https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 貴ハ、タフトシト云フ、賤ニ對スルノ稱ニシテ身分ノ高キモノヲ謂フナリ、我國ニテハ、至尊ヲ以テ第一ト爲シ、官位ノ高キモノ之ニ次グ、又德行高キガ爲ニ人ヨリ尊敬セラルヽモノアリ、今其著キモノヲ擧グ、

名稱

〔類聚名義抄〕

〈三/貝〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 貴〈居胃反 タフトシ タカシ アテヤカナリ 和、クイ、〉

〔伊呂波字類抄〕

〈太/人事〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 尊〈タフトシ〉 宗〈タツトフ〉 貴

〔倭訓栞〕

〈前編十四/多〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 たふとし 神代紀の歌にみゆ、貴をよめり、皇代紀に貴盛をたのしきとも、たふときともよめり、催馬樂のあなたふとゝいふも、樂しき意也といへば、義通ふ成べし、万葉集には、たふときうともみへたり、常にたつとしともいへり、

〔倭訓栞〕

〈中編十三/多〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 たふともの 弘法大師のおさな名を貴物といへり、北史に、夫人者天地之貴物と見ゆ、

貴例

〔古事記〕

〈上〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555是洗左御目時、所成神名、天照大御神、次洗右御目時、所成神名、月讀命、次洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命、〈○中略〉此時伊邪那岐命大歡喜詔、吾者生生子而、於生終、得三貴子、〈○下略〉

〔古事記傳〕

〈七〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0555 三貴子は、書紀一書に、曰吾欲一レ御宙之珍子とありて、訓注に、珍此云于圖とありて、此の三柱大神成出坐し、神武卷にも、珍彦此云于砮毘古とあり、又大殿祭祝詞に、皇我字都御子 皇御孫之命とある、これらを合せて美婆斯羅能宇豆能美古と訓べし、又玉篇に、珍字に貴也と云註もあれば、字も然訓むに難もなし、さて宇豆は師説に、高く嚴(イツクシ)きことなりとあり、〈今言に人の容貌を、宇豆高きと云も、よく叶へり、〉

〔日本書紀〕

〈十三/允恭〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0556 二年二月己酉、立忍坂大中姫皇后、〈○中略〉初皇后隨母在家、獨遊苑中時、鬬雞國造從傍徑行之、乘馬而莅籬、謂皇后嘲之曰、能作園乎、汝者也、〈汝此云那鼻苫也〉且曰、壓乞戸母、其蘭一莖焉、〈壓乞此云異提、戸母此云覩自、皇后則採一根蘭於乘馬者、因以問曰、何用求蘭耶、乘馬者對曰、行山撥蠛也、蠛此云摩愚那岐〉時皇后結之意裏、乘馬者辭无一レ禮、卽謂曰、首也余不忘矣、是後皇后登祚之年、覓馬乞蘭者、而數昔日之罪、以欲殺、爰乞蘭者顙搶地叩頭曰、臣之罪實當萬死、然當其日貴者、於是皇后赦死刑、貶其姓稻置

〔日本書紀〕

〈十五/顯宗〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0556 穴穗天皇〈○安康〉三年十月、天皇〈○中略〉勸兄億計王〈○仁賢天皇〉向播磨國赤石郡、倶改字曰丹波小子(ワラハ)、就仕於縮見屯倉首、〈縮見屯倉首、忍海部造細目也、〉吾田彦至此不離、固執臣禮、白髮天皇二年冬十一月、播磨國司山部連先祖、伊與來目部小楯、於赤石郡親辨新嘗供物、〈一云、巡行郡縣斂田租也、〉適會縮見屯倉首、縱賞新室、以夜繼晝、爾乃天皇謂兄億計王曰、避亂於斯、年踰數紀、顯名著貴、方屬今宵、億計王惻然歎曰、其自導揚見害、孰與全身免一レ厄也歟、天皇曰、吾是去來穗別天皇之孫、而困事於人、飼牧牛馬、豈若名被一レ害也歟、遂與億計王相抱涕泣、不自禁、億計王曰、然則非弟誰能激揚大節、可以顯著、天皇固辭曰、僕不才、豈敢宣揚德業、億計王曰、弟英才賢德、爰無以過、如是相讓再三、而果使天皇自許稱述、倶就室外、居乎下風、屯倉首命居竈傍左右燭、夜深酒酣、次第儛訖、屯倉首謂小楯曰、僕見此秉燭者、貴人而賤己、先人而後己、恭敬撙節、退讓以明禮、〈樽猶趍也、相從也、止也、〉可君子(ウマヒトノコト)、於是小楯撫絃、命燭者曰、起儛、於是兄弟相讓、久而不起、小楯嘖之曰、何爲太遲、速起儛之、億計王起儛旣了、天皇次起、自整衣帶室壽曰、〈○中略〉壽畢乃赴節歌曰、伊儺武斯廬、哿簸泝比野儺擬、寐逗愈凱麼、儺弭企於巳陀智、曾能泥播宇世儒、小楯 謂之曰、可怜、願復聞之、天皇遂作殊儛、〈殊儛古謂之立出儛、立出此云陀豆豆、儛狀者乍起乍居而儛之、〉誥之曰、倭者彼彼茅原、淺茅原、弟日僕是也、小楯由是深奇異焉、更使唱之、天皇誥之曰、石上振之神椙、〈椙此云須擬〉伐本截末、〈伐本截末此以謨登岐、利須衞於茲婆羅比、〉於市邊宮天下天萬國萬押磐尊御裔僕是也、小楯大驚離席、悵然再拜、承事供給、率屬欽伏、於是悉發郡民、造宮不日、權奉安置

