p.0293 名譽ハ、ナト云ヒ、ホマレト云ヒ、又面目トモ云フ、善言美行アリテ、人ヨリ稱讚セラルヽヲ謂フナリ、我國ノ俗、古來特ニ名譽ヲ重ンジタレバ、其事例殆ド枚擧ニ遑アラズ、今其著キモノヲ取リテ此篇ニ收載セリ、
p.0293 名譽
p.0293 名譽(メイヨ)
p.0293 譽〈音預 ホマレ(○○○) ホム(○○)ホコル 和余〉
p.0293 褒〈ボムホマレ〉 譽 繩 稱 讚 嘆 娘 歎 美〈已上同〉
p.0293 天慶八年三月一日、中使敦敏朝臣來云、〈○中略〉成文〈○紀〉造二道橋一事、頗得二其譽一、
p.0293 ほまれ 譽をよめり、ほめられの義、めらノ反ま也、又まれノ反め也、日本紀に善をもよめり、
p.0293 一書曰、是時菊理媛神亦有二白事一、伊弉諾尊聞而善之(ホメ玉ヒテ)、乃散去矣、
p.0293 名〈誀名反 ナ(○)和ミヤウ〉
p.0293 名聞(ミヤウモン/○○)利養(リヤウ)〈法華經、有三一人號曰二求名一、貪著利養、〉
p.0293 承久三年五月十九日壬寅、二品〈○平政子〉招二家人等於簾下一、以二秋田城介景盛一示合曰、〈○中略〉 而今依二逆臣之讒一、被レ下二非義綸旨一、惜レ名(○)之族、早討二取秀康胤義等一、可レ全二三代將軍遺跡一、
p.0294 六波羅よりの御おくりの武士、さならでも名ある(○○○)つはものども、千葉介貞胤をはじめとして、おぼえ異なるかぎり、十人撰びたてまつる、
p.0294 高名(○○)の木のぼりといひしおのこ、人をおきてゝ、たかき木にのぼせて、梢をきらせしに、いとあやうくみえし程は、いふこともなくて、おるゝ時に、軒だけばかりに成て、あやまちすな、心しておりよと詞をかけ侍しを、かばかりになりては、飛おるゝともおりなん、いかにかくいふぞと申侍しかば、其事に候、めくるめき、枝あやうき程は、をのれがおそれ侍れば申さず、あやまちはやすき所になりて、必仕ることに候といふ、〈○下略〉
p.0294 面目
p.0294 眉目(ミメ)〈承朝俗、謂下有二面目一義上爲二眉目一、〉
p.0294 又なによりも御がくもんを御さたあるべき事なり、一でうのゐん、ごしゆじやくゐん、ご三でうの院など、ことさら、大さい、御名譽まし〳〵て、賢王、聖代とも申つたへはんべる也、
p.0294 二十八年二月乙丑朔、日本武尊奏下平二熊襲一之狀上、〈○中略〉天皇於レ是美二日(ホメタマヒテ)本武之功一而異愛、
p.0294 七年十二月戊子、詔曰、朕承二天緖一、獲レ保二宗廟一、兢兢業業、聞者天下安靜、海内淸平、屢致二豐年一、頻致レ饒レ國、懿哉摩呂古、〈○繼體天皇長子淸寧天皇〉示二朕心於八方一、盛哉勾大兄、光二吾風於萬國一、日本邕邕、名擅二天下一、秋津赫赫、譽重二王畿一、所レ寶惟賢、爲レ善最樂、聖化憑レ茲遠扇、玄功籍レ此長懸、寔汝之力、宜下處二春宮一、助レ朕施仁、翼レ五補上レ闕、
p.0294 建曆二年十二月三日、傳聞、第四親王〈○後鳥羽皇子雅成〉御元服來廿二日云々、此宮年來有二稽古之心一、殊富二文章才名一乏譽遍二天下一、
p.0294 大國主神、亦名謂二大穴牟遲神一、〈牟遲二字以レ音〉亦名謂二葦原色許男神一、〈色許二字以レ音〉亦名謂二八千矛神、亦名 謂二宇都志國玉神一、〈宇都志三字以レ音〉幷有二五名一、故此大國主神之兄弟、八十神坐、然皆國者、避二於大國主神一、所二以避一者、〈○中略〉御祖命吿レ子云、可レ參二向須佐能男命所レ坐之根堅洲國一、必其大神議也、故隨二詔命一而、參二到須佐之男命之御所一者、〈○中略〉爾追至二黃泉比良坂一、遙望呼謂二大穴牟遲神一曰、其汝所レ持之生大刀生弓矢以而、汝庶兄弟者、追二伏坂之御尾一、亦追二撥河之瀨一而意禮、〈二字以レ音〉爲二大國主神一、亦爲二宇都志國玉神一而、其我之女須世理毘賣、爲二嫡妻一而、於二宇迦能山〈三字以レ音〉之山本一、於二底津石根一、宮柱布刀斯理、〈此四字以レ音〉於二高天原一、冰椽多迦斯理〈此四字以レ音〉而居、是奴也、故持二其大刀弓一、追二避其八十神一之時、毎二坂御尾一追伏、毎二河瀨一追撥而、始作レ國也、
p.0295 大穴牟遲(オホナムヂノ)神、〈○中略〉御名の意は、師説に、穴は那(ナ)の假字、牟は母(モ)の轉れるにて、大名持(オホナモナ)なり、凡て古、名の弘く長く聞ゆるを、譽とすめれば、天皇の宮所を遷し賜ひ、御子おはしまさぬ后、又御子たちは、御名代の氏を定め、又名背(ナセ)、名根(ナネ)、名妹(ナニモ)など云、万葉二に大名兒(オホナゴ)などあるも、皆名高き由の美詞、人に向ひて那牟遲(ナンヂ)と云も、名持(ナモチ)てふ言にて、美る稱なり、かくて此命は、天下を作り治め知たまへる御名の、世に勝れたれば、大名持と美稱へ申せるなりとあり、
p.0295 饒速日命、本知二天神慇懃、唯天孫是與一、且見下夫長髓彦、稟性愎佷、不上レ可三敎以二天人之際一、乃殺之、帥二其衆一而歸順焉、天皇〈○神武〉素聞二饒速日命是自レ天降一者、而今果立二忠効一、則褒(ホメテ)而寵之、
p.0295 久安三年九月十二日、法皇〈○鳥羽〉天王寺へ御幸有けり、内大臣御供に候はせ給ひけり、十三日念佛堂にて管絃有けり、歌幷笛資賢、笙内大臣、篳篥俊盛朝臣、〈○中略〉此外催馬樂有けるとかや、朗詠、今樣、風俗など數へん有けり、資賢朝臣ぞつかうまつりける、朗詠は法皇御發言有けるとそ、其後としよりあそん讀經つかうまつりけり、人々興にぜうじて、覺暹信西、楊眞操彈けり、法皇のおほせに、資賢は催馬樂のみちの長者なりと、えいかん有けるは、此たびの事也、いかにめんぼく(○○○○)に思ひけん、
p.0296 久安四年十月五日己未、巳刻參二女院一謁二禪閤一、〈○賴長父忠實〉日來禪閤賜二玄象一令二修理一給、今日召二権大納言宗輔卿一、相議被レ著レ柱、藤原資定役二其事一、先余〈○藤原賴長〉以レ笙吹二雙調調子一、禪閤以レ箏調二同調一後著レ之、禪閤曰、納言辨二淸濁一勝二于余一、納言謝曰、愚臣未レ及二禪閤之科一、何勝乎、又曰、今日預レ議、道之面目也、
p.0296 抑大 物周光は、近き比の詩學生の中にきこゑ有ものにて、參りたりけるが、歲八十ばかりにて、階をのぼることかなはざりけるを、大藏卿長成朝臣、春宮大進朝方弟子にて有ければ、前後にあひしたがひて扶持したり、ゆゝしき面目とぞ世の人申ける、周光もことに自讃しけり、
p.0296 武正〈○下野〉は、容儀などもよかりければ、ゆゝしき名譽の者にこそ侍ける、競馬をたび〳〵仕けれ共、一度も勝ざりけり、負ながら、かたへゝ歸り寄て、酒肴などおこなひければ、したしき者共、いかにかくは有ぞといひければ、競馬にまけたるものは、死にうするかといひて、あへて用ゐざりけり、武正ならざらんもの、かやうの事してんや、
p.0296 高倉宮信連戰附高倉宮籠二三井寺一事
