p.0001 飮食ハ又食物ト稱ス、食物ハ、邦語之ヲタベモノト云ヒ、或ハヲシモノトモ、クヒモノトモ云ヒ、又單ニケトモ云ヘリ、而シテ食物中、其味ノ甜美ナルモノヲ特ニ多米都物(タメツモノ)ト云フ、中古以後、魚鳥ノ類ヲ美物(ビブツ)ト稱スルハ、蓋シ蔬菜ニ比シテ、其味ノ優美ナルニ因レリ、上代ハ常ニ獸肉ヲ食シタルモノニテ、天皇ノ御膳ニモ上リシガ、佛敎渡來ノ後、殺生ハ彼敎ニ於テ嚴禁スル所ナルヲ以テ、佛敎ノ隆盛ナルニ至リテ、法令ヲ以テ獸肉ヲ食スルコトヲ禁止セシコトアリ、其後、佛事ハ固ヨリ神事ニモ、獸肉ヲ食スルヲ禁ジ、之ヲ犯シタルモノハ、觸穢ノ制ヲ以テ之ヲ律セリ、然ルニ德川幕府時代ニ至リ、蘭學ノ徒、竊ニ之ヲ食スルモノアリ、世人モ亦之ヲ嗜好シ、獸肉ヲ鬻グモノ漸ク增加セリ、凡ソ常食ノ度數、古ハ朝夕ノ二回ニテ、之ヲ朝食(アサケ)、夕食(ユフケ)ト稱シ、高貴ノ人ニ在リテハ、朝御膳(アサミケ)、夕御膳(ユフミケ)ト稱ス、武家時代ニ封祿ヲ給與スルニ、米五合ヲ以テ一人扶持ト定メタルモ、朝夕二合五勺宛ノ分量ヲ以テセリト云フ、然レドモ、農夫、工人等、總テ勞役ニ從事スル者ハ、朝夕ノ二回ノミニテハ、其事ニ堪ヘザルヲ以テ、勞動ノ多少、晝夜ノ長短ニ依リテ、一回或ハ數回ノ間食ヲ爲セリ、古ニ謂ユル晝養(ヒルカヒ)モ亦間食ノ一ナリ、後世之ヲ晝飯、或ハ中食ト稱シ、獨リ勞動者ノミナラズ、一般ニ日々之ヲ食スルコトヽナレリ、又朝、晝夕ノ外ニ、硯水ト稱シテ、酒餅ノ類 ヲ給シテ、勞ヲ慰スルモノアリ、或ハ之ヲ小晝飯トモ、小晝(ヲヒル)トモ云フ、佛家ニハ之ヲ點心、又ハ茶ノ子ト稱ス、又夕食ノ後ニ食スルモノヲ、夜食トモ夜長(ヨナガ)トモ云フ、長夜ノ饑ヲ醫センガ爲ニ之ヲ食スレバナリ、
p.0002 飮食(○○)〈サケノミイヒクヒテ〉
p.0002 飮食
p.0002 一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號二國作大己貴命一、〈○中略〉初大己貴神之平レ國也、行二到出雲國五十狹狹之小汀一、而且當二飮食一(○○)、
p.0002 一書曰、〈○中略〉皇孫因謂二大山祇神一曰、吾見二汝之女子一、欲二以爲一レ妻、於レ是大山祇神乃使下二女持二百机飮食一(モヽトリノツクヘモノ/○○○○)奉進上、
p.0002 孤孃憑二敬觀音銅像一示二奇表一得二現報一縁第卅四 有二隣富家乳母一、大櫃具二納百味飮食一(○○○○)、美味芬馥無二不レ具物一、
p.0002 ちいさき子のふかき雪をわけて、あし手はえびのやうにて、はしりくるをみるに、いとかなしくてなみだをながして、などかくさむきにいでゝありくぞ、かゝらざらんおりいでゝありけと、なけばくるしうもあらずおもとを思ふとて、とゞまるべくもあらず、ありつるいをとはみつれど、百味(○○)をそなへたる飮食(○○)になりぬ、あやしうたへなる事おほかり、
p.0002 食(○) 〈通正音蝕、和自キ、クヒモノ、 ハム クフ モノクフ ケ クラフ 又音自〉
p.0002 食粮〈クヒモノ〉
p.0002 食物
p.0002 羞(クヒモノ)〈字 、膳也、食也、〉
p.0002 くひもの 食物の義、今音にもいへり、西土も同じ、
p.0003 食 食、クヒモノト物ヲクフトハ、入聲ニテシヨクトヨミ、人ニ物ヲクハスト飯トハ去聲ニテ、シトヨムナリト區別スルコトハ、後世ノコトナリ、説文ハサラナリ、玉篇モコノ分別ナシ、陸德明ノ釋文ニ、始テ酒食ノ食ニ音 トアリ、〈論語爲政篇、有二酒食一先生饌、釋文、禮記曲禮上、食居二人之左一釋文、〉サレド音ヲ出サヾル處モアレバ〈小雅斯干唯酒食是議、釋文、禮記、曲禮上、爲二酒食一以召二鄕黨僚友一、釋文、〉其頃ハ、イヅレニヨミテモヨロシキコトヽオモハル、人ニ物ヲクハスルニハ、別ニ字ヲ造リ、飤トカキテ、食字ヲクハスルコトニ用フルトキハ、飤字ニ通ハシタルモノナリ、飤ハ説文〈卷五下食部〉糧也从二人食一トアリテ、玉篇ニ女恣切食也トミエ、廣韻去聲、志韻ニモ、食也トアリテ、玉篇廣韻トモニ、次下ニ飼字同上トアリ、コレ人ニ物ヲクハスル方ニ用フル字ナリ、コノ飤ノ字ハ、後世ノ字ニテ、説文時代ノモノニアラズ、後人ノ妄ニ説文ニ增入シタルヨシ、段玉裁詳ニ考ヘテ、飤ノ字ノ注ニイヘリ、〈飤或作レ飼、經典無レ飤又糧也トアルモヨロシカラヌヨシ、其注ニミエタリ、〉飯ノトキ入聲ニ讀ザルモ、後世ニ出ルノ證ハ、小雅信南山ノ篇ニ、疆場翼々、黍稷稷々、曾孫之穡、以爲二酒食一、卑我尸賓壽考萬年、トアル翼或穡食ト韻叶ニテ、シルベキナリ、
p.0003 元年五月辛丑朔、詔曰、食者天下之本(○○○○○○)也、黄金萬貫、不レ可レ療レ飢、白玉千箱、何能救レ冷、
p.0003 人畜所レ履髑髏、救收示二靈表一而現報縁第十二 高麗學生道登者、元興寺沙門也、出レ自二山背惠滿之家一、而往大化二年丙午、營二宇治椅一、往來之時、髑髏在二于奈良山溪一、爲二人畜所一レ履、法師悲レ之、令下從者万侶置中之於木上上、迄二于同年十二月晦夕一、人來二寺門一白、欲レ遇二道登大德之從者萬侶者一、萬侶出而遇レ之、其人語之曰、蒙二大德之慈顧一、得二平安一之慶、然非二今夜一无レ由レ報レ恩、輙將二万侶一至二于其家一、從二閉屋一而入二於屋裏一、多設二飮食一(○○)、其中以二己分之饌一(○)、與二萬侶一共食、〈○中略〉 饌〈與木久良比毛ノ〉
p.0003 大將宮の御もとにまうで給て、物はきこしめしつや、なにをかまいるべきと きこえ給へば、内侍のすけ、物もきこしめさず、けづりひをなんめす、大將あなおそろしや、いみしくいむ物を、宮かゝればこそいやさりつれ、ひくはてはいかでかあらむ、さきに物いむといひつつ、くはまほしき物もくはせずとの給へば、あな心うや、くひ物(○○○)むつかりをくすゝ侍り、いひてきこえむとていて給てん、〈○下略〉
p.0004 木は ゆづりはの、いみじうふさやかにつやめきたるは、いとあをうきよげなるに、〈○中略〉なき人のくひ物(○○○)にもしくにやとあはれなるに、〈○下略〉
p.0004 除目のころ子日にあたりて侍けるに、按察更衣のつぼねより、松をはしにて、たべもの(○○○○)をいだして侍けるに、 もとすけ〈○歌略〉
p.0004 神護景雲三年十一月壬辰、賜二宴於五位已上一、詔曰、今勅〈久、〉今日〈方〉新嘗〈乃〉猶〈良比乃〉豐〈乃〉明聞〈許之賣須〉日〈仁〉在、〈○中略〉故是以、黑記白記〈乃〉御酒食(○)〈倍(○)〉惠良〈伎、〉常〈毛〉賜酒幣〈乃〉物賜〈禮止之天、〉御物給〈波久止〉宣、
p.0004 さぶらひにて、男どもの酒たうべ(○○○)けるに、召て郭公まつ歌よめとありければよめる、 みつね〈○歌略〉
p.0004 又食物(○○)乞二大氣津比賣神一、爾大氣都比賣、自二鼻口及尻一、種々味物取出而、種々作具而進時、速須佐之男命立二伺其態一、爲二穢汚而奉進一、乃殺二其大宜津比賣神一、
p.0004 食物は、袁志毛能と訓べし、
p.0004 十八年四月壬申、自二海路一泊二於葦北小島一而進食(ミヲシス)、
p.0004 みけ 御饌又御食と書り、儀式帳に、朝乃大御饌、夕乃大御饌、中臣壽詞に、長御膳の遠御膳と見えたり、日本紀に、奠もよみ、神食をもよめり、儀式帳に、奈保良比歌に、 さこくしろ五十鈴の宮に御氣立と打なるひざは宮もとゞろに、と唱ふるみけも同義にや、
p.0005 祈年祭〈○中略〉 御縣〈爾〉坐皇神等前〈爾〉白〈久、〉高市、葛木、十市、志貴、山邊、曾布〈登〉御名者白〈氐、〉此六御縣〈爾〉生出、甘菜、辛菜〈乎〉持參來〈氐、〉皇御孫命〈能〉長御膳(○○○)〈能(○)〉遠御膳(○○○)〈登〉聞食故、皇御孫命〈能〉宇豆乃幣帛〈乎〉稱辭竟奉〈久登〉宣、
p.0005 十二年十月壬午、天皇命二木工鬪鷄御田一、〈○註略〉始起二樓閣一、於レ是御田登レ樓、疾二走四方一、有レ若二飛行一、時有二伊勢采女一、仰二觀樓上一、恠二彼疾行一、顚二仆於庭一、覆二所擎饌一(ミケツモノ/○)、〈饌者、御膳之物也、〉
p.0005 ためつもの(○○○○○) 貞觀儀式に、多米都物とみゆ、獻物と別に出せり、大嘗會にいふ語なり、延喜式に、多明(メツ)酒、波多明料理屋なども見えたり、されば供神の品を獻物といひ、給賜の料を多明都物といふにやといへり、
p.0005 踐祚大嘗祭儀下 祝神祇官中臣、捧二賢木一入レ自二儀鸞門東戸一就レ版、跪奏二天神之壽詞一、〈群臣共跪〉忌部奉二神璽之鏡劒一共退出、親王已下共起、次辨大夫入レ自二同門一就レ版、跪奏二兩國所レ獻多米都物(○○○○)色目一、其詞云、悠紀〈爾〉供奉〈留〉其國宰姓名等〈加〉進〈禮留〉雜物合若干荷、就中獻物、黑木御酒若干缶、白木御酒若干缶、飾瓼若干口、倉代若干輿、缶物若干缶、多米都物(○○○○)雜菓子若干輿、飯若干櫃、酒若干缶物若干缶、
p.0005 儺祭料、〈○中略〉十二月晦日昏時、官人率二齋郎等一候二承明門外一、即依二時剋一共入二禁中一、齋郎持二食薦一安二庭中一陳二祭物一、訖陰陽師進讀二祭文一、其詞曰、〈○中略〉五色寶物、海山〈能〉種々味物(○○)〈乎〉給〈氐、〉罷賜移賜〈布〉所所方々〈爾、〉急〈爾〉罷往〈登〉追給〈登〉詔〈爾、〉挾二姧心一〈氐〉留〈里〉加久良波、大儺公小儺公持二五兵一〈氐、〉追走刑殺物〈曾登〉聞食〈登〉詔、
p.0005 又食物乞二大氣津比賣神一、爾大氣都比賣、自二鼻口及尻一、種々味物(○○○○)取出而、種々作具而進時、速須佐之男命、立二伺其態一、爲二穢汚而奉進一、乃殺二其大宜津比賣神一、
p.0006 味物は多米都母能と訓べし、中卷明宮段の末に、種々之珍味とあるも、如此よむべし、其故は、貞觀儀式大嘗祭儀に、辨大夫入レ自二儀鸞門一、就レ版跪奏二兩國所レ獻多米都物色目一、〈江次第にもかくあり、兩國は、悠紀主基兩國を云〉と有て、其詞に、御酒倉代缶物、多米都物雜菓子飯などの色目見え、又大多米津酒、大多米酒、波多米御酒、多毎米、大多米院と見え、延喜式にも、多明米、多明酒屋、多明料理屋などゝ見えたればなり、〈但如レ此く大嘗祭の所にのみ多く出て、他には一〈ツ〉も見えねば、彼祭に供レ神物に限れる名目かとも聞ゆれど、さに非ず、〉古に凡て美味飮食を云る名なり、〈凡て上代の事は、物名も何も神事にのこれる例なれば、此名目もたま〳〵大嘗にのみのこれるなり、〉姓氏録多米連條に、成務天皇御世仕二奉炊職一、賜二多米連一也、又多米宿禰條に、成務天皇御世、仕二奉大炊寮一、御飯香美、特賜二嘉名一、とあるを以て知るべし、〈供レ神物に限らざること、此にて明けし、書紀の甜酒も、本の訓は多米邪祁なりけむを、後人のさかしらに、字音と心得て、多武とはよみなしつらむ、〉
p.0006 春宮御方 晝御膳〈○中略〉或記云〈○中略〉三御盤 進物所御菜窪器一坏 平盛五坏〈皆供二珍美一(○○)○中略〉 六御盤 御厨子所御菜高盛七坏 平盛一坏 空土器一口〈是又珍味(○○)○中略〉 供膳次第如二常儀一、只供二珍美一異例也、
p.0006 新任饗 承平七年正月十日、太政大臣〈○藤原忠平〉家饗、御齋會中、用二陸海珍味一(○○○○)、同レ常、
p.0006 昨日茶會無二光臨一之條、無念之至、恐恨不レ少、滿座之鬱望多端、御故障何事、抑彼會所爲レ體、内客殿懸二珠簾一、前大庭鋪二玉沙一、軒牽レ幕、窻垂レ帷、好士漸來、會衆既集之後、初水纖酒三獻、次索麵茶一返、然後以二山海珍物一(○○○○)勸レ飯、以二林園美菓一甘レ哺、
p.0006 紅葉鮒 山海の珍物なれや紅葉ぶな 貞德
p.0006 珍膳(○○)
p.0007 美膳(○○) 美菜 美食
p.0007 一鞠足饗膳の事 主君又むねとあらん人、美膳を儲よ、御座につきて進むべし、
p.0007 美物(○○)
p.0007 美物
p.0007 一美物ト云フハ、ヨキクヒモノ歟、イヲトリノ名歟、 兩樣ニ通ズル也、美物ト云フヲ魚味トオモヒナラハセル事モアリ、ソノユヘナキニ非ズ、日本紀ニハ美物與レ酒トカキテ、イヲトサケトヽヨメリ、
p.0007 巡役之朝飯、明日可レ令一勤仕一候、此間依二霖雨一、美物(○○)雖二難レ得候一、四足者、猪、鹿、羚(カモシヽ)、熊、兎、狸、猯(マミ)、獺等、二足者、雉、鶉、鴫、鶊(ヒバリ)、鴛、鴨、雁、鵠、鶴、鷺、山鷄、靑鷺、并卵子等、魚類者、鯉、鱸、〈○中略〉等、濟々尋出候也、
p.0007 十二日、〈○中略〉本座ニ歸テ在二酒肴一、美物(○○)兩種菓子在レ之、
p.0007 一美物(ビブツ)上下之事、上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉足事也、河ノ物ヲ中ニ致タレドモ、鯉ニ上ヲスル魚ナシ、乍レ去鯨ハ鯉ヨリモ先ニ出シテモ不レ苦、其外ハ鯉ヲ上テ可レ置也、鮒又ハザコ以下ノ河魚ニハ、海ノ物下ヲスベカラズ、乍レ去 (ニシ)ナドハ、龍足在時ハ、少ハ其心得有レ之ベシ、山ノ物下ト定タレドモ、鷹ノ鳥ニハ如何ナル白鳥成トモ、上ヲスベカラズ、雉ノ鳥ニ必可レ限、何ニテモ鷹ノ取タル鳥ヲバ、賞翫勝タルベシ、鷹ノ鳥ヲ人ニ參ラスル時ニハ、燒物ヨリ外ニスベカラズ、餘ノ御肴ニ組付ル事スベカラズ、一種タチニテ可レ參、鷹ノ鳥ニテハ、白鳥ノ事一種タチニテ可レ參、鯨モ同前也、如何ナレバ、似相タル物マレ成故組付ニハスベカラズト云々、
p.0007 一美物ヲ拵テ可レ出事、可レ參次第ハ、ビブツ(○○○)ノ位ニヨリテ可レ出也、魚ナラバ鯉ヲ一番ニ可レ出、其後鯛ナド可レ出、海ノ物ナラバ、一番ニ鯨可レ出也、水鳥ナラバ白鳥菱喰雁ナド、ケ樣ノ次第 ニ參ラス可シ、但鷹ノ鳥ノ事ハ、雙ベキ物不レ可レ有レ之、
p.0008 一樽美物等の目録は、次第、魚は前、鳥は後也、魚の中にも鯉は第一也、其次は鱸なり河魚は前、海の魚は後なり、鷹の鳥、鷹の雁、鷹の鶴などは、鷹を賞する故に鯉より前に書也、雲雀、鴫、鶉といふとも、鷹の執たらんは賞翫猶おなじ、又鵠は大鳥他に異なる故に、鷹の鳥よりも猶前に書也、
p.0008 殿中從二正月一十二月迄、御對面御祝已下之事、 一二月朔日、御對面如レ前、〈○中略〉先今日畠山殿より御進上の美物の目録を御目にかけて、白鳥一、のしあはび千本、備二上覽一候、兩人してかきて出候、美物二色、天野五荷御進上候、此時計美物御目にかかる也、其外は何も御目にかゝらず候、
p.0008 二年三月甲申、詔曰、〈○中略〉凡始二畿内一及二四方國一、當二農作月一、早務レ營田、不レ合レ使レ喫二美物與一レ酒、宜下差二淸廉使者一、告中於畿内上、其四方諸國國造等、宜下擇二善使一依レ詔催勤上、
p.0008 正月八日 一御精進ほどき御美物御進上、雁一、鯛五、 御目録蜷川新右衞門調進、御使當番毎月何にてもあれ兩種如レ此、法住院殿御代に八日と廿七日に御進上也、
p.0008 天文十年正月十二日、一雁一、荒卷五、若公へ進上仕也、明日〈十三日〉御せち御いんニん、毎年御儀、仍各美物進上候につきて如レ此也、今日申次當番細豆州にて御入候間、進上目録〈折紙〉以二書状一豆州〈江〉申候て申入之也、美物兩種は如二例年一、下津屋方へ納申之也、使〈富森八郎、〉
p.0008 五味 鹹〈シハヽユシ〉 酸〈スシ〉 苦〈ニカシ〉 甘〈アマシ〉 辛〈カラシ〉
p.0008 其五味者 酸味者、是柑子、橘、柚等也、 辛味者、是薑、胡椒、高良薑等、 甘味者、是砂糖等也、又一切食、以レ甘爲レ性也、 苦味者、是茶、靑木香等也、 鹹味者、是鹽等也、
p.0009 六味(○○)〈佛書、以二甘辛鹹苦酸淡一爲二六味一、〉 八味(○○)〈又佛書、上六味如二澀味不了味一爲二八味一、〉
p.0009 人平食二合半を用る事〈一日食五合 三斗五升俵〉 今案に、人平日の食料に二合半を用る事その故あり、靈樞平人絶穀篇、および四十二難に云く、腸胃之中、常留二穀二斗水一斗五升一、故平人日再後、後二升半、一日中五升、七日五七三斗五升、而留二水穀一盡矣、故平人不二飮食一七日而死と見ゆ、是一日の食米五升にて、一月の食壹石五斗也、但此五升と云は、今日本の五合に當るなり、されば漢書の食貨志にも云く、今一夫挾二五口食一人月一石半、五人終歳爲二粟九十石一と見えしも、人一日に五升を食事しられたり、
