p.0343 飯ハ、イヒ、又ハメシト云ヒ、字音ニハントモ云フ、又高貴ノ人ニ對シテハ、オモノ、供御(グゴ)、御臺(オダイ)、御料(ゴレウ)ナド稱セリ 我邦古來穀食ヲ常トス、即チ飯ト云フハ、本ト穀物ヲ炊ギタルモノヽ總稱ナレドモ、單ニ飯ト稱スルトキハ、概ネ米飯ニ限レリ、而シテ其色ノ白キヲ以テ俗ニ白飯トモ稱シ、麥、粟、稗等ニテ炊ギタルヲ特ニ麥飯、粟飯、稗飯ナドヽ云ヘリ、蓋シ今麥飯、粟飯、稗飯ナド稱スルハ、多クハ米ニ、麥、粟、稗等ヲ加ヘタルヲ云フナリ、抑、米飯ハ米ヲ甑ニテ蒸シ熟セシムルヲ以テ本トス、即チ強飯是ナリ、 糄 ハ、ヒメト云フ、原ト軟弱ノ意ニテ、甑蒸セシ強飯ニ對スル稱ナリ、今一般ニ炊グ所ノ飯即チ是ナリト云フ、此炊法ニ燒乾(タキボシ)、湯取(ユトリ)、二度飯等ノ法アリ、 水飯ハ、夏季飯ヲ冷水ニ漬ケ、或ハ乾飯ヲ湯又ハ水ニ浸シ、和ゲテ食スルヲ云フ、飯ヲ湯漬ニスルコトハ古クヨリ有リ、湯漬ハ強飯ヲ用イズ、常ノ飯ヲ用イシナルベシ、足利幕府時代ニハ、酒宴ノ後ニハ多ク湯漬ヲ用イルヲ例トシ、之ヲ食スルニ法式アリキ、 ハシルカケ飯ニテ、即チ羹ヲ以テ飯ニ澆グヲ云フ、麥、黍、粟、稗等ノ穀物ノ外ニ、猶ホ種々ノ物ヲ米ニ和シテ、炊グコトアリ、謂ユル小豆飯、芳飯、骨董飯、魚飯、鳥飯、菜蔬飯等ト稱スルモノ即チ是ナリ、 生飯ハ、サバト訓ジ、散飯、三飯、三把、早飯ナド書ケリ、モト佛家ヨリ出タルコトニテ、食前ニ少量ノ飯ヲ取分ケテ、別器ニ置クヲ云フ、是神佛ニ供スル意ナリト云ヘリ、屯食ハトンジキト訓ジ、吉凶等ノ事アル時、下仕ノ者ニ賜フ食ニテ、今ノ握飯ノ類ナリ、 埦飯ノ事ハ、禮式部饗禮篇ニ附載セリ、宜シク參看スベシ、
p.0344 飯(カシクウマゝ)、〈扶万反 <ruby><rb>イヒ○○</rb><rt> カフ〉
p.0344 飯〈イヒ、符万反、扶晩反、黄帝始レ飯、蒸レ穀爲レ飯也、又作二 一、〉
p.0344 飯(イヽ)
p.0344 食
p.0344 飯(メシ/○)〈同食〉
p.0344 飯(イヽ/メシ)〈汴 並同〉 (メシ)〈郊特牲註、或言レ食、或食言レ飯、食大名、小數曰レ飯、〉
p.0344 飯(ハン/ホン)〈イヒメシ〉 (スイ)〈イヒマメアメメシ〉 (サイ)〈イヒ飯也〉
p.0344 <tmc code="i034401"/> 米也〈各本作二一米一也、玉篇同、蓋孫強時已誤矣、韵會本作レ米也、亦未レ是、今定爲二 米一也、由二 字俗罕用一而誤也、以二合下云 口一例レ之、則此當レ爲二 米一信矣、 集也、集二衆米一而成レ食也、引二伸之一、入用供二口腹一、亦謂二之食一、此其相生之名義也、下文云、飯食也、此食字引伸之義也、人食レ之曰レ飯、因レ之所レ食曰レ飯、猶下之 米曰レ食、因レ之用供二口腹一曰上レ食也、食下不レ曰レ飯也者何也、食者自レ物言、飯者自レ人言、嫌二其義一不レ顯、故不二以レ飯釋一レ食也、飯下何以云レ食也、自二籑篆一以下皆自レ人言、故不レ嫌也、周禮膳夫職注曰、食飯也、曲禮食居二人之左一、注食飯屬也、凡今人食分去入二聲、飯分二上去二聲一、古皆不レ如二此分別一、〉从レ皂 聲、或説 皂也、〈此九字當レ作二从 皀三字、經二淺人竄改一不レ可レ通、皂者穀之馨香也、其字从二 皀一、故其義曰二 米一、此於レ形得レ義之例、乘力切、一部、〉凡 之屬皆从レ 〈○中略〉<tmc code="i034402"/>食也〈自二饎篆一已上皆自レ物言レ之、自二 篆一已下皆自レ人言レ之、然則云レ食也者謂レ食レ之也、此飯之本義也、引二伸之一、所レ食爲レ飯今人於二本義一讀二上聲一、於二引伸之義一讀二去聲一、古無二是分別一也、禮記音義云、依二字書一食旁作レ卞、扶万反、謂所レ食也、食旁作レ反、符晩反、謂食レ之也、二字不レ同、今則混レ之、故隨レ俗而音、此字陸語殊誤、古祇有二飯字一、後乃分別作レ 、俗又作レ、此正如二汳水、俗作一レ飯也、唐以前書多作二 字一、後來多譌爲二餅字一〉、从レ 、反聲、〈符萬切、十四部、○下略〉
p.0344 〈字又作レ 、俗作レ飯、同符萬反、字林云、飯食也、扶晩反飼也、〉
p.0344 古者茹レ毛飮レ血、燧人鑽レ火、而人始裹レ肉而燔レ之曰レ炮、及二神農時一、人方食レ穀、加二米于燒石之上一而食レ之、及二黄帝一始有二釜甑一、火食之道成矣、
p.0345 尸又食〈○中略〉註、又復也、或言レ食或言レ飯、食大名、小數曰レ飯、〈○中略〉疏〈(中略)釋曰、云二食大名一者、以二其論語文一多言レ食、故云二食大名一也、云二小數曰一レ飯者、此少牢特言二三飯、五飯、九飯之等一、據二一口一謂二之一飯一、五口謂二之五飯一等、據二小數一而言、故云二小數曰一レ飯也、〉
p.0345 飯イヒ 太古の時、神名飯依毘古といふあり、保食神、口より飯を出せしなどいふ事あり、されど飯をイヒといひし義は不レ詳、〈(中略)或人の説に、飯をイヒといふ、イは發語の詞也、古語にヨシといふ事をヒといふ、イヒとは、其美食なる事をいひし也といふ也、〉
p.0345 いひ 飯をいふ、古へもはらいふは強飯也、飧飯は湯漬いひなり
p.0345 めし(○○) 今飯をいふは、みをしをつゞめたる詞也、或はめし物の略といへり、祝詞式に聞食と書り、此ときは食去聲寘韻に入れり、蝦夷には、飯くふをゑもれといふ、万葉集に食國をめし賜んといふも同じ、出羽にやはらといふ、
p.0345 案るに、たゞ飯とのみいふは總名にして、強飯もひめも共におなじかるべし、〈○中略〉和名抄にたゞ飯とのみ云名目はなし、強飯以下何のいひとはいへるにて、總名なること知るべし、
p.0345 飯〈音煩〉 〈同、和名以比、俗云女之、○中略 〉本綱、炊二諸穀一皆可レ爲レ飯、大抵皆取二粳秈粟米一者爾、禮記云、飯左居、羹右居、 按凡炊レ飯新精米一斗淨淅用二水一斗一炊レ之、如二古米一者、水增二二升一佳、或不レ拘二多少一、釜中水面泛二掌後節上一者爲レ準、尋常日用之飯也、
p.0345 飯 漢土の飯は、こゝにて今たく飯と異りて、夜より米を水にひたし置て、明の朝甑にて蒸もの也、ここにて古の飯は強いひなりといへば、これまた漢土の如く蒸飯なるべし、〈○中略〉またこれをめしといふことは、御をしの約り也といへる説もあれど、こはたゞ聞しめすなどのめしにて、めし物 といふ意なるべし、
p.0346 飯をめしといふ訓義 飯をめしといふは、召(メス)の通音にて召上(メシアガル)などいふを省る語といふは、一わたりは聞えたれど、けだしや蒸の義ならん、本朝文粹に、女郞花を蒸粟にたとへし詩あるをおもふべし、又食(ヲス)の義かともいふ説あれど、ヲとメは通ふ例にあらず、
p.0346 飯をメシと云訓義 飯をめしといふも、是人の食を尊びていふなるを、自らくらふをさへめしといふなるめしは、めし物なり、
p.0346 飯は炊穀の名、粥は烹穀の名なり、加之久は炊爨の字をよみて、俗に布加須といふこれなり、蒸は湯氣を洩さぬにいひ、炊は湯氣を洩すにいへばおなじからず、甑(コシキ)は炊籠(カシキコ)を轉約し語、いにしへは籠を用ひ、又は瓦器、木器をも用ひしなり、〈甑、 、などの字を書るにてもおもふべし、〉それに木葉藁などを敷もし掩もして炊たれば、柏(カシハ)〈カシキバのキを省ける語なり〉甑帶(コシキワラ)〈新撰字鏡に、 莊楊反炊飯之具、己志支和良云々、和名抄に、本草云、甑帶、和名古之岐和良、辨色立成云、炊單、和名同上など見ゆ、〉などの名あり、延喜大炊式には、櫓(コシキ)三口、〈高各三尺、口徑三尺、有レ蓋、〉輿籠五脚、置簀六枚と見えたれば、柏の代に簀を用るも、はやくよりのわざなり、煮は水あるにいひ、熬は水なきにいふなるを、新撰字鏡に熬煎也、煎二魚鳥等一是也、爾留又伊留とあるによりて、一事とおもひ混べからず、然れば飯類と粥類とは、炊、烹の差別ありて、まぎるゝことなきを、後世はまどへる也、さて飯に強食あり糄 (ヒメイヒ)あり、強食は和名抄に、〈〇中略〉強飯、和名古八伊比と見えて、上古の常食なり、
p.0346 飯 〈いゝ、めし、〉 加賀及越中、又は武藏の國、南の海邊にておだいといふ、薩摩にてだいばんと云、出羽にてやはらといふ、〈羽黑山の行者のことば、其國にひろまりたるなるべし、〉小兒の詞に、關西關東共にまゝといふ、又東國にてごゞ共いふ、〈これは供御なるべし、いせ流の女詞にもぐごといふ、〉上總下總の小兒、ぱつぱといふ、〈全國にては、たばこの事をぱつぱといふ總州及常州にてまゝといふは、水のことなり、
p.0347 鎭魂祭儀 辨大夫命、御飯早速令レ賜、丞稱唯退出喚二膳部一、五六人共稱唯、丞仰云、賜二御飯一(○○)、膳部共稱唯、大膳進屬以下、共起賜二神祗官一、次大臣以下、訖大膳進就レ版申云、御飯賜畢、共拍レ手三度〈先後稱唯〉觴三行、亦拍レ手一度〈不稱唯一〉訖各退出、
p.0347 一日、内膳司供二忌火御飯一、 御飯片垸
p.0347 撿二納御薪一官人給レ飯〈五位八合、六位已下史生已上六合、〉
p.0347 元日宴會 内飯入レ自二月華門一供二御飯、〈○中略〉次供二御膳一、〈○註略〉次供二進物所御菜一、〈○註略〉次供二御厨子所御菜二盤一、〈○註略〉給臣下飯汁物一、〈○下略〉
p.0347 元日宴會 給二臣下飯汁物一 飯雖二無レ人處一必居レ之、汁菜隨二人數一居レ之、
p.0347 上申日春日祭事 仰云、宮〈乃〉内〈乃〉省〈サ〉召〈世、○中略〉有〈○有一本作レ省〉官參入〈立二於召使立所一、先名對面、〉上宣、御飯堅樂(カタラカ)〈仁〉給〈戸、〉稱唯出召二膳部一〈二音〉仰レ之、大膳官人申二御飯給畢由一、〈○下略〉
p.0347 元日節會 次供二晴御膳八盤一、〈群臣立、供了居遲々有レ催、〉次腋御膳四盤、〈○中略〉次供二蚫羹御飯等一、次供二進物所、御厨子所、御菜汁物等一、次居二臣下飯汁物菜等一、〈有レ催先飯、撤二餛飩一次汁菜、申上如レ初、〉
p.0347 召二御飯一之時、承レ仰、即向二御膳宿一、示下召二御膳一之由上、經二御膳宿一至二于御厨子所一、同示了、〈○中略〉 奏次事〈甚以二古體一也、近世不レ絶、〉 飯一盛 土器、鹽梅炭各一、折櫃魚鳥類三種、精進物一種、
p.0348 多米宿禰 神御魂命五世孫、天日鷲命之後也、成務天皇御世、仕二奉大炊寮一、御飯香美、特賜二嘉名一、
p.0348 十一年八月、億計天皇崩、〈○中略〉太子〈○武烈〉甫知三鮪會得二影媛一、悉覺二父子無レ敬之状一、赫然大怒、此夜速向二大伴金村連宅一、會レ兵計策、大伴連將二數千兵一徼二之於路一、戳二鮪臣於乃樂山一、〈○註略〉是時影媛逐行二戮處一、見二是戮已一、驚惶失レ所、悲涙盈レ目、遂作レ歌曰、伊須能箇瀰(イソノカミ)、賦屢嗚須擬底(フルヲスギテ)、〈○中略〉逗摩御暮屢(ツマコモル)、鳴佐褒嗚須擬(ヲサホヲスギ)、拕摩該儞播(タマケニハ)、伊比佐倍母理(イヒサヘモリ/○○)、拕摩暮比儞(タマモヒニ)、瀰逗佐倍母理(ミヅサヘモリ)、儺岐曾褒遲喩倶謀(ナキソボチユクモ)、柯 比謎阿婆例(カゲヒメアハレ)、
p.0348 二十一年十二月庚午朔、皇太子〈○廐戸〉遊二行於片岡一、時飢者臥二道垂一、仍問二姓名一、而不レ言、皇太子視レ之與二飯食一(○○)、即脱二衣裳一覆二飢者一、而言安臥也、則歌之曰、斯那提流(シナテル)、箇多烏箇夜摩爾(カタヲカヤマニ)、伊比爾惠氐(イヒニエテ)、許夜勢屢(コヤセル)、諸能多比等阿波禮(ソノタビトアハレ)、〈○下略〉
p.0348 四年六月甲辰、中大兄、密謂二倉山田麻呂臣一曰、三韓進レ調之日、必將レ使三卿讀二唱其表一、遂陳下欲レ斬二入鹿一之謀上、麻呂臣奉レ許焉、 戊申、天皇御二大極殿一、古人大兄侍焉、〈○中略〉子麻呂等以レ水送レ飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使レ勵、〈○下略〉
p.0348 嘉祥二年十月癸卯、嵯峨太皇太后遣レ使、奉レ賀二天皇卌寶算一也、其獻物、〈○中略〉櫃飯八十合、中取五十二前、〈各居二折櫃食廿合一○下略〉
p.0348 延長八年二月六日庚子、以二米百石、穀四百石一、賑二給左右京病者窮人等一、但件米内以二五斗一毎レ條炊レ飯給レ之、爲二飢急者一也、
p.0348 有間皇子自傷結二松枝一歌二首〈○一首略〉 家有者(イヘニアレバ)、笥爾盛飯乎(ケニモルイヒヲ)、草枕(クサマクラ)、旅爾之有者(タビニシアレバ)、椎之葉爾盛(シヒノハニモル)、
p.0348 尼作二頭句一并大伴宿禰家持所レ誂レ尼續二末句一等和歌一首 佐保河之(サホガハノ)、水乎塞上而(ミヅヲセキアゲテ)、殖之田乎(ウエシタヲ)、〈尼作〉苅早飯者(カルハツイヒハ/○○)、獨奈流倍思(ヒトリナルベシ)、〈家持續〉
p.0349 早飯は早稻の意にあらず、新嘗といはんが如くなれば、はついひと訓べし、契冲はまもれるくるしといへるに同心して、さほ川の水をせきあげて、田にまかする人は、辛勞すれども、苅とりて後、わさいひに炊しぐ時は、其人ひとりこそはめといへるかといへり、
p.0349 戀二夫君一歌一首 飯喫騰(イヒクヘド)、味母不在(ウマクモアラズ)、雖行往安久毛不有(アルケドモヤスクモアラズ)、赤根佐須(アカ子サス)、君之情志(キミガコヽロシ)、忘可禰津藻(ワスレカ子ツモ)、 右歌一首、傳云、佐爲王有二近習婢一也、〈○下略〉
p.0349 飯(ヲモノ) 供御(同) 温飯(同)〈日本紀〉 御膳(同)〈禁秘抄〉
p.0349 供二朝夕御膳一事 家女房召レ人、六位稱唯參入、仰云、〈於毛乃女須〉微音稱唯、即向二御膳宿一、示下召二御膳一之由上、了經二御膳宿一至二于御厨子所一、亦同示下召二御膳一之由上、訖更還二於殿上一、西小戸上突二片膝一云、〈於毛乃女須〉于レ時陪膳〈四位奉二仕之一○中略〉已下率來、於二御膳宿一一一供レ之、〈○註略〉供訖、取二最後御盤一之人奏二事由一、其詞云、〈於毛乃末以多利、〉又説云、〈於毛乃末以奴〉須下逐二御所一奏上レ之〈○下略〉
p.0349 奏二御贄一事〈近代釋尊胙外不レ奏〉 下﨟捧二其物一在レ前、上﨟在レ後、問云、何之物、下﨟答云、其人〈乃〉進〈レル〉其〈乃〉御飯(オモノ)、上﨟云、聞食〈ツ〉、下﨟稱唯、隨レ状下二給御厨子所一、若獻二大盤所一、〈菓子類〉
p.0349 ものなどもきこしめさず、あさがれゐのけしきばかりふれさせ給て、大床子の御ものなどはいとはるかにおぼしめしたれば、はいぜんにさぶらふかぎりは、心ぐるしき御けしきを、みたてまつりなげく、
p.0349 大床子のおもの 禁中に大床子所とてあり、机を二ツ立てゝ、其上に御 膳をすゆるなり、〈孟〉御膳をおものとよむ也、つねの御膳なり、大床子ををきて、其上に御膳をたてまつる也、日の御膳と號す、〈○下略〉
p.0350 おまへにしろかねのまがりなどとりいでゝ、おものかしがせ、おまへのくちきにおひたるくさひらども、あつい物にせさせ、にがたけなどてうじて、しろかねのかなまりにいれつゝまいれば、〈○下略〉
p.0350 いひにくきもの たくみの物くふこそいとあやしけれ、新殿をたてゝ、東のたいだちたる屋をつくるとて、たくみどもゐなみて物くふを、東おもてに出ゐて見れば、まづもてくるやをそきとしる物とりて、みなのみて、かはらけはつゐすへつゝ、つぎにあはせをみなくひつれば、おものはふようなめりと見るほどに、やがてこそうせにしか、二三人ゐたりしものみなさせしかば、たくみのさるなめりと思ふ也、あなもたいなのことゞもや、
p.0350 かくいふ程に、御五十日、霜月〈○寛弘元年〉のついたちの日になりにければ、〈○中略〉御帳の東のかたのおましのきはに、北より南のはしらまで、ひまもなう御几帳をたてわたして、みなみおもてには、御前のものまいりすへたり、にしによりては、大みや〈○一條后藤原彰子〉のをもの、れいのぢんのおしきに、なにくれどもならんかし、わかみや〈○後一條〉の御前のちゐさき御臺六、御さらよりはじめ、よろづうつくしき、御はしのだいのすはまなどいとおかし、
p.0350 役供事〈供時、開二殿上小戸一、跪仰云、御膳メス(○○○○)、還立云、御膳宿馬頭盤マイレ、左手捧レ盤、右手扣レ蓋捧二左眉上一、〉
p.0350 御臺(ヲダイ/○○)〈僧家奴隷所レ言、蓋臺飯略語也、〉
p.0350 粳飯(ウルシ井ヒ) 國俗飯ヲ御臺(ヲダイ)ト云榮花物語、增鏡ナド古キ草詞ニモ見エタリ、貴人ノ飯ヲ臺上ニ置テ進ムル故 ニ稱スト云、臺トハ凡几案ノ類、物ヲ置器ヲ國俗ニ臺ト稱ス、
p.0351 飯を臺といふ、女房詞なるべし、〈○中略〉和名抄糄 、和名比女、或説云、非米非粥之義也とあれば、ひめは今世の常の飯とみえたり、御臺と御膳といふとおなじ、食は必ず臺に載るものなればなり、
p.0351 おほとなぶらなどいそぎ參らせて、御だいなどこなたにて參らせ給、ものきこしめさずときゝ給て、とかうてづからまかなひ、なをしなどし給へど、ふれ給べくもあらず、
p.0351 〈抄〉落葉の宮の御膳也
p.0351 木曾頸被レ渡事 伊豫守義仲ガ首、大路ヲ被レ渡、法皇ハ御車ヲ六條東洞院ニ立テ被二御覽一、九郞義經、六條河原ニテ撿非違使ノ手ニ渡ス、撿非違使是請取テ、東洞院ヲ北ヘ渡シテ、左ノ獄門ノ樗木ニ懸ラル、〈○中略〉何者ガ所爲ニカ、獄門ノ木ノ下ニ札ヲ書テ立タリケル、 信濃ナル木曾〈ノ〉御料(○○)ニ汁懸テ只一口ニ九郞義經
p.0351 飯室律師好飯申樣 殊更祝のざしきにも、まづは御れう(○○○)をまいらする、元ぶく、わたまし、むこ取の祝に、いづれも御料あり、大臣の大饗をこなふは、かいこうにだに有がたし、二本三本五本だて、本飯復飯すへ御れう鳥の子にきりのわか御料、玉をみがけるすき御料、粟の御料の色こきは、をみなへしにぞ似たりける、
p.0351 女房ことば 一いひ 御だい ぐご(○○) おなか(○○○) だいりには、いひにかぎらず、そなふるものをぐごといふ、
p.0351 内裏仙洞ニハ、一切ノ食物ニ異名ヲ付テ被レ召事也、一向不二存知一者、當座ニ迷惑スベキ者 哉、 飯ヲ供御、〈○中略〉御菜ヲバヲメグリト云、常ニヲマハリト云ハワロシ、〈○中略〉 毎日三度ノ供御ハ、御メグリ七種、御汁二種ナリ、御飯ハワリタル強飯ヲ聞召ナリ、
p.0352 御よめいりの時の事 一御はんには御かはらけにて、ぐごは參り候つる、是がほんにて候、三年すぎては、御ごきにて參り候、
p.0352 小兒語 嬰兒の語に、〈○中略〉飯をまゝ(○○)といふは、うま〳〵の上言の省かれたるにて、美味の意也、乳母をまゝと稱も、飯と同語にて、乳をも美味といへる也、〈○下略〉
p.0352 次飯(○○)〈スキイヒ〉
p.0352 中宮雜給、〈○中略〉女藏人、〈日米一斗三升、上飯(○○)二斗料、〉御膳宿(オモノヤドリ)采女、〈日米五升、次飯一斗料、〉
p.0352 執聟事 出二下飯一(○○)、〈出居方〉次夜陪膳如レ此、
p.0352 中宮雜給〈○中略〉御厨子所米八升、〈膳部六人、日米四升八合、破飯(ワリイヒ/○○)一斗二升料、女孺四人、日米三升二合、破飯八升料、〉
p.0352 平野祭料〈夏冬並同〉 雜給米五石八斗九升〈磨飯(○○)一石一斗五升、平飯()十三石料、但夏冬祭米五石三斗二升、〉 春日祭料〈春冬亦同〉 雜給米七斛〈磨飯三石三斗、平飯十三石五斗料〉 大原野祭料 米七斛〈磨飯三石、平飯十三石七斗五升料、〉 四月一日、侍從已上儲料米一斛、〈十月亦同〉 侍從卅人、〈一人日米二升、廿九人、各日一升六合、並磨飯料、〉同レ前〈○中略〉内舍人廿五人、〈人別日米一升六合、磨飯料、〉 中宮雜給、〈日別米四斗平飯料、六升磨飯料、○中略〉内膳司、〈日米六升磨飯料〉
p.0353 燋飯(○○)〈コカシイヒ〉
p.0353 燋飯〈コカシイヒ陳遺母好二鎗底燋飯一〉
p.0353 鎗底飯 鎗底飯、又曰二鐺焦一、〈字典鐺音鎗、釜屬、六書故曰、鎗三足鬴、俗作レ鐺、〉即鐺底焦飯、事文類聚曰、宋陳遺少爲二縣吏一、母好食二鎗底飯一、遺在レ役、恒帶二一囊一、毎レ煮レ食輙録二其焦一貽レ母、〈○註略〉世説曰、呉郡陳遺至孝、母好食二鐺底焦飯一、遺爲二郡主簿一、恒裝二一囊一、毎レ煮レ食輙貯二録焦飯一、歸以遺レ母、名山藏曰、高皇后私懷二鐺焦一餔レ帝、醫學入門有二 飯鍋燒一、又謂二之鍋巴一、胡承譜隻塵談曰、黄周星喜食二鐺底焦飯一、人呼爲二鍋巴老爹一、萬病回春作二鍋 一、諸字書並無二 字一、蓋俗增耳、
p.0353 飯 飯半生半熟曰レ糪、〈音珀、俗云二古之計留一(○○○○)、〉食レ飯餘曰レ餕、〈音俊、俗云二和計一(○○)、〉食上生二白毛一者曰レ殕、〈音撫、俗云二加比留一(○○○)、〉飯傷二熱 一曰レ饐、〈音醫、訓二須惠流一(○○○)、〉
p.0353 一書曰、〈○中略〉天照大神在二於天上一曰、聞三葦原中國有二保食神一、宜爾月夜見尊就候レ之、月夜見尊受レ勅而降、已到二于保食神許一、保食神乃廻レ首嚮レ國、則自レ口出レ飯、〈○下略〉
p.0353 一書曰、〈○中略〉時神吾田鹿葦津姫以二卜定田一號曰二狹名田一、以二其田稻一釀二天甜酒一嘗之、矣又用二渟浪田稻一爲レ飯嘗之矣、
p.0353 飯 木花開耶姫、渟浪田稻を用て、飯に作給ふ事、舊事紀に見えたり、是飯炊の始ならん、
p.0353 飯盛嵩、右所二以號一レ然者、大汝命之御飯、盛二於此嵩一、故曰二飯盛嵩一、
p.0354 飯梨郷、郡家東南卅二里、大國魂命天降坐時、當二此處一而御膳食給、故云二飯成一、〈神龜三年、改二字飯梨一、〉
p.0354 燀〈之善反、上、炊也、伊比加志久、〉
p.0354 鏊〈五到反、熬也、熟飯也、大平戸、又加志久、〉
p.0354 飯炊(イヒカシク) 爨(同)〈炊爨(サン)〉
p.0354 かしく 炊をよめり、神代紀に爲レ飯をいひかしくとよみ、新撰字鏡に燀をいひかしぐとよみ、鏊をかしくとよめり、今いふ飯をたく事也、
p.0354 さて飯に、強飯あり、糄 あり、強飯は〈○中略〉上古の常食なり、〈○中略〉万葉集〈二の卷〉に、家有者(イヘニアレバ)、笥盛盛飯乎(ケニモルイヒヲ)、草枕、旅爾之有者(タビニシアレバ)、椎之葉爾盛、また、〈五の卷〉可麻度柔播(カマドニハ)、火氣布伎多氐受(ケブリフキタテズ)、許之伎爾波(コシキニハ)、久毛能須可伎氐、飯炊(イヒカシク)、事毛和須禮提、云々、伊勢物語に、手づからいひがひとりて、けこのうつはものにもりけるを見て云々、などあるによりて、その甑(コシキ)にて炊たる強飯を笥子(ケコ)〈椀飯とは別にて、笥子(ケコ)にもれるにても、強飯のさまおもふべし、〉に盛て喰しことおもふべし、
p.0354 加志波と云は、もと一ツ樹の名には非ず、何樹にまれ飮食に用る葉を云り、故書紀仁德卷に葉字を書て、此云二箇始婆一とあり、然るに又某賀志波と名負たる樹も、古より彼此とあるは、あるが中に常によく用ひたるどもを、然は名けたるなり、〈○註略〉凡て上代には、飮食の具に多く葉を用ひしことにて、〈○註略〉飯を炊ぐにも、甑に葉を敷もし覆ひもして炊きつるから、炊葉(カシキハ)の意にて加志波とは云るなり、
p.0354 大化二年三月甲子詔曰、〈○中略〉有二使役之民路頭炊一レ飯、於レ是路頭之家乃謂レ之曰、何故任レ情炊二飯餘路一、強使二祓除一、復有二百姓一、就レ他借レ甑炊レ飯、其甑觸レ物而覆、於レ是甑主乃使二祓除一、如二是等類一、愚俗所レ染、今悉除斷、勿レ使二復爲一、〈○下略〉
p.0354 貧窮問答歌一首并短歌 可麻度柔播(カマドニハ)、火氣布伎多氐受(ケブリフキタテズ)、許之伎爾波(コシキニハ)、久毛能須可伎氐(クモノスカキテ)、飯炊(イヒカシグ/○○)、事毛和須禮提(コトモワスレテ)、〈○下略〉
