レ造之甘糟也、〉小大盤以下以二折敷一居レ之、左近官人等取繼、令二主殿司居一レ之、公卿候二殿上一者、六位藏人以下居レ之、毎二折數一甘糟一坏〈入二乳垸一〉菓子二坏精進物二坏、箸臺〈居二箸一雙一〉空器一口也、公卿以下著二殿上一、近衞次將勸盃、〈藏人執二瓶子一昇レ自二小板敷一、四位勸二大臣一者繼酌、於二納言以下一者不レ取レ之、五位取二繼酌一不レ過二二獻一云云、〉 裏書曰、栢梨昔府中將和氣、某以二攝津國之栢梨庄寄左近府一、以二其地利一充二官人以下酒醪料一、
p.0744 御佛名 十九日 けふより廿一日まで三ケ日なり、或は一夜も例あり、〈○中略〉栢梨の勸盃などいふ事有、それは左近衞府の領に、攝津國栢梨莊といふ所より御酒を奉りて、殿上にて勸盃のあるなり、
p.0744 伊丹(○○)〈町名廿八、屬邑十二、河邊郡都會の地にして商人多し、京師大坂有馬三田等の驛也、〉 名産伊丹酒〈酒匠の家六十餘戸あり、みな美酒數千斛を造りて、諸國へ運送す、特には禁裏調貢の御銘を老松(○○)と稱して、山本氏にて造る、あるひは富士白雪(○○○○)は、筒井氏にて造る、菊名酒(○○○)は八尾氏にて造る、其外家々の銘を、斗樽の外卷に印して、神崎の濱に送り、渡海の船に積て、多くは關東へ遣す、〉
p.0744 袋洗 新酒成就の後、猪名川の流に袋を濯ふ、其頃を待て近卿の賤民、此洗瀝を乞えり、其味うすき醴のごとし、是又他に異なり、俳人鬼貫、 賤の女や袋あらひの水の汁 愛宕祭 七月二十四日、愛宕火とて、伊丹本町通りに燈を照らし、好事の作り物など營みて、天滿天神の川祓にも、おさ〳〵おとることなし、此日酒家の藏立等の大なるを見んとて、四方より群集す、是を題して、宗因、 天も燈に醉りいたみの大燈籠 酒家の雇人、此日より百日の期を定めて抱へさだむるの日にして、丹波丹後の困人多く幅奏すなり、
p.0745 名産灘酒匠(○○○○○)〈五百崎、御田、大石、脇濱、神戸等にて酒造し、多く諸國へ運送す、これを灘目酒(○○○)といふ、〉
p.0745 麻生酒(○○○)之事 一麻蒔頃造りて麻苅頃口を開る故、麻生酒といふ、又或説に曰、元來麻蒔時畑に造りたる故、麻生酒と云也、醅共に呑酒也、 一二月中旬造りて、三月末四月初に口開る也、但し造り込より日數三十日さへ過候へば、口開けて不レ苦、假令右の酒夏を越、秋冬自然來年迄有レ之候ても、風味替る事無レ之候、 一麻生酒の法、世間に多しといへ共、就レ中此方勝れ候、依レ之寛文年中尾州(○○)大守大納言光友公へ、家臣成瀨氏獻上、風味異レ他由御褒美、其後嘉例として毎年被二差上一方也、
p.0745 一江川酒(○○○)の事、文字如レ此にては無レ之候、豆州之内大川(○○○○○○)と申處有レ之候、則大之宇を書てエと讀申候、鎭守は大川大明神也、此處にあり、水にて造り出申酒にて、昔江川酒と名付申事、小川をエ川と讀申候、江川には鱒鮭無レ之物に候故、ます酒なきと稱美の詞にて、エ川酒と申候、處の名とは、唱は同じ事ながら、文字替り申候、小川長左衞門殿と申仁、大番より此處の御代官被二仰付一、御收納米にて此酒を造らせ獻上に候、代々長左衞門殿は二百石取被レ申候、
p.0745 信長公東國御進發并勝賴父子討死之事 同日〈○天正十年三月二十一日〉北條氏政ヨリ端山大膳大夫使者トシテ御太刀馬黄金千兩、并江川樽(○○○)十樽、白鳥十、漆樽二十進上ス、
p.0745 酒 大津(○○)の出す處なり、此地の水の性淸して柔に、其味淡してよし、故に酒も其味甘美にして、京都の酒に劣らず、造釀する多しといへども、箱の松(○○○)、松梅(○○)、打出濱(○○○)、我宿(○○)等の 酒殊によろし、石原澤村など云もの造釀に名ありとす、
p.0746 土地米多けれども、酒味惡ければ、他方へも賣れ難く、所の益も薄ければ、上方の造酒の方を學べとて、會津より杜氏を請ひ、藤屋といふ酒屋へ預け酒を造らせ、其後も追々上方の造方、灰の品を撰びなどする方を聞せ、御世話ありし故に、近年はむかしに替り、味宜しく成たり、
p.0746 野中淸水釀酒記 昔者王猷之盛、凡任レ國者、三歳考レ績、黜二陟幽明一、歴二七考一而入爲二參議一、其參佐僚屬、亦皆遷轉、故當時搢紳之士、東遷西徒多歴二郡縣一、所レ至必述二悲歌感慨之情一、形二諸賦詠一、其土之風俗氣候、山水之趣、物産之品、賴以可レ識、而傳至二于今一、凡經二其品題一者、今謂二之名所一、好レ古者稽焉、野中淸水此其一也播之印南郡(○○○○○)界有二小池一、東距二明石郡城一、以二今里一計二里而遠、其南半里許、而山陽往來之途在焉、其池南北五歩許、東西倍而稍濶、其水淸徹紺寒冬夏不レ涸、可二以釀一レ酒、今屬二明石城主左兵衞佐源侯之管内一、相傳所レ云野中淸水(○○○○)者乃是也、明石治下酒匠有二櫻井氏者一、以二善釀一名、候爲給二其地一、汲レ池醞製、冬間將レ釀必遣二吏人一掃除、又以二持明院基時卿搢紳之望一也、請二其歌章一以示二後世一、其好レ古也篤矣、向物介二醫人宗函一記二其事一、荏苒未レ果、督益追、因謂今方内又安、四陲無レ虞、不二唯春誦夏絃之慕一レ古、而一器物之製、一泉石之趣、嘗經二古名流之賞一者、毎必咨嗟低徊以相夸、非二徒可一レ卜二世之承平一、亦可三以見二厚道之尚存一矣、其事雖レ細、君子樂レ言レ之、是爲二野中淸水釀酒記一、〈正德二年壬辰二月〉
p.0746 本多平八郎政武ノ臣三浦忠右衞門ト云モノハ、忠義無雙ニテ經濟ノ名人ナリ、〈○中略〉酒ハ何方ニテモ多ク用ユルモノナリ、姫路ハ所柄別シテ酒ノ多ヲ見テ、此地ノ金銀他ヘ出ル事夥シケレバ、何卒此費ヲ省カン事ヲ考フルニ、土地ニテ酒造リセンニハシカジトテ、其事ヲ申立テ、若造リ損ジタランニハ、其罪アラント町中ヘ申付、其道々ノ人ヲ集メテ議シ、美酒ハ陶師ニヨルトイヘバ、南都伊丹ノ名アル酒造リヲ呼ビヨセ、第一米ト水ト次第ニ吟味シ、淸水ヲ汲セ、マ タ瀧水ヲ用ヒ、我身上ニカハリテ意ヲツクシ、ヨク出來テ汝等ガ德分ナレバ、必念入造ルベシト下知シ、樽モ杉ノ上木ヲ以テ作ラセ、彼是骨折、世話致シアリケルニ、其誠信ニヨレバニヤ、美酒ドモ造リ出シテ、佳味南都伊丹ニオトラヌ上酒トナリ、價モ下直ニ賣シメケレバ、土地大ニ其利ヲ得テ、今ハ姫路酒(○○○)ニテ西國マデモ通用ス、其上米ハ皆大坂ニテ運送セシニ、酒ヲ造リ初メテヨリ、地拂ノ米モ多キ故、米直段モ自然トヨロシク、土民ドモ潤ヒケル、
p.0747 さけ 吉備の酒(○○○○)は萬葉集に見ゆ、庭訓にも備後の酒といへり、
p.0747 丹生女王贈二太宰帥大伴卿一歌二首〈○一首略〉 古(イニシヘノ)、人乃令食有(ヒトノノマセル)、吉備能酒(キビノサケ)、痛者爲便無(ヤモハヾスベナ)、貫簀賜牟(ヌキスタマハム)、
p.0747 能登釜、河内鍋、備後酒(○○○)、
p.0747 松平安藝守重晟〈○安藝廣島〉 時獻上〈三月〉三原酒(○○○)〈○備後〉
p.0747 酒 麻地酒(○○○)は府下廣瀨嘉左衞門が家に製す、是も亦公儀へ獻じ給ふこと、元和年中より始まるといふ、
p.0747 酒 近年福岡博多(○○○○)に釀す酒甚美なり、其上品は南都北都の産に相つげり、新しき杉樽に入、大坂に上すれば、彼地の人も又大坂の産に勝れると稱す、各其かもせる酒に新に名を付、其品あげて數へがたし、其美名を著さんとなり、直方にも良醞を作る、宰府にて染川(○○)、思川(○○)など云酒を釀す、其味頗美也、〈○中略〉亦福岡博多に燒酒をも多く製す、
p.0747 松平美濃守齊隆〈○筑前福岡〉 時獻上〈十一月〉博多煉酒
p.0747 豐後(○○) 麻地酒(○○○)〈朝生(○○)酒トモ書、土カブリ(○○○○)トモ云、〉
p.0747 木下主計頭俊懋〈○豐後日出〉 時獻上〈在邑十一月〉麻地酒
p.0748 麻地酒(○○○) あさぢざけ 肥後の國より出る名産(○○○○○○○○○○)也、その糟の米子うかびてたゞよふ也、是を製する時六月なるにや、俳諧の季夏六月也、
p.0748 細川越中守齋玆〈○肥後熊本〉 時獻上〈三月〉麻地生酒
p.0748 内田頑石、名升、字叔明以レ字行、號二頑石道人一、冠嶽鵜洲皆別號通稱文道、江戸人、 頑石嘗使三攝津伊丹造釀家某製二醇粹酒一、其氣味淸酸而苦辛、不レ似二先レ是苦甘軟淡一、自題二之銘一云、消レ憂散レ鬱、透二徹黄泉一、百藥之長、暢二潤山川一、蓋關東之人、性嗜二酒味辛苦猛烈一、不レ若三關西之人好二酤醪軟甘温濃一者、自依三於土地肥瘠與二人氣強弱一、自レ是以降、此造釀之法、盛行二于時一、江戸十里四方之所レ飮、以レ此爲二稱謂一、至レ今號二泉川一(○○)、七十年來飮客、無下不レ愛二泉川一者上、氣味殊以二芳辛淸苦一被レ稱二于世一、
p.0748 長古堂記 伊丹之酒、醇レ於二天下一、而坂上氏最醇云、蓋釀戸亡慮七十餘家、舶載輸二江都一、歳以二三十餘萬斛一爲レ率、凡其運レ酒、以二木罍缶一、薦包席裹、署二號於一レ上、而其號爭レ新鬪レ奇、歳更月革、務刮二人目一、聳二衆觀一、而坂上氏唯墨畫二一縱一橫一、爲レ如二劔鋒菱角形状一而已、自レ昔未二之或改一、故視二其號一可以知三其釀法之變與二不變一矣、江都人呼二坂上家釀一曰二劍菱一(○○)、天下酒價低昂、皆視二劍菱一爲レ準、遂亦呼二其家一曰二劍菱氏一、〈○下略〉
p.0748 戯作二攝州歌一 兵可レ用、酒可レ飮、海内何州當二此品一、屠販豪俠墮レ地異、腹貯五州水淰淰、阿吉不二肎損與一レ人、阿藤營レ宅城如レ錦、龍顚虎倒兩逝波、戰血滿地化二嘉禾一、伊丹劒稜美如何、各酹二一杯一能飮麼、〈余書二此詩一與二攝人一、劔稜主人偶見奪取、即贄二其酒一來謁、定レ交始二于此一、〉
p.0748 西遊稿 七星(○○)春歌〈伊丹酒名、碕港所レ致皆泉釀、伊丹獨有二此一品一、或招レ余供レ此、賦謝、〉 重碧瀲灔漲二長缾一、何縁命レ名喚二七星一(○○)、腕擎二琥珀一光迸レ掌、訝佗寒芒照二畫檽一、吾戸雖レ小嫌二甜酒一、常恨泉釀不レ可レ口、宴闌煩レ君更往賖、始覺萬愁付二一帚一、君不レ見我胸未レ能レ羅二二十八宿一、我腹猶堪レ藏二北斗一、
p.0749 題二兵庫樽氏曙光酒一(○○○) 鷄鳴二海驛一曙光開、紅靄紫霞春滿レ臺、君自神仙多二異術一、一齊釀入二甕中一來、
p.0749 酒 攝津國伊丹にて造るよき酒に、星の井(○○○)と名づくる酒あり、俗にこれを七ツ梅といふ、〈樽つゝみたるむしろに七星をしるしにつけたるが、うめばちといふもんのかたちに似たる故なり、〉星の井は井によりて名づけたる也、
p.0749 名酒所 後水尾院樣御銘有明 堀川六角下ル町 八文字屋 東福門院〈○後水尾后德川和子〉樣御銘花橘 堀川丸太町 坂田屋 鷹司前關白樣御銘蘭菊 油小路竹屋町下ル町 關東屋 女院御所樣御銘竹葉若みどり 右同斷 井筒屋 日光御門跡樣御銘初ざくら 烏丸夷川上ル町 廣長屋 妙法院御門跡樣御銘さゞれ石〈又〉まひ鶴 新町通一條上ル 重衡 北野經王堂前 この花 津國屋 富小路松原下ル町 榊葉 近江屋 四條烏丸東〈江〉入町 みたらし 穗積屋〈○下略〉
p.0749 銘酒所 〈御所献上〉養老菊水酒 〈不明門通七條上〉藤岡友三郎 さゞれ石 まひ鶴 〈新町一條上〉重衡 この花 〈北野經王堂前〉津の國屋 さゞれ石 〈河原町四條下〉ひし屋 三笠山 〈二條堀川東へ入〉萬屋吉兵衞 君が代はくもりもあらじ三笠山峯に朝日のさらぬかぎりは わか竹 〈下立賣堀川西〉菱屋平兵衞 わか竹に麥の穗風のそよぎかな 〈御銘〉龜の井 〈烏丸御池上〉萬屋吉右衞門 麥酒 〈高倉五條下〉穗積屋喜八 不老酒 〈油小路五條下二丁め〉鍵屋 楚龍 〈寺町今出川下〉菱屋宗助 音羽〈洛東〉 〈大黑町五條上〉八文字屋小兵衞 龍の水 〈伏見海道五條下〉紀伊國屋儀兵衞 瀧の水 〈建仁寺町四條下二丁メ〉つぼや 糺川 〈建仁寺町松原下〉八文字屋元七 松の聲 〈三條東洞院東〉若松屋藤七 鶴の齡 濱のまつ 〈堺町松原下〉濱屋三右衞門
p.0750 十一月日不定 新酒〈むかしは九月著船す、近年次第に遅くなりて十月頃となり、今は正月或は二月初旬に著す、攝州は伊丹、傳法、西の宮、池田、今津、大坂在、尼が崎、北在、灘目、大石、兵庫、其餘泉州、勢州、濃州、尾州、三州等の國々より、新酒の船江府へ積送り、品川沖に著す、早船を以て回船の問屋へ報じ、同問屋より大茶船を出し、先を爭ふて是を瀨取し、新川新堀の酒問屋銘々の河岸へ積來り、諸方へ運送す、繋昌いはん方なし、喧 して早ふあやまる新酒哉、百史、打よする浪ぞ新酒の安房上總、蓮之、〉
