p.1353 琉球ハ、一ニ沖繩(オキナハ)ト云フ、薩摩ノ西南海中ニ在リ、東北ヨリ西南ニ亘リ、凡ソ二十七里東西廣キ處十里、狹キ處一里餘、南北凡ソ十里、周廻凡ソ七十四里、地勢狹長、山川ノ稱スベキナシ、中世畫シテ三區ト爲ス、中頭、島尻(シマシリ)、國頭ト曰フ、而シテ大小數十ノ島嶼之ニ屬シ、點々海中ニ散布ス、 琉球開國ノ始祖ヲ天孫氏ト曰フ、相傳フルコト二十五世、島中大ニ亂ル、浦添按司尊敦、代リ立テ全島ヲ統ブ、是ヲ舜天王トナス、尊敦ハ源爲朝ノ子ナリト云フ、永享年中、將軍足利義教、薩摩ノ守護島津忠國ニ琉球ヲ賜ヒ、其附庸トス、是ヨリ先、琉球明ニ通ズ、是ニ於テ皇朝及ビ明ニ兩屬ス、既ニシテ漸ク使聘ヲ修セズ、慶長十四年、島津家久、將軍徳川秀忠ニ請ヒ、將ヲ遣シテ之ヲ伐ツ、是ヨリ世々貢禮ヲ修ス、明治維新ノ後、詔シテ藩ト爲シ、國ヲ西海道に屬セシム、後又藩ヲ廢シテ沖繩縣ヲ置キ、全島ヲ統治セシム、
p.1353 琉求(リウキウ)
p.1353 琉球(リウキウ)〈外國〉
p.1353 琉球國之事略 異朝の書を按るに、昔は流求と記したり、近代に及て琉球とは記せり、一説に流虬と記せしを、今
p.1354 は琉球と記す、此國虬(ミツチ)の大海の中に蟠る如くなれば、流虬と云しと云々、按るに流虬の説心得られず、我國の書に見えし處は、往古鎭西八郞爲朝、大海の流に隨ひて求め出されし國なれば、流求と記と云、此説も誤れり、夫より先倭漢の書に皆々流求と記たり、又一説に、龍宮と云し也、我國の書に龍宮と云習はせるは此國也といふ、是も亦心得られず、只何となく古よりりうきうと云しを、後に漢字を假りて流求共、琉球とも記せし成べし、
p.1354 りうきう 琉球、瑠球、流求、龍宮など書り、今中山と稱す、慶長十九年、王自來朝す、南島志に、山海經の南倭也といへり、明史に、万暦四十年、日本果以二勁兵三千一入二其國一、虜一其王一還、遷二其宗廟一、大掠而去と見ゆ、薩州の兵の時也、安永四年五月に、志摩鳥羽浦に漂流す、十二三間の船也、船主照屋筑登之、船頭宮里と、水主以下十八名、髮結たる所に銀の笄二本を指り、又眞鍮とあり、
p.1354 國號 琉求〈隋書〉 流鬼(リウキ)、〈新唐書〉是流求の下音の約りたるなるべし、瑠求、〈元史〉瑠球、〈奥志〉留仇〈續文章正宗〉留求、〈性靈集〉流梂、〈三善清行が智證大師の傳〉流虬(リウキウ)、〈中山世鑑〉琉球〈同上〉明の洪武琉球と改むといへり、しかれ共宇治大納言の今昔物語に、仁壽三年、宋の商人良暉が琉球へ漂流の事を載て、琉球の名あれば、唐宋よりありし名と見えたり、中山(チウザン)むかし琉球分れて三つとなり、中山、山南、山北といふ、各王あり、其後中山王南北を一統したれば、中山の名は止むべきなれ共、舊によりて今に中山といふなり、清より册封の詔書にも、なを琉球國中山王といふ文あり、掖玖、〈日本紀〉掖玖の唐音ウエキーなり、今薩音にて琉球をリユキーといへば、掖玖も琉球の轉音なり、夜句、〈同上〉夷邪久、〈隋書〉此は隋の時夷邪久といひしにあらず、煬帝二年、朱寛海に入て異俗を求る時琉球に至り、撫すれども從がわず、其布甲を取て返る、時に日本の使是を見て、此は夷邪人の用る處也といひしを聞て書したるにて、隋の時彼方にて元より夷邪久といひたるにはあらず、彜邪久、〈續弘簡録〉うるま
p.1355 のしま、〈狹衣〉言葉の聞しらぬを、うるまのしま人よといへるなり、琉球をさしていふにはあらず、さるを下紐と云解に、うるまは琉球なりとあり、依て今世の人、只一筋に琉球の事と思へり、公任卿の集に、しらぎのうるまのしま人とあれば、新羅に屬せし島とみえたり、鬼島、〈保元平治物語〉おきなはしまの下略なり、屋其惹、〈土俗自稱〉おきなとは沖繩の下略にて、其國の形ち細く長く、繩の如く海中に浮べりと云意にて、沖繩島也と先輩いへり、惡鬼納、〈同上〉於伎夜、〈同上〉宇伎夜、〈同上〉共におきなの轉也、ウとオ音通ず、
p.1355 爲二大使一與二福州觀察使一書一首 賀能啓、〈◯中略〉今我國主、顧二先祖之貽謀一、慕二今帝之徳化一、謹差下太政官右大辨正三位兼行越前國大守藤原朝臣賀能等上充レ使、奉二獻國信別貢等物一、賀能等、忘レ身 レ僉、冒レ死入レ海、他既辭二本涯一、比レ及二中途一、〈平〉暴雨穿レ帆、〈平〉戕風折レ柁、〈他〉高波沷レ漢、〈他〉短舟裔裔、〈他〉颽風朝扇、〈他〉摧二肝躭羅之狼心一、〈平〉北氣夕發、〈平〉失二膽留求(○○)之虎性一、
p.1355 驛圓珍、姓和氏、讃州那珂郡人、〈◯中略〉初珍泛レ洋、北風俄起、漂二流求國(○○○)一、遙見數十人持二戈矛一、立二濱坻一、良暉悲泣謂レ珍曰、我等當下爲二流求一所上レ噬、爲二之如何一、蓋流求者、海島之啖レ人國也、
p.1355 東夷 琉球 煬帝大業初、海帥何蠻等云、毎二春秋二時、天清氣靜一、東向依稀似レ有二煙霧之氣一、亦不レ知二幾千里一、三年、帝令三羽騎尉朱寛、入レ海求二訪異俗一、得何蠻遂與倶往、因到二琉球國一、言不二相通一、掠二一人一、并取二其布甲一而還、時倭國使來朝、見レ之曰、此夷邪久國人所レ用也、帝遣二虎賁郞將陳稜、朝請大夫張鎭州一、率レ兵自二義安一〈今潮陽郡〉浮レ海擊レ之、至二琉球一、初稜將二南方諸國人一從レ軍、有二崑崙人一頗解二其語一、遣三人慰二諭之一、琉球不レ從、拒逆二官軍一、稜擊走レ之、進至二其都一、頻戰皆敗、毀二其宮室一、虜二其男女數千人一而還、
p.1355 琉球國、小而貧弱、不レ能二自立一、雖レ受二中國册封一、而亦臣二服於倭一、倭使至者不レ絶、與二中國使一相錯
p.1356 也、蓋倭與接レ壤、攻レ之甚易、中國豈能越二大國一而授レ之哉、其國敬レ神、以二婦人守レ節者一爲レ尸、謂二之女王一、世由二神選一以相代云、自二國王一以下、莫レ不二拜禱一、惟謹田將レ穫必禱二於神一、神先往採二數穗一茹レ之、然後敢穫、不者食レ之立死、禦レ災捍レ患屢顯二靈應一、中國使者至則女王率二其從二三百人一、各頂二草圜一、入二王宮中一視二供億厨饌一、恐レ有レ毒也、諸從皆良家女、神特攝二其魂一往耳、中國人有レ代二彼治レ庖者一、親見二神降一、其聲鳴鳴如レ蚊焉、
p.1356 適有下大國名二尚島(○○)一者上、其子受二間金一、遂殺レ父來降、關白自爲二天授一、令三州廣造二兵船一聲言、三月、入二寇大明一、〈◯中略〉又差レ人脇二琉球一、勿一貢二大明一、致レ漏二事機一、時有二福建同安船商陳申一、寓二琉球一、因與二鄭迵一商議、乘二本國進貢請封之使一、備將二關白情由一奉報、陳申搭レ船回、面稟二巡撫趙參魯一以聞、此萬暦十九年四月也、
p.1356 尚島蓋指二琉球一、國王多以二尚字一爲レ名、故訛爲二尚島一、
p.1356 おきな〈◯中略〉 中山傳信録に、土人自呼二其地一おきなといふ、蓋舊土名也と見ゆ、沖中の義にや(○○○○○○)、
p.1356 琉球語 琉球土人居二下郷一者、不三自稱二琉球國一、自呼二其地一曰二屋其惹(○○○)一、蓋其舊土名也、
p.1356 おきなひと〈◯中略〉 中山傳信録に、琉球人おきなびと、日本人やまとびとヽ見ゆ、
p.1356 沖繩島(○○○)〈即中山國也、又作二惡鬼納島一、中山方言於喜耶、又曰二宇喜耶一、中山傳信録作二屋其惹一、琉球國誌略云、按屋其惹、徐葆光録謂二其舊土名一非也、細考之、乃土音如レ此、令レ之作レ書、則仍是琉球兩字耳とぞ、按に、屋其惹は即沖繩、其土音繩を呼ことヤンの如し、豈屋其惹の土音琉球ならん哉、周煌國志略深く考ずして、妄に徐葆光の説を駁、尤杜撰甚し、〉音海字海卷之一附録夷語音釋人物門曰、琉球人、〈倭急拿必周〉日本人、〈亞馬吐必周〉琉球國王、〈倭急拿敖那〉今按に、是琉球人より聞たる所を取りしなるべし、其故は、凡琉球本邦人を稱して養徳知宇といひ、自國人をさして倭急耶知宇といふ也、〈必周の周、疑は圖の誤字、又敖那の下、志の一字を脱する、敖那志は尊稱なり、琉球方言沖繩御主なり、 國志略加那志に作る、從べし、凡琉球國語載〉
p.1357 〈て中山傳信録に在り、可レ見二皆我東方語音耳一、其繁沓をもて爰に復記さず、〉南島志曰、周廻七十四里、〈是據、此間里數而言、凡六尺爲レ間、六十間爲レ町、三十六町爲レ里、後皆傚レ此、〉南去二本藩麑府一二百九十五里半、〈至二北運天長濱一三百八十里〉間切二十七、海港二所、村落數百、 舊説云、沖繩島者、即沖之島といふ事なり、日本紀火々出見御歌に、沖津鳥鳬著島と詠じ給ひしより出たり、繩は之の音の轉ぜしなり、今按、繩今の那覇是耳、沖といひ繩といふ、本是兩地の名、合而沖繩といふに似たり、 一説云、倭急耶とは、沖掖玖の略言なり、即古之所レ謂掖玖にして、而後今の馭謨郡益救に分て沖といふなり、今按、沖之島轉じて沖繩といひ、沖繩方言沖屋といふ、而其倭奴のごとき、又沖之の略にして、國史以て掖玖と云、即南島志所レ謂、其路所レ由と、是今の屋久島、南島の中、此方地に密迹す、當時南島地名未レ詳、其端島の名をもて各島を混じ稱する耳、於レ是流求をもて沖屋久といひしに似たり、然共其據る所未審なることを考がたし、
p.1357 廿一日戊午、〈◯唐天寶十二年十一月〉第一第二兩舟、同到二阿兒奈波島(○○○○○)一、在二多禰島西南一、
p.1357 少將は、都にてさつまがたへと聞給ひしかば、さもやはと思給けるに、九州のうちには有ざりけり、誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、まして此島の有様傳聞ては、各もだえこがれけるこそむざんなれ、〈◯中略〉さつまがたとは總名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本へ隨へり、おく七しまはいまだ我朝に從はずといへり、白石、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、あせ波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは(○○○○)、きかいが島といへり、