p.0355 比米 萬葉集貧窮問答の歌に、甑には蜘窠布(カキ)て飯炊ことも忘れてとあるを考へ、むかしは上下共に蒸飯なるを知らる、
p.0355 おほい殿廿石いるかなへどもたてゝ、それがほどのこしきどもたてゝいひかしぐ(○○○○○)、きさのきにくろがねのあしつけたるふね四たてなめて、みなしな〴〵なるいひかしぎいれたり、所々のさうしどもつかいとおのこにひつもたせて、いひばかりうけたり、〈○下略〉
p.0355 飯 メシハ今云強飯ヲ本トス、蓋甑ニカケ蒸ト雖トモ、平食ニハモチゴメニハ非ズ、ウルシ子ナルベシ、 天子ノ供御ニハ、右ノ蒸飯ヲ用ヒ玉フト也、攝家モ用レ之ト也、然レドモ今モ天皇攝家等用レ之玉フ歟、高貴ノコトハ是ヲ知ラズ、 今世モ幕府以下大名ハ、一粒撰ト云テ、白米ヲ一粒々々擇立テ、釜中ニ炊ギ食シ玉フ也、〈○中略〉
p.0355 爨法の事 たとへば、釜にて古米壹升五合を食(めし)に燒んと欲するとき、其水何程と問、答云、水壹升九合三勺七才五、術曰、米の升目を置て、是を九倍して定法二升をくはへ、得數を八ツに割れば、水の升めしらるゝなり、しかれども升め又は火の燒やうそまつにてはあひがたし、故に諺に、食たくば、始めちよろ〳〵、中くわつくわ、親はしぬるとふたとるなと云傳へたり、但し鹽の入食と、鍋にてたくとは、少し水を控ふべし、
p.0355 夏飯の腐らざる焚やう 仲夏より仲秋迄〈五月より八月迄を云〉飯を焚には米性を糺すべし、米性あしきと洗ひのたらざるははやく腐る也、隨分よく洗ふべし、又川水にて焚と井水にてたくは、井水の方は半日もたもちかた惡し、〈○中略〉 朝焚んと思はゞ、前日の夕方、右のごとく洗ひて、釜にいれ、其まゝ焚やうの水かげんに仕かけ置、翌朝水を仕かゆる事なく焚べし、火は初め強く、吹上りたらば半分に薪を減じ、隨分蓋を明ざるやうに燒べし、〈○中略〉 扨右のごとくして焚(たく)米の中に、梅干を一ツ入て焚ば、假令一日にてあしくなるは、二日もたもつべし、是飯のあしくならざる秘傳也、梅干の酸味飯にうつる事なし、
p.0356 一飯をはやくたく事、竹の筒に米を入、水を入、水かげん能して、筒を廻し〳〵火にてあぶる也、米は筒一はい入るは惡し、水は一はい入るべし、筒の口はかたくせんをさすべし、
p.0356 比米 凡そ常の飯を煮には、其沸騰とき磁碗に水を盛て、鼎(カマ)の蓋の上に居、竈の薪を去(ヒケ)ば、飯能熟(デキル)のみならず薪を省けり、又山野などにて飯炊べき器なき時は、竹筒に精米を六七分、水を十分入、口に栓さし、筒を火の上にあてゝ旋々(マハス〳〵)あぶれば、筒の中に飯にえるものなり、
p.0356 小米の飯焚樣 (コヾメ) 先米貳升を飯に焚んと思はゞ、小米を壹升よく洗ひ、小石なきやうよくゆりて、米揚 (ざる)に入、水をたらし置、扨米壹升を洗ひ、釜に仕かけ、水かげんは、米壹升八合焚べき水にして焚、吹あがりたる時、右小米を入、杓子をもて上面をならし、元の如く蓋をして焚あげ、火をひき、燠(おき)をもひき、暫むらして、杓子にてかきまぜ、飯櫃(おはち)にとり食すべし、碎麥(ひきわりむぎ)飯に似たるものなれども、夫よりも口あたり よく喰しよきもの也、右のごとくして焚ば、大體貳升の米にて五合は德分也、
p.0357 德廟〈○德川吉宗〉御飯ノ炊カタ格段ヨク出來タルトキハ、御膳所ノ小吏ヘ御沙汰アリテ、折々御褒美金ナド下サレシガ、御料理向ノ物ハ、イカ樣ニ御口ニ叶ヒタル時モ、遂ニ御褒美ノ御沙汰ハ無リシトナリ、
p.0357 鍋なくて食するやう、米を手拭につゝみ、水にてよくぬらして地を掘り埋み、その上に火をたけば飯になるなり、
p.0357 第百二十八回〈犬士露宿して追隊を迎ふ、老僧袱を褰て冥罰を示す、〉 姑且して、信乃は、毛野にいふやう、見らるゝごとく這米は才(わづか)に二升あまりあり、〈○中略〉都て二十八名の食料なれば、粥に炊ずは一碗を、各啜るに足ざるべし、那白屋(かのくさや)に鍋はなきやと問へば、毛野は頭を掉て、否那里(かしこ)には簀子に布たる敗筵一枚あるのみ、鍋釜などはあらずといふ、答を道節うち听て、しからば和殿們(わどのら)も知るごとく、其米を嚢の儘に水に浸し、壤に埋めて、上にて柴を燒ときは、蒸れて軈て飯に做るべし、こは野陣して鍋なき折、戰飯(ひやうらう)を炊く者の、必すなる事なれども、人の多きに米寡きは、粥より外にせんすべなしといへば、莊介點頭(うなづき)て、現(けに)この米にて足らざれば、一握宛也とても、一宵の餓を凌ぎもせん、そも鹽なくては不便にこそといふを、毛野は見かへりて、否鹽はあり、鹽はあり、〈○中略〉又その前面(むかひ)なる大竹籔に、多く筍兒(たけのこ)の生たるを見き、筍兒は自生の儘、拔かずして梢を伐棄、然而竹の枝をもて根まで、よく節を串きて、上より醬油を沃き入れ、その四下(あたり)の土を穿て、何まれ薪にして燒ときは、その筍兒蒸熟して、味ひ烹たるに勝れども、如此すれば、その明年其頭(そこら)に筍兒出ることなし、寔に好事の驕饌なれば、其に傚んとにあらぬども、籔なる筍兒を穿採して、 も壤蒸に做すらば、飯の足らざるを補ふべき、合菜(あはせもの)に妙ならずや、〈○下略〉
p.0357 強飯〈コハイヒ〉
p.0358 強飯 史記云、簾頗強飯斗酒、食肉十斤、〈飯音符萬反、亦作二 一、強飯和名古八伊比、〉
p.0358 所レ引列傳文、原書作二簾頗爲レ之一飯斗米、肉十斤一、與レ此不レ同、假令史記別本有レ作二強飯一、當二是勉強之強一、非二強弱之強一、作二斗酒一亦誤、按病源候論金瘡腸斷候云、當下作二研米粥一飮上レ之、二十餘日、稍作二強糜一食レ之、強糜蓋糜之強者、然則飯之強者、亦可レ謂二之強飯一、但引二證史記一者誤、昌平本無二食字一、伊勢廣本同、似レ是、
p.0358 強飯〈コハイヒ飯字亦作レ 〉
p.0358 強飯(コハイヽ)〈俗云赤飯〉
p.0358 硬飯(コハキメシ)〈酉陽、遂喫二硬飯一、居家、但如二硬飮一、取二匀熟一而已、〉
p.0358 一皜飯かうはん〈白コハメシ也〉
p.0358 蒸飯(シンハン/ムシイヒ)
p.0358 一飯の本式は強飯也、是は甑にて蒸て作る也、釜に入て煮たるをば姫飯(ヒメイヒ)と云也、〈姫とは、やわらかなるゆへなり、○中略〉強飯といふは、白こはめし也、赤飯(セキハン)と云は赤小豆を交たるこはめし也、此差別知らぬ人有、又胡麻鹽を古は黑鹽と云たるなり、京都將軍の時、正月元日、御こは供御の御祝あり、御ちから共云、年中恒例記、貞陸自筆記、正月祝儀飾繪等に見たり、其時御こは供御の御膳五迄參る、御こは供御に黑鹽をそへて參る事、大草流の書にあり、
p.0358 蒸飯〈硬飯〉 汲冡周書曰、黄帝始蒸レ穀爲レ飯、烹レ穀爲レ粥、初學記引二春秋運斗樞一曰、粟五變、以二陽化一生而爲レ苗、秀爲レ禾、三變而粲、謂二之粟一、四變入レ臼、米出レ甲、五變而蒸飯可レ食、蒸飯即炊飯也、以レ 著二甑底一、入レ米安二釜上一、候二略熟一沃レ水再蒸、如下今炊二硬飯一法上、生熟隨レ意、故杜詩曰、軟炊香飯縁二老翁一、〈鄕談正音、炊飯鄕談、蒸飯正音、居家必用曰、但如二硬飯一取二匀熟一而已、〉孟子曰、以二釜甑一炊、世説曰、太邱使二元方季方炊一、客與二太邱一論議、二人進レ火、倶委而竊聽、炊忘レ著レ、飯落二釜中一成レ糜、 可レ見漢人皆爲二炊飯一也、其一蒸者謂二之饙飯一、即硬飯也、〈硬飯見二酉陽雜俎一〉説文曰、饙一蒸米也、劉熙釋名曰、饙分也、衆粒各自分也、俗謂二之強飯一、按字彙曰、 、〈巨兩切〉硬食也、強飯之強、亦宜レ从二食旁一、大抵蒸飯以レ糯、燒飯以レ粳、日下舊聞引二燕北雜記一曰、遼俗毎年正月一日、糯米炊レ 、〈廣韻曰、飯同レ 、俗作レ 、〉即今強飯、説文饙又作レ餴、玉篇曰、半蒸飯也、毛詩曰、可二以餴飯一、註曰、餴蒸米一熟而以レ水沃レ之、乃再蒸也、又謂二之 〈音修〉飯一、爾雅曰、饙餾稔也、郭璞註曰、今呼二 飯一爲レ饙、饙熟爲レ餾、疏曰、稔熟也、孫炎曰、蒸レ之曰レ饙、均レ之曰レ餾、然則蒸米謂二之饙一、饙必餾而熟レ之、故言饙餾 也、廣韻曰、饙謂二之 一、與レ 同、又通作レ滫、説文曰、餴滫飯也、事物異名謂二之滫食一、本草綱目謂二之寒食飯一、 在昔此方人亦作二蒸飯一、故釜額上有二三橫畫一者、俗謂二之飯釜一、以存二甑形一也、按事言要玄引二古史考一曰、黄帝始造二釜甑一、火食之道成矣、釜容二六斗四升一、有レ耳有レ足曰レ錡、有レ耳無レ足曰レ釜、有レ柄曰レ銚、有レ口無レ耳無レ足曰レ鍋、有レ耳三足曰レ鐺、亦釜屬也、揚子方言曰、甑自レ關而東謂二之甗一、或謂二之鬵一、或謂二之酢餾一、韓詩外傳曰、舜甑盆無レ膻、正字通曰、膻即今甑、事文類聚曰、甑底蔽也、以レ竹爲レ之、用以障レ米不レ下レ水、而氣得二上通一也、方言謂二之甑一、玉海曰、宋太宗時、長安民得レ甗、〈甗制見二周禮考工記一、註、甗無底甑、〉其状下爲二鼎三足一、上爲二方甑一、中設二銅一、可二以開闔一、此今所レ謂飯釜所二由取一レ樣也、蓋甑本陶器、或以レ銅製、後世有二竹甑桐甑之類一、今通用二木甑一、無レ有下用二銅及瓦一者上、故詳レ之、
p.0359 かゆ こは飯 ひめ 宗固問、物語に御かゆこは飯と有は、僧家の粥飯に同じことかと被レ存候、右かゆ飯の外、ひめといふもの見え申候、今もひめのりと申事下々申候、こは飯は今云つねの飯、ひめはかゆと飯との間に候哉承度存候、胤相答、來喩之趣も御尤には奉レ存候へども、強飯とつねの飯とは別なるべきか、見分之旨左ニ記、御厨所預前若狹守宗直説云、飯と云は強飯にて を以て炊きたるをいふ、今に到て御節會の御膳、又は大床子御膳等、總而御飯とて、式正に獻る御飯は皆強飯也、内膳司の所レ掌 也、〈○中略〉比目といふは、今の常の飯なり、正月比目始といふも、常の飯を喰初る義也、強飯を喰べきを褻(ケ)の義をなし初る故に別に斷るなりと云々、〈○中略〉又延喜大炊式云、凡供御稻米粟米舂備日別送二内膳司一と見え、又云、供御料稻粟並用二官田一、其舂得二米一束二把五升一、糯米亦同、一人日舂三升、是等の文、當時平日供御も強飯たるべき歟、勿論褻には常の飯も獻ずる事に可レ有レ之相聞え候、稻米は常の米、粟米は餅米の事と相聞え候、文字の事には難レ當候へども、賦役令以下の取扱、如レ此分別いたし來ざる事に相見え申候、比目は和名抄糄 の字を用候へば、粥と飯との間との説も面白存候、猶ほ考べし、 俊明案るに、高橋家の説いはれ有に似たり、されども少たらざる所有、まづ飯は今の常の飯にて粳也、これは蒸もたきほしにもすべきなり、〈○中略〉 強飯〈こはいひ、〉糄 〈ひめ、〉粥〈かゆ、〉この三の物、そのわかちあれども、つねにはわきまふる事まれなり、まづ強飯は誰もしる所にて、今世に俗にもいへり、小豆を入しをば赤飯(セキハン)と云、京江戸ともに音語を用ゐ、あづき飯といへば、粳にて焚ほしにせし常のめし也、糄 をば是をひめと云、此事知人まれ也、和名抄に糄 は和名比女といへり、或説云、非レ米非レ粥之義也と見ゆれば、米と粥との間といふ意にて、今常に用るめし也、但し是は強飯と比女とは強弱のたがひのみにして、焚乾(タキホシ)も蒸たるもその事は同じ、〈○中略〉粳〈うるしよね〉糯〈もちよね〉は各その品によりて用ゐてこれにかゝはらず、粥は是もまた二ツ有て、かたがゆ、〈○註略〉ともに饘字をよみ、〈○中略〉饘は即ち又比目と同物にして、今云焚乾(ほし)のめし也、たゞわかちていはゞ、比女は蒸たるめし、饘はたきほしのめし也、この三のわかち、甚だ入くみて心得たがふこと多し、〈○下略〉
p.0360 強飯 按に、糄 (ヒメ)よりも強ければ強飯の名あり、 飯(カタカシキノイヒ)に水を沃て再三蒸(カシキ)たる諸炊(モロカシキ)の飯也、漢字は饙(フン)に 作るべし、詩大雅〈泂酌章〉に、泂(トホク)酌二彼行潦一、挹レ彼注レ茲、可二以餴一レ饎(モロカシキカタカシキ)、注に餴蒸レ米一熟、而以レ水沃レ之、乃再蒸也と見ゆ、皇國往古の常食にて、大床子の御膳などこれ也、源氏末摘花に、御かゆこはいひなどめして云々、同薄雲に、はかなきくだものこはいひばかりは、きこしめす時もあり云々、〈○中略〉稱名院殿吉野詣記に、かゆこはいひなどもとりあへず云々、
p.0361 強食は、〈○中略〉古事記〈仲哀の段〉に以二飯粒一(イヒボ)爲レ餌、釣二其河之年(アユ)魚一云々、神功紀に、勾レ針爲レ鈎(マゲテハリヲチニ)取レ粒爲レ餌云々、〈これらも、強飯の飯粒なるべし、〉仁德紀〈四年の條〉に、炊烟(イヒカシグケブリ)、亦繁云々、万葉集〈二の卷〉に家有者(イヘニアレバ)、笥爾盛飯乎(ケニモルイヒヲ)、草枕(クサマクラ)、旅爾之有者(タビニシアレバ)、椎之葉爾盛(シヒノハニモル)また〈五の卷〉可麻度柔播(カマドニハ)、火氣布伎多氐受(ケフリフキタテズ)、許之伎爾波(コシキニハ)、久毛能須可伎氐(クモノスカキテ)、飯炊(イヒカシグ)、事毛和須禮提(コトモワスレテ)、云々、伊勢物語に、手づからいひがひとりて、けこのうつはものにもりけるを見て云々、などあるによりて、その甑にて炊たる強飯を笥子〈椀飯とは別にて、笥子にもれるにても、強食のさまおもふべし、〉に盛て喰しことおもふべし、延喜大炊式に、宴會雜給飯器、參議已上並朱漆椀、五位以上葉椀、命婦三位以上藺笥(イケ)、〈加レ筥〉五位以上命婦並陶椀、〈加レ盤〉大歌、立歌、國栖、笛工、並葉椀〈五月五日靑柏、七月廿五日荷葉、餘節干柏、〉と見えて、此比より椀にも笥にも葉にも盛ことゝなり、今の世はわづかに魂祭に荷葉椀を用るわざ殘れり、日本紀竟宴歌〈○註略〉に、 玉がしはをかたまの木のかゞみ葉に神のひもろぎそなへつるかな、〈○註略〉とよめるも、葉椀にて強飯のさましるし、大床子の御膳も強食にて、すべて吉凶式正の禮に、必強食を用るは、古風の今に傳はれる也、
p.0361 おこはまはり 今の世、女の言に強飯をおこはといへり、大神宮年中行事に御強(オコハ)と見ゆ、又菜をまはりといふこと、同じ書に御廻(マハリ)八種とあり、枕さうしにはあはせと見えたり、
p.0361 飯を椀に盛事 古代は強飯とて、甑にていく度も水をかけて蒸かへし、柔かにして、ねばらぬ飯なりしかば笥に盛り、旅にては椎の葉にも盛り、供膳には土器にも盛たる也、後には比目飯とて、今〈ノ〉世のタキホシの飯をくふ事となりてより、ねばりて笥にも土器にも盛事能はざれば、木〈ノ〉椀に盛し故、これを椀飯といふ、吾妻鏡に、垸飯の事おほく見えたるは、其比武家には、垸飯の比目を以て、饗膳にせしゆゑ也、公家にはなほ大床子のをものとて、強飯を用られしかど、それは儀式のみにて、天子の供御の御料は、内々にて比目飯を用し也、されど木椀にはもることなく、藥のかゝりたる茶碗を用て、古の素燒の土器は、大床子の御膳にのみ用たりし也、
p.0362 飯 今世甑ニカケ蒸ス者ヲ強飯ト云、必ラズ糯米也、吉事ニハ小豆ヲ交ヘ、赤飯ト云、凶事ニハ不レ交レ之、別ニ黑大豆ヲ蒸テ飯上ニ置レ之、三都トモニ吉事ニ赤飯ヲ炊キ蒸テ、親類及知音ニ配ル、皆重箱ヲ以テス、凶事ニ白強飯ヲ配ルコト必ラズトセズ、往々有レ之ノミ、
p.0362 食物之式法の事 一こは飯などくふ樣、縦箸すわりたり共、箸にてくふべからず、箸にてすくひて、左の手の上に移して、手にてくふべし、さりながら、汁候はゞ箸にてくふべし、
p.0362 〈中〉一節供事 節分方違翌朝、羞二強飯、菓子一、俗家不レ可レ然之、 節分翌日、元日供二強飯一事、俗家法元日許也、 飯ニハシダ必可レ敷
p.0362 御膳 臨時供御〈内院宮儀〉 正月 御強飯 御菜八種 御菓子八種 元三、立春、七日、十五日勤二仕之一、居二御臺二本一、
p.0363 正月一日 御強飯供御儀式は、未の刻に、中﨟紅のはかまひとへきぬむねのまもりをかけ、上の御末掛席のきはにて、御こは供御を取渡被レ申候也 、御手長伊勢同苗四五人各裏打也、御手永の衆へは、大草〈からうちなり〉取次てわたし申、大草より御こは供御調進によりて也、此御ごはくこの事、曇花院殿被レ仰レ之、今世に御こはの儀具、存知之仁ありがたし、曇花院殿なども、一向くわしき事無二御存知一よし被レ仰き、御倉よりの下行に候、
p.0363 神無月朔日御盃事如レ常、亥〈ノ〉子、近比ハ皆初計也、〈○中略〉入レ夜御盃ノ事アリ、昆布鮑ナリ、此時ニツク〴〵ト云テ、小キ臼ニ白キ強飯ヲモリ、足付ニのせ、前ニ杵二本置也、是ヲ御前ニ獻ズ、
p.0363 朱雀院の行幸、けふなんがく人まひ人さだめらるべきよしうけたまはりしを、おとゞにもつたへ申さんとてなんまかで侍る、やがてかへり參りぬべう侍るといそがしげなれば、さらばもろともにとて、御かゆこはいひ(○○○○)めして、まらうどにもまいり給て、〈○下略〉
p.0363 こゝはかゝるところなれど、かやうにたちとまり給ふおり〳〵あれば、はかなきくだもの、こはいゐ(○○○○)ばかりは、きこしめすときもあり、
p.0363 こはいひは、古の常の飯なれど、粥をいふ故に、それに對してかくいへるなるべし、
p.0363 あこぎいかで物參らん、いかにみこゝちあしからんとおもひまはして、こは飯(○○○)をさりげなくかまへて、いかでと思へどせんかたなければ、〈○下略〉
p.0363 座主房雜事日記〈久安五年〉 一正月 元日朝拜御節供式〈○中略〉 次御強飯三升〈升返〉
p.0364 壽永三年甲辰正月一日、辛卯御強飯物〈○若宮供御〉二ケ度、〈一度拜殿下〉
p.0364 佐伯氏長はじめて相撲の節にめされて、越前の國よりのぼりけるとき、近江國高島郡石橋を過侍けるに、きよげ成女の川の水をくみて、みづからいたゞきて行女有けり、〈○中略〉女うなづきて、あぶなき事にこそ侍なれ、王城はひろければ、世にすぐれたらん大力も侍らん、〈○中略〉彼節の期日はるかならば、爰に三七日逗留し給へ、其程にちととりかひ奉らんといへば日數も有けり、くるしからじと思ひて、心のとゞまるまゝに、いふにしたがひてとゞまりにけり、其夜よりこはき飯(○○○○)を多くしてくはせけり、女みづから其飯をにぎりてくはするに、少もくいわられざりけり、始の七日はすぎて、えくひわらざりけるが、次の七日よりは、やう〳〵くいわられけり、第三七日よりぞうるはしうはくひける、かく三七日が間よくいたはりやしなひて、今はとくのぼり給へ、此上はさりともとこそ覺ゆれといひてのぼせけり、いとめづらかなる事なりし、
p.0364 をばな色のこは飯(○○○○○○○○) この事よくもしれぬ事なり、薄のあくにて染るなどもいへれど、是もしるしとすべきこともなし、尾花栗毛などいふ馬の毛色なども有をおもへば、うす赤き色なるべしとおしはかる、南史の任昉が傳に、唯有二桃花米廿石一といふこと有、これも色によりての名とぞ思はるゝ、また留靑日札に、桃花飯言飯紅潤之色といふによれば、これらやあたるべきに似たり、されどもいかなるわざをして色をつくるにや、また自らなる色かもしるべからず、或人は今此方にていふトウボウシといふ米は赤き物也、それをいふかともいへれど、思ふにすべて西土の米は我國の如きはすく なし、さらばかくわかちいふまじきにやとおもはる、
p.0365 すきばこよつに、はしつきすへて、もみぢおりしきて、まつのこ、くだ物もりて、くさびらなどして、おばないろのこはいひ(○○○○○○○○○○)などまいるほどに、〈○下略〉
p.0365 空穗物語〈菊の宴〉に、すきばこ四に、つら〈はしの誤歟〉坏すゑて、もみぢ折しきて、松のこ、くだものもりて、草びらなどして、をばな色のこはいひなどまゐるほどに、雁なきてわたる云々、按に海人藻芥〈中卷〉に、八月朔日の小花粥に、薄を黑燒にしているゝよしあれど、いかゞあらん、こは白色を尾花にたとへしものと見ゆ、〈○中略〉白強飯といふべきを、尾花強飯といへるは、白鶴、白馬を葦花の白きになずらへて、あしたづ、あしげのこまなどいふ類也、
p.0365 〈今正、音脩饋、カタカシキノイヒ〉 饙〈 紛二音カタシキノイヒ〉
p.0365 饙 四聲字苑云、 饙〈修紛二音、漢語抄云、加太加之木乃以比、〉半熟飯也、
p.0365 加太加之岐乃以比、片炊飯之義、謂レ未二全熟一也、〈○中略〉玉篇云、 饙也、 同上、又云、饙半熟飯也、二字不二連文一、廣雅亦云饙謂二之 一此所レ引或誤、按説文 滫飯也、又載レ饙云、或从レ賁、則知 皆俗滫字、又按毛詩泂酌篇、釋文引二字書一云、饙一蒸米也、正義云、蒸米謂二之饙一、饙必餾而熟レ之、説文云、餾飯氣流也、則知饙謂三蒸米不二餾熟一、故或云二一蒸米一、或云二半熟飯一也、釋名饙分也、衆粒各自分也、畢沅曰、米纔一蒸、則未二黏合一、故曰二衆粒各自分一、
p.0365 饙〈カタカシキノイヒ、半熟飯也、上音脩、亦作レ 、下符文反、〉
p.0365 脩飯也、〈脩各本依レ滫誤、今作二爾雅音義一引正、脩倉頡篇作レ 、脩之言溲也、水部曰、 汏也、飯者人所レ飯也、 爾雅作レ饙、釋言曰、饙餾稔也、孫云、蒸レ之曰レ饙、均レ之曰レ餾、郭申之云、今呼二 音脩一、 飯爲レ饙、入均孰爲レ餾、詩釋文引二字書一云、饙一蒸米也、劉熙云饙分也、衆粒各自分也、按大雅泂酌行 挹レ彼、注茲可二以 饎一、箋云、酌二取行饙一投二大器之中一、又挹レ之注レ之、於二此小器一而可三以沃二酒食之餴一者、以レ有二忠信之德一齊絜レ之、誠以薦レ之故也、此謂三以レ水 二熱飯一、古語云 飯、〉从、 聲〈 从レ卉聲賁、奔亦从レ卉聲、十五部與二十三部一合音也、府文切、〉
p.0365 〈音脩、又西九反、又所九反、一音孫、廣雅、饙謂二之 一也、蒼頡篇云、 饋也、〉饙〈方云反、字又作レ餴同、説文作レ 、云二脩飯一也、饙餴並或 也、字書云、一蒸米、〉
p.0366 饙分也、衆粒各自分也、
p.0366 泂酌二彼行潦一、挹レ彼注茲、可二以餴饎一、傳、〈○中略〉饙餾也、饎酒食也、箋〈(中略)餴甫云反、又作レ饙、字書云、一蒸米也、饎尺志反、(中略)餾力又反、又音留、爾雅一、饙餾飪也一、孫炎云、蒸レ之曰レ餴、均レ之曰レ餾郭云、餴熟爲レ餾一、○中略〉疏〈(中略)正義曰、釋言云、饋餾稔也、孫炎曰、蒸レ之曰レ饙、匀レ之曰レ餾、郭璞曰、今呼レ 者、脩飯爲レ饙饙均熟爲レ餾、説文云、饙一蒸米也、餾飯氣流也、然則蒸米謂二之饙一、饙必餾而熟レ之、故言レ饙、餾非レ訓、饙爲レ饎、饎酒食釋訓之、〇下略〉
p.0366 片炊の義にて、強飯よりも格別に強きをいへるなるべし、
p.0366 飯イヒ 倭名鈔、四聲字苑を引て、 飯は半熟〈ノ〉飯也、漢語抄にカタカシキノイヒといふ、〈(中略)此間の俗に、凡〈ソ〉物の雙なるをモロといひ、隻なるをカタといふ、カタとは、猶半といふがごとし、半熟〈ノ〉飯をカタカシキといふは、其義なるべし、〉
p.0366 かたかしぎのいひ 倭名抄に 饙をよめり、半熟飯也と注せり、 或は に作るもおなじ、
p.0366 和名抄釋義〈飮食部〉に 飯片炊飯云々、按に説文に、饙一蒸米也云々、劉熙が釋名に、饙分也、衆粒各自分也云々、爾雅に饙餾稔也、郭璞が注に、今呼二 飯一爲レ饙、饙熟爲レ餾、疏に稔熟也云々などあるにても、 饙は片炊の飯なることしるべし、これに水を沃て再蒸たるが諸炊(モロカシキ)にて、常の強飯也、本草綱目〈二十五の卷造釀類部〉には、寒食飯、饙飯也とあり、その寒(ヒエ)たるまゝにて食ゆゑに寒食といへりと見ゆ、
p.0366 糄〈音篇ヒメ〉 糄 〈褊索二音ヒメ〉
p.0366 糄 唐韻云、糄 〈褊索二音、和名比女、或説云、非レ米非レ粥之義也、〉