p.0751 新酒 糟丘亭 よしあしの難波の浦には、神無月の頃に、ゐざけ下さんと、舟もよひして、名にしあふ伊丹、西の宮、なだめ、大坂、でんぼう、兵庫など、その外のも問丸にあつめて、一番舟十あまり四艘に、番舟もおなじほど積そろへつゝ、いつの日いつの時などさだめて、ひかへ綱きりてはなてば、思ひ〳〵にぞ海原を風にまかするなれ、このよしはやうこゝにつたふれば、新川新堀に家居せる問屋の、むかしは八十あまり四軒となん聞しを、いかなるにか今は四十あまり六家とや、その家この賣場といへるに、かのくだれる數の舟主の名を壁にしるして、誰々はよくのる、たれ舟はいつもたのまれず、又今年なにがしは新造のるなど云ふめるころは、ふる酒もかれ〳〵なれば、家々つどひて、細き枯木をけづりて、きゝ酒の釘なん用意するとぞ、これにかゝづらふをのこどもは、しぶ染とかやいへるあらきひとへに、小倉といへる帶して、太神樂といへる獅子の脊中みるやうなる、前垂てふものかけて、やゝともすれば、藏前川岸前に集りて、樽石など持くらべて誇りあへるにこそ、時雨もはれやかに、小春の天暖かなれば、この夜さりや曉などゝまつ頃かの舟どものはやきは品川の沖にこそつくめる、いかりもまだおろしあへざるに、天滿とかいへる舟して、とく大川端なるこゝの問丸に案内したるこそ、一番船とは定りて、舟のりもめいぼくあれば、くる年中もこの舟のさちにぞなれる、さは沖には早う付ても、この案内におくれければ、二番三番ともいはれて本意なし、荷物受るにも通請支配請問屋など、いづれとくだ〳〵しければもらしつ、問丸は大茶船といへる、しるしたてゝ荷わけにぞゆくなる、問屋のあるじは、初相場立るとて、例のところにぞあつまるなれ、荷分せし舟の乘り入るほどこそ、いとゞ小川のところせきに、あゆみ板打渡して、まろばしあけるも、いみじくしつけたるはやすげなれ、藏々に入るほど、とくゐへ積送るなど、いそぎあへるもをかし、靑き旗たてたるは、八百あまり八町はさらなり、しるしの杉かざせ るすゑ〴〵の家居まで、一二日のうちに送りくれば、まづ神棚にこそさゝげて、下り新諸白と書て、かどのはしらにかけぬるならし、
p.0752 江戸中酒店、毎年十月大坂より新酒下り來ると、早速に場末の小酒店迄も、出入の屋敷并町屋までも、一升二升或は五合充も、洩さず相應に配り送りし事なり、文化五辰年冬、新川新堀の酒問屋共より、向後酒配り止べきのよし、酒店へ觸出し、それより一統酒配り止になりけり、
p.0752 酒之部 伊丹富田の作り酒、生もろはくといふは、元來水のわざにや、作りあげたる時は、酒の氣はなはだからく、鼻をはじき、何とやらんにがみの有やうなれども、遙の海路を經て江戸に下れば、滿願寺は甘く、稻寺には氣あり、鴻の池こそは、甘からず辛からずなどとて、その下りしまゝの樽にてのむに、味ひ各別也、これ四斗樽の内にて、浪にゆられ、鹽風にもまれたるゆへ、酒の性やはらぎ、味ひ異になる事也、總じて江戸にては、一切地造りの酒はなし、時として今繁花の江戸、いく八百八十やらん、方量無邊の其所に、日夜朝暮につかふ酒、みな右にいへる、伊丹富田、あるひは池田の下り酒也、靈岸島、茅場町邊、叉呉服町の酒問屋にて、右下りの四斗樽、家々の印にて買ふ、問屋には藏手代といふが有て、買人をば藏へ伴ひ、望に應じて利酒をさせ、拾兩に幾樽といふ直に極めて賣買す、扨此外に、少しは江戸の地酒も有、信州の上田ざけ、尾州の名古屋もろはく、地まはり奥酒なんどとて、取まじへ賣用もすれども、所詮下り酒とのみくらべては、いづれにもにがみ有やうにて、京にて至極次なる新酒の淡き味より、色うすく氣淺くて、さすが田舎の水すぢあらはれ、各別味ひよろしからず、
p.0752 酒は富士見酒とて、一たび江戸へ乘出したるを賞翫す、
p.0752 強非理以徴レ債取二多倍一而現得二惡死報一縁第廿六 田中眞人廣忠女者、讃岐國美貴郡大領外從六位上小屋縣主宮手之妻也、産二生八子一、富貴多レ寶、有二馬牛奴婢稻錢田畠等一、天年無二道心一、慳貪無二給與一、酒加レ水多沽取二多直一、貸日與二小升一、償日受二大升一、出擧時用二小斤一償二收大斤一、息利強徴、大甚非レ理、或十倍徴、或百倍徴、債人澀取不レ爲二甘心一、多人方愁、棄レ家逃返、趻二跰他國一無レ逾二此甚一、廣忠女以二寶龜七年六月一日一臥二病床一、而歴二數日一、故至二七月廿日一、呼二集其夫並八男子一、語二夢見状一而言、閻羅王闕所レ召而示二三種之夢一、一者三寶物多用不レ報之罪、二者沽レ酒加二多水一取二多直一之罪、三者斗升斤兩種用レ之、與レ他時用二七目一、乞徴時用二十二目一而收、依二此罪一召レ汝應レ得二現報一、今示レ汝耳、傳二語夢状一、即日死亡、〈○下略〉
p.0753 能説房之説法事 嵯峨ニ能説房ト云説經師有ケリ、隨分辨説ノ僧也ケリ、隣ニ沽酒家ノ德人ノ尼有ケリ、能説房キワメタル愛酒ノ上戸ニテ布施物ヲモツテ一向酒ヲカヒテノミケリ、或時此尼公佛事スル事アリテ、能説房ヲ導師ニ請ズ、近邊ノ者是ヲキヽテ、能説房ニ申ケルハ、此尼公ノサケヲウリ候ニ、一ノ難ニ水ヲ入ルヽニヨリテ思程モナシ、今日ノ御説法ノ次ニ、サケニ水入テ賣ルハ罪ナルヨシ、コマカニ仰ラレ候ヘトイフ、能説房各ノ仰ラレヌサキニ、法師モ存ジテ候、今日日來ノ本懷申聞クベシトテ、佛經ノ釋ハ、タヾ大方バカリニテ、サケニ水入ルヽ罪障ヲ勘ヘアツメテ、少々ハナキ事マデサシマジヘテ、思ホドニイヒケリ、サテ説法ヲハリテ、尼公其邊ノ聽衆マデ、皆ヨビアツメテ、大ナル桶ニ酒ヲ入テ取出テスヽム、能説房一座セメテ、サカヅキトリアゲテノミケリ、此尼公アサマシク候ケル事カナ、サケニ水イルヽハ罪ニテ候ケルヲ、シリ候ハザリケルヨトイフニ、水ノスコシ入タルダニヨシ、今日イカニ目出タクアラント思程ニ、能説房一度ノミテ、アトイヒケレバ、イカニヨカルラン、感ズル音カト聞クホドニ、日來ハチト水クサキサケニテコソ候ツルニ、コレハチト酒クサキ水ニテ候ハ、イカニト云ケレバ、サモ候ラン、酒ニ水ヲイルヽハ、罪ゾト仰ラ レ候ツル時ニ、是ハ水ニサケヲ入テ候トテ、大桶ニ水ヲ入テ、酒ヲ一鍉バカリ入タリケル、此尼公興懷ニシタリケルニヤ、又惡クコヽロエタリケルニヤ、
p.0754 一ならのいせやと云さか屋、やすざけには水を入てうりければ、ある人是をかい、伊勢屋のさけはさん〴〵あしきとて、きやう歌をよみける、 酒の名も所によりてかはりけりいせやのさけはよそのどぶろく、伊勢や是を聞、返し、 よしあしといふはなにはの人やらんおあしをそへてよきをめされよ
p.0754 酒屋に酒ばやしとあり、居酒屋には酒小賣とあり、飮人甚少し、
p.0754 同〈○禁裏〉御酒所 上立賣室町西〈江〉入町 權兵衞 富小路松原下〈ル〉町 伊右衞門 今出川新町西〈江〉入町 大黑屋七右衞門 同御名酒所 丸太町富小路東〈江〉入町 尾道屋次郎右衞門
p.0754 御膳御酒所 〈本石丁二丁メ〉正法院八左衞門 〈南大工丁〉菊屋次左衞門 御酒所 〈上まき丁〉高島彌兵衞 〈兩國元丁〉木津屋理兵衞
p.0754 名酒屋 南傳馬町一丁目 播磨や七兵衞 同所 大和大目 藤原重次 南鍋町 中村淸兵衞 深川大島町 三笠酒 伊阿彌新之丞 數寄屋町 霰酒 讃岐や兵助 下槇町 山川酒 天滿や
p.0755 下り酒屋(○○○○) 中橋廣子路 呉服町壹丁目 貮丁目 瀨戸物町壹丁目
p.0755 下り酒、昔は江戸にて多く酒を造りて、下り酒はなかりし、事跡合考に、南川語て云、津の國鴻池の酒屋勝屋三郎右衞門と云もの、酒二斗づゝ入る桶二つを一荷として、其上に草鞋數足置きたるを擔て、江戸に下り、大名の家々に至りて、一升を錢二百文づゝに賣たり、其頃いまだ麁酒のみにて、これが酒の如き美酒なき故、ばいとりがちに買はやらかし、頻りに上下して夥しく利を得たり、其頃は米は下直なり、木錢は十二文ほどしたる故、鴻池より一上下錢二百五六十文にて仕廻たり、肩の上ばかりにてはかゆかざる故、その一荷四斗の酒を一樽として、二樽を馬一駄とて、數十駄づゝ持下りて、勝屋賣たり、依レ之末代に至りて、酒の價を極るとき、十駄金子何十兩と立るもの、廿樽酒八石の積りなり、追日酒うれる故、馬の背にても及びがたく、終に東海を何十萬樽と云に至りて、船につみ入津する事、今日盛りなりと云り、此いつ頃のことにか、江戸鹿子に、下り酒や、中橋廣小路、呉服町一丁目、二丁目、せと物町一丁目と見えたり、
p.0755 内田屋酒店〈外神田昌平橋外〉 昌平橋外内田前、德利如レ山酒爲レ泉、孔子門人多二上戸一、瓢簟携至是顏淵、
p.0755 前々ヨリ酒樽割醬油樽割トテ、一ト樽賣ノ代物割ヲ以テ、一合二合ノ小賣ヲシ、或ハ上酒ヨリ次酒、段々價下直ニ書付ヲ廻シ、所々ヨリ出ルトイヘドモ、當分計ニテ末ハ外ノ酒店ニカワル事ナシ、爰ニ元文元年、鎌倉河岸ニ豐島屋ト云酒屋、見世ヲ大ニシテ、外々ヨリ格別下直ニ賣タリ、毎日空樽十廿ヲ小賣ニテ、明ルホドニ、酒ハ元直段ニテ樽ヲモフケニシケリ、其頃ハ樽一匁ヨリ 一匁二三分迄ニ賣リタリ、其仕方ヲ見ルニ、片見世ニ豆腐作リ酒店ニテ田樂ヲヤク、豆腐一丁ヲ十四ニ切ル、甚ダ大キナリ、豆腐外ヘハ賣ラズ、手前ノ田樂計リナリ、ソノ比豆腐一丁ニテ廿八文ナリ、是モ元直段ニテ味噌モ人モ皆々外物ナリ、サレドモ酒ノ明クヲ肝要トスルユヘ、田樂ヲ大キク安クミセ、酒モ多クツギテ安ク賣ユヘ、當前ニハ荷商人中間小者馬士駕籠ノ者、船頭日傭乞食ノ類多クシテ、門前ニ賣物ヲ下シオキテ、酒ヲノム、コレニヨツテ野菜等ヲ求メント思フ人ハ、皆此豐島屋ガ見世先ヘ行ケバ、望ノ物アルユヘ、自ラ見世先人立多キユヘ、往來ノ人モ立寄、内ノテイヲ見テ繁昌ナリト沙汰ス、後々ハ樽賣或ハ五升三升ノ通(カヨヒ)樽ニテ求ニ來ル、寛保ノ比ヨリハ、大名ノ御用酒ヲモ被二仰付一、旗本衆小役人中ノ寄合ニモ必ズ豐島屋ノ樽ナキコトナシ、夫ユヘ糀町、四ツ谷、靑山、本郷邊、小石川、番町、小川町邊ノ屋敷ヨリ遠方ヲ苦ニモセズ、山ノ手向車力馬足ニテ積送ル所ノ酒屋ヨリハ、格別下直ニテシカモ酒ヨク、猶々評判ヲ得タリ、新堀新川ノ酒問屋ニテモ金廻リ惡敷問屋ハ、元直段ヲ引テモ豐島屋ヘ積送ルニ、何百駄ニテモカヘスコトナシ、問屋モ前金ヲ借リテ著船次第ニ、酒ヲコスベキナドヽ約束シテ、借用スル問屋モアリ、夏ニ至テ十日廿日ナラデ持マジキ酒ヲバ、皆々直段格別ニ引下ゲ、豐島屋ヘ送ルニ、一兩日ノ内ニハ飮盡ス、是ヨリ段々繁昌ス、其後近隣ニ此通ノ酒屋出タレドモ、手ゼマクシテ豐島屋ニ不レ及、是酒醬油カケ直ナシ安賣ノ元祖ナリ、
p.0756 賣酒郎(○○○) 賣酒郎は何れのところの人といふことをしらず、將その姓氏をも詳にせず、自稱して噲々といへり、あるひは彦四郎と通稱す、年三十歳ばかりにして、京師白河の西街に僑居し、書畫および篆刻を善くし、常に傭書をもてその母を養ふといへども、生計いと乏しく、賑贍することあたはず、こゝに於て自嘆じておもへらく、文雅はすなはち孝養に礙りあり、我はもと酒家の子なり、され ば酒を售りて産業とし、わが親を養ひ、且安逸ならしむるにはしかじといひて、やがて橐中の書畫をこと〴〵く散鬻して、陶器酒具を購ひ求むるに、猶舊癖依然として、その買ふところの器具、みな唐山舶來の品物のみ、ことに酒は洛市の美醞を備へたりしうへに、七重の絹もて七たび漉たれば、その味ひ淸芳にして烈ならず、醒意甚だ快く、かつて宿酲せず、かくて門簾に竹醉館の三大字を書し、外に招牌を掲げて、その面に、此肆下物、一則漢書、二則雙柑、三則黄鳥一聲としるしたり、かゝれば好事の年少つねに往て宴を催す、これによりて來賓たえず、されどもその價は、酒の多寡によりて贏利を貪らず、毎歳春の半にいたりては、櫻花の盛開にあたりて、日ごとに大樽酒器を荷擔ひて、東山に座を設け、嵐山の江畔に行鬻ぎ、また秋の末になりては、霜葉の紅に染る頃ほひ、東福精舎に席をひらき、臨川禪院のあたりに賣りありきつゝ、般若湯の三字をしるしたる酒旗を建たるを、遊人の認て、はじめはあやしみ、さては笑ふものもあり、されどもその酒の精好にめでゝ、後にはあらそひ就て飮めりとかや、ことに文人才子其風流を愛し、詩を賦し歌を詠じて、これに贈るもの多ければ、その詩歌をあつめて卷となし、賓客の觀に備へけるとぞ、
p.0757 (○)〈音慌、帘音簾、左加波太、今云酒林、〉 按 酒家望子也、望子即幟也、〈○中略〉近世倭所レ用望子多束二杉葉一爲レ之、形如レ鼓、凡酒性喜レ杉、用二杉材一作二酒桶一、投二杉柿於酒中一之類亦然也、不二自釀一而沽レ酒家則出二看板一爲レ幟、