p.1357 うるまのしま 琉球をいふといへり、蠻國にさうるまあり、袖中抄などにも、いづくともなし、
p.1357 こはいかにかとよ、うるまのしま(○○○○○○)の人ともおぼえ侍るかな、
p.1357 一こはいかに 〈引〉おぼつかなうるまの島の人なれやわがことのはをしらずが
p.1358 ほなる、琉球をうるまの島と云と也、
p.1358 うるまの島琉球にあらざるの辨 笈埃隨筆、夏山雜談等に、うるまの國とは琉球なりといへり、これはもと狹衣といふ册子に、うるまの島といふことのあるを、紹巴の下紐といふ註釋に、琉球なりといへるによると見ゆれども、謬りなり、うるまは新羅〈今の朝鮮なり〉の屬島にして、琉球にはあらず、自ら別なり、その證は大納言公任集に、しらぎのうるまの島人來りて、こヽの人のいふことも聞しらずときかせたまひて、返りごと聞えざりける人にと、詞書ありて、おぼつかなうるまの島の人なれやわが恨むるをしらずがほなる、〈千載集には、四の句をわがことのはをに作る、〉また本朝麗藻に、新羅國 陵島人とも見えたり、これにて琉球ならざることいと分明なり、前田夏蔭云、うるまは 陵の韓音なりといへり、
p.1358 琉球國ナリ、〈◯中略〉日本ノ西南海中ニ在、王城ノ門ニ龍宮城ト云額ヲアゲタリ、古昔ヨリ日本ニテ龍宮ト云ハ、此國ヲカタドルナラン、
p.1358 古事記曰、如二魚鱗一所レ造之宮室、楚辭魚鱗屋、号龍堂、今按此擬二水府一而言、故口訣纂疏等直爲二龍宮(○○)一也、 古事記曰、稻氷命者爲二妣國一而入二坐海原一也、姓氏録曰、新良貴、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊、男稻飯命之後也、是出二於新良國主一、鑑眞和尚傳曰、或漂二日南國一、或赴二龍宮一、琉球神道記曰、琉球王門牓記二龍宮城一、
p.1358 海神の宮は、海の底にある國なり、後世のなまさかしき説どもは、古傳の趣にかなはず、〈佛書に龍宮と云る物あり、其説るさま、あやしきまで此段にいとよく似たる處あり、(中略)さて又近き代のなまさかしき人の心には、水中に宮室などのあるべき理なしと思ひとるから、かの龍宮などの説をも信ず、此段の事をも、實は海底には非ずとして或は薩摩國近き一の島なりといひ、或は琉球國なりといひ、或は對馬なりなども云て、其証などをもとりどりに云めれど、凡てさる類は、皆古傳に背ける例の儒者意の私事なり、〉
p.1358 通信 貢使
p.1359 琉球の我國に通信する事は、いとも久しかりけん、神代卷に、天孫彦火火出見尊海宮に趣かせ給ひ、海神豐玉彦の女豐玉姫を娶り、海宮に留りまします事を載す、又玉依姫鵜草葺不合尊の皇妃に海宮より立せ給ふとあるを、海宮とは當時琉球をさして云へりといふ諸家の説あり、此は正しく史策に載ざれば、臆斷に出たる説なれど、私に思ふに、信に左もあるべしと覺えぬ、其故は、日向大隅以南諸島多しといへ共、君臣禮節の備りたるは琉球に若べからず、今雍熙の淳風四達し、遠く島嶼に及び、頑民皇化に浴といへども、琉球以外の諸島は、こと〴〵く窮境仄陋の夷蠻にして、君長ある事をしらず、況や太古に在りては、其賤劣愚魯推して測るべし、天孫何ぞ三年の久しきに堪させ給ふべき、其上二代の皇妃に立せ給ふ程の、端正莊麗の女子のおはすべき共覺えず、是一の證也、今琉球の崇祠多き中に、彦火々出見、葺不合の二尊を崇祀し、及び豐玉彦、豐玉姫、玉依姫をも祀る事を聞けり、又我國の古語、往々彼國に殘れるが中に、豐といひ玉といふ事いと多し、凡そ彼國の事情云爲、太だ我に近くして、和歌をよみ得ものまヽ多し、此を二の證とす、文字は應神帝十六年に渡り初め、彼國にも中古舜天以後より始ると見えたり、しかれば天孫と稱し奉る事も、應神以後より稱し奉る事とはしられたれど、彼も亦天孫氏といへば、我天孫彼國に留らせ給ふ中に、皇胤を殘して歸らせ給ひ、さて其皇胤彼の開闢の君とならせ給ふも亦しるべからず、此を三の證とす、京都將軍の末、政道弛て西國沿海の地、無頼の士私に船槎を出し、兵器を携へ、琉球臺灣、安南、呂宋、閩廣の間を鋟し劫し、貲財を奪ひ取る事あり、明に此を倭寇と云て大に畏る、その劫すもの詞に、龍宮城へ至り寶を得たりとなんいひしと、今も其地にて語り傳へける、是龍宮域とは、泛く海島をいひし事なれ共、日向大隈よりして、諸島つらなり、甚至り易は琉球なれば、此を四の證とす、琉球の衣冠は、明の制を受て其俗變といへども、男子の簪を插は、其國固有の風なるべし、國王は龍頭の簪を用ふといへり、今國俗
p.1360 の海宮王の姿を描に、龍冠を戴く形を作る、畫工元より本基ありて圖するにあらねば、是徴とするに足らざれ共、暗に其同軌に出るを強て五の證とす、此等を合せ考ふるに、海宮は琉球たる事決定して知ぬべし、されば我と琉球とは、尊卑等殊也といへども、相隣て唇齒とやいわん、肝膽とやいわん、此より後、續て貢使の往來ありつべけれど、考ふる所なし、
p.1360 其國薩州の南一千六百里、福州の正東千七百里にあり、北極出地二十六度二分三釐、偏度北極の中線を去り、東に偏る事五十四度、牛女の野にあたる、
p.1360 琉球國ナリ、是モ海中ノ島國也、中華ノ東南海中に在、大寃ヨリ少シ北東ニ有島也、〈◯中略〉北極出地廿七度許、氣候暖國也、大寃ヨリハ寒シ、日本帝都ヨリ凡二百四十餘里ノ直徑ノ南ニシテ、方角ハ西南ニテ、海路ハ六百餘里成ベシ、薩州ヨリ海路三百里バカリ也、國中蛇多シ、日本ノ鼠ノ如シ、薩州迄ノ海中ニ數多ノ小島有、皆々薩州琉球ヨリコレヲ領ス、土産、木綿、芭蕉布、黒砂糖、アワモリ酒、其外藥種類品々也、
p.1360 疆域 沖繩島、薩摩ノ開聞岬ノ西南少南、海上凡壹百三拾六里ニアリ、東北ヨリ西南ニ亘リ、長凡貳拾七里、東西廣處壹拾里、狹處壹里餘、南北凡壹拾里、周回七拾四里、幅員凡壹百六拾方里、其南島ヲ宮古八重山(ミヤコヤヘヤマ)群島トナシ、之ヲ先島ト稱ス、
p.1360 計羅摩島(○○○○)、〈舊作二計羅婆島一〉明人稱謂二鷄籠嶼一即此、〈鷄籠嶼見二崑山鄭士若琉球國圖一、按二皇明實記一、所載鷄籠淡水一名二東番一、非レ謂二此島一也、其名偶同身、〉去二那覇港一西行七里、而至レ于レ此、其周廻三里、座間味島隷焉、旁近小島凡八、土壤狹少、皆非下有二民居一者上、〈座間味島周廻二里二十四町、赤島周廻一里十八町、國人云、中國人稱二馬齒山一者即此、〉去レ此西往、先島〈南海諸島總稱曰二先島一〉海中砂礁、其國稱曰二八重干瀬一者、南北五里、東西里半、〈使琉球録所レ謂、古米山水急、礁多、舟至レ此而敗者即此、〉或曰二礁東一、或曰二礁西一、兩路均是七十五里、而至宮古島針孔之濱一也、 戸無島(○○○)島在二那覇港西北二十六里一、周廻一里六町、側近小島曰二天未奈一、其地甚狹、無二人住者一、
p.1361 久米島(○○○)、〈舊作二九米島一〉在二那覇港及計羅摩島西一、周廻六里二十町、所レ屬間切二、曰二中城一、曰二具志河一、港二、其南曰二兼城湊一、〈港深一町濶五十間、可レ泊二大船四五隻一、〉其東曰二町屋入江一、〈其港淺狹、船隻難レ泊、〉並皆去二那覇港一四十八里、國史所レ謂、球美、〈見二續日本書紀一〉明人以稱二古米一即此、〈見二使琉球録、及廣輿圖等一、〉閩人三十六姓之後所レ居也、直北五里有二鳥島者一隷焉〈即謂二久米鳥島一者〉 粟島(○○)、島在一戸無島北一、其周廻二里十二町、去二那覇港一西北三十里、 伊惠島(○○○)、〈舊作二泳島一〉即明人所レ稱移山嶴、〈見二使琉球録、及廣輿圖閩書等一、〉五島相接、而至二今歸仁西北港口一、〈港名曰二爾與波入江一〉去二島港口一約可二二里一、其周廻四里七町、 惠平屋島(○○○○)、〈舊作二惠平也島一〉隨書作二黿鼊嶼一、明人以謂二熱壁山一、或謂二葉壁山一、〈熱壁見二使琉球録及廣輿圖一、葉壁見二閩書一、按廣輿圖分二載黿鼊嶼熱壁山一者訛、〉周廻二十六町、在二今歸仁間切正北十里一、其南小島、名曰二乃保一、即隷レ于レ此、〈乃保島周廻二十三町、去二惠平屋島一五町、〉 伊是那島(○○○○)、島在二惠平屋島南里餘一、周廻二里十八町、所レ隷二島、其南曰二具志河一、其北曰二柳葉一、並皆狹小、非下有二居人一者上、 鳥島(○○)島在二惠平屋島東北五十餘里一、周廻二十四町、厥土産二硫黄一、明人所レ謂硫黄山即此、〈見二使琉球録、及廣輿圖閩書等一、〉 以上九島、古中山之地、 與論島(○○○)〈舊作二輿論島一〉明人稱二繇奴島一、在二沖繩島東北一、而其北接二水良部島一、〈繇奴見二閩書一〉周廻三里五町、所レ屬村二、曰二武幾也一、曰二阿賀佐一、其港曰二阿賀佐泊一、泊即謂下可二泊船一之所上也、去レ自二運天湊一東北行二十里而至于レ此、〈港口淺狹、大船未レ易二出入一、〉 永良部島(○○○○)、〈舊作二惠羅武島一〉在二與論島北一、而其北接二徳島一、明人稱二野刺普一即此、〈見二閩書一、南島名二永良部一者凡二、隷二大隅國一、謂二之口永良部一、隷二八重山一謂二之奥永良部一、名義未レ詳云、〉周廻十里十八町、所レ屬間切三、曰二木比留一、曰二大城一、曰二徳時一、其港曰二大和泊一、去レ自二與論島一東北行十三里、而至レ于レ此、〈港深二町二十間、濶二町四十間、大船未レ易二出入一、〉 徳島(○○)、〈舊作二度九島一〉國史所レ謂度感島、〈見二續日本書紀一〉在二永良部島北一、而其東北接二大島一、周廻十七里三町、所レ屬間切三、曰レ東、曰二西目一、曰二面繩一、港三其東曰二秋徳港一、〈港深一町濶町可レ泊二大船三隻一〉去レ自二永良部島一東北行十八里、而至レ于レ此、其
