https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0939 盲人ハ、先天ト疾病トノ二種アリテ、古ハ全ク之ヲ廢人卜爲シテ、何等ノ職業ヲモ爲ス所ナカリシガ、中古以來、音曲、按摩等ヲ以テ、此輩ノ職業ニ適スト爲シ、專ラ之ヲ修メシムルコトト爲リ、之ヲ座頭ト云ヘリ、座頭ノ祖先ニシテ、其傳ノ明ナルモノハ、性佛ニシテ、此者始テ平家ヲ禁中ニ語リキ、次ニ城一ト云フモノアリテ、之ヲ襲ギ、其兩弟子、兩派ニ分レ、一人ハ其名ニ一ノ字ヲ用イ、一人ハ城ノ字ヲ用イル、其流派相承ケテ、遂ニ多クノ流派ト爲レリ、後世仁明天皇ノ皇子雨夜ノ尊ト云フヲ以テ、座頭ノ祖神トシテ祀ル、蓋シ座頭等其道ヲ重クセムガ爲ノ謀ニ外ナラズト云フ、
德川幕府時代ニ至リテハ、幕府大ニ盲人ヲ保護シ、隨テ其制度モ亦甚ダ整ヘリ、卽チ座頭ノ等級ヲ分チテ數十階ト爲シ、極位ヲ檢校、總錄ナドヽ稱シ、之ヲシテ座中一切ノ事ヲ支配セシム、而シテ位次昇進ノ事ハ、夙ニ久我家ノ掌ル所ナリキ、盲人ハ斯ノ如ク優遇セラレタルヲ以テ、爲ニ驕奢ニ流レ、且ツ高利ノ貸金ヲ爲ス事ヲ許サレタレバ、之ヲ以テ良民ヲ苦ムルモノモ亦甚ダ尠カラザリキ、又盲僧ト稱スルモノアリ、多クハ僧形ノ盲人ニシテ、其職業略、座頭ニ類ス、德川幕府ノ時、其士分以上ノ者ハ、靑蓮院宮ノ支配ヲ受ケ、士分以下ノ者ハ、座頭ト同ジク檢挍ノ支配ニ屬セシメタリ、 尚ホ盲人ノ事ハ、政治部、貸借篇、及ビ同戸籍篇殘疾篤疾條等ニ在リ、宜シク參照スベシ、又本篇ノ材料ハ、盲人ノ手ニ依リテ成ルモノ多ク、往々妄誕不稽ノ事アリト雖モ、旣ニ久シク此ヲ以テ世ニ許サレタルモノナレバ、姑ク之ヲ引用セリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈女/人體〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 盲〈メシヒ目无眼〉

〔運歩色葉集〕

〈免〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 盲目

〔和漢三才圖會〕

〈十/人倫之用〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 盲人(めくら) 瞽〈音古〉 盲〈音萠〉和名米之比(〇〇〇) 矇〈音蒙〉 靑盲、和名阿岐之比(〇〇〇〇)、 瞍〈音漱〉
釋名云、盲茫也、茫茫無見也、有數品、鄭司農云、無目眹之瞽、有目眹而無見謂之矇、卽靑盲也、有目而無眸子之瞍、〈○中略〉
按、盲有數品、通稱盲目、〈訓女久良〉自幼就瞽師習歌曲管絃、皆剃髮、總名座頭坊、毎列宴席業、京師有總撿挍、定諸國座頭官
○按ズルニ、座頭坊ハ、俗ニザツトノバウ卜云ヒテ、固ヨリ公稱ニ非ズ、

〔花月草紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 めしひしものゝ、人のいひがたき事をもいふは、いろもみえず、けしきにもしらねば、いふなりけり、くらき人は、わがあしきもみえねば、よきと心得て、人にはぢざるは、めしひしひと(〇〇〇〇〇〇)のたぐひなり、されば古よりおもてにかきするなどゝもいふめり、

〔長曾我部元親百箇條〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940
一男留主之時、其家へ座頭(〇〇)、商人、舞々、猿樂、猿遣、諸勸進、此類或雖親類、男一切立入停止也、若相煩時者、其親類令同心、白晝一ツ見廻、雖奉行人、門外にて可理事、但親子兄弟可各別事、〈○中略〉
慶長二年三月廿四日 盛親在判
元親在判

〔賤者考〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0940 座頭といふは、まづ盲人の總名と見ゆ、これも目しひても、おのれ業をたてず、父祖兄弟子 孫の養をうくる者は別、なり、是にも階級あり、幼年小盲のほどは、さま〴〵の名にて、金彌文彌仙花などもつく、それより城方一方とわかれて、城牧城黑(ジヤウマキジヤウクロ)など重箱訓の名もあり、秀一(ヒデイチ)多麻一などもつく例なり、是はそのかみ城一檢校といひしが、名の一字をとりたるなり、いかなるにか城方は寡く一方は多し、又都の字をイチと訓するもあるはいかなる故か知らず、それ、より上微細の級段こゝらありて、費用を出して漸々にすゝむを、今は多く束ねて一時に成る故に、その徒も暗記はせざるほどなり、太凡は今その上四度(シド)といふになり、それより又合せて勾當にすゝみ、又中間を合せて檢校にいたる、此上にも小級ありて、夫よりは早くなりたる年月日にょりて、﨟をつみて總檢校にいたり、當職三年をへて次﨟に讓りて退職し、前檢校と稱して老を養ふといへり、〈以前よりの小階わづらはしければ略す、閑あらむ折に別記すべし、〉以上は皆盲者中の職名にて、僧綱に似たり、足利比の記錄には、檢校を建業とかきたり、もとはかゝりしにや、四度は一度より次第を重ぬ、是は鴨川原にて石塔(シヤクタウ)といふ事昔ありて、肓人つどひてする事あるは、昔は此川の水時々溢れて、堤決し人家を流し、溺死する者多かりしかば、其追慕作善の意なりといへり、俳諧の季寄の書には、二月十六日を石塔とも積塔會ともいふ、淸聚菴に會して、〈高倉綾小路なりとぞ〉守瞽神を拜し平家を語る、光孝天皇の皇子雨夜のみこの爲といへり、積塔の名義は法華經にあり、六月十九日を座頭の凉といふ、積塔に式同じ、終に總檢校鳥羽の湊に船つくといふ、衆盲ゑい〳〵と呼ぶは、昔日向國に盲人の領ありて、その米、山城の鳥羽に著きたりし例といへり、俗間に景淸眼をくり出して、源氏の榮を見じといひしを、賴朝忠を感じて、日向に流して養ふ、是を日向勾當といふなどは取るにたらず、その比盲者に、勾當の稱あらむや、此日向に領ありなどいふによりて附會せしなり、此曾城方へ隔年につとむるを、四度勤むれば八年の﨟なり、是より出てたゞ雜費を、今は言よくいひなして官金と稱す、さて座頭はいづれの國にても、諸人吉凶事ある毎に、配當とて料足を乞ふ、此事舊來よりあるは、 その濫觴はしらねども、僧形にてなべて法師ともいへば、乞食頭陀鉢ひらきの類なる事は知られたり、今は醫道按摩〈古くは腹とりといふ〉などをも業とすれども、昔は琵琶法師とて專びはを彈ず、今昔物語に、木幡の里に目つぶれたる法師の、世にあやしげなるが、琵琶の妙手にて有しに、博雅三位の習ひたりし事など見ゆ、平家物語を信濃前司行長が作りてよりこれを語る、平家物語の琵琶は、柱一ツ樂のよりは多く、今も是をなせど、もてはやす人すくなければ、知らぬ盲人多く、なべてはつくし琴三絃を專業として、人にもをしふ、三絃はもと淨るりの方と、遊里の妖曲にのみ彈きしを、移りては常の家にもひくことゝなりたれど、猶婦女兒のみの戯にて、おのが幼年なりし比までは是はよき人は、をさ〳〵もてあそばず、たま〳〵彈く者を遊蕩子遊冶郎とそしる故に、習はむとする者も人目をしのぶほどなりしが、今はなべてよろしきほどの家にて、誰もひくものとなりたり、さる故に敎ふる者も又多くなりて、盲人のみならず、男女ともに此道の師にて生活する者、流をたて派をわかちて名目多し、こは男は多くは幇間、又は戲場觀物師の屬なるもあり、もとこのめるより落魄して、さる師となり遊蕩子にて過るもあり、女は前にいふ藝子のうちに、年たけて色おとろへたる者、又遊里ならずして、町藝子などといふ一轉の者などもをしへ、男の所にいふ如く、このめるよりして習性となり、遂に業とする者もあり、盲人ならぬは戲場の屬の他は、本業とたてゝ、世々にするにはあらず、素人の體なれども業とするに至りては賤し、〈元來此三弦今やうに返て、その曲淫靡なれば、もて遊ぶ人の意も、いつとなくそのかれにうつるを、まして明くれに業とするにいたりては、皆放蕩孑の風をなせり、〉すべてかゝる遊民は、有て益なく、なくてたらはぬ事なし、禁じて可なり、又女瞽あり、七十一番職人盡歌合女盲と出て、鼓を腋にかゝへうちて謠歌する絃あり、今はさることはたえて、これも琴三絃按摩のみなり、座頭の如き階級もなし、又男まうくる事は禁なり、

〔町奉行町年寄覺書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0942 座當之事〈○中略〉 一京都に而は座當を琵琶法師と申、江戸に而ハ仲間衆と申傳候由、
一座當ハ往古は座盜とも書申候、是ハ天台宗之座主之座を盜と申事に而如此に申候、其後座頭と申、當世は公儀に而も座頭と御取扱也、

流派

〔臥雲日件錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 文安五年八月十九日、最一撿挍留而宿焉、最一話及鎌倉持氏之事、最一曰、某廿二歲初到鎌倉、持氏歲十二三也、廿三歲又到鎌倉時、管領上杉金吾承持氏命、與諸大名力賜三百貫、持此上洛爲撿挍、凡在鎌倉之時、持氏入諸山、則必隨其后、无到、〈○中略〉又間座頭話平家之由、最一曰、昔爲長卿者作此書十二卷、留在于播州、後曰性佛者、上之於音曲、而歌詠耳、性佛之後曰如一撿挍者有二弟子、一曰覺一、一曰城一、城一弟子城元居八坂、城元次曰城意、城意次曰城存、城存尚在焉、覺一弟子有四撿挍、曰通一、曰靈一、曰景一、曰淸一、某乃靈一弟子也、最一又曰、今夏居奈良、秋初歸洛云々、

〔松屋叢書〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0943 當道考
當道流派圖
一方〈以坂東如一祖〉
一方〈亦稱筑紫方明石覺一祖〉
筑紫方〈以筑紫城一祖〉
八坂方〈亦稱城方八坂城元祖〉
妙聞派〈以森澤城聞祖城方〉
妙觀派〈以井口相一祖一方〉
師堂派〈以疋田仙一祖一方〉
源照派〈以竹永揔一祖一方〉
大山方〈是ハ、城方ノ師兄ニ屬スルヲ云、但シ座上ヲ師兄ト云ニアラズ、的傳シ來レル嫡弟子ヲ指テ師兄ト云也、〉
戸島方〈是ハ一方ノ師兄ニ屬スルヲ云、師兄ノ義城方ニ同、〉
思付(オモヅキ)〈師ノ官位ノ高下ニヨラズ、末々ノ者ノ思ヨリ次第ニ付テ弟子ニナルヲ云、但妙觀派師堂派ニ限レルコトニテ、タトヘバ妙聞派ノ中ニテ、己ガ師ヲ去テ外ノ師ニ付ク也、妙聞派ノ〉 〈者、己ガ派ヲカヘテ、師堂派ニ付クコトハナラザル也、〉
右以妙觀派、師堂派、源照派、妙聞派、大山方、戸島方、稱六派、思付者、謂妙觀師堂二流之末弟子各從其所一レ思而附屬於師也、

〔瞽官紀談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 當道一宗六派の分
一妙觀派 飯堂派 おもひ付
一妙聞派 大山派
是は其筋の師兄弟、但簾上ハ師兄にあらず、的傳し來れる嫡弟子を師兄といふ也、
一源照派 戸島派 右に同じ
右六派ながら四度中老の身として、祖父坊主の下を取べからず、
城方(首書) 關流 櫻流
右二派斷絶

〔瞽官紀談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 屋佐方二派有 大山派(ヲヤマハ) 名門派(メウモンハ) 城ノ字ヲツク
一方四派有 師堂派(シダウハ) 名官派(メウクワンハ) 渡島派(トシマハ) 元性(ゲンシヤウ)派
以上六振有、舊ハ八派有、屋佐方ニ關派(セキハ)、櫻派(サクラハ)ト云有、今ハ絶テナシ、

〔瞽官紀談〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 一名ニ城ト都トノ別アルコトハ、城都撿挍ノ門弟ニ、城元如都、谷坂(ヤサカ)坂東ノ兩派ト分ルヽ也、當道ニ又八振アリ、師堂、名官、渡島、元性ハ都方也、大山、名門、關、櫻ハ屋坂方ナリ、

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 系圖之事
一昔いちの字に、都の字を書事、雖子細、中興一文字に改めつると申傳事、

〔瞽官紀談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0944 一ノ字ニ都ノ字ヲ書ハ非ナリ、一ノ字以孤單筆者妄リニ都ノ字ニ作ル、無出處事ナリ、

階級

〔瞽官紀談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0945 無官ノ瞽ヲ初心(シヨシン)ト云
一ツヲ半(ハン)ノ打掛(ウチカケ)ト云 一ツヨリ何一(ナニイチ)、城何(ジヤウナニ)ト名ヲツク、
二ツヲ丸(マル)打掛ト云 三ツヲ化遷打掛ト云
右一ツヨリ三ツマデヲ打掛ト云〈初心打掛ハ撿挍(禮無シ、勾當ヘモ禮無シト云、〉
四ツヲ衆分(シユブン)ト云、又座入(ザイリ)ドモ云、打掛ヲ不歷シテ直ニ衆分ニナルヲ粒入(ツブイリ)ト云、〈衆分ヨリ撿挍ヘ禮有、御前樣(ヲマヘサマ)ヘ何一ト申マスル者、袴バカリデ御禮申マスト云、〉
四ヨリ十六マデハ、紫ノ菊トヂ付タル長絹ヲ著ス也、〈長絹チ著タル時ハ、袴バカリトハ不斷〉
五ツヲ萩上主曳(ハギノジヤウシユビキ)ト云 六ツヲ一度中老(イチドノヂウラウ)曳ト云
七ツヲ一、度ノ晴(ハレ)ト云 八ツヲ二度ノ上主曳ト云
九ツヲ二度ノ中老曳ト云 十ヲ二度ノ晴ト云
十一ヲ三度ノ上主曳ト云 十二ヲ三度ノ中老曳ト云
十三ヲ三度ノ晴ト云
右四ツヨリ十三マデヲ衆分ト云、不白袴、袴ノ腰板バカリ白キ帛ヲ付テ著ス、又平生常ノ袴、又羽織ハ、四ツヨリ十六マデ著スト云、
十四ヲ四度ノサイシキト云、采色ト書ト云、 十四ヨリ十七マデ四度ノ官也、白袴ヲ著ス、
十五ヲ四度ノ上主曳ト云 十六ヲ四度ノ中老曳ト云
十七ヲ四度ノ晴ト云
十七ヲ化遷勾當ト云、衣ヲ不著、長絹ノ菊トヂヲ皆トリハナチテ、背ノ身柱(チケ)ニ一ツ付ル也、菊トヂハ若輩ノ附ルモノヽヤウニ意得テ、如此ハナツ事戸ナリタルガ所以ニ、杜鵑ノ勾當ト云ハ、只一聲、ヲトヅルヽト云心也ト云、〈禮ハ御前樣(ヲマヘサマ)ヘ名字座頭御禮申マスト云、撿挍ノ挨拶ニ、座頭(サト)ノ房トモ、又ハ名字ヲモヨブナリ、〉 十八ヲ百曳ト云
勾當ノ釆色也、十八ヨリ四十七マデヲ勾當ト云、〈禮ハ、御前樣ヘ何一御禮申マスト云、〉衣沙門帽子ヲ著ス、沙門帽子ハ撿挍ノ所冠、燕尾ノ如ニテ製異也、
十九ヲ一度ノシカケト云 二十ヲ二度ノシカケト云
右十九ト二十トハ贈物(ヲクリモノ)ノシカケ也
廿一ヲ贈物ノ晴ト云 廿ニヲ一度ノシカケト云 廿三ヲ二度ノシカケト云
右廿二ト廿三トハ掛司(カケヅカサ)ノシカケ也
廿四ヲ掛司晴ト云 廿五ヲ一度ノシカケト云 廿六ヲ二度ノシカケト云
右廿五ト廿六トハ立寄ノシカケ也
廿七ヲ立寄(タチヨリ)晴ト云
廿七立寄ノ晴ヲシテ、廿八ヨリ四十六七ト漸次ヲ不刻シテ、一度ニ四十八ニスル也、此間ニ一度ノ大座(タイザ)、二度ノ大座、二度ノコン〳〵シヤウヲ引ハラシ、總別當ニ任ズ等云フ事有、大座ヨリ撿挍ノ代リヲスル也、
廿八至四十七、舊聞階有其號、可尋、 四十八、召物ヲ引ハラヒ、撿挍ニ任ズ、
四十八ヨリ五十ニマデヲ撿挍ト云、總晴ヲ引ハラシ、五十二ノ官ニテ收マル、
四十九ヨリ至五十一、毎階可記、
撿挍ノ衣ノ色、好ム處ニ從フ、舊ハ緋色ヲモ著タルヲ、總撿挍ヲ所置ヨリ、緋色ハ總撿挍ノ物トナレリ、燕尾ヲ冠ル也、
右一ツヨリ三ツマデ打掛ノ間ハ、座頭ト不稱、房ト云テ何一房ト呼ブナリ、 四ツヨリ十六マデヲ座頭房(ザトノボウ)ト呼ブ、 十七ヨリ化遷勾當房ト云 十八ヨリ四十七マデヲ勾當房ト云 四十八ヨリ五十二マデヲ撿挍ノ御房ト云
又四度ヲ在名ト云、勾當ヲ中老衆ト云、撿挍ヲ上衆(ジヤウシユ)ト云、

