p.1367 追儺ハ、オニヤラヒ、又ナヤラヒト云ヒ、字音ニテツヰナト云フ、十二月晦日ノ夜、禁中ニ於テ惡鬼ヲ驅逐スルノ儀式ナリ、其式ハ、大舍人ノ身體長大ナル者一人ヲ取リテ方相氏ト爲シ、是ヲ大儺ト云フ、方相氏ハ黄金四目ノ假面ヲ被リ、玄衣朱裳ヲ著シ、右ニ戈ヲ執リ、左ニ楯ヲ執ル、又官奴等二十人ヲ以テ侲子ト爲シ、是ヲ小儺ト云フ、侲子ハ紺布衣、朱末額ヲ著シテ殿庭ニ列立ス、陰陽師先ヅ祭文ヲ讀ム、訖テ方相氏儺聲ヲ作シ、戈ヲ以テ楯ヲ擊ツ、侲子之ニ從ヒ、親王以下桃弓葦矢桃杖ヲ執リ、相和シテ以テ惡鬼ヲ逐フナリ、中世以降其制漸ク頽レ、殿上人等、桃弓葦矢ヲ以テ方相氏ヲ射ル等ノ事アルニ至レリ、
又大寒ノ日ノ前夜ニ、宮城門ニ土牛童子ノ像ヲ立ツル事アリ、疫氣ヲ驅ルガ爲ナリ、
p.1367 追儺〈ツイナ〉
p.1367 儺〈ヲニヤラフ〉
p.1367 追儺(ヲニヤライ)〈節分夜、於二禁中一殿上侍臣以二桃弓葦矢一驅二惡鬼一、謂二之追儺一也、〉
p.1367 節日由緒
十二月晦日夜猒二儺鬼一 高辛氏子、十二月晦夜死、其神成レ鬼致二疾疫一、因レ之以二桃之弓葦矢一逐二疫鬼一、靜二國家一、又川邊并道路散二供之一、
p.1368 驅儺 禮緯曰、高陽有二三子一生而亡、去爲二疫鬼一、二居二江水中一爲レ瘧、一居二人宮室區隅中一、善驚二小兒一、於レ是以二正歳十二月一、命二祀官一時儺、以索二室中一、而驅二疫鬼一、軒轅本紀曰、東海渡索山有二神荼鬱疊之神一、以禦二凶鬼一、爲レ民除レ害、因制二驅儺之神一、子游鳥問二於雄黄一曰、今人逐レ疫出レ魁擊レ鼔呼噪何也、雄黄曰、黔首多レ疾黄帝氏立二巫咸一使下黔首鳴レ鼔振レ鈬、以動レ心勞レ形、發二陰陽之氣一、擊レ鼔呼噪上、遂以出レ魁、黔首不レ知、以爲二崇魅一也、或記以爲二驅儺之事一、按、周禮有二大儺一、漢儀有二侲子一、要レ之雖三原始二於黄帝一、而大抵周之舊制也、周官歳終、命二方相氏一、率二百隷一索レ室、驅レ疫以逐レ之、則驅儺之始也、
p.1368 除夕 至二除日一禁中呈二大儺儀一、並用二皇城親事官一、諸班直戴二假面一、繍畫色衣、執二金鎗龍旗一、教坊使孟景初身品魁偉貫二金副金鍍銅甲裝一、將軍用二鎭殿將軍二人一、亦介冑裝二門神一、教坊南河炭醜惡魁肥裝、判官又裝二鍾馗小妹土地竈神之類一、共千餘人、自二禁中一驅レ祟出二南薫門外一、轉二龍彎一、謂二之埋祟一而罷、
p.1368 おにやらひ 儺を訓ぜり、鬼を逐ふ也、東京賦に、卒歳大儺、敺除二群癘一と見え、乞食のお歳末とてする事も、熙朝樂事に、丐者塗抹變形、裝成二鬼形一、叫跳驅レ儺、索二乞利物一といへり、又ついなの下に見えたり、
p.1368 つゐな 追儺の音也、鬼逐をいふ、類聚國史に、慶雲三年、始作二土牛一大儺と見えたり、本は周家の禮也、我邦にては、大舍人寮鬼を勤め、陰陽寮祭文を讀、殿上人桃弓葦矢して射といへり、こは女官より獻と雲圖抄に見ゆ、又儺主率二侲子一入二仙花門一とあり、桑弧蓬矢は西土の式也、さるを桑は扶桑國の意、蓬萊の意といふは、卜家の附會也、
p.1368 なやらふ 源氏にみゆ、儺のやらひ也、又なやらはんともはたらかしていへり、神代紀に、逐をやらふとよめり、今鬼やらひといへり、
p.1368 那 那〈續日本紀、延喜式、内裏式、河海抄、按に那は儺の音なり、禮記月令の注にも、難音那とあり、是なやらふとも、なやらひとも、はたらかせていへり、年中〉
p.1369 〈の疫氣をはらふ義也、此事の始て行はれしは、文武天皇慶雲三年十二月より也、或は元年よりとも、二年よりともいふ説あれど、正しからず、〉難〈周禮、禮記月令集説、按に義上におなじ、禮記月令の注に、難與レ儺通とみえたり、〉儺〈續日本紀、延喜式、内裏式、論語、後漢書、荊楚歳時記、南部新書、玉燭寶典、按に、先レ臘一日大儺、謂二之逐疫一と、後漢書禮儀志にみえたり、又儺人は厲鬼を逐もの也、いはゆる儺人所三以逐二厲鬼一也と、禮記にみえたり、〉なやらふ〈延喜式、小野宮年中行事、源氏物語、江家次第、河海抄、按に、河海抄に、儺を追事なり、鬼やらひといふ、追の字をやらふとよむなりとみゆ、〉追儺〈延喜式、小野宮年中行事、榮花物語、雲圖抄、濫觴抄、按に、古へついなとも、なやらふとも云り、其證は、源氏物語紅葉の賀に、なやらふとて、いぬきがこれをこぼち侍にとみえ、榮花物語月の宴に、つごもりのついなに、殿上人ふりつヾみしてまいらせたればとあれば、其頃ついなとも、なやらふともいはれしことしられたり、〉おにやらひ〈年中行事秘抄、河海抄、建武年中行事、公事根源、按に、河海抄に、儺を追事なり、鬼やらひといふ、追の字やらふとよむ也、又儺の一字を鬼やらひと讀なりとみえ、又行事秘抄に、金谷を引て云、陰陽の氣相激、化爲二疾癘之鬼一、爲二人家一作レ病とあれば、此疫鬼をはらふを鬼やらひとはいへり、又後漢書禮儀志にも、惡鬼を禁中に逐ふとあるもこの義なり、〉行儺〈月令廣義引二呂覽一、按に、行儺といふも、追儺といふに義同じ、行字やるといふ意あれば、やらふといふ義にて行儺と名付たり、〉害除〈同上、按に、同書に、驅二疫癘之鬼一、謂二之害除一とみえたれば、是も義上におなじ、〉逐除〈同上、同書に、行儺、今所レ謂逐除也とみえたれば義明なり、〉逐疫〈後漢書禮義志、同書に、先レ臘一日大儺、謂二之逐疫一とあれば、儺の別名なること明かなり、〉
p.1369 いつしかひゐなをしすへて、そヽぎ給へり、三尺のみづしひとよろひに、しなじなしつらひすゑて、又ちひさきや共つくりあつめて奉給へるを、所せきまであそびひろげ給へり、なやらふ(○○○○)とて、いぬきがこれをこぼち侍にければ、つくろひはべるぞとて、いとだいじとおぼいたり、
p.1369 なやらふとて追儺〈十二月晦日〉 除夜に儺を追ふ事なり、鬼やらひといふ、追の字をやらふとよむなり、又儺の一字をも鬼やらひとよむ也、始レ自二禁中一迄二何家一行レ之、
p.1369 年暮ぬとおぼすも心ぼそきに、わか宮のなやらはん(○○○○○)に、音たかヽるべきこと、なにわざをせさせんと走りありき給も、おかしき御ありさまをみざらんことヽ、よろづにしのびがたし、
p.1369 十二月大儺式
晦日夜、諸衞依二時刻一、勒二所部一屯二諸門一、近仗陣二階下一、近衞將曹各一人率二近衞一〈左近衞五人、右近衞四人、〉開二承明門一、先共p.1370 北面立二門内壇下一、共置レ弓登レ階開レ之、〈將曹尚立〉訖引還、闈司二人出レ自二紫宸殿西一居二門左右一、大舍人未レ叫レ門之先、闈司二人各持二桃弓葦矢一〈木工寮作備之〉昇レ自二南階一授二内侍一、即班二給女官一、大舍人叫レ門、闈司就レ版奏云、儺人等率〈氐〉參入〈止〉、某官姓名等〈謂二親王以下參議以上一〉叫レ門故〈爾〉申、勅曰、萬都理〈◯理字恐衍〉禮、闈司傳宣云、令二姓名等參入一、中務省率二侍從内舍人大舍人等一各持二桃弓葦矢一、陰陽寮陰陽師率二齋郞一〈其數具二所司式一〉執二祭具一、方相一人、〈取二大舍人長大者一爲レ之〉著二假面黄金四目玄衣朱裳一、右執レ戈、左執レ楯、侲子二十人〈取二官奴等一爲レ之〉同著二紺布衣朱抹額一、共入二殿庭一列立、陰陽師率二齋郞一奠祭、陰陽師跪讀二呪文一、〈今案立而讀レ之〉訖方相先作二儺聲一、即以レ戈擊レ楯、如レ此三遍、群臣相承和呼、以逐二惡鬼一、各出二四門一、〈方相出二北門一〉至二宮城門外一、京職接引、鼔譟逐、至二郭外一而止、
p.1370 十二月大儺儀
晦日戌二刻、諸衞勒二所部一、中務輔丞録率二史生省掌等一、列二承明門外東庭一、録喚二四位五位一、史生喚二丞及内舍人一、〈史生大舍人等計二總數一、不レ喚二交名一、〉于レ時陰陽寮官人率二齋郞等一、候二承明門外一、以二桃弓、葦矢、桃杖一、頒二充儺人一、〈守辰丁預前造備〉訖大舍人叫レ門、闈司問阿誰、大舍人答、儺人等將參入〈止〉某官姓名等〈謂二參議已上一〉候二御門一〈止〉申、闈司傳奏如レ上、于レ時儺人入而列立、時刻陰陽寮共入、齋郞持二食薦一敷二庭中一陳二祭物一、其料五色薄絁各一尺二寸、飯一斗、酒一斗、脯醢、堅魚、鰒魚、各一斤、海藻五斤、鹽五升、柏廿把、食薦五枚、匏二柄、缶二口、陶鉢六口、松明五把、祝料當色袍一領、袴一腰、〈寮預前申レ省請受辨備〉訖陰陽師進讀二祭文一、其詞曰、今年今月今日今時、時上直符、時上直事、一人一事、時下直符、時下直事、及山川禁氣、江河谿壑、二十四君、千二百官、兵馬九千万人〈(人一本作レ匹)已上音讀〉位置二衆諸前後左右一、各隨二其方一諦二定其位一可レ候二大宮内〈爾一、〉神祇官宮主〈能〉伊波比奉〈里〉敬奉〈留、〉天地〈能〉諸神等〈波、〉平〈久〉於太比〈爾〉伊麻佐布倍志〈登〉申、事別〈天〉詔〈久、〉穢〈久〉惡〈伎〉疫鬼〈能〉所々村々〈爾〉藏〈里〉隱〈布留乎波〉千里之外、四方之堺、東方陸奧、西方遠値嘉、南方土左、北方佐渡〈與里〉乎知〈能〉所〈乎、〉奈牟多知疫鬼之住〈加登〉定賜〈比〉行賜〈氐、〉五色寶物、海山〈能〉種々味物〈乎〉給〈氐、〉罷賜移賜〈布、〉所々方々〈爾〉急〈爾〉罷往〈登〉追給〈爾、〉挾二姧心一〈氐〉留〈里〉加久良波、大儺公小儺公、持二五兵一〈氐〉追走、刑殺〈曾登〉聞食〈登〉詔、訖儺長大舍人著二方相面、緋p.1371 