p.0273 改元(ケン)
p.0273 改元(カイグヱン)
p.0273 改元(カイゲン)〈改二年號一〉
p.0273 一新帝元年 元年の立やうによりて、治世の年數違ふ事あり、橘嘉樹が説に云、其帝の元年は、即位の年を除き、翌年を元年とするは、一年にして二帝あることを嫌によりて、其年を以て先帝治世の終の數に加へ、翌年より新帝の治世を筭る也、其帝により即位の禮なきもあり、又は二年三年、或は十年餘も後れて即位の禮あるもあり、其は踐祚の年の翌年を元年と立つるなり、又近世明和上皇〈◯後櫻町〉の如き、踐祚の翌年に即位ありて、又其翌年に改元あり、是も亦踐祚の翌年を以て帝の元年とする也、此事は通鑑に見へたるよし、改元考に記されたり、踰年改元と云、定制なし、又云、先帝の舊年號を用ひらるヽ事間々あり、又上皇の如きは、即位の次の年に改元ある故に、改元治世の元年に一年後れたり、去れども一年舊號を用ひらるヽの定とす、九十八代崇光帝も如レ此、百七代後土御門帝も如レ此、或は即位の翌日改元あるもあり、一ケ月二ケ月後に改元あるもあり、同く此類は踐祚の年を除きて新帝の元年とするなり、
p.0273 一踐祚之年無二改元一 同書〈◯百練抄〉治承四年十二月一日、今日可レ有二改元一之由、有二其
p.0274 沙汰一、然而俄に停止、踐祚之年改元、大同之外無二其例一、〈踐祚は即位の事ナリ、近世別とスルハ誤ナリ、〉貞丈嘗て聞けり、即位の年に年號改元あれば、其年半は先帝の年號にて、半は今上ノ年號也、是地に二人の王あるがごとくなれば忌む也、其明年より今上ノ元年とする也、明年まで舊年號を用ゆる事ありとも、年改まる故拘らずして其年改元ありと云、
p.0274 改元例勘文 改元に、即位の年と、その明年との先例有、左に記すが如し、
改元例、天子踐祚、以二禪讓年一屬二先代一、踰レ年即位、古禮也、而我朝當年即位、翌年改元、已爲二流例一、但禪讓年即位、又非レ無二先例一、和銅八年九月元明禪位、即日元正即位、改元爲二靈龜一、養老八年二月元正禪位、即日聖武即位、改元爲二神龜一、天平勝寶元年四月聖武禪位、同年七月孝謙即位、改元爲二天平勝寶一、神護景雲四年八月稱徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元爲二寶龜一、徳治三年八月後三條崩、同年親王即位、十月改元爲二延慶一、又踰レ年不二改元一例、天平寶字二年淡路廢帝即位、不二改元一、仁和三年宇多帝即位、不二改元一、隔レ年改爲二寛平一、延久四年白河帝即位、又不二改元一、隔レ年改爲二承保一等也、即位以前改元例、壽永二年八月後鳥羽受禪、同三年四月改元爲二元暦一、七月即位、是非常例也、〈右神皇正統紀異本裏書也〉
p.0274 治承四年十二月一日、今日可レ有二改元一之由、有二其沙汰一、然而俄停止、踐祚年改元(○○○○○)、大同之外無二其例一、
p.0274 治承四年十二月四日壬午申刻、大外記頼業來、酉刻大夫史隆職來、各召二簾前一、仰二雜事一、〈頼業退下之後召二隆職一〉共云、去月晦日於二院殿上一、被レ議二關東亂逆事一之間、左大臣被レ定下申可二改元一之由上、因レ之忽其沙汰出來、今月一日申刻、今夕可レ有二改元定一之由宣下、而官外記相共改元可レ有二猶豫一之由奏聞、〈外記申云、踐祚明年被(○○○○○)二改元(○○)一、恒例也(○○○)、當年改元之例、平城之初、大同是也、彼爲二不吉一、何况天慶將門亂之時無二改元一、彼已爲二吉例一、又二日可レ被レ遣二追討使一云々、改二年號一之翌日、被レ行二凶事一、其理可レ然哉云々者、下官申云、改元者、兼日仰二儒士一、召二勘文一有二議定一、而當日申刻初宣下、未レ聞二如レ斯卒爾之儀一、加之二日可レ被レ成二追討使官符一、凡改元之後政始以前、難レ被レ行二如レ此之事一、就レ中於レ旁不レ叶二物議一者歟云々、〉仍爲二行隆奉行一、被レ仰二合禪門一、禪門申云、素可レ有二改元一之由、全不二計申一、唯左大臣被レ申二此旨一之由承許也、左右難二定申一、但如レ承者、官外記申
p.0275 牒、其理可レ然云々、仍忽然而停止了、
p.0275 改元事 代始無二恩赦一、但承和、天祿、二代有二此事一、
p.0275 安和三年三月廿五日(圓融院)〈丙申〉改元、爲二天祿一代始、詔赦賑給、代始例希有也、
p.0275 經頼記長和六年四月廿一日己丑、大外記文義參入、被レ仰云、改元之時、多有二免物一、而御即位之後初改元之度有二免物一哉、先例可二勘申一者、文義申云、多最初改元無二免物一、但天祿度有二免物一、又々可二勘申一者、 廿二日庚寅、參内、文義令下最初改元無二免物一之由上、〈元慶度有二免物一、是依國之奏瑞物歟、又天祿度有二免物一、此外見二代々例一、更無二免物一云々、〉
p.0275 代始改元例〈注寛平以後〉
寛平〈宇多四月廿四日〉 昌泰〈醍醐八月十六日〉 承平〈朱雀四月十六日〉 天暦〈村上四月廿七日〉 安和〈冷泉八月十三日〉 天祿〈圓融三月廿五日〉 寛和〈花山四月十四日〉 永延〈一條四月五日〉 長和〈三條十二月廿五日〉 寛仁〈後一條四月廿三日〉 長暦〈後朱雀四月廿一日〉 永承〈後冷泉四月十四日〉 延久〈後三條四月十三日〉 承保〈白川八月廿三日〉 寛治〈堀川四月一日〉 天仁〈鳥羽八月三日〉 天治〈崇徳四月三日〉 康治〈近衞四月十八日〉 保元〈後白河四月廿七日〉 平治〈二條四月廿日〉 仁安〈六條八月廿七日〉 嘉應〈高倉八月八日〉 養和〈安徳七月十四日〉 元暦〈後鳥羽四月十六日〉 正治〈土御門四月八日〉 建暦〈順徳四月十三日〉 貞應〈後堀川四月十三日〉 天福〈四條四月十三日〉 寛元〈後嵯峨二月廿六日〉 寶治〈後深草三月十八日〉 文應〈龜山四月十三日〉 建治〈後宇多四月廿五日〉 正應〈伏見八月廿八日〉 正安〈後伏見四月十一日〉 乾元〈後二條十一月廿一日〉 延慶〈花園十月九日〉 元應〈後醍醐四月廿八日〉 正慶〈光嚴四月廿八日〉 暦應〈光明八月廿八日〉 觀應〈崇光正月廿七日〉 文和〈後光嚴九月廿四日〉 永和〈後圓融二月廿一日〉 至徳〈後小松二月廿七日〉 正長〈稱光但代末四月廿七日〉 永享〈後花園九月五日〉
p.0275 白雉元年二月戊寅、穴戸國司草壁連醜經獻二白雉一、〈◯中略〉 甲申詔曰、四方諸國郡等、
p.0276 由二天委付一之故、朕摠臨而御レ㝢、今我親神祖之所レ知、穴戸國中有二此嘉瑞一、所以大二赦天下一、改二元白雉一、
◯按ズルニ、祥瑞ニ由リテ改元セシ例ハ、此他ニ朱鳥、大寶、慶雲、和銅、靈龜、養老、神龜、天平、天平感寶、天平寶字、神護景雲、天應、嘉祥、齊衡、天安等アリ、
p.0276 老人星改元例
延喜〈◯中略〉
天變改元例
康保 天延 天元 永祚〈彗星〉 正暦 長徳 寛弘 長久 天喜 治暦〈三合〉 永長 承徳 長治 嘉承〈彗星〉 天永〈同上〉 永久 元久 保延 久安〈彗星〉 久壽 永暦 永萬 承安 治承〈三合〉 壽永 文治 建久 建保 承久〈三合〉 元仁 貞永 文暦 嘉禎 暦仁 延應 仁治 建長 永仁 嘉元 徳治 正和 嘉暦
地震改元例
天慶 康保 天延 貞元 永祚 寛弘 長久 永長 承徳 康和 文治 建保 貞永 嘉禎 仁治 正元 永仁 文保
炎旱改元例
天徳 永觀 長保 長元 寛徳 治暦 嘉元
風災改元例
正暦 仁平 貞永 正中
水災改元例
延長 天徳 長保 保延 仁平 貞永 正中
火災改元例p.0277 應和 貞元 永觀 康平 治承 正嘉
兵革改元例
永久 永暦 壽永
疾疫改元例
延長 長徳 長元 寛徳 康和 永久 長承 保延 壽永 嘉祿 正元 弘安 應長 嘉暦 元徳
疱瘡改元例
承暦 嘉保 大治 應保 長寛 安元 建永 承元 安貞 康元 康永
飢饉改元例
壽永 正元
怪異改元例
天徳 永久 長承 寛喜
御愼改元例
天元〈陽五〉 保安〈暦運〉 久壽〈同〉 永萬 承安〈太一〉 建久〈厄運〉
p.0277 延文四年八月廿六日、自二内裏一被レ下二御書一、依二炎旱一可レ有二改元一哉否、〈◯中略〉追勘依二旱魃一改元例、
延長元年(醍醐)〈延喜廿三年閏四廿一日、旱魃疾疫、〉 永觀元年(圓融)〈天元六年二月十六日、旱魃内裏火事、〉 長元元年(後一條)〈萬壽五年七月廿五日、疾疫炎旱、〉 寛徳元年(後朱雀)〈長久五十一廿四、炎旱疾疫、〉 治暦元年(後冷泉)〈康平八八十二、旱魃三合御愼、〉 承暦元年(白川)〈承保四十一十七、疱瘡旱魃、〉 天承元年(崇徳)〈大治六正廿九、炎旱洪水天變、〉
p.0277 嘉〈◯山崎闇齋〉按、革命勘文、蔀首有二法二一焉、一神武天皇元年、此至當之法也、一黄帝十九年、此無稽之言也、且勘文有下本朝奚取二法異邦一之議上、尤爲二格論一矣、或謂用二易卦金革之義一、猶之可也、或謂用二素
p.0278 問三合爲一レ治、此勘文所レ不レ道、而三合不レ限二于辛酉一也、
p.0278 改元
改元記に、三善清行論二革命一議状、清行請二改元一議状、革命勘文等をのせ、辛酉の歳に改元あることを説きて、西土にても辛酉に改元ありしことを載す、其文左の如し、昌泰四年三月重奏云、革命之歳宜レ改二年號一、其奏在レ別、朝廷信納、乃改元爲二延喜一、無レ幾唐人盧知遠來云、辛酉之年正月十六日、大唐有二劉庸均之亂一、宮中候屍數千人、數日乃定、改レ年爲二天福一、即知天地災祥之會、出レ自二卦象之中一、猶三四時代謝、日月出入、皆有二定期一也、敦書按ずるに、天福は五代石晋の年號にして、辛酉の歳にあらず、其上延喜は唐の昭宗の大復にあたれば、改元記年號を書き誤るとみえたり、
p.0278 余生二延寶八年庚申一、明年辛酉、改二元天和一、其四年甲子、改二元貞享一、貞享之後五改元、曰元祿、寶永、正徳、享保、元文也、元文之六年辛酉、又改二元寛保一、其四年甲子又改二元延享一、聞レ之、曰日本博士家、謂(○)二辛酉年(○○○)一爲(○)二革命(○○)一、甲子年爲(○○○○)二革令(○○)一、皆必改元、自二前世一如レ是、東涯秉燭談曰、嘗於二搢紳家一得レ見二一條藤公兼良三革説一、其中三善清行易説、而載二漢鄭玄唐王肇等説一甚詳、大意本周易革卦義曰、詩緯唯慶災、曰戊午革運、辛酉革命、甲子革政、又易緯曰、辛酉爲二革命一、甲子爲二革令一、蓋革卦有二湯武革命之言一、而鐵緯家因造二此妄説一曰、純按、孝徳天皇即位元年乙巳號二大化一、此日本年號之始也、六年庚戌改二元白雉一、齊明天智並無二年號一、天武即位元年壬申號二白鳳一、十五年丙戌改二元朱鳥一、持統無二年號一、文武即位初亦無二年號一、五年辛丑改二元大寶一、其四年甲辰改二元慶雲一、自レ是之後不二復有一レ無二年號一、凡自二神武一至二皇極一未レ有二年號一、亦無二改元一、孝徳之後、齊明天智持統又無二年號一、亦無二改元一、文武以後毎世數改元、然辛酉甲子未二必改元一、元正養老五年辛酉不二改元一、八年甲子聖武即位改二元神龜一、光仁寶龜十二年辛酉、改二元天應一、桓武延暦三年不二改元一、仁明承和八年辛酉、十一年甲子、皆不二改元一、醍醐昌泰四年辛酉、改二元延喜一、其四年村上天徳五年辛酉、改二元應和一、其四年甲子、改二元康保一、自レ是以下毎レ過二辛酉甲子一輙改元、唯正親町永祿四年辛酉、七年甲
p.0279 子、後水尾元和七年辛酉不二改元一、莫レ知二其故一、以レ此觀レ之、博士家革命革令之説、蓋起二於村上時一也、或曰、神武開レ國、以二辛酉一即二天皇之位一、故後世亦必以二辛酉一改元、甲子干支之首、故亦必改元、未レ知二然否一、
p.0279 革命紀元
此邦辛酉甲子の歳運に當るときは、必紀元すといふ事、兼良公の三革説にも見えたれど、何れの御世よりいひ出だしヽことにか、日本紀に神武帝辛酉年春正月、天皇即二帝位一、故に辛酉の年必紀元すといふは、其理當れり、甲子に必改元すといふは、いかなる義にか、詩緯推度災に、戊午革運、辛酉革命、甲子革政といふに據るにや、されども年號定まりて遙か以後にいひ出だしヽ事ならむ、大化以前の異年號も、始終定かならざれど、欽明帝の明要と、推古帝の願轉、齊明帝の白鳳とのみ、辛酉に紀元ありしと見ゆ、甲子の紀元は未見えず、年號定紀の大寶も、辛丑の年に紀元ありて、辛酉は改元なし、聖武帝の辛酉甲子とは改元ありて、桓武帝の甲子と、仁明帝の辛酉は改元なし、醍醐帝の辛酉は、改元ありて甲子はなし、村上帝の辛酉應和、甲子康保より、後柏原帝の文龜永正まで、五百四十三年のあいだ、辛酉甲子ともに皆改元ありて、正親町帝の辛酉甲子はともに改元なし、後水尾帝の甲子は改元ありて辛酉はなし、靈元帝の天和貞享より、當今にいたるまで改元あり、然らば辛酉甲子は、必改元すといふ定法とも見えず、帝王編年紀云、延喜二十三年、昌泰四年七月十五日改元、依二辛酉革命老人星一也、孔隺經御修法記云、土御門天皇建仁元年二月廿一日壬寅、修二孔雀經法于閑院一禳二辛酉厄一、〈建仁元年は辛酉〉此等の記を考ふるに、神武帝御即位の辛酉を必定法則とし、紀元すとも見えず、老人星辛酉厄などいふは、緯書佛氏等のいふ説にて、人君體レ元以居レ正、元年を稱する大法にあらず、勿論辛酉甲子の改元は、漢人定法なき事なり、緯書の類はとらず、王俊川曰、緯書多以二三字一爲レ名、〈中略〉皆異端邪術之流、假二託聖經一以售二邪誣之説一、其書今雖レ不レ存、而類書引用尚多、終惑二後學一、〈見二瑯琊代酔一〉王者の大義法則を取るの書にあらず、改レ元立レ號は國家第一の大義にて、劉炫曰、唯p.0280 王者然後改レ元立レ號、〈見二左傳疏一〉漢人紀元の法に傚はヾ、緯書佛氏等、異端冥妄の説取るに足らざるなり、
p.0280 辛酉は革命とて、いみじうあしかる年とぞ、何事のあらむとすらむ、ゆヽしき事也、それも運によりてあたらぬこともありとぞ、諸道の勘文をめさるといふ、ことし〈◯享和元年〉はあたれりやあたらずや、きかまほし、寺々にも仰事ありて、御祈どもありときくはいみじう尊し、其みす法の名、金門鳥敏、々々々々とは、カノトノトリノトシといふ事なりとぞ、まことにやあらん、はかなたち戲にちかくて、御法の尊くめでたかるべきには打あはぬこヽちす、例なれば改元あるべし、寛政といふ年號、政の字はじめて用られつるに、十三までつヾきて、造内裏以下よき事のかぎりなりつれば、めでたき例にぞなるべき、辛酉の改元は、延喜の度をはじめとす(○○○○○○○○○○)、清行の宰相の勘奏によられたる也、さるは易緯に、辛酉爲二革命一、甲子爲二革令一とありて、鄭玄が説に、天道不レ遠、三五而變、六甲爲二一元一、四六二六交相乘、七玄有二三變一、三七相乘、廿一元爲二一蔀一、合千三百廿年とあるによりて、神武天皇元年を一蔀の首として、齊明天皇六年庚申まで千三百廿年、天智天皇即位の年〈齊明天皇八年〉の辛酉を第二の蔀首として、昌泰三年まで二百四十年、四六相乘の數みちて、延喜元年は大變革命の運なりとぞ、もし此説によらば、今年〈◯享和元年〉は第四の四六よりは六十年おくれ、第三の蔀首よりは百八十年さきだちて、大變の運にはあたらぬにやあらむ、諸道の勘答はいかヾあらん、いぶかしきことなり、さてかの善家の革命勘文に、明年辛酉、當二帝王革命之期、君臣剋賊之運一云々、又北野の右大臣とておはしましヽに書たてまつりて、明年辛酉、運當二變革一、二月建卯動二干戈一、遭レ凶衝レ禍、雖レ不レ知二誰是一、引レ弩射レ市、當レ中二薄命一云云、伏冀知二其止足一、察二其榮分一、擅二風情於烟霞一、藏二山智於丘壑一、後世仰視不二亦可一乎、努々力々、勿レ忽二鄙言一とあり、やがてその辛酉の正月に、北野の御事をあしざまに申せるものありて、左遷し玉へるは、まことに掌をさすがごとく、あさましきまでなむ、神武天皇元年を辛酉とさだめたるがうきたる
p.0281 うへに、鄭註などもうきたる事のやうにて、何のしるしかはあらむとおもひあなづらるヽ事なるに、かうまさしくいひあてたるは、まことにいみじき博士なりけり、
p.0281 寛政十三年〈◯享和元年〉正月十四日辛卯、自二葉室頭辨一被レ送二迴文兩通一、〈◯中略〉來月五日、革命改元定、出御、可レ被二早參一候也、 正月七日、花押、〈◯中略〉辛酉革命、甲子革令之節者、條事定爲二別日一、早參兩日也、仍參陣、上卿以下所役諸司并調進物、及早參四五位職事、皆兩度下行被二宛行一、拜受有レ之也、
p.0281 依レ事改元例〈◯中略〉 依二辛酉一
延喜〈今年老人星見〉 應和 治安 永保 建仁 弘長 元亨
p.0281 革命改元例
延喜 天慶 應和 治安 永保 建仁 弘長 元亨 永徳 嘉吉
◯按ズルニ、天慶ハ革命改元ニ非ズ、而シテ革命ニヨリテ改元セシ例ハ、此他尚ホ永保ノ後ニ永治アリ、永徳ト同年ニ南朝ニハ弘和アリ、嘉吉ノ後ニ文龜、天和、寛保、享和、文久等アリキ、
p.0281 論二革命議一書〈清行 昌泰二年〉
預論二革命議一
臣清行言、天道玄遠、聖人所二以罕言一、暦數幽微、緯候以レ之爲レ誕、由レ是學レ之者若二迂遠一、傳レ之者似二憑虚一、端賜歎二其難一レ聞、君山疑二其妄作一、然而神經怪牒、雖レ薀二藏於蟫蠧之奧一、易象爻變、猶照二爛於韋竹之編一、故敢以二榮爝一仰添二烏暉一、臣某死罪々々、臣竊依二易説一而案レ之、明年二月、當二帝王革命之期、君臣相剋賊之運一、凡厥四六二六之數、七元三變之候、推二之漢國一、則上自二黄帝一下至二李唐一、曾无二毫釐之失一、考二之本朝一、則而上自二神武天皇一、而下至二于天智天皇一、亦無二分銖之違一、然則明年事變、豈不レ用レ意乎、伏惟陛下、誠雖二守文之聖主一、旣當二創草之期數一、故即位之始、遇二朔旦冬至之慶一、改元之後、頻呈二壽星見レ極之祥一、長星垂二掃レ舊之祥一、衆瑞表二照レ新之應一、天數改運、人情樂推、旣昭二彰於視聽之間一、何遑レ假二説於占候之術一、但變革之際、必用二干戈一、蕩定之p.0282 中非レ無二誅斬一、何者帝王革命、此周易革卦之變也、案、革卦離下兌上也、離爲レ火兌爲レ金、金雖レ有二從革之性一、非レ得レ火則不レ變、故金火合體、上下相害、戕蕩之理已窮、君臣之位初定、國之不祥、無レ甚二於此一、伏望聖鑒豫廻二神慮一、勅上厲二群臣一、戒嚴警衞、仁恩塞二其邪計一、矜莊抑其異圖二青眼於近侍一、推二赤心於群雄一、則封豕之徒、自然革レ面、食椹之美、終成二好音一、撥レ亂之時、垂二其衣裳一、即レ戎之運、鳴二其環珮一、豈不レ美哉、臣聞機祥難レ辨、靈易レ迷、獻二其丹疑一、雖レ望二飮於白虎之槽一、驗二其玉英一、恐レ負二責於黄龍之瑞一、清行誠恐誠惶頓首謹言、
昌泰三年十一月廿一日 從五位上行文章博士兼伊勢權介三善宿禰清行
p.0282 奉二菅右相府一〈◯道眞〉書
善相公
清行頓首謹言、交淺語深者妄也、居レ今語レ來者誕也、妄誕之責、誠所二甘心一、伏冀尊閤特降二寛容一、某昔遊學之次、偸習二術數一、天道革命之運、君臣剋賊之期、緯候之家、創二論於前一、開元之經、詳二説於下一、推二其年紀一、猶如レ指レ掌、斯乃尊閤之所レ照、愚儒何言、但離朱之明、不レ能レ視二睫上之塵一、仲尼之智、不レ能レ知二篋中之物一、聊以二管穴一、伏添二槖籥一、伏見明年辛酉、運當二變革一、二月建卯、將レ動二干戈一、遭レ凶衝レ禍、雖レ未レ知レ誰、是引レ弩射レ市、亦當レ中二薄命一、天數幽微、縱難二推察一、人間云爲、誠足二知亮一、伏惟尊閤挺レ自二翰林一、超昇二槐位一、朝之寵榮、道之光華、吉備公外無二復與一レ美、伏冀知二其止足一、察二其榮分一、擅二風情於煙霞一、藏二山智於丘壑一、後生仰視、不二亦美一乎、努力努力、勿レ忽二鄙言一、某頓首謹言、
昌泰三年十月十一日 文章博士三善朝臣清行
p.0282 文章博士三善宿禰清行謹言
請三改レ元應二天道一之状
合證據四條
一今年當二大變革命年一事
易緯云、辛酉爲二革命一、甲子爲二革令一、鄭玄曰、天道不レ遠、三五而反、六甲爲二一元一、四六二六交相乘、七元有二三p.0283 變一、三七相乘、廿一元爲二一蔀一、合千三百廿年、 春秋緯云、天道不レ遠、三五而反、宋均註云、三五、王者改レ代之際會也、能於二此源一、自新如レ初、則道无レ窮也、 詩緯云、十周參聚、氣生二神明一、戊午革運、辛酉革命、甲子革令、注云、天道卅六歳而周也、十周名曰二王命大節一、一冬一夏、凡三百六十歳一畢無レ有二餘節一、三推終則復レ始、更定二綱紀一、必有二聖人一、改レ世統理者如レ此、十周名曰二大剛一、則乃三期會聚、乃生二神明一、神明乃聖人改レ世者也、周文王戊午年、决二虞芮訟一、辛酉年、青龍銜レ圖出レ河、甲子歳、赤雀銜二丹書一、而聖武伐レ紂、戊午日軍渡二孟津一、辛酉日作二泰誓一、甲子日入二商郊一、
謹案、易緯、以二辛酉一爲二蔀首一、詩緯以二戊午一爲二蔀首一、依下主上以二戊午年一爲二昌泰元年一、其年又有中朔旦冬至上、故論者或以爲應下以二戊午一爲中受命之年上、然而本朝自二神武天皇一以來、皆以二辛酉一爲二一蔀大變之首一、此事在未出之前天道自然符契、然則雖レ有二兩説一、猶可レ從二易緯一也、又詩緯以二十周三百六十年一爲二大變一、易緯以二四六一爲二大變一、二説雖レ殊、年數亦同、
今依二緯説一、勘二合和漢舊記一、神倭磐余彦天皇、從二筑紫日向宮一、親帥二船師一東征、誅二滅諸賊一、初營二帝宅於畝火山東南地橿原宮一、辛酉春正月即位、是爲二元年一、〈當二於周釐王三年一、齊桓公始覇主、會二諸侯於鄄一、事見二史記表一、〉四年甲子春二月、詔曰、諸虜已平、海内無レ事、可二以郊祀一、即位二靈畤於鳥見山中一、其處號曰二上小野榛原、下小野榛原一云、〈是年周惠王即位元年、齊桓公帥二諸侯一伐レ蔡、蔡潰、遂伐レ楚、至二召陵一、責二苞茅一、此即桓公兵車第一之會也、〉
謹案二日本紀一、神武天皇、此本朝人皇之首也、然則此辛酉、可レ爲二一蔀革命之首一、又本朝立レ畤下レ詔之初、又在二同天皇四年甲子之年一、宜レ爲二革令之證一、〈◯中略〉
今年辛酉〈昌泰四年也〉
謹按、自二天智天皇即位辛酉之年一、至二于去年庚申一合二百卌年、此所レ謂四六相乘之數已畢、今年辛酉、當二於大變革命之年一也、又天智天皇以來、二百卌年之内、小變六甲、凡三度也、自二天智天皇即位辛酉一、至二于日本根子高瑞淨足姫天皇〈◯元正〉養老五年辛酉一合六十年、其年五月、日本根子高瑞淨p.0284 足姫太上天皇崩、然猶文武天皇不二改元一、至二于七年甲子一、初改元爲二神龜元年一、其後六十年、天應元年辛酉夏四月、白壁天皇不豫也、桓武天皇天應元年四月三日受禪、同日即位、十二月廿日太上天皇崩、其後承和八年辛酉無二異事一、但自二承和七年庚申淳和太上天皇崩、九年壬戌嵯峨太上天皇崩一、又廢二皇太子一、以二文徳天皇一爲二皇太子一、其後六十年、至二于今年辛酉一也、但唐暦以後、無二唐家之史書一、仍不レ得レ勘二合近代之事變一、〈清行〉去年以來、陳下明年當二革命一之年上、至二于今年一、徴驗已發、初有レ知、天道有レ信、聖運有レ期而已、
一去年秋彗星見事
謹案二漢晋天文志一、皆云彗體無レ光、傳二日光一爲レ光、故夕見則東指、晨見則西指、皆隨二日光一而指レ之、此除レ舊布レ新之象也、
一去年秋以來老人星見事
謹案二顧野王符瑞圖一云、老人星也、直孤星北地有二一大星一、〈晋灼曰也〉是爲二老人星一、見則治平主レ壽、常以二秋分一候二之南郊一、〈見二春秋元命苞一〉春秋運斗樞曰、機星得二和平一合、萬民壽、則老人星臨レ國、〈宋均曰、斗徳應二於人一者也、〉文耀鈞曰、老人星見則主安、不レ見則兵起、熊氏瑞應圖曰、王者承レ天得レ理則臨レ國、晋武帝時老人星見、太史令孟雄以言、元帝大興三年、老人星見、四年又見、今如二此文一者、老人星、聖主長壽、萬民安和之瑞也、而今先有二除レ舊之象一、後有二福壽之瑞一、首尾相待、事驗易レ知、
一高野天皇改二天平寶字九年一、爲二天平神護元年一之例、
謹案二國史一、高野天皇天平寶字九年、誅二逆臣藤原仲麿一、即改元、爲二天平神護一、然則非二唯天道之符運一、又有二先代之恒典一也、當今之事、豈不レ仍二舊貫一乎、
臣伏以、聖人與二二儀一合二其徳一、與二五行一同二其序一、故天道不レ疾而速、聖人雖レ靜而不レ後レ之、天道不レ遠而反、聖人雖レ動不レ先レ之、况君之得レ臣、臣之遇レ君者、皆此天授、曾非二人事一、義會二風雲一、契同二魚水一、故周文之遇二呂尚一、p.0285 兆出二玄龜一、漢祖之用二張良一、神馮二黄石一、方今天時、開二革命之運一、玄象垂二推始之符一、聖主動二其神機一、賢臣决二其廣勝一、論二此冥會一、理如二自然一若更存二謙退一、必成二稽疑一、欝二此改元之制一、抑二彼創統之談一、則恐下違二天意一還致中咎徴上、伏望、因二循三五之運一、咸會二四六之變一、遠踐二大祖神武之遺蹤一、近襲二中宗天智之基業一、當下創二此更始一、期二彼中興一、建二元號於鳳暦一、施中作解於雷聲上、〈清行〉機祥難レ辨、靈憲易レ迷、獻二其丹款一、雖レ望二飮於白虎之槽一、驗二其玉英一、恐レ負二責於黄龍之瑞一、清行〈臣〉誠恐誠惶頓首謹言、
昌泰四年二月廿二日 從五位上行文章博士兼伊勢權介三善宿禰清行上
p.0285 甲子會紀
村上天皇康保元年甲子〈至二四年丁卯一、今按、辛酉改元始二於延喜一、甲子改元始(○○○○○)二於康保(○○○)一、◯中略〉
正親町帝永祿七年甲子〈不二改元一、至二十二年己巳一、〉
p.0285 依レ事改元例〈◯中略〉 依二甲子一
萬壽 應徳 天養 元久 文永
p.0285 革令改元例
康保 萬壽 應徳 天養 元久 文永 至徳 文安
◯按ズルニ、革令改元ノ例ハ、此他尚ホ文永ノ次ニ正中アリ、至徳ト同年ニ南朝ニハ元中アリ、文安ノ後ニ永正、寛永、貞享、延享、文化、元治等アリキ、
p.0285 年號改元の式、戰國擾亂の時、故實の家名記多く亡て、〈賢按、是元龜應仁の亂後、〉古法陵夷し、元和の頃までは異朝の年號を取用ひて、勘文の御沙汰もなかりしにや、寛永以來舊にかへりしも、大平のすがた也、〈元和改元の時まで、地下の學者も庭上に參りしが、故ありて今はさる事なしとかや、〉
◯按ズルニ、應仁以後、異朝ノ年號ヲ用ヰシコト、唯元和アルノミナリ、此説誤レリ、
p.0285 抑年號と申は、天子即位は則元年として、往古は無二年號一處、中古年號始まりしより以
p.0286 來如レ斯、春秋胡氏傳曰、即位之一年、必稱二元年一者、明二人君之用一云々、亦曰、成二位乎其中一、則與二天地一參、故體レ元者、人君之職也云々、易曰、徳之首曰レ元云々、御年號、即位、改元には無レ赦、臨時之改元には赦必有レ之也、臨時之改元は、御所方關東凶事而已續くか、五穀不熟、萬民疫疾か、上下厄難に依て、天子の不徳と一人の御身に引受させ給ひ、御位を改らるヽ御心にて、年號を被レ改故、改元と申也、元は畢竟天子の御身之上也、然れば下々として、改元あらば不レ宜など、假初にも申べき事にあらず、可レ謹可レ恐なり、扨菅家年號被二撰出一法は、六十四文字、本字は近代増字二十四字、上下に顚倒して字を雙也、書經魯論之熟字に符合させ被二書出一事也、改元に付て、上卿、職事、奉行之役三人、撰者方之陳答人五六人、難問人五六人被二仰付一、尤菅家出入之儒門之被官、其外町宅之庸儒も入込候て骨折事也、假令ば、