p.0757 酒 酒屋の軒に杉の葉束ねたるをつることは、杉の葉を酒にひたす事あり、又木香といひて、よき杉木の根を削りたるを、酒の中に入るゝこともあり、又酒に用る器物みな杉にて造るものなれば、これらによりてかくする歟ともおもへど、猶よくおもふに、杉の葉を酒にひたすことは、味變りたるをなほさむとてすること也、又中品の酒は、六七月の比、遠方に運送するには、途中にて損ず る故に、木香をば入るゝ也、木香はよく酒の氣味を助けて、そこなはぬものなれど、上品の酒は變る事なければ、用るに及ばず、〈至て下品の酒には、番椒をも入るゝことあり、〉さればもとより秘すべきことなるを、いかで家のめじるしにおもひよりて付始むべき、又器物に杉を用るは、酢も醬油もおなじ、酒にのみ限れるにあらず、按ずるに崇神紀に、宇磨佐開濔和(ウマザケミワ)云々とあり、厚顏抄に、神に奉る酒をみわと云故に、味酒のみわとつゞけたりといへり、又三輪にしるしのすぎ、杉たてる門などよめる古歌多し、件の杉の葉はこれによりてうまき酒ありとのしるしにはしたるなるべし、舊説の大物主神の酒を造り給ひし故に、其神のます三輪山に味酒とはかむらせたり、かつ神酒と書て、美和とよむといへるに誤あることゞも、委しく冠辭考に解明せれど、此杉の葉の事などは、只よの常の説を用べし、又今神に奉るをのみみきといふと心得るも非也、御酒は貴人ならでも、御といふ、きは酒の古語也とぞ、みきに數説ありて、或は三季とし、あるひは三寸とすれ共、みなひがこと也、
p.0758 龍草廬、名公美、〈○中略〉伏見人仕一于彦根侯一、 草廬遊二嵯峨一、飮二賣酒舗一、酒舗主人、請二其書字一、乃書二一聯一曰、釀成春夏秋冬酒、醉倒東西南北人、主人大喜、乃懸二諸門上一、以爲二招望一云、蓋先レ是賣酒樓、未レ有下以二若レ此文字一、爲二招望一者上、其他娼樓肉舗茶肆麵店之類、出二橫匾一懸二柱聯一、皆草廬昉二於好事之所一レ致也、
p.0758 商賣ノ利ヲ貪ルコトヲ云フニ、譬ヘバ酒ハ米ト水トヲ以テ造ル物ナレバ、米價タツトキ時ハ酒價ヲモ貴クシ、米價賤シクナレバ酒價ヲモ賤クスベキ筈ナルニ、今ハ米價貴クナレバ頻ニ酒價ヲ貴クシ、米價賤クナレバ米價貴キ時ニ造レル酒也ト云テ、急ニハ價ヲ減ゼズ、諸物皆此類也、種々ニ假託シテ、トモスレバ價ヲ增テ、一度增タル價ヲ輙クハ減ゼズ、
p.0758 一國司上御使入部之時雜事注文事〈元弘三十二月十九日〉 合〈○中略〉 一淸酒貮斗五升〈朝夕分〉 酒直五百文〈百文別五升宛〉 一白酒七斗貮升〈朝夕分〉 同直物四百三十二文〈○中略〉 此外細々折敷瓦氣以下、雜用事雖レ在レ之不レ及二注進之一、 建武元年三月七日 上御使則宗〈花押〉 御代官〈花押〉
p.0759 南都般若寺の古牒に、慶長七年三月十三日、厨事下行米三石六斗、〈代七貫二百卅二文〉上酒壹斗、〈代二百十八文〉下酒二斗三升、〈代二百三十七文〉ミリン酒三升、〈代百九十五文〉とあり、三石六斗の代、七貫二百卅二文は一石二貫八文の交易なり、〈米一升廿文餘に當る〉上酒一斗二百十八文は米一斗八合餘の代なり、今は米より酒價倍せり、酒好故としらる、
p.0759 水藩の檜山氏が慶安五〈辰〉年四月十五日より同廿二日まで〈慶安五年より天保元寅年まで七十九年ニ成ル〉水府の御宮別當なる東叡山中吉祥院が江戸より水戸〈江〉下りたりし時分の賄料請取品直段書付〈井〉入用をしるしたるものを見せたるが、其直段の下直なる事おどろく計也、〈○中略〉 一酒五升 〈壹升ニ付〉代四拾文〈○中略〉 一酒のかす 壹升 代貮拾文〈○中略〉 またある人の持てるふるき引札を見るに、左之通 〈げんきん御めじるし〉 酒酢醬油直段附 〈鍛冶橋御門前南角〉小島屋嘉兵衞 新諸白壹升ニ付 一大坂上酒 代四拾貮文 一西宮上酒 同五拾貮文 一西宮極上酒 同六拾四文 一伊丹上酒 同八拾文 一山路木綿屋 同九拾文〈○中略〉 古酒壹升ニ付 一大坂上酒 代六拾四文 一西宮上酒 同七拾貮文 一伊丹西宮上酒 同八拾文 一池田極上酒 同百文 一大極上酒 同百拾六文 一大極上々酒 同百三拾貮文〈○中略〉 この引札年號なし、いつのころに哉とおもふに、前に記しぬる吉祥院の水戸〈江〉下りし時の、諸色の直段のうちに、酒壹升四拾文とあり、爰にもまた同四拾貮文とあれば、右同時代と知られたり、さらば慶安年中の引札なるべし、
p.0760 御藥酒直段 山川酒代五匁 五味酒同 白ざけ二匁五分 甘口 延命酒七匁五分 桑酒同 むめ酒七匁 保命酒七匁五分 くこ酒同 みかん酒同 かや酒同 松井酒同 龍眼酒十匁 梅花酒七匁五分 菊花酒同 紫そ酒同 萬歳酒十匁 中から口 忍冬酒九匁 丁子酒七匁五分 ぶどう酒八匁 肉桂酒五匁 さとふ粟もり十五匁極から口 しやうちう七匁五分 あわもり十二匁 生諸白二匁 角田川三匁 龍田川同 さくら川同 末ひろ同 田村川同 松枝同 養老五匁 羽衣三匁五分 薄衣同 鶴の井三匁 杉の井同 玉の井同 九年酒七匁五分 みたらし麥酒五匁 吉の川三匁 この花同 相生酒同 しらぎく同 千代世同 滿願寺同 薄もみぢ酒同 あられ酒五匁 三年酒同 雨雪酒四匁五分 白梅九重五匁 壹升入桐箱眞田紐付代一匁八分 五合入箱一匁三分 次備前一升入とくり六分 次五合入四分 次三合入三分 白木繩まき樽御望次第 南都出店 〈江戸本町一丁目〉龍田川小三郎
p.0761 酒賣場 〈名酒〉大國酒〈一升ニ付〉代三百卅二文 〈名酒〉布袋酒 〈同〉 代三百文 〈名酒〉明の鶴 〈同〉 代二百六十文 〈琉球〉砂糖酒〈同〉 代廿匁 〈御藥〉麥酒 〈同〉 代三匁 〈名酒〉末廣酒 〈同〉 代三百五十文 〈尾州〉藤袴 〈同〉 代十二匁 〈薩州〉燒酎 〈同〉 代五百文 〈名酒〉稻の露 〈同〉 代二百五十文 〈名酒〉羽衣酒〈同〉 代四百文 〈御酒〉忍冬酒 〈同〉 代六匁 〈御藥〉梅酒 〈同〉 代八匁 〈名酒〉九年酒〈同〉 代十匁 〈名酒〉萬歳酒 〈同〉 代三匁 〈地黄〉保命酒 〈同〉 代五匁 〈砂糖〉あわもり〈同〉代廿匁 〈名酒〉富士颪 〈同〉 代二百文 〈名酒〉蓬萊酒 〈同〉 代三百五十文 〈御結納〉黑酒 〈同〉代三匁五分 〈御藥〉櫁柑酒 〈同〉 代五匁 〈名酒〉旭鶴 〈同〉 代二百廿四匁 〈名酒〉隅田川 〈同〉代三匁 〈砂糖〉古味淋 〈同〉 代四百文 〈砂糖〉せうちう〈同〉 代十匁 〈名酒〉不老酒 〈同〉代四匁 〈名酒〉養老酒 〈同〉 代七匁五分〈御藥〉肉桂酒 〈同〉 代六匁 〈御藥〉淫羊霍 〈同〉代五匁 〈名酒〉瀧水 〈同〉 代三百文 〈名酒〉七年酒 〈同〉 代五匁 〈御酒〉葡萄酒 〈同〉代七匁五分 〈御藥〉桑酒 〈同〉 代五匁 〈名酒〉高砂 〈同〉 代百八十文 〈薩州〉あはもり〈同〉代金百疋 〈薩州〉あくね 〈同〉 代八百文 〈名酒〉中汲〈九月より正月まで〉 〈極製〉山川白酒〈十二月下旬より三月節句まで〉 御進物〈繩卷樽備前德利〉品々 〈名酒爲弘〉樽割壹升ニ付〈上酒代百六十四文上味啉代二百文○中略〉 本店 〈御藏前猿屋町角〉常陸屋權兵衞
p.0762 歌仙の名酒 家傳三十六酒一升ニ付直段附 泡盛還生酒〈一升〉代十二匁 人參葡萄酒 代同 神仙茴香酒 代同 九花甘露酒 代同 素白薯蕷酒 代同 地黄保命酒 代同 竹力酒 代十匁 梅酒 代同 丁子酒 代同 菊酒 代同 喜撰酒 代同 橘酒 代同 肉桂酒 代九匁 仙齡酒 代同 桃酒 代同 枸杞酒 代同 桑酒 代同 砂糖泡盛 代同 葱冬酒〈一升〉 代八匁 虎溪酒 代同 紫蘇酒 代同 達摩酒 代同 獨活酒 代同 春風酒 代同 凉風酒 代七匁 柚園酒 代同 雲雀酒 代同 山吹酒 代同 松露酒 代同 冥加酒 代同 養老酒 代六匁 覆盆子酒 代同 椎果酒 代同 防風酒 代同 豆淋酒 代同 六年酒 代同〈○中略〉 〈江戸本町二丁目北側中程〉廣瀨忠兵衞
p.0762 酒酢醬油直段書上 一極上酒 貮拾樽ニ付金貮拾兩 〈壹樽ニ付金壹兩、三〈ツ〉割代金壹分ト五匁、壹升ニ付代貮百三十六文、引下〈ゲ〉代貮百廿八文、壹合ニ付代貮拾四文引下〈ゲ〉貮拾三文、〉一上酒 同金十六兩貮分 〈壹樽ニ付金三分ト四匁五分、三ツ割代金壹分ト壹匁五分、一升ニ付代百八拾壹文、引下ゲ代百七拾六文、一合ニ付代拾八文、引下ゲ拾七文、〉 一中酒 同金拾三兩貮分 〈壹樽ニ付金貮分ト拾匁五分、三ツ割代金貮朱ト六匁、壹升ニ付代百四拾八文、引下代百四拾五文、壹合ニ付代拾五文、引下ゲ代拾四文、〉 一下酒 同金拾壹兩壹分 〈壹樽ニ付金貮分三匁七分五厘、三ツ割代銀拾壹匁貮分五厘、壹升ニ付代百貮拾四文、引下ゲ代百拾九文、壹合ニ付代拾貮文、引下ゲ代拾壹文、○中略〉 右者此度錢相場御定被二仰渡一御座候ニ付、右釣合を以、右之通直段引下ゲ賣買爲レ仕度奉レ存候間、此段申上候、以上、 〈寅〉八月十二日 〈七番組南茅場町〉名主 甚七印 〈靈岸島濱町〉同 太一郎印 〈南新堀町〉同 平兵衞印
p.0763 酒當時小賣直段書上 一酒上壹合ニ付代錢五拾貮文、中壹合ニ付代錢四拾八文、下壹合ニ付代錢四拾文、 右之通當時小賣直段奉二申上一候、以上、 〈子〉六月〈○元治元年〉 深川材木町 〈五人組持地借〉長八印
p.0763 濁り酒 西國にて酒の賣買、壹升二升とはいはず、壹はい二はいとて賣る事なり、其一はいと云もの、大抵四合二三勺ばかりなり、球 郡などは酒下直にして、壹坏の價錢八九文より、十二三文程なり、此所は格別下直の地也、薩摩は餘ほど高直なり、壹はい二はいの名は琉球までも皆斯のごとしとなり、
p.0763 酒に付て式法の事 一せんぢやうへの酌の事、てう〳〵二度して扨つぐべし、大將に大指のさきをむけべからず、酌取人もか用の人もしらざる事を嫌也、〈○中略〉 一酌に上かい下かいと云事、右の手を先へ左を跡にして、銚子の柄を執べし、左の大指を右の手の下に成やうに取べし、上へなる樣にとれば、さか手に見えてわろし、心得べし、銚子のぎぼうし に、大指を懸るはわろし、ぎぼうしのきわせめの有まはりをば、上手にて取べし、 一客人酌などさめるゝ事有ば、つぎ酒の提をも其供の人に渡べし、又よ所へ主人の供に行て、其座につらなりて、主人酌めさるゝ事あらば、提を所望して持て畏べし、主人の酌など御取りあるをよそに見ること有べからず、是は人のひくわんの身にかぎらず、兄酌をとらば弟提を取て其躾を、ふるまふべきなり、〈○中略〉 一兒女房男の酒うくる事、兒女房は下へさげべし、男は盞をあげべし、是は酌取は盞をさぐるにおしてもらぬ事也、出家も侍もおしてもる事、ひけふぶしつけ也、
p.0764 公私御かよひの事 一酌取やう、先ひもを能おさむべし、すはうと小袖との間へ可レ入、扇をぬきてをき、鼻紙あせのごひをば、出ぬやうにをし入べし、さて銚子を諸手に、ちと先上りに持て可レ出、かた手には不レ可レ持、先座敷の末に可レ畏、かしこまり樣は、右のひざを立、左のひざをつきて、きびすを尻にあてゝ敷べし、久ければひざをたてかへ候、又もろひざをつきても畏候、ながえの取やう、みじかく取たるは見にくし、ながきは又尾籠に見え候、ながえの中程のかつらの上に、右の手の大指をかけ、左手を折めにかけて、持たるが見よく候由申候、又或説に、祝の時ながえのほしを取かくさずと云いかゞ、〈○中略〉 一盃に酒を入候樣、盃持たる人に、さのみきほひかゝりたるも惡候、又をよびさまに入候もわろし、能程にはからはるべし、盃の上をたかく入候事不レ可レ然候、殊に痛み入候人などには、心得て入らるべし、をさへて入るは尾籠なり、盃持たる人も、さのみあげひきはせらるまじく候、又銚子の口を盃に不レ可レ付、酒を盃に入ては、ちとしざりて可レ畏候、又貴人の御持候盃に酒を入候時は、酌の人ちと我身をしづむる心にて、銚子のさきをあげて入候心有べし、是敬義也、乍レ去こと〴〵敷人 の目にたつやうには不レ可レ有候、又亂酒に成りてつまりたる人などには、うへを心えて可レ被レ入、左樣の心得なき人は、いにしへより故實なき人と申候也、又酒の下をすて候事は、返々不レ可レ然、殊に貴人の御前にては、らうぜきしごくの事也、又貴人下樣へ御酌の時、銚子の柄をながく取て御入候也、人によりてかた手にてもいれられ候、〈○中略〉 一御酌の人、盃色代之時、盃をばちと高く、銚子をば少ひきく、引入て持べし、〈○中略〉 一まはり酌の事、殊なる事なし、人に盃をさして酌を取べし、
p.0765 酒のむさほふ三度三獻の事 ひと杯の酒のむを一度といひ、三度のむを一獻といひき、なみゐたる座にてさかづきを一たびめぐらしのむをば一巡といへり、さてものゝ儀式に、うるはしくのむは三度と三獻とにぞありける、西宮記一の卷に、藥子嘗レ之、次供御第三度と見え、大鏡六の卷に、御加茂詣の日は、社頭にて三度の御かはらけ、空にてまゐらするわざなるを、その御時には禰宜神主も心えて、大かはらけをぞまゐらせしに云々とあるなどを見れば、三度は酒のむさほふになん、西宮記一の卷、臣下大饗のくだりには、三獻間客人不二動座一、四獻以後諸卿起レ座獻レ盃と見えて、三獻もうるはしく酒のむさほふにぞありける、又同記五の卷、定考のくだりに、三獻後居二粉熟飯一、數巡後居二餅餤一と見え、北山抄一の卷、二宮大饗のくだりには、三獻後有二音樂一、數巡之後云々とあるをみれば、三獻うるはしくのみをはりてのち、度々さかづきめぐらすこともありしなり、されどこれも大かたのさだまりはありとしられつ、北山抄に、節會酒巡不レ過二七許巡一、而今日及二十一巡一、王公唱歌擊レ笏、公宴酒興延長云云と見えたり、酒といふもののめばうれひをわすれ、くすりとなるをはじめとして、まじらひのむすびにもよろしく、何くれとよきことおほかるものなれど、ゑひすぎてはあやまちもしいで、身の病ともなれば、三度三獻とかぎりたるさほうありしはうべなりけり、酒のみかは、すべてよ しとおもふことも、すぎてはあしきことゝなるぞおほかる、胡盧山といへるから人の、酒飮二微醉一、花看二半開一といひしは、げにさることぞかし、
