p.0481 津ハ、ツト云フ、船舶ノ來泊スル處ニシテ、別チテ之ヲ言ヘバ、港灣ニ在ルモノヲ船津ト云ヒ、河ニ在ルモノヲ川津ト云フ、 上古神武天皇東征ノ時、御船河内ノ草香津ニ泊シ、次デ熊野荒坂津ニ至リ給フ、事ハ載セテ記紀二典ニ在リ、是レ實ニ津ノ史籍ニ見エタル始ナルベシ、神功皇后三韓征服以降、彼我ノ交通漸ク頻ニシテ、沿海ノ諸津著名ノモノモ亦尠カラズ、仁徳天皇ノ朝ニ至リ、初テ攝津墨江津ヲ定メ給フ、此津ハ難波津ト並稱セラレテ、御津若シクハ大津ト云フ、二津ノ名實ニ天下ニ冠タリ、是時ニ當リテ船舶ノ海外ニ往來スルモノ皆之ニ由ラザルハナシ、而シテ進メバ必ズ對馬ニ泊ス、其一ヲ稱シテ津國ト云ヒ、其一ヲ呼ビテ津島ト云フハ、全ク之ニ由ルト云フ、 大寶ノ制、凡ソ津橋道路ハ民部省ノ管スル所ニシテ、國郡官司ヲシテ各々之ヲ分轄セシメ、行旅ノ妨障ナカラシム、而シテ攝津國ハ船舶輻湊ノ地ナルヲ以テ、特ニ職ヲシテ過所ヲ勘檢セシム、爾來過所ノ事史上ニ累見シ、其制時ニ隨ヒテ寛嚴アリ、尚ホ過所ノ事ハ、關篇ニ詳ナレバ參看スベシ、 相門世々政權ヲ握ルニ及ビテハ、薩摩ノ坊津、筑前ノ博多津、伊勢ノ阿濃津最モ要津タリ、之 p.0482 ヲ日本三津ト稱シ、其名海外ニ聞ユ、鎌倉室町兩幕府ノ頃、諸國ノ守護等、私ニ新關ヲ構ヘ、或ハ津料、河手ヲ收メ、以テ行人ノ患ヲ爲スモノアリ、徳川幕府興ルニ及ビテモ、其弊未ダ絶エザリシカバ、屢々令ヲ發シテ之ヲ禁ゼリ、此時代ニ在リテハ、古ニ謂ユル三津ハ、殆ド其跡ヲ絶チ、肥前長崎、和泉堺等ノ津、大ニ著ルヽニ至レリ、
p.0482 津 四聲字苑云、津〈將鄰反、和名豆、〉渡レ水處也、
p.0482 按尚書禹貢東至二于孟津一、正義、津是渡處、微子、若下渉二大水一其無中津涯上、正義、無二津濟涯岸一、論語、使二子路問一レ津焉、鄭注、濟渡處也、見二於史傳一者、如二延平津、靈昌津、黎陽津、小平津、白馬津、棘津、竇津、君子津一、皆呼二可レ渡處一謂二之津一、則津即與二下條之濟一同、當レ訓二和多利一、其豆、宜二以レ湊充一レ之、於二天地部湊條一證レ之、然史記天官書索隱、引二春秋元命包宋均注一云、津、湊也、然則津或有二湊聚之義一、又神功紀、引二百濟記一云、壬午年、新羅不レ奉二貴國一、貴國遣二沙至比跪一令レ討レ之、新羅莊二飾美女二人一、迎二誘於津一者、似二海舶止泊之處一、
p.0482 湊謂下非レ因二河水入一レ海、而海舶止泊之處上、則宜レ訓レ都、都爲二物止住之義一、附訓二都久一、積訓二都牟一、集訓二都度布一、皆是也、雖二古人用レ津爲一レ都、然津水渡之處宜レ訓一和多利一、非レ都也、
p.0482 津〈將鄰反 ツ ワタルウルホス〉
p.0482 津〈 同、 同、 ウツル ツアツマル ワタル〉
p.0482 津(ツ)
p.0482 湊(みなと)〈音 〉 湊、和名三奈止、 津、音晉、今云レ豆、 説文云、水上人所レ會曰レ湊、水會處曰レ津、 按津湊、並市舶出入交易繁華之濱也、津字以爲二津液之字一、蓋津液之津本作レ 、从レ血 聲、
p.0482 津、水渡也、〈商書微子曰、若渉二大水一、其無レ津、俗本妄増二涯字一、按、經傳多假二借津一爲二 潤字一、周禮、其民黒而津、是、〉从レ水 聲、〈將鄰切、十二部、〉
p.0483 〈隸省作レ津、〉 、古文津、从レ舟淮、〈按當二是从レ舟从一レ水、進省聲、〉
p.0483 夫爾雅者、〈◯中略〉誠九流之津渉(○○)、六藝之鈴鍵、〈◯中略〉疏、〈津渉者、濟渡之處、〉
p.0483 㶇、小津也、〈謂二渡之小者一也、非二地大人衆一之所、小一作レ水非、〉从レ水横聲、〈戸孟切、按玉篇、戸 切爲レ長、古音在二十部一、〉一曰、㠯レ船渡也、〈方言曰、方舟謂二之㶇一、郭云、楊州人呼二渡津舫一爲レ杭、荊州人呼レ㶇、音横、廣雅、㶇筏也、〉
p.0483 三十一年四月乙酉、越人江渟臣裙代、詣レ京奏曰、高麗使人辛二苦風浪一、迷失二浦津(○○)一、任レ水漂流、忽到著レ岸、
p.0483 浦津(トマリ)
p.0483 津濟、古記云、上子鄰反、論語使二子路問一レ津焉、鄭玄曰、津濟渡處也、〈◯中略〉凡泊處謂レ津、
p.0483 穴云、津謂泊レ船處、令レ无二妨障一也、
p.0483 津ツ 義不レ詳、古語にツといひしは、あつまるの義なり、されば集の字讀て、ツとも、ツムとも、ツメとも、アツム、アツマルなどいふなり、津とは舟船の集る所なれば、ツといひしなるべし、〈アツムといふアは、發語の詞なり、著の字讀てツクルといふも、また津來の謂にて、是らはツといふ詞によれるなり、〉日本紀に、津の字トマリと讀しは、舟舶の止る所なるが故也、
p.0483 つ 津濟(ワタリ)のつは、人のあつまるよりいひ、口津のつは、唾のあつまるよりいへり、集ノ字をつとも、つめともよめる是也、
p.0483 津字も、都(ツ)と云言も、もと船の泊(ハツ)る所の名なれば、それより轉じて、津液の津をも都とは云か、
p.0483 物の名 津は舶の通ずる處なれば通(ツウ)歟、萬葉集に、川をもつとよめり、今人の書く假字のつは、川の草(サウ)なり、
p.0483 先板の訛舛
p.0484 予〈◯瀧澤解〉が曩に著したる燕石雜志は、例の倉卒の間に草したりければ、誤れる事少からず、〈◯中略〉同卷物の名の段、〈津は舶の通ずる所なれば通(ツウ)歟、萬葉集に川をつとよみたり、〉解再案ずるに、阮籍莊論云、通訓二之川一、回謂二之淵一、本邦にて川字を通と訓ぜしこと、これに本づけり、津の訓もその義おなじ、〈又爾雅の川の下を案ずるに、通回のことは、注疏にもなし、但説文云、川貫二通流水一也、是より出たり、〉
p.0484 御津、息長帶日賣命宿二御船一之泊、故號二御津(○○)一、
p.0484 參河國寶飫郡御津〈美都〉
p.0484 阿波國三好郡三津〈美都〉
p.0484 御津(みつ)とは官津の名にて、難波の御津などもおなじ、
p.0484 六月晦大祓〈十二月准レ之〉 皇御孫之命乃朝廷乎始氐、天下四方國爾波、罪止云布罪波不レ在止、科戸之風乃天之八重雲乎吹放事之如久、◯中略大津(○○)邊爾居大船乎舳解放艫解放氐、大海原爾甲放事之如〈久、◯下略〉
p.0484 駿河國志太郡大津 常陸國茨城郡大津
p.0484 出羽國雄勝郡大津 ◯按ズルニ、大津ト稱スル地諸國ニ多シ、蓋シ大津トハ、原ト津ノ美稱ニシテ、猶ホ近江國志賀津ヲ稱シテ志賀大津ト云ヒ、筑前國博多津ヲ稱シテ博多大津ト云ヒ、後並ニ略稱シテ大津ト云フガ如クナルベシ、
p.0484 七年三月庚申、御船還至二于娜大津一、居二于磐瀬行宮一、
p.0484 元年七月壬子、是日坂本臣財等、次二于平石野一、〈◯中略〉會明臨二見西方一、自二大津丹比兩道一、軍衆多至、
p.0485 大津〈在二和泉國和泉郡一〉丹比〈舟當レ作レ丹、即丹比郡、〉
p.0485 大津〈按、和泉國泉北郡有二大津浦一、〉丹比〈河内國丹南郡丹比郡〉 ◯按ズルニ、日本書紀天武天皇元年ノ下ニ見エタル大津ヲ、通證、集解ノ二書並ニ、和泉國ニ在リトシタレド、延喜神名式ニ據ルニ、河内國丹比郡ニ丹比神社、大津神社アレバ、大津モ亦蓋シ河内ナルベシ、
p.0485 諸國運漕雜物功賃 北陸道 若狹國〈◯中略〉海路、〈自二勝野津一至二大津一船賃米、石別一升、挾杪功四斗、水手三斗、但挾杪一人、水手四人、漕二米五十石一、〉越前國〈◯中略〉海路、〈自二鹽津一漕二大津一船賃、石別米二升、屋賃石別一升、挾杪六斗、水手四斗、自二大津一運レ京駄賃、別米八升、自餘雜物斤兩准レ米、〉
p.0485 津濟船舶 設二津濟一以便二水路一、藉二船舶一以通二漕運一、實富國要務也、〈◯中略〉太祖〈◯神武〉東征、實籍二舟檝一、〈◯中略〉其所二經由一、有二速吸之門、筑紫岡水門、河内白肩津、茅渟山城水門、熊野荒坂津等一、蓋皆當時通津也、祟神帝詔、使三沿海諸國、多造二船舶一、以省二人民歩運之勞一、此後海路益開、其舟船所二往來一、西至二筑紫一、有二難波津、務古水門、播磨鹿子水門、宇須伎津、周防佐婆津、穴門豐浦津一、東達二蝦夷境一、有二淡水門、竹水門一、南海有二紀伊徳勒津一、北海有二高志和那美之水門、角鹿津一、〈◯註略〉淡路水門、即景行帝所レ定也、〈◯註略〉其他沿海之國、多定二津濟一、以便二行旅一、
p.0485 經二浪速之渡一而、洎二青雲之白肩津一、此時登美能那賀須泥毘古、〈自レ登下九字以レ音〉興レ軍、待向以戰、爾取下所レ入二御船一之楯上而下立、故號二其地一謂二楯津一、於レ今者云二日下之蓼津一也、
p.0485 戊午年三月丙子、遡レ流而上、徑至二河内國草香邑青雲白肩之津一、 四月甲辰、皇師勒レ兵、〈◯中略〉欲下東踰二膽駒山一而入中中洲上、時長髓彦聞之曰、夫天神子等所二以來一者、必將レ奪二我國一、即盡起二屬兵一、徼二之於孔舍衞坂一與レ之會戰、有二流矢一中二五瀬命肱脛一、皇師不レ能二進戰一、天皇憂之、〈◯中略〉却至二草香津一、植レ盾而爲二雄
p.0486 誥一焉、〈雄誥、此云二烏多鷄盧一〉因改號二其津一曰二盾津一、今云二蓼津一訛也、 六月丁巳、天皇獨與二皇子手研耳命一、帥レ軍而進、至二熊野荒坂津(○○○○○)一、〈亦名二丹敷浦一〉因誅二丹敷戸畔者一、
p.0486 朱云、津謂廣謂船津者レ、〈未明〉
p.0486 越前國今立郡船津〈布奈都〉
p.0486 行基大徳携レ子女人視二過去怨一令レ投レ淵示二異表一縁第卅 行基大徳、令レ堀二開於難波之江一、而造二船津一、
p.0486 少將〈◯藤原成經〉も判官入道も〈◯平康頼〉しほ風のさたにも及ばず、今一日もといそぎて、硫黄津といふ所にうつりにけり、僧都〈◯俊寛〉あまりのかなしさに、船津まできたりて、二人の人人にすこしもめをはなたず、少將の袖に取つきても涙をながし、判官入道の袂をひかへてもさけびけり、
p.0486 風本 呼子の松原より海上十里北なり、北は海なり、船津なり、是より對馬へ渡るなり、
p.0486 七夕 秋風爾(アキカゼニ)、河浪起(カハナミタチヌ)、暫八十舟津(シハラクハヤソノフナツニ)、三舟停(ミフネトヾメヨ)、
p.0486 船帆郷〈在二郡西一〉 同天皇〈◯景行〉巡狩之時、諸氏人等、擧落葉船擧レ帆、參二集於三根川津一、供二奉天皇一、因曰二船帆郷一、又御船沈石四顆、存二其津邊一、
p.0486 駿河國安部郡川津〈加波都〉 伊豆國賀茂郡川津
p.0486 讃岐國鵜足郡川津〈加波都〉
p.0487 力女示二強力一縁第廿七 尾張宿禰久玖利者、尾張國中島郡大領也、聖武天皇食レ國之時人也、久玖利之妻、有二同國愛知郡片蕝里一之女人、〈是昔有二元興寺一道場法師之孫也〉隨レ夫柔儒、〈◯中略〉此孃至二彼里草津川之河津一而衣洗時、商人大船載レ荷乘過、
p.0487 はヽき木 今勘二國史一云、仁明天明承和二年六月、勅、如聞東海東山兩道河津之處、或渡舟數少、或橋梁不レ備、〈◯中略〉造二浮橋一令レ得二通行一、及建二布施屋一備二于橋一、寄二其造作料一、共用二救急稻一云々、
p.0487 下つふさのくにとむさしのさかひにて有、ひと井がはといふ、かヾみのせ、まつざとのわたりのつ(○)にとまりて、夜ひとよ舟にてかつ〳〵などわたす、
p.0487 大永四年、〈◯中略〉伏見津田備前入道、かねて約あり、穴よりて薪の山材木、この津より紫野へ車力の事、奉加申調へ、いまだ日も高く、いそぐに付て、宇治の川舟さしのぼらんといふに、發句所望に、 くれたけのなつ冬いづれよヽのかげ
p.0487 江戸のたてのふもとに一宿して、すみだ川の河舟にて、下總國葛西の庄の河内を半日計、よしあしをしのぐをりしも、霜枯は難波の浦にかよひて、かくれて住し里々見えたり、おしかも、都鳥、堀江こぐこヽちして、今井といふ津よりおりて、淨土門の寺淨興寺にて、むかへ馬人待ほど、住持出て、ものがたりの序に、發句所望有しに、とかくすれば程ふるに、立ながら、 ふじのねは遠からぬ雪の千里かな
p.0487 七夕 自古(イニシヘユ)、擧而之服(アゲテシハタヲ)、不顧(カヘリミズ)、天河津爾(アマノカハヅニ)、年序經去來(トシゾヘニケル)、 久方之(ヒサカタノ)、天河津爾舟泛而(アマノカハヅニフネウケテ)、君待夜等者(キミマツヨラハ)、不明毛有寐鹿(アケズモアラヌカ)、
p.0488 正五位下中宮少輔葛井連廣成二首 五言奉レ和二藤太政〈◯藤原不比等〉佳野之作一一首〈仍用二前韵四字一〉物外囂塵遠山中幽隱親、笛浦棲二丹鳳一、琴淵躍二錦鱗一、月後楓 〈◯ 恐聲俗字〉落、風前松響陳、開レ仁對二山路一獵レ智賞二河津(○○)一、
p.0488 智者誹二妬變化聖人一而現至二閻羅闕一受二地獄苦一縁第七 沙彌行基、俗姓越史也、越後國頸城郡人也、〈◯中略〉以二天平十六年甲申冬十一月一任二大僧正一、〈◯中略〉時行基菩薩、有二難波一令レ渡レ椅、堀レ江造二船津一、〈◯中略〉 行基大徳携レ子女人視二過去怨一令レ投レ淵示二異表一縁第卅 行基大徳、令レ堀二開於難波之江一而造二船津一、説レ法化レ人、
p.0488 貞永元年七月十二日、今日勸進聖人往阿彌陀佛就二申請一、爲レ無二舟船著岸煩一、可レ築二和賀江島一之由云云、武州〈◯北條泰時〉殊御歡喜、令二合力一給、諸人又助成云云、 十五日、今日築二始和賀江島一、平三郞左衞門尉盛綱行向云云、 八月九日、和賀江島終二其功一、仍尾藤左近入道、平三郞左衞門尉、諏方兵衞尉、爲二御使一巡撿云云、
p.0488 材木座村〈佐伊茂久左牟良〉 小坂郷ニ屬ス、〈◯中略〉當村ハ沿海ニアリ、東鑑ニ和賀ト見エタルハ、即此地ノ古名ナリ、同書ニ西濱、小坪、和賀〈曰、承元三年五月廿八日、西濱(號二之飯島一)邊騷動、是梶原太郞家茂、逍二遙于小坪浦一、歸去之處、土屋三郞宗遠、依三兼有二宿意一、相二逢于和賀邊一、殺二害家茂一之故也、〉ト列書スルヲモテ、其地理ノサマ推テ識ルベシ、其後貞永元年ニ至リ、海灣ニ一島ヲ築キ、〈東鑑ニ見エシ處、下ノ和賀江島條、併セ見ルベシ、〉和賀江島ト名ヅクルモ、爰ノ地名ニ因レルナリ、又同書ニ其和賀ノ津口ニ材木ヲ置キ、奉行人シテ、其寸法ヲ點定セシメシ事見エタリ、〈建長五年十月、江津材木事、近年不法之間、依レ難レ用二造作一、被レ定二其寸法一、所レ謂榑長分八尺、若七尺、令二不足一者令レ點二定之一、奉行人可レ申二子細一之由云々、〉是ニ據レバ當時木料ノ港タリ、故ニ行年、材木座ノ名ハ負ハセシナリ、
p.0489 今モ鶴岡修造ノ時ハ、此港ニ筏木ヲ運湊スト云フ、
p.0489 かくしつヽあかしくらすほどに、つれ〴〵もなぐさむやとて、和賀江のつき島、三浦のみさきなどいふ浦々を行てみれば、海上の眺望哀を催して、こしかたに名高く、面白き所々にもをとらずおぼゆ、
p.0489 澪標〈ミヲツクシ、或云、難波津頭波中立、〉
p.0489 〈ミヲ〉 澪 濈 涺 瀲〈巳上同〉
p.0489 澪標(ミヲツクシ/ミヲギ)〈牓示也、清和帝朝、難波津頭海中、始立二澪標一、見二三代實録一、〉水咫(同)衝石〈萬葉〉
p.0489 澪標〈國史、難波江に始立二澪標一云注せり、其所をば、みをつくしと云と土佐日記に見たり、〉 みをつくし〈身をつくすかたによせてよむなり、なには、いなさ細江によめり、◯中略〉みをじるし〈總而水のふかき所をば漂といふ、そのしるしに物を立る木也、又は竹をもすれど、なべては木なり、河海江、いづれもあるべし、大略は海なり、多は江なり、◯中略〉わたすしるしのみをづくし、
p.0489 身をづくしとは、みをしるしなり、江河のふかき所に木をたてヽ、これぞみをとしらすれば、それをみをとしりて、船をばのぼりくだすなり、濈ともかき、澪ともかき、萬葉には水尾ともかけり、又水咫衝石とかけり、國史には、難波江に始立二澪漂一之由しるせり、其所をばみをづくしといふと、土佐日記にみえたり、世俗にはみをじるしといひ、和歌には身をづくしとよむを、歌にみをじるしとよむ人侍り、くちおしき事也、 江水のふかきしるしにたてたる水と許心得たる、たがひ侍らざりけり、
p.0489 みをづくし 君こふる涙のとこにみちぬればみをつくしとぞわれは成ぬる 顯昭云、みをづくしとは、河口などに、水のふかき所をば湊といふ、或は濈ともかけり、そのみをのしるしにたつる木を云也、世俗には、みをじるしといふを、和歌にはみをづくしとよむ也、又水脈
