http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 禮ハ、イヤト云ヒ、又ウヤマフトモ云フ、卽チ恭敬ノ義ナリ、此篇ニハ其行迹ニ顯ハレタル最モ著キモノヽミヲ收載ス、而シテ起居動作ヨリ、冠、婚葬、祭等ニ至ル、謂ユル禮式ニ關スル事ハ、別ニ其部アレバ、多ク省略ニ從ヘリ、
謙讓ハ、ユヅルト云ヒ、又ヘリクダルト云フ、卽チ人ヲ推敬シテ、自ラ退讓スルヲ謂フナリ、

名稱

〔伊呂波字類抄〕

〈禮/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 礼〈レイ亦作禮〉

〔干祿字書〕

〈上聲〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 禮、礼、〈竝正、多行上字、〉

〔段注説文解字〕

〈一上/示〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01729.gif http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 也、〈見禮記祭義、周易字卦傳、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 足所依也、引伸之凡所依皆曰http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 、此假借之法屨http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 也、禮http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 也、http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01730.gif 同而義不同、〉所㠯事神致一レ福也、从示从豐、〈禮有五經、莫於祭、故禮字从示、豐者行禮之器、〉豐亦聲、〈靈啓切、十五部、〉

〔釋名〕

〈四/釋言語〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 禮體也、得事體也、

〔日本書紀〕

〈二十/敏達〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 元年六月、有司以禮(イヤ/コトハリ)收葬、

〔日本書紀〕

〈十九/欽明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 四年〈○宣化〉十月、山田皇后怖謝曰、〈○中略〉今皇子〈○欽明〉者敬老慈少、禮下(イヤマヒタマヒ)賢者

〔日本書紀〕

〈七/景行〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 五十一年八月、初日本武尊、〈○中略〉所神宮蝦夷等晝夜喧譁、出入無禮(ウヤナシ)、

〔倭訓栞〕

〈前編四/宇〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 うや 日本紀に禮をよめり、ゐやの轉ぜるなり、無禮をうやなしとよめり、

〔伊呂波字類抄〕

〈爲/辭字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1211 恭イヤ〳〵シ 敬〈イヤマフウヤマフ〉

〔神道玄妙論〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 敬は都々斯美と訓べし、〈○中略〉また此字を韋夜麻比とも訓來れり、韋夜は禮にて麻比は辭なり、

解説

〔千代もと草〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 禮は上の人をうやまひ、下となる人をも、それ〴〵にあひしらひをするなり、

〔春鑑抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212
孔子曰、禮先王所以承天之道、以治人之情ト云テ、禮ト云モノハ、先代ノ帝王ノサダメヲカレタ事也、承天之道トハ、天ハ尊、地ハ卑シ、天ハタカク、地ハヒクシ、上下差別アルゴトク、人ニモ又君ハタツトク、臣ハイヤシキゾ、ソノ上下ノ次第ヲ分テ、禮義法度ト云フコトハ、定メテ人ノコヽロヲヲサメラレタゾ、程子曰、禮ハ只是一箇序ト云タゾ、禮ハ序ノ一字ゾト云コヽロゾ、序ト云ハ次第ト云フコヽロゾ、禮ト云モノハ、尊卑有序、長幼有序ゾ、〈○中略〉禮ハ敬フユヘデアルゾト云コヽロゾ、禮ハ敬ナリト云テ、禮ト云字ハ敬ト云字ノ心ゾ、故ニ曲禮毋敬ト云ゾ、朱文公ハ禮之本在于敬ト云タホドニ、敬ヲ禮ト云、ソ、ゲニモ君ヲ君トシ、父ヲ父ト、スルハ敬デアルゾ、〈○下略〉

〔彝倫抄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 禮トハ、天理之節文、人事之儀則トテ、天道ニアリテハ、日月星辰、春夏秋冬ノタガイニカハリ、タガイニアキラカナルゴトク、人ノ道ニトリテ、衣冠裝束ニイタリテ、手ヲカヾメ、足ヲヒザマヅキ、物ヲイヒ、腰ヲカヾムル矣第アルヲナスナリ、心ニハ上ヲカロシメズ、下ヲアナドラズ、萬事ヲ人ニユヅリテ、ツヽシミヲゴル心ナキヲ申スナリ、ヨク禮ヲ行ナハヾ、邪淫戒イカヾアランヤ、

〔聖敎要錄〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212
禮者民之所由生也、所以制一レ中也、卽事之治也、知禮行禮者聖人也、無罐則手足無措、耳目無加、進退揖讓無制、居處、閨門、朝廷、文事、武備、宮室、器用、以禮則安也、禮非情飾一レ外、有自然之節、不已之道也、聖人之敎、唯在禮樂