長門本云、〈○中略〉則信連ヲ搦テ、六波羅ヘイテ參、宗盛卿大ニ嗔テ、〈○中略〉疾々河原ニ引出シテ言ヲ切レトゾ宣ケル、侍共口々ニ申ケルハ、弓矢取者ノ手本御覽候へ、角コソ有ベケレ、信連ハ度々高名シタリシ者ゾカシ、一年本所ニ候ケル時、末座ノ衆、事ヲ出シタ狼藉ニ及ブ間、共ニモテ聞ユル剛者ニテアリ、諸衆等力及バズシテ、一﨟二﨟座ヲ立テ騷合ケルニ、信連寄テ是ヲ靜ムルニ叶ハザリケレバ、信連ツト寄マヽニ、二人ヲ取テ押ヘテ、左右ノ脇ニ挾デ座ヲ罷出、狼籍ヲ靜メテ高名其一也ト聞エシ者ゾカシト申セバ、又或侍申ケルハ、其次ノ年ト覺ユル、大番衆共ガ留兼テ通ケル大和强盜六人ヲ、信連唯一人シテ寄合テ、四人ヲバ直ニ打留メ、二人ヲバ生捕ニシタリシ勘賞ゾカシ、兵衞尉ハ毎度ハガ子ヲ顯シタリシ者ゾカシ、カヽル名譽ノ者ヲ頓テ切レン事コソ不便ナ レ、是體ノ者ヲコソイクラモ召仕ハレ候ハメ、思直シテ御内ニ候ハヾ、一人當千ノ者ニテコソ候ハンズレ、アタラ者哉ト、面々ニ咡キツヽ、ヤキ壁見參ニ惜ミアヘリ、サラバナ切ソトテ捨ラレニケリ、
p.0297 源平侍遠矢附成良返忠事
前權中納言知盛卿乘給ヘル舟、三町餘ヲ隔テ澳ニ浮ブ、三浦義盛十三束二伏ノ白箆ニ、山鳥ノ尾ヲ以矯タリケルヲ、羽本一寸バカリ置テ、三浦小太郎義盛ト燒繪シタリケルヲ、能引テ兵ト放知盛卿ノ舷ニ立テ動ケリ、中納言此矢ヲ拔セテ、舌振シテ立給ヘリ、三浦ハ遠矢射澄シタリト思テ、鎧蹈張弓杖ツキ、立上テ扇ヲヒラヒテ、平家ヲ招、其矢射返セトノ心也、中納言是ヲ見給テ、平家ノ侍ノ中ニ、此矢可二射返一者ハナキカト被レ尋ケルガ、阿波國住人新居紀四郎宗長、手ハ少シ亭(テガラ)ナレ共、遉矢ハ西國第一トテ被レ召タリ、宗長三浦ガ衞ヲサラリ〳〵ト爪遣テ、此箭箆姓弱、矢ツカ短シ、私ノ矢ニテ仕侍ベシトテ、黑塗ノ箭ノ十四束ナルヲ、只今漆ヲチト削ノケ、新居紀四郎宗長ト書附テ、舳屋形ノ前、ホバシラノ下ニ立テ、暫固テ兵ト放ツ、三浦義盛ガ弓杖ニ懸テ居タリケル甲ノ鉢射削、後四段許ニ磬ヘタル、三浦石左近ト云者ガ、弓手ノ小カヒナ射通ス、源氏ノ軍兵等、噫呼義盛無益シテ遠矢射テ、源氏ノ名折ソ〳〵ト云ケレバ、判官宗長ガ矢ヲ取テ、是返スベキ者ヤアルト、被レ尋ケレバ、土肥次郎實平ガ申ケルハ、東八箇國ニハ此矢ニ射勝ベキ者不レ覺、甲斐源太殿ノ末乎ニ、淺利與一殿ゾ、遠矢ハ名譽シ給タルト擧ス、サラバ奉レ呼トテ招寄、判官宣ヒケルハ、三浦義盛遠矢射損シテ、答ノ矢被レ射タリ、時ノ恥ニ侍、其返給ヘナンヤトイハレケレバ、與一ハ宗長ガ矢ヲ取テ、サラリサラリ〳〵ト爪遣テ、此ハ箆誘モ尋常ニ、普通ニハ越侍、但遠忠ガ爲ニハ不二相應一、私ノ具足ニテ仕ベシトテ、判官ノ前ヲ立、其日ノ裝束ニハ、魚綾ノ直垂ニ折烏帽子ヲ引立テ、黃河原毛ノ馬ニ白覆輪ノ鞍置テゾ乘タリケル、白木ノ弓ノ握太ナルヲ召寄テ、白箆十四東二伏ニ誘タル、切 符ニ鵠ノ霜降合テ矯タル征矢一手取添テ、遠矢ノ舟ハイヅレゾト問、舳屋形ノ前ニ扇披ツカヒテ、鎧武者ノ立タル船ト敎フ、遠忠能引固テ兵ト放ツ、宗長ガ遠箭射澄シタリト存テ、ホバシラニヨリ懸リ、小扇ヒラキ仕ケル鎧ノ胸板カケ、スツト射トヲシ、其矢ハヌケテ海上五段許ニサト入、宗長ホバシラノ本ニ倒ル、其後源平ノ遠矢ハナカリケリ、
p.0298 壽永三年〈○元曆元年〉十二月廿六日辛巳、佐々木三郎盛綱、自レ馬渡二備前國兒島一、追二伐左馬頭平行盛朝臣一事、今日以二御書一蒙二御感之仰一〈○源賴朝〉其詞曰、自レ昔雖レ有下渡二河水一之類上、未レ聞下以レ馬凌二海浪一之例上、盛綱振舞希代勝事也云云、
p.0298 讃州丸龜城主京極能登守藏
今月七日、平家左馬頭行盛、五百餘騎軍兵を相隨て、備前兒島の城に楯籠處に、盛綱藤戸の海を渡して、行盛以下の者共を追伐之事、誠に昔こそ水を渡す事はあれど、いまだ馬にて海を渡すの例を聞ず、盛綱振舞希代の勝事とは覺え候、くわしき事、猶跡より可レ申候也、
元曆元年十二月廿六日 賴朝判
佐々木三郎殿
p.0298 建曆三年〈○建保元年〉二月十八日己丑、囚人之中園田七郎成朝遁二出預人之家一逐電、今夜先向二子所薦師僧〈號二敬音一〉坊一、談二日亦子細一、坊主勸云、今度叛逆衆皆不レ可レ破二四張之網一、只今一旦雖二遁出一、始終難レ成二安堵之思一歟、須レ遂二出家一者、成朝答云、與力事者勿論、但依二時儀一令二逃亡一者、上古有二名譽一之將帥所レ爲也、而無二左右一遂二素懷一者、頗似レ無二所存一、就レ中年來有二受領所望之志一、不レ達二其前途一者、不レ可レ及二除髮一云々、僧甚笑レ之、無二再言云々、其後聊盃酒、臨二半夜一退出、不レ知二行方一云云、 廿日、辛卯、成朝逐電之間、縡露顯、被レ召二出件僧一、被レ尋二問之一處、成朝申狀之趣、悉以言上、將軍家〈○源實朝〉聞二食之一、受領所望之志事、還有二御感一、早尋二出之一、可レ有二恩赦一之由云云、
p.0299 僧中には、山〈○延曆寺〉には靑蓮院座主の後は、いさゝかも、にあふべき人なし、うせて後六十年におほくあまりぬ、寺〈○園城寺〉には行慶、覺忠の後、又つや〳〵と聞えず、東寺と御室には五の宮まで也、東寺長者の中には、寬助、寬信など云人こそ聞へけれ、さがりざまには理性三密などは名譽有けり、
p.0299 八幡の樂人元正、當宮領備中國吉河保〈二條御神樂〉に下向して上洛の間、檉生の泊にて心神違亂如レ亡、片鬢雪のごとく變、奇異の思をなして、巫女に占ふ所に、吉備宮託宣し給て云、適當國に下向、其曲をきかざるによて、祟りをなす所也、忽に押歸て彼社に參て、皇帝以下の秘曲を吹間、白髮忽にもとのごとし、尤道の眉目(○○○○)といふべし、
p.0299 又淸撰の御うたあはせとて、かぎりなくみがゝせ給ひしも、みなせどのにての事なりしにや、たうざに衆儀はんなれば、人々の心ちいとゞおき所なかりけんかし、建保二年九月のころ、すぐれたるかぎりぬきいで給ふめりしかば、いづれかおろかならん、中にもいみじかりし事は、第七番に左、院の御うた、
あかしがた浦路はれ行あさなぎに霧にこぎ入あまのつり舟
とありしに、きたおもての中に藤原のひでよしとて、としごろもこのみちにゆり、すきものなれば、めしくはへらるゝ事、常のことなれど、やむごとなき人々の歌だにも、あるは一首、二首、三首にはすぎざりしに、この秀能九首までめさせて、しかも院の御かたてにまゐれり、さてありつるあまのつり舟の御歌の右に、
契をきし山の木の葉の下もみぢそめしころもに秋風ぞふくとよめりしは、その身のうへにとりて、ながき世のめいぼく何にかはあらむ、
p.0299 常德院殿依二御秀歌一炎天曇事 前飛鳥井老翁一日語られていはく、常德院内大臣美尚公は、天性をゆふにうけさせ給ひて、武藝の御いとまには、和歌に心をふけりまし〳〵て、御才覺もおとなしくまし〳〵ける、〈○中略〉去比又逆敵近隣をかすめけるに、いそぎ御進發ありけり、時しも炎天のみぎりにて五萬ばかりの軍兵をめしつれ給ひけるが、士卒此あつさにたへかねて、練汁のごとくなる汗をかき、馬もこらへかねて、多くはひざまづきければ、人皆仰天して、しどうになりにけり、そのところ鏡山のふもとにてありければ、大樹の御うたに、