p.1362 西曰二大和爾也泊一、其北曰二井之川一、西北二港、並皆淺狹、大船未レ易二出入一、 大島(○○)、島在二徳島東北十八里一、琉球北界也、〈續文獻通考所レ謂琉球北山是也〉國史所レ謂阿麻彌島、或作二菴美一、並皆謂レ此、阿麻彌者上世神人名也、其東北有レ山、乃神人所レ降、因名曰二阿麻美嶽一、島亦因得二此名一、地形稍大、後稱以爲二大島一、其周廻五十九里十町、所レ屬間切七、曰二笠利一、曰二奈瀬一、曰二古見一、曰二住用一、曰レ東、曰レ西、曰二燒内一、港八、曰二西古見湊一、曰二燒内湊一、曰二大和馬場湊一、曰二奈瀬湊一、曰二深井浦一、曰二世徒多浦一、曰二瀬名浦一、曰二住用湊一、〈西古見湊港、深五十間、濶三十間、可レ泊二大舶五六隻一、此去到レ于二徳島一有二兩路一、其一正南行十八里、可三以抵二井之川一、其一西南行十八里、可三以抵二大和泊一、燒内湊在其東里、港深三里、濶三十町、可レ泊二大船二百隻一其東七里、即大和馬場湊、港深五町、濶三町、可レ泊二大船五六隻一、又其東五里、即奈瀬湊港、深十二町、濶五町、可レ泊二大船十四五隻一、又其東北里、即深井浦港、深三十町、濶四町、可レ泊二大船三十隻一、其東南八里、即世徒多浦、此嶴淺狹、不レ可二泊船一、其南四里、即瀬名浦、亦不レ可二泊船一、其西南四里半、即住用湊港、深三町、濶二町、可レ泊二大船七八隻一、自レ此南去而轉二西北一、抵二西古見湊一、約十三里、〉去レ自二深井浦一西北行三十五里、至レ于二七島一、〈島之大小十餘、錯在二海中一、總稱二七島一、隷二薩摩國一、使琉球録、及閩書所レ謂七島者即此、〉其海潮常向レ東而落、乃是元史所レ謂落漈水、趨下而不レ囘者也、凡諸島相離、中間所レ謂落漈者、往往在焉、〈使琉球録以爲二落漈不一レ知レ所レ在、謂下遠去二琉球一而非中經過之處上者非、〉又去レ此北行七十里、至レ于二大隅國一、永良部島、俗謂二之阿麻彌洲之度一、蓋古遺言也、所レ隷三島、曰二加計奈一、〈周廻十五里〉曰二于計一、〈周廻四里九町〉曰二與路一、〈周廻三里二十町〉並皆在二大島之南一、 鬼界島(○○○)、島在二大島東南七里一、〈自二世徒多浦一東南行七里、至二鬼界島椀泊一、〉周廻六里二十四町、所レ屬間切五、曰二志戸桶一、曰レ東、曰二西目一、曰レ椀、曰二荒本一、其港在レ西曰二椀泊一、乃是明人所レ稱吉佳、〈見二閩書一〉琉球國東北極界也、〈國人云二小琉球一蓋此、未レ知二是否一、〉 以上五島古山北之地 宮古島(○○○)、島即明人所レ謂大平山也、〈見二廣輿圖一、按星槎勝覽云、琉球有二大奇山一、島夷志云、大崎山極高峻、夜半登レ之、望二暘谷日出一、紅光燭レ天、山頂爲レ之倶明或此、〉在二計羅摩島西南七十五里一、周廻十一里、所レ屬間切四、曰二於呂加一、曰二下地一、曰二平良一、曰二雁股一、〈此島無二可レ泊レ船之所一〉所レ隷六島、曰二以計米一、〈周廻一里八町〉曰二久禮末一、〈周廻一里〉曰二永良部一、〈即是奥永良部島、周廻四里二十町、〉曰二下地一、〈周廻里〉曰二太良滿一、〈周廻四里〉曰二美徒奈一、〈周廻一里〉去レ此西行五十二里、至二八重山一、其海潮亦常向レ東而落、乃所レ謂落漈者、〈去二宮古島針孔濱一、向二西南一行三十五里、至二太良滿島一、又去レ西至二石垣島平窪崎一十八里、〉
p.1363 八重山島(○○○○)、石垣入表 島之地、總稱以爲二八重山一、國史稱二信覺一、〈見二續日本書紀一〉星槎勝覽稱二重曼山一、蓋皆謂二此石垣一、乃是信覺之轉耳、石垣島(○○○)周廻十六里十七町、所レ屬問切四、曰二河平一、曰二宮良一、曰二大濱一、曰二石垣一、其港二、在二西北一曰二河平湊一、〈去二宮古島針孔濱一五十八里半、港深六町三十間、濶一町、大船二三十隻可二以收泊一、〉在レ南曰二御崎泊一、港口淺狹、不レ可レ泊レ船、唯其西南要津耳、堂計止美島、黒島、波照間島等隷焉、〈堂計止美島在二御崎泊西一里二十八町一、周廻一里三十町、黒島在二堂計止美島西南二里二十町一、周廻亦二里二十町、其所レ管二島、曰二上離島一、周廻二十町、曰二下離島一、周廻二十七町、並在二黒島西南一波照間島周廻三里二十町、去二黒島一十四里許、乃是琉球南界也、〉 入表島(○○○)、在二石垣島之西南一、〈石垣島有レ山、曰二於茂登嶽一、此島在二波山之南一、故名曰二伊利於茂登島一、方言凡深奥之所、謂二之伊利一、伊利即入也、表者於茂登之語訛耳、〉周廻十五里、所レ屬間切二、曰二古見一、曰二入表一、亦有二小濱、鳩間、内離、外離等島一而隷焉、〈小濱在二堂計止美西二里一、其周廻三里、小濱之北有二宇也末島一、狹小而無二人住者一、鳩間島在二入表西北一、海上二里半、内外離島在二入表西南海灣一、三島亦皆狹小、非下有二民居一者上、〉去レ此以西、路過二落漈一、而行二四十八里一、至二與那國一、其地周廻五里十町、乃是琉球西界也、〈與那國、亦隷二入表島一焉、〉 以上二島古山南之地
p.1363 琉球〈◯中略〉 沖繩島〈管二十七村 方言呼レ村爲二間切一、而私稱レ郡、日本史云、沖繩即阿兒奈波之訛、 中山傳信録、國人至レ今自呼二流球一曰二屋其惹一、中山世譜云、中頭中山府、五州十一郡、原八郡、康煕年間分爲二十一郡一、島尻山南府、原十四郡、康煕年間分爲二十五郡一、國頭山北府、原十四郡、康煕年間分爲二九郡一、〉 計羅摩島〈管一村 或作二慶良間一 琉球史略云、東馬齒山大小五島、俗溪頼米、以下圈外注、皆採二琉球史略一、〉 戸無(トナキ)島〈管一村 或度名喜、度那寄、〉 久米島〈管二村 續紀作二球美一、姑米、〉 粟島〈管一村 或粟國島、 安根㞾、或阿姑尼、又安護仁、〉 伊惠島〈管一村 椅山、或椅世麻、亦伊江島、〉 伊是那(イセナ)島〈管一村 琉球史略不レ載〉 惠平屋島〈管一村 或伊比屋、又伊平屋、葉壁山、俗呼二禹臣馬一、〉 宮古島〈管六村 南七島國人皆曰二太平山一、始爲レ宮、古復爲二迷姑一、今麻姑、〉 八重山島〈管十一村 南北九島、國人皆曰二八重山一、一名北木山、土名彜師加紀按續紀云謂二信覺一、與二彜師加紀一音相近、疑是島、中山世譜以二此島一爲二太平山一、可レ疑、〉 鬼界島〈管五村 古作二貴賀一、或貴賀、或貴海、奇界、〉 大島〈管七村 鳥父世麻、自稱二小琉球一、〉 徳之島、〈管三村 續紀作二度感一、度姑、〉 永樂部島〈管三村 或永良部、伊良保、或惠良部、〉 與論島〈管一村、由論、〉 右島津氏所レ上二幕府一之圖籍所レ載如レ斯、而中山世鑑云、庇郞喇、〈俗呼二平良一〉姑李麻、〈俗呼二來間一、譯曰二古裏間一、一作二來麻一、土名來曰二姑李一、〉烏喝彌、〈俗呼二大神一、一作二宇間味一、〉伊奇麻、〈俗呼二池間一、譯曰二伊喜間一、〉面那、〈俗呼二水納一、一作二水名一、〉伊良保、〈俗呼二惠良部一〉達喇麻、〈俗呼二多良間一、一作二太良末一、〉七島總二
p.1364 稱一之曰二宮古島一、又曰二麻姑山一、伊世佳奇、〈俗呼二石垣一〉姑彌、〈俗呼一作二西表一〉烏巴麻、〈俗呼二小濱一、二島譯曰二宇波間一、〉阿喇斯姑〈俗呼二新城一、阿喇姑斯古、〉達奇度奴、〈俗呼二武富一、譯爲二富武一、一作二武富一、〉巴梯呂麻、〈俗呼二波照間一〉姑呂世麻、〈俗呼二黒島一、譯爲二久里島一作二黒島一、〉巴度間、〈俗呼二鳩間一、麻巴度麻譯曰二波渡間一、一作二鳩間一、〉由那姑尼、〈俗呼二與那國一〉以上九島、總二稱之一曰二八重山一、又曰二太平山一、姑達佳、〈俗呼二久高一、夏録作二孔達佳一、〉津奇奴、〈俗呼二津輕一〉巴麻、〈俗呼二濱比嘉一、譯爲二濱島一、〉伊奇、〈俗呼二伊計一、譯爲二池島一、以上東四島、〉姑米、〈俗呼二久米一、〉東馬齒、〈俗呼二前慶良間一〉西馬齒〈俗呼二西慶良間一、大小四島、以上西三島、〉度那喜、〈俗呼二度名喜一〉阿姑尼、〈俗呼二粟國一〉猗世麻、〈一曰二猗山一、俗呼二伊江一、〉葉壁山、〈俗呼二伊比屋一〉硫磺島、〈俗呼二鳥島一、硫磺山一名二黒島一、多レ鳥、又名二烏島一、以上西北五島、〉度姑、〈俗呼二徳島一、〉烏世麻、〈俗呼二大島一〉由論、〈俗呼二與論一〉永良部、〈俗同〉由呂、〈俗呼二與路一、一作二由路一、〉烏奴奇〈俗呼二冲野一、又曰浮野、〉佳奇呂麻〈俗呼二垣路間一呂一作レ路、又作二加喜呂麻一〉奇界、〈俗呼二鬼界一、以上東北八島、國人皆曰二烏父世麻一、過レ此爲二土噶喇七島一、亦作二度加喇一、臣按汪揖録七島者、口島、中島、諏訪瀬島惡石、臥虵島、平島、寶島也、人不レ滿レ萬、惟寶島較大、國人統呼之曰二土噶喇一、或曰即倭也、〉是爲(○○)二琉球三十六島(○○○○○○)一、
p.1364 琉球屬島全圖〈◯圖略〉 屬島三十六、爰に其方位を擧ぐ、東の四島、姑達佳、〈中山の東百四十五里〉津堅、〈中山の東三十五里〉巴麻、〈南北二島中山の東三十五里〉伊計、〈中山の東三十五里〉正西の三島、東馬齒、大小五島、西馬齒、大小四島、〈中山の正西百三十里〉姑米山、馬齒の西にあり、〈中山を去事四百八十里〉西北の五島、度那奇、〈姑米に近し〉安根㞾山、〈度那奇に並ぶ〉椅山、〈至て近し、汐退けば歩して至るべし、〉伊平屋、〈中山の西北三百里〉硫黄山、〈中山の西北三百五十里、姑米山と南北相峙す、〉東北の八島、由論、〈中山の東北五百里〉永良部、〈中山の東北五百五十里〉度姑、〈中山の東北六百里〉由呂、〈度姑の東北三十八里〉烏奇奴、〈度姑の東北四十里〉佳奇呂麻、〈中山の東北七百七十一里〉大島、〈中山を去事、八百里にあり、〉奇界、〈中山を去事九百里、最遠の界也、〉南の七島、太平山、〈中山の南二十里に在〉伊計麻、〈太平山の東南に在〉伊良保、〈太平山の西南に在〉姑李麻、〈太平山の正西〉達喇麻、〈太平山の正西〉面那、〈太平山の西南〉鳥噶彌、〈太平山の西北〉西南の九島、八重山、〈太平山の西南四百里、中山を去事二千四百里、〉烏巴麻、〈二島八重山の西南〉巴度麻、〈八重山の西南〉由那姑呢、〈八重山の西南、以上の四島、臺灣に近し、〉姑彌、〈八重山の西〉達奇度奴、〈八重山の西、姑彌の東、〉姑呂世麻、〈八重山の西少し北〉阿喇姑斯古、〈八重山の西〉巴梯呂麻、〈八重山の極西北〉