〔懷風藻〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 葛野王二首
王子者、淡海帝〈○天智〉之孫、大友太子之長子也、母淨御原帝之長女十市内親王、器範宏邈、風鑒秀遠、材稱棟幹、地兼帝戚、〈○下略〉

〔藤原家傳〕

〈武智麿〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 藤原左大臣諱武智麻呂、左京人也、〈○中略〉五年〈○和銅〉六月、徙爲近江守、近江國者、宇宙有名之地也、地廣人衆、國富家給、〈○中略〉時人咸曰、太平之代、此公私往來之道、東西二陸之喉也、其治急、則姧僞而逋竄、其治緩、則嫚侮而侵凌、公導之以德、齊之以禮、赦小過而演化、行寬政而容衆、入于閭閻、敬訪父老、鷁百姓之所苦、改國内之惡政、勸催農桑、使之以時、至差課、先富饒與多丁、後貧窶與單弱、貴老惠小、令其所、國人悦曰、貴人臨境、百姓得蘇、其被人貴仰、大略如斯也、

〔今昔物語〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0557 淡海公繼四家語第二
今昔、淡海公ト申ス大臣御マシケリ、實ノ御名ハ不比等ト申ス、大織冠ノ御太郎、母ハ天智天皇ノ御后也、而ルニ大織冠失給テ後、公ニ仕リ給テ、身ノ才極テ止事无ク御ケレバ、左大臣マデ成上リ給テ、世ヲ政テゾ御ケル、男子四人ゾ御ケル、太郎ハ武智麿ト申シテ、其ノ人モ大臣マデ成上テゾ御ケル、二郎ハ房前ノ大臣ト申ケリ、三郎ハ式部卿ニテ宇合トゾ申ケル、四郎ハ左右京ノ大夫ニテ麿ト申ケリ、此ノ四人ノ御子ノ太郎ノ大臣ハ、祖ノ御家ヨリハ南ニ住ミ給ケレバ、南家ト名付タリ、二郎ノ大臣ハ祖ノ家ヨリハ北ニ住給ヒケレバ、北家ト名付タリ、三郎ノ式部卿ハ官式部卿ナレバ、式家ト名付タリ、四郎ノ左京ノ大夫ハ、官ノ左京ノ大夫ナレバ、京家ト名付タリ、此ノ四家 ノ流々、此ノ朝ニ滿テ弘ゴリテ隙无シ、其ノ中ニモ、二郎ノ大臣ノ御流ハ、氏ノ長者ヲ繼テ、テ今攝政關白トシテ榮工給フ、世ヲ恣ニシテ天皇ノ御後見トシテ政コチ給フ、只此ノ御流ナリ、太郎ノ大臣ノ南家モ、人ハ多ケレドモ、末ニ及テハ、大臣公卿ナドニモ成ル人難シ、三郎ノ式家モ人ハ有ドモ、公卿ナドニ至ル人无シ、四郎ノ京家ハ可然キ人ハ絶ヘニケリ、只侍ナドノ程ニテヤ有ラン、然レバ只二郎ノ大臣ノ北家、微妙榮給テ、山階寺ノ西ニ佐保殿ト云フ所ハ、此ノ大臣ノ御家也、然レバ此ノ大臣ノ御流、氏ノ長者トシテ、其ノ佐保殿ニ著給フニハ、先ヅ庭ニシテ拜シテゾ上給フ、其レハ其ノ御形、其ノ佐保殿ニ移シ置タル也、然レバ淡海公ノ御流、此ナム御ケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、
房前大臣始北家語第三
今昔、房前ノ大臣ト申ケル人御ケリ、此ハ淡海公ノ二郎也、身ノ才止事无ク御ケレバ、淡海公失給テ後ニ、世ノ思エ微妙クシテ、程无ク大臣マデ成リ上リ給ヒニケリ、淡海公ノ御子四人御ケル中ニ、此ノ大臣家ヲ繼テ、此レヲ北家ノ初ト申ス、今日于今氏ノ長者トシテ榮給フハ、只此ノ大臣ノ御流也、此ノ大臣ヲバ亦可咲○可咲原作三朕、據一本改、門ト申ス、亦河内ノ大臣ト申ケリ、其レハ河内國澀河ノ郡 ノ郷ト云所ニ、山居ヲ造テ微妙ク可咲クシテ住給ヒケレバ也、此ノ大臣ノ御子ニハ、大納言眞楯ト申ス人ナム御ケル、其ノ大納言ハ年若シテ、大臣ニモ不至給、テ失給ニケレバ、其ノ御子ニ内麿ト申ケル人ナム大臣マデ至テ、其家ヲ繼テ御マシケルトナム、語リ傳ヘタルトヤ、