〔柳葊雜筆〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0947 當道大記錄に、當道の官途、四階(〇〇)、十六官(〇〇〇)、七十三の小刻(〇〇〇〇〇〇)と云ことあり、四階とは撿挍、別當、勾當、座頭なり、十六官とは、座頭に一度、二度、三度、四度、勾當に過錢(くはせん)、送物(をくりもの)、掛司(かけつかさ)、立寄(たちより)、沼物(めしもの)、始の大座(だいざ)、後の大座、權別當、正別當、總別當、權撿挍、正撿挍、總撿挍を云、七十三の小刻とは、
一半打掛(はんうちかけ)〈装束綿布色淺黃或、萌黃、城某又ハ某一と名乘、〉 官金四兩 一丸打掛 同三兩二分
一過錢打掛〈袴の紐白練を用ふ〉 同二分 一彩色衆分〈白平絹無紋の長絹を著、城某座頭、又ハ某一座頭と云ふ、〉 同四兩
一壹度の上衆引〈萩と云〉 同四兩 一同 中老引 同四兩
一同 晴(はれ) 同廿兩 一二度の上衆引 同六兩
一同 中老引〈九度大座と云〉 同六兩 一同 晴 同三拾兩
一三度の上衆引 同四兩 一同 中老引 同四兩
一三度の晴 官金廿兩 一四度の上衆引〈白綾絹を著す、某座頭と云在名也、〉 同廿二兩
一同 送物引 同六兩 一同 大座引 同三兩
一同 中老引 同六兩 一同 晴 同廿五兩
一過錢勾當〈一度 猶長絹を著す〉 同三兩 一同 上衆引 同十七兩
一同 晴 同十兩 一送物の百引〈二度黑素絹白袴〉 同十兩
一同 上衆引 同六兩 一同 晴 同四兩
一掛司の三老引〈二度〉 同一分 一同 五老引 同一分
一同 十老引 同二分 一同 上衆引 同六兩 一同 晴 同五兩 一立寄の五十引〈四度〉 同五兩
一同 上衆引 同五兩 一同 晴 同五兩
一召物の三老引〈五度〉 同一分 一 五老引 同一分
一召物の十老引 同二分 一同 上衆引 同四兩
一同 中老引 同五兩 一同 晴 同廿五兩
一初大座の三老引〈六度〉 同二分 一同 五老引 同二分
一同 十老引 同一兩 一同 上衆引 同八兩
一同 中老引 同十兩 一同 晴 同四十兩
一後大座の三老引〈七度〉 同二分 一同 五老引 同二分
一同 十老引 同一兩 一同 上衆引 同八兩
一同 中老引 同十兩 一同 晴 同四十兩
一權勾當上衆引〈八度〉 同十兩 一同 中老引 同十兩
一同 晴 同三十兩 一權別當上衆引 同十兩
一同 中老引 同十兩 一同 晴 同三十兩
一正別當上衆引 同十兩 一同 中老引 同十兩一同 晴 同三十兩 一總別當〈燕尾紫衣を著、猶禁色、〉 同廿兩
一同 上衆引 同十兩 一同 中老引 同十兩
一同 晴 同三十兩 一權撿挍〈紫素絹白長袴、淺黃小柳奴袴、〉 同四十五兩
一同 上衆引 同十兩 一同 中老引 同十兩
一同 晴 同三十兩 半打掛前より是に至迄、金七百十九兩なり、 以上六十七刻なり、此後正撿挍五刻、六老五老四老三老二老なり、一老を職總撿挍と云、都合七十三刻終る、
衆分と云は、彩色より三度の晴までを云、
在名と云は、四度上衆引より同晴までを云、
勾當と云は、過錢より八度の晴までを云、
撿挍と云は、權別當より二老までを云、

撿挍/勾當/別當/座頭

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 官位の次第
一座頭(〇〇)成四度、此内十八キザミ有、此極官より名字を名のる日傘をゆるす、
一勾當(〇〇)成八度、此内三十五キザミ有、一度の勾當は末四度の裝束なり、二度の勾當より衣白袴を著す、
一別當(〇〇)成三階
一撿挍(〇〇)成一階、但官錢未進の輩は、總ばれとて殘し置也、
已土十六官

〔瞽官紀談〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 撿挍ニ一﨟二﨟ト次第シテ、至十﨟有、是ヲ﨟内ト云フ、御職ト云ハ一﨟ノ事也、
常憲院殿御代ヨリ、江戸ニ所置總撿挍(〇〇〇)者、至今、杉山、 三島、 島浦ト、三代續ク、
總ジテ彼徒ニ樣々ノ作法アリテ、名目多シ、詳ニ可尋究
右享保九年甲辰之夏、以某撿挍之口語之云、 伊庭又十郎

〔檢挍古實之記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0949 永祿十一年九月日禪正忠 朱印
禁制 總撿挍〈幷〉諸撿挍中
一當手軍勢濫妨狼籍之事 一放火之事
一山林竹木伐採之事
已上
右條々堅令停止訖、若於違犯族者、速可嚴科者也、仍如件、
元龜元年十一月日 左衞門督義景
禁制 當道座中
一當手軍勢甲乙人亂入狼籍事
一喧嘩口論幷申懸非分族事
一寄宿陣取事
右條々堅令停止訖、若於違犯之族者、速可嚴科者也、仍下知如件、
永祿四年十月日 筑前守
禁制 在京撿挍中
一當方軍勢甲乙人亂妨狼籍事
一放火〈幷〉陣執之事
一相懸矢錢粮米一切非分課役事
右條々堅令停止訖、若違犯輩在之者、可嚴科者也、仍下知如件、
永祿四年七月十五日 右近大夫
右兵衞尉

〔當道大記錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0950 江戸總撿挍總錄(〇〇〇〇〇〇〇)代々之事
一江戸ニ而總撿挍最初杉山撿挍和一、將軍綱吉公〈江〉被召出、御側近く、結構ニ被召仕、殊ニ老年ニ 而御奉公相勤、格別之義ニ付、元祿四〈未〉年七月十八日ゟ、御城中御勝手向へ乘物御免被仰付、同五申年五月九日依御上意に、始て總撿挍被仰付、職役者久永撿挍彈一也、此節當道之諸法度の式目御改有之、其旨京都御所司代小笠原佐渡守殿〈江〉職久永撿挍被召出、式目之通、急度可相守旨被仰渡候、今の新式目是なり、同年九月廿九日緋衣紋白之袈裟御免、尤袈裟ハ此仁ニ限ル、右者權大僧都を兼られたる故なり、同六酉年六月十八日、大辨才天尊像拜領、幷境代地として、地面千八百九拾坪餘被仰付、右地面〈江〉御宮御取立被成下、尊像奉鎭座御宮建立出來の後、古跡並ニ被仰付候、同七戌年五月十八日、杉山總撿挍卒去、御法名、卽明院殿杉山前總撿挍權大僧都法印眼叟元淸ト號ス、

〔瞽幻書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0951 江戸總錄の始
一總錄島崎撿挍、元文元丙辰三月より、同二丁巳六月迄、御家人ニ而勤役、子息者御醫師被召出之、島崎何某也、
一同杉枝撿挍、元文二丁巳六月より、同四己未二月迄、御家人ニ而勤役、子息者御醫師被召出、今の杉枝何某なり、
一同輕山撿挍、元文四己未三月より、同五庚申二月迄勤役、
一同白石撿挍、元文五庚申三月より、寬保二壬戌五月迄勤役、是ハ、江戸役所神田邊に有之所、寬保元辛酉年、初而拜領地〈江〉役所相立、普請出來之上、同九月十一日移徙相濟、右白石、當時七老之席故、同二壬戌五月上京、職總撿挍迄昇席、尤つぎ目御禮無之卒去たる事、
一小澤撿挍、寬保二壬戌五月より、十月迄勤役、
一同大田撿挍、寬保二壬戌十一月より、同三癸亥十月迄勤役、
一萩田撿挍、寬保三亥十一月より、延享三丙寅五月迄勤役、 一同島川撿挍、延享三丙寅六月より、同丁卯四月迄勤役、
一同梅山撿挍、延享四丁卯五月より、同年十二月迄勤役、
一同波岡撿挍、延享五戊辰正月より、寬永四辛未年正月迄勤役、
一同朝山撿挍、寬永四辛未二月より、同年三月迄勤役、
一同小野崎撿挍、寬延四辛未四月より、寶曆四甲戌十月迄勤役、此時、福澄撿挍、總錄順座公事ニ付、同九月中、京都時之三老豐崎撿挍、同五老宮菊撿挍、同九老濱田撿挍、右衆中、總錄役所〈江〉下られ、翌申年六月迄逗留、尤御吟味中、本人福澄幷同衆菊川撿挍、右一味之内、藤上撿挍、總手代宅ニ而勤番、其外、紀州家之撿挍、平山川村細谷、何れも屋敷〈江〉御預け、御裁許之上、座位之仕置可申付旨、於評定所是を被仰渡、右一件之者共、申六月十五日、總錄〈江〉呼出シ、福澄藤上不座、今日撿挍被申付、何れも五十日、閉門たる事、尤三人之衆中、同六月中歸京、右之外春木撿挍下夕初身之者、渡邊龍白と名乘、俗盲人と成ニ付、總錄小野崎より、御用番本多伯耆守殿〈江〉相願、町奉行能勢肥後守殿より、右之者被召出、評定御吟味之上、任座法、遠島ニ被仰付事、尤當役小野崎義病氣ニ付、退役後相成候、事、其外京都柴田養元抔、色々の事共、委くは日記ニ見えたり、
一同松島撿挍、寶曆四甲辰十一月、より、同七丁巳六月迄勤役、同十一辛巳三月迄勤役、
一同吉永撿挍、寶曆十一辛巳三月より、同、十三癸未六月迄勤役、
一同竹岡撿挍、寶曆十四甲申三月より、同年七月迄勤役、
一同鍋島撿挍、明和元甲申八月より、同二乙丙十月迄勤役、
一同雨谷撿挍、明和三丙戌九月より、伺四丁亥三月迄勤役、
一同山口撿挍、明和四丁亥三月より、同年十一月迄勤役、同九壬辰正月廿二日迄勤役、此時辨才天一御宮普請最中の時節、同六己丑二月廿三日、隣町御組屋敷熊井宗閑と申もの火元にて、役所類 燒の處、無程御宮出來ニ而、御遷宮迄首尾能相濟、是ハ、先年享保十七壬子三月廿八日、横網火事ニ而、御宮御類燒後、假家同樣之所、此度宜出來幷卽明院殿、同光興院殿御佛間、初て拜領地〈江〉建立、次ニ針治學講、此時同地面建、同總錄役所、何れも普請出來、其上皆座富十ケ年之願相叶、丑年より富興行有之所、當役若村六老之席故、明和九壬辰正月廿二日退役、同五月上京、
一同菊河撿挍、明和九壬辰正月廿二日より、安永三甲午十月十日迄、同年職十老方より、國中の俗盲人ども、撿挍支配之願有之ニより、京都總代、時之九老大久保撿挍、同六月十一日到著ニ而、則學講所旅宿ニ而、總錄菊川撿挍幷派改稻村撿挍、右三人御用番松平右近將https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00023.gif 殿〈江〉相願、御取上之上、寺社御奉行土屋能登守殿〈江〉相下、御同役牧野越中守殿兩懸りニて御吟味中、時之六老若村撿技江戸手代とも憐愍之義ニ付、供物金出入出來ニ而、職十老方を相手取、安永二癸巳二月中御用番田沼主殿頭〈江〉致出訴、依之、職十老方被召候所、時ノ二老小川勝一、同七老村林初明一、同八老吉村城ノしん、同九老大久保懇一、同三月出宿ニ付留役、金澤安太郎殿懸りニ相成、段段御吟味有之候處、尚又、同年十一月、時之職〆崎總撿挍被召呼、同三年甲午五月六日、土屋能登守殿ニ於て御裁許之上、被仰候趣、左の通、御請書之寫、
差上申一札之事
職十老坐法を糺候由申立、六老若村撿挍願之趣、一件を以て御吟味之上、左の通被仰渡候、
一六老若村撿挍、職〆崎總撿挍、御吟味中、忍被下候上ハ、請暇落々ハ難立、右吟味中、職ゟ遠慮申付置候ハヾ、何とも吟味申渡を請、難心得義も御ざ候ハヾ、其節可申上處、御吟味を不請及出訴候段、不埓ニ付、遠慮被仰付候、
一職〆崎總撿挍義、江戸役座頭共類燒後、致困窮候由ニ而貸金之儀、若村撿挍申出候ハヾ、あつく可評議候所、金子差支候ニ付、難儀之趣相斷候段、職ニハ有之間敷義、不埓之至、殊ニ同樣之願 書派頭より差越、若村致同道候哉と再應相疑罷有、穗積賴母歸京候ハヾ、早速若村と引合相糺候ハヾ、不内通ニ可相決處、右引合不致去春迄も遠慮申付候段、職之身分ニも未熟成取計故、若村致出訴候始末ニ相成、其上、若村江戸〈江〉罷下、職取計之義ニ付、願筋有之候由、相屆之旨、總錄より申遣候間、座法之仕置ハ差扣、御奉行之御沙汰を可相待所、不座の以下知書衣袴吿文狀可取上旨、總錄〈江〉致差圖候始末、不座ニハ難立、旁不埓之至ニ付、隱居之上、職屋敷不立合坐、法差障旨被仰渡候、
一十老席八人之撿挍共、〆崎右體取計候ハヾ、不然と可心得處、無其儀段無念之至ニ付、一同ニ急度御呵被置候間、小河村林吉村、其外十老席四人の撿挍共〈江〉可申通旨、大久保撿挍〈江〉被仰渡候、〈○中略〉
一細谷撿挍、谷村撿挍、稻村撿挍、堀口撿挍、若波勾當、若村次郎左衞門、杉一、仲一、大久保淸次郎義不念之筋も無之候間、一同ニ無御構旨被仰渡候、右之通、今日、土屋能登守樣於御内寄合御別席、銘銘被仰渡候、奉畏候、若相背候ハヾ、金科可仰付候、仍而御請證文差上申處如件、
安永三甲午年五月六日 〈六老〉 若村撿挍印
〈職〉 〆崎撿挍印
〈十老之席〉〈總代兼ル〉菊川撿挍印
〈御吟味ニ付御呼出職事〉穗積賴母印
〈五派撿挍〉細谷撿挍印
〈同〉 谷村撿挍印
〈兩人代兼ル〉〈同〉 稻村撿挍印
〈同〉 堀口撿挍印 〈若村撿挍弟子〉若波勾當印
若村次郎右衞門印
〈役座頭〉 杉 一 印
仲 一 印
〈辨オ天社役〉大久保淸次印
寺社御奉行所
前書之通被仰付、先達而相願候俗盲人共之義も被仰付之相濟候旨、同年八月十一日、牧野越中守殿〈江〉、社役大久保淸次被召出、書面之通被仰渡候事、

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 聖家撿挍之事
何の撿挍御房御同宿中〈返札管報尊報、是ハ人により、ケ樣の御衆ヘハ其所を上に書候而、撿挍と書つゞけ申候、聖家とハ比叡山高雄山の撿挍なるべし、〉
後宇多院御宇弘安年中に定る、たとへば在名松尾なれば、松尾撿挍御坊と書なり、但俗姓も能仁ならば、松尾撿挍御坊御近習中、
右のごとく回報尊報と書べし、總撿挍之事也、又二老三老へは進之候也、四老ゟ末の平撿挍へは、松尾撿挍坊進之候也、但俗姓も能仁ならば、撿挍御坊近習中と書べし、勾當へは、松尾勾當坊參る、但俗姓も能仁ならば、勾當御坊と書べし、此一ケ條ハ、公方の御日記の内を寫し畢、

〔當道大記錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0955 御家人撿挍の事
〈慶長年中被召出〉一伊豆總撿挍 高七百石 〈子孫御小性組〉土屋兵庫殿 〈針治ニ而被召出〉一杉山總撿挍 高八百石 〈子孫御小納戸〉杉山藤之助殿
〈御同樣〉一三島總撿挍 高五百石 子孫斷絶 〈御同樣〉一島浦總撿挍 高三百石 〈子孫御醫師〉和田眷長殿
一岩船撿挍 高二百石 〈子孫大御番〉高橋三次郎殿 〈鞁弓ニ而被召出〉一伊豆田撿挍 子孫相知れず
一板花撿挍 子孫斷絶 一鷺坂撿挍 鷺坂藤十郎殿 一山川撿挍 子孫 〈一ツ橋樣御付〉山川下總守殿 一後板花撿挍 子孫 板花友之進殿
〈平家ニ而被召出〉一湊撿挍 子孫相知れず 一石坂撿挍 〈子孫御醫師〉石坂宗哲殿
一杉島撿挍〈高百五十石 二十人扶持〉 〈子孫〉杉島定七殿 〈平家ニ而被召出〉一後岩船撿挍 子孫相知れず
一杉浦撿挍〈元祿十丑年五月十 八日勾當ニ而被召 出撿挍ニ被仰付候、〉子孫相知れず 〈享保年中勤役中〉一總錄島崎撿挍 〈子孫御醫師〉島崎永玄殿
〈元文年中勤役〉一總錄杉枝撿挍 〈子孫御醫師〉杉枝專安殿
以上十七人
右之通、寬政六寅年御尋有之ニ付、寺社御奉行所板倉周防守殿〈江〉御書付差上置候事、何れも御家人と被成可相勤候撿挍也、

〔瞽幻書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 一總錄拜領地、東西京間九拾間餘、南北同間貳拾壹間四尺、此坪數千八百九拾坪餘、幷河岸附地面七百九拾貳坪餘、總坪數貳千六百八拾貳坪有之所、安永二癸巳十一月廿五日、新地奉行永井傳右衞門殿より改、依之社役大久保淸次郎書面之通書上相濟候處、右屋舗内、辨才天社地九百八拾九坪餘、此内門前町家西〈江〉拾七間餘、北貳拾三間、南〈江〉四間貳尺、社地河岸附三百五拾坪三合貳夕五才、右之通安永三甲午四月廿二日、永井傳右衞門殿、以大久保淸次郎を、右之通書上ゲ相濟事、同年辨才天みたらし出來、

〔文昭院殿御實紀〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 寶永六年五月廿七日、こたびの御祝〈○家宣襲職〉により、三島總撿挍安一に銀十枚、瞽者に鳥目五百貫文、盲女三貫文下さる、

〔天保集成絲綸錄〕

〈八十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0956 寬政十一未年十二月
寺社奉行〈江〉
藤植撿挍
銀貳拾枚宛 塙撿挍 座中取締方之儀、久々致出精骨折候ニ付、御褒美被下之、