衣、皂裳一、持二楯槍一、小儺今良著二紺布衣、緋末額一、持二桃弓、葦矢、桃杖、碎瓦一、儺長稱レ儺、小儺及分配人等隨、即同稱、遍駈二宮中一、出レ自二十二門一付二京職一、先レ是鼔吹司同就二左右兵庫一、請二受鼔十二面一付二京職一、〈職別六面、擊者別レ鼔各一人、〉京職門別備二夫一人馬一疋一候レ之、
p.1371 凡十二月晦日儺者、中務預點二親王及大臣已下次侍從已上一分二配諸門一、丞録舍人大舍人等亦同、〈事見二中務式一〉當日戌時、親王并大臣已下著二承明門外東庭幄座一、少納言并外記史候之、依レ例行事、〈事見二儀式一〉
p.1371 凡年終行儺者、前レ晦二日、少輔已上點二定親王并大臣以下次侍從以上及丞録内舍人等應レ預レ事者一造二奏文一、當日平旦令二内侍進奏一、又仰レ寮令レ進二大舍人歴名一、其分配、閤別參議以上二人、侍從十人、省丞一人、録一人、内舍人四人、史生四人、大舍人五人、昏時省輔丞録率二史生省掌等一、列二於承明門外東庭一、點二撿儺人一、依レ次列立、録喚二四位五位一、史生喚二丞及内舍人一、但史生大舍人者計二列總數一、開二承明門一、闈司傳宣、時率二侍從内舍人大舍人一、入而列立、末二傳宣一之前、以二桃弓葦矢桃杖一〈陰陽寮作二進之一〉頒二充儺人一、〈事見二儀式一〉凡親王以下次侍從以上、闕二追儺陣一者、不レ預二元日節祿一、
凡供二奉十二月大祓一公卿者、不レ可三更責二儺陣之不參一、
p.1371 凡年終追儺前一日、録二供事官人舍人等名一申レ省、及裝二束御殿一、所レ進舍人十人當日戌刻、官人率二追儺舍人等一候二承明門外一、待二省處分一頒二配四門一、〈東宣陽門、南承明門、西陰明門、北玄暉門、〉亥一刻含人叫レ門、其詞曰、儺人等率參入〈止〉某官親王門候〈止〉申、即方相爲〈◯爲原脱、據二政事要略一補、〉レ首、親王以下隨レ次入立二中庭一、陰陽寮儺祭畢、親王以下執二桃弓葦矢桃杖一儺二出宮城四門一、〈東陽明門、南朱雀門、西殷富門、北達智門、〉其方相假面一頭、〈黄金四目〉後帔赤兩面四尺、〈若有二損壞者一、内匠寮修理、〉緋皂袷袍各一領、緋皂單裳各一腰、〈料皂緋帛、各一疋、〉侲子八人、紺布衣八領、〈料紺調布四端〉楯一枚、〈長五尺、廣一尺五寸、〉桙一枚、〈長九尺〉緋幡一流、〈料帛二尺〉並納二寮庫一、當レ時出用、〈侲子裝束受二主殿寮一、事畢返納、〉若有二損壞一申レ省受替、其弓箭杖受二陰陽寮一、
p.1372 十二月晦夜官人、當日晩頭率二史生殿部今良等一、大内前庭、東西相分立二燈臺一、〈各相去八尺〉隨即燃レ燈、于レ時追儺已畢供二奉御湯一、
p.1372 凡儺夜分二遣近衞四人一、聞二夜中事一記奏レ之、
p.1372 十二月晦夜追儺、當二承明門東南庭中一、大藏省立二七丈幄一宇一、設二親王以下侍從已上座一、隔二幄内東一間一敷二辨大夫并外記史等座一、但雨濕之時設二廊上一、
p.1372 年終行レ儺者、鼔十二面付二左右京職一、〈職別六面、擊者各一人、夫一人、但夫馬職備、〉
p.1372 凡年終儺者、差二擊レ鼔夫六人馬六疋一送二兵庫寮一、分二配宮城六門一、其夫馬功賃以二傜錢一充レ之、凡追儺夜、分二配諸門一史生已上交名、廿八日以前進二太政官一、
p.1372 儺祭料
五色薄絁各一尺二寸、飯一斗、酒一斗、脯醢堅魚鰒乾魚各一斤、海藻五斤、鹽五升、柏廿把、食薦五枚、匏二柄、缶一口、陶鉢六口、松明五把、祝料當色袍一領、袴一腰、〈◯中略〉
凡追儺料、桃弓杖葦矢令二守辰丁造備一、其矢料蒲葦各二荷、攝津國毎年十二月上旬採送、
p.1372 十二月晦夜、供二奉内裏并大極殿、豐樂殿、武徳殿一、儺料等雜物、槾椒油七斗六升六合、胡麻油四斗、油瓶廿六口、燈盞一千百六十六口、〈二百五十三口加レ盤〉燈炷調布一丈九尺三寸、燈臺八十基、〈紫宸殿并御在所料〉中宮油八斗、油坏八百口、盤百卌口、瓶十六口、燈炷布一丈三尺、追儺今良男卌人、女十六人、〈女五人奉二中宮一〉各給二衣服一、表桃染布、裏調布、各二丈一尺、〈女减二五尺一〉庸綿二屯、生絲一分、
p.1372 追儺事〈中務省以二分配文一付二内侍所一、近代不レ然、〉