p.1364 州南諸島 大島、薩摩川邊郡寶島ノ南少東海上直徑壹拾八里、開聞岬ノ南南西七拾八里ニアリ、東ニ喜界島、南ニ徳之島、永良部島、與論島アリ、共ニ五島、其間小嶼點綴
p.1365 シ、大小總テ十餘島、支那人之ヲ小琉球ト稱ス、北緯貳拾七度壹分〈與論島〉ヨリ貳拾八度三拾壹分ニ至リ、西徑九度四拾八分、〈喜界島〉ヨリ壹拾壹度貳拾貳分〈與論島〉ニ至ル、大島五島ノ首ニ居リ、地最宏濶、山嶽重疊、湯灣嶽頗高峻、山脈東北ニ起リ、島内ニ散布シ、北部稍夷坦ナリ、沿岸港嶴參錯相望ミ、皆繫泊ニ宜シ、諸島風土、大抵琉球ニ同ジク、夏凉冬暖、草木繁茂ス、民俗亦敦樸ナリ、大島ハ即古ノ庵美(アマミ)ニシテ、琉球國祖肇基ノ地タリ、天武天皇十一年、始テ入朝貢獻シ、爾後往來絶エズ、文永三年、琉球ニ入貢シ、終ニ其屬島トナル、慶長十四年、島津家久琉球ヲ伐テ之ヲ取リ、喜界等四島ト共ニ、永ク薩摩ノ所管ニ歸ス、王政革新、鹿兒島縣ニ隷シ、治所ヲ大島名瀬ニ置キ、以テ諸島ノ事ヲ管ス、
p.1365 琉球三十六島 琉球屬島三十六、水程南北三千里、東西六百里、遠近環列、各島語言、惟姑米葉壁與二中山一爲レ近、皆不二相通一、擇下其島能二中山語一者上、給二黄帽一令レ爲二酉長一、又遣二黄帽官一涖治レ之、名二奉行官一、亦名二監撫使一、歳易レ人、土人稱レ之曰二親雲上一、聽二其獄訟一、徴二其賦税一、小島各一員、馬齒山二員、太平山、八重山、大島各三員、惟巴麻、〈中山讀二間字一、音同レ麻、華言山也、下傚レ之、〉伊計、椅山、硫磺山四島不レ設レ員、諸島無二文字一、皆奉二中山國書一我皇上聲教遠布、各島漸通二中國字一、購二畜中國書籍一、有下能讀二上諭十六條一、及能レ詩者上矣、〈◯下略〉
p.1365 三年七月辛未、多褹、夜久、菴美(○○)、度感(○○)等人、從二朝宰一而來、貢二方物一、授レ位賜レ物各有レ差、其度感島、通二中國一於レ是始矣、
p.1365 其地〈◯琉球〉の形ち角なき龍の流れたるがごとし、因て流虬といふ、東西の廣さ數十里、南北四百四十里、中山のみやこ首里より、南は喜屋武の海邊まで五十里、北は國頭の海邊まで三百八十里、我正和中、國分れて三と成、中山、山南、山北といふ、我永享年中、又併せて一統し、三省に分つ、中山を中頭省とす、首里、泊、那覇、眞和志、南風原、東風平、西原、浦添、宜野灣、中城、北谷讀谷山、勝連、與
p.1366 那城、越來、美里、具志川の諸府此に屬す、山南を島尻省とす、大里、玉城、豐見城、小祿、兼城、高嶺、佐敷、知念、具志頭、麻文仁、眞壁、喜屋武の諸府此に屬す、山北を國頭省とす、金武、恩納、名護、久志、羽地、今歸仁、本部大宜味、國頭の諸府此に屬す、國王のみやこする處を首里と云、湊を那覇と云、大港也、屬島三十六あり、遠近つらなりめぐる、海上の里數、南北三千里、東西六百里なり、諸島は察侍紀官を遣して治しむ、此を奉行といふ、大平山、八重山、大島は、島大なるゆへ三人、馬齒は二人、其外は各一人也、只巴麻、伊計、椅山硫黄の四島は、尤小なれば官をおかず、土著の頭目官をして治めしむ、
p.1366 異朝の書に見えし琉球國の事 琉球は、其國大小の二ツ有り、今の中山は、其大琉球(○○○)の國なり、 小琉球(○○○)の國は、中國に通る事なしと見えたり、其琉球の人に此事を問しに、小琉球といふ所詳ならず、今の大島の地を申せしにやと申す、此せつ心得ず、異朝の書に、小琉球は泉州の地に彭湖といふ所と煙火相望むといひ、又閩中の鼓山に上りて望むべしといふ、然らば閩中に近き海上に有や、大島ならんには、閩を去る事數千里を隔つ、又朝鮮の書に、小琉球の地は、琉球の東南水路七八日が程にあり、國に君長もなく、人みなたけたかく大にして、衣裳といふもなし、人死しぬれば、其親族集りて其肉をくらひ、其頭にうるしぬりて飮器とすといふ事あり、是も亦信用に足らず、
p.1366 琉球地圖〈◯地圖略〉 琉球、始名二流虬一、〈中山世鑑云、隋使二羽騎尉朱寛至一レ國、于二萬濤間一、見四地形如三虬龍浮二水中一、故名、〉隋書始見、則書二流求一、宋史因レ之、元史曰二瑠求一、明洪武中、改二琉球一、國在二閩福州正東一千七百里、偏南三里一、其地形東西狹、寛處十數里、南北長四百四十里自二中山首里一、南至二喜屋武邊海一、緊行一日半、北至二國頭邊海一、緊行三日半、明永樂以前、國分爲レ三、曰中山、曰山南、曰山北、宣徳并爲レ一、分爲二三省一、中山爲二中頭省一、屬府十四、山南爲二島窟〈一作尻〉省一、屬府十
p.1367 二、山北爲二國頭省一、府九、府土名間切、所屬皆稱二村頭一、土名母喇、國中亦有二五嶽一、辨嶽在二中山一、八頭嶽在二山南一、佳楚嶽、名護嶽、恩納嶽在二山北一、比二他山一爲レ高、佳楚嶽尤峻、爲二琉球第一峯一云、
p.1367 薩州の地より、琉球迄の海上、諸板にも顯し、琉球志抔にも其實説委しからず、今土人の言所、山川といふ津より南の方にあたりて、凡三百里計、夏冬によつて船路の替り有といへ共、其間に連る島大小三十餘、何れも船懸ある島にて、大坂へ往來せる海上よりも安し、薩州大隅の浦々に、國守よりのゆるしの廻船ありて、一ケ年に幾度といふ御定めありて渡海する也、鹿兒島よりも、士格の人數琉球の地へ渡りて勤番する役所も有る事にて、米のよく生ずる風土にて、二十餘万石薩州上納す、近き年の事にや、琉球すべて旱魃して、稻熟せず、〈暖國にて稻は五月熟頃也、〉國民飢渇せんとす、此時には、薩州侯數石の米を渡してすくひ給ふ年あり、すべて琉球人日本の風俗を慕ひて、薩州に屬せるといへども、中華福建省の地へ近く、やヽもすれば福州の爲になやまさるヽ事によつて、福建省の下知にも應じて聘禮する事也、薩州にては、知りても知らぬ體にて、是迄濟來りしといふ、
p.1367 琉球 此國、過半ハ福州ニ從ヒタル國ニテ、唐ヨリ往來モ有レ之也、薩摩ヨリ往來之所モ有レ之也、四季日本ヨリ暖ナリ、海上薩摩ヨリ二百里南西當レル島國也、
p.1367 雜事 彼國〈◯琉球〉北極出地二十六度二分三釐の地にして、時令大に皇國と同からず、其地氷雪なく、草木冬を經て枯れず、四方の山野蒼々たり、百蟲蟄せず、四時蚊帳をたる、甘藷植るに時なし、稻九月種を下し、五月刈收め、六月には田に禾穗なし、一年再登す、梅九月花さく、貧賤の小民は、芭蕉布の單衣一ツにて冬を渉るといへり、
p.1368 琉球 一名二阿兒奈波一、〈淡海三船僧鑒眞傳〉古時唯以二南島一呼レ之〈三善清行僧圓珍傳作二流捄一、性靈集作二留求一、元亨釋書、隋書作二流求一、元史作二瑠求一、或作二流虬一、〉大寶和銅間、内附來貢、靈龜元年、南島奄美、〈齊明紀作二見島一、天武紀作二阿麻彌一、文武紀作二菴美一、或云今天草島、〉夜久、度感、〈即徳之島〉信覺、〈即石垣〉球美、〈即久米〉等入朝、授位有レ差即是也、後與二白石、阿甑、黒島、硫黄等凡十二島一、總二稱之一曰二鬼界島一、皆通二内地一、至二長寛承安際一、往々離叛、十二島中鬼界以南七島、皆不レ屬、時薩摩人阿多權守平忠景、私越レ海至二鬼界一、遣二筑後守平家貞一討レ之、不レ果レ行、文治四年、源右將使二天野遠景、宇都宮信房一、擊二鬼界一、降レ之、先レ是〈保元元年〉鎭西八郞源爲朝、配二流于伊豆大島一、侵二略諸島一、遂到二鬼島一、懾二服島人一、掠二一人一而還、島人歳納二絹百匹一、所レ謂鬼島亦琉球也、既而爲朝子逃二島中一、代二天孫氏一爲レ王、世襲至二于今一云、〈中山世譜云、宋乾道元年、鎭西爲朝公隨レ流至レ國、生二一子一而返、其子名尊敦、後爲二浦添按司一、淳熙年間、天孫氏二十五紀之裔孫、爲二權臣利勇一所レ滅、時尊敦倡レ義起レ兵、誅二利勇一、國人推戴爲レ君、是舜天王也、舜天登位、制度新定、國俗大革、〉足利氏之時、琉球王時遣レ使貢二方物一、薩摩島津氏、世掌二接伴一、後復背叛、及二東照公之時一、島津家久奉レ教招レ之、不レ至、請而討レ之、慶長十四年、遣レ將南伐、平二其全島一、明年家久率二其王尚寧一、入二朝于駿府、及江都一、幕議以二琉球一賜二島津氏一、世々爲二其藩屬一、以後其使以レ時從二島津氏一朝貢、
p.1368 中山世系 中山世鑑云、琉球始祖爲二天孫氏一、其初有二一男一女一、生二於大荒一、自成二夫婦一、曰二阿摩美久一、生二三男二女一、長男爲二天孫氏一、國主始也、二男爲二諸侯始一、三男爲二百姓始一、長女曰二君君一、二女曰二祝祝一、爲二國守護神一、一爲二天神一、一爲二海神一也、天孫氏二十五代、姓氏今不レ可レ考、故略レ之、起二乙丑一終二丙午一、凡一萬七千八百二年、今斷、自二舜天一始、 舜天 宋淳熙十四年丁未、舜天即位、 舜天日本人皇後裔、大里按司朝公男子也、淳熙七年庚子、年十五、屢有二奇徴一、長爲二浦添按司一、人奉二其政一、斷獄不レ違、天孫二十五世政衰、逆臣利勇恃レ寵執權、鴆二其君一而自立、舜天討レ之、利勇死諸按司
p.1369 推奉即レ位、賞レ功罰レ罪、民安國豐、在位五十一年、壽七十二、嘉煕元年丁酉薨、