〔當道大記錄〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0957 渡邊龍伯遠島之事
一總錄松島撿挍役中、寶曆五亥年三月二日遠島に成り候龍白義ハ、前年春木殿下春彌と申ものにて、渡邊龍白と改名致し、淺草猿屋町に住居、針治導引渡世に致し候間、仲間の者吟味致し候處、押隱し專針治を致し候ニ付、仲間吟味ニ而申紛し候得共、座頭に相違無之ニ付、總錄〈江〉願出候處、其後町御奉行土屋越前守殿〈江〉御願申上候得共、御吟味之上、總錄〈江〉御引渡ニ相成候處、剃髮致、仲間ニ成り候と申證文を乍差出、右一札相破り候段不屈ニ付、仕置申付候得共、我意申張り候間、遠島相願候、此もの至而不法不屆至極ニ付、又々御願申上候處、本多伯耆守殿依御差圖ニ、遠島被仰付候事、
寶曆五亥年三月二日
一八丈島〈江〉流罪 〈淺草治恨屋町八兵衞店〉渡邊龍伯〈亥三十五歲〉
右之もの、同十三未年九月七日病死之旨、明和二丙年正月廿九日、御代官伊奈半左衞門殿ゟ總錄〈江〉申來候事、
柴田養玄法橋御咎の事
一京都麩屋町通二條上ル町ニ、柴田養玄と申盲人の針醫、住居致し候處、廿五ケ年以前法橋を申、夫ゟ段々繁昌致し、盲人の弟子を取込、撿挍座の弟子成り候得者、法橋迄ニハ致し候と進メ、座中末の者ニ無禮等有之候得共、無是非數年其通ニ差置申候、然ル處元仲間之ものに候と申もの有之候ニ付、段々吟味相懸候得者、前岩山撿挍の了悦と名付候ものに紛無之故、十老評議之上、養玄町御奉行支配之者ニ候間、丑正月廿八日、町御奉行小林伊豫守殿〈江〉書付を以御願申上候樣、段々御吟味有之候得共、岩山弟子にて無御座と申張濟兼候處、伊豫守殿證人共を多く被 召出、嚴敷御詮議有之故、漸去冬臼狀致し、誤り證文公儀〈江〉差上候、依之其節ゟ揚り屋ニ被召置、猶又御吟味有之、御威光を以法橋被召放、去月十五日、右了悦を座中〈江〉御引渡被下、尤座法之通如何樣共取計候樣被仰渡候ニ付、了悦請取歸り、職屋舗の長屋〈江〉押込、番を付置申候、去々年以來、色々公儀を僞り、段々御苦勞掛不屆ニより、重き仕置ニも可申付候得共、誤り候而座中〈江〉立歸り、座法相守可申由申候ニ付、評議之上用捨を以、座中の位牌所淸聚庵〈江〉遣し置、番を付置候而、夫ゟ永禁足ニ仕度旨、二條表へ伺候處、今朝御役所〈江〉職を被召させ參上之處、了悦義其方へ相渡し候上ハ、願之通禁足ニ申付候得と被仰渡候間、右了悦、三老岡村殿ものに相極、猶了悦願ニ依而、初身名了悦事了玄と改、淸聚庵へ遣し、永禁足申付候條、京都ゟ此段申來候間、在江戸仲間〈江〉觸出し申候事、
寶曆九卯年六月七日 古々總錄豐藤撿挍 役中

〔嬉遊笑覽〕

〈附錄〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0958 又同書〈○徂徠政談〉八撿挍の跡目御番に入らるゝ事謂れなき事なり、其始め東照宮御小性盲目に成たるを、撿挍に仰付られたるより事起るといふ、夫は元來侍なれば最のことなり、其已後御扶持を下されたる撿挍の跡までは濫吹なり、座頭は其弟子より金を取て、夫にて渡世する者なれば、畢竟乞食に似たる者なり、御扶持方下され、御側近く召仕はるれども、只坊主などの格なるべし、紫位を著する故五位なりと思ひて、不學なる御老中などの兩番へ入らるゝ事にもたる成べし、出家の紫衣をも官位とおもふは文盲なることなるべし、紫衣いづれも平僧にて、衣の色を御免ありといふ迄の事なり、撿挍の紫衣はまして夫とは間のあることなり、撿挍勾當といふ名も官位にあらず、高野の撿挍も平僧なり、勾當といふは、何にても事を取捌く事なり、勾當内侍といふも、内侍にて事を取捌く故の稱號なり、天明五年御觸書、盲僧は武家に限り、靑蓮院支配たるべく候、盲人は百姓町人に限り、總錄の支配に限り候事、

規約

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0959 法の次第
一總撿挍ハ、表に築地をつき、門作、廣間、破風かけ狐戸つりたる家に可住事、但借家ハ別段の事、
一總撿挍、末後に及、息未絶内に、守宮神、代々の日記什物共二老へ相渡し、兩職事禮儀をなし、時の二老三老まで可案内三老より以下の撿挍勾當ハ、聞付次第、新總撿挍へ樽納可一禮事、
一新二老三老へも、樽納可有二禮事、
一新總撿挍より傳奏への禮物、座中より出職ひらきハ總撿挍自分可操事、
一職事を置ハ、先品を改、万事依怙最負なく、万物押領私曲すべからざる起請文を書置べし、
一總撿挍へ久我殿ゟ案内ありて、平家御所望の時ハ、一方より壹人、八坂ゟ壹人、長柄にて出仕、裝束しきしやう、幷兩職事共に可出仕、時に仍勾當も出仕ス、裝束しきしやう、になひに乘、
一總撿挍者、山城之國中を不出、上樣ハ各別ナレバ伺公尤ト議定シテ、伊豆總撿挍の時より何方へも伺公有之事、
一退散の時、五老迄ハ總撿挍座を立送、撿挍成之刻も可同前事、
一總撿挍錢湯へ不入、但し留風呂ハ不苦事、
一總撿挍町家へ不出事
一總撿挍ヨリノ使者ハ、勾當四度たりと云とも、座を立可送事、
一新撿挍ノ時、總撿挍二老三老樽納事、
一セキ名三代に不越、名字はセカズ、但總撿挍ノ名ハ末代セクベシ、名人の名に准事、
一總撿挍障有レバ、職事名代ノ御禮申上事、
一遲參致バ、總撿挍二老三老迄呼懸可禮事、
一職開召物三季を過すべからず 一弟子の同宿其身の弟子成共、ほう〈○法也、當ハフ、〉する事あるべからず、坊主ゟほうすべし、坊主へ屆なくしてほうせば違亂有べし、幷同宿離れたる人成共、學文所坊主ゟ總撿挍へ斷なき以前に弟子にすべからざる事、
一總撿挍たる人、ころも計に而對面するを不改、但別當撿挍成者衣袴著て請取べし、寄合の出仕も同前、樽びらき其外大勢連座の時も、衣ばかりに而出座可有事、
一同宿堅類に總撿挍に不對面内の約束ハ不立事、
一卯の刻ゟ酉の刻迄法事すべし、酉の刻過而法事す、但撿挍ハ戌亥迄ほうす、
一名代に而法事の時、其使の官ゟ下官ほうせば請取べし、使より高官法せば違亂可有事、
一打掛の法事切紙に而遣の使者に袴著すべき事、但伊豆總撿挍の代より初ル、
一二季の塔召物たりといふとも、總撿挍障あらバ可延引事、
一二季の塔召物の曾所、總撿挍の宿所ゟ方拾丁外へ不出、總撿挍出仕の規式落緣迄輿に乘て、緣ゟおり、直に上座へ付、時を不移、職事高聲に一座へ案内す、其節頭人座を立、總撿挍の前へ出、謹而禮をす、其後二老ゟ次第々々末座まで、總撿挍へ一禮可有事、
一しきしやうの塔にハ、總撿挍ゟ末々撿挍まで、裝束素絹練袴帽子、勾當ハ色衣紗文に而出仕、紫ヲ不著、但帽子紗文ハ、十月朔日ゟ明年四月八日迄可限事、〈○中略〉
一總年行事慥成人を指て、勤さすべき事、
一年行事渡しに未進不有事
一名代にて役ハ可勤、名代の名代ハ不成事、
一他門の輩指南せば、其坊主の方より斷有て敎べし、坊主より理無に相對而、琵琶平家敎事をせず、八坂方、一方ハ有無に不拘不習敎事、 一師弟の中に公事有間敷事
一兄弟共に壹人の弟子に仕間敷事
一弟子同宿坊主有内に、同宿持間敷事、
一地神經讀盲目、當道に伏して官位進ん者、二度の中老引迄免すべし、大衆分より迄ハゆるすべからず、但地神をかけず、當道計を立バ高官をも可免事、
一坊主持の撿挍勾當、四度迄ハ我弟子たりといふ共、官途致バ、坊主の帳面に付べし、假にも我弟子と日記に不付事、
一坊主の借物ハ弟子可無事
一山城一國の外へ出バ可暇事
一緣日に物詣すべからず、但加茂稻荷祇園三社ハ、緣日不憚事、
一同宿堅にて首の作法にてすべし、そくたくにてかたむべからず、同宿離も總晴可已後事、
一官錢を取遣之刻、むかしより今迄のごとく金銀にてとらば、其日記よせ本より取べし、式事幷只人抔出て、私に米かなたこなたへの取あつかひすべからず、日數不定可六拾日
一米座之外の若に預而後有間敷事
一舞々猿樂等の跡ハ、道を捨て二代經ずしてはまじろうべからず、但ひこより免す、
一いやしき筋有者の藝仕たる跡、不改して當道の藝不仕事、
一いやしき筋有者住たる家屋敷、當道の方へ直に不買取、家主一人隔不苦、
一いやしき筋有之の子、養父母を取、他名に成出家しつる者には交合しても不苦事
一撿挍ハ四度の座頭迄下馬す、勾當ハ大衆分迄下馬す、其外下官の者ハ笠を取沓を拔、禮をなすべし、 一當道たる者、さすがも指べからず、
一京の口々へ番を付、登衆剝不取事、
一官の爲諸旦那へ勸進したる輩、官位すゝまで有間敷事、
一不惡口
一不狼藉
一在京したる撿挍勾當の家にて、自身賣買仕間敷事、
一科有て不座の輩に不交合
一他門の公事不取持
一他の弟子不取事
一伺官たりといふとも、長柄乘馬にて其門邊ハ一禮申可通、但長柄撿挍際權勾當以下乘間敷事、〈○下略〉

罰則

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0962 科行次第
一大科千疋、中科五百疋、小科三百疋也、勾座は撿挍の中科を大とし、小科を中とし、小科は百疋たるべき事、
一請暇落は、撿挍の小科三拾分たるべき事、他准之、
一於當道盜人官人の女を犯したる輩は裝束燒捨、或は不座、或は石こずみ、或はふし付、或は簀卷、或は首を可切事、
一舞廻猿樂等、賤筋目の者の家へ至、酒呑みたらんずる者は、裝束を拔せ可不座、但し自身力顯さば過失に落可宥事、右之者共の當道の家へ出入は不苦、當道よりは盃もさすべき事、
一舞々猿樂の賤き筋有者の藝したる跡不改して、藝したらん當道於之者、可同前事、 一舞々猿樂類の賤筋有者の家屋敷直に買取輩ハ、可同前事、
一二季の塔不勤輩、右可同前、但裝束ハ可用捨、假月經たりといふ共、臨時に塔を勤バ可歸座事、
一參加せざる輩、可同前事、
一他の弟子を乍知、紛かしとらん輩可同前事、
一同宿堅間に、そくたく出したる者、同そくたく取たる者、可同前事、
一米の取遣六十日の日數を違たらん輩ハ、官途の高下によらず大科に可落、過失に落たりといふとも、日數延引有べからず、延引あらバ可不座事、
一米の取遣法度背バ大科に落し、其上にて十二ケ月出仕可押留事、但右之法度職事として背バ扶持放すべし、
一座中の外へ米預たらん輩、可同前事、
一猿、食たらん輩、大科に可落事、
一召物職開等に法度背たる輩、可同前事、
一京の口々へ番を付登衆奪輩、可同前事、
一他門の公事取持たる輩、可同前事、
一万事依怙最負私したる輩、可同前事、但品により不座にも可申付也、
一在京の撿挍勾當の家にて、自身商買したる輩ハ可中科事、
一出所不慥琵琶賣買したる輩、可同前事、
一過口したる輩可中科、返答したる輩可小科事、
一慮外狼藉の輩ハ、時品にゟ可申付事、 一下馬の法度背バ、四度、中老ハ可小科、四度以下の者ハ一ケ月裝束可押事、但高官の人ハ請暇落ニ准ズ、
一塔召物、小寄合にも、猥の作法在之輩ハ座を立可申事、但上衆ハ請暇落ニ准ズ、
一塔召物に式事、火の改、身の淸め、不沙汰なる時ハ、其日の出仕可押事、
一弟子同宿我儘にほうし致バ、其學文所坊主ゟ可改事、但總撿挍無違亂請取、過失請暇ニ准ズ、一當道藝する時の作法破らバ、同宿たらバ一禮申べし、高官の人にハ裝束可拔事、
一官位の爲、諸旦那ゟ得勸進を出世せざる輩、可死科事、
此外之科は、時々評議次第可申付者也、
寬永十一年三月五日 職 小池撿挍凡一 二老 天野撿挍 祐一
三老 小寺撿挍温一 木村撿挍 良一
村田撿挍甚一 波多野撿挍孝一

座中取締役

〔評定代官〈盲人幷諸取計〉等之類〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0964 寬政三亥年七月廿三日、松平越中守殿御渡之由、寺社奉行松平右京亮殿より來ル、
寺社奉行〈江〉
藤植撿挍
塙 撿挍
右座中取締役可相勤旨、可申渡候、
兩撿挍〈江〉可相達旨申聞、總錄〈江〉可相渡事、
藤植撿挍
塙 撿挍 座中作法等、萬事引請取扱職十老たりとも、筋違候義は無遠慮助言いたし、万一不相用もの有之候ハヾ、早速可申出候、且又仕來之儀ニ而も不宜儀は相改、筋能成樣心を配り可申候、不正之儀有之もの共は、吟味之儀、夫々座法に申付、品ニ寄而は吟味の儀も申立候程相心得可申候、總而座頭共之儀、針治導引音曲等之本業を第一に心懸、一同風儀すなをに柤成、奢ケ間敷事ハ勿論、身分不相應之儀無之、堅座取締之儀、厚く心掛ケ、夫々〈江〉可談事、

〔評定代官〈盲人幷諸取計〉等之類〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 寬政三亥年七月廿三日
總錄幷一同〈幷〉申渡
近年座中のもの一同風儀猥に相成、針治音曲等之家業を忘れ、利欲のみに耽り、不法之訴訟を企、物毎我意之振廻多く、次第に放逸に成行候處、總錄を始め、頭取候もの共、改正之心付も無之、却而我意募ル樣も有之由相聞、不埓之至に候、逸々御吟味之上、急度も可仰付候得共、盲人の事ニ候間、御宥恕を以、御咎の御沙汰ニは不及候、以來末々迄風儀相改、銘々藝能相勵、不法不行跡ケ間敷儀等無之樣、厚く敎示可候、依之此度取締役之者、兩人被仰付候間、座中作法等万事懸相談取計、一同取締候樣可仕候、〈○又見天保集成絲綸錄八十

行事

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0965 年中議式
一正月四日、二老三老への禮大式事、二老へ小式事、三老へつかふる事、
一九日こき入總撿挍への禮、兩式事ともにつかふる、二老三老への禮なき也、小寄合にても節句節句有合バ、三老迄禮有之事、附此日不仕出吉書にも不出事、
一總撿挍公方樣〈江〉の御禮、御玄關迄乘物御免成來、定日ハ年による事、但進物ハ一束一卷、
一同十一日、吉書、此外寄合ハ總撿挍次第日定事、
一同廿九日、心月月望〈○望下文作黑〉志初一かたの總撿挍二老三老門派の頭時の年行事、幷新撿挍紫衣 に而出仕、總撿挍不參の時ハ可黑衣事、附兩式事共ニ出位、總撿挍たりといふ共、八坂方ハ不出仕事、
一二丹十六日、積塔都鄙の總撿挍勾當、末々の座頭迄出仕、一万卷の心經を讀誦、天下泰平國土安穩之卷數を認、禮物添、久我殿〈江〉納、其後頭人延喜聖代を語り、六流より五句の平家を勤む、戸島源照兩流ハ輪番に勤事、
一十七日、未明に東河原に出で、諸當道石塔積、是君恩を報じ奉らんがため也、
一三月廿四日、法華經一部書寫し奉、兩式事撿挍使にて加茂川へ流す、安德天皇の御爲と號、
一稻荷の御輿御出有て、八日目の丑日、總撿挍兩式事共御旅所へ參、此時上下の官にて十座宛の御神樂、田中の御前にて三座御神樂有事、
一六見十日、祇園御旅所參、上下の宮にて十座宛御神樂有之事、
一同十五日、聞天忌師堂妙親兩流の撿挍淸壽菴へ、年行事兩式事出仕、裝束心月月黑始に同じ、
一同十九日、凉出仕、已下積塔に同じ、
一同廿日、總撿挍へ僧を供養し、提婆品讀誦有之、但淸壽菴の住持たるべし、
一同日より七月廿日迄、江州今津堂にて、比え山より禮拜講之勤有、其時節高座に上り平家かたる事有、但比え山よりの案内次第たるべき事、此路具〈ニ〉定るとなり、
一同廿九日、心月月黑出仕以下月黑始に同じ、
一七月二日、八坂者八坂之撿挍幷兩式事出仕、總撿挍たりといふ共、一方ハ不出仕、此八坂者ハ向坂撿挍依懇望たるに、慶長十八癸丑年、伊豆總撿挍代より始なり、
一同八日、施餓鬼出仕之撿挍、心月月望に同じ、
一十一月八日、稻荷御火燒、 一同丹二番之申日、守宮神御火燒、
一加茂への田樂、是ハ四拾年已來始也、心外古キ年者したうの儀式開山所に勤む、記に不及、

〔松屋叢書〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 當道考
積塔〈シヤクタフ〉 毎年二月十六日、京都高倉綾小路の淸壽庵に、座頭會集して、十宮神を祭る式あり、類聚名物考佛敎部七に、或人云、此淸壽庵ハ座頭の菩薩寺なり、宗旨なし、一代にかはりて、その住寺の宗旨にまかせておなじからず云々、倭漢三才圖會七十二の末卷にも見ゆ、
凉〈スヾミ〉 毎年六月十九日、積塔と同じく、座頭の徒會合せり、遊興にはあらず、類聚名物考佛敎部七に、或人云、誹諧糸車の序に、すゞみを進と書たり、是は、納凉の心にはあらで、法會なれば、此時座頭の輩あつまりて、その宗の位階を昇進(ノボリスヽム)によりて進とはいふといへり、さも有べき事にや云云、倭漢三才圖會〈七十二の末〉山城佛閣東山建仁寺の條にも見ゆ、滑稽雜談の類考べし、

祭神

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0967 系圖之事
一加茂大明神を當道衆中の鎭守と仰て、古中今共におこたりなく信じ同詣す、加茂にも子細有けるにや、御神賞せ給ひし法とて、彼一在所の輩、高聲に經よまず、念佛申さず、勿論うたうたはず、時有、其折節も當道の語る平家はとがめなし、又始て社參當道火を赦す、手水ばかりにて加茂の火をめし、一日一夜ハ加茂より養ふ、二度めよりハ垢離取り身を淸め火を改め、加茂に一宿する事、近頃までありき、三四拾年已來、明神定め置給ひし座頭田荒て主領なしとて、近年ハ一宿終てはごくまざる事、
一守宮神あがめうやまひ信ずべし、僞にもかろしむべからず、二季の塔無懈怠勤事、
一守宮神御影前にて愼て無言すべし、幷諸禮内物言ふ間敷事、
一守宮神かゝうを給てより、銚子二度相濟までハ、急用有といふとも座を立べからず、二獻過て 以後自由とゝのふハ、左右の隣座へ屆斷罷立、本座へ囗直に退出すべし、急病ならば職事を以總、撿挍二老三老へ理り屆て可歸宅事、但三獻過バ自由とゝのふべし、
一守宮神かけまきする時節、職火を改、身を淸むべき事、
一守宮神御仕社なれバ、一代猿喰間敷事、
一守宮神御影前にて珠數持事、總撿挍二老三老に限る事、