寛和 享和 正徳
難問人の云く、享之字上に有事何ケ度、和之字下に有事何ケ度、和漢兩朝嘉例凶例申立て難ず、夫を唯佳例のみの多きを申立て陳答する也、左右大臣、大中納言判じて、衆義判の後、奏聞を經られ候、凡三ツ斗書被レ成候、其砌は改元難陳之次第とて、撰者、出處、難問、陳答、批判迄、一册に書立、堂上堂下にて賞見仕事也、又大意事極り、關東へも被レ伺候、禁中にて是と究りても、關東より彼と申來り候へば、替候事も候、中御門院御即位改元被二仰付一候刻、御書通御座候、
一翰致二啓達一候、今般年號改元ニ付、菅家任レ例選出之候別紙書付之内、寛和之號可レ然御内慮ニ候、依レ之左右丞中〈江〉も勅問有レ之候處、同意之趣勅答之御事候、右之趣宜レ有二言上一候、恐々謹言、
月日失念 重條〈庭田前大納言殿〉 保春
土屋相模守殿 秋元但馬守殿 大久保加賀守殿 井上河内守殿 阿部豐後守殿
如レ斯被二仰遣一候處、從二關東一御返書到來せり、p.0287 貴翰致二拜見一候、今般年號改元ニ付、菅家任レ例選出之候別紙書付之内、寛和之號可レ然叡慮之旨、左右相丞中〈江茂〉勅問有レ之候處、勅答同意之趣、于レ具達二上聞一候處、正徳之號可レ然思召候、右之通遂二奏聞一、宜レ有二御沙汰一候、恐惶謹言、
阿部豐後守〈正喬〉 井上河内守 大久保加賀守 秋元但馬守 土屋相模守〈諱書判〉
高野大納言殿 庭田前大納言殿
如レ斯御奉書御返事ニテ、御沙汰替りて正徳之年號被二仰付一候、文昭院様御代也、
p.0287 凡年號は、朝廷の命ずる者にして、武將の預る處にあらず、然れ共當時國柄武家に在を以て、朝廷これを武家に議して、後天下に行はる、故に實は朝家の定むる所といへども、天下に行ふものは、武家の令に出るを以て、鎌倉これを奉ぜざるに至る也、正長二年改めて永享とす、鎌倉これを用ひず、正長の號を行ふ事三年にして、後に永享に從ふ、〈神明鏡に出たり〉
p.0287 我朝の今に至りて、天子の號令、四海の内に行はるヽ所は、獨年號の一事のみにこそおはしますなれ、異朝の書にも、其事を論ぜし事も見えたり、古より此かた、我朝改元の例は、代始め、又は革命、革令、三合、天變、地妖、水旱、疾疫、兵革、飢饉等の事によれり、武家の代となりしより後も、武家の御事によりて此事ありし例はいまだ聞ず、其中一二の疑ふべきことあるをもて、或は又其事ありなど申べきにや、その事又辨ぜざる事を得べからず、建久十年正月十三日、前右大將頼朝薨じ給ひ、此年四月十一日改元ありて正治と號す、是は土御門院御代始によれる也、建保二年正月廿七日、右大臣實朝弑せられ給ひ、此年四月十三日改元ありて承久と號す、是三合并天變地妖によれるなり、貞治六年十二月七日、寶篋院義詮薨じ給ひ、明年二月廿七日改元應安と號し、長享三年三月廿六日常徳院義尚薨じ給ひ、此年八月廿日改元延徳と號す、是は兵革天變の事
p.0288 によれるなり、此外應永三十五年正月十一日、勝定院義持薨じ給ひ、此年二月九日に改元正長と號す、是稱光院御代始によれり、是より先應永十五年正月六日、鹿苑院義滿薨じ給ひ、同三十二年二月十七日、長徳院義量薨じ給ひしかど、改元ありしにもあらず、又嘉吉三年七月廿一日、慶雲院義勝薨じ給ひ、四年二月五日改元文安と號す、是兵革によれり、是より先嘉吉元年六月廿四日、普光院義教弑せられ給ひしかど、改元有しにはあらず、是ら其疑ふべき所なれど、武家の御事によらざる事旣にかくのごとし、然るを今前代の御事によりて、正徳の號を改めらるべき由を以て仰られんに、もし上の人々是等の例によりて議し申さるヽ事ありなんに、いかにや侍ふべき、たとひ又それらの事に及ばずして、仰らるヽ所によられて、改元の事おはしますとも、天下後代有識の君子議し申事あらんには、當時補佐の人々の瑕瑾におはしますまじきにもあらず、是等の間よく〳〵後議定に過べからずと申たりければ、詮房朝臣いかにやはかられたりけん、此事もまた行はれずぞなりける、
p.0288 改二年號一
京内詔書出後、不レ待二覆奏一用レ之、御即位後明年改二年號一、仁和天皇崩三年改元、
大臣奉レ勅、仰二文章博士一、令レ勘二申年號一奏聞、勘定之後、仰二内記一、令レ作二詔書一、奏二草及清書一、賜二御畫日一下二中務一、中務度二案於太政官一、太政官連署、大納言覆奏畢、下二施行官符一、康保年號、以二舊勘申年號一被レ改レ之、
延長年號、博士所レ進字不レ快、有レ勅以二文選白雉詩文一被レ改、〈閏月改レ之、延喜元年八月廿九日、改元之由告二神明一、〉
p.0288 改元事
大臣參レ陣奉レ仰、〈或於二里第一奉レ之實資例、〉仰二式部大輔文章博士等一、令レ勘二申年號字一、〈召レ陣可レ仰之、近例或令二外記一傳仰、〉可レ被二改元一日、大臣參レ陣定申、〈先仰二外記一、令レ催二諸卿一、〉著二外座一令レ置二膝突一、外記進二勘文一、先乍レ居二陣座一、令三藏人奏二勘文等一、次蒙下可二定申一之仰上、諸卿共定申、次令二大辨讀一レ之、定二兩三一奏レ之、〈付二藏人一令レ奏〉重被レ仰下此中可レ用二何年號一哉由上、勘文留二御所一、又令レ奏二一p.0289 定一、〈或依二諸儒所レ進不一レ快、自二御所一被レ給、延長、天暦、康保等例也、〉次被レ仰下可レ令レ作二詔書一由上、〈仰詞中、被レ仰下依二其例一由上、代初無レ赦、自餘多有二赦之例一、代々不レ同、〉大臣召二内記一仰二其由一、〈若無二内記一者、令二儒者之辨作一レ之、先奏二其由一、辨副レ笏進レ之、上卿入二外記筥一奏、〉次奏レ草、〈入二外記筥一、殿上辨作時、令二外記内覽一、〉次奏二清書一、〈黄紙〉奏下後、可レ披二見御畫日有無一、次令三外記召二中務輔若丞一給レ之、〈乍レ入レ筥給レ之歟、若丞不レ候者、令三外記傳二給録一、希有例也、〉次被レ下二吉書一、〈先官方、次藏人方、〉
詔書覆奏以前、京官用二新年號一、諸國者官符後用レ之、其施行官符、給二京官一二通者、不レ謄二詔書一、給二諸國一八枚者、謄二詔書一、
勘申年號事
〻〻
其書曰〻〻
〻〻其書曰〻〻
右依二宣旨一勘申如レ件
官兼官姓朝臣名
菅家者註二年月日位等一
餘人者如二江家儀一
若有レ赦之時
非常赦者、大臣召二撿非違使佐以下一人一、仰下詔書施行以前可レ免二見徒一由上、佐召二撿非違使等一、相分向二左右獄一、佐或帶二胡籙一、乘レ馬立二於獄門一、召二出囚等一、仰二之看督長一作法、佐仰云、依二其事一、〈若其變〉殊以免給、各罷二還本貫一、重犯不二奉仕一、爲二公御財一御調物備進〈禮、〉看督長曰、乎々〈止、〉囚等稱唯、佐仰曰、早 取〈禮、〉常赦者、別當奉レ之、令三道志勘二申可レ會レ赦之輩一後免レ之、
詔云p.0290 其改二〻〻何年一爲二〻〻元年一、宣政、〈宇文巳日〉廣運、〈軍走〉隆化、〈降死〉大象、〈大人象〉大業、〈大苦末〉元享、〈二月七日〉天正、〈天一止〉元始、〈不吉〉天漢、〈漢字宜水〉治暦又因二件例一、
p.0290 一改元
代始改元、即位次年定事也、其外依二大事一有二改元一、職事、官外記等承レ之、兩文章博士式部大輔、又可レ然儒卿、少々擇申、諸卿於レ陣定申、職事奏二事由一、重可二定申一被レ仰、或有二論言一、定以前職事奏二勘文一、有二御覽一返給、年號字内可レ然年號無レ之時、舊勘文被レ下常事也、寛治度被レ申レ院、近代毎度如レ斯、嘉保自レ上被レ定歟、年號定之後、主上於二朝餉一令レ書給、其儀無二別事一、高檀紙書二年號字一、〈一枚也〉其後萬人可レ書也、承暦元年也、〈不レ書二月日一、唯年號バカリ也、元年字書也、〉次主上著二御引直衣一、〈張袴〉出二御晝御座一、有二吉書一、官方、〈辨〉藏人方、〈頭〉自二南間一奏レ之、主上取レ之置二御前一、復座後披二覽之一、置二御座前一、〈文下向二御方一異二大臣一〉給レ之如二例吉書一、一切奏書時、出二御清凉殿一、而近代略儀皆於二朝餉一有レ之、於二改元吉書一者、可レ有二必出御一也、延久元年、依レ入レ夜於二朝餉一奏レ之、希代例也、承保元年、出二御中殿一、又大内記作二詔書一、先草、次清書、改元後必有レ赦也、
p.0290 改元事
公卿議奏了、改二其年一可レ爲二其元年一之由被レ定、上卿召二内記一、仰下依二其年例一可レ作二詔書一之由上、草二清書一、〈有二御畫一〉内覽奏下之後、召二中務輔一給レ之、代始無二恩赦一、但承和天祿二代有二此事一、自餘有二常赦一、隨二休徴變異一、被レ仰二其年例一、或有二賑恤一、或免二調庸一、清凉記云、踐祚明年、有二改元事一、年内改レ元非レ禮、誤也、〈已下虫損〉
p.0290 新儀式云、踐祚明年有二改元事一、〈年内改元非レ禮、誤也、〉預先大臣奉レ仰、召二文章博士二人一、令レ勘二申年號字一、奏聞、勅定下給、又大臣令下内記作中詔書上、先奏二其草一、次獻二清書一、御畫日畢、下二所司一、納言覆奏之事、皆同二他詔書一、〈或詔末曰二赦免一〉又或據二嘉瑞一、或以二變動一、一代之間再有二改元一、其儀亦進レ之、此詔相二加赦免一、或賑レ之、
p.0290 明和九年十一月十六日條事定(○○○)次第
p.0291 上卿著二仗座一、諸卿次第著陣、次上卿令三官人敷二膝突一、次以二官人一召二外記一、問二諸卿參否一、次令三官人召二寄文書一、次諸卿見二下文書一、次上卿令二參議讀申一、次上卿仰下可二定申一之由於最末參議上、次逆上定申、次上卿仰二參議一令レ召レ硯、次上卿仰二參議一令レ書二定文一、書訖讀申、次參議加二定文於本解一進二上卿一、次上卿披二見定文一、次上卿令下官人仰中可レ持二參筥一之由於外記上、次以二官人一招二職事一、奏聞、畢返給、次以二官人一召レ辨下二文書一、次以二官人一召二外記一令レ撤二空筥一、次參議令レ撤レ硯、
改元定(○○○)次第
先職事下二年號勘文一、上卿結申、職事仰二仰詞一、次諸卿見二下勘文一、次上卿仰二參議一令レ讀レ之、次上卿仰下可二定申一之由於最末參議上、次諸卿定申、此間取二傳勘文一返二進上卿一、次上卿以二官人一招二職事一奏聞、此便返二上勘文一、次職事歸來、仰下一同可二定申一之由上、次上卿令二諸卿議定一、〈此間召二留職事一〉議定畢奏聞、次職事歸來、仰下改二其年一可レ爲二其元年一、并詔書恩赦等事上、次上卿以二官人一召二大内記一、仰二詔書之趣一、次内記持二參詔書草一、入レ筥、上卿披見、次上卿以二官人一招二職事一奏聞、畢返給、仰下可レ令二清書一之由上、次上卿以二官人一召二内記一、仰下可二清書一之由上、次内記持二參清書一、入レ筥、上卿披見、次上卿就二弓場代一、職事奏聞、畢返給、次上卿復二仗座一、内記置レ筥退入、次上卿以二官人一召二外記一、問二中務輔參否一仰二可レ召之由一、次中務輔參二膝突一、賜二詔書一、次上卿以二官人一召二内記一、令レ撤二空筥一、次上卿以二官人一召二外記一、問二靫負佐參否一、仰二可レ召之由一、次靫負佐參二膝突一、上卿仰二赦事一、次辨覽二吉書一、上卿披見、奏聞畢返給、上卿結申、辨仰二仰詞一、次内記持二參請書一、入レ筥、上卿披見、次上卿就二弓場代一、職事奏聞、畢返給、次上卿復二仗座一、内記置レ筥退入、次上卿以二官人一召二外記一、問二中務輔參否一、仰二可レ召之由一、次中務輔參二膝突一、賜二詔書一、次上卿以二官人一召二内記一、令レ撤二空筥一、次上卿以二官人一召二外記一、問二靫負佐參否一、仰二可レ召之由一、次靫負佐參二膝突一、上卿仰二赦事一、次辨覽二吉書一、上卿披見、奏聞畢返給、上卿結申、辨仰二仰詞一、次上卿下二吉書一、辨結申、次職事下二吉書一、上卿結申、職事仰二仰詞一、次上卿以二官人一召レ辨下レ之、辨結申、次諸卿退出、
p.0291 寛政改元之難陳翼略
p.0292 改元之大略
凡改元ニ五様アリ、所レ謂辛酉ノ歳、甲子ノ年、御即位ノ翌年、祥瑞、災異等ナリ、〈辛酉ハ神武天皇ノ御即位ノ年ナリ、俗ニ是ヲ革命ト云フ、甲子ハ干支ノ首ニシテ、共ニ其ヱトニアタルヲ、俗ニ革令ト云、〉御即位ノ年ニハ改元ナク、翌年ニ改元アル事ハ、是ヲ踰年改元ト名ヅク、其年ヲ踰テ改元アル事ハ、即位アル年ハ先帝ノ御世ノ中ナルユヘ、先帝ノ年序ヲ滿シメ奉ラルヽノ義ニテ、翌年改元アルコトナリ、〈和漢共ニ其儀同ジ〉今度ノ改元ハ、去年〈申年ナリ〉正月晦日ノ大火〈京都〉ニ因テ改元ナレバ、是災異ノ議ナリ、然シテ改元ノ式ハ、古來ヨリノ制度ヲ守ラルヽ事ナリ、〈近代元和ノ年號ニ改ラルヽ時ハ、亂世ノ始テ治リシ年ナル故、唐ノ年號字ヲ借リ用ヒテ、其式大凡ナリシコトノ由、其後寛永改元ヨリ舊式ノ如ク也ト云ヘリ、〉其式ノ事ハ江家ノ次等ニ委ク、近クハ其度々々ノ次第書ニ委クアレ共、式ノ次第ハ事永ク、殊更田舍ニテ手安ク見得ガタキニ仍リテ、今苟初ニ其趣キヲ注シテ、大概ノ次第ヲ知ラシムルナリ、先改元アルベキトノ儀定リテ後、菅家ノ衆五家ヘ宣下アリテ、年號文字ヲ作進奏上セラル、大抵一家ヨリ五號ヅヽノ作進ナリ、五家ハ今、高辻、五條、東坊城、唐橋、桑原ナリ、是菅家ハ代々儒家タルガ故也、〈外ニ清岡新家アリ〉年號ノ文字ハ、古來ヨリ五十九字ニ定リテ、其餘ノ文字ハ新字トテ容易ニハ用ヒラレザル事也、〈今度ノ寛政ノ政ノ字、是即新字タリ、〉然シテ今年ヨリ六十字ト成ル也、右勘進ノ後、公卿僉議アリテ、數多ノ號ノ中用ヒラルベキト定リタルヲ、七八號十號計モ撰ミスグリテ、夫ヲ又難陳トテ、陣ノ座ニテ衆議ノ批判アル事、別册ニ寫シタルノ文、即チ今度ノ難陳ナリ、右難陳ノ對問ノ上ニテ、改元ノ上卿、〈乃今度右大臣也、近衞家也、〉二號或ハ三號、衆議ノ宜キヲ以テ奏聞アレバ、其上ニテ一號ヲ可トシテ、宣下ノ詔書ヲ以テ定制セラルヽ由ナリ、此餘ノ作法事數多ナル由、一々筆紙ニ及ビガタシ、唯其大抵ヲ述ルナリ、〈口傳アリ〉今度ノ上卿ハ、近衞右大臣殿、其餘難陳ノ文ニ見ユルガ如シ、〈公卿夫々今略之〉p.0293 改元定メノ月日ハ、正月廿五日ナリ、當日ヨリ公家ニテハ新號ヲ用ヒラル、武家並庶民ニ至ルマデ、悉クハ於二江戸一仰出サルヽノ日限以來新年號ヲ用ユルコト也、遠國ハ又江戸ヨリ承ル事ユヘ、時日又オソキ由也、已ニ京都ノ武家町家共ニ江戸ヨリ遲シ、
p.0293 年號改元出仕之節、ふくさ麻、御法事濟一同ふくさ麻、
p.0293 改元之事
一前晩、明幾日何時御用之儀有レ之候間、登城可レ仕旨、御老中御連名御切紙來、御請使者遣レ之、當日刻限より已前登城、〈常服半襠〉年號改元之旨令二仰渡一之、
p.0293 文政十三年十月日、京都より申來、來ル十二月十日年號改元、即日恩赦被レ行之由被二仰出一、〈◯中略〉御座之間御上段(十二月十六日)、公方様、内府様御著座、御服紗小袖、御麻上下、年號之書付二包、御硯蓋ニ載レ之、加賀守越前守脇差不レ帶持二出之一、御上段〈江〉上り、公方様内府様〈江〉差二上之一退去、御前被レ遊二御覽一、此節年寄共、備前守、越前守一同出座、御目見御意有レ之、御祝儀申二上之一退去、過田沼玄蕃頭御目見申二上之一、畢而若年寄中永井肥前守、森川内膳正御目見、御祝儀申二上之一、
奉書紙
三ツ折
年號
天保
p.0293 延享元子年二月廿九日
一病氣又は幼少ニ而、今日出仕無レ之萬石以上之面々〈江〉年號改元之儀、先例之通、老中宅〈江〉使者可レ被二差越一之候、在國在所之面々は、承次第飛札可二差越一候事、〈◯中略〉
右之趣可レ被二相達一候p.0294 二月
延享元子年二月
一年號延享〈與〉改元被二仰出一候間、此旨町中不レ殘可二相觸一候、以上、
二月
p.0294 寶暦元未年十一月三日
一病氣又者幼少ニ而、出仕無レ之萬石以上之面々〈江〉、年號改元之儀、先例之通、老中宅〈江〉使者可レ被二差越一候、在國在所之面々者、承次第飛札可二差越一事、〈◯中略〉
右之趣可二相達一候
十一月
寶暦元未年十一月
年號寶暦〈與〉改元被二仰出一候間、此旨町中不レ殘可二相觸一候、以上、
十一月
p.0294 康治元年四月一日甲子、今日有下可レ撰二進年號一宣旨上、〈顯豐卿可二勘申一之由、同被二仰下一、但不レ載二宣旨一、〉
左大臣宣、奉レ勅、仰二文章博士藤原永範朝臣一、宜レ令レ撰二進年號字一者、
永治二年三月廿八日 大炊頭兼大外記助教中原朝臣師安
二日乙丑、少外記安俊向二權中納言實光卿亭一、申下可レ被レ撰二進年號字一之由上、
p.0294 建保
建暦三年十二月二日、頭辨宗行朝臣消息云、
來六日、可レ有二改元一、可下令レ撰二進年號字一給上者、依二天氣一上啓如レ件、
十二月二日 右大辨宗行〈奉〉p.0295 謹上 式部權大輔殿
請文云
來六日、可レ有二改元一、可レ撰二進年號一之由、謹所レ請如レ件、
十二月二日 式部權大輔爲長請文
三日、召使持二來宣旨一、予一人也、仍取二留宣旨一畢、
p.0295 文明十九年七月四日、來十八日、就レ可レ有二改元一、内々今日被レ召二勘文一、勘者、在治卿、在永卿、長直卿、在數、和長等也、依二妖災火災一可レ有二改元一云々、
年號事
寛祐 禮記曰——
萬和 文選曰——
康樂 崔寔政論曰——
從三位菅原長直
状云
年號勘文、先可レ被レ召之由、依レ仰進レ之候、恐々謹言、
正月四日
長直
頭左大辨殿
從三位菅原朝臣長直
左大臣宣、奉レ勅、宜レ令下件卿撰中進年號字上者、
文明十九年七月十六日
p.0295 明和九年十月廿四日勘者宣下次第
p.0296 刻限奉行職事來著二障子上坐一、家司出逢二職事一申二事由一、次主人令レ出二客亭一給、以二家司一召二職事一、次職事參進仰二仰詞一退出、此間外記參入、家司申二其由於主人一、主人仰二可レ召之由一、次外記參進、次主人仰二年號勘者事一、外記稱唯退出、次主人令レ入二簾中一給、
明和九年十月廿四日宣旨
令三文章博士菅原益長朝臣、同菅原輝忠朝臣、式部大輔菅原朝臣、右大辨菅原朝臣、大學頭菅原朝臣爲弘等、擇二申年號字一、
藏人頭左 辨藤原光祖朝臣
式部大輔菅原在家朝臣、内大臣宣、奉レ勅、宜レ令三件人撰二進年號字一者、
明和九年十月廿四日 大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師資奉
右大辨菅原世長朝臣、内大臣宣、奉レ勅、宜レ令三件人撰二進年號字一者、
明和九年十月廿四日 大外記兼 師資奉
文章博士益長朝臣、菅原輝忠朝臣、内大臣宣、奉レ勅、宜レ令三件等人撰二進年號字一者、
明和九年十月廿四日
大外記
大學頭菅原爲弘朝臣、内大臣宣、奉レ勅、宜レ令三件人撰二進年號字一者、
明和九年十月廿四日 大外記
上卿内大臣輝良公
傳奏油小路大納言隆前卿
奉行烏丸頭左大辨光祖朝臣
家司梅小路兵部權少輔定福朝臣
p.0296 ツラ〳〵本朝ノ古ヲタヅヌルニ、大化大寶ヨリ以來、改元ノ例久シ、或ハ嘉瑞ニヨリ、或
p.0297 ハ凶災ニヨリ、其趣品々也、即位ノ年ニハ改元アルコト例也、或ハ先年ノ年號ヲ用ヒテ、年ヲ歴テ改元ノ例モアリ、中古ヨリ菅家江家ノ紀傳道ノ輩、年號ノ字ヲ勘進ス、其引用ル書三十部バカリヲ限リテ、古書ニ非レバ用ヒズ、數多勘進スル中ヲ、陣ノ坐ニテ難陳ノ問答アリテ議定セルトナン承ル、
p.0297 宋眞宗時、楊大年擬二豐亨字一、上曰二爲レ子不一レ了不レ用、淳熙本作二純字一、時人有レ言、此字必改、言未レ旣而改、蓋純字有二屯字一在レ旁、慶元時先擬二隆平一、某云向來改二隆興一、時有レ人議破、以爲隆字近二降字一、今旣説破則不レ可レ用、語類載レ此、而無二判斷之言一、余謂此皆閑議論也、亨字天徳之名、純字文王之徳之純、謂三之非二美字一而可乎、隆是降之反、豈以二字似一而廢レ之哉、仁宗即位改二元天聖一、時太后臨レ朝稱レ制、議者謂、撰レ號者取三天字於レ文爲二二人一、以爲二二人聖者一悦二太后一爾改二元明道一、又以爲二明字日月並一也、與二二人一旨同、見二歸田録一、其撰者果爲二容悦一乎、不レ然則議者之誣也、徽宗即位、改二元建中靖國一、或謂建中與二徳宗一同、不レ佳、謝上蔡云、恐亦不レ免二一播一、後下レ獄、見二語類一、楊方震曰、史稱上蔡坐二口語一、繫二詔獄一、廢爲レ民、其即建中年號之説乎、宋之年號、同二於衰世及垂レ亡之小邦一者、往々有レ之、如二前之乾徳後之建中一是也、然乾徳不レ驗、而建中則驗、是又在二乎徳之厚薄一、而不レ係二乎䜟之有無一、上蔡之論、特因二徽宗一而知レ之也、楊氏此論得レ之矣、〈玉海所レ載離合之䜟、重複之嫌、皆以二楊論一可二推斷一レ之、〉本朝撰號、大略見二園太暦一、不レ甘レ似二人名一、不レ避二異國年號一也、但其文字出處、不レ足レ爲レ據、或有レ之、如下建安似二嶮難音一之嫌上、何可レ避レ之也、
p.0297 凡年號の定の日は、京師地下の學者禁庭へ參りて、とかく唱へなどして議し奉りしとかや、天和改元の日、庭上にして天火の音に呼し故、貞享已來は地下の者を禁止せさせ給ふ、
p.0297 滑稽は道に非ずして、而も道なる物と云り、和國にては和音の通ずる處をもて吉凶をのづから顯はるヽ也、改元の時諸卿の難陳は、字義に寄計也、冀くば誹諧に長ぜしものを難陳に召加へられなば、此難は有べからず、誹諧則滑稽也、旣に軍陳には和音の響をもはら用らる
p.0298 る事にて、御當家國初にも、桂の里の桂姫、美濃の大柿をはじめ、いさヽかの言葉に吉凶をはからるヽ例不レ可二勝計一、
p.0298 和漢異年號
此邦改元ある時に、難陳といふ事あり、年號文字の義理出據などを吟味し、善惡是非を難じ陳ぶといふ、其時易經の語を引くには、書名をいはず、或文に曰と書くは故實にて、變易變化を忌み嫌ふなりと、然るに近歳にも化字を用ひて紀元ありしは、いかなる事にや、
◯按ズルニ、易經ヲ引クニ、書名ヲ或文曰ト書スルコト、他ニ證據ナシ、各家ノ勘文ニハ皆周易ト書シ、書名ヲ忌マザルガ如シ、
p.0298 權記、寛弘九年十二月廿五日戊子、今日以後四箇日物忌也、然而依二外記度々誡一參内、左大臣參入被レ定二年號事一、大臣及中宮大夫、右大將、尹左兵衞督、修理源相公被レ參、頭中將下二文章博士宣義通直等勘申年號一枚一、太初、政和等也、定申云、件字共非レ優、但勘申之中、長和頗宜歟、抑勘二本文一非レ便二年號字一、然而自二太初一政和頗宜也、僉議同レ之、被レ奏宣下、大臣召二大内記爲清一、被レ仰二詔書可レ作由一、此間余〈◯藤原行成〉退出、太初(○○)、漢武帝年號、此年十一月朔旦冬至也、今年有二朔旦一、彼年戊子、今年又戊子、依二彼例一所二勘申一也、前秦西秦共有二此號一、南凉又有レ之、件年號前秦九年、即爲二姚興一所レ滅、西秦廿一年、年歴雖レ久、僞主代無二殊事一、非レ可二庶幾一、南凉三年歴甚少、又武帝之時、非二亂代一、其例可二因准一、然而彼年柏梁臺災、庶二幾彼年之例一、亦甚無爲、紀云、太初元年、〈應劭曰、初用夏正八、正月爲二歳首一、故改レ年爲二太初一、〉十一月甲子朔旦冬至、乙酉柏梁臺災、夏五月正暦、八、正月爲二歳首一云々、二年春正月戊申、丞相石慶薨、十二月御史大夫寛卒、又後漢質帝、太初元年六月、爲二梁冀一所レ殺、政和(○○)、禮記文云々、有二毛詩關睢篇序一云々、然而政字、秦始皇名、可レ嫌レ之、唐家本朝以二政字一爲二年號一之事、唯有二後周宣政一年一、不レ可レ用歟、
p.0298 承暦五年二月十日、被レ下二年號勘文三通一、〈一通左大辨實政卿勘申嘉徳、一通有綱朝臣元徳、一通行家朝臣〈文章博士〉永保、永長、應徳、〉人々令レ申
p.0299 云、永保應徳之間、可レ依二勘定一者、仰云、永長蓋令二撰申一哉、人々申云、永長(○○)字、對馬音似二笛名一、仍不レ申レ之歟、仰云、可レ用二永保一者、内府召二大内記敦基一仰下可レ作二改元詔書一之由上、又有二赦令賑給事一、是皆准二治安元年例一也云云、事了人々退出、事雖レ多不レ能二委記一、
p.0299 長治元年二月十日、今夜依レ可レ有二改元定一云々、左府兼日奉レ仰、下二知儒者等一被二撰申一、奏聞後有二僉議一也、次第見二下文一、申二上承安長治一、此二間可レ隨二勅定一申上了、付二頭辨一被レ奏二件旨一、勘文同進二上之一、重仰云、件二年號中、重可二申上一者、左衞門督以下承安可レ宜、左内府被レ申云、長治可レ宜、又仰云、可レ用二長治一、是依二天變一也、但依二正暦一可レ令レ作二詔書一云々、 今度年號勘文之中ニ、天祐(○○)或儒者撰申之條、甚奇恠也、天祐ハ、唐末景宗時年號也、先例唐年號雖レ被レ用、末之世、亡帝之時年號未レ被レ用、而撰申之條、可レ謂レ無二用心一、爲二後代一所二記置一也、
p.0299 天仁元年八月三日庚辰、今夕可レ有二改元一也、頭爲房朝臣、下二年號勘文於左大臣一、可二定申一之由、所二仰下一也、〈件勘文三通、儒家太宰帥卿大江匡房、文章博士在良、敦光撰申也、籠二懸紙一紙一、結申被レ下、江帥書二檀紙一、依レ爲二公卿一歟、〉此間公卿、多被二參著一、三四人著二端座一、一々見哉、左大辨讀二上勘文一、〈江帥勘文有二年號六一、先例不レ過レ三也、頗多如何、〉一々可二申上一由、左府被レ示二發語一、藤宰相〈顯〉申云、天仁承安可レ被レ用、左大辨、〈重〉天永元徳、右宰相中將、〈顯〉同左大辨治部卿、〈天永元徳〉下官〈◯藤原宗忠〉申云、帥卿所二撰申一、元徳承安可レ宜歟、皇后宮權大夫、〈顯〉源中納言、〈國〉別當、〈能〉右衞門督、〈雅〉藤大納言、〈經〉右大將、〈家〉民部卿、内大臣以下皆被レ同、下官定申、爰左大臣被二定申一云、帥卿年號之内、正治天仁之間可レ被レ用也、議了付二頭爲房朝臣一、以レ詞被レ奏、〈年號之定、以レ詞被レ申例也、〉勘文同被二返奏一了、經二數刻一歸來、〈參院云々〉仰云、左大臣被二定申一、二年號之内、重猶可二撰申一、人々多可レ被レ用二正治一之由被二定申一、予申云、此年號、共不二心得一也、正治(○○)反音詞也、頗有二忌諱音一也、天仁(○○)音、又通二天人一也、年號或漢音、或倭音、共所レ被レ讀也、天人頗不レ得レ心、共不二心得一之中、被レ用二正治一如何、人々多被レ同二予詞一、左大臣命云、天人多樂之境也、不レ可レ爲レ忌歟、予申云、天上與二人間一、猶以不二心得一由執申、左府強不レ可レ爲レ難之由、重被二奏問一、此間更漏漸閑、雨脚殊甚、頭爲房歸來、仰云、可レ用二天仁一之由、可レ令レ作二詔