p.0766 酒に付て式法の事 一梅の花の盃(○○○○○)をのむ樣、左の方よりのみ初めて、下を中なる盞に入て、其盞を本の所に置て、皆順にのむべし、さて後は中成を呑む也、みつ星(○○○)も左より呑なり、 一主人貴人などの御前にて、中のみ(○○○)をせよと仰候時は、罷出て片膝を立て出て、いたゞかずして左の手をつきて、右の手にて盃を執て呑てしざる也、相構て少も下をせざる物也、〈○中略〉 一あふむ返しの盞(○○○○○○○)の事、是は七返まではすべし、八返はせず、但れうじに指べからず、總じて我がぬしにあらずんば、斟酌すべき也、
p.0766 大酒の時の事〈同殿中一獻の事〉 一公私共に召出に參る人の身體、酒ののみやう以下、にこ〳〵となきは惡よし、金仙寺〈○伊勢貞宗〉いつも被レ申候て、若き人には稽古させられ候し、〈○中略〉 一盃の臺にすはりたる盃の事、貴人の御盃ならば、いくつもあれ一ツヾ戴きてのむべし、臺ともに戴くと申人候へ共、それはわろきよし、金仙寺の給ひ候ひし、〈○中略〉 一三ぼし(○○○)、五ぼし(○○○)ののみやう如レ此といふ、但金仙寺にも、故勢州にも尋候はず候、 前 書付のごとくのむべし 同前 一十度のみとは、縱ば十人丸く居て、盃を十中に置て、先壹人盃と、てうしを取てはじめさせ申し、さて次の人にさして、其人にてうしを可レ渡、扨又次の人のみて、前のごとくすべし、まはり酌也、盃を請取てから、銚子を人に渡し候迄、物をもいはず、肴をもくはず、口をものごふべからず、若さやうの事あれば、とがおとしをのませらるゝ也、盃は人の器用によりて、三ど入白土器などにても侍る也、あひの物などにては、見をよび候はず候つる、とがおとしの盃はあひの物五ど入などにて候し、又十度のみの盃には、酒の入候程墨を付候、 一鶯呑(○○)とは、兩人出て十はいとくのみたるを勝と申候、盃不レ定候、
p.0767 一三星(○○)拵之事、星の臺を我前へ酌持てこへられたる時、禮儀いつものごとく、自然先はじめ候へば、左右を見合て、三星の中の盃を取おろし、我左の盃をとりて、三ぼしの臺の上にて酒をうけ候、そばにて酒を請てのみて、盃の下をば右の方の盃に入て、其盃をば臺の上以前の所に置て、又右の盃を取て酒をうけてのみて、盃の下をば臺の下におろしたる盃に入て、又臺盃をば以前の所にをきて、又とりおろしたる盃に酒を請て、恐惶の人には酒をたべて、貴人の御前に盃を持て參り、いたゞきて手渡しに申也、臺の盃二ツは、酌取候人持てまいられ候、 一三ツぼし等輩よりさゝれたる時は、中の盃をいたゞきて、左の盃にかさねて、酒をうけてかさねながら下に置て少のみ、下の盃にうつし、上の盃をば臺のそばにをきて、うつしたる酒を又のみかけて、右の方の盃にうつし、先の盃をばほしの上に、已前の所に置て、又右の盃の酒をのみて、其盃又以前の處にをく、其後におろしたる盃をいたゞき、中にをきて人にさし候、恐惶の人には已前のやうに持參してよし、等輩には臺の上にすへてさし候、此分は下戸の仕合に候、上戸たりとも、先此分に仕候て、人によりしいられ候へば、又三ぼしにて一ツづゝ三ツたべ候時は、最前の仕合たるべく候、又盃をはじめ候とき、人よりおさへ物給候時は、我右の方の盃をたべ候時、はさ み物あるべく候、其時は酒をうけて臺の下に置て、はさみ物をうけとりいたゞき、集養して御酒をたべ候、又等輩よりさゝれたる時は、中の盃を請てたべて、我左の盃をたべ候時、はさみ物あるべく候、其時も盃の臺のそばに置て、はさみ物をいたゞき、たべて御酒をたべ候、 一五ツ梅(○○○)の拵の事、自然はじめさせられ候へば、禮義いつものごとく、扨五ツの中の盃を取おろし、臺のそばに置て、さて我左の方のはしの盃を、その方の内の盃にかさねて酒をうけ、かさねながら酒をのみかけて、下の盃に入て、上の盃を又下にかさねて、皆酒をのみかさねながら、臺のはしにをきて、又右の方のはしの盃を取て、其方の内の盃にかさねて、酒をうけて是ものみかけて、又下の盃に入て、上の盃をば下にかさねて、入たる酒を皆のみて、かさねながら臺の右の方のはしにをきて、先の中の盃をばのまずして、臺にすへて人にさし候時、兩方かさねたる盃を、左右の手にて取て、前のごとく五ツ梅の上にならべてをき候時、中の盃を頻に人よりたべよと申され候とも、しんしやく申候てさし候へば、其時人nanはさみ物にても、おさへ物にてもあれ、いだされ候時、取ていたゞき、くい候共、懷中候共、時宜によるべく候、又中の盃を取て、其時たべ候、しゐられ候へば、時宜よき程たべ候て、恐惶の人ならば、臺は酌取候人持て參られ候、其盃一ツ我持參申す也、等輩ならば中の盃はのみて、いたゞきて臺に置て遣す也、
p.0768 間(カン/○)〈酒〉
p.0768 かん 酒をかんするといふは、温むるをいふ、かもするに同じ、或は間字を用るは、白氏文集に、林間煖レ酒燒二紅葉一といへるに据にや、
p.0768 酒并茶ナドノアツキヌルキヲカント云、何ノ字ゾ、間字ヲ用、寒温間ヲ能程ニスルナルベシ、或ハ寒ヲ書、或ハ酣ヲ書ク、酣ヲバタケナハトヨム、盛ナル貌也、誠ニカンワロクシテ无興ナラバ、酣ナルベカラザル歟、然共茶并湯カンニハ通ジ難シ、仍間ノ字ヲ勝レタリトス、
p.0769 一御酒のかんは、九月九日nan明年の三月二日迄たるべし、上巳より寒酒也、桃花を酒に入候て用る也、又九月九日には菊花を酒に入る也、燖したる酒をかんの御酒と申候、ひやざけをかんしゆと申候也、
p.0769 新嘗會直相日雜器 瓫四口、〈盛二參議已上白貴黑貴酒一、并煖レ酒器、〉炭一斛、〈五位已上煖レ酒料、受レ直買用、○中略〉 供奉料〈中宮亦同○中略〉 凡〈○中略〉煖二御酒一料炭日一斗、申二内侍司一受二主殿寮一、
p.0769 侍從所 巽角庇地火爐〈有二盃酌一之時、於レ此温レ酒云々、〉
p.0769 供二御藥一〈正月元二三〉 主殿寮設二火爐一〈暖二御酒一料〉造酒司渡二御酒一、〈或用二銀鎗子一煖レ酒云云〉
p.0769 紅葉の事 此君〈○近衞〉は、いまだよう主の御時より、せいをにうわにうけさせおはします、去ぬるせうあんのころほひは、御とし十さいばかりにもやならせおはしましけん、あまりにこうえうをあひせさせ給ひて、北のぢんに小山をつかせ、はぢかいでの、誠に色をうつくしうもみぢたるをうゑさせ、もみぢの山となづけて、ひねもすにゑいらん有に、猶あきたらせ給はず、然るを有夜、野わきはしたなうふきて、こうえう皆ふきちらし、らくえうすこぶるらうぜき也、殿もりのともの宮づこ、あさきよめすとて、是をこと〴〵くはきすてゝけり、のこれるえだちれる木のはをばかきあつめて、風すさまじかりけるあしたなれば、ぬいどののぢんにて、さけあたゝめてたべける、たきゞにこそしてけれ、〈○中略〉主上いとゞしく、夜るのおとゞを出させもあへず、かしこへ行かう成て、もみ ぢをゑいらん有に、なかりければ、いかにと御たづね有けり、藏人なにとそうすべきむねもなし有のまゝにそうもんす、てんきことに御心よげにうちゑませ給ひて、林間に酒をあたゝめてこうえうをたくといふ詩の心をば、さればそれらにはたがをしへけるぞや、やさしうもつかまつたる物かなとて、かへつてゑいかんにあづかりしうへは、あへてちよつかんなかりけり、
p.0770 七言、初冬於二左親衞藤亞相亭一、同賦二煖レ寒飮一レ酒、〈以レ盃爲レ韻、并序、○序略〉 煖レ寒皆導レ酒爲レ媒、燕飮不レ知幾許盃、蘸レ甲自然消二日月一、開レ眉何必在二爐灰一、醉中暖露折レ籌識、暦外春風隨レ戸催、汝號レ忘レ憂吾未レ信、豈圖吾載歴二霜臺一、
p.0770 酒の間は、銅壺歟茶釜にても湯煎にすべし、必直問にすべからず、
p.0770 神君〈○德川家康〉遠州諸所御巡見ノ時、武田信玄是ヲ知リテ、俄ニ出陣シテ追討事甚急也、此時見附番ノ上村淸兵衞ト云者、吾居宅并ニ宿内ヘ三ケ所一度ニ火ヲ付ケ燒立テ、武田勢ノ進來ル前路ヲ塞グ、〈○中略〉神君其日ノ淸兵衞ガ働キヲ賞シ給ヒ、御指料ノ御刀ヲ御手ヅカラ賜ル、其後カノ邊ヘ御出馬ノ度毎、淸兵衞ガ居宅ヘ御立寄有リ、淸兵衞酒好ナレバ、常ニ酒ヲ造リ置シカバ、其酒ヲ神君ヘモ御供ノ人々ヘモ進ラセケル、此淸兵衞酒好キナレド、簡ヲシタル酒ハ呑マデ、冷酒(○○)ニテ呑ム、或時神君御戯レニ、冷酒淸兵衞ト呼ビ給フ、夫ヨリ國中ノ者、皆冷酒淸兵衞ト云テ、新參ノ者ハ冷酒ト云姓也ト思フモ有シト也、
p.0770 上戸(ジヤウコ)〈江次第、文選註、白文集註、以二飮食多者一爲二大戸一、小者爲二小戸一、〉
p.0770 上戸下戸 酒をよくのむ人を上戸といひ、えのまぬを下戸といふは、いにしへ百姓の戸口をいふに、その口の多少によりて、上戸中戸下戸といふことのありしかば、酒のむことの多少を、それになぞらへていへるになん、戸口のことは、日本書紀持統天皇の卷に、大臣よりつぎ〳〵宅地をたまふこと をいへるくだりに、至二無位一隨二其戸口一、其上戸一町、中戸半町、下戸四分之一とあるを見てしるべし、
p.0771 飮酒上戸下戸、唐宋小説中、有二大戸小戸之稱一、蓋是三國以來之言歟、呉孫皓饗宴、人以二七升一爲レ限、小戸雖レ不レ入、並燒灌取盡、自レ此以前無レ所レ見焉、今謂戸者室之口、而所レ入也、故取二乎入レ口之多少一、以謂二大戸一耳、我方轉二大小一以言二上下一歟、
p.0771 一人の男は造酒正糟屋朝臣長持とて、酒を飮ける大上戸(○○○)なり、ひとりの僧は飯室律師好飯とて、小づけをこのむ最下戸(○○○)なり、ひとりのをのこは中左衞門大夫中原仲成とて、酒も小づけもこのむ中戸(○○)なり、
p.0771 供二御藥一 晦日、藏人定二後取一押二於殿上北壁角柱一、〈西第一間柱也〉 後取 〈元日某朝臣〉 〈廣一寸八分高一寸六分、元日四位、二日五位、三日六位、並用二高戸者一(○○○)、近代不二必然一、但元日不レ差二近衞次將一、〉 〈二日某〉 〈三日某〉
p.0771 供二御藥一 同日〈○元日〉 女官にかへし給へば、是を後取の人にのましむ、昔は上戸(○○)を撰て後取にめしけるとかや、
p.0771 諸使事 賜二苽侍從所一使〈殿上五位六位高戸者(○○○)〉 摘二大歌所辛荑一使〈藏人所高戸〉
p.0771 承和十一年九月丙寅、近江權守從四位下藤原朝臣貞主卒、〈○中略〉立性温慧、莅レ政幹 淆、雖二案牘成レ堆、庶務猥積一、而飮酒之興、不二曾休廢一、醉後彌明、割斷如レ流、故吏民不二敢斯一レ之、
p.0772 太政大臣爲光のおとゞ〈○中略〉男君太郎は、左衞門督さねのぶときこえさせし、〈○中略〉いみじき上ご(○○)にてぞおはせし、この關白殿〈○藤原賴通〉のひととせの臨時客に、あまりゑひて御座にゐながらたちもあへ給はで、ものつき給へるにこそ、かう名のもろたかがかきたる樂府の御屏風に、かゝりてそこなはれたれ、