p.1369 琉球國之事略 此國の事、異朝の諸書に見へし處は、此國古よりの事は詳ならず、隋の煬帝の時、朱寛と云者をして異俗を訪求られしに、始て此國に至、其詞通ぜざりしかば、一人を取て歸る、其後に師して再び其國に到らしめて、男女五百人を取て歸る、是此國の名、異朝の書に見へし始也、其後唐宋の時、中國に通ぜず、大元の時使して招かれしか共來らず、大明の代に及、大祖の洪武の初に貢使をまいらす、其國三ツに分れて、中山、山南、山北の三王有、其後封爵を請しかば、中山山南の二王に鍍金の銀印を賜たり、鍍金とは金をやきつくる事也、此時三王互に爭ひ戰しかば、天子其中に和らげ給ひ、山北にも印、并文 等を賜、〈中山山南封ぜられしは、洪武十五年の事、山北を封ぜられしは、同十六年の事也、本朝後圓融院永徳二年三年、公方は鹿苑院殿、(足利義滿)の御時に當れり、〉同廿五年中山王察度〈王の名也、姓は尚と云、〉其子姪并陪臣の子弟を遣して國學に入、此國昔隋元等の代に攻れども來らず、招けども至らず、然るに大明の代初に、自ら來り貢して其國の君臣子弟をして學び、中國に隨ひしが、天子其忠順の志を悦び給事大方ならず、〈此故に外國にて此國程恩寵等きは無りき、閩人のよし岳を乘もの三十六性を給りて、年毎に往來すべき便となさる、察度が曾孫王巴志其位を嗣し時より、彼國王代を繼し時に、必中國の天子使を其國に遣して册封せらるゝ例始れり、是長き彼國の例也、〉巴志が孫王思達景泰の始に代を繼て、程も無く山南山北を討亡して、其國を并せたり、〈是より硫球國王を中山と云也、景泰は大明第五代英宗の年號にて、本朝後花園の寶徳の頃、公方は東山義政の時也、此國より始て通ぜしも此時也、後ニ見ゆ、〉是よりして三年に二度中國に進貢する事例は始れり、〈今も此例の如く也と云〉王思連が六代の孫、王永が代に當て、日本關白の秀吉の御事、此時高麗陣の頃也、爲に其國亂るヽ、王永程なく卒て、其子王寧代を繼、萬暦三十一年、其國に使を給て册封有、〈萬暦は大明十三王神宗の年號、其三十一年は、本朝後陽成院慶長八年、神祖征夷大將軍に被レ任し年也、〉其使歸奏して曰、琉球必倭の爲に困めらるべし、日本の人千計、利刃を挾て其市に出入せりと申き、程なく同三十七年、王寧薩州の爲に捉はれ行、同四十年、王寧使して進貢して、歸國の事を申、又日本の爲に市を通ぜ
p.1370 ん事を望給ふ、〈萬暦三十七年は、本朝慶長十四年也、此事五月島津彼國王を擒にして來り、止る事三年にして是を歸す、慶長十七年、本朝の爲に互市の事を、大明福建は軍門に申せし事有き、〉右異朝諸書に見へし處也、是より後の事しるせし物考へず、此國の事本朝の書に見へし處、是も古の事不レ詳、五十五代文徳天皇仁壽三年、僧圓珍〈智證大師〉唐國に趣かるヽ時、北風にさそはれて琉球に至りしと云事、元亨釋書に見へたり、是本朝にして、彼國の名聞えし始にて、其後聞ゆる事にて、東山の公方義政の頃、寶徳三年七月、琉球の使來れり、〈是則彼國にて山南山北を并せし、中山、王思連が時也、公方より書を贈られて其禮ニ答へられき、其書は假名字を用ひて、りうきうこくのよのぬしへと記されたり、〉是より後其國人常に來りて、兵庫の湊にて商物などしたり、太閤秀吉の代と成て、使參らせて、天下の事しり給ふ事を賀す、程なく朝鮮の事起て、太閤も失せ玉ひ、太閤へ使をまいらせしは、應永の時成べし、〈此年號不審、書誤ナルベシ、〉御當家の始、島津の爲に討れて、終に其屬國のごとくに成たる也、右本朝諸記に見へし處也、世には彼國は鎭西八郞爲朝の末葉也、されば今も其國に爲朝の遺跡共多しと云也、
p.1370 沿革 開國始祖ヲ天孫氏トス、文武天皇ノ時ヨリ本朝ニ内附入貢ス、天孫氏相傳ル二十五世、賊臣利勇ノ爲ニ弑セラル、文治三年浦添按司尊敦、賊ヲ誅シテ代リ立、首里ニ居リ、王ト稱シ、全島ヲ統ブ、是ヲ舜天王トナス、尊敦ハ源爲朝ノ子ナリ、〈爲朝伊豆大島ニ配セラル、後琉球ニ如テ、大里按司ノ妹ヲ納レテ尊敦ヲ生ム、〉文應元年、孫義本、位ヲ天孫氏ノ裔英祖ニ讓ル、文永三年、大島始メテ來屬ス、曾孫玉城ニ至リ、嘉暦中、國大ニ亂レ、今歸仁按司山北王ト稱シ、大里按司山南王ト稱シ、玉城僅ニ中頭ヲ保チ、中山王ト稱ス、正平四年、玉城ノ子西威卒ス、明年、國人世子ヲ廢シ、浦添按司察度ヲ奉ジテ中山王トナス、文中二年、察度始テ明ニ通ジ、終ニ其册封ヲ受ク、山南山北二王亦明ニ入貢ス、元中七年、宮古八重山諸島始テ中山ニ内附ス、子武寧ニ至リ、應永十二年、佐鋪按司尚巴志兵ヲ起シ、之ヲ廢シ、其父思紹ヲ奉ジテ王位ニ即カシメ、二十三年、尚巴志山北王、樊安知ヲ滅シ、〈山北四世九十餘年〉使臣ヲ遣シ、方物ヲ將軍足利義持ニ獻ズ、二十八年、思紹卒シ、巴志立、永享元年、山南
p.1371 王他魯毎ヲ滅シ、〈山南四世一百四年〉始テ全島ヲ併有ス、十二年、尚巴志卒シテ、子尚忠立、將軍義教薩摩ノ守護島津忠國ニ琉球ヲ賜ヒ、其附庸トナス、嗣後島津氏ト聘使來往シ、歳時ヲ以テ方物ヲ將軍ニ獻ズ、是ニ於テ内地及明ニ兩屬ス、尚忠ヨリ五傳シテ尚徳ニ至リ、國亂ル、文明元年、尚徳卒シ、國人世子ヲ廢シ、義本ノ裔尚圓ヲ奉ジテ王トナス、後六世尚寧ニ至リ、使聘ヲ修セズ、慶長十四年、島津家久將軍徳川秀忠ニ請ヒ、將ヲ遣テ之ヲ伐チ、尚寧ヲ擒ニシテ歸リ、將軍ニ謁ス、將軍命ジテ永ク島津氏ノ附庸トナシ、世々貢禮ヲ修セシム、明治五年、尚寧ノ後十二世尚泰、職貢ヲ修ス、詔シテ藩王ニ封ジ、國ヲ西海道ニ屬ス、
p.1371 薩州太守島津氏琉球を征伐す 琉球國は、嘉吉年間足利義教の命ありてよりこのかた、世々薩州に附庸の國たるを、天正のころ、群雄割據の時にあたりて、琉球の往來も姑く絶えたりければ、薩州の太守島津家久より、もとの如く貢使あるべきよしを、再三使をもていひつかはしけれども、彼國の三司官謝那といふ者、竊に明人と事を議りて、待遇ことさらに無禮なりしかば、已むことを得ずして、慶長十四年の春、台命を蒙、軍を起し、樺山權左衞門久高を總大將とし、平田太郞左衞門益宗を副將とし、龍雲和尚を軍師とし、七島郡司を按内として、その勢都合三千餘人、戰船百餘艘を出して、二月廿一日、纜を解きて、琉球國へ發向せしむ、樺山久高總勢を引卒して、はじめ大島に著岸し、また徳島に赴きしに、島人これを防もの凡千人ばかりなり、この戰ひに首を獲ること三百餘級、餘はみな降人にぞ出にける、四月朔日、那覇の港に至らんと、かのところに赴くに、港口には逆茂木亂杭をかまへ、水中に鐵の鎖をはり、是に船のかヽりなば、上より眼の下に見おろして、射とるべき手だてをかまへ、その外の島々へも、用意おごそかにしてぞ待かけたる、これによりて他の港より攻入りて、三日の間せめ戰ひ、手負討死少なからずといへども、遂に進みて首里に攻入り、王城を圍みて、急にも
p.1372 みにもんで攻破らんとす、琉球王及び三司官等、薩州勢の強大にして、當るべからざるに避易し、みな出て降を乞ひけるによりて、軍の勝利を得て、琉球忽に平均せしよしを、速に駿府へ言上ありしかば、甚だ稱美せさせたまひ、琉球を永く薩州の附庸とぞせられける、かくて五月廿一日に、中山王尚寧及び諸王子を擒にして、薩州の軍士凱陣せり、十五年八月、薩州の太守中山王をともなひ、駿府に來りて登城す、中山王段子百端猩々皮十二尋、太平布二百疋、白銀一万兩、大刀一腰を獻上す、それより江戸に到りて、將軍家に謁しけるに、米一千俵を下したまふ、さてその年歸國ありて、翌十六年、中山王琉球に歸ることを得たり、これによりて十二月十五日、琉球人駿府へ歸國御禮のために參りて、藥種及び方物くさ〴〵を貢獻す、さて中山王尚寧降服してより、永く我邦の正朔を奉じ、聘禮を修すべきよしの誓ひをなしてけり、〈系圖、舊傳集、政事録、南浦文集等によりて記す、〉これ今の入貢の始めなり、この後貢使かつて闕ることなし、
p.1372 慶長十一年六月十七日、於二伏見御城一、御諱〈◯徳川家康〉之字を被レ下、家久と改め、太秦長光之御腰物頂戴仕候、 琉球國者、家久十代之祖、陸奧國忠國代に、普廣院殿〈◯足利義教〉ゟ致二拜領一、永享年中ゟ薩摩に相從ひ候處に、近年致二怠懈一候、殊更權現様に、御禮可二申上一之旨、使札を以申付候へ共、不レ致二領掌一候間、人衆を差越、可レ致二退治一之旨、山口駿河守直友を以言上候處に、蒙二御免一候、〈◯下略〉
p.1372 呈二琉球國王一書 貴國之去二我薩州一者、二百餘里、其西島東嶼之相近者、僅不レ過二三十餘里一、以レ故、時時有二聘問聘禮一、以修二其鄰好一者、其例舊矣、就レ中我宗子之嗣而立、則畫二青雀黄龍於其舟一、以使下紫二其衣一者、黄二其巾一者二人、爲中其遣使上、篚三厥玄黄一來、而結二髻於右髩之上一者、奏二衆樂於庭際一、蓋致二嗣子之賀儀一也、今也遣下崇元寺長、宜謨里主、載二其方物一來上、以賀二我家久之嗣而立一、又攀二舊例一也、我今寄二言於國君一、勿下以二我之言一厭上レ之、日本六
p.1373 十餘州、有二源氏一將軍一、以二不猛之威一發二其號令一、尺土無下不レ獻二其方物一者上、一民無下不レ歸二其幕下一者上、是故東西諸侯、莫レ不レ有二朝觀之禮一、我今雖レ去二麑府之任一、毎歳使三親族之在二左右一者、行以致二其聘禮一、況家久爲二國之宗主一、豈不レ述二年年之職一乎、貴國亦致二聘禮於我將軍一者、豈復在二人之後一哉、先レ是我以二此事一告二於三司官一者數矣、未レ聞レ有二其聘禮一、是亦非下三司官懈二於内一者上乎、今歳不レ聘、明年亦懈者、欲レ不レ危而可レ得乎哉、且復貴國之地、鄰二于中華一、中華與二日本一、不レ通二商舶一者、三二十餘年于今一矣、我將軍憂レ之之餘、欲レ使下家久與二貴國一相談、而年年來二商舶於貴國一、而大明與二日本一、商賈通中貨財之有無上、若然則匪三翅富二於吾邦一、貴國亦人人其富潤レ屋、而民亦歌二於市一抃二於野一、豈復非二太平之象一哉、我將軍之志在レ玆矣、是故家久使二小官二人、告二之於三司官一三司官不レ可、將軍若有レ問レ之、則家久可二如レ之何一哉、是我夙夜念レ玆、而不レ措者也、古者善計レ國計レ家者、雖レ大事レ小者、有下隨二時之宜一而爲レ之者上、況復小之事レ大者、豈爲三之背二於理一哉、其存焉與二其亡焉一、共在二國君之擧一而已、伏乞圖レ之、 ◯按ズルニ、此書状ハ、慶長十一年九月、島津家久、琉球王ノ來聘ヲ促ス爲ニ遣ス所ナリ、
p.1373 慶長十四年二月、公〈◯島津家久〉及貫明公、松齡公、相與廻二策於帷幄中一、定二律令十三章一、乃使二樺山權左衞門尉久高一爲二大將一、〈◯中略〉總計三千餘人、艤艦百餘艘、導二七島揖師小松吉兵衞等二十四人一、往討二琉球一、
p.1373 討二琉球一詩并序 薩隅之南二百餘里、有二一島一、名曰二琉球一、使下小島之在二四方一者并呑爲上レ一、而爲二之酋長一矣、予聞二之黄耉一、曰昔者日本人王五十六代清和天王之孫、其名曰二六孫王一、本朝源家之曩祖也、八世孫義朝公、令弟爲朝公、爲二鎭西將軍一之日、掛二千鈞強弩於扶桑一、而其威武偃二寒垣草木一、是故遠航二於海一、征二伐島嶼一、於二斯時一也、舟隨二潮流一、求二一島於海中一、以レ故始名二流求一矣、爲朝見下巣二居穴處於島上一者上、頗雖レ似二人之形一、而戴二一角於右鬂上一、所レ謂鬼怪者乎、爲朝征伐之後、有二其孫子一、世爲二島之主君一、固築二石壘一家二於其上一、因効二鬼怪之