p.0300 書一者、左大臣召二大内記敦光一被二仰下一、則詔書草二進之一、付レ頭被二内覽一、〈殿下御二于御前一歟〉早可二清書一之由被二仰下一、召二大内記一、被レ仰下可二清書一之由上、則清書持參左大臣、又付二爲房一奏聞、〈乍レ在二仗座一被レ奏也〉御畫了返給、召二中務丞一下給、〈乍レ入レ笘給レ之〉
p.0300 保安元年四月十日庚辰、頭辨以二改元勘文一、下二内府一、内府取二一通一令二結申一給、仰云、定申セ、次給レ予披見之所、勘文二通式部大輔兼文章博士在良朝臣、撰二申長仁、天治、保安一、文章博士敦光朝臣、撰二申天治、慶延、長壽一、今度二人勘申、籠二懸紙一通一、不二結申一、及二三通一時結申也在良朝臣、儒宗兼文章博士也、仍今度二通也、予見了、傳二次人一、次第見下、此間掌燈、左大辨讀二上勘文一、發語云、長仁、保安可レ宜、其後人々多互申上、多ハ天治也、予可レ被レ用二保安、慶延一之由申上、内府申給云、天治慶延者、頭辨申二人々議趣一、返二上勘文一、被レ申レ院、頃而歸來云、人々申旨不同也、又多申上於三重可二定申一者、左大辨、右兵衞督、侍從中納言、予可レ被レ用二保安一也、別當治部卿、内大臣、天治者、又被レ申二此旨一也、他年號被二沙汰一、予申云、長壽(○○)ハ、唐則天后時年號、纔一兩年也、唐年號、先々雖レ被レ用、年紀久、或明年時年號也、於二長壽一者不レ久、又女帝年號也、仍不レ可レ被レ用歟、天治(○○)ハ、又音同二天智天皇號一也、長仁(○○)ハ、近代散樂法師名也、天下上下、衆人頗嘲哢歟、左大辨、散樂法師名、更不レ可レ被二沙汰一、誠是興言也、何如、此事可レ及二沙汰一哉、内大臣示給云、於二年號一者、世間云、人妖言、尤可レ被レ避事也、於二年號一者、萬人甘心可レ宜歟、仍散樂法師名被レ避、何事之有哉、頭辨來仰云、依二御愼一可レ有二改元一、以二元永三年一、爲二保安元年一、依二天喜例一、可レ作二詔書一者、内府召二藏人辨實光一、可レ作二詔書一被二仰下一也、
p.0300 大治六年正月廿九日改元定也、今日兩院自二法金剛院一還御、然而實能長實兩卿外、皆可レ參二改元定一之由、所レ被二仰下一也、未刻束帶參院、頭辨談云、改元勘文事、右大臣奉行也、〈◯中略〉勘文今日可二下申一也、大内記〈宗光〉依レ病不參、仍無二可レ候レ詔之人一、前例文章博士儒者辨取候、而近日中辨中無二儒者一、文章博士例也、仍又被レ尋レ例處、有二大辨候例一、仍召二右大辨實光一也、次諸内府束帶被レ出取二出勘文案一評定、敦光朝臣詣、令レ開二勘文等一、人々付二和名一、〈◯中略〉吏部云、寧成兩字非二舊號一、字多用二舊字一也、予〈◯源師時〉云、於二無難之字一、
p.0301 雖レ無二舊字一有二何事一矣、若字盡後、以レ何可レ爲二年號一哉、吏部云、尤可レ然、此後共參内、其間申云、天壽(○○)、天祐(○○)、隋唐末年號云々、就レ中於二天壽一、大治度有二博陸御難一不レ被レ用、仍不レ可二撰定一、泰和和字度々有二世大事一、頗可レ有二事憚一歟、安寧(○○)寧字音通二佞字一、雖二聲別一定世人通詞歟、是等中、天承、天受、可レ無二指難一歟、相共入二敷政門一著二陣内一、〈◯中略〉頭辨顯頼、下二勘文三通一、大臣開二一文一結申、顯頼仰云、令二撰申一與、大臣微稱後卷レ文辨退、一々見二勘文一了、授二次人一、次第見下、至二左大辨一一見了依二大臣命一讀擧、其後次第定申、大辨申云、某々等勘申年號中、天承、天受間、可レ被レ用歟、予申云、天承、永受、右衞門督同二左大辨一、別當天承、安寧、堀川中納言天承、引二合兩文一而雖二勘申一、其外無二指難一、可レ被レ用歟、天壽、隋末宇文和之所レ立年號也、天祐、唐末亡時年號也、用二漢朝年號一、是雖二常事一、於レ有レ憚者、不レ可レ被レ用也、件兩號已相二當亡國時一、尤有レ憚歟、天受(○○)、永受(○○)、受字下作二又字一也、年號以二一號一可レ渡二長年一料也、而又作頗似レ可レ有二後事一也、〈別當云、受字下作二或文字一、〉慶成(○○)、成字有二戈作一、前々被レ忌、如レ此皆有二其憚一、民部卿天承、治部卿天承、慶成、中宮大夫天承吉、於二泰和一和字長可二停止一由、故院所レ被レ仰也、勘二先例一多當二不吉事一、不レ可レ用歟、内大臣天承、大臣召二顯頼一被レ奏二人々申旨一、先申二關白一、次參院、良久不レ歸、予依二所勞一暫起レ座、及二子刻一頭辨歸レ自レ院、此間下官復坐、頭辨仰云、天承一同撰申、但件文、上下已事異、雖兼兩勿レ謂二一事時一、其理可レ然、於二天承一上下二字雖二相連一、奉天承親是上下已異也者、可レ然之由、不レ令二存給一、重可二量申一、又定二申年號等一中、可レ申二一定一、天受、又作尤被レ難、其故慶字有二反作一、仍天慶以後不レ被レ用、正字有二一止一、難者付レ字如レ此有レ難歟、但暫不レ可レ及二其難一、諸卿申云、天承(○○)上下文雖レ別、共是吉事也、有二何難一哉、雖レ加二定他年號等一、尚天承可レ宜歟、顯頼退奏二事由一、歸出又仰云、改二大治六年一爲二天承元年一、〈依二天變一改元、〉赦令詔書事等、依二急退出一不レ見、抑改元定故實定二申兩三一、依二重仰一撰二申一一、最前不レ申二是非一、次尋時所レ申二善惡一也、而最前難申又定申唯一、是乖二故實一歟、又成字、戈作難如何、土御門殿難成字也、戈與レ面相兼可レ有レ憚也、而於二成字一無二面作一、有二何難一哉、但大兄御事也、可レ閉レ口、戈作難事、後日尋二申中納言一、答云、唐書ハ、依已戈歳字通二用載字一也者、雖レ不二面作相具一、尚可レ有レ憚歟云々、是強難也、
p.0302 康治元年四月廿八日辛卯、今日有二改元一云々、康治(○○)案レ之、康治反飢、若治勞音反忌、又穀梁傳昭廿一年云、大饑、傳云、一穀不レ升謂二之嗛一、二穀不レ升謂二之饑一、三穀不レ升謂二之饉一、四穀不レ升謂二之康一、〈康虚〉五穀不レ升謂二之大侵一、今案二康治二字一、皆從レ水、然則以二水災一、可レ有二飢饉一之象也、後日以二此事一、問二新大納言公能一、答云、參入卿相更不レ申二此事一、在レ官宜レ使レ能、今卿士、皆以レ不レ學二經史一、國家滅亡豈不レ宜哉、久壽元年十月廿七日丙午、光頼朝臣來下二年號勘文一、仰曰、可二定申一者、 廿八日丁未、今日改元、巳刻許、頭光頼朝臣來曰、法皇密詔曰、有レ所二思食一、今度不レ可レ用二治字一者、疑大治四年、白河院崩故歟、〈◯中略〉余及兩長著レ陣、于レ時秉燭、仰二官人一召二勘文一即進レ之、〈本前驅所レ持也〉余已下依レ次見レ之、此間成通參入加著、右大辨〈朝隆〉讀二勘文一了、自レ下定申、〈余徳進、徳祚、宗輔應暦、天保、宗能承寶、平治、成通、公教天壽、兼長、師長、朝隆平治、經宗天壽、天保、公通承寶、天保、資信延祚、〉了招二頭辨一奏レ之、歸來曰、重可二擇定一者、余難曰、天壽(○○)者、隋宇文化及之年號也、〈右大辨又申レ之〉承(○)者止也、寶(○)者寶位也、止二寶位一有二其忌一、應暦(○○)者、勘文云、聖皇應二暦數一云々、似二在位年限滿一、朝臣曰、何言二年限滿一乎、言下聖主應二暦數一者應一暦數一將上レ王二天下一也、余難曰、是彌有レ忌、似レ可レ有二新帝一、又天保(○○)者一大人唯十、是漢朝舊難也、〈右大辨亦申レ之〉平治(○○)者、勘文云、禹平二治天下一云々、是治二洪水一也、不レ如レ無二洪水一、師長披曰、延嘉者、禹治二洪水一所レ得之玄珪之銘也、〈見二尚書并初學記一、詳引二尚書一、〉以准レ此了無二其忌一、〈所レ申其理可レ然〉宗能難曰、徳(○)字不レ可レ被レ用之由、白河院被二定仰一了、祚(○)字新帝即位稱二踐祚一、非レ無二其忌一、〈今按、祚字難不審〉師長難曰、延祚(○○)者、爲二庾亮所一レ殺人字也、朝隆難曰、承寶(○○)者、銘也、〈見二勘文一〉齊早亡不レ久、可レ有レ忌歟、余曰、雖レ不レ吉二人事一、所レ引文吉者何有二其忌一乎、殷紂時詩無二其忌一歟、朝隆復曰、承保者我朝舊年號也、保寶者爲二同字一之由、見二左傳正義一、同年號兩度被レ用如何、令下光頼朝臣奏中此等趣上、〈各難申間、光頼朝臣依二余命一居聞之、〉即光頼朝臣持二來舊年號勘文五通一、〈◯中略〉諸卿見レ之了、皆曰、久壽無二殊難一、但經宗曰、嘉祿可レ宜、余曰、久壽(○○)者反音柩、有レ怖歟、諸卿曰、舊年號不三必避二反音之忌一、即令下光頼奏中此由上、〈◯中略〉光頼奏聞後、參二鳥羽一鳴鐘後光頼歸參、〈◯中略〉余著レ陣、光頼來曰、改二仁平四年一爲二久壽元年一、〈◯下略〉
p.0302 爲親卿記、保元四年四月廿日甲辰、今日有二改元定一、入レ夜予參内、内府以下卿相數輩參著、
p.0303 自畫有二評定一云々、淳仁(○○)字、有二可レ宜之由被レ申人々一云々、而前中納言朝隆卿已訓讀通二醍醐天皇御諱一之旨被二難申一、平治字可レ宜之由被二執申一、依諸卿被レ同レ之云々、但或人云、天皇御諱、隔二七代一之後、雖二正字一無レ憚、况年號字、不レ讀レ訓、更不レ可レ及二其憚一云々、又於二平治字一者、當時會釋云、本文旁有レ難云々、
p.0303 顯時卿記、永暦元年正月十日己丑、早旦召使告來云、今日可レ有二改元定一、〈◯中略〉定畢之後、召二藏人辨一、人々定申之旨可二奏聞一、〈各令二申聞一〉成頼還出仰云、永暦久承之間、相議一同可二定申一、左府〈◯藤原伊通〉被レ氣二色予一、左衞門督且告二其由一、予申云、久承(○○)、久者久壽、承者嘉承、尤可レ被レ憚歟、大理申云、此難皆所レ存也、但非二代初一何事候乎、今三相公閉口、左衞門督、久承之難非レ無二其謂一歟之趣也、藤源納言無音、新大納言久承之難、可レ謂二吹毛一、有二本文之難一者非二其限一、至二于承字一者、嘉承之後、有二天承一、有二長承一、更不レ可レ有二其憚一歟、内府、久承已其難出來、加之雖レ似二戲言一、世俗之詞可レ混二窮少一也、〈人心定早歟〉至二于承寶(○○)一者、大寶以後、瑞物之外不レ被レ用二寶字一歟、大喜(○○)又如何、予又重申云、大同之大字可レ被レ憚歟、〈嵯峨弘仁元年事〉又至二于承一字一者、強不レ可レ有二其難一、仍且可レ擇二申承安(○○)一也、且依二兵革一改元、承安之條、人心和平之故也、至二于久承一者、云レ久云レ承、共依レ有二其憚一難申也、別當申云、大喜法花經之文也、左府被レ仰云、經文被レ難二年號一之條如何、左衞門督被レ申云、寶字者王位也、必不レ可レ依二瑞物一歟、隨又勘申如二齊書文一者、子孫承レ寶、然者繼帝爲所レ擇也、新大納言被レ申云、大喜在二平治之度一雖二擇申一、爲二錫杖文一之由、其難所二出來一也、左府然者可レ被レ用二永暦(○○)一歟由、被レ示二合内府一、坐籍遠隔、其返答詳不レ聞、左府被レ答云、可レ被レ用二永暦一歟、〈◯中略〉其後成頼還出、著二膝突一仰云、改二平治二年一可レ爲二永暦元年一、
p.0303 長方卿記、永萬二年八月廿七日、次予進二奧座一下二年號勘文一、上卿被レ示曰、仁安(○○)有レ難乎、新納言曰、天安代末年號也、〈又被レ稱二治安一、然而非二代末一申人々被レ示レ之、依又被レ申、〉依レ之申二弘治(○○)一也、上卿曰、如二仁字一自レ昔難來、至二安字一以二天安一不レ可レ爲レ難、又有レ難否被レ尋、新大納言無二殊被レ申事一、予參上申二此趣一、殿下被レ難曰、安字止訓也、仁止如何、弘治(○○)又有レ難哉、可レ尋者、予又出二仗座一仰曰、弘治有レ難哉者、上卿被レ申云、弘字隨レ弓、又弘仁有二兵革事一、新藤
p.0304 納言宰相中將曰、弘仁、寛弘、共有レ事可レ爲レ難者、新大納言無二難陳之旨一、予執二申此趣一、殿下被レ仰曰、弘字難、隨レ弓、次字治也、然者何事之有哉如何、但依二衆議一可レ用二仁安一可レ仰二詔書一可レ仰者、〈◯下略〉
p.0304 角金安元三年八月四日天晴、今日有二改元事一、依秉燭著二束帶一參レ陣、左府(經宗)以下著陣、左大辨、〈弘保〉新宰相中將、〈實宗〉堀川宰相〈頼定〉等、取條、〈實宗弘保、仁治、頼定養和、能文、〉實守卿、〈仁寶〉予〈(藤原家通)弘保、治和、〉實綱、〈弘保〉雅頼卿同二左大辨一、左兵衞督同二右大辨一、別當忠親、〈養和〉藤大納言實國、〈弘保〉三條大納言實房、〈養和、治承、〉中宮大夫相議被レ養二弘保一、〈就二多人一定申〉仁寶、〈實定卿執申故相具云々〉博陸不二參内給一、依左少辨參二松殿一申之、歸參申云、弘保(○○)者、隨二弓作一、其字不レ快、仁寶(○○)者、上仁字、近例不レ快、下寶字者、漢家連々不レ快、本朝又不レ被レ用、及二二百歳一、若有レ故廢也、仁治、治承、共雖レ非レ無レ難、此兩字中可レ被レ申者、人々議定曰、仁治(○○)者、上仁字、近二仁平仁安一、共不レ快、治又平治不レ快、至二于治承(○○)一者、上治字三水、下承字又隨二水篇一、連々有二水損之聞一、而隨二水邊一也云々、召二左少辨一、又被レ奏二此由一、宣定、隆季、實國、實守卿退出、兼光歸出示申云、兩字雖二尤可一レ然、仁治上仁、雖二強不一レ可レ憚、萬治(○○)字、平治亂、其例不レ快、於二治承一者、水篇多由尤可レ然、然而永承(○○)之字、隨二水篇一今度依二火災一被レ改、多隨二水篇一、何事有哉、可レ然之由相議、上卿被レ奏、兼光歸來仰云、改二安元三年一爲二治承元年一、大極殿火災之上、天變頻聞方々由可レ載二詔書一、依二康平例一作二詔書一者、依二大極殿火災一、改二天喜一爲二康平一、
p.0304 一改元事
八月〈◯延徳元年〉廿三日、予當番、於二親王御方一、侍從大納言被レ申二年號雜談一、延徳者反無レ形云々、又天保ノ字難ハ、一大人唯十ト難ト云々、又慶ノ字庶心反ト難ト云々、如レ此字難多端云々、
p.0304 明和九年十一月十六日改元定次第〈◯中略〉申詞〈◯中略〉
天明 難、左衞門督、天明之號、天字在レ上、其例多トイヘドモ、明字在レ下、文明之外無レ之候歟、且有二古難一、如何候ハン、 陳、日野中納言、左衞門督藤原朝臣被レ難、天明號、明字在レ下例、文明之外無レ之、シカレドモ文明年序久歟、天字在レ上號、天長、天暦、爲二聖代之嘉號一、可レ被二擧用一哉、 重陳、左大辨宰相、天明號權中p.0305 納言藤原朝臣被二陳申一趣有二其故一、今度此號雖レ不二擧申一、然佳號也、被二採用一何事候哉、 内大臣、天明號尤可也、先被レ移二他號一候ヘ、
嘉徳 難、右大將、嘉徳號ノ事、後漢嘉徳殿火不快候、且徳字舊難多候、難レ被二今用一歟、 陳、廣橋中納言、被レ難之旨其故アル歟、雖レ然大寶旣爲二漢家不快之殿名一、况處名殿名相通、于二年號一無レ憚之由先達記レ之、且徳字雖レ有二舊難一、徳字在レ下之號、及二數度一之上者、嘉徳之號可レ無二巨難一歟、何取二漢家之先蹤一、捨二本朝之佳例一哉、宜レ在二群議一、 重陳、宰相中將、陳言之趣雖レ可レ然、嘉字在レ上十度、徳字在レ下十三度、共年序不レ久、且此號治暦度始而勘進、後凡二十餘度出現候歟、江中納言匡房卿有二難申旨一、雖レ有二大寶延暦等例一、強而不二庶幾一候、 重陳、橋本中納言、重被レ難之趣非レ無レ據、雖レ然於二年序之多少一者、強不レ可レ依二先例一之旨、明和度既陳申候歟、且此號字義就中神妙ノ間、勘者不レ棄レ之、度々出現不レ謂二此號之規摸一歟、江帥之難事舊候、元賢毎陳申ノ上者、此微瑕何足レ减二白璧之價一乎、猶宜レ在二群議一、
文長 難、廣橋中納言、文長之號、度々雖二勘進一、先輩旣有二難申旨一、各有二其謂一歟、况年號者用二疊字一爲二本意一之由、見二自他之記文一、旁此號不二庶幾一候、 陳、左衞門督、文長ノ號被二難申一旨非レ無二其謂一、但非二疊字一被レ用例〈茂〉不レ少、且此號音響モ優美候、可レ被二擧用一候歟、 重陳、西園寺大納言、陳答、雖レ然文長者文永訓相同、文永者年暦雖レ及二十箇年餘一非二嘉例一、且此號舊難最多、旁不二庶幾一候、可レ有二如何一哉、
建正 難、左大辨宰相、建正號雖二令レ引文相違一、建永度俊卿初勘出字也、然貞治度曩祖忠光種々難申之間、更不レ結二申愚存一、其上正之字在レ下ノ例、大略不レ宜候、他號ノ中可レ被レ用哉、 陳、左衞門督、被レ難趣無二餘義一候歟、但正字在レ下、永正、天正、年序旣久、被レ用二此號一有二何事一哉、猶宜レ在二群議一、 重陳、宰相中將、建正之難一旦雖レ可レ然、左衞門督陳答ノ趣有二其謂一歟、引文施二法于官府一、而建二其正一云々、尤可レ被二擧用一候哉、 内大臣、建正號聊有二存旨一、可レ被レ閣候、
萬保 難、橋本中納言、萬保號、萬字被レ用レ上之例、萬壽萬治之外無レ之候、且萬者舞之名、象下武王以二萬人一p.0306 定中天下上、此條又如何候、旁不二庶幾一候、 陳、西園寺大納言、萬保之號、被レ難之旨有二其謂一、但萬字在レ上之例雖レ少、保字在レ上之例及二十一箇度一、且萬字爲二舞名一之事、旣以二樂名一被レ用、永和以後度々也、然上者此號無二巨難一歟、
p.0306 年號字難陳〈◯中略〉 難 公迪卿
享和號、享字古與二亨烹一通、故韓信傳有二獵犳亨レ之之文一矣、而後醍醐天皇辛酉、始用二元亨之號一、是歳大旱、厥後金革不レ止、永享雖二代始一、且經紀長祅災數現、享祿貞享等、交不レ祥、且夫穀果傳曰、諸侯不二享覲一、和字、爾雅曰、徒吹謂二之和一、又孫子兵法有二交和之文一、享和交和聲相近、至レ若二長和一、年中祝融爲レ祟二度、養和最不吉也、因レ這思レ之、凡不レ可二以庶幾一之號乎、然非レ可二敢黜陟一、宜在二群議一、
陳 俊資卿
享字、古與二亨烹一相通、誠然、享和字有二周禮内甕割享煎和レ之文一、因享熟和齋之義亦宜候〈波牟、〉元號用二享字一佳例、古來有レ之、近享保、延享、明證候、和字我邦之通稱、不レ可レ不二崇敬一、被レ難之條逐一雖不及論候歟、長和養和雖レ被レ申二不吉之由一、元和明和共盛時、又延寶辛酉年改二天和一、旁以可レ謂二珍重之、號一、且按、引文今度改元旨趣適當、最可レ被二擧用一候乎、
重陳 胤定卿
享和之號、中宮權大夫藤原朝臣被二難申一旨趣、雖レ有二其謂一、近者享保年序久、又明和海内無事、太上皇殊近世稀〈奈留〉被レ賀二寶算一畢、加以如二權中納言源朝臣陳答引文一珍重候、且按漢書禮樂志曰、薦二之郊廟一、則鬼神享レ之、朝廷則群臣和、可レ謂二泰平之美號一、被二擧用一可レ然候歟、
重難 頼熙卿
享和號、權中納言源朝臣、同藤原朝臣等陳答、誠盡二其理一、雖レ然舊難之號歟、且享和字、和漢有二離合讖一、仍被レ憚レ之可レ然候〈波牟〉哉、p.0307 陳 實光卿
享和之陳答、頗雖レ及二謷々一、離合讖強無レ憚歟、亨享相通、享者嘉之會也、大享以養二聖贒一、五官致レ貢曰レ亨、協二和萬邦一、禮之用和爲レ貴、律和聲皆所レ見二經典一、况於二本邦美號字一乎、邇尋二芳躅一、天和、享保、明和也、亦順二天運一應二人和一之文意、可レ稱二優美一、仍所二擧申一、宜レ在二上裁一乎、
重陳 前秀卿
以二離合讖一重被レ難之條、難二默止一、權中納言源朝臣、權中納言藤原朝臣、參議左近衞中將藤原朝臣等被二陳申一旨趣、誠當二其理一歟、就レ中享保、明和之盛時在レ邇、左氏傳曰、享以訓二恭儉一、宴示二慈惠一、且享者獻也、和者順也、聖徳徧二于八荒一、遠夷來享、民俗益協和、不二復吉一乎、其可レ謂二美號一、被二擧用一不レ可二他議一歟、
判 忠良公
享和之號、殊優美候、且人々多被二擧申一、旁可レ被二採用一候、嘉永亦佳號也、以二享和嘉永之兩號一、令二奏聞一候〈波牟、〉
享和嘉永殊〈爾〉宜候、兩號之間可レ應二叡旨一、奏聞、
p.0307 明治年號難陳 大城戸宗重
改元の事は、漢ノ文帝の神仙を信ぜられしに權輿し、武帝の奇を好ませられしに成りし者ながら、また世の進化の一證なるべし、されど漢武帝、唐高宗の如き、一世に十二三の改元あり、我朝にても、二條天皇の御在位七年間に五回の改元あらせられ、四條天皇は十年間に六回の改元あらせられしなどは、いと煩しき限りなり、明太祖は英斷にも始めて一世一號と定められ、今の覺羅氏も此制に倣はれたり、そは外國の事にて兎まれ角まれ、我が昭代の初、斷然舊式に據らせ給はず、御一世一元と仰出されしは、賢き御世の一大美事ならずや、畢竟國家の治亂盛衰は、年號の如何に在ずして、施政の得失如何にあるのみ、此頃享保二十一年御改元定の難陳を見しに、唐橋大内p.0308 記〈在秀朝臣〉の撰進中に、明治の號を加へたり、當時西園寺大納言、〈公晃卿〉高辻式部大輔〈總長卿〉の陳辨もありしかど、坊城中納言、〈俊將卿〉清閑寺右大辨〈秀定卿〉の論難に依て、終に元文とぞ改元せられたりき、今明治の昭代となりて、いと珍敷き事に思はるヽまヽ、此に其の全文を掲げて、文義は取り様、治亂は爲し様にあるの一例となさむとす、嗚呼百五十年前に排斥せられし明治の號も、今日斯く時を得たるを視れば、獨人のみ幸不幸あるにあらず、文字も亦遇不遇あるか、
明治 唐橋大内記
周易曰、聖人南面而聽、天下嚮レ明而治、
難 清閑寺右大辨
明治號、代始被レ用二治字一凡七八度、各年序不レ久、可レ有二如何一候哉、
〈按に、御代始に治字を用られしは、崇徳天皇の天治は二年、近衞天皇の康治は二年、二條天皇の平治は一年、後堀河天皇の寛治は七年、土御門天皇の正治は三年、後深草天皇の寶治は二年、後宇多天皇の建治は三年なり、〉
陳 西園寺大納言
明治號、被レ難之趣有二其謂一、然此二字其義用甚大矣、夫明二明徳于天下一者、聖王之所三以治二天下一也、故禮曰、明二照四海一、而不レ遺二微少一、又云、參二於天下一、並二於鬼神一、以治レ政也、尤宜レ爲レ號、可レ被二採用一候乎、猶可レ在二群議一、
二難 坊城中納言
明治之號、所レ陳之其義固盡、菲才不レ能レ難也、然析レ字言レ之、則明字爲二日月一、治字從二台水一、台星名也、水旣逼二日月星辰一、則有二洪水滔天之象一、平時尚恐二其不一レ叶、况於二龍飛之始一乎、
二陳 式部權大輔
明治號、析字被レ難之趣、離合之讖、尤有二其謂一、然明字爲二日月一、按、周易大人者與二天地一合二其徳一、與二日月一合二其時一、此文可レ爲二嘉徴一、如下治字從二台水一之難上者、天治號可レ謂三水逼二天文星辰一也、亦在二龍飛之始一、而無二決水之事一、p.0309 推レ古驗レ今、強無二其難一歟、可レ被二採用一哉、猶可レ在二上宣一、
◯按ズルニ、改元難陳ノ事ハ實ニ繁冗ヲ極ム、故ニ多ク省略ニ從フ、其詳細ヲ知ラント欲セバ、宜シク改元部類記ヲ看ルベシ、
p.0309 未レ被レ用年號〈今按、此已後於レ被レ用者、加二合點一畢、〉
天受〈孟子、朝綱一、行盛一、〉 天保〈毛詩、輔正一、敦基一、行盛一、茂明一、〉 天祐〈周易、毛詩、春秋繁露、爲政一、正家一、有元一、〉 天成〈周易、左傳、尚書、實範一、有綱一、敦基一、〉 天祚〈後漢書、實政一、匡房一、〉 天和〈後漢書、成季一、禮記、行氏一、〉 天惠〈文選、永範一、匡房一、〉 天明〈孝經、敦光二、永範二、長光二、〉 天壽〈尚書、敦光一、長光一、〉 天隆〈後漢、敦光一、〉 天文〈老子、俊經一、〉 天統〈論語疏、資長一、〉 天同〈周易、永範一、〉 天寧〈文選、永範一、〉 和平〈周易、輔正一、〉 和寧〈成季一、〉 和萬〈尚書、茂明、敦周、資高、〉 承天〈周易、後漢書、禮記、明衡一、成季一、顯業一、〉 承寧〈漢書、左傳、永範一、〉 承祿〈魏志、長光、〉 承寶〈齊書、義忠一、永範一、〉 承慶〈晋書、實光二、〉 安寧〈史記、有元一、〉 安治〈漢書、匡房二、〉 威徳〈周易、擧周三、〉 咸寧〈尚書、周易、輔正一、〉 康徳〈尚書、定茂一、〉 康寧〈史記、漢書、成季一、〉 康安〈漢書、長成、在輔、唐記、在嗣、毛詩正義、在輔、毛詩、家嗣、〉 康正〈維城典、宗業、良頼、在淳、行光、〉 治徳(徳治出)〈淮南子、實政三、〉 治平〈春秋元命苞、資業一、〉 治昌〈大禮、有綱一、〉 治和〈淮南子、敦宗二、敦光一、光範一、〉 治萬〈尚書、在高、〉 成徳〈孔子家語、荀子、資業二、正家一、國成一、〉 成和〈莊子、實茂一、〉 嘉徳〈左傳、史記、實政三、成季一、〉 嘉福〈毛詩、漢書、敦宗一、光範一、永範一、〉 嘉康〈尚書〉 正徳〈尚書、成季一、〉 正長〈貞觀政要、親經、經業、在淳、毛詩、在嗣、行光、〉 弘徳〈周易、成季二、〉 弘保〈晋書、顯業一、永範二、俊經四、敦周、〉 弘治〈北齊書、永範二、〉 建徳〈文選、有元一、〉 建正〈史記、親經二、〉 建〈史記、資實、〉p.0310 建天〈史記〉 建萬〈貞觀政要、爲長、長成、周易、家高、〉 齊徳〈文選、敦光一、〉 齊恭〈文選、實茂一、〉 顯嘉〈符瑞圖、光範、〉 顯應〈後漢書、光輔、〉 顯徳〈尚書、忠貞、〉 元弘(元弘出畢)〈孝親〉 元初〈晋書、親經、〉 徳延(延徳出畢)〈尚書、長光一、〉 徳安〈茂明二、敦周一、〉 徳祚〈漢書、茂明二、〉 徳久〈文選、敦周一、〉 徳元〈尚書、爲長、〉 徳仁〈禮記、兼光、〉 徳齊〈文選、範光、〉 徳和〈左傳、在輔、〉 慶延(延慶出了)〈後漢書、敦光、〉 慶成〈文選、行盛、有元一、〉 永受〈儀禮、成季一、俊盛一、〉 永貞〈周易、匡房、有元一、〉 永世〈漢書、長光、〉 永命〈尚書、範兼〉 永壽(壽永出畢)〈晋書、敦光、〉 永寶〈後漢書、宗業、〉 大應〈史記、擧周一、俊經四、〉 大慶〈毛詩、成季、〉 大喜〈後漢書、顯業、白虎通、俊經、〉 大承〈尚書、齊書、永範、敦周一、〉 大弘〈擧周〉 大平〈毛詩、成季、〉 長育〈毛詩、爲政一、〉 長養〈漢武内傳、成光一、五行大義、資名二、〉 長觀〈光範一〉 長壽〈後漢書、敦光、〉 延世〈尚書、北齊書、輔正一、永範一、〉 延政〈擧周〉 延祚〈後漢書、擧周一、匡房一、顯業、長光一、〉 延壽〈後漢書、文選、齊周三、正家一、義明一、俊經一、〉 延祥〈義忠一〉 平泰〈老子、資業一、〉 平章〈尚書、國成一、〉 平康(康平出畢)〈史記、尚書、禮記、輔定、永範、〉 平和〈尚書、行盛、〉 政善〈擧周一〉 政和〈禮記、典言資業一、實綱一、有綱一、敦國一、資長一、匡房一、〉 政平〈符瑞、後漢書、家經一、〉 政治〈尚書、孟子、敦光一、行盛一、行光一、〉 養壽〈史記、文選、後漢書、實政一、成季一、敦光二、長光一、〉 養治〈史記、實光一、長光一、敦周一、資長、〉 養元〈漢書、成光、〉 仁寶〈孝經、光範一、〉 仁保〈孟子、永範一、〉 仁成〈淮南子、宗業、〉 保寧〈後魏孝登高文、有元一、〉 保貞〈帝王秘録、永範一、〉 壽長〈晋書、長光、敦周、〉 壽考〈毛詩、時登〉 應暦(暦應出畢上下)〈宋書志、永範一、俊憲一、敦周一、〉
p.0311 應仁〈維城典、永範一、在登、〉 久承(承久出畢上下)〈東觀記、爲光五、〉 久長〈呉史、光範一、高嗣一、在成一、〉 乾徳〈俊一〉 乾綱〈維時〉 能成〈周易、輔正一、〉 能安〈尚書、輔正、〉 休和〈左傳、輔正一、〉 玄通〈通直一〉 義同〈長衝雲憲云、家經一、〉 恒久〈周易、輔正一、行盛一、〉 貞久〈周易、敦光三、成光一、〉 貞嘉〈文選〉 寛祐〈禮記、正家二、長成、〉 寛惠〈後漢書、兼光、〉 泰和〈楊子法言、擧周、〉 萬安〈呉志、後漢書、茂明、〉 萬祥〈文選〉 老壽〈後漢書、茂明、〉 淳仁〈文選、俊憲一、〉 淳徳〈史記、有元、〉 盛徳〈周易、擧周、〉 喜康〈尚書、俊經一、〉 喜元〈貞觀政要、光範、〉 繼天〈擧周〉 福應〈老子疏、光範、〉 禎祥〈後漢書、兼光、〉 文昭〈御註孝經、資實、〉 文承〈文選、爲長、〉