p.0009 酒食(サケイヒ) 凡人一日の糧五合にして、五合は稻米三萬一千九百粒也、〈是一升に盛こと六萬三千八百粒の筭數をもていふ、固本録には、一升に盛こと六萬六千粒とあり、是米と升との大小差あるによれり、〉一穗三百餘粒の穗にして、八十八本ならでは三萬一千九百粒には充がたし〈凶年ならば、稻穗二百本以上にて五合に充べし、〉是にて人一日食ふ所の米數萬粒を費して命を續ことを思ふべし、
p.0009 人間一日の食料五合と定りしも、古き時よりの分料と見へ、其以前は定りなきこと見えたり、二合五勺飯、新武者物語に云、人の食物は朝暮二合五勺づゝ然べしと、瀧川左近將監積り定められしなり、按にこれ一度の分量を云、朝夕にては五合なり、
p.0009 人間一生を五十年と見て、〈○中略〉食ふ所の米いくばくもあらず、生れてより十五歳まで、一日の食を白米三合と見て、拾六石二斗、十六歳より五十歳まで、一日の食白米五合と見て六十三石也、統計七拾九石貳斗、これを三斗五升俵にして、貳百廿六俵壹斗なるべし、
p.0009 三條中納言〈某卿〉は、人にすぐれたる大食にてぞ有ける、さるにつけては、おびた だしく肥ふとりて、夏などに成ぬれば、くるしくせられけり、六月の比醫師をよびて、かく身のくるしきをば、いかゞ療治すべきなどいひて、物くふやうをもくはしく語りければ、醫師うちうなづきて申けるは、いかにも此肥滿そのゆへにてぞ候らん、良藥もあまた候へ共、先朝夕の御飯を、日ごろよりはすこししゞめられ候て、けふあすはあつくも候へば、水飯つけを時々まいり候て、御身のうちをすかされ候へかしとはからひければ、實もさやうにこそせめとて、醫師はかへりにけり、ある時水飯くふやう見せんとて、かの醫師をよびたりければ來てけり、まづしろかねのはちを口一尺五六寸ばかりなるに、水飯をうづだかにもりて、おなじきかいをさして、靑侍一人おもげに持て前に置たり、又一人鮎のすしといふ物を、五六十計おかしらをして、それもしろかねのはちにもりて置たり、いづれもあなおびたゞしや、われにも饗應せんずる料やらむと、醫師は思ひけるほどに、又あをさぶらひ一人たかつきに大成銀のうつは物二つすへて、中納言のまへに置、此二のうつは物に水飯を入て、すしをさながら前へをしやりたれば、此水飯を二かきばかりに口へかきいれて、すしを一二づゝ一口にくひてけり、かくすること七八度になりぬれば、鉢なりつる水飯も鮎のすしもみなに成にけり、醫師これを見て、水飯もかやうに參り候はんにはとばかりいひて、やがてにげ出にけるとかや、
p.0010 能因ハ凡小食云々、兼房朝臣許ニ迎罷之間、如レ菜不レ勸、纔ニ飯バカリヲ食テ過云々、 兼房君アヤシミテ、食物之時伺見之處、勸童丸ヲ召寄テ、彼懷ヨリ紙ニツヽミタル物ヲ取出テ、加レ飯食云々、如レ粉物云々、何等物乎云々、不審云々、
p.0010 江村專齋 專齋自二少壯一務爲二修養一、齒過二九十一視聽不レ衰、無下與二少壯時一異上矣、後水尾上皇聞レ之、召見問二修食之術一、專齋奏曰、臣固無二他術一、平生唯持二一些字一耳、上皇問レ故曰、喫レ食些(○○○)、思慮些、養レ生亦些耳、上皇大感二賞之一、
p.0011 畝問池答〈南畝問、輪池答、〉 問、古は日に三度づゝ食事いたし候哉、軍中には夜食なしと承候いかゞ、莊子に莾蒼にゆく者は三 して足るといへば、かの方にても、一日に三度に候哉、此方の古書にて御考等無レ之候哉、答、西土の故實はいまだ考ず、皇朝にては治亂の差別なく、さだまれる食事は、上一人より下万民まで一日に二度なり、その證は天子大床子御膳〈内膳司の供する所〉二度也、〈○註略〉此外に朝餉の御膳〈女房の御供仕〉三度めし上らることあり、これは内々の事ゆへなるべし、〈○註略〉武家の式もさぞ有けん、御當家にても朝夕は御汁添御菜數もあり、御三度めは御汁も添ず、御菜數も少なし、又永夜には御四度めもあれども、猶更事そぎたるさまなり、享保の御時は、昔のためしを思召けるにや、御三度めは召上られざりし也、今も田舍にて節供には二度〈朝五時夕七時〉食する所あり、〈兒玉郡の風俗、常は三度なり、其上に長日に小晝飯を用、永夜には夜長といひて食することあり、これ朝夕二度の外はみな臨時に設くる意なるべし、〉武家にて二合半二度を一人扶持といふも、古きさだめなるべし、
p.0011 武家にて晝飯くふこと昔はなし、其も動きはたらく者はくひしなり、今昔物語などに、晝の養は往々見えたれど、夕飯は見えず、これ又多く二食なるにや、籠耳草子に、侍は中食といひ、町人はひるめし、寺がたには點心、道中はたごやにては晝息みといひ、農人は勤隨、御所方にては女中のことばには御供御といふ、これをあやまりておこゞと云はわるしといへれど、さばかりにも非ず、きのふはけふの物語、ゑんりやくじの小ぼうし、御とき過て山へ木葉かきに行とて、ちごのちうじき(○○○○)をぜんだなにあげをき、其下に小ぼうしがひるめし(○○○○)もおきて云々、小法師ばら山へ行さま、おちごさまこゝに御ひるが御座る、九をうつたらばきこしめせと申云々、
p.0011 飯 節信又按ずるに、いにしへよりあさげ(朝食)ゆふげ(夕食)といひて、ひるげといふこと聞えず、中飯は後世の 事なるべし、海人藻芥に、毎日三度の供御は、御めぐり七種、御汁二種也、御飯はわりたる強飯を聞召也と有、〈後世も、供御はこはいひとみゆ、〉武家の中飯は無下に近世のこと也、武者物語に、〈○中略〉また室町殿日記、飯の論に付きて打果す事の段に、瓊長老の家中に市村喜平次と云ふ侍ありけり、朝飯を侍ども百人ばかりおし並て喰けるに、喜平次いひけるは、二合半の食は武家に定まる所、〈○中略〉云々とあり、新武者物語に、人の食物は朝暮貳合五勺ヅヽ然るべしと、瀧川左近將監積り定められしといへるは誤なり、一日五合の食は瀧川の某に始りしにあらず、又おあんものがたり〈此おあんといふ老女は、寬文年中歳八十にて終はる、〉に晝めしなどくふといふ事は、夢にもないこと云々とあり、又ひるげといふも古には聞えざれ共、狂言記つたう山伏にその言見えたり、〈これも、旅山ぷしと、柴かりとのことにて、皆かせぎはたらく物のくふ也、平食には非じ、〉又籠耳といふものに、〈貞享四年印本〉夕飯喰ふさへ佛はいましめて、非時となづけ給ふ、まして晝食くふ事、佛の御心にたがひたる事也、されども大工屋根葺すべての職人、冬の短日といへども、極めて晝食をくふ、然らば職人はなべて佛の罪人にして、後の世もおそろしき事なるべけれど、つゐに職人の地ごくといふ事を聞ず、中食くはぬ武家の佛になりたる證據もなしなどいへれども、此頃は武家も中食くはぬ事なきにあらねど、只そのかみのさだめをかくいへるなめり、武家もと二食にはあれど、軍陣その外骨をりはたらく時は、一日五合の限にはあらぬなるべし、又いにしへすべて二食なりし時も、さの如く骨折るものは中食なくてやあるべき、枕草紙にたくみの物くふこそいとあやしけれ云々、東おもてに出ゐて見れば、まづもてくるやをそしと、しる物とりてみなのみて、かはらけはつひすへつゝ、つぎにあはせをみなくひつれば、おものはふようなめりと見るほどに、やがてこそうせにしか、二三人ゐたりしものみなさせしかば、たくみのさるなめりと思ふ也、あなもたいなのことゞもや、とあるも中食なるべし、いかにといはゞ、朝夕は物いそがはしき折なるに、大工等が飯のくひやうなど、かく細やかに見をらむことあるまじければ なり、
p.0013 あさけゆふけ(○○○○○○) 朝食夕食の義也、古事記の歌に見ゆ、饔飧を訓ずべし、今も信濃のそのはらふせやのあたりにては、朝飯を上下通じてあさけといへり、
p.0013 朝夕餐 あさゆふのめし 賜二朝夕餐一は、今江戸にては御臺所を賜はるといふ是なり、たゞ單に朝夕餐といふは、つねに人のものする朝夕飯なり、
p.0013 祈年祭〈○中略〉 水分坐皇神等〈能〉前〈爾〉白〈久、○中略〉皇神等〈爾〉初穗〈波〉穎〈爾毛〉汁〈爾毛、〉 閉閉高知 腹滿雙〈氐、〉稱辭竟奉〈氐、〉遺〈乎波〉皇御孫命〈能〉朝御食夕御食(○○○○○○)〈能〉加牟加比〈爾、〉長御食〈能〉遠御食〈登、〉赤丹穗〈爾〉聞食故、皇御孫命〈能〉宇豆乃幣帛稱辭竟奉〈久登、〉諸聞食〈登〉宣、
p.0013 定詞 晝御膳(○○○)〈謂二朝夕膳一〉
p.0013 一御膳事 凡御膳、大床子御膳(○○○○○)、〈上古朝夕、近代一度供レ之、〉朝餉御膳(○○○○)〈朝夕夜供〉皆一度供レ之、此御膳等近代主上不レ著、〈○中略〉朝巳時夕申時(○○○○○○)之由、寬平遺誡也、但三度供之間、近代晝未時、夕入レ夜歟、
p.0013 日中行事 午一剋供二朝膳一(○○○○○○)事 藏人式云、午一刻、大炊、内膳、主水、造酒、采女等寮司、及進物所之供二御膳一、采女傳取捧二進女藏人一、傳〈○傳字當レ在取奉更衣上一、〉女藏人取奉二更衣一、又進二於御一了、更衣女藏人撤却、采女受レ机各返二授所司一、次主水司供二御嗽一、采女捧持、更衣女藏人傳取供二於御一、了撤却返二授同前者一、 定男陪膳番次文云、先觸二女房一、若有二闕怠一、守レ次供 奉者、 今案、進物所御厨子所供膳、不レ足二九種一、先申二其由於藏人一、然後供進、又御精進時者、内膳司及上御厨子所等辨備供進也、〈○中略〉 酉一剋供二夕膳一事(○○○○○○○) 藏人式云、申二剋供二夕膳一、具同二朝膳一者、今案年來日記、以二酉一剋一爲二夕膳剋一、餘同レ朝、〈○下略〉
p.0014 朝の御膳は午刻(○○○○○○○)也、それよりさき日つぎ御にへまいらせたらば、小庭の御ものだなにをく、申の刻に夕の御飯(○○○○○○○○)まいる、其さほう朝におなじ、四月賀茂の祭の日は、ひるを供ずる也、御膳はてゝ殿上夕の臺盤あしたに同じ、
p.0014 十七年三月戊寅、詔二土師連等一、使レ進下應レ盛二朝夕御膳一(○○○○)淸器上、
p.0014 次朝暮膳(○○○)、如レ常勿二多飡飮一、又不レ待二時剋一不レ可レ食レ之、詩云、戰々慄々、日愼二一日一、如レ臨二深淵一、如レ履二薄氷一、長久之謀、能保二天年一、
p.0014 慶長九年三月十九日、けふより御せんくはじまる、〈○中略〉あか月よりはじまる、御かゆまゐる、朝く御(○○○)まいる、ひる折くもじ(○○○○○○)まいる、夕かたく御(○○○○○)まいる、七時分にはつる、廿日、けふもあか月よりはじまる、御かゆく御きのふとおなじ、
p.0014 遷都附將軍塚附司天臺事 法皇〈○後白河〉ヲバ、福原ニ三間ナル板屋ヲ造テ、四面ニ波多板シ廻シテ、南ニ向テ口一ツ開タルニゾ居ヘ進ケル、筑紫武士石戸(イシト)ノ諸卿種直ガ子ニ、佐原ノ大夫種益奉二守護一ケリ、一日ニ二度(○○○○○)如レ形供御ヲ進セケリ、
p.0014 内御方 晝御膳 高盛七坏 平盛一坏 御汁物二坏〈土器〉 燒物二坏 已上魚味、盛二土器一、以二内膳司所一レ進、〈近年日別蚫二連添レ之〉當旬番衆於二御厨子所一請二取之一盛進也、但六齋、御齊會、 最勝講、佛名等日、高盛精進各四種、〈内膳司所レ進、近年添二和布一、〉居二交之一、刻限渡二御膳宿一、於二御殿一供レ之、〈各居二平御盤一〉藏人仰 云、高盛トクヤ云々、番衆答申、マイルト云々、番衆傳二職事一、〈六位或直傳二人〉御臺盤采女先舁レ之、藏人奏云、 ヲモノ、〈別音〉日別二ケ度(○○○○○)也、〈近年重供レ之〉若御方違以下經宿行幸之時、朝御膳(○○○)於二内裏一供レ之、夕御膳(○○○)於二儲 御所一供レ之、又元三者内陪膳、彼時番衆不レ相二從之一、 記云 晝御膳 一御盤 四種〈銀器〉 御箸二雙〈銀〉 匕二支〈同〉 木箸二雙 二御盤 御飯〈在レ蓋銀器〉 三御盤平盛五種〈銀〉 窪器一坏〈同〉 四御盤 窪器一坏〈銀〉 平盛一坏〈同〉 御汁物二〈同〉 御酒盞一〈同〉 五御盤 御湯器一口〈銀〉 阿末加津土器 六御盤 高盛七坏〈盛二土器一〉 平盛一坏〈同〉 七御盤 御汁二坏〈土器〉 燒物二坏〈同〉 已上、六七御盤、御厨子所辨二備之一、
p.0015 一梶井殿〈○堯胤親王〉平生御膳、〈一日兩度(○○○○)也〉御器〈表裏黑漆也、無紋也、〉江州クルシノ庄ヨリ毎年進納、〈今ハ不レ納〉
p.0015 古き侍の物語にいはく 北條氏康公の御まへにて、御嫡子氏政公、御食の御相伴をなさるゝ時、氏康公御覽ありて、御なみだをながし給ふ樣は、北條の家は、われ一だいにておわりぬるとの仰なり、氏政公は申に及ばず、家老衆までこと〴〵く興さめがほにならるゝ、其後氏康公のたまふは、たゞ今氏政が食物もちゆるをみたるに、一飯に汁を兩度かけて食する也、およそ人間はたかきも下きも一日に兩度づ(○○○○○○)つの食なれば、是をたんれんせずといふ事なし、一飯に汁をかくるつもりをおぼえずして、たらざるとて、かさねてかくる事不器用なり、〈○下略〉
p.0015 十一日番文 一同日自レ朝迄二十七日夕一、於二御稻御倉一、母良並織女一人所レ奉レ織也、於二料糸一者、正員禰宜所レ進也、但一禰宜者、以二佐八御牧糸上分一勤進也、又七人禰宜毎日ニ一人勤仕、件食物日別ニ三ケ度(○○○○○○○○)飯酒也、但當時 件食物、傍官ノ禰宜ハ三百文宛、一禰宜ハ五百文被二下行一、
p.0016 阿育大王ノ事 泉涌寺ノ僧ノ申シハ、舍利弗ノ一搏(タン)食ノ事ヲ、律ニ一搏ノ食ヲ水ヲ以テコレヲ足トイヘリ、五穀水味殊勝ニシテ、人ノ器ツヨキ昔ハ尤モ然ルベシ、今ノ末世ニハ、人ヨワク五穀又氣味ナシ、持齋シガタカルベシ、四五度モ食スベシト、此事耳ヨリナリ、鑒眞和尚、日本ヘ渡リ給タリシ昔シハ、寺寺只一食ニテ朝食一度シケリ、次第ニ器量ヨワクシテ、非時ト名テ日中ニ食シ、後ニハ山モ奈良モ三度(○○)食ス、夕ノヲバ事ト山ニハ云ヘリ、未申ノ時バカリニ非時シテ、法師原坂本ヘ下リヌレバ、夕方寄合テ事ト名テ、我々世事シテ食スト云ヘリ、
p.0016 毎日三度ノ供御(○○○○○○○)ハ、御メグリ七種、御汁二種ナリ、御飯ハワリタル強飯ヲ聞召ナリ、
p.0016 家綱公御本丸御移徙之時御條目 一御臺所頭御條目 定〈○中略〉 一毎日早朝御臺所頭壹人宛罷出、三度目之御膳(○○○○○○)被二召上一之以後迄相詰、奥之御臺所者勿論、御表御臺所之間まで見廻、諸事堅可二申付一事、〈○中略〉 右條々、堅可レ相二守此旨一者也、 萬治二年九月五日
p.0016 朝爨(テウサン)〈朝飯之義也〉
p.0016 朝飯 朝食(ケ)
p.0016 饔(アサメシ)〈本作レ 、朝食也、〉
p.0016 あさがれひ 朝餉とかけり、天子の朝の供御をいふ辭也、又御祝の御膳を稱す、
p.0017 慶長八年五月廿三日、島津龍伯之使者相良橘右衞門來也、朝食(○○)申付、二位ヨリ御祓書状、予書状、弓弦廿張返事相渡了、
p.0017 夕食(ケ)
p.0017 晩(ハン)炊〈非時之事〉
p.0017 晩炊(ハンスイ)〈夕食也〉
p.0017 飧(ユフメシ)〈夕食也、故从レ夕、誤作レ飧者非、〉
p.0017 養性事 養性ハ醫書ノ中ニ多ク記セリ、〈○中略〉大旨ハ、旦ヨリ午時マデハ恣マヽニ食スベシ、未申ノ後ハ食ヲ減ズベシ、夜食尤脚氣等ノ諸病ニ不レ調事也、然ルニ世ニ有テ大ナル人ハ、終日ニ出仕シテ晩ニ及テ歸テ、種々ノ美物ニテ飽食シ、飽酒シテ、房事ナド行スル、大ニ養性ニソムク、發病ノ因縁也、
p.0017 さて今は天下しろし召す將軍家にても、又は大國の諸侯にても、正月元日より三日までは、嘉儀さへ朝晝は御料理を召し上らるれども、晩食(○○)は御長豆腐と唱へて、八杯豆腐のみを召し上がらるゝことなり、まして平日は猶更のことなり、貴人高位の禮法は、晩食は一統に粗薄なるものなり、士庶人の家にても、古禮法を失はざる家は、晩食茶付香物と云ふこと、一統の常例なり、〈○中略〉予は此禮の起りを知りたり、是れは佛家の戒法に、非時の食を禁じて、晝の午時より後は一粒をも食せざること、沙彌の十戒よりして然り、中古王室の盛なる時、天子も攝關も皆佛法に歸依して、佛戒を受け給へり、俗人は戒律僧の如きことは得て成がたき故、晩食を少き樣に、精進齋素の如くにしたるものなり、晩食を齋素にする、皆婬慾を禁じ、婬慾を薄くするの方法、晩食に膏梁滋味、或は醇酒厚味を飽滿せるときは、氣力盛にして婬慾勃動す、釋氏の法は、身體を尫羸ならしめ、婬慾の薄からんことを願欲す、晩食を禁じ晩食を薄くする、皆其方法ならずや、され ば今の禮法の八杯豆腐香物茶づけ、實は可レ笑の甚き事にて、妻妾を具有するものは、夜食には肥肉醇酒を飮食して、氣力を張旺ならしむべきこと攝養の術なり、