p.1374 容貌一、結二髻於右鬂上一、至レ今風俗不レ異、中改二流求二字一、字從レ玉、而爲二琉球一矣、黄耉之言未レ知二是否一、酋長之祖、不レ知二阿誰一、昔朝二於大明皇帝一、皇帝賜二之衣冠一、且錫二爵位一爾來世稱二中山王一、王稱亦至レ今不レ絶矣、數十世之先、爲二我薩隅日三州太守島津氏附庸之國一、歳輸二貢獻於我州一、比來不レ隨二我號令一者有レ年二於玆一矣、是歳戊申、有二太守家久公之命一、遣二二使於彼國一、國素有二三司官一、國之公卿、世守二其職一、時有下一聚歛臣名二邪那一者上、補二一官闕一、以汚二公卿之衣冠一、邪那見二我二使之來一也、以レ色可否、以レ頤指揮、二使亦不レ知レ所レ云、空レ手而歸矣、於レ是不レ得レ已而使二數千兵行以討一レ之、嗚呼琉球日薄二西山一連其極矣、何其不レ念二苞桑之戒一乎哉、予桑門之徒也、雖レ不レ與二國家存亡之事一、見二此兵戈之將一レ出、而恐三彼敗禍之在二衽席之間一也、不レ顧三才之拙、與二語之俚一、漫賦二俳諧體十章一、首章先述二天與人歸之義一、兼祝三大洋波平、而兵船之安如二泰山之安一矣、次章仰三諸將威武動二搖乾坤一、其次三章述下欲レ富二我國一擧二一邪那一好行二小惠一降二我義兵一之不上レ早也、且欲下我諸將亦整二其部伍一有中其戒心上也、其次二章訪下知己之在二彼國一者上、且復我先師之徒、有二景叔春蘆之二翁一、昔帶二先師典籍若干部一、寄二跡於彼國一終焉、此時恐三典籍之若失二却兵火一而賦レ之、其次誹下巫覡謂二神祇之托二言於我一、惑レ世誣レ民、爲二身謀一者上矣、末二章彼國風俗、愚而多レ詐、不レ乞二降於我一、後必患レ有下不レ得レ致二忠孝於我君父一、且復兄弟妻子離散、赴中遐遠之邦上、而言レ之、書以呈二之於伊勢氏兵部員外郞一、以供二一笑一云、 琉球小島一彈丸、天與人歸討不レ難、四海波平天水渡、諸軍大鑑泰山安、 欲レ伐二鬼方一揚二白旛一、諸軍威武動二乾坤一、樺山右將平田左、添得伊川伴衞門、 一灯將レ滅琉球運、爲レ擧二邪那一紀綱紊、諺語未レ知實耶虚、那覇本是河邊郡、〈那覇琉球國郡也〉 琉球祗合レ覔一和談一、心苦君民更不レ甘、想是邪那痩城主、一身逃レ死定降參、 我國武威誰敢侵、幾多健將智謀深、報言蜂蠆有二其毒一、須學二猫兒藏レ爪心一、 報恩主席我知音、句欲レ聯珠レ旦暮吟、緬想西來一庵主、無心雲亦駭二其心一、 典墳誓莫レ作二秦坑一、字字元如二金滿一レ羸、景叔春蘆昔遊日、先師書籍帶レ之行、 奇術誑レ人巫女流、巧言令色爲レ身謀、蚖虵若識二義兵至一、端的尋レ聲自縮レ頭、 愚而偏詐世無レ雙、未二敢翻レ心築一レ受降、又似三蟷螂恃二長臂一、人言小黠大癡邦、 自レ古球陽屬二薩陽一、不レ
p.1375 隨二號令一忽云亡、他時棄レ父棄レ妻後、必棹二扁舟一赴二大唐一、
p.1375 慶長十四年四月、薩摩之島津百餘艘集二兵船一、琉球へ令二渡海一、彼島不レ及二一戰一、則内裏ヲ責崩、王ヲ生捕令二歸朝一、彼島中雖レ令二撿地一、指テ知行モ無レ之、漸々拾二萬石餘有レ之ト云々、
p.1375 慶長十四年七月七日、島津家久所一討取一之琉球國家久ヘ被レ下レ之、
p.1375 琉球國事 夫琉球國者、自二往古嘉吉年中一、屬二我國一矣、雖レ然背二舊規一不二進貢一、自二薩摩一再三遣レ使以誘レ之、不二肯聽一、故告二相國家康公一、請レ伐レ之、蓋琑々小島不レ足レ屑也、而戎狄是膺、荊徐是懲、詩經之所レ戒、故慶長十四己酉春、以二樺山權左衞門尉久高一爲二大將一、〈◯中略〉都合其勢三千餘人、整二兵船一百餘艘一、而二月廿一日發レ船已著二大島一振レ威、又趣二徳島一、島郞出應而防戰者殆千有餘人、其中斬首者三百餘人也、故殘黨不レ日屬二于旗下一而悉焉、同年四月初一日、欲レ到二那覇之津一、彼徒卒爲二隱謀一、設二鐵鎖於津口一以備焉、故從二異津一上陸、交鋒相戰三日、殺二騎將歩卒數百人一、遂入二都門一、圍二其城一而欲レ攻レ之、時國王三司官及諸士卒共請レ和、於レ是不レ血レ刃、而已唱二凱歌一矣、輙以捷書告二于薩摩一、則遣二使家康公一言上、公感二其戰功一、及以二黒印一賜二彼島於太守陸奧守家久一、 到二于琉球一差二越兵船一、彼黨數多討捕之、殊更國王及二降參一、三司官以下近日著岸趣、誠以希有之次第候、委細本多佐渡守可レ申也、 七月五日 秀忠御判 島津修理入道殿 到二琉球一差二越人數一、不レ經レ日數輩討捕之、其上國王降參、近日到二其國一可レ爲二著岸一之旨、最無雙之仕合候、猶本多佐渡守可レ申候也、 七月五日 秀忠御判 羽柴兵庫入道どのへ
p.1376 到二琉球一指二遣兵船一、不レ移二時日一及二一戰一、彼黨數多討捕之、剩國王降參之、并三司官以下到二于其地一、不日可レ爲二渡海一之注進、誠以無二比類一働共候、猶本多佐渡守可レ申候、謹言、 七月五日 秀忠御判 薩摩少將殿へ 琉球之儀、早速屬二平均一之由注進候、手柄之段被二思召一、即彼國進候條、彌仕置等可レ被二申付一候也、 七月五日 家康御黒印 薩摩少將どのへ
p.1376 與二大明福建軍門一書 琉球國王尚寧、上二書大明國福建軍門老大人閣下一、恭審、小邦去二日本薩摩州一者、僅三百餘里、以レ故三百年來、以レ時獻二不腆方物一、修二其鄰好一、頃有二不肖嗇一、夫緩二其貢期一、是故薩摩州進二兵於小邦一、小邦荒墟者、誠天之所レ命、而我亦以レ無二苞桑之戒一也、不幸而爲二其俘囚一、在二薩摩州一者三年矣、州君家久公、外好二武勇一、内懷二慈憫一、待レ我以下待二貴客一之禮上、禮遇之厚者三年一レ心、加之送還二我於小邦一、於レ是吾民之歌二於市一、抃二於野一者、玆非レ幸歟、州君寄二言於我一、其之言曰、夫邦國在二四方一也、有二金玉一者、或不レ足二乎錦繡一、有二粟米一者、或不レ足二乎器皿一、若有レ餘而不レ散、不レ足而無レ聚、民用不レ足、而其貨亦腐、惟坐而待レ腐、不レ如通二其有無一、各得二其所一矣、日本非レ無二金玉器皿一、其土宜質素、而不レ及二於中華之文質彬彬一、是故使三我參二謀於兩國一、一以使三日本商船、許以容二之大明邊地一、二以使三大明商船、來二我小邦一、交相貿易、三以使三一遣使年年通二其貨之有無一者、匪三翅富二兩國人民一、大明亦無下爲二倭寇一嚴備中兵衞上矣、三者若無レ許レ之、令三日本西海道九國數萬之軍、進二寇於大明一、大明數十州之鄰二於日本一者、必有二近憂一矣、是皆日本大樹將軍之意、而州君所二以欲一レ通二兩國之志一者也、伏冀軍門老大人、於二斯三者一、許二一於此一、我小邦大沐二大明之徳化一、且遂二日本之夙志一、是亦天朝恤レ遠守レ小之仁心也、若然則永守二藩職一、無レ生二貳心一、遐方嚮レ化之念、沒レ世不レ忘也、伏レ楮伸二鄙忱一、仰祈二尊炤一、不宣、
p.1377 琉球使の來れる 琉球は、掖玖とともに、推古天皇以前より入貢しけんが、はやく朝貢怠りて來らざりしなるべし、かくてその國と往來なければ、たま〳〵記載に見えたるも、みな懸聞臆度のみにて、たしかなることなきは、そのゆゑなりとおもはる、その國もまたはるかの島國にて、いづれの國の附庸にもあらず、通信もせざりしが、明の洪武年間、琉球は察度王の時にあたりて、册封とて唐土より中山王に封ぜられて、彼國へも往來して、制度文物すべてかの國にならひてぞありける、明の宣徳七年に、宣宗内官柴山といふ臣に命じて、勅書を齎らしめ琉球につかはし、中山王より人をして、我邦に通信せしむ、この宣徳七年は、我邦の永享四年にあたれり、これによりて考ふるに、上古よりはやく往來絶えて、後明宣宗のために我邦へ使せしは、はるかに年を歴て、再び我邦へ琉球使の來れる始めなるべし、これより後も、明の正統元年、英宗琉球の貢使伍是堅をして回勅を齎らし、日本國王源義教に諭すといひ、〈これ永享八年のことなり〉嘉靖三年、琉球の長吏金良の詞に、これより先に正議大夫鄭繩といふものをして、日本國王に轉諭す、〈これ大永四年のことなり、中山傳信録、琉球國志略に見えたり、〉といへることあれば、明より我邦へ書を贈るに、琉球使に命ぜしこともありしとぞおもはるヽなり、
p.1377 永享年間琉球使來るの辨 室町紀略云、永享十一年七月、是歳琉球國入貢、〈琉球入貢始見〉また琉球事略に、後花園院寶徳三年七月、琉球人來りて、義政將軍に錢千貫と方物を獻ず、これよりしてその國人兵庫の浦に來りて交易すといふ、しからば彼國の使本朝に來ることは、尚金福が時をもて、その始めとすべきかといへり、これらの説みな誤りなり、按ずるに中山傳信録云、宣徳七年、宣宗以外國朝貢、獨日本未レ至、命二内官柴山一齎レ勅至レ國、令下王遣レ人往二日本一諭上レ之と見えたり、これ實に我永享四年にあたれり、かヽれば二書にいふところ、この時より後れたればその始にあらざるをしるべし、
p.1378 寶徳元年八月廿五日、近日琉球國商人京著、令レ進二上藥種并料足一千貫文一云々、 三年八月十三日、或説云、琉球島船、〈商人〉去月末著二兵庫津一之處守護細川京兆、早遣レ人彼商物撰取、未レ渡二料足一之間、先々年々料足未進物、及四五千貫無二返辨一、又賣物抑留、爲二島人難澀一之由申之間、自二公方一被レ下二遣奉行三人一、〈布施下野守、飯尾與三左衞門、同六郞、〉被二糺明一之處、得押取之物、自二京兆一未レ被レ返、依レ之奉行未二上洛一云々、京兆者前管領也、希代之所行哉、如何之、
p.1378 文正元年七月廿八日、同日琉球人參洛、〈當御代六ケ度目〉號二長史(チヤウス)一、於二御寢殿庭前一三人懸二御目一、〈三拜申了〉庭鋪レ席、
p.1378 永正六年四月廿八日、阿野相公來臨、琉球國書状之禮等被レ談之、 廿九日、阿野相公來臨、琉球國書状事大略爲レ疏、又將軍御書爲二假名一、其故者、最初通事女房也、仍任二其例一如レ此云々、