〔五常訓〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1212 禮 禮は心につゝしみありて、人をうやまふを本とし、萬事を行ふに則にしたがひて、正しく理あるを文とす、則とは作法なり、孝經に禮敬而已矣、言ふ意は禮は敬を專とす、而已とは此の外にはなしと云ふ詞なり、朱子曰、禮の本は在于敬一レ人、人をうやまふは心のつゝしみよりおこる、人をうやまふも、其の人をあはれむ心より出づる故、朱子も禮は仁のあらはれたるなりといへり、禮記曰、禮は理也周子曰、理曰禮、理はすぢめなり、すぢめとは、萬事を行ふに、各正しき則ありて、其の則にちがはざるは卽理なり、禮にしたがへば、萬事正しくしてをさまる、理にしたがはざれば、萬事邪にしてみだれて行はれず、朱子曰、禮は天理の節文、人事の儀則なり、天理は自然に定まりてかくのごとくなるべき道理なり、節文は過不及なき、よきほどなるを云ふ、節は過ぎざるなり、文は不及なきなり、うやまひ過すは節にあらず、うやまひたらざるは文にあらず、かざり過るは節にあらず、いやしくしてふつゝかなるは文にあらず、是皆理にたがひて禮にあらず、萬事の節文皆かくのごとし、人事の儀則とは人の行ふわざの、行儀にあらはれたる作法なり、視聽言動の四の身のわざも、萬事の制行も、よきほどなる自然の法あり、是人事の儀則なり、中庸には親親之殺、尊賢之等、禮所生也といへり、言ふ意は、親類をしたしむは仁なり、其の内に父子兄弟諸父從兄弟などの品あり、其の親疎尊卑の次第同じからざる、是親之之殺也、賢を尊ぶは義なり、人に大賢あり、小賢あり、才能ある人あり、舊識恩德ある人あり、其の内に大小高下の品あり、是尊賢之等也、親類の品に應じてしたしみ、大賢小賢の品によりてうやまふは、是卽禮の生ずる所なり、しかれば禮は仁義を行ふに、各其の品にしたがひて、程よきをいへり、

〔辨名〕

〈上〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1213 禮〈三則〉
禮者道之名也、先王所制作四敎六藝、是居其一、所謂經禮三百、威儀三千、是其物也、六藝、書數爲庶人在官者、府史胥徒專務、御亦士所職、射雖乎諸侯、其所謂射、以禮樂之、非民射主皮者比焉、唯禮 樂乃藝之大者、君子所務也、而樂掌於伶官、君子以養德耳、至於禮則君子以此爲顓業、是以孔子少以禮見稱、之周問禮於老聃、之郯、之杞、之宋唯禮之求、子夏所記、曾子所問、七十子皆斷斷於禮、見檀弓諸篇、三代君子之務禮、可以見已、蓋先王知言語之不一レ以敎一レ人也、故作禮樂以敎之、知政刑之不一レ以安一レ民也、故作禮樂以化之、禮之爲體也、蟠於天地、極乎細微、物爲之則、曲爲之制、而道莫在焉、君子學之、小人由之、學之方習以熟之、默而識之、至於默而識一レ之、則莫知焉、豈言語所能及哉、由之則化、至於化、則不識不知順帝之則、豈有不善哉、是豈政刑所能及哉、夫人言則喩、不言則不喩、禮樂不言、何以勝於言語之敎一レ之也、化故也、習以熟之、雖喩乎、其心志身身體、旣潛與之化、終不喩乎、且言而喩、人以爲其義止是矣、不復思其餘也、是其害、在使人不上レ思已、禮樂不言、不思、不喩、其或雖思不喩也、亦未之何矣、則旁學他禮、學之博、彼是之所切劘、自然有以喩焉、學之旣博、故其所喩、莫遣已、且言之所喩、雖詳説一レ之、亦唯一端耳、〈○下略〉

〔伊勢平藏家訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1214 五常の事
一禮といふは、我より目上なる人をば、あがめゐやまひ、目下なる人をもいやしめず、あなどらず、我をへりくだりて、人にほこらず、おごる事なきを禮といふなり、

禮例

〔日本書紀〕

〈二/神代〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1214 一書曰、〈○中略〉有豐玉姫侍者、〈○中略〉見天孫〈○火折尊〉卽入吿其王曰、吾謂我王獨能絶麗、今有一客彌復遠勝、海神聞之曰、試以察之、乃設三床請入、於是天孫於邊床則拭其兩足、於中床則據其兩手、於内床則寬坐於眞床覆衾之上、海神見之、乃知是天神之孫、益加崇敬云云、