〔文德實錄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0558 仁壽二年二月乙巳、參議正四位下兼行宮内卿相模守滋野朝臣貞主卒、〈○中略〉貞主天性慈仁、語恐人、推進士輩、隨器汲引、長女繩子、心至和順、進退中規、仁明天皇殊加恩幸、生本康親王、時子内親王、柔子内親王、少女奧子頗有風儀、閫訓克修、爲天皇幸、生惟彦親王、濃子内親王、勝子内親王、時人以爲外孫皇子、一家繁昌、乃祖慈仁之所及也、

〔今昔物語〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0559 閑院冬嗣右大臣並子息語第五
今昔、閑院ノ右大臣冬嗣ト申ケル人ノ御子數御ケリ、兄ヲバ長良ノ中納言ト申ケリ、何ナル事ニカ有ケム、此ノ中納言ハ太郎ニテハ御ケレドモ、弟二人ノ下臈ニテゾ御ケル、然レドモ此ノ中納言ノ御子孫ハ、于今繁昌シテ、近代マデ榮エ給テ、太政大臣關白攝政ニ成シ給フモ、皆此ノ中納言ノ御子孫ニ御マス、何況ヤ上達部ヨリ以下ノ人ハ世ニ隙无シ、二郎ハ太政大臣マデ成上リ給テ、良房ノ大臣ト申ス、白川ノ太政大臣ト申ス此レ也、藤原ノ氏ノ攝政ニモ成リ、太政大臣ニモ成給フハ、此ノ大臣ノ御時ヨリ始レバ也ケリ、凡ソ此ノ大臣ハ、心ノ俸テ廣ク、身ノ才賢クテ、万ノ事人ニ勝レテゾ御ケル、〈○中略〉此ノ大臣ハ、此ク微妙ク御ケレドモ、男子ノ一人モ不御ザリケレバ、末ノ不御ヌガ極メテ口惜キ也トゾ世ノ人申ケル、三郎ハ良相ノ右大臣ト申ケル、世ニ西三條ノ右大臣ト申ハ此也、其ノ比淨藏大德ト云フ止事无キ行者アリケリ、其ノ人ト極ジキ檀越トシテ、大臣千手陀羅尼ノ靈驗蒙リ給ヘル人也、此ノ大臣ノ御子ハ、大納言ノ右大將ニテ、名ヲバ常行ト申ケリ、而ルニ其ノ大將ノ御子二人有ケリ、兄ハ六位ニテ典藥ノ助ニ成テ名ヲバ名繼トゾ云ケル、弟ハ五位ニテ主殿ノ頭ニテ名ヲバ棟國トゾ云ケル、皆糸賎キ人ニテ有ケレバ、其子孫无キガ如シ、然レバ彼ノ太郎長良ノ中納言ハ、弟二人ニ被越テ、辛シトコソ思ヒ給ヒケメドモ、其弟二人ノ御子孫ハ无シテ、此ノ中納言ノ御子ハ數御ケル中ニ、太政大臣關白ニ成リテ、御名ヲバ基經ト申ス人御ケル、其ノ御乎孫繁昌シテ、于今榮テ微妙ク御マス、〈○御マス三字原脱據一本、補、〉此ヲ思フニ、世ノ人當時弊ケレドモ、遂ニ子孫榮エ、當時吉ケレドモ末无シ、此レ皆前生ノ果報也トナム、語ヅ傳ヘタルトヤ、

