p.1009 隱者ハ、又隱居ト稱ス、隱遁シテ世塵ヲ絶ツヲ謂フナリ、或ハ華冑ニシテ、身ノ榮達ヲ避クル者アリ、或ハ高材ニシテ、跡ヲ山林ニ晦ス者アリ、或ハ又僧侶ニシテ、其事蹟ノ頗ブル隱逸ト稱スルニ足ルベキ者アリ、今其著キモノヲ採テ、以テ一篇ト爲ス、
p.1009 隱居 隱者 隱逸
p.1009 隱居(インキヨ) 隱者(シヤ)
p.1009 士之生二於斯世一、賢愚隨二天賦予一、各展二其用一、豈以偃二蹇巖穴一沈二冥漁樵一爲レ高哉、異邦革命之世、或有レ恥レ事二二世一、高二尚其事一者、史傳美レ之、皇朝神裔相承、萬世不レ易、隱逸之士、似二乎不レ足レ稱者一焉、然士之所レ遭、其塗非レ一、有下高材逸足而不レ見レ知二於人一者上、有下抱レ忠負レ節而蔽二於讒佞一者上、與二其降レ志屈一レ己、望二車塵一而戀二棧豆一、孰若二高蹈遠引一、耕二富春一而嘯二蘇門一乎、故所レ處雖レ有二得失小大之殊一、而君子皆以二蠱之上九一期レ之、若二藤原藤房一諫不レ行而去、象所レ謂志可レ則而進退合レ道者也、
p.1009 延曆二年三月丙申右大臣從二位兼行近衞大將皇太子傳藤原朝臣田麻呂(〇〇〇〇〇〇〇)薨、田麻呂〈○中略〉性恭謙、無レ競二於物一、天平十二年坐二兄廣嗣事一、流二於隱岐一十四年宥レ罪、徵還隱二居蜷淵山中一、不レ預二時事一、敦二志釋典脩レ行爲レ務、〈○下略〉
p.1009 玄賓僧都(〇〇〇〇)者、南都第一之碩德、天下無雙之智者也、然而遁世之志深シ、不レ好二山科寺之交一、 只三輪川ノ邊、纔結二草庵一隱居云々、而桓武天皇依二强喚一、時々雖レ從二公淸一、猶非二本意一存ケルニヤ、平城御時雖レ被レ補二大僧都一、自辭、獻二一首和歌一、
三輪川ノキヨキ流ニスヽギテシ衣ノ袖ヲ又ヤケガサン、而間房人ニモ不レ被レ知、只二人暗レ跡了弟子眷屬雖二尋求一不レ知二行方一、南都ノミナラズ、天下貴賤惜二歎之一、送二年序一之後、門弟一人有二事之緣一、下二向北陸道一之、間、或渡ニ乘二渡船一之間、渡守ヲ見レバ、首ヲツカミト云程ニ、オヒタル法師ノ、不可説ノ布衣一著タル、アヤシゲノ者ノサマヤト見間、サスガ又見馴レタル心地ス、顏色モ不レ似二普通之人一、誰カハ可レ似ト思廻テ能見レバ、不レ知二行方一シテ失ニシ、我師ノ僧都見成ツ、心淺猿僻目カトミレバ、總不レ可レ違、目モクレ涙モ落ヲ抑テ憚二人目一之間、彼モ乍レ見二知氣色一、故不レ合二顏色一、寄テ取モ付バヤト思ヒケレド、人繁サニ、中々上道之比、此邊ニ宿テ、夜陰ナドニ、オハセシ所ヘモ尋向テ、閑申承ト思ヒテ過了、上洛之時著二此渡一、先見二渡守之處一他人也、驚悲テ相二尋子細一バ、サル法師侍リキ、年比此ノ渡守ツトメテ侍リシガ、イカナル事カ侍ケン、去比逐電不レ知二行方一也、如レ然之下﨟ト乍レ申モ、如レ數船チンナドモトラズ、只當時之口分許ヲ取テ、晝夜不斷念佛ヲノミ申侍シカバ、此ノ里人モアハレミ侍リシニ、失侍レバ、毎レ人ニ惜忍侍也ト云、聞ニ、哀ニ悲事無レ限、失タル月日ヲ聞ニ、我奉二見合一タリシ比也、アリサマヲミエヌトテ、被二去隱一ニケルナルベシ、又古今歌ニモ、
山田モルソウヅノ身コソアハレナレアキハテヌレバトフ人モナシ、是ハ彼玄賓僧都歌ト申傳タリ、如二雲風一サスラビアリカレケレバ、田ナド守ル時モ侍リケルニヤ、道顯僧都此事ヲ聞テ、渡守コソ、ゲニ無レ罪世ヲ渡道ナリケレトテ、湖ニ船一艘儲テ置レタリケレドモ、アラマシ許ニテ、徒石山ノ川岸ニテ朽ニケリ、サレド慕フ志ザシハ、有ガタキ事也、
p.1010 天長六年十二月乙丑、散位從四位上橘朝臣淨野(〇〇〇〇〇)卒、〈○中略〉性質素少レ所レ欲、隱二居交野一、無レ意二出仕一、爲二太皇太后叔父一、被レ授二崇班一、卒時年八十、
p.1011 仁壽二年十二月辛巳天台沙門素然(〇〇)卒、沙門者嵯峨太上天皇之子也、賜二姓源朝臣名明一、性甚朗悟天皇好二文書一、欲レ敎二諸子一、皆有二才學一、知明奇器、勅勸二對策一、〈○中略〉從二初承一レ勅、勉勵彌、切、諸子百家、略以閲覽、晏駕之後、哀慕感恨云、誰爲爲レ之、不レ遂二其業一、歸二心佛道一、離二遠俗塵一、遂爲二沙門一、終二于山中一、時人高二其節操一、皆以感慕、
p.1011 むかしみなせにかよひたまひしこれたかのみこ、れいのかりしにおはします、ともに、うまのかみなる翁つかうまつれり、日ごろへて宮にかへり給ふけり、御おくりしてとくいなんと思ふに、おほみき給ひ、ろく給はんとて、つかはさざりけり、此うまの頭心もとながりて、
枕とて草引むすぶ事もせじ秋の夜とだに賴まれなくに、と讀ける、時は彌生のつごもり成けり、みこおほとのこもらであかし給ふてけり、かくしつゝまうでつかうまつりけるを、思ひのほかに御くしおろし給ふてけり、む月におがみ奉らんとて、小野にまふでたるに、ひえの山のふもとなれば、雪いとたかし、しゐてみむろにまうでゝおがみ奉るに、つれ〴〵といと物かなしくておはしましければ、やゝ久しくさぶらひて、いにしへの事など思ひ出て聞へけり、さてもさぶらひてしがなとおもへど、おほやけ事ども有ければ、えさぶらはで、夕ぐれにかへるとて、
わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみかけて君を見んとは、とてなん、なく〳〵きにける、
p.1011 源博雅朝臣行會坂盲許語第廿三
今昔、源博雅朝臣ト云フ人有ケリ、延喜ノ御子ノ兵部卿ノ親王ト申人ノ子也、万ノ事止事ナカリケル、中ニモ管絃ノ道ニナム極夕リケル、琵琶ヲモ微妙ニ彈ケリ、笛ヲモ艶ズ吹ケリ、此人村上ノ御時ニ、 ノ殿上人ニ有ケル、其時ニ會坂ノ關ニ一人ノ盲庵ヲ造テ住ケリ、名ヲバ蟬丸トゾ云ケル、此レハ敦實ト申ケル、式部卿ノ宮ノ雜色ニテナン有ケル、其ノ宮ハ宇多法皇ノ御子ニテ、管 絃ノ道ニ極リケル人也、年來琵琶ヲ彈給ケルヲ、常ニ聞テ、蟬丸琵琶ヲナム微妙ニ彈ク、而ル間、此博雅此道强チニ好テ求ケルニ、彼ノ會坂ノ關ノ盲琵琶ノ上手ナル由ヲ聞テ、彼ノ琵琶ヲ極テ聞マ欲ク思ケレドモ、盲ノ家異樣ナレバ不レ行シテ、人ヲ以テ内々ニ蟬丸ニ云セケル樣、何ト不二思懸一所ニハ住ゾ、京ニ來テモ住カシト、盲此ヲ聞キ、其答ヘヲバ、不レ爲シテ云ク、
世中ハトテモカクテモスゴシテンミヤモフラヤモハテシナケレバ〈○下略〉
p.1012 榮路遙兮頭已班、生涯暮兮跡將レ隱、侍二大王万歲之風月一、向後未二必可一レ知、〈橘正道、悔近夜香多、〉
此句七條宮宴序、自慊句也、滿座人無レ不レ拭レ涙、其後長去不レ知レ所レ之、或人云、復二高麗國一得レ仙云々、
p.1012 たふのみねの少將(〇〇〇〇〇〇〇〇)〈○師輔子高光〉の出家し給へりしほどは、いかにあはれにも、やさしくも、さま〴〵なる事どもの侍りしかは、なかにもみかどの御消息つかはしたりしこそ、おぼろげならずは、御心もやみだれ給ひけんと、かたじけなくうけ給はりし、
みやこより雲のやへだつおく山のよかはの軒はすみよかるらん、御かへし、
こゝのへのうちのみつねはこひしくて雲のやへだつ山はすみうし、はじめはよかはにすませ給ひしぞかし、後には多武峯にすませ給ひき、いといみじく侍りしことぞかし、されどもそれは九條殿后宮などうせおはしましてのちの事也、
p.1012 内侍のかみ、〈○藤原登子〉の御はらからの高光少將ときこえつるは、わらは名はまつをさ君と聞えしは、九條殿のいみじう思ひきこえ給へりし君、中宮〈○村上后藤源安子〉の御事などもあはれにおぼされて、月のくまもなうすみのぼりて、めでたきを見たまひて、
かくばかりへがたく見ゆるよの中にうらやましくもすめる月かなとよみ給ひて、そのあかつきにいで給て、法師に成給にけり、みかど〈○村上〉もいみじうあはれがらせ給、よの人もいみじくおしみきこえさす、多武峯といふ所にこもりて、いみじくおこなひておはしけるに、みつばかり の女君の、いと〳〵うつくしきぞおはしける、それぞなを覺しすてざりける、たふのみねまでこひしさはつゞきのぼりければ、はゝ君の御もとに、それによりてぞをとづれ聞え給ける、かのちご君も、屛風のゑの男をみては、てゝとてぞこひきこえ給ひける、これは物がたり〈○多武峯少將物語〉につくりて、よにあるやうにぞきこゆめる、あはれなることにこのことにぞよをはいふなる、
p.1013 高光〈右少將從四下 法名如覺、號二多武峯少將入道一、〉
p.1013 永眼大僧都遁世事
昔山階寺にやむごとなき智者にて、永眼(〇〇)大僧都と云人侍き、唯識因明を明にせりとぞ、世をそむく心ふかくして、寺のまじはりうるさく覺て、權長官まで至り侍けれども、本意ならず侍て、人にもしられ侍らず、かきけつがごとくして、跡を暗くし待ければ、弟子どもさはぎ迷ひて、あそこ爰求め尋けれども、更にみえ侍らず、かくて月日を重ねければ、弟子共も云がひなく覺えて、ちりぢりに成ぬ、此僧都信濃國木曾と云所に、落留給へり、或時は山深く思入て、つねなき色を風に詠或時は里に出て、便なきひなのすみかの戸ぼそに立寄て、水をくみ、薪を取て、與などぞせられける、いかなる由ある人やちんといへども、法文のかたには、もてはなれたるさまをぞふるまひ給へりける、玄賓の昔の跡に、露もかはる事侍らず、山田を守わざはいかゞ侍けん、つぶねとなりて人に隨ひ、みなれ棹さして人を渡すいとなみは、めづらかなる事にも侍らざりけるとかや、〈○下略〉
p.1013 大江貞基入唐求レ法事
むかし大江の貞基(〇〇〇〇〇)といふ博士ありけり、身は朝に仕へ、心は穩に有て、常に人間の榮耀は因緣あさし、林下の幽閑は氣味ふかしと思ひとりながら、さるべき緣にあはざる程に、もとゝりをさゝげて世の中に交て侍りけるが、年比さりがたく覺えける女の身まかりけるより、ふつに思ひとすて、淸水の上網と聞え給へりし智者の御もとへ行て、かしらおろし戒うけ給へりにける、〈○中略〉 扨も大江の入道、かしこき智者どもにあひ給ひて、實の道をさとりきはめ、世をいとふ心のいやましにのみなり行まゝに、何となくもろこしへわたらまほしく覺へて、兩三の同朋さそひつれ給ひにけり、〈○下略〉
