p.0541 餅ハ、モチヒト云ヒ、後世ニハ單ニモチト云フ、糯米ヲ蒸シ、搗キテ作ル、又粟、黍、蜀黍、葛、蕨、橡實等ヲ以テ製スルコトアリ、又蓬ヲ糯米ニ加ヘテ製スルヲ草餅ト云フ、古クハ母子草ヲモ用イタリ、餅ヲ食フニ、赤小豆、大豆(キナコ)粉、栗粉、胡麻、沙糖等ヲ糝ルヲ常トス、餅ヲ神佛ニ供シ、又賀儀ニ用イル事ハ、我國古來ノ風俗ニシテ、正月元日ノ鏡餅、雜煮餅ヲ始メ、三月上巳ノ草餅、五月五日ノ粽、十月玄猪ノ亥ノ子餅等、其他中行事ニ餅ヲ用イルコト頗ル多シ、 團子ハ、糯米或ハ粳米ノ粉ニテ製ス、又黍、蜀黍、小麥等ノ粉ニテモ作ル、其之ヲ食フニ、赤小豆、胡麻、大豆粉、沙糖等ヲ用イルコト、凡テ餅ニ同ジ、
p.0541 毛知比(○○○)
p.0541 餅〈殕字附〉 釋名云、餅〈音屏、和名毛知比、〉令二糯麵合并一也、胡餅以レ麻著レ之、〈今案、麵、麥粉也、俗云餅粉、阿禮是也、〉四聲字苑云、殕〈孚乳反、與レ撫同、今案訓二賀布一、〉食上生レ白者也、
p.0541 按毛知比、毛知以比之急呼、毛知謂二黏著者一、與レ黐同語、以此謂レ飯也、〈○中略〉所レ引釋飮食文、下同、原書作下餅并也溲レ麵使二合并一也上、此作二令糯一恐誤、按餅溲二麥末一、合并者、故説文云、餅麪餈也、麪麥末也、然則餅今俗所レ謂小麥餅也、毛知比以二 米一烝熟爛乃壔レ之者、宜二以レ餈充一レ、説文云、餈稻餅也、稻是黏米、故説文又云、沛國謂レ稻爲レ 、廣韻餈飯餅、是可レ證二毛知比之爲一レ餈也、〈○中略〉通鑑唐肅宗 紀、日向レ中、上猶未レ食、楊國忠自市二胡餅一以獻、胡三省曰、胡餅今之蒸餅、高似孫曰、胡餅言下以二胡麻一著上レ之也、崔鴻前趙録、石虎諱胡、改二胡餅一曰二麻餅一、緗素雜記曰、有下鬻二胡餅一者上、不レ曉二名之所謂一、易二其名一曰二爐餅一、以爲胡人所レ啗、故曰二胡餅一也、按注所レ云、其義不レ晰、疑言二餅以レ麪爲一レ之、麪麥粉也、此間呼二餅粉一者 米粉、俗名爲二阿禮一、非二麥粉一也、
p.0542 麪餈也〈麥部曰、麪麥末也、麪餈者、餅之本義也、方言曰、餅謂二之飥一、或謂二之餦一、或謂二之餛一是也、〉从レ食、并聲、〈必郢切、十一部、〉 稻餅〈方言曰、餌謂二之餻一、或謂二之粢一、或謂二之粢一、或謂二之 一、或謂二之 、謂二米餅一也、周禮糗餌粉餈、注曰、餌餈皆粉、稻米黍米所レ爲也、合蒸曰レ餌、餅レ之曰レ餈、糗者擣レ粉熬二大豆一爲レ餌、餈レ之黏著以粉レ之耳、餌言レ糗、餈言レ粉、互相足、按許説與レ鄭不レ同、謂以二 米一蒸孰、餅レ之如二麪餅一曰レ餈、今江蘇之餈飯也、粉 米而餅レ之而蒸レ之、則曰レ餌、 部云、 粉餅也、是也、今江蘇之米粉餅米粉團也、粉餅則傅レ之以二熬米麥之乾者一、故曰二糗餌一、米部云、糗熬米麥也、可レ證餈則傅レ之以二大豆之粉一、米部曰、粉傅レ面者也、可レ證也、許不レ言二何粉一、大鄭云、豆屑是也、〉从レ食次聲、疾資切、十五部、周禮故書作レ茨、假借字也、
p.0542 餅 晉束晳餅賦曰、禮仲春天子食レ餻、而朝事之籩、煮レ麥爲レ麵、内則諸饌不レ説レ餅、然則餅之作、其來遠矣、按漢書百官表少府屬有二易官一主二餅餌一、又宣帝微時毎レ買レ餅、所二從買一者輒大售、説苑叙二戰國事一、則餅蓋起二於七國之時一也、
p.0542 欲用は母知比氐牟(モチヒテム)と訓べし、〈○註略〉用の假字は、源仲正家集に、元日戀、千代までも影をならべて逢見むと祝ふ鏡の用ひざらめや、〈夫木集卅二に載れり、又後なれど、藤原經衡家集にも、此同人宇治殿にて、餅をおこすとて、肴には何もあれども此中に心につかば是を用ひよ、かへし君が代を心用ひのうれしきはいかなる人のなさけなるらむ、〉と餅に云かけたるに依て定めつ、
p.0542 餅〈モチヒ〉
p.0542 (モチ)〈事見二代醉一、出レ久、〉 (同) 餅(同)〈今按、支那所レ用麪粢也、本朝俗爲二糯糕一者謬矣、〉
p.0542 餅 もちひ 和名、もちいひの略なり、もちゐと書べからず、望月をもちつきといふは、みともと通ずればみちつき歟、然らば餅も滿なる物なれば、みちといふ義歟、又勝負をあらそふ事に、かたずまけぬを持といふも、物の中を取持意なれば、そのやうにみちかけの中なれば、 持月といふ歟、それに似たれば、持飯といふ歟、黏黐をもちといひ、羊躑躅をもちつゝじといふも持て放たぬ意歟、合せて思ふべし、
p.0543 餅モチヒ 倭名鈔に釋名を引て、餅は令二糯麵合并一也、此にモチヒといふ、今按ずるに、麵は麥粉也と注せり、古の俗凡物の黏するものをいひて、モチといひけり、黐をモチといひ、糯米をモチヨ子といひ、餅をモチヒといふが如き是也、されば糕餅の類を呼びて、すべてはこれをモチヒといふ、モチヒとは糯飯也、今の如きは、糯米の強飯を擣て、餅となしぬるを、俗にはモチといひ、又カチヒといふ也、カチヒとは、擣飯也、漢に餈といひて説文に稻餅也といひ、集韻に飯餅也といひしものと見えたり、糯米麥粉等をもて合作れるものにはあらず、倭名鈔には飯餅類に餈の字をば收めず、餅の字讀てモチヒといひ、釋名注引き用ひしは、其代には今云モチヒの如くなるものゝなくてやあるらむ、また古の物も今にかはらざりけれど、漢字を傳得し始より、餈の字を借用ひて、讀てモチヒといひしかば、倭名鈔にも餅の字讀てモチヒといひ、又其字義を釋すべきためのみに、釋名をば引たりしもしるべからず、釋名に見えし餅の如きも、猶今も其制ある也、〈或人の説に餅讀てモチヒといふは非也などいふ事あれども、説文集韻の如きも韻の字を注して稻餅也ともいひ、飯餅也ともいひしかば、餅の字讀てモチヒといひし事、あしかるべしともおもはれず、釋名に見えし所の如く、糯米麥粉をもて合せ作りしものも、今俗に餅菓子などいひて、製品また少からず、またカチヒをカチンなどもいふは其語轉ぜし也、古語に搗(ウ)つ事をいひて、カチともいふ、搗栗呼びてカチグリといひて、また舂米をカツなどゝいふなり、東北の方言と見えたり、〉
p.0543 もちひ 餻餈をいふ、餅は麪餈也と註せれば、小麥團子也、 も麪餅也といへば同じ、望飯の義、望月より出たる名なるべし、歳首に神前又は君父に供るを、鏡と稱するも亦しかり、東國にそなへと呼、又ふくでんともいふ、越後信濃にふくでといへり、後拾遺集飼書に、もちひかがみと見え、又もちひのますかゞみとも見えたり、江次第に、餅鏡用二近江火切一、侍中群要に、近江國火燧作餅解文と見ゆ、〈○中略〉正月朔旦餈を食するよし、五節篇に見えたれば、西土もまた同じ 風也、説文に餈稻餅也、謂二炊レ米爛之擣レ之不一レ爲レ粉也、一説に説文字解に、 稵本字蓋 餈也と見えて、 食の唐音もをづちいなれば、轉じてもちといふ也ともいへり、又不托を譯す、艾餻葛餻蕨餻牛房餻茄子餻粟粉餻柿搗餻橡實餻等の品類あり、古へ餅に幾枚といへり、靈異記にも、大枚の餅と見ゆ、
p.0544 家鎭(カチン/○○)〈公事根源、所レ謂搗餅也、事見二山崎寶積寺綠起一、〉
p.0544 内裏仙洞ニハ、一切ノ食物ニ異名ヲ付テ被レ召事也、一向不二存知一者、當坐ニ迷惑スベキ者哉、 飯ヲ供御、酒ハ九獻、餅ハカチン、〈○中略〉如レ此異名ヲ被レ付、近此ハ將軍家ニモ女房達皆異名ヲ申スト云々、
p.0544 女房ことば 一もちい かちん
p.0544 十六日けふより後はあしたの物には、赤のかちんなどを奉る、 廿日、こぶあは、へた〳〵のかちんにて御祝か、是らも俗にならふ事とみえたり、
p.0544 餅をかちんとは、かちんのてぬぐひにてかみをつゝみゆふたる女房の、いつも禁裏へ、もちをうりに參りつけたり、もちうりとあれば、ことばのさまいやし、いつものかちんがまゐりたるなど沙汰あればよろし、
p.0544 一餅の事を、女の飼にかちんと云はかちいひ也、かちは、搗の字也、うつともつくともよむ字なり、舂杵にて物をつく事をかつと云也、米麥などをつくを、米かつ麥かつなどゝ云也、いゐとは飯也、こはいひをつきて餅にする故、かちいゐと云也、かちいゐを略してかちいと云、かちいを轉じてかちんと云也、
p.0545 餅をかちんといふにつきて、或は能因法師伊豫の三島にて、祈雨の歌をよみて、驗ありしよろこびに、餅をつきてもてなしけるよりおこれるとて、則歌賃の字を充、又いつの比とかや、朝廷御衰微の比、川端道喜なるもの、日毎に餅を獻ず、〈是は例にて、今も日毎に、小豆のもちを獻ずるとぞ、〉それが褐色の服を著たりしより、女房達、けふはかちんはいかになどいひならはせしより、終に餅の異名となれりともいふ、皆信じがたきを、藤堂樂庵搗飯(カチイヒ)ならんといはれしは理に覺ゆ、搗栗といふも、栗を搗たる也、
p.0545 小野木家妻女并かちんの事 某の人いはく、〈○中略〉總じて、昔は歌の會に餅を出だして、勝劣の賞にあたへしによりて、歌賃といふとも、又内裏微々なりし頃、褐色の袴著たる男、小豆餅を箱に入れて、築地の邊を賣りありきけるに、女房達是を呼びて、褐々と言ひしより、餅をかちんといふともいへり、
p.0545 餻もち(○○)〈和名もちひ〉 關西にてあも(○○)と云、江戸にては小兒に對してあもといふ、〈○中略〉かゞみ餅(○○○○)、諸國の通稱也、圓なる形によるの名なりとかや、東國にてそなえ(○○○)と呼、又ふくでん(○○○○)共云越後及信濃にてふくでと云、搔餅(○○)〈鏡餅に刃劔をいるゝを嫌て、手を以てかく故にかき餅といふ、今刃物を以てへぎたるをへぎもちといふ、〉越後にてけづり餅(○○○○)と云、同國にてかき餅を氷らせて、名づけてしみ餅(○○○)といふ、ある人のもとにて搔餅を炙りて出せり、餘りにかたかりければ、老の齒には得及ばじといふ、あるじのいふ、さらば搔餅によする述懷と云題にて、狂歌よめといひ侍れば、 老の身の今さら恥をかき餅のむかふ鏡の昔戀しき 吾山
p.0545 最明寺入道、〈○北條時賴〉鶴が岡の社參の次に、足利左馬入道の許へ、先使をつかはして立いられたりけるに、あるじまふけられたりける樣、一獻にうちあはび、ニ獻にゑび、三獻にかいもちゐ(○○○○○)にてやみぬ、〈○下略〉
p.0546 餅〈訓二毛知一、古訓二毛知比一、〉 集解、餅中華併二糯麪一而造レ之、源順亦據二釋名一注レ之、本邦自レ古用二糯米一、今蒸二好糯一搗造レ之、中華之糯比二本邦之糯一、則性不二肥實一、味不二厚美一、故以レ麪并而製レ之乎、造レ餅法、先用二精好肥白之糯米一、舂杵篩二去糠一洗淨、甑上蒸熟搗レ臼數千杵而成、粘レ杵則灑レ水、水多則餅濡不レ固易レ壞、故以二水少一爲レ要、外別抹二米粉一而摩レ之、則不レ粘レ物也、或用二小石臼并石杵一、浸レ水一宿達レ旦取出、略拭淨而搗二蒸糯強飯于石臼中一、初粘二石杵一不レ省二其粘一、頻搗則久不レ粘レ杵而作レ餅、其餅透明、味亦脆美、然搗二糯二三升一則足矣、七八升及過二一石一者不レ足レ用也、若造二赤餅一者、蒸糯中和二赤豆泥汁一而搗成レ之、若抹二赤豆泥及大豆粉一者、外面不レ用二米粉一亦可、若造二乾餅(○○)一者、先作二大團餅一上面用二拗棒一拗レ之令レ平、風處略乾而切作レ片、日々晒乾、此號二加岐餅一、若造二寒餅(○○)一者、初搗二蒸糯一作レ餅拗令二平團一切レ之、作レ片浸二寒水一、收二藏于磁壺一而置二閑處一、至二正月一易レ水、夏月取出、臨時煮食、〈○下略〉