〔大鏡〕

〈二/太政大臣良房〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0559 此殿ぞ、藤氏のはじめて太政大臣攝政し給ふ、めでたき御ありさまなり、わかもあそばしけるにこそ、古今にもあまた侍るめる、前のおほいまうちぎみとは、この御事なり、おほかる中にもいかに御心ゆき、めでたくおぼしてあそばしけんとをしはからるゝ、御むすめそ め殿の后のおまへに、櫻の花のかめにさゝれたるを御らんじて、かくよませ給へるとぞ、
としふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見れば物おもひもなし、后を花にたとへ申させ給へるにぞ、

〔今昔物語〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0560 堀河太政大臣基經語第六
今昔、堀河ノ太政大臣ト申ス人御ケリ、御名ヲバ基經トゾ申ケル、此レハ長良ノ中納言ノ御子也、大臣身ノ才並无シテ心賢ク御ケレバ、年來公ニ仕テ、關白太政大臣マデ成リ上リ給ヒテ、糸止事无カリケリ、亦子孫繁昌ニシテ、男女皆微妙カリケリ、

〔大鏡〕

〈七/太政大臣道長〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0560 かゝれば、女の御さいはいあるは、この北の政所〈○藤原道長妻源倫子〉きはめさせ給へり、御門東宮の御母后とならせ給ふ、あるは御おや、よの一の人にておはするには、御子も生れ給はねども、后に爲させ給ふめり、女の御さいはひは、后こそきはめておはします御事なめれ、されどそれはいと所せげにおはします、いみじきとみの事あれど、おぼろけならねば、えうごかせ給はず、ぢんやゐぬれば、女房たはやすくこゝうにまかせてもえつかまつらず、かやうにところせきなり、たゝ人と申せど、御門東宮の御むばにて、三后になずらふ御位にて、千戸のみふえさせ給ふ、年官年爵を給はらせ給ふ、からの御車にて、いとたはやすく御ありきなども、中々御見やすらかにて、ゆかしうおぼしめしける事は、よの中のものみ、なにの法曾やなどあるおりは、御車にても、御さじきにてもかならず御らんずめり、うち東宮みや〳〵と、わかれ〳〵こそおしくておはしませど、いづかたにもわたりまいらせ給ひては、さしならびおはします、たゞ今二人后、東宮女御、關白、左大臣、内大臣の御母、みかど、東宮はた申さず、おほかたよのおやにて、二所ながらさるべき權者にこそおはしますらめ、御ながらひ四十年計りにやならせ給ひぬらん、あはれにやむごとなきものに、かしづき奉らせ給ふといへばこそをろかなれ、よの中には、いにしへいまの國王 大臣、みな藤氏にてこそおはしますに、この北の政所ぞ、源氏にて御さいはひきはめさせ給ひたる、おとゝしの御賀のありさまなどこそ、みな人見きゝ給ひし事なれど、なをかへす〳〵もいみじく侍りしものかな、〈○中略〉大臣〈○道長〉の御むすめ三人后にて、さしならべ奉らせ給ふ事あさましく、けうのことなり、もろこしには、むかし三千人の后おはしけれど、それはすぢもたづねで、たゞかたちありときこゆるを、となりの國までえらびいだして、その中にやうきひごときは、あまりときめきすぎてかなしき事あり、王昭君はえびすの王に給りて、胡のくにの人となり、上陽人は楊貴妃にそばめられて、御門に見えたてまつらで、春のゆき秋のすぐる事をもしらずして、十六にてまいりて、六十までありけり、かやうなれば三千人のかひなし、わが國にはならの后こそおはすべけれど、代々に四人ぞたて給ふ、この入道殿下のひとつかどばかりこそは、太皇太后宮、皇后宮、中宮三所出おはしたれ、まことにけう〳〵の御さいはひなり、皇太后宮一人のみこそはすぢわかれ給へりといへども、それも貞信公〈○藤原忠平〉御すゑにおはしませば、それよそ人とおもひ申べき事かは、しかあればたゞよのなかは、このとのゝ御ひかりならずといふ事なし、この春こそはうけ給ひにしかば、いとゞたゞ三人の后のみこそは、よにおはしますめれ、ことにふれてあそばせるしわざかなど、居易や、あか人、人丸、みつね、つらゆきといふ人も、などておもひよらざりけんとこそおぼえ侍れ、