p.1014 一條院御時、長保比、右中將成信(〇〇)、左中(少イ)將重家(〇〇)、同心示合出家、發心之根元、有二仗座定之日一、兩人立聞レ之、二條左大臣一上ニテ、中納言面々吐二才學一ケルヲ聞テ、致二奉公一昇進セント思ヒケルハ、身ノ恥ヲ不レ存ナリケリトテ、共ニ出家云々、先到二靈山寺一、剃レ頭之後、共至二三井寺一云々、或説、於二三井寺慶祚阿閣梨室一剃レ之云々、行成卿夢ニ此重家可二出家一之由談給ト見テ、御堂之御許ニ詣進テ、カカル夢ヲコソ見侍ツレト談給ケレバ、少將打咲テ、マサシキ御夢ニコソ侍ナレト答給テ、翌日剃頭云々、或説云、此兩人三井慶祚ノ室ニ往合ント契リタリケルニ、中將ハトク往テ待給ケレド、夜フクルマデニミエザリケレバ、自猶預事ナドアルニヤトテ、先出家シテ曉歸ラントスルトキ、少將ハ霜ニヌレテ來タリケリ、中將新發イカニヤヨベバ待カネ申テナン、先遂侍リニシト被レ示ケレバ、親ニイトマコハヌハ、不孝之由承バ、伺侍シニ、昨日シキ便宜アシキ事侍テ、暮ニシカバ、日ヲタガヘジトテ、ヨベ髮ヲバ切侍ナリトゾ被レ答ケル、
p.1014 權中納言源顯基(〇〇〇)者、大納言俊賢卿之子也、自二少年一耽レ書好レ學、雖レ歷二顯要重職一、心在二菩提一、後一條院之寵臣也、及二晏駕之朝一、梓官不レ供レ燈、問二其由一曰、所司皆勤二新主之事一云々、因レ玆發心、常詠二白樂天詩一曰、古墓何世人、不レ知姓與レ名、化爲二道傍土一、年々春草生、亦曰、忠臣不レ仕二二君一、七々聖忌之後、忽以出家、男女引レ衣恩愛妨レ行、不二敢拘留一、昇二於楞嚴院一、落飾入道、住二大原山一、好二内外典籍一、修二念佛讀經一、後受二發背之病一、良醫曰、可レ治、納言曰、万病之中正念不レ違二癰疽一也、不レ如此次早歸二九泉一、便止二療治一、唯修二念佛一長以入減、〈○又見二榮花物語、續世繼一、〉
p.1014 顯基中納言者、後一條院寵臣也、天皇崩給之後、忠臣不レ仕二二君一ト云テ、七々聖忌之 後、登二天台楞嚴院一、落飾入道云々、發心之根源、天皇晏駕之期、梓宮不レ供レ燈、問二其由一所、主殿司皆依レ勤二新主之事一云々聞二此事一忽發心云々、尋常之時、常ニ詠二白樂天詩一、古基何世人、不レ知二姓與一レ名、化爲二道傍土一、年年春草生、又云、アハレ無レ罪ヲ配所ノ月ヲ見バヤ云々、住二大原山一、決定往生人也、法名圓昭、此人先登二横川一、落飾後、住二大原一云云、出家ノ時、宇治殿〈○藤原賴道〉訪二向其室一、終夜御物語アリケリ、一言モ今生事ヲバ申サレズ云々、宇治殿後世ニハ必ズ令二引導一給ヘナド示給ヒテ、臨レ曉歸給ナンドシ給ケルトキ、俊實ハ不覺者ニ候ト被レ申ケリ、其時ハ何トモ不下令二思分一給上、歸給之後、案給ニ、指ル次モ无ニ、子息ノコトヨモアシキサマニハイハレジ、不レ可二見放一之由、被レ命ケルナリケリ、思取雖二遁世一、恩愛者猶難レ弃事ナレバ、思餘リテ、被二云出一タリケリト、アハレニオボシテ、觸レ事令レ致二芳心一給ケリ、美濃大納言トハ此人事也、〈○又見二古今著聞集一〉
p.1015 俗士之遁世門事
故少納言入道信西ノ十三年ノ佛事、其子孫、名僧、上綱達、ヨリ合テ、一門八講ト名テ、ユヽシキ佛事、醍醐ニテ行ハルヽ事有ケリ、開白ハ聖覺法印、結願ハ、明遍僧都ト定テ、覺憲僧正、澄憲法印、證憲僧正、靜憲法印等、使者ヲ高野ヘツカハシテ、此ヨシ申サルヽニ、遁世ノ身ニテ侍レバ、エマイラジト、明遍僧都返事ヲセラレケルヲ、兄ノ僧正達、大ニ心エヌ事ニ思テ、サレバ遁世ノ身ニハ、親ノ孝養セヌ事カ、サバカリノ智者學匠ト云御房ノ返事、返々思ハズナリトテ、ヲシ返シ使者ヲ以テ、此ヨシヲ申サル、又返事ニ、此仰畏テ承候ヌ、遁世ノ身ナレバ、親ノ孝養セジト申ニハ侍ラズ、各ノ御中へ參スル事ヲ、ハヾカリ申也、其故ハ遁世ト申事ハ、何樣ニ御心得共候哉覽、身ニ存ジ候ハ、世ヲモステ、世ニモステラレテ、人員ナラヌコソ、其スガタニテ候へ、世ニステラレテ、世ヲステヌハ、タヾ非人也、世ヲスツトモ、世ニステラレズハ、ノガレタル身ニアラズ、然ニ各ハ南北二京ノ高僧名人ニテ御坐ス御中ニ參ジテ、一座ノ講行ヲモツトメ候ヒナバ、若シ公家ヨリ召ナレン時ハ、イカヾ 申候ベキ、カヽル山ノ中ニ籠居シテ候本意タガヒ候ナンズ、孝養ヲセジト申ニテハ候ハネバ、代官ヲマイラセ候ベシトテ、惠智房ヲ以テ、ツトメラレケリ、兄ノ僧正達、コノ返事ヲ聞テ、小禪師ニテ有シ時モ、人ヲツメシガ、當時モツムルヤトゾ申アハレケル、故少納言入道、兄タチノ事、敎訓ノ時ハ、此僧都ノ小禪師ノ時、ツカヒトシテ、セメフセラレケル事ヲ、思出テ申サレケルナルベシ、