p.0018 慶長八年正月卅日丁亥、於二二位卿一祝衆ヘ圍碁興行ケン物、鳥目廿錢勝負、晩食(○○)在、五月廿二日、於二豐國二位宅一、勝負碁興行、懸物〈三百疋〉刑部豐後兩人、晩食(○○)用意申也、禰宜祝已上廿二人也、
p.0018 慶長八年二月二日己丑、伏見へ發足、先豐光寺兌長老ヘ罷向、〈○中略〉申刻令二同道一登城、ヤガテ内府〈○德川家康〉出座、奥座敷也、夕飡(○○)御相伴了、入レ夜五六人同振舞有レ之、濟々之儀也、
p.0018 晝食(チウジキ)
p.0018 晝食(チウヂキ)
p.0018 (ヒルメシ)
p.0018 晝食 畿内にておこゞ(○○○)といふ、南都にてけんずい(○○○○)といふ、今按に、東國の農家にて、午未の刻の間に食事爲を、こぢうはん(○○○○○)と云、或村老の云、晝食をこぢうはんとなづくるは、午時(こじ)半と云意なりとぞ、予おもふに、農民は形を勞する事はなはだしければ、日の長きころは、ふたゝびも食すべし、再びめの晝食なるが故に小晝飯なるべしや、駿河國にて、やうびるい(○○○○○)と云は、夕晝飯の轉語にや、土佐の國にて、こびるま(○○○○)といふ、是におなじ、土州にては、晝食をひるまといひ、〈ひるまなり〉夜食をよいと云、〈夜飯なり〉上總下總にてこうだいごろ(○○○○○○)と云は、是は晝飯をいふ、〈こうだいとは、汁椀をいふなり、〉
p.0018 晝飯の事 朝飯(ゲ)夕飯が三度となりしは、田舍より起りし事なるべし、農民はことに骨をればなり、今は小中飯(コヂウハン)ととなへ、日の長き頃は四度喰田舍あり、中飯又晝飯といふも、則田舍詞なり、今も心あるものは晝に喰を夕飯ととなへ、夕に喰を夜食といひ、晝飯といふことをいはず、〈○中略〉柳翁曰、間食は則中飯、延喜式に見えたるは給ふなり、靈異記なるは私に喰ふなり、酒を釀し稻を舂くともに骨折 者なり、 宇治拾遺物語、是も今は昔南京の永超僧都は、魚なき限りは、時非時もすべてくはざりける人なり、公請つとめて在京の間久しく成て、魚くはでくづをれてくだるなしまの丈六堂の邊にて、ひるわりご(○○○○○)くふに、弟子一人近邊の在家にて、魚をこひてすゝめたり云々、非時を晝破子といふ、今日晝辨當なり、
p.0019 天治元年十月廿六日己巳、未刻雨降、寅刻御厨子所供二御盥御膳等一、卯刻出御、〈初供二麻履一〉自レ玆捨二車馬一、始向二幽邃峯一、御歩早速、殆難二追從一、僧正行尊身體強健、行役無レ怠、耆年宿德之人、不レ泥二徒歩一之事、是多年修行之功、壯齡練習之力也、先レ是大僧都證觀遙指二前程一、兼就二行路一、丹生高野鳥居前、立二五丈幄一、中央間立二黑漆大床子二脚一、其上敷二繧繝端疊二枚一、其上供二豹敷皮一〈錦端〉爲二御所一、其左右敷二高麗端疊一爲二侍臣座一、午刻於二此處一供二晝御膳一(○○○)、御座前兼供二蒔繪手筥破子一合一、御座定之後、公卿殿上人、依レ仰皆悉著座、兼居二菓物一、又追二居檜破子一、大僧正從僧設レ之、此間大僧正逐電前行、〈肩輿〉御箸下有レ仰、臣下應レ之、御膳畢供二御手水一、即出御、
p.0019 一殿中ノ朝ノ御臺ヲバ、御サンバ計被レ召、大御所樣ヨリ御カヘリ以後晝御臺參、次ニ御椀飯、上古ハ酉剋計ニ始ル、近代ハ夜ニ入、〈○下略〉
p.0019 慶長八年三月廿九日、御れんがあり、御人數八でう殿、くげしゆう九人、しこうあり、折にてくもじ參る、ひるく御(○○○○)まいる、
p.0019 一延暦寺にて、下法師山へ行く時、兒にいふ、晝の飯(○○○)をば棚に置きたり、九ツなりてあらばまゐれと敎へぬ、彼下僧案の外、常より早く晝以前にしまひてかへり見れば、兒の飯なし、是は不審やと問ふ、とく早くふたと、返事せらるゝ、いまだ九ツはならず、いかでかと申せば、いやけさ五ツ、さきに四ツうちたれば、九ツなつたほどにそれにくふたはと、
p.0020 慶長八年三月五日、吉野一見發足、 九日、泊瀨nan到二木津一九里、一宿、〈○中略〉布留ヘ詣、社川橋等ニ詠吟シ、橋邊ニテ中食(○○)ヲ用、十日、木津nan立、於二巨椋一窪田新介宿ニテ中食ス、
p.0020 慶長八年十一月十四日丙寅、女院ヘ參了、禁中ト女院ト間廊下新造了、後ニ始而出御了、御振舞已後、前ニ兩度マデ御對面御雜談、了中飡(○○)濟々也、次御還御了、
p.0020 往昔大猷院樣〈○德川家光〉御代、御咄ノ衆トテ毎日登城シテ御譚話等申上ラレシ衆中、毛利甲斐守秀元、丹羽五郎左衞門長重、蜂須賀蓬庵、林道春等ナリ、是等ノ衆中代ル〳〵登城シテ、夫々ノ館ヨリ辨當參リケル迚、萩ノ間ニテ寄合是ヲ食シタマフ、珍敷菜抔アレバ、互ニ取カハシテ賞シ給ヒシトカヤ、毛利侯ノ辨當ニ鮭ノ有ケレバ、是ハ珍敷トテ皆賞味セラレシト也、阿部對州ハ燒飯ヲ紙ニ包テ持參アリ、御晝食ニ召上ラレシ其包紙ノ皺ヲノバシ、其紙ニ付シ飯ヲ拾ヒテ是ヲ給ラレ、其跡ヲ鼻ヲカミナドセラレシヲ見ル者有シトナリ、
p.0020 芝居茶屋 中飯、江戸ハ幕ノ内ト號ケテ、圓扁平ノ握リ飯十顆ヲ僅ニ燒レ之也、添レ之ニ燒雞卵、蒲鉾、コンニヤク、燒豆腐、干瓢、以上是ヲ六寸重箱ニ納レ、人數ニ應ジ、觀席ニ持運ブヲ從來ノ例トス、專ラ茶屋ニテ製スコト勿論ナレドモ、小屋ハ自家ニ調レ之ズ、芳町ニ製レ之店アリテ、一人分價錢百文トス、笹折ニ盛リタリ、是ヲ茶屋ニテハ重ニ詰サセテ客ニ出スモアリ、今ノ地ニ遷テモ芳町ヨリ出店ヲ出シ、兩店トモ萬久ト云、名物ノ一也、 又客ノ好ミニヨリ是ヲ用ヒズ、茶漬或ハ本膳ヲモ調ズル也、是ハ專ラ芝居ニ運バズ、茶屋ニテ食ス、
p.0020 晝辨當を晝養(○○)といふ 今俗晝の辨當といふは、古く晝養といへり、今昔廿九の廿三語に、晝ノ養セムトテ藪ノ中ニ入ル ヲ、人近ニハ見苦シ、今少シ入テコソト云ケレバ深ク入ニケリ、
p.0021 具レ妻行二丹波國一男於二大江山一被レ縛語第廿三 今昔、京ニ有ケル男ノ、妻ハ丹波ノ國ノ者ニテ有ケレバ、男其ノ妻ヲ具シテ丹波ノ國ヘ行ケルニ、妻ヲバ馬ニ乘セテ、夫ハ竹蠶簿(エビラ)箭十計差タルヲ搔負テ、弓打持テ後ニ立テ行ケル程ニ、大江山ノ邊ニ若キ男ノ太刀計ヲ帶タルガ、糸強氣ナルニ行烈ヌ、〈○中略〉而ル間晝ノ養(○○○)セムトテ、藪ノ中ニ入ルヲ、今ノ男人近ニハ見苦シ、今少シ入テコソト云ケレバ深ク入ニケリ、
p.0021 夜食(ヤシヨク)
p.0021 夜長 夜食を夜長といふ
p.0021 お夜長の御膳 婦女の詞に、夜食をオヨナガといへり、こは禁中にて大床子の御膳のおろしを、女中の夜食にくふを夜長といへり、これより出たる詞也、
p.0021 著聞集に、左京大夫顯輔卿のもとへ、或人ことをしておくりたりけるに、櫻花かざしなどしたりけるを、僧どもおほらかにくらひける云々とあり、此のことゝ云は、僧の夜食なり、無住が雜談集〈三〉に、〈○中略〉法師原坂本へ下りぬれば、夕方寄合て事と名づけて、我々世事して食すと云りとあり、世上の俗は、三度して夕食あれば、これを世事と云にや、事とは世字を省きて云るなるべし、
p.0021 凡陸奧國兵士間食料米二千八百八十斛、〈人別日八合〉割二年中所レ輸租穀内一毎年充レ之、
p.0021 織手共造機工卅五人、各給レ粮日黑米二升、間食(○○)四合、薄機織手五人、各日白米一升六合、絡絲女三人、各日米一升五合、
p.0021 擇レ薑女孺單五十人、女丁十二人半給二間食一、〈人別日八合〉
p.0022 新嘗會白黑二酒料〈○中略〉 右九月二日、省并神祇官赴二集司家一、卜二定酒部官人仕丁各二人、〈○註略〉舂稻仕女四人一、〈○中略〉十月上旬 擇二吉日一始釀、十日内畢、酒部二人、官人各給二潔衣一、〈○中略〉釀レ酒日給二間食一、〈舂稻女丁亦同〉
p.0022 狐爲レ妻令レ生レ子縁第二 昔欽明天皇〈是磯城島金刺宮食國天皇、天國押開廣庭命也、〉御世、三野國大野郡人、應レ爲レ妻覓二好孃一、乘レ路而行時、曠野中遇二於姝女一、其女媚レ牡馴睇之、牡睇レ之言、何行稚孃之、答言、將レ覓二能縁一而行女也、牡心語言、成レ妻耶、女答言、聽、即將二於家一交通相住、比頃懐任生二一男子一、〈○中略〉年米舂時、其家室於二稻舂女等一、將レ宛二間食一、入二於碓屋一、
p.0022 屋代輪池先生曰、間食謂下於二朝夕食時之外一食上レ之、行阿假名遺作二硯水一(○○)、古寫本或作二間水一(○○)、皆假借也、今京都及大和國俗語即爾、愚按、周禮膳夫職云、凡王之稍事(○○)、設二薦脯醢一鄭司農注云、稍事謂下非二日中大學時一而間食上、謂二之稍事一、
p.0022 硯水〈咸陽宮作時、依レ高硯水凍、入レ酒則硯水不レ凍、餘酒大工飮レ之、今世傳來曰二硯水一也、〉
p.0022 硯水(ケンズイ)
p.0022 建溪(ケンケイ)〈農家晝食〉 建水(ケンスイ)〈同上〉
p.0022 農民、餔時前に食するをケンズイと云、間炊なるべし、建水と古く書來れど、據をしらず、
p.0022 今世造作をせる時、諸職人に三時の食物の外に、勞を慰むるために、酒餅の類を與ふるを、けんずいといふ、其字も義もしらず、唯ならはしにて、いふものも聞ものも、此事と心得るなり、然るに此頃、藤叔藏藏せる古文書の零紙を見るに、硯水の字を用ゆ、 天正十九年六月 櫓造作入目注文と題せる數條の内 三十文 粽 硯水一日分 同ヲカ 引ノ内 十六文 酒 硯水 硯水と書る仔細は未レ聞、もし硯の乾きたるに水をうつすがごとく、疲たるものに酒菓を與へて是を慰め用をなす義にや、されど是は推量の設なり、橘洲は間食(ケンズイ)かといへり、
p.0023 硯水 東牖子云、農民餔時前に食するをケンズイと云、間炊なるべし、建水と古く書來れど、據をしらず、〈○中略〉靈異記、延喜式の間食は、後世の硯水とは異なるべし、又按ずるに、運歩色葉集云、硯水、咸陽宮作時、依レ高硯水凍、入レ酒則硯水不レ凍、餘酒大工飮レ之、今世傳來曰二硯水一也、とあるによれば、硯水はもと酒をいへるを、うつりて他の食物をも工匠にあたふるをば、硯水とよべるならん、
p.0023 一至德元年十二月九日、若宮神主殿〈祐右〉ノ御宿所ニテ幕串ヲツクル、百卅本也、此時ケンズイ(○○○○)六升、御供二前、御奉行ヨリ大工ニ給ル、 一至德二年二月十三日、御事始アリ、其次第、先規ノゴトシ、番匠方ヨリ三方ノ常住ニケンズイアリ、フキノ方ヨリモ同ジクアリ、 一同八月廿五日、米ヌリニ、三方常住ニケン水代、南北エ六百文、若宮エ二百文出候、
p.0023 それよりもまだ江戸にないことがありやす、春から夏へかけて日の長い時分になりやすと、晝飯から夜食の間に、又飯を一度喰ひやす、是を八ツ茶(○○○)とも小晝(○○)ともいひやす、京都にてはケンズイ(○○○○)といひやす、万松、始めて承りやした、小晝も八ツ茶もわかりやすが、ケンズイといふは、どふいふ訣でありや正、鶴人、鐘成さんの説に、ケンズイは文字で書ニは、間炊と書がよかろうといはれやしたが、至極面白ふおぼえやす、千長、なるほど晝飯と夜食の間にくふのでありやすから、間に炊の字は面白厶りやす、
p.0023 點心
p.0023 點心(テンシン)
p.0024 點心(テンジン)〈僧家、定食前後小食云二點心一、見二畷耕録一、〉
p.0024 點心者、水纎、温糟、糟鷄、鼈羹羊羹、猪羹、驢腸羹、笋羊羹、砂糖羊羹、饂飩、饅頭、索麵、棊子麵、卷餅、温餅、〈○中略〉點心料被二送進一者、可レ爲二無遮之御計一也、
p.0024 一糟雞の事、庭訓往來の、點心者水纎(スイセン)、温糟(ウンゾウ)、糟雞(ソウケイ)とあり、尺素往來にも碎蟾、糟雞とあり、そうけいのこしらへ樣、前點式に云、即劈二蒟蒻一以二淡醬一烹者也云々、此心は、こんにやくを切て、薄きたれみそにて煮たるをさうけいと云也、〈右ハ明和四年金地院ヨリ、京都相尋シ答也、〉
p.0024 點心者可レ爲二水煎、糟雞、籤羹、鼈羹、驢腸羹、水晶包子、駱駝蹄、砂糖饅頭、乳餅、白魚羹、餛飩、卷餅、素麵、打麵、冷麵、竹葉麵、乃至水團、紅糟一候也、
p.0024 點心者先點二集香湯一而後碎蟾糟(スイセンザウ)、雞鮮羹(カン)、猪羹、驢腸羹、笋羊羹、海老(カイラウ)羹、白魚羹、寸金羹、月鼠羹、雲鱣(セン)羹、葚鼈(シンヘツ)羹、三峯尖(セン)、碁子麵、乳餅(シユウビン)、卷餅(ビン)、水晶包子、砂糖饅頭、 (バウ) 飩等、又索麵者熱蒸(アツムシ)、截麵者冷濯不レ可レ過二此等一候、此外先新年之善哉(ゼンザイ)者、是修正之祝著也、〈○中略〉點心菜者不レ要レ多矣、生蘿蔔、雞冠苔、冬瓜、藕根、蘘荷、蘘芡等之内、三種計可レ設レ之、於二點心菜一叵(ツクス)數事者、號二元弘樣一當世物笑候、
p.0024 點心類 饅頭 饂飩(コントン)〈渾屯二音、和名、〉 碁子麵(キシメン) 索麵(サウメン) 冷麵(レイメン) 索餅(サクヘイ) 卷(ケン)餅 乳餅(ニフヒン) 胡蝶(コテウ)麵 散索麵(サンサクメン) 冷<ruby><rb>淘</rb><rt>タウ麵
p.0024 一朝夕の飯の間に、うんどん又は餅などを食ふを、いにしへは點心と云、今は中食又むねやすめなどゝいふ、
p.0024 點心 てんしん 俗云茶子也、飯粥の類ひにはあらで、菓子の類にて心を點改する故也、これ禪家の詞也とのみ思ふは僻事也、唐の時既に有し事下にしるす、僧家にかぎらず、禪林小歌注、先點心次第、水晶包子云云、 畷畊録〈十七〉今以二早飯前及飯後一、午前午後晡前小食爲二點心一、唐史、鄭滲爲二江淮留後一、家人備二夫人 晨饌一、夫人顧二其弟一曰、治妝未レ畢、我未レ及レ餐、爾且可二點心一、則此語唐時已然、
p.0025 點心は野客叢書に、漫録謂、世俗例以二早晨小食一爲二點心一、自レ唐已有二此語一、鄭修爲二江淮留後一、夫人曰、爾且點心、或謂二小食一、亦罕レ知二出處一、昭明太子傳曰、京師穀貴、改二常饌一爲二小食一、小食之名本レ此といへり、空心にまつちとばかり物くふを點心といふ、今俗に虫おさへといふ類なり、こゝには飯後にくふ物をいへり、是も食後小食といへるに似たれども、食前にもあれ食後にもあれ、やうやう空心なる程にくふ食なるを、數多の料理喰て間もなく、又食はむ物をいふは、點心の本義にはあらじ、又佛事法會の終日の勤行に氣を屈する故、種々の物をこしらへ備るをもいへり、茶食とは名〈ハ〉かはれども、饅頭などはいづれにも用べし、此にて點心に用るは、大かた羹の類、麵の類に菜を添て食ひ、湯を飮ことなり、尺素往來にも、點心者〈○中略〉とあり、禪宗行はれて、是等の食物の法も傳へたるなるべし、但しもとは魚獸の肉を用ひしを、僧家には是を除きて製法をかへ、又こゝの人の口にかなふやうになし、又は其物の形色の似たるによりて、名ある物も有べし、後には名のみ同くて、物のいたくかはれるも有とみゆ、今の羊羹など是なり、
p.0025 小飯〈非時〉 今僧家飯後食二餅餌一謂二之點心一、即小食也、輟耕録曰、今以二早飯前及飯後午前午後晡前小食一爲二點心一、唐史、鄭傪爲二江淮留後一、家人備二夫人晨膳一、夫人顧二其弟一曰、治糚未レ畢、我未レ及レ餐、爾且可二點心一、則此語唐時已然、洪邁俗考曰、漫録謂、世俗例以二早晨小食一爲二點心一、自レ唐已有二此語一、鄭傪爲二江淮留後一、夫人曰、爾且點心、或謂二小食一、亦罕レ知二出處一、昭明太子傳曰、京師穀貴改二常饌一爲二小食一、小食之名本レ此、俗呼小録曰、午前午後小食謂二上晝點心下晝點心一、註引二昭明太子別傳一曰、京師穀貴改二常饌一爲二小食一、即點心也、明會典、四月八節端午節膳羞曰、小點心一楪煕按、小食之名、漢以來已有レ之、周禮天官膳夫、凡王之稍事設二薦脯醢一、註曰、鄭司農云、稍事爲下非二日中大擧時一而間食上謂二之稍事一、稍事即小食也、説文曰、嘰小食也、論語曰、肉雖レ多 不レ使レ勝二食氣一、陸德明釋文曰、氣如レ字、説文作レ既云小食也、邢炳疏曰、氣小食也、説文長箋曰、正飯之後有二小飯一、如二茶點之類一、北方謂二之小食一、飯之餘也、
p.0026 飯 又京坂ハ、未刻比ニ八ツ茶ト號ケテ、所レ謂點心ヲ食ス、蓋短日ニハ不レ食レ之、永日ノ比ハ專ラ食レ之、多クハ茶漬飯ヲ食スモアリ、江戸ニハ三時ノ外ニ例トシテ食スコト無レ之、