〔當道要集〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0968 當道座中の祖神天夜の尊ハ、山城國宇治郡山科郷四宮村柳谷山に跡をとゞめおはします四宮是也、抑此尊ハ、人皇五拾四代仁明天皇第四の皇子、光孝天皇御同腹の御弟、人康親王の御靈をまつり奉らせ給ふ、〈○中略〉斯て、宮貞觀十四壬辰年五月五日、御年四十二歲にて薨ぜさせ給ふ、二月十七日といふ説もあるといへども、實に五月五日世を去り給ふと、三代實錄に見えたりと、四宮傳記にのする所なり、小野小町、此宮の御事をもてはなされて、いとおしみ深く思はれけるにや、
けふきゝしかなしの宮の山風に亦あふ坂も嵐とぞおもふ、といふいたみの和歌を奉られけるとかや、此歌ハ小野の家集に有と承り候ひき、夫より十三年を過て、元慶八甲辰のとし、式部卿時康の宮、陽成の御讓をうけさせ給ひて御卽位あり、小松光孝天皇とあがめ奉る、翌年改元ありて、年號仁和にあらたまる、右仁和元乙巳の年十一月十一日、人康親王の御靈に、天夜の尊と申す、神號を奉らせ給ひて、社を四宮と號す、則山科郷四宮村柳谷山にいはゝせ給ふなり、時に御母皇太后宮人康親王の御在世の御事思召忘れず、近國より參集して、此宮のかたはらに御宿直申せし瞽者共に、官を勅許ならば、天夜尊の御追善ともなり、限りなき御惠にて候ハんと奏せさせ給へバ、天皇ゑい感まし〳〵て、やがて仁和二丙午年二月十七日に、瞽者に撿挍勾當の二官を宣下せらる、是しかしながら、天夜尊の御神恩といひつべし、猶其以後時々折々御代、々御惠をいたゞ き、終に座頭、勾當、別當、撿挍、一四官を成下され、座頭より撿挍まで十六階のわかちをしられ、始半打掛より右撿挍まで七十二刻といふ事ハ、もとハ撿挍勾當の二官より起れり、然バ光孝天皇の御勅恩天夜尊の御神恩ハ、當道たらんもの朝暮忘れまじき事、これによりて諸國の當道毎年二月十六日山科へ參集して、四宮河原におり、石を拾ひ、琵琶石の上に塔を積、一萬卷の心經を讀誦して、勅恩神恩を報じ奉る、猶又四絃を彈き催馬樂を諷ふて、天長地久、天下泰平の祭をなす、是積塔の始なり、又御母皇太后宮御存命の内、此山科の御所へ度々行啓有、夏の頃、當道を召集て、社の御庭前にて琵琶を彈せ、催馬樂をうたハせて、凉の宴をもふけ給ふ、此御母后六月廿日にかくれさせ給ふ、故當道又ハ御恩をしたひ、毎度六月十九日に山科に集りて、琵琶を彈き催馬樂を諷ふて、御母后の御追善に備ふ、是今の世の凉の塔の始と云傳へたり、右御母后の御忌日六月廿日といひ傳へたれど、いつの年ともいふ事を知らず、亦四宮の社の南に、德林菴といふ小庵あり、此住僧則社の別當なり、依て此山の總名を柳谷山德林菴といへり、抑此庵開基人康親王の御末葉、四の宮右兵衞尉義成の子、南禪寺の歸雲院にして出家す、禪法修行成就して、南禪寺の住職を相勤、天文十九庚戌年、山科に退隱して、社の南に庵を立、德林庵と號せしより、此庵主則四宮を守勤す、其和尚をバ歸雲大和尚といへり、夫より代々四宮氏の子孫を以て弟子とす、一切他家へ讓らず、今以て四宮三家あり、民間に下るといへども、系圖正しきゆへ、御卽位大嘗會の節ハ、武士役に出勤す、人康親王御出家遂させ給ひて、法性禪師と申す事ハ、地藏菩薩の化身にてまします御故也、かるがゆへに、德林庵の南總門の兩脇に地藏堂有、此地藏ハ定朝の作也、御頭にハ小野の篁卿の作り給へる一寸八分地藏尊を納め奉ると、地藏傳記に見えたり、昔山科の四ツの辻にまし〳〵けるを、保元年中に西光法師御堂を建立して入れ奉る、則人康親王の御尊體を葬たりし靈石龕の上に、此堂を移すともいへり、依て地藏堂の後に御しるしの靈石龕現在す、是王城守護ましま す六地藏の一ケ所也、其後人皇七十七代の帝、後白河院忝も當道を深く御憐まし〳〵、て、施行米滯りなく、日本國中の盲目よく撫育せしむべき旨、久我家の先祖へ綸旨をなし下さる、然處後鳥羽院の御宇に、子細ありて當道施行米退轉す、然るに人皇八十六代の帝、四條院當道の粮なき事を御憐みありて、攝政家道公に仰て、諸道十一色の運上を當道へ下し賜るといふ事、當道要集に見えたり、亦此御宇に、性佛僧正とて山の撿挍あり、是ハ家道公の御末子慈鎭の御弟子也、此僧正壯年にして兩眼しひ盲人となれり、依て僧正を申替へ當道の撿挍に成、性佛撿挍、當道の業といたすべき道しめし給へと、日吉の社へ三七日參籠して祈誓有しかバ、平家の物語に節を付て唱すべしと御吿有り、時に性佛日吉の社の廻廓に、百日こもり居て一心をこらし、いづれの節を定申べきやと肝膽をくだきて祈り被申けれバ、或夜の御示現に、汝がなたねの二葉より學ぶ所の圓實頓語五時八敎の中におゐて、伽陀、唱名、引聲、和讃等、亦我朝におゐてハ、祝神樂、風俗、催馬樂、詩、歌、發聲の呂律を以てくどき、拾ひ、三重、初重、中音、中ゆり、さし聲、折聲、甲の聲むねの聲、一の聲、二の聲、歌、祝詞、讀物、右十五の調子を以て音をうつし、節をつくべしといふ御吿をかふむり、これによりて性佛さとりを開き、平家十二卷の句をわかちて、序破急を考て節をつけおはり、糸竹の内いづれを以て調子を取申べきと攝政家道公に吿て奏聞有しかバ、四絃を以て調子を取べしとの詔あり、其時の琵琶の博士西園寺家に勅定あつて、玄上石上流泉啄木の秘曲を性佛に傳させ給ふ、よりて性佛末世當道の業とする本を立、爰におゐて性佛日吉山王七社を勸請して、當道座中の守護神として十宮神とあがめ奉る、

〔鹽尻〕

〈九〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 盲者の傳、光孝天皇の王子兩夜の皇子明を失ひましませしが、時の衆盲を愍み、田を置て無賴の盲人を惠み給ひし、〈昔上加茂封境の地、其田地ありしと云、〉

〔安齋夜話〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0970 雨夜尊 盲目の元祖なりとて、盲目是を祭る、盲目の家の説に、雨夜尊は光孝天皇の 皇子、盲目にて、天下の旨人を憐み、恩澤を施されしゆゑ、是を元祖として祭るといへリ、按三代實錄は淸和陽成光孝三代の國史也、然るに光孝天皇の皇子に雨夜尊といふ人の事はみえず、皇胤紹運錄は代々の天皇の系圖にて、御兄弟皇子等委細に載たる書也、紹運錄にも雨夜尊はみえず、俗に彈(蟬)丸ハ延喜帝の皇子也といふハ誤りなれども、彈丸といひし人は在し人也、皇子といふは誤なり、雨夜尊は一向なき人なり、信ずべからず、若し昔貴家の兒に盲目人のりて、兩夜と名付る者ありて、剃髮して僧に准じ、撿挍の職名を申し受し事ありしゆゑ、夫を元祖とするならん歟、其後に至て、彼雨夜を貴ぶの餘り、且又己等が眉目を飾らんがため、光孝天皇の皇子也と僞てこしらへ、いひ傳へたるこどありしならん、盲目にて正史實錄を見ぬ身なれバ、相應の僞也、兩眼明かなる人だにも、不文なる人などは、書よむ事ならぬゆゑ、さま〴〵時代に違ひたる事をいひ出すことあり、況や盲目をや咎むべからず、彼の僞を偏に信ずる愚さは憐べきこと也、

職業

〔病聞長語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 瞽者は精專にして、よく音律(〇〇)に通ずるもの故に、古は大師とせりとあり、今の世に驗するにさもあるべし、然れども聖人の人を處置する手拔のなきこどを見つべし、周公旦の時は、按摩針の療治も、撿挍勾當もあるまじ、斯より外は使かたもなからん、

〔天保集成絲綸錄〕

〈八十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0971 文化十酉年三月
犬目付〈江〉
盲人共之儀、渡世之藝無之親許ニ罷在、又は武家〈江〉被抱候而他之稼不致ものは格別、藝業を以市中住居之分、幷武家ニ罷在候とも、他之稼致候類ハ撿挍之支配たるべき旨、安永五申年相觸候處、近來座中〈江〉不入盲人多く醫業賣卜(〇〇〇〇)等渡世にいたし候分は、座中之支配不請など心得違候も有之趣ニ相聞候、總而百姓町人之忰は不申、たとへ武家陪臣之子弟にても、市中住居之分、〈幷〉主人屋鋪内ニ罷在候共、琴(〇)、三味線(〇〇〇)、針治(〇〇)、導引(〇〇)等之藝業ニ携候ものは、撿挍之支配可請筈之事候間、其旨 相心得、尤向後年々人別改之節、町方は其所之町役人在方は名主組頭等心を附、撿挍支配師匠、之各前等相改、其段人別帳〈江〉も書記し置可申候、
右之通可相觸
酉三月

〔獨語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 目てら法師にも、瞽女にも箏ひくもの、今は百人に一人なり、風俗の衰へて賤しくなる、凡此の類なり、

支配

〔梅村載筆〕

〈天〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 あらゆる盲目の座頭を、久我にて司さどるなり、是によりて久我流の人は、座頭の事をきたなくいはぬなり、

〔半日閑話〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 同〈○安永五年〉十一月八日の頃座頭の官位心懸ずして、盲人と稱し、素人に藝術に食むもの、悉く撿挍の支配と成べき由御書付出る、

〔天明集成絲綸錄〕

〈五十一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0972 安永五申年十一月
三奉行〈江〉
都而百姓町人之忰盲人ニ候ハヾ、撿挍仲ケ間之弟子ニ成、夫々之渡世修行いたし、第一官位を心懸候筈之處、近來撿挍之弟子ニ不相成、琴、三味線等、針治、導引を渡世之種にいたし、或仕官之身と相成、脇差抔を帶候類之盲人多相成候趣ニ相聞候、以來百姓町人之忰之盲人、琴、三味線等、針治、導引を渡世ニいたし、又者、武家〈江〉被抱候而も、市中ニ住居いたし候者ハ勿論、主人之屋敷内ニ罷在候共、右家藝を以、他所をも相稼候者は、撿挍之支配たるべき事、
一武家陪臣の忰之盲人ニ而も、市中ニ住居いたし、琴、三味線等、針治、導引を以渡世いたし候分は、是又撿挍之支配たるべき事、
但武家出生之盲人他〈江〉被抱、市中〈江〉罷在候共、稽古場を拵、弟子集抔致まして若弟子集いたし 候ハヾ、主人之方相斷、撿挍之支配請べし、
一百姓町人之忰之盲人にても、琴、三味線等、針治、導引を以渡世不致、親之手前に罷在候而已之者、幷武家〈江〉被抱、主人之屋敷又は主人之在所〈江〉引越、他所之稼も不致分者可制外事、
右之通可相守旨、不洩樣可相觸候、
十一月

〔天保集成絲綸錄〕

〈八十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0973 天明八申年八月
寺社奉行〈江〉
天明五巳年被仰出候通、其節迄無支配ニ而罷有候盲僧は御配下に被加、且其以後御配下を相願候盲人は、武家陪臣忰之分計御配下ニ被加、縱地神經讀誦竈祓等之類、盲僧之致作業候而も、撿挍支配ニ付來候分は、御配下ニは不相成事候間、相廻され候家司共、先々ニおゐて彌紛敷取扱無之樣可致候、若紛敷儀於之は、急度御沙汰可之旨、家司共〈江〉、猶又嚴敷申聞置候樣、靑蓮院宮坊官〈江〉可相達候、
文化二丑年五月
撿挍之支配可請盲人之儀ニ付、去申〈○天明八年〉十一月御觸有之、且又撿挍之支配可請盲人共は、住所名前相認、本所一ツ目總錄方〈江〉相屆ケ可申旨、當酉四月御觸有之、其度々町中觸知らせ置候處、今以總錄方〈江〉屆不申出族多有之由、不埓之至ニ候、右御觸之趣、名主家主共より盲人共〈江〉銘々申聞候ハヾ、總錄方〈江〉相屆候儀、遲滯可致樣無之事ニ候、若等閑ニ致置、御觸承知不致族有之、右之通ニ候哉、前書之趣、名主共得と致承知、家主共より申聞、撿挍之支配可請盲人之分ハ、住所名前相記、早早總錄方〈江〉罷越候樣可致候、
但琴、三味線等、針治、導引を以渡世不致、親之手前ニ罷在、總錄之支配不請もの共も、名主支配 限相糺、承置候樣可致候、
右之通、安永六酉年五月申渡置候處、只今ニ而は總錄〈江〉屆出候もの無之由ニ候、以來年々人別改之節、町役人取調、總錄方〈江〉可屆出旨申渡候樣可致候、
丑五月

〔〈德川御代々〉評定所張紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974 式家抱盲人之儀ニ付問合
小笠原大炊頭
拙者扶持人之針醫盲人有之候、然ル處屋敷手狹ニ付、當時元飯田町に町宅致居候、右之盲人、拙者家來故、弟子取等も不致、勿論外療治等も不致、無據病用有之候得ば、先方〈江〉相越候、依之撿挍之支配、又ハ弟子ニ相成不申候而も不苦候哉、若屆等入候哉、左候ハヾ、拙者方より相屆候儀に候哉、盲人之方より、撿挍之方〈江〉、相屆候儀ニ有之候哉、此儀承度候、以上、
別紙、去申十月中、御書付寫之通ニ御座候間、他所之稼不致候ハヾ、撿挍之支配受候ニハ及申間敷候得共、御書面之内、無據病用有之候得バ、先方〈江〉相越候〈興〉有之、殊ニ市中ニ罷在候間、他之稼ニ當り可申哉ニ付、左候得バ、撿挍之支配請可申筋與存候、勿論總錄〈江〉屆之儀ハ、當人より相屆可申儀〈與〉存候、
酉四月 牧野大隅守
酉四月二十一日、於内座評議之處、此下札ニ而可然決、

〔盲人幷諸取計〕

〈盲人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0974剪紙啓上候、然者盲人共御仕置御咎等申渡方之儀ニ付、當二月、拙者在府中、廉書を以及御問合置候、然ル處、新潟町ニ撿挍勾當無之、同所ニ罷在候盲人共之儀者、本所一ツ目總錄支配ニ而、衆分以上之もの壹人、座元壹人者、座組頭役、總錄より申付受、諸事取締向等取計罷在候ニ付、盲人共御咎御仕置等申付候節令聞、又者身分引渡とも、右座元〈幷〉組頭役〈江〉申渡、振れ 候儀有之間敷哉、且前書座元〈幷〉座組頭役之もの、不埓不屆有之、御咎御仕置等申付候節者、最寄座元等、其支配領之地頭〈江〉懸合呼出、前伺樣取計可然筋ニ候哉、右其新潟寺町通五之町吉兵衞借家座頭德壽一、不屆之所業および候一件ニ付、差向見合度儀有之候間、御用多ニ者可之候得共、先般御問合書〈江〉も、一同御取調否、早々御挨拶有之候樣承り度存候、右之段可御意斯御座候、以上、
安政六年六月朔日 古山善一郎
池田播磨守殿
大澤豐後守殿
山口丹波守殿

待遇

〔續視聽草〕

〈二集十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0975 當道配當鑑
抑當道座中之祖師者、人王五十八代光孝天皇之御子天夜之尊と申奉る、〈○中略〉山城國山科之郷に御隱居まします、時に光孝天王より勅有之、何にても御望之事おはし奏聞有べ髫旨勅定有りしかば、宮之御答に、今の御徒然には、盲人ども召集め、御伽に被成度よし奏聞ありければ、是御尤之筋に被思召、近國之筋め正しき盲人ども召集め、御伽となし給ふ、その宮の御家領、大隅薩摩の内に數ケ所有り、毎年貢米を奉り、瞽者どもにわかち給ふ、猶予なからん後も此領を立おかれ、諸國の瞽者共に下し給ふ、然ルに後鳥羽院之御時に子細有之、施行米退轉す、其後四條之院之御時、當道盲目法師の粮なき事御あはれみ有之、公儀〈江〉被召置之諸道之運上を瞽者〈江〉賜之、是配當之始之事と申傳ふるなり、右運上と申者、先婚禮にきとう料、家督料、代替り料、結納料、婦人出産に産衣料、男子者勿論、女子にても、總領には産著料、次に深曾木料、帶とき料、髮置料、粗地賣買料、うぶ立産あき料、元服烏帽子料、官途料、家督冥加金、新宅ニ竈之料、藏建ニ新造之料、寺地には堂供養料、鐘供 養之料、社地には遷宮之料、扨又凶事には茶毘之運上、法事には僧供養料、是等は古上〈江〉之被召上所之に物成に候を、御憐愍ヲ以瞽者どもへ被下置、猶又武家方ゟ之憐愍に而、國讓り新地加增番入役替所替任官入部入國之祝儀を被下、置、猶又撿挍勾當へは、座中之官物を被下置、配分仕申候、然處應仁文明之頃より諸國大亂打續、中絶におよび候處、難有も東照宮樣天下御一統に被遊候節、伊豆總撿挍罷出、御禮申上候得而、座中古代之儀、一々申上候得者、古來之通、向後官物者撿挍勾當に被下置之旨被仰付、天下泰平御祝儀を千貫文頂戴被仰付、猶又御家門方より御譜代衆にも、右之御祝儀被差出樣之旨上意被成下、夫より如古來撿挍勾當は配分仕、四度以下之座頭どもは御吉凶之配當、御代之御上(カミ)樣ゟ被下置、尤御大名御旗下衆御格式御相應に被下、町人百姓迄吉凶之配當差出候故、撿挍勾當座元迄、渡世を安く仕候、御上之御尊思と、座中一統朝暮難有仕合奉存候、
〈倉村配當頭〉松之都

