p.0647 茶湯具ニハ臺子、風爐、釜、茶碗、茶入、茶杓等ノ諸器アリ、茶人ハ爭ヒテ古物ヲ求ムルニ由リ、其價モ極メテ貴ク、贋造ニ係レルモノモ從テ多ク、鑒識ノ人モ乏シカラズ、其事實ニハ高尚ト稱スベキモアレド、惑溺ニ陷ルモノモ尠カラズ、
p.0647 臺子(ダイス)
p.0647 たいす 臺子と書り、舊臺子、竹臺子、爪紅等あり、茶臺の字、北夢瑣言に見ゆ是也、今茶臺と稱するは托子なり薹子の式は、使琉球錄に、設二古鼎於几上一、煎レ水將レ沸、用二茶末一匙於鐘一、以レ湯沃レ之、以レ竹刷二淪之一、少頃奉飲といふ是也、
p.0647 臺子〈或作二拔插一、茶之湯棚也、〉
p.0647 臺子〈一層臺也、呼レ之云二臺子一、〉
下盤方隅設二四柱一、而冠レ版爲レ臺、以二黑漆一塗レ之、
按、陸羽爲二建安龍鳳之飾一時、無下以二臺子一對二圍爐一文上、想當時以レ無二圍爐一故乎、且其式下盤上置下風爐與中熟盂上、〈水壺也〉前後置三分盈〈柄杓也〉與二建水一、臺上雲甌〈茶壺也〉與二秘閣一〈茶臺也〉位レ之、其外或茶瓶、或香筯、或珠玉、或詩文之書、以二此等物一位二臺上一、而助二嗜レ茶之興一、可レ謂二風雅多情一矣、又曰、自レ宋迨二元明一、惟備二諸具於臺上一、以嗜レ茶者、蓋平日便宜故乎、〈晨昏諸具全備者、古今定式也、〉 中世宗易有下令二匠造一之臺子上、卽匠欵識以二盛字一、本國之雅雖二原由一レ之、茶道不レ絶、盛精二其具一、〈○中略〉
及第子〈二柱臺也、其製眞桑白桐、或漆二檜版一、〉
下盤設二二柱一、冠レ版之形、如二及第門一、
本國何人以レ臺代レ第耶、或中世呼レ之謂二宗甫棚一、按、先宗甫家物也、其漆精全黑、元來漢器也、蓋長短高起、本無二一定之法一、其名雖レ異、其實一物也、
本邦製二其形一、前後左右、低昂長短、從二其所一レ好、或下盤上設二中棚一、或上臺下設二横版一、定二一家之式一、故謂二何人棚一則可也、總稱二及第子一者不可也、何者其形製與レ古異、以二及第二字一可レ知焉、蓋世人以二及字一冠二於臺字一、而稱二及臺一者、想非二古人名一レ之、後人之附會也、〈對二圍爐一具、其定式、晨昏設二水壺、柄杓、建水、蓋置等一也、但點レ茶時、不レ拘二定法一者、在二自己之巧一耳、〉
爪紅臺子〈及第子之屬〉
下盤上設二二柱一、冠レ版爲レ臺、則如二及第子一、然其製塗以二靑漆一、而其下盤四面加二紅漆一也、中世以來、尚二其器一以玩レ之、辨レ事不レ異二於及第子一、唯其器品形物色位置把玩、各以二時宜一也、偏膠二美物一、謂三別有二定式一、則不レ當之論也、惟可レ知二時宜相應一已、〈是亦封二圍爐一具也、其式同レ上、〉
竹臺子 和製
下盤上設二四柱一、冠レ版爲レ臺也、上版下盤、共用二白桐質一也、竹節亦有二定數一、見二圖書一、或人云、紹鷗始作レ之、或人曰、竹臺子茅檐之具也、無レ用二於公舘一如何、曰瓊筵粗席、或隱士茅屋、茶人小亭、皆各設レ之、豈必謂二茅屋之具一乎、三公諸士、凡有二雅情一者、無二處而不一レ可、其製或以二眞桑一造レ之、其二柱共用レ桑、世以尚レ之、然以レ桑者不レ佳、白桐竹柱者可也、〈桐阿波桐上、八幡桐次レ之、而不レ知二其初何人作一レ之、又對二圍爐一具也、其式同レ上、〉