p.0026 七ツてんしんの事 一一ばんにさうけい、二ばんに水のこ、三ばんにやうかん、四ばんにうどん、五ばんにまんぢう、六ばんにきりむぎ、七ばんにむしむぎ、 右これをいふ也、常の御祝言のときはなきもの也、千部の經又はとんしやなどの時の事也、
p.0026 人の相伴する事 一點心の事、朝に參候を申候、ひる參をまんかんなど申由候、一獻などの時分何時も參候へ、公方樣などにても御點心と申、朝點心と云事はきかず候、 一點心の時參樣、是は禪僧作善などの時の事なり、先朝に茶をひかれ候、さて饅頭出候、それにむしむぎを引候へば、饅頭はめしわんに入候、武家にても作善の時同前、饅頭のくひやう、一取てをしわりて、なからをば殘たるまんぢうの上にをきなからをくふべし、さて殘たるをもくひたくばくふべし、くるしからず候、年寄たる人は、丸ながらもくふべし、又も二もくふべし、又作善の時は、僧達はさばの心にて、ちとちぎりて、右のさらに取置候、いづれも點心同然に候、むしむぎは、あげざまにわんへ入られ候、又いにしへは椀にまんぢう四入候樣に覺候、三ならべてわんニ入、ひとつ上に置たると覺候、定て覺違にて可レ有候、又饅頭の參時は、茶をひかれ候間、さうけい(糟雞)は不レ出候か、慥に不レ覺候、 前 insy_1_0027_001.gif まんぢうのこきり物、二色一色にても不レ苦候、此こを汁へ可レ入、但入候はぬも不レ苦候、若き人などは、入候はぬも能候、年寄はかうのものなどを、さいのやうに、まんぢうにくひそへたるも能候、若人はゆめ〳〵有べからず、
p.0027 一點心の時出る湯藥は、湯にてもまた酒にても飮事あり、貴人へは盆に天目をすへ、藥を包、檜の茶匙をそへ出す也、相伴へは藥を直にてんもくに入、茶匙を組付、二ツ三ツくみ付持出、引おとしにして、跡より湯を引也、〈○中略〉 一點心の粉 胡椒 杏仁 山椒 右等分細末し、かはらけにもる也、
p.0027 一點心の時、汁にすりこ候、其を汁に入候事勿論候、但若衆などは入候はぬが能候歟、又再進の汁を請て、其にもすりこを入候事惡敷候、一番計入候也、
p.0027 三〈ッ〉點心之次第 酢菜 すさいか 一〈ニ〉はうばんか、こづけか、こづ けの時は、しるあるべし、 二もち 三めんす 芳飯の事常よりめづらしき仕立なり
p.0027 一公方樣御發向事、〈○中略〉天下有二御靜謐一、建長寺爲レ始、諸五山ヘ公方樣ヲ請被レ申、藥師 如來ト云、出御之儀式、入院又ハ年始歳末以下之時ニハ相替也、〈○中略〉藥師如來被レ唱時、自二寺家一燒香侍者行者總門マデ參、從二山門一始テ佛殿、土地堂、祖師堂、觀音殿、御燒香悉過テ後、於二方丈一點心御時ヨリ、往寺以下御相伴ニ被レ參、
p.0028 得二佛敎之宗旨一人事 金剛王院ノ僧正實賢、年タケテ後佛法ノ心地アル弟子ニ、物語セラレケルハ、〈○中略〉武州ノ或寺ノ長老、宋朝ニワタリテ、彼寺ノ行儀ヲウツシヲコナフ故ニ、十三人ノ僧ヲ、十二人ハ寺官ニサシテ、點心イトナミケル時、一人ノ僧ヲバ、堂僧トテ點心ヲクハセズ、大ナル寺ニ堂僧オホカル故ニ、官人バカリニ點心スルヲ、マホル格式オコガマシクコソ、此事ハ宋朝マデ聞タル勝事也、
p.0028 貞和二年二月十七日、太上天皇〈持明院殿○光嚴〉臨二幸當山一、〈○中略〉當下獻二點心一時上、住持退出、〈昨夜雨降明朝未レ晴、因レ玆臨幸遅矣、住持豫喫レ齋了、是故不レ著レ座矣、縱雖二齋前一、住持不二著座一爲レ宜、〉獻二點心一後雨晴、幸二龍門亭一、〈亭内敷二一文一帖一、其餘皆用二圓座一、〉
p.0028 寬巳〈○寬正二年〉三月十一日壬子、平旦有二點心之供一、供畢開二妙典頓書之會一、寬午〈○寬正三年〉正月五日辛丑、赴二永安之招一、有二點心之設一、 二月一日丙寅、黎明有二點心之供一、相會者三十餘員、皆南禪相國之徒也、
p.0028 天文八年六月十五日、南御所瑞花院殿より文在レ之、今日しゆ光院殿廿五年御佛事、仍てんしん(○○○○)御とき等もたせ被レ下也、各めされ候、〈○下略〉
p.0028 天文十一年三月十八日己亥、妙音寺へ罷也、點心、
p.0028 文正元年六月廿四日、普廣院殿〈○足利義敎〉御年忌、御成如レ常、評定衆右筆方如二先々一參候、於二藏集齋一點心在レ之、評定衆點心計也、
p.0028 一三月〈○永禄四年〉卅日〈未刻〉御成 一右京兆の供衆は、於二御座敷一可レ有二見物一之由被レ申レ之、又諸候衆被レ申分は、京兆衆と同座無二覺悟、先例 も無レ之間、不レ可レ及二祇候一、達而被レ申レ之、既御成前日の夜半まで不二相果一間、大永四年ニ典厩ヘ御成任レ例、京兆衆をば内々へよび被レ申、湯漬點心など被レ參候訖、
p.0029 五十七番 右 てふさい よもすがらあすのてんしん(○○○○)いそぐとも心もいらぬ月をみる哉
p.0029 茶子(ノコ)
p.0029 茶子(チヤノコ)〈今按以レ茶表二父母一、以レ餅比レ子之謂、〉
p.0029 茶子 ちやのこ 是又點心の俗語也、さりながら禪林の詞、建武の比よりいへるなり、
p.0029 茶子者可レ爲二麩指物、零餘子指、豆腐上物、油炙、笋干、干栗、松茸、炙昆布、泥和布(ヌタメ)、出雲苔、亂絲、萬金、籃子、唐納豆、牛房引干、干蘿蔔、胡桃、串柿、干棗一候也、
p.0029 茶子者荔枝、龍眼、胡桃、榧實、榛、栗子、梧桐子、烏芋、海苔、結昆布、蕷子(ヌカゴ)、刺薢、菱、串柿、挫栗、干松茸、干竹笋、乾胡蘆、乾蘿蔔、炒付、引干、苔菽、興米、炙麩、油物等、
p.0029 御なりの事 一十一日に御參り候はぬ御かた〴〵は、十六日の御ちやに御參り候、みや〳〵へは小上らふたち御はんぜん候、とうたうたち御はんだちへは、御なかだち御はんぜんを御さた候、入江殿より御ちやのこ參り候、參りざまには一いろづゝもちて御參り候、御あげ候時には、御ちやのこけんざん一つに御あげ候、
p.0029 念佛申身なれども、くうのもむじがたえせねば、せつのほうともいひぬべし、わかくてのみし茶もほしや、ちやのこも更に忘られず、
p.0029 一茶のこには、しほ〳〵しき物のこまやかなる物をせよ、これ第一習也、くわしとは 飯已後まいるをいふ、ちやのことはてんしんのちまいるをいふ、されば點心已後の茶子なる故、しほ〳〵しくこまやかなる物用、 ちやのこ ところ計はまいらせず、あめを ばこかはらけにてしるあめをを く也、あめにてところさして御 まいり在、 のりあをかいしき在 ふかいしきすべし むすびこぶ五葉の枝につけ候、 又時の花のゑだにもつけ候、 insy_1_0030_001.gif
p.0030 一十二月朔日、御祝如レ常、節分之夜御方違御出、管領奉公、外樣番ニ廻テ被レ勤レ之、〈○中略〉 立春ニ御行水御手水參、御ビン過テ後、種々ノ御茶子被二聞召一テ後、又ヨルノゴトクシソクサス、ツイナノ夜半ノカタ、ヤドリアクレバ、ヤガテ春ニ成リケリ、
p.0030 永享八年六月十四日、祇園會結構云々、〈○中略〉僧正伴僧等、於二中門脇戸一令二見物一、擅所ヘ遣二一獻一、〈點心二色、茶子一折、大和苽一籠、棰二、〉伴僧達爲二賞翫一也、
p.0030 天文四年二月十六日丁未、萬里小路中納言茶子進上、十八日己酉、自二大聖寺一茶子一折給、
p.0030 慶長八年三月十六日、御わかんあり、御人數せうかうゐん殿、こんゑどの、中ゐん、ほうちやうらう、三ちやうらう、とうちやうらう、なんくわ、しゆひつきよくら人也、ひる御ちやのこの折いでゝ、くもじまいる、夕かたく御まいる、はてゝ御かゆ、たいの物にてくもじまいる、八年五月八日、かつしにて、八でう殿、めうほうゐん殿、正ごゐん殿なる、おとこたちしこう、う大辨より御ちやのこの折まいる、
p.0030 慶長八年七月五日己未、冷亭月次和歌會有レ之、人數、興門、千壽丸、藤壽丸、水無瀨、一齋、亭主、四條、冷泉、倉部、堀川、極﨟、官務、大進、今川父子、宗超等也、讀揚計也、讀師亭主、講師極﨟等也、先茶子〈フノ〉 〈ヤキ〉夕飡有レ之、
p.0031 慶長九年二月八日、八でう殿、しやうご院殿、二でう殿、一でう殿、九でう殿、たかつかさ殿、とのゝ中なごん殿、たかつかさ中じやう殿、このゑ殿なしまいられて、御あそびどもあり、〈○中略〉御うたいあり、御ちやのこのおり色々いづる、二條殿よりだいの物御たるまいる、一でう殿よりさか月のだい二つ御たるまいる、九でう殿より御ちやのこのおり、御たるまいる、このゑ殿よりだいの物御たる、たかつかさ殿より御ちやのこのおり御たるまいる
p.0031 上方と替りしことは、百回忌五十回忌などは、馴染の人なきゆゑ、上方のように張込ず、死去の當座の方馳走をする也、茶の子にても一周忌より三回忌は輕く、七年十三年と段々は先ほど心易くして、當座を叮嚀に勤め成たけ張込處なり、
p.0031 一膳過茶請(○○)出べし、人數の如くふちたかに入候て出るもあり、又菓子により二色にして出るもあり、其樣子により給候て、その入物を重て、勝手口きわへよせ候て、扨手水に立べし、一茶請大方おとさぬやうに喰べし、粉の付たるものは、其粉を入物の内へ殘し候てくるしからず候、
p.0031 慶長八年四月二日、今晨於二日野殿一會席、束條紀伊守入道、床山五兵衞入道、空圓、亞相、宰相殿、予本膳足打、汁蔓草、獨活、麩、山椒、鹽香物、引干笋、汁木海月、中酒五片、菓子スイトン、茶請麩(○○○)、俗人衆之前、不レ及レ記レ之、
p.0031 食素 素畫 皇朝刻本宋の許親が本事方、拒風丹の論證に、母氏平時食素(ムナシク)氣血羸弱とあり、食素の傍訓は誤なり、食レ素と訓べし、素とは蔬菜をいふなり、其證は顏師古が匡謬正俗に、喪服傳記云、飯一素食一、案素食、謂下但食二菜果糗餌之屬一無中酒肉上也、〈○中略〉今俗謂二桑門齋食一爲二素食一、蓋古之遺語焉、
p.0032 御修法事 御修法者、〈○中略〉此間仰二四衞府并近江國一、停二止日次御贄一、〈諸衞以二生菜類一(○○○)相代進レ之、御淨食日亦同、〉
p.0032 御佛名 頭於二御前一、定二御導師次第僧一、〈○註略〉行事藏人催レ事、〈○中略〉内膳〈佛供〉大膳〈御精進物(○○○○)、依二請奏一下二宣旨一、〉
p.0032 三日御燈事 自二一日一至二此日一御淨食〈不レ供二葷膻一也〉
p.0032 供二御藥一 内膳自二右靑璅門一、供二御齒固具一、〈○中略〉采女傳二取之一、自二第三間御几帳上一、付二女藏人一、女藏人傳二陪膳一、 大根一坏 苽串刺(フリノクシサシ)二坏〈或説三坏、然而總七坏由有二所見一、〉 押鮎一坏、〈切盛置レ頭〉 鹽鮎一坏〈同切、置二頭二串一、〉猪宍一坏、〈以レ雉代レ之〉鹿 宍一坏、〈以二田鳥一代レ之〉 以上七坏之内、精進物(○○○)供一於第一御臺一、魚類供二二御臺一、〈或説無二鹿宍一有二腹赤一〉
p.0032 佛名御膳〈折敷高坏六本、樣器精進、〉 一本 二本 三本 四本 五本 六本 已上盛物、當旬番衆小預中座等配分盛二進之一、但折敷面樣器之高坏箸匕等、内藏寮所レ進也、
p.0032 殿中從二正月一十二月迄御對面御祝已下之事 一御精進の日は、必松梅院精進の御おり三合進上申、
p.0032 元年八月丙申、嘗二于殯宮一、此日御二靑飯一也、
p.0032 精原作レ靑誤、按精飯謂レ不レ用二魚肉一也、殯宮之奠、於レ此用二菜¬蔬一也、
p.0032 長德元年九月廿七日庚午、今日陸奧守實方朝臣奏二赴レ任之由一、於二殿上一給二酒肴一、於二晝御座方一給レ祿、叙二正四位下一、爲二重喪者一給二精進肴一、
籠二葛川一僧値二比良山持經仙一語第二 今昔、葛川ト云フ所ニ籠テ修行スル僧有ケリ、穀ヲ斷テ菜ヲ食(○○○)テ、懃ニ行テ月來ヲ經ル間ニ、〈○中略〉陽勝修二苦行一成二仙人一語第三 今昔、陽勝ト云フ人有ケリ、能登ノ國ノ人也、〈○中略〉南京ノ牟田寺ニ籠リ居テ仙ノ法ヲ習フ、始ハ穀ヲ斷テ菜ヲ食フ、次ニハ亦菜ヲ斷テ菓蓏ヲ食フ、
久壽元年十二月十九日丁酉、公家荷前云々、〈○中略〉次官饗〈無二魚類一〉居二侍所臺盤一、肥後權守經光〈不レ歷二藏人一五位〉勸盃、左衞門志宗憲爲時取レ瓶、次居レ汁、〈爲時役レ之無二手長一〉兼長當日不レ用二魚類一、
保元三年三月十日庚午、今夕可レ被レ始二行調樂一可二參著一由、行事藏人以二御藏小舍人一催告、入レ夜參内、〈先行水、今日殊精進不レ食二魚味一也、○中略〉中央立二置机四脚一居二舞人歌人饌一、〈有二中屯物菓子菜一、調二精進一、〉
寬元三年二月廿六日辛卯、朝懺法之次結願了、引施如レ例、其後兼賴宿禰羞二盃飯一之間、念佛衆聞信尋來也、京宿所云々、不レ知二此經廻一之故也、相二具一箇佳肴等一、〈以二精進物等一摸二魚味形一、珍重物也、太有二其興一、〉興味太深、如レ此之間、日景推移、臨レ夕各分散、
十月〈○寶永六年〉十七日對話 一去る十日、御留守居松平主計頭殿nan被レ申候は、十六日大五郎樣、鍋松樣、御抱初被二仰付一候間、左樣可二相心得一旨申來候、〈○中略〉御饗應の樣子を尋候へば、前日に何を好み給候哉と、誰彼兩度まで尋被レ申故、食汁計常に給へ申候と答申候、扨御祝儀之御料理出申候、三汁十菜、尤木具にて、但拙者魚鳥を給不レ申(○○○○○○)候事、何も存知被レ申候歟、右まで理大き成土器に盛候て、遠く退て居置申候、精進立にて、流石公方樣にて、汁を何れにても氣に入たるを給候樣に迚、精進汁十色出申候、餘り御馳走人多、例程大食も成不レ申候、 ○按ズルニ、料理篇ニ精進料理條アリ、宜シク參看スベシ、
p.0034 六畜を食ふ事をいむ、天武より牛馬をば禁ぜらる、猪鹿をいむは家豬に准じていむといふ事、法曹至要に見ゆ、江次第に鴨を以てかふなど見べし、此頃よりの事にや、いにしへ四足をいむ事見えず、諏訪などは古風の殘れるならんか、穢の訓は氣枯也、惻隱の心也、淸は氣好也、
p.0034 忌二獸肉一自二神代一始、法定二於延喜之間一、垂加曰、以二其似一レ人也、卜部家曰、二字物不レ食、馬牛猫鹿等也、三字物食レ之、兎狸等也、泰福卿曰、四足物禁裏戒レ之、決不レ可レ食也、馬牛犬之類託レ人而居、殺レ之不仁甚、似二異國人一、但卵不レ忌レ之、仁德紀有下佐伯部獻二牡鹿一事上、古者或進或不レ進歟、日本姫甚忌レ之、泰福卿曰、後光明帝甚信二儒敎一、師二彝倫庵一、輕二神道一不レ用二佛法一、嘗勅供二獸肉一、有司以レ貍進御、内膳正將レ施二庖丁一、而忌二其不祥一、不二敢下一レ手、屢代レ人而皆不レ肯、終棄レ之、尋御淸所出火、内裏炎上、翌年新殿未レ成、帝患二疱瘡一崩、此帝世奉レ稱二聖帝一、然未レ合二神慮一歟、浮屠家乃謂二佛之祟一、凡帝之所二以改正一、皆復舊、可レ惜之甚、
p.0034 觀二我古之國史一、天子之膳羞亦進二獸肉一、而後世上下與忌二肉食一、若敢食レ之、以爲二七十五日穢一レ軀、此不レ知二何所一レ據、天平寶字二年七月、皇太后寢膳不レ安、稍經二旬日一、令二天下諸國一、始レ自二今日一、迄二今年十二月三十日一、禁二斷殺生一、又以二猪鹿之類一、永不レ得二進御一、方俗忌二獸肉一、蓋剏二于此時一與、
p.0034 神道忌二獸肉一乎之考 スベテ獸肉ヲ食セズ、五辛ヲ忌ムハ、空海等ノ兩部ヲ以神道ヲ説ヨリ、佛法ノ殺生戒ヲサシコミ、慈悲ノ行ニ歸セントスレドモ、魚蝦マデニハ及シガタク、大ナル物ヲ殺ザラシム、牛肉鹿肉ヲ食スルコトハ、上代會テ穢トセズ、之ヲ忌ハ佛法行レテ後ノコトナリ、〈○中略〉春日祭ニ獸ヲカケ、西宮神事鹿ノ鹽漬ヲ供シ、即其村ヲ鹿鹽村ト云フ類、今時其通ニテ穢トセズ、諏訪ノ神許玉フトモ天神地祇ノ嫌フコトナラバ、イカデカ其許ノ箸ノ能アランヤ、人ハ即神靈ノ社ニシテ萬物ノ長タリ、天之ガタメニ山海ノ食品ヲ生ズ、好テ物ヲ殺スハ不仁ノ甚キナレバ、必ユルスベカラズ、用レ之益アラン時ハ、猪鹿共ニ食ベシ、食レ之神代ノ風ナリ、天其猪鹿ヲ生ズルニ、手足ニ輕健ノ力ヲ與フ、 人ノタメニ命ヲ遁シメン料ナリ、之ヲミダリニ捕ヘテ美味ノ設ニスルコトコソ、天ニ憎レ神ニ容ラレザルノ端ナルベケレバ、其功能ヲ求メテ、人ノタメニ助ケトナランニ於テハ、神ノ賜何カ過レ之ヤ、コレヲトヾメ玉フ始ハ、日本書紀天武天皇四年四月庚寅、詔二諸國一曰、自レ今以後、〈○中略〉四月朔以後九月三十日以前莫レ置二比滿沙伎理梁一、且莫レ食二牛馬犬猿雞之宍一、以外不レ在二禁例一、若有二犯者一罪レ之云云、神代ニ不レ忌レ之、人皇ニ至テ三十九代持統天皇マデ此制ナキニ、四十代天武天皇ニ至テ、夏秋ハ人ノ性ニ合ガタキヲ以止レ之、且耕作ノ水用ノタメ梁ヲモ禁ジ玉フナルベシ、續日本紀聖武天皇天平十三年二月戊午、詔曰、牛馬代レ人勤勞養レ人、因レ玆先有二明制一、不レ許二屠殺一、今聞國郡未レ能二禁止一、百姓猶有二屠殺一、宜其有レ犯者、不レ問二蔭贖一、先決二杖一百一、然後科レ罪、誠ニ牛馬ハ人用ヲ扶ル物ナレバ、此詔旨宜ナリ、然レドモ猪鹿ハ制ノ限ニアラズ、其證文ハ、續日本後紀仁明天皇承和十三年正月庚寅、散位從四位上伴宿禰友足卒、傳曰、友足爲レ人平直、不レ忤二物情一、頗有二武藝一、最好二鷹犬一、與二百濟勝義王一同時獵狩也、但其用心各不レ同耳、勝義王獲レ鹿、不三必分二其肉一、友足獻二御贄一、餘徧遺二諸大夫一、一臠不レ留云々、是ヲ以天子モ猶鹿肉ヲ食シ玉フコトヲ知ベシ、