〔榮花物語〕

〈十五/疑〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0561 殿の御まへ、〈○藤原道長〉世しりはじめさせ給ひてのち、御門は三代にならせ給、わが御世は廿三四年ばかりにならせ給に、みかどわかうおはしますときは、攝政と申、おとなびさせ給おりは、關白と申て、おはしますに、このごろ攝政をも御一男たゞいまの内大臣〈○賴通〉に讓きこえさせ給て、わが御身は、太政大臣の位にておはしますを、〈○中略〉かゝる程に、御心ちれいならずおぼさるれば、〈○中略〉いかに〳〵とのみ覺しなげかせ給、御物のけどもいとおどろ〳〵しう申すと、れ いのことなり、おほやけわたくしのだいじ、たゞいまこれよりほかは、なに事かはとみへたり、禪林寺の僧正などみなおはす、とのゝ御前さらにいのちおしくも侍らず、さき〴〵世をまつりごち給人々おほかる中に、をのればかりさるべき事どもしたるためしはなくなん、東宮おはします、み所の后〈○一條天皇中宮彰子、三條天皇中宮姸子、後一絛天皇皇后威子、〉院〈○小一條院敦明親王〉のにやうご、おはす、たゞいま内大臣にて攝政〈○賴通〉つかまつる、又大納言にて左大將〈○敎通〉かけたり、又大なごん、〈○賴宗〉あるは左衞門督にて別當かけ、〈○能信〉この〈○の原脱、依一本補、〉をのこの位〈○長家〉ぞいとあさけれど、三位中將にてはべり、みなこれつぎ〳〵おほやけの御うしろみをつかうまつる、みづから太政大臣准三后のくらゐにて侍り、この廿餘年ならぶ人なくて、あまたの御門の御うしろみをつかうまつるに、ことなるなむなくてすぎ侍ぬ、おのが先祖の貞信公、いみじうおはしたる人、我太政大臣にて、太郎小野宮〈○實賴〉のおとゞ、二郎右大臣、〈○師輔〉四郎、〈○師氏〉五郎〈○師尹〉こそは、大納言などにてさしならび給へりけれど、后たち給はずなりにけり、ちかうは九條のおとゞ、〈○師輔〉わが御身は、右大臣にて、やみ給へれど、おほ后〈○安子〉の御はらの、冷泉院圓融院さしつゞきおはしまし、十一人のおのこゞの中に、五人〈○伊尹、兼通、兼家、爲光、公季、〉太政大臣になり給へり、いまにいみじき御さいはひなりかし、されば后三ところたち給へるためしは、この國にはまたなきこと也など、よにめでたき御ありさまをいひつゞけさせ給、ことし五十四なり、しぬともさらにはぢあるまじ、いまゆくすゑも、かばかりのことはありがたくやあらん、あかぬ事は、尚侍〈○嬉子〉東宮〈○後朱雀〉にたてまつり、皇太后宮の一品宮〈○禎子〉の子御事、このふたことをせずなりぬるこそあれど、大みや〈○彰子〉おはしまし、攝政のおとゞいますかれば、さりともとし給事ありなんと、いひつゞけさせ給、

〔古事談〕

〈一/王道后宮〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0562 宇治大納言隆國、後冷泉院御在位之間、誇朝恩無貳之故、奉爲春宮、〈○後三條天皇〉於事頗有奇怪事云々、而受禪之後、爲食多年之御意趣、於彼子息等事次罪科之由、有叡慮、于時 權中納言隆俊卿、聞食參祗殿上之由、竊自小蔀伺覽之處容顏勝於人、體骨超於倫、著座之後、更不顧盻、只正笏居、總日々參仕、陣中公事、一身奉行、殆如傍人、於末代無双之卿相也、若不召仕者、極朝家之損也ト御覽ジテ、舍弟宰相中將隆綱ヲ令待事次之處、齋官寮申、射殺狐、陣定之時、隆綱卿執筆書定文、其詞云、雖飮羽之號、未首丘之實云々、叡覽此筆之後、叡感之餘、剰被近習畢、於今者三男四位少將俊明可御素懷之由、思食之處、忽内裏燒亡、主上駕要輿出御、維人等羣入于南庭、無其隙之間、不御安座、令于御輿給、于時俊明朝臣頗遲參、奉于御輿、自執弓走廻敺雜人、退散之時、則令安座御云々、入御之後被仰云、今日依俊明之德恥、是依運之未一レ盡、俊明所參入也云々、如此間、三人皆以爲近臣、無肩人云々、