p.0546 餅(もち)〈音慈〉 〈俗云、毛知比、言黏滑如レ黐、故爲二黐飯一乎、今俗多用二餅宇一、餅乃雜穀之粉蒸擣也、〉 按、許愼曰、餈稻餅也、謂二炊レ米爛乃擣レ之不一レ爲レ粉也、又以レ豆爲レ粉糝二餈上一名二粉餈一、〈俗云黄粉(キナコ)止里乃餈〉或以二赤豆一和二糝之一、皆用二糯精米一蒸而擣レ之者即餈也、今俗餈餅餌之三物相混稱矣、皆有二小異一、故別レ之、
p.0546 二十六七日、此比餻を製すべし、此日より前に立春の節に入らば、大寒の節の内に、別に餻を作り、今日は年始に用るのみを製すべし、臘水にて餻を製すれば、味美にして、久に堪へ、且和なる故なり、然ども歳初に用るは、日數多く歴たるは堅硬なる故、早く製すべからず、但大寒の内に製しても、その翌日より水に漬置ば、常にやはらかなり、凡餻を製するに、少にても酒氣ある器に米をかし、又はかし米をあへるいがきに酒氣あれば、必あしゝ、たとひ初一たび酒にふれ、後に度々餘の事に用ひ、久しくなりて、酒氣なきと思ひ、其器を用れば餻ゆるくして煮ればながれて用にたゝず、必つゝしみて酒にふれたる器を用べからず、
p.0546 臘雪水 臘月漬二糯餅一法(○○○○)、用二新搗餅一去二米粉一、待レ冷切レ片而漬二陶甕中之滿臘水一、以收二藏之一、至二春正二月一、棄二舊水一易二于宿臘水一、至レ夏漬餅不レ腐、暑月煮食、軟美能治二泄瀉一、或法用二臘雪水一尚佳、
p.0547 酒肴等餘無沙汰無レ極候、何樣尾籠之至可レ候乎、荒々所二尋出一者、〈○中中〉粟餅(○○)、黍餅(○○)、松餅(○○)、薇餅(○○)、荼(トチ)餅、廿鉢、
p.0547 餅〈訓二毛知一、古訓二毛知比一〉 集解〈○中略〉大抵五穀造レ餅(○○○○○○)者多、粟、黍、大小麥、胡麻、玉蜀之類胡麻餅(○○○)者用二油滓一抹レ餅也、草根樹菓亦造レ餅者不レ少、艾祝(○○)者采二嫩艾苗一去レ莖、煮熟合二蒸糯一搗作レ餅、三月三日必用二此餅一、而賀二祝之一、葛餅(○○)、蕨餅(○○)、倶采二草根一切末 乾作レ粉、熬煉作レ餅、此則家々所二毎用一也、牛房餅(○○○)用二牛房根一、煮熟細碎合二蒸搗一搗作レ餅而煎二麻油一、乾用和二砂糖煎汁一而食亦佳、近頃有二茄子餅(○○○)者一、華客初製用二生茄一刮二去紫皮一、劈作二兩箇一、刳二内瓤一濾レ汁、煉二糯粉一和二砂糖一而作レ團、充二塞刳開處一合二了兩箇一、外以二稻草一縛緊蒸レ甑候レ熟取出、抹二豆粉砂糖一而食、若二栗粉餅(○○○)、柿搗餅(○○○)一詳二于各條一、橡實餅(○○○)、櫧子餅(○○○)之類但稱レ珍、不レ足二常用一レ之、復有二油揚餅(○○○)者一、用二乾餅切片一投二煎油中一而煎過、變作二焦赤黑一、取出攤二紙上一去二油濕一、抹レ鹽而食、若レ斯餅類不レ可二勝計一也、
p.0547 寒 (コホリモチ) 氷餅(同)
p.0547 慶長三年十月一日、とびたよりこい一折、こほりかちん一折しん上申、
p.0547 攝津 勝尾寺冰餅
p.0547 尾張大納言宗睦卿〈○尾張名古屋〉 時獻上〈六月朔日〉氷餅〈○中略〉 紀伊中納言治寶卿〈○紀伊和歌山〉 時獻上〈六月朔日〉氷餅
p.0547 餻 考聲切韻云、餻〈古勞反、字亦作レ 、久佐毛知比(○○○○○)、〉蒸二米屑一爲レ之、文德實録云、嘉祥三年、訛言曰、今玆三月三日〈○三日二字原脱、據二本書一補、〉不レ可レ造レ餻、以レ無二母子(○○)一也
p.0547 三月三日〈○中略〉蓬餅(○○) 古ハ如何ナル形ニ勢シケン、今世ハ三都トモニ菱形ニ造リ、京坂ニテハ蓬ヲ搗交へ、靑粉ヲ加ヘテ綠色ヲ美ニス、江戸ハ蓬ヲ交ユルハ稀ニテ、多クハ靑粉ニテ綠色ニ染シノミ也、因ニ云江戸ニテハ大概クサモチ、京坂ニテハヨモギ餅ト云也、 ○按ズルニ、三月三日ノ草餅ノ事ハ、歳時部三月三日篇ニ在リ、參看スベシ、
p.0548 草餅 一よもぎを小筋を取、早稻藁のあくにて和らかにせんじ、水すみぬるほど、幾度もあらひ能つき、其後こわ飯を入つき交ぜ、餅に丸めるなり、
p.0548 ちまき(○○○) 粽をよめり、新撰字鏡、倭名抄に見ゆ、糉も同じ、茅卷也、今は篠の葉葦の葉菰の葉などにても包めり、伊勢物語にあやめかりとよみたれば、菖蒲にても包てんか、〈○中略〉道喜ちまきは京都市人の名也、朝比奈ちまきは駿州朝ひなの人民造る所也、紀州にいふは絹まき也、
p.0548 ちまき〈糉〉 ちまきは和名にして、漢名を糉、或は角黍ともいひて、類聚名義抄、新撰字鏡、和名類聚抄等に見えたれば、此以前よりつくりて、もてはやせし事しられたり、しかれば千有餘年の昔より、五月五日粽を用る事ながら、國史式等には所見なければ、當時供御には備へざるものとしられぬ、さて粽の説さま〴〵あり、續齊諧記には、楚の屈原が故事を擧、風土記には陰陽包裹未レ散形に象るといひ、唐の世にいたりては、宮中の戯れ事となれり、此事天寳遺事に見えたり、抑ちまきと名付るは、茅の葉を以てむかしはまきたるゆゑ、茅卷といふ由、契冲阿闍梨、加茂眞淵、山岡明阿の説なり、さもあるべし、又かざり粽の事は、伊勢物語、拾遺和歌集等に見えたり、是續齊諧記にいはゆる楝の葉をもてまとひ、五綵のいとをもて、縳レ之と見えしものなるべし、綠粽は熱田社祝詞に見えたり、 眞薦粽は、本朝食鑑、東雅、日次紀事等に見えたり、是風土記、翰墨全書、本草綱目等の説によれる也、葦の葉にてまく事は續節序記、和漢三才圖會、和訓栞にいでたり、これも本草の説によれり、稻草をもてまく事は、本朝食鑑に見え、さゝまき粽は和漢三才圖會、類聚名物考にいでたり、これ荊楚歳時記に、以二新竹一爲二筒糉一、と見えしによりて製せしものなるべし、菅或は燈心草をもつてまく事は、和漢三才圖會に見ゆ、これ廣東新語に、粽心草を以て繋レ黍とあるに粗似たる説なり、字典に粽は草名とのみしるしたり、これ燈心草、粽心草、二名一物歟、いまだ考ず、稗粽、藺粽も寺島良庵の説に見え、飴粽は食鑑に見えたり、南史にいはゆる黄甘粽是ならん、いかにとなれば、黄白色如二飴色一、故名と、野必大いえり、此粽古來よりありしを、渡邊道喜といふ者、巧にこの粽を製せし故、世擧て道喜粽といふよし食鑑にみえたり、道喜は寬文延寶の頃の人にして、京師に住りし故、粽を作りて禁中へも獻ぜしなり、此事日次紀事にしるせり、又朝比奈粽は、駿州朝比奈の人造り始るよし谷川士淸いひ、絹まき粽は、紀州の稱呼なるよし同人の説なり、その製法はいかなる物かしらず、〈追て、國人によりて、たゞすべし、〉以上十五種は、皇國製法の粽なり、しかはあれど西土の製によりし物もあり、筒粽は漢名にして、粽をつくり初めし時の名なり、一名角黍といふよし風土記に見えたり、是楚の屈原が汨羅に沈みし靈を祭らんがために、長沙の歐回といふものゝ、屈氏が靈にあへる時、彼靈の詫言によりて筒糉を製せしといふ事、續齊諧記に載たれども、異苑には屈原が姉のつくりて、原を弔せしともいへり、九子糉は歳時雜記、月令廣義等に見ゆ、是は數九つ連ぬるをもて稱するよし、年齋拾唾の説なり、百索粽は、かず百をひとくゝりとなせし故に、此名ありとしらる、月令廣義、文昌雜録等にいづ、錐粽、茭粽、秤鎚粽は、歳時雜記、月令廣義、事物原始等に見ゆ、これら皆其物の形ちにかたどりて作りし物なるが故に、しか名付しなり、庾家粽子は酉陽雜俎に見ゆ、これ上にいふ道喜粽の類にして、庾家の粽、當時名を得し故、後世までも稱せる事とはなりぬ、粒粽、場梅粽 は、事物原始に見え、緋含香粽子は淸異録に、不落莢は戒庵漫筆に、 と角子とは通雅、包金は名物法言、包黍は事物異名にあり、次食筒は劒南詩稿にいで、粡と とは康熙字典にのせたり、以上二十名、これみな製作によりて名も異なる也、又和品十五種、合せて三十五品あれども、此中製し方和漢同じきもあらんか、さはあれど和製はおのづから和製の法あり、糉はちまきの總名なるを、ちまきと云も、茅の葉をもてむかしはまき初し故に、こもすげ、或は稻の葉、藺、葦葉などをもつてまくをも、皆ちまきといひて、こもまき、すげまき、稻まきとはいはざるなり、これ皇國にては、おのづから古名をうしなはざるを、西土にては包黍、或は次食筒とも、粡又は などいふをもてみれば、自然に其物としらぬ事となる故に、 は粽也と注をくだし、不落筴は即今之粽子などいふ事となりぬるも文飾の弊なり、
p.0550 粽〈本作レ糉、訓二知麻岐(チマキ)一、〉 集解、源順曰、糉以二菰葉一裹レ米以二灰汁一煮レ之、五月五日啖レ之、必大按近代不レ然、搗二蒸糯一作レ餅、頭尾細尖、中身圓肥、長四五寸、或用二梔子汁一而染、亦有下倶以二菰葉一而裹レ之、以二乾燈草一而縛二定之中一、作二米俵子状一、上令二菰葉如一レ亂、下令二菰葉如一レ束、首尾長二三尺許、釜中煮熟、取出候二略冷一、剥二去菰葉燈草一、取レ餅投二于冷水一、取出和二燒白鹽一而食、或抹二砂糖豆粉水飴一食亦佳、即是家々端午節之嘉例、與二蒲艾葺一レ簷同、一種用二粳米粉一、飛羅極細者、冷水煉レ之、摸作二細長團子一、以二靑箬葉一而裹レ之、以二乾燈草一而縛二定之甑中一、蒸熟剥一去箬葉燈草一、作二小鰕及甘露子状一、其味香美、抹二砂糖一而食、此京師之珍果、禁裏最賞レ之、就レ中市人謂二道喜一者巧造レ之、故稱二道喜粽一、或曰二笹粽一、今京俗市上端午、以二此粽一代二菰粽一而贈二祝之一、據二其易一レ造乎、〈○下略〉
p.0550 角黍(チマキ) 烏丸土御門南渡邊氏道喜道和兩家製造、爲二第一第二一、道喜家毎日獻二餅粢於禁裏一、茅卷亦時々供レ之、故稱二内裹茅巻一、其粉色淸潔、其風味淡美、非二他家之所一レ及也、角黍或謂二粉團一、舊以レ黍造レ之、以二靑茅一裹レ之、蒸而食レ之、其茅包之末尖而似二牛角一故謂二角黍一、元以レ茅裹二包之一、故謂二茅卷一、如レ今多以二 篠葉一裹二米粉團一、以二藺殻一纒レ之、然依レ舊總稱二茅卷一、又稱二篠粽一、此篠葉出レ自洛北鞍馬山一、他産不レ堪レ用、此家又造二強飯一、赤白隨二其所一レ好、
p.0551 糉(ちまき)〈音宗、○中略〉 粽〈同、角黍〉和名知末木 按糉溲二粳粉一状如二芋子一、以二蘆葉一包レ之、復以二菰葉一裹レ之、以二菅或燈心草一縛卷、而十箇爲二一連一瀹レ之、又肥州長崎之粽以レ籜包レ之、如二菱形一三角、以二五箇一爲二一連一、五月五日家々爲二節物一相餽也、蓋此爲二、中華之風一乎、又有二笹粽、藺粽、稈粽等一、皆非二端午節物一、尋常爲二贈答之用一、京師道喜之粽得レ名、多用二糯米一、又有二大麥麪粽一、亦佳、然易レ饐、