p.0035 肉食 五辛酒肉の禁忌、報應經に、四十九日、僧祇律に、七日、南海傳に、五辛七々日、觀佛三昧經、大蒜九十日、肉食七十日、魚肉三十日、飮酒七日、女人交三日、五辛九十日、善集經食レ鳥者五十日、
p.0035 しゝとはもつはら猪鹿をいふ、天武帝四年、莫レ食二牛馬犬猿雞之宍一、以外不レ在二禁例一云云、上つ代は天子も聞しめしぬれど、中古より穢に准へたり、續古事談〈四〉兵庫頭知定といふ陪從が、娘に八幡の神つきて詫宣ある處、蒜鹿さらにくふべからずと有も、この知定なども日頃鹿をくひけるを誡むとなり、江談〈二〉喫二鹿宍一當日不レ可二參内一之由、見二年中行事障子一、而元三之間、供二御藥御齒固一、鹿或猪盛レ之也、近代以レ雉盛レ之也、〈類聚雜要、供御御齒固鹿宍代二用水鳥一、猪宍代二用雉一とあり、〉又上古明王常膳に用給、又大饗 にも用、その止たる制は、何の時よりと慥には知らぬ由みゆ、神供には春日の若宮へは狐狸を奉り、諏訪の明神へは鹿を供ふる、古よりのこととぞ、上さまには物し給はぬ事となりても、其餘は女さへくひたりとみえて、今昔物語に、住二丹波國一者の妻讀二和歌一語に、後の山の方に鹿の鳴ければ、男今の妻の家に居たりける時にて、妻に此は何とか聞給ふると云ければ、今の妻煎物にても甘し、燒物にても美き奴ぞかし、又調味故實に、懐姙の間いませ給べき物しか〳〵有て、うさぎ〈是も懐姙ありてより、誕生の百廿日の御祝過るまで忌べし、〉鹿もろ〳〵の魚頭云々、庖丁聞書、盛合せぬ品々、猪に兎云々、尺素往來、巡役の朝飯、明日令二勤仕一候云々、四足者、猪、鹿、羚、熊、兎、猯、獺等と、魚鳥よりも初めに擧たり、海人藻芥に、四足はすべて不レ備レ之、然るを吉野天子後村上院は、四足をも憚らせ給はず聞召けるとかや、四足の内にも狸汁は賞翫の物と見えて、親元日記〈四〉寬正六年十二月朔日、御被官廣戸但馬入道狸進上と有、これを汁にすること、守武千句また大草料理書等にある事は、雜考の中に載たればここに云ず、料理物語〈寬永中の刻〉狸汁野はしりは、皮をはぐみ、たぬきは燒はぎよし、味噌汁にて仕立候、妻は大こんごぼう、其外色々、古法は味噌汁にあらず、酒のかす酒鹽を用たり、貞德が狂歌、腹までもまた入たらずうましとて舌つゞみ打たぬき汁かな、〈精進にも此を學べり、後にいへり、又他物をもて似せ作るを何もどきと云もの色色あり、虚栗集妾語戒を、一晶が句、 コチを煮て河豚に賣る世の辛き哉、今いふふぐもどきなり、〉また同書獸之部、鹿は汁かひやきいりやき、ほしてよし、狸はでんがく、〈山椒みそ〉猪汁はでんがくゝわし、莵は汁いりやき、川うそかひ燒すひ物、熊はすひ物でんがく、いぬはすひ物かひやきとあり、犬は鷹にも飼、人もくひしなり、徒然草に、雅房大納言鷹にかはんとて、いきたる犬の足をきりたりと讒言したる物語あり、文談抄に、鷹の餌に鳥なき時は、犬を飼なり、少し飼て餘肉を損ぜさせじとて、生ながら犬の肉をそぐなり、後世も專これを用ひたりとみえて、似我蜂物語に、江戸の近所の在郷へ、公より鷹の飼に入とて、犬を郷中へさゝれけるといふ物語あり、續山井、たかゞ峯のつち餌となるな犬ざくら、〈宗房〉しゝくふたむく犬は鷹 の餌食かな、〈勝興〉友山の落穗集に、我等若き頃迄、御當地町方に於て、犬と申者は稀にて見當不レ申事に候ば、武家町方共に下々の給物には、犬に增りたる物は無レ之とて、冬向に成候へば、見合次第打殺賞翫致すに付ての義なり、〈是故に、近在迄も求めしこととしらる、〉これらのことありし故に、犬を殺す事を禁ぜられたるより、此風止て昔はくひたりと聞ば、あるまじきことのやうにおもふはよきことなり、むかし三州岡崎に獸店ありしとなり、夷曲集〈正成〉獸のみかはをはいでみせ棚のこゝやかしこに岡崎の町、むかし江戸四谷に獵人の市立ありしとぞ、是故に今も獸店といふあり、類柑子に、腸を鹽にさけぶや雪の猿、哀猿の聲さへたてぬなりけり、昔四谷の宿次に、獵人の市をたて、猪、かのしゝ、羚、羊、狐、貉、兎のたぐひをとりさがして商へる中に、猿を鹽づけにして、いくつも〳〵引上て、其さま魚鳥をあつかへる樣なり云々といへり、〈これに昔とあれば、當時はなかりしこととしらる、延寶天和のころにもやありけん、煮賣の出來しは明和このかた歟、〉
p.0037 さて此にて弓端之調と云は、弓以て射獲たる獸の肉、又其皮などの類を貢るを云り、上代には、常に獸肉を食し、又其皮を衣褥などにせしことも多かりし故に、其を主として如此は云るなり、〈彼仁德紀の、佐伯部が兎餓野の鹿を苞苴に獻し事など思合すべし、又古語拾遺に、此男弭之調、女手末之調の事を記して、今神祇之祭、用二熊皮鹿皮角布等一此縁也、と云り、然るに令式のころに至ては、凡て戰を用ひられしこと、やゝ稀なりと見えて、調の雜物の中にも然る物は見えず、副物の中に、猪脂三合、腦一合五勺、鹿角一頭、鳥羽一隻、また諸國貢獻物の中に、皮革羽毛など見えたるのみなり、主計式には、大鹿皮一張、小鹿皮二張、鹿猪脯、雉脯、鹿猪鮨、猪膏、鹿角、緋革など見えたり、〉
p.0037 猪甘、甘は義(カヒ)なり、〈○註略〉古は上下おしなべて、常に獸肉をも食たりし故に、其料に猪をも養置るなり、〈中昔よりこなたには、獸肉を食こと無き故に、猪を養こともなくして、猪といへば、たゞ野山に放れ居る猪のみにて、其は漢國にて野猪と云、崇峻紀には、山猪とあり、人家に養る猪は豕にて、俗に夫多と云、 と云も同物なり、豕を韋能古と云は、たゞ猪と云ことにて、鹿を加古と云、馬を古麻と云と同じ、猪之子のよしには非ず、猪之子は豚字なり、○中略〉 さて猪を養たりしことは、續紀十一、天平四年七月詔、和二買畿内百姓畜猪四十頭一、放二於山野一令レ遂二性命一、とあるにても知べし、書紀天智卷に、猪槽(イカフフネ)見え、仁德卷に、猪甘津と云地名も見え、〈此地津國東生郡なり、〉姓 氏録に、猪甘首と云姓も見えたり、さて猪甘と云物は公の猪を飼職を仕奉る者なり、
p.0038 獸肉を喰ふ事〈エトリ〉 〈穢多〉 友人山田昌榮の説に、近日人多く獸肉を喰ふ、よからぬことなり、攝生にわろし、いかで禁斷の御令もがなといひて、道三翁養生物語と、太田氏の梧窻漫筆後篇とを證とす、 道三翁養生物語にいはく、天照太神ノ御慈悲ト大己貴尊ノ知惠ニテ、肉食ハケガレニタテヽ、 戒メテクハセ玉ハズ、 太田氏梧窻漫筆後編上にいはく、我邦ハ四面大海故、魚類極テ多シ、故ニ人獸肉ヲ食フコトヲ 不レ好、四足ヲ食ヘバ穢レ也トテ、國家ノ令甲ニモアリ、〈○註略〉世人モ斯ク覺ヘテ忌ミ嫌ツ、是モ佛 法仁柔ノ餘功ナルベシ、然ルヲ香川脩德トイヘルモノ、邦人ハ獸肉ヲ食ハザル故ニ虚弱ナリ ナドト云オドセシ故、近年ハ山國ノ人ノミナラズ、海邊ノ海肉多キ所マデ、皆々好テ食フコト ニハナリタリ、 孝云、香川脩德太沖父ト云モノ、本草藥選三卷ヲカキテ、其下篇鹿ノ條ニ、本邦ニテハ獸肉ヲ 忌避ト云ハアヤマリニテ、古人禁忌シタルコトハキカヌトイヒ、其證ニ仁德紀〈三十八年〉天武紀 〈四年〉持統紀〈五年〉延喜式ナドヲ引用シタリ、〈延喜式ハ、下文附録ニ詳ニ出ス、〉 サレド猶古昔ノスガタヲ、孝ニ詳ニ聞マホシトイフ、孝ツラ〳〵攷フルニ、本邦ノ昔、獸肉ヲ食ヒタルコトハ、猪甘首ト云姓アルニテモシラレタリ、〈姓氏録ニアリ〉古事記〈下卷安康〉ニ我者山代之猪甘也トアリ、〈甘ハ養ナリ、例アリ、古事記傳四十〈四十七葉左〉ニ詳ナリ、〉又古事記〈中卷崇神〉ニ、弓端之調ト云コトアリ、本居氏云、上代ニハ、獸肉ヲ食シ、又其皮ヲ衣褥ナドニセシコトモ多カリシ故ニ云々、〈傳廿三九十ウ〉トイヘリ、サテ又、コレヲ食ザルヤウニナレルハ、必佛氏ニマドヘルヨリノコト也、續日本紀〈卷十一〉天平四年七月丁未詔、和二買畿内百姓畜猪四十頭一、放二於山野一、令レ遂二性命一、トアルヤ始ナラム、サテ又獸肉ヲ食ヘバ穢ルト云フハ、後世 ノアヤマリ也、コレハ今世獸皮ヲ取リシタヽムルモノヲ穢多トカキテ、字ノマヽニ心得ル故ナリケリ、
p.0039 釋奠祭料 石鹽(カタシホ)十顆、乾魚二升、鹿脯卅斤、鹿醢一升、魚醢一升、兎醢一升、豚胉一升、鹿五藏一升、〈○中略〉三牲宍各一頭、鹿一斗五升、〈大羹料〉鹿一斗、〈醢料〉
p.0039 諸節供御料〈中宮亦同、下皆准レ之、〉 正月三節〈○中略〉 蘿蔔、味醬漬苽、糟漬苽、鹿宍(○○)、猪宍(○○)、押鮎、煮鹽鮎、瓷盤七口、高案一脚、〈長三尺五寸、廣一尺七寸、高四尺、〉 右從二元日一至二于三日一供レ之〈○中略〉 節料 山城、大和、河内、和泉、攝津、近江、〈正月元日、七日、十六日、五月五日、七月七日、九月九日、十一月新嘗會節別各七荷、並以二正税一交易、令二徭丁運進一、○中略〉 右參河國進レ雉、餘國雜鮮味物、但近江國元日副二進猪鹿一(○○)、
p.0039 日中行事 巳一剋奏二日次御贄一事〈○中略〉 侍一又同例〈○御厨子所例〉云、延喜十一年十二月廿日官府、始定二六ケ國日次御贄一、〈○中略〉近江國鹿四枝、猪宍四枚、〈已上二種元日料〉
p.0039 御産御膳 生物、鯛、雉、鹿(○)、猪(○)、或韮蒜盛レ之、
p.0039 一書曰、〈○中略〉既而天照太神在二於天上一曰、聞三葦原中國有二保食神一、宜爾月夜見尊就候レ之、月夜見尊受レ勅而降、已到二于保食神許一、保食神乃廻レ首嚮レ國、則自レ口出レ飯、又嚮レ海則鰭廣鰭狹亦自レ口出、 又嚮レ山則毛麁毛柔(○○○○)亦自レ口出、夫品物悉修貯二之百机一而饗レ之、
p.0040 昔在神代、大地主神、營レ田之日、以二牛宍一(○○)食二田人一、于レ時御歳神之子、至二於其田一唾レ饗而還以レ状告レ父、御歳神發レ怒、以レ蝗放二其田一、苗葉忽枯損似二篠竹一、
p.0040 三十八年七月、天皇與二皇后一居二高臺一而避レ暑時、毎夜自二兎餓野一有レ聞二鹿鳴一、其聲寥亮而悲之、共起二可レ憐之情一、及二月盡一(ツゴモリ)以鹿鳴不レ聆、爰天皇語二皇后一曰、當二是夕一而鹿不レ鳴其何由焉、明日猪名縣佐伯部獻二苞苴一、天皇令二膳夫一以問曰、其苞苴何物也、對言牡鹿也、問レ之何處鹿也、曰兎餓野、時天皇以爲、是苞苴者必其鳴鹿也、因謂二皇后一曰、朕比有二懐抱一、聞二鹿聲一而慰レ之今推二佐伯部獲レ鹿之日夜一、及二山野一即當二鳴鹿一、其人雖レ不レ知二朕之愛一、以適逢二獮獲一(イエタリト)、猶不レ得レ已而有レ恨、故佐伯部不レ欲レ近二於皇居一、乃令二有志一、移二郷于安藝渟田一、此今渟田佐伯部之祖也、
p.0040 四年四月庚寅詔二諸國一曰、自レ今以後、制二諸漁獵者一、莫下造二檻窂一及施中機槍等之類上、亦四月朔以後、九月三十日以前、莫二置比滿沙伎理梁一、且莫レ食二牛馬犬猿雞之宍一、以外不レ在二禁例一、若有二犯者一罪レ之、
p.0040 元慶三年正月三日癸巳、僧正法印大和尚位眞雅卒、眞雅者俗姓佐伯宿禰、右京人、贈大僧正空海之弟也、〈○中略〉和尚自二淸和太上天皇初誕之時一、未三嘗離二左右一、日夜侍二奉天皇一、甚見二親重一、奏請停二山野之禁一、斷二遊獵之好一、又攝津國蟹胥(シヽヒシホ)、陸奧國鹿腊(○○)莫三以爲レ贄奉二御膳一、詔並從レ之、
p.0040 北山餌取法師往生語第廿七 今昔、比叡ノ山ノ西塔ニ延昌僧正ト云ケル人ノ、未ダ下﨟ニテ修行シケル時ニ、京ノ北山ノ奧ニ獨リ行ケルニ、大原山ノ戌亥ノ方ニ當テ、深キ山ヲ通ケルニ、人里ヤ有ルト思テ行クニ、人里モ不見エズ、而ルニ西ノ谷ノ方ニ髣ニ煙ヲ見付タリ、人ノ有ル所ナメリトテ喜ビ思テ、忩テ歩ビ行ク、近ク寄テ見レバ、一ノ小サキ家アリ、寄テ人ヲ呼ベバ、一人ノ女出來リ僧ヲ見テ、此ハ何人ゾト問ヘバ答ヘテ云ク、修行者ノ山ニ迷ヒタル也、今夜許宿シ給ヘト、人家ノ内ニ入レツ、僧入テ見レバ、 柴ヲ刈テ積置タリ、僧其ノ上ニ居ヌ、暫許有テ外ヨリ人入リ來ル、見レバ年老タル法師ノ、物ヲ荷ヒテ持來テ打置キ奧ノ方ニ入ヌ、有ツル女出來テ其結タル物ヲ解キ、刀ヲ以テ小サク切ツヽ、鍋ニ入レテ煮ル、其ノ香臰キ事无レ限シ、吉ク煮テ後取リ上テ切ツヽ、此法師ト女ト二人シテ食フ、其後小サキ鍋ノ有ルニ水ヲ汲入レテ、下ニ大キナル木ヲ三筋許差合セテ、火ヲ燃ヤシ立テ、此ノ女ハ法師ノ妻ナリケレバ妻夫臥ヌ、早ウ馬牛ノ肉ヲ取リ持來テ食フ也ケリ、奇異ク餌取ノ家ニモ來ニケルカナト怖ロシク思テ、寄リ臥テ夜ヲ明サムト思フニ、後夜ニ成ル程ニ聞ケバ、此法師起ヌ、涌シ儲タル湯ヲ頭ニ汲ミ懸ケ沐浴シ、其後ニ別ニ置タル衣ヲ取テ著テ家ヲ出ヌ、恠ビ思テ僧竊ニ出テ、法師ノ行ク所ヲ見レバ、後ノ方ニ小キ菴有リ、其レニ入ヌ、僧竊ニ立聞ケバ、此ノ法師火ヲ打テ前ニ燈シ付テ香ニ火ヲ置ツヽ、早ウ佛ノ御前ニ居テ、彌陀ノ念佛ヲ唱テ行也ケリ、僧此ヲ聞クニ、此ル奇異キ者ト思ツルニ、此ク行ヘバ極テ哀レニ貴ク思ヒ成ヌ、夜明ケ離ルヽ時ニ、行ヒ畢テ菴ヲ出ヅルニ、僧値テ云ク、賤人ト思ヒ奉ツルニ、此ク行ヒ給フハ何ナル事ゾト、餌取ノ法師答テ云ク、己ハ奇異ク弊キ身ニ侍リ、此ノ侍ル女ハ、己ガ年來ノ妻也、亦可レ食キ物ノ無ケレバ、餌取ノ取殘シタル馬牛ノ肉ヲ取リ持來テ、其レヲ噉テ命ヲ養テ過ギ侍ル也、〈○下略〉 鎭西餌取法師往生語第廿八 今昔、佛ノ道ヲ修行スル僧有ケリ、六十餘國ニ不レ至ヌ所无ク行テ、貴キ靈驗ノ所々ヲ禮ケル間ニ、鎭西ニ行キ至ニケリ、國々ヲ廻リ行キケル程ニ、ニシテ忽ニ山ノ中ニ迷テ人无キ界ニ至ヌ、人里ニ出ム事ヲ得ムト思ヒ歎クト云ヘドモ、日來ヲ經ニ更ニ出事ヲ不レ得ズ、而ル間山ノ中ニ一草菴有ル所ヲ適ニ見付タリ、喜テ近ク寄テ其ノ菴ニ宿セムト云ニ、菴内ヨリ一人女出來テ云ク、此ハ人ノ宿リ可レ給キ所ニモ非ズト、僧ノ云ク、己修行スル間、山ニ迷身疲レ力无シ、而ルニ幸ヒ此ニ來レリ、譬ヒ何ナル事有ト云トモ宿ベシト、女云リ、然バ今夜許宿リ給ヘト、僧喜テ菴ニ入リヌ、 〈○中略〉此ノ持來タル物共ノ食ヲ見レバ、牛馬ノ肉也ケリ、僧此レヲ見ルニ、奇異キ所ニモ來ニケルカナ、我ハ餌取ノ家ニ來ニケリト思テ、夜ニハ成ヌ、可レ行キ所无ケレバ只居タルニ、臰キ香狹キ菴ニ滿タリ、穢ク佗キ事无レ限シ、
p.0042 住二丹波國一者妻讀二和歌一語第十二 今昔、丹波ノ國ノ郡ニ住ム者アリ、田舍人ナレドモ、心ニ情有ル者也ケリ、其レガ妻ヲ二人持テ家ヲ並ベテナン住ケル、本ノ妻ハ其ノ國ノ人ニテナン有ケル、其レヲバ靜ニ思ヒ、今ノ妻ハ京ヨリ迎ヘタル者ニテナン有ケル、其レヲバ思ヒ增タル樣也ケレバ、本ノ妻心疎シト思ヒテゾ過ケル、而ル間秋北方ニ山郷ニテ有ケレバ、後ノ山ノ方ニ糸哀レ氣ナル音ニテ鹿ノ鳴ケレバ、男今ノ妻ノ家ニ居タリケル時ニテ、妻ニ此ハ何ガ聞給フカト云ケレバ、今ノ妻、煎物ニテモ甘シ、燒物ニテモ美キ奴ゾカシト云ケレバ、男心ニ違ヒテ、京ノ者ナレバ、此樣ノ事ヲバ興ズラントコソ思ヒケルニ、少シ心月无シト思テ、〈○下略〉
p.0042 四足ハ總テ不レ備レ之、然ヲ吉野帝後村上院ハ、四足ノ物共ヲモ憚ラセ給ハズ聞召シケルトカヤ、サレバ御合體ノ後、男山マデ御幸成ラセ給ヒケレドモ、又吉野ノ奧ヘ還幸成セ給フテ、都ヘハ終ニ一日片時モ入セ給ハズ、是ハ併天照太神ノ神意ニ違ハセ給ヒケル故ナリトゾ、人皆申合ヒケル、
p.0042 或曰、我尾敬公〈○德川義直〉御狩の時、鹿を御家人に賜ふ、鹿食の穢三日也と仰られし如何、予〈○天野信景〉曰、公の御博識當時誰か其右に出ん、是を考ふるに、延喜式曰、凡觸穢云々、六畜喫レ肉三日云々、法曹至要抄ニも亦曰、喫レ鹿の穢三日といへり、是私家の事に非ず、古へは天子元三の御膳にも獸肉を奉りし事、江家次第等に見へたり、其儀を用ひ給ひしにや、