p.0490 舟とかきては、みをひきの舟とよめり、又萬葉云、水咫衝石(ミヲツクシ)こヽろつくして思かもこのまももとな夢にしみゆる、私云、このまはこぬまとよめる、又土佐日記云、みをづくしのほどよりいでヽ、なにはづきにつきて、河尻にいるといへり、國史には、難波津に始立二澪標一之由あり、其年可レ考、〈◯中略〉 つの國に、みをづくしをもたてられ、又みをづくしと云所もあれば、外にはよまん、はヾからしきに、萬葉云、 とをたあふみいなさほそ江のみをづくしあれをたのめてあさまし物を 又つの國にとりても、ほかによめり、相模歌、 住よしのほそ江にさせるみをづくしふかきにまけぬ人にあらじな 河によめる歌 河波もうしをもかヽるみをづくしよるかたもなき戀もするかな 能因歌枕云、みをづくしとは、水のふかき所にたつる木をいふ也、
p.0490 みをつくし 澪標をよめり、萬葉集に、水咫衝石と書り、咫ををとよめるは心得がたし、水脈の籤の義なるべし、尺寸を記したる木を立置て、水の淺深を量る物也といへり、〈◯中略〉澪は水零二合をもて、水尾の義に取なるべし、字書の正義にあらず、荀子に、水行者表レ深、表不レ明則陷、注に、表標準也と見えたり、
p.0490 みをづくし〈◯中略〉 信友云、みをは、水脈ノ字ヲアテタルガ本義ニテ、其水脈ノ標ヲ、みをつくしト云フニ、澪標トカクモ合ヘリ、サテつくしノツハ助辭、くしハ籤ノ義ナルベシ、みを木、みを杭ナドイフヲモオモフベシ、シカルニ萬葉ニ、水咫衝石ト書ルハ、コノみをつくしニテ、オノヅカラ汐ノ滿干ヲモ量ラルヽ意ヲ用ヰテ、書ナセルモノナルベシ、サテ又澪字今ノ字書ドモニ、水ノ名トノミアリテ義詳ナラズ、澪標ハモト漢語ナルベシ、出處考フベシ、
p.0491 澪杭(みほくい)澪標(みほつくし)の事也、澪は水のふかみ、標はしるしの木なり、〈◯中略〉難波に立所始也、類聚國史に云、難波江に始て澪標を建ると云々、
p.0491 羈旅發レ思 水咫衝石(ミヲツクシ)、心盡而(コヽロツクシテ)、念鴨(オモヘカモ)、此間毛本名(コヽニモモトナ)、夢西所見(ユメニシミユル)、
p.0491 譬喩歌 等保都安布美(トホツアフミ)、伊奈佐保曾江乃(イナサホソエノ)、水乎都久思(ミヲツクシ)、安禮乎多能米氐(アレヲタノメテ)、安佐麻之物能乎(アサマシモノヲ)、 右一首遠江國歌
p.0491 寛平御時、きさいの宮の歌合の歌、 藤原興風 君こふる涙のとこにみちぬればみをつくしとぞわれなりける
p.0491 事いできて後に京極御息所につかはしける もとよしのみこ わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢んとぞおもふ
p.0491 身をづくし 吹かぜにまかすることもみをつくしまつと知てやさしてきつらん
p.0491 みをづくし かは波もうしほもかヽるみをづくしよするかたなき戀もするかな
p.0491 みをづくし 家良 すみの江の浪に朽行みをづくしふかき頼のしるしあらはせ 右大辨入道光俊 人をみなわたすしるしのみをづくしふかき江にこそ思ひたてつれ
p.0492 修行し侍りし時 僧正行意 七度のよしのヽ川のみをづくし君が八千代のしるしともなれ
p.0492 家集五月雨 西行上人 ひろせがはわたりのせきのみをじるし(○○○○○)みかさそふらしさみだれのころ
p.0492 祟徳院に百首の歌奉りける時よめる 前參議親隆 さみだれに水のみかさやまさるらしみおのしるしもみえずなりゆく
p.0492 民部省 卿一人〈掌二諸國戸口名籍、〉〈◯中略〉〈家人奴婢、〉〈謂既非二平民一、故別顯、其道橋以下、藪澤以上、唯據二地圖一知二其形界一、至二於撿勘一、不二更關渉一、〉〈橋道、津濟、渠池、山川、藪澤、諸國田事一、〉 攝津職〈帶二津國一〉 大夫一人〈掌下祠社、〈◯中略〉道橋、津濟、過所、上下公使、郵驛、傳馬、闌遺雜物、撿二挍舟具一、及寺、僧尼名籍事上、〉
p.0492 凡津橋道路、毎年起二九月半一、當界修理、十月使レ訖、其要路陷壞停レ水、交廢二行旅一者、不レ拘時月一、量二差人夫一修理、非二當司能辨一者申請、〈謂當司者、當國之司也、辨者、具也、治也、〉
p.0492 穴云、津謂泊レ船處、令レ无二妨障一也、朱云、津謂廣諸船津者、〈未レ明〉當界修理、謂二當郡一也、凡此條只爲二外國一歟、若於二京内道一何、上條只稱レ橋故、答上條不レ云レ道者、略文耳、額同、上條道亦放レ橋、可レ役二京内人夫一也、此條只爲二外國一者、案説者志然也、但先云、此條可レ依也、京國不レ別故者、非也、額亦不レ同者、或云、額云、九月農時、但近國十月起調庸進、仍爲二早作一立レ限耳者、在レ跡、
p.0492 凡欲レ度レ關者、皆經二本部本司一〈謂本部、本貫也、假有大舍人、是京人、而欲レ度レ關者、依レ式造二過所一、先申二本寮一、寮修二許牒一、送二於京職一、職更判給之類、其外國者、先經二本郡一、郡亦申レ國、若有二本司一者、亦經二本司一也、〉請二過所一、官司撿勘、然後判給、〈◯中略〉若船筏經レ關過者、〈謂長門及攝津、其餘不レ請二過所一者、不レ在二此限一、〉亦請二過所一、
p.0493 津 唐令云、諸度關津、及乘二船筏一上下經レ津者、皆當レ有二過所一、
p.0493 凡行人出二入關津一者、〈謂行人者、公私皆是也、津者、攝津、其要路津濟、置レ船運度、自依二雜令一、不レ關二此條一、〉皆以二人到一爲二先後一、不レ得二停擁一、〈◯中略〉 凡官司未二交易一之前、不レ得下私共二諸蕃一交易上、爲レ人糺獲者、二二分其物一、一分賞二糺人一、一分沒官、若官司於二其所部一捉獲者皆沒官、〈謂不レ限二部人外人一、唯爲二當所官司一捉獲者皆是、若部人於二他界一交易、而本部官人遣捉獲者、合レ賞二一分一、其關津糺獲、及里長坊長、於二其坊里一捉獲者、亦皆沒官、〉
p.0493 凡官私奴婢逃亡、經二一月以上一捉獲者、廿分賞レ一、〈◯義解略〉一年以上十分賞レ一、其年七十以上、及 疾、〈◯義解略〉不レ合レ役者、并奴婢走捉二前主一、〈謂奴婢逃亡、走捉二前主一、即爲二前主一捉送、既異二他人捉獲一、故前主得二其半賞一、其七十以上、及 疾、走捉二前主一、若關津官司捉獲者、從二減半上一更亦減半也、〉及關津捉獲者、賞各減半、
p.0493 凡要路津濟、〈謂不二必大路一、當二人往來一、有二要便一者皆是也、〉不レ堪二渉渡一之處、皆置レ船運渡、依二至レ津先後一爲レ次、國郡官司撿挍、及差二人夫一充二其度子一、〈謂以二雜徭一差配〉二人以上、十人以下、毎二二人一、船各一艘、
p.0493 太政官符 應レ聽下自二草野國埼坂門等津一往中還公私之船上事 右得二太宰府解一偁、撿二案内一、太政官去天平十八年七月廿一日符偁、官人百姓商旅之徒、從二豐前國草野津、豐後國國埼坂門等津一、任レ意往還、擅漕二國物一、自レ今以後、嚴加二禁斷一、但豐後日向等國兵衞采女資物漕二送人物一船、取二國埼之津一有二往來一者、不レ在二禁限一、除レ此以外、咸皆禁斷者、府依二符旨一、重令二禁制一、上件三津、尚多二姧徒一、舊來越度不レ得二禁斷一、又雖レ有二過所一、而不レ經二豐前門司一、如レ此之徒、咸集二難波一、望請便令三攝津國司勘二撿過所一、若无二過所并門司勘過一者、依レ法科斷、然則姧源自清、越度亦息、謹請二官裁一者、被二大納言正三位紀朝臣古佐美宣一偁、奉レ勅、自レ今以後、公私之船、宜レ聽下自二豐前豐後三津一往來上、其過所者、依レ舊府給、當所勘過、不レ可三更經二門司一、但承前所レ禁、不レ在二聽限一、長門伊豫等國、亦宜二承知一、 延暦十五年十一月廿一日
p.0494 延暦廿年五月甲戌、詔、諸國調庸入貢、而或川無レ橋、或津乏レ船、民憂不レ少、令二路次諸國一、貢調之時、津濟之處、設二舟檝浮橋等一、長爲二恒例一、
p.0494 大同元年七月乙未、勅、關津之制、爲レ察二衆違一、苟有二阿容一、何設二朝憲一、今聞長門國司、勘過失レ理、衆庶嗷嗷、自レ今以後、不レ得二更然一、若有二違犯一、特寘二重科一、
p.0494 太政官符 應レ禁三止強雇二往還人并車馬一事 右撿二案内一、〈◯中略〉近者山崎大津、兩津頭邊、諸司諸家人、妄假二威勢一、強雇二車馬一、因レ玆行旅之人、多煩二往還一、傭賃之輩、已失二活計一、人民之間、愁苦不レ少、此而不レ糺、何謂二皇憲一、中納言從三位兼行左近衞大將藤原朝臣基經宣、自レ今而後、一切禁斷、若有二強雇者一、重禁一其身一、具レ状言上、 貞觀九年十二月廿日
p.0494 貞觀十六年十二月廿六日庚辰、撿非違使起二請二條一、其一應レ糺二彈近京之地非違一事、謹案、使等依二舊宣旨一、准二撿京中之非違一、由レ是姧猾之輩、好二城邊之地一、避二使等撿察一、亦觸レ類應レ彈之事、多在二山埼、與渡、大井等津頭一、使等即レ事經二過郡邊一、目有レ所レ見、口不レ能レ言、望請津頭、及近京之地、在〈◯在上恐脱二所字一〉非法使等有レ所レ著即便糺彈、
p.0494 凡山城國宇治津、雜材直并運賃錢者、五六寸歩板、一丈四尺柱、直各卅六文、簀子、一丈二尺柱、直各廿一文、榑一材、直七文、自二同津一至二前瀧津一、榑一材功一文半、 凡近江國大津雜材直并桴功錢者、五六寸歩板、一丈四尺柱、直各卅文、簀子、一丈二尺柱、直各十七文、榑一材、七文、自二同津一至二宇治津一、榑一榑桴功一文半、 凡丹波國瀧頟津雜材直并桴功錢者、五六寸歩板、一丈四尺柱、直各卅七文、簀子、一丈二尺柱、直各廿二文、榑一材、直七文、自二同津一至二大井津一、榑一材桴功一文半、
p.0495 凡山城國大井津雜材木直并車賃錢者、五六寸歩板、一丈四尺柱、直各卌五文、榑一材、直九文、簀子、一丈二尺柱、直各廿六文、自二同津一至レ寮、車一兩賃五十文、
p.0495 造佛所作物帳斷簡〈年紀不レ詳、按成卷文書四十五卷所レ收、天平六年造佛所作物帳中卷斷簡、恐與レ此同物歟、◯中略〉買二檜久禮一千二百八十枚一〈七百卌枚各十一文、五百卌枚各十文、〉 直錢十三貫五百卌文 自二泉津一運車六十四兩、賃錢二貫卅八文、〈車別卅二文〉 買二波多板十枚一〈各長八尺、廣二尺、厚一寸半、〉 直錢三百文〈枚別卅文〉 自二泉津一運車一兩、賃錢卅二文、 波多板卅八枚、倉代壁板廿四枚、床子料板卌枚、佛座等料板卌一枚、香印料板二枚、合一百卌五枚、 自二泉津一運車廿九兩、賃錢九百七十八文、〈廿一車各卅四文、八車各卅三文、〉 買二燭松一百五枚一直錢六百五十三文〈廿三枝各七文、八十二枝各六文、〉 自二泉津一運車五兩、賃錢一百六十五文、〈車別卅三文◯中略〉 岡田燒炭八百十八斛〈自二泉津一運車五十四兩〉 賃錢一貫七百六十七文〈卅九車各卅三文、十五車各卅三文、〉
p.0495 作物雜工散役及官人上日解文 木工所別當貳人〈判官正六位上葛井連根道 主典正六位上彌努連奥麻呂〉 單口貳仟壹佰壹拾貳人〈◯中略〉 作物〈◯中略〉 引治泉津(○○)材并荒作 功八十六人〈◯中略〉
p.0496 以前三月中作物、并雜工等散役、及官人上日具件如レ前、謹解、 天平寶字六年四月一日 主典從六位上阿刀連酒主 長官正四位上兼勇士督坂上忌寸犬養〈◯下略〉
p.0496 自二高島山一漕二運榑一事 合榲榑六百材、漕功錢四貫八百文、 〈自二小川津一於二宇治津一漕榑六百材、功三貫文、〈三百材々別三文、三百材々別二文、〉自二宇治津一於二泉津一漕六百材、功一貫八百文、〈材別三文〉 泉津沾直錢十四貫四百文〈漕功充二四貫八百文一、可二殘九貫六百文一、〉 天平寶字六年九月九日
p.0496 宇治使解 申漕上歩廊柱榑并用二功錢一事 合柱貳拾根 功錢參貫漆佰捌拾文〈二根門料、根別二百七十文、十八根歩廊、根別百八十文、〉 榑陸佰材 功參貫參佰文〈三百材別六文、三百材別五文、〉 用錢漆貫捌拾文〈六貫受二作物所一 一貫八十文石山院可來別當所八貫内〉 右自二勢多津一迄二泉津一漕上材木如レ件、以解、天平寶字六年九月十日領勝屋主
p.0496 高島山使解 申二請錢用并進上雜材等一事 合錢捌貫 〈八月廿日受二政所一〉 用肆貫七佰玖拾四文 〈漕材五百卅物〉 一百廿文買米一斗二升直、〈升別十文〉給使舍人十人食料、日別一升二合、 五十四文給錢、運雇夫二人功料、〈廿四文功料、日別十二文、卅文食米三升直、升別十文、〉 四貫六百廿文、雜材四百卌物漕上桴工等功料、〈◯中略〉
p.0497 以前自二宇治津一迄二泉津一、於二漕上材木并所請錢用等一如レ前、以解、 天平寶字六年九月十七日領勝屋主
p.0497 寛永十二亥年六月 武家諸法度 一私之關所、新法之津留、制禁之事、〈◯中略〉 右條々、准二當家先制之旨一、今度潤色而定レ之訖、堅可二相守一者也、 寛永十二年六月二十一日 御朱印
p.0497 家綱公御代武家諸法度 一私之關所、新法之津留、制禁之事、〈◯中略〉 右條々、准二當家先制之旨一、今度潤色被レ定之事、堅可二相守一者也、 寛永三年五月廿三日
p.0497 天孫 津守宿禰 尾張宿禰同祖、火明命八世孫、大御日足尼之後也、 津守 火明命之後也
p.0497 天孫 丹比連 同神〈◯火明命〉男、天香山命之後也、 津守連 同上 〈◯網上恐脱二依字一〉津守連 同上
p.0497 九年〈◯仲哀〉十二月辛亥、從レ軍〈◯征韓〉神、表筒男、中筒男、底筒男三神、誨二皇后一曰、我荒魂令レ祭二於穴門山田邑一也、時穴門直之祖踐立、津守連之祖田裳見宿禰、啓二于皇后一曰、神欲レ居之地、必宜レ奉レ定、則
p.0498 以二踐立一爲下祭二荒魂一之主上、仍祠立二於穴門山田邑一、
p.0498 津守連〈(中略)古事記仁徳記曰、定二墨江之津一、今和泉國大鳥郡堺南莊有二津守一、續後撰集云、津守國平、我君乎、松乃千歳登、祈留哉、世世爾津守乃、神乃美夜都古、神名式、攝津國住吉郡大海神社二座、元津守氏人神、在二住吉境域一、〉
p.0498 底筒男命 中筒男命 表筒男命 此三神者、津守連等齋祠住吉三前神、
p.0498 此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神、以伊都久神也、〈伊以下三字以レ音、下效レ此、〉故阿曇連等者、其綿津見神之子、宇都志日金拆命之子孫也、〈宇都志三字以レ音〉
p.0498 舊事紀には、此に津守連齋祠住吉云々とあり、是は右の阿曇連に准て、書添たるなり、津守連は、火明命の後なりと姓氏録に見ゆ、さて此記に墨江之津と云、右に引る書紀ノ文にも、大津云々とあれば、住吉は本より津にて、津守は此津を守し由なるべし、西生郡〈◯攝津〉に津守郷もあるは、其人の住し里ならむ、萬葉十一に、住吉乃(スミノエノ)、津守網引之(ツモリアビキノ)云々、さて此氏の、此神を以伊都久由は、書紀神功卷に、三神誨二皇后一曰、我荒魂令レ祭二於穴門山田邑一也、時穴門直之祖踐立、津守連之祖田裳見宿禰、啓二于皇后一曰云々とありて、荒魂を穴門に祠たまふ時に、踐立をその神主と爲たまふ由見えたれば、其後に、和魂を津守に祠給ふ時、かの田裳見をば、その神主と爲たまひしなるべし、さて此人にもあれ、子孫にもあれ、兼て津を守りしよりぞ、津守連とは負けむ、
p.0498 安房國、〈◯中略〉那古の觀音にまうで、ぬかづきをはりて、夕の海づらをながめやるに、寺僧のいで來て、あれ見給へ、入日をあらふ沖津白浪とよめるは、此景也といへり、されどそれは、津の國住吉郡なごの浦をよめるとかや、そのなごの浦に、難波津をまもれる人の住しによりて、其浦を津守の浦といひ、又其子孫の氏によびて、津守氏有とかや、今はなごの浦の所に、さだかにしれる人なしとなむ、
p.0499 攝津國西成郡津守 兎原郡津守 住吉
p.0499 寄レ物陳レ思 住吉乃(スミノエノ)、津守網引之(ツモリアビキノ)、浮笑緒乃(ウケノヲノ)、得干蚊將去(ウカレカユカン)、戀管不有者(コヒツヽアラズバ)、
p.0499 三年十月戊戌詔二船史王辰爾弟牛一、賜レ姓爲二津史(ツノフムビト)一、
p.0499 六年十月癸卯、内大錦下丹比公麻呂、爲二攝津職大夫一、
p.0499 津濟船舶 天武帝置二攝津職一、〈日本書紀〉以管二難波津務一、
p.0499 攝津職〈帶二津國一〉 大夫一人、〈掌下祠社、〈謂祠者、祭二百神一也、社者、撿二校諸社一也、凡稱二祠社一者、皆准二此例一、〉戸口、簿帳、字二養百姓一、勸二課農桑一、糺二察所部一、貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、市㢆、度量輕重、倉廩、租調、雜徭、兵士、器仗、道橋、津濟、過所、上下公使、郵驛、傳馬、闌遺雜物、撿二校舟具一、及寺、僧尼名籍事上、〉亮一人、大進一人、少進二人、大屬一人、少屬二人、史生三人、使部卅人、直丁二人、
p.0499 養老四年正月丙子、遣二渡島津輕津司(○○○○○○)從七位上諸君鞍男等六人於靺鞨國一、觀二其風俗一、