〔日本書紀〕

〈二十四/皇極〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1214 三年、中臣鎌子連爲人忠正有匡濟心、乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序、挾http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/km0000m01314.gif 社稷之權、歷試接王宗之中、而求功名哲主、便附心於中大兄(○○○)、〈○天智〉疏然未其幽抱、偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中前跪恭奉(ツヽシムデ)、中大兄對跪敬執(イヤマヒ)、自玆相善、倶述懷、旣無匿、

〔續日本紀〕

〈三/文武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 慶雲元年七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自唐國至、初至唐時、〈○中略〉唐人謂我使曰、亟聞、海東有大倭國、謂之君子國、人民豐藥、禮義敦行、今看使人、儀容大淨、豈不信乎、語畢而去、

〔續日本後紀〕

〈一/仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 天長十年三月乙巳、天皇御紫宸殿、皇太子〈○恒貞〉始朝覲、拜舞昇殿、東宮采女羞饌、未箸、勅賜御衣、受之拜舞、早退、以當日須一レ謁兩太上天皇也、于時皇太子春秋九齡矣、而其容儀禮數、如老成人

〔續日本後紀〕

〈九/仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 承和七年七月庚辰、右大臣從二位皇太子傅藤原朝臣三守薨、〈○中略〉立性温恭、兼明決斷、招引詩人、接杯促席、參朝之次、有一兩學徒諸塗、必下馬而過之、以此當時著稱、

〔文德實錄〕

〈八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 齊衡三年七月癸卯、權中納言兼左衞門督從二位藤原朝臣長良薨、長良贈太政大臣正一位冬嗣之長子也、志行高潔、寬仁有度、弘仁十三年爲内舍人、仁明天皇在儲宮時、晨昏侍坐、花時月夜戯席射場、天皇毎許以交敵之恩、長良逾修冠帶、不敢和狎

〔大鏡〕

〈三/太政大臣實賴〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 このおとゞ〈○藤原實賴〉はたゞひらのおとゞの一男におはします、〈○中略〉おのゝみやの南おもてには、御もとゞりはなちていでさせ給事なかりき、そのゆへは、いなりのすぎのあらはにみゆれば、明神御らんずらんに、いかでかなめげにてはいでんとの給はせて、いみじくつつしませ給に、をのづからおぼしわすれぬるおりは、御袖をかづかせ給てぞ、おどろきさはがせ給へる、

〔古今著聞集〕

〈十九/草木〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1215 貞信公〈○藤原忠平〉なつめをあひしてまいりけり、式部卿親王の家によきなつめの木ありけり、其木をおろし枝にせられて、手づから身づから、花山院の北對のにしの妻戸の庭前にうへ給ひけり、是によりて其木左右なき名木にていまだ有、花山院太政大臣〈○藤原師實曾孫忠雅〉の三位の中將の時、法性寺殿〈○師實曾孫忠通〉攝政にて、六條坊門烏丸の御亭より、土御門内裏へまいらせ給ふには、近衞東洞院は便路なれば、もつとも此大路をこそとをらせ給べきに、いかにもよけさせ 給ひけり、をのづから此大路をすぎさせ給とては、東洞院にしの四足をばすぎて、その棟門のまへにては、御車のすだれをおろされ、前驅以下を馬ゟおろされけり、人あやしみて其子細を尋申ければ、ときの攝政、三位の中將をうやまふにあらず、亭に貞信公のまさしく手づからうへ給へる名木あり、かれに禮を致也、此事京極大殿〈○師實〉つぶさにしめし給旨、分明也とそ仰られける、

〔吾妻鏡〕

〈九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1216 文治五年九月七日甲子、宇佐美平次實政、生虜泰衡郎從由利八郎、相具參上陣岡、而天野右馬允則景、生虜之由相論之、二品〈○源賴朝〉仰行政、先被置兩人馬幷甲毛等之後、可間實否於囚人之旨被景時、〈○中略〉景時頗赦面、參御前申云、此男惡口之外無別言語之間、無糺明者、仰云、依無禮、囚人咎之歟、尤道理也、早重忠〈○畠山〉可間之者、仍重忠手自取敷皮、持來于由利之前之、正禮而誘云、携弓馬者、爲怨敵囚者、漢家本朝通規也、不必稱耻辱之、就中故左典厩〈○源義朝〉永曆有横死、二品又爲囚人、令六波羅給、結句配流豆州、然而佳運遂不空、拉天下給、貴客雖生虜之號、始終不沈淪之恨歟、奧六郡内、貴客備武將譽之由、兼以留其名之間、勇士等爲勳功、搦獲客之旨、互及相論歟、仍云甲云馬毛付畢、彼等浮沈可于此事者也、爲何色之甲生虜給哉、分明可之者、由利云、客者畠山殿歟、殊存禮法、不前男奇恠、尤可之、著黑糸威甲、駕鹿毛馬者、先取予引落、其後追來者、嗷々而不其色貝云云、重忠令歸參、具披露此趣、件甲馬者實政之也、已開御不審訖、