p.0042 奧州南部癸卯の荒饑 天明三年癸卯十一月十一日、奧州三戸郡南部内藏頭殿領分、八戸の惠比須屋善六より、本店江戸田所町かど、井筒屋三郎兵衞へ遣しゝ書状左の如し、〈○中略〉 一捨牛馬は御制札第一之御法度に御座候へ共、此節悉捨申候、右之牛馬を乞食共引參り、皮を はぎ鹿と申候而賣候を、馬と存ながら價の下直に任せ馬肉を買ひ、能鹿と申候、直段平生のお つとせい抔の如く、目方にて賣買致し、鹿に不レ限何品にても食物に相成候品、總て魚等の直段 に御座候、
p.0043 家猪 貴二南産一、聞薩抵二琉球一、一島美二一島一、予嘗調二護浙船一、屢食二浙猪一、嫰膩無レ儔、琉視二兩浙一、又差十度、其美可レ想、浙商楊嗣元曰、殺レ猪宜二先截レ喉取一レ血、否則膻、予〈○羽倉則〉宰二雞鼈一、亦從二此法一、大腿夏月可レ賞、其經レ久敗 者、漬二水田一一夕、鮮如二新乾一、高秋帆云、 野猪 生向二三歳一肥膩可レ賞、而出二近京諸山一者、白肉厚嫰、爲二東坡一肉尤妙、此物脂膿、然視二鍋脂一易レ去、斷非二惡脂一、寇宗奭曰、味勝二家猪一、亦非二通論一、畢竟野雞之於二家鷄一、野猪之於二家猪一、一野字不二脱得一、 大牢 推二彦府一、白者爲レ最、黄者亞レ之、此物膩味雖レ濃、作二湯澄瑩一食レ之、口内覺レ爽、寔爲二貴品一、豉藏亦佳、彦府食牛飼以二胡麻一、然與レ之不レ多、過多則斃、 小牢 亦貴品、多啖愈知二其美一、 羚羊 味類二野鴨一、故京人呼曰二鳬鹿一、毛色帶レ靑、故奧人曰二蒼鹿一、挂二角崖樹一、故飛人曰二壁鳥一、曰二嵓鳥一、 熊 冬月坎居不レ食、斯時脊肪兩條瑩晢如レ玉、而芳味殊絶、謂二之熊白一、 鹿 稱二春牝秋牡一、其實倶不レ如二寒候之美一、鹿賞二膺肉一、後脚亞レ之、唯要三淨去二膜筋一、否則臭、 兎 黄色爲レ最、灰色亞レ之、山草萌時曰二芽兎一亦美、兎醢方、碎肉百星、枯鹽十二星、麴三十星、加二椒薑二三星一、甜酒和拌、封二藏壺中一、六七十日乃成、鳬雁野雞照二此法一亦佳、
p.0043 補 獸店 平河町三町目にあり、毎年冬より春まで獸をひさぐ店おほし、
p.0044 肉市 按文化文政年間より以來、江戸に獸肉を賣家おほく、高家近侍の士もこれを噉者あり、猪肉を山鯨と稱し、鹿肉を紅葉と稱す、熊、狼、狐、狸、兎、鼬鼠(イタチ)、鼯鼠(キ子ヅミ)、猿などの類、獸店に滿て、其處を過るにたへず、又蝦蟆を噉者あり、いづれも蘭學者流に起れる弊風也、かくて江戸の家屋に不淨充滿し、祝融の怒に逢事あまたゝび也、可レ哀可レ歎、
p.0044 猪鹿の肉を、京攝にて鹿(ろく)と云ひ、山鯨と異名すれど、江戸にてはモヽンヂイ、又モヽンガアと云ふ、文華日夜にひらけて、牡丹紅葉などゝ呼ことゝなりぬ、
p.0044 獸肉 皇國モ上古ハ、貴賤トモニ食レ之也、天武帝四年勅テ是ヲ食スコトヲ禁止シ玉ヒシ後ハ食スルコトナシ、然レドモ海江ニ遠キ山家ニテハ、猶密ニ食セシナルベシ、予ガ覺ヘテハ、大坂本町橋西邊ニ、冬月ノミ藁筵ヲ敷キ、弓張烑燈ヲ置テ、夜分ノミ賣レ之、其夫ハ渡邊村ノ穢多也、唯二三所ノミ鹿肉ヲ專トス、買レ之者ハ小禄武家ノ奴僕等ノミ、 大坂モ文化頃ヨリ諸所此店アリ、然レドモ葭簀店等ニテ、沽券外ノ地ノミ也、 江戸ハ麴町ニ獸店〈ケモノタフ〉ト云テ一戸アルノミナリシガ、近年諸所賣レ之、横濱開港前ヨリ所々豕ヲ畜ヒ、開港後彌々多ク、又獸肉店民戸ニテ賣レ之コト專也、開港後ハ鳥鍋豕鍋ト記シ招牌ヲ出シ、鍋燒ニ煮テ賣ル店モ所々ニ出タリ、 三都トモニ、獸肉賣店ニハ異名シテ、山鯨ト記スコト專ラ也、又猪ヲ牡丹、鹿ヲ紅葉ト異名スト、 虎肉アラバ竹ト云ン歟、
p.0044 山鯨 凡肉宜レ葱、一客一鍋連二火盆一供具焉、大戸以レ酒、小戸以レ飯、火活肉沸漸入二佳境一、正是樊噲貪レ肉死亦不レ辭、花和尚醉爭論大起、鍋値約有二三等一、小者五十錢、中而百錢、大則二百、近歳肉價漸高、略與二鰻 一頡頏、然其味甘脆、且功驗之速人孰論レ値、其獸則猪、鹿、狐、兎、水 、毛 、子路、九尾(カモシカ)羊等、 倚疊有焉、麀鹿攸レ縛、麀鹿跼々、不レ狩不レ獵瞻レ有二懸特一、如レ狼刺以二庖刀一、蓋所三以爲二惡獸一、丁々鼓レ刀屠レ之、手之所レ觸足之所レ履、砉然騞レ然、因レ便施レ巧、無レ不二閑解一、行人止而觀焉、聞天武帝四年、令二天下一始禁二獸食一、自レ非レ餌レ病不レ許二輙噉一、世因謂曰二藥食一、前日江都中稱二藥食舗一者纔一所、麴街某店是而已、計二十年來此藥之行、此店今至レ不レ可二復算數一、招牌例畫二落楓紅葉一、題以二山鯨二字一、雖レ係二藥食一、猶避二國禁一、作意所レ爲蓋隱語耳、都人字曰二 魅一(チバケ)、亦不二顯言一之故、已非レ謂二妖怪一也、前日麴街所レ鬻之肉、包苴必用二敗傘紙一、今皆蘀焉、則都下一歳幾万敗傘不三復給二於用一也、
p.0045 信州諏訪の祠官、鹿食無穢の章を出し、妄りに火を穢す、恐くは佛家の意より出たり、今其札を見れば、神代の故にあらず、業盡有情雖レ放二無生身一同證二佛果一と云たり、是全く佛者方便の説なり、
p.0045 一吾國忌二肉食一 源元珍〈柏崎永以〉日本風土輯説云、德川神君駿府御隱居ノ日、彼地淺間神主總社宮内某に問て宣ハク、當社ノ産子として産土神ノ甚嫌はせらるゝ神誡とて、決して獸肉を食する事を忌、尤山一ツあなたの信濃の諏訪ノ社にては、彼神の許可として、産子平常に獸を食し、剰其社の祭禮には、七十二ノ鹿ノ頭を備へ祭ると云、此各別の樣子は如何、宮内答テ申サク、上古ハ諸國專ラ獸を食したる事、既日本書紀に擧し如し、然るに凡長門國萩のあたりより陸奧津輕の地に至て、此日本の正中を山一筋に續て南北を隔たり、是故に其山の東南の諸國は甚温暖の國也、又其山の西北の諸國は甚寒冷の國也、されば東南の方は人民漫に獸肉を食すれば、蒸熱して惡病を煩ふ事、古今眼前に顯然たり、是はこれ公義の制禁として下知せられんに、東南の地は、肉食には不レ合ものゆへ、食すれば惡病を受く、日本は小國なれば、ひたすらに獸を殺せば、其類盡て民用を闕く、必ず食する事勿れと、嚴密の公命出たりとも、一文不通の土民其口の爲に、其身を抛て、中々其禁制を守る事あるまじく候、然るに其産土神の嫌ひ忌みたまふと云へば、 さすがに人情の自然、正路の思より他人の食するを見ても爪はじきして、公儀の掟、父母の戒よりも心より能く恐れ愼むゆへ、いつとなく神制と稱して忌む事嚴重也、適九國のあたり獸食不レ忌土風ありといゑども、其忌む方の宮社國人に向ては、口を覆ふの耻情あり、又かく山の西北はいづれも寒國、殊に信濃は別て嚴寒の地、又當國富士の根方なども無雙不毛の地、至極冷凍にして、此民常に食に乏し、是等の土地剰魚物を闕く、されば不レ得二止事一して獸肉を食シ候、因レ玆其産土神も祭祀に獸肉を享ケたまひ、其産子も神の制禁忌もなし、是皆神慮其土地に應じ給ひ、自然の御惠也と答申たる時、神君甚感心し給ひ、いかにも其方の申す處、是寔に日本肉日(シヽビ)を忌むの眞理也、別して恐れ愼むべき事也と仰られしと也、
p.0046 おほいにたなう(飢饉)ゑせし時、もろこしにては人あひはむといへる事、紀傳にいかほども見えたり、此國にては、つひにきかず、けものゝしゝさへいみてくはぬゆゑなめれと、或人のかたりき、かみのつかひなりといへるとりけもの、そのうぢこ(氏子)はくはず、かみのしづめたまへる山は、こがねしろかねありても、むさぼれる人ひらきあけんとはせず、いつまでもかくありたき事なり、
p.0046 貞享三寅年五月 野菜もの之儀節ニ入候日より賣出之事 一生しいたけ 〈正月節nan四月迄〉 一つくし 三月節nan 一ばうふう 二月節nan 一わらび 三月節nan 一たで 三月節nan 一葉せうが 三月節nan 一ねいも 三月節nan 一竹の子 四月節nan 一なすび 五月節nan 一白瓜 五月節nan 一びわ 五月節nan 一眞桑瓜 六月節nan 一さゝげ 六月節nan 一りんご 七月節nan 一梨子 〈八月節nan十一月まで〉 一めうど 八月節nan 一松たけ 八月節nan 一ぶどう 八月節nan 一御所かき 〈九月節nan十一月迄〉 一みつかん 〈九月節nan三月迄〉 一久年母 〈五月節nan三月迄〉 右之品々致二商賣一候儀、先年月切ニ御定被レ成候得共、自今以後ハ此書付之通、節ニ入候日より可レ致二商賣一之、魚鳥之類ハ時節かまいなく、とれ次第可レ賣レ之、然共出候節も過分に直段たかく商賣仕間敷候、前方も相觸候通、獻上之肴たりといふ共、勿論總〈而〉之肴も、彌以直段高く商賣仕間敷候、若右之趣相背もの於レ在レ之ハ、急度曲事可二申付一もの也、 五月 ○按ズルニ、此後元祿六年十二月ニモ令ヲ下シテ、魚鳥野菜發賣ノ時期ヲ制限セリ
p.0047 寬保二〈戌〉年六月 魚鳥并野菜物賣出時節之事 一ます 正月節より 一あゆ 四月節より 一かつほ 四月節より 一なまこ 九月節より 一さけ 九月節より 一あんかう 十一月節より 一生たら 十一月節より 一まて 十一月節より 一白魚 十二月節より 一あいくろ 三月節より 一ぼとしぎ 七月節より 一がん 十月節より 一かも 十月節より 一きじ 九月節より 一つぐみ 九月節より 一生しいたけ 四月節より 一生わらび 三月節より 一竹のこ 四月節より 一さゝげ 六月節より 一松だけ 八月節より 一なすび 五月節より 一白うり 五月節より 一びわ 五月節より 一まくわ瓜 六月節より 一りんご 七月節より 一なし 八月節より 一ぶどう 八月節より 一御所がき 九月節より 一くねんぼ 五月節より 一みつかん 九月節より 一つくし 二月節より 一ぼうふう 二月節より 一たで 三月節より 一ねいも 四月節より 一めうど 八月節より 一葉せうが 三月節より 右品々貞享年中、元祿年中ニも相觸候通ニ心得、此書付之通、來正月より商賣可レ仕候、初〈而〉出候 節も、直段高く商賣仕間敷候、前方も相觸候通、獻上之品たりといふ共、各別高直ニ商賣仕間敷 候、 右之趣相背もの於レ有レ之ハ、可レ爲二曲事一者也、 十月 別紙之通、去〈酉〉十月町觸申付置候間、右節より以前之品ハ相求申間敷候、國々在々よりも江戸表〈江〉賣不レ出樣ニ、御料ハ御代官、私領ハ地頭より可二相觸一候、 但在所之品、前々より獻上之類ハ、唯今迄之通可レ被二心得一候、 右之通可二相觸一候 六月 弘化元巳年三月十三日 時節外れ之野菜もの賣出間敷事 野菜もの賣買觸之元、新生姜貝割菜迄も賣買差支候趣ニ付、右者初もの(○○○)と申ニも無レ之候間、唯今迄之通賣買不レ苦旨、去ル寅年申渡候處、此節ニ至り候〈而〉ハ、右作り方ニ事寄、時節外れ之品をも作出賣買致し候趣相聞、如何之事ニ候、先達〈而〉も相達候通、假令御膳御用ニ候とも、一旦停止之品ハ、決〈而〉御用ひ被レ遊間敷旨、御沙汰も有レ之候儀ニ付、右樣格別難レ有思召之程、此上ニも下々迄厚相心得、去ル寅年相觸候通相守、猥に時節外れ之初もの(○○○○○○○○)等、賣買致間敷旨、町中〈江〉可レ被二申渡一候事、 右之通、町奉行〈江〉相達候事、
p.0049 初物(ハツモノ/○○)
p.0049 初物(ハツモノ)
p.0049 はつもの 俗語にはつもの七十五日といへり、世説故事苑に、家庸賃一夫始來、七十五日如二盤玉轉一、次七十五云々、と見えたり、よて穀菜の新産も、其初めつらしく賞愛すべきをもていへる成べし、
p.0049 初物七十五日 俗に初物をくへば、七十五日生延ると云は、訛傳なるべし、前後七十五日の間は、なべて初物なりと廣くいひたる詞なるべしと云り、又一説花墜て後七十五日、初めてその實食ふべしといへり、
p.0049 六月二日 〈禁裏樣へ參〉一初瓜(○○) 一籠 佐々木中務少輔入道 八月朔日 〈禁裏樣へ參〉一初鯇(○○) 一折〈例年進二上之一〉佐々木四郎三郎〈○中略〉一〈禁裏樣へ參〉初雁(○○)一〈例年進二上之一〉朝倉彈正左衞門尉 十月三日 一初鱈(○○) 三 武田大膳大夫
p.0050 天文十年正月十一日、一初鮒(○○)十六角霜臺より、爲二年始御祝儀一進二上之一、書状在レ之、〈毎年如レ此〉今日の日付也、仍則以二宮内卿御局一、致二披露一之心へて可レ申由被レ仰之也、
p.0050 初松魚(○○○)の咄し 一紀の國屋文左衞門が〈紀文本宅、三十間堀なり、〉大巴屋とやらへ來り遊びし頃、まはし方十兵衞といふもの、〈異名母衣重兵衞とて、淺草祭に山の宿の大母衣誰れとても荷ふ人なきを、此者一人にて負ふて數邊まはりたる大力なり、故に其名あり、佐野次郎左衞門を、捕手の一ばん、ひやうごや八ッ橋さわぎ、〉或時紀文〈紀文俳名千山〉重兵衞にいふは、ことしは初松魚是非に此里にて喰ひたきものなり、其方がはたらきにて、誠に江戸に一本も見へぬうち料理してくふべしと申付ける、かくて重兵衞肴問屋殘らず賴み置き、前金をうち、初日入來りたる船をば悉く買もとめて、頓て迎ひの人を遣し、紀文入來りけるに、鰹たゞ一本を料理して出しける、大勢の牽頭末社あとをはやく〳〵と聲を懸れども、唯一本出たしたるのみなり、かくてはもどかしきとて、紀文直にはしごより下り、もはや魚はなきかと云時、重兵衞庭の大半切二ツ三ツ蓋をとり、是程御座候得共、初鰹はめづらしきが賞玩なり、あとは家内のもの近所の人々にふるまい申すべしとて、一向に出さず、其時當座の褒美とて、金五十兩くれ、後々も重兵衞が氣象を嬉しがりて、町屋敷など買て遣しけるとなり、
p.0050 太平日久シク驕奢風ヲ成シ、食味新奇ヲ競フ、獨活新芽ナド、土室ニ養ヒ其出ルコト尤モ早シ、其他モコノ類多シ、コレハ鬱養彊孰ト云ベシ、後漢安帝記曰、凡供薦新味多非二其節一、或鬱養彊孰、或穿二掘萌芽一、味无レ所レ不レ至、註ニ爲二土室一蓄レ火、使二土氣蒸鬱一而養レ之、彊使二成孰一也、トイヅ方モ同ジコトナリ、
p.0051 いつすもの 一種物は朝廷古來の詞、各一種を隨身して、殿上に於て興宴ありと埃囊抄に見えたり、保延三年に始れり、百練抄にも見ゆ、
p.0051 イツス物ト云ハ何事ゾ 常ニ鳥目廿文ノ厚サ一寸アル故ニ、廿文各出ヲ一寸物ト云リ、甚下賤ノ僻言也、一種物ナルベシ一種物ト云事ハ、朝廷古來詞也、喩ヘバ各一種物ヲ隨身シテ、殿上ニ於テ興宴アリ、是ニ擬ヘテ下樣マデモ、各一種物ヲ隨身シテ會合スル也、此事昔ハ常ニ院宮ニ於テ在ケル也、
p.0051 一種物、汁講、 一種物の事、源氏の注釋どもに見えたり、舊本今昔廿の七語に、各一種ノ物酒ナドヲ出シテ遊ブ日也と見ゆ、九州、四國、水戸邊にて汁講といふ事有、一種物の遺風也、
p.0051 一種物と云事 古への興宴に一種物といふ事あり、さるは各一種の肴物を携へ、便宜の所に集會して、盃酌の興を催さるゝ事と見えたり、こは舊記どもに散見せるを取攝て參考するに、おのづから其事の樣しるかり、
p.0051 康保元年十月廿五日丁卯、是日於二左近陣座一、諸卿有二一種物一、魚鳥珍味毎物一兩種、於二中重一調二備之一、參議雅信重信儲二菓子飯一、本陣儲レ酒、自二殿上藏人所一給二菓子等一、左大臣〈○藤原實賴〉早退出不レ預二此座一、辨少納言外記史同預レ之、 十二月二日甲辰、諸卿於二左近陣座222一有二一種物事一、
p.0051 永觀三年〈○寬和元年〉三月四日戊申、晩景參院、〈○圓融〉右大臣、左右兩將軍、三位中將等參入、各遣レ取二一種物一、頻有二盃酒事一、 廿日甲子、早朝參院、依二物忌一修二諷誦一、殿上人各出二一種物一飮食、
p.0051 大入道殿〈○藤原兼家〉攝政ニオハシケル時、法住寺ノオトヾ〈○爲光〉ヨリハジメテ、オホクノ上達部、一種物ヲグシテマイリアツマリ給ケリ、カ子テチギリアリケルナルベシ、閑院ノ大將 ハ、銀ノ鯉ノ腹ノ中ニ、コナマスフユコミヲリヒツニ入テイレラレタリ、小一條大將〈○濟時〉ハ、銀ノ鮨鮎ノ桶ニ、アユヲヲリビツニ入テイレラレタリ、左衞門督重光ハ、酒一瓶子、雉一枝、春宮權大夫公季ハ、銀ノ葉餅、修理大夫懐遠俎、攝政殿ノ御マウケアリ、盃酌管絃アリテ、人々ノ祿、隨身ノコシサシマデタマヒケリ、右大臣ミヅカラ馬ノツナトリテイデ給ヒケリ、
p.0052 寬弘二年五月十三日庚申、有二庚申事一、僧同レ之、作文、殿上人一種物持來、
p.0052 寬仁元年九月卅日乙丑、籠二候内御物忌一、今日於二殿上一有二宇佐使餞事一、兼日以二廻文一告二示一種物可レ被レ出之由於人々一、及レ晩始レ事、〈内藏寮儲使前物令レ居二殿上人盤上一、或人々使二前物藏人頭用意一云々、而依二事忽一昨日召二仰内藏寮一也、或先例仰二此寮一云々、〉