〈本云〉以上長成抄ス、猶漏脱號多レ之、
後嵯峨院以後、載二勘文一不レ被レ用年號、
貞吉〈周易、爲長、〉 貞正〈唐暦、兼資、尚書、敦繼、易正義、藤範、〉 祿永〈後漢書、淳高、尚書、光兼、〉 祿長(長祿出畢)〈尚書、光兼歟、〈本不詳〉〉 永康(康永出畢)〈尚書、光兼、家倫、〉 永寧〈史記傳、俊光、〉 康承〈長短經、光兼二、〉 康暦〈唐書、公良、在登、〉 康萬〈毛詩、光兼、〉 康豐〈毛詩、經業二、〉 正建〈晋書、經範、〉 正保〈尚書、信房二、〉 正萬〈尚書、光兼、〉 正弘〈周易註疏、淳範二、〉 正永〈後漢書、在正、在淳、〉 元延〈晋書、經範二、茂範二、明範、淳範二、〉 元寧〈東觀漢記、淳高、〉 元萬〈周易、信房、〉 元觀〈白虎通、茂範、〉 寛正〈史記、淳高在常二、在嗣、〉 寛安〈毛詩、淳高、信房、高長、同正義、在輔、藤範、〉 寛久〈會要、在嗣、〉 寛應(本云、應字爲度歟、此事不審、)〈後周書、在淳、〉 天聰〈晋書、淳高二、〉p.0312 天觀〈尚書正義、經範、明範、家高、文選、在兼二、〉 天符〈文選、在嗣、〉 天貞〈老子經、資名二、〉 天嘉〈博物志、在輔、〉 天休〈晋書、在登、〉 天建〈尚書、藤範、〉 文仁〈春秋緯、經範、淮南子同、山海經、在匡二、在成、〉 文安〈晋書、經光、兼仲、兼綱、長綱、尚書、信房、行光、〉 文元〈隋書、在章二、在淳、〉 文嘉〈文選五注、在章、〉 文弘〈晋書、在嗣、在兼三、家高、唐書、在登、〉 文久〈梁書、長輔、〉 文齋〈尚書、敦繼、〉 文觀〈周易義廣會、俊光三、〉 文明〈周易、家倫、〉 應元(元應出了)〈周易、淳高三、良頼、〉 應久〈尚書注疏、在嗣、〉 應承〈後漢書、長輔、〉 應寛〈周易正義、茂範、〉 應萬〈文選、家高、〉 應仁 嘉惠〈管子、信盛、漢書、在登、〉 嘉萬〈宋書、在章、〉 嘉觀〈史記、俊光、〉 嘉慶〈毛詩、敦經二、家倫、在盛、在登、禮記疏、〉 大安〈漢書、公良、〉 大保〈尚書、公良、〉大嘉〈藝文類聚、貞觀政要、在公二、〉 大長〈周易注疏、在兼、〉 長仁〈貞觀政要、公良、〉 長祿〈韓非子、長成二、〉 長祥〈修文殿御覽、資宣二、俊光二、〉 長永(永長出了)〈藝文類聚、在嗣、〉 長應(應長出了)〈史記、在嗣、在輔、〉 長寧〈晋書、淳範、〉 長養〈五行大義、資名二、〉 長正(正長出了)〈周易注疏、在輔、〉 長康〈金樓子、在輔、〉 延元(南方)〈梁書、公良、長成、高長、〉 延嘉〈援神契、長成、晋書、經光三、瑞應圖、高長、〉 延文〈漢書、資宣、大宋實録、淳範二、〉 建承〈魏志、經範、金樓子、高嗣、〉 建明〈晋書、信房、後漢書、光兼、文選、長成三、〉 建萬〈貞觀政要、長成、周易、家高、〉 建祿〈唐書、良頼、〉 建平〈漢書、在公、在輔、〉 建文〈唐書、明範、淳範二、在登、〉 建嘉〈晋書、淳範、〉 建安〈漢書、在輔、〉 建聖〈後漢書、在輔、〉 建福〈毛詩正義、藤範、〉 建貞〈通典、藤範、〉 治建(建治出畢)〈周禮、經光、在公、〉 仁應(應仁出了上下)〈北齊書、經光三、兼仲、在登、〉 仁豐〈貞觀政要、在章、〉 仁永(永仁出了)〈藝文類聚、在章、在匡、〉 仁長〈晏子春秋、在嗣二、〉 仁正〈貞觀政要、在輔、〉 仁興〈漢書、在兼二、俊光、〉 仁化〈隋書傳、列子俊光、〉
p.0313 仁養〈漢書、行氏、〉 觀仁〈尚書、公良、莊子、氏種、〉 萬長〈修文殿御覽、公良、長輔、〉 萬應〈同上、在嗣、〉 萬寧〈周易、行氏、〉 安延〈禮記、信房、〉 安寛〈春秋正義、淳範、〉 安長〈五行大義、在兼、〉 保祐〈孝經述義、長成、〉 保徳〈鹽鐵論、兼倫、〉 昭長〈宋書、光兼二、兼倫、〉 寧永〈尚書、光兼、〉 寧長〈尚長、五行大義、在輔、在嗣、〉 慶長〈毛詩注疏、高長、在輔二、俊光、毛詩、在嗣、在兼、〉 慶安〈周易注疏、在輔二、〉 慶仁〈後漢書傳、家高、〉 咸保〈桓子新論、高長、漢書、種範、〉 徳保〈尚書、在公、〉 徳永(永徳出了)〈尚書、在公、在輔、〉 徳弘〈帝範、在嗣、〉 暦久〈後漢書、長守、〉 暦觀〈後漢書、茂範、〉 暦萬〈後漢書、在公、在輔、〉 暦長〈後漢書、在輔、〉 遐長〈貞觀政要、資宣、〉 和元〈唐書、長成、尚書、在兼、〉 養仁〈隋書、兼仲二、〉 齊萬〈尚書、敦經、〉 齊治〈禮記正義、俊光、〉 弘元(元弘出了)〈後漢書、在嗣二、家高、在淳、〉 弘建〈晋書、淳範二、〉 乾嘉〈藝文類聚、在兼、〉 明長〈禮記、敦繼、〉 久應〈會要、俊光、〉 久化〈隋書傳、俊光、〉 祥和〈修文殿御覽、在登、〉 雍和〈史記、在淳、〉 寶安〈後漢書、在成、〉 寶仁〈文選、兼繼、〉 至正〈禮記、勝光、〉 至安〈貞觀政要、綱光、〉
p.0313 一近世の年號、古へ勘文に出て被レ行ざりし號多し、今其一二を抄す、
天和 貞治改元の時、文章博士在成考の内にあり、又延元の改元の時、式部大輔長員の考、貞和改元に、文章博士宗範の考、觀應改元に、式部大輔長員の考の内等に出し、
慶長 元弘改元の時、文章博士在淳の考、正慶の改元に文章博士在成の考等に出たり、
慶安 正慶改元の時、正三位在登考の内に出たり、
右の外に、猶近年の年號を昔も書出されしが、難ありて止みぬるを、再び勘文を奉りて、天下のp.0314 號となりしも多かり、年號さへ時に用ひられずして、又期ありて被レ行けるあり、人の世の擧止めらるとも其期有る事にこそ、
p.0314 永長元年十二月十七日癸酉、今日大乘會始也、〈但無二歌舞一也〉申時許左大臣被レ參二仗坐一、〈◯中略〉秉燭之程、左大辨被二參入一、以二藏人辨時範一被レ下二年號勘文一、〈◯中略〉是依二天延例一可レ行者、彼時有二天變地震一也、〈◯中略〉今夜可レ奏二吉書一、予〈◯藤原宗忠〉先參二御直廬一内二覽吉書一、〈美作國年料米解文、指レ笏用二文杖一、◯下略〉
p.0314 中右記、康和元年八月廿八日戊戌、今日可レ有二改元一也、〈◯中略〉仰云用二康和字一、〈◯中略〉左少辨時範先覽二吉書於左大臣一、〈美濃國年料米〉主上御二出晝御座一、左少辨奏二件年料米解文一、歸二出陣一下二左大臣一、〈返給下レ史云々◯下略〉
p.0314 永久六年〈◯元永元年〉四月三日乙卯、申時許外記來云、今日俄可レ有二改元定一、必可二參仕一由、頭辨所二仰下一也者、〈◯中略〉頭辨來仰云、〈◯註略〉改元可レ用二元永一也、〈◯中略〉欲レ有二吉書一、而御物忌間、上臈職事一人不レ籠如何、殿下所レ被レ仰之故也、〈◯中略〉仍被二相尋一之處、輕御物忌也、仍被レ破了、右中辨雅兼朝臣、申二年料米解文於内大臣一、〈加賀國〉見了返給、
保安元年四月十日庚辰、頭辨以二改元勘文一〈件勘文、今朝先被レ奏云々、〉下二内府一云々、〈◯中略〉頭辨來仰云、依二御愼一可レ有二改元一、以二元永三年一爲二保安元年一、〈◯中略〉則持二參詔書草一、〈書二紙屋紙一〉召二内記一令レ進レ筥、〈少内記廣兼召儲也〉入レ草付二頭辨一、内覽返給、〈◯中略〉内大臣任二宣命趣一可レ免二囚人等一之由示二給別當一、別當起坐仰二撿非違使等一、仍不レ召レ佐、書二黄紙一入レ筥進、〈又不レ可二内覽一由被レ仰〉又進二弓場一付二頭辨一被レ奏、御畫日了返給、復二本座一召二外記一、被レ尋二中務輔一、外記申云、輔近代不レ被レ成二召儲一、丞國高也、可レ召由被レ仰、中務丞參二膝突一下二給詔書一、〈乍レ入レ筥給〉次頭辨申二官吉書一、是加賀國年料米解文也、内府被レ仰二可レ奏由一、頭辨内覽奏聞、〈殿下御二殿上一、主上出二御晝御座一、〉出二仗坐一下申、内府則返下給、頭出二床子一、下レ史歟、又頭中將宗輔、又下二吉書一、〈臨時公用〉召二左中辨爲隆朝臣一下給、人々退出、于レ時及二夜半一、〈◯下略〉
p.0314 詔書事 改元、改錢并赦令等之類也、但臨時大事爲レ詔、尋常小事爲レ勅也、
p.0315 上卿奉レ勅、仰二内記一令レ作二詔書一、即令レ賷二内記一、就二御所一奏聞、〈今案、先以二草案一可レ奏歟、〉御畫日畢、著二本座一、召二中務輔若丞一於二陣膝突一給レ之、畢省寫二一通一進二外記一、外記連書、大臣以下署所印署訖、大納言覆奏、〈外記進レ文、大納言奏於二東階下一、付二内侍一等之儀如レ常、〉御可訖返給、大納言至二階下一、取二奏状一給二外記一、還二著本座一、外記於二陣前小庭一、候二上卿氣色一、稱唯持退畢、或外記持二退於膝突一、上卿取以開二見御可之有無一畢、返二給外記一、外記持退畢、但内記不レ參之時、以二博士辨一令レ作二詔書一畢、上卿奏云、内記不參、以二辨某一令レ奉二仕詔書一者、勅許之後、仰レ辨令レ作、辨以二草案一不レ入レ筥、取二副笏一奉二上卿一、上卿召二外記一、筥入レ之奏聞、詔勅下二所司一之後、有レ誤之時、更召返如二下儀一奏聞改直又下二給之一云々、
p.0315 詔書事〈改元、改錢并赦令等類也、臨時大事爲レ詔、尋常小事爲レ勅、〉
上卿奉レ勅仰二内記一令レ草レ之、即令レ賷二内記一、就二御所一令レ奏、返給、令二清書一之、〈用二黄紙一〉又參上令二奏聞一、御畫日、〈月字已上内記書レ之、一日、二日、是御畫也、見二令總記一、〉畢還二著本座一、召二中輔一給レ之、〈乍レ入二内記所筥一給レ之、見二貞信公延喜十四年二月十五日御記一、輔若不レ參給レ丞、丞已上不レ參者、召レ録令二外記傳給一之、希有例也、〉省寫二一通一進二外記一、參議已上署畢、大納言覆奏、〈外記進レ之、大納言披見返給、外記退立、上卿起レ座至二軒廊西一間一、取レ之付二内侍一、舊例、先入レ筥覽レ之、次挿二文杖一持候、近代乍レ挿二文杖一覽レ之、若大納言不參者、中納言奏レ之、或大臣奏云々、中納言又不參時例也、内侍不レ候之時、進二御所一、付二藏人一奏聞、〉御可畢、〈覆奏詞奧、可一字、自二年號一頗寄レ奧書レ之、〉返給、大納言至二階下一、取レ奏給二外記一、〈於二本所一給レ之、外記立二第二間南頭一、上卿取レ笏退歸、〉還二著本座一、外記持二候膝著一、上卿取レ之、見二御可之有無一、〈舊例、外記退出後、更入レ筥覽レ之、而近代如レ此、下畢後若有レ誤、可二改正一者、召返奏聞、如二下時儀一、改畢奏聞下給、又如レ初云々、若有レ所レ誤見者可レ奏也、若有二落字一、令レ奏二事由一、召二詔書作者一令二書加一、无二殊儀一、見二天慶五年正月五日私記一、〉
p.0315 延暦元年八月己巳、詔曰、殷周以前、未レ有二年號一、至二于漢武一始稱二建元一、自レ玆厥後、歴代因循、是以繼體之君、受禪之主、莫レ不二登レ祚開レ元錫レ瑞改一レ號、朕以二寡徳一、纂二承洪基一、託二于王公之上一、君二臨寰宇一、旣經二歳月一、未レ施二新號一、今者宗社降レ靈、幽顯介レ福、年穀豐稔、徴祥仍臻、思與二萬國一、嘉上此休祚一、宜下改二天應二年一曰中延暦元年上、其天下有位、及伊勢大神宮禰宜、大物忌、内人、諸社禰宜祝、并内外文武官把笏者、賜二爵一級一、但正六位上者、廻二授一子一、其外正六位者不レ在二此限一、
p.0315 改二年號一詔
p.0316 詔、朕聞、善政之報、靈貺不レ違、洪化之符、神輸必至、朕以二寡薄一、辱奉二丕基一、徳未レ動レ天、惠非レ感レ物、而去正月、即位之日、但馬國獲二白雉一一、二月十日、尾張國言、木連理、閏二月二十一日、備後國貢二白鹿一一、或體誤二曉月一、羽毛映二於丹墀一、或幹凌二寒霜一、枝柯被二於青鄣一皆應レ符改レ色、感レ祥變レ容、豈人事乎、蓋天意也、當二是上玄錫レ祉、下民蒙一レ恩、今若仰而不レ宣、謂二朕孱昧一、思下與二海内一同中此休徴上、亦夫因レ瑞建レ元、非レ無二故實一、嗣レ位紀レ號、旣有二前聞一、況今柘燧改レ烟、葭灰正レ氣、風物和暖、卉木繁滋、宜下逮二佳辰一以開中寶運一、其改二貞觀十九年一爲二元慶元年一、自二今日昧爽一以前、大辟以下罪無二輕重一、已發露、未發露、已結正、未結正、繫囚見徒、悉皆原放、但犯二八虐一、故殺、謀殺、強竊二盜、私鑄錢、常赦所レ不レ免者、不レ在二赦例一、又内外文武官、主典已上賜二爵一級一、亓正六位上者、廻二授一子一、五位已上子孫、年廿已上者、敍二當蔭之階一、僧尼滿位已上、加二位一階一、亓大法師位已上者、廻二授弟子一、夫以九州雲接、百郡星連、天降二禎祥一、地有二處所一、宜レ復二尾張、但馬、備後等三國百姓、當年徭役十日一、就レ中瑞所二正出一、特須二優矜一、亓 二葦田郡一、勿レ輸二今年之調一、春部及養父郡、並免二當年之庸一、亓接二得神物一者、多治比部橘、但馬公得繼等、敍二正六位上一、賜レ物准レ例、看二著珍木一者、僧道能、到岸等、授二位二階一、並賜物准レ例、庶使下鴻休罔レ極、流二遠近一而普霑、鳳暦無レ疆、配二乾坤一而彌久上、主者施行、元慶元年三月六日、
p.0316 外記日記云、承平八年五月廿二日戊辰、〈◯中略〉詔、朕夙膺二慈睠一、虔奉二叡圖一、萬姓爲レ心、荷レ責之憂自切、四海在レ念、負レ重之懼彌深、履レ薄馭レ朽、九二載于玆一、而保章司レ暦、去春奏以二厄運(○○)之期一、坤徳失レ宜、今夏驚二其地動(○○)之異一、靜思二彼咎一、實疾二于懷一、方今訪二遺風於西漢一、畏(○)二驚誡(○○)一而開(○○)レ元(○)、撿二舊跡於先朝一、忌二革命一而改レ號、是則修レ徳勝レ災、與レ物更始之意也、可下改二承平八年一爲中天慶元年上、大二赦天下一、今日昧爽以前大辟以下、罪無二輕重一、已發覺、未發覺、已結正、未結正、及犯二八虐一者、皆悉赦除、又一度竊盜計レ贓三端已下者、同放免、但強竊二盜、故殺、謀殺、私鑄錢者、不レ在二此限一、又承平三年以往、調庸未進在二民身一者同亦免除、若與レ善之非レ忘、何轉レ禍之可レ疑、宣二布遐邇一、俾レ知二朕意一焉、主者施行、
p.0316 元應三年、大外記中原朝臣師緒勘例、應和元年例、
p.0317 同五年〈辛酉〉二月十六日庚辰、左大臣以下參入、有二改元之事一、詔文云、忝居二握符之名一、未レ知二馭俗之道一、況比年災異荐臻、此歳辛酉革命之符已呈、懍々乎如二乘レ奔而無一レ轡、方今緬撿二蚩篇一、遠尋二鳥策一、上古帝王、南面稱レ孤者、畏二警誡一而建元、或警二咎徴一而改レ號、是則修レ徳却レ禍、與レ物更始之義也、改二其天徳五年一爲二應和元年一、〈◯下略〉
p.0317 改元詔 慶保胤
詔、唐堯之馭レ民也、敬雖レ授レ時而未レ號、漢武之撫レ俗也、初以二建元一而爲レ名、自レ爾以來、或遇二休祥一以開レ元、或依二災變一以革レ暦、朕以二庸虚一、猥守二神器一、愼レ日是幾多日、計レ年唯十五年、天之未レ忘、屡呈二妖恠一而相誡、徳之是薄、雖レ致二兢惕一而不レ消、去年黍稷之遇二炎旱一矣、民戸殆無レ天、宮室之爲二灰燼一焉、皇居唯有レ地欲レ修、又作二百姓之費一、將レ廢素非二一人之居一、惻二隱于懷一、寤寐難レ忍、方今上玄之譴便如レ是、中丹之謝欲二奈何一、宜下改二正朔一以易二率土之聽一、施二徳政一以解中圜扉之寃上、其改二天元六年一爲二永觀元年一、大二赦天下一、今日昧爽已前、大辟已下罪無二輕重一、已發覺、未發覺、已結正、未結正、咸皆赦除之、又一度竊盜、計贓三端已下、同始赦免、但犯二八虐一、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所レ不レ免者、不レ在二赦限一、又老人及僧尼百歳以上、給二穀四斛、九十以上三斛、八十以上二斛、七十已上一斛一、庶幾攘二餘殃於未萌一、期二弊俗於有截一、布二告遐邇一、令レ知二朕意一、主者施行、
永觀元年四月十五日
p.0317 慶應元年四月七日改元定〈(中略)改二元治二年一爲二慶應元一〉 十三日、去九日加名詔書寫、宗岡玄蕃少允所望人々連名、雜掌當二廻達一之由、自二廣幡一被レ傳、寫取梅溪〈江〉被二傳達一了、
詔、感二禎祥一而建レ元聖人常制、依二咎徴一以改レ號王者恒規、朕庸昧承レ運膺二萬國之貢珍一、瑞應未レ呈値二外夷之窺一レ邊、加以去年秋七月、防長凶徒卒犯二禁闕一、銃炮餘火忽灰二輦下一、海内殆將二扇動一、庶民不レ得二安居一、朕之不徳、民其何辜、方今顧二思天下形勢一、如二素卵之累殼一、似二玄燕之巣幕一、戰々兢々不レ知レ所レ裁、宜從二先蹤一以施二新元一、蓋與レ物更始之義也、其改二元治二年一爲二慶應元年一、大二赦天下一、今日昧爽以前、大辟以下罪無二p.0318 輕重一、已發覺、未發覺、已結正、未結正、咸皆赦除、但犯二八虐一、故殺、謀殺、私鑄錢、強竊二盜、常赦所レ不レ免者、不レ在二此限一、又復二天下今年半徭一、老人及僧尼年百歳以上給二穀四斛一、九十以上三斛、八十以上二斛、七十以上一斛、庶幾被二徳風于四極一、致二太平于萬邦一、普告二遐邇一、俾レ知二朕意一、主者施行、
慶應元年四月七日
二品行中務卿臣
正五位下守中務大輔臣卜部朝臣教久宣
正五位上行中務少輔臣藤原朝臣資生〈奉行〉
p.0318 九月八日御布告寫
今般御即位御大禮被レ爲レ濟、先例之通被レ爲改二年號一候、就而ハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ、屡改號有レ之候得共、自今御一代一號ニ被レ定候、依レ之改二慶應四年一可レ爲二明治元年一旨、被二仰出一候事、
九月
改元詔
詔、體二太乙一而登レ位、膺二景命一以改レ元、洵聖代之典型、而萬世之標準也、朕雖二否徳一、幸頼二祖宗之靈一、祗承二鴻緒一、躬親二萬機之政一、乃改元欲下與二海内億兆一更始一新上、其改二慶應四年一爲二明治元年一、自今以後、革二易舊制一、一世一元以爲(○○○○○○)二永式(○○)一、主者施行、
明治元年九月八日
p.0318 御即位新式〈并建元論〉 宮埼幸麻呂
御一世一元の制を定められしは、廟堂の大議に決せし者なるべけれど、また學者の意見をも採用せられしは疑なき事なり、餘さきに加藤櫻老翁が、當時其すぢの人に出したる意見書を見し事あり、そは水戸藤田一正翁の建元論を引きて、いたく一世數號の不可なるよしを辨へp.0319 られたる者なりき、これら必參考の一とはなりし者なるべし、其建元論は、早く寛政三年辛亥〈一正翁年十八〉になれる者にて、其文左の如し、
建元惡乎始、始二於漢武一、然則非二古聖人之制一歟、曰其法固始二乎漢武一、而其義則未二嘗不一レ本二於先王之意一也、古者天子有二四海一、諸侯有二一國一、王公即レ位、各紀二元年一、愼二其始一也、毎歳天子頒レ朔、諸侯奉而行レ之、謂二之王正月一、大一統也、雖レ然各國紀レ元、彼此不レ一、則是曷若下夫年號之建、通二于天下一而一統爲中最大上也哉、秦廢二封建一、海内混一、而漢猶有二諸侯王一、當時紀レ年、上書二天子大一統之年一、而下書二諸侯王自有レ國之年一、譬如三魯孝王刻レ石曰二五鳳二年魯三十四年一是已、何必王正月云乎哉、故年號之行、通二於天下一、雖二僭レ位假レ號者一、無三復容二其僞一矣、此非三漢武之智、能過二聖人一、而先王之制不レ及二後世一也、凡天下之事、必粗二於始一而精二於終一、略二於先一而詳二於後一、其勢然也、宋儒胡氏以爲、元原二於一一、而後世紛々、別建二年號一、失二其義一矣、而朱氏譏二其説高而不一レ曉二事情一、廼曰、如今中興以來、七箇元年、若無二年號一、則契券能無二欺弊者一乎、可レ謂レ當矣、然則年號旣建矣、元亦可二屡改一乎、曰不レ然、元之爲レ言首也、人君即レ位、旣已紀レ元、豈可二復改一乎、而其復改者、戰國之末造也、餘習所レ存延及二漢氏一、文景中元後元、再三改レ元、至二武帝一建二年號一、則其改亦屡矣、雖レ不レ能レ無レ失二愼レ始之意一、而亦能得二一統之義一、夫復何咎、後世妄庸之主、踵而行レ之、一世數元、可レ謂レ濫也已、雖レ然唐宋之君、傳レ世二十、歴レ年三百而止、則一帝數號、猶尚可レ紀也、夫皇朝自三孝徳帝肇建二大化之號一、至レ今六十有餘世、一千有餘歳、其間或以二祥瑞一名レ年、因二災異一改レ號者、殆過二二百一、皇統之隆傳二之無窮一、而與二天地一終始、則自レ今以往、一帝數號、其可レ勝レ紀邪、革之象曰、先王以治レ暦明レ時、而讖緯家因有二革命革令之文一、自三延喜中博士清行首唱二此説一、辛酉甲子必爲二改元一、蓋治レ暦明レ時、有二變革隨レ時之義一、故取二其象一云爾、革命乃湯武順レ天應レ人之事、非レ所レ施二於萬古一姓之邦一、而讖緯誕妄、又何足レ言哉、且夫祥瑞不レ足レ恃也、災異固可レ畏也、能知二其不一レ足レ恃、則何必名レ年、能知二其可一レ畏、則修レ徳以勝レ之而已、亦何必改レ元、明氏之建レ國也、累世相承、於二即位之踰年一改レ元、終身不レ易、其於二一p.0320 統愼始之義一、可レ謂兩二得之一矣、謝肇淛稱三其卓二越千古一、非二虚論一也、嚮者所レ謂粗二略於始先一、而精二詳於終後一、不二其然一乎、雖レ非二先王之制一、而亦能本二於先王之意一、則雖二百世一遵行可也、
明治元年を距ること七十八年、旣に此論を立られしは卓見と謂ふべし、よりて此に附記す、
p.0320 讀二改元詔書一絶句
明王欲レ變舊風煙、詔出二龍樓一到二海壖一、爲向二樵夫漁父一祝、寛平兩字幾千年、
p.0320 抑又菅家(○○)と申は、道眞公的々の御苗裔として、今に文筆を家業とせらるヽ事也、高辻、五條、東坊城、唐橋、清岡、桑原、 四軒は本家等同にて、清岡桑原は庶流也、〈◯中略〉又年號之事も此家より選出事に候、
p.0320 年號の文字は文章の博士より撰進する也、菅家江家かわる〴〵撰びて奉る也、其年の年號行るヽ間は、年號料とて、公儀よりその家へ別祿を百名ヅヽ賜る事なり、
◯按ズルニ、此ニ菅家江家互ニ年號ヲ勘進スル如ク云ヘレド、必シモ然ラズ、後世ハ獨リ菅原ノ一流ノミ勘進シテ、他家ハ殆ド之ニ與ラズ、又年號料ノコトモ他ニ所見ナジ、甚ダ疑フベシ、
p.0320 長保寛弘之間、天下幸甚、老儒不レ堪二傾感一、聊述二所懷一、
長保初年開二后房一、寛弘頻歳誕二親王一、二之年號臣所レ獻、仰望江家(○○)父子昌、〈謹撿二舊事一、延喜年號、紀中納言所レ獻、其子淑光、頻歴二顯要一列二卿相一、天暦年號、江中納言所レ獻、其子齊光、頻歴二顯要一列二卿相一、長保寛弘之政、擬二延喜天暦一、江家因レ斯所レ憑居レ多、〉
p.0320 文明十九年四月廿五日、勘者事、翰林一人之間、今一人可レ被レ召二加別勘文一、唐橋前中納言、日野前中納言、〈量光〉菅宰相、〈在永〉高辻三位長直等、可レ被レ載二御點一歟之由申了、 廿日、今日改元定也、〈◯中略〉抑今度勘者事、日野前中納言〈量光〉御點也、雖レ然在國、〈因幡國〉近日依二國中亂逆一、通路等不レ叶之間、可二罷上一候事不レ叶之由、以二便宜一申上之由、父一品〈資綱卿〉申レ之、近代年號勘文日野一流(○○○○)不(○)レ進(○)二勘文(○○)一、今度不參、無念之至歟、各以二此所存一、雖レ爲二何様之儀一、可二召上一之處、處于外之條、且口惜、且未練之至也、菅原五人(○○○○)不(○)レ交(○)二
p.0321 他人(○○)一之條(○○)、是始歟(○○○)、可二勘見一事也、
p.0321 享保廿一年二月廿二日、於二省中一改元定、勘者仗議、公卿等被レ定云々、今度勘者被レ加二清二位一、以二主上上皇思召之由一、於(○)二清家(○○)一年號勘進希代之例(○○○○○○○○)云々、 廿八日、武傳參洞、兩人言下上年號勘者被レ加二清二位一之事上、 四月廿八日、改元定、
p.0321 年號勘文書様 菅家書様〈本ニハ當家書様ト有レ之、雖レ然予如レ此書寫之、前後ニ皆當家ト書ハ菅家事也、〉
勘申
年號事
天保
毛詩云、天保下報レ上、君能下レ下以成二其政一、臣能歸レ美以報二其上一、天保二定爾一、亦孔之固、注云、保安也、天之定レ汝亦固也、
皆安
尚書云、官職有レ序、衆政惟和、萬國皆安、所爲至治也、
平康
周書云、畯民用章、國家平康、注云、賢臣顯用、國家平康、
能成
周易云、日月得レ天而能久照、四時變化而能久成、聖人久二其道一而天下化成、又云、能成二天下之務一、能通二天下之志一、注云、各得二其所一レ桓、故皆能久長也、
和平
周書云、聖人感二人心一而天下和平、
右依二 宣旨一勘申如レ件p.0322 永祚二年三月十三日 正四位下行式部權大輔菅原朝臣輔正
天徳五年二月十六日改元、〈應和〉應和四年七月十日改元、〈康保〉此兩度文章博士文時勘申之由、雖レ有二所見一、勘文之體不二注載一之間不二分明一、仍此相公勘文注二載之一、長徳四年二月二十日改元、〈長保〉參議三品之時、御勘文書様、更無二相違一、此後菅家之輩勘文書様如レ此、但長元十年四月十九日改元、〈長暦〉菅原忠貞〈于レ時從四位上兵部權大輔文章博士〉勘文、右状不レ載下依二宣旨一之三字上、右勘申如レ件、如レ此載レ之、如何、又承徳三年八月廿七日改元、〈康和〉菅原在良〈于レ時從四位下文章博士〉勘文、勘申年號事、別行不レ書レ之、一行書レ之〈如二他家書様一〉如レ此、但此以後度々年號勘文如レ然不レ書、別行書二年號事三字一、〈如二菅家書様一〉承徳三年書様不レ可レ然歟、若又古勘文本等傳書之誤歟、將又天喜六年七月日改元、〈康平〉菅原定義勘文、或本勘申年號事、一行書レ之、雖レ然他本等不レ然、如二普通一二行書レ之、但本書誤之條無レ疑歟、在高卿二品之後勘文、書様無二相違一、至二參議二品一之時、於二書様一者不レ可レ有二相違一、納言之後書様無二先例一、尤可レ有二斟酌一歟、
他家書様〈菅家作之抄也、仍非二菅原一ハ他家之由載レ之了、自餘准レ之、〉
勘申年號事
天受
孟子曰々々
治安
漢書文帝紀曰々々
右依二 宣旨一勘申如レ件
右大辨大江朝臣朝綱
勘申年號事
成徳p.0323 荀子々々
政和
禮記曰々々
平泰
老子曰々々
右依二 宣旨一勘申如レ件
式部大輔兼播磨守藤原朝臣資業
勘申年號事
承天
周易曰々々
應徳
典言符命曰々々
右依二 宣旨一勘申如レ件
大學頭兼文章博士東宮學士藤原朝臣明衡
菅家之外、他家々勘文書様、皆悉此定、更無二相違一、勘申年號事、一行書レ之、不レ書二年號月日并位等官一、〈有二兼官一者書レ之〉姓尸名許載レ之、至二參議一之時無二相違一、納言後書二改之一、但萬壽五年七月廿五日改元、〈長元〉善滋爲政〈于レ時文章博士河内守〉勘文、名字下書二勘申之兩字一、此外如レ此之事不二見及一、長元十年四月廿一日改元、〈長暦〉藤義忠〈于レ時大學頭大和守〉不レ書二勘申之字一、初行書二年號兩字一、不レ載二事字一、又不二載レ右状一、 大治六年正月廿六日改元、〈天承〉文章博士江有元勘文載二年號月日位等一、乞二返勘文一止二年號等一進上云々、