高麗臺子 朝鮮之製
設二四柱一、冠レ版爲レ臺、於二下盤底一旋二四片版一爲レ足、以二黑漆一一兩抹、其製粗者也、其用宜二圍爐一、不レ宜二風爐一也、本國傚レ之制レ此、四方以二精漆一塗レ之、或有下以二金銀粉一畫レ紋者上、多婚禮之具也、比二高麗制一、上下左右寬濶也、故置二風 爐一亦可也、〈其具輿レ式本同レ上、置二風爐一者近世式也、〉
p.0649 臺子之事
一眞ノ臺子大小〈大は風爐用、小は爐用、〉是は唐に而高官ノ膳也、昔越前永平寺トフケン和尚入唐之節持歸りたる臺子を、日本に而茶ノ湯之臺子に用、珠光讓請用、小に風爐置事なし、竹臺子、爐風呂に用、珠光、 高麗臺子爐に用、是者宗旦ゟ遣初、好にてなし、只遣ひ初め候也、 妻紅臺子、爐に用、宗旦好み、東福門院〈○後水尾后德川和子〉〈江〉上ゲたる臺子にても可レ有レ之歟と説有り、如何樣左も可レ有レ之事にて、宗旦の遣ひ候ものとは不レ見、女院〈江〉上たるもの尤に候、 貳本柱臺子、爐風爐に用、是ば眞ノ臺子大小の寸法也、天井に玉ぶち有レ之、右臺子定り五通也、 外に桑の臺子、爐に用ゆ、覺々齋は風爐も置候、
p.0649 棚物之部
臺子〈眞大小〉 眞臺子唐物うつし、千家所持は盛阿彌の作、大の方を當時寫し來る、小の方は利休時代より千家に傳來ありしが、中頃より傳はらざるよし、是を如心齋再興す、
及臺子 唐及第門の形なりといふ説もあれど、及第の節に作文を置く臺ならん歟、
竹臺子 珠光好、本哥ハ鴻池榮三郎所持也、ヤリ鐁、柱は傘の柄竹を用ゆ、〈下の板疊付にハシバミ入る、裏流に用ゆ、表流にはハシバミなし、〉
爪紅臺子 元來唐物寫し、靑漆にてハケメあるとなきと兩樣あり、千家所持は刷毛目なし、紹鷗門人重宗甫所持なるゆへ、利休百會に宗甫棚とあるは、爪紅の事なり、〈但し櫛屋宗甫といふ、堺の住人紹鷗門人なり、〉
高麗臺子 元來高麗物寫しなり、元伯より持來れるは、浪華天王寺屋五兵衞所持、元伯書付あり、後一閑にてうつしあり、
桑臺子 原叟好、爪紅の通りを桑にて寫す、
p.0650 臺子起
一臺子の起は、筑州崇福寺の開山南浦紹明和尚入唐し、歸朝の時、始て臺子一莊携來れりとなり、それより紫野大德寺に傳はれり、其後尊氏將軍の御時代、天龍寺開山夢窓國師、築山泉水遣水等の作り庭を營み、臺子を以て茶會を執行はれしとかや、此時より茶道漸世に行はれ、武家にも茶亭作庭を構、賞翫せしより、臺子武家に渡れり、かくて慈照院義政公の時までは、臺子の茶式も區區なりしに、其頃名を得し茶人を召集、茶道の法式、幷名物の茶器を詮議し給へるに、中じも南都稱名院の住僧珠光は、茶道におゐて自得融通の聞えありしをめされて、能阿彌、相阿彌立合、臺子長盆茶入臺天目の茶式を定られしより、臺子の法は後世に傳はれり、唐より來れる風爐釜は、今の箟蒙(ノカツキ)釜銅風爐成べし、珠光始て土風爐を燒せ、羽釜を透木居にして臺子の茶湯に用ひしと也、今頰當風爐を用ひて五德居にせしは、紹鷗宗易比より始れり、是今の奈良風爐なり、