戌刻王卿著座、〈衞府帶二弓箭一、長樂門東廊西上對座、親王南面、上卿北面、以二紺幕一曳二度柱外一也、〈雨儀也〉晴時廊前立二七丈幄二宇一、〉兵衞陣二承明門外一、中務丞進分二配簡一、〈毎門一枚、總四枚、王卿以下分二配四門一、〉上卿以下見下、了自二侍從座一如レ元上、上卿給レ丞、中務録立二長樂門前一召二計五位一、〈雨儀下二立壇上一、史生代召二六位一、〉陰陽寮以二桃杖弓葦矢一進二王卿以下一、〈或天皇御二南殿一不レ御二帳中一、内侍縿二上裳一云々、〉王卿立二承明門巽壇上一、開門、〈不レ開二〉p.1373 〈建禮門一〉闈司著、大舍人叫レ門、〈闈司傳宣、勅云、万都禮、〉陰陽寮於二門壇上一、以二桃弓葦矢一付二闈司一、〈入二折櫃一、内侍自二南階一傳取給二女官一、〉方相參入、〈松八把立レ前、侲子八人在レ後、〉立二版南三丈一、王卿以下列二南庭一、〈西上、去レ門二丈、雨下立二門壇上一、〉陰陽寮下部八人給二方相饗一、〈出レ自二安福殿砌一、入レ自二月華門一、〉同寮官人一人立レ版、讀二宣命一、〈詞在二寮式一〉撤レ饗、〈同寮人〉方相揚レ聲打レ楯三度、〈群臣相承和呼〉王卿以下各率二眷屬一、四門分追、〈挿レ笏執レ杖、侍臣任二分配一追、〉方相經二明義仙華門一、出レ自二瀧口戸一向二北門一、上卿從二方相一分出、〈向二東門一〉右近陣進二白木束一以充二追儺一闕二追儺一侍從除二元日見參一、〈有レ障者觸二外記一〉 天暦八十二、雖二諒闇一〈◯醍醐后藤原穩子、此年正月崩、〉有二追儺一、 延暦夫人薨、〈◯光仁后高野新笠、延暦八年十二月崩、〉未レ葬間無二追鬼一、 追儺奏、晦日中務録付二内侍所一、
p.1373 晦日追儺事〈近例外辨用二雨儀一、往昔出御時内侍著縿二上裳一云々、〉
中務省以二分配文一付二内侍一奏レ之、王卿就レ中隔レ幄、〈雨儀長樂門東廊西上對座、上卿北面、〉亥一刻中務丞奉二諸門分配簡四枚一、上卿見畢授二次人一、次第見下、自二侍從座一如レ元返上、上卿返給、次録取レ簡、於二長樂門前一召二五位已上一、次史生召二六位以下一、畢陰陽寮以二桃杖弓葦矢等一頒二親王以下一、
天皇御二南殿一、〈不三必御二帳中一〉近仗陣二階下一、〈立陣〉所司開二承明門一、〈清凉抄云、諸衞開レ門、然而不レ可レ開二建禮門一之由見二内裏式一、〉王卿起座、〈搢レ笏取二弓矢一近例、衞府公卿皆帶二弓箭一、雖レ无レ所レ據可レ從レ例歟、〉立二左兵衞陣南一、〈雨儀經二壇上一〉陰陽寮授二桃弓葦矢於闈司一、方相率二侲子(ワラハ)一參入、立二版南三許丈一、王卿率二侍從大舍人等一列二方相後一、〈去二承明門一二許丈西上、降雨時壇上、〉陰陽師率二齋郞(サイノヲ)一入レ自二月華門一、奠祭讀二呪文一、畢方相先作二儺聲一、即以レ戈擊レ楯三度、群臣相承、和呼追レ之、方相入レ自二仙華門一、出二北廊戸北門一、分配人々從二方相後一、度二御前一而出、〈近例不レ依二分配一、皆度二御前一退出、〉 諒闇年如レ例行レ之、但長保三年停二此儀一、依二七々日内一也、〈◯此年閏十二月、一條母后藤原詮子崩、〉尋二往昔例一被二定行一耳、
參議一人行事例〈應和三年康保二年〉
p.1374 追儺圖【圖】
p.1375 追儺〈近例用二雨儀一、私北山要抄云、近例外辨用二雨儀一、私長樂門東廊西上對座、親王南面、上卿北面、晴時廊前立二七丈幄二宇一、〉
中務省以二分配文一付二内侍所一、〈近代不レ然〉藏人押二分配於小壁一、〈殿上西戸南腋、其高與二立人一等、〉戌刻王卿著二外辨一、〈西上對座、上卿北面、〉衞府帶二弓箭一、以二紺幕一曳二度柱下一、〈辨少納言著二其外一〉亥一刻、中務丞奉二諸門分配簡一、〈著レ軾奉レ之、四枚、近代一枚、◯中略〉p.1375 上卿見レ之下二參議一、參議見下二侍從座一、侍從見了返上、〈自二幕下一出レ之〉上卿返二給丞一、〈分配人不レ具者、上卿于レ時差定、近代無二此事一、〉録取レ簡於二長樂門一召計、〈史生代召二六位一〉陰陽寮以二桃杖弓葦矢一進二上卿以下一、内侍渡二南殿一、〈上古縿二上裳一、近代不レ然、〉又雖レ有二渡御一不レ著二御帳内一、近代殊不二出御一、近仗陣二階下一、〈帶二弓箭一、往年著レ靴、近例不レ著レ靴也、〉兵衞陣二建禮門一、〈今夜衞府公卿著二弓壺胡籙一、六衞將佐、縫掖壺箙、持二桃杖并桃弓葦矢一、〉王卿起座、〈指レ笏取二弓矢一、帶二弓箭一之人挿二之於壺一、〉次立二承明門巽壇上一、陰陽寮於二同壇上一授二桃弓葦矢於闈司一、〈入二折櫃一傳二給之女官一、女官入レ自二長橋一置二