江亭被レ送二大外記許一書状p.0324 所レ令レ獻之勘文、只暫可二返遣一候、遣二因幡權守之許一令レ書之處、書二加年號月日一候云々、无二先例一云々、可二書改一候也、失錯候也、大治六年正月廿七日、從四位上行文章博士兼讃岐介大江朝臣有元、此例少候也、菅家、定義、在良、如レ此所二書進一候也、不レ可レ爲二指南一候歟、不レ書二月日一之時、不レ書レ位候也、令云改即可二進覽一多謹言、文章博士有元、
大治六年六月廿八日、夜半江亭被レ來、安寧者天皇之號也、早可レ被レ止也、直止二安寧之勘文一、被レ取二元勘文一畢、
納言以後書様
勘申年號事
嘉保
史記曰々々
承安
論衡曰々々
右依二 宣旨一勘申如レ件
權中納言大江朝臣匡房
寛治八年十二月 日改元、〈嘉保〉匡房卿納言之後、初度勘文如レ此、書様與二日來一無二相違一歟、但或一本不レ載二端勘申并右状一、雖二同常體一、諸本如レ此、仍乍二不審一注載之、
年號事
政和
毛詩云々々
永長p.0325 後漢書云々々
權中納言大江朝臣匡房
嘉保三年十二月 日改元、〈永長〉書様如レ此、此後康治五年、〈于レ時太宰權帥〉長治三年、嘉承三年、天仁三年等勘文皆此定也、又保延七年、康治三年等實光卿勘文、并仁安四年資長卿勘文等皆以如レ此、此以後之人人更無二相違一、前官之後前權中納言藤原朝臣〈某〉納言後進二年號一、紀納言例也、彼時書様別二於非參議一歟之由、諸本注二付寛治八年匡房卿勘文奧一、雖レ然彼納言勘文無二所見一歟、抑菅家者納言以後勘文書様、依レ無二先規一、頗不審也、尤可レ加二斟酌一歟、但聊廻二愚案一、准二他家例一不レ可レ書二勘申二字并右状一、奧可レ書二年號月日位官姓尸名一歟、於二年號位等一者、菅家皆書習之故也、但至二納言一者、尚廻二思慮一可二相計一歟、
p.0325 一改元事
八月〈◯長享三年〉十四日町來、有二改元之沙汰一、雜談云、寶仁之引文、以二珍寶一爲二仁義一トアリ、其ヲ以二珍寶一作二仁義一トカク、故實也、爲ノ字ヲ書時ハ爲仁(○○)〈◯土御門〉ツヾク也、故作字トナス、又引文云、君子體二于仁一ト云ハ、本文ハ于字不レ入、雖レ然體仁(○○)〈◯近衞〉御名字之間、于字ヲ入テ書事故實也、改元可レ爲二廿一日一云々、然者先被レ召二内勘文一、長直卿以二爲長卿參議之時例一、年號字四勘二進之一、雖レ然無二可レ然字一之間、後又依レ仰、年號字二被レ進云々、廿一日丁未改二元延徳一、〈菅宰相撰二進之一〉
p.0325 年號引文
論語(ロンコ)〈在良始出〉 孝經(キヤウキヤウ)〈永範〉 禮記(ライキ)〈資業〉 毛詩(モウシ)〈輔正〉 尚書(シヤウシヨ)〈輔正〉 周易(シユヤク)〈同〉 左傳(サデン)〈同〉 論語疏(シヨ)〈資長〉 孝經援神契(エンシンケイ)〈光範〉 儀禮(キライ)〈成季〉 尚書傳(デン)〈實綱〉 尚書正義〈明衡〉 禮記正義〈定親〉 周易注疏(チユウソ)〈永範〉 詩緯(シノイ)〈敦宗〉p.0326 易緯(ノイ)〈敦光〉 尚書堯典〈國成〉 毛詩章〈敦季〉 尚書孔安國傳〈敦光〉 周禮〈永範〉 史記〈擧周〉 漢書〈朝綱〉 後漢書〈擧周〉 漢書禮樂志(レイカクシ)〈在良〉 東觀漢記(クワンカンキ)〈長光〉 晋(シン)書〈定親〉 宋(ソウ)書〈在良〉 宋書志(シ)〈永範〉 齊書(セイジヨ)〈義忠〉 北齊書(ホクサイシヨ)〈永範〉 魏志(ギシ)〈長光〉 隋(ズイ)書〈永範〉 呉(ゴ)志〈永範〉 後(ゴ)魏孝文帝登高文〈有元〉 魏文典論〈實光〉 新(ク舊)唐書〈敦周〉 孟子〈朝綱〉 荀子(ジユンシ)〈資業〉 老子〈同〉 抱朴子(ハウハクシ)〈定親〉 淮南子(ヱナンジ)〈實政〉 管子(クワンシ)〈永範〉 孔子(クシ)〈同〉 孟子解義(ノゲギ)〈永範〉 莊子〈實義〉 揚子法(ハウ)言〈敦光〉 顏氏〈永範〉 大公六韜(リクタウ)〈爲政〉 維城典訓(イセイテンキン)〈家經〉 符瑞圖(フズイト)〈同〉 張衡靈憲〈同〉 春秋元(ゲン)命苞(ハウ)〈資業〉 孔子家語(ケゴ)〈同〉 崔寔政論(サイシヨクセイロン)〈定親〉 呂氏春秋〈正家〉 白虎通(コツウ)〈實綱〉 典言(テンゲン)〈行家〉 論衡(ロンカウ)〈匡房〉 博物志(ハクブツシ)〈成季〉 文選〈匡房〉 典言符命(テンゲンフメイ)〈明衡〉 河圖挺佐輔(カトテイサホ)〈敦光〉 春秋繁露〈有光〉 漢武内傳(カンブナイデン)〈成光〉 河圖〈長光〉 帝王秘録〈永範〉 長短經〈光範〉 龍魚河圖〈俊經〉 貞觀政要〈光範〉 御注孝經〈爲長〉 修文殿御覽〈經範〉 宋韻(ソウイン)〈經範〉
p.0326 一元號上下字〈文明改元之後撰〉
p.0327 大〈上三下〉 寶〈上三下一〉 慶〈上一下五〉 雲〈上下一〉 和〈上一下十一〉 銅〈上下一〉 靈〈上一下〉 龜〈上下二〉 養〈上二下一〉 老〈上下一〉 神〈上一下〉 天〈上十五下〉 平〈上一下五〉 應〈上七下十〉 延〈上八下三〉 暦〈上二下十一〉 同〈上下一〉 弘〈上三下二〉 仁〈上四下八〉 長〈上十下六〉 承〈上六下四〉 嘉〈上七下一〉 祥〈上下一〉 壽〈上一下三〉 齊〈上一下〉 衡〈上下一〉 安〈上三下十〉 貞〈上五下一〉 觀〈上一下二〉 元〈上八下十一〉 寛〈上八下一〉 昌〈上一下〉 泰〈上下一〉 喜〈上下三〉 徳〈上一下十〉 康〈上十下〉 保〈上五下四〉 祿〈上下三〉 永〈上十二下五〉 祚〈上下一〉 正〈上十下三〉 治〈上三下十四〉 萬〈上一下一〉 久〈上二下五〉 文〈上八下一〉 建〈上八下〉 福〈上下一〉 禎〈上下一〉 乾〈上一下〉 中〈上下一〉 武〈上一下一〉 至〈上一下〉 明〈上一下一〉 享〈上一下一〉 吉〈上下一〉 化〈上下〉
p.0327 本朝歴代元號之字(載廣運會)
大化(孝徳天皇)、白雉、朱雀、白鳳、朱鳥、以上不二稱來一、文武御宇自二大寶一及二嘉吉一、六十字也、加二化字一爲二六十一字一、
大 寶 慶 雲 和 銅 靈 龜 養 老 神 天 平 勝 字 景 護 同 弘 仁 長 承 嘉 祥 壽 齊 衡 安 貞 觀 元 寛 昌 泰 延 喜 暦 徳 應 康 保 祿 永 祚 正 治 萬 久 文 建 福 禎 乾 享 中 武 至 明 吉 享
p.0327 扨菅家年號を被二選出一法は、六十四文字(○○○○○)、本字は近代増字二十四字(○○○○○○)、上下に顚倒して字を雙也、書經魯論之熟字に符合させ被二書出一事也、
(頭書)六十四字
吉、白、神、乾、康、保、永、寛、和、延、應、承、觀、護、雉、鳳、雲、至、萬、徳、元、仁、弘、祿、喜、文、明、勝、朱、字、鳥、正、禎、嘉、大、享、亨、壽、養、録、同、銅、靈、齊、慶、建、長、治、寶、天、暦、安、貞、福、衝、老、泰、化、祥、武、平、久、祚、景、
増字廿四字
豐、中、奧、光、運、興、國、咸、孝、清、通、聖、熙、隆、顯、紹、淳、曜、靖、開、昭、寧、祐、宣、
p.0327 去る年之冬、某〈◯新井君美〉在洛の日、前攝政殿下〈◯近衞家熙〉と本朝年號の事を論じ申ける事の候
p.0328 ひしに、某申す、我朝の今天子の號令天下に行われ候事は、ひとり年號の一事のみにて、異朝までも、末代迄も傳へ聞ゆべき所に、近き比ほひの年號、大きに古に及ばざる様に覺へ候、是は取用ひらるヽ字の、餘り其數すくなく候によりて、〈僅六十餘字歟〉しかるべき號の得がたきが致す所と存候へば、いかにも用ひらるべき御事の候もの哉と申候ひしに、されば今も新字勘進の事勿論也といへども、新字におゐては不祥の例あるよしを難じ申すに付て、陳ずるに其詞なきが故なりと答仰られき、
p.0328 改元年號の文字
戸田茂睡が職原口訣大事に、改元年號の事、年號の文字定りて六十餘あり、然れば上を下に下を上におきかへ、一字に六十餘の文字をかへ〳〵して、六六三萬六千にても、又三十六萬とも、三十六億萬歳にても、數定ればつくる期あり、盡ると云はよからぬ事也、それによりて改元の時、勘文をはじめて上る人、文字一字を定りたる年號の文字の中へ入る也、天和年號あらたまる時、唐橋殿愼の字を入られし也、唐橋殿又貞享の年號を勘らるとも、一人一字の作法なれば、はや文字をば入られざる也、貞享の年號余人勘らるれば、又文字入也、然れば一字の文字にても、上におき下におきすれば、定り六十字に合せても、百廿の年號あり、是にて濱の眞砂はよみつくすとも、年號の文字の盡る事なき子細あり云々、
p.0328 天仁元年八月三日庚辰、今夕可レ有二改元一也、頭爲房朝臣下二年號勘文於左大臣一、可二定申一之由所二仰下一也、〈◯中略〉藤宰相〈顯〉申云、天仁(○○)、承安可レ被レ用、〈◯中略〉予申云、此年號共不二心行一也、正治ハ返音詞也、頗有二忌諱一音也、天仁ハ音又通二天人一也、年號或漢音(○○○)、或倭音(○○○)、共所レ被レ讀也、天人頗不二得心一、共不二心行一之中、被レ用二正治一如何、人々多被レ同二予詞一、
p.0328 一本朝ノ年號、俗ノ唱ル所ハ呉漢兩音を交て、一定格無レ之、名目抄などにも見
p.0329 へず、年號ノよみやう(○○○○○○○)、訓解を記したる書有レ之候哉、本朝年號の事、先年滋野井殿へ窺申處、凡て呉音に唱る事に候へ共、呉音にて連聲のあしく、聞ニうるさき唱は、漢音にも唱る也、文明慶(ミヤウケウ)長と唱べきを、俗にはブンメイ、ケイ長と云ふはあしヽ、乍レ然難陳の度々音義の惡きは一難を得る事に候へども、先はジユク、ヒヤウ、ナン等ノ音ノあるハ、勘例に省く事之由、又大化は大 と濁音ニ可レ唱事ニ候ヘ共、往昔より大化トスミ來り候類も在レ之候由、此外いろ〳〵の口話御座候キ、年號ノ儀ハ、別に考運會トカ申書御座候由、〈文章家にて秘書ノ由、滋野井家にも御藏本無レ之由承申候、〉
p.0329 慶の字(○○○)年號に用ればケウとよむべき由、されば天慶もてんけうとて、慶長をけうちやうとよむ人あり、榮花物語月宴卷に、てんけい九年と書たり、板本の書たがへるにやと、類本をあつめ校合するに皆おなじ、
p.0329 勘文、并年號の訓法、及唐音對馬讀、
同條〈◯革暦勘文革命仗議記〉に、〈◯中略〉建仁難諱、年號用二對馬音一、御諱用二唐音一、非二深難一歟、〈愚按、仁字已同、和漢之音、差別無二其詮一歟、然而不二復言一、〉兩箇之間、付レ輕可二計用一云々、按に、對馬讀は尼法明、百濟より傳來せる訓法にて、呉音也、法明は、山階寺維摩會興行の尼也、年號の訓法は、漢呉音付レ輕可二計用一よし此文にて知べし、
p.0329 年號字訓を用ひし例 年號の字は、すべて漢の制に習ひて立られしものなれば、音讀にして訓を用ゐず(○○○○○○○○○○)、しかるに天武天皇の御宇、日本紀に、朱鳥を此云二阿訶美苫利一と有を始とせり、さて此後は又かヽる例なくして、又音讀にせし事也、然るに中古の比より、假名書歌の序などいふものに、又紀號を訓讀にせし事あり、是は天下にわかつてかくとなへよとの仰方有にはあらず、唯その假名書のさまによりて、やわらかに訓讀にせしものなり、さればとて後世にみだりに訓讀にはすまじきもの、されども假名書には、又さ書たりとて僻事ともいふまじきな
p.0330 り、唯假名書のうへにのみの事と思ふべきにや、廿一代和歌集の序にも、藤原俊成卿の書れし千載集の序に始めて出たり、その前には見えず、
p.0330 わが君世を知ろしめしてたもち始め給ふと名けし年(○○○○○○○○○○○○)〈◯保元〉より、もヽしきのふるき跡をば、むらさきの庭、玉のうてな、千年久しかるべきみぎりとみがき置き給ひ、〈◯下略〉
p.0330 一暦字(○○)以二歴字(○○)之引文一、被レ用二年號一之、〈暦與レ歴同之故也〉 永暦 後漢書曰、馳二淳化於黎元一、永二歴代而太平一、續漢書律暦志曰、黄帝造レ歴、歴與レ暦同作、依レ之毎度歴字之時、引二加此文一也、
p.0330 一年號亨享字(○○○) 亨享の字紛れて書誤ることあり、元亨は、周易に云、其徳剛健、而文明應二于天一、是以元亨〈文章博士資朝考レ之〉と云文より出たれば亨の字也、享には非ず、永享は後漢書に云、能立二魏々之功一、傳二于子孫一、永享二無窮祚一と云文より出たれば、享の字也、享徳は、尚書に云、世々享レ徳、萬邦作レ式と云文より出たれば、是れも享の字也、亨にはあらず、皆考證の文に據て正せば書誤なし、考證は貝原好古が國朝年號譜に見たり、
p.0330 萬延改元、文字之儀に付達、〈萬延元年四月十二日〉 御勘定奉行〈江〉
覺
此度改元被二仰出一候萬延之文字、重き事之外、萬万之文字(○○○○○)、いづれの方認候而も不レ苦旨、向々〈江〉相達候間、向後御切米御扶持方、并御貸附金請取手形等〈江〉も、万延と相認候向も可レ有レ之候間、差支無レ之様可レ被二取計一候事、
p.0330 革命紀元〈◯中略〉 文字を用ふるも、一字より四字まで、古例法則あり、方日升曰、案二紀元一云、以二一字一紀レ元者、始二於漢文帝後元年、景帝中元年一、以二二字一紀レ元者、始二漢武帝建元元年一、以二三字一紀レ元者、始二於梁武帝中大通元年一、以二四字一紀レ元者、始二於漢哀帝大初元將元年一、今詳二立レ號紀一レ元、當レ始二於文景一、非二武帝一也、〈見二韻會擧要小補一〉此邦異年號に、兄弟和、倭黄繩、白鳳雉の三字あり、又天平感寶、天平寶字、天平神護、神
p.0331 護景雲の四字あり、いづれも漢土の例に傚ひたるにや、文字の美惡義理などは、勿論吟味講究して、古人の論辨したるを考索し、紀元あるべき事と覺ゆ、漢土にて改元の誤を論じたるは、明の燧和仲が千百年眼〈卷十二〉に、國家以二改元一爲レ重、然歴世無レ窮、美名有レ限、遂有二前後相複之嫌一、〈中略〉又當三詳稽二國運一、如下宋改二治平一、而説者謂火徳不レ宜レ用レ水、則我朝土徳不レ宜レ用レ水、犯レ之者有中耗二損元氣一之嫌上、又當レ審二國姓一、如下周高祖姓字文改二元宣政一、當時以爲中文亡日上是也、又當レ避二忌國號一、如下唐禧宗改二元廣明一、而當時以爲唐去二其口一、而著二黄家日月一、後果爲二黄巣一所上レ簒是也、大率離合之懺、深微難レ逃、最宜二熟察一、桓玄改二元大亨一、議者以爲、一人二月了、果二月乘輿反二正于江陵一、梁豫章王揀二武陵王紀一、皆改二元天正一、説者謂二年一年止といへり、其他齊後主緯は龍化と改元し、隋煬帝は大業と改元し、未齊顯祖は天保と改元し、宋徽宗は宣和と改元し、欽宗は靖康と改元し、各皆其徴を載せたり、又正の字はたヾしき字義なれど、一止を合せて正とすれば、正始、正隆、正平、正暦、正法の類、皆古徴にあらずといへり、正の字も用ひどころによるべし、此邦改元ある毎に難陳といふ事あるは、專らに此等の事を是非せむが爲なるべし、
p.0331 藥師經料紙充(裏書)
道守豐足 十四張〈◯中略〉 右、依二造寺次官佐伯宿禰、天感(○○)元年五月卅日宣一所二奉寫一、
◯按ズルニ、天感ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、
p.0331 花嚴經斷紙合八千九百九十張〈麻紙三千一百卌張〉
治田石麿充一千六百張〈既楡紙◯中略〉 已上五人充遺九百九十張〈麻紙百八十張〉 感寶(○○)元年潤五月七日、秦東人、
◯按ズルニ、感寶ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、
p.0331 天平感元年六月十五日充(裏書/○○○ )、墨半廷、筆一、 二年七月五日、筆一、墨半廷〈已上〉
p.0332 〈筆墨各一返上七月廿一日〉
◯按ズルニ、天平感ハ、天平感寶ヲ略書セルナリ、
p.0332 海龍王經(裏書) 史生廿六人 雜使卌五人 食飯廿九人 以前、食口并返上飯等、注顯如レ件、以解、 勝寶(○○)二年四月一日、加茂書手、
◯按ズルニ、勝寶ハ、天平勝寶ヲ略書セルナリ、
p.0332 秦家主解 申請暇日事
合參箇日 以二廿一日一參 過二一日一 右、以二今月十六日夜一、私蘆((廬))物所盜、爲レ問二求請暇一、仍注二事状一謹以申、天平寶(○○○)四年九月十七日、史生下道福麻呂、
◯按ズルニ、天平寶ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、
p.0332 大浦誠恐誠惶謹啓 應レ進二上物一事 右、前蒙二恩澤一、延期已訖、然爲レ進二件物一遣二因播使一、今以二消息一且到來、〈◯中略〉然忽有レ障、故不レ得二自參一、伏且煉灼、頓首頓首、謹状、 寶字(○○)二年九月四日、大津大浦状、 謹上 東大寺貴人〈殿人〉
◯按ズルニ、寶字ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、
p.0332 謹解 申二不參一送事 比者、身沈二疹病一、不レ得二動轉一、唯恐勤不二療治一、露命難レ保、仍今注二病状一申送、謹解、 天寶字(○○○)二年十月十日付榮道
◯按ズルニ、天寶字ハ、天平寶字ヲ略書セルナリ、
p.0332 牒 東大寺司所 合可奉寫經卌卷 十一面經卅卷 孔雀王呪經一部 右從二來月六日一以前可二寫畢一、故牒、 字(○)七年六月卅日 法師道鏡
◯按ズルニ、字ハ、天平寶字ノ略書ナリ、
p.0332 寛七年〈鍍金寶塔銘〉
p.0333 寶塔銘に、奉納三十幡神、武州國圓藏坊也、尾州住人吉左衞門作、寛七年六月吉日〈信濃國岩村田所二堀出一、塔銘中有二銅像一一、〉とみえたる、寶壽と寛との年號、他に考る所なし、穗積氏云、此年號考ふる所なし、寛 年と七の字雙鈎に彫たり、銅に彫たるに脱字あるべくも思はれず、又寛の字の上に置たる年號にて、七年までつヾきたるは、寛平、寛弘、寛正、寛永、寛文なり、下に寛字を置たる年號にて、七年までつヾきたるはなし、此物、寛平、寛弘、寛治の古物にはあらず、近く寛永寛文の物にもあらず、若くは寛正七年丙戌の時の物にてもあらんか、考べき所なしと云り、左もありなん、古へ年號の字を略書する例あり、
p.0333 年號單稱(○○○○)
近載以二翰墨一從二事藝林一者、或衒レ奇競レ新、熒二惑人眼一、動自稱二名手一、可レ歎也、予嘗觀二某書牘一、末題單係二年號一、若二弘化稱レ化、嘉永稱レ永之類一、如レ是殆若下嫌二國朝正朔一者上然、且不レ檢二出典一、謣襲二蹈前人一、施施自得、夫四海率土、靡レ不レ被二皇澤一、而單係二年號一、其忘レ我之罪、不レ容二於死一矣、按、連珠詩格于濟徳夫序、紀二年號歳在一曰二徳酉一、蓋謂三元大徳歳在二丁酉一也、〈◯中略〉于氏事蹟雖二傳記無一レ所レ載、而推二思徳酉字一、其嫌二胡元正朔一者、不レ待レ辨而明白、今世衒レ奇之人、妄傚レ顰、不二亦過一乎、
p.0333 徳酉
五山の僧徒年を紀するに、年號の一字をきりて十二支を書く事多し、横川が京華集に、應仁元年丁亥を仁亥(○○)と紀し、萬里の帳中香の序に、延徳三年辛亥を延亥(○○)と紀せるが如し、これ聯珠詩格の序〈番易默齋〉に、大徳元年丁酉を紀して徳酉とあるにならへるなるべし、
p.0333 年號と支干を一字づヽかけること、五山僧などに多かり、信長記〈卷十四九ウ〉作物記〈相國寺惟高撰〉に、永祿元戊午を永午とかけり、また松花堂所藏品圖の中、明岩正因墨蹟にも、文明八丙申を文申とも記せり、これら一時かヽることはやれるなるべし、そのよる所をおもふに、この頃聯珠詩格
p.0334 を、律膸蒲室などヽ併せて甚だ賞翫せしをりなれば、かの詩格の蒙齋が序に、年號支干一字づヽ用ひしこと見ゆるをもて、一時雷同して效顰せしにや、唐土にも蒙齋が序よりふるくは所見なし、
p.0334 甲子を用て年號を不レ書
碧湖雜記〈一卷、古今説海、説略部雜記家三十二卷中に收む〉に、五臣注文選謂、陶淵明詩、自二晋義煕一以後、皆題二甲子一、後世因仍二其説一、〈◯中略〉按に、近來の文人年號を記せず、甲子のみを書を雅事とす、原淵明が所爲に習へるものなれど、御代の名を忌嫌て、天子に臣とならざるに似たり、學者心すべきわざぞ、
p.0334 此程又信篤、蜀都雜抄、秘笈、千百年眼等三部の書をひきて、年號に正の字を用ふるは不祥の事なり、早く改元の事あるべき由をしるして、老中の人々にまゐらす、詮房朝臣我思ふ所を問れしかば、當時我言用ひらるべきものにあらず、されど問ひ給はんに、答ふまじきにもあらねば、しるしまゐらせし事どもあり、其大要は、近世大明の人、年號之事を論じて、正の字(○○○)を用ひし代々不祥の事あり、凡そ文に臨みて忌べき字なりなど申す事、信篤が引きし所の外の書にも見え侍れど、皆是君子の論にはあらず、天下の治亂、人壽の長短のごとき、或は天運にかヽり、或は人事によれり、いかんぞ年號の字によりて祥と不祥と有べき、魏の齊王芳、高貴卿公、梁の武陵王、金の煬王哀、元の順帝のごときは、皆その不徳によりたまひしなり、たとひ其年號は正の字用ひられずとも、是等の人主其國を失ひ、其身を滅し給ふ事なかるべしや、大明の世に至ては、正統正徳の代々の事、皆其徳のいたり給はぬと、其政のよからざるとによれり、年號の字の罪にはあらず、孟子無レ罪レ歳とのたまひし所、よく〳〵心得給ふべきもの也、天下の治亂、人壽の長短等、年號の字によらざることどもを論じ辨むには、其説殊に長くして、誠に無用之辨言の費なるべし、唯誰にも聞しめして、心得わかち給ふに、たやすき證一ツを擧て申べき也、凡そ人の幼といひ、弱
p.0335 といひ、壯といひ、強といひ、艾といひ、耆といひ、老といひ、耄といふ、其稱同じからねど、唯その年の積れるにて、異なる人にはあらず、又生れて三月にして其名つき、二十にして冠して字つき、五十にして伯仲叔季を稱するごとき、その稱する所同じからねど、其命ずる所は異なるにあらず、かの年月日時といふものも、其稱同じからねど、時を積て日となり、日を積て月となり、月を積て歳となる事、譬へば幼弱、壯強、艾耆、老耄などいふ事の同じからねど、異なる人にはあらざるが如し、さらば年の號あるは、猶月の名あるが如くにして、又これ人の三月の名、二十の字、五十の字ある事の如し、もし歳の號に正の字を用ひん事の不祥ならんには、月の名に正の字用ひんもまた不祥ならまし、然るに古聖人の世よりして、今の世にいたる迄、毎年の一月を正月と名づけて、孔子春秋の法にも、四始と申て、正月をもて歳の始とは申す也、正の字誠に不祥ならんには、古の代より此方毎年に不祥の月を以て始とするなれば、夫より此方一年として不祥ならぬ歳といふは有まじき事也、是等は餘りに近き事にして、いはゆる睫を見ざるの論と申べしや、若年號には正の字不祥にして、月の名には正の字祥たるべき理あらんには、尋ねきかまほしき事なり、君子動而世爲二天下道一、行而世爲二天下法一、言而爲二天下則一とも、又不レ知レ命、無三以爲二君子一也とも承れば、かヽる不通の論など、君子の人の可レ申所とも覺えず、また我朝之年號に、正の字を用ひられし事、凡十六度、不祥の事のみありとも見えず、もし武家の代となりし後、正慶に鎌倉滅び、天正に足利殿滅び給ひしなども申す事もあるべきにや、平高時入道滅びしは、實に正慶二年五月なり、されど其祖相摸守時政より此かた、九世の間、正治、正嘉、正應、正安、正和、正中等の號、すでに七度を經たり、其家彼時に滅びずして此時に滅びしは、年號の字によれりとはみえず、これそのみづからとれる禍にぞあるべき、足利殿の滅び給ひしは、實に元龜四年七月三日、義昭出奔の御事によれり、これらの事によりて、此月廿八日に改元ありて天正とは號したりき、等持院殿よりこのかた、十三世の間、
p.0336 正長、康正、寛正、文正、永正等の號、五度に及びしかど、その程に滅び給ひしにはあらず、すべて本朝の年號始りしより此かた、其代々の事を細かに論じて、其事彼事不祥なりなど申さば、何れの字にか不祥の事のなからざらむ、其故は、改元といふ事、和漢ともに、多くは天變、地妖、水旱、疾疫等によらざるはあらず、されば古より年號に用ひしほどの字一字として、不祥の事に逢ふ事なかりしといふものはあらず、若必不祥の事、年號の字の致す所ならん事を患へば、古の代の時の如く年號といふものヽなからんにはしくまじきにや、されど和漢ともに、年號といふものなかりし古の時にも、天下の治亂、人壽の長短、世として是なきにもあらず、某意多禮亞、喝蘭他亞等之人に逢ひて、當時蠻國の事ども具に聞しに、年號を用る國々わづかに二三に過ず、其餘は皆年號といふ事はなくして、天地開闢より、幾千幾百幾十年など申す也、されど二十餘年の先より、西洋歐羅巴の國々、多くは其君死して、それが世繼の事によりて亂し國すくなからず、こぞの冬、是年のはるも、多く戰ひ死せしなど申す也、是らは又いかなる事のたヽりぬるによりてかくはあるにや、さらば年號なしとも、天運のおとろへ、人事の失ふ所あれば、亂れ亡びざる事を得難しとは見へたり、又異朝代々に同じ年號を用ひし事、彼は興り是は亡びしも又少なからず、たとへば永樂の號は、初め五代の時に張遇賢といひし蠻賊、中天大國王など稱して、其元を永樂とせしが、ほどなく亡びぬ、其後宋の代に及て、方臘と云ひしが、帝を稱して永樂の號を用ひしに、わづかに八月にして亡びぬ、其後又大明の太宗即位の後、永樂の號を用ひられしに、廿六年の寶祚を目出度し給ひき、是等の類悉くにかぞふるにいとまあらず、また本朝の號、異朝と同じきいくらもあり、たとへば建武の號は、後漢の光武、漢室を中興し給ひて、三十一年迄おわしましき、後醍醐院是を用給ひしかども、二年にも及ばずして天下亂ぬ、天暦は村上天皇の號にして、本朝の目出度代のためしには申傳へし所なれども、元の文宗の時、此號を用ひられしに、わづかに五年にして崩ぜられ
p.0337 き、これらの類も又かぞふるにいとまあらず、凡和漢古今の事を併考ふるに、天下の治亂、人壽の長短、年號の字にかヽはらざること如レ此、