p.0499 大化二年三月甲申、詔曰、〈◯中略〉罷二市司、要路、津濟、渡子之調賦一、給二與田地一、
p.0499 津濟船舶 按津濟渡子調、不レ詳レ所レ起、本書〈◯日本書紀〉敏達帝三年、辰爾弟牛、賜二姓津史一、而不レ言二其賜レ姓之故一、然據下其兄掌二船賦一賜中姓船史上考レ之、即牛亦或掌二津濟賦一、因賜二此姓一、然則津濟賦、始二于此一也、〈◯中略〉書二于此一以竢二後考一、
p.0499 建暦二年九月廿一日甲子、諸國津料、河手等事、可レ被レ止由、日來及二御沙汰一之處、其事爲二得
p.0500 分一、所々地頭依レ申二子細一、今日如レ元可レ致二沙汰一之由、面々被二仰下一云云、
p.0500 一河手事〈弘長二七一〉 承久以後、於二所々一致二新儀之煩一之由有二風聞一、可レ停二止之一、 文永元年四月廿六日 武藏守判 相模守判 因幡前司殿 一津料河手事 先年被レ留畢、而近年所々地頭等押領之間、爲二諸人之煩一云々、於レ帶二御下知一者、不レ及二子細一、其外至二押取之輩一者可レ令二停止一、若違犯者、可レ有二其科一之由、可レ令レ相二觸其國中一、猶以不二承引一者、可レ令レ注二進交名一之状、依レ仰執達如レ件、 弘安四年四月廿四日 相模守判 某殿〈守護人事也〉一條々諸國一同被二仰下一畢 一河手事 一津泊市津料事 一沽酒事 一押買事 右四箇條所レ被二禁制一也、於二河手一者、帶二御下知一之輩者、不レ及二子細一之由、雖レ被二仰下一、同停二止之一畢、守二此旨一可レ被レ相二觸國中一、若令二違犯一者、可レ被二注申一之状、依レ仰執達如レ件、 弘安七年六月三日 駿河守判
p.0501 信濃判官入道殿
p.0501 一諸國新關并津料事 成二諸人往來上下之煩一之條、太以不レ可レ然、早本新共、可レ被レ停二廢之一歟、 諸國狼藉條々〈貞和二十二十三、沙汰、◯中略〉 一構二新關一、號二津料一、取二山手河手一、成二旅人煩一事、 以前條々、非法張行之由、近年普風聞、雖レ爲二一事一有二違犯之儀一者、可レ改二易守護職一、若正員不二存知一、爲二代官結構一之條、蹤跡分明者、則可レ召二上彼所領一、無二所帶一者、可レ處二遠流之刑一矣、
p.0501 下總國香取社大禰宜長房申、當國津ノ宮ノ津以下浦々海夫事、注文一通遣之、度度被レ仰之處、不二事行一云々、甚不レ可レ然、所詮云二知行分一、云二庶子分一、嚴密可レ被レ致二其沙汰一、若猶及二異儀一者、可レ有二殊沙汰一之由候也、仍執達如レ件、 應安七年九月廿七日 智兼〈花押〉 道轍〈花押〉 千葉介殿
p.0501 海夫注文〈下總國〉 いひぬま(飯沼)かうや(荒野)の津〈いひぬま知行分〉 かきね(垣根)の津〈うなかみ知行分〉 野じり(尻)の津〈海上知行分〉 もりと(森戸)の津〈もりと知行分〉 さヽもと(篠本)の津〈さゝもと知行分〉 しをかわ(鹽川)の津〈海上知行分〉 いしで(石出)の津〈石出知行分〉 いまいずみ(今泉)の津〈今泉知行分〉 さつさかわ(篠川)の津〈東六郞知行所〉 おみ(小見)かわ(川)の津〈粟原彦知行分〉 たとかうやの津〈大藏知行分〉 そばたか(脇鷹)の津〈大藏知行分〉
p.0502 ゑちごうちの津〈大藏知行分〉 すくゐの津〈中村三郞左知行分〉 ほつかわ(堀川)の津〈中村三郞左衞門内山中務〈今ハ中澤〉知行分〉 よこ(横)すか(須賀)の津〈内山中務知行分〉 【つ】(津)の【みや】(宮)【の津】〈中村式部知行分〉 しの(篠)原津〈たつさわ知行分〉 いと(井戸)にわ(庭)の津 さわら(佐原)の津〈中村〉 せきど(關戸)の津〈國分與一知行分〉 いわがさき(岩埼)の津〈木内知行分〉 なかす(中洲)の津〈國分三川知行一方御料所〉 かうさき(神埼)の津〈神崎西知行分〉 海夫注文 いヽぬまの津 かきねの津 のじりの津 もりとの津 さヽもとの津 しをかはの津 以下の知行分浦々 海夫注文 いしでの津 いまいづみの津 以下の知行分浦々 海夫注文 たとかうやの津 そばたかの津 ゑちごうちの津 以下の知行分浦々
p.0502 下總國香取社大禰宜長房申、常陸國大枝津(○○○○○○)、高摺津(○○○)以下浦々海夫事、度々被レ仰之處、不二事行一云々、甚不レ可レ然所詮云二知行分一、云二庶子分一、嚴密可レ被レ致二其沙汰一、若尚及二異儀一者、可レ有二殊沙
p.0503 汰一之由候也、仍執達如レ件、 應安七年九月廿七日 智兼〈花押〉 道轍〈花押〉 地頭殿 大掾殿 麻生殿 宮崎殿 小高殿 鹿島殿 東條殿 小栗殿 小田殿 同兵部少輔入道殿 吉原殿 難波殿 山河殿 鹿島大禰宜殿 〈以上十三通、名所所付之外者、同文章、〉
p.0503 海夫注文〈常陸國〉 あは(阿波)ざき(埼)の津〈東條能登入道一方難波知行分〉 むまわたし(馬渡)の津〈東條地頭領家〉 ふつと(福戸)の津〈しだ一方小田知行分一方吉原知行分〉 かしわざき(柏埼)の津〈小田兵部少輔入道知行分〉 ふつとの津〈とうでう一方東條能登入道〉 ひろと(廣戸)の津〈同人〉 ふなこ(舟子)の津〈同人〉 あんちうの津〈小田知行分〉 あさう(麻生)の津〈麻生知行分〉 みやきさき(宮木埼)の津〈玉造知行分〉 しまさき(島埼)の〈鹿島知行分〉川むかひ(向)の津〈同人〉 くわうや(荒野)の津〈同人〉 さるをがは(猿小河)の津〈同人〉 につかは(日川)の津〈同人〉 やたべ(谷田部)の津〈あかし知行分〉 はながさき(鼻埼)の津〈花崎知行分〉 しばさき(柴埼)の津〈柴崎知行分〉 はぎはら(萩原)の津〈はぎはら知行分〉おきす(息栖)の津〈鹿島知行分〉 かむら(賀村)の津〈鹿島知行分〉 たかはま(高濱)の津〈石神知行分〉 はたき(幡木)の津〈鹿島知行分〉 大ふなつ(舟津)〈同人〉 ぬかヾ(糠賀)の津〈ならやま知行分〉
p.0504 かけさき(懸埼)の津〈つか知行分〉 ぬまりの津〈つか知行分〉 ならけ(奈羅毛)の津〈中むら知行分〉 しろとり(白鳥)ふなつ(舟津)〈しろとり知行分〉 たうま(當麻)の津〈みやがさきの知行分〉 なるた(鳴田)の津〈たけだ知行分〉ふなこ(舟子)の津〈おだか知行分〉 やまだ(山田)の津〈同人〉 ひらはま(平濱)の津〈てが知行分〉 水はらの津〈小栗えちご知行ふなつ當知行〉 しまさきの津〈島崎知行分〉 ふなかた(舟方)の津〈同人〉 いたく(潮來)の津〈しまさきの知行分〉 うしぼり(牛堀)の津〈鹿島知行分〉 とみだ(富田)の津〈かめおか知行分〉 はしかど(橋門)の津〈おたか知行分〉 さいれんじ(西蓮寺)ふなつ〈おだか知行分〉 たかす(高須)の津〈玉つくり〉 はねう(羽生)ふなつ〈はねう知行分〉 大ゑたの津〈大ぜう知行分〉 鹿島郡内 島崎津 河向津 荒野津 猿小河津 新河津 谷田邊津 鼻崎津 柴崎津 萩原津 息栖津 加村津 高濱津 波田木津 大船津 糠賀津 奈羅毛津 白鳥津 牛堀津 東條庄内一方 阿波崎津 馬渡津 福戸津 飯手津 大壺津
p.0505 行方郡内 宮木崎津 島崎津 尾宇津 江崎津 信方(ノブカタ)津 橋門津 西蓮寺船津 鎌谷津 高須津 鳴田津 水原津 船子津 山田津 平濱津 土古津 逢賀津
p.0505 攝津職〈帶二津國(○○)一〉
p.0505 凡行人出二入關津一者〈(中略)津者攝津(○○○○)〉
p.0505 凡防人向レ防、各賷二私粮一、自レ津(○)發日、隨給二公粮一、
p.0505 四十一年二月、是月阿知使主等、自レ呉至二筑紫一、〈◯中略〉既而率二其三婦女一〈◯弟媛呉織穴織〉以至二津國(○○)一、及二于武庫一、
p.0505 つ 津濟のつは、人のあつまるよりいひ、〈◯中略〉つの國(○○○)も、西州の船舶輻湊の地なるをもて名くるなり、
p.0505 攝津、〈◯中略〉津、湊津也、言此國難波堀江、天下著船津也、〈◯中略〉予曰、攝津、不レ讀二攝字一而曰二津國一古實也、圖書編〈異朝之書〉作二津州一、
p.0505 攝津 和名抄に訓法なし、たヾ津とのみよむべきか、名義は、即津なり、
p.0505 伊豫國風土記曰、宇知郡御島坐神、御名大山積神、一名和多志大神也、是神者、所レ顯二難波高津宮御宇天皇御世一、此神自二百濟國一度來坐、而津國御島坐云々、謂二御島一者、津國御島名也、
p.0506 昔男、津のくにむばらのこほりにすみける女にかよひける、此たびかへりなば又はよもこじと思へるけしきをみて、女のうらみければ、〈◯下略〉
p.0506 題しらず 貫之 津のくに(○○○○)の難波の蘆のめもはるにしげきわがこひ人しるらめや
p.0506 題しらず 紀内親王 津の國のなにはたヽまく惜みこそすくもたく火の下にこがるれ
p.0506 伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱神、〈◯中略〉御合、生二子淡道之穗之狹別島一、〈◯中略〉次生二津島(○○)一、亦名謂二天之狹手依比賣一、
p.0506 津島、名義は、萬葉十五〈二十六丁〉に、毛母布禰乃(モヽフネノ)、波都流對馬(ハツルツシマ)とよめる如く、韓國の往還の舟の泊(ハツ)る津なる島なり、
p.0506 十二年、是歳、〈◯中略〉恩率參官、〈◯百濟使人〉臨二罷レ國時一、〈◯中略〉恩率之船、被レ風沒レ海、參官之船、漂二泊津島一、乃始得レ歸、
p.0506 對馬和訓猶レ言二津島一也、海津之中、所レ有之島也、
p.0506 到二對馬島淺茅浦一舶泊之時、不レ得二順風一、經停五箇日、於レ是瞻二望物華一、各陳二慟心一作歌、毛母布禰乃(モモフネノ)、波都流對馬能(ハツルツシマノ)、安佐治山(アサヂヤマ)、志具禮能安米爾(シグレノアメニ)、毛美多比爾家里(モミダヒニケリ)、
p.0506 舟泊(ハツ)る津とかけたり、此國を續紀津島と書り、
p.0506 つしま(○○○)にまかりたりしに、我國のかたは、はるかになりて、新羅のやまのみえしかば、ふなでせしはかたやいづらつしまには知ぬしらぎの山はみえつる
p.0506 津〈付泊〉 すみよしのえなづ なりたづ あらつ しかのおほつ ひきつ〈あづさゆみ〉
p.0507 津 おほとものみつ〈攝 万、みつのはまヽつ、〉 なにはづ〈同 万〉 たかつ〈同 万、石舟とめし所なり、〉 えなづ〈同 万、すみよし也、むこのうらみゆる、〉 しかつ〈近 万〉 おほつ〈同 万、しかのおほつ、〉 しほつ〈同 万、しほつする浦といへり、〉 かいつ〈同〉 あきた〈伊、万、有二臨幸一、〉 なりた〈同 万同上〉 さきたまの いちゐ〈万 ひはら〉
p.0507 津 高津〈つの國西生郡 久堅のあまのさくめは岩舟をとめしたかつはあせにけるかも、千への波、〉敷津〈同上 船ながら今夜計は旅ねせんしきつの波に夢はさむとも〉難波津〈同 なにはづにふねとまりぬと聞えこばひもときさげてたちはしりなん、舟よそひ、みふねおろす、この花、若葉、うみわたるふね、あしの八重がき、〉大伴御津〈同、濱松、あま人、くヾつもて玉もかるらん、月、戀、舟のり、松原、又只みつ共云り、大伴のみつとはいはじあかねさしてれる月夜にたえずあへりとも、〉朴津〈つの國 住吉のゑなづにたちて見わたせばむこのうらよりいづるふな人〉御津〈同、まかぢ漕出て、松原、やく鹽のからくも、うきめをみつ、白妙の、みつのえ、にふの色に出て、あま、月、みこもりをかりあげてほす五月雨に、よそにのみ戀、はま松、あし、春の明ぼの、みるめかる、忘貝、海わたるふね、あま乙女くゞつもて、玉も、舟のり、寺在レ之、〉八津〈同、或云、いづみ、 ちぬつより雨にふりにし八津のあまの足の手つまの我きたらんかな〉ちぬ津〈いづみ、上に同心也、〉鹽津〈近江、花駒、 あらかまのしほつをさしてこぐふねの名はいひてしをあはざらめやも〉かい津〈同上、八雲御説、〉大津〈同 我命まことにあらば又もみんしがの大津によする白波、馬、宮の橘、はまのまさご、〉桃津〈丹波、宗祇注之、歌なし、〉ねぎた津〈石見、海べをさして、ねぎたづ、あら磯うへに、あしのわか葉をはむ駒、〉崎玉津〈武州崎玉郡 さき玉のつにおる舟の風をいたみ綱はたゆともことなたえそね〉室津〈能登、すゝめくるこし舟、〉引津〈ちくぜん、あづさ弓、なのりそ、〉荒津〈同上、しほの滿干、ぬさまつる神、君、戀、〉櫟津〈伊與 さすなべにゆかせこどもいちひづのひばしよりこばきつにあひまて〉秋田津〈同上、百敷の大宮人、舟のり、月、〉熟田津〈同レ右 なりたつにふなのりせんとききしなべ何ぞも君のみえこざるらん〉志賀津〈近江 みるめなきしがつのあまのぬれ衣君をばよそにこがれてぞふる、同名伊勢に有、都貝をよめり、〉
p.0507 【三津】(サンツ)〈薩州坊津、筑前博多、勢州安濃、〉
p.0507 日本三津 坊津〈薩摩〉 博多津〈筑前〉 阿濃津〈伊勢〉
p.0507 つ 三箇の津(○○○○)といふも、坊の津、博多の津、安濃の津をいふよし、武備志に見え、仁徳天皇の時に定めらたる事、伊勢風土記に見えたり、
p.0508 津要 國有二三津一、皆商舶所レ聚、通レ海之江也、西海道有二坊津(ハウノツ)一、〈薩摩州所レ屬〉花旭塔津(ハカタノツ)、〈筑前州所レ屬〉洞津(アノツ)、〈伊勢州所レ屬〉三津惟坊津爲二總路一、客船往返必由、花旭塔津爲二中津一、地方廣濶、人煙湊集、中國海商、無レ不レ聚レ此、地有二松林一、方長十里、〈名二十里一有二百里一〉松土名二法哥煞機(ハコサキ)一、乃廂先也、有二一街一、名二大唐街一、人留レ彼、相傳今盡爲レ倭也、洞津爲二末津一、地方又遠、與二山城一相近、貨物或備或缺、惟中津無レ不レ有二貿易一、
p.0508 三津 按坊津在二麑島坤方一、博多在二那珂郡一、洞津在二安濃郡一、三代實録曰、博多是隣國輻湊之津、警固武衞之要、蓋往昔、海舶皆入二博多一、二百年來用二薩摩、周防、或豐後豐府、或肥前平戸一、寛永以來、一以二肥前長崎一爲レ湊、而無二復改一レ之、
p.0508 みつのつ〈◯中略〉 世に京、大坂、江戸の三都を三箇の津(○○○○)といふは、此三津〈◯薩摩坊津、筑前博多、伊勢安濃津、〉を謬りたる成べし、
p.0508 堺之津〈◯中略〉 世俗、京、大坂、堺ヲ指テ三箇津ト稱ス、
p.0508 山崎津
p.0508 大同元年九月壬子、遣レ使封二左右京及山埼津(○○○)、難波津酒家甕一、以二水旱成レ災、穀米騰躍一也、
p.0508 日本後紀、山崎津、凌雲集、林宿禰娑婆詩題、自二山崎一乘レ江赴二讃岐一、在二難波江口一述レ懷、催馬樂云、難波乃海、難波乃海、漕以上、小舟大舟、筑紫津迄爾、今少上禮、山崎迄爾、筑紫津在二島上郡津江村一、土佐日記亦言、泊二山崎一、然則中古猶巨船沿レ海曁二于山崎一、非レ若二今高瀬舟一也、
p.0508 難波潟 なんばのうみ、なんばの海、こぎもてのぼる、をぶねおほぶね、つくしづまでに、いますこしのぼ
p.0509 れ、山ざきまでに、 つくしづまでに、抄曰、筑紫舟のつく津也、考曰、筑紫舟のつく津の有ていふなるべし、
p.0509 十一日、〈◯承平五年二月、中略、〉山崎のはしみゆ、うれしきこと限なし、〈◯中略〉十二日、山崎にとまれり、
p.0509 太政官符 應レ禁三止強雇二往還人并車馬一事 右撿二案内一、〈◯中略〉近者山崎大津兩津頭邊、諸司諸家人、妄假二威勢一、強雇二車馬一、因レ玆行旅之人、多煩二往還一、傭賃之輩、已失二活計一、〈◯中略〉 貞觀九年十二月廿日
p.0509 天祿三年閏二月廿一日辛亥、山崎津鬪亂事出來、放二火在家一卌餘煙、中レ矢之者三人、
p.0509 見二遊女一 江以言 二年三月、豫州源太守兼員外左典廐、春行二南海一、路次二河陽一、阿陽則介(○○○○)二山河攝三州之間(○○○○○○○)一、而天下之要津也、自レ西自レ東、自レ南自レ北、往反之者、莫レ不レ率二由此路一矣、
p.0509 遊女記 自二山城國與渡津一、浮二巨川一西行一日、謂二之河陽(○○)一、往二返於山陽南海西海三道一之者、莫レ不レ遵二此路一、〈◯下略〉
p.0509 河陽〈或云山崎同所歟〉
p.0509 春江賦 太上天皇 仲月春氣滿二江郷一、新年物色變二河陽一、〈◯中略〉是以羽族翺翔、鱗群頡頏、繽紛雜沓、載來載行、咀二嚼初藻一、呑二茹新荇一、各々吟叫、處々相望、渉人廻レ檝、與二淵客一而爲レ倫、漁童構レ宇、接二鮫室一而同レ隣、隨二波瀾之渺邈一、轉二舳艫一而尋レ津、菱歌於レ是頻沿レ沂、客子於レ是不レ勝レ春、玆可レ謂三江村春而感二於情人一也、