p.0551 本朝粽と稱するものは、茅萱を以卷し故、ちまきの名あり、根元は和州箸中の郷より 粽(あめちまき)と云ものを初て制すといえり、今は其邊にも其形だに見し人もなし、却而京師烏丸の川端道喜の家傳とし彼家にあり、茅萱にて今の藁 といえるものゝ形のごとし、跡先を括りたるものなり、故交趾燒の壺の生花を 茅卷といえるは、形の似たる故なり、笹ちまき、菰茅卷なども重言のやうなれど、例の本朝質實の名なれば、茅卷の名を以て咎べからず、改易く物の障りにならざるは、改むるもよき歟、
p.0551 諸節供御料 粽料糯米二石、〈日別二升五合〉大角豆六斗、〈日別六合六勺〉苧大二斤、薪六十荷、〈直、〉蔣六十束、〈物〉 右從二三月十日一、迄二五月卅日一供料、
p.0551 粽 一粳米の粉を湯にてこね、眞菰にても笹にてもよろしき方に、能かげんに湯煮しつゝむなり、 内裏粽 一粳の上白米をいかにもこまかにはたき、大きくつくね、よく〳〵煮て、さて取りあげ水をよく去 り、臼にてつき返し、扨粽ほどにとり、笹の葉にてまき、また煮るなり、また粳の上白米水にて、何べんもよくあらひ、すこしほどはかしはたき、絹ふるひにてふるひ、水にてこね、少し堅めにしてすこしづゝ取平め、蒸籠にならべ、能蒸て、むせ上りたればとりあげよくつきて、扨つねの粽の形にまるめ、成丈しめ卷なり、卷目ゆるければ、まきあと付ざるなり、白米壹升に粽四五十ほど取るなり、 朝比奈粽 一上々白餅米を水にて一度あらひ、椿のあくにて二時半ほどひやし、こしきにて蒸餅にすれば、黄色になるなり、それをつねの粽の形に仕合、藁のしべにてつゝみ、また上をもしべにて、常の如く卷、すこし湯煮にして遣ふなり、
p.0552 道喜が家よりは粽餅樣のもの、是不斷毎朝未明にさし上る、是を御朝の物と云り、下俗の茶の子樣の物なるべし、
p.0552 應永六年六月廿一日辛未、長橋殿nan御本所へ、鯖十刺、アサイナ粽十把、
p.0552 六月〈○大永四年、中略、〉人の許より、篠粽、煎餅、二色送られしに、 心ざしみやまのしげき篠粽數は千秋千べいにして
p.0552 惟任坂本を心ざし勝龍寺より落行事 或曰、〈○中略〉日向守〈○明智光秀〉淀より戰場へおもむき行に、京都におひて、つね〴〵恩賞有し者共、粽やうの物などさゝげ、門出祝せんとて參じけるに、鳥羽に至て行向ひしが、光秀軍勢のそろひかねぬるを待て、秋の山に在しなり、かゝる所へ京童粽をさゝげ、今日の御合戰大利を得給ふやうにと祝しければ、〈○中略〉粽を取てむきもし侍らで食したり、京童是を見て、此軍はか〴〵しき事よもあらじ、軍の前に大將度にまよふは、亡兆なるよし聞傳へり、たゞいそぎかへるにしくはなしと て、あしばやに歸京したりけり、
p.0553 慶長三年二月十一日、長橋よりあめ粽まいる、 三月六日、じゆこうの御かたさんわうへ御まいり、大御乳人も御まいりあり、〈○中略〉大御乳人おき御みやとて、まき一ふたまいる、
p.0553 享保十一年四月廿一日御茶、〈○中略〉 御會席〈○中略〉 御菓子〈色チマキ、笹ノ葉付、朝鮮竹ノ子、〉
p.0553 享保廿一年七月廿二日、卯刻因幡藥師〈江〉御參、〈○日野資時〉御宿坊柳ノ方ヘ御出、宿坊ニ而御上粽〈さとうちまき〉次へも粽出ル、
p.0553 文化十三年六月廿七日乙亥、御乳人nan暑氣見廻、外郞粽三把贈來、
p.0553 粽所 烏丸通下長者町上ル 川端道喜 烏丸四條之角 津田近江 新町押小路下ル丁 川端道和
p.0553 粽屋〈並〉飴粽 渡邊道喜〈烏丸新在家上ル〉 津田近江〈烏丸四條〉
p.0553 ちまきや 大つか町 難波橋 ○按ズルニ、粽ヲ五月五日ニ用イル事ハ、歳時部五月五日篇ニ載ス、
p.0553 粟粟作二飯粥一者上饌少、而民間之食多、糯粟作レ餅食者、民間之食少而上饌多、故農家種レ粟者惟以二糯粟一爲レ最也、
p.0554 身は火にくばるとも 越後町扇屋の主、秋の寢覺に蜀黍餅、酒など持たせて、〈○下略〉
p.0554 橡(とち)餅 博多にあり、餅屋九右衞門と云者其製精し、はいの木の葉を燒て灰汁とし、米を染て製す、故其色黄なり、其味脆寒にして甜美也、隣國よりも來り買者多し、是寬永の初年、高麗人博多にて始て此製法を敎へたりと云、他國にはいまだ此物有事を聞ず、京都江戸食品珍差甚多しといへども是なし、とち餅といへども、とちの木は用ひず、はいの木をあやまりてとちと云成べし、
p.0554 葛餅(クズモチ)
p.0554 くずもち 葛をもて餻とする也、麪條となすを葛切といふ、水玉も葛もて造れり、
p.0554 葛餅 くずのこ一升に水一升五合入ねりて出し候、もちはいづれも、まめのこ、鹽、さたうかけて吉、又くずのこわらびのこは、何どきもやげんにてよくおろしてこね申也、
p.0554 遠江國 西坂葛餅
p.0554 蕨餅 粉一升に水一升六七合も入、よくときてねり候てよし、粉同、
p.0554 享保十三年十月廿六日、大德寺芳春院御成、〈○中略〉 御會席○中略 菓子〈ワラビモチ、ユバアブリ、〉
p.0554 新坂は、わらびもち名物なり、葛の粉にてつくり、豆の粉をまぶして旅人にすゝむるに、往來の人ひだるさまぎれに、蕨餅なりと思ひて、つゐに葛餅なりとは知らずかし、
p.0554 赤小豆〈訓二阿豆木一〉 集解、赤小豆、〈○中略〉煮熟抹レ餅、此皆所二毎用一也、
p.0554 禁中、信長の時より興隆すと云へども、太閤の初めまではいまだ微々なり、近衞殿に 歌の會などあるに、三方の臺、色あくまで黑きに、ころ〳〵とする赤小豆餅(○○○○)をのせて出されたり、然れども歌は今時の人に十倍す、
p.0555 大豆〈訓二萬米一○中略〉 大豆粉、集解、今用二炒大豆粉一、調二白鹽少許一、抹レ餅而食レ之、或抹レ飯而食者亦佳、
p.0555 〈けり子〉イエモウ松のおもはん事もはづかしでござります、此間子、あまりいやしい題でござりますが、おかちんをあべ川にいたして、去る所でいたゞきましたから、とりあへず一首致しました、 うまじものあべ川もちはあさもよしきな粉(○○○)まぶして晝食ふもよし、といたしました、ヲホヽホヽヽ、
p.0555 胡麻〈○中略〉 集解、胡麻即油麻也、〈○中略〉抹レ餅而食、此號二胡麻餅一、
p.0555 一ある人のかたへ行給ひてければ、ちそうにごまもち(○○○○)を出しければ、 くろごまのかけて出たるもちなればくふ人ごとにあらむまといふ
p.0555 茅栗(シバクリ)〈○中略〉 一種有二大者一、風味形状比二丹波之産一則爲レ劣、不レ脱二其毛毬一謂二伊賀栗一、倭俗毛毬謂二伊賀一、湯煮去二外皮一碎二其實一而篩レ之、糝レ餅而食レ之、是謂二栗粉餅(○○○)一、斯製法西洞院餅店、并本阿彌辻子所レ有爲レ勝矣、延喜式載、山城國貢二平栗子一、此栗類乎、
p.0555 享保十六年十月十一日、嵯峨渡御、〈○近衞家熙、中略、〉嵯峨ニテ御菓子ニクリコ餅(○○○○)ヲ仰付ラル龜屋虎屋ヲ呼テ、役人衆ヨリ明朝微明ノ御菓子也、嵯峨マデ持參シテ、苦カラヌヤウニ認メテ、今晩アグベシ、少モ損ゼヌヤウニ、覺悟スベキ由仰付ラル、兩家トモニ得御請申マジキ由ヲ申テ辭退ス、然ラバ栗ノ粉ハ別ニ重物ニ入ラレテ、餅ハ餅ニテ、別ニ持參アルベシ、ソノ餅ヲ今宵アグベシ トノ義ナリシニ、夜半過テ餅バカリモ捧上ケルトナン、古ヨリ長袖能舞多錢能商ト云ヘリ、サスガノ者共也、アキナイノ習ニテ、何トイツハリテモ捧グベキヲ、此用捨ヨクヨクノコト也、細事ト云ヘドモヨミスベキコトナリ、
p.0556 天文十一年二月四日乙卯、法泉寺妙音寺師弟道通粥、砂唐餅(○○○)、
p.0556 餺飥餅(ボタモチ) 飯團餅(同) 搔餅(カイモチ)〈女皃謂二之萩花(○○)一〉
p.0556 牡丹餅ぼたもち〈又はぎのはな又おはぎ(○○○)といふは女の詞なり、〉 關西および加賀にてかいもちと云、豐州にてはぎ餅と云、羽州秋田にてなべすり餅と云、下野及越前越後にて餅のめしと云、下總にてがうはんと云、 今按に、ぼた餅とは、牡丹に似たるの名にして、中略なりとぞ、萩のはなは、其制煮たる小豆を、粒のまゝ散しかけたるものなれば、萩のはなの咲みだれたるが如しと也、よつて名とす、かひもちとは、上がたにてかいといふ詞は、關東にてつゐといふにをなじ、つゐ餅になる故にかいもちと云、又粥餅也とも云いかゞ、奧の仙臺には蚫を日にほし粉になして、もちに製す、名づけて貝もちといふ、出羽の最上にては、蕎麥ねりと云物をかい餅と云、又下總の國にては、糯米を燒て煮たるに、小豆の粉を上下に置て、椀に盛たる物を合飯(がうはん)と云、或は夜舟といふは、いつの間につくともしれぬと云意なり、又隣しらずといふも同じ意なるべし、奉加帳とは、つく所も有つかぬ所も有といふ心也、
p.0556 牡丹餅 萩の花 ぼた餅は牡丹餅と書けるが正字にて、かのあんをつけたる餅を、盆に盛りならべたる形の、牡丹花のごとくなれば、見たてゝ名をおふせしなり、〈○中略〉下總の邊にては、俗にかい餅といふ、これは餅のうちにてことさらにやはらかなるをもて、粥餅の訛れるなりといへり、
p.0556 餅 附録、母多(ボタ)餅〈用二糯粳一相合、蒸熟作レ飯入二擂盆中一而磨レ之、取出摸レ手作二團餅一、抹二蒸小豆泥一、或抹二炒豆粉一而食、一名萩花、其状半泥半粒似二白萩花作一レ窠、其抹二蒸赤豆泥一者、如二紅紫萩花之作一レ窠故名、一名隣不レ知、言此餅若レ搗不レ搗、故隣家不レ知レ造二此餅一故名、一名夜舟、言暗中不レ知二舟之著耶不レ著耶一、著字搗字和訓相叶、故以二著字一作二搗之宇讀一、此亦不レ知二搗不搗一之義也、凡此餅惟民家之食、而爲二貴人之食一者少矣、〉
p.0557 牡丹餅〈萩花保太毛知、波岐乃波奈、〉 按牡丹餅以二粳糯米一相襍炊二柔飯一、以二雷盆一略擂二擣之一、摸レ手爲二圓餅一、糝二炒豆粉一爲レ黄、或糝二赤小豆泥一爲二紫色一、所レ謂牡丹餅及萩花者以二形色一名レ之、今人隱レ名爲二夜舟一、言不レ知二其著一也、又名二主之連歌一、言雖レ不レ附用レ之、〈擣與レ著訓同、擣與レ附訓同、〉
p.0557 沙團 今赤豆煮熟、放二盆内一龢二沙糖一、翻二轉團子一、襯レ之者曰二牡丹餅一、以二豆粉一糝者曰二黄粉餅一、即豆 也、
p.0557 大佛餅 ぼた餅は、むかしははなはだ賞翫せし物なれども、今はいやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし、牡丹のかたちに似たるより、牡丹餅と名付、又萩の花かい餅ともいふ、堂上方には今とても御賞翫あるよし也、
p.0557 餅 牡丹餅、世事談ニハ賤品トシテ折詰ニナラズト云ヘリ、今ハ却テ此精製アリテ折詰ニモスルコトアリ、名賤ク製美ナルヲ興トスル、是モ奢侈ノ一ツ也、又今江戸ニテ彼岸等ニハ、市民各互ニ是ヲ自製シテ、近隣音物トスル也、蓋是ハ凡製ノミ、
p.0557 延享三年七月十四日、一萩花〈餅米六升、ウル米四升、小豆二升、豆粉七合、 延享元ニ入用餅米二升、ウル米三升、小豆一升、豆粉壹升、〉