p.0366 昌平本褊作レ扁、下總本作レ偏、按音扁與二廣韻一合、在二上聲二十七銑一、褊在二二十八獮一、偏在二平聲二仙及去聲三十三線一、則作レ扁爲レ是、昌平本下總本有二和名二字一、按比女、〈○中略〉又今假名暦日、正月有二比女始一、蓋謂二年始食一レ之也、又俗有二比米粘一、以レ此爲レ粘也、紀親宗曰、比女今俗平常所レ食之飯是類也、愚按、比女若是今俗平常所レ食之飯之類、則當レ在二飯餅類一、而源君收一之水漿類一、又引下訓二煮米 多水者一字上充レ之、紀氏説恐不レ然、又按比女名義未レ詳、非米非粥之説、似レ不レ可二據信一、〈○中略〉廣韻云、糄、燒レ稻作レ米、又云、 煮レ米多レ水、是糄與レ 其義不レ同、此二字連文恐誤、
p.0367 糄 〈ヒメ煮レ米多レ水者也〉
p.0367 糄 (ヒメ)〈非レ粥之義也〉
p.0367 糄 (ヒメノリ)〈順和名〉 絹粥(同)
p.0367 ひめ 倭名抄に糄 をよめり、非米の音なりといへり、うつぼ物語に、こうじにたりとて、御ひめしてまゐると見ゆ、水飯也ともいへり、枕草紙に、みぞひめのぬれたると書り今俗ひめのり(○○○○)などいへり、三寶字類抄に絹粥をのりとよめる是也、
p.0367 ひめはじめ 倭名抄に、糄 ひめと訓ぜり、注に非レ米非レ粥之義也と見ゆ、集韻云、糄者米也、類篇云、煮レ米爲レ 、廣韻云、煮米多レ水也、なほひめの下に見えたり、饌差類考曰糄 は即平生所レ食の飯の類也、古へたゞ飯と稱するものは、今の強飯是也、又暦家にひめはじめといふ事あり、是ひめを供しはじめし也、
p.0367 糄 ひめ 比女は常の飯なり、又案るに、比女の名、古へに聞えしは、淸少納言が枕草子に見えたり、また和名抄に糄 の文字を出しぬ、〈○中略〉とりところなき物、みぞひめのぬれたる、〈○中略〉みぞひめといふは、御衣糄 の文字なるべし、今も世にひめのりといふは、姫糊の意にて、ひめはやわらかなるのたとへなり、古へも物にひめといふ名有は、みな男雄に對へしものなり、〈○中略〉強飯に對て弱飯なれば、姫とはいへる也、
p.0367 〈類篇煮レ米爲レ 食經作レ 法、取二蒸米一升一置二沸湯一、勿レ令二過熱一出著二新籮(シタミ)内一、是此間の汲漉飯ならん、〉 海人藻芥曰、公家御膳、飯者強食也、執柄家等如レ此、姫飯全分略儀也、〈○中略〉この姫飯今常の飯にて、 強飯は烝飯の事ぞ〈万葉集、貧窮問答の歌に、甑には蜘窠布て、飯炊〈ク〉ことも忘れてとあるを考へ、むかしは上下共に蒸飯なるを知らる、〉又資兼王日記曰、明應十年正月一日、諸社遙拜之後、三獻有レ之、次御コハ、次比目始、この比米始は、今の暦に告朔の意を遣せり、〈食は人命の天なれば、歳首に其始を愼は古の禮なるべし、世俗歳旦は芋子羹を茹を式とすれど、資兼王記に據ば、姫飯も強飯と同く元日に食初ること、いにしへの格なるべし(中略)又枕册子に、衣(ミゾ)ひめの濡たるいみじうわろきと云ひめは、澣衣には、飯の糊せる者なればかく云にや、或は是を今南都の俗、茗粥(ヤジウ)揚茶(アゲチャ)などいへる粥の事にて、昔の飯は皆粥なるにやと云は甚非也、漢人の食こそ饔飧(アサコフ)に粥をば るなれ、凡そ常の飯を煮には、其沸騰とき磁碗に水を盛りて鼎の蓋の上に居、竈の薪を去ば、飯能熟のみならず、薪を省けり、又山野などにて飯炊べき器なき時は、竹筒に精米を六七分、水を十分入、口に栓さし、筒を火の上にあてゝ旋々あぶれば、筒の中に飯にえるものなり、〉
p.0368 公家御膳飯者強飯也、執柄家等如レ此、姫ノ飯全分略ノ儀也、但人々ノ依二好惡一用レ之、強飯ノ時、湯飯湯也、而近代姫ノ飯ノ時、ヲモユ參ラセヨト召、不レ叶レ理者哉、
p.0368 〈三〉一貴賤饗應事 公卿ノ饗ハ、高坏例飯ヲフクラカニ盛テ、神妙菜居廻シテ、一本ニハ箸ノ臺可レ有レ之、汁一本〈菜六種、若八種可レ居、〉折敷一枚、汁又一種ヲモ居テ、其上比目(○○)一坏ヲ可二居加一之、
p.0368 御膳 院御方〈○中略〉 日貢〈御臺〉 居二供御一、〈○中略〉御飯、 進物所内膳、同給二料米一、〈○中略〉御飯〈比目(○○)〉 給料米爲二刀自沙汰一供レ之云々、
p.0368 めし 燒乾の法(○○○○)あり、湯取食の法(○○○○○)あり、二度食の法(○○○○○)あり、
p.0368 飯〈訓二伊比一、或稱二米之一、〉 集解、此用二精米一、水中洗淨而煮レ釜者飯也、或用二食字一訓二米之一、近代煮レ飯有二二法一、一法先盛二米于釜中一、初入レ水稍多、既熟取出、投二淘籮一而漉二去湯汁一、蓋レ籮自蒸二其氣一、此謂二湯取一(○○)、其汁稱二煮拔一、或曰二於禰波一(オ子バ)、一法初入レ水稍少不レ取二湯汁一、炊乾飯熟此謂二燒乾一(○○)、其湯取食者味薄而軟、故衰老久痾脾胃柔弱之人可レ用レ之、燒乾食者味厚而強、故壯實之人可レ用レ之近頃用二湯取食一、復再煮熟、呼稱二二度食一(○○○)、以用二久痾胃弱之人一、此米之性 氣盡似レ用二湯汁之滓一、何有下補二脾胃一之理上哉、惟不レ知二湯取燒乾之宜一爾、
p.0369 粳飯(ウルシイヒ) 凡炊二稻飯一有二三法一、タキボシ飯、湯取飯、二度飯ナリ、タキボシ(○○○○)ハ、白米ヲ能洗テイカキニアゲ置キ、薪多クタキ、釜ニ熱湯ヲワカシテ米ヲ入、フタヲシテ、一沸シテ薪ヲ減ジ、火ヲヤワラカニタキ、能熟シタル時、フタヲ開ク、イマダ熟セザル内ニフタヲヒラク事ナカレ、水ノ分量ハ米ノ多少ニヨラズ、釜ノ中ニテ、米ノ上ニ水一寸アガルホドナルベシ、又一説ニ凡米一斗ニ水一斗二升ヲ用ユ、初火ヲ盛ニ多クタキ、後ハ薪ヲ去モヨシ、初二三度ノ間、飯ノ熟スルカゲンヲシラズシテ、タキソコナフ事アリ、此法米ノ多少ニヨラズ、炊キ習ヒテ後ハアヤマリナシ、タキボシハ脾胃壯實ノ人ニ宜シ、又或曰、陣中ナドニテ飯ノ早熟セン事ヲ欲セバ、飯ナベノ下ヲ水ニツクレバ、早ク熟ス、湯トリ飯(○○○○)、朝ノ飯ハ白米ヲ前夜ヨリ水ニヒタシ置テ、明朝釜ニ水多ク入テ火ヲタキ、沸トキ米ヲ入、半過熟シタル時、杓ニテクミテイカキニアゲ、水ヲシキリニカケテ、子バリナキホドニヨク洗ヒ、蒸籠ニカケテ能ムスベシ、又ナベニ入テ、下ニ炭火ヲ置テムスモアリ、コレハ飯ノリノ如クニナリ、子バリテアシヽ、セイロウニテムスガヨシ、晩ノ飯ハ、朝飯過ヨリ米ヲ水ニヒタシ置ベシ、湯取メシハ脾胃虚ノ人積滯アル人ニ宜シ、壯人ニハ宜シカラズ、二度飯(○○○)亦二法アリ、一法ハタキボシノ冷飯ヲ用ユ、先鍋ニ湯ヲワカシ、タギル時ニ飯ヲ入、ヤガテ飯ヲ鍋ニ置ナガラ、其湯ヲナベノ口ヨリ悉クシタミ去テ、フタヲ掩ヒ、薪ヲ去、火ヲ少モヤシ、ヤガテ熟ス、或ハ炭火ニテ熟ス、此法飯ヨク熟シ、ヤハラカニシテ子バラズ、イクタビニテモシソンゼズ、アタヽカナル飯ヲフタヽビ飯ニスルモ此法也、但冷飯ノヨキニハシカズ、朝ニ晩ノ飯ヲ一度ニタキテ、晩ハ冷飯ヲ如レ此シテヨシ、常ニ冷飯ヲアタヽムルモ此法ヨシ、此法モ湯トリメシト同ク、脾胃虚ノ人、積滯アル人ニ宜シ、又一法、湯取飯ヲ用、蒸籠ニテムス、ユトリ飯ヲナベニテ二度アタヽムレバ、糊ノ如ニナリテアシヽ、餴 音分、是フタヽビイヒナリ、朱子詩傳曰、蒸レ米一熟、以レ水沃、乃再蒸也、
p.0370 焚干飯(たきぼし) 世普知事は不レ註、飯ヲ仕入ル水ニ、昆布だし三分一加れば、極上の飯になる、又一升ノ飯に酒にても醬油にても、盃に一盃加るもよし、飯焚損じたる時、一升の飯ならば酒一盞を灌、火をほそく燒、熟(うまし)置べし、
p.0370 燒飯 煮飯謂二之燒飯一、〈戒菴漫筆曰、煮飯何二如煮粥強一、好同二兒女一熟商量、一升可レ作二二升用一、兩日堪レ爲二六日糧一、有レ客只須レ添二水火一、無レ錢不三必問二羮湯一、莫レ言淡薄少二滋味一、淡薄之中滋味長、右煮粥詩、傳家寶曰、煮飯法、將二早晨粥内一、搭二起乾的一、俟二午餐一、用レ甑蒸透食、最養レ人、又曰、煮飯全要二火候一、不レ可二急煮一、先將レ米用レ水淘淨酥透、燒レ水開二下米一、再燒滾用レ鏟龢匀播轉、停多時、將レ飯用レ鏟覆下、又略燒一把、則上下熟透、凡覆レ飯時、用二鍋鏟一先用レ水濕、則不レ粘レ飯、〉即今家常飯是也、〈暖妹由筆曰、家常飯、今人常言レ之、侯鯖録云、范堯夫丞相、嘗敎二子弟一云、文正公有レ言、常調官好レ做、家常飯好レ喫、〉東京夢華録、有二生熟燒飯一、歴代小史引二遼志一曰、以レ盆焚食、謂二之燒飯一、李杲脾胃論曰、用一荷葉一裹二燒飯一爲レ丸、韓 醫通、枳朮丸燒飯法曰、易水張氏製二此方一、東垣晩年始悟レ用二荷葉中虚之義一、詎意東南人不レ識二北方炊飯無一レ甑、類(ムネ)呼爲レ燒、遂訛以二荷葉一包レ飯、入二灰火一燒煨、雖二丹溪一亦未二之辨一、古詩云、甑中有レ醋堪二燒菜一是也、又謂二之轑飯一、陸游詩、鬴中有二轑飯一、一飽吾何求、註曰、呉人謂二飯不レ炊者一爲二轑飯一、轑音勞、
p.0370 餴(ユトリメシ/フタヽビメシ)〈詩大雅可二以餴饎一、字彙云、餴音分、烝レ米一熟而以レ水沃レ之、乃再熟也、又作レ饙、〉
p.0370 飯 餴〈音分(ユトリメシ)、饙同、〉字彙云、餴烝レ米一熟而以レ水沃レ之、乃再烝者、今云湯取飯是矣、性柔而不レ粘、虚弱人用レ之佳、
p.0370 弱飯并二飯 諸食禁好集に、〈○中略〉二飯あり、二飯は二度炊たる飯にや、和名抄に、 饙、半熟飯也、漢語抄云、加太加之木乃以比とあるは、片炊の飯なれば、これに對て再炊の飯を二飯といへりと見ゆ、モロカシキノイヒともいふべき物也、
p.0371 湯取飯 かし米一升に水二升ノ餘、大かた飪なる時、湯を去り、又釜ニ入、細く焚むす、又 (かし)いかきに入、熱湯ノ釜ニ入、烹たる時上蒸
p.0371 餴飯(ふたゝびめし) 如レ常飯に焚、あつゆにてあらひ、又釜に入、蒸す、
p.0371 二たび飯〈酒ふらすニも蒸也〉 一飯常nanすこしこわく焚上て、酒少くふりて蒸なり、米は極上白を撰なり、
p.0371 諸飯〈湯泡飯〉 候二湯已沸一、投レ米煮レ之、謂二之湯泡飯一(○○○)、〈此云二愈多底飯一〉並見二山家淸供一、
p.0371 温飯〈兩餾飯(○○○)〉 〈爛飯〉 〈檗〉 朝野僉載曰、山東人謂二温飯一爲レ飧、温燖也、如二温故之温一、言三再蒸二宿飯一也(○○○○○○)、六韜曰、堯王二天下一、滋味重累弗レ食、温飯煖羹、不レ酸不レ餒不レ易、又本草綱目、〈石膏附方〉有二兩餾飯一、爾雅註曰、饙熟爲レ餾、北堂書鈔引二韻學集成一曰、 音流、 粥亦作レ 、 宜二與レ餾通一、兩餾飯即再蒸二餾飯一令二軟熟一也、又過熟者曰二 飯一、半腥半熟者曰レ檗、爾雅釋器曰、搏者謂二之 一、〈音爛〉註曰、飯相著、疏曰、飯搏相著者名レ 、李巡云、 飯淖糜相著也〈欗或省作二 一、〉 飯即爛飯也、韓愈詩、匙抄二爛飯一穩送レ之、合口軟嚼如二牛呞一、又爾雅曰、米者謂二之糪一、〈音栢〉註曰、飯中有レ腥、疏曰、飯中有二腥米一者名レra_ins027153"/>、李巡曰、米飯半腥半熟名レ檗即論語云、失レ飪不レ食、〈ra_ins027153"/>或作レ 、腥米生米也、〉
p.0371 孫佺爲二幽州都督一、五月北征時、軍師李處郁諌、〈○中略〉其孫佺之北也、處郁曰、飧若入レ咽、百無二一全一、山東人謂二温飯一(○○)爲レ飧、〈音孫〉幽州以北並爲二燕地一故云、
p.0371 四年三月己酉、詔曰、〈○中略〉是日始之、黼衣鞋屨不二弊盡一不二更爲一也、温飯(オホモノ/○○)煖羹不二酸餧一不レ易也、
p.0372 一大僧正御房〈定了〉法務御主饗膳事〈○中略〉 客料饗〈順覺沙汰〉 下部饗法式 飯長〈長一尺七寸口一尺二寸〉 温飯〈可レ盛二七升一〉
p.0372 飯 すいはん〈水つけの飯也、夏のくいもの也、源氏、たやすのみもとはやくなれにけりみづからけこのそなへをぞする〉
p.0372 士大夫筵饌、率以二䬪飩一或在二水飯(○○)之前一、予近預二河中府蒲左丞一會、初坐即食二飩一、予驚問レ之、蒲笑曰、世謂二飩一爲二頭食一、宜レ在二群品之先一、
p.0372 すいはん 水飯なり、源氏榮花などに見ゆ、今の世にもありて、ひめといふ物なりといへり、本草に飧飯を水飯なりといへり、
p.0372 水飯 水飯、古謂二之飧一、〈音孫、玉篇曰、水龢レ飯也、康熙字典曰、按説文、餐或从レ水作レ飡、後人譌省作レ飡、又餐與レ飧別、飧从レ夕、俗譌爲レ飧、孫奕示兒編、字音之譌、有二以一レ餐爲レ飧者一、謂二其讀レ餐爲一レ孫也、〉此方人飯後必進レ湯、謂二之飯湯一、亦飧之遺意耳、禮記玉藻曰、君未レ覆レ手不二敢飧一、又雜記曰、少施氏食レ我以レ禮、吾飧而作、註曰、禮、食竟更作二三飧一、以助レ飽、謂二以レ飮澆一レ飯也、釋名曰、飧散也、投二水于中一解散也、李時珍曰、飧即水飯也、東京夢華録曰、州橋夜市、當街水飯 肉乾脯、岳陽風土記曰、湖湘間、賓客燕集、供二魚淸羮一則衆皆退、如二中州之水飯一也、益軒先生以爲二今澆茶飯之類一、〈張耒詩、我茶非二世間一、天上蒼月團、爲レ爾惜不レ得、烹啜澆二晨餐一、〉然澆茶飯即今古奇觀所レ謂茶淘冷飯而非レ飧矣、作レ飧法、詳見二濟民要術一、
p.0372 天慶五年六月廿一日癸酉、今日依二主上御祈一、有レ被レ奉二東遊并走馬、〈左右十列、各五匹也、〉於祇園寺感神院一、以二右近權少將良岑朝臣義方一爲二勅使一、〈○中略〉但進發之時、内藏寮設レ饗、又於二感神院一者穀倉院設二水飯一、
p.0372 いとあつき日、ひんがしのつりどのにいで給てすゞみ給、〈○中略〉例の大殿のきん だち、中將の御あたり尋ねて參りたまへり、さう〴〵しくねぶたかりつるおり、よくものし給へるかなとて、おほみきまいり、ひみづめして、すいばんなどとり〴〵にさうどきつゝくふ、
p.0373 すいばん 〈河〉水飯、〈細〉今の世にもありて、ひめと云物也、〈哢〉干飯などの類、水つけ、〈○註略〉 〈孟〉ひめは飯をあつくして、冷水にてあらひて、冷汁にて食也、
p.0373 中將こゝにおはしたり、〈○中略〉あま君さうじぐちに木丁たてゝたいめんし給、〈○中略〉人々にすいばんなどやうの物くはせ、君にもはすのみなどやうのものいだしたれば、なれにしあたりにて、さやうのこともつゝみなきこゝちして、むら雨のふり出るにとゞめられて、物語しめやかにし給ふ、
p.0373 よろづの事よりもわびしげなる車に、〈○中略〉齋院のえんがにまいりたる殿上人、所の衆、辨、少納言など、〈○中略〉所々の御前どもにすいばんくはすとて、さじきのもとに馬ひきよするに、おぼえある人の子どもなどは、ざふしきなどおりて、馬のくちなどしておかし、さらぬものゝ見もいれられぬなどぞいとおしげなる、
p.0373 康平三年七月十七日癸卯、大饗料理次第、 納言以下、〈○中略〉次水飯〈湯漬代、立后大饗召レ之、〉
p.0373 三條中納言食二水飯一語第廿三 今昔、三條ノ中納言ト云ケル人有ケリ、名ヲバトゾ云ケル、三條ノ右大臣ト申ケル人ノ御子ナリ、身ノ才賢カリケレバ、唐ノ事モ、此ノ朝ノ事モ、皆吉ク知テ思量リ有リ、肝太クシテ押柄ニナム有ケル、亦笙ヲ吹ク事ナム極タル上手也ケル、亦身ノ德ナドモ有ケレバ、家ノ内モ豐ナリケリ、長高クシテ大リニ太テナム有リケレバ、太リノ責テ苦シキマデ肥タリケレバ、醫師和氣ノヲ呼テ、此ク極ク太ルヲバ何カセト爲ル、起居ナド爲ルガ、身ノ重クテ極ク苦シキ也ト宣ケレバ、ガ申ケル樣、冬ハ湯漬、夏ハ水漬ニシテ御飯ヲ可レ食キ也ト、其ノ時六月許ノ事ナレバ、中納言 ヲ、然ハ暫ク居タレ、水飯食テ見セムト宣ケレバ、宣フニ隨テ候ケルニ、中納言侍ヲ召セバ侍一人出來タリ、中納言例食ノ樣ニシテ、水飯持來ト宣ヘバ、侍立ヌ、暫許有テ、御臺行ヲ持參テ御前ニ居ヘツ、臺ニハ箸ノ臺許ヲ居エタリ、次ギテ侍盤ヲ捧テ持來ル、ノ侍臺ニ居ウルヲ見レバ、中ノ甕ニ白キ干瓜ノ三寸許ナル、不レ切ズシテ十許盛タリ、亦中ノ甕ニ鮨鮎ノ大キニ廣ラカナルヲ、尾頸許ヲ押テ卅許盛タリ、大キナル碗ヲ具シタリ、皆臺ニ取リ居エツ、亦一人大ナル銀ノ提ニ大キナル銀ノ匙ヲ立テ、重氣ニ持テ前ニ居タリ、而レバ中納言碗ヲ取テ、侍ニ給テ此レニ盛レト宣ヘバ、侍匙ニ飯ヲ救ツヽ、高ヤカニ盛上テ、nanニ水ヲ少モ入レテ奉タレバ、中納言臺ヲ引ヨセテ、鋺ヲ持上給タルニ、然許大キナル手ニ取給ヘルニ、大キナル鋺カナト見ユルニ、氣シクハ非ヌ程ナルベシ、先干瓜ヲ三切許ニ食切テ、三ツ許食ツ、次ニ鮨鮎ヲ二切許ニ食切テ、五ツ六ツ許安ラカニ食ツ、次ニ水飯ヲ引寄セテ二度許箸廻シ給フト見ル程ニ、飯失ヌレバ、亦盛レトテ鋺ヲ指遣リ給フ、其ノ時ニ、水飯ヲ役ト食トモ、此ノ定ニダニ食サバ、更ニ御太リ可二止ム一ベキニ非ズト云テ、逃テ去テ後ニ人ニ語テナム咲ケル、而レバ是ノ中納言、彌ヨ太リテ、相撲人ノ樣ニテゾ有リケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
p.0374 承久二年四月十六日、此日東宮〈○仲恭〉始聞二食魚味一、〈○中略〉次五獻、大夫敎家卿勸二盃相國一、瓶子殿上五位、次居二水飯一、不レ待二居畢一食レ之、
p.0374 嘉祿二年六月十日、予〈○藤原定家〉歸庵不レ食、無力之身入興忘二窮屈一、歸來之後、前後不覺、只水飯食之、辛苦、雞鳴也付レ寢、
p.0374 孝道朝臣わかかりける時、さして其病と云事なきに、なやみて日數を送りける、次第に大事に成て、飮食も不レ通して、存命あぶなく見へければ、妙音院殿〈○藤原師長〉大におどろかせ給て、かの病席におはしまして、所勞のやうくはしく御尋有ければ、孝道たすけをこされて申け るは、さして痛所も候はず、又くるしき事も候はず、いかにと候哉覽、物のたべられ候はで、日數つもり候ぬる間、無力にて氣よはく覺候也と申ければ、おとゞよく〳〵御覽じて、汝は實の病にてはなかりけり、さだすけが啄木をやむ也、其儀ならば に物くへ、さだすけには、やくそくしたれども、經信の流の啄木を敎へんずる也、それは汝うれへおもふべからず、我見ん前にて物くへ、見て心安く思はんとせめさせ給て、飯を水づけ(○○○)にして、すゝめさせ給に、かひ〳〵敷くいてけり、さればこそとて御心安なりてかへらせ給けり、
p.0375 世俗、先祖を祭るに、美味珍膳を用う、今按ずるに非なり、〈○中略〉伊勢の宮、朝夕の御膳供物、蒸飯、水四盛、御鹽、螺、熨斗、飯は三杵半のしらげ、酒は一夜酒、飯を水にひたし(○○○○○○○)たるものなり、諸物みな蒸して用ゆ、煮ることなし、〈○下略〉
p.0375 湯漬(ユヅケ)
p.0375 飧飯(ユヅケイヽ)〈餐飯、水飯並同、〉
p.0375 飯 飧飯 ミヅヽケメシ ユヅケメシ
p.0375 ゆづけ 飧食をいふ、源氏の水飯も同じといへり、侍中群要に、召二御湯漬一事と見ゆ、
p.0375 湯漬 ゆづけ 今思ふに、俗にも湯漬といふ、物語などにも多く見えたり、
p.0375 諸飯〈 飯(○○)〉 以レ飯漬二湯中一煮レ之曰二 飯一、淸波雜志曰、高宗詔二有司一、毀二棄螺塡椅卓等物一不レ可レ留、仍擧向自二相州渡二大河一、荒野中寒甚、燒レ柴借二半破甕盂一、温レ湯 飯、茅簷下與二汪野彦一同食、今不レ可レ忘、字典曰、 音泡、漬也、
p.0376 飧(ソン)飯 餐同、時珍云、飧音孫、即水飯也、主治熱食解レ渇除レ煩、 今案、飧飯ハ即ユツケ飯、水ツケ飯ナリ、白カユト訓ズルハ非ナルベシ、時珍所レ謂熱食スルハ、即ユツケ飯也、又冷食スルハ水ツケ飯ナリ、日本ニテスイハント云名ハ、古キコトバナリ、源氏物語、榮花物語ナド、古ノ和文ニモ見エタリ、飧飯、極暑ノ時、及熱渇ヲ患ル人食レ之無レ害、若無二此症一ハ、雖二無病之人一、不レ可二好食一、生二脾濕一、
p.0376 大饗事 九條 天暦七年、左大臣〈○藤原實賴〉家饗、〈○中略〉其太政大臣饗、猶用二樣器一、〈故實、新任饗、隨二時節寒暖一、設二湯漬水飯(○○○○)等一、不三必仰二録事一云々、而承平六年、羞レ飯仰二録事一、其後如レ之、〉
p.0376 御齋會竟日 僧等入レ自二月華門一、徘二徊射場殿邊一、三獻居二湯漬一、箸下居二薯蕷粥一、
p.0376 初參 宣旨下後、小舍人來告、即參入、於二腋陣一令二藏人奏一、〈立二橋西一〉藏人歸來、〈○註略〉仰二聞食由一、微音稱呼、〈近代不レ稱〉拜舞、〈○註略〉舞蹈欲レ畢之間、奏者歸入、於二立蔀邊一相待、隨二其後一入二於履脱一、脱レ履居二小壁下一、〈○註略〉藏人開レ簡著レ之〈封二後事一也〉頃之居二湯漬一(○○)、隨二先達氣色一食レ之、了置レ箸歸二著小壁下一、〈○下略〉
p.0376 御膳次召二御湯漬一事 陪膳召レ人、益供稱唯參入、〈鬼間障子戸邊候〉陪膳仰云、御湯漬者、益供到二御膳宿一召二水垸一、居二中盤一持參、陪膳分二取御飯一下給、益供持還、采女令レ調二備之一後、益供持參、陪膳取供レ之、
p.0376 供二御酒一事 〈家〉陪膳召レ人、藏人參入、仰云、御酒召、〈○中略〉 御湯漬隨二陪膳仰一、先居二土器於御盤一持參、陪膳取レ之、分二御飯一返二授藏人一、藏人持退令レ漬重供レ之、
p.0377 御膳 春宮御方 記云殿上大盤〈朝○中略〉 湯漬(○○)菜一種〈同前〉酢鹽箸〈自二廳給料物所一下部進レ之○中略〉已上主殿司請レ之、辨二備之一、〈○中略〉 精進物十種、汁一種、湯漬菜、〈以上刀自渡二進之一〉
p.0377 〈三〉亭主供膳事 同〈○綵色〉折敷五枚 一枚〈御酒盞〉 一枚〈御比目 御菜八種○中略〉 一枚〈御湯漬(○○○)御菜二種〉 已上盛二白土器一
p.0377 〈三〉一湯漬暑預粥隨二見在一事〈付供儀〉 湯漬暑預粥隨二見在一供之 若宮入御、二條大納言〈宗〉被レ計二申之一也、
p.0377 一關白如二子息一、於二院殿上一付レ簡時、納言院司著二殿上一行レ事、仍居二湯漬一事、六位役レ之、是嘉承例也、 一同人内裏若院ニテ居二湯漬一時、用二土器一、是近例也、然而甚見苦事也、敢以不可レ然事也、
p.0377 藏人だいばん所のすのこに高欄に手をかけて、おものまいると奏す、〈あるひはまいりぬ〉主上大床子につかせ給、大床子のはしにひざをかけて、のぼりてゐざりよりて、圓座にうるはしく御座ある也、はいぜん圓座の上にゐながら、あしをにがしてけいひつす、もとより出御あらば、陪膳えんざにておものを奏する也、うるはしくめすべきを、近代はよしばかり也、ゆづけをめす事あり、倍膳まいりて御はんをわけて、御ゆのきに入て出せば、藏人御湯づけもちてまいるなり、めしはてゝ御はしを飯にたてゝいらせ給、うるはしくめさずば、御さばをとりてあまがつに入てたてさせ給ふ、〈○下略〉
p.0377 式之御成の次第 一湯漬は慈昭院殿御時、御一獻ニテ御食參り候、然ば聞召醉候て、御食ニ御手のつかず、湯ニつけられてあがり候はんずる由被レ仰候つる、御相伴衆まで湯ニ漬られ參、是より湯漬世上ニ一段はやり候由一説也故ニ湯漬の御汁并御まはりまでこしらへ樣、供御ニ無二相違一由也、 一湯漬は引物なくて、膳數五ツ迄參候事本式也、本膳ニ御數七二〈ニ〉五三〈ニ〉三四〈ニ〉三五〈ニ〉三、以上廿一が本也、 一湯漬の時は、必さきへ盃出る、食ノ時は食過て盃出る、扨酒過て銚子取湯出る也、 一湯漬ノ時も必後ニ湯出べし、當世出ぬといふ沙汰有共、必出し候はで叶はぬ儀式也、
p.0378 一湯漬は、東山殿〈慈昭院義政公〉御酒に醉せられしにより、供御に湯をかけて參りしより始りし也、依レ之湯漬の時は、先盃を出して、扨湯漬を出すなり、〈○中略〉又湯づけ食ふには、先めしに湯をかけて食て、さいは一番に香の物よりくひ初る事、同記〈○酌并記〉に見えたり、ゆづけは右にある如く飯に替る事なし、膳を出して直に湯桶(ユタウ)を出すこと、常の飯には替りたり、今世上に湯漬と云は、さい數を少くするなり、本膳には汁を置かず、二の膳に汁をおいて出す、本膳、二の膳共にさい數は不レ定事也、