p.0052 長治二年三月二日己亥、今日無二別事一、申剋許右大將二位、大納言別當、宰相中將忠敎、右大辨宗忠、殿上人一兩各有二一種物一、興尤多、及二曉更一事了、人々退出、件一種物皆美食物等也、於レ前包丁、今日夜神妙有レ興、余以下立舞、
p.0052 保延四年十月廿九日、殿上一種物十物、
p.0052 殿上ノ一種物ハ、ツ子ノ事ナレドモ、久シクタエタルニ、崇德院ノスエツカタ、頭中將公能朝臣ハ、絶タルヲツギ廢タルヲ興シテ、神無月ノツゴモリ比ニ、殿上ノ一種物アリケリ、サルベキ受領ナカリケルニヤ、クラヅカサニ仰テ、殿上ニ物スヘサセテ、小庭ニウチイタヲシキテ火ヲオコス、人々酒肴ヲグシテ參テ、殿上ニツキヌ、頭中將ノ一種物ハ、ハマグリヲコニ入テ、ウスヤウヲタテヽ、紅葉ヲムスビテカザシタリ、ハマグリノ中ニタキ物ヲ入タリケリ、瀧口コレヲトリテ殿上口マデスヽム、主殿司ツタヘトリテ大盤ニヲク、頭中將トリテ人々ニクバラレケリ、人々トリテケウジアヘリ、コト人々多ハ雉ヲイダセリ、主殿司トリテタテジトミニヨセタツ、信濃守親隆大鯉ヲイダセリ、庖丁ノ座ニヲキテ、御厨子所ノ預久長ヲ召テトカセントスルニ、ソノ事ニタヘズトテキラズ、御鷹飼ノ府生敦忠鳥ヲカタニカケテマイレリ、小庭ニ召テ庖丁セサ ス、一二獻藏人季時信範スヽム、少將資賢タケノハニヲク露ノイロトイフ今樣ヲウタフ、藏人辨朝隆三獻ノカハラケトル、又頭中將ノスヽメニテ朗詠ヲイダス、佳辰令月ノ句ナリ、頭中將朝隆ガヒモヲトリ、人々ミナカタヌグ色々ノ衣ヲキタリ、用意アルナルベシ、頭中將朗詠、雖二三百盃一莫レ辭ノ句ナリ、ヤウ〳〵醉ニノゾミテ、資賢白ウスヤウノ句ヲハヤス、主殿司アコ丸コトニタヘタルニヨリテ、クツヌギニメシテツケシム、人々亂舞ノ後、ミコエイダシテ座ヲタチテ、御殿ノヒロヒサシニテナダイメンハテヽ、宮ノ御方ニ參テ、朗詠雜藝數反ノ後マカリイデケリ、殿上ニテ人人連歌アリケリ、
p.0053 右大臣公能のおとゞ、〈○中略〉藏人頭におはせし時も、殿上の一す物し、〈○下略〉
p.0053 寬弘元年十月十七日丁酉、於二殿上一有二地火爈次事一、内大臣〈○藤原公季〉奉仕、
p.0053 一條院御時、喚二諸卿於御前渡殿東第一間一、立二地火爈於淸凉殿東廂一庖丁、〈讃岐守高雅、伊與守明順朝臣奉光等也、〉先供二御膳一、〈○下略〉
p.0053 一條院御時、臺盤所ニテ地火爈ツイデト云事アリケリ、左大臣、〈○藤原道長〉傳大納言〈○藤原道綱〉ナムドツカウマツラレケリ、大納言ハ銀ニテ土鍋ヲツクリテ、ヒサゴヲタテヽ、イモガユヲイレタリケリ、中ノ渡殿ニ上達部候テ、淸凉殿ノ廣庇ニ、庖丁ノ人々高雅明順ナド候ケリ、供御マイラセ、人々ノ衝重スヘテ、御酒シキリニマイラス、管絃ヲ奏ス、醉ニノゾミテ傳大納言タチテ舞ホドニ、冠オチニケリ、人々咲アヘルニ、廣幡ノオトヾアザケラレケルヲキヽテ、此大納言何ゴトイフゾ、妻ヲバクナカレテトイハレタリケル、聞人ハヂヲシラズウタテキ事也トゾ云アヒケル、
p.0053 汁といふ饗 甘露寺元長卿記に、於二姉小路三位亭一有レ汁、また内藏頭有二招事一、汁張行、など見えたり、今の世にも田 舍にて汁といふことあり、客おの〳〵飯をばおのが家より持來て、其家には菜と汁をまうけて饗する也、國によりて汁講ともいふとぞ、
p.0054 西山公〈○德川光圀〉御逝去の年、御病中に馬場左五右衞門高道、其外御前に相詰候者どもに仰られ候は、むかし世に汁講といふ事あり、その樣子は客を請候とては、其客ども銘々に飯をめんつうといふ物などに入携へ來り、亭主は唯汁一色のみこしらへ、能時分汁を鍋のまゝ座敷へもち出、うち寄賞味もてはやして、此外には何のもてなしと申儀一ツもなけれども、興に入咄し候由、されば儉約の義はもとより、諸士及び百姓町人まで堅く相守るべき旨、度々油斷なく申渡事にて候得ども、治世ゆゑにやまゝ奢り、客受候せつは、分限に過て甚だ美麗をいたし候由相聞え候、それに付大森典膳〈信一、西山にての御家老なり、〉汁講を再興仕り、其方共も順々に興行仕候者、自然と城下および、領内にも廣まり、美麗成る振舞相止み申べきかと覺し召候由仰られ候、依レ之御近臣ども、仰のごとく汁講を初め申筈にいひ合候處に、西山公御病氣重らせ給ひ、間もなく御逝去なされ候故、汁講一度も興行いたさず、殘念のよし左五右衞門度々申出し候、
p.0054 十日 十日酙羹 是は京都町中、一町限の坊正町人の會合始なり、其式町々會所に集り、先代京兆尹より出さるところの法令、并に其町にて定置所の掟等數條を讀みてこれを守らしめ、此式畢て饗宴をなすとき、會合の面々、我宅より膳椀飯菜迄も携來て、頭屋一汁を設け出す、これを十日汁といふ、
p.0054 團魚會(ダンギヨクワイ) すつぽん 俗にうなぎなどを賭にして多く食ふものあり、いとたはけたるわざなり、唐人もかゝることをするよし見えたり、括異志云、今時食レ鼈之人、心既好レ食、又招二賓友一、聚會而食、號二團魚會一、彼此以二所レ食多 寡一爲二勝負一云々とあり、鼈は土鼈にて、今すつぽんといふもの也、團魚といへるもこの物の一名なり、〈江戸の俗にフタといひ、京師の俗にマルといふも、そのかたちによりて、異名つくること同じ意也、〉もとすぽんといふは、かれが鳴聲のすぽんすぽんと聞ゆればなり、夫木集のかめのなくなるといふ歌も、此をよめるなるべし、
p.0055 飮食鬪會 文化十四年兩國柳橋於二萬屋八郎宅一、大酒大食之會連中拔群之分、書拔左之通、〈○中略〉 飯連〈帝之茶漬茶わんにて、萬年味噌茶漬之香之物計、〉 一五拾四盃〈唐辛五わ〉 〈淺草〉和泉屋吉藏〈七十三才〉 一四拾壹盃〈小日向〉上總屋儀右衞門〈四十九才〉 一六十八盃 〈三川島〉三左衞門〈四十一才〉 右之外多といへども略レ之 鱣組 〈筋鱣〉一代金壹兩三分 〈本郷春木町〉吉野屋儀左衞門 〈中筋〉一代金壹兩壹分貳朱 〈深川仲町〉萬屋吉兵衞 〈同〉一代金壹兩貳分〈めし七盃〉 〈淺草〉岡田屋千藏 一代金壹兩貳朱〈めし五盃〉 〈兩國米澤町〉八木屋善助 右之外略レ之 そば組〈二八中盛上そば〉 一五拾七盃 〈新吉原〉桐屋五左衞門〈四十三才〉 一四十九盃 〈淺草駒がた〉鍵屋長助〈四十九才〉 一六十三盃 〈池之端仲町〉山口屋吉兵衞〈三十八才〉 一三十六盃 〈神田明神下〉肴屋新八〈三十八才〉 一四十三盃 〈下谷〉御屋敷者〈五十二才〉 〈八寸重箱ニ〉一九盃半〈豆腐汁三盃〉 〈小松川〉吉左衞門 右山岡子正より借寫
p.0055 大食會 いつのころか、備後福山に大食會といふことをはじめしものあり、其社の人皆夭折せり、ひとり陶三秀といふ醫者ありしが、これははやくさとりて其社を辭して、六十餘までいきたり、予が若き頃三秀が甚だ小食なるを見て、其よしを問ひしに、其社中皆異病にて 死し、おのれ減食してまぬかれしといふ、其後近村平野村にまたこの事はやりて、人多く異病をやみぬ、其社中に淸右衞門といふ若者あり、膂力も人にすぐれ、無病なりしが、ふと遺溺す、それよりしげくなりて、つひに坐上に溺するを覺えず、發狂して死したり、食ふてすぐに食傷はあらざれども、つもり〳〵て不治の病となるなり、一日に五合の食は吾邦の通制なり、是にて飛脚をもつとめ、軍にもいづるなり、されば人々心得べき事にこそ、軍事には一升、戰の日は二升のかては、其時々の事にて常にあらず、
p.0056 凡造二御膳一、誤犯二食禁一者、典膳徒三年、〈謂造二御膳一者、皆依二食經一、經有二禁忌一、不レ得二輙造一、若乾脯不レ得レ入二黍米中一、莧菜不レ得レ和二鼈肉一之類、有レ所レ犯者、典膳徒三年、〉
p.0056 禁好物注文、合食禁(○○○)日記、任二藥殿壁書一可二寫給一候、
p.0056 くひあはせ 庭訓に合食禁ともみゆ、相反し相畏るゝ物を一度に食合する也、
p.0056 一盛合せぬ品々 猪〈ニ〉兎 辛螺にこんにやく 雉子〈ニ〉狸 鯉にさめのらほ 干鱈〈ニ〉榮螺 鮭〈ニ〉いるか 右喰合る時は、百日の内に必ず大病請る也、
p.0056 同食の禁忌多し、其要なるをこゝに記す、猪肉に生薑、蕎麥、胡荽、炒豆、梅、牛肉、鹿肉、鼈鶴、鶉をいむ、牛肉に、黍、韭、生薑、栗子をいむ、〈○下略〉 ○按ズルニ、食禁ノ事ハ、尚ホ方技部醫術篇ニ在リ、宜シク參看スベシ、
p.0056 一食事ノ樣 サ子アラン物ヲバ、懐ニセヨト云ナリ、スベテハレニモケニモ、盤臺ノ上ニマサナゲニクヒチラス事ハスマジキ事也、物一モ盤臺ニコボシチラスベカラズ、サワ〳〵トクフベシ、菓ヲ食シテ、サ子皮イタジキニモ、庭ニモナゲチラス事ハウタテキ事也、主君ノ御前ナンドニテハ、スコシモチラサズシテ、タヽウガミニモ取入ニ立ベシ、サシモナカラン所ニハ、ヒトヽコロニシラクベシ、將 門カユヲ飮殘シタルヲ、ニハニシヤクトステタリケルヲバ、王相ナシトハシリケリ、ユヲノミノコシテ庭ニスツル事ハ、心ヲトリスル事也、又主君ノ前ニメシチラシタラム物ヲバ陪膳ノ物ワザトヒタラストモ、便ニトリテスツベシ、ムナシキ折敷坏物ノクヅナンドツモラスベカラズ、
p.0057 事ヲ始次第〈○中略〉 飯ヨリ左ノモノヲサシコシテハサムベカラズ、魚ノヤキタラムハ、ムシリテ多不レ可レ食、鱛ハカイシキノ紙ノミエルマデ、内ノ子ナドヲ不レ可レ食、ハ骨ナガラ可レ食、不レ然者不レ可レ食也、シギツボハ食了後、如レ元フタヲヲホウナリ、汁ノミハ鯉ノワタイリナラバ、齊太ガ所バカリヲハサミアゲテ可レ食、
p.0057 入客之儀〈○中略〉 初對面之外ハ、雖二尋常之人一可レ勸二坏飯一、付レ中凌二遼遠之路一來人、不レ勸レ膳者頗無レ心事也、至二盃膳一者、近隨二官位一也、但無二左右一客人前々勸歟、此條頗不二甘心一云々、凡食事間、俗家ニハ頗以習多レ之、僧中ニハ無二別樣一云々、其中ニ飯ヨリ左ナルアハセヲ、及レ箸食事不レ可レ有云々、又敬人ニハ以二高坏一可レ勸、侍品ニハ折敷常事也、
p.0057 一欲レ食レ飯先取二最花一事 一食レ汁了、汁土器置二机下一事、
p.0057 食物之式法の事 一客人のしやうばん仕候へと仰あらば、座敷にて肴のすわりてくふ時は、すひものなどの汁をすふ事あるべからず、二はし三箸くふて後汁をすふべし、 一人前にて飯くふ樣之事、人より後にくひ初め、箸をば人よりさきに置也、ひや汁をうくる時は、箸持たる手にて、左のすわうの袖をかい取て請べし、汁のさいしん引人の前に來る時、先すふて 出す事ひけふなり、又何とうまき二汁ひや汁也共、かけてくふべからず、大汁請べし、もしひや汁などはくるしからず、又汁の中なる魚鳥の骨を折敷のすみへ取出す事、ひけふ第一也、 一こは飯などくふ樣、縱箸すわりたり共、箸にてくふべからず、箸にてすくひて左の手の上に移して手にてくふべし、さりながら汁候はゞ、箸にてくふべし、 一鷹の鳥喰樣、努々箸にて狹喰べからず、手にて喰べし、若又汁に也候はゞ、たゞはさみ手にて一箸くふべし、其後はすひたるべし、〈○中略〉 一しきの御飯などまいる事、すゑの御飯をきこしめす也、それも主人の右のかたにちかき物を參らする也といへり、これは御手むきなる故と云々、御こづけをすゑに參らせ置も、御手がけのため也、〈○中略〉 一しきの御飯之事、是はむねとの大じんの御もてなしと云事有、其時すべき事なり、それを只の祝言之時、りやく儀に少もる也、二本立三本立といふも、飯を二樣に參らするを云也、一番に本飯也、是はくろ物として、こはき飯を盛て、紙をたゝみて帶にする也、其帶をば片むすびにして、主人の御前の方を結めをする也、それに御具足を十二盛也、次には二本立、是もこはき飯を常のごとくに盛て御具足をば色々に盛也、此外に御こづけとて、かきわけて其上に汁をかけて參らする也、御飯には、三本ながら御しるのおいぜんもあれども、汁に付てまいるには、こづけの御めしに何れの汁にても、きこしめし度をとりてきこしめすべし、三本立は、姫の飯に計御手をかくる也、こは御物くろ御物と云は、はうをば只まいらせ置までの事也、今時分はかやうの御物をきこしめすやう、しりたる人すくなきゆへか、ひめの御物といふは、常の飯の事也、何樣にも飯よりの方にもりたる具足を、飯の上より箸をこしてはさみて喰べからず、右の方なる具足と前のぐそくをまいるべき也、こづけの上にかけて參らする御汁は、ひしほいり等也、さてはたゝみの汁也、た たみの汁とは、色々のうちな等也〈○中略〉 一物をくひて箸をば折敷に置て酒をものむべし、汁碗の上に箸を置事、努々有べからず、右に折敷に置べし、〈○中略〉 一人前にてさい喰事、さいをば山海野里と如レ斯次第をして喰也、但時の賞翫を次第して先喰べし、〈○中略〉 一飯をくふやう、先左を一箸、右を一箸、向を一箸、三箸を一口に入て喰也、是は門出に喰也、我が所にて向左右と喰也、 一肴のすひ物をば、汁を吸てさてみをばはさみて喰也、
p.0059 一食まいり候しあはせのこと、左の手にてはしをとりあげ、右の手にまづもち、〈これにみやうあり、女房若衆は右にてとるべし、くでん、〉さて食椀をとりあげ、食を一くちまいり、しるをとりあげ、みばかりをまづまいりをくなり、又食をまいり汁をとりあげ、しるをすい、みをまいるべし、さいをまいるに、何にてもなかをきを參るべし、されどもぜんくみにより、まいるやうあるべし、あえまぜなますかみしもにあらば、いづれなりともまいりはじむるなり、まるたあはびのからもりなど一ばんにまいる事いかゞ、 一二の汁のまいりやう、はしをとりなをし、汁を右にてとりあげ、いとじきを左の手のうちにすゆるやうにしてまいるべし、かわらけなどの時は、兩の手にてとるなり、又本膳のさいと、二三のさいとをかけまいる事いかゞ、本膳は本膳、二の膳は二の膳、三の膳は三のぜん、そればかり汁さいをまいるべし、又さい一つ皆まいり候事いかゞ、すこしづゝいづれのさいにも手をかけらるべし、但ことによるべきか、又三の汁は左の手にてとりあげ、汁をすひみをくふなり、これを二三のくひわけといふ、 一食のさいしんうくる事、我よりしたの人うけ候間は、すこし待こゝろをなし、さいなどをいろい、したの人さいしんうけ候はゞ、食を參るべし、 一食に汁をかくる事、本膳のさい右の手にて少のけ、食を膳にわけ、しやうじんの汁をかけべし、おほ汁ひや汁同前、但ときのけいぶつなどあるは、それをかくべき也、是賞翫たり、 一ひき物かなかけも、もり付たるをば、かなかけを取あげ、ひだりに持まいるべし、但汁ある物、足のつきたるをば、とりあげずまいるなり、さてはしをおさむるとき、食はじめたる物、あるひはしやうじんのものにておさむべし、口傳、〈○中略〉 一みをくはざるさきに汁をすひ候は、鯉にかぎるよし申つたへ候、其外はこと〴〵くみをくゐ候て後、汁をすふものぞと、
p.0060 一ゆづけは、かうの物よりくひそむべき也、 一めしは、中もりよりくひそむべき也、〈但物によるべき也〉 一このわたは、桶を取あげて、はしにてくふべし、是も一番よりは如何、半に一兩度もくふべき也、 わかき衆は、しんしやく有べき也、 一かまぼこ刀め付たるは、はしにてくふべし、其まゝにて候はゞ、取あげてくふべき也、中よりか ふるべし、