石灰壇一、〉方相率二侲子一參入、立二版南三丈一、〈松八把在レ前、侲子八人在レ後、〉王卿率二侍從大舍人等一列二方相後一、〈去二承明門一二許丈、西上、降雨時立二壇上一、〉陰陽寮下部八人給二饗方相一、〈出レ自二安福殿一給、初入レ自二月華門一、〉件饗近代不レ見、陰陽師率二齋郞一入レ自二月華門一、允一人〈著二深沓一〉立レ版讀レ呪〈詞存二寮式一〉撤レ饗、〈同寮人〉方相先作二儺聲一、以レ戈叩レ楯三箇度、群臣相承和呼追レ之、方相經二明義仙華門一出二北廊戸一、〈御物忌時猶度、見二天暦六年記一、〉上卿以下隨二方相後一度二御前一、出レ自二瀧口戸一、〈出レ自二承香殿馬道一向二東陣一、西宮抄、猶挿レ笏執レ杖、近例不レ然、又或經二南殿前一到二燈臺之中一、或其期斜向二明義門方一、〉殿上人於二長橋内一射二方相一、主上於二南殿一密覽、還御之時、扈從人忌三最前行逢二方相一、振鼔儺木儺法師等種々事、〈皆有二故實一〉殿上人候二御座方一讙呼、〈或放二格子一踏レ之、或取二白木燈臺一衝レ之、其事無二紀極一、雲圖云、行事藏人獻二儺木振鼔等於臺盤所一、御殿毎レ間白木灯臺立レ柱、〉南殿庭、殿上小庭、朝餉壺、並打二燈臺一、不レ開二建禮門一、時衞門不レ可レ帶二弓箭一歟、
年中要抄曰、近例衞府公卿皆帶二弓箭一、雖レ無レ所レ據可レ從レ例歟、大將儀曰、大將及諸衞督皆帶二弓箭一、此事無レ所レ據、又不レ見二舊例一、然而近代帶レ之、未レ得二其意一、〈府式、少將以上執二弓箭一之日、大中將帶二參議以上一不レ執云々、候二殿上一時如レ之、况於二中重一行レ事、又已執二桃弓葦矢等一、何重帶レ之哉、可レ尋レ之、〉
左右衞門佐、帶二弓箭一哉否事、 予案、建禮門不レ開、於二中重一行レ事、仍不レ帶、有信問二予説一帶レ之、前例慥可レ尋レ之、故行親帶レ之云々、
左右衞門督、近來帶レ之、次又有二不レ帶之人一、
諒闇年如レ常〈天暦八年 長保三年無レ之、依二母后(一條后藤原詮子)四十九日内一也、延暦夫人(桓武母后高野新笠)薨未レ葬間、無二追鬼事一云々、〉
參議二人行事例〈承平二年、公頼實頼、〉 參議一人行例 〈天暦九〈有相〉天徳元〈頼忠〉應和二 康保二〉 長樂門外東廊設二王卿侍從内舍人等座一、〈西上對座、就レ中親王南面、大臣北面、〉紺幔曳二度柱外一、〈雨儀〉
p.1376 晦日追儺事
當日中務省以二分配文一付二内侍一奏レ之、所司裝束訖、亥一刻、天皇出二御南殿一、不レ御二御帳内一、方相一人、〈取二大舍人、長大者一爲レ之、〉侲子廿人、〈取二官奴等一爲レ之〉共入列二立殿庭一、〈其裝束等見二式文一〉
p.1376 晦日追儺事
御殿無二別御裝束儀一、刻限南殿事了、儺王率二侲子一入二仙華門一、經二東庭一出二瀧口戸一、侍臣於二孫庇一射レ之、〈女官獻二葦弓箭一〉逐電下二格子一儺レ之、先レ是行事藏人獻二儺木振鼔等於臺盤所一、
追儺 巽 朝臣 朝臣 坤 朝臣 朝臣 乾 朝臣 朝臣 艮 朝臣 朝臣 御殿内 朝臣 朝臣 〈件分配押二殿上小壁一也、上ノ長押ノ下ヨリ七八寸ヲ垂テ押レ之也、往古書二追儺分配一、近代無二分配兩字一、又角字不レ書、或書二巽角一也、南殿四角書、近衞司也、御殿入二職事一也、又御殿ニハ三堺ニ書レ之、城外服暇之外、皆悉書レ之、四位朝臣、五位六位名字、小舍人不レ入レ之、追儺了逐電放レ之、及二明朝一之時爲二大失禮一、〉
p.1376 一晦追儺〈亥一刻〉
上卿〈分配〉 宰相〈同〉 辨 少納言 近衞次將〈一兩人〉 官外記 陰陽寮
p.1376 追儺、〈◯十二月〉大とねりれう鬼をつとむ、陰陽寮の祭文をもちて南殿のへんにつきて
p.1377 よむ、上卿以下これを追、殿上人ども御殿の方に立て桃の弓にている、仙花門より入て、東庭をへて瀧口の戸にいづ、こよひ所々にともし火をおほくともす、東庭、あさがれい、だいばん所のまへのみぎりに燈臺をひまなく立てともすなり、
p.1377 三十五番 右 追儺 内大臣
いまはたヾ一夜になりてあしのやのいるがごとくにとしぞくれぬる〈◯中略〉
右追儺とは、年中の疫ををひはらひ侍るこヽろにや、ひかる源氏に、なやらふなど申侍るも、儺を追にて侍るなり、やらふとは追と云ことばなり、夜の事なれば、殿上の侍臣、桃のゆみ、あしの矢をもつて、御殿のかたにたちておにをいるなり、四目あるおそろしきおもてをきて、手にたてほこをもつ、また侲子(こわらはべ)とて二十人、こんの布衣きたるものをそつして、内裏の四門をめぐるなり、慶雲二年〈◯二年、三年誤、〉よりはじまるとぞ、〈◯四目以下、據二一本一補、〉