p.0557 於鐵牡丹餅〈麴町三丁目北橫町馬場角〉 馬場之角一軒家、於鐵數年此地誇、盛出盆中胡麻饀、人間賞爲二牡丹花一、
p.0557 餻〈○中略〉 ぜんざいもち、京江戸共に云、上總にてじざいもち、出雲にてじんざいも ちと云、〈神在餅と書よし也〉土佐にてじんざい煮といふ、土州にては小豆に餅を入て醬油にて煮、砂糖をかけて喰ふ、神在煮又善在煮などゝ稱すとなり、〈○中略〉 しるこ餅 江戸にてしるこ餅、京にてぜんび、西國にてゆるいこ、出雲にてにごみ、越後にてざふに、上野及駿河にてゆるこ、總州及常陸下野邊にてぜんびんと云、〈染餅と書よし也〉加賀にてあづさがゆ、薩摩にておとしれとよぶ、
p.0558 ぜんざい 善哉 今案善哉は今江戸の俗に云しるこ餅の事也、古へは皆ぜんざいと云しなり、善哉の文字は、後に塡たる事なり、然れども京都にてもしるこ餅といひし事も、ふるき俗言にや、その故は今上野東叡山にては、此善哉餅を長谷餅といふ、その故いかにといへば、京都近江の三井叡山より京へ出る道に、長谷越といふあり、今俗にはしるたにごえといふ、淸水の山中へかゝりて、溪谷の間を行道故に、常の道のあしく、淸水ながれて、道の泥濘のしるき故にしかいふ也、この善哉餅も赤小豆の粉の煮られて、しるくねばる故、谷道のあしきが如くなれば、俗にしるこ餅といふをそれより轉て長谷餅とはいふなり、是みな俗言なれども、云傳ふる所も又久しき歟、日光山内にては、やはり善哉ともしることもいへども、東叡山内のみにては長谷餅とはいふ也、今又京都に千歳飴あり、善哉と千歳と音をかよはしたり、 長谷餅 ながたにもち 本名は善哉といふ、俗に云しるこもち也、その故は上にみえたり、善哉を今京言につねにいへり、又俗に千年飴とす音の轉なり、
p.0558 祇園物語又云、出雲國に神在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや、十月には日本國の諸神、みな出雲に集り給ふ故に、神在と申なり、その祭に赤小 豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、神在もちひと申よし云々いへり、此事懷橘談大社のことをかける條にも云ず、されど、犬筑波集に、出雲への留主もれ宿のふくの神とあれば、古きいひ習はしと見ゆ、また神在餅は善哉餅の訛りにて、やがて神無月の説に附會したるにや、尺素往來に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ、善哉は佛語にてよろこぶ意あるより取たるべし、鷹筑波集、よきかなや影もぜんざいもち月夜、これ善哉を音訓ともに用たり、後撰夷曲集に、大納言の小豆ににたる物なれば、ぜんざい餅はくぎやうにて喰へ、〈貞德〉一休物語、或人一休といふ名の由を聞て、歌よむを一休きこしめし、善哉々々とて尻餅ついてよろこび給云々、〈貞德が淀川に、咄しむ時尻もちつくものなり云々、〉これ善哉餅をあやなして書たるなり、赤小豆をこし粉にせざる汁こ餅と見えたり、又洛陽集に、日蓮忌御影講や他宗のうらやむぜんざい餅〈高成〉今は赤小豆の粉をゆるく汁にしたるを、汁粉と云ども、昔はさにあらず、すべてこといふは汁の實なり、寬永發句帳に、名月〈幸名〉芋の子もくふやしるこのもち月夜、又油かすに、握られん物かやたゞはおくまじや、しるこの餅は箸そへてだせ、
p.0559 慶長十二年正月四日、齋了出落、先至二豐光會席一、蔭軒、龍伯、玄室、昕英、川岳瑞雲光駕、予亦備二其員一、夕飡了テ及二申尾一喫二善哉餅一、又賜レ酒沈醉シテ歸院、
p.0559 善哉賣 京坂ニテハ、專ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、黑糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル、號テ善哉ト云、 汁粉賣 江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ黑糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル、號テ汁粉ト云、京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云、又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云、又マシ粉アンノ別ニ全體ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云、或ハ八重成アリ、八重成ハ小豆ニ似テ碧色 也、蓋夜賈ハ上ニ云汁粉一種ヲ販ルノミ、店賈ハ數品ヲ製シ、價モ貴キアリ、夜賈ノハ三都トモニ一椀十六文也、又三都トモニ此賈ヲ正月屋ト異名ス、行燈ニモ正月屋ト書ル者多シ、又三都トモニ善哉賣汁粉ウリハ、温飩ヤソバヤノ扮ニ似タルヲ以テ省略シテ不レ圖レ之也、
p.0560 上方にて買(かう)て來るを、江戸にて買て來る、〈○中略〉善哉を汁粉、餅の入たるを田舍汁粉、
p.0560 餅 發明、餅性温、能煖二腸胃之虚寒一、堅二下部之柔弱一、則其縮二老人小便頻數一、止二久泄虚痢一、發二痘疹不レ起者一可レ知焉、復能收レ血縮レ氣、故新産血暈不レ甦者同二未醬汁一煮食則定、然多食凝滯、則熱毒害レ人者不レ少、動成二塊積一而永致二沈痼之廢一、大抵華人用二糯米一作レ餅者少、而名レ餅者麪也、本邦用レ麪作レ餅者少、而名レ餅者糯也、或謂華之粳米味淡而粗、故用レ糯爲二常飯一、其糯亦漸不レ過二本邦粳米之性一、故粘少不レ耐レ作レ餅也、此中華近代若レ斯歟、古者用レ粳爲二常食一焉、
p.0560 餅〈訓二毛知一、古訓二毛知比一、〉 集解、〈○中略〉凡本邦自レ古以レ餅爲二神明之供一、而作二大圓塊一以擬二鏡形一、故呼レ餅稱レ鏡(○○○○)、此擬二八咫鏡一乎、正月朔旦必以二鏡餅一供二于諸神一、及一家長幼團欒同薦二鏡餅一以賀二新歳一、或武家供二于甲冑一號二具足餅一、此謂レ供二八幡神一、春初吉日煮二其供餅一、上下相依拜二嘗之一、此稱二具足餅祝一、此等家々爲二流例一者也、凡用二鏡餅一祝二賀儀一、以二二箇相重一號二一重一、此諱レ奇用レ偶者乎、紫式部物語源氏祝二昏儀一、有二三之一之稱一、此諱二四數一者乎、近世昏儀相畢後三日、夫家妻家互餽二五百八十箇餅一以相賀、此祝二五百八十年膠固不朽之義一矣、
p.0560 クツ形ノ餅(○○○○○)年始ニ竈神ニ供ズルクツガタノ餅、何ノ比ヨリノ物ニヤ、文明中ノ記ニスデニ其名アリ、今製スル所其形橢圜ニシテ長シ、按ニ世俗間竈神ニ供スルニ黄金餅(○○○)ト云有、此一變スル者ナラム、又畫 所預家古來ヨリクツガタノ餅ト云ヲ竈神ニ供ズ、其形同ジカラズ、
p.0561 凡供二神御一雜物者、大膳職所レ備〈○中略〉大豆餅(○○○)筥十合、小豆餅(○○○)筥十合、〈(中略)別納二六枚一〉
p.0561 但馬國天平九年正税帳 正月十四日讀經供養科充稻伍拾貳束玖把〈○中略〉 大豆餅(○○○)〈○朱書云、万米毛知比〉、肆拾枚料米捌升〈升別得二五枚一〉充稻壹束陸把 小豆餅(○○○)肆拾枚料米捌升〈升別得二五枚一〉充稻壹束陸把 煎餅(○○)〈○朱書云、伊利毛知比、〉肆拾枚料米捌升〈升別得二五枚一〉充稻壹束陸把
p.0561 淡路國天平十年正税帳 正月十四日讀經貳部〈金光明經四卷、最勝王經十卷、〉供養雜用料充稻參拾肆束玖把捌分〈○中略〉 大豆餅(○○○)參拾貳枚料米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分 小豆餅(○○○)參拾貳枚料米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把握捌分 煎餅(○○)參拾貳枚米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分 浮餾餅(○○○)參拾貳枚料米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分 呉床餅(○○○)參拾貳枚料米陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分〈○中略〉 、餅交大豆參升貳合〈升別十枚〉充稻參把貳分〈以二一把一得二一升一〉 餅交小豆陸升肆合〈升別五枚〉充稻壹束貳把捌分〈以二二把一得二一升一〉
p.0561 伊豆國天平十一年正税税帳 毎年正月十四日讀金光明經四卷、又金光明最勝王經十卷、合壹拾肆卷供養料稻肆拾玖束、〈○中略〉 大豆餅(○○○)卅二枚 小豆餅(○○○)卅二枚 煎餅(○○)卅二枚 阿久良形(○○○○)卅二了 布留(○○)卅二枚 并壹伯陸 拾枚料稻陸束肆把 麥形(○○)卅二了料麥六升四合 餅交料小豆六升四合 并壹斗貳升捌合價稻貳束伍把陸分 餅交料大豆三升二合 煎料大豆三升二合 并陸升肆合價稻壹束貳把捌分〈○中略〉 胡麻油玖合陸勺〈煎餅 阿久良形麥形等料〉價稻捌束陸把肆分 飴捌合〈布留料〉價稻參束貳把
p.0562 力女示二強力一縁第廿七 尾張宿禰久玖利者、尾張國中島郡大領也、聖武天皇食レ國之時人也、久玖利之妻有二同國愛知郡片 里一之女人、〈○中略〉此孃至二彼里草津川之河津一而衣洗時、商人大船載レ荷乘過、船長見レ孃言煩嘲啁、〈○中略〉孃言レ無レ禮引二居船一、何故諸人令レ陵二賤女一、船荷載總亦一町程引上而居、〈○中略〉彼船五百人引不レ動、故知、彼力過二五百人力一如二經説一、作レ餅供二養三寶一者、得二金剛那羅延力一云々、是以當レ知、先世作二大枚餅(○○○)一、供二養三寶衆僧一得二此強力一矣、
p.0562 建久四年五月十六日辛巳、富士野御狩之間、將軍〈○源賴朝〉家督若君〈○賴家〉始令レ射レ鹿給、〈○中略〉此後被レ止二今日御狩一訖、屬レ晩、於二其所一被レ祭二山神矢口等一、江間殿〈○北條義時〉令レ獻レ餅給、此餅三色也、折敷一枚九置レ之、以二黑色餅三一置二左方一、以二赤色三一置レ中、以二白色一居二右方一、其長八寸、廣三寸、厚一寸也、以上三枚折敷、如レ此被レ調二進之一、狩野介進二勢子餅一、將軍家并若公敷二御行騰於篠上一令レ坐給、上總介江間殿三浦介以下多以參候、此中令レ獲レ鹿給之時、候而在二御眼路一之輩中、可レ然射手三人被レ召二出之一、賜二矢口餅一、所レ謂一口工藤庄司景光、二口愛甲三郞季隆、三口曾我太郞祐信等也、梶原源太左衞門尉景季、工藤左衞門尉祐經、海野小太郞幸氏、爲二餅陪膳一持二參御前一、相並而置レ之、先景光依レ召參進蹲居、取二白餅一置レ中、取レ赤置二右方一、其後三色各一取二重之一〈黑上、赤中、白下、〉置二于座左臥木之上一、是供二山神一云々、次又如レ元三色重レ之、三口食レ之、〈始中、次左廉、次右廉、〉發二矢聲一太微音也、〈○中略〉次召二蹈馬勢子輩一、各賜二十字一、被レ勵二列卒一云云、 九月十一日甲戌、江間殿嫡男童形〈○北條義時子泰時〉此間在二江間一、昨日參著、去十七日卯刻、於二伊豆國一射二獲小鹿一頭一、則令レ相二具之一、今日參 入、嚴閣備二箭祭餅一、被レ申二子細一之間、將軍家出二御于西侍之上一、上總介伊豆守以下數輩列候、先供二十字一、將軍家召二小山左衞門尉朝政一、一口朝政賜、蹲二居御前一三度食レ之、初口發二叫聲一、第二三度不レ然、〈○下略〉