〔古事談〕

〈三/僧行〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0563 神藏寺上人覺尊、無動寺仙命上人ハ、同時之人也、覺尊常ニ出洛シテ、知識勸進シケルヲ、仙命ハ無由事シ給物カナト云テ、人ノ信施ヲ不受トテ、只一人房ニ籠居シテ、智得ト云ケル法師ニ、往來一部ヲ預テ、日ニ一度時ヲノミ指入ケレバ、食シテ不斷念佛ヲノミシ給ケリ、白川院御吐吋、女御之御座シケルガ、有智德行ノ貴僧ヲ供養セバヤト思召テ、當時誰力貴キト御尋アリケルニ、人々申云、無動寺仙命上人ニスギタル聖、不有候、但人ノ施ヲ一切不受候云々、女御聞召智德之子細、智得ヲ召寄テ、令謁給テ、袈裟ヲ一給テ、是汝ガ志ノ樣ニテ、構テ上人ニ奉ゼヨト被仰ケレバ、智得賜袈裟、不慮ニ人ノ給テ候、己ハ可懸モ候ハヌウヘニ、御袈裟ノヤレテ候ヘバトテ上人ニ令獻ケリ、仙命思樣ハ、カヽル袈裟、此小法師ニトラスベキ樣無之、我ニ志ザスナメリトテ、呪願候テ、三世諸佛得給トテ、懸作タル房ナレバ、谷底へ投入畢ヌ云々、又隣房ノ人、大和瓜ヲ儲テ食ケルガ、ヨカリケレバ、切サシタル半分ヲ持向テ、是食給へ、殊勝ナレバトテ進タリケルモ、食スル樣ニテ谷へ投入給ケリ、神藏寺ノ上人先立遷化シテ、仙命ノ夢ニ無由ト、制止給シ事ヲキカデ、下品下生ニ生テ候也ト示ケリ、仙命ハタシカニ上品上生ニ生レタルヨシ示也、

〔十訓抄〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 中納言通俊子に、世尊寺阿闍梨仁俊とて、顯密知法にて貴き人おはしけるを、鳥羽院に候ける女房、仁俊は女心ある者の空聖立けると申けるを、かへりきゝて口おしと思ければ、北野に參籠して、此恥をすゝぎたまへと祈請して、
哀とも神々ならば思ふらん人こそ人のみちはたつともとよみければ、其女房赤き袴ばかりを腰にまきて、手に錫杖を持て、仁俊に空ごと云付たる報ひよと云て、院の御所に參て舞くるひけり、淺ましと思召て、北野より仁俊を召て見せられければ、神恩のあらたなるを感じて、涙をながして、一度慈救呪を滿給ひければ、女房本心に成けり、いみじくおぼし召て、うすゞみといふ御馬をぞたびたりける、