p.0337 一謝肇淛曰、自レ古以(○)レ正(○)爲(○)レ號(○)、多(○)不(○)レ利(○)也(○)、如二梁正平天正、元至正之類一、爲二其文一一而止也と云々、按ずるに、是拘れる説か、夫正は君也、長也、定也、平也、是也、又邪の反にしてたヾしきを云、何の止りと云事かある、一而止、拆字の附會也、正の古文が㱏なる、是をも一而止といふべきやと云ひしに、或人曰、吾子が言も又一偏の義か、つら〳〵思ふに、我國文武帝の大寶已來、年號正の字を命ぜしは、一條院正暦を始とす、彼帝花山の淫風を繼ぎ、惰弱上古にもためしなかりし故、執柄家恣に天下を左右せし、是よりぞ王家の威衰へ、權下に移りし、其後は土御門院正治、其元年に頼朝薨じ、同御宇に頼家横死し、帝も又讓位の後西狩し給へり、後深草院正嘉二年暴風洪水、流疫打續き、伏見院正應元年大地震、其三年淺原八郞南殿を犯して自害せし、花園院正和四年鎌倉大火の災、後醍醐帝正中元年地妖數々ありて、帝外國へ遷らせましませし、光嚴院正慶、空しく廢帝の號となれり、後村上院正平、立かへる皇運もましまさず、南山に終らせ給ふ、稱光院正長は、凶に依り一年にして停ぬ、後花園院康正寛正の如き、天變〈兩日及三日現ぜし事毎度〉疫癘巷に滿て、中々あさましき世也、後柏原院永正元年天下飢饉、前代未聞の凶事なりき、その他三笠山の神木、故なくして數株枯れ、彗星顯れて、太神宮池魚ノ災ありし、山崩れ、海溢れ、〈永正七年八月廿日洪涛、遠州今切入海となる、〉或は武臣〈細川政元〉害せられ、將軍家東に奔り給ひし、正親町院天正に、京師寇火災しげく、其十三年信長弑せられ給ふ、又大風、洪水、地震、疫病、よからぬ事多かりし、此等の凶事、それならぬ年號の時も毎々に有りしかども、謝氏が言によつて史を見れば、さる事多し、近頃後光明院正保、さしも凶變なかりしかど、明主援兵を請ひ、世間さわがしく、且在位の内崩御の御事、近き世聞へ給はず、〈◯中略〉今の正徳改元の後、壽經院〈◯壽經院一本作二女院一〉崩御、京極の宮打續薨ぜさせまします、大樹の御幼君〈虎吉君〉も過し冬御早世ありし、ことし
p.0338 夏新上西門院崩御ありし、且去年及び此秋も諸州大風、洪水、庶民溺死千を以て數ふ、かヽる事につけても、正の字のためし思ひ出侍りしに、神無月十四日幕下薨ぜさせ給ひし、嗚呼賢哲の君にて渡らせましましければ、天下のおしみ奉る事いふばかりなし、因て云、宋の眞宗の豐亨を、楊大年が爲に不可といひ用ひざりしとかや、其外純煕隆平之號義を論じ、天聖明道の字を賀せし、歸田録等に見へたり、我國正保の時、京童の口吟に、正保は正しき人口木哉といへりし、延寶改號の時、内々は明和と號せらるべきなど議せられ、勘文を草して啓せしに、法皇〈後水尾院〉聞しめして、九年あらば如何と仰事ありて、停しとかや、〈めいわくとしと聞ゆる叡慮とかや〉倭漢古へより、年號の文字評議有る事にや、
按(賢)、年號之事、近年紀傳明法の博士難陳有といへども、明和九之、後水尾帝の遺勅にもとりて、九年に當りて江戸大火、八月大風、南鐐銀通用して、天下の金氣失て、白氣の陰氣強行はれたる世とはなりたる也、是に依て安永と改たれども、江戸大火、洪水、疫癘流行、諸國山やけ出し、又天明と改れども、此盡る節は如何成行事哉覽と、京童の口吟にあり、打續淺間山燒出し、大水飢饉打續、六年は將軍御他界、執事家に難あり、此上は五穀豐饒を祈のみ、
p.0338 本朝自二大寶一至二今延寶一、年號凡二百有六、同號者未二之有一也、其改元月日、博求具書レ之、日之與二支干一有レ異者、自二大寶一至二天平寶字一以二儀鳳暦一、自二天平神護一至二貞觀一以二大衍暦一、元慶以來以二宣明暦一、考而正レ之、以貽二我後人一、〈◯下略〉
p.0338 和漢同年號例
朱雀(天武)〈渤海〉 大寶(文武)〈僞位梁簡帝年號、二、〉 景雲(文武)〈唐睿宗年號、二、〉 神龜(聖武)〈後魏孝明帝、二、〉 天平(聖武)〈僞東魏年號〉 大同(平城)〈僞位梁武帝年號、十一、〉 承和(仁明)〈僞北小凉年號〉 仁壽(文徳)〈隋文帝年號、四、〉 天安(文徳)〈雜號後魏献文帝年號〉p.0339 貞觀(清和)〈唐太宗年號、廿三、〉 延喜(醍醐)〈漢桓帝年號、九、〉 承平(朱雀)〈唐徳宗年號、廿一イ後魏南安王余年號、〉 天徳(村上)〈雜號〉 天祿(圓融)〈契丹年號〉 貞元〈唐徳宗年號、廿、〉 天元(圓融)〈唐徳(肅イ)宗〉 天暦(村上)〈渤海唐王〉 仁安(六條)〈渤海唐肅宗イ〉 天福(四條)〈晋高祖(五代)年號、八、〉 正元(後深草)〈魏高貴卿公、二、〉 乾元(後二條)〈唐肅宗、二、〉 建武(後醍醐)〈後魏光武、晋惠帝、晋元帝、齊明帝、〉 永和(後圓融)〈後漢順帝、晋穆公、〉 至徳(後小松)〈陳後主—唐肅宗—〉 文明(當今)〈慕容忠梁簡文唐武后〉
p.0339 天養元年六月廿三日癸卯、今日有二列見及直物事一、〈◯中略〉召二師安一〈重服〉令レ進二勘文一、披二見之一、書曰、永治二年、余問云、可レ書二康治元年一、書二永治二年一如何、師安應レ聲對云、春秋之義可レ書二康治元年一、而依二本朝之例一書二永治二年一、余歎美曰、此事見二定公元年一、臨レ老忽發二此言一、儒哉々々、左大辨顯業(頼イ)承曰、爲二明經博士一宜矣、
p.0339 元年説(○○○)
元年者何、君之始年也、曷爲不レ謂二之一年一、而謂二之元年一、元者善之長也、所レ謂仁也、仁也者人心也、人君之心善、則政令正、政令正則朝廷清、朝廷清則百官善、百官善則上下明、上下明則國家善、國家善則天下莫レ不レ一二於善一、故君子大レ體レ仁、昔者人君、以二此心一頒二正朔于天下一、天下奉而行レ之、是以謂二之元年正月一、而不レ謂二之一年一月一、唐虞曰レ歳曰レ載、夏亦曰レ歳、商曰レ祀、周曰レ年、一也、
p.0339 元年は初年といふ事なり、一帝一元なる事いふもさら也、されど元は善之長なりとて、初年を元年といふか、もとより吉祥の名をもとめたるなれば、一帝幾千元なりとも、祥瑞怪異に元を改て、延壽消殃のはかり事あらんは、あるべき世のことわり也、それを惑なりといはヾ、元年も初年とぞいふべき、こは年の名號にて、後世よりあがれる代をいふに、分別しやすく、記臆しやすく、便ありていとめでたし、此事から國にて、漢文帝よりはじまれり、かの帝即位十六年四月に、方士新垣平、使三人持二玉杯一、詣レ闕獻レ之、剗曰、人主延レ壽、又言、候二日再中一、居頃之、日却復、於レ是始更以二十七
p.0340 年一爲二元年一と通鑑にみえたり、十七年をふたゝび元年となしヽは、傾きし日の再午時にかへりしにかたどれる也、さて景帝は三元、武帝は十一元、三元は即位元年中元年後元年といふ、中後とは後よりいふ稱にて、その時は三ツともに同じ元年二年なれば、事に臨みてまぎらはしかりけむ、武帝にいたりては、しば〳〵の改元なるに、名字なくては紛はしき故、建元、元光、元朔、元狩などやうに、年の名號を設けし也、いづれも吉祥をまねき、凶災を避るわざにて、和漢これをうけつぐ事なり、明世祖より、かの國は一帝一元なり、から書よむ輩、これをいみじき事にほめのヽしる、されどこれはいとしもなし、一帝一元がめでたくば、某皇帝初年二年にて事たれり、年號は何の料ぞや、漢文の惑をさとりて、漢武の蹤をふむ、をこ事なり、何のほむる事かはあらん、
p.0340 年號の下の字元の字なれば、元年と書事まぎらはし、それゆへにや元史二百八に、世祖之至元一年と書たるはおもしろし、
p.0340 至元一
鹽尻に、下に元の字ある年號の歳をば、一年と書べきにや、元史二百八に、世祖の至元一年とあり、〈秋齋閑語にも亦此説あり〉按ずるに、元史是より前百三十一〈亦黒迷失傳〉にも、至元一年、入備二宿衞一、九年世祖命使二海外一入二羅孛國一と見えたり、されども卷五世祖至元元年紀には、八月丁巳、改二中統五年一爲二至元元年一とあり、必一年と書べきならば、爰にこそ記すべきを、さらぬにて鹽尻の説はうけがたきを知るべし、〈世祖紀の外にも、至元元年の文、諸志諸表諸列傳中に多く出たり、〉又八十七〈百官志二〉に、至大一年始置二諸物庫一とあれば、一年と書も、至元に拘りたるにはあらざるをしるべし、
◯
p.0340 年始五百六十九年、内卅九年無號、不レ記二支干一、其間結レ繩刻レ木以成レ政、
繼體五年〈元丁酉〉 善記四年〈元壬寅、同三年發護成始文、善記以前、武烈即位、〉 正和五年〈元丙午〉 教到五年〈元辛亥、舞遊始、〉 僧聽五p.0341 年〈元丙辰〉 明要十一年〈元辛酉、文書始出來、結レ繩刻レ木止畢、〉 貴樂二年〈元壬申〉 法清四年〈元甲戌、法文ニ唐渡僧善知傳、〉 兄弟六年〈戊寅〉 藏和五年〈己卯、此年老人死、〉 師安一年〈甲申〉 和僧五年〈乙酉、此年法師始成、〉 金光六年〈庚寅〉 賢稱五年〈丙申〉 鏡當四年〈辛丑、新羅人來、從二筑紫一至二播磨一燒レ之、〉 勝照四年〈乙巳〉 端政五年〈己酉、自レ唐法華經始渡、〉 告貴七年〈甲寅〉 願轉四年〈辛酉〉 光元六年〈乙丑〉 定居七年〈辛未、法文五十具從レ唐渡、〉 倭京五年〈戊寅二年、難波天王寺聖徳造、〉 仁王十二年〈癸未、自レ唐仁王經渡、仁王會始、〉 僧要五年〈乙未、自レ唐一切經三千餘卷渡、〉 命長七年〈庚子〉 常色五年〈丁未〉 白雉九年〈壬子、國々最勝會始行之、〉 白鳳廿三年〈辛酉、對馬銀採、觀世音寺東院造、〉 朱雀二年〈甲申、兵亂海賊始起、又安居始行、〉 朱鳥九年〈丙戌、仟陌町段始、又歌始、〉 大化六年〈乙未、覽初要集云、皇極天皇四年爲二大化元年一、〉
已上百八十四年、年號、卅一代不レ記二年號一、唯有二人傳言一、自二大寶一始立二年號一而已、
p.0341 〈丁亥〉第二十七代繼體〈◯中略〉 〈壬寅〉十六善記元〈或曰、繼體天皇自二十六年一始テ年號在レ之云云、分者朱ニテ書レ之、年數相違之處在レ之、不審、◯中略〉 〈丙午〉二十正和元〈太子立、年六十一、◯中略〉 〈辛亥〉廿五教到元〈始作レ暦、二月帝崩、◯中略〉 〈丙辰〉第二十九代宣化、僧聽元、〈◯中略〉 〈丁巳〉二 〈戊午〉三 〈己未〉四〈二月十日天皇崩〉 〈庚申〉第三十代欽明〈◯中略〉 〈辛酉〉二明要元〈◯中略〉 〈壬申〉十三貴樂元〈◯中略〉 〈甲戌〉十五法清元〈◯中略〉 〈戊寅〉十九兄弟元 〈己卯〉二十藏知元〈◯中略〉 〈甲申〉〈廿五師安元〉 〈乙酉〉廿六知僧元〈◯中略〉 〈庚寅〉卅一金光元〈◯中略〉 〈壬辰〉第三十一代敏達〈◯中略〉 〈丙申〉五賢稱元〈◯中略〉 〈辛丑〉十鏡常元〈◯中略〉 〈乙巳〉十四勝照元〈◯中略〉 〈戊申〉第三十三代崇峻〈◯中略〉 〈己酉〉二端政元〈◯中略〉 〈癸丑〉第三十四代推古〈◯中略〉 〈甲寅〉二吉貴元〈◯中略〉 〈辛酉〉九願轉元〈◯中略〉 〈乙丑〉十三光充〈◯中略〉 〈辛未〉十九定居元〈◯中略〉 〈戊寅〉廿六和景繩元〈◯中略〉 〈己丑〉第三十五代舒明聖徳元〈◯中略〉 〈乙未〉七僧要元〈◯中略〉 〈庚子〉十二命長元〈◯中略〉 〈乙巳〉第三十七代孝徳〈◯中略〉 〈丁未〉三常色元〈◯中略〉 〈庚戌〉六〈白雉元年 二月長門國獻二白雉一、改二元白雉一、◯中略〉 〈乙卯〉第三十八代齊明〈◯中略〉 〈辛酉〉七白鳳元〈◯中略〉
p.0342 〈壬申〉第四十代天武〈(中略)即位之年壬申、改二元朱雀一、〉 〈癸酉〉二〈改二元白鳳一◯中略〉 〈甲申〉十三〈十二年〉朱雀元〈◯中略〉 〈丙戌〉十五大化元〈和州獻二赤雉一、因レ玆改二朱鳥一、◯中略〉 〈丁亥〉第四十一代持統〈◯中略〉 〈壬辰〉六大長元〈◯下略〉
p.0342 天皇代序〈◯中略〉
繼體天皇、〈◯中略〉元年丁亥、十六年壬寅、始建二年號一爲二善化一、五年丙午改二元正和一、六年辛亥改二元發倒一、二月沒、在位二十五年、壽八十二、安閑天皇〈◯中略〉自二繼體沒一後、二年無レ主、至レ是即位、元年甲寅、〈用二發倒一〉在位二年、壽七十、
宣化天皇、〈◯中略〉元年丙辰改二元僧聽一、在位四年、壽七十三、
欽明天皇、〈◯中略〉元年庚申、明年辛酉改二元同要一、〈◯中略〉十二年壬申改二元貴樂一、佛教始來、三年甲戌改二元結清一、〈◯中略〉五年戊寅改二元兄弟一、二年己卯改二元藏和一、六年甲申改二元師安一、二年乙酉改二元和僧一、六年庚寅改二元金光一、在位三十二年、壽五十、
敏達天皇、〈◯中略〉元年壬辰、〈用二金光一〉五年丙申改二元賢接一、〈◯中略〉六年辛丑改二元鏡當一、〈◯中略〉五年乙巳改二元勝照一、在位十四年、壽五十、
用明天皇、〈◯中略〉元年丙午、〈用二勝照一◯中略〉在位二年、壽五十、
崇峻天皇、〈◯中略〉元年戊申、明年己酉改二元端政一、在位五年、壽七十二、
推古天皇、〈◯中略〉元年癸丑、明年甲寅改二元從貴一、〈◯中略〉八年辛酉改二元煩轉一、〈◯中略〉五年乙丑改二元光元一、七年辛未改二元定居一、〈◯中略〉八年戊寅改二元倭京一、〈◯中略〉六年癸未改二元仁王一、〈◯中略〉在位三十六年、壽七十三、
舒明天皇、〈◯中略〉元年己丑改二元聖徳一、〈◯中略〉七年乙未改二元僧要一、〈◯中略〉六年庚子改二元命長一、在位十三年、壽四十五、
皇極天皇、〈◯中略〉元年壬寅、〈用二命長一〉在位三年、p.0343 孝徳天皇、〈◯中略〉元年乙巳〈用二命長一〉三年丁未改二元常色一、〈◯中略〉六年壬子改二元白雉一、在位十年、壽二十九、
齊明天皇、〈皇極重祚〉元年乙卯、〈用二白雉一◯中略〉七年辛酉改二元白鳳一、〈◯中略〉在位七年、壽六十八、
天智天皇、〈◯中略〉元年壬戌、〈用二白鳳一◯中略〉在位十年、
天武天皇、〈◯中略〉元年壬申、〈用二白鳳一◯中略〉十三年甲申改二元朱雀一、三年丙戌改二元朱鳥一、〈◯中略〉在位十五年、
持統天皇、〈◯中略〉元年丁亥、〈用二朱鳥一◯中略〉九年乙未改二元大和一、〈◯中略〉在位十年、
文武天皇、〈◯中略〉元年丁酉、明年戊戌改二元大長一、〈◯中略〉四年辛丑改二元大寶一、〈◯下略〉
p.0343 同要、日本欽明天皇、〈一名天國排開廣庭天皇、國王以レ王爲レ姓、梁大同八年立、在位三十二年、改元八、朱彝尊跋海東諸國紀云、日本東鑑、即吾妻鏡、往時亡友鍾廣漢、撰二歴代建元考一、獲二東鑑一喜劇、著二之于録一、然東鑑止紀二其國八十七年事一、晩得二朝鮮人申叔舟海東諸國紀一、此邦君長授受改元、由レ周至二于明初一、珠連繩貫、因取以補二廣漢遺書一、玉繩購二二書一、數十年不レ可レ得、竹垞翁所レ補、又無二從訪求一、祗據二宋史日本僧奝然年代紀、及廣漢書一爲レ説、知日本元號之闕漏尚多矣、同要或云二同安一、◯中略〉
從貴、日本女主推古天皇、〈隋開皇間立、在位三十六年、改元六、◯中略〉
師安、日本欽明天皇、〈◯中略〉 倭京、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 朱鳥、日本天武天皇大海人、〈唐咸享三年立、在位十五年、改元二、〉 仁至、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 端政、五年、日本崇峻天皇、〈隋開皇間立◯中略〉 賢接、日本敏達天皇、〈陳太建間立、在位十四年、改元三、敏達一作二達海一、◯中略〉 和僧、日本欽明天皇、〈◯中略〉 藏和、日本欽明天皇、 光元、日本女主推古天皇、 常邑、日本孝徳天皇、〈唐永徽元年立、在位十年、改元二、◯中略〉 兄弟、日本欽明天皇、〈◯中略〉 僧聽、日本宣化天皇、〈梁大同四年立、在位四年、〉 僧要、日本舒明天皇田村、〈唐貞觀初立、在位十三年、改元三、◯中略〉 金光、日本欽明天皇、
p.0343 善化、日本繼體天皇、〈梁天監十年立、在位二十五年、改元三、◯中略〉 頌轉、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 貴樂、日本欽明天皇、〈◯中略〉 鏡當、日本敏達天皇、 命長、日本舒明天皇田村、〈◯中略〉 勝照、日本敏達天皇、 定居、日本女主推古天皇、〈◯中略〉 發口、〈◯發口恐教到誤〉日本繼體天皇、 結清、〈◯結恐法誤〉日本欽明天皇、〈◯中略〉 白鳳、日本女主齊明天皇、〈一名天豐財重日足姫天皇、即皇極天皇復位、前在位三年、唐貞觀十六年立、後在位七年、唐永徽六年立、〉
p.0343 朱雀 日本天武天皇大海人〈◯中略〉 太和、日本女主持總天皇、〈東鑑作二持統一、唐武后垂拱三年〉
p.0344 〈立、在位十年卒、〉 正和、日本繼體天皇、〈梁天監時〉 聖徳、日本舒明天皇田村、
p.0344 一我邦年號、孝徳帝之時大化爲レ始、見二于正史一、後世無二異議一、故此書亦沿レ之、而不二敢違一矣、然予又嘗撿二舊記一、大化之前猶有二年號一、蓋昉二於孝靈帝之時一、其後或斷、或不レ斷、以接二大化一也、竊疑、是當時苟且所レ爲、而未三徧布二告天下一邪、史編何無レ徴也、且其年號、往々奇僻難レ可二据信一、而百世之下、又不レ可レ臆二斷其無一也、因今且並擧、以告二好古之士一如レ左、
〈孝靈帝之時〉列滴
〈應神帝之時〉璽至
〈繼體帝之時〉善記〈四年終〉正和〈五年終〉定和〈七年終〉常色〈八年終〉教知〈五年終、一作二教到一、又曰二殷到一、◯按自二四年一至二五年一、係二安閑帝之時一、〉
〈宣和帝之時〉僧聽〈四年終〉
〈欽明帝之時〉師安〈一年終〉大長〈三年終〉法清〈四年終、一作レ靖、〉兄弟和〈一年終、一作二兄弟一、〉明要〈三年終、或云十一年、〉藏知〈一年終、知一作レ和、〉知僧〈一年終、或云七年、〉貴樂〈十八年終、或云二年、〉金光〈六年終、或云四年、〉
〈敏達帝之時〉賢輔〈五年終、輔一作レ棲、又作レ博、〉鏡常〈四年終、一作レ鍾、〉照勝〈四年終、一作二勝照一、〉
〈用明帝之時〉和重〈二年終〉
〈崇峻帝之時〉端政〈五年終〉
〈推古帝之時〉告貴〈十年終、按一説推古元年爲二喜樂一、二年爲二端正一、三年爲二始哭一、自二四年一至二十年一爲二法興一、是四年號、通計十年而終、與二告貴年數一正相符、則十年之間、蓋與二告貴一互相行也耳、始哭一作二始大一、〉願轉〈四年終〉光元〈六年終、一作二弘元一、又曰二光充一、〉和京〈五年終、一作二和景縄一、按和京元年又爲二定居元年一、定居七年終、和京五年終、則仁王元年、即爲二定居六年一、蓋是三年號亦互相行也耳、〉仁王〈六年終〉節中〈五年終〉
〈舒明帝之時〉聖聽〈三年終、一作二聖徳一、〉僧安〈五年終、一作二僧要一、〉明長〈五年終、一作二命長一、又曰長命、按自二三年一至二五年一、係二皇極帝之時一、〉 右大化以前年號
〈天智帝之時〉中元〈四年終、按戊辰爲二元年一、〉
〈天武帝之時〉果安〈按、不レ審二年數一、〉p.0345 〈持統帝之時〉大和〈按、不レ審二年數一、〉
〈文武帝之時〉大長〈按、戊戌爲二元年一、〉 右大化以後年號、然多不レ審二年數一、後之君子請補二正之一、
p.0345 和漢異年號
和邦の年號、大化前後に異年號ある事、藤貞幹が逸號年表に多く載せ、高昶が和漢年契凡例にも並べ擧げたれど、國の正史に見えざれば、紀年の始末、文字の異同ありて、皆後世より臆斷するもの、いづれも確説とはいひがたし、故に如是院年代記、繼體帝十六年善記注に、或曰繼體天皇自二十六年一、始めて年號在レ之云々、分者朱にて書レ之、年數相違之處在レ之不審とあり、漢土の異年號も、建元以前にあるもの、大率相同じ、紀年の始末臆斷し難し、諸書に載する所、その異同を擧ぐる事左のごとし、
和邦異年號
列滴〈孝靈帝之時、紀元始終未レ詳、〉 璽至〈應神帝之時、紀元始終未レ詳、一説神功皇后攝政四十年庚申、魏齊王正治元年、贈二倭王印一、璽至年號據レ此、〉 嘉紀〈武烈帝即位元年己卯、紀元四年終、同五年改元、是字下一字磨滅未レ詳、歴年四年、後無レ紀、〉 善化〈繼體帝十六年壬寅、紀元五年終、以上三號見二古代年號一、海東諸國記云、繼體帝十六年壬寅、始建二年號一爲二善化一、五年丙午改元、春秋暦略、年代記、皇代記、並皆四年終、如是院年代記、善化作二善記一、四年終、〉 正和〈繼體帝二十年丙午改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、海東諸國記皆同、皇代記作二正治一、古代年號二十一年丁未改元、四年終、如是院年代記正和元太子立、年六十一、〉 教到〈繼體帝二十五年辛亥改元、五年終、古代年號、春秋暦略、年代記、皇代記、古本水鏡、活字水鏡皆同、續教訓抄云、安閑帝教到六年丙辰、海東諸國記作二發到一、〉 寶元〈安閑帝二年乙卯、紀元五年後無レ紀、見二西林寺佛光後銘一、如是院年代記無二寶元號一、〉 僧聽〈宣化帝即位丙辰年紀元、四年後無レ紀、春秋暦略、年代記、皇代記、海東諸國記、如是院年代記皆同、古代年號、水鏡二本至二五年一、〉 明要〈欽明帝二年辛酉紀元、十二年終、春秋暦略、年代記、皇代記皆同、皇代記作二明安一、古代年號九年改元、得字下一字磨滅未レ詳、海東諸國記作二同要一、〉 貴樂〈欽明帝十三年壬申改元、二年終、年代記、皇代記、春秋暦略、如是院皆同、古代年號三年終、〉 法靖〈欽明帝十五年甲戌改元、年代記、皇代記、皆同、春秋暦略、如是院年代記作二法清一、海東諸國記作二結清一、古代年號十六年乙亥改元、〉 兄弟〈欽明帝十九年戊寅改元、一年終、古代年號、皇代記、春秋暦略、諸國記、如是院皆同、一本作二兄弟和一、〉 藏和〈欽明帝二十年己卯改元、五年終、年代記、皇代記、春秋暦略、諸國記皆同、古代年號二十一年改元、如是院作二藏和一、〉 師安〈欽明帝二十五年甲申改元、一年終、年代記、皇代記、峯相記、春秋暦略、諸國記、如是院皆同、古代年號一年後、〉 知僧〈欽明帝二十六年乙酉改元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院皆同、古代年號二十七年改元、諸國記作二和僧一、〉 金光〈欽明帝三十一年庚寅改元、六年終、年代、皇代記、古〉p.0346 〈代年號、暦略、如是院、平家物語、源平盛衰記、諸國記皆同、〉 賢稱〈敏達帝五年丙申紀元、五年終、年代、皇代記、暦略、如是院、水鏡二本皆同、古代年號作二賢棲一、海東諸國記作二賢接一、一本作二賢輔一、又一本作二賢博一、〉 鏡常〈敏達帝十年辛丑攺元、四年終、水鏡二本、古代年號、年代、皇代記、如是院皆相同、海東諸國記作二鏡當一、一本作二鏡照一、〉 勝照〈敏達帝十四年乙巳改元、四年終、年代記、諸國記、如是院皆相同、古代年號二年終、古本水鏡勝照作二勝烈一、〉 和重〈用明帝二年丁未紀元、二年終、見二古代年號一、〉 端政〈崇峻帝二年己酉紀元、五年終、皇代記、春秋暦略、水鏡二本、古代年號、諸國記皆同、年代記、平家物語、源平盛衰記皆作二端正一、如是院年代記作二端改一、古代年號端正爲二推古帝二年改元一、〉 喜樂〈推古帝即位元年癸丑紀元、一年終、見二古代年號一、〉 告貴〈推古帝二年甲寅改元、七年終、年代、皇代記、春秋暦略皆同、諸國記告貴作二從貴一、一本作二告言一、如是院記二年改元、作二告貴一、〉 始哭〈推古帝三年乙卯改元、一年終、見二古代年號一、〉 法興〈推古帝四年丙辰改元、五年終、見二古代年號一、釋日本紀引伊豫風土記云、法興元年十月歳在二丙辰一、見二道後湯碑一、一本作二六年一非、六年辛酉改二元願轉一、蓋元字以二六字體似一誤、一説此年法興寺落成、故改二元法興一、〉 願轉〈推古帝九年辛酉改元、四年終、古代年號、年代、皇代、暦略、如是院皆同、諸國記作二煩轉一、〉 光元〈推古帝十三年乙丑改元、六年終、古代年號、諸國記皆同、皇代記光元作二弘元一、暦略、如是院並作二光充一、按此年四月造二丈六佛像一、故爲レ號、〉 定居〈推古帝十九年辛未改元、七年終、年代、皇代、暦略、諸國記、如是院皆同、水鏡二本六年後不レ見、神明鏡二年後不レ見、聖徳太子拾遺記定居作二定光一、〉 見聖〈推古帝二十一年癸酉改元、五年終、見二古代年號一、〉 倭京〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、古代年號、諸國記皆同、水鏡二本作二和京一、六年終、一本作二委京一、如是院作二和景繩一、〉 景繩〈推古帝二十六年戊寅改元、五年終、年代、皇代、暦略皆同、神明鏡二年後不レ見、皇代記一本作二和黄繩一、按此年年中改元、諸書所レ載不レ同、〉 法興元世〈推古帝二十九年辛巳改元、其終未レ詳、見二法隆寺釋迦佛光後銘一、和漢三才圖會信州善光寺條云、法興元世一年辛巳十二月五日、源平盛衰記云、法興元世二十一年壬子、按此年皇太子薨、是與二法興一同、浮屠之所レ稱也、〉 仁王〈推古帝三十一年癸未改元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、水鏡二本三十二年改元、五年終、〉 節中〈推古帝三十一年癸未改元、一年終、見二古代年號一、按此年改二元仁王一、又改二元節中一、是與二上倭景繩一同、未レ知二孰是一、〉 聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作二聖聽一、三年改元、〉 僧要〈舒明帝四年壬辰改元、五年終、見二古代年號一、諸國記、如是院並七年乙未改元、五年終、〉 僧安〈舒明帝七年乙未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、按僧要以二字體似一、一是必有レ誤、未レ知二孰是一、〉 命長〈舒明帝十二年庚子改元、水鏡二本、三年後不レ見、諸國記七年後改元、古代年號九年丁酉改元、五年後不レ見、一本作二明長一、一作二長命一、〉 今長〈改元同レ上、七年終、年代、皇代、暦略所レ載皆同、按命今字體相似、一是傳寫誤、〉
以上年號係二大化以前一、如是院年代記、孝徳帝朝無二大化之號一、
常色〈孝徳帝三年丁未改元、五年終、年代、皇代、暦略、諸國記所レ載皆同、〉 中元〈天智帝即位元年壬戌紀元、四年後不レ見、古代年號所レ載、〉 果安〈天武帝十五年丙戌改元、四年終、見二古代年號一、〉 大和〈持統帝四年庚寅紀元、七年後不レ見、見二古代年號一、〉 大長〈持統帝六年壬辰改元、九年終、年代、皇代、暦略、如是院皆同、海東諸國記、延暦中解文所レ載、並皆係二文武帝丁酉年一、而四年終、〉
白雉、白鳳、朱雀、朱鳥之號、始末未レ詳、p.0347 白雉〈日本紀、孝徳帝六年二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經獻二白雉一、此年爲二白雉元年一、如是院年代記亦係二六年庚戌一、改二元白雉一、水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸國記皆以二孝徳帝八年壬子一爲二改元一、如是院年代記八年無二改元一、舊唐書以二孝徳大化乙巳年一爲二改元一、〉
白鳳〈水鏡二本、年代、皇代、暦略、諸國記、如是院皆以二齊明帝七年辛酉一爲二白鳳元年一、大織冠公傳以二孝徳帝五年己酉一爲二改元一、如是院以二六年庚戌一爲二改元一、引三二月長門國獻二白雉一、愚管抄、良醞年中行事並皆以二天武帝即位壬申一爲二白鳳一、〉 白鳳雉〈水鏡二本、天武帝二年癸酉二月廿七日即位、改二元白鳳雉一、如是院癸酉二改二元白鳳一、二月皇后立、〉 朱雀〈水鏡二本、天武帝即位元年八月改二元朱雀一、如是院以二天武帝十三年甲申一爲二朱雀元一、那須國造碑、海東諸國記並皆相同、而朱雀爲二朱鳥一、〉 朱鳥〈日本紀、天武帝朱鳥元年秋七月己亥朔戊午、改元曰二朱鳥元年一、如是院、天武帝十五年、大化元、和州獻二赤雉一、因レ玆改二朱鳥一、日本靈異記天武帝十五年丙戌、改二元朱鳥一、七年後不レ見、海東諸國記改元同レ上、歴世九年改元、〉