けふばかりくもれあふみのかゞみ山たびのやつれの影のみゆるに
とあそばされ、しばらく木蔭にやすらひ給ふにずこし程ありて、天くもり凉風おもむろに吹來れば、諸ぐんぜいも、中秋夕暮のおもひをなして、たちまちよみがへるがごとしと云々、上古末代まで高名の御ほまれなり、まことに一句のちからにて、數萬の軍兵くるしみをやめらるゝ事、天感不測の君なりといへり、
p.0300 北條氏康と上杉憲政一戰の事
聞しは昔、北條左京大夫平氏康は、弓矢をとりて關八州にまういをふるひ、名大將のほまれをえ給へり、〈○中略〉氏康の父氏綱、天文六年七月十五日上杉朝定と、河越にをいて合戰し、氏綱うち勝て朝定を亡し、其例にかなひ、戰場かはらず、又此年〈○天文十五年〉氏康宿望を達し、勝利を得られし事、弓矢の冥加にかなへる武家くわん東にをいて、名譽の大將とぞ人沙汰しける、
p.0300 畠山家騷動河州落合川合戰事
畠山稙長大ニ悦ビ、武功ヲ感ジ、自筆ノ狀ヲ認テ、三木牛之助ニ賜テ、高屋ノ城エ歸陣セラル、河内守長敎モ感狀ニ太刀鎧ヲ添、牛之助ニ與ヘラル、寔ニ勇士ノ面目也、此牛之助ハ三木攝津守ガ兄弟也、遊佐長敎ノ感狀ニ曰ク、 去十一日於二落合上畠一合戰之時、一番被レ初二合戰一、太刀鑓疵蒙二十三箇所一、或突伏、或組討、爲一驚レ目御働一之上、木澤左京亮長政討捕之、彼是無二方二量一御忠義、凡別義之御高名、且云二戰功一、且云御本意一、無類之御名譽候、御感之上、旣稙長被レ成二自翰一候、爲二軍功之地一、八尾之内七百貫被二宛行一候、全可レ有二御知行一義肝要候、次多門鎧一領〈紫糸〉太刀一腰〈吉房〉進之候、倂軍功之廣色計候、仍感狀如レ件、
天文十一年三月廿一日 遊佐河内守長敎判
三木牛之助殿進之
近年戰國ニテ感狀ニ預ル者多シト云へ共、如レ此之褒美ノ文章誠以世ニ稀也トテ、皆人羨ケルトゾ聞ヘシ、
p.0301 ある人の語りしは、鞠は九損一德とて、いらざる事とはいひつたへたれども、わかき時すこしは心懸たる事よろしかるべし、いにしへ秀吉公より、近江國六角殿へ御祝義の時、仰られけるは、六角殿は古風の家なれば、規式正しかるべしとて、禮義をわきまへて、武士道の譽ありて、器量よき人を三人撰出されて、御供にさぶらはしめらる、その一人は古田肥後守殿、二人はたしかに覺えず、祝言の儀式作法、首尾相應して、その次第殘る所なし、其後六角殿家老衆御供の人々を日々にふるまひ、さま〴〵むつかしき事ども仕かけゝれども、更に越度もなし、ある日御饗應過てのち、しづかなる夕暮に、鞠の興行あるべしとて、上手を撰び合手をなして、御慰にあそばされといふ、度々辭退におよびしかば、さればよ、鞠は不得手成とおもひて、いよ〳〵所望する事止ざりけり、この時肥後守、かほどに御望あるに仕ざるははゞかりなれば、某たち出、その仕形ばかりをも御目にかけ申べしといひて、ざを立ちて、もたせたる狹箱の中より、鞠の裝束を取出し、衣紋つくろい、しづかにあゆみ出72り、もとより鞠は上手也ければ、人々目を驚しけり、此事聞召れて、諸事に心懸名譽也と、秀吉感じ給ふ事なゝめならず、褒美下されしと也、
p.0302 一同靑木民部、マカラ〈眞柄歟〉ヲ討取被レ申ヨリモ向上ニ被レ存候ハ、牢人ニテ今川家ニ武者執行ノ士多ク、甲州勢出ト聞キ、民部一同ニ三拾人計カケ出ルニ、新坂ノ邊道ニ有レ之銀杏木ノ見ユル迄行ク時、山上ニ大物見ノゴトク、三百人計リ出ル、何トゾ引取ベキト、何レモ申セドモ、民部曰ク、引色見セバ猶敵可レ慕、十死一生ノ戰ヲ待チ戰フ内ニ、民部大ノ男ト組ミ、山ノ下ヘコケ落チ、銀杏木ノキハエ落付候時、民部上ニ成リ首ヲ取ル、又外ノ者モ二人シテ敵一人相討ニス、其内ニ味方加勢來テ、敵引取也、尤モ初メ同時ニ來ル味方ノ内モ、討死多シトナリ、今川家ヨリ右ノ褒美トシテ、民部ニ金子一枚給ヒ相討ニ敵討タル士ニハ、金ノ龍ノカウガヒヲ二人ニ一本宛給ト也、民部常々武邊ノ咄不レ致人ノ由、右ハ靑木先甲斐守入道丹山ノ父ナリ、實ハ伯父ナリ、實父ハ輝政公御内ニ被レ居由、此事諸人ハ引取申ベキト云ニ、靑木一人被レ申ハ、引取ナラバ附ケラレ、一人モ不レ殘討ルベシ、コタヘテ戰ハント申ス一言、大ナル譽レナリ、其上ニ功名有ル故彌手柄也、
p.0302 一加藤淸正〈江〉常陸守殿紀伊殿ヲ御緣者被二仰付一候、東照宮被レ仰候〈於二駿府ノ事ト也〉ハ、常陸守事淸正ノ婿ニ申合上ハ、諸事子息同前ニ御心得給候ヘト被レ仰候由、御次間〈江〉被レ出時、淸正〈江〉御當家ノ家臣衆被レ申ハ、唯今ノ被レ仰ヤウニテハ、定テ御滿足ニ可レ有由被レ申、淸正云、尤忝存候、乍レ去昔秀吉公ノ御時、厚恩ハ忘レ不レ奉ト被レ申、御當家ノ老臣挨拶可レ仕樣無レ之、然所ニ成瀨隼人正トリアヘズ、其御思召御尤至極也、又家康公ノ御恩ヲカウムリタル者モ亦其通ニ、家康公ノ御恩重ク存ズル也ト被レ申、名譽ノ挨拶也、
p.0302 中江原、字惟命、小字與右衞門、號二藤樹一、又號二頤軒一、又號二嘿軒一、近江人、
藤樹同里人、來二江戸一嗣二某家一、一日有レ客、言次及レ儒、客問曰、中江藤樹子之里人也、聞其學爲レ世所レ仰、子必審二其行誼一、請爲レ吾語、其人改レ容曰、藤樹先生、吾先子之所二師事一也、因悉二其平生一、實不レ乖二近江聖人名一也及三 我出、爲二此家後一、先子將下其所二什襲一先生墨蹟一張上、付レ我且戒勅曰、此聖人之手澤、兒善藏レ之、勿レ使二不レ知者汚一焉、今吾子慕二先生一、則使レ得レ觀レ之、乃起更二著禮服一、出二一軸於櫃一、捧置一案頭一、頂禮跪拜者、猶三緇徒之崇二佛像一也、客始起敬以爲、藤樹、畎畝之一匹夫、而見レ重二于士大夫之間一如レ此、則其道德、與二世之所レ謂儒者一、迥不レ同我豈得レ不レ禮乎、盥嗽再拜、而後觀レ之、
p.0303 北村篤所
篤所、北村氏、諱可昌、字伊平、卽通名とす、近江野洲郡北村の産也、〈季吟法印の氏族也〉仁齋先生の門人にして、京師に住り、嘗て院中に召て、學を問せたまはんため、北面の氏を嗣しめんの、内勅ありしかども、異姓を嗣ことをほりせずと、固く辭し奉りし、されども其人を慕せたまふゆゑに、儒服儒巾を制せさせて賜り、しひて召しかば、止ことを得ず、是を著て院中に書を講ず、疾の病(おもく)なりし時も勘解由小路殿をもて、人參と中山といふ御硯を下し給りしは、隱士の面目(○○○○○)と、世に稱せり、
p.0303 慶雲元年七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自二唐國一至、初至レ唐時、有レ人來問曰、何處使人、答曰、日本國使、〈○中略〉唐人謂二我使一曰、丞聞、海東有二大倭國一、謂二之君子國一、人民豐樂、禮義敦行、今看二使人一、儀容大淨、豈不レ信乎、語畢而去、
p.0303 嘉祥三年五月壬辰、追二贈流人橘朝臣逸勢正五位下一、〈○中略〉爲レ性放誕不レ抅二細節一、尤妙二隷書一、宮門榜題、手迹見在、延曆之季、隨二聘唐使一入レ唐、唐中文人、呼爲二橘秀才一、