p.0378 一しきの湯づけと申は、七五三也、同集養の事、御ゆづけと一二三四五六七まで御膳參り候て、御湯あがり候御座にをく、なべて七ツめ迄參り候へば、恐惶の人には、八目まで參り候、平人は五ツ目まで參り候へば、恐惶の人には、六ツ目までまいり候、平人に三ツめまで參り候へば、恐惶の人には四ツ目までまいり候、とかく一膳多まいり候時は、御湯あがり候て、一と二ともめしをきこしめしたる時、一膳は後あがり候、 一湯漬の膳にむかい集養ある時は、上座のかたへ、我足の裏のかたをむけぬやうに、ひざをくむべし、さて座中を見合て、わんを取上ゲ、湯をば右の手にて、左の手をそへたるが能候、扨はしをば 右の手をうつむけてはしをとり、左の手をあおのけて取、右にて取直し候事、いんやうたるべく候、扨はし取たる手にて前鹽をちとくいそめ、わんを取あげ、湯漬をくふて、こんどははしさきにて前鹽をくふ、又わんをとり、湯漬をくふて手ごしのさいをくふ、又湯漬をくふて、さいごしのさいをくふて、はしをとりなをし、二ツめの手本の汁をくふ、又湯漬をくふて、うんのさいをくひ、はし取なをし、三ツめの手本の汁のみをくふ、又ゆづけをくふて、めいのさいをくふ、又はしを取なをし、二ツめの右の方の汁をくふ、其後いかだをあつかい候て、いかだをばくはずして、ゆづけをくふて、さていかだをすしほにつけてくふて、はしを取直し、三ツ目のひだりの方の汁をくふ、いかだのあつかいやうにあり、又湯漬をくふて二ツめの中に有にくのふたを、はしとりなをし取て、にくのからの上に置にくの上をくふて、四ツめのしるを給候、 一湯漬の時は、ゆづけをくひ、さいをくふて汁にうつる、〈○中略〉そうじて汁にしるをそへ、さいにさいをそへざる事、定りたる法なり、〈○中略〉 一御湯漬の時、御酒あがり、御酒のあいだにうづらの扱あり、かつて御ゆづけの内にたべ候事あるまじく候、
p.0379 湯漬之事 ゆづけ品々ありて、故實むづかしきよしに候、先大樣は食を湯にてあらい、椀にもり出す也、扨箸を取、中を少くつろげ、湯を七八分にうけ、下ニ置、喰べし菜は香物よりくひ初る也、汁はすはずして躬計をくふべし、再進をかへず、跡に湯を呑候時、はしをそへず、かうの物をくわず、ずいぶんはしのよごれざるやうにすべし、 兵庫湯漬之事 始のごとく湯をうけて喰べし、たとへば精進にても、膾などを喰ては、水にて箸をすゝぐなり、汁 のみは喰とも汁は吸べからず、菜は大かた精進物を本座にすゆべし、本座とは左中右の事也、當禮ははじめに湯漬にて出し、頓而めしつぎを出す事、是等の義は日を重るの振舞なり、〈○圖略〉 西國湯漬之事 西國湯漬は、飯の上を平かにして、胡桃の實にて食の上にすはまをつくる、其ふちに黑ごま、芥子をよくいりて置也、扨湯をけしのうかぬ程につぐ也、晝以前はけし、晝以後はごまの方に湯をつぐなり、〈○圖略〉 二はい湯漬之事 上戸は汁椀のを二箸のみ喰、下戸は湯を待て先食椀のを喰、其後汁椀のを喰てよろし、食椀へ再進出たり共、二杯ながら食はずは、うくる事あるべからず、
p.0380 一湯漬と云は、初より湯をいるゝなり、ひめと云は、二ぜん上て後湯をいるゝなり、
p.0380 一湯漬の時は、必先盃出る、めしの時は、めしはてゝ盃出る也、扨酒はてゝ銚子取り湯出る也、〈○註略〉 一湯漬の時も、必後に湯出べし、當世出ぬといふ沙汰あれども、必出し候はで不レ叶事也〈湯漬は、湯ニ付て喰事なれ共、又湯を後ニ出也、〉
p.0380 一湯漬の喰樣の事、先湯を請下に置、總を見合、座敷の衆湯を請わたして、扨箸を取て喰べし、めしをくひて、扨左の手先に香の物ある物也、先それをめしの口にくひ、それより後は、いづれのさいを喰ても不レ苦、汁を喰事老たる人は不レ苦、若き人おさなき人は、しるをすふ事わろし、汁のみを喰事不レ苦、扨さいしんをば、いかほども心のまゝに請べし、しやうとく湯漬にかぎりてくひはて候時は、殘さず皆くふこと本也、乍レ去それは年寄たる人の事也、若き人は殘しても苦しか るまじき也、
p.0381 一湯漬之事、七五三之御振舞之とき、前かど出申候、大あへまぜをかと候て可レ用候、また漬物、干物などもよく候、黑いかなどあらば、喰まじく候か、
p.0381 一湯漬は三箸食て湯を請る也、追膳などあらば、飯にかはりて可レ食、上二は不レ食、下一を食なり、
p.0381 一御湯漬參候而は、御湯頓而參候哉、同御湯漬のうへに御銚子不レ參哉の事、 御湯漬は二の御膳參候て、頓而御湯參候て可レ然候、御銚子は不レ參候、御ゆづけは獻の數ニは不レ入候間、御銚子は不レ參候、自然として御銚子參たる事も候が、しき〴〵の時は不レ參候、御湯參てあがり候、
p.0381 一ゆづけの時、何にても箸のよごれ候はぬやうにたしなみ、さいをまいる也、其故ニゆづけには汁なども、黑たれ味噌にて仕候、さいもぬたなどにてあへ候事ナシ、〈○中略〉 一湯漬のさいしんは何度もする也、しい參り候ても不レ苦候、めしのさいしんは二度ほど參る也、
p.0381 一湯漬の時、いかにも賞翫の御前へは、三〈ツ〉めにも汁貳〈ツ〉有レ之也、くらげの汁、さてはこいの汁など也、是は御成などの時如レ斯、七〈ツ〉め迄參らん時の次第也、〈○中略〉 一湯漬の時は、こと〴〵くきぐかわらけなり、食とあつめの汁はわんたるべし、その外は汁もさいも、みな〳〵かわらけにて候、〈○中略〉 一およそ湯漬は、七膳五膳といへども、此三膳〈○圖略〉の湯漬可レ然也、二膳は常に出ざるなり、其外は如何樣にもおりにしたがふべき也、いかさま湯漬には、かうの物なくてはかなわぬ事也、二膳のゆづけには、上の物を置ゆへに、かうの物をばおかず、此外には侍の腹切時、一膳湯漬と云て汁を すへず、おまわりには、かうの物を三切置なり、なすびのかうの物なり、みそ鹽一さいにもり合て置なり、〈○中略〉 一湯漬ども、かくの如く汁の物參候得者、湯をまいらせられ候はではかなわぬ也、汁のなき湯漬には、湯をば出すべからず、かうの物は粥にも、飯にも、湯漬にも、かならず〳〵まいるべきなり、けづり物も飯と湯漬には參候也、
p.0382 一湯漬の時は、先湯を請申時、箸にて卒度食を出し、くつろげて湯を七分程に請て能也、扨食を喰候て、左の手先のかうの物を喰なり、さて又食を給候て、中の合まぜを喰べし、そののちは可レ任レ心なり、〈○中略〉 一湯漬の時は、汁を吸事不レ可レ有候、總別汁のみをも細々喰事は無レ之候、年寄などは四五度迄はくるしからぬなり、 一同湯漬の時、總別箸のよごれぬ仕立可レ然なり、若あり共手を不レ付ものなり、 一總別本式時は、湯漬より外有間敷事なり、常の食は略儀なり、
p.0382 書女中通之事 一ゆづけの七五三、五々三まいる事、左手をつき、はしにてめしをくつろげて、そのうへに湯をうけまいるべし、汁のこばかり少まいりて、汁は吸給はぬものなり、さいはどれよりもかうの物をはじめにまいるものなり、これ御湯の七五三にさだまり申法也、されども湯づけよりまへに、香の物まいるべからず、つねは御湯の七五三、五々三なれども、しうげんの時は御はんを湯づけにせずして、御いわゐの大はんとて、御めしかさたかにもり申也、此時は御すはり給ふまでなり、然どもかいそへかさへわけあげ候はゞ、まいるもくるしからず、七五三、五々三のさい高もりにいだし申時は、何にてもまいるべき物なきゆへ、手鹽のかうのものばかりにて、御はしをおさめた まふべし、
p.0383 永觀三年〈○寛和元年〉正月廿八日癸酉、左大將遣レ取二湯漬於麗景殿一羞二公卿一、傳聞、去夜大納言又有二此事一、弘徽殿歟、連夜湯漬如何々々、 長元元年十一月廿三日癸丑、東大寺重進二愁文一、以二詮義一傳進不二相逢一、兩度愁文事、未レ被レ定之間、頻進二愁文一不レ可レ然、今日陣定計也、深更欲二湯漬一事、前日仰二左大史貞行宿禰一、而大外記賴隆并貞行等、依二觸穢一不レ可レ參二大臣手長一、以二大外記一令二奉仕一、大夫史奉仕之例未レ覺、何況不レ可レ參哉、仍可レ止二湯漬儲一由、仰二左大史親一〈○佐親〉了、
p.0383 まかなひせんや、ゆづけせよなどのたまへば、〈○中略〉かねのつきにしてゆづけして、あはせいときよげにて、とのにまいる、
p.0383 大殿もかやうの御あそびに心とゞめ給て、いそがしき御まつりごとどもをば、のがれ給なりけり、〈○中略〉御かはらけまいり給に、くらうなれば、おほとなぶら參り、御ゆづけ、くだ物など、たれも〳〵きこしめす、
p.0383 心づきなきもの いみじうゑひなどして、わりなく夜ふけてとまりたりとも、さらにゆづけだにくはせじ、心もなかりけりとてこずばさてなん、〈○下略〉
p.0383 やう〳〵日さしいづれば、わざとならずおかしきさまにて、くひものども里よりもてきてくふもあり、それにめをみやらずあふぎをつらぬき、たきものをおくもあり、つぼねのひと〴〵、あないみじや、けあげさせ給な、この日ごろ、物さはがしうおぼしめして、物もきこしめさず、けさだになほ御ゆづけにてもたゞすこしきこしめせ、さてそこらの御ぞどもはいかゞもたげさせたまはんずる、御覽ぜずやはありし、
p.0384 法成寺の五大堂供養、しはすには侍らずやな、きはめてさむかりしころ、百僧なりしかば、御堂のきたの廂にこそは、題名僧の座はせられたりしか、そのれうにその堂の庇はいれられたるなり、わざとの僧膳はせさせ給はで、ゆづけ計たぶ、行事二人に五十人づゝわかたせ給ひて、僧座せられたる、御堂の南おもてに、かなえをたてゝゆをたぎらかしつゝ、おものをいれていみじうあつくてまいらせわたしたるを、ぬるくこそはあらめと僧達思ひて、ざふ〳〵とまいりたるぞ、はしたなききはにあづかりければ、北風はいとつめたきに、さばかりにはあらで、いとよくまいりたる御房たちも、いまはさうしけり、後に北むきの座にて、いかにさむかりけんなど、とのゝとはせ給ひければ、しか〴〵候しかば、こよなくあたゝかにて、さむさもわすれ侍りきと申されければ、行事たちをいとよしとおぼしめしたりけり、ぬるくてまいりたりと、別の勘當などあるべきにはあらねど、殿をはじめたてまつりて、人にほめられ、ゆくすゑにもさこそありけれと、いはれたまはんは、たゞなるよりはあしからず、よき事ぞかし、
p.0384 天仁元年十一月廿三日己巳、晩頭參内、〈○中略〉次頭爲房朝臣勸盃、〈○註略〉盃酌互及二本末座一、次居二加湯漬一、〈攝政家儲レ之、長和寛治例也、〉
p.0384 保元三年正月四日乙丑、參二阿彌陀堂修正一、〈○中略〉御堂佛前供二壇供餅一、并燈明如レ例、先神分導師、次初夜導師行了、次居二湯漬、菓子一、〈(中略)湯漬如レ例、次右大臣殿御料、一同僧綱料、四位 綱朝臣爲二陪膳一、五位役レ之、中納言殿料、藏人五位直役也、次殿上人料、民部大夫等役也、〉
p.0384 天福元年十一月廿一日辛酉、依二病氣之煩一、不レ得レ已而今朝魚食、可レ耻可レ悲、依二大谷齋宮召一進レ車、〈敦通中將入道安居院宅〉未時許長者僧正參二賀茂一之次之由被レ過、羞二湯漬一、〈○下略〉
p.0384 一大名のもとへ客あり、振舞に湯漬出たり、其席へ又客あり、それにて膳をすゑたり、又客來あり、膳を出せとあれども、つひに出かぬる時、物まかなふ者をよび出し、何とて手間をいら ぬ事のおそきや、湯を得わかさぬかと、ばをぬかるゝ時、手をつかねて、湯は御ざるが、つけが御座ないと申たるにぞ、どつとわらいになりにける、
p.0385 一公家衆、江戸宿坊落著之時、〈○中略〉同下々ハ一汁三菜香物、供ニ晝計湯漬ケ出ス、
p.0385 正德六年四月廿九日、赤坂の邸内なる岡山といふ園亭にて弓を射ておはしましけるに、本城よりとみの事とて御使あり、三家のかた〴〵とく出仕あるべきとのことなれば、いそぎ湯漬の飯をめして、たゞちに本城にのぼらせ玉ひぬ、
p.0385 小漬 こづけ この小漬といへるは、湯漬飯の事なるべし、御湯漬まいるといふことは、物語などにもおほき事なり、今の俗にかりそめの飯を小漬飯(○○○)といふ、そのことに同じ、
p.0385 永正十八年三月四日、午時近邊若衆四五人令二同道一、行二本能寺〈下京法花堂〉寺中一令二歴覽一之、次行二理乘坊一有二小漬一、此後移二長老坊一同一盞、然後法談令二聽聞一、〈○下略〉
p.0385 永祿八年四月二日、結城山城同女房衆上洛也、則罷向、小づけ有レ之、彼地之申状、今日出之、中備へ渡遣也、
p.0385 慶長八年二月十九日、大坂諸禮下向、近衞殿〈○信尹〉可二同舟申一旨候間、申合先予ハ急越、人足紫竹四人、御所内二人、一人侍也、朱雀一人、鳥羽ヘ輿ニテ行、源藏人同心也、少納言同舟ヲ仕立、予一人ハ近衞殿御舟衆、源氏御法文字讀被レ遊、不審共申入、又連歌一折在レ之、酒小漬等在レ之、
p.0385 さるをこのほど三人のともがらよりあひて、をの〳〵心のひくにまかせてあらそふ、一人の男は造酒正糟屋朝臣長持とて、酒を飮ける大上戸なり、ひとりの僧は飯室律師好飯とて、小づけ(○○○)をこのむ最下戸なり、ひとりのをのこは中佐衞門大夫中原仲成とて、酒も小づけもこのむ中戸なり、
p.0386 此茂左衞門、藤堂家へ出ける子細は、前に與右衞門といひて、淺井家のあしがるにてありし、その小がしらは、茂助にて有しかば、ことのほか其みぎり、高虎貧にありし、間には朝のものをもたべざる事ありしに、茂助妻ことのほか不便がりて、茶づけなどたび〳〵ふるまひける、夫ゆゑ後までも茂助妻の恩をば、わすれぬとたか虎申され候よし、
p.0386 寢惚先生〈○太田覃〉ハ明和ノ頃ヨリ、名高ク世ニモテハヤサレシコト言ニ及バズ、〈○中略〉今茲癸未ノ四月三日、劇場ニソノ妾ヲ伴ヒユキタル折カラ、尾上菊五郞ト云ル役者、寢惚ガ安否ヲ問來レルニ、〈○中略〉コレヨリ夜歸リ常ノ如ク快語シテアリシニ、翌四日ハ氣宇常ナラズト云シガ又快ヨクヒラメト云魚ニテ茶漬飯ヲ食シ、即事ヲ口號シ、片紙ニ書ス、 醉生將夢死 七十五居諸 有レ酒市脯近 盤飧比目魚 是ヨリ越テ六日熟睡シテ起ズ、ソノ午時ニ奄然トシテ樂郊ニ歸セリト聞ク、コノ人一時狂詩歌ノ僊ナリ、
p.0386 (シルカケメシ)〈以レ羮澆レ飯也〉
p.0386 饡〈子旦切、以レ羮澆レ飯也、〉
p.0386 レ羹澆レ飯也〈此飯用二引伸之義一、謂以レ羮澆飯レ而食レ之也、考工記注曰、瓉讀 之 、 即 字也、玉篇曰、 者 之古文、然則本作レ 轉寫作レ 耳、内則注曰、狼臅膏臆中膏也、以二煎稻米一、則似二今膏 一矣、釋名曰、肺 也、以レ米糝レ之、如二膏 一也、以レ羮澆レ飯者、 之本義、膏 者、漢人所レ爲、〉从レ 贊聲、〈則幹切、十四部、〉
p.0386 〈膏 〉 説文曰、 以レ羮澆レ飯也、〈此云二汁加結飯一〉通雅曰、周禮玉人註、瓉、讀爲二 〈作旦反〉之 一、疏云、醢人有二 食一、漢時有二膏 一、按 即饘字、説文有レ 、以レ羮澆レ飯也、以二作旦之音一、則 當二是 一、今人以二食物一濡二湯汁或醬醋一曰レ 、熙按釋名曰、肺 、 也、以レ米糝レ之如二膏 一也、集韻曰、 古作レ 、禮記曰、狼臅膏與二稻米一爲レ酏、註曰、以二今膏 一、酏當レ作レ 、 釋文作レ 、 並與レ饘同、膏 俗謂二之雜炊一(ザウスイ)、
p.0387 説文曰、 以レ羮澆レ飯也、これ汁かけ飯なり、こゝにてむかし汁をば飯にかけてくひしなり、〈○中略〉悔艸に貴人よりはやく汁などかけず、湯をのむとも見合て、はしを下におくべしなどいへり、
p.0387 人の相伴する事 一人の相伴の事、貴人の前にて、めし又何にても相伴あらば、物のすはるまでは、ひざを立て可レ有、膳すはり候はゞ、ひざをくむべし、〈○中略〉飯又肴取おろして疊にをく不レ可レ然、先箸を取ながら、飯ならば汁をかけ、湯をのみ、箸ををくまで貴人を見合、貴人より先にてあるべからず、箸を取をく事も同前、 一人前にて飯くひ候やう、さま〴〵申候由候へ共、前に申ごとく貴人を見合てくひ候べし、〈○中略〉武家にては、必飯わんに汁をかけ候、汁をば本膳又二膳にても候へ折敷へ、分候べし、こわんに分候事なく候、出家は必ひやしるわんにつけて御參候、出家も在家も内々にては、何としても不レ苦候、
p.0387 一食の時よび出され、相伴に出候はゞ、めしのかさをとり、めしのわんの下に置、持出座敷になをし候て、食を二口三口ほど給てより、其まゝ汁をかけ候て交用申候、無二隔心一所にては、再進もたべ候事も有べし、其にも汁をばかけてたべ申候、
p.0387 一精進のめし、寺などにて食を折敷へわけず候、小汁椀にてもわけて、汁をかけよく候、よき程にて、さいしん請候時、其心得にてまいるべき程うけてまいるがよく候、〈○中略〉 一めしに汁かくる事 かきまぜずして、かたくつしニくらふべし、くいはつる時、白いゝを少殘して置なり、 一しきのめしの事 汁をかくるめしをばかさに入て、本のめしのさきに置也、先本のめしをくいて汁をかくる時、かさのめしにひや汁をかけてくふ也、ひや汁もくみ付にしてすはりて有をまへには、すう事有べからず、めしにかくるまでなり、
p.0388 飯に汁をかくる事 一本膳のさいを右の手にてのけて、扨食をわけて、しやうじんの汁をかけて、大汁ひや汁同前、但時の景物共にて、魚類共あらばそれをかけべし、賞翫の心歟、又汁をさいしん引間は、食をまいらずして、箸を取直し、汁のくる間待べし、
p.0388 一食に汁懸候事は、冷汁を懸候て能なり、但時宜によるべし、珍敷物などならば、本汁懸候ても不レ苦也、
p.0388 一飯汁にさいしん引事、汁をかけて後は引事無用也、乍レ去所望有ては格別也、
p.0388 一きやうのぜん、しるかけいゝなどまいり候、このとき、よめごと、とのご御いであひ候て、御とりかはしども候、しさいこれあり、
p.0388 汁をかくるに節之事 飯に汁をかけ候事は、上客を見合する也、上客早く參り仕廻給はゞ、各早く喰終るべし、貴人汁をかけ給ふを見て、皆々汁をかくる也、何れの汁にても賞翫の汁をかけ候べし、たとへば椀中を三分一程にくひへらして、片はしに汁を卒度かけ、少づゝ箸を以て汁にひたして喰べし、たくさんなる飯に上から汁をかけ、箸にて拌(かきま)ぜ、椀中をよごし、四五分ならではよごさゞる箸を一二寸もよごし、あまさへ飯粒なんどの付たるを、橫ぐわへにくわへて是をおとし、或ははしと箸とにてかすりおとしなどする體、誠に見苦し、小人などは汁をかけ給ふ事あしゝ、
p.0388 承久二年四月十六日、此日東宮〈○仲恭〉始聞二食魚味一、〈○中略〉次漬二御飯於御汁物一〈二箸〉奉レ含レ之、〈一箸、乍レ居レ盤供也、〉 儲君如レ形聞食之、〈上皇(後鳥羽)有二御氣色一〉次入御、
p.0389 古き侍の物語にいはく 北條氏康公の御まへにて、御嫡子氏政公、御食の御相伴をなさるゝ時、氏康公御覽ありて、御なみだをながし給ふ樣は、北條の家は、われ一だひにておわりぬるとの仰なり、氏政公は申に及ばず、家老衆までこと〴〵く興さめがほにならるゝ、其後氏康公のたまふは、たゞ今氏政が食物用ゆるをみるに、一飯に汁を兩度かけて(○○○○○○○○○○)食する也、およそ人間は、たかきも下きも、一日に兩度づゝの食なれば、是をたんれんせずといふ事なし、一飯に汁をかくるつもりをおぼえずして、たらざるとて、かさねてかくる事不器用也、朝夕なすわざをさへつもりならざる間、一皮うちにある人間の心底をつもり、人を目利せんことは、未來永劫なるまじきなり、〈○中略〉さてこそ北條の家は、われ一代にておはりぬると宣ふと也、
p.0389 食にしる先はかけぬと思ふべし上客かけば我もかけべし
p.0389 白飯(シロコメメシ)
p.0389 稻〈訓二伊禰一〉 集解、〈○中略〉本邦之俗、以二米飯一(○○)爲二食之先務一、肉菜酒醬爲二之助一、所二以不一レ敎三肉勝二於食之氣一乎、
p.0389 飯〈○中略〉 今三都ドモハ、皆各粳米ヲ釜中ニ炊ギ、更ニ他穀ヲ交ヘズ、鄙ハ米ノミノ飯ヲ食ス所モアレドモ、多クハ麥ヲ交ヘ食ス、粳一種ノ釜炊飯ヲ俗ニコメノメシ(○○○○○)、又シロメシ(○○○○)トモ云、赤飯ニ對ス言也、
p.0389 鑿米 唐韻云、鑿〈贓洛反、與レ作同、楊氏漢語抄云、鑿米、萬之良介乃與禰(○○○○○○○)、〉精細米也、 粺米 楊氏漢語抄云、粺米〈粺音傍卦反、去聲之輕、與レ把同、和名之良介與禰(○○○○○)、〉精米也、
p.0389 白米(ハクマイ)〈又云精米(シラゲ)〉
p.0390 憶二持法花經一者舌著二 髑髏中一不レ朽縁第一 諾樂宮御二宇大八洲國一之帝姫阿倍天皇御代、紀伊國牟婁郡熊野村有二永興禪師一、化二海邊之人一、時貴二其行一、故美二稱菩薩一、從二天皇城一有レ南、故號曰二南菩薩一、爾時有二一禪師一、來二於菩薩所一、〈○中略〉曰、今者罷退欲レ居レ山、踰二於伊勢國一、禪師聞レ之、糯干飯、舂篩(○○)二斗、以レ之施レ師、優婆塞二人副共遣使二見送一、
p.0390 卅五番 左 米賣 山陰や木の下やみのくろ米(○○○)の月出てこそしらげ(○○○)初けれ〈○中略〉 戀せじと神の御前にぬかつき(○○○○)てさんくの米の打はらふ哉
p.0390 同法印〈○泰覺〉が家のれい飯を、米の飯(○○○)にしたりければ、 人はみなこめをぞいゐにかしぐめるこのみかしきは飯をこめにす
p.0390 仁平二年十二月十二日壬申、御佛事第七日結願日也、〈○中略〉供二四面香花一、佛供、〈一面佛供八杯、白飯(○○)二杯居レ之、〉
p.0390 白米がな(○○○○)、ひめ(○○)にして、湯をものまばや、しな〳〵と、
p.0390 元德二年庚午正月廿二日、年會櫃西薗院ヨリ送、餅五枚、菓子、飯白半物、菜三種、酒云々、已上、
p.0390 脱粟飯(クロコメメシ)
p.0390 糲米 崔禹錫食經云、烏米(○○)一名糲米、〈糲音刺、和名比良之良介乃與禰(○○○○○○○○)〉烏米、謂下舂三一斛之糲一、成中八斗之米上也、
p.0390 公孫弘、菑川薛人也、〈○中略〉弘身食二一肉、脱粟飯一、〈師古曰、才脱レ粟而已、不二精鑿一也、〉
p.0390 光隆卿向二木曾許一附木曾院參頑事 猫間中納言光隆卿宣フベキ事有テ、木曾ガ許ヘ座シテ、先雜色シテ角ト云入ラレタリ、〈○中略〉暫物語シ給ヒテ、〈○中略〉何鹿田舍合子ノ大ニ尻高ク底深ニ、生塗ナルガ所々剥タルニ、毛立シタル飯ノ黑ク籾交ナリケルヲ堆盛テ、御菜三種ニ平茸ノ汁一ツ折敷ニ居テ、根井持來リテ、中納言ノ前ニ サシ居タリ、
p.0391 治世亂世の武士の事、〈○中略〉亂世の武士の義は、治世の武士とは大に違ひ、〈○中略〉その身軍陣に立候ては、鹽のかきたて汁をすゝり、黑米をそのまゝ飯にたきたるばかりを、給べならひ候を以て、世上無異安穩なるときの朝食とても、料理數奇食このみ仕る義もこれなく、〈○中略〉我等わかきころは、武家の下々には、杵のあたりたると申如くなる下白のもつそう飯に、糠味噌汁をそへて給させ申如く有レ之候は、右申戰場に出て、黑米飯(○○○)を鹽じるにて給べ候、仕くせ故の義なり、〈○下略〉
p.0391 淸正家中〈江〉被二申出一七ケ條 大身小身によらず侍共可二覺悟一條々 一平生傍輩つき合、客一人亭主一人之外咄申間敷候、食は黑飯(○○)たるべし、但武藝執行之時は、多人數可二出合一事、
p.0391 井伊掃部頭直孝入部仕置之事 家光公日光御參詣道中とよ、井伊少將は、別に椀飯を持せずして、黑米飯を其儘にして食し、供奉せられける、〈○下略〉
p.0391 〈俗音糅(チウ)、又女久反、カシキカテ、 〈正〉、 〈古〉〉 飯〈カシキカテ〉
p.0391 〈正〉 〈カシキカテ〉 〈俗〉
p.0391 飯 唐韻云、 〈女救反、字亦作レ 、和名加之木可天、〉雜飯也、