p.0060 大酒の時の事〈同殿中一獻の事〉 一肴を人の給候事、貴人の給候をば、左の手を上、右の手を下に重て、諸手にて我身をちとしづめて、手のくぼに受て、深く戴きてくふべし、懐中し候を賞翫と申人候へ共、それはわろしと、金仙寺〈○伊勢貞宗〉の給ひ候し、大なる物などはくひきりて、殘をふところへ入候、又等輩の人の給候をば、かた手にて手のひらに請て戴てくふべし、大なる物のしかもぬれたるなどは、くひきりて殘を何 となくうしろに可レ置、片手にてつまみて取候事は尾籠なり、但我より下ざまの人なれば苦しからず、つまみて取ほどの人なれば苦しからず、つまみてとるほどの人の給候共いたゞくべし、但戴きやうに淺深あるべきのよし、金仙寺は宣ひし、〈○中略〉 人の相伴する事 一人の相伴の事、貴人の前にて、めし又何にても相伴あらば、物のすはるまではひざを立て可レ有、膳すはり候はゞ、ひざをくむべし、但座敷せばく候て、貴人とひざぐみのやうならば、ひざを立てもくふべし、時宜によるべし、飯又肴取おろして疊にをく不レ可レ然、先箸を取ながら、飯ならば汁をかけ湯をのみ、箸ををくまで、貴人を見合、貴人より先にてあるべからず、箸を取をく事も同前、〈○中略〉 一人前にて飯くひ候やう、さま〴〵申候由候へ共、前に申ごとく、貴人を見合てくひ候べし、故實と申は、若人など前さらのさんせうをくひ、又燒物などのむしりにくきをむしりかね、手遠なる汁菜を取候とて、物をこぼしなど候事見にくゝ候、只手便なる物をくふべし、又にしの汁を吸、このわたをすゝりなどし候事、分別あるべし、年寄たる人は、鴈のかはいり、くゞゐ、くじらなどの珍物の引物などに候をば取て、大汁の上に置てもくひたる能候、若人は不レ可レ然候、武家にては必飯わんに汁をかけ候、飯をば本膳又二膳にても候へ、折敷へ分候べし、こわんに分候事なく候、出家は必ひやしるわんにつけて御參候、出家も在家も内々にては、何としても不レ苦候、 一さいしんをうけ候事、飯、點心にても候へ、配膳の人を賞翫し候へば、かたひざを立請取候て、其膝をくみ候、常にひざをくみながら請候、飯などのさいしんは、さのみしげくは出候はず候、湯づけは少しげく出候、又さいしん鉢を座敷にをく事はもとはなく候、まいらせ候てかげへ取候て又なをし候て出候、貴人の御前へは別に參候、當時さいしん鉢を座敷にをかれ候故、勢州へ不審 致候へば、其事にて候、當時如レ此候との給ひ候し、
p.0062 料理の事 一鷹の鳥のくひやう、春の鳥には、なんてんの葉をかんながけに敷て、燒鳥にして出し、亭主鷹の鳥のよし申されば、箸を手に持ながら、手にてふか〳〵と戴き、過分のよし申て、箸持たる方の手にて、はし持ながら、ゆび二にてつまみてくふべし、其後は箸にてくふべし、又引物汁菜などに、鷹の鳥をすること有、其時も過分のよし一禮して、はしにてくふべし、
p.0062 一鷹の鳥くひやう、先たかの鳥とはきじ也、勿論やきとりたるべし、木具のおしきにかいしき色々、秋冬春にかはる事も在レ之、但南天のはゝ四季に用る也、鳥をばさくといふ也、はやもりやうにて鷹の鳥と知事あり、先かひ口を一きれにても上にをく也、又は當時たかの鳥と功者申候がよきと也、さてはしを取おしきをとり上ていたゞき、はし持ながらつまみてくふべし、先臺共にいたゞきて、又つまみたるをばいたゞき候はずともくふべき也、過分の心得有べし、老者などは聲を出て感ずる也、又若き人は、先ほねをかり〳〵とくふたるが可レ然と也、二三も後ははしにて下にもをきくふべきと也、やうだいによるべし、主人貴人の御鷹之鳥、又其御前等之事は、一段うやまひ可レ申也、 一同鶴雁鴨靑鷺之事は、すひ物にこしらへ可レ出なり、是はかはらけを取上いたゞくべし、はしにてくふべし、先汁をすふ事は如何、後にはすふべき也、
p.0062 一御前にて食給べき躾の事、左の膝をつきて、召出のごとく居直りて、賞翫の座成とも、御膳參候はゞ、しかと居べし、飯くふて後は膝を立て尤也、食の喰やう、第一五段の箸と申て、箸に五ツの躾あるよし有レ之、先飯を三箸くひ、其後汁、又其後飯、其次あへまぜ成べし、あへまぜなくば、時の賞翫の菜など、又酢の物を喰べし、但初メ汁を汁とつゞけ、菜を菜とつゞけ不レ可 レ喰、間に飯を一箸づゝ交ぜ可レ喰中の汁あらば、追膳の汁不レ可レ喰、又冷汁は交たる時ばかり些と吸て、其後不レ可レ吸、食にかけて喰べき汁也、 一あげやうは、先さきにしほをあげて飯を三箸喰、大汁一箸、汁をすはずして内の中もり、右の頭の左の前nan内の中迄菜を喰とむべし、飯をくひ、向の中nan左の頭右の中、扨二の膳の中もりにて喰留べし、又食を三箸くひ、追膳の中盛右頭より左の中、扨本膳の手本にて喰納め、冷汁あらば手をかけて可レ喰、一へんの喰樣如レ此、半分の時、三の膳上の左の頭に箸そへ、飯に手をつけて右の頭の菜を喰、其後三の膳に手をつくる事なし、
p.0063 一肴を食時、先しるをすふて、扨食人多く有間鋪事なり、さかな持上て食て後、貴人の前を見合て可レ置、後も汁をすふ事よろしからず、肴置て後は、更又不レ可レ食、箸を置事は、貴人のをかるゝを見合てをく也、
p.0063 一飯喰樣の事、さい數いかほど有共、一番に眞中に成物をくいて後は、いづれをくはんともまゝなり、是も前に記すごとく、くひにくき物は、くはぬが能也、二三のしる有とも、餘に手とを成をば、およびごしにくふはわろし、〈○下略〉
p.0063 飯喰やうの事 かよひ膳をこと〴〵くすへ渡し、よき時分に相伴人上座にむかい手をつき、卒度御箸をと申べし、其時上客椀のふたを御取あるべし、其時座中一度に喰初る也、其次第は先右の手にてはしを取なをし、飯椀のふたを取左にわたし、又右にて汁わんのふたを取、左に持たる飯椀のふたにかさねて左の脇に置、右にて飯を取あげ、左にわたし、少宛二はし喰、又右にて汁椀を取あげ左にわたし、汁ばかりを一口すひ、右に渡し下に置、又右にてめし椀を取あげ、二はし喰下に置、汁椀を取あげ汁を吸、躬をくい下に置、已上二度也、扨三度めからは、左にてめしわんを取上、二はし計くい、 汁をすい、本膳のさいをくふべし、此後からはめしを喰、二之汁をくひ、二の膳の菜をくい、又めしをくい、本膳の汁さいをくい、又めしを喰、三之膳とうつる也、向詰も又かくのごとく也、左に在菜を左にて取あげ、右にある菜を、箸を取直し右にて取、左にうつし、喰候而右にうつし下に置也、本膳のものを取上て喰べからず候、膳の上に少にてもくいこぼし汁などをくいちらす事、至極の不仕付なり、汁にひたしたる菜ならば、はさみあげて汁わんの上通りにてくふべし、くい終る時も、くい初たる菜にておさむべし、始終扇をばぬき脇に置、脇指をぬかずして有べし、〈○中略〉わんを取あげ喰候時、少もうつぶかず、左の臂をやすらかにして右のひぢをはるべし、ひぢをはらざる時は、箸斜に成て、長く口中に入、多くよごれてびろう也、扨はしを取候も、貴人の御前にて長く取べからず候、膳半に鼻紙にて口をぬぐふ時などは、はしを飯椀と汁椀との間にすじかへて置、湯をのみ仕廻候時は、本をとゝのへ、本式のごとく置也、總而の膳部を、むさくくいよごさぬやうにすべし、諸事につけてらうぜきなるべからず候、くふべきものは皆くい、くふまじきとおもふものは、ふたを取たるぶんにてくはぬもよし、乍レ然半喰さしたりとも、跡に氣をつけ見苦しからざるやうに嗜むべし、小人などは別而此心得かんようなり、
p.0064 粥之事 一はしをおさめてのち、はしをとりあぐる事は如何、但年よりたる人はくるしかるまじき也、〈○中略〉 一はしはもとすゑと申也、若衆などは左にてはしをとりあげ、右のかたのはしすゑよりくふべし、其外は右にてとりあげ、左のはしすゑよりくふべし、このせつもありといへども、まへにしたがふべし、 一はしさきは一寸しめす物也、ふかくしめすはいやしき事ぞ、〈○中略〉 きらひはしの事 一ぜんごし 一そでごし 一もろおとし 一さいのさい 一しるなまち 一よこばし 一てうぶくのはし 一まどひばし 一たてばし 右是九ツをくふべからず 一はしのをきどころは、上はひざのふしのうへ、中はひざの中程、下はいは其下也、いかにも身をちゞめてはしをせばくもつがほんなり、是三しきのをしへやうたり、
p.0065 食事之時病之事 ものをくふ時、平生を嗜候事第一也、物毎かくのごとくなれども、一しほ食事は一日に二三度是非にかげざる物なれば、常々に禮法の趣を聞て心を用る時は、恥辱をとらぬもの也、第一貴人の御前にて大口にむざと喰まじき也、口一はいほうばりたる時、不レ計人言を申かけたる時見苦し、扨上座をもうかゞはず、前後をもかへりみず、情を食味にうつしてくふを、大喰とて大きにいましめ候なり、つゝしむべし、菜を下に置ながら箸を長く取のべ、あへ物を一口喰、煮ものを一口くふをうつり箸(○○○○)とていましめたり、たとへ取上ては喰とも、菜はさい計あれこれをくふを菜ごし(○○○)とてきらふ事也、燒物をくはんか、又さし身をくわんかと、うろたへたる體、さて〳〵見苦し、唯飮食の時は、心さはがしかるまじく候、加樣に手のなまるをなまりばし(○○○○○)とて嫌ふ也、食にても汁にても、通ひより請取、膳におかずして直にくふをうけぐひ(○○○○)といへり、是又嫌ひ候也、膳のむかふの物を、はしをのばしてはさむを膳ごし(○○○)とて嫌ふ也、此外一々にあげがたし、
p.0065 一菜を食べき事、食を給、汁を吸候て、扨一色づゝ喰候なり、餘多の菜へ一度に箸を付べからず候、うつり箸(○○○○)とて大に忌なり、
p.0066 一食にても又はゆづけにても、口へたべはて候て、そのはしをぜんに置候時は、如レ前おしきの中へ可レ入候哉、又ぜんのふちなどにもたせ候て置候事も候哉の事、 前のごとくぜんの中へ入申候、はしの入樣にも少樣體在レ之由に候、先手をうつぶけて持候て 入候事はおもはしからず候、手をあふのけて持て入候が能よし申人あり、又主人貴人等の御 前にて御相伴などの時の食のたべ樣に色々心得在レ之由候、
p.0066 一本膳に山椒と燒鹽とを少おきて出す事、山椒は脾胃の氣をひらき食をすゝむる物也、醫書にみえたり、又鹽は食の咽につまりたる時、少くいつめば、つまりたる食咽を通る物也、それゆへ山椒と鹽をおいて出すなり、人の元に行て食する時、山椒など取て食ふ事はあるまじき也、食咽につまりたらば、鹽はくひつむべし、山椒はむせるものなれば食ふべからず、
p.0066 一ハシニテサカナクハザルヤウ 昔堀川右大臣顯房ノ御子息國信ノモトヘ、カタタガヘノタメニワタラレタルニ、御料ヲマイラセタルニ、ハシヲスエテ、汁ヲ御料モナラヌニヨリテスヽメ申ニ、御返事ニ、サカナナヲバコソ、テニテハナラメト御返アリト、記録ニミヘタリ、
p.0066 式作法の外に物くふに心がくべき事あり、雖知苦庵道三養生物語に、四條繩手にて正行が敵に後ろを射させながら、しづかに竹葉(ベンタウ)をつかふと云こと、天晴なる勇將とおもへり、梅窻曰、そういやるで思ひ出した、木村が上方勢をおつ立たいきほひより、討死の時、大手の前にて、敵の方へ尻を向け、牀几に腰をかけて、手の者五六人まんまるにして、大佛餅を手に手に持、しづかに食ていた、その體ことの外見事にあつた、雨のふるやうな矢玉の中でのことじや云々、不斷しづかに物を食ならはねば、いそがしき時落ついて食れぬものじや、食物が脾胃へおさまらず、首のまはりにある物じやといへり、こは英雄の振舞なれど、併しながら又ならひにもよるな るべし、 ○食法ノ事ハ、尚ホ禮式部饗應篇ニ在リ、宜シク參看スベシ、
p.0067 御煮嘗(ヲニナメ/○○○)〈先二尊者一賞二調味一云レ爾、或假二藥兒之説一作二小兒嘗一、〉
p.0067 おにぐひ 鬼喰の義成べし、伊勢物語に、鬼一口に喰てけりといへるより、先一口喰をもていふ成べし、瓜に禮とするは、禮玉藻に、瓜祭上環といへる是也、注に上環橫切レ之、圓如レ環也とみゆ、 おにとり 鬼取の義、鬼喰に同じ、秦時尚食を置て膳を進るに、先嘗る事を掌ると見ゆ、本朝の内膳の職是也といへり、鬼といふは浮屠家の生飯(サバ)より出たる詞にや、さばの下、考ふべし、
p.0067 食物之式法の事 一貴人の御前にて、飯の鬼をする事、かさを取て御めしの上をばとらず、左の方のそばを執べし、
p.0067 内膳司 奉膳二人掌下總二知御膳一進食先嘗(○○)〈謂在二御所一而嘗之、凡玉食琱飡、欲レ登二天供一、膳官營造、淸戒倶至、然猶慮二其誤犯一、故在二照臨一而先嘗、〉事一、
p.0067 堀河左府、〈○源俊房〉知足院殿〈○藤原忠實〉ヲ聟ニ奉レ取、賞翫之餘、常被レ奉二仕陪膳一、毎レ進二汁物一先啜試テ氣味調タルニ、飯ヲ漬テ被レ奉ケレバ、無便トオボシナガラ食給ケリ、其由大殿〈○師通〉ニ被二語申一ケレバ、暫御案アリテ被レ仰云、左府モ可レ然之人也、有二何事一哉云々、
p.0067 一御祝之度、酒井雅樂頭御膳手ヲ付上ル、雅樂頭ニモ足打ニテ三迄ノ御料理被レ下レ之、
p.0067 伊達政宗茶臼山の御陣へ參り、御物語の序に、かゝる騒擾の折は、人心計りがたければ、朝夕の供御なども、よく〳〵御心付らればよからんと申上しに、尤の事と聞し召し、是より供御聞しめすに、御にとり(○○○○)の役立置れ、後々までも、三河以來譜代の者もて、その役にあてらるゝ事となりぬ、〈雜話筆記〉 案におにとり役とは、今の世の御膳奉行の事なり、寬永寬文の頃までは、かく唱へしなり、今も 食物の試するをおにをするといふは、古言なるべし、
p.0068 御膳奉行支配 おに取二十人、同心五人、
p.0068 寬永元年三月廿八日、將軍家〈○德川秀忠公〉渡二御松平下野守忠郷之館一、 私ニ曰、松平下野守、〈本名蒲生〉兼日前將軍秀忠渡御有ベシト被二仰渡一シカバ、御殿之設、御成門ヲ建、〈○中略〉已御成ノ日ハ天氣淸朗タリ、渡御有シ二御膳ヲ獻ズ、山海ノ珍味ヲ盡ス、御膳具ニハ金銀ヲ以テ濃、配膳御役ハ將軍家ノ近臣勤レ之、鬼取ノ衆中御料理ノ品々ヲ一々嘗二試之一、
p.0068 鬼喰を 〈謠詞〉鬼喰もたゞおのづから胴(たう)に入て膳を見れどもすゝまざりけり 是急
p.0068 餕(○○)〈俗、正、音俊、アマリイヒ、イヒノコル、〉
p.0068 餕(ワケ/ヲロシ)〈所レ食之餘〉
p.0068 おろす 食物にいふは、曲禮の餕餘也、大みきのおろしなど見えたり、
p.0068 〈裏書〉殿上侍臣饌者、以二供御〈謂二日貢御膳一也〉殘塵一(○○)羞レ之、菜料魚味八種、〈諸國贄物任二用之一也〉精進二種、〈諸司熟物任二用之一〉若臨時有レ課者、以二諸國年料贄物一羞レ之、輙以二供御贄物内魚闕一レ用也、 大別當副物者、不レ用二供御贄餘剰一、各別進二副荒卷一、毎日魚味六種、精進隨レ志用レ之、 中別當〈謂二寄藏人一也〉任用同上、於二殿上一羞レ之、不二別配一、用二直廬之所一、 小別當〈謂二管領預一也〉任用同上、毎日直二本所一、供御之以後行二用之一、被官應レ之、皆羞二熟食一、其任用者、御贄殘塵進用上レ之、仰二小預一取二納之一、所レ掌多故、毎旬小預各二人任二用之一、舍人配二充之一、毎旬十人、
p.0068 大盤間事 〈家〉朝大盤巳剋也、上古辰剋以前居レ之云々、殿上弁宿侍參二結政一之時、著二朝大盤一、及二剋限一參二結政一云々、其間 大盤三箇度也、有二晝大盤一、供二朝膳一之次、下二御飯一所レ行也、欲レ下二御飯一之時、主殿司令レ居二大鉢於下盤一、爲二瀉入一也、但近代不レ然、御膳罷了之後、自二御膳宿一所二下遣一也、至二于夕膳之御飯一不レ可レ下、稱二夜候料一、近來大盤只朝夕二箇度也、晝大盤非二毎日事一、抑朝大盤之時、下物自二御厨子所一所レ渡也、小盛物二前、各四坏、上古無二小盛物一云々、夕大盤之時、無二御厨子所下物一、只以二下盤物一〈稱二九種物一也〉所レ用也、
p.0069 又の日になるまで出給はず、御ものまいりて、御たいなどならせときゝ入給はずしりつらひて、中務の君御たいまいると聞ゆれば、いとねぶたくくるし、ちいさきはんにすこしわけて、いませとの給へば、ちうのはむに御わけべちにすこしわけて、しもの御あはせなどもてまいれり、まづ宮にすこしめさせて御おろし(○○○○)すこしまいりて、おほとのごもりぬ、
p.0069 八幡別當淸成者、常宇治殿ヘマイリケリ、或日參リタリケルニ、御料ノ御オロシ(○○○)ヲ被レ出タリケルヲ、藏人所ノ臺盤ノ上ニ置タリケルヲ、淸成手ヅカミニツカミテ喰テ、酒ノ銚子ニ入タリケルヲ、皆飮タリケリ、近來之別當不レ然歟、
p.0069 寬平御時に、うへのさぶらひに侍けるをのこども、かめをもたせて、きさいの宮 の御かたに、おほみきのおろしときこえに奉りたりけるを、くら人どもわらひて、かめをお まへにもていでゝ、ともかくもいはず成にければ、つかひのかへりきて、さなん有つるとい ひければ、くら人のなかにをくりける、 としゆきの朝臣 たまだれのこがめやいづらこよろぎの磯の浪分おきにいでにけり
p.0069 亭子院にさぶらひけるに、御ときのおろしたまはせたりければ、 いせ いせのうみに年へてすみしあまなれどかゝるみるめはかづかざりしを
p.0069 雪のふりたるつとめて、院〈○冷泉圓融〉の御かゆのおろし給て、歌よめとおほせられけれ ば、 白雪のふれる朝のしらがゆはいとよくにたる物にぞありける