p.0303 昔高麗國王、惡瘡ヲヤミテ、日本ノ名醫雅忠ヲ給ハラント申タリケリ、此事陣ノサダメニ及テ、サマ〴〵ニ沙汰アリケルニ、帥大納言經信申云、高麗ノ王惡瘡ヤミテシナム、日本ノタメニナニクルシト云ハレタリケル一言ニ、事サダマリテ、ツカハスベカラズト云事ニナリニケリ、サテ返牒イカヾイフベキトイフサダメニハ、此事エ申トヲサズトイフベシトテ匡房卿其狀ヲカキケルニ、申トヲサヌヨシヲカキオホセズシテ、二タビマデカヘサレニケリ、第三度ニ、双 魚難レ達二鳳池之月一、扁鵲何入二雞林之雲一、ト云秀句カキタリケルタビ、メデノヽシリテツカハサレニケリ、後ニ彼國ノ商人來ケルガ、此句ヲ紬ニ書シテコソキタリケレ、ヒトゴトニカクカキテモタルトナンイヒケル、
p.0304 東大寺聖人舜乘坊入唐之時、敎長手跡ノ朗詠ヲ持、渡唐入二育王山一、長老以下見レ之感嘆無レ極、其中天神〈○菅原道眞〉御作、春之暮月、月之三朝之句、殊以褒美不レ堪二感懷一、遂乞取納二育王山實藏一云々、
p.0304 肥後守藤原淸正、〈○中略〉されば朝鮮の軍一度起りしより、兵連なること前後七箇年の間、本朝の人々、所々の戰功、皆取り〳〵なりしかど、淸正一人大明朝鮮のために名を呼ばれ、或は詩に作りて謠ひ、或は神となして祭らる、弓矢とつての譽、古今に並ぶ者ぞなき、
按ずるに、大明萬曆よりこのかたの書に、淸正が名を稱する事擧げて數ふべからず、崑山の王志堅といふ者は、倭王と稱して歌を作る、又朝鮮國慶尚全羅道等の水營の軍官、年毎に日を占ひて、諸營戰艦を集め、海に浮みて海神を祭る事あり、芻にて人像を作り、是を射て海に鎭む、人は秘しぬれども、よく聞けば、是れは淸正を呪咀する事にてありけり、その人像は淸正にかたどる、彼國の能く射る者といへど、恐れて終に中つる事叶はず、いづれの頃にや、一人射て中てたりしを、雙なき高名といひけるに、忽ち物に狂つて飛び走る、其親戚淸正を祭て、いろ〳〵と罪を謝しければ、其後人心地にはなりぬ、此後人いよ〳〵恐れて中たらん事を恐る、本朝寬文の中頃に、例の祭とて水營の戰艦共海に泛みしに、海上風忽に吹き落て、波わぎ、艦多く摧け破れぬ、これ淸正の祟りなりとて、大に恐れしといふ事を對馬の國人に竊かに承りぬ、
p.0304 水足氏父子詩卷序
余幼時、聞二之太孺人一云、肥有二高麗門一、蓋當三豐王之征二三韓一、肥之先侯有二加藤氏〈○淸正〉者一、爲二冠軍一、驍勇功最著、高麗人至レ今猶以怖、兒啼曰、鬼將軍來也、兒廼泣而不レ啼、其比二諸羅刹夜叉噉レ人類一、威武所二懾伏一可レ知 已、〈○下略〉
p.0305 南京陶工に、五郎太夫呉祥瑞造と銘を書きたるあり、祥瑞は日本勢州松坂の陶工なり、入唐の間、彼邦にて製したる物なりといふ、明の正德八年歸國の時、季春亭なるもの、送別の詩あり、送三居士五郎太夫歸二日本一、
敬將二玉帛一覲二天顏一、回レ香扶桑杳渺間、舡泊古鄴三佛地、杯傳新酒四明山、梅黃細雨江頭別、帆引淸風海上還、明主貴王應レ有レ問、八方財貢溢二朝班一と聞けり、實に名譽の陶工といふべし、
p.0305 四十年十月癸丑、日本武尊發レ路之、〈○中略〉旣而崩二于能褒野一、時年三十、天皇〈○景行〉聞レ之、寢食不レ安レ席、食不レ甘レ味、晝夜喉咽、泣悲摽擗、〈○中略〉因欲レ錄二功名一、卽定二武部一也、
p.0305 元年二月庚子、大伴大連〈○金村〉奏請曰、臣聞、前王之宰レ世也、非二維城之固一、無三以鎭二其乾坤一、非二掖庭之親一、無三以繼二其趺萼一、是故白髮天皇〈○淸寧〉無レ嗣、遣二臣祖父大連室屋一、毎レ州安二置三種白髮部〈言二三種一者、一白髮部舍人、二白髮部供膳、三白髮部靱負、〉以留二後世之名一、〈○下略〉
p.0305 立花宗茂使を城中にたてゝ、けふ味方討死の中に、十時傳右衞門と申者あり、とりわきて不便に存るなり、骸を返し給り候へとて、物具の色を書て、言送られしかば、やがて返しぬ、又城中よりも山田三右衞門が首を返し給はれと、望れしかば、胄を添て送られけり、此を大津の死骸返しとて、勇士死後ほまれとしたり、
p.0305 あつとしの少將の男子佐理大貳よのてかきの上手、任はてゝのぼられけるに、いよの國のまへなるとまりにて日いみじうあれ、海のおもてあしくて、風おそろしう吹きなどするを、すこしなをりていでむとし給へば、又おなじやうにのみなりぬ、かくのみしつゝ日ごろすぐれば、いとあやしくおぼして、ものとひ給へば、神の御たゝりとのみいふに、さるべき事もなし、いかなる事にかとおそれ給ひける、夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたる 男のおはして、此日の荒れて日ごろ經給ふは、をのがしはべる事なり、それは萬の社に額のかゝりたるに、おのがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手してかゝせむがいとわろく侍れば、われにかゝせたてまつらんとおもふにより、このおりならではいつかはとて、とゞめ奉りたるなりとの給ふに、たれとか申すととひ申し給へば、この浦のみしまに侍るおきななりとの給ふに、夢のうちにいみじうかしこまり申すとおぼすに、おどろき給ひては、またさらにもいはず、さていよへわたり給ふにおほくの日あれつる日ともなく、うら〳〵となりて、そなたざまにおひかぜふきて、とぶがごとくまうでつき給ひぬ、ゆたび〳〵あみ、いみじくけさいしてきよまはりて、日の裝束して、やがて神の御まへにてかき給ふ、やしろの官どもめしいでゝうたせて、よく法のごとくしてかへり給ふに、つゆおそるゝ事なくて、すゑのふねにいたるまで、たひらかに上り給ひにき、わがする事を、人間の人のほめあがむるだに興ある事にてこそあれ、まして神の御心に、さまでほしくおぼしけむこそ、いかに御心おごりし給ふらむ、またおほかたこれにぞ日本第一の御手のおぼえは、こののちぞとりたまへりし、六波羅密寺のがくも、このだいにのかきたまへる、さればかのみしまの神の額と、此寺のとはおなじ御手に侍り、
p.0306 壽永元年六月五日甲辰、熊谷二郎直實者、匪二勵朝夕烙勤之忠一、去治承四年追二討佐竹冠者一之時、殊施二勳功一、依下令レ感三其武勇一給上、武藏國舊領等、停二止直光之押領一、可二領掌一之由被二仰下一、而直實此間在レ國、今日令二參上一、賜二件下文一云云、
下二武藏國大里郡熊谷次郎平直實所一定二補所領一事
右件所、且先祖相傳也、而久下權守直光押領事停止、以二直實一爲二地頭之職一成畢、其故何者、佐竹毛四郎、常陸國奧郡花園山楯籠、自二鎌倉一令レ責御時、其日御合戰、直實勝二萬人一前懸、一陣懸壞、一人當千顯二高名一、其勸賞、件熊谷郷之地頭職成畢、子々孫々永代不レ可レ有二他妨一、故下、百姓等宜二承知一、敢不レ可二違失一、 治承六年五月卅日