〔吾妻鏡〕

〈二十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1216 寬喜四年〈○貞永元年〉十一月廿八日、武州〈○北條泰時〉爲御當番、今夜宿侍于御所給、而御共侍持參御筵、不御疊之上、昵近于人之者、爭不此程之禮哉、尤耻傍輩推察之由被仰、出羽前司民部大夫入道、以下宿老兩三輩、候其所之、周防前司親實、此事可末代美談之由、濳感申之云云、

〔吾妻鏡〕

〈二十九〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1216 貞永二年〈○天福元年〉正月十三日、武州〈○北條泰時〉參右大將家〈○源賴朝〉法華堂給、今日依御忌日也、到彼砌、布御敷皮於堂下坐給、御念誦移剋、此間別當尊範令參會、可御堂上之由、頻雖之、御在世之時、無左右堂上、薨御之今、何忘禮哉之由被仰、遂自庭上歸給云云、

〔碧山日錄〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 長祿四年〈○寬正元年〉七月六日庚辰、春公之父常久字昌運〈○細川、中略、〉爲人純實而果勘、事父霄岸有孝行、出入則必吿之、自其少時、未嘗不衣冠霄岸、霄岸又遇之太恭謹、其禮若嚴賓也、

〔常山紀談〕

〈十八〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 東照宮〈○德川家康〉大度勇略におはしませし事は、誠に申も愚なり、中にも禮儀を正させ給ひしかば、今川義元討死の桶挾間を御鷹狩にて、過させ給ふ時、必御馬より下させ給ふ、これは御幼時、義元のよしみを思召出されての事なりけり、上杉景勝に途中にて行逢せ給ふ時、輿より下りさせ給ふ、是も父謙信のよしみを思召ての御事なり、

〔常山紀談〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 勝賴〈○武田〉亡て後、信長、信玄の館を見んとて、馬を乘入んとせられしに、馬進まざりしかば、引返されけり、東照宮は、程經て甲州を治めさせ給ふ時、信玄の館の跡、御覽の時、館の門外にて、御馬より下させたまひしとぞ、

〔老人雜話〕

〈乾〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 蒲生〈○氏郷〉は江州の士なり、佐々木承禎の臣なりし、後信長に事へ、又太閤に仕ふ、氏郷は勝れたる人也、始は勢州松坂にて、十二萬石を所領す、夫より直に會津百二十萬石を領す、太閤の時也、此時四十歲許也、承禎は江州一ケ國を領して大名也、信長に滅されて江州を取らる、承禎の子は四郎殿とて、太閤の時は咄の者に、成て、知行二百石也、蒲生は其臣たりしが、百萬石餘を領す、伏見などにて、太閤の御前に侍て、退參の時、氏郷昔を思て、刀を持て從はれし事ありしとぞ、

〔備前老人物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 一細川三齋の兒小姓に、當座指料の刀を給はる事ありしに、謹て頂戴して腰にさし、頭を座につけ色代し、其後彼刀を三齋の左りの脇になをしをき、たちさりて指かへの刀をもち來り、拜領せし刀に取かへて退けり、若輩の身として、奇特なる心ばへ也、上下かんじあへりしと也、