p.1378 慶長十五年五月十六日、家久中山王を率て、鹿兒島を發し、八月六日に駿府に參著す、道中之御馳走朝鮮人來朝と同じかるべき旨、宿々に兼而爲レ被二仰付一之由にて、殊之外結構に御座候、同八日、家久中山王を召列登城す、尚寧、緞子百端、羅紗十二尋、太平布貳百疋、蕉布百卷、白銀壹萬兩、御太刀一腰獻上す、家久も御太刀馬代其外品々獻上仕候處に、御代初に、早速異國を從へ、其王を率ひて來朝せしむる事、家久無二比類一働き之由上意にて御感を蒙り候、同十八日に御饗應被レ下、御酒宴之上、常陸介殿御鶴殿座を立て舞ひ給ひ、貞宗之御腰物大小、家久に被レ下、同十九日に御暇被レ下、翌二十日、駿府を立て、廿五日に江戸に致二參著一候、廿六日に上使を被レ下候、又廿七日に上使を以、米千俵致二拜領一候、同廿八日に家久、尚寧に召列登城いたし候、尚寧緞子百卷、虎皮十枚、太平布二百疋、蕉布百卷、白銀一萬兩、長光之御太刀致二獻上一之候、若君様に、御太刀一腰、緞子五拾卷、太平布百疋、蕉布五拾卷差上候、家久も御太刀馬代其外品々獻上いたし、九月三日に登城いたし御饗應有、同七日に於二御數寄屋に一、御手自御茶を被レ下、同十二日、又登城仕候、同拾六日致二登城一、御饗應之上、加
p.1379 賀貞宗之御腰物并御馬致二拜領一候、且又櫻田之御屋敷を被レ下、直に御暇を給る、同廿日に江戸を發し候、兼て被二仰渡一候により、中山王は東海道を罷上り、家久は木曾路を通り下國仕候、其年上意にて中山王に歸國いたさせ申候、
p.1379 慶長以後入貢 寛永十一年閏七月九日、中山王尚豐、賀慶使佐敷王子、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈元寛日記〉この年、將軍家御上洛ありて、京都にましますをもて、二條の御城へ登城す、このゆゑに二使江戸に來らず、 正保元年六月廿五日、中山王尚賢、賀慶使金武按司、恩謝使國頭按司等をして方物を貢す、七月三日、下野國日光山の御宮を拜す、〈輪池掌録〉 慶安二年九月、中山王尚質、恩謝使具志川按司等をして方物を貢す、〈琉球事略〉また日光山の御宮を拜す、 承應二年九月二十日、中山王尚質、賀慶使國頭按司等をして方物を貢す〈羅山文集、和漢合運、近世武家編年略、〉また日光山の御宮を拜す、 寛文十一年七月廿八日、中山王尚貞、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈萬天日記〉また日光山の御宮を拜す、〈琉球事略、歴代備考、〉 天和二年四月十一日、中山王尚貞、賀慶使名護按司、恩納親方等をして方物を貢す、〈萬天日記、甘露叢、〉 寶永七年十一月十八日、中山王尚益、賀慶使美里王子富盛親方、恩謝使豐見城王子與座親方等をして方物を貢す、〈琉球聘使紀事〉また東叡山の御宮を拜す、中山使の日光山に到らずして、東叡山に來ること、この時を始とす、 正徳四年十二月二日、中山王尚敬、賀慶使與那城王子、恩謝使金武王子等をして方物を貢す、〈文露叢〉 享保三年十一月十三日、中山王尚敬、賀慶使越來王子西平親方等をして方物を貢す、〈享保日記〉 寛延元年十二月十五日、中山王尚敬、賀慶使具志川王子與那原親方等をして方物を貢す、〈歴史要略〉 寶暦二年十二月十五日、中山王尚穆、恩謝使今歸仁王子等をして方物を貢す、〈歴史要略〉 明和元年十一月、中山王尚穆、賀慶使讀谷山王子等をして方物を貢す、〈三國通覽、速水私記、〉 寛政二年十二月二日、中山王尚穆、賀慶使宜野灣王子等をして方物を貢す、〈琲球談〉 寛政八年十二月
p.1380 六日、中山王尚成、恩謝使大宜見王子安村親方等をして方物を貢ず、〈輪池掌録〉 文化三年十一月廿三日、中山王尚灝、恩謝使讀谷山王子小祿親方等をして方物を貢す、
p.1380 沖繩島(○○○)即中山國也、其地南北長、東西狹、而周廻凡七十四里、〈是據二此間里數一而言、凡六尺爲レ間、六十間爲レ町、三十六町爲レ里、後皆傚レ此、〉國頭居レ北爲レ首、島尻(シマシリ)居レ南爲レ尾、王府在二西南一曰二首里一、蓋古翠麗山地、今作二首里一、方音之轉也、〈翠麗山見二星槎勝覽一〉城方一里、東西距レ海各二里許、至レ于二北岸一二十九里、去二其南岸一五里、凡諸島地山谿崎嶇、罕レ有二寛曠之野一、其人濱二山海一而居、各自有二分界一、謂二之間切一、間切者猶レ言二郡縣一也、王府領二間切二十七一、曰二國頭一、曰二名護一、曰二羽地一、曰二今歸仁一、〈舊作二伊麻奇時利一〉曰二金武一、〈舊作二鬼具足一〉曰二越來一、〈舊作二五欲一〉曰二讀谷山一、曰二具志河一、曰二勝連一、〈舊作二賀通連一〉曰二北谷一、曰二中城一、〈舊作二中具足一〉曰二西原一、曰二浦添一、〈舊作二浦傍一已上在二都城東北一〉曰二眞和志一、曰二豐見城一、曰二兼城一、曰二喜屋武一、曰二摩文仁一、曰二眞賀比一、〈已上在二都城西一〉曰二南風原一、曰二島添大里一、曰二佐敷一、曰二知念一、曰二玉城一、〈舊作二玉一具足一〉曰二具志頭一、曰二東風平一、曰二島尻大里一、〈舊作二島尻一、已上在二都城南一、〉海港二所、其在二東北一曰二運天湊一、湊者水上人所レ會、而此間海舶所レ泊也、〈運天湊、舊作二運見泊一、在二今歸仁間切一、湊者此間古言曰二水門一也、港深一里二十七町、濶二町大船五六十隻、可二以栖泊一、去レ此東北行至二與論島一二十里、〉在二西南一曰二那覇港一、去二都城一里餘、此間及海外諸州船所二輻湊一也、〈那覇港、舊作二那覇津一、港深二十二町、濶一町二十間、堪レ泊二大船三十隻一、去二長崎一三百里、去二朝鮮一四百里、去二塔加沙古東南海角一四百八十里、云二塔加沙古一、即今台灣也、〉港口四邑、居民蕃盛、置二那覇港官四員一分治焉迎恩亭、天使館、亦在レ于レ此、迎二接中國使人一之所也、
p.1380 慶長十四年 加十二萬三千七百石〈七月七日、合七十二万九千五百石〉 琉球國十五島 島津陸奧守家久
p.1380 是歳、〈◯十四年〉公〈◯家久〉又遣二上井次郞左衞尉里兼、及阿多某等一如二琉球一、莅二正經界一、里兼等既至、與二本田親政等一議乃丈二量沖繩島一、 十五年三月、里兼所正丈完籍成、凡七册、謂二之御撿地帳一、里兼自加二花押一、所レ謂琉球先竿云此也、按沖繩島、平家所レ載十二島之一、而今曰二本琉球一者此也、周廻佰拾里肆合參勺伍撮自二國頭縣奧崎一、至二喜屋武縣具志川崎一、長參拾肆里漆合一勺玖撮、自二讀谷山縣美崎一、至二勝連縣平敷屋一、闊伍里漆合玖勺貳撮、自二
p.1381 恩縣仲泊村一、至二美里縣石川濱一、闊僅漆合肆勺壹撮、分爲二三山一、而中山俗曰二中頭方一、山北曰二國頭方一、山南曰二國尻方一、其國頭有二縣九村百一、中頭有二縣十一、村百六十三一、國尻有二縣十五村百五十六一、總計三十五縣四百五十二村云、里兼所二丈量一、今雖レ莫レ知二其詳一、應二此一島一云、
p.1381 琉球國〈◯中略〉 總合高拾貳万三千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 村數百七拾六 内六万八千貳百六拾四石五斗貳升七合 田方 五万三千百貳石壹斗五升五合三勺八才 畠方 貳千三百四拾五石壹斗三升壹合壹勺 桑役 寛文八年申十月 日
p.1381 琉球國 拾五島 七拾壹ケ村 高拾貳万三千七百拾壹石八斗壹升三合四勺八才 内 宮古(ミヤコ)島 六ケ村 高壹万貳千四百五拾八石七斗九升貳合四勺貳才 八重(ヤエ)山島 拾壹ケ村 高六千六百三拾七石三斗貳升壹合六才 沖縄島 貳拾七ケ村 高六万貳千百九拾九石 計羅摩(ケラマ)島 高貳百三石 戸無島 高四拾五石壹斗 久米島 貳ケ村 高三千六百七拾七石七斗 粟島高七百貳拾七石四斗 伊惠島 高三千六百四拾三石 伊是那(イセナ)島 高七百五拾石貳斗 惠平屋(ヱヘヤ)島 高五百四拾壹石六斗 鬼界(キカイ)島 五ケ村 高六千九百三拾貳石四斗 大(オホ)島 七ケ村 高壹万四百五拾五石五斗 徳之(トクノ)島 三ケ村 高壹万九石七斗 永良部(ヱラブ)島 三ケ村 高四千百五拾八石五斗 與論島 高千貳百七拾貳石六斗 以上
p.1382 一琉球國之地形、皆島に御座候、常に舟行を以あなたこなた往來仕由御座候、狹長ニ候而、漸横幅三里計之所も有レ之由御座候、島津家〈江〉附屬仕候刻、知行高拾貳萬石(○○○○○○○)之軍役ニ御座候、但此知行之多少、其圖世間〈江〉慥ニ露顯不レ仕候、尤小國ニ御座候、〈◯中略〉 十一月廿一日 小瀬復庵
p.1382 物産 大明會典云、琉球貢物、馬、刀、金銀酒海、金銀粉匣、瑪瑙、象牙、螺殼、海巴、櫂子扇、泥金扇、生紅、銅錫生熟、夏布、牛皮、降香、木香、連香、丁香、檀香、黄熟香、蘇木、烏木、胡椒、琉黄、磨刀石、若二其馬、及螺殼、海巴、夏布、牛皮、鳥木、琉黄、磨刀石一、則其國所レ産而已、其餘則所下與二此間及諸國一交易上也、穀則稻、秫、稷、麥、菽、蔬則瓜、茄、薑、蒜、葱、韮之屬、皆有焉、亦有二蕃薯一、可二以代レ穀而食一、此間俗曰二琉球薯一即此、海菜可レ啖亦多、果則龍茘、蕉子、甘蔗、石榴、橘、柿、但無二梅杏桃季之類一、近時有レ梅、移レ自二此間一者、唯著レ花而不レ結レ子、草則山丹、佛笑、風蘭、月桔、名護菊、栗菊、盛花澤、藤等品不レ少、近藝二烟草一、葉細而長、木則赤木、其性堅緻、紫紅色而有二白理一、蓋櫚木之類、本朝式所レ謂、南島所レ出赤木即此、〈俗曰二加之木一〉黒木、即會典所レ謂烏木也、蘇鐵、即琉球録所レ謂鳳尾蕉、其野生則不レ如下栽在二園庭一者上、楡、〈俗曰二加津末留一〉木犀、〈俗曰二幾伊八一〉何檀福木、〈曰二底巳一、曰二也良木一、曰二末禰一、並皆其俗所レ稱未レ詳、〉隋書所、謂鬪樓樹、使琉球録以謂二土産一、無二其樹一、即今國人亦謂レ不レ詳、〈隋書曰、鬪樓樹加レ橘而葉密、條纖如レ髮然下垂、又云、纖鬪樓皮以爲レ衣、〉禽鳥則綾鳩、黒鶉、鶉亦有二異色者一、〈俗名三乃宇津良、蓋謂三其毛文有二三色一也、〉蝙蝠産二于八重山一者、其形極大、〈俗名二八重山蝙蝠一〉其餘有二烏鵜、麻雀、野雉、野鳧之屬一、但無二鶴及鶬鷄一、而鴻雁不レ來、秋月之候、鷹隼及小雀自レ南來者多、畜獸則烏牛、即水牛、犬豕麋鹿之屬、皆無二不レ有者一、而無二虎豹犀象一、亦産二異色貓一、蟲豸則蛇蝎之屬、最多二毒蛇一、凡七種蝎、亦能螫レ人、其有下在二于壁間一聲噪如レ雀者上、春夏之交有二赤卒自レ南來一、亦多二鱗介一、則海出二白魚一、亦名二海馬一、馬首魚身、皮厚而青、其肉如レ鹿、人常啖レ之、馬鮫龍蝦之類、亦皆有レ之、棘鬣其色不レ紅、而味亦不佳、鯨魚毎出二沒洲嶼之間一、而莫二敢捕者一、蛟龍時自二海中一起、而能致二風雨一、俗謂二之風待一也、螺蛤之屬多二奇品一、貝子即會典所、謂海巴螺殼、大者可三以代二釜甑一