p.0307 賴朝の時〈○中略〉また直實といひけるものに、一所をあたへたまふ下文に、日本一の甲の者なりと書てたまはりけり、一とせかの下文をもちて奏聞する人のありけるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたるところのすくなさ、まことに名をおもくして、利をかろくしける、いみじきことと、口々にほめあへりける、
p.0307 元曆二年〈○文治元年〉八月廿四日甲戌、下河邊庄司行平蒙二歸參御免一、自二鎭西一去夜參著、是相二副參州一、發二向西海一、竭二軍忠一訖、同時所レ被レ遣之御家人等、不レ堪二經廻一、而多以歸參、行平于レ今在國、有二御感一云云、今日參二營中一、獻二盃酒一、二品出御、武州北條殿以下群參、行平稱二九國第一一進二弓一張一之處、〈○中略〉仰曰、行平日本無雙弓取也、見二知宜弓一之條、不レ可レ過二汝之眼一、然者可レ爲二重寶一者、則召二廣澤三郎一令レ張レ之、自引試給、殊相二叶御意一之由被レ仰、直賜二御盃於行平一、
p.0307 文治五年七月廿五日癸未、二品〈○源賴朝〉著二御于下野國古多橋驛一、〈○中略〉入二御御宿一、于レ時小山下野大丞政光入道獻二駄餉一、此間著二紺直垂上下一者、候二御前一、而政光何者哉之由尋二申之一、仰曰、彼者本朝無雙勇士熊谷小次郎直家也云云、政光申云、何事無雙號候哉云云、仰云、平氏追討之間、於二一谷巳下戰場一、父子相並、欲レ弃レ命及二度々一之故也云云、政光頗笑、爲レ君弃レ命之條、勇士之所爲也、爭限二直家一哉、但如レ此輩者、依レ無二頤服之郎從一、直勵二勳功一、揚二其號一歟、如二政光一虐、只遣二郎從等一、抽レ志許也、所詮於二今度一者、自遂二合戰一、可レ蒙二無雙之御旨一之由、下二知于子息朝政、宗政、朝光、幷猶子賴綱等一、二品入レ興給云云、
p.0307 管麟嶼
物徂徠稱二麟嶼一、爲二千里駒一、以奬二譽之一、室鳩巢固以二徂徠之徒一爲二異學一、常排二擯之一、而以二麟嶼一稱爲二天下第一之才子一、
p.0307 奧田士亨字嘉甫、小字宗四郎、號二蘭汀一、又號二南山一、又號二三角亭一、伊勢人仕二津侯一、 三角幼時、就二表叔柴田蘋洲者學、蘋洲嘗謂曰、讀レ書宜レ師二天下第一人一、當二今之世一京師伊藤原藏、卽其人也、汝可二往而學一、於レ是卽負レ笈遊二東涯門一、
p.0308 この御代〈○中略〉おほくの高僧他國より來朝す、南天竺の波羅門僧正〈菩提といふ〉林邑の佛哲、唐の鑑眞和尚等これなり、〈○中略〉この國にも行基菩薩、朗弁僧正など權化の人なり、天皇、波羅門僧正、行基、朗弁をば四聖(○○)とぞ申つたへたる、
p.0308 御をのこゞ四人おはしき、太郎左大臣時平、次郎右大臣仲平、四郎太政大臣忠平といふに、〈○中略〉三郎にあたらせ給ひしは、從三位して、宮内卿兼平の君と申てうせ給ひにき、〈○中略〉この三人の大臣たちをよの人三平(○○)と申き、
p.0308 太郎の君、女院の御ひとつはらの道隆のおとゞ、内大臣にて關白せさせ給ひき、次郎君は陸奧守倫寧ぬしの女のはらにおはせし君なり、みちつなと聞えさせて、大納言までなりて、右大將かけ給へりき、〈○中略〉五郎君たゞ今の入道どの〈○道長〉におはします、〈○中略〉昭宣公〈○基經〉の御君達、三平とは聞えさすめりしに、此三ところをば、三道(○○)とや世の人申けん、えこそうけ給はらずなりしかとてほゝゑむ、
p.0308 將亦和漢古今名譽墨跡所望候、〈○中略〉於二吾朝一者、天皇〈○嵯峨〉大師〈○弘法〉兩御筆、幷光明皇后、北野天神以下、權者手跡者非二凡人所一レ及候、道風、佐理、行成稱二之三賢(○○)一候哉、〈○下略〉
p.0308 九條殿〈○藤原兼實〉の子どもは、昔のにほひにつきつべし、三人までとりどりに、なのめならず、この世の人にはほめられき、良道内大臣は廿二にてうせにし、名譽在二人口一、良經又執政臣になりて、同能藝群にぬけ亢りき、詩歌能書昔にはちず、政理公事父祖をつげり、左大臣良輔は、漢才古今に比類なしとまで人思ひたりき、
p.0308 寬正六年六月十二日、常忠居士來、茶話數刻、〈○中略〉因曰、後三條院代、伊房、爲房、匡房又稱二 三房(○○)一、
p.0309 物見の武者ほまれ有事
聞しは昔、或老士物語せられしは、われ小田原北條家に有て、數度の軍にあひだり、〈○中略〉天正十三年の秋、佐竹義宣と北條氏直、下野の國にをいて對陣をはり、東西に旗をなびかず、氏直はたもとより、物見を五騎さしつかはさる、さかひ目へ乘出し、敵の軍旗をはかる所に、其内に山上三右衞門尉、波賀彦十郎二騎は、其所の案内をよく存ずる故にや、さかひを一町ほど乘過し、高き所へ乘上る、敵の草是を見、はちの如くおこつて、二騎の武者を取まきぬれば、網にかゝる魚のごとし、三右衞門敵跡をば取切れ、敵地たりといへ共、北方をさしむちうて、希有に其場をのがれ、野原をはせすぐる所に、草苅共にげゆくを追たほし飛でおり、首一つ取、敵あまたをひかくるといへ共、馬達者なる故、大山へ乘上、嶺を下り、みかたの地にはせ付たり、彦十郎は、敵にかこまれ落べきかたなく、敵陣まぢかく乘入、堤づたひに道有を兼てしり、それより南をはるかに駒にむちうて落行を、陣中より騎馬おほく乗出し、前後左右を取切、或は乘かけ討んとすれば、むちに鐙をもみそへ、二間三間馬をとばせ、或はよつてくまんとかゝれば、馬に聲をかけてはせすぎ、數度ゐやうく見えしが、終にうたれずして、大河へ乘入、馬をおよがせ、こなたの岸に付ぬ、氏直兩人のはたらきの次第をきこしめし、御感なゝめならず、諸侍かんたんせずと云事なし、やがて兩人を御前にめされ、仰出さるゝをもむき、山上三右衞門尉敵あまたにかこまれ、戰場をはせ過るのみならず、敵一人討捕、大山をこえ歸陣する事、心剛にして、馬も達者たる故、軍中のほまれ比類なき高名なり、扨又波賀彦十郎敵に取こめられ、よん所なきが故、敵陣へ馬を乘入、堤づたひの順路を知て、南をさしてはせ過、其上又陣中よりあまたの騎馬に出ゐひ、數度難義にをよぶ處に、樊噌をふるひ、かれらにも討れず、大河へ乘入、敵みかたの目をおどろかし、こなたの岸に馳付事、前代未聞の剛者也 ていれば、首を取たる三右衞門が武勇、いづれをとりまさり有べからず、〈○中略〉二疋の名馬に鞍をかせ引立、御前にをいて當時の御ほうびと有て、兩人相並で一度に是を拜領す、
p.0310 一高遠の城一番乘せし、信忠公〈○織田〉の御小性山口小辨、佐々淸藏は、ともに十六才也、〈○中略〉先山口小辨御召、此度高遠にての働、奇代の至也、城介目がねをちがへず、一入滿足被レ成候とて御譽御手づから國久の御腰物御感狀添被レ下、次に佐々淸藏を召、高遠の働骨折の由、汝は手柄致す筈也、大剛の内藏介が甥なれば也と被レ仰、長光の御腰物御感狀添被レ下、信長公、大才絶倫の人傑、其智、世の及ぶ所に非ず、小辨は賤敷者の子なれば、手柄高名實に希代也、淸藏は伯父内藏介が名迄上たる御褒美の御意とて、大將と成ては、一言一行大事也とぞ、
p.0310 今度於二柳瀨表一有二戰功一者被レ賞之事