p.1377 追儺 卅日
けふはなやらふ夜なれば、大舍人寮鬼をつとめ、陰陽寮祭文をもて南殿の邊につきてよむ、上卿以下是をおふ、殿上人ども御殿の方に立て、桃の弓あしの矢にている、仙花門より入て、東庭をへて瀧口の戸にいづ、こよひ御前に灯をおほくともす、東庭、朝餉、臺盤所のまへのみぎりに、灯臺を隙なくたてヽともす也、追儺といふは、年中の疫氣をはらふ心也、鬼といふは、方相氏の事也、四目ありて、おそろしげなる面をきて、手にたてほこをもつ、又侲子とて廿人紺の布衣きたる物を率して、内裏の四門をまはるなり、慶雲二年十二月にはじまる、此年天下に百姓おほく疫癘になやまされ侍し故なり、
p.1377 凡十二月晦日戌時追儺、坊官率二品官舍人等一候二南門外一、兵衞開門如レ常、内裏儺聲始發、大夫以下各執二桃弓葦矢一入立二庭中一、倶作二儺聲一、分出二諸門一、
p.1378 同ひ〈◯晦日〉ついなの事
きんちうにおはします時、うちの御かたのなりごゑにしたがひて、宮づかさども、あしのゆみやをもちて、あひまちこれをおふ、 今案、式のごとくには、もヽの弓なり、しよしゆみやをたてまつるといへり、しかれどもきんだいは、やうはりたてまつる、とばの院とうぐうの御時、内裏におはしますあひだ、としごとにこのことあり、
p.1378 追儺事 六位職事奉二行之一 儺木旬出納調進之 振鼔御倉町進之
p.1378 なおひ 儺追の義也、尾張國國府の社などにいへり、遠江國淡海國玉神社にも、古へありし事にて、なおひ祭といひしとぞ、なやらふと義通へり、正月十三日の夜、旅人を捉へ、土餅を負せて逐ふ也、茅にて小人形を作りて儺を擊つ、此を小形と稱す、別に大形ありて儺に負す也、元亨釋書に、筑紫觀音寺に、正月上旬、行人を捉て駈儺を行ふよし見えたり、浮屠修正の法にして、神事と心得るは非也、鬼走の條考へ看べし、
p.1378 節分〈立春の前日也〉 龜戸天滿宮追儺の神事〈酉の時社前に燎をたき、神樂を奏し、雙角四目青赤の二鬼に出立する者、猿の皮をかぶり、鹿角の杖をつき、社前に進出づ、巫出て問答し、幣杖にて鬼を打つ、其餘五人の巫、牛王杖を持て追ひ退く、都て當社の神事は、筑前大宰府の例にならへりとぞ、◯中略〉 雜司が谷鬼子母神堂追儺〈今夜院主衆僧内陣に於て、陀羅尼品を誦す、十三卷に至て、番頭尊前の供豆を、拜殿のさかひの障子の穴より打出す、參詣の男女これを拾ひて守とす、この豆を懷中なす時は、不時の怪我過ちを除き、又は疫病を辟るとて、大に尊信せり、◯中略〉 下谷五條天神宮神事〈酉の刻追儺あり◯下略〉
p.1378 淺草觀音追儺〈除夜より七日〉 江戸金龍山淺草寺にあり、今夜參詣堂中に充、乃チ初更の頃、鬼形の者一人堂外に出、又一人方相氏の假面を被りたるもの、これを追ふて堂を巡る、後除疫の札三千枚を撤して諸人に與ふ、參詣の人各あらそひ拾ふて、持かへりて自家の門戸に貼、
p.1378 元日 淺草寺修正會、除夜より正月六日に至る迄、七日の間毎夕儺あり、 衆徒六人弟子二人出仕、これを勤む、夕七ツ時頃、寶前に於て讀經唄散華あり、後衆徒壹人袈裟衣のま
p.1379 ま、鬼面を持、面へかざして出る、又壹人竹杖をもちて是を追ひ、龕を廻る事三度なり、此間かね太鼔亂調に打ならす、〈◯中略〉 東叡山中堂のおにやらひは、元日より七日迄、毎夕八ツ半時修行あり、一山藥師の十二願をよみ、後銅羅、太鼔、螺貝等の鳴ものにて、鬼面をかけたる僧を追ふとぞ、中門を閉してより修行あり、ゆゑに庶人は見る事なし、
p.1379 慶雲三年、是年天下諸國疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺、
p.1379 齊衡元年十二月辛巳、武藏國貢二長人一枚一、以備二駈儺一、
p.1379 元慶六年十二月廿九日丁卯晦、於二朱雀門一大祓及追儺如レ常、
p.1379 元慶八年十二月卅日丙辰、朱雀門前大祓、公卿行レ事、夜天皇御二紫宸殿一、追儺如二舊儀一、
p.1379 安和二年八月十三日、〈◯中略〉東宮〈◯圓融〉位につかせ給ぬ、御年十一なり、〈◯中略〉今のうへ、わらはにおはしませば、つごもりのついなに、殿上人ふりつヾみなどしてまゐらせたれば、うへふりけうぜさせ給もをかし、