p.0391 玄應音義云、糅古文 二形同、〈○中略〉按加天是雜糅之義、萬葉集、醬酢爾汁都岐加天々是也、今俗猶有二加天々久和不留之語一、又今俗猶呼二 飯一爲二加天飯一、又訓レ糧爲二加天一者、加利天之省、加利天者、乾飯料之急呼、與レ此不レ同、〈○中略〉按説文、 雜飯也、孫氏蓋依レ之、
p.0392 飯〈カシキカテ亦作二租籾一、雜飯也、〉
p.0392 襍飯也、从レ 丑聲、〈女久切、三部、按米部曰レ 、襍飯也、此 篆蓋俗增、故非二其次一宜レ刪、〉
p.0392 襍飯也、〈食部曰、 襍飯也、廣韵曰、 亦作レ 、然則 一字、今之糅襍字也、〉从米丑聲、〈女久切、三部、〉
p.0392 飯イヒ カシキカテとは今も穀蔬の類をもて雜炊げるものゝあるこれ也、古俗凡〈ソ〉物の雜り加れる事をカテといふ也、されば雜の字亦讀でカテとはいふ、されど粮の字讀てカテといふ事もあれば、カシキカテといふ、別に其義もやあるらん、不レ詳、
p.0392 かしぎかて 倭名抄に 飯をよめり、雜飯也と注せり、俗にかんじきといふ是なるべし、今いふ雜炊の義也、
p.0392 飯(カシキカテ) 按に 飯は、今の赤飯などのごとく、黑豆、小豆、角豆、なにゝもあれ、合(カテ)て炊たるをいふ、和名抄釋義〈飮食部〉にも 飯炊合といへり、万葉集〈五の卷〉に、老爾氐(オヒニタ)阿留(ル)、我身上爾(ワガミノウヘニ)、病遠等(ヤマヒヲラ)、加氐々阿禮婆(カテヽアレバ)云々、〈○中略〉推古紀〈三年四月の條〉に、島人不レ知二沈水一、以交レ(カテヽ)レ薪燒二於竈一云々、文選蜀都賦〈左思三都賦の一〉に、雜以二蘊藻一、糅(カツルニ)以二蘋蘩一云々、〈○中略〉などあるにて、加天は合雜の義なること知べし、
p.0392 諸飯〈合飯(○○)〉 周禮膳夫職、凡王之饋食用二六穀一、鄭司農曰、六穀稌、黍、稷、粱、麥、苽、苽彫胡、〈宋玉諷賦、炊二彫胡之飯一、西京雜記曰、菰之有レ米者、長安人謂爲二彫胡一、又曰、會稽人顧翺、少失レ父、事レ母至孝、母好レ食二彫胡飯一、〉遵生八牋曰、凋菰即今胡穄也、 乾、礱洗造レ飯、香不レ可レ言、北堂書鈔引二漢舊儀一曰、齊則陳二九穀飯一、周禮、三農生二九穀一、鄭司農曰、稷秫麥稻麻大豆大小麥、鄭玄乃無二秫大麥一、而有二梁苽炙轂子曰、九穀、黍、稷、麻、麥、稻、粱、苽、大小豆、酉陽雜俎曰、九穀、黍、稷、稻、粱、三豆、二麥、蓋諸穀皆可二以爲一レ飯、今人亦爲二黍、粟、豆、麥之飯一、多配二之稻米一、不レ知古人亦然否、魏晉以來、橡、椹、棗、箕等飯、往々見二史乘一、大域後人率レ意製造、固無二定品一、凡今人所レ造赤豆、豇豆、芋、栗等飯、謂二之合飯一、
p.0393 麥飯(ムギイヒ)
p.0393 麥飯(バクハン/ムギメシ)
p.0393 (サク)〈ムギイヒ〉
p.0393 馮異字公孫、潁川父城人也、〈○中略〉光武、〈○中略〉及レ至二南宮一、〈○註略〉遇二大風雨一、光武引レ車入二道傍空舍一、異抱レ薪、鄧禹 火、〈○註略〉光武對レ竈燎レ衣、〈燎炙也〉異復進二麥飯一(○○)、
p.0393 飯 麥飯ハ、 沱飯ト云、
p.0393 隱趣 余家二天台萬山中一、茅屋可三以芘二風雨一、石田可三以具二饘粥一、〈○中略〉既歸二竹窻下一、則山妻稚子作二筍 一供二麥飯一、欣然一飽、
p.0393 餅、餌、麥飯、甘豆羹、〈○中略〉 麥飯、磨麥合レ皮而炊レ之也、〈○中略〉麥飯、豆羹、皆野人農夫之食耳、
p.0393 大麥〈訓二於保牟岐一○中略〉 集解、麥者農家之所二常食一、〈○中略〉舂レ之簸レ之、去二皮糠一、洗淨煮熟作レ飯、比二米飯一則軟弱少レ粘、喫レ之齒上有レ響、其味淡甘稍美、嗜レ之者常喫不レ厭、或合レ米爲レ飯、或作レ粥食、世俗所レ謂常食二麥飯一者、必肌肉乾瘦、終身不レ肥、此不レ然焉、農家爲二常糧一、身輕力健而平生無レ病、能保レ壽者多矣、
p.0393 麥飯 一上々麥一夜水に浸し置、一時程煮、ざるにあげ、水を一二へん掛、布ニ而しぼり置、扨米は貳時程水に浸し置、扨桶に入、たぎりたる湯をかけ置、ざるに揚、麥五合に貳合の割に交、喰時半時前に蒸に懸るなり、米は古河米の三年古ニ美濃米を交てよし、 一麥を一夜水に漬、焚時水多して湯で、能煮へたる時湯を去、麥壹升、米三合を交、水をひた〳〵にして焚なり、 同〈常に用る方〉 一麥一夜又(カシ水ニ漬テヨシ)は半日水ニ漬かし、夫nan釜へ水澤山にして麥を焚、煮上り候得ば、ふたふき程ふき上り候時、下火計り置、薪木引、半時餘むらし置、夫nanざるに揚、又桶ニ入、水ニ而度々流し、手のひらにてもみ、粘を去、流しざるに上ゲ置、かしたる米と交、ひた〳〵水ニて焚なり、尤割合は其人の好によるべし、
p.0394 麥飯焚やう 先搗たる精麥を水にてよく洗ひ、釜に水を程よくいれて焚べし、尤飯を焚ごとく大火にたくニおよばず、煮たる時分 (ざる)に打明、水をかけ手にてかき廻し、又水をかけてはかき廻し〳〵して、よくぬまりの取れるやう洗ひて、扨米を常飯の如き水加減にして、其上に右洗ひたる麥をいれよくならして焚べし、扨焚あげて木を引、燠も引て煙草三四ふくのむ間過て、たきつけやうのもの、鉇屑又杉の葉、藁樣のものをばつと燃べし、左すれば燒あげたる飯に (ねばり)氣なくして宜し、是麥飯の秘傳なり、又ざつとよまし、米とかきまぜ焚べし、又前日晝頃より麥を浸し置、翌朝米にかきまぜ焚ば大德用也、 又焚やう とろゝ汁、醬油、すましのかけ汁等にて食するには、右焚樣と同じく米の洗ひたると、焚たる麥の洗ひたるを釜にいれ、右焚樣より一倍も水を澤山入て焚、吹上りたる時、右釜の眞中に飯を押分、温飩蕎麥切をあたゝむる竹かごを押込ば、その籠の中に湯ばかり溜るを小杓をもてくみとり 盡し、籠を引とり、元の如く杓子にてならし、蓋をして細火にて焚あげ、暫むし置、飯櫃にうつすべし、 此吹あがりたる時、火は半分に減じたくべし、この湯を取盡したる時、薪はちろ〳〵に燃し、すぐに引盡し、燠ばかりにして暫くむし置也、又右のごとく湯はくみ取事なれば、常たく水かげんより倍入てよろし、扨箇樣ニして焚たる飯は、至てかろく少しもねばり氣なければ、かけ汁又はとろゝにて食するは妙々なり、
p.0395 飯 鄙デ麥ヲ交ユ、或ハ半粳半麥、或麥七分粳三分、其他分量不同也、又麥ニ全麥ト割麥ト二種アリ、臼ヲ以テ曳割タルヲヒキワリムギ、略テワリトモ云、全麥ヲ丸麥ト云、全麥ハ先ヅ麥ヲ炊ギ、而後米ト合セ、炊カザレバ、熟炊ナラズ、故ニ割麥ヲ以テ、粳米トトモニ、釜中ニ炊ギテ、一時ニ熟飯トナル、又三都ニテモ、往々麥飯ヲ用フルコトアリ、然レドモ食レ之ニ麥交食ノミヲ食スル者稀ニシテ、多クハ薯蕷ヲ摺リ、汁ヲ合セトロヽト云テ、麥飯ノ上ニ加レ之ヘ食ス、加レ之者又專ラアブリ靑海苔ヲ揉ミ粉トシテ加レ之、シカラザレバ鰹節ノ煮出シ汁ヲカケ食ス、煮出シ汁ニハ、紫海苔、大根卸シヲ加レ之、其他陳皮、胡菽等種々加レ之、〈○中略〉 又三都ハ節分ノ日等、恒例トシテ食レ之也、食レ之ニハトロヽ及ダシ汁ヲ用フ、或ハ當日及ビ平生モ素麥飯ヲ好ミ、或ハ養生ノ爲ニ、三都中ニモ食レ之人無キニハ非ズ、
p.0395 みつあしのだい、うらぐろのつき、しらしにむぎのおものまぜたり、
p.0395 妙音院入道殿〈○藤原師長〉仰らるべき事有て、孝道朝臣のわかゝりける時、けふたがはで祗候すべきよし仰ふくめられたりけるに、孝道仰を承ながらうせにけり、ひめもすあそびありきて、夕部に歸り參じたりければ、入道殿大きにいからせ給ひて、御勘發のあまりに、贄 殿の別當なりける侍を召て、麥飯に鰯あはせにて、只今調進すべきよし仰られければ、則參らせたりけるに、孝道にくはせられけり、日暮し遊びこうじて、物之ほしかりける時にて、かひ〴〵敷皆くいてげり、其時いよ〳〵しかり給ひて、三千三百三十三度の拜をせよと仰られければ、孝道本よりすぐよか成者にて侍うへに、只今物よくくいて力も有て、顏こえけるまゝに、いとやすやすとしはてにけり、其時入道殿、かしらがきをせさせ給ひて、やすからぬものかな、法師はしなばやと仰られたりける、上﨟しかりける御かん當なりかし、此飯菜をうとましき事に思召取たる事は、御遠行の時しろしめしたりけるとかや、さなくては、誠にいかでさる物あり共しろしめすべき、
p.0396 飯室律師好飯申樣 夏はすゞしくおぼえける、麥の御れう(○○○○○)もめづらしや、
p.0396 一源君〈○德川家康〉於二參河一毎歳夏中ハ麥飯タリ、近侍ノ人潛ニ白米ノ飯ヲ椀ノ底ニ入レ、上ニ麥飯少許ヲ蓋テ出シケレバ、源君御覽アリテ、汝等予ガ心ヲ不レ曉、以レ予吝ルト思ヘルカ、今戰國ノ時ニテ兵役動ヌ時ナシ、士卒煩擾ニシテ寢食ヲ安ゼズ、予獨何ゾ飽食ニ忍ンヤ、且我一身ノ奉養ヲ儉約ニシテ、以テ軍用ニ給セントス、百姓ヲ勞シテ自ラ豐ナル事ヲセジト仰ラレケレバ、聞ク者皆悦服セリ、
p.0396 大神君大濱の長田平左衞門宅〈江〉御著船の節、御料理の次第釣命のよし、今に永井家に毎年元朝の式となる、麥飯に大根を交、鹽いなだの汁、田作鱠、こんにやくの煮ものなり、右は永井家のものがたり也、〈續兵家茶話〉
p.0396 一客來〈ル〉に亭主出て、飯はあれども麥飯ぢやほどに、いやであらふずといふ、我は生得麥飯がすきぢや、麥飯ならば三里も行てくはふといふ、さらばとてふるまひけり、又有時件の 人來り、そちは麥飯がすきぢや程に、米のめしはあれども出さぬといふに、いや米の食(めし)ならば、五里もゆかふとて又くふた、
p.0397 手打そば、予が幼きころ母の唄ひて聞かせられし小歌の節、今おもへば難波十日夷の賣物の歌に擬したるものなり、唱歌は赤いもの盡、甘いもの盡、色々あり、うまいものにとりては、たうこうあんそばきり、西の宮太郞が麥飯(○○○○○○○○)、上林、みな同時行はれたる食ものどもなり、太郞は葛西太郞と稱せられぬ、中ごろすたれて、武藏屋權三のみ流行て、太郞は無かりしが、又近年再興したり、〈(中略)或人云、太郞はもと村中の番人にて、堤下に居て鯉魚を賣しが、頓てそれを煮て麥飯に添へてあきなへり、江戸にていふ番太郎これなり、〉
p.0397 むさしや權三は、初めは麥飯計を焚て喰せたりと云、我十五六の頃なり、麥計庵といふ計を斗の字と心得て、ばくけいあんとは云はず、ばくとあんと唱たるもをかし、其後年を追て繁榮し、今の姿になりても、ぶら挑灯の抱澤潟(おもだか)の脇に、麥斗の字を書たり、其後是もやめて、むさしや權三にて通りぬ、今も、秋葉より來る老人は、ばくと〳〵といへり、權三が家内のものは却てしらぬなるべし、 麥計の二字の書は、紀文の筆と申承及候、如何や承知仕たく候、今に傳へ有と承り候、權三にはなく他人の家に藏すと云々、
p.0397 黍〈訓二岐美一〉 集解、黍多二種類一、〈○中略〉稻黍者所レ用少而味亦不レ佳、農間作二飯粥一而食、〈○下略〉
p.0397 稷〈音即〉 〈今云二木微一〉 本綱、稷與レ黍一類二種也、〈○中略〉稷熟最早、作レ飯疎爽香美、爲二五穀之長一、〈○中略〉 按、稷、古者爲レ飯毎食、〈○下略〉
p.0397 庭火并平野竈神祭〈坐二内膳司一〉 神座十二前〈各六前〉 名香二兩、〈○中略〉黍稷飯各一斗二升、〈○下略〉
p.0398 凡籩實堅鹽五顆、〈○中略〉簋簠實稷飯用二米六合一、黍稻粱飯、各用二米七合一、 釋奠十一座 簋二〈稷飯、黍飯、〉簠二〈稻飯、粱飯、〉
p.0398 諸國釋奠式 簋四〈座別二、外方内圓謂二之簋一、其實黍飯、稷飯、〉 簠四〈座別二、外圓内方謂二之簠一、其實稻飯、粱飯、〉
p.0398 あはいひ 粟飯也、又脱粟飯といふは黑米飯をいふ、太平記に粟飯原の氏みゆ、
p.0398 粟飯焚樣 粟をよくつき〈○註略〉しらげて、飯焚前、あらひ にうちあげ、水をたらしおき、〈あはには石あるものなれば、をけのなかにてよくゆりて、いしをとるべし、石なければあらふにおよばず、〉扨、飯を水かげんするには、粟だけの水を餘分に入、焚てふきあがりたるとき、右粟を入、かきまぜることなく、入たる粟の高低をしやくしにてならし、はやくふたをし、〈此とき火は半分に減ず〉焚あげ、しばらくむらしてかきまぜ、飯櫃に移しとり食すべし、又あらふことなく、ふきあがる時、はやく米のうへに入、焚てもよろし、
p.0398 備後國風土記曰、疫隅國社、昔北海坐〈志〉武塔神、南海神之女子〈乎〉與波比〈爾〉坐〈爾〉、日暮彼所蘇民將來二人在〈伎〉、兄蘇民將來甚貧窮、弟將來富饒、屋倉一百在〈伎〉、爰塔神借二宿處一、惜而不レ借、兄蘇民將來借奉、即以二粟柄一爲レ座、以二粟飯等一饗奉、
p.0398 大塔宮熊野落事 大塔宮二品親王〈○護良〉ハ、〈○中略〉般若寺ヲ御出在テ、熊野ノ方ヘゾ落サセ給ケル、〈○中略〉路ノ程十三日ニ十津河ヘゾ著セ給ヒケル、宮ヲバトアル辻堂ノ内ニ奉レ置テ、御供ノ人々ハ在家ニ行テ、熊野參 詣ノ山伏共、道ニ迷テ來レル由ヲ云ケレバ、在家ノ者共哀ヲ垂テ、粟ノ飯(○○○)、橡ノ粥ナド取出シテ、其飢ヲ相助ク、宮ニモ此等ヲ進セテ二三日ハ過ケリ、
p.0399 飯室律師好飯申樣 粟の御料(○○○○)の色こきは、をみなへしにぞ似たりける、
p.0399 丹後名物粟蒸大根仕方〈これは、丹後與謝といふ所の神事には、このしなを出すなり、〉 一粟飯を焚とき、大根を五六分の輪切にして上ニをく也、此所濱邊なれば、魚類いろ〳〵あり、何魚にても潮煮にして、醬油は入れ申さず、右うをの煮汁をかけて喰す、風味一だん也、神事のせつ、神にそなへ、客に出す、此所に竹野大こんといふ名物あり、あまり太からず、長貳尺ほど有、是を一寸五分ほどに細きせんに切、粟飯の上に澤山にをく也、
p.0399 稗〈訓二比衣一〉 集解、稗、處々野生田生、〈○中略〉其名品亦多、作レ飯作レ粥、其味不レ佳、而民間作レ食、若合二稻粟之類一、而作二飯粥一則味稍佳、
p.0399 稗飯 一ひへを能水にひやして、米に交合焚なり、菜をしぼりて、色を付たるもよし、
p.0399 稗の飯 日蓮書録外一の卷、〈古寫本也、刊本とは順次おなじからず、〉南條殿御返事に、佛〈ノ〉御弟子阿那律尊者ト申セシ人ハ、ヲサナクシテノ御名ヲバ、如意ト申ハ、心ノオモヒノ寶ヲフラシヽユエ也、コノヨシヲ佛ニトヒマイラセ玉ヒシカバ、昔シウエタル世ニ縁覺ト申聖人ヲ、ヒエノ飯(○○○○)モテ供養シマイラセシユエト答ヘサセ玉フと云々、稗は和名抄に見え、山野の貧民稗飯、稗圑子、稗粥に造て食ふこと、今もしかなり、
p.0400 義〈○原義〉云、〈○中略〉予往年東遊の節、那須野殺生石一見せんとて、七里の廣原にかゝり、晝食の設なく、黑川といふところにて、ある農家に乞得て、稗飯を喰ひしことあり、思ふに今世にも遠鄕僻地には、かゝる品を常食とせるあれば、都下にて日々米飯をもて生を送ること、この上なき榮曜ならずや、
p.0400 蕎麥飯 一新そば皮を去たるを、粒の儘水に浸し置、湯煮して、ざるに揚、水をかけ洗、湯取の如くしたる米に交、こしきにて蒸上る也、蕎麥壹升に米壹升程見合べし、
p.0400 蕎麥飯 新そば、ひきぬきのよろしきを、むぎのかげんにえまして、よくあらひ、ざるに入て水をきりをき、扨めしをこわくほろ〳〵とするかげんにたき、みぎそばをまぜて、こしきにふてうますなり、度度手かけざれば、たきそんずる物なり、
p.0400 飯 集解〈○中略〉赤小豆(アヅキ)飯者、先用レ水煮二熟小豆一、取出合レ米、復煮作レ飯、或小豆煮熟後、用レ米入二小豆及煮汁中一、而煮作レ飯亦佳、
p.0400 飯豆〈白豆、俗云白小豆、〉 按白小豆(○○○)和レ米煮レ之早煮、不レ如二赤小豆難一レ熟、而味不レ劣、故名二飯豆一乎、
p.0400 小豆飯〈色付飯〉 一米壹升に小豆四合のしぶをとり、澀へ鹽少し加へ焚也、小豆を入候はゞ貳合分程殘してよし、
p.0400 小豆食 大納言といふあづきをもつて焚べし、さゝげ飯のごとくにしてもよし、煮汁を捨、まぜて白く焚 上たるもよし、
p.0401 天正十一年三月九日、本所ニ爲二祝義一赤小豆(○○○○)飯在レ之、
p.0401 南郭先生小豆飯好物にて、膳に向はれし所へ、金華來られ、何を食し給ふ、あづきめし也、足下の食の俗なる事と笑われしよし、予思ふに金華先生鬼の首を、てうちんの紋に付られしを、徂徠先生の見給ひて、金華が物ずきの俗なると笑はれしと也、尋常の人小豆めしを食し、鬼の首を畫して、うちんとぼしたればとて、俗中には目にも立まじけれども、雅人の俗を弄ばるゝは、却て雅のさたになるも、あぢなもの、
p.0401 赤飯(セキハン)
p.0401 赤飯(セキハン)〈小豆のコハメシ〉
p.0401 せきはん 眞詰に靑精石飯と見えたり、靑精は南天燭の事にて、黑飯草ともいふよし本草に見えたり、石飯に必南天燭〈ノ〉葉をしくは此義なるべし、
p.0401 (こはめし)〈音強、強食、和名古八伊比、赤飯、世木波牟、〉 按 硬食也、古今値二嘉祝日一造レ之、代レ餈猶二 レ醴代一レ酒、容易備二急用一也、凡糯米一斗、赤小豆三升、襍蒸レ之、則色帶レ紫俗呼曰二赤飯一、以二炒鹽黑胡麻少許一和糝食レ之、 一種有二白蒸者一、不レ和二赤小豆一、單糯蒸レ之、或蒸後加二入煮黑豆一者亦美麗也、並爲二佛供齋日之饋一、不レ爲二慶賀之用一也、猶下以レ餈爲二嘉祝一、以二牡丹餅一爲中齋供上矣、
p.0401 御膳 臨時供御〈内院宮儀〉 三月三日 御節供 赤御飯 御菜 御菓子八種 各居二御臺一 五月五日 赤飯 御菜 御菓子八種〈一種粽〉 九月九日 赤飯 御菜 御菓子八種 已上小預給料米備二進之一
p.0402 一赤飯といふは、あづきの添たるを云也、白きは強飯(コハイイ)也、右に箸を持、左手にて可レ喰、汁と菜とばかり箸にて挾み可レ喰なり、
p.0402 がうはんせきはんの事 がうはんとは、俗に云しらむしの事也、はしを取、右の手の指三ツにてはし持ながら喰也、燒鹽などあらば、箸にてくふべし、せきはんとは、小豆の入たる故に赤色なるを以て名付たり、喰樣右に同じ、
p.0402 精進肴拵之卷 一赤飯召遣候事は勿論候、犬笠懸等の時も用候、座敷などへは不レ出候、河原の者などには必々給させ候、是白き強飯の事也、 一赤飯は祝儀の時も用候、本々はつくね候て用候、鳥の子などゝ俗に申し候、 一強飯の事、狩又普請以下にも用候、是は常の儀ニ候、祝儀の時召遣候は、何をも不レ入候、又只の時は大豆など入候がよく候、大折に入候て、常に召遣候、
p.0402 一三月三日は赤飯なり、桃の花を酒に入候なり、〈○下略〉
p.0402 菊花邊赤飯者、九日之興味、〈○中略〉皆是一時一會之景物、當日當座之賞翫候之間、令レ略レ之候、
p.0402 飯室律師好飯申樣 桃李のえむのあか飯(○○○)は、花の色もやうつるらん、
p.0402 慶長四年九月六日、幽齋ヨリ紬一端來、宗齋栗白米、喜介女房ヨリ饅頭赤飯(○○)來、源五兵衞栗持來、
p.0403 寶暦十辰年三月 御目附〈江〉 明後廿八日、此度之爲二御祝儀一〈○繼二將軍職一〉右大將樣〈江○德川家治〉於二御本丸一御膳被レ進候ニ付、右大將樣御供之布衣以上、并御目見以上之分〈江〉御料理被レ下之、御目見以下〈江〉者赤飯(○○)御酒被レ下候間、被レ存二其趣一、前々右大將樣〈江〉御膳被レ進候節、御供之面々〈江〉御料理被レ下候時之通被二心得一、向々〈江〉相談、度々御給仕等差支無レ之樣可レ被レ到候、 三月廿六日
p.0403 一代女〈四〉泉州堺の處に、湊の藤見に大重箱に南天を敷て、赤飯山の樣にして行ます云々、昔よりおなじ事ながら、赤飯の辨當、今は繁華の地には稀なるべし、〈萩原隨筆に、京都にては吉事に白強飯を用ひ、凶事に赤飯を用る事、民間の習慣なり、江戸は上にて四月より八月迄白強飯、九月より三月迄、赤飯を御用なりとみゆと有り、〉
p.0403 赤飯は箸にて喰へよ陰物ぞ菊の節句や袴著のとき 強飯は楊枝持添摘みくへ挾みてくふは向ふ菜なり
p.0403 大豆飯 一大豆を煮て熱湯に漬置、和らかく成りたるを皮を去、米に交て焚なり、
p.0403 靑豆飯 一枝豆を湯煮して薄皮を去り、四ツ割に切、米に交、水かげんに鹽を加へ焚べし、
p.0403 碗豆飯 碗豆は五月時分ならば、生豆を用ふれども、時節おくれては、乾きたる豆なれば、二日ほど水にひたし置、水にてよく焚て、鹽を合せて飯を焚あげ、じや〳〵時分に入、しばらくむらして、かきまぜ食すべし、生の時は、米とかきまぜ、鹽を入、焚あげまぜて食する也、
p.0404 綠豆飯 一八重成三合、水澤山にして煮へたる時、米一升をかして入、加減して焚也、
p.0404 大角豆 集解、大角豆處々田園種レ之、〈○中略〉嫩時作レ茹、〈○中略〉或交レ飯煮食、此稱二角豆飯一(サヽゲメシ)、
p.0404 靑大角豆食(あをさゝけ/○○○○○) 靑さゝげ、木口切にこまかにして、鹽をくはへ焚なり、
p.0404 實さゝげ食 さゝげをつぶれぬやうに湯煮をして、ちやめしにまぜてたくがよし、煮汁にて焚、灰汁(あく)つよくしてよからず、
p.0404 刀豆(なたまめ)食 豆を水にひやし、皮をさりてたくべし、
p.0404 飯 集解、〈○中略〉凡飯有二數種一、菜飯者用二生蕪菁葉一細剉、合レ米煮作二燒乾飯一、其味甘美而香、能下レ氣寬レ胸、不レ使二食氣停滯一、又有下用二菁根一細剉和レ米作レ飯者上、此亦味甘而香、能下レ氣寬レ膈也、
p.0404 菜飯 如レ常飯を焚、器物にうつす時、菜の細なるを鹽もみニしてふりまぜ、暫熟(うま)しむ、 菜飯もどきは、わかめをあぶり、粉にして飯に振り交、暫熟しむ、外に鹽を不レ用、
p.0404 應永元年十二月十日壬子、御本所御内容夜ニ入、菜飯呼ニ參兩人參、
p.0404 田樂、かならず菜飯に添てくふは、寬永ころよりなるべし、懷子やく田樂に身もこがれつゝ、來ぬ人を待にござれば菜飯して、菜飯は似せもの語に、はらにあける菜飯はいつもく ひしかどけふの花見に似るこめもなし、むかしは花見遊山などには、菜飯をたきて持ゆけり、〈○中略〉土御門泰邦卿東行話説、目川にて時に群集して喰ける菜飯田樂、我もこのもしく云々、白き扇のたゝんでつまいとこがしたるやうなるをもて來る人の目川忍びて、そとくひて見たれば、思ひの外に味なくぞ有ける、當風にあはぬ大きなでんがくはむかしのなめし殘すため川、
p.0405 江府名物并近國近在土産 目川菜飯 淺草寺門前 仲町家々ニ在 東海道石部草津の間、目川村の名物をうつして家々に賣、此見世根元は、東海道に在、
p.0405 大根めしのしかた 一大こんをこま〴〵に切、くわし昆布をよくあらひ、釜の底へ二枚しき、其上へ大こんを入、洗(かし)よねを入て煮也、ふきあがりたる時に、火をほそめにして、ぢや〳〵どきに木を引く、あとの火にてうます也、こげるかざあらば、釜の蓋の上に鹽水をうつ也、
p.0405 大根食 平生の大こんめしの事なれども、めづらしく人をもてなさんとするときなどは、大根をさいに切て、山梔子のしるにて煮染をき、扨米をよくとぎて大根をおろして、しぼり汁を水等分にあわせて焚上、それより色付たる大こんをまぜあわすべし、食はすこし鹽をくわへてたくもよし、
p.0405 濃州名物干大根飯之仕方〈みの厚見郡のめいぶつにて、此ところより、干大こん多くいづるなり、〉 一これは冬至より大こんを干なり、春になりて、右大こんを小口切にして、煮湯へ入、すぐに蓋をして、扨また飯のふきあがりたる時、右ほし大こんをしぼり、飯のうへにをき、火を引て、をき火にてうましをくなり、汁は後藤豉(みそ)か、玉味そ汁にて、釜もりにして出す、ひなた薰(くさ)きが一だんの賞翫也、汁の實は昆布の上けづりそぼろ、おか入にする、此めしに此こんぶは、此汁に出合物なり、