賀藤虎助後號二肥後守一、〈○中略〉賀藤孫六郎、後號二左馬助一、〈○中略〉福島市松、後號二左衞門大夫一、〈○中略〉脇坂甚内、後號二中務大輔一、領二淡路一、生國江州なり、糟尾助右衞門尉、後號二内膳正一、領二三萬石一、平野權平、後號二遠江守一、於二和州芳野一領二五千石一、其心猛くして、秀吉卿に背く事度々有しなり、因レ之領知少しとかや、生國尾州也、片桐助作、後號二東市正一、〈○中略〉生國江州也、虎之助、市松、生國尾州也、
右之七人を七本鑓(○○○)と號して、感狀あり、其辭云、
今度信孝對レ某及二鉾楯一、有下可レ亡二于秀吉一企上、雖レ爲二前將軍信長公御連枝一、今也不レ去二兩葉一、可レ用二斧柯一事在二手裏一、殊柴田修理亮、瀧川左近將 與被二仰合一之義決然也、依レ之至二濃州大柿之城一、令二在滯一、可レ攻二伏岐阜之城一之處、柴田之先勢、柳瀨表致二出張一之旨吿來之條、不レ移二時刻一走二歸于柳瀨一、決二勝負一之刻、盡二粉骨一、合二於一番鑓一、突二退群雄一、北國勢及二敗亡一事、偏在二爾之武功一矣、卽加增領五千石令二宛行一者也、依感狀如レ件、〈何も一通づゝ被レ遣しとなり〉
天正十一年七月朔日 秀吉判 各五千石之一行を令二頂戴一、人部之規式尤勇勇布見えてけり、
p.0311 堀正意字敬夫、號二杏菴一、又號二杏隱一、近江人、仕二尾張侯一、
杏庵師二事惺窩一、篤行博學、當時與二林羅山、松永尺五、那波活所一、倶有二四天王稱(○○○○)一、
p.0311 木下貞幹字直夫、小字平之允、號二錦里一、又號二順菴私諡二恭靖一平安人、
新井在中、室師禮、雨森伯陽、祇園伯玉、榊原希翊、世謂二之木門五先生(○○○○○)一、加二之南部思聰、松浦禎卿、三宅用晦、服部紹卿、向井魯甫一爲二十哲(○○)一、而思聰、禎卿爲二同庚一稱二二妙(○○)一、
p.0311 西健甫
名順泰、字健甫、號二西山一、〈○中略〉歲二十八、而請二暇於侯一、〈○對馬〉束二遊江戸一從二木順菴一學、與二新井白石、室鳩巢一、切二靡其業一、聲價稍顯於二同門之士一、與二南部南山一、同二其庚子一、當時之人、謂二之木門二妙(○○○○)一、後又松浦霞沼、與二祇園南海一同二其庚子一、人謂二之後二妙(○○○)一、前後二妙之稱、喧二傳於藝園一云、
p.0311 高玄岱、字子新、一字斗膽、小字新右衞門、號二天漪一、又號二婺山一肥前人、仕二大府一、
又兼能レ書、其法自二獨立一而得レ之、當世與二林道榮一齊レ名、白石曰、榮死子新獨二歩天下一、南海篆隷歌曰、崎陽於レ華只一葦、臨池之技皆精勤、先有二林榮一後高岱、
p.0311 平石城軍事附和田夜討之事
龍山、平石、二箇所ノ城落シカバ、八尾城モ不レ怺、今ハ僅ニ、赤坂ノ城計コソ殘リケレ、此城サマデノ要害共不レ見、只和田楠ガ館ノ當リヲ、敵ニ無二左右一蹴散サレジト、俄ニ構タル城ナレバ、暫モヤハ支ルトテ、陣々ノ寄手一所ニ集テ、廿万騎、五月〈○延文四年〉三日ノ早旦ニ、赤坂ノ城へ押寄セ、城ノ西北卅餘町ガ間ニ、一勢々々引分テ、先向城ヲゾ構ヘケル、楠ハ元來思慮深キニ似テ、急ニ敵ニ當ル機少シ此大敵ニ戰ハン事難レ叶、只金剛山へ引隱テ、敵ノ勢ノスク處ヲ見テ後ニ戰ハント申ケルヲ、和田〈○正氏〉ハイツモ戰ヲ先トシテ謀ヲ待ヌ者ナリケレバ、都テ此義ニ不同、軍ノ習ヒ負ルハ常ノ事 也、只可レ戰所ヲ不レ戰シテ、身ヲ愼ムヲ以テ恥トス、サテモ天下ヲ敵ニ受タル南方ノ者共ガ、遂ニ野伏軍計シツル事ノヲカシサヨト、日本國ノ武士共ニ笑レン事コソ口惜ケレ、何樣一夜討シテ、大刀ノ柄ノ微塵ニ碎ル程切合ンズルニ、敵アラケテ引退サハ、軈テ勝ニ乘テ計ベシ、引ズンバ又カナク、其時コソ金剛山ノ奧マデモ引籠テ戰ンズレトテ、夜討ニ馴タル兵三百人勝テ、問ハヾ武シト答ヘヨト、約束ノ名乘ヲ定メツヽ、夜深ル程ヲゾ待タリケル、
p.0312 京軍事
やがてさがミの守ノ郎從十四五キはせ來りたるニ、此くびとほろトヲもたせて、將軍へ參り、淸氏こそもゝの井はりまの守ヲうつて候らへとて、軍のやうヲ被レ申けれバ、らつそくヲ明らかニ燃してこれヲ見給ふニ、年のほどハさもやと覺えながら、さすがそれとハ見えズ、田舍ニ往て多年ニ成ぬれバ、おもかはりしけるニやとふしんにて、昨日降人ニ出たりける八田左衞門太郎ヲめされ、是ヲバたがくびとや見しりたるととハれけれバ、八田此くびヲ一ト目見て沮をはらはらとながし、是ハ越中國ノ住人ニ二宮兵庫助と申すものゝくびニて候、去月ニ越前ノ敦賀ニついて候らひし時、此二宮、氣比大明神ノ御前ニて、今度京都ノかせんニ、仁木細河ノ人々ト見るほどならバ、われもゝの井殿となのつてくんで勝負ヲ仕るべし、是もし僞り申さバ、今世ニてハ永ク弓矢の名ヲ失ヒ、後世ニてハ無間の業ヲうくべしと、一紙の起請文ヲ書て、寶殿ノ柱ニおし候らひしが、果して打死ニ仕りけるニこそと申けれバ、其ほろをとりよせ見給ふニ、げにも越中國住人、二宮兵庫助曝二尸於戰場一、留二名於末代一ヌとぞかいたりける、昔ノ實盛ハ鬢ヲ染て敵ニあひ、今ノ二宮ハ名字を替ヘテ命ヲすつ、時代へだゝるといへども、其勇ミあひおなじ、あハれ剛ノ者カなと、敵ながらいけておかばやと、おしまぬ人コソなかりけれ、
p.0312 ある老人、年老て身の養もいらぬもの也といひしを、ある人諫て、一夜の宿も雨露 もりぬるはよからず、むかし松永〈○久秀〉信長公に戰まけて、自害におよばんとせしに、百會に灸していひしは、これを見る人いつのための養生ぞやと、さこそおかしくおもふべけれど、我常に中風をうれへぬ、死にのぞむも、卒爾に中風發して、五體心にまかさずば、臆したりとやわらわれなん、さあらんには、我今迄の武勇こと〴〵く、いたずら事になりぬべし、百會は中風の神灸なれば、當分其病をふせぎて、こゝろよく自害すべきとのため也とて、灸をしすまして腹切りしと也、其名を惜む勇士は、かくこそあらまほしけれといひけり、
p.0313 一此宅右衞門が子熊谷宮内は、後に水戸光圀卿に仕へけり、これ又不思讃なるものにて、能の達人なる由被二聞召一、度々被二仰付一けれ共、とかくに病氣など申て絡に相勤めず、或時江戸にて客設の有し時、又々仰られしに、相勤可レ申由を申けるが、其日に至り必ず作病を仕、御斷を申べくと思召けるに、何事なく相勤めけり、元より音に聞へし程の上手にて御感有けり、扨樂屋へ入と直に病と稱し、五十日程不二罷出一、夫より後はたへて不レ被二仰付一、いかなる思召か有けん、頓て足輕を御預けありけり、御鷹野などの節は、いつも撰り人に召れらる、ある時夜話の折に、樣々の咄を申しける、諸藝の咄になりて申けるは、士は第一藝の爲に名を奪れぬ事大事也、惡敷心得ぬれば、肩に出來たる病の首を押のける如く、藝計りになりて、其身は無用の人と成候と申ければ、甚御感有て、さすがに親が子也と仰あり、其後御側の衆へ召れ、宮内が我等申付たる能を度々うけがはぬ事、いか樣にも思慮有べしと思ひけるに、我等が所存の通にて滿足也と仰有し、一兩年の中に政事にも預りしとぞ、