以上年號係二大化以後一、如是院年代記天武帝十五年爲二大化元一、〈◯中略〉
因て考るに、此邦大化前後の頃までは、年號紀元の事は甚疎略にして、制法もたヽず、年數の長短も正しく記載せざりしと見ゆ、故に諸書に載たるも、彼此異同ありて、いづれを證據となし難し、續日本紀に、神龜元年十月朔日、詔曰、白鳳以來、朱雀以前、年代玄遠、尋問難レ明とは是なり、文字の美惡是非は勿論、その頃は佛道興隆の初なれば、名目多くは佛家より出たると見ゆ、孝徳帝の御世、蘇我入鹿天誅に伏し、暴虐夷滅せらるヽ後、教化大に行はれ、人々に制をなすの始を示さむとて、大化の號を紀元し給ふ、日本紀略に、弘仁詔、朱鳥以前未レ有二年號之目一、難波御宇始顯二大化之稱一とは是なり、海東諸國記に、繼體帝十六年壬寅、始建二年號一爲二善化一、五年丙午改元とあり、此帝の七年に、五經博士を置たまへば、文字の義理も定て吟味ありつらむ、然るに善化を以て紀元の始とし、又孝徳帝の御世大化を以て紀元の始とし給ひ、二ツの化字五年にして同じく改元なりしも、燧和仲が言しごとく、大率離合之讖、深微難レ逃とは是ならん、〈◯中略〉又孝徳帝の御世より、天下の政事多く改り、專に漢土の法則に傚ひ給ふ故に、古代の年號は皆刋り去て、大化と紀元し給ふと見ゆ、されどもこれより定式となり、末代に連綿せざるなり、又朱雀白鳳などの號、一時の瑞を紀したるは、諸書載る所、始末おなじからず、日本紀に載ざるゆゑ、年號の數に入ざるなり、日本紀に、大化五年p.0348 二月庚午朔戊寅、〈戊寅は九日〉穴戸國司草壁連醜經獻二白雉一、改二元白雉一の號見え、〈今日本紀に、改元白雉とあるも、後世文人の稱する所、定式となしがたし、其譯は、續日本紀に、白鳳以來朱雀以前といひ、古語拾遺に、難波長柄豐前朝白鳳四年とあれば、白鳳と書たるにや、水鏡、正統記、寶基本紀、元亨釋書の類證據となし難し、又如是院年代に、天武帝十五年丙戌を大化元とし、和州獻二赤雉一、因レ玆改二朱鳥一とあれども、日本紀に此事なし、〉天武帝十五年朱鳥の號あれども、年號改元の規則とせず、本朝改元考云、本朝文武天皇創二建大寶之號一、嚮レ此雖レ有二孝徳天皇之大化白雉、天武天皇之朱鳥一、而紀二一時之瑞一、未レ爲二定式一、故源親房正統記、以二大寶一爲二年號之始一、〈本朝改元考は山崎闇齋の著なり〉源爲憲が口遊〈天祿元年冬十二月記〉年代門に、今案、自二大寶元年一迄二今年一、總二百七十年、昔大寶以往有二年號一曰大化、白雉、白鳳、朱鳥、凡至二白雉一合九載、其後齊明天智二帝雖レ治二天下一、專無レ號、轉更至二天武治一レ天、歳號二朱鳥一、其後持統一帝無二年號一、亦文武御レ天歳號二大寶一、從レ此以來永以不レ絶也とあり、此即ち吾國金貨の始發する日にて、文武帝五年三月廿一日、大寶紀元の號、本朝紀年の權輿、萬世不易の定法としるべし、漢土にも武帝建元を紀年の始とすれど、文帝の後元と、景帝の中元後元は、史官追書の名として、改元定式の年數に入ざる事、改元考に見えたり、〈◯中略〉
和漢の異年號、諸書に見えたるもの、大率かくのごとし、紀年の始末しれざるは、いづれも臆斷しがたし、此外に彼土には、年號同名數多あり、陳繼儒が偃曝談餘に、漢の建元より明の正徳に至るまで、凡一百餘名を載たり、其中大半は僭號多し、此邦は皇統一姓にて、ありがたき事なり、〈繼體帝の正和と、花園帝の正和と同名なれど、大化以前の年號は正史に載ざれば、證據となし難し、〉いづれにも、年號は國家第一の重事たるべき事と思はる、
p.0348 繼體天皇十六年、武王年を建て善記といふ、是九州年號(○○○○)のはじめなり、
年號 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年、其間年號連綿たり、麗氣記私抄、また海東諸國記などにもこれを載せ、今伊豫國の温泉銘にも用ひ、如是院年代記にも朱書して出せり、しかれども諸書載るところ異同多し、今あはせしるして參考に備ふること左のごp.0349 とし、
善記 襲の元年、繼體天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる、海東諸國記善化に作る、如是院年代記に、或曰、繼體天皇自二十六年一始年號在レ之云々分者朱ニテ書レ之、年數相違之處在レ之不審とあり、一説曰、繼體帝之時、善記四年終、
正和 繼體天皇二十年丙午、正和元年とす、孔方不知品に、正和通寶あり、けだし襲人の鑄るものなり、桂林漫録にのせたる、下野國河内郡なる正和元年建立の鐵塔婆は、花園天皇の正和元年壬子のものなり、混ずべからず、一説曰、正和五年終、
殷到 繼體天皇二十五年辛亥、殷到元年とす、海東諸國記發例に作り、如是院年代記教到に作る、同書に、教到元始作レ暦とあるも、また襲人のしわざなるべし、一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年號あり、いはく定和七年終、常色八年終、教知五年終、一説作二教到一、又曰二殷到一、按自二四年一至二五年一、係二安閑帝之時、
僧聽 宣化天皇元年丙辰、僧聽元年と改む、一説曰、宣化帝之時、僧聽四年終、欽明天皇元年、かれが僧聽五年、襲の人衆を率て歸附す、欽明紀曰、元年三月蝦夷隼人並率レ衆歸附、
明要 欽明天皇二年辛酉、明要元年とす、海東諸國記同要に作る、一説曰、欽明帝之時、師安一年終、大長三年終、法清四年終、清一作レ靖、兄弟和一年終、一作二兄弟一、明要三年終、或云、十二年、藏知一年終、知一作レ和、知僧一年終、或云七年、
貴樂 欽明十三年壬申、貴樂元年とす、一説曰、貴樂十八年終、或云二年、
法清 欽明十五年甲戌、法清元年とす、海東諸國記結清に作る、
兄弟 欽明十九年戊寅、兄弟元年とす、
藏和 欽明二十年己卯、藏和元年とす、如是院年代記に藏知に作る、p.0350 師安 欽明二十五年甲申、師安元年とす、
知僧 欽明二十六年乙酉、知僧元年とす、海東諸國記に和僧に作る、
金光 欽明三十一年庚寅、金光元年とす、一説曰、金光六年終、或云四年、實敏達帝二年、豐後人眞名野長者道場を内山に起立し、號して蓮城精舍といふ、はじめ長者金三萬兩を天臺山に寄て福根とす、南嶽慧思大師、緬に長者が徳ある事を知り、すなはち弟子蓮城を遣はし、赤檀千手眼瑠璃藥師佛像を齎し來らしむ、長者深くこれを信じ、蓮城精舍を起し、また深田の地に就て、祗陀、療病、施藥、安養、快樂の五院を創め、名けて滿月寺といふ、皆城をもて開基とす、事は豐鐘善鳴録に見えて、豐後國志にもこれを引たり、内山は好古小録硯石品に、内山石、豐後上材難レ獲といへる處なり、
賢棲 敏達天皇五年丙申、賢棲元年とす、海東諸國記棲を接に作る、如是院年代記に稱に作る、一説曰、敏達帝之時、賢輔五年終、輔一作レ棲、又作レ博、
鏡常 敏達十年辛丑、鏡常元年とす、海東諸國記常を當に作る、一説曰、鏡常四年終、鏡一作レ鐘、今按ずるに鏡常是なり、
勝照 敏達十四年乙巳、勝照元年とす、一説曰、照勝四年終、一曰作二勝照一、又曰、用明帝之時、和重二年終、
端政 崇峻天皇二年甲寅、端政元年とす、如是院年代記端改に作る、一説曰、崇峻帝之時、端政五年終、
吉貴 推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす、海東諸國記從貴に作る、一説告貴に作る、いはく推古帝之時、告貴十年終、又曰、按一説、推古元年爲二喜樂一、二年爲二端正一、三年爲二始哭一、一作二始大一、自二四年一至二十年一、爲二法興一、是四年號通計十年、而終與二告貴一年數正相符、則十年之間、蓋與二告貴一互相行也耳、いま按ずp.0351 るに、伊豫風土記に、湯郡云々、天皇等於レ湯幸行降坐五度也云々、以二上宮聖徳皇子一爲二一度一、及侍高麗惠慈、葛城王等也、于レ時立二湯岡側碑文一、其立二碑文一處、謂二伊社邇波之岡一、記曰、法興六年十月歳在二丙辰一云々と見えたり、丙辰は推古天皇の四年にして、すなはち法興寺の成し年なり、この年を法興六年とすれば、その元年は崇峻天皇の四年辛亥なり、しかるに今記する處とあはず、疑ふべし、
願轉 推古七年辛酉、願轉元年とす、海東諸國記煩轉に作る、一説曰、願轉四年終、
光元 推古十三年乙丑、光元元年とす、如是院年代記光充に作る、一説曰、光元六年終、一作二弘元一、又曰二光充一、
定居 推古十九年辛未、定居元年とす、今按ずるに、寶永五年板靈符縁起集説といふものに、我朝推古女帝〈人王三十四代〉ノ御宇ニ、百濟國定居元〈辛未〉年、聖明王第三ノ御子琳聖太子、我朝ニ渡リ玉ヒテ、此法ヲモツハラ弘メ玉フ、其後儒佛神トモニ執行シケルト〈舊記ニ見タリ〉とあり、此舊記といへるは、何れの書なる事さだかならざれども、さる事しるせるふみありと聞えたるに、旣に九州年號を百濟年號と誤りたり、
倭京 推古二十六年戊寅、倭京元年とす、此年號海東諸國記には見えたり、麗氣記には見えず如是院年代記には和京繩につくれり、一説曰、和京五年終、一作二和景繩一、又曰、按和京元年、爲二定居元年一、定居七年終、和京五年終、則仁王元年、則爲二定居六年一、蓋是三年號、又互相行也耳、
仁王 推古三十一年癸未、仁王元年とす、一説には、仁王の次に節中といふ年號あり、いはく仁王六年終、節中五年終、
聖聽 舒明天皇元年己丑、聖聽元年とす、如是院年代記に聖徳に作る、一説曰、舒明帝之時、聖聽三年終、p.0352 僧要 舒明七年乙未、僧要元年とす、一説曰、僧安五年終、
命長 舒明十二年庚子、命長元年とす、一説曰、明長五年終、一作二命長一、又曰二長命一、又曰、按自二三年一至二五年一、係二皇極帝之時一、右大化以前年號、
常色 孝徳天皇三年丁未、常色元年とす、これを一説には繼體帝之時の年號とす、前に見えたり、
白雉 孝徳六年庚戌、白雉元年とす、齊明天皇元、かれが白雉六年、その人衆を率て内屬す、 齊明紀曰、元年、是歳蝦夷隼人率レ衆内屬、詣レ闕朝獻、
朱雀 天武天皇元年壬申、朱雀元年とす、一説には白雉朱雀の二年號をしるさずして、ことに中元果安の二年號をしるしていはく、天智帝之時、中元四年終、又曰、按戊辰爲二元年一、天武帝之時果安、又曰、按不レ審二年數一、
大和 持統天皇九年乙未、大和元年とす、此年號麗氣記には見えず、海東諸國記にはのせたり、孔方不知品に大和通寶あり、これこの大和年中に鑄たるにてもあるべし、一説曰、持統帝之時大和、又曰不レ審二年數一、
大長 文武天皇二年戊戌、大長元年とす、一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌爲二元年一、右大化以後年號、九州年號こヽに終る、今本文に引所は、九州年號と題したる古寫本によるものなり、
今按ずるに、文武天皇の大寶以前の年號は、九州年號とまがへるものあらんもしるべからず、よくよく考ふべきことなり、今試に論ぜば、朝廷にて年號を立たまへる事は、孝徳天皇の大化元年を始とし、その六年白鳳と改元、これより天武天皇の元年まで白鳳を用ひ給ひ、天武天皇の元年朱鳥と改元、これより文武天皇五年まで朱鳥を用ひ給ひ、文武天皇五年大寶と改元ありしなりけんを、大寶以前の年號は、きはやかならざりしが故に、書紀を撰び給ひし御時にも、旣に此事さだかならずして、孝徳の御世の白鳳をば、九州年號の白雉にまがへ給ひ、白鳳を朱鳥と改元ありp.0353 し天武帝の元年を、還て白鳳元年としるし給ひ、朱鳥と改元ありしは、帝の末年の御事としるし給へる者なるべし、しかれば朝廷の白鳳元年は、九州年號の白雉元年にあたり、朝廷の朱鳥元年は、九州年號の朱雀元年にあたるなり、もししからば、九州年號の白雉朱雀は、朝廷の白鳳朱鳥を擬して唱へたる者といふべし、續日本紀に、白鳳以來、朱雀以前とある朱雀は、朱鳥の誤にや、日本紀略、嵯峨天皇大同五年九月丙辰詔曰、朱鳥以前未レ有二年號之目一、難波之御宇始顯二大化之稱一とも見えたり、かくて孝徳の御世の白雉は白鳳なるべき證は、古語拾遺に、難波長柄豐前朝、白鳳四年と見え、大職冠公傳に、天萬豐日天皇、已厭二萬機一、登二遐白雲一、皇祖母尊俯從物願、再應寶暦、悉以二庶務一委二皇太子一、又白鳳十四年皇太子攝政などあるにて推べし、豐前朝とは孝徳帝の御事なり、天萬豐日はすなはち帝の御諱なり、皇祖母尊とは齊明帝の御事、皇太子は天智帝なり、元亨釋書などにも白鳳十二年、白鳳十四年などヽしるせり、また神皇正統紀に、文武天皇即位五年辛丑より始めて年號あり、大寶といふ、是より先に孝徳の御代に、大化、白雉、天智の御時、白鳳、天武の御代に朱雀、朱鳥など云號ありしかど、大寶より後にぞたえぬ事にはなりぬる、依て大寶を年號の初とするなりと見えたり、これに天智の御時白鳳としるせるも、一ツの證とすべし、さて如是院年代記には、孝徳天皇元年に、大化と年號たて給ひし事見えず、六年の下の細書に、白雉元年二月、長門國獻二白雉一、改二元白雉一と見え、天武天皇の下の細書に、即位之年壬申改元、朱雀二年の下の細書に改二元白鳳一、十三年の下に朱雀元と朱書し、十五年の下に大化元と朱書し、細書に和州獻二赤雉一、因レ玆改二朱鳥一と見え、持統天皇六年の下に、大長元と朱書し、文武天皇大寶元年よりぞ年號を大書して、細書に三月二十一日改元、年號始二於此一、此歳對馬島貢レ金、由レ是三月二十一日甲午改二元大寶一とあり、これらによりておもふに、朝廷にてまさしく年號を建給ひたるは、この大寶ぞ始にて、是より以前の年號は、九州年號とたがひにまがひたるなるべし、白鳳と白雉と、朱鳥と朱雀と義相近く、大化と大和と音
p.0354 相同じきをもおもふべし、
p.0354 一繼體天皇、日本年號を善記と云、是始と云々〈書に繼體帝即位十六年を、善紀元年とす、〉以下略レ之、二十餘之年號あり、正史に見へず、夫我國年號の始は、孝徳帝元年を大化と號し給ひ、其六年を白雉と改む、白鳳は天武即位の元年壬申より乙酉迄十四年、丙戌は朱雀の元年也、持統は年號を立給はず、文武の即位五年辛丑、大寶と號せられし後、綿々として改元有りといふ、有難き事共也、
p.0354 往古年號
年號は、孝徳帝御時、大化白雉の號を置れたる、日本紀に見えし始なり、しかるに伊豫國の湯碑文を上宮太子の建給ふに、法興六年十月歳次丙辰としるさせ給ふ、此碑は今廢れたれど、其文は伊豫風土記を引て釋日本紀にみえたれば、法興の年號有し事明也、考るに丙辰の年は、推古天皇の四年なり、此法興の號、源平盛衰記にもみえたり、又欽明天皇の御時、金光の年號、推古天皇の御時、端政の年號等も、平家物語にみえたり、猶後世の書なれども、東山殿の同朋相阿彌が著す君臺觀にも、聖徳六年戊巳としるす、又江州あぶら火の明神の社記にも證明四年と書たりといふにや、海東諸國記に、敏達天皇元年壬辰に金光を用ひ、崇峻天皇二年己酉に端政を用ひ、舒明天皇元年己丑に聖徳を用られしといふとみえたり、法興と證明といふ號は其書にみえず、是等の年號ふるく記し置き、異國にても書たれば、往古大化白雉より先に年號有し成べし、聖徳太子と申奉る事、御諱名なりとも、御謚號なりとも記せしものあれども、其世の年の名をとりて稱し奉るにやあるべき、其後白鳳と朱雀といふ年號、ふるき文に多く見え、水鏡には、天武天皇の大友皇子を亡し給ふ年の年號朱雀元年にて、明年白鳳と改元有しなり、神皇正統記には、天智の御時白鳳、天武御代に朱雀朱鳥などいふ號有しと見え、又古語拾遺には、難波豐前の朝白鳳四年といふ事も有、是は孝徳天皇の朝の御事なり、此二ツの年號、諸記にしるす所如レ此に齟齬ある上に、正史に見へp.0355 ず改元考にも出されず、此二ツの號とるべき名にあらずと思ふに、聖武天皇神龜五年十月に、治部省より奏言せし詔報のなかに、白鳳以來、朱雀以前、年代其遠、尋問難レ明、亦所司記注、多有二粗略一といふ事、續日本紀にみへたれば、日本紀にみへずとて、此年號朝廷に一向廢せられし號にもあらざるか、今是を審にせんに外に所見なし、按るに、朱雀白鳳の年號は、天武天皇難をさけて吉野にこもらせ給ひ、それより二年の後、癸酉のとし淨御原の宮に即位し給ひし間に、大津の宮にて大友皇子の立給ひし年號なる故に、舍人親王の日本紀に除て書せ給はざりしや、上に引し聖武天皇の治部省へ詔報ありし詞も、大津宮の大友皇子の御時の事なれば、何事も明に知がたきとあることにて、大津宮の二ツの年號を出されざる事なるべし、亦天平感寶といふは、天平廿年四月に改元有し號なれども、間もなく同年七月に天平勝寶と改元ありし故に、國史にはみえたれども、年代記等にはみえず、世の人のしらぬ年號なり、
p.0355 續日本紀、神龜元年朔日詔曰、白鳳以來、朱雀以前、年代玄遠、尋問難レ明、而朱雀白鳳二號、日本紀皆不レ載、其他水鏡諸書所レ載紀號、國史亦無二所見一、倶未レ詳二其故一也、〈◯下略〉
p.0355 善紀(○○)、大屯(○○)、
萬葉緯一卷ニ、史籍不レ記二往古年號一、今所レ記以二本瀬三之自筆一摸レ之、傳聞、南都古寺間有レ記、此年號書矣、トアリテ、異年號ヲ集メタルモノアリ、大凡年契ニイヘル如シ、繼體天皇十六年ヲ善紀元年トシテ、文武天皇四年ヲ大屯九年トスル迄、凡百七十九年ノ間ヲ記セリ、此年號所出ノ書ヲイハズ、證トシガタケレバ寫シトヾメズ、
p.0355 藤原貞幹が逸號年表を得て之を見るに、二十四部の書を引きて、正史にもれたる紀號ある由を云り、故かヽる異しき年號もありけるにやと、猶疑はしかりけるを、伴信友が同書の補考に、五十一部の書を引證してあなるに驚かされて、やヽさきの疑ひもはれたれど、猶
p.0356 あかずまに彼此と書見る因に、其異年號の見あたりたるどもを書集め置て、さて考ふるに、列滴以下の號ども、多くは中古以來僧徒の、人の國へゆきヽおほくありし頃より、皇國の古へに、紀號なきを厭ぬ事に思ひて、造出たるならん、其文字づかひもいと拙く、佛家の語を用ひたるにて知るべし、神社寺院の縁起佛像などに彫付たるも、大かた同じ心ばえなり、然るを韓人の海東諸國記にかけるは、もとより正しき紀號と心得て記せるにや、
p.0356 和漢異年號
證明(○○)〈詹詹云、江州油火明神の社記に、證明四年と云書付あり、此暦號何代なることを知らず、此年號右社の鰐口にもあり、按ずるに兼延が名法要集に、大織冠曰、吾唯一神道者、以二天地一爲二書籍一、以二日月一爲二證明一、此語を兼倶が神代抄に皇太子の語といへば、法興聖徳などとおなじく、推古舒明兩帝の御時なるべし、油火明神は、江州甲賀郡にあり、〉
p.0356 證明四年 近江國油日村明神縁起、コハ上ニ擧タル勝照ノ誤リカ、
p.0356 伊豫國風土記曰、〈◯中略〉立二湯〈◯道後〉岡側一碑文記云、法興(○○)六年十月歳在二丙辰一、我法王大王、與二惠總法師及葛城臣一、逍二遙夷與村一、正二觀神井一、歎二世妙驗一、欲レ敍レ意、聊作二碑文一首一、〈◯下略〉
p.0356 法興元(○○○)世一年、歳次二辛巳一、十二月鬼前大后崩、〈◯中略〉
右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如レ件〈今私云、是正面中臺佛云云、〉
釋曰、法興元世一年、此能不レ知也、但案二帝記一云、少治田天皇之世、東宮厩戸豐聰耳命、大臣宗我馬子宿禰、共平章而建二立三寶一、始興二大寺一、故曰二法興元世一也、此即銘云、法興元世一年也、後見人若可レ疑二年號一、此不レ然也、然則言一年字、其意難レ見、然所レ見者聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即少治田天皇御世、故即指二其年一、故云二一年一、其無二異趣一、
p.0356 釋迦佛造像記
辛巳、推古天皇二十九年、〈◯中略〉鬼前太后、斥二穴太部間人女王一、是厩戸皇子之妣、
p.0356 忠友〈◯穗井田〉曰、法隆寺釋迦光後銘ニ法興元卅一年亗次辛巳トアルヲ、貞幹小録ニ
p.0357 元世一年ト讀シハ誤也、丗ハ卅ニテ、世ニハ非ズ、同背後銘ノ中ニ、世間又即世トモアリテ、世ノ字ト別也、崇峻帝ノ辛亥ヲ法興元年トシ、此辛巳ヲ卅一年トスルコト論ナシ、道後湯碑ニ推古帝ノ丙辰ヲ、法興六年ト記シタルヲモ合考ベシ、蓋シ元世一年ノ元字ハ、衍文トモ云ベシ、
◯按ズルニ、法興元ハ、又ハ法興トモ云ヒシナルベシ、釋日本紀ニ引ケル伊豫ノ道後ノ碑ニ、法興六年十月歳在二丙辰一トアルガ如シ、法興元トハ、法興寺ノ創立ヲモテ元年トシタルモノナラン、日本書紀ニ、崇峻天皇元年、壞二飛鳥衣縫造祖樹葉家一、始作二法興寺一トアルハ、建テ始メタルヲイヘルニテ、建テ訖リテ後ニ寺ノ名ヲ法興ト名ケ、即チ其年ヲ元年トセシモノナルベシ、法興寺ハ即チ元興寺ナリ、三字ヲ年號トスルハ、王莽ノ始建國、梁武帝ノ中大通、中大同ノ例ノ如ク、又元ノ字ヲ年號ニ著クルハ、漢ノ武帝ノ建元、後元、光武帝ノ中元ナドノ例ナリ、
p.0357 三如來トハ何
如來未ダ伊那郡善光ガ家ニ御座時ニ、推古天皇御宇、淨土ノ業、自餘ノ教法ニ勝ルヽ故ニ、聖徳太子、欽明、用明、并ニ守屋與力ノ逆罪ヲ濟ハン爲ニ、八人ノ大臣ト共ニ時衆ト成テ、清凉殿ニシテ常行三昧ノ念佛、七日七夜稱名アリテ、功徳ノ有无ヲ此善光寺ノ如來ニ尋申サレケル、〈◯中略〉第二度ニハ、調子丸ヲ御使トシテ御消息アリ、其詞云、 大慈大悲本誓願 愍二念衆生一如二一子一 是故方便從二西方一 誕二生片州一興二正法一〈◯中略〉 法興元(○○○)世一年〈辛巳〉十二月十五日、厩戸勝鬘上ト遊シケル、世間ニ流布シテ、庿中廿句ノ文ト云是也、〈◯中略〉第三度ノ御使ニハ、甲斐ノ黒木調子丸二人也、黒駒ニ乘リ、調子ハ究駄ニ乘ル、其時ノ御消息ニハ、 州域化縁度脱了 平等一子衆生界〈◯中略〉 口稱誓願報二持功一 豈是固持不二護念一 法興元丗二歳〈壬午〉八月十三日、厩戸勝鬘上ト遊バシテ、御表書ニハ、進上本師如來御寶前ト侍リテ、班鳩厩戸上ト云々、
p.0357 重衡關東下向附長光寺事
p.0358 抑長光寺ト云ハ、武作寺ノ事也、〈◯中略〉法興元世二十一年壬子二月十八日、太子〈◯聖徳〉ト妃〈◯高橋〉ト相共ニ、彼寺ニ御幸シテ、〈◯下略〉
p.0358 源平盛衰記なる、近江國長光寺の縁起を語れる文に、〈◯中略〉此は、そのかみ彼寺の縁起文によりて記せりと聞ゆるに、其法興元世廿一年壬子といへるは、今己が考たる説に合ひがたし、其はまづ、法興元世といへる世字の論は、しばらく除て、廿一年壬子とある干支年次によりて、推し撿るに、聖徳太子のおはしましける、御世の壬子は、崇峻天皇の五年にて、かの速見の湯の碑文の、法興二年に當れば、廿一年と云へるに合はず、かの佛光後の銘を、法興元世の一年とせむにも、其廿一年は、舒明天皇の十三年辛丑に當りて、干支も合はざるが上に、聖徳太子薨給ひて、廿年の後なれば、是も合はず、すべて件の縁起の趣、古書どもに見えたる事實にも、さらに合はず、有べくもあらぬ事どもにて、いと妄浪なるを思へば、旣く其寺の僧徒が造言にて、彼善光寺如來に賜ひたる、聖徳太子の文の類にて、かの佛光後の銘を、法興元世と讀なれたる説によりて、干支年次をだに考ずして、謾りに造言せるものなりけり、かくて其年號〈◯法興〉は、次の推古天皇の御世かけて、厩戸皇子の攝政のほどまで用ひ給へるを、いはゆる法興元卅一年に、皇子薨給ひて、後おのづから廢みぬるなるべし、但し此年號も、後の例のごとき重事として、天下に遵用ひさせ給へるにはあらで、一時の嘉號の如くなりけるが上に、もはら馬子などが申し行ひたる事なるべければ、是も史には除かれたるなるべし、然はあれど、是ぞ年號と稱ふものヽ創には有るべき、
p.0358 神龜元年十月丁亥朔、治部省奏言、勘二撿京及諸國僧尼名籍一、或入道元由、披陳不レ明、或名存二綱帳一、還落二官籍一、或形貌誌レ黶、旣不二相當一、總一千一百二十二人、准二量格式一、合レ給二公驗一、不レ知二處分一、伏聽二天裁一、詔報曰、白鳳(○○)以來、朱雀(○○)以前、年代玄遠、尋問難レ明、亦所司記注、多有二粗略一、一定二見名一、仍給二公驗一、
p.0359 太政官謹奏
請下抽二出元興寺攝大乘論門徒一一依二常例一住中持興福寺上事
右得二皇后宮職解一偁始興之本、從二白鳳年(○○○)一迄二于淡海天朝一、内大臣割二取家財一、爲二講説資一、伏願永世萬代勿レ令二斷絶一、〈◯中略〉今具二事状一、伏聽二天裁一、謹以申聞、謹奏、奉レ勅依レ奏、
天平九年三月十日
p.0359 至二難波長柄豐前朝(○○○○○○○)〈◯孝徳〉白鳳四年(○○○○)一、以二小華下諱齋部首作賀斯一、拜二神官頭一、
p.0359 此事孝徳紀に見えず、廣成宿禰の家傳にぞありけむ、本朝月令、年中行事秘抄、公事根元等にも、此文をひかれたり、然るに古語拾遺一本に、白鳳を白雉と作るがあるは、後人の書紀に據りて、私に改めたるものなり、其一本を除ては數本悉白鳳とあるが上に、月令等の古書に、引載たるにも、白鳳とあり、又西宮記〈◯中略〉十月宰相行列の條に、菅簦(オホガサ)云々、白鳳制云、三品已上聽二菅簦一云々と記されたり、この白鳳も孝徳の御世なるべし、
p.0359 古語拾遺ニ、至二于難波長柄豐前朝〈◯孝徳〉白鳳四年一トミエタルヲ、齊延本ト、天文本ニハ白雉トアリ、加賀本類聚三代格、天平九年三月十日ノ文ニ、興福寺ノ事ヲ始興之本、從二白鳳年一迄二于淡海天朝一云々トアルハ、孝徳帝ノ年號ヲ云ルナルベシ、
p.0359 白鳳五年秋八月、詔曰、尚レ道任レ賢、先王彜則、裒レ功報レ徳、聖人格言、其大錦冠内臣中臣連、功侔二建内宿禰一、位未レ允二民之望一、超二拜紫冠一、増二封八千戸一、俄而天萬豐日天皇〈◯孝徳〉已厭二萬機一登二遐白雲一、