p.0510 夏日遊二河陽別業一 藤原明衡 晨辭二東洛一更南レ轅、適至二河陽一漸及レ昏、列岫傍レ江雲色映、奔流濺レ石雨聲喧、孤輪夜月明二遙漢一、一片暮煙出二遠村一、伴レ老友朋松偃レ蓋、忘レ憂媒介桂盈レ樽、長堤放レ馬居二巖畔一、古渡呼レ舟立二浪痕一、臨レ瀬紫藤花自倒、籠レ洲緑草葉初繁、〈◯下略〉
p.0510 延暦廿三年七月丙申、幸二與等津一、
p.0510 弘仁元年九月戊申、置二宇治山埼兩橋與渡市津頓兵一、
p.0510 貞觀十六年十二月廿六日庚辰、撿非違使起二請二條一、〈◯中略〉觸レ類應レ彈之事、多在二山崎與渡(○○)大井等津頭一、〈◯中略〉望請津頭、及近京之地、在〈◯在上恐脱二所字一〉非法、使等有レ所看、即便糺彈、
p.0510 川船一艘、〈長三丈〉在二與等津一、右漕二奈良奈癸等園供御雜菜一
p.0510 諸國運二漕雜物一功賃〈◯中略〉 山陽道 播磨國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別稻一束、挾杪十八束、水手十二束、自二與等津一運レ京車賃、石別米五升、但挾杪一人、水手二人、漕二米五十石一、美作備前亦同、◯中略〉備前國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束、挾杪廿束、水手十五束、自餘准二播磨國一、〉備中國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束二把、挾杪廿三束、水手廿束、自餘准二播磨國一、但挾杪、水手、各漕二米十石一、〉備後國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束三把、挾杪廿四束、水手一人、漕二米十斛一、自餘准二播磨國一、〉安藝國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃石別一束三把、挾杪卅束、水手廿五束、但水手一人、漕二米十五石一、自餘准二播磨國一、〉周防國〈◯中略〉路海〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束三把、挾杪卌束、水手卅束、自餘准二播磨國一、但挾杪一人、水手二人、漕二米五十石一、長門國亦同、〉長門國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束五把、挟杪卌束、水手卅束、自餘准二播磨國一、〉 南海道 紀伊國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束、挾杪十二束、水手十束、自餘准二播磨國一、〉淡路國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束、挾杪十二束、水手十束、但挾杪、水手、各漕二米八斛二斗、自餘准二播磨國一、〉阿波國〈◯中略〉海路、〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束一把、挾杪十四束、水手十二束、但挾杪、水手、各漕二米十斛一、自餘准二播磨國一、〉讃岐國〈◯中略〉
p.0511 海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別六束三把、挾杪廿束、水手十六束、但挾杪、水手、各漕二米十斛一、自餘准二播磨國一、〉伊豫國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別一束三把、挾杪卅束、水手廿五束、挾杪、水手、各漕二米十斛一、自餘准二播磨國一、〉土佐國〈◯中略〉海路〈自レ國漕二與等津一船賃、石別二束、挾杪五十束、水手卅束、但挾杪、水手、各漕二米八斛一、自餘准二播磨國一、〉
p.0511 御封米事 右伊與國所レ進米、到二來淀津一云々、解文下文、一日史生秦福充所二持來一也、早可二下行一之由、可レ被レ示二綱丁所一、其謹言、 極月日 皇后宮權大進 謹上 伊與守殿
p.0511 遊女記 自二山城國與渡津一、浮二巨川一西行一日、謂二之河陽一、〈◯下略〉
p.0511 高橋津
p.0511 延暦十一年閏十一月己亥、幸二高橋津一、便遊二獵于石作丘一 十三年四月庚午、巡二覽新京一、還御二右大臣從二位藤原朝臣繼繩高橋津莊一宴飮、賜二五位已上衣一、
p.0511 いちいづ〈櫟〉 武藏
p.0511 櫟津 伊豫〈藻鹽、或歌枕ニ美濃(○○)、〉
p.0511 長忌寸意吉麻呂歌八首刺名倍爾(サシナベニ)、湯和可世子等(ユワカセコドモ)、櫟津乃(イチヒヅノ)、檜橋從來許武(ヒバシヨリコム)、狐爾安牟佐武(キツニアムサム)、 右一首、傳云、一時衆集宴飮也、於レ時夜漏三更、所レ聞二狐聲一、爾乃衆諸、誘二興麻呂一曰、關二此饌具雜器狐聲河橋等物一、但作レ歌者、即應レ聲作二此歌一也、
p.0511 櫟津は、允恭紀に、到二倭春日一、食二于櫟井上一、是也、檜橋もそこに有なるべし、 ◯按ズルニ、櫟津ノ所在詳ナラズ、姑ク略解ノ説ニ隨テ此ニ收ム、
p.0512 いしつ 和泉
p.0512 和泉國大鳥郡石津〈以之都〉
p.0512 五日、〈◯承平五年二月〉けふからくして、いづみのなだより小津のとまりをおふ、〈◯中略〉石津といふ所の松原、おもしろくてはまべとほし、
p.0512 さるべきやうありて、秋頃和泉にくだるに、よどといふよりして、道のほどのおかしうあはれなる事、いひつくすべうもあらず、〈◯中略〉冬になりてのぼるに、おほえと云うらに船にのりたるに、その夜雨風、いはもうごくばかりふりふヾきて、神さへなりてとヾろくに、浪の立くるをとなひ、風の吹まどひたるさま、おそろしげなること、いのちかぎりつと思ひまどはる、をかのうへに舟をひきあげて夜をあかす、雨はやみたれど、風なをふきて船いださず、ゆくゑもなきをかのうへに五六日をすぐす、からうじて風いさヽかやみたるほど〈◯中略〉くにの人々あつまりきて、その夜この浦をいでさせたまひて、いしづにつかせ給へらましかば、やがて此御舟、なごりなくなりなましなどいふ、心ぼそうきこゆ、 あるヽ海に風よりさきに船出していしづの波と消なましかば
p.0512 高野山御參詣記 永承三年十月十一日子、〈◯此間文闕〉廟令レ參二紀伊國金剛峯寺一給、〈◯藤原頼通〉 十二日丁丑、於二和泉國石津湊一令レ用二御馬一給、西風尚不レ止、前途依レ有レ憚也、
p.0512 又のとし戊寅の春二月、〈◯延元三年〉鎭守府大將軍顯家卿、また親王〈◯後村上〉をさきだて申し、重ねて打のぼる、〈◯中略〉同五月、和泉の國石津といふ所にての戰に、時やいたらざりけん、忠孝の道こヽに極り侍りにき、苔の下にうづもれぬものとては、たヾいたづらに名をのみぞ留めし、心うき世にも侍るかな、
p.0513 堺津(サカヒノツ)〈又云、泉南、泉州大鳥郡、蓋以下泉州與二攝州一之界上云レ爾、〉
p.0513 堺津 攝河泉之堺也、大小路東有二三國境目一、〈東河州、北攝州南泉州、〉自レ古渡唐商人居住、西國海舶ノ大湊也、總二二庄五村一、向井領村、中筋村、原村、〈謂二之北庄一屬二攝州一〉開口村、木戸村、〈謂二之南庄一屬二泉州一〉山名氏清、大内義弘等從レ築二城於此津一、專爲二繁花之地一也、後三好修理大夫長慶、使三三好存保司二泉河兩國政道一、世稱二廳殿(マンドコロドノ)一今亦當地町奉行、司二和泉一國事一、稱二政所(マンドコロ)一、
p.0513 堺(サカイ)之津 住吉郡ニ屬ス、大坂ヨリ行程凡三里ヲ隔タリ、此津天武天皇御宇白鳳十二年、諸國ノ堺ヲ定ルノ所、攝泉ノ堺、今モ市中ニアリ、
p.0513 堺津〈涯西數百歩、淺滷水砂、不レ宜二泊舟一、涯頭舖舍、監二察出入之舟一、寛永中、海潮漲溢、更生二一島一仍疊レ石爲二民居一、便二於泊舟一、名曰二夷島一、〉
p.0513 阿波御所御上津御官位事 同〈◯大永七年〉三月二十二日、阿波御所ハ十七歳、細川聰明丸ハ十四歳ニテ、阿州ヨリ御渡海有リ、今日泉州堺ノ津エ著セ給ヘバ、皆人渇仰シ奉リ、此旨京師エ執奏ス、
p.0513 三好筑前堺エ歸事附天王寺崩高國最後事 高國利ヲ失ヒ、天王寺、今宮、木津、難波ニ陣取リケル、常桓ハ中島之内ウライ江ニ陣ヲ取ル、浦上ハ野田福島ニ陣ヲ取ル、其勢二萬餘騎ト風聞ス、堺ノ町人ギヤウテンシ、門々ニ垣ヲシタリケレバ、誠ニ御祓ノ日トミヘシ、同〈◯享祿四年〉三月廿五日、細川讃岐守殿堺エ著津アル、其勢八千餘騎、〈◯下略〉
p.0513 三好海雲 享祿五壬辰歳六月廿日、三好筑前守長基、泉州堺津ニ至テ、畠山高政ト戰テ敗績シ、入二顯本寺一、手自臟腑ヲ繰出、天井ニ投生害ス、
p.0513 泉州堺津名物器被二召寄一事
p.0514 同〈◯元龜元年〉四月朔日、和泉國堺浦ニテ、富メル者共ガ求畜タル名物ノ道具共御覽有ベシトテ、友閑法印、丹羽五郞左衞門尉長秀ニ被二仰付一ケリ、兩人承テ堺ノ南北觸シカバ、所持ノ者共、此度奉ラデハトテ持參ル程ニ、イクラトモナク集ケリ、
p.0514 九鬼右馬允大坂表大船推廻事 同〈◯天正六年九月〉廿七日、九鬼右馬允〈◯嘉隆〉大船共御覽有ベキトテ、信長公住吉ヘ著津シ玉フテ、同廿九日、安部野於テ御鷹狩シ給ヒヌ、〈◯中略〉十月朔日、天氣ヲダヤカニ風靜ナレバ、彼大船共ヲ旗指物幕ナドニテ夥クカザリ立、浦々湊々ノ兵船ドモマデモ、其手々々ノ船ジルシ、我ヲトラジト美麗盡シケリ、御座船二艘金襴鈍子ヲ以カザリ立、堺南北ノ津ヨリ捧ゲ奉ル、尤御氣色ヨカリケリ、〈◯下略〉
p.0514 戎宮〈附〉島 芝居 水茶屋 延寶八年庚申ノ中秋ノ比、刺史水野氏ノ御時ニ、茶屋五軒御免ヲ請、誠ニ水ノ流ヲ戀茶屋、行末富サカイノ浦ノ鹽茶ヲタテヽ世ヲ渡舟人モ泊ノ津トナレリ、
p.0514 住吉(スミノエノ)津 住吉郡住吉ニ屬ス
p.0514 攝津國風土記曰、所三以稱二住吉一者、昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡二行天下一、覓二可レ住國一時、到二於沼名椋之長岡之前一、〈前者、今神宮南邊是其地、〉乃謂、斯實可レ住之國、遂讃二稱之一云二眞住吉住吉國一、仍是定二神社一、今俗略レ之直稱二【須美乃叡】(スミノエ)一、
p.0514 底筒之男命、中筒男命、上筒之男命三柱神者、墨江(○○)之三前大神也、
p.0514 住吉を須美與志(スミヨシ)と唱るは、後世のことにて、那良のころまでは、須美能延(スミノエ)とのみ云り、まづ此記には墨江とかき、書紀萬葉には、住吉と書ても須美乃延(スミノエ)とよみ、又萬葉に、墨之江、清ノ江、須美乃延など有て、須美與志と云ることは一ツもなし、
p.0515 攝津國住吉〈須三與之〉
p.0515 あひ知れりける人の住吉に詣でけるに、よみてつかはしける、壬生忠岑すみよし(○○○○)と蜑はつぐともながゐすな人わすれ草おふといふなり
p.0515 爰伐二新羅一之明年春二月、〈◯中略〉表筒男、中筒男、底筒男三神誨之曰、吾和魂宜レ居二大津(○○)渟中倉之長峽一、便因看二往來船一、
p.0515 宜レ居二大津渟中倉之峽一〈住吉和魂〉 神名帳曰、攝津國住吉郡住吉坐神社四座、〈並名神大、月次、相嘗新嘗、〉攝津國風土記曰、住吉大神、現出而巡二行天下一、覓二可レ住國一、時到二於沼名椋之長岡之前一、〈前者、今神宮南邊、〉仍定二神社一、
p.0515 住吉郡 住吉岡〈住吉村、松林四時蒼翠、風土記所レ謂沼名椋長岡即此、地脈與二東生郡一連、故嘗有二長岡之名一、一名岸野、又名二玉出岸一、其田號二御田一、〉
p.0515 此天皇之御世、〈◯中略〉定二墨江之津一、
p.0515 墨江之津、まづ息長帶比賣命〈◯神功皇后〉の御世に、住吉大神を鎭祭らるヽ地は、〈◯中略〉菟原郡の住吉にして、今の地には非るを、今地に移されし事は、傳なければ、何の御世なりけむ知がたきを、今此御世に、此津を定賜ふとあるに就て、つら〳〵思へば、彼大神を今の地に遷奉賜へりしも、此同時にぞありけむ、〈神功皇后の御靈を合せ祭給へるも、此時などにやあらむ、〉書紀雄略卷に見えたる趣は、既に今地と聞えたれば、其より先に遷り給へりし事は知られたり、〈住吉と云地名も、彼莵原郡のより移れる名なり、◯中略〉かくて津の事は、書紀神功卷に、此大神の御誨言に、宜下居二大津渟中倉之長峽一看中往來船上とある如く、彼菟原郡に坐しほどより、其地大津にてありしを、〈和名抄に、同郡に津守郷もあるは、其津を守れりし人等の居住なるべし、〉此時に、大神を遷奉賜ふまに〳〵、其津をも共に移し定め賜へるなるべし、是今の住吉郡の住吉
p.0516 津なり、〈郡名も移されての後なり、又住吉に近き地に、西生郡に津守郷あるも、かの菟原郡より共に移されたるなり、〉書紀雄略卷に、十四年春正月、身狹村主青等、共二呉國使一、將二呉所レ獻手末才伎、漢織呉織、及衣縫、兄媛弟媛等一、泊二於住吉津一、是月、爲二呉客道一通二磯齒津路一、名二呉坂一、〈是を菟原郡なるに非ず、今の住吉の地なりとする故は、倭京へ入料に磯齒津路を開かれたるを以てなり、磯齒津は、萬葉六の歌に、和泉國の千沼(チヌ)とよみ合せたる千沼は、住吉の南にて程近き處なり、さて或人の云く、住吉の東一里許に喜連村と云あり、河内の堺なり、昔は河内に屬て、萬葉に、河内國伎人(クレヒト)郷とある處なるを、久禮を訛て喜連とは云なり、孝謙紀、三代實録などに、伎人隄とあるも此處のことなり、さて住吉より喜連に行間に、ひきヽ岡山の横たはりてある、是ぞ萬葉三の歌に、四極(シハツ)山打越見者とある山にて、呉坂は此なるべし、今も住吉より河内へ通りたる此道を、古に呉國人の通りし道なりと云傳へたり、喜連村に呉羽(クレハ)明神と云社などもあるなり、(中略)其説なほ委きを今は省きて擧つ、〉抑呉國ノ使は、異國の中にも希見(メヅラ)しき客なる故に、〈難波津には泊(ハテ)ずして〉ことさらに此住吉津に泊(ハツ)べく、豫ておきて賜へるなるべし、凡て異國の事は、此大神〈◯住吉〉の所知看すが故なり、萬葉十九に、贈二入唐使一長歌に、忍照、難波爾久太里、住吉乃、三津爾船能利、直渡云々、〈◯註略〉是又遣唐使なるを以て、ことさらに此津より發船するなるべし、
p.0516 十四年正月戊寅、身狹村主青等、共二呉國使一、將二呉所レ獻手末才伎漢織、呉織、及衣縫兄媛弟媛等一、泊二於住吉津(○○○)一、
p.0516 天平五年贈二入唐使一歌一首并短歌〈作主未レ詳〉 虚見都(ソラミツ)、山跡乃國(ヤマトノクニ)、青丹與之(アヲニヨシ)、平城京師由(ナラノミヤコユ)、忍照(オシテル)、難波爾久太里(ナニハニクダリ)、住吉乃(スミノエノ)、三津爾舶能利(ミツニフネノリ)、直渡(タヾワタリ)、日入國爾(ヒノイルクニニ)、所遣(ツカハサル)、和我勢能君乎(ワガセノキミヲ)、懸麻久乃(カケマクノ)、由由志恐伎(ユヽシカシコキ)、墨吉乃(スミノエノ)、吾大御神(ワガオホミカミ)、舶乃倍爾(フナノヘニ)、宇之波伎座(ウシハキイマシ)、舶騰毛爾(フナドモニ)、御立座而(ミタヽシマシテ)、佐之與良牟(サシヨラム)、磯乃崎々(イソノサキ〴〵)、許藝波底牟(コギハテム)、泊々爾(トマリ〴〵ニ)、荒風(アラキカゼ)、浪爾安波世受(ナミニアハセズ)、平久(タヒラケク)、率而可敝里麻世(ヰテカヘリマセ)、毛等能國家爾(モトノクニヘニ)、 反歌一首 奧浪(オキツナミ)、邊波莫越(ヘナミナコシソ)、君之舶(キミガフネ)、許藝可敝里來而(コギカヘリキテ)、津爾泊麻泥(ツニハツルマデ)、
p.0516 三津は、住吉津を美稱(ホメ)て御津と云るなり、難波の三津、大伴の三津など云る處には非ず、
p.0517 えなづ 攝津
p.0517 得名津 攝津
p.0517 朴津(エナツ)〈又作二榎津一、攝州住吉郡、〉
p.0517 攝津國住吉郡榎津〈以奈豆〉
p.0517 朴(エナ)津 住吉郡住吉ニ屬ス
p.0517 朴津郷(ヱナヅノサト) 此所ハ北ノ橋東ノ野邊也ト云傳リ、又天神記録ニハ、北莊住吉郡朴津郷トアリ、
p.0517 高市連黒人歌一首 墨吉乃(スミノエノ)、得名津爾立而(エナヅニタチテ)、見渡者(ミワタセバ)、六兒乃泊從(ムコノトマリユ)、出流船人(イヅルフナビト)、
p.0517 四八(シワノ)津 方角未レ考、藻鹽攝津國ニ比ス、
p.0517 住吉浦〈住吉村、或曰二住吉濱一、曰二兒濱一、或作二阿胡一、又曰二出見濱一、或作二都見一、又曰二榎津一、曰二磯齒津一、有二古歌一、〉
p.0517 十四年正月、是月爲二呉客道一通二磯齒津路一、名二呉坂一、