p.1016 常磐丹後守爲忠朝臣ノ子ドモコソ、三人ナガラ道心ヲ發シテ、出家遁世シテ山住シ、大原ニコモリ、靈山ニ居テ侍リケレ、行ヒノ間ニハ、和歌ノ道ヲモ、未ダ捨アヘズ、ヤサシキ物カラ、其心ノ程貴クゾ覺ヘケル、伊賀守爲業(〇〇)ハ、法名寂念也、靈山ニ籠居テ、角ゾ讀ル、
春來モ問レザリケレ山里ヲ華咲ナバト何思ケン、長門守爲經(〇〇)、法名ハ寂超也、比叡山ニシテ角讀ケル、
山賤(ヤマガツ)ト成テモ猶ゾ郭公鳴音ニアラデ年モヘニケリ、壹岐守賴業(〇〇)ハ、法名寂然也、大原ニ籠居テ讀ル、
チリツモル紅葉ワケテヨソニ見バ哀ナルバキ庭ノ面影、
p.1016 爲忠
爲業〈出法名寂念〉
賴業〈出家共唯心房、住二大原一、寂然、○中略此兄弟三人、共有二和漢才一、世人號二大原三寂一、皆歌人也、〉
爲隆〈出寂超〉
p.1016 大治二年の比、鳥羽院の御時、ほくめんにめしつかはれける、左藤兵衞範淸といふ者ありけり、〈○中略〉西の山のはに月もやう〳〵かたふきにしかば、只今こそかぎりとおぼえてとしごろの妻女にあるべきことさま〴〵にちぎりしかども、この女さらに返事もせざりけり、さりとて、とゞまるべき事ならねば、心つよくもとゞりきりて、持佛堂になげおきて、かどをさしていでゝ、年ごろしりたりける、嵯峨のおくのひじりのもとへ、そのあかつきはしりつきて、出家 をしけるこそ、あはれにみえけれ、そのあしたひじりたちあつまりて、こはいかにと申しあひければ、かくぞながめける、
世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ〈○中略〉
今は山林流浪の行をとげんと思て、はじめのいでたちこそあはれなれ、〈○中略〉としごろおもひし事なれば、まづ吉野山をたづねて、花をこゝうにまかせて、みんとて、たづねけれども、おなじこゝろおもふ人もみえざりければ、
たれかまた花をたづねて吉の山こけふみわけていはづたふらん、〈○中略〉名をえたるやまの花なれば、さこそおもしろかりけめ、こけのむしろのうへ、いはねにまくらをかたぶけ、さすがに、いけるいのちのたよりには、だにのしみづをむすび、みねのこのはをひろいて、寂寞莫二人聲一、讀二誦此經典一とよみ、入二於深山一、思二惟佛道一のをこなひ、こゝうにあかねども、熊野のかたさまへまいらんと、おもひたちて、ゆくみち〳〵のありさま、いとゞあはれのみまさりぬ、〈○下略〉
p.1017 康治元年三月十五日戊申、西行法師來云、依レ行二一品經一、兩院以下、貴所皆下給也、不レ嫌二料紙美惡一、只可レ用二自筆一、余〈○藤原賴長〉不二輕承諾一、又余問レ年、答曰、廿五、〈去々年出家、廿三、〉抑西行者、本兵衞尉義淸也、〈左衞門大夫康淸子〉以二重代勇士一仕二法皇一、自二俗時一入二心於佛道一、家富年若、心無レ愁、遂以遁世、人歎二美之一也、
p.1017 我身(〇〇)〈○鴨長明〉父かたの祖母の家を傳へて、久しく彼所にすむ、その後緣かけ、身おとろへて、忍ぶかた〴〵しげかりしかば、つゐにあととむる事を得ずして、三十餘にして、更に我心と一の庵を結ぶ是をありし住居になずらふるに、十分が一なり、たゞ居屋ばかりをかまへて、はか〴〵しくは、屋を作るに及ばず、わづかにつひぢをつけりといへども、門たつるにたづきなし、竹を柱として、車やどりとせり、雪ふり風吹毎に、あやうからずしもあらず所は川原ちかければ、水の難もふかく、白波の恐もさはがし、すべてあられぬ世をねんじ過しつゝ、心をなやませる事は、三十餘 年也、其間折々のたがひめに、をのづかちみじかき運をさとりぬ、すなはち五十の春を迎て、家を出、世をそむけり、もとより妻子なければ、捨がたきよすがもなし、身に官祿あらず、何に付てか執をとゞめん、空しく大原山の雲にふして、又五かへりの春秋をなんへにける、爰に六十の露きえがたにをよびて、更に末葉のやどりをむすべる事あり、いはゞ旅人の一夜の宿を作り、老たるかひこの、まゆをいとなむがごとし、是を中比のすみかになずらふれば、又百分が一にだにも及ばず、とかくいふ程に、齡はとし〴〵にかたぶき、すみかは折々にせばし、其家のありさま、よのつねならず、ひろさわづかに方丈、たかさは七尺ばかりなり、助を思ひ定めざるが故に、地をしめて作らず、土居をくみ打おほひをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり、若心に叶はの事あらば、やすく外に移さむがためなり、其改め造る時、いくばくの煩かある、つむ所わづかに二兩なり、車の力をむくふる外には、更に他の用途いらず、いま日野山の奧に跡をかくしてのち、南に假の日がくしをさし出して、竹のすのこをしき、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣にそへて、阿彌陀の畫像を安置したてまつり、落日をうけて、眉間の光とす、かの帳の扉に、普賢ならびに不動の像をかけたり、北の障子のうへに、ちいさき棚をかまへて、くろき皮籠三四合を置、すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入たり、傍に箏、琵琶、おの〳〵一張をたつ、いはゆるおりこと、つぎびわこれなり、東にそへて、わらびのほどうをしき、つかなみをしきて夜の床とす東の垣にまどをあけて、こゝにふづくえを出せり、枕のかたにすびつあり、これを柴折くぶるよすがとす、庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす、すなはちもろ〳〵の藥草を栽たり、假の庵のありさまかくのごとし、〈○中略〉若念佛ものうく讀經まめならざるときは、みづからやすみ、身づからをこたるに、さまたぐる人もなく、また恥べき友もなし、殊更に無言をせざれども、ひとりをれば、口業をおさめつべし、かならず禁戒を守るとしもなけれども、境界なければ、何に付てか やぶらむ、若跡のしら浪に身をよする朝には、岡の屋に行かふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風ばちをならす夕には、潯陽の江を思像て、源都督のながれをならふ、若餘興あれば、しば〳〵松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる、藝は是つたなければ、人の耳を悦ばしめむとにもあらず、ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心をやしなふ計也、又麓に一の柴の菴あり、則ち此山守が居るところなり、かしこに小童あり、時々來て相訪ふ、もしつれ〴〵なるときは、是を友としてあそびありく、かれは十六歲、われは六十、其齡事の外なれど、心を慰る事は、これ同じ、或はつばなをぬき、岩なしをとる、又ぬかごをもり、芹をつむ、或はすそわの田井におりて、落穗をひろひ、ほくみをつくる、若日うらゝなれば、嶺によぢ上りて、はるかに故郷の空を望み、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る、勝地は主なければ、こゝろを慰むるに障なし、あゆみ煩なく、志遠く至る時は、是より峯つゞきすみ山を越、笠取を過て、或岩間にまうで、或石山をおがむ、もしは粟津の源を分て、蟬丸翁が跡をとぶらひ、田上川を渡て、猿丸太夫が墓をたづぬ、歸るさには、折につけつゝ櫻をかり、紅葉をぶとめ、蕨を折、木のみをひろひて、且は佛にたてまつり、且は家づとにす、もし夜しづかなれば、窻の月に古人をしのび、猿の聲に袖をうるほす、草むらの螢は、遠く眞木の島のかゞり火にまがひ、曉の雨はおのづから木葉吹嵐に似たり、山鳥のほろほろとなくを聞ても、父か母かと疑ひ、峯のかせぎのちかく馴たるにつけても、世にとほざかる程をしる、或は埋火をかきおこして、老のね覺の友とす、おそろしき仙ならねど、ふくろうの聲をあはれむにつけても、山中の景氣、折につけてつくる事なし、いはむや、ふかく思ひ、深くしれ覽人のためには、是にしもかぎるべからず、大かた此ところに住初し時は、白地芝おもひしかど、今すまでに五とせを經たり、〈○中略〉抑一期の月影かたぶきて、餘算山の端に近し忽に三途の關に向はむとす、何のわざをかかこたむとする、佛の人を敎へたまふをもむきは、事にふれて執心なかれ と也、今草の庵を愛するも科とす、閑寂に著するも障なるべし、いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ、しづかなる曉、此ことわりをおもひつゞけてみづからこゝうにとひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心をおさめて、道を行はむが爲なり、しかるを姿はひじりに似て、心はにごりにしめり、すみかは則淨名居士の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周梨磐持が行にだも及ばず、若是貧賤の報のみづから惱ますか、將又志心の至りてくるはせるか、其時心更に答ふる事なし、たゞかたはらに、舌根をやとひて、不淸の念佛兩三度を申してやみぬ、時に建曆の二とせ彌生の晦日比、桑門蓮胤外山の庵にしてこれをしるす、
月かげは入山の端もつらかりきたへぬひかりをみるよしもがな
p.1020 近比鴨社の氏人に南大夫長明と云者有けり、和歌絃管の道、人に知れたりけり、社司を望みけるが不レ叶ければ、代を恨て出家して後、〈○中略〉
如レ本、和歌所の寄人にて候べき由を、後鳥羽院より仰られければ、