p.0313 とこしなへに違順につかはるゝ事は、ひとへに苦樂のためなり、樂といふはこのみ愛する事也、これを求むる事止む時なし、樂欲する所、一には名なり、名に二種あり、行跡と才藝とのほまれなり、二には色欲、三には味ひなり、よろづのねがひ此三にはしかず、これ顚倒の相よりお こりて、そこばくのわづらひあり、もとめざらんにはしかじ、
p.0314 名利につかはれて、しづかなるいとまなく、一生を苦むるこそおろかなれ、財おほければ身をまもるにまどし、害を買ひ煩をまねくなかだち也、身の後には金をして北斗をさゝふとも、人のためにぞわづらはるべき、おろかなる人の目をよろこばしむるたのしみ、又あぢきなし、大なる車、こえたる馬、金玉のかざりも、心あらん人はうたておろかなりとぞ見るべき、金は山にすて、玉は淵になぐべし、利にまどふは、すぐれておろかなる人なり、うもれぬ名を、ながき世にのこさんこそあらまほしかるべけれ、位たかく、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき、おろかにつたなき人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、おごりをきはむるもあり、いみじかりし賢人聖人、みづからいやしき位にをり、時にあはずしてやみぬる又おほし、ひとへに高きつかさ位をのぞむも、次におろかなり、智惠と心とこそ、世にすぐれたるほまれも殘さまほしきを、つら〳〵思へば、ほまれを愛するは、人のきゝをよろこぶなり、ほむる人、そしる人、共に世にとゞまらず、傳へきかん人、又々すみやかにさるべし、誰をかはぢ、たれにかしられんことをねがはん、譽は又そしりの本なり、身の後の名殘りて更に益なし、是をねがふも次におろかなり、但しゐて智をもとめ、賢をねがふ人のためにいはゞ、智惠ひいでゝはいつはりあり、才能は煩惱の增長せるなり、傳てきゝ學びてしるは、まことの智にあらず、いかなるをか智といふべき、可不可は一條なり、いかなるをか善といふ、まことの人は智もなく、德もなく、功もなく、名もなし、誰か知り、たれかつたへん、これ德をかくし、愚をまもるにあらず、本より賢愚得失のさかひにおらざればなり、まよひの心をもちて、名利の要をもとむるにかくのごとし、萬事は皆非なり、いふにたらず、ねがふにたらず、
p.0314 又ある學匠の話に、名聞を好むこと甚しき僧は、女犯肉食よりも遙に罪深し、女犯肉 食は罪其身に止る、名聞の罪は他に及ぶ、むかしある相者人に語りて、我男夭死相あり、其月日必死すべしといへり、然るに其期に及びて、常に變ることなければ、彼話を聞たるもの、相の眞なきを嘲りしに、一夜とみに死したり、こゝに於て又實に相の疑ふべからざるをおどろきしが、能たづぬれば、己が説の違へるを恥て、竊に其子を殺害したるとなり、吾命にもかへて悲しと思ふべき子を殺しても、其術の名聞を思へるを説給へる、佛の敎誡なりとかや、
p.0315 江村專齋
或云、江北海家所レ傳、專齋眞蹟楷書二行、實爲二希世珍一、今其語附二載于此一、曰、名利兩不レ可レ好、好レ名者比二之好レ利者一差勝、好レ名則有レ所レ不レ爲、好レ利則無レ所レ不レ爲也、
p.0315 桂彩巖
彩巖以二寬延二年己巳三月二十一日一歿、享年七十二歲、葬二於淺草新堀威德院一、其病在二牀蕁一、遺言曰、我無二德學一、又無二官績一、無下敢修二墓碣碑銘等一而虚譽上焉、故其墓表、特鏤二顯性院殿彩巖義樹墓九字一耳、
p.0315 大内介降參ノ事
爰ニ大内介ハ多年宮方ニテ、周防長門兩國ヲ打チ平ゲテ、無二恐方一居タリケルガ、如何カ思ヒケン、貞治三年ノ春ノ比ヨリ、俄ニ心變ジテ、此間押ヘテ領知スル處ノ兩國ヲ賜ハラバ、御方ニ可レ參由ヲ、將軍羽林ノ方へ申シタリケレバ、兩國靜謐ノ基タルベシトテ、軈テ所望ノ國ヲ被二恩補一、依レ之今迄貳心無リケル厚東駿河守、長門國ノ守護職ヲ被二召放一、合レ恨ケレバ、則長門國ヲ落チテ、筑紫へ押シ渡リ、菊池ト一ニ成テ、却テ大内介ヲ攻メントス、大内介遮テ、三千餘騎ヲ率シテ、豐後國ニ押寄セ、菊池ト戰ヒケルガ、第二度ノ軍ニ負テ、菊池ガ勢ニ圍レケレバ、降ヲ乞テ命ヲ助リ、己ガ國へ歸テ後、京都ヘゾ上リケル、在京ノ間、數萬貫ノ錢貨、新渡ノ唐物等美ヲ盡シテ、奉行、頭人、評定衆、傾城、田樂、猿樂、遁世者マデ、是ヲ引與ヘケル間、此人ニ增ル御用人有マジト、末見エタル事モナキ先ニ、 譽メヌ人コソ無リケレ、世上ノ毀譽非二善惡一、人間ノ用捨ハ在二貧富一トハ、今ノ時ヲヤ申スベキ、
p.0316 建曆三年五月四日甲辰、辰刻將軍家、〈○源實朝〉自二法華堂一入二御于東御所一、〈尼御臺所(平政子)御第〉其後於二西土門一〈曳幕〉兩日合戰之間、被レ疵之軍士等被二召聚一之、被レ加二實檢一、山城判官行村爲二奉行一、行親忠家相副之、被レ疵之者凡百八十八人也、〈○中略〉爰波多野中務丞忠綱申云於二米町幷政所一、爾度進二先登一云云、米、町事者置而不レ論、政所合戰者、三浦左衞門尉義村先登之由申レ之、於二南庭一各及二嗷々論一之間、相州招二忠綱於閑所一、密々被レ仰云、今度世上無爲之條、偏依二義村之忠節一、然者米町合戰先登事無二異論一之上者、政所前事、對二彼金吾一相論難レ叶二時議一歟、存二穏便一者被レ行二不次之賞一無二其疑一云云、忠綱申云、勇士之向二戰場一以二先登一爲二本意一、忠綱苟繼二家業一携二弓馬一、雖二何箇度一盍レ進二先登一哉、躭二一旦之賞一不レ可レ黷二万代之名一云云、而爲レ知二食彼眞僞一、召二忠綱義村等於藤御内壼一、爲二行光奉行一、將軍家出御、被レ上二御簾一、相州〈水干〉大官令〈同〉被レ候レ廂、先召二義村一、次召二忠綱一、兩人候二簀子圓座一、逐二對決一、義村申云、義盛襲來之最前、義村馳二向政所之前於南一發レ箭之時、雖二徵塵一不レ飛二行其前一云云、忠綱云、忠綱一人進二先登一、義村者隔二忠綱子息經朝、朝定等一在二後陣一、而不レ見二忠綱一之由申、爲二盲目一歟、依レ被レ尋二于彼時之戰士等一、皇后宮少進山城判官次郎金子太郎答申云、赤皮威鎧駕二葦毛馬一之軍士先登云云、是忠綱也、件馬者自二相州一所レ令二拝領一也、號二片洲一云云、又義盛親昵伴黨等被二素搜一之、
p.0316 姉川の戰に、坂井右近が子久藏、十六歲にて討死す、久藏は十二の時、信長始て京に入し比、近江北郡にて鎗を合せたる剛の者也、三井角右衞門、生瀨平右衞門二人とも、久藏が首を得たりといふ、二人後關白秀次に仕へければ、此事沙汰ありて、三井がいつはりなりとて、鷹部屋におしこめおきて罪に行れんとす、三井いのちを惜むに非ず、人の功名を盗たる惡名の子孫の恥とならん事、口をしければ、今一度詮議してたまはり候へ、證據は淺見藤右衞門に問れなば、實否正しかるべしと訟たり、淺見を安土より呼れけり、淺見は生獺と久しき友なり、三井とは日比中 よからず、不通なれば、疑もなく三井がいつはりに定るべし、三井惑亂して、淺見を證人にしたりと誹笑ふ人多し、さて聚樂の廣間に奉行列坐して、雀部淡路守をもて尋問る、淺見承り、生瀨は年ごろの知音なり、三井とは不通にて候、是非世の人の評せん事も迷惑なり他人に仰付られよと懇に辭し申す、〈○中略〉秀次聞て重ねて辭すべからずとなりければ、其時淺見今は已事を得ず候、武義の論少も詐僞候まじ、坂井が首は三井がとりたるにまぎれなく、又其はたらきも比類少く候、生獺は何と存過たるにやといひければ、一座駭て、とかくいふ人なく、これによりて三井を赦て賞せらる、〈○下略〉