〔鹽尻〕

〈十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0976 文盲者の説に、昔朝家盲人を愍み給ひて、上加茂封境の中に田疇を置て、歸する所のなき盲人を扶持し給ひしと也、又日向國に、官稻ありて、衆盲を養ひ給ふ食に充給ひしと云も、是又悲田療病院の類なるべし、昔天王寺の向ケ院に、攝津河内兩州のに官稻三千束を費用に賜りし事、古記に見へ侍る、然れ共性佛已來、如一、覺一等が如きは、又別にや、殊に覺一は明石撿挍とも稱し、尊氏將軍の族なりし、是より盲人世に威有と云、況や城了が族者聞雨の歌、
夜の雨の窻をうつにもくらければ心はもろき物にぞありける、天廳に達し、雨夜と勅號を下されし、〈後小松院御賜也〉とかや、盲人の事書たるものに、光孝天皇の皇子に明を失ひ給ひしありし、雨夜の御子と稱せしと云々、帝記を考ふるに、光孝三十六子にして、雨夜といふ皇子なし、思ふに雨夜の城了が事を傳へ誤れるにや、光孝帝を小松の帝と稱す、城了に雨夜の號を被下しは、後小松帝 也、故に事を誤り記し作りかくいふにや、例せば、蟬丸を延喜第四の御子と造言する類にや、

〔檢挍古事實記〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 當道座中之事
一光孝天皇御宇、依御憐愍之子細、座中〈江〉三ケ國〈大隅、薩摩、日向、〉之内雖領分、以來被停止畢、依之爲其替古今無相逕撿挍職、彼座中之祖號雨夜命稱來之云々、
一後小松院御時聽紫衣云々、依之爲撿挍者連綿著之事、
一當家彼座中管領之事、依輕異子細、後白河院御宇以來、帶綸旨古今相違此旨事、
右申傳條々、依小田切總撿挍〈旅一〉所望、座中〈江〉記與者也、
久我大納言(〇〇〇〇〇)
村田 撿挍〈甚一〉
波多野撿挍〈孝一〉
前々有之判形少き故、本紙之通寫置、
久我大納言
明曆二年十二月一日

〔瞽幻書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0977 一人皇百八代後陽成院の御宇、慶長癸卯年、源家康公天下一統に納させ給ふ節、時の座上伊豆總撿挍恐悦に罷出、先格の通、御禮申上給ぬ、其時東照宮、當道古代之事御尋あらせらるゝに依て、伊豆祿一、古例の趣、一々申上しに、東照宮被聞召わけ、當道の格式、古例の通無相違、撿挍勾當には、坐中の官物永代に被下置、坐頭以下の者どもにて、前々の如く、諸道の道の運上を被下置旨、被仰付天下太平の御祝義千貫文被下置、頂戴被仰付、猶御家門方諸大名諸旗本御家人寺社百姓町人に至迄、諸道の運上、以來無相違當道へ可差出旨、一統に被仰出、其上、當道の式目御改有之、自今、右之條々堅可相守旨、伊豆錄一被仰付御請申上、此時より別而、當道の法式諸法度の次第 正しく定りぬ、依之、御代々將軍宣下、又繼撿挍繼目御禮申上る事先例なり、〈○下略〉

紫衣免許

〔南嶺子〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 應仁の亂世、吉水安養寺やけたり、〈今圓山と號す〉その比源照といへる盲人、五條坊門烏丸東へ入處より、東山へうつして建立す、源照、後小松院め御めぐみを蒙る事ふかく、初て紫衣を賜りぬ、是より盲人も紫衣を著る事と成にき、又舊記に建業福市とあり、いづれの時よりか、撿挍と書を勾當といふ名目をもそへ來りて、むかしとは殊なるか、

〔世間母親容氣〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 按摩車廻りのよき万菊婆
眼のなき人も撿挍勾當になれば、官銀の割にて十三人口緩々と暮し、家藏を構へ、貸金の利を樂しみ、其子は歷々の町人と成て、兩眼は明ながら、使果して仕まふ類多し、眼のある出家、然も瞳玉を引くり返して、學問しても誰殿の養子と云はれねば、僧正には任ぜず、僧正に任ぜざれば、紫衣は猥りに著られぬ事なるに、後小松院より、玄正といへる盲人に御免ありしよりこの方、總撿挍の、紫衣は珍らしからぬ事に成たり、實にも世間は目明千人盲目千人にて、何が産業になるまじきとは云はれず、〈○下略〉

盲人例

〔唐大和上東征傳〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 和上〈○鑑眞〉執普照師手、悲泣而曰、爲戒律、發願過海、遂不日本國、本願不遂、於是分手、感念無喩、時和上頻經炎熱、眼光暗昧、爰有胡人、言能治一レ目、遂加療治、眼遂失明、

〔今昔物語〕

〈二十四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0978 源博雅朝臣行會坂盲許語第廿三
今昔、源博雅朝臣ト云人有ケリ、延喜ノ御子ノ兵部卿ノ親王〈○克明〉ト申人ノ子也、万ノ事止事无カリケル、中ニモ管絃ノ道ニナム極タリケル、琵琶ヲモ微妙ニ彈ケリ、笛ヲモ艶ス吹ケリ、此人村上ノ御時ニ ノ殿上人ニテ有ケル、其時ニ會坂ノ關ニ一人ノ盲、庵ヲ造テ住ケリ、名ヲバ蟬丸トゾト云ケル、此レハ敦實ト申ケル式部卿ノ宮ノ雜色ニテナム有ケル、其ノ宮ハ宇多法皇ノ御子ニテ、管絃ノ道ニ極リケル人也、年來琵琶ヲ彈給ケルヲ常ニ聞テ、蟬丸琵琶ヲナム微妙ニ彈ク、而 ル間此博雅此道ヲ强ニ好テ求ケルニ、彼ノ會坂ノ關ノ盲琵琶ノ上手ナル由ヲ聞テ、彼ノ琵琶ヲ極テ聞ヌ欲ク思ケレドモ、盲ノ家異樣ナレバ不行シテ、人ヲ以テ内々ニ蟬丸ニ云セケル樣、何ト不思戀所ニハ住ゾ、京ニ來テモ住カシト、盲此ヲ聞テ其答ヘヲバ不爲シテ云ク、
世中ハトテモカクテモスゴシテムミヤモワラヤモハテシナケレバ、ト使返テ此由ヲ語ケレバ、博雅此ヲ聞テ極ク心https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m00190.gif ク思エテ、心ニ思フ樣、我レ强ニ此道ヲ好ムニ依テ、必此盲ニ會ハムト思フ心深ク、其ニ盲命有ラム事モ計難シ、亦我モ命ヲ不知ラ、琵琶ニ流泉啄木ト云曲有リ、此ハ世ニ絶スベキ事也、只此構ノミコソ此ヲ知タルナレ、構テ此ガ彈ヲ聞カムト思テ、夜彼ノ會坂ノ關ニ行ニケリ、然レドモ蟬丸其ノ曲ヲ彈ク事无カリケレバ、其後三年ノ間、夜々會坂ノ盲ガ庵ノ邊ニ行テ、其曲ヲ今ヤ彈ク今ヤ彈クト、竊ニ立聞ケレドモ、更ニ不彈リケルニ、三年ト云八月ノ十五日ノ夜、月少上陰テ首少シ打吹タリケルニ、博雅哀レ今夜ハ興有ガ、會坂盲今夜コソ流泉啄木ハ彈ラメト思テ、會坂ニ行テ立聞ケルニ、盲琵琶ヲ搔鳴シテ物哀ニ思ヘル氣色也、博雅此ヲ極テ喜ク思テ聞ク程ニ、盲獨心ヲ遣テ詠ジテ云ク、
アフサカノセキノアラシノハゲシキニシヒテゾイタルヨヲスゴストテ、トテ琵琶ヲ鳴スニ、博雅コレヲ聞テ涙ヲ流シテ哀レト思フ事无限シ、盲獨言ニ云ク、哀レ興アル夜カナ、若シ我レニ非ズ 者ヤ、世ニ有ラム、今夜心得タラム人ノ來カシ物語セムト云ヲ、博雅聞テ音ヲ出シテ、王城ニ有ル博雅ト云者コソ、此ニ來タレト云ケレバ、盲ノ云ク、此申スハ誰ニカ御座スト、博雅ノ云ク、我ハ然々ノ人也、强ニ此道ヲ好ムニ依テ、此ノ三年此庵ノ邊ニ來ツルニ、幸ニ今夜汝ニ會ヌ、盲此ヲ聞テ喜ブ、其時ニ博雅モ喜ビ乍、庵、ノ内ニ入テ、互ニ物語ナドシテ、博雅流泉啄木ノ手ヲ聞カムト云フ、盲故宮ハ此ナム彈給ヒシトテ、件ノ手ヲ、博雅ニ令傳テケル、博雅琵琶ヲ不具リケレバ、只口傳ヲ以テ此ヲ習テ返々喜ケリ、曉ニ返ニケリ、此ヲ思フニ、諸ノ道ハ只如此可好キ也、其レニ 近代ハ實ニ不然、然レバ末代ニハ諸道ニ達者ハ少キ也、實ニ此レ哀ナル事也カシ、蟬丸賤キ者也ト云ヘドモ、年來宮ノ蟬給ヒケル琵琶ヲ聞キ、此極タル上手ニテ有ケル也、其ガ盲ニ成ニケレバ、會坂ニハ居タル也ケリ、其ヨリ後盲琵琶ハ世ニ始ル也トナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔續世繼〕

〈六/志賀のみそぎ〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 二のみこ〈○鳥羽子通仁〉は、御めくらくなり給て、おさなくてかくれ給にき、

〔今物語〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 八幡の袈裟御子が、さいはいのゝち、打つゞき人に思はれて、大菩薩の御事をしりまいらせざりければ、若宮の御たゝりにて、ひとり持たりけるむすめ、大事にやみて、目のつぶれたりけるを、こと祈りをせず、むすめを若宮の御前にぐして參りて、ひざのうへに横ざまにかきふせて、おぐ山にしをるしをりは誰がため身をかきわけてうめる子のため、といふ歌を、神歌になくなくあまたゝびうたひたりければ、頓て御前にて、やまひやみ目もさは〳〵とあきにけり、

〔發心集〕

〈八〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0980 盲者關東下向の事
あづまのかた修行し侍りし時、さやの中山のふもと、ことのさきと申やしろのまへに、六十ばかりなるびわ法師の小ほうしひとりぐしたるが、過ゆくをよびとゞめて、かれいひくはせて、いづくへゆくぞ、よのつねの人だにはるかなる旅、思ひたつ事は、たと〳〵しきを、いと心ぐるしくこそととぶらへば、うなだれて鎌倉のかたへまかり侍るなり、人はたのむところありて、うたへをも申さん、もしは御かへりみをかうぶらんなど思ひてこそ思ひたつ事なれど、をのれは何事をかは申さん、ことわりかうふるべきうれへももち侍らず、さらに期する事なし、たヾ世のすぎがたさに、もし一日もすごすばかりの事もやかまへらるゝとて、あられぬありさまにてまかれば、道のあひだのくるしみ、ゆきつきてやどるほどのわづらひたゞおぼしやれといふ、いかに事にふれて苦しからんと、いとをしき中にも、或智者のごくらくへまうでん事を申とて、無智の者のむまれん事は、たとへばめしひのみちをゆかむがごとし、じやうげうの心をしれる人は、目ある 人のまうでんがごとくなりと申侍りし事を、きと思ひ出て、わが身のうへのやうにおぼゆれば、ねんごうにとぶらふ、いと不便の事かな、さてかなふまじくやおぼゆるといふ、まことに思ひたつもおほけなき事なれど、何事も心ざしによるわざなれば、などかははげまし侍らざらん、よのつねの人の乘馬下人らうれうごとき、ゆたかにもちたるも、その心ざしなきは、いまだあふみの國をだに見ぬかずもしらず、かくたづ〳〵しくやすからぬ身なれども、思ひたちぬれば、さすがにまからるゝ也、となんかたり侍りし、

〔陰德太平記〕

〈三十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0981 山名誠通戰死附武田高信謀反幷因州布施鳥取諸所合戰之事、
高信モ彌邪謀不怠シテ、終ニハ布施ヲ攻亡サント欲スル志有ケル故、先布施ニ爲人質置タリシ、十歲ノ嫡男ヲ盜取ン事ヲ思ヒ、土手一ト云賢々敷盲人ノ有ケルニ、此事ヲ賴ケレバ、此座頭應諾シテ、ヤガテ弟子一人召連、布施へ越テ行ヲ廻シ、彼子ヲ小葛籠ニ納テ盜去ニケリ、

〔陰德太平記〕

〈五十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0981 輝元隆景備中國發向附諸處合戰事
新四郎〈○手〉ガ兄ニ友梅ト云ル盲人ノ有ケルガ、杖ヲツキ走リ出、手盲目友梅ト云者也、早頸打テト呼リケレバ、木原次郎兵衞馳寄テ討テケリ、郎等一人付從ケルガ、坂下彦六郎ト名乗、腹搔切テ失ニケリ、木原ハ友梅流石手ノ庶流ナレバ、事ノ樣艶カリケリト思、死骸ヲ見レバ、杖ニハアラデ左禮(ザレ)タル竹ノ杖ニ、短册ヲ一枚付タリケリ、
暗キヨリ暗キ道ニモ迷ハジナ心ノ月ノ曇リナケレバ、トアルヲ見テモ、眞ニ本始一體ノ眞如ノ月光不暗心根ナレバ、此冗亂ノ半ニモ、カク思ツヾケルコソアハレナレト、人皆感涙ヲ催セリ、

〔慶長見聞集〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0981 盲目遠路をしる事
見しは今、江戸町に下岡才兵衞と云人、京へのぼる始ての道なれば、よきつれも哉と云所に、座頭聞て、われ此度官の僞、上洛仕るけちえんに、めくらを同道有てたべかしといふ、才兵衞聞て、道し れるつれをこそ願ひつれ、めくらは却て道のさまたげと思へ共、けちえんなりとて同道し、品川に付たり、然に河崎への駄賃錢出入に付て、才兵衞馬主と問答し斷やむ事なし、座頭聞て、あら專なき問答哉、河崎迄の駄賃定りて候程に、われは代物を渡し馬を取たり、馬方申ごとく、錢を渡し道を急ぎ給へといふ、才兵衞聞て、座頭めくらなれば、京迄の遠路駄賃のさし引をば、われに聞ずしてわたす事不屆者なりとしかる、座頭聞て、われはじめて、の上洛なれば、江戸より京迄の道のつもり、馬次の在所を人によく尋覺えたり、其上一里に付て代物十六文づゝの定りにてかくれなし、御存知なくば語りて聞せ申さん、江戸より二里參りて品川、是より二里半行て河崎、〈二里半〉神奈川、〈一里半〉ほどがや、〈二里〉戸塚、〈二里〉藤澤、〈三里〉平塚、〈一里〉大磯、〈四里〉小田原、〈四里〉箱根、〈四里〉三島〈一里半〉三枚橋、〈二里〉原、〈二里〉吉原、〈三里〉蒲原、〈一里〉由井、〈二里〉淸見、〈一里〉江尻、〈三里〉府中、〈一里〉鞠子、〈二里〉岡部、〈二里〉藤杖、〈二里〉島田、〈一里〉金谷、〈二里〉新坂、〈二里〉掛河、〈二里半〉袋井、〈一里半〉見付、〈三里〉濱松、〈三里〉前坂、〈一里半〉荒井、〈一里〉白須賀、〈二里〉二河、〈二里〉吉田、〈二里〉御油、〈一里〉赤坂、〈二里〉富士川、〈二里〉岡崎、〈三里〉池鯉鮒、〈三里〉鳴海、〈一里半〉宮、〈七里舟〉桑名、〈三里〉四日市、〈三里〉石藥師、〈一里半〉庄野、〈二里〉龜山、〈一里半〉關地藏、〈二里〉坂下、〈二里〉土山、〈三里〉水口、〈三里〉石部、〈三里〉草津、〈四里〉大津、〈三里〉京迄、都合百二十四里なりと云、才兵衞聞て、盲目きどくに道を覺えたるといへば、座頭聞て、此上は京迄駄賃の指引をば、めくらに御まかせ候得とて、遠路駄賃の問答もなく、目有人が目くらに敎られ、江戸より京迄のぼり付たり、

〔先哲叢談〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0982 二山義長、字伯養、
瞽者佐佐木玄信者、善記諸家系譜、而至其不一レ得詳、則牽合附會以欺世、一日過伯養、談及譜、伯養問曰、荆妻垂水氏也、傳言昔者垂水某者、仕伊勢國司、旣失其名、且未何世人、則其跡絶不考、豈不遺憾哉、玄信曰、此垂水廣信也、廣信稱河内守、伊勢垂水人、初仕其國司、後事後醍醐天皇、諫疏不聽而去、廣信好學、始奉伊洛説、所著有嘉文亂記六十五卷、嘗勸藤藤房朱子集註、事載長濟草、今爲子 誦讀焉、乃誦者歷歷可聽、伯養驚且喜曰、吾子記憶誠出天性、非此余何以得之、請再誦、余將錄之、玄信又復誦、伯養隨而筆之、以爲明證、當是時、京師藤井懶齋撰國朝諫諍錄、伯養以懶齋久要故、致之懶齋以載諫諍錄、迨後永井貞宗本朝通紀、寺島良安倭漢三才圖繪、載垂水廣信此邦始讀朱注、蓋皆本諫諍錄也、所而謂垂水廣信古今無其人、嘉文亂記、及長濟草、亦未其書、是本出玄信一時妄語、而伯養信之、海内遂唱犬吠之説、此日夏繁高兵家茶話所辨也、

〔療治之大概集〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 三部書序〈○中略〉
鍼灸ノ法世ニ行ハルヽ旣ニ尚シ、素靈、甲乙、千金、外臺降リテ銅人鍼灸圖、明堂鋤灸經、徐氏鍼灸經、資生經、神灸聚英神應經、十四經ノ類、其書枚擧スベカラズ、喩バ書籍ハ規矩ナリ、術ハ運用ナリ、精斊竭慮ノ人ニ非ザレバ、精妙ニ詣タル難シ、古昔ハ姑ク置ク、延寶ノ際、杉山和一ト云フモノアリ、卓絶奇偉ノ人ナリ、〈勢洲津ノ藩士、父ヲ杉山權右衞門ト云、〉幼ニシテ江戸ニ來リ、鍼科ヲ山瀨琢一ニ學ブ、琢一ハ其術ヲ京師ノ入江良明ニ學ブ、良明ハ其父賴明ニ受タリ、賴明の豐臣秀吉ノ醫官岡田道保ニ受ク、〈○中略〉德川嚴有公、聞テ大城ニ召ス、嗣テ常憲公ノ病ニ侍ス、功効アリ、一日公欲スル所ヲ問フ、對曰ク、臣世ニ於テ希倖スル所ナシ、只願クハ一目ヲ欲スルノミ、公聞テ之ヲ憐ミ、本所一ツ目ヲ賜ヒ、祿五百石ヲ給ス、後增シテ三百石ヲ賜フ、特命ヲ以テ關東總撿挍トナル、肄館ヲ建テ、鍼治講習所ト云フ、諸方ヨリ門人來聚リ、別ニ一派ヲ開ク、世ニ之ヲ杉山流ト云フ、著述三部アリ、一ヲ大概集ト曰フ、〈鍼ノ刺術病論ヲ説ク〉二ヲ三要集ト曰フ、〈鍼ノ補瀉十四經ノ理〉三ヲ節要集ト曰フ、〈先天後天脈論〉是書畢生ノ精力ヲ以テ鍼法ノ秘蘊ヲ發揮ス、