p.0517 高市連黒人羈旅歌 四極山(シハツヤマ)、打越見者(ウチコエミレバ)、笠縫之(カサヌヒノ)、島榜隱(シマコギカクル)、棚無小舟(タナナシヲブネ)、
p.0517 卷六難波宮幸の時、千沼回より雨ぞ降くる四八津のあまとよめり、此ちぬは和泉にして、しはつは攝津也、〈◯中略〉此しはつの坂路を越て見やらるヽ海に、笠縫の島といふ有しなるべし、
p.0517 春三月〈◯天平六年〉幸二于難波宮一之時歌六首〈◯中略〉
p.0518 從千沼回(チヌワヨリ)、雨曾零來(アメゾフリクル)、四八津之白水郞(シハツノアマ)、網手綱乾有(アミテナハホセリ)、沾將堪香聞(ヌレバタヘンカモ)、 右一首、遊二覽住吉濱一還レ宮之時、道上守部王應レ詔作歌、
p.0518 ちぬは、古事記、五瀬命云々、到二血沼海一洗二其御手之血一、故謂二血沼海一也云々、紀に、河内國泉郡茅渟海と有、續紀靈龜二年三月、割二河内國和泉日根兩郡一、令レ供二珍努宮一云々と有て、今は和泉也、しはつは既に出、住吉の東方也、
p.0518 十四年十一月、爲二橋於猪甘津一、即號二其處一曰二小橋一也、
p.0518 猪甘津(ヰカヒヅノ)橋 東生郡猪飼野村ニアリ、此所平野川筋ニシテ、小橋村ノ南、木(コノ)村ノ上ノ堤ヨリ東ニ渉リ、猪飼野村ニ至ル所也、
p.0518 小椅江、〈◯中略〉今も東生郡に猪飼野村、小橋村近くてあり、〈猪飼野村は、大坂城の東南にあたれり、其西に小橋村あり、天王寺より十町ばかり東方なり、さて猪飼野に、今も鶴橋とて、平野川に渡せる橋あり、難波古圖にも、此につるが橋とてあり、〉
p.0518 攝州三津(セツシウミツ)〈敷津、高津(○○)、難波津、〉
p.0518 敷津(シキ)住吉郡住吉ニ屬ス
p.0518 寄レ物陳レ思歌 住吉乃(スミノエノ)、敷津之浦乃(シキツノウラノ)、名告藻之(ナノリソノ)、名者告之而乎(ナハノリテシヲ)、不相毛恠(アハナクモアヤシ)、
p.0518 しきつの浦にまかりて、あそびけるに、舟にとまりてよみはべりける、 藤原實方朝臣 舟ながら今夜ばかりはたびねせむしきつの浪に夢はさむとも
p.0518 すみよしのへにやどりてよめる 源俊頼朝臣
p.0519 住吉のしきつの浦に旅ねして松の葉風にめをさましつる
p.0519 建保三年十月廿四日 住吉浦 範宗 すみよしの浦にしきつのもしほ草かさねてさゆる夜半の衣手
p.0519 落行人々歌附忠度自レ淀歸謁二俊成一事 落行平家ノ人々、或【式津】(シキツ)ノ浪枕、八重鹽路ニ日ヲ經ツヽ、船ニ竿サス人モアリ、或ハ遠ヲ凌、近ヲ分ツヽ、駒ニ鞭ウツ人モアリ、〈◯中略〉思々心々ニゾ下リ給フ、
p.0519 攝州三津(セツシユミツ)〈敷津、高津(○○)、難波津、〉
p.0519 津 たかつ〈攝 万 石舟とめし所なり〉
p.0519 高津(タカツ) 東生郡東高津、西成郡西高津ノ兩邑ニ屬ス、難波津ノ一名也、京中(ミサトノウチ)ノ南門ヨリ、直ニ河内國丹比邑ニ至ル事、日本書紀ニ見、〈◯中略〉是ヲ以テ方角考合スベシ、
p.0519 大雀命、坐二難波之高津宮一治二天下一也、
p.0519 高津宮は、書紀に、元年云々都二難波一、是謂二高津宮一、〈◯中略〉難波の地形、今も北は大坂より南へ、住吉のあたりまで、長くつヾきたる岸ありて、〈岸より東は高く、西は低し、〉古は此岸まで潮來り、〈古に島と云る處々、今はみな陸地つゞけるぞ多き、萬葉に、淺(アセ)にけるかもとよめるは、當時既(ハヤ)く此岸までは潮來らざりしにや、〉船著て、難波津は岸の上なりけむ、故高津とは云なるべし、〈(中略)今世にかうづを高津(カウツ)と書て、此大宮を其處なりと云ヒ其神社を此天皇(仁徳)なりと云なれども、かうづは、紀孝徳卷に、蝦蟇(カハヅノ)行宮とあ處るにて、此地名、うつぼ物語の歌にも見えたりと谷川氏云り、さもあるべし、かうづ、若シ古の高津(タカツ)ならむには、今も直にたかつとこそ呼べけ、れいかでかうづとは呼む、〉
p.0519 角麻呂歌
p.0520 久方乃(ヒサカタノ)、天之探女之(アマノサグメガ)、石船乃(イハフネノ)、泊師高津者(ハテシタカツハ)、淺爾家留香裳(アセニケルカモ)、
p.0520 此さぐめがいはふねは、津の國風土記云、難波高津は、天稚彦天降りし時、天稚彦に屬して下られける神天探女、磐舟に乘てこヽに至る、天の磐舟の泊る故に高津と號云々、此集一本に、あまのさぐめが鳥舟とよめりとかや、むかしさる本ありけるにこそ、
p.0520 古き難波わたりの圖を見るに、高津は西の入江によりて、今高津といふは、古の跡には非ず、
p.0520 攝州三津〈敷津、高津、難波津(○○○)、〉
p.0520 難波津 東生郡東高津小橋等ハ、仁徳帝都タルヲ以テ東生ニ屬ス、〈◯中略〉今ノ難波津ハ、總テ大坂ノ市中ヲ云ヘリ、
p.0520 戊午年二月丁未、皇師遂東、舳艫相接、方到二難波之碕一、會下有二奔潮一太急上、因以名爲二浪速國一、亦曰一浪華(ナミハナ)一、今謂二難波一訛、〈訛、此云二與許奈磨盧一、〉
p.0520 神倭伊波禮昆古命、〈◯中略〉經二浪速之渡一而、泊二青雲之白肩津一、
p.0520 二十二年四月、兄媛自二大津一發レ船而往之、天皇居二高臺一望二兄媛之船一、
p.0520 大津〈在二和泉國和泉郡一〉
p.0520 按古謂二都會之地一爲二大津一、舟所レ會謂レ津、此謂二大津一、蓋指二難波津一也、
p.0520 なにはづの歌は、みかどのおほんはじめなり、 大さヾきのみかど〈◯仁徳〉の、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌なり、この花は梅の花をいふなるべし〈◯中略〉
p.0521 なにはづ(○○○○)にさくやこの花冬ごもり今は春べとさくやこの花
p.0521 三十年九月乙丑、皇后到二難波濟一、聞三天皇合二八田皇女一、而大恨之、〈◯中略〉爰天皇不レ知二皇后忿不一レ著レ岸、親幸二大津(○○)一待二皇后之船一、〈◯中略〉時皇后不レ泊二大津一、更引之泝レ江、自二山背一廻而向レ倭、
p.0521 按大津謂二難波津一也、註詳二于應神天皇二十二年紀一、
p.0521 六十二年五月、遠江國司表上言、有二大樹一、自二大井河一流之停二于河曲一、其大十圍、本一以末兩、時遣二倭直吾子籠一令レ造レ船、而自二南海一運之、將二來于難波津一、以充二御船一也、
p.0521 四十二年正月戊子、天皇崩〈◯中略〉新羅王、聞二天皇既崩一驚愁之、貢二上調船八十艘、及種々樂人八十一、是泊二對馬一而大哭、到二筑紫一亦大哭、泊二于難波津一、則皆素服之、悉捧二御調一、且張二種々樂器一、
p.0521 三十一年七月壬子朔、高麗使到二于近江一、是月遣三許勢臣猿與二吉士赤鳩一、發レ自二難波津一、控二引船於狹々波山一、而裝二飾船一、乃往迎二於近江北山一、
p.0521 十六年四月、大唐使人裴世清、下客十二人、從二妹子臣一至二於筑紫一、 六月丙辰、客等泊二于難波津一、
p.0521 四年十月甲寅、唐國使人高表仁等、到二于難波津一、則遣二大伴連馬養一迎二於江口一、船卅二艘、及鼔吹旗幟、皆具整飾、
p.0521 元年二月壬辰、高麗使人泊二難波津一、 五月庚午、百濟國使船、與二吉士船一倶泊二于難波津一、
p.0521 白雉二年、是歳新羅貢調使知萬沙飡等、著二唐國服一泊二于筑紫一、朝庭惡二恣移一レ俗、訶嘖追還、于レ時巨勢大臣奏請之曰、方今不レ伐二新羅一、於レ後必當レ有レ悔、其伐之状、不レ須レ擧レ力、自二難波津一至二于筑紫海裏一、相接浮二盈艫舳一、召二新羅一、問二其罪一者、可二易得一焉、
p.0521 天命開別天皇〈◯天智〉七年戊辰、新羅沙門道行、盜二此神劒一將レ移二本國一、竊祈入二于〉
p.0522 神祠一、取レ劒裹二袈裟一逃去、伊勢國一宿之間、神劒脱二袈裟一、還二著本社一、道行更還到、練禪禱請、又裹二袈裟一、逃到二攝津國一、自二難波津一解䌫歸レ國、海中失レ度、更亦漂二著難波津一、〈◯下略〉
p.0522 山上憶良頓首謹上 好去好來歌一首〈反歌二首◯中略〉 反歌〈◯中略〉 難波津爾(ナニハヅニ)、美船泊農等(ミフネハテヌト)、吉許延許婆(キコエコバ)、紐解佐氣氐(ヒモトキサケテ)、多知婆志利勢武(タチバシリセム)、天平五年三月一日〈良宅對面獻三日〉 山上憶良 謹上大唐大使卿記室
p.0522 智者誹二妬變化聖人一而現至二閻羅闕一受二地獄苦一縁第七 有二沙彌行基一、俗姓越史也、〈◯中略〉以二天平十六年甲申冬十一月一任二大僧正一、於レ是智光法師、發二嫉妬之心一、而非レ之曰、吾是智人、行基是沙彌、何故天皇不レ齒二吾智一、唯譽二沙彌一而用焉、恨レ時罷二鋤田寺一而住、儵得二痢病一、經二一月許一、臨二命終時一、誡二弟子一曰、我死莫レ燒、九日一日置而待、〈◯中略〉時行基菩薩、有二難波一令レ渡レ椅、堀レ江造二船津一、光身漸息、往二菩薩所一、
p.0522 天平勝寶七歳乙未二月、相替遣二筑紫一諸國防人等歌、 奈爾波都爾(ナニハヅニ)、余曾比余曾比氐(ヨソヒヨソヒテ)、氣布能日夜(ケフノヒヤ)、伊田氐麻可良武(イデヽマカラム)、美流波波奈之爾(ミルハヽナシニ)、 右一首、鎌倉郡〈◯相模〉上丁丸子連多麻呂、 奈爾波都爾(ナニハヅニ)、美布禰於呂須惠(ミフネオロスヱ)、夜蘇加奴伎(ヤソカヌキ)、伊麻波許伎奴等(イマハコギヌト)、伊母爾都氣許曾(イモニツゲコソ)、 右〈◯中略〉茨城郡〈◯常陸〉若舍人部廣足 於之氐流夜(オシテルヤ)、奈爾波能津與利(ナニハノツヨリ)、布奈與曾比(フナヨソヒ)、阿例波許藝奴等(アレハコギヌト)、伊母爾都岐許曾(イモニツギコソ)、 右〈◯中略〉信太郡〈◯常陸〉物部道足
p.0523 大同元年九月壬子、遣レ使封二左右京、及山埼津、難波津酒家甕一、以二水旱成レ災、穀米騰躍一也、
p.0523 蕃客從二海路一來朝、攝津國遣二迎船一、〈◯註略〉客舶將レ到二難波津一之日、國使著二朝服一、乘二一裝船一候二於海上一、
p.0523 諸國運二漕雜物一功賃 南海道 太宰府海路〈自二博多津一漕二難波津一船賃、石別五束、挾杪六十束、水手卌束、自餘准二播磨國一、〉
p.0523 凡難波津頭、海中立二澪標一若有二舊標朽折一者、捜求拔去、
p.0523 東宮八十島祭〈◯中略〉 右八十島祭御巫生島巫、并史一人、御琴彈一人、神部二人、及内侍一人、内藏屬一人、舍人二人、赴二難波津一祭之、
p.0523 八十島祭 於レ淀乘レ船、車在二別船一、公卿以下殿上人、有二事縁一者、皆相共下向、祭日到二難波津一、宮主作レ壇、〈國司作レ之〉置二祭物一、〈◯中略〉禊了以二祭物一投レ海、次歸京、於二江口一遊女參入、纒二頭例祿一如レ恒、
p.0523 承平三年六月廿五日庚午、典侍滋野朝臣、於二難波津一行二八十島祭一、
p.0523 六日、〈◯承平五年二月〉みをづくしのもとよりいでヽ、なにはの津につきて、かはじりにいる、みな人々をんなおきなひたひにてをあてヽ、よろこぶことふたつなし、
p.0523 つばくらめ 祐見 難波つはくらめにのみぞ舟はつく朝の風のさだめなければ
p.0523 春日住吉行旅述懷、應二太上皇〈◯後三條〉制一和歌一首并序〈延久五年二月廿一日〉 參議從二位大藏卿兼左大辨中宮權大夫播磨權守源朝臣經信〈上〉
p.0524 延久之年春二月、太上皇母儀、仙院長公主、暫出二皇城一、巡二禮住吉靈社一、博陸前大相國以下、卿士大夫、濟濟扈從矣、言二其歴覽一、尋二其由緒一、始向二石清水之神祠一、殊致二如在之禮一、後入二難波津之佛閣一、偏凝二隨喜之心一、喜下屬二華夷之靜謐一、恣中山水之登臨上也、〈◯下略〉
p.0524 雜御歌中 後九條内大臣 難波津はいまもこと葉の海の月さぞあし原の道まもるらん
p.0524 三津(○○) 攝津〈西生郡、伊勢近江ニ有二同名一、〉
p.0524 御津(ミツ)右〈◯高津〉ニ同ジ、仁徳帝都ヲ祝シテ御津ト稱ス、一説、難波津(○○○)、敷津ノ(○○○)三(ミツ)ヲ以テ(○○○)、三津ト號ルノ俗語アリ(○○○○○○○○○○)、
p.0524 自レ此後時、大后、〈◯石之日命賣〉爲二將豐樂一而、於レ採二御綱柏一、幸二行木國一之間、天皇婚二八田若郞女一、於レ是大后、御綱柏積二盈御船一、還幸之時、所レ駈二使於水取司一、吉備國兒島之仕丁、是退二己國一、於二難波之大渡一、遇二所レ後倉人女之船一、乃語云、天皇者、皆婚二八田若郞女一而、晝夜戲遊、〈◯中略〉爾其倉人女、聞二此語言一、即追二近御船一、白二之状一、具如二仕丁之言一、於レ是大后大恨怒、載二其御船一之御綱柏者、悉投二棄於海一、故號二其地一、謂二御津前(○○○)一也、即不レ入二坐宮一而、引二避其御船一、泝二於堀江一、隨レ河而上二幸山代一、
p.0524 六年九月壬子、遣二日鷹吉士一、使二高麗一召二巧手者一、是秋、日鷹吉士被レ遣後、有二女人一居二于難波御津一、哭之曰、於レ母亦兄、於レ吾亦兄、弱草吾夫河怜矣、〈◯註略〉哭聲甚哀、
p.0524 難波御津〈古事仁徳記曰、御綱柏悉投二棄於海一、故號二其地一謂二御津前一也、又作二三津一、東生郡西成郡並有二此名一、〉
p.0524 古事記大雀命紀曰、皇后御綱柏者、悉投二棄於海一、故號二其地一謂二御津前一也、攝津志曰、東成郡四天王寺、一名三津寺、又西成郡三津神祠、在二島内三津寺町一、天平勝寶五年九月、攝津國御津村、潮水暴溢、壞二損廬舍一百餘、即此、
p.0525 五年七月戊寅、遣二小錦下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥一、使二於唐國一、〈(中略)伊吉連博徳書曰、(中略)以二己未年七月三日一、發レ自二難波三津之浦一、〉
p.0525 難波三津〈續紀攝津國御津村、萬葉集云、安之我知流、難波美津爾、大船爾、又云、大伴乃御津乃濱松、屬二西成郡一、〉
p.0525 攝津志曰、西成郡三津神祠、在二島内三津寺町一、
p.0525 柿本朝臣人麻呂羈旅歌 三津埼(ミツノサキ)、浪矣恐(ナミヲカシコミ)、隱江乃(コモリエノ)、舟公(フネコグキミガ)、宣奴島爾(ユクカヌシマニ)、
p.0525 舟公宣奴島爾の六字、今の訓よしなし、字の誤れるならん、試にいはヾ、舟令寄、敏馬崎爾なども有けん、さらば、ふねはよせなん、みぬめのさきにと訓べし、宣長は、舟八毛何時、寄奴島爾と有けん、八毛を公一字に誤、何時を脱し、寄を宣に誤れるならんとて、ふねはもいつか、よせんぬじまにと訓り、いづれにても有べし、
p.0525 角麻呂歌 鹽干乃(シホヒノ)、三津之海女乃(ミツノアマメノ)、久具都持(クヾツモチ)、玉藻將苅(タマモカルラン)、率行見(イザユキテミン)、
p.0525 むかしをとこ、津のくにヽしるところありけるに、あに弟友だち、けさこそ難波のかたに往きけり、なぎさを見れば船どものあるを見て、 なにはづをけふこそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたるふね、これをあはれがりて、人々かへりにけり、〈◯又見二後撰和歌集一〉
p.0525 題しらず 讀人しらず 君が名もわが名もたてじ難波なるみつともいひな逢ひきともいはじ
p.0525 みつとないひそとは、なにはに、みつといふ所のあれば、なにはなるみつに、人をみつとそへたり、
p.0526 題しらず よみ人しらず おしてるやなにはのみつに燒鹽のからくも我は老にける哉、又はおほとものみつのはまべに、
p.0526 おしてるや難波のみつとは、所の名也、喜撰式には、しほうみをば、おしてるやと云と書り、但おしてるやなにはとつヾくる事はよし有べし、なにはのみつとは、難波の浦にみつのうらも有といへり、またおほとものみつの濱ともいへり、
p.0526 鳰 ひとりのみみつの堀江にすむ鳰の底はたえずも戀渡る哉
p.0526 山上臣憶良在二大唐一時憶二本郷一歌 去來子等(イザコドモ)、早日本邊(ハヤモヤマトヘ)、【大伴乃】(オホトモノ)【御津】(ミツ)乃濱松(ノハママツ)、待戀奴良武(マチコヒヌラム)、
p.0526 太上天皇〈◯持統〉幸二于難波宮一時歌 大伴乃(オホトモノ)、【美津】(ミツ)能濱爾有(ノハマナル)、忘貝(ワスレガヒ)、家爾有妹乎(イヘナルイモヲ)、忘而念哉(ワスレテオモヘヤ)、 右一首身人部王