◯按ズルニ、之ニ據レバ、白鳳ハ即チ白雉ナリ、ソハ孝徳天皇ノ崩御ハ、日本書紀ニ據ルニ、白雉五年甲寅ノ十月ニテ、此書ニ鎌足公ガ紫冠ニ超拜セラレシトイフ八月ニ甚ダ近ケレバナリ、サレバ俄而トハ云フナリ、是ニテ白鳳ハ白雉ノ一名ナリト定ムベシ、白雉ヲ白鳳ト云ヘルハ、雉ノ文采ノ鳳凰ニ似タルヨリ云フナリ、漢土ニテモ鸞峙鳳翔ナドモ云ヒ、雉ヲ鳳凰ナリト云p.0360 ヒテ欺キシト云フ話モアリ、白雉ヲ獲シニヨリテ白鳳ト改元セシヨシハ、諸書ニ多ク見エテ、白鳳ノ年號ノ白雉ニ由レリト云フハ、古キ傳ナルベシ、又按ズルニ、白雉ハ日本書紀ニテハ、五年ニテ終リタレド、藤原家傳ニテハ、白鳳十二年、十三年、十四年ナドモアリ、サレドソノ事實ドモヲ日本書紀ニ合ハセ、白鳳ヲ白雉トシテ數フル時ハ、十二年ハ十一年ノ誤、十三年ハ十二年ノ誤、十四年ハ十三年ノ誤ナリ、
p.0360 天智の御時白鳳(○○○○○○○)
◯按ズルニ、和漢合符、天智帝ノ壬戌ノ年ヲ以テ白鳳二年トス、本朝皇代記之ニ同ジ、
p.0360 答、大化、白雉、朱鳥ハ日本紀ニ出、大寶ハ續日本紀ニ出候ヘバ、マガフベクモ非ズ、白鳳朱雀ノ二ノ年號ハ、水鏡、神皇正統記ニ見エ候ヘドモ、甚イブカシク候、又古語拾遺難波豐前朝ニ、白鳳四年ト記セシハ、白雉ノ字誤ナルベシ、此ノ御時ニ此號其餘更所見ナキコトニ候、大同五年九月十九日改元之時詔ニモ、朱鳥〈◯朱鳥、日本後紀、日本紀略並作二飛鳥一、〉以前未レ有二年號之目一、難波御宇始顯二大化之稱一ト、日本紀略ニモ見エテ、朱鳥ノ前ニ續キタル朱雀白鳳ノ號不レ見候ヘバ、此二號ヲ稱スルコト誤ナルコト分明ニ候、故ニ此二ノ號、水鏡、正統記トモニ齟齬セシコト多シ、白鳳ノ號天智ノ御時ノ年號(○○○○○○○○○○○○)トモ注シ、又天武ノ初朱雀(○○○○○○)トシ、其明年白鳳(○○○○)ト改元、白鳳十五年朱鳥ト改元(○○○○○○○○○○)セシ由記セリ、如レ此ナラバ日本紀ノ年序ヨリ一年延ビテ、尤支干モ不二相叶一候、是其二ツ也、水鏡ニ天武元年八月ニ、野上宮ヘ筑紫ヨリ赤キ雀ヲ奉リシ故ニ、年號ヲ朱雀ト改ラレシ由記セリ、此元年御軍ハテヽ、大友ノ御首ヲ野上ノ宮ヘ奉リタルコト七月廿七日ナリ、未ダ御世何レトモ不レ定、又定シヨリト見レバ、八月ニテハ日數ノ間アルマジキ也、是其三ツ也、是等ニテ又兩書ノ誤猶分明ナリ、然ルニ世ニ此二ノ號ヲ稱スルコトヲ考ルニ、此朱雀白鳳ノ號ハ、大友皇子大津ノ宮ニ帝ノ如クニテマシマセシ中ニ稱セラレシ年號ナルヲ、世ニ云傳ヘシニヤ可レ有、
p.0361 サレドモ舍人親王ハ天武ノ皇子ナレバ、此二號ノ稱ヲイミ給テ、小注ニモ注シ給ハザリシナルベシ、此白鳳ノ號、水鏡ノ説ニヨラバ、舍人親王誕生マシマセシハ則白鳳五年ニ當レバ、記シモラシ給フベキコトニモ非ズ、何レニ考テモ、此二號ハ取ルマジキモノニゾ、
p.0361 元年壬申(○○)八月、天皇幸二野上宮一、立二年號一爲二朱雀元年(○○○○)一、太宰府獻二三足赤雀一、仍爲二年號一、
p.0361 朱雀一年〈信濃國獻二赤鳥一、仍爲レ瑞改元、〉
p.0361 朱雀元〈元年壬申、信乃國獻二朱鳥一、爲レ瑞改元、〉
p.0361 天武 十五年〈元年壬申◯中略〉 朱雀(○○)一年〈元年壬申(○○○○)〉 白鳳(○○)十三年〈元年(○○)、壬申(○○)、支干同前、年内改元歟(○○○○○)、〉
p.0361 顯眞一萬部法華經事
同〈◯壽永元年五月〉廿七日ニ、改元ノ定アリ、改二養和二年一爲二壽永元年一、法皇ノ御氣色ニ依テ被レ行ケリ、是ハ或人夢想ノ告アリケル故トゾ聞エケル、延喜ニ公忠ノ夢想ニ依テ忽ニ改元アリキ、例ナキニ非、今上去々年即位、其年大嘗會有ベキ處ニ、福原ニ臨幸ノ間、新都其禮難レ被レ備アリケレバ、延引シケリ、去年ハ又諒闇也ケレバ被レ行ズ、今年被二遂行一ベキニ、大嘗會以前兩度ノ改元其例審ナラズト、沙汰有ケルニ、天智天皇十年ニ崩ジ給シニ、天武天皇固辭シテ即位シ給ハズ、大伴皇子ノ亂アリテ、次年ノ天武元年(○○○○)七月ニ、彼皇子ヲ被レ誅キ、同八月(○○)ニ、太宰府ヨリ三足ノ赤雀ヲ獻ズ、仍テ年號トス、朱雀(○○)是也ト、左大臣經宗被レ申ケリ、大外記頼業ハ白雉ヲ改テ白鳳トシテ(○○○○○○○○○○)、十一月ニ大嘗會ヲ被レ行キト申ケレバ、忽ニ改元アリケルトカヤ、
p.0361 頼業眞人の、白雉を改て云々といへるは、上に擧たる如く、二年癸酉三月に、白雉を獻れる瑞によりて、すなはち白雉と改元ありけるを、其年更、白鳳と改られたる由の傳のありけるなるべし、〈◯下略〉
◯按ズルニ、上文引ク所ノ愚管抄、及ビ次下引ク源平盛衰記ニ據ル時ハ、一年ニ再ビ改元アリp.0362 シハ、壬申歳ナリシガ如シ、記シテ疑ヲ存ス、
p.0362 白鳳元年壬申(○○○○○○)三月、備後國進二白雉一、仍改爲二白鳳一、
◯按ズルニ、一代要記以下、壬申ノ歳ヲ以テ白鳳元年ト爲ス説ナリ、
p.0362 白鳳十三年、元年壬申、備後國獻二白雉一、仍爲レ瑞改レ元、
p.0362 日吉社〈◯中略〉 山家最要略記、日吉七社降臨垂跡時代事、扶桑明月集云、〈◯中略〉第四十代天武天皇即位白鳳元年、〈壬申〉近江國滋賀郡垂跡、
p.0362 三井寺僉議附淨見原天皇事
宮〈◯天武〉名乘テ憑マントオボシテ、丸ハ淨見原ノ宮也、深ク汝ヲ憑ト宣ヘバ、長者畏テ聟ニ取奉テ、隱シ置奉ル、〈◯中略〉其後長者、東夷ヲ催テ、白鳳元年壬午、始テ不破關ヲ置テ、美濃國ニテ軍構シ給ヘリ、〈◯中略〉宮都ニ上給ヒ、即レ位給ニケリ、天武天皇トハ是也、〈◯下略〉
◯按ズルニ、壬午ハ、上文引ク一代要記、皇代記、二十二社註式等ニ據ルニ、壬申ノ誤ナラン、日本紀ニ據ルニ、天武帝ノ壬申ハ、即位元年ニシテ、壬午ハ、十一年ニ當レリ、
p.0362 香椎宮〈◯中略〉 第四十代天武天皇白鳳二年〈癸酉〉二月八日、高良託宣、譽田天皇御宇、爲二晨昏武略之健將一、
p.0362 大嘗會歌次第 大嘗會、天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始レ之、但歌不レ見、
p.0362 丹生社〈◯中略〉 人皇四十代天武天皇白鳳四年〈乙亥〉御垂跡
p.0362 二年癸酉(○○○○)三月、備後國進二白雉一、仍改爲二白鳳元年(○○○○)一、白鳳合至二十四年一、
◯按ズルニ、扶桑略記以下、癸酉ノ歳ヲ以テ白鳳元年ト爲ス説ナリ、
p.0362 其年の八月に、御門は野上の宮に移り給たりしに、つくしより足三ありし雀の赤を奉りしかば、年號を朱雀元年と申侍りし、其明年〈◯二年癸酉〉の三月に、備後國より白雉を奉りたりしに
p.0363 は、朱雀と云し年號を白鳳とぞかへられにし、
p.0363 癸酉歳太宰府獻二三足赤雀一、仍改二元朱雀一、即白鳳元年也、
p.0363 天武天皇壬申、元年建二朱雀號一、二年(○○)〈◯癸酉〉帝即位、改(○)一朱雀(○○)一號(○)二白鳳(○○)一、
p.0363 文治三年十二月七日甲戌、天武天皇御宇二〈◯二恐一誤〉年八月、帝遷二坐野上宮一給之時、自二鎭西一獻二三足赤色之雀一、仍改元爲二朱雀元年(○○○○)一、明年三月自二備後國一獻二白雉一、又改(○)二朱雀二年(○○○○)一爲(○)二白雉元年(○○○○)一、同十五年自二大和國一進二赤雉一之間、改二年號一爲二朱鳥元年一、
p.0363 伊勢齋宮事
天武天皇白鳳元年四月十四日、以二大來目皇女一、獻二伊勢神宮一、依二合戰願一也、
◯按ズルニ、日本書紀ニハ、此事ヲ天武天皇二年癸酉ニ係ケタリ、
p.0363 二〈癸酉(○○)〉十三(○○)〈或以二是年一爲二白鳳元年(○○○○)一、備後國獻二白龜一、因レ此改元、〉
◯按ズルニ、二トアルハ即位二年、十三トアルハ白鳳十三年ナラン、
p.0363 一代要記に、箕面寺縁起を引て、癸酉歳大宰府獻二三足赤雀一、仍改二元朱雀一、即白鳳元年也といへるは、癸酉を朱雀の元年とし、其年また白鳳と改られたる趣なり、大宰府獻二三足雀一ことは、上に擧たる如く、壬申年の事なるを、癸酉の年として、其年内に再白鳳と改られたる由にて、上に考定たる年立に合せては、朱雀の改元は、一年後れ、白鳳の改號は、一年前だちたり、紹運録に、天武天皇を白鳳二年に即位と記し、元正天皇を白鳳十年辛巳降誕と記し、文武天皇を白鳳十二年癸未降誕と記したる白鳳を、書紀、また亨年(ミトシ)等によりて推考るに、これも要記と同じ年立干支に合へり、案ふに、こは下に論ふ如く、壬申年大友天皇の御世に坐ませるほどは、白鳳の年號を用ひ給ひ、其年の内に、天武天皇の御世となりて、朱雀と改給ひ、二年癸酉に、又白鳳を用ひ給へるを、然は混へたるにて、その年立に據りて記せる傳なるべし、此餘に、白鳳元
p.0364 年を壬申に係て記せる書多し、〈◯下略〉
p.0364 白鳳十四年(○○○)〈備後國獻二白雉一、仍爲レ瑞改元、〉
p.0364 當麻の寺は、〈◯中略〉天武天皇の御宇白鳳十四年に、高麗國の惠觀僧正を導師として供養をとげらる、
p.0364 承安二年閏十二月、近日諸國稱下有二改元一之由上、公家被二誡仰一、〈其號泰平(○○)元年云々〉
p.0364 僧鑁阿謹
寄進 手印〈◯鑁阿〉
金剛峯寺鎭守天野宮八講理趣三昧并神事等用途米事〈◯中略〉
和勝(○○)元年六月廿五日 手印〈◯鑁阿〉
僧鑁阿
◯按ズルニ、高野春秋ニハ和勝元年ヲ以テ建久元年ト爲セリ、
p.0364 佛之時如レ件
迎雲(○○)元年正月廿四日、伽羅陀山寺別當法眼和尚位地藏請文、
建久元年庚戌十二月廿一日、爲二無上菩提一書了、
抑地藏菩薩者、以二彌陀之勅宣一已爲二證文一、末代衆生者、地藏之請文可レ爲二券契一歟、仍爲二後日沙汰一、所レ令二書寫一也、厭二穢土一欣二淨刹一之輩、各書二取一本一、琰魔廳對決之時、可レ備二證文一也、但率爾之案、文體難レ備、志之所レ之、纔述二旨趣一、令二人披見一、人必可レ唱二彌陀地藏空號一也、
正治元年七月六日書寫了
p.0364 天靖(○○)元年 上島氏下島氏古系圖牒、北朝嘉吉三年癸亥ナリ、〈信按、嘉吉ハ南北和議四十餘年ノ後ナリ、若クハ南朝奉仕ノ餘衆ノ私號カ、〉大日本史、嘉吉三年九月、前大納言藤原有光等、稱レ兵入二禁中一、取二神璽寶劍一、擁二王子萬壽寺僧金藏主一、〈私云、後龜山天皇ノ王子ナリ、〉據二延暦寺一、金藏主有光敗死、〈◯中略〉天靖ハ決メテ嘉吉三年、金藏主ヲ擁
p.0365 シタル年號ナルベシ、上島下島氏ハ、當時金藏主ヲ擁シタル徒衆ナラン、
p.0365 延徳元〈庚戌〉 京ニ王崩御トテ福徳(○○)二〈庚戌〉年ト年號ヲ改ル也、殊ノ外ニ大飢饉而、其年ノ内ニ米ハ七十、大豆六十、粟ハ更ニ無シ、牛馬渇死ル事大半ニ越タリ、人民飢死コト無レ限、
p.0365 福徳
相州鎌倉鶴岡八幡の座不冷所〈鎌倉志云、座不冷所ハ回廊ノ東方にあり、天下安全の御祈願所にて、十二坊輪番に一晝夜づヽ佛經を談誦するゆゑ、座不冷行法と名づく、或云く、十二坊一時づヽ勤むるなり、〉の著到の軸に、福徳二年正月一日と彫りてあり、其文左のごとし、同所光明寺にも、祈祷の額の裏に、福徳の年號ありて、後土御門院の勅筆と云ふ、
聖觀音供
不動供
福徳二年正月一日
我國福徳の年號なけれども、後土御門院の勅筆と云ふは、福徳の年號しばらく用ひられ、改元ありたれども、應仁兵亂の時ゆゑ、史官失して書せざるにや、
p.0365 按に、常陸國赤濱村妙法寺過去帳に、延徳二年庚戌の傍に書して云く、福徳元、又同三年辛亥の傍に福徳二と注せり、陸奧國河沼郡塔寺村八幡宮長帳に、文明十九年丁未の次、延徳四年壬子の前に、福徳二年辛亥とかヽげて、其下の注に、貞和二年丙戌年より福徳二年辛亥年に至て一百四十七年也とあり、依て延徳三年辛亥より送算するに、貞和二年丙戌に至て、實に百四十六年也、然れば長帳の算數一年をあやまるといへども、二年辛亥とするもの妙法寺過去帳に合する時は別に論なし、下總國平賀村本土寺過去帳に、妙本入道福徳二辛亥八月十七日とあり、新編鎌倉志に、光明寺に祈祷の二字を題せる額あり、其裏に福徳二年辛亥九月吉日とある由を記せり、これ等の跡書を合せ考れば、延徳二年庚戌に、始めて福徳の號を設けし事ありしは明也、一説
p.0366 に、辛亥を福徳元とするものあり、蜷川氏所藏年代記に、延徳二庚戌の次、明應壬子の前に、福徳辛亥とかヽげたり、又本土寺過去帳にも、妙生尼福徳元辛亥二月朔日、匝嵯道高禪門福徳元辛亥九月十七日、同鏡林徳福徳元辛亥八月十八日、禪師阿日應福徳元辛亥十一月廿四日とあり、この二書辛亥を元年としたれ共、この年代記は年を追て記せしものにて、改元の年迄は前の年號に從ひ、翌年の所に改元の號をかヽげし例あれば、こヽも其類にてありけんも知られず、又過去帳も月相齟齬して、前に載たる所は庚戌元年とし、こヽに引たる所は辛亥元年に作りたれば、二説の内何れか誤なる事は論なし、さらば諸書にかなへる庚戌元年を以て是とすべし、又一説に、壬子を元年とするものあり、本土寺過去帳に、差姓入道福徳四乙卯年七月十二日とあり、乙卯は明應四年也、この乙卯より送算するに、元年壬子にあたれり、然れどもこの過去帳齟齬多く、且他書に於て元年壬子に作るものなければ、其誤たる事明なり、又思ふに、明應四年に至りて、たま〳〵福徳の號を用ゆべき事有けんに、其年迄連續して用ひざる號なれば、明應の四年をとりて福徳四乙卯と記せるものにてもあるべし、妙法寺過去帳に福徳二あり、又關東の俗諺に、僥倖を得たるを福徳の三年めと云ひ、本土寺過去帳に、妙泉福徳三十二月四日、妙正福徳四年正月六日とありて、五年以後の號をうけたるもの見へず、これを以て考れば、福徳の號四年行はれたる事明也、さらば延徳二年庚戌に始まり、明應二癸丑に止まりしと見へたり、
p.0366 應永中上杉禪秀の亂ありてより、關東穩ならず、旣にして京鎌倉の二將相合はざるに及で、幕府の令する所鎌倉これを奉ぜず、年號は天下の大義、然れども或はこれを拒て用る事無に至る、其甚しきに及で、俗間に僞年號と稱する者出るに至る、所レ謂延徳中に福徳(○○)の號なり、凡て〈◯て下恐脱二五字一〉年を經たり、永正中に彌勒(○○)の號あり、凡て二年を經たり、享祿中に更に彌勒の號あり、天文中に命祿(○○)の號あり、凡て三年を經たり、蓋當時兵革相つぎ、蒼生安住する事能はず、爰を以て歳
p.0367 運を變ぜんが爲に、僧家漫に福徳、彌勒、命祿等の號を設けしを、頑民年號の重事なるをしらざる故に、猥に流傳せしもの也、武家の記録に是號を用ひし事なきは、士大夫以上に及ばざりし事亦以て見るべし、是號豆相等に限る、この故に今に至て、これを關東の僞年號と稱すと云、
p.0367 福徳元年庚戌〈常陸赤濱妙法寺過去帳〉
甲斐妙法寺記、延徳元年の下に、〈元年に係けたるは誤にて、下の福徳二とあると、互に文字の錯亂したる也、この元を二とし、下の二を元に作るべし、〉京に王崩御とて〈王崩御は足利將軍義政の薨を誤りしとみゆ〉福徳二〈庚戌〉年と年號を改る也、〈二の元なること、下文に明かなり、◯中略〉
福徳二年辛亥〈鎌倉光明寺額裏書、新編鎌倉志、鶴岡八幡宮座不冷所著到軸、赤濱妙法寺過去帳、〉
鎌倉光明寺額裏書に、後土御門院宸筆福徳二年亥九月吉日、また鎌倉鶴岡八幡座不冷所著到軸書に、福徳二年正月一日とあり、〈◯中略〉さてこの庚戌は延徳二年庚戌、辛亥は延徳三年辛亥にあたれる事、妙法寺過去帳、延徳二三年の旁書に、福徳元福徳二とあるにて明らかなり、
p.0367 承安元年辛卯
耶麻郡新宮神器銘曰
大勸進僧 淨尊證一
會津 地頭代 左兵衞少尉藤原知盛
小守宮預所代右兵衞少尉平 國村
新宮 彌勒(○○)元辛卯二月二十一日
〈伏〉案、人王三十七代孝徳帝之時、始自レ有二暦號一以降、終無レ有二彌勒者一、且自レ有二暦號一後大歳在二辛卯一者、四十代自二天武帝朱鳥五年辛卯一、迄二慶安四年辛卯一、凡十餘回、其中當暦元年者、六十代朱雀院承平與二兹歳一、徒兩回耳、然彌勒者可二兹歳一乎如何者、於二去年庚寅一、九月櫻梅桃李皆華也、量下愚之輩、相謂可レ言二彌勒出世之先兆一也、幸今歳帝者改二一元一、故爲二俗戲一可レ言二彌勒元年一、然以二神器一不レ謹、後鑑如レ此記乎、細於二書法一p.0368 味、不レ似二近世之人所爲一、疑是當時當二有職之人一乎、然治二邦國一官、所レ謂上古有二下司庄官一、無二地頭者一、文治始頼朝自レ補二日本國中總地頭一後、庄園置二地頭一云、未レ知二承安之頃、地頭之稱有無一、
同神器曰
大勸進僧淨尊 横三郞 壬生廣末
會津新宮
彌勒(○○)元年辛卯二月廿二日
右横三郞云者未レ詳、然不レ似二近世稱名一、且盛衰記、此邊武士有二横新大夫者一、若彼宗族乎、二件事跡、雖レ未レ詳、書法不レ似二近世者一、故記備二好事士參校一云、
p.0368 彌勒元年〈陸奧國耶麻郡新宮神器銘〉
越後の穗積保が云、彌勒元年辛卯を以て承安元年の辛卯なるべしと云は、承安二年民間訛言して、泰平の年號を唱へたるも同じ事にて、此時平相國入道權を專らにして朝廷を蔑にし、人民背きて彌勒の出世を願ひ、或泰平の時を思ひ、民間に流言して、平氏の亡べき先兆と云て、然るべけれども、承安の頃には地頭の號なければ、此年の辛卯にては决てあるべからず、鎌倉時代の辛卯の年にして、寛喜三年の辛卯か、正暦四年の辛卯か、正平六年の辛卯ならんか定がたし、もし正平の辛卯なれば、當時天下大に亂れて、南北兩年號並行はれたる故に、かヽる異年號も出來たるならん歟と云り、されど地頭の稱は、河内國小松寺縁起、保延五年奉賀帳寄附名簿に、交野郡領家代蓮覺房、高宮郷地頭代宗時、田原郷地頭代僧道印、寺村郷地頭代蓮信、同郷下司代信教、田原郷公文代教智、鷹山郷下司代西信、甲賀郷目代定信云々とあるは、文治より四十六年前にして、承安二年より三十三年以前に係れり、〈◯下略〉
p.0368 永正四〈丁卯〉 彌勒二年〈丁卯〉
p.0369 彌勒二年丁卯〈下總國野田里土中所二堀出一尼妙心墓碑銘、近江國石山寺順禮版、甲斐妙法寺記、〉
順禮版に、甲州巨摩郡布施庄小池圖書助、西國卅三所順禮聖山旨、彌勒二年丁卯六月吉日〈此札は銅の板に彫付たるものにして、石山密藏院僧正摹搨して所レ賜なり、此外に明應天文年中の札若干枚ありとぞ、〉とあり、穗積保云、前條に記せる彌勒元年辛卯と、此二年丁卯と支干相違したれば、同時にてはあるべからず、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし、圖書助と云名民間にはあるべからず、もしくは吉野の朝廷に仕奉し人の流浪なしたるか、又は足利の季世は天下大に亂れて、官家の人々諸國に縁を求め流客となり玉ひし事多くありければ、若くは京家の人の甲斐國に住したるならんか、永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助〈山縣衆〉小池玄蕃など云人あり、〈甲陽軍鑑にみえたり〉此氏族の中にて隱遁したる人にもあらんか、或人云、關東邊の古刹過去帳に、彌勒の年號ありと云ふ、寺號詳ならず、追て尋糺すべし、參河萬歳の詞に、彌勒十年酉の年と云事を歌ふと聞り、これらも何ぞ據あるべし、後考を俟と云り、
p.0369 常陸國六段田村六地藏寺惠範が諸草心車鈔卷二の篇、是に於田野不動院玉幡之供卷と題せる願文の末に、彌勒(○○)二年二月六日とあり、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり、因て永正中にこの號ありしをしれり、さて永正の何年にこの號ありしと考るに、本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月とあり、丙寅は永正三年也、さらば是年始めてこの號ありて、四年丁卯まで彌勒の號ありしと見へたり、一説に、丁卯元年に作るものあり、本土寺過去帳に、妙春彌勒元丁卯十一月とあり、自相齟齬せり、恐らくは是にあらず、こヽの元丁卯は二丁卯の誤と見えたり、鹿島の社家禰宜が家にも、彌勒の號を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしと言へり、又今の世に萬歳丸が、美祿十年辰の歳と言へる事をうたへるは、陰陽者流の説に出たる物にて、こヽの彌勒と音同じけれども、其義は同じからず、會津舊事雜考に、耶
p.0370 麻郡新宮の神符の銘二ッを載す、其一に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞少尉荻原知成、〈◯成、本書作レ盛、〉小寺宮預所代右兵衞少尉平國村、彌勒元辛卯二月二十二日とあり、其二に、大勸進僧淨尊、横三郞、壬生廣末、會津新宮、彌勒元辛卯二月廿二日とありて、辛卯は享祿四年也、永正中彌勒の號ありしを、こヽに至りて更にその號を用ひしものと見ゆれど、この度は廣く行はれざりしにや、他書に於て見る所なし、
p.0370 蜷川氏所藏年代記に、天文九庚子の頭書に、庚子命祿(○○)元年に成、又壬寅歸二天文十一年一とあり、これによれば天文九年始めて命祿の號ありて、十年を命祿二年として、十一年には其號を止めしと見へたり、本土寺過去帳に、妙了命祿二正月廿一日とあり、以上の三號皆關東僞間の用ひし所にて、もと佛家より出たり、故に其號多くは佛寺の記録器財に存せり、鹿島の神符に彌勒の號ありしと云へるも、この神宮中古より兩部となりて、神宮寺以下社僧多くあれば也、塔寺村八幡長帳も社僧の記せしものなれば、福徳の號を載たり、蜷川年代記も、もと前に引證するもの皆僧家のもの也、
p.0370 ある人、和州にて新撰字鏡の古寫本を見たりしに、〈◯中略〉その末に、法隆寺一切經と楷書にてかきし印説ありといへり、またおなじ人の古寫經の零本を得たりしに、その奧に、
論第一卷同學抄〈破我數論〉 〈倶生分別勝論〉
永福(○○)〈丁酉〉七月三日於二法隆寺東院花薗院一書寫
執事 沙門 快堂
傳 快辨
この僞年號、いづれの頃にや未レ詳、その紙質字體等を見るに、鎌倉末足利比のものとも見ゆるよしなり、
p.0371 地藏寺〈西福寺に隣る、寺内に古き石燈籠の柱基を納む、(中略)其銘眞中に光明眞言講中建立と書し、左右に大道(○○)元年七月吉日と書す、長は一尺八寸ばかり、廻は一尺七寸ばかりあり、〉
傳へいふ、大道は大同と同音の字を用ひたるにて、此石は弘法大師漢土より歸朝のとき建し所なり云々、今按るに、隣寺の石燈籠の正平の銘と較ぶるに、字體石質稍新しければ、決して千有餘年の物にあらず、此頃友人の筆記を閲するに、異年號を載たる中に、越後國蒲原郡佐所村の吏民某の先祖石井彦七に賜ひし文書に、大道二年八月二日源吉次〈草名〉とある由を載す、此碑即其前年なれば、大同にあらざる事益明なり、彼二年の文書は元弘建武の後の物といへり、是によりて按るに、兩朝御和睦の後嘉吉年間、南朝の遺民義有王を擁して兵を本國に移し比、私に建る所にして、彼天靖などいふ年號の類ならんか、猶後なるか、明證なしといへども、南朝に奉仕せし人の子孫等、前朝の微運を憤りて、當時の年號を用ふる事を快とせずして、私に建たる號なるべし、今偶北越南紀に此年號を記せる物の存する事奇といふべし、
p.0371 信家〈増田明珍、出雲守紀宗介十七代、左近將監、永正、享祿、大永、弘治、天文、上州白井住、又甲州府中住、大隅守覺意入道武田晴信侯ノ諏訪法性ノ兜ヲ作ル、コノ安家ト云、後ニ晴信ノ一字ヲ賜リテ信家ト銘ス、◯中略〉
寶壽(○○)二年〈甲午〉正月日 明珍信家〈花押〉
◯按ズルニ、甲午ハ天文三年ニ當レリ、
p.0371 寶壽二年〈鍍金寶塔銘〉
寶塔銘に、奉納大乘妙典六十六部、雲州之住周慶、寶壽(○○)二年今月今日、〈この寶塔、天明二年壬寅三月十一日、信濃國佐久郡上畑村にて堀出す所なるが、同時に、天文廿年今月今日、信州住人順慶と銘ある經筒を堀出せり、其内に、陶にて三寸ばかりの甲冑を著たる人形、石帶一曲玉の類あり、〉とあるを以て考ふるに、この天文廿年を、出雲國にて寶壽二年と云る事ありしにもやあらん、
p.0371 年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書
p.0372 去ル文政十三寅年十二月十六日、天保與改元有レ之候御觸有レ之候已後、右年號國中取用罷在候處、其頃年號之儀ニ付、種々風説も有レ之候得共、天保與申文字世界ニ應じ候哉、今辰年迄十五年相續キ、右年數之内凶年も有レ之候得共、天保十〈亥〉年より諸國豐熟ニ相成、殊更世上通用之金銀も保字金銀通用之儀被二仰出一、又は天保通寶當百錢も新規御吹立被二仰付一候程ニ而、天保與申年號者世界ニ應じ候哉之由、尤京都者御代被レ爲レ替候由取沙汰有レ之候故、當夏中より年號改元可レ有レ之旨、市中專ラ申觸シ候得共、何之御沙汰も無レ之、旣ニ來ル巳年新暦も天保十六年與御免有レ之、新暦開板ニ而賣出し候、然ル處當辰十二月ニ相成、彌年號改元有レ之趣市中へ流申觸し候、右虚ニ乘じ、何者之存付ニ候哉、同月四日五日之頃、日本橋邊、傳馬町邊、其外辻々ニ而名住所不レ知もの兩三人宛申合、夜分無挑灯ニ而、改まつた年號が四文與申立賣致候處、市中之者何と相成候哉與買候處、改政(○○)之由爲レ見候ニ付、全如何之贋物僞筆ニ付、貰ひ張置候、文字さへもよみ兼候小紙ニ有レ之者、改政(クワイセイ)にも可レ有レ之哉、迚も御觸無レ之内者正字ニ候共可レ用儀ニ無レ之處、太切之年號取拵もの賣歩行候と申者、不屆なる者之由風説有レ之候、乍レ然餘リ之事故歟、其節御捕ニ相成候様子も不レ承候、此上如何可レ有レ之哉與、其頃之風評書留候處、十二月十三日弘化與改元有レ之旨御觸ニ而、年號彌治定致候、右御觸書出候夜も、早く承候もの之思ひ付ニ而、弘化與認申小紙、端々ニ而未ダ行屆不レ申場所賣候由、是以不埒成由申候を承候、
p.0372 慶應四年五月二十四日、奧羽ニ於テ改元ノ説、
年號延壽(○○)と改元ありしとの風聞盛なりと雖も、未だ確證を得ず、
p.0372 治象(○○) 日本〈未レ知二何主一、癸辛雜識謂、楊和王墳菴中藏二日本僧度牒一、有二此號一、〉
◯按ズルニ、治象ノ次ニ治承ヲ擧ゲ、日本高倉院天皇ト註シタレドモ、我國ニ治象ノ年號アルヲ聞カザレバ、治象ハ治承ノ誤ニシテ同號ナルベシ、
p.0373 永鎭(○○) 日本〈未レ知二何主一、明正徳七年、日本入貢、南京禮部司務陳瑞甫問二其年號一、乃是永鎭八年、其改元當二弘治十八年一、〉
◯按ズルニ、明ノ弘治十八年ハ、我ガ永正二年ニ當レリ、
p.0373 永保 永久 永萬 永然(○○) 日本〈四號、未レ知三何主當二宋何代一、〉
◯按ズルニ、永保ハ白河天皇ノ時ノ年號、永久ハ鳥羽天皇ノ時ノ年號、永萬ハ二條天皇ノ時ノ年號、唯永然ノ號ノミ、我國嘗テ聞カザル所ナリ、