p.0563 三月十一日、天氣新吹二日本晴一、聞二宿直宗圓擔肩重一、作二俳諧一以寄レ之、〈○中略〉 多歳舁レ山又幾回、祭儀大餅八千枚、神之受與二人之潤一、悉自二檀那祈念一來、 祭祀之日贈二舁レ山人一
p.0563 花びら山家集にみやたてと申けるはしたもの、としたかくなりて、さまかへなどして、ゆかりにつきて吉野に住侍りけり、おもひがけぬやうなれども、供養をのべんれうにとて、くだものを高野の御山へつかはしたりけるに、花と申くだもの(○○○○○○○)侍けるを見て、申つかはしける、をりびつに花のくだものつみてけり、よしのゝ人のみやたてにしてと有、くだものゝ圓扁にして花辨に似たるなり、吉野にて春の頃、花餅とも御福ともいひて賣ものは、竹串を半迄團扇の骨のごとく細く裂たるに、小き花びら餅をさしたるなり、〈江戸にて近ごろ諸佛の縁日には、辻に出て賣ものあり是なり、下にいふべし、〉これはもと吉野に華供といふ事あり、又歳首に藏王權現に備へたる餅を碎き、他の米を加へ、二月一日、本堂にて諸人に施し、又山中の僧俗に普く賦る是を餅配といふ、委しく滑稽雜談に出たり、山家集に花のくだものと云るは是なり、洛陽集唐餅くばりおくれじ吉野山、〈友靜〉吉野山去年のしんこや餅配、〈自悅〉もろこしの吉野といふ枕詞をあやなして、もろこし餅にいひかけたり、〈○中略〉花びらと云もの外にも有り、御傘に、花びら、僧衆の紙にてまろくして、行道の時ちらさるゝを云、〈是は散花をいへり〉又正月の餅に菱花びらとて有と云り、是今いふ菱餅なり、五節句に云、餅を押たるなり、菱にきる云々、但し昔は小さく作りしものとみゆ、似せ物語に、ひえたる餅花びらになりにけりとも有、こは餅花にや、畿内の俗、正月の餅花を、涅槃會に煎て供物とし、蓬の餌(ダンゴ)を作りて備ふるを、いづれも名付てはなくそといふは、疑らくは花供の誤なるべしといへり、洛陽集、涅槃、鼻屎や濟度方便一つかみ、〈友靜〉鬼貫が獨言に餅つきは云々、幼き人の柳が枝に、餅むしり付て花とみるよ云々、松 落葉、京童といふ半大夫節、さて初冬や、かみな月、つくやゐのこの餅ばなも、小春の名にや匂ふらん、御福の餅は、神社佛閣何くにもあり、狂歌咄、糺の六月祓のことをいふ處、杜のほとりさし入より、茶やの軒かこひつゞけ、靑き杉葉さしかさね、名におふみたらし團子、ほそき竹にさして、前なる土塗の爐に立ならべたるは、五十串立たる心地すといへり、昔は團子にかぎらず、豆腐田樂などさへ爐に立て燒たり、此だんごは小きものと見えて、輕口咄に、みたらし團子に、鐵砲の玉、數珠の粒、そろばんの玉などいへり、江戸には國花萬葉種、〈七〉武藏國中名物部目黑御福飯、江戸砂子增補、目黑不動にて飯櫃に白飯を入て、ごふくの餅めせと賣る、是も古き事なり、參詣の輩此餅を買て、犬に與ふるなり、口寄草、〈元文元年刻〉冠付、こうろ〳〵目黑の犬も取はづし、衣食住記、むかしに替らぬは、目黑の粟餅三官飴云々、社前に犬多く有て御服の餅とて、挽ものにて拵へ、少しひつ形にして曲物の器に入、女乞食賣て參詣の貴賤必求めて、犬に給させける事にて有しが、御鷹野の障りとて、犬を狩捨られしより、御服の餅跡かたもなしといひしは、寶暦の頃なるべし、粟餅と餅花は今にあり、寶永忠信物語、夢をさませし粟餅や、木毎に花の呉服もち、又江戸二色に、目黑の土産二種、唐ごまと餅花を畫けり、狂歌一日に、八ツ九ツたう獨樂のたらぬ目黑の餅は花なる、江戸名物鑑、目黑もち花、もち花は鼠のあらす梢かな、江戸二色に畫きたる餅花は、竹を細く擘きたるに、染たる餅を付たり、又目黑のみにもあらず、手遊びに賣しこともあるにや、類柑子、茅場町山王旅所の所に、こゝにちい〳〵ちや〳〵うるもの有り、色鳥に染餅を小串にさして云々いへり、しんこ馬の類にて、鳥をも作りしは、飴の鳥の形なるべし、色鳥にとは鳥に作りしなるべし、然らばしんこ細工のもとゝ云べし、又は色どりと有しを、鳥と書しも知べからねど、いづれにも是又餅ばななり、其始は吉野の御福の餅に傚ひしものと見えたり、餅はもとより福の名あれど、〈埃囊抄などに、そのよし見えたり、〉御福とは何にまれ、神佛に供へたるおろしを給はるをしかいへり、著聞集に、鞍馬寺の別當 すゞを人のもとへつかはすに、このすゞは鞍馬の福にて候ぞ、さればとて又むかでめすなよ、すずは小竹なり、こゝはその笋をいふなり、こはそなへものならぬをも、其地に産する物は、福といひしなるべし
p.0565 餅花 餅花や夜は鼠がよし野山〈一にねずみが目にはとあり〉とは、其角がれいのはずみなり、江戸などの餅花は、十二月餅搗の時、もちばなを作り、歳德の神棚へさゝぐるよし、俳諧の季には冬とす、我國〈○越後〉の餅花は春なり、正月十四日までを大正月といひ、十五日より二十日までを小正月といふ、是我里俗の習せなり、さて正月十三日十四日のうちに、門松しめかざりを取り拂ひ、〈我國長岡あたりにては、正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる、〉餅花を作り、大神宮歳德の神夷、おの〳〵餅花一枝づゝ神棚へさゝぐ、その作りやうは、みづ木といふ木、あるひは川楊の枝をとり、これに餅を三角又は梅櫻の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは團子をもまじふ、これを蚕玉といふ、稻穗又は紙にて作りたる金錢縮、あきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家にては木をけづりて、鍬鋤のたぐひ農具を小さく作りて、もちばなの枝にかくる、すべておのれ〳〵が家業にあづかるものゝ、ひながたを掛る、これその業の福をいのるの祝事なり、もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業なり、祝ひとて男女ともうちまじりて、聲よく田植歌をうたふ、此こゑをきけば、夏がこひしく、家の上こす雪の、はやくきえよかしとおもふも、雪國の人情なり、此餅花は、俳諧の古き季寄にもいでたれば、二百年來諸國にもあるは勿論なり、ちかごろ江戸には季によらず、小兒の手遊に作りあきなふときゝつ、
p.0565 年始ニハ人ゴト餅ヲ賞翫スルハ、何ノ心カアル、餅ハ福ノモノナレバ祝ニ用フル歟、昔豐後國球珠郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家ツクリ田ツクリ テスミケリ、アリツキテ家トミ、タノシカリケリ、酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ的ニシテイケルホドニ、ソノ餅白キ鳥ニナリテトビサリニケリ、ソレヨリ後チ次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ、〈○中略〉ト云ヘル事アリ、餅ハ福ノ源ナレバ福神サリニケル故ニ、オトロヘケルニコソ、福ノ體ナレバ年始ニモテナスベシ、二人ムカヒテ、餅ヲヒキワルヲバ、福引ト云イナラハセルモ、ユヘナキニ非ル歟、又内裏ニハ餅ノ名ヲ福生菓ト云ルト云ヘリ、
p.0566 餈〈○中略〉 天子御齒固餈也、通俗鏡餈也、雜煮羹餈也、上巳蓬餈也、十月玄猪餈也、凡祭禮婚儀、及一切嘉祝皆擣レ餅贈二答之一、
p.0566 缺餅(○○) 凡倭俗新年所レ用之餅有二數品一、鏡餅(○○)又菱花片(○○○)、菱比二菱花形一、花片則圓而此レ 之謂也、又有二小載(○○)、子持(○○)之號一、小戴則戴餅、而子持其形小而比二子孫之繁榮一者也、以二片團餅(○○○)一獻二宗親一、又供二神佛一、是謂レ鏡、以二其状相似一稱レ之、其小者謂二温餅(アタケ/○○)一、或士農工商共聚二常所レ用之器物於一所一、施二注連一供二鏡餅一、注連則中華所レ謂葦索也、是禁二不淨一之謂也、醫師供二藥籠一、又士人供二甲冑一、是謂二具足餅(○○○)一、倭俗身甲一具謂二具足一、凡甲冑有二六具一、悉具足之謂也、其所レ供之鏡餅、以レ刀截二食之一、是稱レ開レ鏡、又謂レ祝レ鏡、至二甲冑一忌二斬殺之詞一、故以レ手破レ餅、缺二一片一食レ之、故是謂二缺餅(○○)一、於レ今一切稱一缺餅一、
p.0566 朔日、〈○中略〉はいぜんの人はひさしに候ず、二獻まゐる、〈初こんひし(○○○)、花平(○)、二こんかべ、〉女中にもたぶ、 二日、〈○中略〉御さかづきに三方一ツにひし花びら、こぶ、かちぐり、くしがき、かずのこ、あめ、五辛等さま〴〵の物をとり入て御前にまゐらす、 四日、あしたの物、同七日をのぞきて、十四日までは、ひし花平を供ず、 十八日、うち〳〵には例のひし花びらにて御祝あり、
p.0566 婚迎(○○)之部 一御夫婦御著座待女房も座せられ候事、〈○中略〉扨銚子提子にいれ、御膳共揚り申候、此次に初獻出申候、初獻は雜煮也、雜煮の事ほうざふといふ、是は箸を御取候て、雜煮のうは置にある五色の上のかざり物を少し參るべし、〈○中略〉雜煮は餅ニて御座候、
p.0567 宿世燒(○○○) 異制庭訓遊戯の名目をならべいへるうちに、宿世結、宿世燒といへる名目あり、宿世結は、先板の卷にもいへるごとく、今の世の縁結也、さて宿世燒の事を考ふるに、增補越後名寄〈著作堂藏〉卷三十二に云、正月十五日、左義長の燃殘りの木を、宅の爐中に燒、其火にて縁結の餻燒(○○○○○)と云事を童共なす、餈の脹れやうに、品形を稱して興ず云々といへり、これ宿世燒の遺意にはあらざるか、縁結のもち燒と稱ふるにて、さもやとおぼゆ、
p.0567 長辰〈○長祿四年即寬正元年〉五月一日丁丑、有レ客曰、中土之人毎レ遇二朔旦一、置二鹿肉於餻上一食レ之、祝曰、萬事祿〈與レ鹿音同〉高、〈與レ餻音同〉本朝亦効レ之、然以二神獸故一不レ喫二鹿肉一、只粉二赤豆一而置レ餻、〈本朝以レ餻爲レ餅〉口上比鹿也、近古赤松氏性松、朔日必作レ餻自喫且與二家臣一云、