p.0317 今度於二柳瀨表一有二戰功一者被レ賞之事
片桐助作後號二東市正一、慶長之末、於二大坂一秀賴公へ逆心有て、攝津茨木へ立退しが、大坂を攻給ひし時、御母堂のおはします所をよく知て、大鐵炮を打入、城をいたましむ事異レ他、秀賴公を亡し、百日を過し侍らで令二病死一、億兆之指頭にかゝり名を汚しけり、
p.0317 大雅歿後遺墨を賣る事
大雅死後、門人等老師の簏中より多くの遺墨を搜り出せしに、〈○中略〉遽に乞求るもの各報るに多金をいだし、其金集りて七百兩にみてり、〈○中略〉因て憶ふに、伊勢寂照寺月仙和尚は、一時畫名高く、年ごとに、千金の潤筆を得たりと云傳ふ、されども遷化の後は、其畫價もなく、名も又從て衰へたり、これを譬ふるに、一時權勢を得て氣燄の盛んなるも、一旦其衰ふるに至りては、門に雀羅を設るが如し、實に名は蓋棺の後にして定るとやらん、宜哉、
p.0317 雨のうちはへ降るころ、けふもふるに、御使にて、式部のぜうのぶつねまいりたり、例のしとねさし出したるを、つねよりも遠くおしやりてゐたれば、あれは誰がれうぞといへば、わらひて、かゝる雨にのぼり侍らば、あしかたつきて、いとふびんに、きたなげになり侍りなんと言へ ば、せんそくれうにこそはならめといふを、これは御まへに、かしこうおほせらるゝにはあらず、のぶつねがあしがたの事を申さゞらましかば、えのたまはざらましとて、返々いひしこそおかしかりしか、あまりなる御身ほめ(○○○○)かなと、かたはらいたく、
p.0318 かたはらいたきもの
ざえある人のまへにて、ざえなき人の、物おぼえがほに人の名などいひたる、ことによしともおぼえぬ我うたを、人にかたりきかせて、人のほめし事などいふもかたはらいたし、
p.0318 このみみち、中比よりもなを、いにしへざまにおよぶことに侍りけり、しかあるに人のこゝろのせきしなければにや、をの〳〵みづからの歌とのみ思ひて、そのさましらぬもおほかりけるを、かしこきをうかなるをしらしめ、後のよにもうらみあらじとて、身つからよめる歌のなかに、よろしきを十首たてまつらしめ給ひて、心々をみたまひけるに、まことに山人の薪をおへるを、のがれたれども、繪にかけるすがたのまめならず、露をあざむく心のみおほかりけるに、御みづから〈○後鳥羽〉の御うたをも、此御つゐでに見せしらせめ給ひけるぞ、御惠のふかさも、すゑのよのまもりとまで見えける、〈○中略〉
後鳥羽院
櫻さく遠山烏のしだり尾のなが〳〵し日もあかぬ色かな〈○下略〉
p.0318 建保元年正月十七日、以二書狀一訪二前中納言一、〈長資辨超越事也〉有二述懷返事一、淸範朝臣奉行、生涯詠歌廿首可二撰進一云々、此事更不二思得、難レ撰之上、定背二叡慮一歟、午時許先内々書二送淸範許一了、
p.0318 京軍事
三月〈○正平八年〉十二日ハ仁木、細河、土岐、佐竹、武田、小笠原あひ集ツて七千よき、七條西洞院へおしよせ、 手ハ、但馬たんごノ敵と戰ヒ一手ハ尾張修理大夫高經と戰フ、此陣のよせて千よき、高經ノ五 百よきニ戰ヒまけて、引のきぬとさわギけれバ、將軍いそぎ使者ヲたてられて、那須ヲ罷リ向ふべしとぞ彼レ仰ける、那須ハ此かせんニ打出ける時、古郷の老母のもとへ、人ヲ下して、今度ノかせんニもし打死ニ仕らバ、親ニさきだつ身となつて、草のかげ苔ノ下でも御歎あらんをヲ見奉らんずる事こそ思ヒやるも悲シク存ジ候らへと申つかはしたりけれバ、老母なく〳〵委細ニ返事ヲ書ヒて送りけるハ、古へより今ニ至る迄、武士ノ家ニ生ルヽ人、名ヲおしムニ、父母ニ別レヲ悲ムといへどモ、只家ヲ思ヒ名ヲ恥ルゆヘニ、おしかるベキ命ヲすつる者也、始身體髮膚ヲ我ニ受て殘傷さりしかバ、其孝已になりぬ、今身ヲ立テ道ヲ行ヒて、名ヲ後ノ世ニあげバ、是孝ノ終りなるべく、されバ今度のかせん、あひかまヘテ身命ヲカロクシテ、先祖ノ名ヲ失フべからズ、是ハ元曆の古へ、那須の與一資高が壇ノうらノかせんニ扇ヲ射て名ヲあけたりし時のほろなりとて、うす紅ノほろヲ綿ノ袋ニ入てゾおくりたりける、さらでだニ戰場ニ臨ンデイツモ命ヲ輕ンズル那須ナレバ、老母ニ義ヲ進メられて、彌ヨ氣ヲ勵シける處ニ、將軍より別して使者をたてられて、此陣ヤブレテ難儀ニ及ブウヘハ、いそギムかハれ候らへと仰られける間、那須一義ヲモ申さず、大勢ノ引キ入テ、敵ミナイサミ進める敵ノ眞中へかけいつて、兄弟三人一族郎從卅六キ一足もひかず打死ニシけるコソあはレナレ、
p.0319 いよのかはのゝ六郎みちあり生年三十二、此ひたゝれはへいけのかつせんの時、みちのぶのかはのゝ四郎、源氏の御かたにまいりし時、きたりしひたゝれなり、
p.0319 北條亡びて、關白殿〈○豐臣秀吉〉東山道に下り玉ひしが、忠勝を下野國宇都宮の御陣に召されて、冑一つ取出して、奧の佐藤忠信が著たりしとて、此程陸奧國より參らせたる胃なり、當時忠勝ならで、此胃著んずるもの覺えねば、賜らんとて召しけるぞと、賜ひけり、時の人羨しき事に思ひしに、忠勝が嫡子平八郎忠政、〈後に美濃守〉今年十六歲に成けるが、父に向ひ、父御は、まさしく德川 殿の侍大將にてこそ侍れ、義經の侍の胃、何條の事あらん、とく返させ玉ふべしとそ怒りける、
p.0320 神君〈○德川家康〉の御遺金をわかたせ給ふ時、尾紀の兩卿はおの〳〵三拾萬兩、水戸の賴房卿へ拾萬兩遣はされき、御みづから〈○德川秀忠〉は天下を讓り受玉へば、この外に何を求んとて、一品も御身に付させ給はず、長久手の役にめされし御鎧は、名譽の御品なれば、これはいかにとうかゞひしに、それも御物にしたまはず、
p.0320 父の仰せしは、我父はいかなる故によりてか、所領の地失なひて、其領せし地に引こもりておはせしといひしが、眼大きに、鬚多くして、おそろしげなるが、死し給ふ比は、まだ白髮にはおはせざりしと覺えたりき、つねに物めしけるに、箸筒の黑くぬりしに、かきつばたの蒔繪をしたりしより、箸とりいでゝ、物めして、めし終りぬれば、箸をおさめて、かたはらにさしをき給ひしを、我をはぐゝみそだてし老婢のありしにとふに、すぎにし比の戰ひに、よき首とりて、大將の陣に參り給ひしに、戰つかれたるらむ、これ給れとて、めしける膳をおし出して、その箸共に賜る、此事時の名譽なりしかば、今も身をはなし給はぬなりといひき、それもいとけなき時に聞にし事にて、いづれの時、いかなる所の戰にて、大將は誰とかいひぬらん、さだかならず、