〔日本敎育史資料〕

〈十九/和學所〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0983 温故堂塙先生傳 門人中山信名平四撰
温故堂塙大人、名は保己一、氏は荻野といふ、塙は其師須賀一撿挍の本性を冒されし也、其先小野朝臣篁卿より出て、世々武藏國兒玉郡保木野村に家居す、初め篁卿七世の孫孝泰〈一説に隆泰〉と聞へ し人、武藏守になりて、この國に下りしが、その頃のならひとて、任はてゝ後も、なほこゝにとゞまりすみ、多くの庄園をたくはへもたれしかば、その子義孝〈一説に義隆〉も是に次て多摩郡横山里に家造し、遂に國人となれりしが、家も富りしまゝに、武藏權介に請しなりて、五位のくらゐにさへあづかりしゆゑに、野大夫とも又横山大夫ともきこへし也、この人の子十人有中に、太郎資孝〈一説に資隆〉は横山黨の始祖なり、〈○中略〉この人加美郡藤木戸村の父老齋藤理左衞門〈これは公より祿給りて賞せられき、孝義錄に傳をのせらる、これ大人の叔父なり、〉といふものゝ女を妻として、延享三年丙寅大人を生めり、幼名を寅之助といふ、五歲の年より肝を病て、七歲の春俄に盲目となる、或人大人の父母に吿て云く、寅之助が歲星其身にかなはず、むべ歲星の次を轉しなば能かるべしと、これによりて生年二歲を減じ、戊辰の生に准へ、辰之助と攻む、又同郡池田村なる驗者正覺房が子に擬らへて、一名を多門房と名づけらる、幼少より木草の花を好みて、いまだ盲目ならざりし時、野邊に出て、すみれ數種を求めて、前裁に植られしことなどありき、ものみずなりて後も、何にまれ花さく木草を數多植置て、人の見悦ことあれば、みづからも並ならずたのしみめづること常の業なり、されば人もし物の色めをかたらんする時に、花といへばられき、十二といふ年〈寶曆七年丁丑〉母をうしなひて、うれへ忍ぶこと尋常ならず、これより漸東都にいでゝ業をなすべき心起されしが、、或人の語るをきかれしに、當時某とかやいふもの、太平記一部を暗誦し、東都にありて、諸家にいでいり、名を顯はすときゝて、大人心におもはく、太平記は全部四十卷に過ず、これをしるをもて名を顯し、妻子を養ふことを得がたかるべきことかは、こゝに至りて、東都にいづるの志いと切なり、といふとしの春〈寶曆十年庚辰三月〉父に請て絹商〈此絹商は江戸へ出て、與力の株を買て後遂に町奉行まで經上りて、根岸肥前守といひし人なり、さて此の連立て江戸までくる途中にて、大人と互に名の擧くらべせんと約されしとぞ、〉と共に東都にいたり、雨富撿挍須賀一が門人となり、彼家に寄宿し、名を干彌と改む、〈須賀一撿挍、本氏は塙といふ、常陸國茨城郡市原村の人なり、雨富といふは盲人一座のならひに在名といふものにて、別〉 〈稱なり、本氏をそのまゝに在名に用ゆる人もあり、ことに設て稱ふるものもあり、雨富の家は四谷の西念寺横町にあり、〉盲人一座のならはしにて、この座につらなるものは、必らず琵琶、箏、三絃などいふものを習らひ得て、音曲の事を業とし、右針治導引など業ぐさとなすことなるを、大人は文讀まんと思ふ事始よりの根ざしなれば、心そこにあらず、されど師のいさめやむことなければ、其筋のことども習ふさまなれど、ともすればひまをうかゞひ、文讀ことのみを旨とす、翌年萩原宗固〈百花庵と稱す〉が門弟となり、物語やうの文どもをよみて、歌よむ業をまなばる、其比川島貴林〈字は源八郎〉といふ人あり、山崎の流れを汲みて、神道の事にこゝろをいたせし人なり、大人これにつきて小學、近思錄などよりはじめて、異朝の書籍をならふ、節には神道の敎をも受たり、又雨富が家の隣は、松平乘尹〈織部正〉の家なりけるが、この人も文よむことを好み、大人の學才の人にことなるをめでゝ、いと懇にして、劇務のひまに物よみをしへければ、大人もいとうれしきことに思ひ、其家に行通ひて契約をたて、あしたの寅の刻より卯の刻にいたりて、一時がほどは必らず文よみならはれけり、乘尹は公の務いとまなき人なれば、一日をへだてつゝもかくはせられけり、一日乘尹同僚に語りけらく、彼瞽人が人となりを見るに、度量大に常人に越たり、彼をして明あきたらんには、かへりて法令をもおかし、其身をもそこなひなん、明なきこそ幸にはありけめ、後に必らず業をなしぬべきものなり、かく思ふが故に、常に懇にはすなりとぞいひける、山岡妙阿は、その頃博學なるをもて名をあらはす、大人又この人によりて律令をよまれき、難經素問などいふ醫書をば、品川東禪寺の僧孝首座に習ふ十八といふ年寶曆〈十三年癸未〉に一座の衆分となり、名を保木野一といふ、〈凡盲人一坐の長官を撿挍とし、次官を勾當といふ、其つぎ平人の坐上たるものといふ在名ことを得、○原註曰、コノ間草本細書數百字蠹食シテ詳ナラズ、〉千日の一日に百卷をよまむ、この力によりて、衆分になることを得むと、果してにして是を得たり、こゝにいたりて、いよ〳〵つとめて物よむことをむねとす、もとより記臆すぐれしかば、やうやくその名をしるものあるに至る、はじめ大人雨 富が室にいりし時、そのをしへにまかせ、三弦を習けるに、今日ならひ得しものは、一夜が程にわすれて、明日はしらずなりけり、すべて三年が間に、一曲をも全くは覺へ得ざるのみか、調子さへ合ざりければ、雨富もせんすべなくて、針治の術を旨と習はせけるに、醫書よむ方は人にすぐれて、二度よますれば、其次の度には一文字もたがへず讀ほどなりけれど、術にかくれば、人よりは遙に劣れり、こは文讀かたにひかるればなるべし、雨富餘りに覺えて、せめいひけるは、凡人の郷里をさりて、他邦に赴くことは、なす事あらんとての意なり、汝父母の家をいでて、こゝに來るもしかなるべし、されども産業となすべきこと、一つも習ひ得るものなし、且朝夕汝がなすところは、露ばかりも我心にかなはず、さはあれども、門人の祿となる術ををしふるは師の職分なり、汝がこのまざることをなせといふにあらず、賊と博とを除きてのほかは、何にまれ心にかなひたらむものをつとむべし、これよりして三とせが間汝を養ふべし、三年へてなすことなくば、速に郷里に送りやるべしといふ、大人肝にしるして、晝夜となぐ讀書をつとめしかば、終には名をあらはすまでになりにたり、されば大人意を得て後、常にいへらく、我素より讀書をこのまざるにあらず、然れども業をなし名を顯すものは、皆師のたまもの也、たゞうらむる處は、師の在世のほどかばかりの幸をきかしむる事なきのみ也と、大人もと病多し、雨富よくやしなふになほいえず、一日雨富大人に吿て曰く、なす事あらんと思ふもの病多ければ果すこと能はず、病ある人旅に赴く時はまゝいゆる事あり、思ふに汝が病も又しかる事あらん、我金五兩をあたふべし、我に代りて伊勢の神宮に詣でよ、雨ふらん日はゆくことなかれ、必らずあしき氣をうけぬべし、費餘りあらば、なほ他方に行き、盡るに從ひて歸り來るべしといふ、大人そのをしへを受け、廿一といふとし〈明和三年丙戊〉の春、父宇兵衞と共に海道をのぼり、まづ伊勢にまうでゝ兩宮を拜し、師より始てさるべき人の平なちん事をねんごろにのべて、朝熊二見などめぐりありきて、その夜旅宿に歸 りけるが、宇兵衞は大人のぬぎおける脚半を見るに、その裏の赤き事すはうもて染たる布の如し、あやしみながら水もてそゝぎ見るに、水さへいと赤くなりたり、いぶかしとおもへど、大人の物思はむこともやとそこにては語らず、日をへてかう〳〵有しと言ければ、大人もいかなる祥ならんと思はれしが、東都に歸りて後にきけば、その日は雨富の師なりし雨谷といひける撿挍のことに當りて、總錄のつかさとられし日にあたれりとか、神も大人の誠をいたしてのみけるにめでゝ、かゝる神異をも示されし成べし、

〔古學小傳〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 本居宣長〈○中略〉
春庭ハ宣長ノ男ナリ、後ノ鈴屋ト號シ、建藏ト稱シ、後健亭ト改ム、語學ニ精シク、詠歌ニ長ゼリ、活語ノコトヲ啓發シテ、宣長ノ未ダイハレザルコトヲ述テ、後學ヲ益セリ、中年瞽者トナリケレド、モ、强記ニシテ、學ノ道ニテモ、門人コトニ多シ、文政十一年戊子十一月七日、身マカリヌ、年六十六、

〔塵塚談〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 當戌年〈○文化十一年〉十月より、淺草觀音境内奧山え、頓智なぞと云看板をかけ、盲坊主廿一二歲と見ゆるもの出たり、見物一人に付錢十六文宛にて入る、見物人よりなぞをかけるに、更にさし支る事なし、若解けざる時は、掛し人へ景物に、蛇の目の傘などをくれる事也、故に見物の人、景物を取らんと、なぞをかける人多し、たま〳〵解ざるなぞ出る事も有よし、此者の才覺頓智なる事を感心驚ざるものはなし、奇なる盲者にて、奧州二本松の産なるよし、撿挍保己一が類の奇人と云べし、

〔窻の須佐美〕

〈三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0987 紀伊の國の足輕に、田含に住る許に、出世のため、京上りする坐頭(〇〇)來りて、日の暮かかり、宿かるべき所まで行がたく候間、ひそかに宿かし給はれと、わりなく賴みけるほどに、一夜留てけり、明けて後暇乞して、立出し跡にて、あるじの妻、座頭の寐たりし跡に行て見れば、こがねを二三百ばかり袋に入て指置けり、其儘夫に見せ、是を落したらんは、出世の望絶ん計りに失ひ ぬらんに、少も早く返しあたへられよかしと云ければ、夫も聞もあへず、足をせいにして走り行しが、二三里も過て、谷川のさかしき邊に、法師の觀念してをるありければ、さてとぞと思ひ、聲をはかりに呼かけて、漸に往つき、御坊は何とて左樣の體にやと問ければ、官金を路次にて落し、此上は生涯の榮絶ぬれば、ながらへてもかひなく存じ、身をなげんと存より、念誦いたし候なりといひけるに、さればこそ、かくあらんとおもひしなり、御立ありし跡にて、妻の見付出候まゝ、少しもはやく屆け申度、息を限りに走り附たりとて、取出しあたへければ、兎角の答も得せず、涙にむせび、存も寄らず、御なさけ、生々世々えこそ忘れ申ましと、禮拜して往わかれける、終に音信もなかりける、數年の後、紀州の役人、高野に使して巡見しけるに、長六七尺石碑に、彼足輕の名を彫付て、彼座頭勾當撿挍になりて、其足輕の祈禱の爲に建たるよしを書たり、不思讃の事に思ひて、國に歸り、人にかたりしが、いつとなく上へも聞へて、彼者を呼出し尋られしに、しかのよしを申ければ、至て正直なるものなりとて、士に取立られしとぞ、

女盲

〔倭訓栞〕

〈中編八/古〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 ごせ 瞽女の轉訛せるにや、或説に、御前也、常盤御前、靜御前の稱に比せり、瞽者を座頭といひ、瞽女を御前といふは、美號をもて憐む也といへり、

〔和漢三才圖會〕

〈十/人倫之用〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 瞽目(こぜ) 盲女、俗云五是(コゼ)、 瞽女之字訛呼也
按盲女卽瞽女也、鼓箏三絃、歌曲以爲女子之姆、或列于酒宴、凡以箏之三曲傳授規摸

〔今昔物語〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0988 藥師佛從身出藥與盲女語第十九
今昔、奈良ノ京ニ越田ノ池ト云フ池有リ、其ノ池ノ南ニ蓼原堂ト云フ里有リ、其ノ里ノ中ニ堂有リ、膠原堂ト云フ、其ノ堂ニ藥師佛ノ木像在マス、阿倍ノ天皇〈○元明〉ノ御世ニ、其ノ村ニ一人ノ女有リ、二ノ目共ニ盲タリ、而ルニ此ノ盲女一人ノ女子ヲ生メリ、其ノ女子漸ク勢長ジテ、歲七歲ニ成ヌ、母ノ盲女寡ニシテ夫无シ、極テ貧キ事无限シ、或ル時ニハ食物无クシテ食ヲ求ルニ難得シ、我 必ズ餓テ死ナムトス、亦目盲タルニ依テ東西ヲ不知ズシテ、行テ求ル事不能ズ、然レバ歎キ悲ムデ自ラ云ク、身ノ貧キハ此レ宿業ノ招ク所也、徒ニ餓死ナム事疑モ不有ジ、只命ノ有ル時、佛ノ御前ニ詣テ、禮拜シ奉ラムニハ不如ジト思テ、七歲ノ女子ニ手ヲ令引メテ、彼ノ蓼原堂ニ詣ヅ、寺ノ僧此レヲ見テ哀ムデ、戸ヲ開テ堂ノ内ニ入レテ、藥師ノ像ニ令向テ令禮拜ム、盲女佛ヲ 奉禮拜シテ白シテ言サク、我レ傳へ聞ク、藥師ハ一度ビ御名ヲ聞ク人諸ノ病ヲ除ク、我レ一人其ノ誓ニ可漏キニ非ズ、譬前世ノ惡業拙シト云フトモ、佛慈悲ヲ垂レ給へ、願クハ我レニ眼ヲ令得給ヘヨト、泣々ク申シテ佛ノ御前ヲ不去ズシテ有リ、二日ヲ經ルニ、副タル女子其ノ佛ヲ見奉ルニ、御胸ヨリ桃ノ脂ノ如クナル物忽ニ垂リ出タリ、女子此ノ事ヲ見テ母ニ吿グ、母此レヲ聞テ云ク、我レ其レヲ食ハムト思フ、速ニ汝ヂ彼ノ佛ノ御胸ヨリ垂リ出タル物ヲ取テ、持テ來テ我レニ含メヨト、子母ガ云ニ隨テ、寄テ此レヲ取テ、持テ來テ母ニ含ムルニ、母此レヲ食フニ甘シ、其後忽ニ二ノ目開ヌ、物ヲ見ル事明ラカ也、喜ビ悲ムデ、泣々ク身ヲ地ニ投テ、藥師ノ像ヲ禮拜シ奉ル、此レヲ見聞ク人、此ノ女ノ深キ信ノ至レル事ヲ讃シテ、佛ノ靈驗掲焉ニ在マス事ヲ貴ビケリ、

〔今昔物語〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0989 筑前國女誦法花盲語第廿六
今昔、筑前ノ國ニ府官有リ、其ノ妻ノ女、兩ノ目盲テ明カニ見ル事ヲ不得ズ、然レバ女常ニ涙ヲ流シテ歎キ悲ム事无限シ、誠ノ心ヲ發シテ思ハク、我レ宿世ノ報ニ依テ二ノ目盲タリ、今生ハ此レ人ニ非身也、不如ジ只後世ノ事ヲ營ンデ、偏ニ法花經ヲ讀誦セント思テ、法花經ヲ年來持テル一人ノヲ語ヒテ、法花經ヲ受ケ習フ、其ノ後日夜ニ讀誦スル事四五年ヲ經タリ、而ル間此ノ盲女ノ夢ニ、一人ノ貴キ僧來テ吿テ云ク、汝ヂ宿報ニ依テ二ノ目旣ニ盲タリト云ヘドモ、今心ヲ發シテ法花經ヲ讀誦スルガ故ニ、兩眼忽ニ開ク事ヲ可得シト云テ、手ヲ以テ兩目ヲ撫ヅト見テ夢覺ヌ、其ノ後兩目開テ物ヲ見ルコト明カニシテ本ノ如ク也、女人涙ヲ流シテ泣キ悲ムデ、法花經ノ 靈驗新ナル事ヲ知テ禮拜恭敬ス、亦夫子息眷屬此レヲ不喜ズト云フ事无シ、亦國ノ内ノ近キ遠キ人皆此ノ事ヲ聞テ貴ブ事无限シ、女人彌ヨ信ヲ發シテ、晝夜寤寐ニ法花經ヲ讀誦スル事理也、亦書寫シ奉テモ供養恭敬シ奉リケリトナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔沙石集〕

〈六下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0990 盲目之母養事
南都ノ春乘房ノ上人東大寺ノ大佛殿造立ノタメニ、安藝周防兩國ノ山ニテ、杣作セサセテ、其間之食物ノ俵オホクウチツミテ置タリケルヲ、或時タハラヲ一ツヌスミテ、逃ゲケル者ヲミツケテカラメテケリ、ヤセカレタル童ニテゾアリケル、上人何ナル者ニテ、カヽル不當ノワザヲシ、佛物ヲオカスゾトトヒケレバ、童申ケルハ、云甲斐ナク貧キ者ニテ、スギワビテ侍ル上、盲目ナル老母ノ一人候ヲ、薪ヲ取テ遙ナル里ニ出デヽ、カヘテ養ヒハグクミ候ヘドモ、身モツカレ力モツキテ、ハカバカシクタスケ、心安クスグルホドモ侍子バ、此杣ノ食ハ、多モ候佛事ナレバ、御事モカケズ、ツクル事モアラジト思ヒテ、少分ヌスミテ母ヲタスケバヤト思バカリニテ、カヽル不當ヲ仕テ恥ヲサラシ候コソ、先業マデモ今サラハヅカシク、口惜ク覺侍レトテ、サメザメトナキケレバ、上人モ事ノ子細哀ニ思ハレケレドモ、實否ヲ知ランタメニ、此童ヲバ召ヲキテ使ヲ以童ガ申狀ニ付テ、母ガ居所ヲ尋ニツカハシケリ使尋ユキテ見ケレバ、山ノフモトニ小キイホリアリ、人ヲトナフコエシケレバ、立ヨリテ何ナル人ゾト問フニ、内ニ答ケルハ、ワビモ〳〵盲目ニテ侍ガ、スギワビテ、此山ノフモトニスミテ、薪ヲ取テ里ニ出デヽ、ハグヽム子息ノ童ノ候ヲタノミテ、昨日出候シマヽニ、露ノ命モサスガニキエヤラデ侍リ、此童見へ侍ラ子バオボツカナク心モトナクテ、人ノヲトナヘバ、此童ニヤト思候へバ、アラヌ人ニコソト云、使急歸テ上人ニ此ヨシ申ケレバ、童ガ詞タガハザリケリトテ、哀ニ思ハレケレバ、母ヲ養へルホドノ食物タビテケリ、サテ佛物ナレバ、徒ニアタヘンモ恐有リトテ、杣作之間ハ、童ヲバ召ツカハレケリ、シハザハ不當ナルニ似タ レドモ、孝養ノ心ハ實ニアリガタケレバ、可然三寶ノ御メグミニヤ、母ヲ養ホドノ食物ニアタリケルコソ、返々モ不思議ニ覺侍シ、孝養ノ志シマコトアルユエニ、冥ノ御哀モアリケメ、