p.0567 餅辭 君見ずや、餅は例のおかしみありて、しかも四時の流行あり、まづは一とせの初空、松も竹もあらたまるあしたに、飯はもとより常住にして、なら茶麵類もしどけなければ、雜煮(○○)と趣向を定めたるぞ、神代の骨折のところなるべし、それより具足(○○)、かゞみひらき餅(○○○○○○○)に、睦月の寒さもくれて、二月は彼岸の團子(○○○○○)をぞ花よりとよみし人もありしを、草餅(○○)の節供に桃もちりて、つゝじ山吹とふけ行まゝに、まんぢう賣の聲もねぶたく、空は蛙に黑みを呼れて、春雨つれ〴〵とふり出る比は、かきもち(○○○○)のいじり燒にぞ、かの右馬頭が夜咄もしみつべけれ、卯月は例の卯花ぐもりに、蚊屋の香もめづらしく、やぶ蚊も軒にもちつく比は、牡丹餅(○○○)の花いとむまく、千團子(○○○)ときくもたうとしや、 粽はそのまゝに見る、いとすゞしくときたるほど、飯の匂ひ又おかし、水無月の朔日は、氷餅(○○)とて</rt></ruby>やごとなき上つがたにも、もてはやし給ふに、草葉もよらるゝ、土用の比水餅の鍋鉢にうかび出たるぞ、上戸のしらぬすゞしさなりけり、風も文月の音づれして、七夕のあふ夜はみきのみ奉りて、子のこの餅(○○○○○)もまいらせぬは、葛餅(○○)のうらみながら、その鵲のはしとよみしも、やかもち(○○○○)ときけばゆかし、魂まつりも團子におくりすて、お萩(○○)の花に秋もたけてこもち、もち月の團子より、栗の子餅(○○○○)の節句も過れば、十月はもとより亥の子の餅(○○○○○)に荒初て、時雨こがらしの寒きまとゐに、火鉢のもとのやき餅(○○○)も、おもしろき時節なるべし、やゝ御佛事のもちゐ始る比、つもる粉雪ももち雪(○○○)も、あられ(○○○)も酒の名のみにはあらず、おとごの餅(○○○○○)は、朔日にいはひて、師走はなべて餅の世界なれば、あけてもいふべからず、さればよいかなれば、詩人は酒のみ友にかぞへ入れて、李杜が筆にも餅の沙汰はなけれど、兩部習合の俳諧には、劉伯倫がのみぬけも、夏爐亭の餅ずきなるも、ともに俳諧の趣向なれば、我門には上戸もめでたく、下戸も猶めでたし、
p.0568 雜煮(ザフニ)
p.0568 ざふに 餅に種々の菜と肴を加へ、煮てあつ物とし、年始に祝ふを雜煮といふ、畿内に又かんともいふ、羹也、浪合記に、尹良親王の御子、良三王賊のために危ぶめられ、津島に移りたまひし時、永享八年正月元日の雜煮を奉るに、蛤を吸物にして酒を進めまゐらせ、糲飯に大根の輪切の汁物、たつくり鱠を調じける、此年よりめでたかりしかば、津島の四家七黨より始て、此ならはし尾州濃州勢州の俗となれりとぞ、
p.0568 一雜煮の本名をば、ほうざう(○○○○)と云也、或人の説に曰く、餻(モチイ)は氣を益、中を暖め、小便を縮め、大便を堅する功能あり、本草綱目に見へたり、されば臟腑を保養する心にて保臟と云也、又しよこんと云は初獻也、餻を煮て先一番に初獻に進する事、臟腑を保養する爲也、扨次に二獻三 獻以下參らする也、
p.0569 一雜煮の汁をば吸候はぬが能候、雜煮は又汁は不レ入候間、かた〳〵の汁のさたに不レ及候、次に雜煮をば先右にて取、同左をも添へて持上候て、給候て置候時も同左右にて置候、常の吸物よりは重候間、故實にて左右にて取申候、器を右に持て取候也、
p.0569 一雜煮上置之事 串蚫 串海鼠 大根 靑菜 花鰹 右の五種を上置にする也、口傳、下盛ニ里いも、其上にもちを置也、規式の握やう有、又上置に串柿勝栗結蕨などする事、精進の仕立なり、
p.0569 雜煮は 中みそ又すましにても仕立候、もち、とうふ、いも、大こん、いりこ、くしあわび、ひらがつほ、くきたちなど入よし、
p.0569 上方にて買(かう)て來るを、江戸にては買(かつ)て來る、〈○中略〉正月の雜煮も上方の莖立にて、菜を入たるすましなり、餅に子餅なく、大方切餅にて、味噌雜煮を大坂雜煮といふ、
p.0569 元日に羹をいはふ處へ、數ならぬ者禮に來る、亭主膳を出せといふに、そのまゝすへたり、亭主うれしげに、積善の餘慶じやなど感ずるを聞き、さてはかやうに下には芋大根を盛り、中に餅、上に豆腐くゝたちを盛るをば、積善のよけいといふ事よと覺えて立ち、件の者、又ある方へ行く膳出たり、見れば今度のは豆腐とくゝたちを下に盛り、中に餅、上に芋大根を盛りたり、箸をもちてほめけるは、さても此餘慶の積善は、一段あたゝかに出來まゐらせ候よと申しけり、 ○按ズルニ、雜煮ノ事ハ、歳時部年始祝篇四ニ在リ、參看スベシ、
p.0569 長崎柱餅(○○○○)并幸木 世間胸算用卷之四に、〈○中略〉これ元祿年中の事也、長崎の人に問しに、此柱餅の遺風今もあり、餅を 延命袋の形につくりて、大黑柱に打つけて置、春にいたりて、おのずから落るをまちて、あぶりくらふとぞ、
p.0570 長崎の柱餅 餅は其宗其宗の嘉例に任せて搗きける、殊に可笑しきは柱餅とて、仕舞ひ一臼を大黑柱に打著け置き、正月十五日の左義長の時、是れを炙りて祝ひける、
p.0570 九日卯刻頃に立出づ、〈○中略〉かくて三四丁登りて峠に至る、此所は播磨と但馬との國境なり、又一丁計下ればこたわ村、人家十軒計、茶屋多くして茶屋ごとに土用餅(○○○)とて砂糖餅を賣る、人々と共に立入て思ひもよらず土用の節物餅を喰ふことを得て、旅中ながら祝儀を欠ざるなり、
p.0570 一公〈○上杉治憲〉初て入部ましませし年より、民の辛苦を知し召す爲、亦は旱つゞき雨つゞきには、田畠御覽の爲に、鐵炮爲レ持鳥打御野遊の御唱にて、度々野間へ出て、耕作の辛苦を見給ひ、或は民家に休らひ、何かれ御物語抔し給ひて、通らせ給ひしは常の事也、安永六年九月十九日の事なり、御城の北門へ老たる嫗來りて、御臺所へ通ると云、故を問ば、約束し參らせし刈納餅(○○○)〈かりあげ餅とは農家にて稻を刈仕廻たる祝とて、九月廿九日に門毎に餅つきてくらふを云なり、〉を獻ずると云、されば御門々々滯なく通り、御臺所へ出て、福田餅〈かりあげもちをまろめたるもの、名付てフクラモチといふ、福田の略語にて、祝たる名なり、〉一苞に、大豆粉一包を添て出しぬ、故を問へば、御門々々にて答し、しか〴〵のごとし、おの〳〵あやしみ思ひながら、其由言上に及ければ、扨は殊勝の事也、疾く披露せよとの御意にて御取上あり、飯酒の御手當あり、金子など給はり、厚く謝して歸し給ひしなり、其の故を推尋るに、御野間の時、夕つかたの事也、老たる嫗がいそがはしく稻取仕廻居たるを御覽じ、御家中諸士の振して御みづから持運び取、仕廻手傳はせ給ひて、此稻は何米なりと問給ひしに、餅米と答へ奉りしより、斯手傳たれば、さぞかりあげ餅をくれ るにこそと、戯れ宣ひし事のありしを、公と知參らせし成べし、
p.0571 そのよさり、ゐのこのもちゐ(○○○○○○○)まいらせたり、 ○按ズルニ、玄猪ニ玄ノ子餅ヲ食フ事ハ、歳時部玄猪篇ニ詳ナリ、宜シク參看スベシ、
p.0571 朔日、乙子(オトゴ)朔日とて諸人餅を製し祝ふ〈(中略)今日製する餅を乙子のもち(○○○○○)といふ、又川浸餅ともいふ、水土を祀るの義ともいへり、此日餅を食へば、水難なしといへる俗習によりて、武家にてもこの事あり、交代の砌海上安全を祈らるゝこゝろなるべし、船宿船頭の家にてはとりわき祝ふなり、〉
p.0571 四郞君受領郞等刺史執鞭之圖也、〈○中略〉得二萬民追從一、宅常擔二集諸國土産一、貯甚豐也、所レ謂〈○中略〉近江(○○)鮒〈又餅(○)、〉若狹(○○)椎子〈又餅(○)○中略〉飛騨餅(○○○)、鎭西米等、如レ此贄菓子轆々繼レ踵、濟々成レ市云々、
p.0571 山城 甘餅(○○) 醒井(○○)分餅(ヘギモチ/○○) 茶屋粟餅(○○○○)
p.0571 餅 處々店製レ之、其中京北渡邊道喜、并道和、五條御影堂前、方廣寺大佛殿前店製レ之、但稱二大佛餅(○○○)一家者、誓願寺前在レ之、外不レ聞レ之、各形色風味爲レ勝、粟餅北野茶店爲レ佳、
p.0571 洛東大佛餅(○○○)の濫觴は、則方廣寺大佛殿建立の時より、此銘を蒙り賣弘ける、其味美にして、煎に蕩ず炙に芳して陸放翁が炊餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品也、唐破風作の額標版は主水の筆にして、代々こゝに住して、遠近に其名高し、
p.0571 大佛餅 根元は京誓願寺前にてこれを製す、今以堂上方へも召さる、至て其風味格別也、又方廣寺大佛殿の前にあり、これ又好味なり、江戸淺草にて製するは、これを傚て大佛餅の名目を以す、近世數品の餅あり、いが餅、さつさ餅、あん餅、くり餅の類ひ多く、提重杉折に盛りて美を盡せり、
p.0571 大佛餅所 大佛正面筋角 兵左衞門
p.0571 炒(イリ)豆 北野眞盛寺尼炒二黑豆一磨二靑芥葉一、水解爲二黑豆衣一、別粳餅、方三分許切レ之、 雜二炒 豆一食レ之、是稱二眞盛衣豆一、寺尼紙囊盛レ之贈二檀越家一、倭俗團餅細截レ之熬過者、是謂レ霰(○)、以二其形相似一稱レ之、
p.0572 雍州府志に、炒豆は〈○中略〉霰もち(○○○)をいふなり、是を霰といふも古き名なり、櫻井基佐が發句に、老松の葉にはさかむや霰餅、諸艶大鑑、内儀も手拭に、あられに大豆などいりまぜし菓子袋のはなむけといへるも是なり、但今の製大葉芥の靑粉は用ひず、靑のりを粉にしてかくる、霰を雜へざるは、眞盛寺の本製よりも却て古製なり、
p.0572 缺餅〈○中略〉圓山安養寺、并雙林寺靈山正法寺僧嚴冬製レ餅、是爲二片團一、乘二半乾一三寸許薄切レ之陰乾、以二文火一遠焙レ之、而後納二壺内一、毎レ有二賓客一供レ之、凡家々總雖レ有レ之、不レ及二三寺之製一、其内安養寺製造爲二特勝一、故專謂二圓山缺餅(○○○○)一、近世盛レ筥送二遠方一充二方物一、
p.0572 合餅(○○) あはせもち あはせ〈今略云○中略〉 今案に、祇園二軒茶屋の合餅は名産なり、六月朔日十一月朔日には、必ず作りて出す、つねはなし、望めば作る、小き丸く平き餅を、豆腐の田樂と二ツ合せて串にさして、上に葛あんをかけたるものなり、今は略てあはせとのみいへり、京の人も今は知る者まれなり、
p.0572 丸子 安倍川〈(中略)東川端を彌勒茶屋とて、阿倍川餅(○○○○)の名物也、〉
p.0572 幾世餅(○○○) 根元は兩國橋西詰にあり、前は鐵砲町に住して、すこしき餅を商ふ、此者の妹にかもんと云あり、この女の夫は蕨驛の某にて大百姓なり、渠と示し元祿十七年にはじめて をかまふ、某餅甚味美にして榮ふ、今所々にこの名あるは、これに准もの也、何ゆゑに幾世餅と名付たりや、
p.0572 餅 幾代餅、余、〈○喜田川季莊〉が所レ聞ハ吉原ノ娼幾世ト云者、花街ヲ辭シテ後始テ賣レ之、故ニ名トスル也、何レ歟是ナルヲ知ラズ、今世モ兩國ト神田見附内トニアリ、二戸トモニ甚粗製也、世事談ニ美味ト云 ル古美今麁ナル歟、或ハ幾世餅製古ト同製、ナレドモ、、近年奢侈ノ時故ニ、他製益精美ナル故ニ、他ニ比シテ麁製トナル物歟、天保中大坂心齋橋南詰ニ幾世餅店ヲ開ク、江戸ヲ學ビ移ス者也、然レドモ唯名ヲ學ビ製ハ異也、美製也、其店今モ存在スト也、
p.0573 若松屋幾代餅〈兩國吉川町〉 兩國一番若松屋、雜煮汁粉客來頻、世間名物多零落、幾代獨歴幾代春、
p.0573 井伊掃部頭直中、〈○近江彦根〉 時獻上〈寒中〉醒井餅(○○○)