p.1379 つごもり〈◯永延二年十二月〉になりぬれば、追儺とのヽしる、うへ〈◯一條〉いとわかうおはしませば、ふりつヾみなどしてまゐらするに、君だちもおかしうおもふ、
p.1379 寛仁三年十二月卅日壬子、宰相云、今夜追儺分配、仍可二參入一、四條大納言、〈公任〉中宮權大夫、〈能信〉同分配、而有二故障一不レ可レ參由云々、爲レ之如何者、答云、上卿不參者奏二其由一可レ隨レ仰、參議一人行例若有歟、退出後以二書状一云、追儺雨儀如何、答云、追儺雨儀忽不レ覺但延長二年雪、王卿著二深履一立二中庭一、彼時諸卿云、無二雨儀例一者、今廻二志慮一、方相立二承明門壇上一、上卿可レ立二其後一歟、經二南廊安福校書殿等壇上一可レ度二御前一歟、雨脚滂沱者、執レ笠可レ度歟、若經二露臺西庇一於二呉竹後一執レ笠可レ宜歟、〈仰二近衞府者一令レ取レ笠、持二向竹後一可レ指歟、依レ無二前例一新愚案也、〉此間臨事相議可二左右一歟、雨脚不レ止、其儀鬱々明旦可レ聞、〈◯中略〉追儺事、依レ有二雨隙一用二晴儀一云々、雨儀例不二殊見一、
p.1380 寛仁四年閏十二月卅日丙子、大納言、辨、修理大夫出レ自二敷政門一、經二中重一著二追儺所一、〈余(源經頼)同相從著座〉外記申二代官一、〈中務丞不參代、陰陽允忠孝、〉云々、上卿率二辨史外記等一、立二承明門一催二雜事一、陰陽寮桃弓桑矢等分奉二上卿以下一、上笏挾レ腰取二弓矢一、〈宰相并余又如レ此云々〉次開門、闈司著座云々、上宰相渡二御前一之間、撤一弓矢一把レ笏云々、
p.1380 追儺 裏書 後朱雀院寛徳元年十二月卅日、上卿權中納言資平卿已下參入、以二左少辨資仲一奏云、刻限漸到、早申行如何、仰云、天下之動靜、唯依二追儺遲速一、而近年不レ待二刻限一、急行退出、故災孽頻發、人民不レ安、於レ今者慥守二刻限一可二申行一者、上卿資平以下深所二畏申一也、
p.1380 嘉承元年十二月卅日丁亥、夜深有二追儺事一、〈先年季仲卿被レ奏二事具之由一、今度自二御所一被二尋仰一之、〉上卿源納言、少納言家隆、右少辨實光等參二向南庭一、方相氏陰陽呪了、經二軒廊一渡二東庭一、此間侍臣放レ矢儺レ之、即下二格子一、主上〈◯堀河〉數度有レ仰、良久追レ之、南殿分配如レ例、
p.1380 天承元年十二月卅日、戌刻屬保信〈仕所年預〉持二參儺木六十筋〈三十大盤所料、三十侍所料、〉振鼔一捧一、〈御料〉下官進二御所一了、追儺下官分配之故也、此外無二他事一、
p.1380 仁平四年十二月卅日戊申、追儺如レ例、
p.1380 明應元年十二月 追儺〈此年再興〉 六位外記五十疋、六位史五十疋、召使三十疋、陰陽寮五十疋、掃部寮三十疋、大舍人百疋、以上三百、
p.1380 享徳四年〈◯康正元年〉十二月廿九日庚午、追儺被レ行也、其儀上卿權中納言有俊卿、參議左中將季春卿、權中辨經茂〈藏人〉諸衞左近將監源通任、權少外記中原康繼等、月華門外南腋著座、東上北面一例、〈諸衞已上座、薦上重二半帖一、外記座不レ重二半帖一、頗不審、雖レ然不レ及二相尋一、自然無二沙汰一歟、不レ可レ然、〉各著座之後、諸司獻二於上卿一、上卿取レ之、〈◯中略〉聊見レ之被レ授二相公一、相公一見之傳レ辨、辨傳二諸衞一、諸衞一見之後授二外記一、外記置二笏於床下一〈左〉請二取之一、以二兩手一持レ之聊見レ之、〈如レ讀〉其後更如レ元返二于諸衞一、如レ此次第各取二上之一、至二上卿一取レ之、返二給諸司一訖、此後自二下臈一起座之後、上卿已下至二外記一、相率入二月華門一、〈上卿已下靴也、但諸司外記等淺沓也、〉簷下〈霤下也〉列立、北上東面一列也、諸司獻二弓矢一〈桃弓葦矢〉
p.1381 〈也、矢二也、〉上卿已下指レ笏取レ之相二待之一、鬼形〈陰陽寮沙汰歟、如何、可レ尋云々、〉自二右近陣橘樹邊一出現指レ南走、則上卿已下各放二矢一一了、〈注二矢於弓一〉諸司進給二弓矢一、各拔レ笏持之、自二下臈一離レ列出二月華門一退散、
p.1381 仁平四年十二月卅日戊申、私家雖二新宅一令二追儺一、是先例也、見二于年々舊記一、
p.1381 卅日追儺事
延暦八年十二月廿八日、太皇太后宮〈◯桓武母后高野新笠〉崩、無二追鬼之事一、
p.1381 長保三年閏十二月廿二日己丑、東三條院〈◯一條母后藤原詮子〉崩二于行成卿第一、 廿八日乙未、右大臣仰云、任二天應延暦之例一、被レ仰下下可レ停二止追儺一之由上、 廿九日丙申、今日大祓也、追儺停止、