p.0772 このおとゞ、これ東三條おとゞ〈○藤原兼家〉の一男なり、御母は女院の同腹也、關白になりさかへ給ひて、六年ばかりやおはしましけん、大疫癘の年にてうせさせ給へしが、されどもそのやまひにはあらで、御みきのみだれさせ給ひにしなり、おのこは上戸(○○)ひとつの興の事にすれど、過ぬるはいと不便なるおりはべりや、祭のかへさ御らんずとて、小一條大將〈○藤原濟時〉閑院大將〈○藤原朝光〉と一御車にて、紫野に出させたまひぬ、鳥のついゐたるかたをかめにつくらせ給ひて、興あるものにおぼして、ともすればおほみきいれてめす、今日もそれにてまいらする、もてはやさせ給ふほどに、あまりやう〳〵すぎさせ給ひて後は、御車のしりくちのすだれみなあげて、三所ながら御もとゞりはなちておはしましけるは、いとゞ見ぐるしかりけりな、おほかたこの大將殿達のまいり給へる、尋常にて出給ふをば、いとほいなく口おしき事におぼしめしたりけり、ものもおぼえず御裝束もひきみだりて、御車さしよせつゝ、人にかゝりて乘給ふをそ、いと興ある事にせさせ給ひける、但この醉のほどよりはとくさむることをぞせさせ給ひし、御賀茂詣日は、社頭にて三度の御かはらけ、空にてまいらするわざなるを、その御時には禰宜神主も心えて、大かはらけをぞまいらせしに、三度はさらなる事にて、七八度などめして、上社にまいり給ふ道にては、やがてのけ、ざまにしりのかたを御まくらにて、不覺におほとのごもりぬ、一の大納言にては、この御堂〈○藤原道長〉ぞおはしましゝかば、御らんずるに、夜に入ぬれば、御前の松のひかりにと ほりて、御すきかげのおはしまさぬは、あやしとおぼしめしけるに、まいりつかせ給ひて、御車かきおろしたれど、えしらせ給はず、いかにと思へど、御前どもゝえおどろかしまうさで、只さぶらふなめるに、入道殿おりさせ給へるに、さてあるべきことならねば、轅のとながらたかやかに、ややと御扇をならしなど、せさせ給へど、おどろきたまはねば、近くゐよりて表御袴のすそをあららかにひかせ給ふおりぞ、おどろかせ給ひて、さる御用意はならはせ給へれば、御櫛かうがいかくし給へりける、とりいでゝつくろひなどして、おりさせ給ひけるに、跡さりげなくきよげにおはしましければ、さばかり醉なん人の、其夜はおきあがるべきかは、それぞこの殿の御上戸はよくおはしましける、その御心のなををはりまでも、わすれ給はざりけるにや、御病付てうせ給ひける時、西にかきむかせたてまつりて、念佛申させ給へと、人々のすゝめたてまつりければ、濟時朝光などもや、極樂にはあらんずらんと、仰けるこそあはれなれ、
p.0773 右大將通房、臨時祭ノ舞人セラレケルニ、宇治殿ニテ拍子合アリケルニ、人々マイリアツマリテ、舞ノ師武方ニ纒頭セラレケリ、盃酌カサナリテ人皆醉ニケリ、播磨守行任朝臣ヲ殿上人ノ座ニメシテ、酒ノマセラレケルニ、オホキナル鉢ニテ、十盃ノミタリケリ、事ノ外ノ大飮トゾ人々云ケル、
p.0773 敦光朝臣愛レ酒之間、不斷置二酒於褻居棚一、或夜寢後、子息弟成光放二本鳥一裸形取レ之、爰長光連句ヲ云懸、其詞云、酒是正二衣裳一、成光無レ程云、盗則亂二禮儀一云々、父朝臣空寢之間聞レ之、不レ堪二感情一落涙云々、
p.0773 此ごろ世にひとりの居士あり、儒釋道によらず、其形自然にして、九重の中に年を送りしが、ちかきころほひ、つのくにゐなのゝわたりにいほりをむすびて夢と號し、みずから牡丹花をなとせり、みにおはぬやうにきこえ侍れど、萬物一體のことはりをおもふにや、つねのことぐさ に、はなをもてあそび、香を執し、さけをあいす、〈○中略〉さけはもろこし南蠻はあぢはひをこゝろみ、九州のねりぬき、加州の菊花、天野の出群なるをもとめ、薄と濁醪にいたるまで、一酌に千憂を散じ、あるひは春衣をおきぬひて醉をつくし、これを以て風寒をさけて、稀なる齡にもこえたり、〈○下略〉
p.0774 雪山先生〈○北村〉在二江戸一の間は、潔病甚しく萬の物を洗ひきよめたるに、長崎にかへりて後、十六年の間沐浴せず、爪きらず、半風子身にあまりたり、尤産を破りたるゆゑ、至て貧窮なり、然といへども崎人尊敬して、名いふ人なし、先生とのみ人々稱したり、酒價なき時は寫字をなして酒家につかはす、文字の數は、字幅の格好に隨て酒をおくりたり、雪山先生の書は、唐船に價を貴くゆゑに、酒家に利有りしとなり、唐にても雪山先生の書を褒稱したり、
p.0774 君修云、日本近來の學者、皆酒量あり、仁齋は其中下戸なり、東涯も上戸なり、闇齋、淺見重次郎も上戸なり、徂來は下戸、南郭、春臺も上戸なり、
p.0774 徠翁以二風流一自許、人亦與レ之、予謂二徠翁一有二不風流者三一焉、善飮而惡レ酒一也、不レ好二夜坐一二也、不レ喜レ乘レ舟三也、
p.0774 平玄中、字子和、小字源右衞門、號二金華一、〈○中略〉 金華好レ酒痛飮、徂徠送三其之二三河一序曰、子和飮レ酒傲睨、深慕二伯倫靑蓮之爲一レ人、紫芝園漫筆曰、何充善飮、劉惔常云、見二何次道飮一レ酒、使二人欲一レ傾二家釀一、予於二平子和一、亦云、南郭記レ墓曰、飮レ酒忼慨、時或激烈至二泣下一、
p.0774 内田頑石 頑石不レ欲二婚官一、人説二之婚一、則曰、一身之外、亦復何須、便有レ婦吾恐劉伶之見二捐レ酒毀一レ器矣、人説二之官一、則曰、山野之性、不レ愜元冠一、其眞率自放如レ此、 頑石性嗜レ酒、酣暢之餘、脱二遺世埃一、飮多益温、醉甚愈克、杯鐺盤壜、不レ去二坐側一、無レ朝無レ暮、常帶二酒臭一、〈○中略〉 頑石知命之後、酒量益甚、或諫以二其節一レ飮、則曰、糟邱數仭、是我崤函之險也、爲レ我固守者、持レ壺抱レ樽而來更不二與校一、自號二醉卿太守、或酣樂都督一、皆戯謔所レ表也、
p.0775 永富獨嘯庵、名鳳字朝陽號二獨嘯庵一、通稱昌安、後改二鳳介一、長門人、 嘯庵資性豪放、好爲二曠達自縱之行一、雄飮盡二斗酒一、其毎二沈醉一、遇二友人至一、不レ論三新知與二舊識一、必牽挽使レ飮、有二性不レ能レ勝レ飮者一必強レ之、至二其醉嘔一而已、
p.0775 山陽先生行状 日夕置二酒草堂一、必呼二門生一對飮、飮有レ限、限既盈、不レ過二一杯一、酒皆伊丹之釀、尤愛下號二劍菱一者上、酒醒、輙挑レ燈讀書、至二五更一而後就レ寢、
p.0775 太宰帥大伴卿讃酒歌十三首 験無(シルシナキ)、物乎不念者(モノヲオモハズハ)、一坏乃(ヒトツキノ)、濁酒乎(ニゴレルサケヲ)、可飮有良師(ノムベクアラシ)、 酒名乎(サケノナヲ)、聖跡負師(ヒジリトオヒシ)、古昔(イニシヘノ)、大聖之(オホキヒジリノ)、言乃宜左(コトノヨロシサ)、 古之(イニシヘノ)、七賢(ナヽノカシコキ)、人等毛(ヒトトラモ)、欲爲物者(ホリスルモノハ)、酒西有良師(サケニシアルラシ)、 賢跡(カシコシト)、物言從者(モノイフヨリハ)、酒飮而(サケノミテ)、醉哭爲師(エヒナキスルシ)、益有良之(マサリテアルラシ)、 將言爲便(イハムスベ)、將爲便不知(セムスベシラズ)、極(キハマリテ)、貴物者(カシコキモノハ)、酒西有良之(サケニシアルラシ)、 中々二(ナカナカニ)、人跡不有者(ヒトトアラズハ)、酒壺二(サカツボニ)、成而師鴨(ナリニテシカモ)、酒二染嘗(サケニシミナム)、 痛醜賢良乎爲跡(アナミニクサカシラヲスト)、酒不飮(サケノマヌ)、人乎熟見者(ヒトヲヨクミレバ)、猿二鴨似(サルニカモニル)、 價無(アタヒナキ)、寶跡言十方(タカラトイフトモ)、一坏乃(ヒトツキノ)、濁酒爾(ニゴレルサケニ)、豈益目八(アニマサラメヤ)、 夜光(ヨルヒカル)、玉跡言十方(タマトイフトモ)、酒醉而情乎遣爾(サケノミテコヽロヲヤルニ)、豈若目八目(アニシカメヤモ)、〈一云八方〉 世間之(ヨノナカノ)、遊道爾(アソビノミチニ)、冷者醉哭爲爾(サブシクバエヒナキスルニ)、可有良師(アリヌベカラシ)、 今代爾之(コノヨニシ)、樂有者(タノシクアラバ)、來生者(コムヨニハ)、蟲爾鳥爾毛(ムシニトリニモ)、吾羽成奈武(ワレハナリナム)、 生者(イケルヒト)、遂毛死(ツヒニモシヌル)、物爾有者(モノニアレバ)、今生在間者(コノヨナルマハ)、樂乎有名(タノシクヲアレナ)、 默然居而(タヾニイテ)、賢良爲者(サカシラスルハ)、飮酒而(サケノミテ)、醉泣爲爾(エヒナキスルニ)、尚不如來(ナホシカズケリ)、
p.0776 酒讃 孝言朝臣 米泉遺味、杜康濫觸、香含晩桂、釀落二秋桑一、眼界花發、肝家葉張、騰騰乘レ興、携入二醉鄕一、
p.0776 春晝 然、而四無二人聲一、唯花片染レ眼、鳥聲湍レ耳而已、當二此時一空谷有レ聲、二客跫然而來、一人者花間開レ筵而飮レ酒不レ喫レ茶、一人者松邊下レ榻而喫レ茶不レ飮レ酒、兩人相對、春遊移レ刻、問二其姓名一、花間開レ筵者曰、吾無二姓名一、自號二忘憂君一、松邊下レ榻者曰、自號二滌煩子一、於レ茲忘憂君謂二滌煩子一曰、此中不レ可レ容二俗談一、汝須レ論二茶德一、吾乃論二酒之德一、滌煩子曰、止止、不レ可レ論矣、汝酒何類二吾茶一、汝酒者世尊在世時、娑竭陀醉臥吐泣、衣鉢縱横、以二彼因縁一制二飮酒一、又一鬼問二目連一言、我頑無レ所レ知、何罪所レ致、答言、汝爲レ人時、強勸二人酒一、令二其顚倒一、又曰、酒有二三十六失一、人飮レ酒皆犯二三十六失一、故世尊深戒レ之、然而失二天下一亡レ身者酒也、忘憂君怒曰、汝饒舌如下鸚鵡叫二煎茶一不上レ恐レ人、汝纔知レ小而不レ知レ大、世尊曰、酒者甘露良藥、又波斯匿王末利夫人犯二飮酒一、世尊曰、如レ此犯戒得二大功德一、又曰、菩薩以レ酒施レ人、於レ佛無レ過、又四天王有二天漿一、名爲二花酒一、又阿修羅以二四大海一、爲レ酒、而飮レ之猶不レ足、阿修羅此翻云二無酒一、上自二四天王一、下至二阿修羅界一、悉用レ酒、如來藏中、酒之德惟夥、未レ聞レ有二茶德一、亦復六經不レ載レ茶、〈○中略〉忘憂君曰、吾酒者、第七祖婆須密、手執二酒器一、與二六祖彌遮迦一問答、婆須密從レ是得二大法器一、的的相承而至二今日一、又曇橘州者蜀英也、性器酒、諸方謂二之酒曇一、或芭蕉泉禪師以レ杖荷二大酒瓢一、往二來山中一、馬祖有二浮和尚一、黄檗有二 酒糟漢一、或曹山白家酒、猶未レ霑レ唇、靑峯蒲萄酒、飮者方知、且又晉陶醉酒漢常愛レ酒而無二一點俗一、繼呼爲二第一達磨一、抑又僧家號二般若湯一、專用レ之、汝前道失二天下一亡レ身者酒也、此事如何、滌煩子曰、桀紂兩王酣飮而果失二天下一、羲和二氏沈湎而竟亡二其身一、豈虚言乎哉、忘憂君曰、不レ然、昔堯帝累二千觴一、則其仁傳二萬古一、孔子傾二百盞一、則其德溢二四海一、儀狄作レ酒、禹王飮レ之、杜康造レ酒、武帝歌曰、何以解二我憂一、唯有二杜康酒一、高宗中二興殷一、夢以得二麴孽一也、又以レ淸爲レ聖、以レ濁爲二賢、則聖賢道亦 起レ自レ酒、又飯後飮謂二之中酒一、古經曰、不レ醉不レ醒、飮謂二之中一、由レ之觀レ之、中庸之道亦起レ自レ酒焉、又史記云、百藥長矣、酒哉酒、〈○中略〉滌煩子曰、汝如二猩猩之醉能言、狒弗之叨笑一レ人、吾雖レ不レ貴二禽獸一、隨二汝言一、若以二禽獸一論レ之、吾茶者有時成二鳳凰團一、有時作二璧龍團一、煎レ之以二麒麟炭一、皆是禽獸之長也、恁麼時節、水邊鳥向二何處一展レ翼若論二茶具一、金銀珠玉、銅鐵土石、作二茶具一、則其價不レ知二幾千萬一、好事者秘則爲二無上寶一、若得レ一時者、表二聲名天下一、汝酒具何直二半文錢一、忘憂君曰、吁汝陋如何、風流蘊藉、不レ可レ論レ價、夫盃有二金杯一、有二銀杯一、有二藥玉船一、豈非二重器一哉、且又宜二四時一者酒也、春者宴二桃李園一、坐レ花醉レ月、夏者酌二竹葉酒一、掃レ暑迎レ凉、秋者林間燒レ葉、冬者雪裏避レ寒、高適亦曰、飮レ酒勝レ飮レ茶、〈○中略〉忘憂君曰、酒星麗レ天、酒泉湧レ地、天地中間有レ人、無二不レ賞レ酒者一、晉有二七賢八達一、唐有二六逸八仙一、或漢家七十二人、桐馬之賜金谷二十四友、櫻花之觀、劉玄石一千日、淳于髠七八斗、元次山者隱二三吾一、漫稱二漫郎一、歐陽修者貯二一壺一、醉號二醉翁一、王績作二酒經一、劉伯倫作二酒德頌一、略曰、枕レ麴藉レ糟、無レ思無レ慮、其樂陶陶云云、大哉酒德、若論二酒之靈地一、有二魯趙齊革一矣、趙厚、魯薄、齊到レ臍、革止レ鬲、或有二上若下若二村一、有二烏程、烏祈、蒲城、桑落酒、蘭亭桃節宴一、此是酒美而地靈也、王侯將相者、以レ酒成二治國之策一、士農工商者、以レ酒得二慰勞之術一、鰥寡孤獨者、以レ酒作二掃レ愁箒一、盡乾坤一時變作二醉乾坤一、則汝輩無レ處措二手足一、蓋楚屈原大夫者、以二獨醒一被二放逐一、宋蘇大夫者、以レ不レ飮爲二不能一、此二人者、因レ酒減レ名者也、酒獨醒而不レ飮、則放逐徒耶不能徒耶、又元結以二不レ飮レ酒者一爲二惡客一、則汝又惡客也、〈○中略〉傍有二一閑人一、出云、今天下無レ虞、國家有レ道、好箇時節、兩翁雖レ論、可レ謂二無レ事生一レ事、以二虚空一爲レ口、以二須彌一爲レ舌、論而至二阿僧祗劫一、酒之德以不レ可レ盡、茶之德以不レ可レ極、吾能飮レ酒、又能喫レ茶、此二物、孰勝孰負乎哉、兩翁請聽二吾歌一、曰、 松上雲閑花上霞 翁翁相對鬭二豪奢一 吾言天下兩尤物 酒亦酒哉茶亦茶