沈みにき今さらわかの浦波によせばやよらむあまのすて舟、と申して、終に籠居してやみにけり、世をも人をも恨みけるほどならば、かくこそあらまほしけれ、
p.1020 依二祇園御託一有男發心事
過にし比、九重の外、白川の邊に、形計なる庵結て、深く後世のいとなみする人侍り、この人親の處分をゆへなく人に押とられて、詮かたなく侍りけるまゝに、祇園に七日こもりて、ことわり給へと祈り申侍けるに、七日と申に曉、御殿の御手をひらかれて、やゝと仰られければ、大明神の御託宣にこそとおもひて、いそぎおきなほり、畏りて侍るに、氣高き御聲して、
長きよのくるしき事をおもへかしかりの宿りを何なげくらむ、と御託宣なりぬと思て、打おどろきぬ、此御歌につきて、つく〴〵案ずるやう、げにもあだにはかなきは此世なり、よひに見し 人朝に死し、朝にありしたぐひ、夕に白骨となる、悦もさむる時あり、歎もはるゝ末あり、無常轉變憂喜、手のうらをかへす世の中に、思をとゞめてをろかにも、家世の長き苦を歎かざりけん事の、はかなさよとおもひて、はや手自ら本鳥を切て、妻子にもかくともいはずして、白川の邊にて、竹など拾ひあつめて、如レ形庵しまはして、明暮念佛をぞ申侍りける、此身をおしむには、あらざりければ、たゞいきのかよはんを恨とすべしとおもひて里に出て物をこふわざも侍らず、只二心なく念佛を申侍りければ、あたりちかき人々あはれみて、命をつぐたよりをぞし侍りける、かくて日數へにければ、妻子聞得て、彼所に來り侍りて、とかくこしらへ侍けれども、あへて返事もし給はずいよ〳〵念佛をぞし給へりける、さうなり、何してか道心もさむべきなれば、こしらへかねて歸り侍りぬ、さて彼女房の沙汰にて、いほりさるべき樣につくろひ、世渡べきほどの具足ととのへ送れりければ、手自らいとなみてぞ、日數送り給けるさる程に世の中隱なきわざなれば、處分押取ける人、是を聞て、淺猿や、かく程までは思はざりきげにも長きよの暗こそ、悲かるべきにとて、押たりける所をば、本の主の道心おこせる人の、北の方にとらせて、やがて本鳥切て、白川の庵にいたりて、しか〳〵と云に、本の聖もあはれに思て、よゝと鳴めり、さらばいづちへかおはすべき、是にてもろともに念佛し給へかしといへば、さうなり、いづちへかまかるべき、一所に侍らんこそ、本意ならめといひて、内に入ぬれば、むつましき友となり侍りて、同聲念佛し給へりければ、功積貴すみ渡て、夜を殘す老のね覺には、あはれと聞て、涙をながす人のみおほく侍りけり、かくて二とせと申ける、三月十四日の曉に、先に世を遁給し人は、西にむきて座し、後に家を出給し聖は、かの座せる上人のひざを枕にて、眠れる如くして、終をとり給へり、
p.1021 藤房卿遁世事
藤房(〇〇)致仕ノ爲ニ被二參内一、龍顔ニ近付進セン事、今ナラデハ何事ニカト被レ思ケレバ、其事トナク御 前〈○後醍醐〉ニ祗候シテ、龍逢比干ガ諫ニ死セシ恨、伯夷叔齊ガ潔キヲ蹈ニシ跡、終夜申出テ、未明ニ退出シ給ヘバ、大内山ノ月影モ、涙ニ陰リテ幽ナリ、陣頭ヨリ車ヲバ宿所へ返シ遣シ、侍一人召具シテ、北山ノ岩藏ト云所へ趣カレケル、此ニテ不二房ト云僧ヲ戒師ニ請ジテ、遂ニ多年拜趨ノ儒冠ヲ解テ、十戒持律ノ法體ニ成給ケリ、〈○中略〉此事叡聞ニ達シケレバ、君無レ限驚キ思召テ、其在所ヲ急ギ尋出シ、再ビ政道輔佐ノ臣ト可レ成ト、父宣房卿ニ被二仰下一ケレバ、宣房卿泣々車ヲ飛シテ、岩藏ヘ尋行給ケルニ、中納言入道ハ、其朝マデ岩藏ノ坊ニヲハシケルガ、是モ尚都近キ傍リナレバ、浮世ノ人、事問ヒカハス事モコソアレト、厭ハシクテ何地ト云方モナク足ニ信(マカセ)テ出給ヒケリ、〈○中略〉宣房卿御悲歎ノ泪ヲ掩テ、其住捨タル庵室ヲ見給ヘバ、誰レ見ヨトテカ書置ケル、破タル障子ノ上ニ、一首ノ歌ヲ被レ殘タリ、
住捨ル山ヲ浮世ノ人トハヾ嵐ヤ庭ノ松ニコタヘン、棄レ恩入二無爲一、眞實報恩者ト云文ノ下ニ、
白頭望斷萬重山 曠劫恩波盡レ底乾 不三是胸中藏二五逆一 出家端的報レ親難
ト黃檗ノ大義渡ヲ題セシ、古キ頌ヲ被レ書タリ、
p.1022 深草元政
日政字、元政、自號二玅子一、或號二不可思議一、又號二泰堂一、姓菅原、氏石井、洛陽之産、天資聰敏、氣質慈順、少時好レ學、壯歲致仕、矢二志佛乘一、落レ髮爲レ僧、入二深草山一、創二瑞光寺一甘二間居一焉、一室蕭然、聖典之外、無二餘長一矣、本粹二風雅一、學二明元贇一、文筆讃詠、自成二一家一、長時持律、常不レ卸レ衣、有下與二絹衣一者上、換二棉子一施レ衆、華夷素緇、望レ風信慕搢紳庶士、招レ之不レ應、有二趨レ化者一、不レ論二新疎一、善言諭誘、爲レ之啓迪、竟事二父母一、竭二哺養一焉、先レ此父卒、爲レ文祭レ之、母亦卒、時修二諸白業一二七日、而俄染レ病臥、覺二終不一レ起、聚レ徒遺誡、寬文八年二月十八日、書二和歌一首一、安詳而取レ滅、壽四十六、臘二十歲、徒從二遺命一、不レ建二無縫一、葬二乎稱心庵之側一、只栽二竹兩三竿一也已、