p.0406 越前國大根飯 越前の國にて焚所の大根飯は、先大根を賽の目に切、鍋の底に敷、其上に洗ひたる米を入、水を仕かけ、其上に煮たる麥を入て鹽をも入、麥飯をたく通り焚あげ、かきまぜて食すべし、尤も大根を下に敷たる事なれば、こげ付事あり、焚あげたらば菜箸にて簀をつくべし、
p.0406 干葉食 冬大根の葉ずいぶん和らかきところを陰干にして置、扨飯に焚んとおもふとき、よくもみて莖をさりて、ざつと湯を通しひき上て、とぎたる米にまじえて、鹽をすこしくわへてたくなり、
p.0406 蕪飯 一大根めしの如くせんにして煮、飯の上に盛出すなり、
p.0406 肥前の船頭飯 味噌汁を濃(こく)たて、蕪を厚サ五六分に切り、〈大ならば、又二ツに切、小ならばそのまゝ、〉右汁に入、やはらかにつぶるゝ位に焚、扨飯は常のごとく焚て、右蕪を椀によそひ、其上に飯を少し盛てかきまぜ食すべし、別に菜のものなくて食することなれば、米すくなくいるのみならず、大ひに德用也、是を船頭飯といへる事は、肥前唐津邊の浦々の漁人、或は船子など焚て食するによりて、土人かくよべると見えたり、
p.0406 茄子食 生よき茄子を炭にてとくとやき、水に入て皮を去、細にさきて椀へもり、うへに飯をもりて出すべし、汁は薄醬にて、藥味胡椒の粉、其外見合て好物あるべし、
p.0406 唐茄子飯焚やう〈かみがたにてかぼちや、又なんきんと云、西國にては、ぼうぶらといふ、〉 唐なすをいつも煮染(にしめ)に用るより細かにきり、米と一所にいれ、常の水加減にて鹽をいれ、〈又醬油をいる〉 〈れば、猶よろし、〉たきあげ、杓子にてよくまぜ食してよろし、分量見合入てよし、米壹升の手まへにて三四合はとくぶんなり、
p.0407 芋飯 里いもの子ばかり、いかやうにもきざみて鹽をくわへて、湯煮をして、それより米にまぜてたき上べし、もつとも芋の鹽にて飯を持するゆへ、加減心得べし、
p.0407 里芋飯 米壹升に里芋壹升をよく洗ひ、大ならば二ツに切、小ならば其儘にて、米と一所にかきまぜ、鹽を程よく入て焚べし、尤も水加減は常の通り、扨焚あげ、暫くむし置て、杓子にてかきまぜ食してよし、
p.0407 慶長十七年正月五日、當院〈○神龍院〉例年之芋飯(○○)披官共ニ申付、
p.0407 薩摩芋飯〈金薯、紫芋、甘藷、かみがたにてりうきいも、西國にて唐(たう)いもといふ、 〉薯の腐りをよくさり、皮を去ず其儘、〈くさり多きは、皮をむくべし、〉いつも菜にたくより少し細く切、飯の吹あがる頃入て、鹽も程よくいれ、蓋をして焚あげ、暫くむし置、杓子にてかきまぜ食してよし、田家の此芋を作る所にては、此葉を取、きざみて日に干て、麥飯などの焚あげ頃うへに置、鹽を入、しばらくむしてかきまぜ食してよろし、米壹升に十六文分の芋をいれなば、四合のかはりはすべし、
p.0407 薯蕷飯 一薯蕷をあられに切、水にて晒し、米にまぜて焚也、
p.0407 根葱飯 ねぎ白根ばかり、ほそくせんにうちて、よくゆでこぼし、水をきりをき、兩めしをつねのごとくたき、ふき上るころに、右ねぎを上に置、ふたをしてむし上るなり、又一しゆ、白根こま〴〵にして、は じめより米にまぜてたく、
p.0408 葱めし 一ねぎの白根を細くさき、湯煮をして、長さ能程に切、蒸して、椀に飯を盛たる上ニ置、出す也、
p.0408 紫蘇飯 一しその葉を細かに刻み、能汁をしぼり燒、鹽を加へ置、菜飯の如く飯に交るなり、
p.0408 飯 集解〈○中略〉荷葉飯者、用二新荷葉一裹レ飯、蒸熟而食、
p.0408 こはいひ 蓮の強飯は、七月十四日に用ゐさせらるゝ事、内々行事に見ゆ、
p.0408 荷包飯 荷包飯、即荷葉燒飯、廣東新語曰、東完以二香粳一雜二魚肉諸味一、包二荷葉一蒸、表裏香透、名曰二荷包飯一、今此方人不レ用二魚肉雜味一、以二荷葉一包レ飯蒸レ之、名曰二荷飯一(ハスノメシ)、中元以レ此供二祖先一、即東京夢華録所レ謂荷包白飯也、
p.0408 蓮食 蓮のはをよく〳〵あらひて、米の上へ覆て蒸べし、食出來て後、また外のはすのはにうつして、しばらくつゝみ置べし、
p.0408 荷葉飯 東垣曰、張潔古枳朮丸用二荷葉一、裹二燒飯一爲レ丸ト、其餘ノ後人ノ書ニモ別ニ法アリ、正傳枳朮丸方後ニモ法アリ、荷葉乾者亦可ト云ヘリ、近法陳倉米ノ末ニ荷葉ヲ引サキテ加ヘ、ナベニ水ヲヨキホドニ入、米粉ト荷葉ヲ煮テ糊トシ、荷葉ノニエハナニ早ク火ヲ去リ、荷葉ヲ去テ、粉ノ稠稀ヨキホドニシテ藥ヲ和シ丸ス、此法荷葉ノ氣味全クシテ不レ散シテ最ヨシ、荷葉ヲ久シク煮過シタルハ、氣味全カラズアシヽ、茶ノニエバナヲ好トスルガ如クスベシ、
p.0409 十五日、供二御荷(ハスノ)御膳一、〈御厨子所小預高橋大隅等調進、其製以二荷葉一裹二糯米強飯一、以二觀音草一結レ之、又別御菜十種以二荷葉一裹レ之、以二觀音草一結レ之、各居二御盤一、同被レ進二于院中一、〉
p.0409 太平元年六月甲寅、少霽覇先將レ戰、調二人人一得二麥飯一、分給二軍士一、士皆飢疲、會三陳 饋二米三千斛、鴨千頭一、覇先命炊レ米煮レ鴨、人々以二荷葉一裹レ飯 以二鴨肉數臠一、〈 公渾、翻、以二鴨肉一蓋二飯上一、曰レ 、今江東人猶謂、以レ物蒙レ頭曰 、〉
p.0409 七月、蓮飯、〈(中略)此月十五日前、人家各以二荷葉一裹二糯米飯一、載二鯖魚於其上一、親戚之間、互相贈而祝レ之、是謂二荷飯一、〉
p.0409 七月十五日、今日を中元と云、國俗蓮葉飯を製して來客に饗し、親戚にをくる、〈按ずるに、事物起原にいはく、今世七月十五日、營二僧尼供一、謂二之盂盆齋一、本二目蓮事一、後代廣爲二華飾一、乃至三割レ木削レ竹極二工巧一也、今人第以レ竹爲二圓架一、加二其首一以二荷葉一、中貯二雜饌果食一、陳二目蓮救レ母畫像一祭二祀之一、失レ之遠矣とあれば、今の蓮葉飯はかゝる遺意にや、〉
p.0409 應永十二年七月十五日戊申、蓮葉飯事、子孫賞翫、珍重々々、
p.0409 十五日、〈○中略〉夕方の御いはひ御三間にて參ル、〈○中略〉 初獻〈はすのく供(○○○○○)〉次に二の御はん、次に御汁、〈とり〉次にてうし出、はいぜんの人はすの供御の緒をときて引ひろげ、又ちひさく包たる品々物の内、けふは御さうしんなれば、精進の物を一種、是も緒をといてひろげ、御箸をとらせ給ひて參る、
p.0409 栗飯 一中栗の小ぶりなるを、おに皮をむき、いり鍋にて煎、澀かわを取、米に交て常の如く焚也、
p.0409 九月九日、重陽と云、〈○中略〉今日栗子(くりいろ)飯を食ひ、菊花酒をのむ、〈もろこしにも栗子飯を食ふに似たる事侍り、歳時雜記に、二社重陽尚レ食レ糕、而重陽爲レ盛、大率以レ棗爲レ之、或加以レ栗、亦有二加レ肉者一といへり、〉
p.0409 栗飯 栗飯は、はやくよりしつる物とおぼし、うつぼ物語に、ちかうみれば火を山のごとくおこして、お ほいなるかなへたてゝ、くりを手ごとにやきて、かゆに煮させ云々、
p.0410 初茸飯 一初たけ、砂を能去、洗て鹽燒にして、中才形に切、飯ニ交て出す也、
p.0410 茶飯 一極上々の煎茶をせんじ出し、からを去、鹽を少し加へ、右にて上白米をふつくりと飯に焚、又茶を煎じたる釜へをきをかけ蒸申候、 白茶飯 一初、昔の上茶をざつと煎じ、水能にてこし、右の茶をしぼり、細かに刻、鹽を加へ、菜飯の如く飯ニ交る也、 鹽櫻茶飯 一茶に醬油、酒、鹽を入焚也、
p.0410 茶飯 ずいぶんよきせんじちや、ほどよくほうじ、こまかにもみて、めしのむれるまへにうへ〈江〉ふり、むれてのち、うすくまぜる、但しやきしほかげん入、〈○中略〉 又なみのちやを煮出し、常のごとくたくは、所レ謂ならちやなり、其時は豆をいりて割入る也、〈是本領也〉但しこれはよき茶にてはいろ付ず、なみのちやほうじたると、なまちやと等分にまぜて煮出し、滓をさりて酒としやう油かげんしてたけば、いろよく付て味もよし、
p.0410 茶飯 常の焚干食をさら〳〵とたきて、釜より少しづゝうつしながら、挽をむらなく茶ふるべし、あまり多きはあしゝ、汁はうすしやうゆ鹽梅あるべし
p.0411 めし 奈良茶食は、東大興福の兩寺より起るといへり、
p.0411 ならちや 大和奈良にてやじふと云、畿内にてならちやがゆと云、〈諸國にてならちやと稱するは、ならちやめし也、〉宇陀法師ニたしかなる夢を掃込む椽の下、といふ句に、 茗(やじふ)粥たく火の夜は明にけり、と李由が附たり、
p.0411 南都賦 あをによしならの都は御さふらひ三笠山の麓なり、〈○中略〉なら茶はヤヂウ(○○○)と名づけ、晝食を硯水(ケンスイ)といふ、
p.0411 飧食 今國俗澆レ茶飯ヲ好ム、就レ中大和州俗最嗜レ之、朝夕啖レ之、稱曰二奈良茶一、開二胸膈一、進レ食、解レ渇、除レ悶、或豇豆、蠶豆、陳皮、薏苡仁、菉豆、栗、零餘子(ムカゴ)等、煮而點用亦可也、荷葉、薏苡葉、加レ茶煎澆、香味並良、茶ト共ニ煎ジ出シタル初ノニエバナヲ用ユ、失レ飪ハ不レ好、久ク煮レバ失二香氣一、南都ニテ旦夕所二製煎一與二他邦之製一不レ同、穀茶自レ始一時ニ併煮、
p.0411 飯 集解〈○中略〉奈良茶飯者、本南都、東大、洪福兩寺之僧舍所レ製、而今四方上下倶嗜レ之、其法先煎二好茶一、取二初煎再煎一、其初者濃、再者淡、故用二再煎淡者一、和二鹽少許一、煮レ火作レ飯、復合二炒大豆、炒黑豆、赤小豆、燒栗等物一亦好飯熟後別浸二初煎濃者一而食レ之、
p.0411 奈良茶飯 茶飯は茶を以て焚、鹽を加、縁豆一口かちぐり、小豆大豆は煎て其まゝ熱き茶に入、葇きたる時、飯に加へ燒、何れも鹽を加、
p.0411 奈良茶食 いかにもよきせんじ茶をとくとせんじて、飯の水かげんにして焚こと、世にしれるごとくなれども、鹽にて味を付たるは惡し、たとえば壹升の飯なれば、中盒(なかがさ)に醬油一はい、酒一杯入て焚べし、風味格外なり、
p.0412 諸職名匠諸商人 奈良茶 堺町 ぎおんや 目黑 かしわや 淺草駒形 ひ物や
p.0412 茶飯賣 京坂ニ無レ之、江戸ニテ夜二更後賣二巡之一、茶飯ト饀掛豆腐ヲ賣ル、蓋此類ニ用フルアンハ、葛粉醬油烹ヲ云也、
p.0412 飯 魚肉ヲ雜ヘ炊ク飯ヲ鱻餐ト云、格致鏡原ニ見ヘタリ、
p.0412 魚飯 一鯛、甘鯛の類おろして皮を引、身を才形に切、鹽湯にしてしあげ置、扨米を焚時、魚を煮たる湯の能すみたる所を、水かげんに三分一程加へ焚べし、飯を鉢へうつす時に右の魚を交べし、又飯を盛たる上に置出すもよし、
p.0412 魚飯〈鯛、平目、鰹、共同、〉 魚おろし身をすりて、ゆがきよくもみて、かなずいのふにてこす、めしつねのごとくたき、よくむれてのち、魚をまぜる、
p.0412 鯛飯 鯛のかわを去て、身をさいに切置て、鯛のあらひしるにて、食の水として焚べし、是も火を引まへかたに食の上に置べし、尤汁はすまし、やく味いろ〳〵有べし、
p.0413 鰹魚 かつををおろして、背のかたの身ばかり切て、とくと湯がきさまして、こと〴〵くこまかにさき、布につゝみしぼりて、もみほごして、いよ〳〵こまかにして、食の上へかけ出す、汁はすまし、やくみしな〳〵有べし、
p.0413 ひしこ食 白きひしこをよしとす、竹べらにてほねを去、よくあらひて、いわし食を加減にしてよし、汁も同斷、
p.0413 鰯めし 一米壹升に當座鹽の八ツの積り、頭を去てよく洗、にへ立たる時、飯の中へいわしを逆に指込、尾計出し置、むれたる時、尾を引立れば骨皆ぬけ申候、飯は上下能交て出すべし、
p.0413 白魚飯 一しらうを能洗、五分切ニして少し鹽をふり置、湯にして飯に交へ出すべし、又白魚を煮染て交たるもよし、
p.0413 海老食 くるまゑびにても、鎌倉海老にても、鹽にてゆで上、かはをさり、隨分こまかに引さきて、扨めしを盛て、上へばらりと置て出すべし、汁はすましたるべし、役味さま〴〵有べし、亦食は山梔子などにて色付たるも一興有、
p.0413 赤海老食 芝ゑび、薄鹽にてゆで上、こと〴〵くかわを剥、かしらを去て、大かた飯の煮たる時分に打こみ、とくと食になりて火を引て置べし、能まぜて盛出すなり、役味しな〴〵、汁はすましたるべし、
守貞漫稿五生業鰻飯 京坂ニテマブシ、江戸ニテドンブリト云、鰻丼飯ノ略也、京坂ニテハ生洲等ニテ兼賣レ之、江戸ニテハ右ノ名アル鰻屋ニハ不レ賣レ之、中戸以下ノ鰻屋ニテ兼レ之、或ハ專レ之、
料理調法集飯蛤飯 一はまぐりを煮たる飯ニ而、常の如くかげんして焚也、
料理花船集蜆めし 黄飯にして、ふりしゞみをまぜる也、但しわうばんは、くちなし也、 料理調法集飯蜆飯 一蛤飯と仕方同じ、ふり蜆を少し交たるもよし、
本朝食鑑一穀飯 集解、〈○中略〉雞鷄飯者、用二山梔子濃煎汁一、待レ冷浸米半刻計、取出煮作レ飯、別殺二黄雌雞一、去二翅尾毛及諸腸一煮熟、取出去二頭嘴骨足一、剥二去黄皮一、截レ肉作レ絲、盛二于黄飯上一、復用二雞煮湯汁一調二和于未醬、淸汁、醬油、酒、生葱根、莱菔根、丁子末一、以浸二于雞絲黄飯一而食、是蠻國之流、呼稱二美利汁一、〈○中略〉或雉飯、葱飯者亦有、大抵與二雞飯法一同、 料理調法集飯雞飯 一かしわの雄若鳥よし、毛と腸を去り、丸ながら湯煮して、其湯にて飯を焚、鳥の身を細かくさき、味を付て、飯の上ニ盛出す也、
料理調法集飯雞卵飯 一玉子をつぶしてかき立置、飯の水引ぎわに入、うつす時能かき交るなり、 料理獻立早仕組飯雞卵食 ちらし玉子にして食にかけ出す、ゆでゝ黄實ばかりもみてかけたる又よし、尤しるはすましにて、やくみ有べし、
p.0415 玉子飯 山吹の仕やうにして、めしをわんへもりて、その上へさじにてすくひかける、まぜるに及ず、
p.0415 雉子飯 きじの身、とほ火にてよくやきて、こまかにむしりてまぜる也、但しむしてするもありといへども、火どりたる方あぢわひよし、又身もほねもよくたゝきて、まぜる事もあるなり、
p.0415 鴨飯 一鴨おろし油皮をせんじ、其湯ニ而飯を焚、鴨の身はこそげて能たゝき、ほろ〳〵に酒と醬油ニ而煮飯の上にかけ出す也、
p.0415 苞飯(ハウハン)
p.0415 芳飯(ハウバン)〈或作レ苞、上〈ノ〉飯〈ノ〉飾(カザリ)〉
p.0415 はうはん 芳飯の義也といへり、一説には法飯の義にて、僧家より事起るともいへり、
p.0415 飯 集解〈○中略〉有二法飯者一、此亦僧家之食也、尋常白飯上、置二雜蔬雜乾肴之煮炙細剉(サキタル)者一、浸二于未醬淸汁之煎熟一而食、是未レ識レ所レ始、惟叢林家之珍乎、
p.0415 一法飯傍飯(○○○○)とて二樣あり、法飯ははうの食也、點心之義也、體然る間精進の仕立也、のりの類靑み等を粉にをく也、喰樣はその儘汁をかけて喰べし、再進二返の後は、前方の手先のこを殘す事なかれ、殘す時は再進參すべき也、
p.0416 芳飯(ほうはい)〈作レ包〉 鳬飯、雉子飯、 飯、めばる飯、初茸、松茸めし、皆雞飯悖(もどき)にして芳飯也、雞飯仕樣、かしはの雄若鳥よし、毛ト腸を去り洗て、丸ながら茹て、其茹湯にて飯を燒、飯は釜より直にもる、雞肉を細く刺(さき)て五 (うこぎ)の干葉、葱を刻、各酒漿にて味付、飯ノ上に覆也、又粒胡椒、からみ大根を用、悖の仕樣、皆如レ此、又葱、牛旁、しめじ、椎茸、芹、燒麩、何も線に切、味付飯に覆たる皆包飯也、汁は淸シ、大根昆布の類かろくすべし、 夏日の芳飯、冷汁に海苔、栗、生姜、擦大根、いもだしを可レ用、いもだしは、山のいもうすくへぎ、一夜水につけ置、ねばる水を用、
p.0416 芳飯の汁 にぬきよし かまぼこ くり 生姜 おろし 玉子〈ふのやき〉 なあへて あけこぶ めうが 花がつほ のり きざみ候ものは、何もこまかに仕よく候、精進の時はいろ〳〵つくり次第ニ入、
p.0416 一方飯の事、飯の上をたいらに盛て、其上ニ何ニても時分の物をすへて、粉五樣の物を五所に盛なり、春はせりにても、なづなにても、夏は竹の子、秋しいたけ、松たけ、是は生くり、靑のり抔の樣なるもの、何れも〳〵いかにも細〈ク〉ひき、其物の色とあぢのうせぬ樣にあへニて、飯の上に中に一所、扨四方にもりて、その時分の物をくう人の方へなして置也、扨ひや汁ニてもあつ汁にても、たれをまいらせべし、ひや汁は時分のものをうき身にすべし、又物によりてもり樣の事は、物のなりに盛なり、いか樣にも盛てもくるしからず、菜をおかぬも有、又置もあり、汁の方を入かるゝもき別にもいだすなり、汁はあつくも、ひやなしもうくる也、
p.0416 食物の式法之事 一はうばんと云は、三ぼうぜんをまねたり、是は飯を半分にもる也、扨又さいはいくつも、又こもいくつもして、重而かさをしてかき合而くふ也、〈○又見二今川大雙紙一〉
p.0417 一芳飯之事 盛樣かくのごとし、飯の上に置なり、魚物ニてもこれをとゝのふ御前にて汁をかけべし、 一當季を喰ぬ事也、皿五ツに盛事も有、又飯の上に盛由候、五ツに盛わけたる時は、をくの季より一ツづゝ取寄て喰なり、汁は五度引なり、然共一季を殘すゆへ四度うけて喰なり、中取て箸をあげさすべし、 一春〈左角〉 夏〈左手本〉 秋〈右角〉 冬〈右手本〉 土用は中也
p.0417 食物作法 芳飯食樣之事 芳飯と云は、狩場野懸等にて取あへず出す物也、是は菜なし、食の上に五色のこを盛付出す、次に汁を引、芳飯に直ニかけて上のこを一ツにまぜ合て食也、わけをせぬもの也、食仕廻たる時、又右のごとく盛て引替る也、何ケ度も同前、上のこの盛樣、五色、中を黄ニ、前を靑く、左を赤く、右を黑く、向を白く盛也、
p.0417 一包飯集養の事、先左の手にて、膳の右方に有すさいさらを取て、我左の方の膳にすみにをく、其後かさを右の手にて取、膳のさきの方へ置、其後包飯のかはをとり、かさの中にかはをかさねて置、次に包飯に盛たる中の花を取て、かさの中のかはの上にをく、其後はしをなをして膳にをき、兩の手にて汁をうけて、膳にすへて、左右を見合候て、何れも汁をうけられたる時に、はしを取、わんの中に盛たる物をさきへ押のけて前よりくふ也、さいは膳のさきの中もりくふ也、又くいてさいは、我左のかたの前のすみのさいをくふ、包飯をくひ、左のさきのさいをくふ、そののちさいしん參り、うけ候へば、小汁參候とき、かさの上に有花を取て、膳の前あた りへをきて扨小汁をおろし、かさと又我左の膳のすみにあるさいを、兩の手にて取、二の膳にすへて、小汁をば本膳にいつもの所に右の手にてをき、またいつものごとくめしをくふ也、〈○中略〉又包飯のめしをば、汁のわんにもる也、又包飯のふたは、小麥にてうすくきりむぎのごとくうちて、まろくわんの口程にくらべて切て、三ツにわりてかぶせ候、盛物は五色たるべし、中の盛物に其時の花をかうの物にてもあれ、又何にてもあれ、くふ物の類を花にしてをくなり、
p.0418 一はうはん參候わん事、冷汁出候はゞ、食べ直に請、扨給時上の粉を箸にて押退て給る也、先汁を請時は、箸をとらずして請、下に置て扨見合、箸を取給也、はうはんには跡を殘さぬもの也、
p.0418 一餝飯のくいやうの事 はうばんは下座まで參候はゞ、其時箸をナヲシ、はんのかさを取、汁をうけ上置、さきへつきのくるやうにめされまいり候、はうばんには汁をおほくうくる事よく候、口傳有、
p.0418 一ほうばん食樣之事 めしのかさニ土器をする事、後ニ盃ニなすべきためなり、土器は右之脇ニ置べし、汁參候時、五色之菜をめしの上ニ少シヅゝ置、汁を請用、當季之色を殘ス事ならいなり、皿ニ置也、 春靑 夏火 土用黄 秋白 冬黑〈○中略〉 一ほうばんの事 先飯を取て、次ニ箸を取なり、扨汁を飯のひたる程ニ請て、當季を菜の季移の餝飯 白 赤 黄 靑 黑 前 春之體也 所ニ置て喰也、わけをせぬ事ニ而候、わけをせば我と膳を持て立也、左樣候へば其日の座敷は出間敷候、湯は有間敷候、楊枝は膳ニ置也、さきを左ニ成也、五色之飯ニ而候也、
p.0419 諸職名匠諸商人 芳飯 目黑 浪屋
p.0419 芳飯は米を刺割拵へて上に五色の干肴を置 同盛樣 前靑く左は赤よ向ふ白右は黑なり中に黄を盛
p.0419 一さい飯集養の事、本はんに食を盛候、上の盛ものは包飯のごとし、是はさいもなし、汁もなし、たゞすめみそ計也、くいやうは替る事なし、さいしんあるべからず、これは祝儀にはもちゐず、ひやしるはなんべんもあるべし、
p.0419 さいばんはうばん之事 さいばんとは、めしにかやくを置てくふもの也、かやくを皿にもりて出す也、箸にてかやくをはさみ、めしの上に置くふ也、はうばんとは、右のかやくをめしの上にかけて出すをくふべし、汁はなきもの也、可二心得一、
p.0419 骨董飯(ゴモクメシ)
p.0419 盤遊飯 魚肉雜味調龢 二于飯面一、曰二盤遊飯一、曰二團油飯一、曰二社飯一、曰二骨董飯一、曰二王母飯一、曰二肉盦飯一、此云二箇麼苦(ゴモク)飯一、華夷花木考曰、仇池記、南人用二酢脯膾炙一埋二飯中一、曰二盤遊飯一、老學庵筆記曰、北戸録云、嶺南俗、家富者、婦産三日、或匝月洗レ兒、作二團遊飯一、以二煎魚鰕、雞、鵞、猪、羊、灌腸、蕉子、薑桂、鹽豉一爲レ之、據レ此即東坡先生所レ記盤遊飯也、二字語相近、必傳者之誤、通鑑宋哲宗紀曰、太皇太后不豫、呂大防范純仁間レ疾、太皇太后呼二左右一 賜二社飯一曰、明年社飯時、思二量老身一也、社飯即盤遊飯也、東京夢華録曰、八月秋社、以二猪羊肉、腰子嬭房、肚肺、鴨餅、瓜薑之屬一、切作二碁子片樣一、滋味調和鋪二於飯上一、謂二之社飯一、日下舊聞引二自得話一曰、京師八月秋社、各以二社飯社酒一相饋送、貴戚宮院多切レ肉和二蔬果一、鋪二于飯上一、謂二之社飯一、又鄭望膳夫録有二王母飯一、曰、徧鏤二卵脂一蓋二飯面一、裝二雜味一、韋巨源食譜、名二御黄王母飯一、南宋市肆紀、有二肉盦飯一、亦以レ肉蓋二飯面一也、品字箋曰、盦蓋也、今合レ醬謂二之盦醬一、亦謂下覆二蓋豆麪一意上、山家淸供玉井飯法曰、削レ藕截作レ塊、采二新蓮子一去レ皮、候二飯少沸一投レ之、如二盦飯法一、又性理大全有二骨董飯一、集覽曰、惠州土人以二魚肉諸物一埋二飯中一、謂二之骨董飯一、雜二羹中一、謂二之骨董羹一也、仇池筆記曰、羅浮穎老取二飮食一雜烹レ之、名二骨董羹一、品字箋曰、昔人以二甘脆諸物一蓋二藏羹底一、謂二之骨董羹一、骨指二肉中之脆一、董謂二蓮下之藕芽一也、人但知二肥肉之雋永一、而不レ知二脆骨之爲レ味別一、但知二蓮實之淸雅一、而不レ知二藕芽之淸趣新一、骨隱二肉中一、藕藏二蓮底一、背珍惜而不二輕露一者也、煕按虞説甚泥、骨董蓋渾沌之意、市肆羅二列雜貨一、亦謂二之骨董店一、或作二古董一、方密之曰、餫飩本渾沌之轉、鶻突亦混沌之轉、夢華録有二 菜一、指南引二名物考一有二骨董羹一、燒二樹根一爲二榾柮一、升菴作二 濁一、凡渾沌、餫飩、糊塗、鶻突、榾柮皆聲轉、又南史陳武帝紀曰、人々裹レ飯、混、以二鴨肉一、帝命二衆軍一蓐食攻レ之、齊軍大潰、通鑑梁敬帝紀曰、太平元年、人々以二荷葉一裹レ飯、 以二鴨肉數臠一、註、以二鴨肉一蓋二飯上一曰レ 今江東人猶謂二以レ物蒙一レ頭曰レ 、〈音混、此云二烏話沃基一、〉亦盤遊食耳、
p.0420 飯 酢脯膾炙ヲ飯下ニ埋ムルヲ盤遊飯ト云、同書〈○格致鏡原〉ニ出ヅ、
p.0420 ごもく飯 一ふくめ鯛、ふの燒玉子、椎たけ、せん糸蕗薄、竹の子の類、何も味を付て、飯のうへに盛出す也、 一才形魚、蚫の短册、靑昆布せん、椎たけせん、にんじむの短冊抔をなまにて米ニ合、焚たるもよし、
p.0420 ごもく飯 玉子せん、しい竹、きくらげ、こほりごんにやく、ほろ〳〵どうふ、あはび、ゑび、竹の子、右のこらずこまごまにして、うすあぢ付、めしへまぜる、
p.0421 油飯 楊氏漢語抄云、膏味、〈和名阿不良以比〉麻油炊飯也、一云玄熟、