p.0526 おほともの みつの濱 高しの濱 萬葉卷一に、〈太上天皇幸二難波宮一時の歌、此太上は持統を申、〉大伴乃(オホトモノ)、美津能濱爾有(ミツノハマナル)、忘貝(ワスレガヒ)云云、〈此つゞけ集中にいと多し〉こはとかくすれど意を得ねば、くさ〴〵擧つ、先いにしへ大伴宿禰の遠つおや道臣命は、久米部を主どりて、名高きこと、古き史共に見ゆれば、更にいもはず、卷十八に、家持ぬしの歌に、大伴能(オホトモノ)、遠津神祖乃(トホツカミオヤノ)、其名乎婆(ソノナヲバ)、大久目主登(オホクメヌシト)、於比母知氐(オヒモチテ)、都加倍之官(ツカヘシツカサ)とよめり、さて神武紀に、〈大御歌〉瀰都瀰都志(ミヅミヅシ)、倶梅能固邏餓(クメノコラカ)てふ御ことば多きは、大久米部のみならず、それつかさどる道臣命をもかね給へり、然ればこヽは大伴の瀰都々々志てふ意にて、御津の濱に冠らせたるにや、〈◯中略〉御津は、紀に難波御津、萬葉に住吉の御津といへるも同じ所にて、神功紀に、大津渟中倉之長峽てふも即同じ
p.0527 住吉の津の事と見ゆれば、御津は大津のいひ也けり、
p.0527 山上憶良頓首謹上 好去好來歌一首 〈反歌二首〉 唐能(モロコシノ)、遠境爾(トホキサカヒニ)、都加播佐禮(ツカハサレ)、麻加利伊麻勢(マカリイマセ)、〈◯中略〉事了(コトヲハリ)、還日者(カヘランヒニハ)、〈◯中略〉大伴(オホトモノ)、御津濱備爾(ミツノハマビニ)、多太泊爾(タヾハテニ)、美船播將(ミフネハハテン)泊、都都美無久(ツヽミナク)、佐伎久伊麻志氐(サキクイマシテ)、速歸坐勢(ハヤカヘリマセ)、 反歌 大伴(オホトモノ)、御津松原(ミツノマツバラ)、可吉掃氐(カキハキテ)、和禮立待(ワレタチマタン)、速歸坐勢(ハヤカヘリマセ)、〈◯中略〉 天平五年三月一日〈良宅對面、獻三日、〉 山上憶良 謹上大唐大使卿記室
p.0527 攝津作 大伴之(オホトモノ)、三津之濱邊乎(ミツノハマベヲ)、投曝(ウチサラシ)、因來浪之(ヨリクルナミノ)、逝方不知毛(ユクヘシラズモ)、
p.0527 遣二新羅一使人等、悲レ別贈答、及海路慟レ情陳レ思、并當所誦詠之古歌、 大伴能(オホトモノ)、美津爾布奈能里(ミツニフナノリ)、許藝出而者(コギデヽハ)、伊都禮乃思麻爾(イヅレノシマニ)、伊保里世武和禮(イホリセムワレ)、
p.0527 日本三津 阿濃(アノ)ノ津〈伊勢〉
p.0527 あの〈◯中略〉 萬葉集にくさかげの安努とかけるも、あのとよめり、延暦儀式帳に草蔭の安濃と書り、伊勢の安濃郡をいへり、〈◯中略〉安乃津市は、安東郡專當沙汰文に見えたり、〈◯中略〉あのヽつを武備志に洞津と書せるは、あなのつの義、な、のは同音也、よて又伊勢穴津とも書せり、織田信包、あのヽ津の城主たりし時、穴津少將と呼し事、太閤記に見えたれば、武備志も我邦の人のいひしによる成べし、されど草かげの枕詞によれば、青野の義なるべし、草の蔭(カゲ)野な
p.0528 どいふがごとし、
p.0528 津(つ) 七十二町と云、工商軒をならべ、繁花富饒の地也、こヽを津と云は、古船著海濱の湊にてありし故なり、舊名安濃の津(○○○○)といふを、いつとなく津とのみいひならひたるなるべし、
p.0528 三津 伊勢風土記曰、安濃津、仁徳三年乙亥、定二三津一、其一也、夷方之蠻舶、本邦公私之著船、湊入之船、各來二于此一待二其風雲一、擧國之名湊也、
p.0528 すヾきの事 抑平家、かやうにはんじやうせられける事は、ひとへにくまのごんげんの御利生とぞ聞えし、其故は清盛いまだあきの守たりし時、いせの國あのヽつ(○○○○)より、舟にてくまのへ參られけるに、大きなるすヾきの、舟へおどり入たりければ、せん達申けるは、昔しうのぶわうの舟にこそ、白魚はおどり入たるなれ、いかさまにも是は權現の御利生と覺え候、まいるべしと申ければ、さしも十かいをたもつて、しやうじんけつさいの道なれども、自てうびして我身くひ、家の子郞共にもくはせらる、
p.0528 弘安二年十月日、熊野神輿一基、依二訴訟一有二入洛之企一、依寄二伊勢國阿野津(○○○)一、
p.0528 奧州下向勢逢二難風一事 九月十二日ノ宵ヨリ、風ヤミ雲收テ、海上殊ニ靜リタリケレバ、舟人纜ヲトイテ、萬里ノ雲ニ帆ヲ飛ス、兵船五百餘艘、宮〈◯後村上〉御座船ヲ中ニ立テヽ、遠江ノ天龍ナダヲ過ケル時ニ、海風俄ニ吹アレテ、逆浪忽ニ天ヲ卷翻ス、或ハ檣ヲ吹折ラレテ、彌帆ニテ馳ル船モアリ、或ハ梶ヲカキ折テ、廻流ニ漂船モアリ、〈◯中略〉
p.0529 結城入道墮二地獄一事 中ニモ結城上野入道ガ乘タル船、惡風ニ放サレテ、渺々タル海上ニユラレタヾヨフ事七日七夜也、既ニ大海ノ底沈カ、羅刹國ニ墮カト覺シガ、風少シ靜リテ、是モ伊勢ノ安野津ヘゾ吹著ラレケル、
p.0529 元徳元年(後醍醐)〈己巳〉十一月注レ之〈◯中略〉 一毎年五月五日節供料、御田半之丁部面々方ヨリ干名吉一隻宛上之間、專當使郡令二入部一、五月一日、安乃津(○○○)市ニテ大略取二集之一歟、
p.0529 康永元年十月十日あまりのころ、大神宮參詣のこヽろざしありて、伊勢のくに安濃津と申ところに著て侍りし程に、故郷にて聊見侍りし人のとヾめ申しかば、旅の心をもたすけむとて、兩三日逗留し侍りぬ、この津は江めぐり浦はるかにして、ゆきヽの船人の月に漕こゑ、旅泊の曉の枕にきこえて、あらき浪風の音しのびがたく侍りしかば、 かぜ寒き磯やのまくら夢さめてよそなる波にぬるヽ袖哉
p.0529 三津 安濃津、明應中地震後、津遷江淺、而大船難レ泊矣、
p.0529 津(つ) 明應三年五月七日、同七年六月十一日、兩度の大地震に、安濃津十八九丁沈沒せるによつて、今の地へ移さる、 ◯按ズルニ、明應三年五月七日ノ地震ノ事ハ、後法興院記、和長卿記、大乘院寺社雜事記等ニ見エ、同七年六月十一日ノ地震ノ事ハ、御湯殿上の日記、後法興院記等ニ見エタリ、
p.0529 今度大地震ノ高鹽ニ、大湊ニハ千間餘、人五千人計流死ト云々、其外伊勢島間ニ、
p.0530 彼是一萬人計モ流死也、〈明應七年戊午八月廿二日ノ事也〉
p.0530 明應七年八月廿五日己丑、辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也、 九月二十五日、傳聞、去月大地震之日、伊勢、參河、駿河、伊豆、大浪打寄、海邊二三十町之民屋悉溺レ水、數千人沒レ命、其外牛馬類不レ知二其數一云々、前代未聞事也、
p.0530 明應七年八月廿五日、辰刻大地震、其程良久、從レ其相續、日々地搖、此時伊勢國大湊悉滅却、其外三川紀伊、諸國之浦津、高鹽充滿而滅亡云々、
p.0530 大永二年、〈◯中略〉伊勢大湊へわたり、山田につき侍り、則參宮す、〈◯中略〉雲津川阿野の津(○○○○)のあなに、當國牟楯の堺にて、里のかよひも絶たるやうなり、〈◯中略〉此津十餘以來(○○○○○○)、荒野となりて(○○○○○○)、四五千軒の家堂塔跡のみ、淺茅蓬が杣、誠に鷄犬はみえず、鳴鴉だに稀なり、
p.0530 あのヽつ近く成て、そこともわかぬ遠山、霞の隙々よりみゆ、 いせの海の浦にはしほや滿ぬらん霞引たるあのヽ遠山
p.0530 慶長二年二月十四日、伊勢へ參宮申、〈◯中略〉十五日鈴鹿山を越て、あのヽ津に著ぬ、〈◯中略〉十七日、阿のヽ津へ歸り侍りぬ、
p.0530 四十年、是歳日本武尊初至二駿河一、其處賊陽從之、欺曰、是野也麋鹿甚多、氣如二朝霧一、足如二茂林一、臨而應レ狩、日本武尊信二其言一、入二野中一而覓レ獸、賊有二殺レ王之情一、〈◯註略〉放レ火燒二其野一、王知レ被レ欺、則以レ燧出レ火之、向燒而得レ免、〈◯註略〉王曰、殆被レ欺、則悉焚二其賊衆一而滅之、故號二其處一曰二燒津一、
p.0530 燒津〈今云二燒野一、神名式駿河國益頭郡燒津神社、風土記曰、所レ祭市杵島比咩也、(中略)倭名鈔益頭郡、萬之都、風土記作二麻賤一、疑益頭、本燒津之音、後轉釋爲二萬之都一也、〉
p.0530 駿河國益頭郡益頭〈萬之都〉
p.0530 爾天皇、亦頻詔二倭建命一、言二向和平東方十二道之荒夫琉神、及摩都樓波奴人等一、〈◯中略〉故爾
p.0531 到二相武國一之時、其國造詐白、於二此野中一有二大沼一、住二是沼中一之神、甚道速振神也、於レ是看二行其神一、入二坐其野一、爾其國造、火著二其野一、故知レ見レ欺而、解二開其姨倭比賣命之所レ給囊口一而見者、火打有二其裏一、於レ是先以二其御刀一苅二撥草一、以二其火打一而打二出火一、著二向火一而燒退還出、皆切二滅其國造等一、即著レ火燒、故其地者、於今謂二燒遣(○○)一〈◯遣一本作レ遺〉也、
p.0531 燒遣(ヤキヅ)、遣字、眞福寺本、又一本には遺と作り、今は舊印本、又一本などに依れり、〈五百年ばかり前に出來たる、或書に引るにも遣と作り、〉此字ども甚心得がたし、書紀萬葉神名式などに依に、津字を誤れるか、〈遣字、下の横畫を去レば、津とよく似たり、延佳本には津と作れど、其は私に改めつるなるべし、諸の本に然作るは無ければなり、〉又は道を誤れるか、〈道ならば夜伎遲(ヤキヂ)なり、若然らば、夜伎豆(ヤキヅ)とは、やゝ後に訛れるか、はた本より遲(ヂ)とも豆(ヅ)とも通はし云るか、何れにてもあるべし、〉かにかくに遣遺などにては、如何とも訓がたけれど、字は姑舊の隨(マヽ)にて訓は津(ツ)に從ひぬ、〈なほ後人よく考て定めてよ〉萬葉三に、燒津邊吾去(ヤキヅヘワガユキ)しかば、駿河なる阿倍の市道(イチヾ)に逢し兒等はも、神名式に、駿河國益頭郡燒津神社、〈今も燒津村と云あり、又野燒村と云もあり、野脇ともいふ、〉和名抄に、同國益頭〈末志豆(マシヅ)〉郡益頭〈萬之都(マシヅ)〉郷と見え、かの風土記にも麻賤(マシヅ)ノ郡など書れど、益頭は音を取れる字にて、即燒津なり、〈此事谷川氏(士清)も云りき、頭字音を取れゝば益もヤク(○○)の音を轉して、ヤキ(○○)に用ひたるなり、然るを麻志豆(マシヅ)としも云は、やゝ後に燒と云ことを忌惡みて、其字の訓に唱へ更(カヘ)たる物なるべし、然る例他にもあるなり、〉
p.0531 春日藏首老歌一首燒津邊(ヤキツベニ)、吾去鹿齒(ワガユキシカバ)、駿河奈流(スルガナル)、阿倍乃市道爾(アベノイチヾニ)、相之兒等羽裳(アヒジコラハモ)、
p.0531 おきつ 駿河
p.0531 駿河國廬原郡息津〈於木都〉
p.0531 治承四年十月一日庚辰、甲斐國源氏等相二具精兵一、競來之由、風二聞于駿河國一、仍當國目代橘遠茂、催二遠江駿河兩國之軍士一、儲二于興津之邊一、
p.0531 沖津の宿に至りぬ、庵原民部入道禪道、駕をまげて、からうたふたつつくりこされしに、
p.0532 みづからにかはりて僧昌首座、これも詩にて心ばへあはれに、旅のこヽろばへうつしやりぬ、見わたす景色、そのかみみしにもはるかにまさりたり、 藻鹽やく煙もたえてたび人の袖ふきかへす沖つうら風
p.0532 中御門殿御在國折ふし、興津しほゆ湯治、旅宿へ文にあそばしそへて、 さむき夜はむかふうちにも埋火のをきつのことぞ思ひやらるヽ 御かへし 曉はいけるばかりのおきゐつヽおもふことヽは老のさむけき
p.0532 關東海道記 源通村 おきつをすぐるとて 見ても猶あかず過ゆく名殘をぞおもひおきつの跡のしら波
p.0532 元暦二年〈◯文治元年〉三月十二日乙未、爲レ征二罰平氏一、兵船三十二艘、日來浮二于伊豆國鯉名奧(コイナノヲキ)、并妻郞津(メラノツ)一、被レ納二兵粮米一、
p.0532 さきたまのつ 武藏
p.0532 東歌 佐吉多萬能(サキタマノ)、津爾乎流布禰乃(ツニヲルフネノ)、可是乎伊多美(カゼヲイタミ)、都奈波多由登毛(ツナハタユトモ)、許登奈多延曾禰(コトナタエソネ)、
p.0532 埼玉郡は海によらず、利禰の大川の船津をいふなるべし、
p.0532 新皇〈◯平將門、中略、〉成下可レ建二王城一議上、其記文云、王城可レ建二下總國之亭南一、兼以二檥橋一、號爲二京山埼一、以二相馬郡大井津一、號爲二京大津一、
p.0532 豐田郡水海(みつかい)道の里の、鈴木頂行が家につきしは、たそがれ時ばかりなり、〈◯中略〉そもそも水海道といふは、むかし平將門が、相馬の僞内裏つくりしをり、相馬郡大井の津をもて、京の大
p.0533 津になずらへしよし、將門記や、今昔物語に見えたれば、こヽがその跡なるべし、後世おしうつりて、豐田郡につきたり、
p.0533 榎浦之津(○○○○)、便置二驛家一、東海大道、常陸路頭、所以傳驛使等、初將レ臨レ國、先洗二口手一、東面拜二香島之大神一、然後得レ入也、
p.0533 〈近州〉大津 志賀津〈今さだかならず〉
p.0533 吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌〈◯中略〉 短歌二首 樂浪之(サヾナミノ)、【志我津】子等何(シガツノコラガ)、〈一云、志我津之子我、〉罷道之(マカリヂノ)、川瀬道(カハセノミチヲ)、見者不怜毛(ミレバサブシモ)、天數(ソラカゾフ)、【凡津】子之(オホツノコガ)、相日(アヒシヒニ)、於保爾見敷者(オホニミシカバ)、今叙悔(イマゾクヤシキ)、
p.0533 幸二志賀一時穗積朝臣老歌一首 吾命之(ワガイノチシ)、眞幸有者(マサキクアラバ)、亦毛將見(マタモミム)、志賀乃大津爾(シガノオホツニ)、縁流白浪(ヨスルシラナミ)、 右今案不レ審二幸行年月一
p.0533 問答 神樂浪之(サヾナミノ)、思我津乃白水郞者(シガツノアマハ)、吾無二(ワレナシニ)、潛者莫爲(カヅキハナセソ)、浪雖不立(ナミタヽズトモ)、
p.0533 宿レ船 神樂聲浪乃(サヾナミノ)、四賀津之浦能(シガツノウラノ)、船乘爾(フナノリニ)、乘西意(ノリニシコヽロ)、常不所忘(ツネワスラエズ)、
p.0533 延暦十三年十一月丁丑詔云々、〈◯中略〉近江國滋賀郡古津者、先帝舊都、今接二輦下一、可下追二昔號一改中稱大津上云々、 廿年三月、幸二近江大津一、國司奏二歌儛一、近二行宮一諸寺施レ綿、
p.0533 大同三年十月乙亥、行二幸近江國大津一修レ禊、以レ御二大嘗一也、
p.0534 むつき 家良 さヽ波や大津の宮はあれぬれど春はふるさず立かはる哉
p.0534 しやなわう殿くらま出の事 あふ坂の關を打越て、大津の濱(○○○○)をも通りつヽ、せたのからはしうちわたり、かヾ見のしゆくに付給ふ、
p.0534 文祿五年十一月十三日、紹巴幽齋三井寺へ行侍りぬ、〈◯中略〉笠取山、日野、山科、音羽里など通り、相坂を越、大津え出申候、志賀の山、ひらの高ねのしぐれ、かヾみ山もかきくもり、水うみの船のゆきかひ、たぐひなき有様也、 慶長二年二月十四日、伊勢へ參宮申、〈◯中略〉十九日大津に著ぬ、〈◯中略〉廿日伏見へ歸りぬ、〈◯中略〉あうさかの走井は、大津のかた也、大津を打出の濱と申侍る也、
p.0534 寄レ物陳レ思歌 味鎌之(アヂカマノ)、【鹽津】乎射而(シホツヲサシテ)、水手船之(コグフ子ノ)、名者謂手師乎(ナハノリテシヲ)、不相將有八方(アハズアラメヤモ)、
p.0534 あぢがまは、〈◯中略〉讃岐寒川郡に、庵治(アヂ)の浦、鎌の浦といふ所有と其國人いへり、【鹽津】は近江に今も有地名也こヽによみたるはいづこにか、
p.0534 北國下向勢凍死事 同〈◯延元元年十月〉十一日ニ、義貞朝臣、七千餘騎ニテ鹽津海津ニ著給フ、
p.0534 粟津〈アハツ〉
p.0534 元年七月辛亥、男依等到二瀬田一、〈◯中略〉大友皇子、〈◯弘文〉左右大臣等、僅身免以逃之、男依等即軍二于粟津岡下一、 壬子、男依等斯二近江將犬養連五十君、及谷直鹽手於粟津市一、
p.0534 近江のくに、おきながといふ人の家にやどりて、四五日あり、〈◯中略〉せたのはし、みなくづ
p.0535 れて、わたりわづらふ、あはづにとヾまりて、しはすの二日京にいる、
p.0535 〈あはづ近江〉 重之 水海のあはづにやどるきみゆゑにはかなくしほをたれてける哉
p.0535 寛仁四年五月廿六日丙子、上野前司定輔上道之間、於二粟津邊一備前前司維衡郞等之鬪亂、維衡郞等等六人之中、壹人被レ疵死去、 六月四日甲申、參内、頭中將被レ詰云、右衞門尉平時通、上野守定輔之迎、於二粟津一射二前々司維衡郞等一之由有レ愁、仍被レ尋二實否一之間、時通進二無實之由申文一、