〔駿臺雜話〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1217 阿閉掃部
秀康卿、越前に封ぜられ給ひし後、阿閉掃部とて、武功の譽ありし者を、厚祿にて召抱られけり、〈○中〉 〈略〉掃部〈○中略〉某一生の内に、武者振の見事なる士を一人見申て候、その事をはなし申べし、江州志津嶽の戰に、暮方に某一騎余吾の湖のわたりを引候ひしに、〈阿閉掃部が父は阿閉淡路守とて、明智にくみしけるとなん、然れば志津嶽合戰の時、掃部は柴田方にてあるべし、〉敵とおぼしくてうしろより詞をかけし故、馬を引返し候へば、其人申候は、今朝よりかせぎ候へども、よき敵にあひ申さず候、御人體を見うけ幸とこそ存候へ、御不祥ながら御相手になり申べきとて、すゝみより候故、それこそこなたも望む所にて候へとて、たがひに馬をのりはなし、すでに鎗をあはせんとしけるに、其人しばし御待候へ、今朝より雜兵をおほく突崩し候故、鎗よごれて候まゝ、鎗をあらひ候て御相手になり候、はんとて、余吾の湖に鎗を打ひたし、二三遍あらひつゝ、さらばとて突あひしが、久しく勝負なかりし程に、日も暮はてゝものゝあやめも見へずなりぬ、其時あなたより又詞をかけ、もはや鎗先も見へず候、御殘多くは候へども、是までにて候、御いとま申候べし、御名こそ承たく候、某は靑木新兵衞と申者にて候とて、某が名をも承り候て、此後又陣頭にて出合候はゞ、たがひに人手にはかゝり申まじく候、もし又味方にて候はゞ、わりなく入魂いたし候べし、さらばとて立わかれしが、是程見事なる武士はつゐに見侍らず、いかゞなりはて候にやと語りける、〈○下略〉

〔大猷院殿御實紀附錄〕

〈四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1218 正月の拜賀に、無官の輩謁見終りて後、けふの賀班に、織田右近が居しとみえたり、かれは正しく右府〈○織田信長〉の後にて名家なれば、總禮をうくべきにあらず、しばし退散をとゞめ候へと仰て、ことさら出御ありて、右近一人が賀をうけさせられしとぞ、

〔常憲院殿御實紀附錄〕

〈中〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1218 經典を繙き玉ふにも、〈○德川綱吉〉收めらるゝにも、必らず拜戴したまひ、御講義をし玉ふには、御刀御指添共に、はるか御座をはなされて置れしなり、こは經籍に臨みたまへば、先聖に對し玉ふ、御思召にて、かく御崇敬ありしなり、

〔吉備烈公遺事〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1218 公〈○池田光政〉泮宮ニ至ラセ給フ時ハ、必禮服ヲ召給ヒ、必ズ遠ク乘輿ヲ止テ、オリサセ 給フ、今ノ小畠儀左衞門ガ門前ヨリ、北へ過サセタマフコトナシ、

〔有德院殿御實紀附錄〕

〈三〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1219 歷世の靈廟、公〈○德川吉宗〉の御時にいたり、東叡三緣の兩山にて、旣に七廟に及べり、これ古禮、天子七廟の制に嫌ひなしとせず、末の世のならはしにて、かくはなり來りし事ながら、歷世建置れし諸廟を、我世にあたり減ずべきにあらず、わが百歲の後は、新に廟を建べからず、常憲院殿〈○德川綱吉〉の廟中に配祀すべしと仰出されけり、その後、大猷院殿〈○德川家光〉の靈廟火災にかゝりければ、これをも嚴有院殿〈○德川家綱〉の廟に配祀させ玉ひ、遂に當家の定制となされたりこれも費用をおしませ玉ふにあらず、禮數を定め玉へるみこゝろざしとぞ聞えし、

〔兼山麗澤秘策〕

〈知〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1219 一當上樣〈○德川吉宗〉御盛德の事、狩野探幽、堯舜より以來、代々の聖人を畫たる極彩色の六枚屛風有、舜などには鳳凰の成儀を書ならべ、其形見事成物なるを、先年御物にも成らんかと上覽に入けり、久敷其儘御差置被成、十七日御忌日、麻上下召候御時に、始て上覽ありて、上意に尤見事成繪なれ共、聖人の像を懸物抔にして、床に掛なビするは不苦、屛風と云物は、筵席の上に置て、平生對坐しても見るもの也、屛風抔に聖賢の像を書て、見る事勿體なき事に思召候間、御返し被成候由上意なり、常々聖像には、假初にも上下召ずしては、御對し不成候、

〔肥後物語〕

熊本侯學者ヲ優待シ玉フ事
附錄 伊形正助ト申スハ、木葉村ノ百姓ナリシガ、詩上手ナリトテ撰擧セラレ、俸祿ヲ給ハリタリ、其比堀平太左衞門公所ニテ、始テ出合ヒ、正助ニ向ヒ、此以後ハ懇意致シタシ、〈○中略〉其後平太左衞門、外ノ儒者ニ對談ノ節、物語リシケルハ、サテモ學德ト申スモノハ、不思議ナルモノナリ、先日用事ニツキ、伊形正助ニ、返書ヲ認メタルニ、已ニ書調ヘシ上ニテ見レバ、何トカ無禮ナル辭アルヤウニテ落付ズ、又書直シ見テモ、兎角宜シカラズ、凡三度調直シテ、漸ク成就シタリ、日用ノ書狀ヲ調直シタルコトハ、多クハ無リシニ、不思議ナルモノナリ、正助ハ輕キ新參ノ扶持人ナレド、偏 ニ學問ノ德ニ推サレタルナリト云へリ、