p.1022 石川嘉右衞門重之(〇〇〇〇〇〇〇〇)、字丈山、〈○中略〉母終りて後、寬永十三年五十四にて、藝州を去て 京師にかくれ居しに、板倉重宗京都に有て、丈山をいたはる事大かたならず、諸侯貴人の會する時、丈山を座上にまねきて、此老は文武の道に達せる人なりと敬禮せらる、其後比叡山の麓一乘寺に隱遯の地を設け、詩仙堂を作りて、詩人三十六人の像を壁に畫き、書籍を友として閑居す、後光明帝御卽位の時、松平伊豆守信綱賀使として、京都にまゐられしに、丈山と親戚たるゆゑ、たびたび閑居を訪れたり、承應元年七十歲に及て、三州泉の郷は其故郷たるゆゑ、歸るべき志あり、板倉重宗にかくといへども許さゞりしかば、今よりは京都へ再び出じ、さらば其許へも參られじとて、和歌あり、
わたらじなせみの小川は淺くとも老のなみそふかげもはづかし、後光明帝、丈山が隷書によきと聞し召、高木伊勢守守久勅命を傳へければ、八卦の字を書て奉る、上皇〈○後水尾〉も又隷書の大字を書しめ酒肉を賜はる、寬文十二年壬子五月、廿三日、一乘寺の閑居に終りたり、九十歲となり、
p.1023 僧桃水〈此僧は西山和尚著せる一書有て、旣に印行す、今は要を取て擧、〉
僧桃水(〇〇〇)、諱雲關、筑後國の人にして、肥前島原禪林寺に住持す、跡を匿して後、其行方をしるものなし、歸依の尼、國をいでゝかた〴〵を尋めぐりて、洛東四條河原に至る時、師菰うちかづきて、同じさまなる乞丐人の病るを、介抱してあられしに、涙を流して拜す、さて和尚のためにとて自紡績し、年を經て織たてたる臥具の背に負しを、とり出してまゐらするに、和尚今の身にしては、もちうる所なしといひてうけず、尼もさるものにて、自用給ふ所なくば、御心にまかせて、ともかくもし給へ、師に供養せるうへは、直にすてたまふもうらむ所なしといふ、さらばとてうけて、やがて病る乞丐にうちきせたまふを、他の乞丐人ども見て大に驚き、これは凡人にあらずといひて、俄にあがめたふとみけれ、ば、そこをもたちさり給ふ、そのころ弟子の兩僧も尋求ること三年にして、安井門前にて、乞丐の集たる中にて、みつけしかば、其あとにつきて、人なき所に至り、師もしか くのごとくならば、われ〳〵も同じ姿となりて從んとこふに、師不レ肯、一人は師の指揮をえて他方の知識のもとへゆく、一人はしひて從ふほどに、さらば吾する所をみよとて、伴ひゆく所に、乞丐の死せるあり、やがて弟子とゝもに是を埋めつ、さて其死者の喰ひあませる食を、己まづ喫して、汝もよく喰んやとあるに、止ことを得ずして、喰ひたれども、臭穢に堪ず嘔吐す、師みて、さればこそ此境界には堪ざりけれ、これより別れんとてさりぬ、後其遊ぶ所をしらず、ある時肥後熊本の寺僧、國侯大旦那たるをもて、勢ひ猛に、儀衞を盛にして關東に行道、大津の驛に休らふ間、馬士沓買んどて老父とよぶ、是は此日比、とある家の軒に、假初にさしかけてある翁が、つくる所の沓草鞋いとよければ、ぢいがくつとて、輿夫馬卒もてはやしける也、時に其沓もて來る翁を見れば桃水和尚なり、彼僧おどろき輿をまろび出、手を取てなみだを流す、これは師の法弟なり、とかく舊を語りて別んとする時、汝唯諸侯に醉ことなかれと示す、かゝりしかば又去て、京の片ほとりに小家を借り、僧形にかへり行乞してあられしを、角倉氏其德を見しること有けん、しひて請じて、供養せんといへども不レ應曰、吾は人の供養を請ることを欲せずと、こゝにおいて、角倉氏思惟してあざむきていふ、吾邸人多けれは、日々の餘の飯、空しく腐爛す、實にをしむべし、是を師に參らせんに、酢を釀して賣給はゝ、老脚を勞して行乞し給んにまさらんかと、師これを眞とし、それよりいとよき事なれ、捨るものは拾ふべし、いで吾は酢賣の翁とならんと、これより洛北鷹峯にて、酢屋道全とも、通念とも自稱して年を經、遷化は天和三年九月也、其乞丐の時の口號を、弟子琛洲といふ僧の聞たるは、
如是生涯如是寬、弊衣破椀也閑々、飢餐渴飮只吾識、世上是非總不レ干、
大津にて沓賣のとき、或人其年老たるを憐思ひしにや、大津繪のあみだ佛の像をあたへしかば、其こやに掛置、消炭して上に書出す、 せまけれど宿を貸ぞやあみだ殿後生たのむとおぼしめすなよ、鷹峯にて遷化時の遺偈、七十餘年快哉、屎臭骨頸堪レ作二何用一、咦、眞歸處作麼生(ソモサン)、鷹峯月白風淸、
p.1025 隱士長流