p.0535 壽永三年〈◯元暦元年〉正月廿曰庚戌、蒲冠者範頼、源九郞義經等、爲二武衞〈◯源頼朝〉御使一、率二數萬騎一入洛、是爲レ追二罰義仲一也、今日範頼自二勢多一參洛、義經入レ自二宇治路一、木曾以二三郞先生義廣、今井四郞兼平已下軍士等一、於二被兩道一雖二防戰一、皆以敗北、〈◯中略〉遂於二近江國粟津邊一、令三相模國住人石田次郞誅二戮義仲一、
p.0535 粟津合戰事 甲斐源氏ニ一條次郞忠頼、板垣三郞兼信、七千餘騎ニテ先陣ニ進、粟津濱ニ打出タリ、
p.0535 慶長二年二月十四日、伊勢へ參宮申、〈◯中略〉相坂を越、大津粟津を過て、みかみ山、鏡山など見て、水口といふ所に著侍りぬ、
p.0535 粟津松原 雲拂ふあらしにつれて百船も千ふねも波のあはづにぞよる 近衞關白時煕公 粟津晴嵐 嵐度二栗津一春興長、吹レ霞吹雨似二相狂一、山花片々一蘆波、湖上閖鷗夢也香、 相國寺林長老 義仲寺〈馬場村にあり、此所木曾義仲戰死の地なり、佛堂に牌あり、又家臣兼平の牌も安ず、◯中略〉 芭蕉翁墳〈義仲寺境内、義仲塚に隣る、又茅室にはせを翁の木像を安ず、(中略)什寶に蕉翁の椿の杖、筆の物、かず〳〵あり、これを藏むるところを粟津文庫といふ、近年此眞蹟集、印板して世に行ふ、〉
p.0536 義仲寺に翁を葬りて なきがらを笠にかくすや枯尾花 其角 はせを翁のかくれし翌年墳に詣て 志賀の花湖の水それながら 素堂
p.0536 敦賀津(ツルガノツ)〈本字角鹿、越前敦賀郡、〉
p.0536 越前國敦賀〈都留賀〉
p.0536 一云、御間城天皇〈◯崇神〉之世、額有レ角人、乘二一船一泊二于越國笥飯浦一、故號二其處一曰二角鹿(ツヌカ)一也、
p.0536 二年三月丁卯、將レ討二熊襲國一、則自二徳勒津一發之、浮レ海而幸二穴門一、即日使遣二角鹿一、勅二皇后一〈◯神功〉曰、便從二其津一發之、逢二於穴門一、
p.0536 閻羅王使鬼得二所レ召人之賂一以免縁第廿四 楢磐島者、諾樂左京六條五坊人也、居二住于大安寺之西里一、聖武天皇世、借二其大安寺修多羅分錢卅貫一、以往二於越前之都魯鹿津(○○○○○○○)一而交易、
p.0536 諸國運二漕雜物一功賃〈◯中略〉 北陸道 越前國〈◯中略〉海路〈自二比樂湊一漕二敦賀津(○○○)一船賃、石別稻七把、挾杪卌束、水手廿束、但挾杪一人、水手四人、漕二米五十石一、加賀能登越中等國亦同、自二敦賀津一運二鹽津一駄賃、米一斗六升、自二鹽津一漕二大津一船賃、石別米二升、屋賃石別一升、挾杪六斗、水手四斗、自二大津一運レ京駄賃、別米八升、自餘雜物斤兩准レ米、〉能登國〈◯中略〉海路、〈自二加島津一漕二敦賀津一船賃、石別二束六把、挾杪七十束、水手卅東、自餘准二越前國一、〉越中國〈◯中略〉海路、〈自二亘理湊一漕二敦賀津一船賃、石別二束二把、挾杪七十束、水手卅束、自餘准二越前國一、〉越後國〈◯中略〉海路〈自二蒲原津湊一漕二敦賀津一船賃、石別二束六把、挾杪七十五束、水手卌五束、但水手人別漕二八石一、自餘准二越前國一、〉佐渡國〈◯中略〉海路〈自二國津一漕二敦賀津一船賃、石別一束四把、挾杪八十五束、水手五十束、自餘准二越前國一、〉
p.0536 康平三年七月、越前國解状云、大宋商客林表、俊改等、參二著敦賀津一、即有二朝議一、從二廻却一、而林表等上奏曰、逆旅之間、日月多移、粮食將レ竭、加之天寒風烈、海路多レ怖、委二命聖朝一而已者、所レ奏不レ能二
p.0537 默止一、賜二宣旨一令二安置一矣
p.0537 承暦四年閏八月卅日、大宋國商人孫吉忠、賚二明州牒一、參二著越前國敦賀津一、先レ是去八月、著二大宰岸一、隨則府司言上不レ待レ報、忠文吉小舟飛帆參入也、仍今日差二遣官使一、所レ召二件牒一也、
p.0537 源氏追討使事 六人ノ大將軍、各一色ニ裝束シテ打出給ヘリ、〈◯中略〉近江ノ湖ヲ隔テ、東西ヨリ下ル、〈◯中略〉西路ニハ、大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津(コツ)ノ宿、今津、海津(カイヅ)ヲ打過テ、荒乳ノ中山ニ懸テ、天熊(テンノクマ)國境匹壇(ヒキダ)、三口(ミツノクチ)行越テ、敦賀津ニ著ニケリ、
p.0537 長崎新左衞門尉意見事附阿新殿事 資朝子息國光中納言、其比ハ阿新(クマワカ)殿トテ、歳十三ニテヲハシケルガ、父ノ卿召人ニ成給シヨリ、仁和寺邊ニ隱テ居ラレケルガ、父誅セラレ給ベキ由ヲ聞テ、今ハ何事ニカ命ヲ惜ムベキ、父ト共ニ斬レテ、冥途ノ旅ノ伴ヲモシ、又最最ノ御有様ヲモ見奉ルベシトテ、〈◯中略〉都ヲ出テ十日餘ト申ニ、越前ノ敦賀ノ津ニ著ニケリ、是ヨリ商人船ニ乘テ、程ナク佐渡國ヘゾ著ニケル、
p.0537 北國下向勢凍死事 同〈◯延元元年十月〉十三日、義貞朝臣、敦賀津ニ著キ給ヘバ、氣比彌三郞大夫、三百餘騎ニテ御迎ニ參ジ、春宮一宮總大將父子兄弟ヲ、先ヅ金崎ノ城ヘ入レ奉リ、自餘ノ軍勢ヲバ、津ノ在家ニ宿ヲ點シテ、長途ノ窮屈ヲ相助ク、〈◯中略〉 瓜生判官心替事附義鑑房藏二義治一事 同〈◯延元元年十月〉十四日、義助義顯、三千餘騎ニテ敦賀ノ津ヲ立テ、杣山ヘ打越給フ、
p.0537 寶龜三年九月戊戌、送渤海客使武生島守等、解レ纜入レ海、忽遭二暴風一、漂二著能登國一、客主僅得レ免レ死、便於二福良津一安置、
p.0538 能登郡〈◯能登〉從二香島津(○○○)一發レ船行於下射二能來村一往時上作歌二首 登夫佐多底(トブサタテ)、船木伎流等伊布(フナギキルトイフ)、能登乃島山(ノトノシマヤマ)、今日見者(ケフミレバ)、許太知之氣思物(コダチシゲシモ)、伊久代神備曾(イクヨカミビゾ)、香島欲里(カシマヨリ)、久麻吉乎左之底(クマキヲサシテ)、許具布禰能(コグフネノ)、可治等流間奈久(カヂトルマナク)、京師之於母保由(ミヤコシオモホユ)、〈◯中略〉 右大伴宿禰家持作レ之
p.0538 宇須伎津(○○○○)、右所三以名二宇須伎一者、大帶日賣命、〈◯神功皇后〉將レ平二韓國一度行之時、御船宿二於宇伎〈◯伎字恐衍〉頭川之泊一、自二此泊一度二行於伊都一之時、忽遭二逆風一不レ得二進行一、而從二船越一越二御船一、御船猶亦不レ得レ進、乃追二發百姓一令レ引二御船一、於レ是有二一女人一、爲レ資レ上、己之負レ子而墮二於江一、故號二宇須伎一、〈新辭伊波須久〉
p.0538 むろつ 播磨
p.0538 室津〈播磨揖保郡、土佐安藝郡、〉
p.0538 むろにまかりて、日のあれければ、日來ありてよめる、 あさましやむろはうきつときヽしかどしづみぬる身の泊也けり むろには日ごろとヾまりて、たま〳〵いでヽこぎ行程に、なごろなをたかしとて、こぎもどるを見て、なごろにはこぎもどりけりあはれわがわかれの道にこちもふかなん
p.0538 文祿五年七月十日、薩州鹿兒島より近衞前左大臣信輔公御歸洛也、〈◯中略〉十日〈◯八月〉備後ともの浦へ著給ふ、夫よりは順風も心のまヽにて、播磨の室の津に御著也、 ◯按ズルニ、室津ハ又室泊トモ稱ス、泊篇ヲ參看スベシ、
p.0538 昔者纒向日代宮御宇天皇、〈◯景行〉欲レ誅二玖磨囎唹一、行二幸於筑紫一、從二周防國佐婆津一發レ船、而渡二泊於海部郡宮浦一、
p.0538 昔者纒向日代宮御宇天皇、御船從二周防國佐婆津一發而度之、遙覽二此國一勅曰、彼所
p.0539 レ見者、若國之崎乎、因曰二國崎郡一、
p.0539 二年六月庚寅、天皇泊二于豐浦津一、〈◯長門國〉 七月乙卯、皇后〈◯神功〉泊二豐浦津一、
p.0539 豐浦津〈倭名鈔、長門國豐浦郡、〉
p.0539 二年三月丁卯、天皇巡二狩南國一、〈◯中略〉至二紀伊國一而居二于徳勒津宮一、是時熊襲叛之不二朝貢一、天皇於レ是將レ討二熊襲國一、則自二徳勒津一發之、
p.0539 徳勒津(トコロヅ)宮〈或曰、日高郡、江名村今宮之社地是也、〉
p.0539 にぎたづ 伊與
p.0539 熟田津 伊豫〈仙覺(萬葉集抄下文同)ニ見タリ〉
p.0539 熟田津 舊蹟考曰、土俗の傳説に、昔は温泉の地名をなりたづといひ、あき田津ともいひ、又にぎ田津とも云、湯の邊迄海にて船つきなりしが、今は地脈變じて二里ばかり西に隔りぬ、なり田津、あき田津、にぎ田津を合せて三津といふなりなど或書にいへり、大成按に、古は熟田津といへるのみにて、なりたづ、あきたづといふ名、古書にも其外の書にもいまだ見あたらず、さるをかの反歌に飽田津とあるは、千蔭が萬葉略解に、飽は饒の誤なるべし、又久老云、或人其地の様よくしれるに聞しは、饒田津といふも、飽田津といふも、今猶ありとぞ、猶考ふべしといへり、飽は饒と字形似たれば、寫誤りたるものなり、或人の説は非也、飽田津と云地名あるにあらず、又なり田津といふも固りなき事也、そはかの熟田津の熟を とも書誤れるを見て、字を訂さずしてナリとは訓誤りたる者なるべし、三津濱人のいへらく、かの山際まで昔は海にて、此邊は築地なりと、實にさる事なるべし、さて三津の三は、例の假字にて、古天皇等の行幸の時、御船の泊し所なれば御津といひしを、築地と成ても猶海際なれば、今も御津とはいふなるべし、又熟田津石湯とある石は、古書に磯と
p.0540 通はしかければ、昔は温泉、かの柔田津ぢかき邊に在しか、又はかの山間の迫門などより、潮の滿來て入江なりしか、古歌古書などの今世の地理にあひがたきも、國々にこれかれおほかれば、猶考ふべし、
p.0540 七年正月壬寅、御船西征、始就二于海路一、 庚戌、御船泊二于伊豫熟田津石湯行宮一、〈熟田津、此云二儞枳陀豆一、〉
p.0540 伊豫國風土記曰、湯郡、〈◯中略〉天皇等於レ湯幸行、降坐五度也、〈◯中略〉以二後岡本天皇、〈◯齊明〉近江大津宮御宇天皇、〈◯天智〉淨御原宮御宇天皇〈◯天武〉三軀一爲二一度一、
p.0540 後崗本宮御宇天皇代〈天豐財重日足姬天皇位後即位後崗本宮〉 額田王歌 熟田津爾(ニギタヅニ)、船乘世武登(フナノリセムト)、月待者(ツキマテバ)、潮毛可奈比沼(シホモカナヒヌ)、今者許藝乞菜(イマハコギコナ)、 右撿二山上憶良大夫類聚歌林一曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸二于伊豫湯宮一、後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就二于海路一、庚戌御船泊二于伊豫熟田津石湯行宮一、天皇御二覽昔日猶存之物一、當時忽起二感愛之情一、所以因製二歌詠一、爲二之哀傷一也、即此歌者、天皇御製焉、但額田王歌者、別有二四首一、
p.0540 なりたづ なりたづにふなのりせんと月までばしほもかなひぬいまはこぎこな 顯昭云、なりたづとは熟田津とかけり、但考二日本紀一に、熟田津此云二儞枳陀豆(ニギタヅ)一、然ば萬葉にてもにぎたづと可レ讀歟、なりたづは伊與にある所なり、いまはこぎこなは許藝(コギ)歟菜とかけり、こげこなともよめり、同事也、又桑田津ともかけり、又熟田津をむまたづともよめり、同心歟、
p.0540 伊豫國風土記には、後岡本天皇御歌曰、美枳多頭爾(ミギタヅニ)、波氐丁美禮婆(ハテヽミレバ)云々、にとみと同
p.0541 韻相通の故に、にぎたづともいひ、みぎたづとも云とえらばれたり、みとにとは、殊にかよはしていはるヽ字と聞えたりいはゆるなみはやのくにを、なにはとはいふ、にをヽみをといへり、蜷(にな)をみなと云がごとし、それにとりて、この集に、にぎたづのことばをよめる歌に、第一卷には、熟田津爾、船乘世武登、月待者とかけり、熟田津これをにぎたづと云事、日本紀にみえたり、又或は和(にぎ)多豆ともかき、或は柔(にぎ)田津ともかけるは、皆にぎたづと和すべきことはりなれば、いまの點には、みなにぎたづと和する也、
p.0541 山部宿禰赤人至二伊豫温泉一作歌一首并短歌〈◯中略〉 反歌 百式紀乃(モヽシキノ)、大宮人之(オホミヤビトノ)、飽田津爾(ニギタヅニ)、船乘將爲(フナノリシケン)、年之不知久(トシノシラナク)、
p.0541 飽田津 伊豫〈仙覺抄ニ見タリ〉
p.0541 飽は饒の誤なるべし、にぎたづは伊與也、既にも出、久老云、或人其地のさまよくしれるに聞しは、饒田津といふ地も飽(アキ)田津といふ地も、今猶有とぞ、猶考べし、
p.0541 悲レ別歌 柔田津爾(ニギタヅニ)、船乘將爲跡(フナノリセント)、聞之苗(キヽシナヘ)、如何毛君之(ナニゾモキミガ)、所見不來將有(ミエコザルラン)、
p.0541 三島大明神御天下(アマクダリ)以前、和氣郡沖島下給、故母居(モコ)島號ス、爰三子産給、御子船海上放、此島住給フ、〈◯中略〉御三王子御舟、當國〈◯伊豫〉和氣郡三津(○○)浦著給フ、即國主奉レ崇、小千御子稱ス、此時事ヲ以萬葉集歌有、云、堀江漕、棚無小船、コギカヘリ、思フ人ヲヤ、戀渡ルラント讀メリ、古文ナドニ難波堀江ト云ヘリ、不レ知人故也、是ハ和分(ワケ)ノ堀江ナルベシ、
p.0541 三津 是は伊與王子第三ノ御子ノ御船著シ所故、三津ト號ス、
p.0541 細川晴元討二豫州一記
p.0542 天文八年己亥、細川晴元、阿讃ノ諸將ニ命ジテ、豫州河野ヲ追討セシム、〈◯中略〉防州〈◯大内義隆〉ノ兵船ハ、西伊豫松山口御津ノ濱(○○○○)ニ渉テ、國中ノ諸將ヲ細川方ニ誘引ス、
p.0542 三津濱 舊蹟考に、三津の三は例の假字にて、古大御船の泊し所なれば、御津とはいふなるべしといへり、南海治亂記に、河野通直、豐前國根津浦より出船して、豫州御津濱に渡りなど見たれば、舊は御津と書るなるべし、 按、日本書紀に、御船泊二于熟田津石湯行宮一、又萬葉集に、熟田津爾、船乘世武登、月待者、などある熟田津は此處なるべし、そは温泉に行幸し時、御船泊玉ひけん所、外にあらざればなり、里人云、昔は湯のあたり迄入海なりしを、築留て今の如くなりぬと、實にさもありけんかし、されど御津と云名は、御船泊玉ひしによりての名なるべければ、古の熟田津也といはんも、誣事にはあらじ、
p.0542 室津(○○)〈牟呂津〉 在二羽根村東一、或稱二室戸(○○)一、
p.0542 室戸(ムロト) 東寺也〈又云東寺ゟ西寺の間都て室戸崎と號す、私云室津、〉
p.0542 地藏菩薩値二火難一自出レ堂語第六 今昔、土佐ノ國ニ室戸津ト云所有リ、其所ニ一ツ草堂有リ、津寺ト云フ、其堂ノ擔キノ木尻皆焦レタリ、其所ニハ海ノ岸ニシテ人里遙ニ去テ難レ通シ、
p.0542 承和二年三月丙寅、大僧都傳灯大法師位空海終二于紀伊國禪居一、 庚午、〈◯中略〉法師者〈◯中略〉勤二念土左國室戸之崎一、幽谷應レ聲、明星來レ影、自レ此專解日新、下レ筆成レ文、
p.0542 土左國室戸といふ所にて 弘法大師 法性の室戸といへどわがすめば有爲の浪風よせぬ日ぞなき
p.0543 廿七日〈◯承平四年十二月〉大津(○○)より浦戸(○○)をさしてこぎいづ、〈◯中略〉廿八日うら戸よりこぎ出て大みなと(○○○○)をおふ、〈◯中略〉十一日〈◯承平五年正月〉あかつきに舟を出して室津(○○)をおふ、
p.0543 日本三津 博多(ハカタノ)津〈筑前〉
p.0543 博多(ハカタ) 在二那珂郡一、往古唐船著岸湊也、 袖ノ湊(ミナト) 在二博多中一、昔此處有二入海一、唐船出入、中古入二于平戸一、今入二長崎一、故唯有レ名耳、
p.0543 一博多屬二那珂郡一 日本後紀曰、〈◯中略〉新羅人辛波古智等二十六人、漂二著筑前國博多津一、〈◯中略〉是博多の名、國史に見えたる始なり、其時すでに博多津の號あり、其初は、いつの頃より立けん不レ知、今案に博多は、古來唐土船の著し所にて、太宰府に近ければ、〈其間四里あり〉上代太宰府を置れしより、博多町も、立けるならん、續日本後紀には、仁明天皇の御字、新羅の人、筑前大津に來るといへり、大津は博多をさしていへり、〈◯中略〉僧萬里が梅庵集、送二超公然叟歸省一詩序曰、超公然叟、石城人、其境有二鳥津一、有二十里松一、註曰、石城、即筑前博多なり、有二鳥津一、又號二冷泉津一といへり、唐土の書には、博多を覇家臺、或八角島など書り、是は別に名付たるにあらず、博多の音を聞て如レ斯書るなり、海東諸國記にも、博多或冷泉津と稱し、又石城府とも云よし見えたり、日本に上世より異國船の來りつどひし所にて、太宰府に近ければ、往古より繁榮の地なる事むべなり、〈◯中略〉げにも此博多津は、往古唐土船のつどひし所にて、我日本の國々よりも、各其土物を載て爰に聚り、民軒を並て富人門をつらね、肆には萬の財多く、民生日用の食貨乏しからず、且古寺名刹又多し、誠に四方輻湊の地にして、天府の邑といひつべし、此所南北の中程に、古は東西に通れる入海有て、袖の湊と號せり、是唐船の入し湊なり、