〔源平盛衰記〕

〈一〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0564 淸盛捕化鳥幷一族官位昇進事
淸盛安藝守ト申シヽ時、保元元年、左大臣謀叛ノ時、コトナル賞アリテ、同年七月十一日、安藝守ヨリ播磨守ニ移リ、同八月十日、任太宰大貳、平治元年、信賴卿謀叛之時、勳功アリテ、同年十二月廿七日ニ、經盛伊賀守、賴盛尾張守、宗盛遠江守、重盛伊豫守、敎盛越中守、基盛任左衞門佐、永曆元年ニ、正三位シテ參議ニ拜ス、同二年、右衞們督、撿非違使別當、權中納言ニ任ズ、長寬三年ニ、權大納言ニ至リ、仁安元年、内大臣兼ニ任ズ、宣旨幷ニ饗祿ナリケレドモ、忠義公ノ例トゾ聞エシ、同二年ニ、太政大臣ニ上ル、左右ヲ經ズシテ此ノ位ニ至ル事、九條大相國信長公ノ外、總ジテ先蹤ナシ、大將ニアラネドモ、兵仗ヲ賜ヒテ隨身ヲ召シ具シテ、執政ノ人ノ如シ、輦車ニ乘テ宮中ヲ出入ス、偏ニ女御入内ノ儀式ナリ、太政大臣ハ、訓導ノ禮重ク、儀刑ノ寄深ケレバ、地勢大ナリトイヘドモ、賢慮足ラザルモノハ、其仁ニ當ルコトナシ、天才高シト雖ドモ、政理明ナラザルモノハ、猶其器ニアラズ、其人ニ非ザレバ黷スベキ宮ニアラザレドモ、一天ノ安危身ニ由リ、万機ノ理亂、掌ニ在リケレバ、子細ニ及バズ、親子兄弟大國ヲ賜ハリ、兼官重職ニ任ジケル、上三品ノ階級ニ至ルマデ、九代ノ先蹤 ヲ越、角榮エケル、ユヽシキ事ト思ヒシ程ニ、淸盛、仁安三年十一月十一日、歲五十一ニテ重病ニ侵サレ、存命ノ爲ニ忽ニ出家入道ス、法名ハ靜海ナリ、其驗ニヤ宿病立トコロニ愈テ、天命ヲ全クス、人ノ從ヒ付事ハ、吹風草木ヲ靡スガ如ク、世ノ偏ク仰グ事、フル雨ノ國土ヲ潤スニ異ナラズ、サレバ六波羅殿ノ御一家ノ公達ト云テケレバ、花族モ英才モ面ヲ向へ肩ヲ並ブル人ナカリケリ、太政入道ノ小舅ニ、平大納言時忠卿ノ常ノ言ニ、此一門ニアラヌモノハ、男モ女モ、尼法師モ人非人トゾ申サレケル、カヽリケレバ、如何ナル人モ相構へテ、其一門其ユカリニムスボレントゾシケル、昔呉王好劍客、百姓多瘢瘡、楚王好細腰、宮中多餓死、城中好廣眉、四方且半額、城中好大袖、四方用疋帛、ト云フ事アリ、サレバ烏帽子ノタメヤウ、衣紋ノカヽリヨリ始メテ、何事モ六波羅樣ト云ラケレバ、天下ノ人皆之ヲ學ビ、之ニ從ヒケリ、如何ナル賢王聖主ノ御政ヲモ、攝政關白ノ成敗ナレドモ、何トナク世ニアマサレタル徒者ナシト、謗リ傾ケ申スコトハ常ノ習ゾカシ、サレドモ此ノ入道ノ世ノ間ハ、聊モユルカセニ申スモノナカリケリ、〈○下略〉

〔徒然草〕

〈下〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 西大寺靜然上人、腰かゞまり眉しろく、誠にとしたけたる有さまにて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿、あなたうとのけしきやとて、信仰のきそくありければ、資朝卿これを見て、年のよりたるに候と申されけり、後日にむく犬の淺ましく老いさらぼいて、毛はげたるをひかせて、この氣色たうとく見え候とて、内府へ參らせられたりけるとぞ、

〔慶長見聞集〕

〈四〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0565 西譽一人道心おこす事
古人は淸貧にしてたのしみ、濁富にしてかなしび多しといヘり、傳へ聞、ほうこじは持たる寶を船につみ海へ捨て、どくしんに打成て世をたのしび給ふ、扨又九年已前の事なりしに、われ知る人多氣九郎左衞門と云ひし人は、江戸本兩替町に家屋敷有福德にして、しかも若き人なりしが、湯島の寺におはしける稱往上人のけうけを聞、後生こそ大切なれとて、持たる財寶打捨、髮をそ ぎおとし、西譽一人を改名し、念佛三昧の行人となつて、師弟ともなひ、國々をめぐられしが、死期を待こそおそけれとて、伊勢の國わたらひの郡ぼたいせんといふ處にて、慶長十二年丁未五月廿五日にしやしんし、師弟同じ日果られたり、皆人是を見、此由を聞て、ゑんりゑど、ごんく淨土、不惜身命、住西方のけうげなれば、有がたしといひける處に、長生といふ人聞て、いや〳〵此意ろには大に相違せり、新古今にうきながら猶をしまるゝ命かな後の世とても賴なければ、とよめり、此歌殊勝なり、夫命といつは、三千大千世界にみちたる大切の寶なれば、我は此世に千年までもあらばやといふ、愚老是を聞、あら面白の御沙汰どもや、龎居士は世をのがれてたのしび、九郎左衞門は死て後の世をたのしみ、長生は此世をたのしむ、いづれを是とやいはん、非とやいはんと、此義をたつとき、御僧に尋候得ば、是非の理、誰か是を定めん、いづれもたうとしとのたまひける、