p.0573 出羽 霰○煎餅(イリモチ/○○)
p.0573 餅師 大佛の前に住して、大佛餅と號して其名高し、壹分の餅目三十九匁、又は四十匁あり、佐々餅、鶉餅、野郞餅等品々、道中の五文のもち卅五匁あり、大坂難波橋筋大佛、江戸芝鶴屋、
p.0573 同〈○禁裏〉御餅所 烏丸通上長者町下〈ル〉町 川端道喜
p.0573 一駿州鞠子に餅屋五郞右衞門と申者の餅名物にて候、東新田と申在所にて出來申米也、尾張姫君樣〈光友室〉御在世に御好被レ成、毎日江戸へ飛脚にて運ぶ、道中日數に江戸へ參り申候、是毎日なる事故、尾張の用人中相談にて、費へなれば、彼五郞左衞門を始、臼取共を呼寄、數日此方の者に見習せて、違も有レ之間敷と、東新田米を取寄、五郞左衞門并臼取搗申者も呼寄申候、其内段々あなたより如レ例餅を取寄申候、扨諸道具も彼が申儘に拵、餅を或朝上げ候處、姫君樣御意に毎の餅と違、風味不レ宜由被二仰出一、玆之用人中申上候は、鞠子より取寄候は遠方には、夏などは道中日數も懸り申候内、風味如何と奉レ存候、米も同米にて、五郞左衞門并夫々の役人も呼寄、搗せ上ゲ申候由申上候處、昨日到來の殘は無レ之哉と御尋、則殘有レ之を煮て上げ候得者、是こそ毎の餅也と 御快被二召上一候、依レ之五郞左衞門は鞠子へ歸申候、玆之御一生鞠子より毎日運び申候、公家衆毎年御下向にも、五郞左衞門方へ御立寄被二聞召一、都にも稀成よし、然らば名物は土地によると見えたり、
p.0574 粟餅店 此店常ニ稀ニシテ、寺社開帳等群集ノ路傍ニ專ラ賣レ之、其術尤奇トス、一握スレバ指間各一顆ヲ出シ、都テ一握四顆ノ團子ヲナス、其形無二大小一、コレヲ切テ六七尺餘間アル盤中ニ投ズ、其速妙ナル、空ヲ飛ブコト二三顆ヲ絶セズ、盤中豆粉ニサタウヲ和シ、コレヲツケテ賣ル、
p.0574 餅屋の看板(○○○○○) 我衣に古來饅頭うる見世の縁先に、木馬を出したり、アラウマシをいふ心を表したり、元祿の比やみたりといふ事あり、此草紙に合せ考べき事を未見いでず、 江戸三吟〈延寶六年印本〉 千早振木で作りたる神姿 桃靑 岩戸ひらけて饅頭の見世 信章 前句を木にて作りし神馬と見、饅頭の見世と附たる、若それかとおもはるゝは、此附合の句のみなり、さて我衣、江戸の古老の筆記なれば、他國には今もあるべしと探もとめしを、今難波に住る友人其樂子が聞て、便の序に木馬の看板二ケ所あり、大坂大寶寺町筋心齋橋東北側、世俗馬の餅屋と唱、又河内國石川郡〈竹内峠街道〉上の太子への追分角、角屋といふ餅屋、此木馬はことに古雅なり、主人に故を問しかば、我家の餅は足がつようてうまきにより、昔より此看板を出しきたりしと答ぬといひおこせたり、〈○中略〉上に摸したるは、近く寶暦の頃刊行なしゝ、お伽鳥づくしといふ草紙に見えたる圖なり、〈○圖略〉如レ此馬に 假面をかぶらせし看板、今に難波にありと聞しが、其所を 忘れたり、是則心齋橋の餅屋歟、此畫我衣に縁先に木馬を出したりとあるに合ず、馬に面をかぶらせたるは、馬の息の餅にかゝるがゆゑ、ふく面を掛しといふ洒落ならんと、或人はいへり、我衣に、元祿の頃やみたりとあるは誤にて、寶暦年間まで、駒込追分の餅屋には此木馬の看板ありしとぞ、 是も又古老の話に、木馬は眞粉馬の看板なり、昔は眞粉馬、飴の鳥、一對の物なりしが、今飴の鳥はありて、眞粉馬は絶たりと、此説により再案るに、〈○中略〉 後大矢數〈延寶八年吟同九年刻〉 吾妻の方へ鞍置の馬 西鶴 逢坂のしんこの形跡もなし 同 などあり、此ほかの俳書にも見えたれど、うるさければ略つ、西鶴の句に、古老の話を合せ考れば、しんこ馬の看板なりといふ説も捨がたし、
p.0575 廿六日、此節より餅搗街に賑し、〈其體尊卑によりて差別あれども、おほよそ市井の餅つきは、餅搗者四五人宛組合て、竈蒸籠臼杵薪、何くれの物擔ひありき、傭て餅つかする人、糯米を出して渡せば、やがて其家の前にてむし立、街中せましと搗たつることいさましく、晝夜のわかちなし、俗是を賃餅(○○)又は引ずり(○○○)などいふなり、〉
p.0575 文化六年十二月廿五日辛亥、家内餅舂也、當年は今朝出勤故午後ニ爲レ致、未刻頃よりむしニ來、戌刻相濟、都合五斗八升也、家禮如レ例、ちん舂中町安兵衞也、 文化十三年十二月廿五日己亥、餅舂也、當年初而家内ニ而手舂爲レ致、淸介壹人雇、〈祝儀銀三匁壹對と、餅二品添而遣、〉淸八手傳に來、〈餅二品遣、尤鏡餅也、〉家禮等如レ件、
p.0575 文化六年 〈廿四日○十二月〉一五拾文 あづき五合 〈廿五日〉 五文 豆のこ少々 八文 やなぎ一本 百六拾文 酒壹升 九百六文 餅五斗八升舂賃〈十五文がへ龜安〉 今壹貫百三拾三文 餅舂用
p.0576 世界の借屋大將 此男生れ付て慳(しば)きにあらず、萬事の取まはし、人の鑑にもなりぬべきねがひ、かほどの身袋まで、としとる宿に餅搗ず、閙敷時の人遣ひ、諸道具の取置もやかましきとて、是も利勘にて大佛の前へあつらへ、壹貫目に付何程と極めける、十二月廿八日の曙いそぎて荷ひつれ、藤屋見世にならべうけ取給へといふ、餅は搗たての好もしく春めきて見えける、旦那はきかぬ貌して十露盤置しに、餅屋は時分柄にひまを惜み、幾度か斷て、才覺らしき若ひ者、杜什(ちぎ)の目りんと請取てかへしぬ、一時ばかり過て、今の餅請取たりといへば、はや渡して歸りぬ、此家に奉公する程にもなき者ぞ、温もりのさめぬを請取し事よと、又目を懸しに、思ひの外に減(かん)のたつ事手代我を折て、喰もせぬ餅に口をあきける、
p.0576 大膳職 大夫一人、掌二〈○中略〉肴菓一、〈○中略〉主菓餅(○○○)二人掌三菓子造二雜餅(○○)等一、
p.0576 元日御二豐樂院一、儀 内膳司預辨二供皇帝皇后御饌一、主膳監供二皇太子饌一、大膳職設二次侍從以上饌一、〈置二菓子雜餅等類一○下略〉
p.0576 造二雜餅一料甘醴一升 右日料〈○供御〉 年料 暴布卅六條、〈(中略)作二薄餅(○○)一料二條、各長一丈二尺五寸、○中略〉案 布三條、〈作レ餅案料一條、長一丈四尺、○中略〉筥廿合、〈(中略)四合納レ餅料○中略〉刀子七十七枚、〈(中略)一枚作二拆餅一料、○中略〉漉籠廿四口、〈漉二雜煠餅一料、〉、暴布九端二丈三尺〈(中略)作レ餅膳部二人衫料、長各一丈八尺、〉
p.0577 執レ聟事 聟公解二裝束一掩レ衾、〈物吉之女上臈覆〉車引入、〈隨身雜色著二其所一〉次供二餅銀盤三枚一、〈有二尻居一各盛二小餅(○○)一〉加二銀箸臺銀箸一雙木箸一雙一、
p.0577 調膳樣事 餅 四破ニシテ盛レ之定事也、又調二小餅一〈圓形〉盛レ之、自二上古一常事也云々、又樣々切盛交菓子之外可レ然、近代他菓子各雖レ盛二一種一、限レ餅盛二二合一甚無二其謂一事歟、
p.0577 保延二年十二月日、内大臣殿〈○藤原賴長〉廂大饗差圖、 菓子八種 餅〈卅八枚、各長八寸、弘二寸六分、厚一寸、三並十六重、〉
p.0577 山城國風土記云、稱二伊奈利一者、秦中家忌寸等遠祖、伊侶具秦公、積二稻梁一有二富祐一、仍用レ餅爲レ的者(○○○○○)、化成二白鳥一(○○○○)、飛翔居二山峯一子生、遂爲二社名一、
p.0577 豐後國者、本與二豐前國一合爲二一國一、昔者纏向日代宮御宇大足彦天皇、〈○景行〉詔二豐國直等之祖莵名手一、遣レ治二豐國一、往二到豐前國仲津郡中臣村一、于レ時日晩偶宿、明日味爽、忽有二白鳥一、從レ北飛來翔二集此村一、菟名手即勸二僕者一、遣レ看二其鳥一、鳥化爲レ餅(○○○○)、片時之間、更化二芋草數千許株一、
p.0577 田野〈○中略〉 昔者郡内百姓居二此野一、多開二水田、一餘レ糧宿レ畝、大奢已富、作レ餅爲レ的、于レ時餅化二白鳥一(○○○○)、發而南飛、當年之間、百姓死絶、水田不レ造、遂以荒廢、
p.0577 この大將〈○藤原保忠〉八條にすみ給へば、うちにまいり給ふほどいとはるかなるに、いかゞおぼされけん、冬はもちゐのいとおほきなるをぞひとつ、ちいさきをばふたつやきて、や きいしのやうに御身にあてゝ、もち給へりけるが、ぬるくなればちいさきをばひとつづゝ、おほきなるをば中よりわりて、御車ぞひになけとらせ給ひける、あまりなる御よういなりかし、
p.0578 しきの御ざうしにおはしますころ、〈○中略〉老たるほふしの、〈○中略〉さるのさまにていふなりけり、〈○中略〉などかこと物もたべざらん、それがさふらはねばこそとり申侍れといへば、くだものひろきもちひ(○○○○○○)などを、ものにとりいれてとらせたるに、むげに中よくなりて、よろづの事をかたる、
p.0578 醍醐大僧正實賢もちをやきてくひけるに、きはめたるねぶり人にて、もちを持ながらふら〳〵とねぶりけるに、まへに江次郞といふ恪近者の有けるが、僧正のねぶりてうなづくを、われに此もちくえとけしき有ぞと心得て、はしりよりて手に持たるもちを、取てくいてけり、僧正おどろきて後、こゝに持たりつるもちはと、尋られければ、江次郞、其もちははやくへと候つれば、たべ候ぬとこたへける、僧正比興の事なりとて、しよにんにかたりて、わらひけるとぞ、
p.0578 天文十一年八月十八日丙申、若狹御寮より鳥子百枚給レ之、 霜月八日甲寅、一蟠根寺恒例餅百到來之、
p.0578 小野木家妻女〈并〉かちんの事 一細川幽齋候の和歌の門人に、小野木縫殿助言郷といふ人あり、〈○中略〉縫殿助小身なる上に、貧窮いはんかたなし、或日和歌の會を催す、〈○中略〉亭主縫殿助の云ひけるは、愚妻儀も、御會に連り申し度き由申すに付き、如レ此しつらひて、翠簾の内に罷り在り候、あはれ御連中に加へられ給はれかしと申しける、程なく歌始りて、食事時分に至りしかば、年の頃四十許の女、さもけなげなるが、翠簾の外に手をつかへ、今日の御客來に饗應奉るべき品なし、如何はからひ申さんと有りしに、妻女とりあへず、短冊に歌を書きて出だされけり、折節春雨の降りければ、 月さへも漏る宿なれば春雨のふるまふ物もなかりける哉、やゝ有りて、黑く燒きこがしたる餅を、反故につゝみ、杉楊枝を添へて引かれきとぞ、
p.0579 春日局〈○中略〉 神祖〈○德川家康〉以來御鷹野先ニテ、切剛飯ヲ給フ、御成御延引ノ時ハ、皆々ヘ配リ物大奧ヘモ給ヘリ、春日局申サレシハ、剛飯ニテハ當坐ニ喰ヒ盡セリ、餅ニ練ラセテ給フベシト、夫ヨリ餅ニ舂セテ配ル事ニ成シ、猷廟〈○德川家忠〉ノ御病氣ニテ、御鷹野ノ無リシ時、例ノ赤飯餅(○○○)ハ練ラヌカト、春日局尋ネケレバ、伊丹播磨守答ヘケルハ、御病氣故入ラザル故蒸サセ申サズト云リケレバ、局怒リテ大神君以來、御成御延引ニテモ仕來リタル者ヲ止ルハ、不吉ノ例也、費ト云ハ海川ヘ捨タリ、或ハ泰山府君ノ法トテ物ヲ燒捨ル類也、其赤飯餅ハ皆々ヘ給ルナレバ費ニハナラズ、我等式ノ竈ト違ヒテ、賑カナルヲ公方家ノ御臺所ト云ハレシ、此例ヲ以今ニ御譜代餅(○○○○)ト云テ、毎月御舂屋ヨリ奧方ヘモ給ハレリ、 ○