p.0650 珠光三十歲ノコロ禪僧トナリ、京師紫野大德寺眞珠菴ニ住ス、〈○中略〉其頃京師紫野大德寺ニ臺子アリ、何ノ具トモ知人ナシ、コレハ往昔宋朝ヨリ日本筑前ノ博多聖福禪寺〈○註略〉ニ贈リ來ル茶棚ナリ、〈今茶人ノ眞臺子ハコレヨリハジマル〉此棚ノチニ大岳山へ傳へ、年ヲ歷テ又京師大德禪院ニ來ル、珠光コレヲ見テ、是他具ニ非ズト云テ、茶事ニ取リ用ヒタリ、其具ハ風爐鍑、〈○註略〉熟盂、分盈建、炭檛、建水、珠光コレヲ茶會ノ本トシ、丈方之室〈○註略〉ニ飾テ、敬禮ヲ備テ諸人ニ飮シム、
p.0650 一及第臺子と云は、唐の朝廷に、及第に試らるゝ學士の出入する門の額に似たるとて、此臺子を及第と名付しなり、唐より渡りて、天王寺や宗及有しを、宗凡の世となかて、織部殿かり寫し給ひて後世に流布せしなり、棚の内のかざりと云も、天王寺やの外にはしらずとなり、其棚にての茶に一度逢候なり、江月和尚に有なリ、書棚に似たる物なり、溜ぬりにして下ゲ違の戸袋あり、
p.0651 及第臺子、高サ疊摺ゟ上板ノ上ハマデ、〈一尺八寸ニ、下ノ内桂長一尺六寸六分五厘、〉
及第は臺子の風爐を除〈ケ〉たる者なり、小かねよし、飾り等臺子よりは略勿論也、又わび坐敷の道具に取合たるは心得違なり、
p.0651 一臺子に小棚釣たるは、古田織部が好也、小臺子に曲柱の一重釣棚を間七寸計に釣たる也、置合替る事なし、臺天目も茶入盆にのせても、羽箒も置なり、
p.0651 一常ノ臺子ノ寸法 二本柱有、四本柱も有也、
地板の長サ貳尺三寸七分、横一尺貳寸四分、厚サ一寸五分、丸面貳分、同天井板ノ長サ貳尺貳〓五分、横一尺貳寸貳分、厚サ四分一厘、ハシバミ一寸四分、糸メン也、
柱貳本、太サ八分半、長サ内法一尺六寸一分、面一分貳厘、
柱立所、地板ノ木口ゟ一寸入レテ立ル、上ト下ノ雲形如レ圖、〈○圖略〉是ハ貳本柱及臺子也、
常ノ臺子ノ寸法、長サ上下共三尺五分、巾一尺四寸八分、高二尺一寸貳分、外法也、下板ノ厚サ一寸七分、上板七分、柱八分、四方板ノ木口ゟ八分入て柱立ル者也、是は四本柱也、天井板地板とも丸面なり、
p.0651 紹鷗棚 和製
卽紹鷗所レ作也、其制檜樹爲レ質、淡漆塗レ之、設二四柱一冠レ版、於二上下盤之間四分許一、設レ版爲レ棚虚二其下一、前以二障子一雙一、左右開闔、其内藏三水壺與二分盈蓋置等一、故名二之袋棚一、其中棚茶器茶盃等、上盤或設二香盒、羽箒、菜籠等一、其式法世人能知レ之、然膠二古式ネレ知二善變一、則好嗜之拙也、〈於二斗室一晨設二水壺一一耳、於二堂上一卽自レ晨全備二諸具一也、〉
袋棚 和製