p.0421 膏味、玄熟未レ聞、禮記、狼臅膏與二稻米一爲レ配、注以二今膏 一、集韻、 古作レ 、釋名、肺 、 也、以レ米糝レ之、如二膏 一也、
p.0421 油飯
p.0421 今蝦夷飯食ニ、油ヲ加エテ喫ス、我人コレヲ異トスレドモ、内則ニ淳熬煎醢加二陸稻上一沃レ之、以レ膏曰二淳熬一トアル、正義ニハ陸地之稻、恐其味薄、更沃レ之以レ膏、使二味相湛一、漬曰二淳熬一ト見エタリ、周俗モ如レ此ナレバ、アヤシムニタラズ、
p.0421 一山でらほうし、さる御ちごにほれて、〈○中略〉ひん僧にて、なにゝても御ふるまひをいたさうやうもない、せめてこれなり共御なぐさみにとて、たいたう米のめしを出しければ、御ちご御らんじて、是はうつくしき色やとおほせられた、其時三位まかり出申やうは、たまさかの御こし、まことに身にあまりて忝く存て、せめての御ちそうにとて、米をそめさせ申たるといへば、御ちごきこしめして、げにもさう見えて、たいたうめしのやうなと仰られた、
p.0421 天正十年四月十五日、田中未明に出させられ、藤枝の宿より瀨戸の川端に御茶屋立置、一獻進上申さるゝ、瀨戸川こさせられ、せ戸の染飯(○○○○○)とて、皆道に人の知所有、
p.0421 瀨戸の染飯は、此所の名物なり、そのかたち小判ほどにして、こはめしに山梔子(くちなし)をぬりたり、うすきもの也、男、 染飯は黄色なりけりたび人はあはぢの瀨戸とこゝをいふべき、とよみ侍べり、誠に粟飯は黄なるものなれば、かくよみけるにや、
p.0422 黄飯は瀨戸の染飯是なり、〈○中略〉光廣卿の歌につく〴〵と見てもくはれぬ物なれや口なし色のせとの染いひ、
p.0422 豐後黄飯(わうはん) 黄飯は榮曜なる樣なれども、焚方に依て利方に成べければ、爰に豐後臼杵邊にて、もつはら食する通りを記す也、扨茄子のある時分なら、茄子を多く用ふる也、尤小ならば厚サ二三分輪切にし、大ならば二ツにわり、右の厚さに切用ふ、扨芋萸(から)の生を長サ壹寸六七分に切、三ツ位にわり水にひたし置、牛房をさゝがきにして是も水にひたし、各よく惡汁(あく)を出し、又葱を壹寸貳三分に切、皆一同に鍋に入、よく焚て醬油をさし、いつも汁などにするよりよく煮て、其所へ魚〈こちかます、くちの類、〉の小骨なく、油のすくなきを見合、鱗をとり、頭を去り、鍋の中なるかやくのうへに入、しばらくたきてよく煮たる時、箸をもて骨をすごきとり、右かやくとかきまぜ、盒子(かさ)にもり、飯のうへにのせ、かきまぜて食する也、此飯は常の飯の通りに仕かけ、其中に梔(くちなし)を水に出し置、すこし入て焚べし、黄色の飯と成也、利方にたくには、梔を入るにおよばず、〈○下略〉
p.0422 飯〈○中略〉 附録食湯〈即釜中飯後之湯也、燒乾飯熟後取出、入二水于釜一、復煮レ湯、或遺飯焦二粘干釜内一則搔落、用レ水煮熟而用之、其湯焦香味美、此稱二食湯一、飯(メシノ)後必飮、是本邦之舊俗例也、復用二湯取飯之湯一者、先用レ米炒過令レ香、入二取湯中一而煮熟飮レ之、但飯後好有下飮二佐湯一者上、有下飮二取湯一者上、此據二人之好惡一而然矣(中略)煮拔湯或稱二於禰波一、又稱二取湯一、是煮レ米之濃汁也、氣味主治與レ米同○下略〉
p.0422 一飯の湯も客人より初むべき事也、貞衡云、飯の湯も客人より初め申候、亭主より初申事は略儀にて候、當世は亭主より初むるなき事也云々、ある人の云、亭主は臺所にて食物のあんばい等を指圖しはせ廻り、毒のこゝろみをして、膳を出す故、亭主は客と同座して食せず、やうやう湯の出る時分、亭主隙ある故、座敷へ出て挨拶して、湯をば客の前にて毒見して參らする也と云説あり、心得がたし、湯も臺所にて心見して參らすべし、湯にかぎり客の前にてこゝろみ する事心得がたし、舊記になき事なり、
p.0423 食之湯 一飯をうつし取たる釜へ水を入、能煮かへらして出すべし、燒しほ少々入たるもよし、 一飯を常よりこわく焚て、能水にて洗、日に能干、いりて湯のたぎりたる中へ入れば、湯出候時、器の内に浮て有也、 一常の飯のこげを取、又よく焙りて入、湯を能煮立て出すなり、 一淸水米、南部あられを煎て、湯ニ入たるもよし、此類何も會席物好による也、式正にはあらざるなり、
p.0423 一飯後の湯出たるに、風味ことにかうばしく大にすぐるゝなどほめけるを、女房聞つけ、うれしげに、のうれんのひまよりかほさし出し、お湯のかうばしきもことはり也、たき物をくべた程にと、座にゐたるみな〳〵も、耳にしみてぞかんじける、中に一人うらやみ歸り妻にかたれば、それしきの事をば、誰もいふべきものをとあざわらひぬ、知音をよびならべ、飯の湯を以前のやうにとゝのへいだし、人々かうばしやとほむるとき、ねうばうはゞからず、御湯はかうばしからふ、柴を三束くべた程にと、
p.0423 元年八月丙申、嘗二于殯宮一、此日御二靑飯一(ヒシキオホノ○○)也、
p.0423 靑飯(ヒシキヲホノ)〈據レ訓則雜二鹿尾菜一之飯歟、倭名鈔、鹿尾菜、和名比須木毛、古者淸供專用レ之、見二物語草紙一、眞誥曰、霍山有二道士一、受二靑精石飯之法一、故事成語考曰、靑精飯亦堪レ供レ佛、山家淸供、靑精飯者、以比二重穀一也、按本艸南燭木、今黑飯草、即靑精也、采二枝葉一搗汁浸レ米蒸レ飯、曝レ飯、曝乾堅而碧、久服益レ顏、延レ算、歳時記、寒食、取二楊桐葉一染レ飯、其色靑而有レ光、食レ之資二陽氣一、道〉 〈家謂二之靑精飯一、今按世稱二石飯一者、必藉以二南天燭葉一、蓋本二于此一、〉
p.0424 精原作レ靑誤、按精飯、謂不レ用二魚肉一也、殯宮之奠、於レ此用二菜蔬一也、
p.0424 寬仁元年十一月七日辛丑、入レ夜宰相來云、今朝左將軍被レ召二乘車一、源中納言、〈經房〉二位宰相〈兼隆〉相共被レ向二小白河一、生炭淸談、有二鐺飯(○○)許事一、退歸談二承相事一、不レ能二書記一、
p.0424 著二大盤一事 〈式〉殿上食、雖レ似レ無二定事一、非レ無二其度一、如二餹(○)〈○餹恐鐺誤〉飯(○)、餅、味噌水、芋之類一所レ不レ用也、
p.0424 非常食 〈革長〉於二殿上一雖レ有二非常食一、餹〈○餹恐鐺誤〉飯、味曾水之類、未二曾有一也、
p.0424 草飯(サウハン○○)〈秉拂之時小齋也〉
p.0424 至德二年正月十六日參府、引二同參詣老一、就二大慈一草飯、
p.0424 芝の金地院崇傳長老は、もと五山の總録にて寺社奉行なり、〈○中略〉この寺にては、今に至りて、〈○中略〉大坂御陣のとき、軍中に用ひし膳部を正月三ケ日の朝食すること也、〈○中略〉二日の朝三日の朝、この兩朝は小齋(○○)と名付て、左之通の膳部也、 一小キぶんぬきの飯(○○○○○○) 一汁〈干葉に黑大豆○中略〉 これ彼院ニて、大坂御陣中の御膳部也と申傳ふ、〈○下略〉
p.0424 大盤間事 〈家〉朝大盤巳刻也、〈○中略〉抑朝大盤之時、下物自二御厨子所一所レ渡也、〈○中略〉御厨子所之物疎惡之時、召二彼所衆一、於二殿上前一加二勘責一、又殿上飯疎惡不法之時藏人〈著二靑色一〉召二大炊寮官人一、於レ所勘責、并令レ計二定飯之盛樣一(○○○○)、令レ居二校書殿西長押一者、 大盤事 大盤巳刻以前所レ居也、〈朝也○中略〉凡大盤事、藏人所二催行一也、飯有二懈怠一之時、召二小舍人一仰下可二催遣一之由上、下物亦以二小舍人主殿司一、催二御厨子所一、件物疎惡之時、召二御厨子所衆一、於二殿上前一勘仰、或時及二耻辱一、雖二非常之刑一、已承前之例也、飯疎惡不法之時、召二大炊寮所下部一、於二藏人所一計定、召二勘其旨盛樣一、居二校書殿長押上一云々、下二御飯一之間、有二件事一非常事、欲レ下時、召二主殿司一、居二大鉢於下盤一、夕膳御飯稱二夜候料一不レ下云々、先達云、上古更不レ聞事者、然而近代有二此事一、聊以謬事也、
p.0425 〈三〉調膳樣事 飯ヲバカタウツケズシテ、丸ラカニ可レ盛、
p.0425 御膳 記云、晝御膳、 一御盤四種〈銀器○中略〉 二御盤御飯〈在レ蓋、銀器、○中略〉 内膳司晝御膳 一四種四口〈居レ臺〉 二御飯〈居二中盤一○中略〉 御飯 本宮内膳〈○中略〉 供御次第 御厨子所式云、一御盤四種、〈銀器○中略〉 二御盤 御飯〈盛二銀器一、在レ蓋居レ垸、○中略〉 御飯料 見二内膳式一、月料三斗六升四合ヅヽ、 朝餉御膳〈○中略〉 御飯 内膳司所レ進〈御笥盛レ之渡二進御厨子所一云々〉 記云朝餉 一御臺不レ居レ物〈○中略〉 三御盤御飯〈盛二銀器一、在レ蓋、内膳司、○中略〉 御飯 大炊寮仕女所レ進、刀自請レ之、〈○中略〉 腋御膳〈御臺六本〉 第一御臺 御飯 御箸 同臺〈○中略〉已上盛二土器一 行幸出二御御殿一之時供レ之云々 御飯 大炊寮〈○中略〉 殿上臺飯 菜料 高盛魚八種 精進二種〈已上土器〉 已上人別居レ之、番衆勤レ之、被レ行二臺飯一之時、キラメキトテ不レ知二其數一、菜料居レ之、但所臺飯〈藏人所之時、如二辛櫃蓋一居レ之、〉時者不レ然也、又盛置之時、人別十五坏許也、又晝御膳御飯下物居レ之、〈○中略〉土器内藏寮所レ進、夕御臺飯勤レ之、 〈裏書〉殿上侍臣饌者、以二供御〈謂二日貢御膳一也〉殘塵一羞レ之、〈○中略〉 后宮御方〈○中略〉 朝餉 第一御臺御箸 同臺 第二御臺 中御盤居二御飯一〈陪膳女房取二御飯一、居二第一御臺一、○中略〉 御飯 進物所内膳請料米進レ之〈納二呂子一、置二八足上一、○中略〉 日貢〈○中略〉 御飯 大炊寮仕女進レ之、近年刀自請レ之、又付二御相折帳一請二料米一云々、
p.0426 調備 御飯 盛二御飯器一、〈覆二銀蓋一供レ之〉居二中御盤一供レ之、於二御前第一御臺一被レ居レ之、〈蓋被レ返二下之一〉歟、但近代居二一御臺一供レ之、〈但依レ例〉
p.0426 六齋日には、かならず御精進あるべし、殿上の臺盤もすへまぜ也、ごぢ僧供御をまいらす、御飯はそへず、大かた内膳の外の御はんはめさず、ごぢ僧のまいらせたる供御を殿上の臺盤にもいださる、
p.0426 御あはせ御くだ物は、人のまいらせたる物をきこしめせども、御飯はいかにも内膳の飯をめす事にてさぶらふ也、しからざるはまたくきこしめさぬ事候、
p.0426 神名睿實持經者語第卅五 今昔、京ノ西ニ、神明ト云フ山寺有リ、其ニ睿實ト云フ僧住ケリ、〈○中略〉土御門ノ馬出ニ薦一枚ヲ引 廻シテ病人臥セリ、〈○中略〉聖人事シモ、我ガ父母ナドノ病マムヲ歎カムガ如ク歎キ悲テ云ク、物ハ不レ被レ食カ、何カ欲シキト、病人ノ云ハク、飯ヲ魚ヲ以テ食テ、湯ナム欲キ、然レドモ令レ食ル人ノ无キ也ト、聖人此レヲ聞テ、忽ニ下ニ著タル帷ヲ脱テ、童子ニ與ヘテ町ニ魚ヲ買ニ遣ツ、亦知タル人ノ許ニ飯一盛、湯一提ヲ乞ニ遣リツ、暫許有テ外居ニ飯一盛、指入ノ坏具シテ、提ニ湯ナド入レテ持來ヌ、亦魚買ニ遣ツル童モ、干タル鯛ヲ買テ持來ヌ、其レヲ自ラ小サク繕テ、飯ヲ箸ヲ以テ含メツツ、湯ヲ以テ令レ漉レバ、欲シト思ケレバ、病人ニモ不レ似、糸吉ク食ツ、殘レルヲバ折櫃ニ入レテ、坏ノ有ルニ湯ハ入レテ、枕上ニ取リ置テ、提ハ返シ遣リツ、〈○下略〉
p.0427 光隆卿向二木曾許一附木曾院參頑事 猫間中納言光隆卿宣フベキ事有テ、木曾ガ許ヘ座シテ、先雜色シテ角ト云入ラレタリ、〈○中略〉木曾モ其時意得テ奉レ入二見參一シケリ、暫物語シ給ヒテ、木曾根井ヲ招テ、ヤ給ヘナンテマレ饗申セト云、中納言淺猿ト思ヒテ只今不レ可レ有レ宣ケレ共、イカヾ食時ニ座シタルニ、物メサデハ有ベキ、食ベキ折ニ不レ食ハ粮ナキ者ト成也、トク急ゲト云、何モ生シキ物ヲバ無鹽(ブエン)ト云ゾト心得テ、無鹽ノ平茸モアリツナ、歸給ハヌサキニ早メヨ〳〵ト云ケレバ、中納言ハ斯由ナキ所ヘ來テ恥ガマシヤ、今更歸ランモ流石也ト思テ、宣フベキ事モハカバカシク不レ被レ仰、興醒テ堅睡ヲ呑テ御座ケルニ、何鹿田舍合子ノ大ニ尻高ク底深ニ、生塗ナルガ所々剥タルニ、毛立シタル飯ノ黑ク扨交ナリケル(○○○○○○○○○○○○○○○)ヲ堆盛上テ、御菜三種ニ平茸ノ汁一ツ折敷ニ居テ、根井持來リテ、中納言ノ前ニサシ居タリ、大方トカク云計ナシ、木曾ガ前ニモ同ク備タリ、木曾ハ箸取食ケレ共、中納言ハ靑興醒テメサズ、木曾是ヲ見テ、如何ニ猫殿ハ不饗ゾ、合子ヲ簡給歟、アレハ義仲ガ隨分ノ精神合子、アダニモ人ニタバス、無鹽ノ平茸ハ、京都ニハキト無物也、猫殿只搔給ヘ〳〵ト勸メタリ、イトヾ穢シク思ヒ給ケレ共、物モ覺ヘヌ田舍人、不レ食シテアシキ事モゾ在ト被レ思ケレバ、メス體ニ翫テ中庭ニ突散シ 給ヘリ、木曾ハ散飯ノ外ニハ何モ殘サズ食畢、戯呼猫殿ハ少食ニテオハシケリ、去ニテモ適座シタルニ、今少搔給ヘカシ〳〵ト申、其後根井、猫間殿ノ下ヲ取テ中納言ノ雜色ニ給、雜色因幡志腹ヲ立テ、我君昔ヨリ斯ル淺猿キ物不レ進トテ、厩ノ角ヘ合子ナガラ抛捨タリ、木曾ガ舍人是ヲ見テ、穴淺增ヤ、京ノ者ハナドヤ上臈モ下臈モ物ハ覺ヘヌ、アレハ殿ノ大事ノ精進合子ヲヤトテ取テケリ、
p.0428 飯 江戸ハ朝ニ炊ギ、味噌汁ヲ合セ、晝ト夕ベハ冷飯ヲ專トス、蓋晝ハ一菜ヲソユル、菜蔬或ハ魚肉等必ラズ午食ニ供ス、夕飯ハ茶漬ニ香ノ物ヲ合ス、京坂モ朝食ト夜食ニハ冷飯、茶、香之物也、蓋三都トモ、右ニ云ハ概略ニテ、其專多キモノ也、〈○中略〉 又京坂ハ未刻比ニ、八ツ茶ト號ケテ所レ謂點心ヲ食ス、蓋短日ニハ不レ食レ之、永日ノ比ハ專ラ食レ之、多クハ茶漬飯ヲ食スモアリ、江戸ニテハ、三時ノ外ニ例トシテ食スコト無レ之、
p.0428 三月五日、同日に御口傳在レ之、飯ニ毒の入たるかと思ふ時は、飯ニソツト我息をシカケテ見レバ、其飯則黄色ニナル、然レバ毒入ルト思フ也、飯ノ汁毒入ルト思フ時ハ、則ハシノサキニ其汁ヲ付テ、我身ノ上ニ置テ見ルニ、其汁則ヒルハ毒有リ、則カハカヌハ毒ナシ、飯汁トモニ前ノ如ク無キハ、自然毒入ルトイヘドモ、一段ドククル事ナシ、則藥ヲ用テ吉、
p.0428 慳貪 今の俗瞋恚の強事にいふは誤りにて、慳貪は悋(しはき)こと也、されば蕎麥切にもあれ飯にもあれ、盛切て出し、かはりをもすゝめざるをけんどんといふなり、〈○中略〉 慳貪飯(○○○) 江戸鹿子、〈○中略〉又國花万葉記、〈元祿十年印本〉京三條繩手茶屋慳貪弁當とあるもおなじものにて、他所へ持行ゆゑの名なるべし、 花千句〈延寶三年印本〉 前句 よいしゆさうには見えぬ一連(ひとつれ) 正立 附句 慳貪の弁當ひらく花の陰 季吟 これ京師にての句なり、万葉記及四條川原の畫卷にあはせ見るべし、
p.0429 諸職名匠諸商人 食見頓 金龍山 品川 おもだかや 同所 かりがねや 目黑
p.0429 散飯〈サンハン〉 三杷〈同〉
p.0429 生飯(サンバ) 散飯(同)
p.0429 出生〈律云、衆生食、即爲二鬼子母一也、毘奈耶云、訶利帝母爲レ求二愛兒一、佛爲レ受二三歸五戒一、已白レ佛言、從レ今何食、佛言、勿レ憂、於二剡部洲一有二我弟子一毎食次、出二衆生食一施レ汝、皆令二飽滿一、鈔云、出生、或在二等供前後一、隨レ情安置、今詳若食、是米麪所成者、方可レ出レ之、或蔬茹不レ用、縁二物類不一レ食、翻成レ弃也、如二愛道經云一、出生餅如二指甲大一、又出生偈云、汝等鬼神衆、我今施二汝供一、七粒遍二十方一、一切鬼神共、〈以食出生時、默誦此偈、〉
p.0429 温飯 釋氏臨レ食出二飯數粒一、謂二之生飯一(サバト)〈傳燈録曰、智堅禪師喫レ飯次、南泉收二生飯一、〉以爲施二食於衆生一也、〈衆生指二曠野鬼神、及鬼子母等一、〉蓋古人祭レ食之遺意、而後人奇二譎其説一耳、
p.0429 サバヲ取ハ何事ゾ、又其文字色々也、何ヲ可レ爲レ本哉、誠ニ昔ヨリ思々ニ書習シテ不二一准一、或散飯(サバ)、或生飯、又三飯、三把ナド書ケリ、先散飯ト書ハ、日食ノ上分ヲ取テ、或曠野鬼神ノ分トシ、或 ハ訶利底母ノ食トシ、或ハ魂靈神ノ料ニ充、皆因縁有、普ク諸鬼ニ及スガ故ニ散飯ト名クト云、宋朝ニハ生飯ト書テサンハトヨム、是ヲ出生飯ト云、故ニ宋朝ニハ生ノ字ヲサント讀也、〈○中略〉出生食トハ、釋尊、鬼子母、〈訶利帝母〉曠野鬼等ニ、僧ノ食ヲ分テ與ヨト被二仰置一タリシカバ、是ヲ其分ニアツル也、然ニ鬼此小飯ヲ得テ多成テ食スレバ、出生ト名ル也、サレバ取事、律ノ法ニハ七粒ニ不レ過、其故ハ一粒ニ百億ノ功アリ、種ヨリ納取テ飯ニスルマデノ其功如レ此、是ヲ顧テ勞ク重クスル心也、佛約ノ鬼神ノ食猶如レ此、況ヤ破戒ノ比丘ノ多食ヲヤ、尤可二心得一事也、三把ト書事必三度可レ把也、初ハ三寶ニ供シ、次ニ殘食ヲ飡トシテ誓ヒ給、故ニ不動明王ニ供シ、次ニ訶利底母ニ供スベシト云々、三飯又同義也、サバト云ハ、和ゲテ云詞ナルベシ、
p.0430 一生飯 生飯或俗に散飯と書ク、是をサバと云也、飯ヲ器に盛たる上に小ク丸めて上に置を云也、是佛家にてする事也、僧徒の飯を食する時、此生飯を取て別器に置て、呪文を唱て訶利帝〈天竺ニテ食物ヲ作始メタル人トカヤ云〉に供へ祭る、是佛家の習俗也、然るに吾朝廷御飯に生飯を置く事あり、是代々天子佛法を崇敬し玉ふ故、佛家の習俗の移りたる也、〈生飯の事、禁秘抄に見えたり、〉又神供の御飯にも生飯を置事あり、是も行基、弘法、傳敎、慈覺、智證等の僧本地垂跡の説を造り出してより、神佛混雜する事盛に行はるゝ故、佛家の習俗いつとなく神社へも移りたる也、〈齋宮神供生飯の事、左經記に見えたり〉
p.0430 さば さばは、生飯、散飯、三飯、早飯などかけれど、皆かり文字なり、梵語なればしれがたし、飯を器に盛たる上に、又飯をちひさく丸めて上におくをいふ、佛家にて僧徒の食する時に、先此さばを作りて、別記に置きて、呪文を唱へ、訶利帝へ供ふ、この訶利帝といふは、天竺にて食物を作り始めたる人とかや、佛家のならはしなるを、朝廷にても、佛法御崇敬よりうつりしなり、佛祖統記、釋氏要覽などに、正食とあるに同じ、壒嚢抄にも鬼神に先供する飯をいふよしあり、論語鄕黨、雖二蔬食菜羹瓜一 祭必齊如也、注古人飮食、毎レ種各出二少許一、置二之豆間之地一、以祭下先代始爲二飮食一之人上、不レ忘レ本也、禁秘抄に、取二左波一立レ箸、陪膳取二御箸一、折出也云々、後醍醐天皇日中行事に、御さばをとりて、あまがつに入れてたてさせ給ふ、陪膳にてをのこ共をめす云々とあり、朝廷へ入りたるうへに、かしこくも神宮へ移りて、豐受宮御饌殿に左波の壺といふ物あり、穢らはしき事は神官人もしらず、たゞ初飯をわかちて、別器に入れて、祖神を祭る事とのみ思へり、
p.0431 食は人の天なりといふて、食なければ一日もたちがたきもの也、故に古人は食するごとに、先ヅ食を少しばかりとり分けて、先代飮食をはじめたる神へ備へ祭りしと謂り、今も僧家には素飯(サバ)のめしとて、先ヅ食を少し取わくる事あり、また片田舍の野人は、今も食せざるさきに飯をいたゞきて食するは、古代の素飯の遺意なり、〈○下略〉
p.0431 相撲召合 三四番間供二御膳一、〈○中略〉凡毎レ供可レ取二三把一歟、藏人之外不レ役二供之一、
p.0431 立太子事 書二陪膳記一 或幼宮時、以二女房一爲二陪膳一、〈上髮〉上二一本髮一、女藏人四人以上傳二供之一、藏人一人居二土器二口於御盤一持參即受二御三把一、奉二帳中阿末加津一云々、
p.0431 取二三把一事 〈家〉供二御飯一時、即以二銀御箸一取二三把一、入レ蓋返レ之、御箸鳴置レ之云々、故公忠右大辨説也、但近代無二此例一、
p.0431 御膳事 凡御膳、大床子御膳、〈上古朝夕、近代一度供レ之、〉朝餉御膳、〈朝夕夜供〉皆一度供レ之、此御膳等近代主上不レ著、又只御膳三度是只女房サバヾカリ取レ之、只内々稱二小供御一、御乳母沙汰供第三度所レ著也、大床子御膳、爾ハ時々必 可レ有二著御一、其作法、藏人奏二御膳一時、御直衣自二帳後一著二大床子一、〈懸レ膝著レ事、東向、〉陪膳人警候、昔正食レ之、近代只立レ箸許也、取二左波一立レ箸、陪膳取二其御箸一、又立二御〈○御一本作レ別〉箸一折出也、
p.0432 按祭食、出生食、皆三把也、以二飯初尾一祭レ之意歟、
p.0432 御膳 諸宮御方 同女院供御 〈裏書〉女院御方御相折帳〈例不同〉 居二供御御菜一、日別二ケ度、〈號二御三把一、供御云々、〉
p.0432 さはがしき物 板屋のうへにて、からすのときのさばくふ、
p.0432 ときのさばくふ 未レ勘、但齋(トキ)の産飯(サバ)を、屋根にうちあげしを、あらそひくふをいふにや、
p.0432 齋のさばには、菜をし候べきか、齋の生飯をば屋の上にうちあげ候べきか、
p.0432 さがのゐんの御心地、なやましくおぼしめされてなど過にけれど、かくこそなどもの給はず、うちはへたる御ときも、御さば(○○)ばかりとらせたまひつゝ、かをのいもゐばかりにて、阿彌陀佛にむかひ聞えさせ給ふて、〈○下略〉
p.0432 西坂本ニ觀音院ト申ス所アリ、其程ニ住ケル老女、五寸バカリナル地藏菩薩ヲ設ケテ苧笥(ヲゴケ)ト云物ニ入奉リテ、食ケル物ノ生飯(サバ)ヲ必ズ參ラセケルホドニ、漸ク年積ル程ニ、〈○下略〉
p.0432 寛仁四年六月十二日壬辰、早旦束帶參内、主殿寮供事、〈○中略〉主上取二御散飯一、立二御箸一還入、 長元四年十二月十九日壬戌、參二齋院一、女房云、朝夕御膳散飯等、至二野宮一奉二難良刀自之神一云々、
p.0432 康和五年八月十七日甲子、今日有二策命立太子事一、〈今上第一皇子○堀河皇子鳥羽、中略、〉次供二朝膳一、〈陪膳大夫被レ奉〉供 膳次第、同二内裏儀一、〈○中略〉理髮向二御膳宿一、〈○中略〉藏人平取二御盤一〈居二土器二口一〉參上、陪膳取二御三把一、〈一口盛二御飯一、一口盛二御菜一、〉藏人持二參臺盤所一、女房取レ之持二參御帳内一、令レ供二阿末加豆一、子細見二九條殿記一、彼時女房勤二仕此役一、然而有二院宣二被レ付二男房一也、次藏人參、兼取二殿上下盤一參入如レ例、〈本阿末加豆御土器、又被レ盛二御三把一如レ例、被レ出二御膳宿方一、可レ供二此之餘料一、〉
p.0433 内大臣京上被レ斬附重衡向二南都一被レ切并大地震事 本三位中將重衡卿ハ、〈○中略〉東ノ旅ニ下リ上リ、風ニ窄(ヤツ)レ日ニ黑ミテ、アラヌ貌ニシテ衰ヘ給タレ共、遉ニ餘ノ人ニハ替テゾ見エ給ケル、暫有ケレバ御食賂出シテ進セタリ、是ヤ此、下臈ノ云ナル死粮(シニカテ)トハ只今死スル者ノ、魚鳥不レ可レ有トテ、取除サス、散飯(サバ)多(タブヤ)カニ取テ、佛前ニ備テ、其後ハマヒラズ、〈○下略〉
p.0433 承元三年三月廿三日、此日故攝政前太政大臣良經長女有二入宮事一、〈名立子○中略〉余〈○藤原道家〉參二晝御座一、〈○註略〉次供〈○中略〉皆供了姫君立二箸匕一、〈先匕、次箸、〉次取二最把一(○○)、入二飯於羹蚫一食レ之、〈○下略〉 承久二年四月十六日、此日東宮〈○仲恭〉始聞二食魚味一、〈○中略〉次大夫〈供二御膳一畢退二北向弘長押下一、持二笏紐一、〉進二寄御座邊一懷レ笏、〈略儀〉先以二木御箸一取二御三把一、盛二阿末加津土器一、〈自今無下供二御三把於呵梨底一之儀上、可レ供二朝餉御三把一也、〉御箸供二燒鯛一、〈一箸〉次供レ雉、〈一著○中略〉院御方重可二渡御一之由被レ申レ之、〈○中略〉次供二朝餉御膳一、儲君御二坐御疊上一、陪膳別當三位、〈○註略〉取二御三把一供二呵梨底一、自二今日一如レ此二度、於二此御所一供レ之、今一度於二内裏一可レ供レ之、〈○下略〉
p.0433 年中御さばの供御、昔は毎日參、四膳參也、御生飯をとられて則あがり申也、大草調二進之一、大草かゝへ申、御祝御料所數多在レ之し時は、如レ此毎日參也、近年は若州靑江ばかり知行の間、毎月朔日より外不レ參しなり、大草入道の説也、只今は節朔は御誕生日計參也、
p.0433 人の相伴する事 一點心の時參樣、〈○中略〉又作善の時は、僧達はさばの心にて、ちとちぎりて、右のさらに取置候、いづれも點心同然に候、