p.1383 云、
p.1383 琉球 土産 木綿 芭蕉布 黒砂糖 アハモリ酒 藥種 右之外色々有レ之トイヘドモ、皆福州ヨリ來ル物也、
p.1383 雜事 其産物は、五穀甘蔗を始として、異種極て多しといへども、僅に此小記の悉す所にあらず、依て今略、皇國及西清へ獻貢の方物を擧ぐ、 金銀粉匣、沈金漆器、螺鈿漆器、文房具、〈玉石金銀〉縐紗、〈紅白〉苧布、〈精粗多品〉芭蕉布、〈生熟綦多品〉土綿、線香、〈多品〉長髮、瓷瓶、扇、甲盔、腰刀、袞刀、鎗、畫屏、鞍具、鬱金、硫黄、白錫、紅銅、励石、馬、泡盛、
p.1383 寶永七年庚寅十一月、薩侯源吉貴率二琉球國中山王聘使一入都、〈◯中略〉上獻禮物 太刀一副 駿馬一匹 壽帶香三十套 香餅二奩 龍涎香二奩 畦芭蕉布五十端 島芭蕉布五十端 淡(ウス)色芭蕉布五十端 縐紗五十卷 太平布百匹 久米島布百匹 青貝大卓二座 堆飾硯屏一對 羅紗二十匹 青貝飯籠一對 泡盛酒十壺
p.1383 物産〈◯中略〉 穀則六穀咸備、〈◯中略〉異産有二番薯一、在處皆有レ之、犂二種沙土中一、蔓生蔽レ野、人以爲レ糧、功並二粒食一、家種二芭蕉數十本一、縷レ絲織爲二蕉布一、男女冬夏皆衣レ之、利匹二蠶桑一、〈◯中略〉 鐵樹即鳳尾蕉、一名海椶櫚、身蕉葉勁挺對出、䙰褷如二鳳尾映一レ日、中心一線、虚明無レ影、四時不レ凋、處々植レ之、〈◯中略〉 山丹〈比二中國一特大、有二成レ樹長丈餘者一、紅花四出、數朶攅生如レ火、有二千葉者一、重臺甚艷、五雅統注云、山丹、扶桑同出二日本一、始入二中國一、◯中略〉 名護蘭、葉短而厚、與二桂葉一同、大僅如レ指、三四月開レ花、與レ蘭無レ異、一箭八九朶攅開、香越勝、蘭出二名護嶽
p.1384 巖石間一、不レ假二水土一、或寄二樹椏上一、或以二棕皮一裹レ之、懸レ之又有二風蘭一、葉比レ蘭較長、香如二山奈茴香一、蔑レ竹爲レ盆懸二挂風前一、極易二蕃衍一、俗皆尚レ蘭、號爲二孔子花一、 栗蘭、一名芷蘭、葉如二鳳尾一、花如二珍珠一、蘭又有二松蘭、竹蘭、棒蘭一、〈状如二珊瑚樹一、緑色無レ葉、花從二椏間一出、似レ蘭較小、◯中略〉 佳蘇魚、削二黒饅魚肉一、乾レ之爲レ腊、長五六寸梭形、出久高者良、食法以二温水一洗一過、包二蕉葉中一、入レ火略煨、再洗淨、以二利刃一切レ之、三四切皆勿レ令レ斷、第五六七始斷、毎二一片一形如二蘭花一、漬以二清醤一、更可レ口、
p.1384 琉球國之事略 東山殿の頃より、彼國には我國の假名字を用ひしと見へ、又其國の人共、我國の倭歌を能するもの少からず、 琉球人の和歌いくらも見へたり、能よめる者有、 山川等の名も人の名も、皆々我國の詞なるも多く、殊に我國の神々を祭れる故蹟、いくらも世に聞えたり、されば彼國の始祖、我國の人たりし事は一定也、但爲朝の後と申は如何有べき、すべて彼國の事共、詳ならぬ事ども多し、可々翁私曰、琉球は其人品柔和にして、名髮に油を塗、容貌我朝の人よりも麗く、最弱國の風俗也、伎藝を嗜む國にて、中にも棊局の術を善くす、前々我國〈江〉來聘の度毎に、彼國の棋手に長ずるもの、其使に伴來て、我國の棋家に便りて、江都の殿中に於て相對して手譚す、其勝劣を試たる上にて、我國の妙手より或は先んを著し、又は二子を著するの許状を授く、〈所レ謂碁に先ん二つ置の事也〉夫棋局の遊は、其先中華に始りて、伎藝に於る最久し、然るに中華には此術衰て、今万國の中に我朝ほど是に精きは無く、琉球次レ之、其佗に有る事を不レ聞、是故に琉球より中華へ聘問の折柄は、究て中華の國手迎えて琉球の許可を得るとかや、是にて此術の我國より遼に劣たる事を想ふべし、其外琉球の事を記せし、定西物語と云小册の我櫃中に在しを、粤に書加んと捜レ之共紛失せり、
p.1384 和歌
p.1385 國人和歌をよくするもの往々あり、是皇國淳化遠裔の島嶼に屆るを知るべし、因てしるす、 元祿中、清の北京にまいりて、國にかへりなんとせし時よみ侍る、 池城親方 たれも見よ今ぞまことのからにしききたのみやこをたちいづる袖 忍戀 眞壁親方賢寛 こヽろのみかよはぬ時はなけれどもよそ目にかヽるほどぞくるしき〈◯下略〉
p.1385 琉球 人物朝鮮ニ似テ、詞中華ニ不レ通、薩摩ノ國ヨリ諸事アヅカリ聞ク、此國ノ船漂流ノ時ハ、其所ヨリ長崎ヘ送屆テ、長崎ヨリ薩摩ヘ渡シテ歸國ス、
p.1385 琉球國之地形皆島に御座候、〈◯中略〉人之家居日本と同事に御座候、王城之様子は、明朝の人琉球〈江〉使に參候人の書に記置候通、殿閣は三階作に御座候而、上の階は神を祭候所、中の階は王者之居所、下の階は臣庶之居所に候而、中華より封册を請候時は、假に高樓を造り、使者之坐を設申候由御座候、但是も表向規式迄の時ばかりに御座候、常住は日本之家作同事に住居之由御座候、 十一月廿一日 小瀬復庵
p.1385 琉球館を一見せしに、門番ありて内に入事を禁ぜり、凡百人ばかりは鹿兒島に渡り居て、琉球の産物を賣買して、又は交易する事にて、何も日本の言葉を七八分もつかふと云り、田舍よりも京へ登りて諸藝を習ふ様に、琉球人は鹿兒島に渡りて學文をし、諸藝を習ふ、和歌もよみ、手跡も見事成琉球人あり、天窗は有髮にて、小童の髮結ひしやふに、何れも丸わげにして、筓を差て居る也、衣も日本に言ふ居士衣の如し、規式祭葬の節は、色々の冠服も有べし、右は平生の形り也、五雜俎に琉球は醇也と記せしはむべ也、
p.1386 風俗 正月十六日、男婦倶拜レ墓、又有二板舞戯一、〈◯中略〉 三月三日上巳、家作二艾糕一相餉遺、官民皆海濱禊飮、又拜節相往來、〈◯中略〉 五月五日、競渡龍舟三、〈泊一、那覇一、久米一、〉一日至二五日一、角黍蒲酒同中國、亦拜節、〈◯中略〉 七月十五日、盆祭祀レ先預於二十三日夜一、家々列二火炬二於大門外一、以迎二祖神一、十五日盆後送神、 八月家々拜レ月〈◯中略〉 白露爲二八月節先後三日一、男女皆閉レ戸不レ事レ事、名二守天孫一、此數日内、如有二角口等諸事故一、必犯二蛇傷一、國中蛇九月出、傷レ人立斃、 同日蒸二糯米一交二赤小豆一、爲レ飯相餉、〈◯中略〉 毎月朔望、家々婦女、取二瓶罌一至二砲臺一、汲二新潮水一、歸獻二竈神一、或獻二天妃前石神一、〈◯中略〉 凡許愿、皆以レ石爲レ神、凡神嶽叢祠之所、皆有二巨石數處一離立、設二香爐炷香燭於前一、燒酒設二牲菓一酬レ愿、皆就レ石獻供、不レ設二神像一也、 通國平民死皆火葬、官宦有力之家、先用二生葬一、踰レ時舁出、仍用二火葬一、〈前使録云、以二中元前後日一、浴二屍于溪水一、三四五年後、以レ水入レ穴、潑レ屍去二腐肉一收レ骨入レ甕、藏二石坎中一、歳時祭掃啓視之、〉 棺製、圓如二木龕一、高三尺許、温水洗レ膝、蓋屈レ足趺殮、〈◯中略〉 國中惟三種人、皆剃レ髮如レ僧、一爲二醫官一、名曰二五官正一、一爲下王宮執二茶役一者上、名曰二宗叟一、又名二御茶湯一六人、又有下司二灌園一六人上、皆全剃髮、戴二黒色六稜幔頂寛簷帽一、名曰二片帽一、衣多著二短掛一領一、比二大衣一略短二三尺許、黒色、二種人皆趨役無レ時、櫛髮恐稽二時事一、故皆使レ從二徑省一云、〈◯中略〉 字母 琉球字母四十有七、名二伊魯花一、自二舜天爲レ王時一始制、或云即日本字母、或云中國人就省筆易レ曉者教レ之、爲二切音色記一、本非レ字也、古今字繁而音簡、今中國切音字母舊有二三十六一、後漸簡爲二二十八一、自二喉齶齒唇張翕輕重疾徐清濁之間一、隨擧二一韻一、皆有二二十八母一、天下古今有レ字無レ字之音、包括盡矣、今實略彷二此意一、有乙一字可下作二二三字一讀上者甲、有乙二三字可下作二一字一讀上者甲、或借以二反切一、或取以二連書一、如二春色二字一、琉人呼レ春爲二花魯二音一、則合書二ハロ二字一、即爲二春字一也、色爲二伊魯二音一、則合二書イロ二字一、即爲二色字一也、若
p.1387 有レ音無レ字、則合二書二字一、反切行レ之、如三村名泊與二泊レ舟之泊一並讀作二土馬伊一、則一字三音矣、村名喜屋武、讀作二腔字一、則又三字一音矣、國語多類レ此、國人語言、亦多以二五六字一讀作二一二字一者甚多得二中國書一、多用二鈎挑一旁記、逐レ句倒讀、實字居レ上、虚字倒下逆讀、語言亦然、本國文移中、亦參二用中國一二字一、上下皆國字也、四十七字之末有二一字一、作二二點一音媽、此另是一字、以聯二屬諸音一爲レ記者、共四十八字云、 元陶宗儀云、琉球國職二貢中華一所レ上表、用レ木爲レ簡、高八寸許、厚三分、濶五分、飾以レ髹、釦以レ錫、貫以レ革、而横行刻二字於其上一、其字體科斗書、又云日本國中自有二國字一、字母四十有七、能通二識之一、便可レ解二其音義一、其聯輳成レ字處、髴二髣蒙古字法一、以二彼中字體一、寫二中國詩文一、雖レ不レ可レ讀、而筆勢縱横、龍蛇飛動、儼有二顚素之遺一、今琉球國表疏文、皆用二中國書一、陶所レ云横行刻字科斗書、或其未レ通二中國一以前字體如レ此、今不レ可レ考、但今琉球國字母、亦四十有七、其以二國書一寫二中國詩文一、筆勢果與二顚素一無レ異、蓋其國僧皆游二學日本一、歸教一其本國子弟一習レ書、汪録所レ云、皆草書無二隷字一、今見果然、其爲二日本國書一無レ疑也