其制用二白桐質一、設二四柱一上横二一片版一、上下盤之間有二二棚一、一片高、一片、低、其高處設三柄杓與二蓋置一、其低處茶器與二茶盃一也、其下全虚、前以二版一片一爲レ障、隨レ意取捨、或藏二於其中一、物不二一定一、隨二時宜一也、因二其所一レ虚、名曰二 袋棚一、呼二利休袋棚一者是也、本篠道甘之設二香具一物也、或間謂二篠棚一是也、宗易借レ之以爲二圍爐具一、全不レ得レ對二風爐一、是亦其法大概人能知レ之、然時宜萬變、在二其人一耳、〈斗室堂上倶同レ上〉
四方棚 和製
其制用二白桐質一、設二二柱一、上版徑大、下版少狹、當時方二其隅一、中世缺二其角一、是亦爲レ好也、先對二圍爐一之具也、或風爐亦用レ之、其法式世人能知レ之、然隨二時之宜一者巧也、〈此式上與二三棚一略同〉
圓卓 和製
其制用二白桐質一、設二二柱一、上下版全圓也、下版底設二三足一、當時位二香爐一之卓也、後借レ之以爲二茶事具一、圍爐風爐共通用レ之、〈此式亦同レ上〉
小卓 和製
其制設二四柱一、上版及中棚四方同二尺度一、下盤少濶、當時是亦用二白桐質一、本架二香爐一之卓也、後借レ之以爲二茶事具一、圍爐風爐共用レ之也、上棚柄杓與二蓋置一設レ之、或茶器茶盃、中棚置二水壺一、其下盤或蓋置、或設二白銅建水等一、又近以二眞桑一造レ之、唯人之所レ好、
右五棚千氏家具、尺度各備二秘書一、他家所レ用棚多、然不レ詳二其傳一、〈此式亦同レ上〉
p.0652 都籃 一都統籠
茶經曰、以三悉設二諸器一而名レ之、以二竹〓一内作一三角方眼一、外似二雙〓濶者一經レ之、以二單〓纖者一縛レ之、雙經作二方眼一使二玲瀧一、高一尺五寸、底濶一尺、高二寸、長二尺四寸、濶二尺、本國以レ木造レ之、謂二之簞笥一、其内設二版二片一、隨レ時或抽レ之、或插レ之、以取二其便一、白桐質製レ之、他家間以二談漆一塗レ之、
p.0652 棚物之部
紹鷗棚 古名紹鷗袋棚といふは、今の紹鷗棚の事也、紹鷗所持の棚は、ヤリガンナの木地、引違の襖、大樣モヘギ地古金襴、小緣金地古金襴、南蠻サハリ水指、 今鴻池榮三郎所持也、鷗の歌に、我名 をば大黑庵といふなればふくろ棚にぞ秘事をこめけり、
袋棚 利休形、桑の志野棚を、桐にて寫したる物也、
丸卓 桐は利休形、木地松木、溜は啐啄好み、
四方棚 角のあるは利休形、むかしは利休水指ともいひ、又半臺子ともいふ、角の丸きは江岑好也、
旅簞笥 利休形、一説に小田原陣中にて好まれし故に旅簞笥といふ、
三木町棚 江岑、紀州三木町滯留中、若黨の作なり、檜椴(モミ)杉の寄セ木也、ツマミ竹、江岑傳來の棚は鴻池善右衞門所持、桐ハ原叟、ツマミ桑、
高麗卓 宗全好、一閑眞塗は好なし、高麗臺子を半分に切たる物なり、花塗は海部屋にてこのむ、
桑の小卓 仙里床に用ゆる卓に好み、靑磁ハカマゴシの香爐にフクベの細口の花入を取合す、
點茶棚に用ゆるは如心齋好也、
三重棚〈一閑、桐、桑、〉一閑張、宗全好、桐は原叟好、桑は如心好也、