p.0777 造酒正長持申樣 酒のいみじき事はみな、むかしも今も事ふりぬ、さけをこのみてのむ人は、むかしは封戸もましましき、後の世までもかはらけに、ならんとちかひし人もあり、竹を愛せし樂天も、酒をのめとぞ 詩につくる、別をおしみし詩の序にも、三百盃とぞすゝめける、桃李の花の盛には天さへゑへるけしきなり、花のもとにてすゝめける、樽のまへなる春のかぜ、林間に酒をあたゝめて、紅葉をたくもいとやさし、千とせの春のはじめには、屠蘇白散をのみぬれば、よろづの壽命をふくみつゝ一里の中にはやまひなし、すべて酒をば百藥の、長とぞいしもさだめける、されば萬の祝にも、酒をもちてぞ先とする、元服わたまし詩歌の會、むことりよめ取いまゝいり、勝負のざしきにいたるまで、酒のなくてはいかゞせむ、中にも曲水重陽の、えんくわいことにおもしろし、あるひはうかぶる鸚鵡盃、あるひはながれのらんしやうも、みなさか月のゆへぞかし、世繼のおきなのことばにも、光さしそふ盃は、もちながらこそ世をばふれ、源氏のおとこになりしにも、みきとぞ是をすゝめける、さ衣の大將二の宮に、さかづきそへてたてまつる、なりひら人をつゝみしにも、うちよりさかづきいだしつゝ、わたれどぬれぬとかきつけて、ちの涙をぞながしける、さればこの世のゑいぐわには、酒に過たる物ぞなき、糸竹くわげんやさしきも、酒もりにこそ興はあれ、雪月花をながめても、酒のなきには興もなし、されば天神地祗までも、さけを供ずることぞかし、人にちか付德も、有、我身をたつる功もあり、心をのぶる道もあり、いくらの美物ありとても、氣味とゝのふるれうりまで、酒をはなれてかひもなし、下戸のまれ人得たるこそ、ことばも心もなかりけれ、ゑしやくなげなるそらわらひ、實法びたるかほつきは、くるひあはんとふるまへど、はがみてこそは見えわたれ、ゑひぬる後はさるねふり、たま〳〵のみてはひたるがる、かほづえつきてひざをたて、あるにもあらぬけしきかな、さて又すへたるさかなこそ、みぐるしきまでうせにけれ、上戸のくはぬおろしさへ、人めはかりてしのばかす、あはれ上戸のすき物は、たかきいやしきひざをくみ、そのさか月を取かはし、三度も五度も過ぬれば、あはひこぶかき大ちやわん、くろぬり白ぬりあかうるし、わたとつくりの大がうし(合子)、おもひ〳〵にはじめつゝ、しめのみあれのみ一口の み、はつ春はまづにほふなる、梅の花のみいとやさし、秋もさがのゝ草かれて、露なしうちふり一文字、げうだう(凝濁)なしのふりかつぎ、そばざしひらざしちがへざし、ゑひす(數)かけとのおもひざし、送り肴の色々に、をき物やりもの引出物、くわんげん亂舞白拍子、たちまひゐまひあづま舞、いまやうこ柳しぼりはぎ、神樂さいばらそのこまと、さるがく物まねいろ〳〵に、こは(聲)わざほねわざ力わざ、つくさぬ事こそなかりけれ、いかなるなげきのある時も、心ぐるしきおりふしも、よろづわすれて心やる、さかもりこそはめでたけれ、まして祝のある時は、賀酒とてさけをまづぞのむ、上戸は酒にまとひつゝ、世さまわびしと申せども、生れつきたるひんふくは、下戸のたてたる藏もなし、夏六月のあつきにも、しも月しはすのさむきにも、にはかにあだはらやむ時も、酒をのみてぞなをしける、たとひ失錯したれども、酒のゑひとてゆるされぬ、もとより我らは凡夫にて、無明の酒にゑひしより、さむるうつゝもえぞしらぬ、かゝるざいあく生死には、中々魚鳥さかなにて、酒をのみたるくちにても、みだの名號となふれば、不論不淨とすてられず、不問破戒ときらはれず、光明遍照十方の、光にいる事うたがはず、南無阿彌陀佛々々々々々々、 長持か新酒も古酒もゑひぬればねぶつ宗をぞ深く賴める 飯室律師好飯申樣 上戸の德をあらはして、下戸をわろしとそしれ共、飮とのまぬとくらぶれば、上戸のとかぞつもりぬる、先は佛のみのりにも、五かいの中にて不沽酒戒、さけをばうらずのみもせず、いづれの内外典籍に、酒をのめとはをしへける、〈○中略〉さても上戸の御れうをば、くはでもやまぬ物ゆへぞ、おほくの米穀くさらかし、さけにつくるぞついえなる、〈○中略〉扨又ゑひのさめがたに、有し事どもはづかしや、二日ゑひするあしたこそ、つくりやまひになりにけれ、〈○下略〉
p.0779 酒屋の孟趣 まづ屠蘇を酌で令辰を祝す、初春の目出度、腹を鼓にうたふもまふも、此水よりさいはひなるはなし、飮ば甘露もかくやあらんと、心も飛たちうきたちて、わかやぎあそべり、かゝるいみじき物を、何として佛は戒め給ふやらん、〈○中略〉昔晉陶淵明葛巾をもつて酒を漉、これ千古の風流なり、今にいたつて淵明が漉酒巾といへり、酒におほくの異名諸書にいだせり、竹葉といふより笹といひならはせるか、あるひは天竺にては石祚、我朝にては竹叟など、つくりはじめけるとかけるものもあり、〈○中略〉花の下雪月の前、紅葉を燒てあたゝめ酒、三月は桃花の酒、五月は菖蒲酒、七月七夕祭酒、九月菊酒、名酒は葱冬、阿羅泣酒、奈良酒、京酒、鎌倉酒、博多の練ざけ、宰府酒、琉球泡盛酒、伊丹鴻之池、保命酒、桑酒、覆盆酒、燒酎、龍眼酒、丁子酒、榧酒、梅酒、雹ざけ、麻地ざけ、あまたの名酒を酌かはし、一睡の間に多生功を送る樂あり、祝言移徙、酒迎、元服、首途をはじめとし、相生の松風と三國一の聲するは、みな酒がうたふいはひの詞也、目出度座敷へ出されぬ物は、啼上戸、人を送るたち酒、のませられぬ物はわらひ上戸なり、公界の座敷に肩脱上戸、心閙敷にねぢ上戸、機嫌しらずのおどけ上戸、よはぬ貌する水瓜上戸、おもしろからぬ唄ひ上戸、時分をしらぬ長尻上戸、あとさきつまらぬ贅上戸、後には悔む物遣上戸、佗こと好の喧嘩上戸、詞はうまし振舞上戸、おかせたし物まね上戸、燒石にかくるかはき上戸、さい〳〵きく系圖上戸、佛のゆるす分別上戸、人のしらぬ手柄上戸、いんぎん上戸、色欲上戸、皺面上戸、押柄上戸、惡口上戸、寢上戸、大氣上戸、無言上戸、押上戸、肴上戸、霧吹上戸、見世出し上戸、自慢上戸、無禮上戸、これ〳〵〳〵のもゝ上戸、いや〳〵〳〵の女上戸、だらり上戸、短氣上戸、上戸の上戸、屑はみな粕上戸とかけるものあり、むかしよりかしこき人の、酒のまぬはまれなりと、兼好もしるせり、〈○中略〉李白は醉ても常とたがはず、詩文論談濃かなり、よつて醉聖といへり、鹿車に乘うかれて、女房にいためられしもあり、京の又六は、我死ば備前の國の土となせもしも德利にならば極樂、と辭世せしも殊勝なり、津の國のほとりに箒木賣翁あり、下 戸の建たる藏もなしと、うたひながら往生うたがひなし、孔子も、酒ははかりなふして亂におよぶや不と、點をつけて讀しもあり、醉なやみて臥て、あけの日またのまんといふ、いかなりととへば、墻をへだてゝ蛤を賣聲をきくと述しも又命なり、すべて酒の德おほく、古人書おける中にも、旅の霧の身をとをさぬ、雪の中をくゞるにもいたまぬ、花を花と酒がいはする京哉といへるも奇特かな、〈○下略〉
p.0781 亭子院賜レ飮記 紀納言 延喜十一年夏六月十五日、太上法皇〈○宇多〉開二水閣一、排二風亭一、別喚二大戸一、賜以二淳酒一、蓋禪觀之暇、法慮之餘、遺二避レ暑之情一、助二送レ閑之趣一也、然應二其選一者、唯參議藤原仲平、兵部大輔源嗣、右近衞少將藤原兼茂、藤原俊蔭、出羽守藤原經邦、兵部少輔良峯遠視、右兵衞佐藤原伊衡、散位平希世等八人而已、並皆當時無レ雙、名號甚高、雖二飮レ酒及一レ石、如二以レ水沃一レ沙者也、爰有二勅命一、限二二十盃一、盃内點レ墨、定二其痕際一、不レ增不レ減、深淺平均、遞各稱レ雄、任レ口而飮、及二六七巡一、滿座酩酊、不レ噵二寒温一、不レ知二東西一、數稱二見風一、起居不レ靜、其尤甚者希世、偃二臥門外一、次極者仲平、歐二吐殿上一、其餘我而非レ我、泥之又泥也、或魂銷心迷、尸居不レ驚、或舌結語戻、鳥囀難レ辨、至下如二經邦一者上、始示二快飮一、意氣湯湯、終事二反瀉一、窮聲喧々、纔不レ亂者伊衡一人、殊有二抽賞一、賜二一駿馬一、事止二十盃一、不二更復酌一、于レ時光景漸暮、笙謌數奏、各々纏頭、倒載而歸、有二一病臣一、不レ飮獨醒、具見二行事一、走レ筆記レ之、嗟呼始聞二其名一、皆謂伯倫再生、猶難二相抗一、至レ見二其實一、即雖二病老半死一、厥幾可レ及、古之所レ謂羊公鶴者、諸君之喩歟、
p.0781 酒の飮くらべ、昔しよりあれど、慶安のころ、地黄坊樽次が、大師河原の底深と酒戰の事、水鳥記にしるして世に聞えたり、底深樽次は作名なり、水鳥記に、大師河原に池上太郎左衞門底深とあり、洞房語園に、縣升見といふ醫師、大師河原甚哲と酒戰の事をいへり、その酒戰の杯は、蜂と龍とを蒔繪にしたる大杯なり、さすのむといふ謎なり、七部集、〈沽圃〉大師河原に遊びて、樽 次といふものゝ孫に逢ひて、そのつるや西瓜上戸の花の種、
p.0782 地黄坊樽次酒戰 慶安の頃、江戸大塚に地黄坊樽次と云人あり、〈實名茨木春朔、某侯の侍醫也、〉古今稀有の大酒にて、酒友門人甚おほく、其頃名高き人也、〈○中略〉 おなじ頃武州大師河原に、大蛇丸底深と云富農あり、樽次におとらざる大酒にて、酒友門人おほく名高き人也、其子孫今に榮ふ、〈○中略〉 又おなじ頃鎌倉に甚鐵坊常赤と云者あり、もとは眞言宗の僧なりしが、還俗し樽次に醫を學びて業とす、樽次底深につゞきたる大酒也、〈洞房語園に、江戸吉原の醫師縣升見と云者、淺茅が原心月庵にて大師川原甚哲と酒戰、勝劣なしと記せるは此坊が事なるべし、〉 酒戰〈慶安の頃、大におこなはる、樽次底深兩大將となり、敵味方とわかれ、あまた酒兵をあつめ、大盃をもつて酒量をたゝかはしめて、勝劣をわかつたはむれなり、是に大居目禮古佛の座などいふ法禮あるよし、水鳥記に見ゆ、○中略〉 水鳥記〈一卷あり、樽次の自作、底深と酒合戰の戯書也、原本大師川原にあり、〉
p.0782 文化十二年十月廿一日、千住宿壹丁目にすめる中屋六右衞門が家にて、六十の年賀に酒の呑くらべせり、その酒戰記一卷畫一鋪あり、今要を摭て記す、 伊勢屋言慶〈新吉原中の町にすめり、齡六十二、三升五合餘を飮、〉 大坂屋長兵衞〈馬喰町に住、齡四十餘、四升餘を のむ、〉 市兵衞〈千住かもん宿に住、萬壽無量杯にて三杯呑けりといへり、萬壽無量杯は壹升五合盛とぞ、〉 松勘〈千住宿人也、五合盛のいつくしま杯、七合盛の鎌倉杯、九合盛の江島杯、壹升五合の萬壽無量杯、貳升五合の綠毛龜、三升の丹頂鶴などにて、こと〴〵くのみけりとぞ、〉 佐兵衞〈下野小山人、七升五合のみけりとなん、〉 大野屋茂兵衞〈新吉原中の町大野屋熊次郎が父也、小盞數杯の後に萬壽無量杯にて飮、〉 藏前正太〈淺草御藏前森田屋が出入の左官也、三升飮、〉 石屋市兵衞〈千住掃部宿の人也、萬壽無量杯にて飮、〉 大門長次〈新吉原にすめり、水壹升、醬油一升、酢一升、酒一升を三味線にて、拍子をとらせ口鼓をうちつゝ飮、〉 茂三〈馬喰町人也、齡三十一、綠毛龜を傾盡す、〉 鮒屋與兵衞〈千住掃部宿の人也、齡三十四五計、小盞にてあまた飮ける上に、綠毛龜をかたぶく、〉 天滿屋五郎左衞門〈千住掃部宿の人也、三四升許飮、〉 おいく〈酌取の女也、江のしま鎌倉などにて終日のみぬ、〉 おぶん〈酌取の女也、同上、〉 天滿屋みよ女〈天滿屋五郎左衞門が妻也、萬壽無量杯をかたぶけて、醉たる色なし、〉 菊屋おすみ〈千住人也、綠毛龜にて飮、〉 おつた〈千住の人、鎌倉などにてあまたのむ、〉 料理人太助〈終日茶碗などにて飮、はてに丹頂鶴をかたぶけぬ、〉 會津の旅人河田〈江島より始て綠毛龜にいたるまで、五杯を飮つくし、たゞ丹頂鶴を殘せるをなげく、〉 龜田鵩齋谷寫山など、此むしろに招がれて、もの見せしとぞ、そのをり千住掃部宿の八兵衞といへるものは、壹分饅頭九十九くひつといへり、この酒戰記は、平秩東作が書つめたりし也、
p.0783 大酒大食の會 文化十四年丁丑三月廿三日、兩國柳橋萬屋八郎兵衞方にて、大酒大食の會興行、連中の内稀人の分書拔、 酒組 一三升入盃にて三盃 〈小田原町〉堺屋忠藏〈丑六十八〉 一同六盃半 〈芝口〉鯉屋利兵衞〈三十〉 其座に倒れ、餘程の間休息致し、目を覺し、茶碗にて水十七盃飮む、 一五升入丼鉢にて壹盃半 〈小石川春日町〉天堀屋七右衞門〈七十三〉 直に歸り、聖堂の土手に倒れ、明七時迄打臥す、 一五合入の盃にて拾壹盃 〈本所石原町〉美濃屋儀兵衞〈五十一〉 跡にて五大力をうたひ、茶を十四盃飮む、 一三合入にて貳拾七盃 〈金杉〉伊勢屋傳兵衞〈四十七〉 跡にて飯三盃、茶九盃じんくを躍る、 一壹升入にて四盃 〈山の手〉藩中之人〈六十三〉 跡にて東西の謠をうたひ、一禮して直にかえる、 一三升入にて三盃半 明屋敷の者 跡にて少の間倒れ、目を覺し、砂糖湯を茶碗にて七盃飮む、 右之外酒三四十人計り有レ之候へども、二三升位のもの故不レ記レ之、