p.0544 文保百首歌奉りけるに 前大納言爲定 いかにせんもろこし船のよるかたもしらぬにさはぐ袖のみなと(○○○○○)を
p.0544 筑前州 州有二博多一、或稱二覇家臺一、或稱二石城府一、或稱二冷泉津一、或稱二筥崎津一、居民萬餘戸、〈◯中略〉居人業二行商一、琉球南蠻商舶所レ集之地、〈◯中略〉往二來我國一者、於二九州中一博多最多、
p.0544 元年五月辛丑朔、詔曰、〈◯中略〉夫筑紫國者、遐邇之所二朝屆一、去來之所二關門一、〈◯中略〉阿倍臣宜遣二伊賀臣一、運二伊賀國屯倉之穀一、脩二造官家那津(○○)之口一、
p.0544 五年七月戊寅、遣二小錦下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥一、使二於唐國一、〈(中略)伊吉連博徳書曰(中略)以二己未年七月三日一、發レ自二難波三津之浦一、八月十一日、 發レ自二筑紫大津(○○○○)之浦一、九月十三日、行到二百濟南畔之島一、〉
p.0544 筑紫大津〈下文所レ謂娜大津、蓋此、〉
p.0544 按筑前國那珂郡博多津
p.0544 七年三月庚申、御船還至二于娜大津(○○○)一、居二于磐瀬行宮一、天皇改二此名一曰二長津(○○)一、
p.0544 皇祖母尊〈◯齊明〉即二天皇位一七年七月、〈◯中略〉皇太子、〈◯天智〉遷二居于長津宮(○○○)一、
p.0544 至二于娜大津一〈娜作レ嫏恐誤、娜當レ訓二那可一、即筑前國那珂郡、神功紀引(マカセ)二儺河水一、儺亦訓二那可一、宣化紀所レ謂那津蓋同、釋曰、于娜者伊豫國宇麻郡也、長津宮在二伊豫一、〉
p.0544 皇太子遷居二于長津宮一 齊明天皇紀曰、七年三月、御船還至二于娜大津一、居二于磐瀬行宮一、天皇改二此名一曰二長津一、 兼方案之、于娜者伊豫國宇麻郡也、長津宮者伊豫國也、 ◯按ズルニ、釋日本紀ニ記スル所、實ニ此ノ如シ、姑ク附載シテ參考ニ備フ、
p.0544 天平寶字三年三月庚寅、太宰府言、府官所レ見、方有二不レ安者四一、據二警固式一、於二博多大津
p.0545 及壹岐對馬等要害之處一、可下置二船一百隻以上一以備中不虞上、而今無二船可一レ用、交闕二機要一、不レ安一也、
p.0545 博多大津〈在二筑前國那珂郡一、七年八月紀、及寶龜七年閏八月紀、稱二太宰博多津一、即齊明紀所レ謂娜大津也、〉 ◯按ズルニ、續日本紀天平寶字七年八月ノ條ニ、太宰博多津ノ事ナシ、恐ラクハ次下引ク所ノ八年七月紀ヲ誤リシナラン、
p.0545 天平寶字八年七月甲寅、新羅使大奈麻金才伯等九十一人、到二著太宰博多津一、
p.0545 弘仁五年十月庚午、太宰府言、新羅人辛波古知等二十六人、漂二著筑前國博多津一、
p.0545 承和六年十月丁巳、遣唐使録事正六位上山代宿禰武益所レ駕新羅船一隻、歸二著筑前國博多津一、
p.0545 承和九年正月乙巳、新羅人李少貞等卅人、到二著筑紫大津一、太宰府遣レ使問二來由一、
p.0545 貞觀十一年六月十五日辛丑、太宰府言、去月廿二日夜、新羅海賊、乘二艦二艘一、來二博多津一、掠二奪豐前國年貢絹綿一、即時逃竄、發レ兵追遂不レ獲レ賊、 十二月十四日丁酉、遣二使者於伊勢太神宮一奉幣、告文曰、〈◯中略〉去六月以來、太宰府度々言上〈須良久、〉新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡〈乃〉荒津(○○)〈爾〉到來〈天〉、豐前國〈乃〉貢調船〈乃〉絹綿〈乎〉掠奪〈天〉逃退〈多利、◯下略〉
p.0545 今案に、前に博多とあり、後に荒津と有は、博多荒津一所なりしと見えたり、然れば博多は町をさして云、大津荒津とは、博多の船の著港をさして云なるべし、
p.0545 〈天平二年庚午冬十一月、太宰帥大伴卿、被レ任二大納言一兼レ帥如レ舊〉上レ京之時、陪從人等、別取二海路一 入レ京於レ是悲二傷羈旅一、各陳二所心一作歌十首、〈◯中略〉 【荒津】乃海(アラツノミ)、之保悲思保美知(シホヒシホミチ)、時波安禮登(トキハアレド)、伊頭禮乃時加(イヅレノトキカ)、吾孤悲射良牟(ワガコヒザラム)、
p.0545 貞觀十一年十二月廿八日辛亥、遣二從五位上守右近衞少將兼行太宰權少貳坂上大宿禰瀧守於太宰府一、鎭護警固、〈◯中略〉是日瀧守奏言、所下以置二選士一設中甲冑上者、本爲下備二警急一護中不虞上也、謹撿、
p.0546 博多是隣國幅輳之津(○○○○○○○○○)、警固武衞之要、而墎與二鴻臚一相去二驛、若兵出二不意一、倉卒難レ備、請移二置統領一人、選士四十人、甲冑四十具於鴻臚一、〈◯中略〉詔並從レ之、
p.0546 貞觀十八年八月三日丁未、太宰府言、去月十四日、大唐商人楊清等三十一人、駕二一隻船一著二荒津(○○)岸一、
p.0546 諸國運二漕雜物一功賃 南海道 太宰府海路〈自二博多津一漕二難波津一船賃、石別五束、挾杪六十束、水手卌束、自餘准二播磨國一、〉
p.0546 天慶三年十一月廿一日、純友追討記云、伊豫掾藤原純友、居二住彼國一、爲二海賊首一、〈◯中略〉官使好古、引二卒武勇一、自二陸地一行向、慶幸春實等、鼓レ棹自二海上一赴、向二筑前國博多津一、賊即待戰、一擧欲レ決二死生一、
p.0546 寛仁三年四月二十五日壬子、酉時許惟圓持二帥〈◯藤原隆家〉書一來、〈去十六日書〉示二異國人來九日來著合戰等一、子細在二府解一、又示下可二辭退一哉否事上、惟圓云、使者乘二隼船一參上、但異國八日俄來二著能古島一、同九日亂二登博多津一、府兵忽然不レ能二徴發一、先平爲忠、同爲方等、爲二師首一馳向合戰、異國軍多被二射殺一、〈◯下略〉
p.0546 某謹言、去月某日、著二博多津一、某日著二鎭守府一、此間無二風雨之難一、神道祐レ之歟、宋朝商客、其舶以來、貨物數多、倍二於前々一云々、麝臍之香、鳳文之鏤、可レ謂二奇珍一、以二通天之犀一、誂二明月之珠一、勢州蛑胎、産二件珠一者也、早付二便脚一、可二兆給一也、紺青蘇枋、且以奉レ之、心事雖レ多、併期二後餞一耳、謹言、 月日 大宰大貳 伊勢守殿
p.0546 對馬貢銀記 對馬島者、在二本朝之西極一、屬二於太宰府一、孤二立海中一、四面絶壁、其名兼見二於隋唐史籍一、自二筑前國博多津一西
p.0547 向、飛帆一日、到二壹岐島一、
p.0547 警固所解申請申文事 言上 新來唐船一隻子細状 右件唐船、今日酉時、筑前國那珂郡博多津志賀島前海到來者、任二先例一子細言上如レ件、以解、 長治二年八月廿日 鎰取田口吉任 本司兼監代百濟惟助
p.0547 唐人 俊頼 唐人はしかのをじまに舟出してはかたのおきに時つくる也 兼昌 うなばらやはかたの沖にかヽりたる唐舟にときつくるなり
p.0547 建武三年四月三日、太宰府を立て、御進發ありし程に、太宰少貳并九國の輩、博多の津より纜を解て、兩將は長門の府中にしばらく御逗留にて、當所より御出舟有、〈◯下略〉
p.0547 豫州能島氏侵二大明國一記 大明ノ使鄭舜侯ト云者、博多津ニ入來ル時ニ、豐後ノ大友義鎭、西州ヲ統領スルユヘニ、日本國王ナリトシテ、其璽書ヲ義鎭ニタテマツル、
p.0547 筑前州 貞成 辛巳年、遣レ使來朝、書稱二筑前州冷泉津尉兼内州大守田原藤原貞成一受二圖書一、約三歳遣二三船一、大友殿族親、博多代官、
p.0547 湊 津
p.0548 異國商船、往昔皆入二筑前博多一、〈所レ謂花旭塔也〉二百有餘年以來、或周防、或豐後之豐府、或薩摩、或肥前平戸也、自二寛永年中一、一以二肥前長崎一爲レ湊、而後不レ改、
p.0548 一博多 天文廿一年より、博多に大明西蕃の諸國より、商舶の來る事やみぬ、其後は博多に異國の船絶て來らず、此時より袖の湊も漸埋りつらん、天文廿一年より今元祿十四年迄は、凡百五十年に成ぬ、其後に大友義鎭、威力を振ひし時、豐後府内に異國船を著せたり、又其後紅夷の船は、肥前の平戸に著(○○○○○○○)、長崎に大明諸夷の船の來るは又其後なり、
p.0548 引津〈津の字すむべし〉 引津は、芥屋村より六七町西南に當り、芥屋と岐志との間に在し入海なり、むかしはこの入海に芥屋岐志兩方より潮相通じて、大船も内海に入しといひ傳ふ、いつの時よりか入海はあせて、みな田となり、今は田地凡五六十町も有とかや、〈◯中略〉この田地、むかし入海なりしゆゑに、今も田の底をほれば、貝のから出づと云、〈◯中略〉かやうに四方に陸地めぐりて、その中に入海ある所は、諸州に希なる奇境なり、引津と名附けしは、岐志芥屋兩方に潮引し故にや、また船入て潮干ぬれば、外海へ出がたかりしを船を、引出したるゆゑに、名づけしにや、
p.0548 旋頭歌 梓弓(アヅサユミ)、引津邊在(ヒキツノベナル)、莫謂花(ナノリソノハナ)、及採(ツムマデニ)、不相有目八方(アハザラメヤモ)、勿謂花(ナノリソノハナ)、
p.0548 引津は筑前也、卷十五、引津亭舶泊之作とあれば、海邊なる事しるし、
p.0548 問答 梓弓(アヅサユミ)、引津野邊有(ヒキツノベナル)、莫告藻之(ナノリソノ)、花咲及二(ハナサクマデニ)、不會君毳(アハヌキミカモ)、
p.0548 引津亭舶泊之作歌七首〈◯五首略〉 久左麻久良(クサマクラ)、多婢乎久流之美(タビヲクルシミ)、故非乎禮婆(コヒヲレバ)、可也能山邊爾(カヤノヤマベニ)、草乎思香奈久毛(サヲシカナクモ)、
p.0549 於吉都奈美(オキツナミ)、多可久多都日爾(タカクタツヒニ)、安敝利伎等(アヘリキト)、美夜古能比等波(ミヤコノヒトハ)、伎吉氐家牟可母(キヽテケムカモ)、 右二首大判官〈◯遣二新羅一使〉
p.0549 題不レ知 よみ人しらず 梓弓ひき津のつなるなのりそのたれうき物としらせ初劒
p.0549 著二葦屋津一有レ感 釋蓮禪 沙月渚風秋皓々、自然遊子感呑レ胸、問レ津上下客舟集、分レ岸東南民戸重、〈夾レ岸有二二庄一、土民比屋云、〉土俗毎朝先賣レ菜、〈黄瓜紫茄、土人賣レ之、故云、〉釣魚終夜幾燒レ松、〈漁舟篝火、終夜燒レ松也、〉不レ圖再到二於斯地一、思レ舊瀾干涙忽降、〈往年隨二養親一路次二此泊一、今又來、故云、〉
p.0549 草野津(くさのゝつ) 草野村の津なり、往昔は此邊まで海なりき、三代格に豐前國草野津と出でたる是なり、〈◯註略〉外記局記に、蒭野庄とあるも同處なるべし、〈◯註略〉抑此の津は、往古公私の船の專著きし處にて、新任の國司の下らるヽにも、亦此の津に著船ありしなり、今は海も漸くに淺く成り以て行きて、海邊をば少離れたり、
p.0549 長保元年三月七日庚申、太宰府解、申二請官裁一事、〈◯中略〉 一管豐前國京都郡雨レ米事〈◯中略〉 右得二彼國去年十二月廿八日解状一偁、〈◯中略〉抑此雨レ米事、以二十一月廿一日一、於二宇原庄一、前蒭野庄撿校俗名早部信理、法名寂性申云、京都郡高來郷平井寺乾方居住法師私宅、以二去九月晦夜一雨レ米、夜中驚見白米已多、〈◯下略〉
p.0549 太政官符 應レ聽下自二草野國埼坂門等津一往中還公私之船上事 右得二太宰府解一偁、撿二案内一、太政官去天平十八年七月廿一日符偁、官人百姓商旅之徒、從二豐前國草野(○○)
p.0550 津(○)、豐後國國埼、坂門等津一、任レ意往還、擅漕二國物一、自今以後、嚴加二禁斷一、〈◯中略〉奉レ勅、自今以後、公私之船、宜レ聽下自二豐前豐後三津一往來上、〈◯中略〉 延暦十五年十一月廿一日
p.0550 昔者日本武尊巡幸之時、到二於此津一、日沒二西山一、御船泊之、明旦遊覽、繫レ船覽二於大藤一、因曰二藤津郡一、
p.0550 長崎津(ナガサキノツ)〈肥前彼杵(ソノキ)郡、外市之地、〉
p.0550 阿蘭陀著津、平戸より長崎へ被レ移事、 一寛永十八辛巳年、爲二上意一、向後阿蘭陀船、長崎湊に可レ令二著船一旨被二仰付一之、但去る慶長十三年より寛永十七年迄、三十三ケ年、平戸に著船し、去冬如レ例、阿蘭陀人江府爲二拜禮一、平戸より令二出達一之處、今度右之通被二仰出一に付、拜禮相濟、歸路直ニ長崎に令二來著一、出島屋鋪に被レ令二住館一、〈◯中略〉 同年入津の阿蘭陀船九艘、直に長崎湊に著船せしむ、則寛永十五年、御制禁になりし南蠻人、其節迄住せし出島の地、明屋鋪となりしを、此時より阿蘭陀人住館に被レ仰二付之一、 江戸拜禮之事 一正保四丁亥年六月、南蠻船二艘、當津に入津す、
p.0550 唐船長崎湊來著之事 一唐船渡海始之事、明の嘉靖隆慶の頃、〈日本永祿元龜に當る〉稀に小船より絲、端物、藥種等積渡り、遂二交易一の處、萬暦崇禎に至て、〈日本天正慶長に當ル〉明朝と清朝の兵亂大に起て、人民甚困厄に逼り、其難を遁れん爲に、商賣を營むもの而已にも不レ限、數輩の唐人、家資財物を携へ來りて、長崎に住居を願ふもの多かりしとなり、船數も漸々多く成り、九州、薩摩阿久根、筑前博多、豐後府内、肥州にては五島、平戸、大村、長崎、諸處に著岸すと云共、就レ中長崎湊に著船多く、諸司繁多成るゆへ、慶長九年以來、
p.0551 追々長崎にて唐通事役人出來、且又元和六年南京(ナンキン)寺、寛永五年漳州(チヤクチウ)、〈◯州下疑脱二寺字一〉同六年福州(ホクチウ)寺、唐三ケ寺、皆長崎在津の唐船主共、資財を寄附して創建せり、
p.0551 十七年四月庚子、筑紫太宰奏上言、百濟僧道欣惠彌爲レ首一十人、俗人七十五人、泊二于肥後國葦北津一、
p.0551 日本三津坊津(バウノツ)〈薩摩〉
p.0551 一薩摩の防の津は、防人の守りし所なるべし、
p.0551 川邊郡坊津村(バウヅムラ) 坊津港(バウノツミナト) 往古唐湊トイヘリ、方角集ニ、即チ唐湊トアリ、〈◯中略〉偖坊ノ津ノ名ハ、當郷〈◯坊泊〉一乘院、往古大寺ニテ、上ノ坊、中ノ坊、下ノ坊等ノ數坊アリシガ、遂ニ地名トハナリシナリ、
p.0551 房(バウノ)津 在二籠島之坤一海濱也
p.0551 日本國圖 薩摩州 坊津
p.0551 同郡〈◯川邊〉坊泊郷坊津村 唐湊〈即坊津、方角集、〉 今云二坊津一、武備志、登壇必究等、並作二坊津一、海東諸國記、作二房津一、和漢三才圖會同レ之、本朝 三津之一也、筑前博多、伊勢洞津、薩摩坊津、 是より西北、即同郷の内泊村と云、〈登壇必究、作二拖馬里一、〉久志秋日郷接比す、〈武備志、久志港、秋日港ニ作る、〉並に小き嶴あり、大舶は繫泊しがたし、昔は皆加世田郷に屬せり、 府西南十五里
p.0552 當津は本邦西海の邊陲にして、直に絶域に對望す、昔は支那西洋の通商互市するもの、皆此津に輻湊して自由を得たればとて、唐之湊とは云へり、後に肥の長崎安嶴をもて、諸蕃來朝の榷場となりしかば、おのづから此湊の繁華の地をかへて、終に蕭然たる一漁村とはなりしなり、 頼めども蜑の子さへもみえぬ哉いかヾはすべきからのみなとは、是唐山の客船も入來らず、此浦のさび渡りける比にやよみけらし、昔は市店軒を連ね、樓屋甍を並べ、人煙富庶なりしといふ礎砌など、今は茅のみ巷を塞ぎ、苔むしたる蹟のみぞ殘りける、
p.0552 薩摩州 戊子年、遣レ使來朝、書稱二薩摩州房泊(○○)代官只吉一、以二宗貞國一請二接待一、
p.0552 大永三年、〈◯中略〉薩摩の坊の津(○○○○○○)の商人、京にて興行に、 磯の上のちしほもあさのゆふべ哉
p.0552 四書新註和訓、達二洛陽一之説、 我如竹老師謂、甲斐信玄公之鴻儒、惺窩先生者、天下之英才也、甲斐亡國〈季安按、惺窩集、播州赤松廣通善遇二惺窩一、(中略)甲斐信玄則其爲二播州赤松廣通一明矣、〉之後、牢二落于洛陽一、而愁三四書新註無二和訓一、自到二于中華之地一欲下傳二新註之奧儀一點中和訓上、故西欲下下二房津(○○)一〈即薩州防津也〉赴中中華上、隔レ風泊二船于山川津一、 ◯按ズルニ、惺窩文集載スル所ノ惺窩先生行状ニハ、欲レ入二大明國一、直到二筑陽一、泛二溟渤一、逢二風濤一、漂二著鬼海島一、トアリテ、房津ニ下ルノ事ナシ、
p.0552 豐臣姓 秀次の謀叛顯はれし時、近衞殿は薩摩方防の津、菊亭殿は信濃國へ配流ありし、其上御女一臺殿、大路を渡され玉ひしこそ、ためしなき御事也、建仁寺十如院にて永雄和尚、 道すがら車にあらで大臣をのするかごしまになふ棒の津(○○○)と狂歌せしも、此時の事とぞ、
p.0552 九年〈◯仲哀〉九月己卯、令二諸國一、集二船舶一練二兵甲一、 十月辛丑、從二和珥津一發之、
p.0553 和珥津〈延佳曰、在二對馬上縣郡一、〉
p.0553 文武天皇三首〈年廿五〉 五言詠レ月一首 月舟移二霧渚一、楓檝泛二霞濱一、臺上澄流耀、酒中沈去輪、水〈◯水疑木誤〉下斜陰碎、樹除〈◯除疑際誤〉秋光新、獨以二星間鏡一還浮二雲漢津一、