〔明良洪範〕

〈二十二〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0566 秀吉公或時近臣ニ語ラレシハ、我ハ尾州ノ民間ヨリ出タレバ、草苅スベヲバ知リタレドモ、筆取事ハエ知ラズ、今不慮ニ雲ノ上ノ交ヲナス、但シ我母若キ時ニ、内裏ノ御厨子所ノ下女タリシガ、玉體ニ近付奉リシ事アリ、其夜ノ夢ニ、幾千萬ノ御祓箱、伊勢ヨリ播磨へ、透間モナク空ヲ飛行ト見ツルヲ、又チハヤブル神ノミテクラ手ニトリテト云歌ヲ、夢中ニ感ジテ、我ヲ懷妊セラレ候、此夢ウレヒアヒヌト覺メテ、信長公ヨリユルサレテ、播州ニ發向シ、卽時ニ討平ニゲ、夫ヨリ中國ニカヽリテ、毛利ト先陣セシ時ニ、明智ガ亂ヲ吿來ル故、時日ヲ移サズ討テ上リ、主君ノ怨敵タル明智ヲ亡シ、紫野ニ於テ公ノ葬送ヲ執行シ、朝廷ニ請テ御贈官ヲナシ奉リ、一宇ヲ建立シテ御位牌ヲ崇メシ、此等ノ冥加ニヤ、今我思ハズモ貴身トナリヌ、サレドモ土民ナレバ氏性ナシ、草苅ノナリ上リタル身ナレバ、古鎌足子大臣ノ御名ヲヨスガニ、藤原氏ヲヤ免サレント、此、事申サレシカバ、イトヤスキ事ナリトテ、近衞殿ヨリ其御計ラヒ有シ、九條禪閤殿下公、稙道聞シ召シテ、攝家ハ何レモ隔ナシトイヘドモ、長者ハ當家ノ事ナレバ、近衞殿ノ御マヽニハ成ベカ ラズト仰セ有シヲ、秀吉聞玉ヒテ、物知リノ申サルヽ事ナレバ、子細コソ有ベケレトテ、德善院玄意ニ命ジテ、近衞殿九條殿兩所ヲ大德寺ニ請ジ申シテ、其相論ヲ聞玉ヒシニ、嫡庶ノ流、舊記及ビ傳來ノ重器、近衞家ノ鎌、九條家ノ大織冠ノ眞影、惠亮ノ法華經ニ狐丸ノ太刀、及ビ三代ノ名記等、サマ〴〵有シトナン、互ニ爭ヒイドミ給ヒケレバ、秀吉聞玉ヒテ、左樣ニ耳遠キ爭ヒ、ムツカシキ藤原ノツル葉ナランヨリハ、思ヒ付シテ、今迄ナキ氏ニナリテ、我右大臣ト密ニ議シテ上奏シ、豐臣朝臣ト云新姓ヲ勅許アリケリ、

雜載

〔律疏〕

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 六議〈○中略〉
六曰、議貴、謂〈三位以上、〉

〔日本書紀〕

〈十六/武烈〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 六年九月乙巳朔、詔曰、傳國之機、立子爲貴、朕無繼嗣、何以傳名、且依天皇舊例、置小泊瀨舍人、使代號萬歲難上レ忘者也、

〔元亨釋書〕

〈五〉

https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/image/gaiji/SearchPage.png p.0567 釋覺鋄、姓平氏、肥之前州人、將門之屬胤也、累代武略、其父負勇名、郷黨敬畏、鋄兒稚以爲我父天下之豪貴也、一日官吏促租到家、喧呼放戻、父居屛處出、家有比丘、兒問曰、今何人乎、辱我尊丈、尊丈又盍平時之勇壯哉、比丘曰、官吏課租、汝父豈可忤乎、兒曰誰爲之、比丘曰、刺史也、凡州界無刺史之令、汝父亦刺史之有耳、兒曰、我始謂、天下之貴人靡我父、猶有刺史乎、比丘曰、刺史不自貴、承于宰臣、宰臣不自貴、承于天子、天子者四海之至尊也、汝之稚孩、何父之謂哉、兒良久曰、有至尊之過天子乎、比丘曰、有神道、有天界、人主者皆承制也、兒曰、有神天乎、比丘曰、有、兒曰、誰乎、比丘曰、佛也、兒曰、有佛者乎、比丘曰、無斯、故曰無上世尊、見曰、可聞乎、比丘曰、佛有三身、法報化也其訓有二、顯密也、三身之中、法身爲最也、二訓之内、密乘爲奧也、若夫三身二訓者、非小兒之所一レ聽矣、兒曰、世人有佛位乎、比丘曰、方今剃染之者皆彼徒也、其間勤修精敏之者、必得其位、兒曰、其人何在、我就而尋求焉、比丘曰、紀州高野山者弘法大師定隱之地也、彼有定尊阿闍梨、粹于密學、子其往焉、自是 志遊學


Last-modified: 2020-06-12 (金) 09:35:15 (104d)