p.1381 久安六年十二月卅日壬申、禪閤〈◯藤原頼長父忠實〉仰曰、重喪間追儺如何、答曰、北山抄〈年中下〉意、諒闇行二追儺一、但於二七々日内一者不レ行レ之、七々日既過可レ被レ行レ之歟者、禪閤稱レ善、
p.1381 長和五年十二月卅日庚子、追儺也、而兩京無二追儺事一、土老成レ恠、
p.1381 觀應二年十二月卅日乙巳、今日大祓追儺已下、毎事無二沙汰一也、天下安危猶更不二聊心一者也、
p.1381 寛仁三年十二月卅日壬子、子時始許追儺依二新屋一不レ儺、依二世俗風一、
p.1381 尹大納言光忠入道追儺の上卿をつとめられけるに、洞院右大臣殿に次第を申請られければ、又五郞男を師とするより外の才覺候はじとぞ宣ひける、かの又五郞は、老たる衞士のよく公事になれたる者にぞありける、近衞殿著陣し給ひける時、ひざつきを忘れて外記をめされければ、火たきて候ひけるが、先ひざつきをめさるべくや候らんと、忍びやかにつぶやきける、いとをかしかりけり、
p.1381 しはすのつごもりの夜、なのおにを、
鬼すらも都の内とみのかさをぬぎてやこよひ人にみゆらん
p.1381 歳のくれ
p.1382 百敷の大宮人もきヽつぎて鬼おふほどに夜は成にけり
p.1382 楳子内親王家歌合 宣旨
ふる年といふなをやらふをとたかみ春をいとふと人やきくらん
◯
p.1382 立二土牛童子像一 大寒日
大寒の日、夜半に陰陽師土牛童子の像を門口にたつ、陽明、待賢門は青色の土牛をたつ、美福、朱雀門には赤色なり、談天、藻壁門は白色なり、安嘉、偉鑒門には黒色也、郁芳、皇嘉、殷富、達智の四門には黄色をたつるなり、青色は春の色、ひんがしにたつ、赤色は夏のいろ、南にたつ、白色は秋のいろ、西にたつ、黒色は冬の色、北にたつ、四方の門に、また黄色の土牛をたてくはふるは、中央土のいろなり、木火金水に土ははなれぬ理有、慶雲二年天下疫癘さかりにして、百姓おほくうせたりしかば、土牛をつくり追儺といふ事はじまりき、異國の書には、農事のために時をしめさんとて、土牛を立るよし見えたり、
p.1382 季冬之月、〈◯中略〉命二有司一大儺、旁磔出二土牛一以送二寒氣一、註、此難難二陰氣一也、難レ陰始二於此一者、陰氣右行、此月之中、日歴二虚危一、虚危有二墳墓四司之氣一、爲下厲鬼將中隨二強陰一出害上レ人也、旁二磔於四方之門一、磔攘也、出猶レ作也、作二土牛一者、丑爲レ牛、牛可二牽止一也、送猶レ畢也、
p.1382 大寒日夜半諸門立二土牛童子像一事
陽明、待賢門、〈青〉美福、朱雀門、〈赤〉郁芳、皇嘉、殷富、達智門、〈黄〉安嘉、偉鑒門、〈黒〉談天、藻壁門、〈白〉 弘仁陰陽式云、凡土牛童子像〈請二内匠寮一〉大寒之日前夜半時立二於諸門一、〈縣犬養、山二門各青色、壬生、大伴二門赤色、建部、若犬養伊福部、丹治比四門黄色、玉手、佐伯二門白色、海犬養、猪使二門黒色也、〉
p.1382 凡土牛童子等像、〈請二内匠寮一〉大寒之日前夜半時立二於諸門一、〈陽明、待賢二門各青色、美福、朱雀二門赤色、郁芳、皇嘉、殷富、達智四門黄〉
p.1383 〈色、談天、藻壁二門白色、安嘉、偉鑒二門黒色、〉立春之日前夜半時乃撤、
p.1383 大寒日立二諸門一土偶人十二枚、〈各高二尺〉土牛十二頭〈各高二尺、長三尺、〉料、青土二升、赤二升、白二升、黄四升、掃黒二升、酒一升、糯米一斗二升、藁八圍、板廿四枚、〈十二枚立二偶人一、各方一尺五寸、厚二寸、十二枚立レ牛、各長三尺五寸、廣一尺五寸、厚二寸、木工寮毎年充レ之、〉功一百卅四人、〈工九十六人、夫卅八人、〉
p.1383 土偶人土牛各十二枚、料板廿四枚、 右毎レ至二大寒一、預前充二内匠寮一、
p.1383 土牛 禮記月令曰、出二土牛一以示二農耕之早晩一、注云、若立春在二十二月望一、則策牛人近レ前、示二農早一也、月晦及正月旦、則在レ中、示二農平一也、近二正月望一則近後、示二農晩一也、其周制乎、後漢禮儀制曰、季冬立二土牛於國都郡縣城外日地一、以送レ寒、月令章句曰、是月之辰建レ丑、丑爲レ牛、寒將レ極、故出二其物一爲二形像一、以示レ送二達之一、且以升レ陽、
p.1383 寶龜三年十二月乙亥、〈◯二十九日〉有二狂馬一喫二破的門土牛偶人、及辨官曹司南門限一、
p.1383 大治五年十二月廿四日、左衞門督實行被レ申云、廿六日大炊殿御渡之事被レ問二人々一、大略一同申云、黄牛五菓御前物儺儀可レ候也、雖二舊所一被二作改一所々已有二犯土一、黄牛最可レ候之由予申了、