p.0784 對酌奇事 天保二年のことゝかや、讃岐國高松なる津高屋周藏といふものあり、生れえたる大酒なれども、常には人なみに肴をまうけて對酌すれども、いざ飮まんとおもふときは、玄米に生鹽を肴として飮むほどに、その數量いくらといふをしらずといへり、ある時かの周藏が檀那寺へ、日蓮宗の僧來りていふやう、われは肥後の熊本の者なるが、かね〴〵傳へうけたまはりしにこの地に津高屋周藏どのといふ人、玄米に生鹽を肴にして、大酒せらるゝのよしきゝ及べり、いよ〳〵さやうに候はゞ、願はくは我らその周藏どのに逢ひて、酒を飮くらべ試たしといふに、さいはひその 周藏は、わが寺の檀家なれば、いとやすきことなりとて、やがて周藏がもとにいひやりければ、とりあへず來りて、かの僧に面會し、はる〴〵と尋來らるゝ心底、いと悦ばしとてあいさつありて、さていふやうは、たゞ空しく對酌すべきにあらず、このわたりの酒徒を催しあつめて、ともに飮んこそ興あらめとて、こゝかしこふれけるに、凡そ五十人あまりもあつまりぬ、さればその人々には、次の間にて酒肴をまうけてもてなし、かの二人は上の間に坐をしめ、玄米と生鹽にてあひ互に飮ほどに、やゝありて二人ながらはや足れりとてやみぬ、その升數をはかるに、壹斗四升八合とかや、次にては人毎に二三升ばかりものみたらんとおもふに、あるひは頭をなやまし、または嘔吐に苦しむもありし、周藏とかの僧は、つねにかはりしおももちもなく、ことに周藏が家居は一里ばかりもへだゝり、僧の旅宿はそれよりなほ十七八丁も遠かりけるが、をりふし雨ふり出たるに、二人ともに雨具をつけ、足駄をはきてうちかたらひつゝ、かへりけるとぞ、
p.0785 凡僧尼飮レ酒食レ宍、服二五辛一者、〈謂飮レ酒者不レ至二醉亂一也○中略〉卅日苦使、若爲二疾病藥分一所レ須、三綱給二其日限一、若飮レ酒醉亂、及與レ人鬪打者各還俗、
p.0785 ほうしの酒をのむ事 僧の酒をのむことは、釋迦の重きいましめにて、魚肉を食ふよりは、罪重きわざとしたるに、今ははゞかることなく、のむならひとなれるは、ちかき世の事かと思へば、萬葉十八の卷に、家持卿の越中の國師の從僧淸見に、酒をおくられたること、又東大寺の使僧平榮に、酒をおくられたる事など見えたれば、そのかみもはゞからざりしにこそ、
p.0785 天平九年五月壬辰、詔曰、四月以來疫旱並行、田苗燋萎、由レ是祈二禱山川一、奠二祭神祗一、未レ得二効驗一、至レ今猶苦、朕以二不德一實致二茲災一、思布二寛仁一以救二民患一、宜レ令下國郡審二録寃獄一掩レ骼埋レ胔禁レ酒(○○)斷上レ屠、〈○下略〉
p.0785 痩法師の酢ごのみとは、やせの寺は昔より禁酒にて酒をいれず、僧の中 に酒をこのみ、えこらえぬあり、常に土工李をもちて行かよふ、若人とふ事あれば、すにて候といふ、日を經ずかよひしげし、又とふ時も同返事なるまゝ、諺にいひならはし、やせの法師はすごのみや、
p.0786 御掟追加〈○中略〉 一酒者隨二根器一、但大酒御制禁之事、〈○中略〉 右條々於二違犯之輩一者、可レ被レ處二嚴科一者也、 文禄四年八月三日 隆景〈○以下四名略〉
p.0786 法度〈○中略〉 一私之大酒可二停止一、然ば常之寄合之時は、一篇たるべし、酒望之輩は、一篇之内、盃數を重ても受用すべし、若難二默止一儀有レ之者、篇〈○篇上有二脱字一〉をも可レ望歟、かたく三篇には過べからず、〈○中略〉 右之條々、若有二違犯之輩一者、到レ侍可レ沒二收所領一、於二凡下一者、堅可レ加二成敗一者也、 閏八月〈○慶長九年〉十九日 龍伯〈御判○島津〉
p.0786 元祿九子年八月 一酒に醉、心ならず、不屆仕候もの粗有レ之候、兼而より大酒仕儀停止候得共、彌以酒給候儀、人々愼可レ申候事、 一客等有レ之候而も、酒強候儀無用ニ候事、 附酒狂之もの有レ之候はゞ、酒給させ候ものも可レ爲二越度一事、〈○中略〉 右之通、急度可二相守一、於レ令二違背一は、可レ爲二曲事一者也、 八月
p.0787 世にはこゝろえぬことのおほきなり、ともあることには、まづ酒をすゝめて、しゐのませたるを興とする事、いかなるゆへとも心えず、のむ人のかほいとたえがたげに眉をひそめ、人めをはかりてすてんとし、にげんとするをとらへて、ひきとゞめて、すゞろにのませつれば、うるはしき人も、たちまちに狂人となりて、をこがましく、息災なる人も、めのまへに大事の病者となりて、前後もしらずたふれふす、いはふべき日などは、淺ましかりぬべし、あくる日まで、頭いたく物くはずによひふし、生をへだてたるやうにして、昨日のことおぼえず、おほやけわたくしの大事をかきて、わづらひとなる、人をしてかゝるめを見すること、慈悲もなく、禮義にもそむけり、かくからきめにあひたらん人、ねたく口おしと思はざらんや、人の國にかゝるならひ有なりと、これらになき人事にてつたへきゝたらんは、あやしくふしぎにおぼえぬべし、人の上にてみたるだに心うし、思ひ入たるさまに心にくしとみし人も、おもふ所なく、わらひのゝしり、ことばおほくゑぼうしゆがみ、ひもはづし、はぎたかくかゝげて、よういなき氣色、日ごろの人ともおぼえず、女はひたひがみはれらかにかきやり、まばゆからず顏うちさゝげてうちわらひ、盃もてる手にとりつき、よからぬ人は、さかなとりて口にさしあて、みづからもくひたるさまあし、聲のかぎり出して、各うたひまひ、年老たる法師めし出されて、くろくきたなき身をかたぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましくにくし、あるは又我身いみじき事ども、かたはらいたくいひきかせ、あるは醉なきし、下ざまの人は、のりあひいさかひてあさましくおそろし、恥がましく心うき事のみ有て、はてはゆるさぬ物どもをしとりて縁よりおち、馬車よりおちてあやまちしつ、物にものらぬきはゝ、大路をよろぼひゆきて、つゐひぢ、門の下などにむきて、えもいはぬ事どもしちらし、年老けさかけたる法師の、小童のかたをおさへて、聞えぬ事どもいひつゝよろめきたる、いとかはゆし、かゝることをしても、此世も後の世も益あるべきわざならば、いか がはせん、此世にはあやまちおほく、財をうしなひ病をまうく、百藥の長とはいへど、萬の病は酒よりこそおこれ、うれへを忘るといへど、ゑひたる人ぞ、過にしうさをも思ひ出てなくめる、後の世は人の智惠をうしなひ、善根をやく事火のごとくして、惡をましよろづの戒を破りて地獄に墜べし、酒を取て人にのませたる人、五百生が間、手なき者に生るとこそ、佛は説給ふなれ、かくうとましとおもふ物なれど、をのづからすてがたきおりもあるべし、月の夜、雪のあした、花のもとにても、心のどかに物語して盃出したる、よろづの興をそふるわざ也、つれ〴〵なる日、思ひの外に友の入來て、とりおこなひたるも心なぐさむ、なれ〳〵しからぬあたりのみすのうちより、御くだ物みきなど、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし、冬せばき所にて火にて物いりなどして、へだてなきどちさしむかひて、おほくのみたる、いとおかし、たびのかり屋、野山などにて、御さかな何なといひて、しばの上にてのみたるもおかし、いたういたむ人のしゐられて、すこしのみたるもいとよし、よき人のとりわきて、今ひとつうへすくなしなど、のたまはせたるもうれし、近づかまほしき人の上戸にて、ひし〳〵となれぬる又うれし、さはいへど上戸はおかしくつみゆるさるゝもの也、醉くたびれて、あさゐしたる所を、主のひきあけたるにまどひて、ほれたるかほながら、ほそきもとどりさし出し、物もきあへずいだきもち、ひきしろひてにぐる、かひどりすがたのうしろ手、毛おひたるほそきはぎのほどおかしくつき〴〵し、
p.0788 呂宋船之儀ニ付、〈○中略〉今日までは圓乘坊不二罷歸一候、無二心元一存候、〈○中略〉次ニ毎度申儀ニ候へ共、在京中御酒過候はぬやうに御分別專一候、諸篇失儀は御酒より出來候事、先證多事に候、殊更貴所事は、先年難レ成所を上洛候而以來、人々手ををくよし候處、自然酒ニ被二取亂一、不レ入事共、於二出界一一言も被レ仰候者、前々之儀共うすく可二罷成一候間、能々可レ有レ愼事專一に候、〈○中略〉 五月〈○慶長九年〉十日 惟新〈○島津〉判 少將殿〈○島津忠恒〉參る
p.0789 酒食欲の誡 近き比松平伊豆守信綱は、一時の賢君なりしが、ある夜咄の序、臣等酒の德をのべ君にすゝむ、信綱の宣ひけるは、汝等みな子あり、その子の悉く酒を呑まん事を願ふか、飮まざらん事を願ふかと有りければ、臣等暫く默して居たりしが、子は酒を飮ざらんこそ親のこゝろやすく候へとこたへける、
p.0789 誡レ酒 古人謂酒爲二掃レ愁箒一、又爲二釣レ詩鉤一、其性所レ嗜而有レ量、則其然乎、若夫嗜之過、不レ有レ量則及レ亂者必矣、然則愁不レ可レ拂而病乍生、詩不レ可レ釣而睡先來、不二早誡一レ之則或闕二其勤一、或有二失禮一、故曰、厚味腊毒、又曰病入レ自レ口、嗚呼耽二一啜之味一、不レ知二莫邪割一レ喉、不レ可レ不レ誡焉、
p.0789 酒禍論 酒天之美祿、先王所下以祭二百神一燕二嘉賓一養レ老成一レ禮也、微醺則能合レ歡寫レ憂、助二陽氣之衰乏一、開二胸次之伊鬱一、且禦二風寒一温二腸胃一、其爲レ功不レ鮮、此得二飮レ酒之節度一者、苟如レ此則以爲二百藥之長一亦宜也、嗚呼彼昏不レ知、崇飮無レ節、嗜レ之無レ度、沈湎以爲レ常、不レ知二其郵一、不レ克レ畏レ死、若夫損者有二三樂一、流連荒亡爲二諸候憂一者、亦皆因レ酒爲レ患也、其禍輕則生二病患一喪二威儀一、重則覆二邦家一隕二軀命一、其害不レ可二擧言一、故夏禹惡二旨酒一、周公作二酒誥一、所下以可上レ爲二萬世之警戒一也、夫酒之能敗レ德亂レ行者、其訓戒既昭二々乎典籍一、何待二區々之簡書一乎、但其能致レ病損レ壽者、其害有レ三焉、蓋嘗論レ之、酒入レ胃、其熱毒慓悍之氣驅二迫之一、則能行二諸經一而不レ止、與二附子之暴烈一同二其性一、是以其氣血之流行不レ循二常度一、而有二急疾之勢一、故醉者氣脉速開、通體忽快、診二其寸口之脉一、常浮大而急數、此其證也、其流行急疾如レ此、人之元氣耗散可レ知而已矣、此其爲レ害之一也、酒力能生レ熱、邪火薰二灼眞陰一、而血液亦日涸如二中風一、亦酒熱生レ風也、非二外邪一、其爲レ害之二也、脾胃好レ燥惡レ濕、酒之浸漬、平日停滯 而致レ傷、此其爲レ害之三也、嗚呼其耗レ氣涸レ血傷レ胃、其害如レ此、是以暗損二天年一而減二人壽一、然人昏迷而不レ覺耳、五湖漫聞載、飮レ酒不レ多者、往々其壽考者數人歴々可レ見矣、方今吾郷土、士類之壽考到二八十以上一者凡十數人、問レ之平素皆不レ嗜レ酒者也、於レ此可レ見古人所レ記可レ信也、以レ是歴二觀世人一、飮レ酒多而長壽者極少、多飮者宜二鑑レ之以爲一レ戒、古語曰、快意事過必傷レ身、凡天下之事快二於初一者、必有レ傷二於終一、欲レ無レ傷二于終一、則勿レ求二快于初一、縱二一時之慾一者、必成二終身之禍一、苟不レ愼二于始一、雖レ悔二于後一可レ追乎、此多飮之輩、所三以可二悔悟一、而保養之士亦所レ當二思レ患豫防一也、
p.0790 斷酒(タンシユ)
p.0790 久安二年九月廿七日、此日詣二石山寺一、依二先年所レ立之願成就一也、〈○中略〉 裏書〈○中略〉歸路公春醉狂、因レ之自二粟田口一令レ歸レ家、後日公春耻レ之、請曰、盟定二飮酒盃數一、余〈○藤原賴長〉許レ之、十月四日、公春詣二中堂一盟曰、御共日一盃、不レ然日五盃可レ用、若過レ之者毎二毛孔一可レ蒙二中堂罰一、〈其盟書先於二中堂一讀上、後獻レ余、〉
p.0790 建暦三年〈○建保元年〉五月三日癸卯、昨今兩日致二合戰一之輩、多以參二匠作〈○北條泰時〉御亭一、亭主勸二盃酒件來客一給、此間被レ仰云、於二飮酒一者永欲レ停二止之一、其故者、朔日入レ夜有二數獻會一、而暁天〈二日〉義盛襲來刻、憖著二甲冑一雖レ令レ騎レ馬、依二淵醉之餘氣一、爲二忙然一之間、向後可レ斷レ酒之由、誓願訖、而度々相戰之後爲レ潤レ喉、尋レ水之處、葛西六郎〈武藏國住人〉取二副小筒與一レ盞勸レ之、臨二其期一、以前之意忽變用レ之、人性於レ時不レ定、比興事也、但自今以後猶不レ可レ好二大飮一云云、
p.0790 應永廿八年六月廿五日、御所樣〈○足利義持〉以二毎阿彌一、御方御所樣〈○足利義量〉大御酒甚以不レ可レ然、御方伺公之面々、於二向後御方一御酒被二聞食一、并私ニ酒ヲ自二御所樣一無二御免一テ不レ可レ用之由、以二起請文一可二申上一之由、被二仰出一也、 廿九日、可レ止二大酒飮一之由起請、熊野牛王裏ニ以二連判一畠山中務少輔持淸於二宿所一、三十六人書畢、注文有二別紙一、在國其外少々人數ヲ加ヘズ、
p.0791 御酒をこのませ給ひ、〈○後光明〉時々御量を過させ給ふを、諸臣ひそかにおそれけれども、諫奉る人もなかりけり、或とき御宴の興も盛にて、天機うるはしきに、德大寺公信御前に出て、度々御酒過させ給ふは、玉體の御ため、其おそれすくなからず、聖人の敎、程朱の敎にもそむかせ給ひなんと、諫奉られければ、天機忽かはらせ給ひ、御劔をとらせられ、逆鱗甚しかりしに、從容として又申上られけるは、古昔より聖君の御手づから臣をきらせ給ふをきかざれども、公信が諫をきこしめしいれさせ給はゞ、身命はおしむにたらずとて、立もさらずぞさぶらはれける、陪侍の人人しりぞかしめらる、上も御劔をもたせ給ひながら、入御なりにけり、〈○中略〉あくるあしたはやく出御ましまし、近習の人に、さてもよべの御ふるまひ、いたく悔させ給ひ、御寢もならせ給はず、此後公信が參らんもおぼつかなくおぼしめすと仰ありしに、公信は天機を伺ひ奉らんとて、とくより參内しさぶらふと申上られければ、よろこばせ給ひ、座を賜ひてめされにけり、公信はよべ天機に忤ひ奉られしをおそれつゝしみ、御前に出られける、龍顏殊にうるはしく、さてもよべの忠諫叡感淺からずおぼしめせり、此後は御酒をいましめて、たゝせ給ふべし、よべの御ありさま、かへすがへす御恥かしくおぼしめすなり、今よりいよ〳〵忠諫をいれ、不德をたゞし、嘉德をたすくべしとて、よべとらせ給ふ御劔を、御手づから賜はりけり、