わかき時は下河邊彦六共平(〇〇〇〇〇〇〇)と名吿たり、和州宇多の産、父は小崎氏、〈名を忘れたり〉いかなる故にか、母の氏をとなへ侍りける、もとより妻子なくして、中年より津の國難波のかたはらに隱居をしめ、靜に書をよみ、中にも歌學をこのみ、萬葉集、古今集、伊勢物語などには暗記したり、その學門おのづから傳へ聞えて、大坂の富人おほく弟子となれり、生得世にへつらはぬ人がらにて、心のおもむかぬ折は富家の招にも應せず、訪れ來れる人にも物いはず、まくらを高して、あるひは眠り、或は書をよみ、心にまかせて過しける、西山公〈○德川光圀〉その才を聞しめして召けれども、終にしたがはざりしかば、紙筆をたまはりて、萬葉の註を乞たまふにも、心におもむきたる時は、一二首づゝ註して、またをこたりがちに侍しまゝ、はたさずして貞享三年丙寅六月三日、身まかり侍りぬ、〈六十三歲〉圓珠庵の契冲師とまじはりふかゝりければ、遣稿をあつめて、晩華集と名づけたり、
p.1025 叡山源七
源七(〇〇)は、もと攝津國高槻の士たりしが、暴惡放埓により身をたつるに所なく、浪花に徘徊して馬卒となり、よからぬ業におきては、いたらずといふ所なし、其頃娼婦に八重といふものあり、かしくと別名せり、それ兄を害して罪せらるゝ時、其馬の口を此源七とりけるが、何んとか感悟しけん、道心おこり、妻も有けれど、大坂にとゞめて、しのびて京にのぼり、神樂岡の知福院をたのみて居たりしが、或は四國の佛閣を廻らんとおもへば、其日より暇乞て出ゆく、あるは大峯へ詣んと思へば卽まうでつ、さて其山に斷食して籠り、百日も五十日もありしことたび〳〵におよぶ、其後親しき人に松尾氏なるが、日枝の山に詣るに伴ひて、俄に此山信仰になり、月には十四五度も まゐる、其比知福院の住僧病て終られければ、松尾氏の紹介にて、比叡の樺生谷大慈院に仕ふ、晝は木こり、飯を炊きなど爲べき態をし、夜は峯々谷々をめぐりて諸室を禮し、曙には院にかへること、一日も怠らず、山法師皆其名いははず、仙人とよぶ、ある夜横川の慈惠大師の廟に籠りし時、深更に空中より聲して呼かけ、凡行法は滿るがよきや、缺るがよきやととひしかば、こえを勵して缺るがよきと答しに、さわ〳〵と鳴て、あとは松風の聲のみ也、又鞍馬に籠りし時も同じ樣なること有あるとしの春、俄に江戸をさして下り、速にかへり登りたれば、人々何の用なりしと問ひしに、上野法滿院僧正は、世に大德の人なれば、今極樂世界に僧正の宮殿をまうけたまふ、此秋某月住生ましまさんなれば、此ことをしらせんとておもむきしなりといふ、例の仙人が何をかいふとうけがふ人もなかりしが、果して其月日、此僧正遷寂し給ふ故、何としてしりけるぞと問へど、唯笑ふていはず、又或時武者小路實岳卿、讃岐象頭山に代參を立んと仰給ふを、故ありて此男承りてまゐり、日を經て歸りける時、卿御對面あり、此ごろの勞を謝し給ふて、絹こがねなどかづけ給へるに、口に煙管をくはへながら取て戴き、やがてかゝるものはうけ奉らずとてかへし參らす、いかやうに宣へどもうけざれば、卿も甚奇とし給ふ、又ある山僧、〈一説、卽大慈院也と、〉常に膳に臨ては鹽梅のよしあしむつかしくいふ人あり、其折から行かゝりて眼をいからして、凡僧家のものは食をはじめ、何によらずみな佛物也、とかくいはず參り給へといひければ、彼僧も其理に伏し、物好みふつに止られしが、後に鈴聲山の律師となり、終りをよくせられし、常に此男よく諫くれたりと悦び給ひしとかや、又一時日枝山のれんげつゝじ盛なるを、多折て一荷に擔ひ、上今出川新地といふより、二條四條の街にいたり、娼家の遊女に一枝づゝ與へて行、何の意といふことをしらず、淺ましき世をわたるものに、善緣を結ばしめんとにやあらん、かくて年ごろへていかが思ひけん、入定したきよしをいひけれど、心得がたきことなれば、とかくいひなだめて、過しけれ ど、頻に催しければ、せんかたなく、さらば病死と披露せんとて、穴を堀せ、日をゑらびて密に法事をなし、すでに時刻いたりぬるに、其わたりに見えず、さればとてよしなきこといひ出て、せんかたなく身をかくしたるにやあらん、されどもまづさがし見んと、そこらもとめしかば、かたはらの柴つみたる小屋に晝寐して高いびきして居たり、道入々々と起しければ、眼を覺し、常のごとくものいひ打わらひ、げに實に入定の時いたれりと、走り行て穴に飛入たり、見聞の人驚かざるはなし、時明和四年閏九月廿四日なり、
p.1027 桃山隱者(〇〇〇〇)〈附高倉街門守(〇〇〇〇〇)〉
いかなる人といふことをしらず、伏見桃山に乞丐のごとく、わらむしろをもてかこひたるものして住人あり、いかにしてたよりけん、稻荷羽倉氏のもとにて書をかりて見ることつねなり、つひに名をいはず、そこにて身まかりし後、いとさはやかなるさましたる士、供人など供したるが、羽倉氏に來りて、其人の臣なるよしいひて、生涯の恩を謝しけるとぞ、いとあやしきことなり、今は八九十年前、三條高倉街の門を守ける化子も、夜時を擊間に、その小屋に書を高くつみて、おしまづきにかへ、書を見居りけるが、これは迎るもの不意に來りて、しひて伴ひ歸りしさま、いときらきらしかりしと、其街の人、老の後に語られし、相似たることなり、