〔謠曲〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 望月
〈狂〉是成人達はいかなる人にて候ぞ、〈シテ〉さむ候、是は此宿〈○近江守山〉に候めくらごせ(〇〇〇〇〇)にて候、加樣の御旅人の御著の時は、罷出て謠ひなどを申候、御前にてそと御うたはせ候へ、〈○中略〉 〈女〉一万箱王が親のかたきをうつたる所を謠ひ候べし、〈○中略〉夫かれうびんはかいこの内にして聲諸鳥にすぐれ、しといふ鳥はちいさけれ共、虎を害する力あり、爰に河津の三郎が子に、一万箱王とて、兄弟の人の有けるが、〈同〉五つやみつの比かとよ、父をいとこに討せつゝ、旣に日行時來つて七つ五つに成しかば、いとけなかりし心にも父の敵をうたばやと、思ひの色に出るこそ實哀にはおぼゆれ、〈○下略〉

〔七十一番歌合〕

〈中〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 二十五番 右 女盲
ね覺してあな面白といふ聲に月さゆるよを空にしる哉
月影のさゆるもしらずめくらきは秋の物うき涙なりけり
左は目のみえぬ事をよせいにてよめり、右はめくらきとよせたる心ばせ、ともにあはれにきこゆ、可持、
吹風のめにみぬ人の戀しきを軒ばにおふるまつときかせよ
いかにしてさのみたつ名を大鼓かしらうつまで戀しかるらん
左は古歌の詞あまりにながく聞ゆれど、歌がらあしからぬにや、右は大つゞみにかしらうつといふこと侍にや、されどいやしく聞ゆれば、まけ侍べし、

〔嬉遊笑覽〕

〈六上/音曲〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0991 盲女は、甘露寺職人歌合に、琵琶法師と女盲と番ひたり、其繪、髮をさげ眉作りた る盲女、赤き衣きて、上に白き衣打かけたるが、鼓打て歌うたふさまなり、繪の旁に、宇多天皇に十一代の後胤いとうが嫡子に、かはづの三郎とて詞書あり、曾我物語などうたへるにや、其歌及び判詞に、大鼓かしら打といふ事あれば、舞まひの類なるべし〈舞まひは此職人盡の内曲舞まひ白拍子と番ひてあり、ことに盲女は舞ふべくもあらず、但大がしらは鼓を打放なり、謠曲外百番、小林と云曲あり、ごぜども八はたに詣て、内野合戰山名が臣下、小林の上野介がことをうたふ處、總じて、ごぜ達の謠には、女御、更衣、帝王の御事をも謠に作てうたふは習ひ云々、これ職人盡の女盲と同じものと見ゆ、〉

〔嬉遊笑覽〕

〈六上/音曲〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 今女盲をごぜといふ、もと御前は貴人の邊なり、故に人をうやまひていふ詞なり、物語草子などに多く見えたり、御まへたちといふは、御前に侍る人をいふなり、今も音にて呼ながら、ごぜんといへば重き詞なり、物語などに、殿は男を申し〈源氏玉かづらの内侍をかんのとのといひたるもあれど、そはまれなり、〉お前といふは女を申すならひなり、〈名物の琵琶に、殿御前と云があり、胡琴敎錄に、殿御前の琵琶の繪のことをいひて、其入の形、男をかけるを殿と、女をかけるをば御前と號す、〉盲女もやむごとなき御まへに侍るより、ごぜとはいひ習へるにや、又は瞽女の音などにや、落穗集に、我等若年の頃迄は、躍子抔と申者は、縱令いか程高給を以て召抱申度と有之候ても、御當地町中には一人もなく、三味線と申物をば盲目の女より外にはひき不申事の樣子に有之云々、去に依て、其節は、大名衆奧方には、盲女と名付たる瞽女を二人三人も抱置、御慰などゝ有之節は、三味線を鳴し、小歌やうのものも諷ひ、座興を催申事に有之候、當時は、件のごぜ抔と申者沙汰もなく、躍子三味線ひき計りの樣に罷成候は、元祿之始已來の義にても可之哉とあり、人倫訓蒙字彙に、女盲が男に三線敎る所をかけり、其條に、御前は、光孝天皇の御子、雨夜の前にはじまるといふ説あり、是もれき〳〵のおくがたへも出入、又はいとけなき娘子に、琴三味線を敎へ侍れば、身持きやしやにありたきものなりといへり、此草子には、座頭の條には、雨夜の御子の事なく、却てこの處に、雨夜の前と女御子としたるもをかし、

〔評定所張紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0992 私支配所村々ゟ座頭瞽女〈江〉配當之儀相糺候趣申上候書付 鈴木門三郎〈○中略〉
一瞽女之儀ハ、麥作綿作取入、又ハ秋作收納之頃ハ、最寄村々、勸進ニ相廻リ候間、多少ニ不限、麥綿籾差遣候得バ、右爲禮三味線を彈、端歌を唄ひ、罷歸候由御座候、
右ハ座頭瞽女配當之儀、御尋ニ付、私支配所相糺候趣、書面之通ニ御座候、依之此段申上候、以上、
午七月 鈴木門三郎

〔擁書漫筆〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 下野國の宇都宮にて、めくら御前がふるくよりうたひつたへし、若宮の歌といふ二謠を、蒲生秀實が、きゝたもちて、うたひけるに、そのひとつはわかみやまゐり、
とのびとを、さきにたてゝ、わかみやまゐりを、まうせば、わかみやの、ばんばさきで、ごしよばこを、見つけた、かたよりて、あけて見たれば、いちぐんによ、じふにぐにを、たまはる、あなめでた、わかみやまゐりの、ごりしやう、
十六句にうたへり、〈○中略〉二にはたまてばこ、
いとしちをこ(少女)の、たまてばこの、たからものは、なに〳〵、しろみのかゞみが、なゝおもて、にしきおりが、やたゝみ、しろがねの、さをさして、こがねつるべを、くゝらせう、げにまこと、ちやうじやのじんとも、よばる、
十五句にうたへり

〔兎園小説〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0993 瞽婦殺
近比の事なり、武州忍領の邊へ、冬時に至れば、越後より來る瞽婦の、三絃を彈じて、村々を巡りつつ、米錢を乞ふありけり、或冬、忍領の長堤を薄暮に通過せるに、忽後より呼び掛くるものあり、瞽婦〈○此間恐有脱文〉卽自ら吹くところの管頭(ガンクビ)を指し向くるに乘じ、瞽婦摸索し、我が烟草に火の通ぜざるまねして、大人口づから吹きたまへといふ、盜何の思慮もなく、力を入れて吹くに及びて、其機 を測り、忽ち盜の烟管を握り、躍り掛りて力に任せて咽喉を突く、盜不意を討たれて、大に狼狽して、仰けに倒れぬ、瞽婦直に我が縕袍を摸取し、虎口を遁れて、兼ねて知れる村家に投宿し、右の狀を話す、翌朝村人堤上に來て見るに、盜遂に一烟管の爲に急所を突れて、死せりと云ふ、七尺の大男子、一瞽婦に斃さる、又天ならずや、〈武州忍の在なる吉次郎といふ者の話なり〉 遯庵主人記

盲人再得明

〔今昔物語〕

〈十三〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0994 信濃國盲僧誦法花兩眼語第十八
今昔、信濃ノ國ニ二ノ目盲タル僧有ケリ、名ヲバ妙昭ト云フ、盲目也ト云ヘドモ、日夜ニ法花經ヲ讀誦ス、而ルニ妙昭、七月ノ十五日ニ金鼓ヲ打ムガ爲ニ出テ行ク間、深キ山ニ迷ヒ入テ一ノ山寺ニ至ヌ、其ノ寺ニ一人ノ住持ノ僧有リ、此ノ盲僧ヲ見テ哀ムデ云ク、汝ヂ何ノ故ニ來レルゾト、盲僧答テ云ク、今日金鼓ヲ打ムガ爲ニ、只足ニ任セテ迷ヒ來レル也ト、住持ノ云ク、汝ヂ此ノ寺ニ暫ク居クレ、我レハ要事有テ、只今郷ニ出デヽ明日可返來キ也、我レ返テ汝ヲ郷ニ送リ付ム、若其ノ前ニ獨リ出デバ、亦迷ヒナムヅト云テ、米少分ヲ預テ置テ出ヌ、亦人无キニ依テ、盲僧一人寺ニ留テ住持ヲ待ツニ、明ル日不來ズ、自然ラ郷ニ要事有テ逗留スルナリト思テ過ルニ、五日不來ズ、預ケ置ケル所ノ少分ノ米皆盡テ食物无シ、尚今ヤ來ルト待ツ程ニ、旣ニ三月不來ズ、盲僧可爲キ方无クテ、只法花經ヲ讀誦シテ、佛前ニ有テ手ヲ以テ菓子ノ葉ヲ搜リ取テ、其ヲ食テ過スニ、旣ニ十一月ニ成ヌ、寒キ事无限シ、雪高ク降リ積テ、外ニ出デヽ木ノ葉ヲ搜リ取ルニモ不能ズ、餓エ死ナム事ヲ歎テ、佛前ニシテ經ヲ誦スルニ、夢ノ如ク人來テ吿テ云ク、汝ヂ歎ク事无カレ、我レ汝ヲ助ケムト云テ、菓子ヲ與フト見テ覺メ驚ヌ、其ノ後俄ニ大風吹テ、大ナル木倒レヌト聞ク、盲僧彌ヨ恐ヲ成シテ、心ヲ至シテ佛ヲ念ジ奉ル、風止テ後盲僧庭ニ出デヽ搜レバ、梨子ノ木柿ノ木倒レタリ、大ナル梨子柿多ク搜リ取ツ、此レヲ取テ食フニ、其ノ味極テ甘シテ、一二果ヲ食ツルニ、餓ノ心皆止テ食ノ思ヒ无シ、此レ偏ニ法花經ノ驗力也ト知テ、其柿梨子ヲ多ク搜リ取リ置テ、日ノ食ト シテ、其ノ倒レタル木ノ枝ヲ折取テ、燒テ冬ノ寒サヲ過ス、旣ニ年明テ春二月許ニモ成ヌト思ユル程ニ、郷ノ人等此ノ山ニ自然ラ來ル、盲僧人來ル也ト喜ビ思フ程ニ、郷人盲僧ヲ見テ問テ云ク、彼レハ何者ゾ何デ此ニハ有ツルゾト恠ビ問ヘバ、盲僧前ノ事ヲ不落ズ語テ、住持ノ僧ヲ尋テ問フニ、郷人等答テ云ク、其ノ住持ノ僧ハ、去年ノ七月ノ十六日ニ郷ニシテ俄ニ死ニキト、盲僧此レヲ聞テ泣キ悲ムデ云ク、我レ此レヲ不知ズシテ、月來不來ザル事ヲ恨ミツト云テ、郷人ノ共ニ付テ郷ニ出ヌ、其後偏ニ法花經ヲ讀誦ス、而間病ニ煩フ人有テ、此ノ盲僧ヲ請ジテ經ヲ令誦メテ聞クニ、病卽チhttps://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m02300.gif ヌ、此レニ依テ諸ノ人、盲僧ヲ歸依スル事无限シ、而ル間盲僧遂ニ兩眼開ヌ、此レ偏ニ法花經ノ靈驗ノ致ス所也ト喜デ、彼ノ山寺ニモ常ニ詣デヽ、佛ヲ禮拜恭敬シ奉ケリトナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔今昔物語〕

〈十六〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0995 盲人依觀音助眼語第廿三
今昔、奈良ノ京ノ藥師寺ノ東ノ邊ノ里ニ一ノ人有ケリ、二ノ眼盲タリ、年來此レヲ歎キ悲ムト云ヘドモ事无カリケリ、而ルニ此ノ盲人千手觀音ノ誓ヲ聞クニ、眼暗カラム人ノ爲ニハ、日摩尼ノ御手ヲ可宛シト、此ヲ深ク信ジテ、日摩尼ノ御手ヲ念ジテ、藥師寺ノ東門ニ居テ、布ノ巾ヲ前ニ敷タリ、心ヲ至シテ日摩尼ノ御名ヲ呼ブ、行來ノ人此レヲ見テ、哀ムデ錢米ナドヲ巾ノ上ニ置ク、亦日中ノ時ニ鐘ヲ撞ク音ヲ聞テ、寺ニ入テ諸ノ僧ニ食ヲ乞テ、命ヲ繼テ年來ヲ經ル間、阿倍ノ天皇〈○元明〉ノ御代ニ、此ノ盲人ノ所ニ二ノ人來レリ、此レ本ヨリ不知ザル人也、亦盲セルニ依テ其ノ形ヲ不見ズ、此ノ二ノ人盲人ニ吿テ云ク、我等汝ヲ哀ガ故ニ、汝ガ眼ヲ滌ハムト云テ、左右ノ目ヲ各治ス、治シ畢テ盲人ニ語テ云ク、我等今二日ヲ經テ必ズ此ノ所ニ可來シ、不忘シテ可待シト云テ去ヌ、其ノ後其ノ盲目忽ニ開テ物ヲ見ル事本ノ如シ、而ルニ彼ノ二ノ人來ラムト契シ日待ニ不見エズ、然レバ遂ニ其ノ人ト見ル事无シ、此レ觀音ノ變ジテ來テ助ケ給ケルト知テ、涙ヲ流シテ 悲ビ喜ビケリ、此レヲ見聞ク人、觀音ノ利益ノ不可思議ナル事ヲ敬ヒ奉ケリトナム、語リ傳ヘタルトヤ、

盲人之弊

〔風俗見聞錄〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0996 盲人の事、世に五體不具の者多しといへ共、其内に盲人ハ支離の最第一なるものなり、第一、日月星辰の照明成事をしらず、父母の顏を見る事能はず、生來天の惡みを深く受たるもの也、凡天地の間に、禽獸魚鼈及蜉虫の類迄も、目のなきものはなく、盲と云もなし、いかなるにや、人にハ盲多出來る也、是人情の虚實ゟ發るもの歟、扨瞽者の人情を試るに、何れも行氣强く、我儘强く、殊に殘忍也、只人を欺き貪るの情一圖にして、少も人の爲に預り聞情なし、又人の實情なる事も誠とせず、己が心に競て、是人を訛すの方便ならんと疑ふ也、尤目のみへざる故、か樣に狐疑に成、手前勝手なりし物か、おもふに左にあらず、平人にも右體殘忍の情强き者、必中年にして目しゆる也、是を以て見れば、人情馳限りて天罰冥罰の至極せしものと見ゆ、然るに今盲人に官職の途有事、不審千万也、右體禽獸魚鼈にも劣りて、日月を拜する事の成ぬ者が、天子へ拜謁し、天盃を戴き、又人情馳限りて天罰冥罰の至極せし離支が、公儀へ御目見いたし、拜領ものを致事、奇怪の事共也、少も國家の役にハ立べき事なく、人のために成事なく、誠に世の費人、厄介成者が、何をもて高官に昇り天下國家の寵を受、身の安體を極る事也、〈○中略〉撿挍は比叡山に一人、高野山に一人のみ成しが、此性佛撿挍、盲人共の司と成給ひし後ハ、盲人の重官と成て、比叡山に座頭撿挍の名目絶しと云、今ハ高野山に一人有のみ也、高野山に於ても、今千有餘の學侶の内ゟ勝たるを三十人撰び擧て集議といふ、集議、三十人の内より七人を撰み擧て碩學と云、碩學七人の内ゟ二人を擧て行司といふ、其行司二人の内ゟ擧用ひて撿挍に進む也、誠多年の法勞を積上て、佛勅冥慮に叶はすんば、此官職に昇がたし、皆中途にして運命極る也、比叡山に於て御定右の如き極にてあらん、然るを盲人の官職となりし事、實に勿體なし、時得て攝政家道公の御威光を以て、計ら ず高官に進み、且天下の御扶持を蒙るべき者と成、其後又座頭勾當別當撿挍の四官と成、又追々次第分れて今ハ座頭ゟ撿挍に至迄十七階に分れ、始て打懸より七十二刻の段々有と云、右の成行にて、盲人共の官途を競、驕奢を盡すになりぬ、憐べし彼御國母皇太皇后、又は攝政家道公御一子の御追善、及一時の御愛憐ゟ、末代永く天下國家の弊と成事を發し給ふ也、天下の事少も私の事になし給ふ時は、斯の如く永く國家の害と成行べし、漢土に而は、瞽者に官位はなしと云、尤の事なり、都て政道は萬民の心をもて、民の好所に隨ひ給ふべき也、左なき時は、右體國家の筋に違ひ、天道に背き、人道を損ずる事出來る也、釋門の僧侶は、勸善懲惡の道を世に施して、國家の補助共成べき物なれば、盲人などは譯の違たる者にて、隨分官職を給はるべき謂れも有べけれども、夫すら今官職の次第有によつて、前に云如く、悉驕奢にほこり、肝要の法義を失ふに至れり、僧侶にも限らず、盲人共にも不限、都て官位は人を驕奢に導く道具にして、人を損じ、世を費す毒物也、扨盲人共右の仕合に而有しが、其以後時代押移り、朝廷の御威光も衰へ、暫く亂世と成て、大に衰微し、右の給り物も絶果、又官途も心に任せず、尤亂世の内にも、或は足利尊氏の甥挌都撿挍抔云るは、明石を領して明石殿と穩するなど、時の權威に由緖ある盲は格外に誇りけれども、有職の所緣なき平座頭どもは、道路にさまよひ、飢寒の苦痛に沈み居しが、當御治世に至りて、再び御仁政を加えられ、大小名始國々在々に至迄、家毎に祝儀不祝儀の節、相應の米錢をもらひて、渡世する事を赦されし也、是を配當といふ、仲間一統へ配當する故也、是偏に御憐愍の至也、尤別に天下の御扶持は給はらずといへども、併古來施行米を戴しを、運上物と云るも、五畿内近國の盲人共計とみへたり、殊に筋目よき淸らか成瞽者計と見えたり、〈○中略〉今日本國中に勾當の數三四百人の間と云、撿挍は百二三十人程有と云、其百二三十人程の内、江戸に七八十人程有と云、御當地の結構、又犯奪の道の盛んなる事をしるべし、尤営世にも琴三味線鼓弓などの指南を致し、又は針 療など專らとする盲人も有れ共、右等の藝道を以て大金を取集る事は容易ならず、勿論遊藝は當世盛んに行はるゝ事にて、弟子ゟの收納も多く、或は目錄免許奧免許抔云て、格別高金を取事也、其外貴人高位又遊興人福有人等に追從して、翫ものと成、金銀衣類を貰ひ、目明ものゝ稼には、中々得難き程の大金を得るといへ共、倂右の貸付利倍の稼には不及、〈○下略〉