p.0579 團子(ダンゴ)
p.0579 だんご 團子と書り、西土の稱也、伊勢におまりといひ、尾州にいし〳〵といふ、全淅兵制に米圓を譯せり、小麥團子は食物本草にいふ麪 也とぞ、
p.0579 團子だんご 伊勢にてをまりといふ、女詞にいし〳〵と云、〈尾州にては、ひらめに丸きを、いし〳〵といふ〉又築紫にてけいらんと云有、江戸にて云米まんぢうの丸き物にて、今江戸にてはいまさか餅といふに似たり、〈鷄卵と書り、團子にはあらず、〉
p.0579 團子 粉團或謂二團子一、所々製レ之、毎年六月晦日、社司於二御手洗河一修レ祓、其前日自二十九日一、京師男女參詣、掬二社外之井水一而祓二暑穢一、又林間設二茶店一賣二飮食一、其中小粉團毎二五箇一以二靑竹串一貫レ之、 五十枚或百枚、社家敷二篠葉於臺一、盛二其上一獻二高貴家一、又於二茶店一而賣レ之、良賤買レ之、以二生竹葉一裹レ之、擕レ家賺二兒女一、又贈二朋友一、是謂二御手洗團子(○○○○○)一、又淸水坂茶店所レ賣、是謂二淸水團子(○○○○)一、
p.0580 餅 附録〈○中略〉粳米粉餅(○○○○)〈用二粳粉一和レ水、揉合作レ餅、蒸熟而食、此稱二團子一和二砂糖一抹二煮赤豆泥炒豆粉之類一而食、〉
p.0580 餌(だんご)〈音耳〉餻〈 同〉 〈音謁〉 俗云團子 眞 〈俗用レ之之牟古〉 字彙引二釋名一云、粉米蒸屑皆餌也、非レ餈也、説文云、餈謂二炊レ米爛乃擣レ之不一レ爲レ粉也、餌則先屑レ米爲レ粉、然後溲レ之、〈水調二粉麪一曰レ溲、今俗云古禰留、〉 餻〈音高〉 方言餌謂二之餻一、本草綱目云、餻以二黍糯一合二粳米粉一蒸成、状如二凝膏一也、 按餌今云團子也、用二米粉及麪一攫溲蒸レ之、不レ用二杵臼一也、或裹レ饀、或糝二豆粉一食レ之、餻亦餌之類、有二少異一、如二白雪餻落雁等一是也、
p.0580 粉餅(○○) 赤〈蘇芳〉 靑〈花田〉 黄 白 或以レ縹用二靑色一、以二蘇芳一用二赤色一、或濃薄色多種用レ之、近代以二一色一一折敷居レ之、〈○中略〉 粉餅 白米ヲコマカニウツクシクツキ、フルヒテシトキニシテ、セイハシイホドニ、カシラヲマロクツクリテ、メグリハ三カサネ、ソノ上ニヒキイレテ、三カサネモリテ、ウヘニ品トテ、三ヲク也、サテハナヲトリノハネニテ、スリテノチシロキ粉ヲ、上ニスコシフルヒカクル也、
p.0580 粉餅法 以二成調肉臛中汁一沸二油豆粉一、〈若用二粗粉一、 而不レ美、不レ以レ湯、皮則主不レ中レ食、〉如二環餅麵一先剛溲、以レ毛痛揉令二極輭熟一、更以二臛汁一溲令レ擇、鑠々然、割二取牛角一、似二匙面大一、鑽作三六七小孔僅容二粗麻綫一、若作二水引形一者、更割二牛角一、開三四五孔 容二韭葉一、取二新帛一細々、兩段各方、半下依二角之小鑿一去、中央綴レ角著レ紬、〈以レ鑽鑽レ之、密綴勿レ令レ漏レ粉、用訖、洗擧、得二十二年用一、〉裹二、盛溲粉一、歛二四角一、臨二沸湯上一搦出、熟 子澆者、酪中及胡麻飮中者、眞類二玉色一、稹々著、與二好麵一不レ殊、〈一名帽餅、著酪中者、直用二白湯一溲レ之、不レ須二肉汁一、〉
p.0581 すゝりだんご(○○○○○○) 餅米六分うる米四分の粉を、水にてやはらかにこね、むくろじほどに丸、あづきのしぼりこにてよくに候て、鹽かげんすいあはせ、白ざたうかげん候て出しよし、
p.0581 濱松侯〈水野左近將監忠邦〉ノ家ニ、キリダンス(○○○○○)ト云菓子製ヲ傳フ、切團子ト書ク由、昔傳通院殿常ニ好マセラレシヲ以テ傳フルト也、林子ト侯トハ師弟ナレバ、一日侯製シテ林子ニ供ゼシヲ、林子ソノ古色ト故事トヲ賞シテ、予〈○松浦淸〉ニ語レリ、コノ製彼家ニモ久シク製セズシテ、知者モ無リシヲ、當侯厨下ノ古書留ニ搜リ獲テ、復ビ舊ニ回レリトゾ、亦同ジク除夕ニ送レリ、 切團子製法 一小豆〈壹升四合〉 一糯之粉〈壹升二合〉 一粳之粉〈八合〉 一砂糖〈二斤半〉 右の割合を以て湯にて練り合せ仕候、棹取小判形にして、小口切六歩位に切り、05715立候湯に入れ浮候て、宜き時分に砂糖をまぶし、それを又小豆の粉にまぶし、直に器に入れ奉二差上一候、小豆はかねて越饀に仕置き、かわかし能くほぐし篩にかけ置候、又は靑黄粉など小豆代に仕候儀も御坐候、切だんすの儀は、一體あたゝかなるを賞翫仕候まゝ、只今と御坐候節、隨分手廻よく急に仕立差上候事に御坐候、以上、 四月 右ハ林子水野氏ニ所望シ、彼ノ料理方ヨリ書出タル書付ナリ、
p.0581 山城 七條編笠團子(○○○○○○)〈小麥ニテ、アミ笠ノナリニスル也、〉 御手洗團子(○○○○○) 稻荷染團子(○○○○○) 攝津 住吉御祓團子(○○○○) 駿河 宇都山十團子(○○○○○○) 近江 柳團子(○○○)
p.0582 十六日〈○大永四年六月〉府中、折節夕立して宇津の山に雨やどり、此茶屋昔よりの名物十だんご(○○○○)と云、一杓子に十づゝ、必ずめらうなどにすくはせ興じて夜に入れ著府、
p.0582 坂〈○宇津山〉のあがり口に茅屋四五十家あり、家毎に十團子をうる、其大さ赤小豆ばかりにして、麻の緖につなぎ、いにしへは、十粒を一連ねしける故に十團子などゝいふならし、これにつきて、不圖思ひ出せし事あり、四月十六日に、三井寺にせんだん講といふ事あり、それを俗に千團子といひならはし、團子一千をつくりて、もちてまいれば、子どもの首(かみ)かたしとかや申つたへし、
p.0582 飛團 (○○○) 正德元年の夏、甲州八日市場の不動尊、回向院に開帳ありし時、兩國橋の東詰松屋三左衞門といふ墁匠はじめてこれを製す、はじめは景勝團子と云、尊貴の人の名ははゞかるべき事と、所の長ども制しけるにより、そののゝち越後團子と稱す、壯士うすつくといへども、つぶれざるを、北越長尾家の鉾先に比して名付しとかや、但し越後の名物にてはなきよし也、ちかき頃京大坂にはやり、淨瑠璃にも作りこみてもてはやせり、
p.0582 丸屋大團子(○○○○○)〈御藏前瓦町〉 土間店廣御藏前、丸屋盤中團子圓、評判從來大安賣、一盆喰盡腹便々、
p.0582 米つき團子(○○○○○) 〈本所みどり町〉舂屋金兵衞 笹だんご(○○○○) 〈日本橋木原店〉布袋屋藤四郞 さらしな團子(○○○○○○) 〈米澤町二丁目〉丸屋宗齋 おかめだんご(○○○○○○) 〈飯倉片町〉三河屋〈○中略〉 さらしなだんご(○○○○○○○) 〈兩國米澤町〉津本蘭陵〈○中略〉 よし野だんご(○○○○○○) 〈糀町七丁目〉龜澤屋丹波
p.0582 學匠之蟻蟎(タニ)之問答事 南都ノ春日野ノ邊ニ、學生ノ房近キ所ニ蟻ト蟎ト有ケリ、〈○中略〉蟻蟎ニ問テ云、何故蟎名レ蟎耶、答云、背上谷故名レ蟎〈セナカノ上クボミテ、谷ニニタルユヘニト答フ、〉難云、背上谷名レ蟎者、於二團子等一不レ名レ蟎、〈背クボキ故ニタニト云ハヾ、ダンゴヲモタニトイフベシト問也、〉前得二團子名一故突拍子等准例亦爾、〈シカラズ、サキニダンゴノ名ヲウルユヘニ、ドビヤウシ等ヲモ、是ニナズラフベシト答フル也、〉
p.0583 享保十二年五月十八日、深諦院殿、拙、〈○山科道安〉御茶下サル、〈○中略〉 御會席〈○中略〉 御菓子〈靑クシニ、三ツダンゴ、黄白赤、〉
p.0583 糝粉(シンコ)〈今世餅之一種〉
p.0583 餌 眞 溲二粳粉一形作二三稜一、捻レ之如二繩股一而蒸レ之、蓋惟粳粉不レ和二他穀一、俗呼曰二之牟古一、當レ用二眞 二字一乎、
p.0583 餅のちとあかきやうなるを、しんかうといふ事、あかき小豆をうへにきする、あかつきといふえんにていふとなり、
p.0583 浮麩しんこ根元よこ山どうぼう町しなのや小兵衞 是又近年の店ながら、其品上品にして、貴人にも召上らるゝとぞ、至て奇麗なるもの也、〈○中略〉此うきふしんこは、あづきは付ず、然れども其品上品なれば、彼今川燒など云める下品鄙劣のものにあらず、夫故殊の外繁昌せり、
p.0583 餅屋の看板 古くより白糸餅といふあり、細くねぢりたる物にて、馬の形にはあらざれど、異名を廋馬といへり、是もしんこ馬に對しての名なるべし、 花紋曰〈享保十四年印本言石撰〉 白糸餅(やせうま)に楊枝のむちや峠茶屋 作者ヲ闕 如レ此かなを附たり、又信州小縣郡の今の風俗を記しゝ册子に、捏槃會の日、寺々にてしんこ餅の 細き物を作り、參詣の人にあたふるを、やせうまといふといふ事あり、享保の頃もはや此物江戸にはなかりし故に、峠茶屋と句に作りしにやあらん、再云、白糸餅を細くねぢたる物なりといひしその證、 德元獨吟千句〈寬永五年吟〉 ねぢあひつゝも錢をやりとる しら糸を餅屋の棚に賣買て 續山の井〈季吟撰寬文七年印本〉 餅雪を白糸にする柳かな 宗房〈芭蕉翁初名〉 養生主論〈天和三年印本〉に、白糸もどきとあるも是なり、
p.0584 新粉細工 米粉ニ諸彩ヲ交ヘ鳥獸草木等ノ形ヲ造リ、方一二寸ノ薄キ杉板ニ粘シ、小兒ノ弄物ヲ專トシ、食レ之兒ハ稀也、
p.0584 餡(アン)〈音咸、字彙餅中肉餡、〉 (同)〈同上〉
p.0584 餡〈乎鑑切、音陷、餅中肉餡也〉
p.0584 あん 餡の音轉也、西土の饅頭の餡は鳥獸の肉を用ゐ、本邦には赤豆砂糖を用う、黄蘗饅頭と稱するは、香油の類をもて餡とす、
p.0584 餅及び饅頭のうちにみつる物を、あんといふ、餡の字なり、唐音はアンといふ、あんは唐音のとなへ誤り也、
p.0584 餈 餡(アン)〈音陷〉 餡餅中肉餡〈俗云阿牟〉 按、餅有二數種一粟餅、黍餅、蜀黍餅等雜穀與レ糯合并、蒸而擣者也、或包二肉於中一蒸レ之此名レ餡、今唯以二赤小豆一煮熟擂レ之去レ皮和二沙糖一者曰レ餡、
p.0585 並餡煉方 一赤小豆〈一升の分量〉 一唐雪白砂糖〈四百五十目〉 右の割合を以て煎じ置たる砂糖を、目方の如く銅鍋に入て七輪にかけ置、よく煮詰りたる時ぶん、絞り置たる赤小豆の漉粉を少しづゝ入て、火加減よく氣ながに煉あげるべし、 上餡煉方 一赤小豆〈一升の分量〉 一三盆砂糖〈六百目〉 右の割合にて煎じ置たる砂糖を 立て、追々煮つまりたる時に、絞りたる赤小豆の漉粉を少しづゝ入て、火加減よく煉つめる事肝要なり、
p.0585 百合餡 一これは白きを第一とするゆゑ、砂糖類極吟味を遂て製すべし、唐三盆又は氷砂糖ともに煎じ方に念を入べし、前にしるすごとく、百合の目方をかけ分て、其目方と等分に砂糖を入て、火かげん第一に氣を付て煉つめるなり、 長芋餡 一これは百合と同斷にて、白きを第一とするゆゑ、やはり砂糖なる丈吟味をなして、目かたを懸わけ、砂糖を等分に入て、火かげん第一に氣をつけて煉つめべきなり、 白餡 一白大角豆(さゝげ) 四百目 一三盆白 六百目 右煎じ置たる砂糖を銅鍋に入、遠火にかけて、白大角豆の漉粉を少しづゝ入て、ゆるやかに煉詰 るなり、又紅あんには、右の白あんの鍋をおろして、暫くして分量して紅を入て、火にかけずしてねるなり、紅を入て火にかくれば、忽ちこげて色黑くなる也、尤度々手がけざれば、よしあし知れがたし、よく心得て製すべし、