雜載

〔子弟訓〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220
君をあふぎ臣をおもひてかりそめもたかきいやしき禮儀みだすな

謙讓

〔類聚名義抄〕

〈五/言〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 謙〈去嫌反 ヘル ユツルウヤマフ 和ケ厶〉

〔伊呂波字類抄〕

〈計/疊字〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 謙讓(ケンシヤウ) 謙下 謙恭

〔書言字考節用集〕

〈八/言辭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 謙(ヘリクダル) 遺(同)〈音隨、毛詩、〉

〔同〕

〈九/言辭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 謙退(ケンタイ) 謙讓(ケンジヤウ) 謙下(ケンゲ) 謙辭(ケンジ)

〔日本書紀〕

〈十三/允恭〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 雄朝津間稚子宿禰天皇、〈○允恭、中略、〉天皇自岐嶷於總角、仁惠儉下(ヘリクダリ玉ヘリ)、

〔日本書紀〕

〈十三/允〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 六年〈○反正〉正月、瑞齒別天皇〈○反正〉崩、爰群卿議之、〈○中略〉選吉日、跪上天皇之璽、雄朝津間稚子宿禰皇子、〈○允恭〉謝曰、〈○中略〉更選賢王宜立矣、寡人弗敢當、群臣再拜言、夫帝位不以久曠、天命不以謙距(ユヅリフセグ)、〈○下略〉

〔日本釋名〕

〈中/人事〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 謙(ヘリクダル) へりは減(ヘル)也、身のたうときとかしこきとを、へらして人にくだる也、へりくだるは、萬の善の本なり、萬善これよりおこる也、わが身をあしきと思へば、ひたもの善にすゝむゆへなり、

〔日本書紀〕

〈十一/仁德〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1220 四十一年〈○應神〉二月、譽田天皇〈○應神〉崩、時太子莵道稚郎子讓位于大鷦鷯尊、〈○仁德〉未帝位、〈○中略〉旣而興宮室於莵道而居之、猶由位於大鷦鷯尊、以久不皇位、爰皇位空之旣經三載、時有海人鮮魚之苞苴、獻于菟道宮也、太子令海人曰、我非天皇乃返之、令難波、大鷦鷯尊亦返以令菟道、於是海人之苞苴鯘於往還、更返之取他鮮魚而獻焉、讓如前日、鮮魚亦鯘、海人苦於屢還、乃棄鮮魚而哭、故諺曰、有海人(アマナレヤ)耶、因己物以泣(オノガモノカラ子ナク)、其是之緣也、太子曰、我知兄王之志、豈久生之煩天下乎、乃自死焉、時大鷦鷯尊聞太子薨以驚之、從難波馳之到莵道宮、爰太子薨之經三日、時大鷦鷯尊標 擗叫哭不如、乃解髮跨屍以三呼曰、我弟皇子、乃應時而活、自起以居、爰大鷦鷯尊語太子曰、悲兮惜兮、何所以歟、自逝之、若死者有知、先帝何謂我乎、乃太子啓兄王曰、天命也、誰能留焉若有天皇之御所、具奏兄王聖之且有一レ讓矣、然聖王聞我死以急馳遠路、豈得勞乎、乃進同母妹八田皇女曰、雖納綵、僅充掖庭之數、乃且伏棺而薨、於是大鷦鷯尊素服爲之發哀、哭之甚働仍葬於菟道山上

〔日本後紀〕

〈五/桓武〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 延曆十五年七月乙巳、右大臣正二位兼行皇太子傅中衞大將藤原繼繩薨、〈○中略〉繼繩歷文武之任、居端右之重、時在曹司、時就朝位、謙恭自守、政跡不聞、雖才識、得世譏也、

〔續日本後紀〕

〈十二/仁明〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 承和九年十月壬午、彈正尹三品阿保親王薨、〈○中略〉親王素性謙退、才兼文武、〈○下略〉

〔三代實錄〕

〈二/淸和〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 貞觀元年四月廿三日戊申、大納言正二位兼行民部卿陸奧出羽按察使安倍朝臣安仁薨、〈○中略〉安仁志尚謙虚、愛公如家、顧謂子弟云、諸國調貢、多入封家、納官者少、所食邑於身有餘、乃上表曰、帶職兩三官周旋於具瞻之地、食邑八百戸、盈溢於尸素之身、伏望減大納言之所食、給中納言之所封、帝感安仁之有一レ讓、特許其所一レ請、