p.0791 南宮大湫、名岳、字喬卿號二大湫一、又號二煙波釣叟一、通稱彌六、信濃人、 大湫善飮盡レ斗、至二歳五十一、刻留罷レ酒、安淸河訪レ之、儲侍以二豐饌一、大湫與レ之獻酬、未三嘗飮二酒滴一、淸河酣暢之餘、與二坐客一語曰、南宮眞君子、能容二包衆一、特於二杜康一不二相善一、而與レ之絶、是爲可レ憾、淸河之意、在レ諷二刺罷一レ酒、其言甚傲焉、大湫遜言正レ色曰、寒家素乏二酒錢一、罷レ飮後、幸不レ損二厨釀之費一多矣、淸河大慙、爲レ之自失、
p.0791 御壯年〈○徳川家齊〉のころより酒を御嗜ありて、常々めし上られ、花紅葉の折にふれては、御過酒もおはしましゝ、左様の時も常に替らせらるゝ御容子は、曾てあらせられざ りしかど、御齡たけさせ玉ひては、殊更御身の為宜しかるまじと、一橋邸よりひそかに御諫言ありしとなむ、夫より後は三獻の外は召上られざりき、一とせ御放鷹として、近郊に渡らせ玉ひしに、その日風雪にて寒氣凛冽なりしかば、御供の人々堪難きさまを、あはれませ玉ひ、あまぬく御酒賜はりし事あり、其時傍に候せし某、今日などはちと御過し遊ばさるとても、寒氣御凌の爲なれば苦しかるまじと申上しに、そこを呑ぬが男なりと御戯言あり、三獻の外召上られざりしとなむ、これらは假初の御事なれど、人々嗜物抑遏するは、いかにも難きことなるに、かゝる御振舞は、すべて凡慮の計りしりがたき御事なり、
p.0792 奥州泉領孝子〈并〉名君行状の事 一奥州泉の領主本多彈正少弼忠籌侯、領分の内に甚孝心の百姓あり、年頃四十餘、父はもはや八十にちかし、其孝志是までつひに父の氣にさかひし事なく、一圖に孝道をつくすこと、いふべくもあらず、〈○中略〉老人若き時よりして冷酒をこのみ、毎日農作に出づる時、先冷酒を茶碗に三つづつ飮み出づる事、一日もかく事なし、〈○中略〉ある日老父いつもの農業より歸りて、泫然として落涙する事あり、孝子其樣子ことなるを尋ねけるに、老父の曰く、さればの事よ、今日農作に往きたる所、勿體なき噺を聞きて、有難さに涙こぼるゝなり、殿樣には、平日御汁をも御あがり遊ばされず、〈○中略〉御近習の衆、御養生になるまじき由申し上げられしに、か樣にして、下々の者をこやしてやりたしとの御意有りし旨をきゝ、誠に身にこたへ、骨に通りて有りがたく、覺えず涙を流して、其方に早くいひきかせ、我らも是迄の酒をやめ申さんとて、急ぎて歸りしなり、あゝ勿體なし〳〵とて、夫より一向に禁酒せりとぞ、
p.0792 斷酒辨 もとより李杜が酒腸もなければ、上戸の目には下戸なりといへども、下戸なる人には上戸とも いはれて、酒に剛臆の座をわかてば、おのづからのむ人のかたにかずまへられて、南郭が竽をふきけるほども、思へば四十の年にもちかし、されば衆人みな酒臭しと、世に鼻覆ひたる心はしらず、まして五十にして非を知りしとか、かしこきためしにはたぐひも似ず、近き比いたましう酒のあたりけるまゝに、藻にすむ虫と思ひたつ事ありて、試に一月の飮をたてば、身はなら柴の木下戸となりて、花のあした月の夕べ、かくてもあられけるものをと、はじめて夢のさめし心ぞする、けふより春の蝶の醉心をわすれ、秋のもみぢも茶の下にたきて、長く下戸の樂に老を待べし、さもあれ此誓ひ、みたらし川に御祓もせねば、たとへば仙の一座なりともまねがば、柳の靑眼に交り、吸物さかなは人よりもあらして、おなじ醉郷にあそぶべくは、いさ松の尾の山がらすも、月にはもとのうかれ仲まと思ふべし、 花あらば花の留守せん下戸ひとり、
p.0793 酒造祖神 酒解神〈大山祇神〉酒解子神ハ神吾鹿葦津姫〈又ハ木花開耶姫○中略〉 按ニ酒店ノ輩、松尾神社ヲ以酒ノ守護トス、イマダ其由ヲ知ラズ、酒解神酒解子ノ神ハ、梅宮ノ神ナリ、蓋酒家ノ輩、梅宮ト松尾トヲ思過ルカ、
p.0793 松の尾の神は、酒屋ことの外に祈る、 ○按ズルニ、造酒神ノ事ハ、尚ホ神祇部神祇總載篇ニ在リ、
p.0793 諸節會料酒 正月元日一斛八斗、七日三石四斗、十六日二斛三斗、十七日一斛四斗、五月五日一斛八斗、相撲節一斛八斗、九月九日一斛六斗、十一月新嘗會四斗、若可レ過二此限一聽二辨官處分一、 供二奉神事一諸司給レ酒法 親王已下三位已上二升、四位五位一升、六位已下五合、五位已上命婦一升、六位已下女孺并御巫五 合、 凡縣釀酒、山城國四斛二斗一升五合、大和河内攝津等國各四斛、並十一月卅日以前進訖、〈給二諸王已下國栖已上一料〉
p.0794 仁王經齋會供養料〈○中略〉 酒一合六勺〈好物料六勺、海菜料三勺、汁物料二勺、生菜料二勺、羹料一勺、漬菜料二勺、〉
p.0794 淸凉殿行事 霧朝置二霧酒一(○○)
p.0794 久安二年五月十七日乙酉、依レ仰午初詣二無動寺一、〈○中略〉同刻終臨幸、〈○中略〉次渡二南山房一、〈余(藤原賴長)歩行、在二輿前一、〉先供二御膳一、又余已下賜レ膳、一如二水飮儀一、〈座主房預レ膳〉座主申云、山霧於レ人有レ毒、飮酒消レ之云、中堂禁レ酒者禁レ醉也、願上飮レ之、上則飮レ之、〈忠隆朝臣供レ之〉了使三忠隆朝臣賜二盃於余一、余曰可レ用二他盃一、〈存レ禮也〉上曰莫レ替、予以二御盃一飮レ之一啐、
p.0794 この殿〈○兼通〉には、後夜にめすばうす(○○○)の御さかなには、たゞ今ころしたるきじをぞまいらせをけるに、もてまいりあふべきならねば、よひよりぞまうけてをかれける、
p.0794 卯酒 大鏡云、〈○本文略〉ばうすを一本には卯酒と書り、後夜は、雲圖抄裏書に、後夜自二子之刻一、至二丑二刻半一とあり、されば夜中より、卯の時まで飮む酒の意と聞えたり、然れども、卯酒は夜中より飮む事にあらず、朗詠集私注に、卯時飮レ酒謂二之卯酒一とある説是なり、白居易が詩に多き語なり、中州集に、宋九嘉が卯酒詩に、臘蟻初浮社甕 宿醒正渇卯時投、醉郷几几陶陶裏、底事形骸底事愁、東坡集蘇軾が午窻座睡詩に、體適劇卯酒、李厚が注に、白樂天詩、未レ如二卯時酒一、神速功力倍、これらを見てさとるべし、
p.0795 毒醉吟呈二座客一 飮レ酒卯前及二百鍾一、黄昏主客醉相從、〈○下略〉
p.0795 供奉料〈中宮亦同〉 日酒一斗五升、〈○中略〉韲酒(○○)二升五合、〈○中略〉 右日料司家所レ進、但韲料内膳司毎月受、〈○中略〉 諸節日酒四斗、〈○中略〉韲酒(○○)五升、〈五月七月九月十一月各一斗○中略〉 東宮 日酒六升、〈諸節別二斗、已上付二主膳監一、〉汁糟(○○)五合、韲酒(○○)四合、酢四合、 右韲料酒汁糟並行二彼宮進物所一、〈○下略〉
p.0795 九日侍レ宴同賦二吹花酒一(○○○)應レ製 恩容九日醉顔酣、酒湛兼淸菊採レ甘、把レ盞無レ嫌斟分レ十、吹レ花乍到唱遲三、脣頭泛レ色金猶點、口上餘香麝半含、暮景雙行多得レ力、松喬更向二小臣一慙、
p.0795 寛弘二年五月三日庚戌、馬場所官人等獻二藤蕨糟酒(○○○○)等一左荒手結、 長和三年五月五日庚寅、馬場所進二藤蕨酒等一、 治安三年五月五日丁卯、馬場進二藤蕨酒ニ瓶等酒一、
p.0795 昔大帶日子命〈○景行〉誂二印南別孃一之時、〈○中略〉勅二云此處浪響鳥聲甚譁一、遷二於高宮一、故日二高宮村一、是時造二酒殿一(○○)之處、即號二酒屋村一、
p.0795 廣山里〈舊名握村○中略〉品太天皇〈○應神〉之世、出雲御蔭大神坐二於枚方里神尾山一、毎遮二行人一半死、〈○中略〉於レ是遣二額田部連久等等一令レ禱、于レ時作二屋形於屋形田一、作二酒屋(○○)於佐々山一而祭レ之、〈○中略〉 酒井野、右所三以稱二酒井一者、品太天皇之世、造二宮於大宅里一、闢二井此野一、造二立酒殿一、故號二酒井野一、
p.0796 含藝里〈本名瓶落土中上〉所三以號二瓶落一者、難波高津御宮〈○仁德〉御世、私部局取等遠祖他田熊千、瓶酒著二於馬尻一、求二行家地一、其瓶落二於此村一、故曰二瓶落一、又有二酒山一、大帶日子天皇〈○景行〉御世、酒泉(○○)涌出、故曰二酒山一、百姓飮者、即醉相鬭相亂、故令二埋塞一、後庚午年有レ人堀出、于レ今猶有二酒氣一、
p.0796 昔元正天皇御時、美濃國に貧く賤き男有けるが、老たる父を持たり、此男山の草木を取て、其直を得て父を養ひけり、此父朝夕あながちに酒を愛しほしがる、依レ之男なりひさごと云物を腰に付て、酒を沽家に行て、常に是を乞て父を養ふ、或時山に入て薪をとらんとするに、苔深き石にすべりて、うつふしにまろびたりけるに、酒の香しければ、思はずにあやしとて、其あたりをみるに、石中より水流出事有、其色酒に似たり、汲てなむるにめでたき酒也、うれしく覺えて、其後日々に是を汲てあくまで父を養ふ、時に帝此事をきこしめして、靈龜三年九月に某所へ行幸有て御覽じけり、
p.0796 養老元年九月丙辰、幸二當耆郡〈○美濃〉多度山美泉一、賜二從レ駕五位已上物一各有レ差、
p.0796 承和十年三月丙辰、出雲權守正四位下文室朝臣秋津卒、〈○中略〉七月、〈○承和二年〉任二右衞門督一、監二察非違一、最是其人也、亦論二武藝一、足レ稱二驍將一、但在二飮酒席一、似レ非二大夫一、毎レ至二酒三四杯一、必有二醉泣之癖一(○○○○)故也、
p.0796 下部に酒のまする事は心すべき事也、宇治に住侍けるおのこ、京に具覺房とてなまめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、つねに申むつびけり、ある時迎に馬をつかはしたりければ、はるかなる程なり、口つきのおのこに、先一度せさせよとて、酒をいだしたれば、さしうけさしうけよゝとのみぬ、太刀打はきてかひ〴〵しげなれば、賴もしく覺えて召ぐして行程に、木幡の邊にて、奈良法師の兵士あまたぐしてあひたるに、此男たちむかひて日暮にたり、此山中にあやしきぞ、とまり候へといひて、太刀をひきぬきければ、人も皆太刀ぬき矢はげなどしけるを、具 覺坊手をすりてうつし心なく、醉たる者に候、まげてゆるし給はらんといひければ、をの〳〵嘲て過ぬ、此男具覺房にあひて、御坊は口をしき事し給つる物かな、をのれゑひたる事侍らず、高名仕らんとするを、ぬける太刀むなしくなし給ひつる事といかりて、ひたぎりにきりおとしつ、さて山だちありとのゝしりければ、里人おこりて出あへば、われこそ山だちよといひて、はしりかかりつゝ、きりまはりけるを、あまたして手おふせ打ふせてしばりけり、馬は血つきて宇治大路の家にはしり入たり、淺ましくて、をのこどもあまたはしらかしたれば、具覺坊はくちなしはらにゑひふしたるを、もとめ出てかきもてきつ、からき命いきたれど、腰きり損ぜられてかたはに成にけり、
p.0797 柿 或語レ予〈○平野必大〉曰、毎好二大酒一者、割二乾柿一作二兩片一、用二一片一塞レ臍令二帶緊縛一、而後飮レ酒則連日不レ倒、予既試レ之沈醉後取二臍中柿一而見レ之、酒浸熟甚臭、是柿内引二酒於臍竅一者也、故知三柿之解二酒毒一而已、
p.0797 〈仙傳一家〉酒禁丸〈藤田氏製〉 夫酒は養壽の奇品と雖ども、多く喫する時は氣を慓し、行を敗り心を亂、甚しきは家邦を喪す、輕ければ病を致し命を隕す、故に長壽は下戸に多し、愼むべし、〈○中略〉此藥を用ゆる時は、胸中の酒癖をさる故に、上戸と雖ども酒を飮んとするの心疎くなりて、自然と下戸となる也、又大酒豪飮の人も、三兩杯の樂酒となりて、身の害をなす事なし、吐血を止め胃熱を淸し氣血を行し、胸腹の留飮をさり、齒をかたくし、目を明にし、ざくろ鼻を治し、内損を補ひ、若癩、中風、よい〳〵、水腫、黄胖、總て酒より發る病治せずといふ事なし、酒ぐせのわるき人需服すべし、 賣弘所 〈日本橋通三丁目東側中程〉藤田屋熊治郎製
p.0797 呂 此殿〈ノ〉奥〈二段、拍子各八、與二此殿〈ノ〉西一同音、〉 このとのゝ、此とのゝ、おくの、おくの、さかや(○○○)の、うばたまり、あはれ、うばたまり、はれ、 〈二段〉うばたまり、われを、われをこふらし、こざかこゆなるや、こざかこゆなるや、〈○中略〉 酒飮〈一段、拍子十五、藤家五拍子用之、〉 さけをたうべて、たべゑうて、たふとこりんぞや、まうでくる、なよろぼひそ、まうでくる、たんな、たんな、たりや、らんな、たりちりら、