〔病間長語〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 今の撿挍勾當の類は、みな天朝より賜ること故に、彼等が公侯と抗衡すべきものゝように思へり、假令これは賜るにもせよ、その職は宛置たき者なり、その制度なき故に、心の欲する所に任て、音曲を業とするもあり、針治を業とするもあり、その内にも性魯なる、何れにもならぬものは、金ぎんを蓄へ、高利を借て、小を積て巨萬を致す、子錢家となるものあり、此等はあまりに制度なきことなり、ねがはしきことは、生業あらしめて、其の外は禁じたきものなり、

雜載

〔倭訓栞〕

〈中編二十六/毛〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 もくあみ 俗にもく〈○く恐と誤〉の木阿彌といふは、盲人の名なり、筒井順昭は、信長時代の人、卒して三年の間隱し置けり、木阿彌が音聲よく似たるをもて、闇所に置て他國敵方の應對せしむ、三年過て、順昭の死を披露せしよりは、本の盲人になりしといふ意なりといへり、

〔一話一言〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 盲者の死
瞽者の職、撿挍の死を遠行といふ、其餘撿挍勾當の死をば永請暇といふよし、塙撿挍の物がたりなり、

〔俗耳鼓吹〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 すべて京都士大夫の家、慶弔の事ある毎に、盲人多く來て施物をうくる也、朝四つ時前に來りて、四つ時にうけとるといふ、その盲人、鞘町組、傳馬町組とて二組あり、

〔鹽尻〕

〈十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0998 肥前國佐賀近き里に川上と云所有、此地に在る盲者老少となく、皆脇指をさし侍るとなん、里俗の説に、鎭西八郎爲朝九州に在し日、此村の川に大蛇住て人を取る事久し、爲朝强弓大矢を以て彼蛇を射る、然に其矢蛇を射ぬき、川上明神の森なる楠に立、蛇は川底に沈けるを、盲者 あり、一刀をさして水に入、死蛇に繩をつけて引あげしより、後世に至りて此里の盲人は、一刀を帶すと云へり、二三十年前、彼社の大楠一枝折れしに、其木の中に大の雁股なる矢の根あり、凡股の一方八九寸計りもありて、中子ふとく尺餘も有なんと、見し神人の傳へし、爲朝の矢を楠に射とゞめられしといふは、正しく是なるべしとて、祠に藏したりとなん、其時見侍りし長崎の人、物語せしかば、便りにこゝに筆す、

〔瞽幻書〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0999 寺社御奉行松平和泉守殿〈江〉指出候書付之寫
延寶貳寅年、地神經之山に入の時、於江戸、香坂殿願口上書、金山坊返答書、幷岩船殿香坂殿幷遣答付紙、從御公儀仰渡之書付之寫、香坂口上之覺、
一西國筋、取分九州ニ多罷在候、竈祓の盲目、是を地神經座頭とも申、又は三座頭上座頭とも申候、讃部經、地神經と申候得共、ほきにふしを付、琵琶に乘竈を拂申候、裝束は直垂の樣成ものに紋所を付著用仕候、中にも頭分の者は、十德の樣成者を著用仕候、又國官途と申候て、其國其所にて乍居おのれ〳〵が類參加はり、官途仕候事、
一右の盲目共、根本は、此方仲ケ間より出たるものとは聞へ候得共、聢と仕たる證文無御座候故、古今其分にて差置申候、乍去、寬永十九年、肥前の國に於て、彼者共奢候、仍而御方仲ケ間の者と異論を起し、公事に及び候所、彼者共非儀に落申候に付、其所之撿挍山野下知を以、地神經の頭分、金剛院幷中持と申盲目兩人、死罪に申付候得共、何の宗門より、何の斷も無御座候得共、又寬文年中に周防長門にて、かの盲目共、此方仲ケ間の禮を以、往來可仕由、何用違亂申に付、奉行被申候者、其方にも慥成系圖候哉、出候得と被申付候得共、系圖に似たる物も無御座候に付、右之違亂申棟梁を、大膳殿御領分の島〈江〉御流候に付、殘る者共、皆此方仲ケ間の下知に隨ひ申候、此節も何方よりも何斷も無御座候、然ども他門にあらざる處、分明に御座候歟、 一筑前國より、廿ケ年程以前、彼盲目共、古來例無之新法を起し、四人連に而叡山〈江〉罷登、正覺院〈江〉たより、或は後生菩提の爲、或は天台末流之由、色々虚言申、金銀を出し袈裟衣のゆるし請申度由、歎き申に付、正覺院は、彼盲目共の由來、委鋪不存故、爲結緣許し申候が、扨彼盲目ども、己々の在所〈江〉罷下り候得て、今度叡山登り官途仕、袈裟衣を被召、正覺院の御判を戴候迚、佛説盲目僧の撿挍と名乘、不似合結構成袈裟を著し、大奢申事、不大方、是を手本に致し、近國の盲目共、追追叡山〈江〉罷登、皆々袈裟衣を被許申候事、
一彼盲目共、只今は、往古より、天台末流の由申候得共、廿四五年以前迄は、國々所々にて、宗門改の節、差出し候宗旨手形、まち〳〵に候得き、然者往吉より、天台派と申候は、大成僞に而御座候、又叡山金山坊より、九州筋方々〈江〉參候參中をも、彼盲目共、先規より、天台の樣にもてなし、平家座頭、佛説盲目僧、各別の事、其上、又正覺院より、袈裟衣被免候事も、數十年久鋪樣には申候得共、纔に廿年程以來之義に御座候得ば、新法紛無御座候事、
一彼盲目共、唯今の有樣は、裝束は、漢土の織物佛説盲僧之撿挍と申積塔の義を取行、諸藝も此方仲間の眞似を仕ながら、格別の樣に申なし、此方譏り慢じ、剰此方の弟子大に集申候條、迷惑仕候事、
一彼盲目共には、日々威勢付、此方は次第に衰微仕候義、誠に正覺院、彼盲目共往古より、天台末流の由來、慥に御座候に於ては、彼盲目共、向後、撿挍の名乗をやめ、裝束等諸藝にいたる迄、此方仲ケ間に不紛樣に、急度差別を被立候歟、若又、往古より、天台振の由來、慥成義無御座候ハゞ、殊に新法と申、旁以、正覺院より、向後構不申候樣奉願候、且又九州所々の留守居衆〈江〉被仰付面々、於領分彼盲目共、前々の如く非法仕、新法を立奢不申候樣、被仰付下候ハヾ、撿挍座中、何れも難有可存候、以上、 九月十一日

〔盲人幷諸取計〕

〈盲人〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1001 盲人御仕置例
文化十酉年御渡
十四
堺奉行伺
一無宿次兵衞僞之往來手形を以、村送りに相成候一件、
無宿 次兵衞
右のもの儀、旅行中、病氣發、行倒候節之ため、往來手形所持いたし候へば、可然旨勘太郎申聞候迚、伺人相賴、宇兵衞認候往來手形ニ、勘太郎所持之印形を押、相渡候を持參、西國四國順拜之上、肥後國ニ而行倒候節、僞之居所庫聞、長承寺村迄村送ニ相成罷越候段、不屆ニ付、泉州拂可申付哉之段可伺ものと奉存候得共、盲人之儀、其上親族等も無御座候間長吏共〈江〉引渡、樣々徘徊爲致間敷、
此儀去ル酉年、根岸肥前守伺之上御仕置申付候、日光御門主家來坂大學忰坂金吾儀、親類いつ、讓地面之儀ニ付、同人後見新七より、父大學幷坂昌永定右衞門新七と、水茶屋幷此もの妾を差置候別宅ニ而、度々會合いたし候段、大學及承、嚴敷叱り、他行被差免申間敷と存、右出入ニ事寄、町方組のものより呼ニ取越候趣ニ手紙之下書認、小もの三平ニ申含、十右衞門ニ認貰、大學を欺候始末、不屆ニ付、江戸拂申付候例ニ見合、往來手形取拵之儀、發迄者不致候得共、現在相違之往來手形持歩行、身分を僞り候上者、於事實同樣之儀、江戸拂者堺兩郷拂ニ相當り候段ニ付、堺兩郷拂ニ而相當可仕處、盲人之儀故、無宿に候とも、座法之通可申付旨申渡、其筋〈江〉引渡候方可然間、非人乞食之類ニ無之、無宿盲人不屆有之もの、諸奉行所幷遠國城下陣屋等ニ而糺之上、座法之通可申付旨申渡、其所に若撿挍勾當不罷在候ヘバ、最寄在名以上座 元抔之類〈江〉引渡、差支之筋無之哉之段、寺社奉行より總錄吉川撿挍〈江〉相尋候處、京都職十老〈江〉も申遣候上、差支無之旨、今般申立候間、堺兩郷拂可申付處、盲人之儀に付、座法之通可申付旨申渡、其所撿挍勾當〈江〉引渡、若撿挍勾當不罷在候へば、最寄在名以上座元抔〈江〉引渡、

盲僧

〔諸例類叢〕

〈二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1002 盲僧、盲人は別段のものに而、盲僧は目之見へ候ものに而、山伏の類なる者に御座候よし、尤京地に而は無之、他國にも稀なる者に御座候處、九州邊には御座候よし、
一盲僧は職屋敷之支配に而、衆位の義は、久我殿御取扱御座候由、
但職屋敷と申候者撿挍之官に而、十老と唱る頭取十人御座候由、其内より經昇に而、右十老之上に萱人職と申候而、總司御座候、此役を職と唱、彌張上候へば撿挍に御座候、
一盲僧之義は、士分以上、靑蓮院宮支配、亦以下は盲人同樣、右職屋敷之支配に而、官位の取扱等も仕候よし、
但右之通、盲僧士分以下之分は、職老に而支配仕候由に御座候へば、何分目は見え候而も、盲僧も盲人に類し候ものと相見へ候、
一公事の一件は、安永寬政の比、右盲僧の義は、士分以上以下共に靑蓮院に而支配有之度旨、御望立御座候に付、職屋敷と公事仕來候處、其後前條之通御取究御座候よし、
以上
右之通申出候間、左樣承知可成候、尤右之趣は今晩罷越返答仕候付、不取敢申上候處、得と考量仕見候へば、右盲僧は山伏之類之由に御座候處、左樣之者を職屋敷に而、士分以下の支配仕候段は不其意筋に奉存候、何共不審之義奉存候間、右者久我家へ相尋候由に御座候間、尚取糺相變候事も御座候はゞ、後便之砌又々可申上候事、 一盲僧一件之義、先便申上置候處、其後職屋敷之方も承候由之處、下地申上置候通、何も相變候義も無御座候由、尤職方に而支配致し候、盲僧は當時無御座候、別而人數少なきものゝ由に相聞候、扨盲僧は山伏之樣成者に而荒神祓いたし候者之由申上置候處、盲人も本來琵琶を彈き、荒神祓致し候者之由相咄候旨申聞候、仍初而承知仕候處、當時は右樣之業向を致し候者無御座候得共、往古者右樣之事に而渡世を送り候事も御座候哉、

〔德川禁令考〕

〈四十二/僧侶作法〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 享保十三申年九月三日
盲僧之儀に付御觸書
地神經讀盲目、官位院號袈裟停止之儀、先年被仰出候處ニ、遠國ニ〈而〉ハ猥ニ相成候と相聞候間、向後在々所々ニ至迄、猥ニ無之樣、急度可申付候、以上、
九月
右之通可相觸

〔天保集成絲綸錄〕

〈八十〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1003 寬政元酉年二月
寺社奉行〈江〉
靑蓮院宮御支配盲僧之儀に付、去巳年御觸有之、百姓町人之忰は、盲僧に難相成段被仰出候處、種姓御糺も不行屆、依而盲僧傳法も斷可申と御歎思召候旨、去八月中被仰立之趣に付、其節御糺方之儀相達候得共、其段は被仰出通に而相分、御承知被成候得共、全御糺方計之儀にも無之、一體出家道に入候儀、古來より種姓之差別は無之事候處、盲僧共宮御支配に相成り、種姓之別相立候而は瑕瑾にも相成、其上百姓町人至而貧窮孤獨之盲人は、甚難澀之筋有之由、生涯盲僧にも座頭にも不相成終候者、若發心もいたし候はゞ、志次第盲僧に成候樣被成度、左候得ば、座頭共爲には聊差障可申筋無之、旁廣御許容有之樣被成度との旨、一通りは御尤之御事候、出家道に入候儀、元よ り種姓之別無之は勿論之事に候得共、榮聞を羨候は人情之常、宮御支配之事と申、其上渡世も安事候得共、面々志次第と被仰出候時は、誰一人撿挍配下を望候者可之哉、然者撿挍座中者追年可衰廢は眼前之事、賤職之者とは乍申、數年立來候座中之儀、盲僧之爲に斷絶に及候も、是又御愍恤に可預事有之候、且又貧窮之盲人難儀之趣盲僧共申立候、表ニテハ全其身之渡世活計之爲佛道に入事相聞候、右體之者御支配に加り候迚、御本望之儀にも有之間敷、却而佛意にも背、道を汚候端とも可相成事に候、出家道種姓之差別相立、御瑕瑾之由候得共、是又再三御趣意之處被仰立候上、御差圖に爲隨候儀、聊以御瑕瑾と申筋に者相成間敷、其上武家陪臣之忰も、間々御支配願出候輩も有之由に候得ば、旁以御願之趣、難御沙汰に候間、先達而被仰出候通、御取計有之候樣、靑蓮院宮家司〈江〉可達候、
寬政元酉年閏六月
寺社奉行〈江〉
靑蓮院宮より盲僧之儀に付、先達而被仰立候品有之、其節相達候趣有之候處、又候此度更養子相續之儀御願に候、然處右は全く百姓町人之忰盲僧に難相成旨、去ル巳年之被仰出に差障候事、殊更先達而之御賴中に武家之忰御配下願候者も、間々有之由にも候得共、何方に而も御門下之盲僧絶不申候はゞ、修法も傳可申儀、此土之御賴は何れ御見合有之可然候、幷職掌之儀、御門中而已之事には候得共、先頃は御願も無之程之事、强而御差支にも不相成筋と相見候得ば、先是之通御取扱有之候樣にとの御沙汰に候間、此趣家司〈江〉可達候、
閏六月

〔〈德川代々〉評定所張紙〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1004 盲僧共之儀に付書付
御尋に付申上候覺 盲僧共儀、元來山門御支配之ものに御座候間、本山〈江〉罷登り、官職等仕候處、寬文七未年之頃、豐前國規聽、筑前國卽是、肥後國直立、肥後國敎懸、四人盲僧、山門〈江〉罷登り、於正覺院、初而紫衣受免許候、其外紫衣色衣等免許のもの共有之候間、於國々所々、座頭方より差構有之候處、延寶二寅年、爲九州總代、豐前國高坂撿挍上京仕、職撿挍〈江〉申出、夫ゟ江戸表〈江〉言上仕候間、依之山門御吟味之處、正覺院儀者、極老之儀に御座候故、弟子金仙坊一人之了簡を以、紫衣色衣免許仕候儀誤に相成、請御咎候、尤其節之儀、日光御門跡樣江御伺不申上、正覺院私に紫衣色衣等差免候儀、其罪難逃越度に罷成候、同年十二月九日、小笠原山城守樣より、戸田伊賀守樣〈江〉被仰渡候儀、左之通り、
一山門正覺院弟子金仙坊依不埓、近江山城武藏下野四ケ國御追放被仰付、正覺院儀は、越度に付五十日の閉門被仰付候、盲僧共儀者、向後、山門に罷登り申間舖候事、
一小弓、三味線、筑紫琴、小歌、淨瑠理、一切遊藝を以、渡世仕間敷事、
附、座頭に交り申間敷事、
一佛説盲僧四季之土用地神經讀誦仕候儀、萬祈禱職者、一統相立候而、諸事不法之族無之樣被仰渡候事、
右之通被仰渡候間、夫ゟ無曲寺に罷成候に付、國々に而、地神經讀誦仕候儀も差構有之候處、豐前國宇佐郡麻生村智禪〈與〉申盲僧、正德三巳年より江戸表〈江〉罷越、山門御支配之儀御願申上候得共、相濟不申候處、享保十六亥年、寺社御奉行樣より御書付被下置旨、右御條目相守、天台遺類之儀に御座候得ば、十德輪袈裟著仕、是迄地神經讀誦仕候而、致渡世仕來候儀に御座候、勿論座頭方ゟ差構之儀、決而無御座候、尤御條目御書付本書之儀は、智禪より小笠原左京大夫樣御領分、豐前國企救郡六川村盲僧遍淨〈江〉相讓、右遍淨同御領岸村泰順〈與〉申盲僧所持仕罷在候、以上、
子四月 〈豐後國田川郡草場村盲僧〉本覺印 日向御役所
右本覺御尋に付、書付奉差上候に付、奧印仕差上申候、以上、 〈田川郡草場村庄屋〉勝藏印

享保十六亥年二月二十七日寺社御奉行所
黑田豐前守樣
小出信濃守樣
井上河内守樣
御列座に而被仰付候書付之事
一盲僧、家々地神經讀候事、及吟味候處、前々ゟ之通、地神經讀候儀差免候、尤島浦總撿挍方〈江〉も、雙方構無之旨被仰渡候、若國々所々に而違亂有之候はゞ、可申出候也、
二月 寺社御奉行御判
〈豐前國宇佐郡麻生盲僧小頭〉智禪〈江〉
右之通、御書付被下置候上は、一統之儀、向後、十德、輪袈裟、琵琶、錫杖に而、地神經諸祈禱諸事は、古來よりの迺、其外諸事不法成事無之樣可申渡との趣、御意如此御座候、以上、
九月十三日 〈盲僧總代〉智禪印
〈豐前國田川郡盲僧小頭〉本覺坊〈江〉
右御書付本紙者、小笠原左京大夫樣御領分、豐前國企救郡岸村泰順〈與〉申盲僧所持仕罷在候、以上、
子四月 〈豐前國田川郡草場村盲僧小頭〉本覺印
田川御役所
右本覺御尋に付、書付奉差上候に付、奧書仕差上申候、以上、
〈田川郡草場村庄屋〉勝藏印 一〈崎〉 盲僧凡拾八坊程 一〈大村〉 同 壹坊 一〈筑後國〉 同凡六拾坊程 一〈佐右衞門御領〉 同凡八拾坊程 一〈筑前國〉 同凡百一〈怡土松浦郡〉 同凡拾三坊程 一〈小倉御領〉 同凡五捨坊程
御料宇佐下毛郡幷中津御領 島原御領、宇佐日出御領、立石御領に而、 一 同凡六拾坊程 一〈府内御領〉同凡拾坊程 一〈森御領球珠郡〉 同凡四坊 一〈田川郡〉 同拾二坊

右之外、國々盲僧之儀は、何程御座候哉、相分り不申候、
右之通御座候、以上、
子四月 〈豐前國田川郡草場村盲僧〉本覺印
田川御役所
右之通、本覺書付奉差上候に付、奧印奉差上候、以上、
〈田川郡草場村庄屋〉勝藏印


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Last-modified: 2022-06-29 (水) 20:06:22