〔神皇正統記〕

〈醍醐〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 兩大臣〈○左大臣藤原時平、右大臣菅原道眞、〉天の下の政をせられしかば、右相は年もだけ才もかしこくて、天下の望むところなり、左相は譜代の器なりければすてられがたし、あるとき上皇〈○宇多〉の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと、いひさだめありて、すでにめしおほせ給ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ、

〔九曆〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 天曆三年正月廿一日、頭有相參來、仰〈○藤原師輔〉云、御病重由助憂不少、爲息災度者五十人者、復命云、依臣下病息給之例雖一兩、是爲有功勤公之輩也、今臣年來纏病痾出仕、而蒙不渥之恩、不奏者、此仰具承、中納言傳之、被物白大褂 一重、

〔續古事談〕

〈二/臣節〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1221 貞信公〈○藤原忠平〉太政大臣ニ成給テノ給ヒケル、我カタジケナク、人臣ノ位ヲキハム、コノカミ時平大臣ヲ、太政犬臣ニナサルベキヨシ、前皇オホセラレケルニ、カノオトヾ奏シテ申 サク、弟忠平必此官ニイタルベシ、一門ニ二人イルベカラズトテ、勅命ヲウケズトイヒキ、〈○下略〉

〔字治拾遺物語〕

〈十四〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1222 これもいまはむ、かし、月の大將星を犯といふ勘文をたてまつれり、よりて近衞大將、をもくつふしみ給べしとて、小野宮右大將はさま〴〵の御いのりどもありて、春日社、山階寺などにて、御所あまたせらる、そのときの左大將は、枇杷左大將仲平と申人にてぞおはしける、東大寺の法藏信都は、此左大將の御所の師なり、さだめて御所のことありなんと待に、をともし給はねば、覺束なきに、京に上りて、枇杷殿にまいりぬ、殿あひ給ひて、何事にてのぼられたるぞとの給へば、僧都申けるやう、奈良にてうけ給れば、左右大將つゝしみ給べしと、天文博士勘申たりとて、右大將殿は、春日社、山階寺などに御いのりさま〴〵に候へば、殿よりもさだめて候なんと思給て、案内つかうまつるに、さることもうけ給はらずと、みな人はおぼつがなく思給て、まいり候つるなり、なを御所候はんこそ、よく候はめと申ければ、左大將の給やう、尤ゑかるべきことなり、されどをのがおもふやうは、大將のつゝしむべしと申なるに、おのれもつゝしまば、右大將のためにあしうもこそあれ、かの大將は、才もかしこくいますかり、年もわかし、ながく大やけにつかうまつるべき人なり、をのれにおきては、させることもなし、年も老たり、いかにもなれ、何條ことかあらんとおもへば、いのらぬなりとの給ければ、僧都いろ〳〵と打なきて、百千の御祈にまさるらん、この御心の定にては、事のをそれ更に候はじといひてまかでぬ、されば實にことなくて、大臣になりて、七十餘までなんおはしける、

〔古今著聞集〕

〈十一/畫圖〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1222 東大寺供養の時、鎌倉右大將〈○源賴朝〉上洛有けるに、法皇〈○後白河〉より寶藏の御繪共を取出されて、關東にはありがたくこそ侍らめ、見らるべきよし仰つかはされたりけるを、幕下申されけるは、君の御秘藏候御物に、いかでか賴朝が眼をあて候べきとて、恐をなして、一見もせで、返上せら、れにければ、法皇は定て興に入らんと思召たりけるに、存外にぞ思食されける、

〔備前老人物語〕

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1223 一ある時、古田大膳、靑木民部少輔に向ひ、貴殿は越前の眞柄をうち給ひしと也、其時の樣子かたり給へかし、承たくぞんじ候といはれしに、眞柄といひしものは、大剛大力のものにて、我等などにうたるべきものにあらず、折ふしの仕合よくて、眞柄手負ひ、くたびれし所へ、ゆきかゝりてうちし故、なにの樣子もなく候ひしとこたへられけり、かたるにかざりなくの給ふやうかなと、大膳ことの外、聞人みな感じける也、

〔常山紀談〕

〈二十一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1223 東照宮、後稻田に御感狀を賜ふ、太平の後、御旗本の人々、稻田に逢て、大坂夜討の時の事語られよといひしに、九郎兵衞聞て、十五の年の事、隔りてみな忘れたりとて、强て問ども一言もいはず、公方より賜りたる感狀の詞をとへども、存寄ざる賞を得て、深くをさめ置、再び見たる事なければ、これも忘れたりとて、語らざりしとなり、

