p.0222 擲石ハ投石、石拃子等ノ字ヲ用イ、イシナトリ、又ハイシナゴト云フ、石數箇ヲ撒キ、一個ヲ空中ニ擲チ、其未ダ墜チザル間ニ、他ノ石ヲ倂セ取リ、以テ輸贏ヲ爭フモノナリ、
p.0222 八道行成 内典云、拍毱、擲石、〈○中略〉一切戯笑悉不二觀作一、
p.0222 投石〈イシナトリ〉
p.0222 投石(イシナトリ)
p.0222 いしなとり 拾遺集にも、いしなとりのいしに歌かきたる事あり、右の繪に女房二人向ひゐて、一人のての甲へ石ふたつみつのせ、下にも多く散てあり、しかれば今の童のいふたんまとりといふ物なり、たんまは玉とりを、小兒の語にてたんまといふなりけり、
p.0223 一イシナドリ 貞丈云、いしなどりは、今世童女などのもてあそびの、いしなごとるといふ事也、古しへより有し事也、
p.0223 いしなどり、〈○中略〉今いふ手玉なるべし、埃囊抄に、石拃(サン)子をいしなごと訓り、拃(サン)は字書に摸(サゲル)也とありて、義はかなへるやうなれども、其字面何に出たるか、疑ふらくは抓字の誤にや、
p.0223 小兒ノ翫物ノ中ニ、サヽラコキリコナド其字如何、〈○中略〉石拃子(イシナゴ)、〈○下略〉
p.0223 いしなご 石投の義なりといへり、物にいしなとりとも見えたり、倭名抄に擲石と見ゆ、〈○中略〉法隆寺の寶物に、いしなとりの玉あり、小兒の語に、小石をいしなといふ、伊勢に石名原あり、奧州に石名坂あり、
p.0223 石投(いしなご)、江月にて手玉といふ、東國にて石なんご又なつこともいふ、信州輕井澤邊にてはんねいばなと云、出羽にてだまと云、越前にてなゝつごと云、伊勢にてをのせと云、中國及薩摩にて石なごといふ、
p.0223 擲石(いしなご) 和名以之奈介、俗云石奈古、介與レ古通、〈○中略〉
按、擲石兒女取二碁石十有餘一、撒レ之擲二一於空一、未レ墜中與二所レ撒石二三箇一同攫二合之一、其餘如レ之、拾盡爲レ勝、
p.0223 石子
イシナゴト云、今京坂ニテハ、イシナゴトリト云、女童集リ各々小石或二或ハ三ツヲ集メ、一童持レ之、席上ニ抛蒔キ、其數石ノ内一石ヲ取リ、是ヲ尺バカリ、或ハ二三尺上ニナゲ上ゲ、落來ル間ニ二石ヲトリテ、後落ル石ヲ受ケ、席上ノ石トリ盡セバ、再蒔キ散レ之、今度ハ三石ヅヽヲ取テ、落ル石ヲ受、三四回准レ之、七回ニ至リ畢トス、半ニ受過ツ時ハ、次ノ童ニ讓ル、又虊子ヲ以テ石ニ代テ爲レ之ヲムクロジトリト云、又ゼヾ貝ト云小螺ニテモ爲レ之、ゼヾガイ、江戸ニテキシヤゴト云、
p.0223 家集 西行上人 石なごのたまのおちくるほどなさにすぐる月日はかはりやはする
p.0224 今の上〈○村上〉の御心ばえ、あらまほしくあるべきかぎりおはしましけり、〈○中略〉そこらの女御御息所參りあつまりたまへるを、〈○中略〉御物忌などにて、つれ〴〵におぼしめさるゝ日などは、おまへに沼出て、ごすぐろくうたせ、へんをつかせ、石なとりをせさせて御覽じなどまでぞおはしましければ、皆かたみになさけをかはし、をかしうなんおはしあひける、
p.0224 おほむいしなとりのいしをつゝませ給けるに、三十一有つれば、ひとつにひともじをかきてまいらせける、
苔むさば拾ひもかへんさゞれ石の數にみなとるちよは幾つぞ
p.0224 東宮のいしなとりのいしめしければ、三十一をつゝみて、ひとつにひともじをかきてまいらせける、 よみ人しらす
苔むさばひろひもかへんさゞれ石のかずをみなとるよはひいくよぞ
p.0224 女院のひめぎみときこえさせしころ、いしなとりのいしめすをまいらすとて、すべらぎのしりへの庭のいしぞこはひろふこゝろありあゆがさでとれ
p.0224 馬内侍三首 いしなとりの石を、中宮にたてまつりける人にかはりて、
すべらぎのしるべの庭の石ぞこれ思ふ心ありあゆるまでとれ
p.0224 伊勢齋宮に侍ころ、いしなとりの石あはせといふ事せさせ給けるに、ちいさき草子の、いしなとりの石のおほきさなるをつくりて、十の石にひとつゝかき侍ける、
くもりなくとよさかのぼるあさひには君ぞつかへんよろづ代までも〈○下九首略〉
p.0224 保延元年四月六日己酉、女院いしなとり合云々、師仲銀大鼓に入二友繪石一進、第一云々、
p.0224 石子 江戸ニテハ縮緬小裁ヲ以テ、方寸バカリニ帒ヲ造リ、其中ニ小石或ハ小豆等ヲ、四五粒或七八粒縫込メテ爲レ之コト前同ジ、名ケテ御手玉ト云、テダマトリト云、
又三都トモニ右ノ品ヲ持テ、始メ數ケヲ掌ニ握リ、是ヲ僅ニ抛上ゲ、忽チニ掌ヲ返シ甲ニテ受、又抛テ再ビ掌ニ握リ、數ケヲ落サヾルヲ勝トス、前ノ行ヲナシ、次ニ爲レ之ヲ一回トスル也、