p.0434 食物之式法之事 一さんばの事 總而さんばは取事はうなれども、先れうじに執べからず、總而ばうれいの手向と多分思也、暫思慮あるべし、祝言の雜しやうには取べからず、
p.0434 喰初之次第 一膳の樣體は、食の上に生飯を、ちいさくほうしゆのなりににぎりて置、常の如く膳を居るを、養人箸にて生飯をとり、手元の角、皿のきはに置て、扨食をそと三箸くゝめ、汁をもくゝめるなり、但品ばかりなり、其所肝要なり、
p.0434 食物作法 生飯取樣の事 式の始の時は生飯土器有、其上へ供ずるなり、是飯食を作る神へ祭なり、又法事佛事の時は、羅せつきしもへ供する也、是は佛家ニ而生飯のもんを唱へ、樣々の作法有といえども、俗人は只生飯取たるまでにて可レ然、大形は不レ及レ取、
p.0434 一貴人等の御前にても、飯のさばをば取可レ申哉之事、大略はとられ候、
p.0434 喰初之事 男女ともに生れて百廿日めにかならず喰初の祝儀有べし、喰初の親を定め、男子をば男やしない、女子をば女やしなふ也、其樣體乳母兒をいだき出候を、喰初の親うけ取、左の膝に置候時膳をすゆる、やしなふ人飯の祭飯(さば/○○○○)をとりて、飯の向ふの隅に置、其後三はしくゝめ、汁をくゝむる體あるべし、〈○下略〉
p.0434 一眞饗膳獻立〈○中略〉 御饗膳 本〈食ノ上ノサバ三ツハ三光ヲ表ス、食盛形ニ、上丸キ内ニ少トガリタルハ、阴ノ食、丸キハ阳ノ食也、サバ一ツハ、誥神ノ分トシ、二ツハ鬼神及ビ惡靈ヲナダム、土器大重、〉
p.0434 屯食
p.0435 屯食(トンシキ)
p.0435 武德六年六月戊午、先レ是前并州總管劉世讓、除二廣州總管一將レ之レ官、上問以二備レ邊之策一、世讓對曰、突厥比數爲レ寇、良以二馬邑一爲二之中頓一故也、〈中頓者謂三中道有レ城有レ糧、可二以頓食(○○)一也、置レ食之所曰レ頓、唐人多言二置頓一、〉
p.0435 飯 とんじき〈屯食とかく、つゝみ飯と云もの、下﨟にたぶくいもの也、源氏、〉
p.0435 とんじき 記録に屯食と書り、下﨟に給ふ飯の名也といへり、唐玄宗紀に、頓食と見え、通雅に頓は是食也、置レ食之所曰レ頓といへり、物語にとじきとも書り、源氏爪印に、つゝみいひ也、今の鳥の子と同じといへり、
p.0435 一屯食と云は、にぎり飯の事也、〈○中略〉強飯を握りかためて、鳥の玉子の如く丸く少長くしたるを云也、今も公家方にては握食をどんじきといふ由、京都の人物語せり、 〈頭註、〉屯ノ字、アツムルトヨム、飯ヲ握リアツメタル也、
p.0435 屯食 どんじき 案に、屯は字書に徒孫切、音豚、聚也、漢律勒レ兵而守曰レ屯、説文本屯亶字、假借爲二屯聚之屯一と見えしによれば、聚〈アツマルアツム〉字の意にて一聚の食といふ、一村々々有をいふ歟、今江戸の制に、御成の時、御配りとて辨當を賜ふ、少しの飯を盛分たるものなれば、是等の意なるべしと思ふに、又大慧書をみれば、呼二幾枚杜撰長老一來、與二一頓飯一喫却了、敎二他恣意亂説一と有は、一頓飯とは、一膳の飯といふにおなじ、字書を考ふるに、頓都困切、增韻又貯也、又宿食所也、次也、又食一次也とも見え、又文字解詁には、續食曰レ頓ともあり、是等の注によるに、食一次也と有とぞ、よく此意にあたりて、一度の飯といふが如し、六書正譌には、頓別作レ鈍非也とも見ゆれば、鈍頓を俗には通はし用ひしなれば、又省て屯とも書しなるべし、此二意にて大底心得らるゝことなり、
p.0436 屯食 どんじき 宗固問、鳥子、つゝみ飯、大かた下ざまへ給ふ物に候歟、今も葉につゝみて、飯など給ふこと、東武にもあり、屯食は庭上にたむろせる人に給ふ心歟、鳥のこといふも、今云は、餅のよくつかざるをいふにや、むすびたる形を鳥の卵に見たてたるにや、 胤相答、屯食裹飯下ざまへ給ふ料の物と被レ存候、しかし屯食は指る所廣き名にて候歟、〈○中略〉 殿上記云、飯百櫃、酒百缶中屯、食百具、一具、中取一脚、各置二中折櫃十合一、就レ中二合菓子、二合鮮物、二合干物、二合甘鹽魚、一合鹽梅、一合土器箸、 屯食之事、説々有レ之候へども、此文にて其體よく相見え申候歟、盛屯食、荒屯食など申は、飾樣の名と相見え申候、和屯食と申事も有レ之候歟、盛屯食と同事の樣に被レ存候、庭上に百具二百具も並べ立るより屯食の名を得たるにやと被レ存候、庭上に屯する人に賜る故の御説も、本據なくては如何にて候歟、猶承度候、 俊明案るに、盛屯食は、今云木かたなどにてうちぬきたるの類歟、荒はかたなくもるにや、和は和揉の意にて色など交れる歟、若又荒と同じき歟、盛は鳥子とおなじく、にぎり飯にや、
p.0436 屯食 屯食は、どんじきとも、どしきとも、濁てよむべき事也、〈○中略〉屯はアツムルと訓字也、食はイヒ也、飯を屯たる義にて、今のにぎり飯の事をいふ、公家にては、今もにぎりめしをドンジキといへり、
p.0436 屯食 〈頭書〉與曰、屯食ハ頓食ニテ、屯ト頓ト相通ズ、今ノ辨當ノコト也、
p.0436 屯食の事 屯食の事くはしくかきたる物を見ず、たゞ顯俊朝臣の記にて、順德院のいまだ春宮のほど、御 元服せさせ給ひし時の式の中に、屯食百具、南庭の東西に舁立とあるすへに、其體謂二盛屯食一者、盛レ笥居二二階白木棚一、荒屯食之樣、人々頗成二不審一歟、先例又無レ所レ見レ人者、只以二短册一下行云々、在二違例一歟、仍且盛屯食許舁二立之一、可レ爲レ例歟と注せり、〈後花山院相國の記、正元元年、東京御元服の條に、屯食百具、分二置版位東西一、南北行、坊舍人〈著褐衣白袴〉等、自二東西中門南北戸一運二入之一、而今日自二東中門一舁レ之、自二南庭一渡レ西尤奇異也、和屯食在レ前荒屯食在レ後、而今日荒屯食都不レ見、人々不レ知二具體一、且承元如レ此云々、各調進、人々以二短册一給二諸司一云々、〉もとはもりとじきを取に立て、荒屯食をば後に立る事なるに、此頃すでに、あらとじきのこともわきまへたる人なくて、短册にかきて下行せしめけるなり、〈○中略〉また考ふれば、いましめとりなどに、二重の臺とて龜甲形の臺の雲がたすかしたる高欄つけて、足も龜甲形の折櫃の樣なるに、立さまにすみ形をゑりて、した臺とて、すこし大きなるを、是もうへのさまに龜甲形ゑりたる高欄をつけて、足は花足なり、さてうへなる臺の高欄のうちに、龜甲形の笥を置て、其笥に折立して、餅をだいにてうへにくだ物を盛て、床の上に二具置事のあるなり、〈○註略〉又ふるき十二支の歌合の繪にも、此二重の臺の下臺なきを、酒宴の座にすえたるを書き、又保元の軍の繪卷物の中に、是も下臺はなくて四方なるを、酒宴の所に居たるをかけり、是等をもてみれば、此二重の臺もふるくよりありし物也、〈○中略〉此物かくふるき繪にも見えながら、古しへ何といひし物といふ事をしりたる人なし、思ふに是その用は、食物を屯也、其體は笥に盛て二階の臺に置、顯俊朝臣の記にあひ、且幾具といふに叶ひぬ、其上いにしへも、御賀〈隆房が安元の御賀の記、獻物百捧、中門よりこのみなみのあきに立、屯食百荷おなじきちらしひんがしの庭にたつと見ゆ、〉皇子御降誕〈中右記、元永二年皇子御降誕、五夜七夜、屯食を中門の外に舁立といふことあり、〉帝東宮の御元服にも〈○註略〉用ゐられ、親王以下の元服〈資長朝臣久安五年の記に、左大臣の息元服雜事の内に、凡食盛十具、荒十具とありて、末に屯食廿具、兼日召二御座一、今夕分二賜之膳部雜色〈大夫故方宇治雜色〉御厩、主殿、前栽作、釜殿、牛飼、政所一、〈大夫殿〉已上件所々相針分、〉又女御參の家、〈玉蘂に、承元三年三月十三日、故攝政前太政大臣長女有二入宮一とある條の末に、屯食分二給所々一とあり、台記、壽永元年、立后雜事の中ニ、屯食六十具〈盛卅具荒卅具〉日別廿具〈盛十具荒十具〉ト有〉五節の姫君いだせし家〈雜要抄、五節雜事の中に、屯食十一具、〉凡人の賀〈台記別記、久安三年知足院殿の七十の算賀の事をしるせし中に小舍人所、御厩、政所御車副、政所法師、已上屯食一、屯食卅具、盛廿具と見ゆ、〉又一の 人の春日詣、〈台記、一の人の春日詣の中に、屯食十七具、餘分二具、支配御車副八人二具、牛飼二人一具、神馬十人二具、神寶所仕丁十六人三具、物供仕丁七人二具、居飼廿四人二具とみゆ、〉などにも此物を用うる事、日記どもにあれば、むことりの所あらはしには、まして古しへは、是をさる方に用ひしかば、すべてさるべき悦どもにはもちゐしなるべけれど、家々の日記も公樣の事をむねとかきて、家なる事は洩する事常なれば、載ざるにて、用ゐざるにはあらぬ事しるべし、是等合せみれば、今の二重の臺の盛ものぞ、古くよりいひし屯食なる事うたがひなし、又それが中に、荒屯食といへるは、承元の比は別して器などまでもかはるとやいひあへりけん、顯俊朝臣も盛屯食の樣をかゝれしにも、盛樣をばかゝずして器のみをかゝれき、考ふるに、類聚雜要抄に、保延の仁和寺競馬行幸の御膳等の事をしるせし末に、殿下の前の物の中に、盛菓子六種とありて、大臣の前の物には交菓子一杯と有、一種の菓子も交菓子と杯に盛なれど、一種もるなるを盛菓子といふなるは、古きならはしのことば也けり、かゝれば盛屯食とは、一種をもりたるをいひ、荒屯食とは、種々の物をまぜ盛たるをいひたりとはしりぬ、まことに一種なるはうるはしくもるなめり、されば小き屯食ともいへり、種々なるは、物のかたちおなじからねば、盛たる姿あら〳〵しければ、あら屯食とはいふなるべし、〈○中略〉彼ふるき繪の酒宴の坐なる屯食どもは交盛たる也き、これぞ荒屯食にはありける、〈○註略〉今二重の臺といへるは、五色の餅をむねとはもれど、うへに昆布勝栗などやうの物を盛て、盛りとめには梨子をしくを上にして置なれば、かの荒屯食也、また手かけ箸初の臺などいへる、二重の臺のやうにて、ややちぬさきに稻毛盛式は、そぎもり折もりなどにして、うへに長きのし蚫を五枚計りはさみて、色うへはかざりにて、下は一色盛りたれば、こは盛り屯食とやいふべからん、なれどもうへなるのしは、もはらの事にて、下は何をもすれば、あらししきにやつくべき〈○註略〉さは今は盛屯食はなくて、荒屯食のみなり、ふるき繪の二の屯食も、荒屯食なれば、承元のころも、荒屯食のみ にや有けん、さるを器の樣に思ひつるより、荒屯食を盛屯食と心得たるもしるべからず、〈○中略〉かく書付しほどに、上總の國にては、今も此物をとんじきといふと人のいへりき、げにふるき詞は、ひなにのこりたるぞおほき、
p.0439 奉二賀天皇御算一事 可レ奉二賀天皇御算一之年、〈○中略〉庭中東西相二分立屯物(○○)酒食一、〈延喜十六年有二此屯食一、諸大夫著座之次、左右近衞府率二近衞等一、開二長樂永安兩門一、以二官史史生各二人一、率二左右外衞舍人一參入、自二兩門一運二出庭中酒食一、於二中衞一分二給所々一、即又閉二兩門一云々、〉 天皇奉二賀上皇御算一事 前一二年先定二行事人一、〈○中略〉諸衞舍人持二屯物一退出、〈屯物未レ御之前、立二流水東庭一也、召使院司頒二給之一、〉
p.0439 皇太子加二元服一事 皇太子將レ加二元服一、〈○中略〉先レ是早朝坊司南庭版位、以南東西分二立屯食百具一、〈○中略〉六衞府舍人等參入撤二屯食等一〈官使撿非違使等、於二中隔行事一、頒二賜諸司諸陣所々一、〉
p.0439 一皇太子元服 可レ給二屯食一諸司所々 官三〈盛一、荒二、〉外記二、〈盛一、荒一、〉内記一、〈荒〉左近陣二、〈盛一、荒一、〉右近陣二、〈盛一、荒一、〉左兵衞陣一、〈盛〉右兵衞陣一、〈盛〉左衞門陣一、〈盛〉右衞門陣一、〈盛〉侍從所一、〈荒〉御書所一、〈荒〉一本御書所一、〈荒〉内豎所二、〈荒〉校書殿一、〈荒〉畫所一、〈荒〉作物所一、〈荒〉上御厨子所一、〈荒〉下御厨子所一、〈荒〉進物所一、〈盛〉内侍所一、〈盛〉掃部女官一、〈荒〉主殿女官一、〈荒〉御匣殿女官一、〈荒〉長女一、〈荒〉御厠人一、〈荒〉神祗官一、〈荒〉中務所一、〈荒〉式部省一、〈荒〉治部省一、〈荒〉民部省一、〈荒〉兵部省一、〈荒〉刑部省一、〈荒〉大藏省一、〈荒〉宮内省一、〈荒〉監物一、〈荒〉勘解由使一、〈荒〉陰陽寮一、〈荒〉圖書寮一、〈荒〉縫殿寮一、〈荒〉内匠寮一、〈荒〉内藏寮二、〈荒〉曲藥寮一、〈荒〉大炊寮一、〈荒〉大學寮一、〈荒〉掃部寮二、〈荒〉主殿寮二、〈荒〉主計寮一、〈荒〉主税寮一、〈荒〉大膳職一、〈荒〉左馬寮一、〈荒〉右馬寮一、〈荒〉兵庫寮一、〈荒〉雅樂寮一、〈荒〉修理職三、〈荒〉木工寮二、〈荒〉彈正臺一、〈荒〉大舍人寮一、〈荒〉内舍人所一、〈荒〉左京職一、〈荒〉右京 職一、〈荒〉主水司一、〈荒〉内膳司一、〈荒〉隼人司一、〈荒〉采女町一、〈荒〉藥殿一、〈荒〉北堂一、〈盛〉南堂一、〈盛〉明法堂一、〈荒〉算堂一、〈荒〉勸學院一、〈盛〉 學院一、〈荒〉學館院一、〈荒〉侍從厨家一、〈荒〉官厨家一、〈荒〉織部司一、〈荒〉主鎰鈴一、〈荒〉大歌所一、〈荒〉内敎坊一、〈荒〉糸所一、〈荒〉内御書所一、〈荒〉樂所一、〈荒〉皇太后宮職一、〈荒〉瀧口一、〈荒〉 天元五年二月十九日 合八十三所、九十五具、〈盛十三荒八十三〉
p.0440 親王元服 加冠依レ召著二御前座一、〈○註略〉埋髮給レ祿、〈○註略〉牽出物〈○註略〉又召二御前一、〈○註略〉宜陽殿西廂設レ饗、春興殿西庭立二屯食十三具一、〈給二祿男女一、或本家設、〉内藏寮備二酒饌一賜二王卿殿上一、本家獻物、王家已下所二分執一、〈入レ自二北廊一立二御前一重行、人少召二内豎一、屯食所々撿非違使分行、○下略〉
p.0440 内大臣令三五節進二給定文一關白忠〈○忠通〉 一饗 殿上卌四前〈○中略〉女房衝重、小歌料衝重十前、屯食、大破子、
p.0440 天暦二年二月廿日、寺座主領朝調二屯食二具一送レ之、即分二送東西及常行三昧師達一、
p.0440 天德元年四月廿二日己卯、女御安子於二藤壺一賀二右大臣〈○藤原師輔〉五十算一、天皇渡御、右大臣以下諸卿有二飮宴之禮賀算事一、〈○中略〉以二屯食一給二諸陣所々一、
p.0440 寛弘二年三月廿七日乙亥、今上男一親王〈七歳〉御對面、女一親王著裳日也、〈○中略〉今日所々饗饌飩食等云々、先例飩食列二立南殿前一、又諸卿著二宜陽殿饗一、而無二其事一、至二飩食一於二西方一頒二行所々一云々、
p.0440 元永二年六月二日丁丑、御産五夜也、〈○中略〉宮司祿、今夜院所レ被レ行也、〈○中略〉屯食舁二立中門外一、 四日己卯、今夕七夜也、〈○中略〉今夜之事、公家所レ被レ行也、〈○中略〉饗體三ケ夜只同樣也、〈○註略〉屯食舁二立中門外一、
p.0440 久安五年十月一日己酉、依レ召未明參二入宇治殿一、仰云、左府〈○藤原賴長〉若君今月可レ加二首服一、〈○中略〉 屯食〈盛十具、荒十具、〉
p.0441 かくて御うぶやしなひの三日の夜は、左大將殿し給、〈○中略〉とじき(○○○)十ぐばかりにて、碁てのぜに百くわんなんありける、
p.0441 かゝるほどに、源中納言殿より、ひはりご、たゞのわりご、とじきなどいとおほう有、御まへどもにまいる、人々にもたぶ、
p.0441 このきみ〈○源氏〉の御わらはすがた、いとかへまうくおぼせど、十二にて御元服し給、〈○中略〉その日の御まへのおりびつもの、こ物など右大辨なんうけたまはりて、つかうまつらせける、どんじき(○○○○)、ろくのからびつどもなど、ところせきまで、春宮の御元服のおりにもかずまされり、
p.0441 どむじきろくのからひつ 屯食〈つゝみいひといふ物也、下臈ニ給ふ飯也、○中略〉 屯食事 延長七年二月十六日、當代源氏二人元服、〈○中略〉深更大臣以下給レ祿、兩源氏宅各調二屯食廿具一、令レ分二諸陳所々一、天慶三年親王元服日屯食事、内藏寮十具、穀倉院十具〈以上撿挍、太政大臣仰レ之調也、〉衞門府五具、〈督仰調レ之〉左馬寮五具、〈御監仰レ之調レ之〉別宜南殿假位東其春興殿西、立二辛櫃十合一、件等物、有二宣旨一自二長樂門一出入、上卿仰レ辨、官分二給所々一、夫二人勾二當其事一、仰二撿非違使一令レ給、辨官三、太政官二、左右近衞三、左右兵衞二、左右衞門二、藏人所二、内記所一、藥殿一、畫所一、内竪所一、校書所一、作物所一、内侍所四、或采女一、内敎坊一、糸所一、御匣殿一、
p.0441 その曉におとこにてむまれ給へるを、宮もいとかひあるさまにて、うれしくおぼしたり、〈○中略〉五日の夜大將殿よりとんじき(○○○○)五十具、碁てのぜに、わうばんなどはよのつねのやうにて、〈○下略〉
p.0441 五日のよは、大將殿よりとんじき五十具、〈○中略〉 天暦四年閏五月五日、此日自二中宮一、給二産餉息所前一、衝重廿枚、面打敷等蝉翼有二銀笥箸上洲濱等一、酒壺具如レ例、有二男女房饗一、各用二朱臺盤、荒飩食十具一、〈(中略)九條右丞相記〉同記曰、當第七夜姫宮政所設二饗饌一、息所 御膳衝重廿前、〈○中略〉又親王公卿廿前、毎前 打敷四枚、碁手五十貫、飩食五具、〈冷泉院御誕生記也〉
p.0442 久安三年三月廿八日辛卯、入道殿御賀〈○藤原忠實、七十賀賴長父、〉雜事、〈○中略〉 一饗〈○中略〉 小舍人所 政所 御厩 御車副 政所法師 已上屯食(○○) 一屯食卅具 殿下御庄々 盛(○)廿具 荒(○)十具 仁平三年八月八日乙丑、於二土御門一定二春日詣雜事一、〈○中略〉 一佐保殿御裝束饗 廿一日〈○中略〉屯食十五具 福井御庄三具 多田御庄三具 弘井御庄三具 椋橋東御庄四具 岡屋御庄二具
p.0442 安元二年としのついでひのえさる彌生のはじめの四日、〈○中略〉今年太上天皇〈○後白河〉いそぢに滿またふによりて、我きみ〈○高倉〉の御賀を奉らせ給ふなりけり、其日の曉、法住寺の南どのに行幸あり、〈○中略〉是よりさきに獻物百捧、中門よりとの南のわきにたつ、屯食百荷おなじきらうの東の庭にたつ、〈○下略〉
p.0442 承久二年四月十六日、此日東宮〈○順德皇子仲恭〉始聞二食魚味一、〈○中略〉 屯食事 合卅具、自二院廳一召、出納所レ獻、渡二本宮廳一、今分二給之一、 分二配所々一 御膳宿 女官等 進物等番衆 已上盛屯食(○○○) 主膳監 主殿寮 御藏小舍人 召使 進物所舍人 廳直 釜殿仕丁 大番仕丁 已下荒屯食(○○○) 此外院御方進物所并廳下部、釜殿仕丁等分二給之一、
p.0443 元德元年十二月、御入内日同廿七日、御加冠日同廿八日庚戌、〈○中略〉 一屯食百具、〈盛屯食十五具、荒屯食八十五具、〉十五具前右大臣、〈盛三具〉十五具右大將〈盛三具〉十五具堀川大納言、〈同〉十具花山院大納言、〈盛二具〉十具左衞門督、〈同〉十具別當、〈盛一具〉十具中宮權大夫、〈同〉十五具別納所、今度前右府、右大將、中宮權大夫之外、不レ調二獻之一云々、
p.0443 つゝみいひ 包飯の義、記録に屯食といふ是也といへり、儀式帳には裹飯と見えれり、
p.0443 子輿與二子桑一友、而霖雨十日、子輿曰、子桑殆病矣、裹レ飯(○○)而往食レ之、
p.0443 裹飯 つゝみいひ つゝみ飯調樣は、所見を不レ得候へども、葉につゝみ候事、式にもほゞ所見候へば、東武の御作法同樣之事たるべく被レ奉レ存候、
p.0443 一年中三節祭時、供給儲備并勞作雜器事、 合貳仟肆百參拾玖具、〈○中略〉裹飯仟貳佰十五裹、 齋内親王御膳二具、〈○中略〉裹飯四百裹、已上六月祭レ之、 齋内親王御膳二具、〈○中略〉裹飯四百裹、已上九月祭レ之、十二月祭如二六月一祭レ之、
p.0443 裹飯は都々美伊比とよむべし、右官人已上の徒已下鳥子名等の中、長なるものは右折櫃、いやしきものには、櫃にも笥にも不レ盛て、柏に飯をつゝみて充るなるべし、今世御田祭の時、御田作丁の料の柏包飯とひとしきものならん、貞觀二年記五月櫃飯四十合、笥飯五百合、裹飯一万六千九百六十枚、大炊式松尾祭料云々、裹飯百廿口と見ゆ、
p.0444 一年中三節祭時供給儲備事 合貳仟肆佰參拾玖具、〈○中略〉裹飯千二百餘、〈○中略〉 齋内親王御膳二具、〈○中略〉裹飯四百裹、已上六月祭レ之、 齋内親王御膳二具、〈○中略〉裹飯四百裹、已上九月祭レ之、又十二月祭如二六月一祭レ之、
p.0444 松尾祭料 米二石九斗二升八合〈一石四斗二升八合机六前、折櫃卌五合、大笥卌三合、裹飯百廿口料、一石五斗百度料、〉
p.0444 野行幸事 又給二王卿以下等大炊寮調裹飯一
p.0444 貞觀二年五月十一日庚申、天皇及皇太夫人以二米六百斛、〈○中略〉櫃飯四十合、笥飯五百合、裹飯一萬六千九百六十枚一、〈○中略〉施二僧尼優婆塞、優婆夷、及隱居飢窮之輩二萬九千六百七十四人一、以助レ修二淳和太后齋會一也、
p.0444 仁平三年八月八日乙丑、於二土御門一定二春日詣雜事一〈○中略〉 一佐保殿御裝束饗 二十一日、〈○中略〉裹飯千果、五位御庄百果、 侍從池三百果 猪熊御庄三百果 百垣御庄三百果
p.0444 燒飯(アキイヒ/○○) 今案ニ飯ヲ搏(マロメ)テ爲レ丸、如二鴨子大一、薄ク押シ扁メ、加レ之炭火上一、而燒レ之、微シ焦而色變ズルヲ爲レ度、熱時食レ之、温レ中補レ胃、除二水濕一、止二泄痢一、病人宜レ食、雖二燒炙之物一不レ令二人渇一、或熱湯熱茶ヲカケテ食ス亦ヨシ、ヤキ過シコゲコハキハ消化シガタシ、不レ可レ飡、卻害レ人、
p.0444 諸食〈團飯〉 團充二旅食一者、謂二之搏飯一、〈此云二模須備一(○○○)〉呂氏春秋愼大覽曰、襄子方食二搏飯一有二憂色一、禮記曲禮曰、母レ搏レ飯、釋文曰、搏徒端反、飜譯名義集曰、段食、古譯經律、皆名二搏食一、説文搏圜也、禮云、無レ搏レ食、通俗文、手團曰レ搏、梁溪漫 志曰、滕逵道口占盜犬辭曰、搏飯引來、猶掉二續貂之尾一、持レ刀撃去、雖レ囘二顧兎之頭一、搏亦作レ團、太平廣記曰、就レ婢乞レ食、團レ飯授レ之、頓造二二升一、説岳全傳曰、那些軍士長々帶二了團飯一走レ路、熙謂、今人造二飯團一、用二脱子一、印爲二正方角一、〈俗云二幾利飯一〉宜三呼爲二角飯一、〈韓愈會合聯句詩、剥レ苔弔二斑林一、角レ飯飼二沈塚一、角飯蓋言二筒飯一、楚人五日以レ筒貯レ米、祭二屈原一故事、今假用二其字一、〉
p.0445 握飯(○○)〈ニギリメシ、古ハドンジキト云、屯食也、今俗、或ハムスビト云、本女詞也、〉 今世ハ掌ニ鹽水ヲ付テ握レ之、三都トモ形定ナシト雖ドモ、京坂ハ俵形ニ製シ、表ニ黑胡麻ヲ少シ蒔モノアリ、江戸ニテハ、圓形或ハ三角等徑一寸五分許、厚サ五六分ニスルモノ多シ、胡麻ヲ用フルコト稀也、多クハ握テ後ニ炙レ之モアリ、江戸今製掌ニ握リ製シ、或ハ木形ヲ以テ押シ製ス、 又江戸芝居觀者ノ中食ニ專ラ握リ飯ヲ用フルヲ例トス、炙製ニシテ、菎蒻、燒豆腐、芋、蒲鉾、玉子燒等ヲ合ス、 江戸吉町万久ト云店ニテ製レ之賣ル、名附テ幕ノ内ト云、芝居小茶屋ニハ自家ニ不レ製レ之、万久ヨリ取テ觀者ニ賣ルモアリ、今ハ芝居淺草ニ遷ルトイヘドモ、尚、吉町万久ノ幕ノ内店存セリ、芝居堺町ニ在リシ比ヨリモ、芝居用ノミニ非ズ、病氣見舞ニ贈リ物トシ、或ハ儉ノ他行ニ辨當ニ用レ之、其折入一人分百文也、
p.0445 むかし大猷院樣〈○德川家光〉の御代、〈○中略〉阿部對州は、燒飯を紙につゝみて持參あり、御晝食にめしあげられし、そのつゝみ紙の皺をのばし、その紙につきし飯をひろひてこれを給(たべ)られ、其跡にて鼻をかみなどせられしを見しものありしとぞ、〈夜譚隨筆〉
p.0445 鳥子 年中記〈天文六年九月紀公光記〉 一御うぶたての事〈○圖略〉 御はこ物をかたと同じく入て、上に鳥の子(○○○)をにぎりて、三日には三、五日には五、七日には七〈ツ〉置也、 折のせい口一尺貳寸、足は三あし、かはの高サ四寸口傳有、 右武家御うぶたて御膳之由に候、如レ此所見候へば、鳥子(○○)はたゞ強飯をむすびたると存候、説々可レ有レ之、とくとは得考不レ申候、