〔藩翰譜〕

〈八上/毛利〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1223 輝元、餘多の國々沒收せられ、周防、長門兩國を給はり、長門國をば、秀元にゆづりあたぶべしと仰せ下さる、秀元此由を承り、輝元が嫡子のはべれば、兩國の事をば、彼にこそ給ふべけれと申して、我身は僅に豐東豐西豐田三郡を領し、長門の長府に住して、長門守秀就が成人の程、彼家の事を執り行ひ、常に關東に伺候す、

〔近代正説碎玉話〕

〈六〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1223 一本多中務少輔忠勝、病デ卒スル時〈○中略〉我黃金一萬五千兩ヲ儲ヘオキヌ、次子出雲守忠朝ハ小身ナレバ、此黃金ヲ與ベシトノ遺言ナリ、〈○中略〉忠政〈○中略〉黃金ヲ封ジテ、忠朝ニ與ズ、〈○中略〉忠朝〈○中略〉黃金ヲ取ル心ナシ、〈○中略〉忠政之ヲ耻ヂテ、皆忠朝ニ與タレ共、忠朝固辭ス、忠政ハ父ノ書置不違ト云、忠朝ハ次子、其家ノ財ヲ專ニスベカラズト云テ、兄弟互ニ相讓ラル、一門ノ人々感之、黃金ヲ二ツニ分テ、半ヲ忠政、半ヲ忠朝ニト定ラレケレバ、忠朝マヅ其裁判ニ任セナガラ、急用アラバ、時ニ當リテ申請クベシトテ、封ヲ解カズ、忠政ノ倉ニ置テ、身ヲ終ルマデ、一金ヲモ不取、

〔先哲叢談後編〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1224 三宅寄齋
寄齋資性謙虚、退讓自將、不敢欲名高、雖然聞其操行、慕附者衆矣、特與藤惺窩交情最密、惺窩長于寄齋十九歲、而能愛敬之、稱以爲謙厚君子

〔近世畸人傳〕

〈一〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1224 貝原益軒
益軒貝原氏、諱篤信〈○中略〉その學博く和漢に亘れること、等輩尠しといへども、性甚謙にして、只身の及ざることを恐れ、名に近づくことを喜ばず、常に言、吾人に長たることなし、但恭默道を思ふのみと、

〔閑散餘錄〕

〈附錄〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1224 或人ノ話ニイフ、先生〈○貝原益軒〉諸國ヲ巡リ、歸國ノ海路ニテ、同船數輩、各姓名ヲトヒキクニモ及バズ、何トナキ物語ドモヲシテ、日ヲ重子シニ、其中一人ノ若キ男人々ニ對シテ、經書ヲ講ズ、先生例ノ恭々シク默シテコレヲ聽テ、一言是非ヲ論ゼズ、著岸シテ、各ハジメテ其郷里ヲ明シ、再會ヲ契テ別ルヽニ臨ミ、先生モ、吾ハ貝原久兵衞ト申者也ト、名ノラルヽヲ聞テ、彼ノ若キ男、大キニ恥オソレテ、速ニニゲサリシトナン、傳ニハ見エザレ共、其爲人ノ一端ヲミルベシ、

〔桃源遺事〕

〈五〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1224 越後の光長朝臣の、御家中騷動につき、家臣荻田主馬、小栗美作を江戸の御城へめし、御前におゐて、對決仰付られ候節、綱豐卿、〈甲府〉御三家の御方も、其席に御詰被遊候處に、此席の御座配は、御三家の下へ、綱豐卿御著座の筈の處に、西山公〈○德川光圀〉達て仰られ、御座を綱豐卿へ御ゆづり、西山公は次の座に御著被成候、此時綱豐卿は正三位、西山公は從三位にて御座被成によつて也、

〔有德院殿御實紀附錄〕

〈二〉

http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.1224 二丸におはしけるほどは、〈○德川吉宗〉いかにも御喪中の御つゝしみうるはしく、少しも御遊樂のけしきなく、常に好せ玉ひし鷹のたぐひ、近づけ玉はざりしが、譜代の人々をばめして、まみへさせ給ふ、これ舊臣を待遇し給ふ盛慮なるべし、またこのほど、尾張水戸の兩 卿拜謁せられし時、公上段より下りかゝらせ給ふを見て、綱條卿〈○水戸〉はしりより、しひてとゞめ進らせられけれど、今日ばかりはと仰ありて、下段にて御對面あり、其後は上段にて、謁をうけ玉ひしとなり、


Last-modified: 2019-05-05 (日) 13:31:31 (508d)