p.0653 袋棚〈木地 長サニ尺五寸四分、柱 薄塗 大サ七分、糸メンアリ、〉 高サ疊摺ゟ上板ノ上ハマデ二尺〈○圖略、以下同、〉
袋棚紹鷗に初ル、此後置棚餘多出來すと雖、袋棚に過たる棚なし、加樣よろづ調て、臺子及第にもおとらぬ棚なり、〈○中略〉袋棚の飾品々あり、臺子の心持を以て、いくつにも成る事なり、書院鏁の間、平坐敷にも用ゆ、四疊半には袋棚もりつけ也、木の目見ゆるやうにうす〳〵と塗たると、木地と兩やうあう、薄塗手前の時には心持あり、書院などに相應なり、
城樓棚〈○中略〉
天王寺や宗及の作也、それ故宗及棚とも申す、又は袋棚の半分にて半切棚とも云ふなり、所作は袋棚にて心得すむ也、〈○中略〉 棚板
袋棚の他、板にて略のもの也、休〈○千利休〉が好みにて出來と云へり、四のはしらかぶら板のまとを除たると、又のけぬと二色あり、桐の白木、又薄塗も用ゆるなり、
洞棚〈○中略〉
洞棚は今井宗久の作にて、大林和尚ほら棚と名を付られしとなり、略間にもりつけ也、〈○中略〉
利休簞笥〈○中略〉
此簞笥は、小田原御陣の時持參と云々、中の棚をさきへおとすやうにしたると、又しつけにしたると兩樣あり、〈○中略〉
錢屋宗納、唐の組物の簞笥所持、是名物なり、茶簞笥に用ひて、常住座敷爐邊に置合たてられしなり、前に錠がまへありて、茶を立る時かぎにて開き、仕廻の時又錠をおとされしとなり、其後休公宗久抔も、又塗物唐の簞笥、右同前に用られしとなり、今も唐だんすまゝ有、みものなり
丸棚 休公好なり、千家に有レ之、〈○中略〉
よし棚〈○中略〉
卓
中央の卓は、天子四方を拜し、天を祭たまふ時、其臺を眞中に置て香爐を飾るなり、大小あり、漢和共に有事なり西角か六角か八角か丸にても、前後左右廣狹なき物なり、少にても横長抔は、中央してはなし、常の卓にてあしらい替る事なり、中央の卓には置物等子細有事なり、秘事口傳、四疊半棚の座に置初し事は、志野流香方よりといへり、宗信門弟有巴茶をもたてゝ風流の人なり、中央の卓置始しとなり、常の卓は形さま〴〵あり、難レ記、
p.0654 一今の世卓、大小さま〴〵有、是を遠州〈○小堀政一〉好出給へり、昔志野が香聞し棚など見給 ひて尚しほらしきやうに成也、
p.0655 袋棚
一桐之木地ニ而四本柱ニシテ、中段左之方半分カコミ、掛ハヅシノ戸也、紹鷗香之手道具ヲ餝、ミヅシノ棚ヲ本ニシテ好也、紹鷗香ヲキク事自慢ニ而、此棚作リ出スト云傳也、紹鷗庵室ヲ大黑庵ト云ヲ、此棚ノ異名ニ云シト也、大黑ハ袋ヲ愛スルヲ以、如レ此之異名ナリト云、又一説、御城方之御番衆大キニ袋ヲ拵、臥具其外色々道具ヲ取入、用ヲ達スル袋ナルニ依テ、袋ダナト云共有リ、〈○中略〉一利休好ノ袋ダナハ二本柱ニシテ、中段押通シ棚物也、其外戸一本ニシテ掛ハヅシ也、又二枚之襖障子モスル也、此棚居士〈○千利休〉作セシ後、紹鷗ノ袋棚ハ、桐ノ違棚ト世上ニ云シ也、
葭棚
一桑之木地ニ而、四本柱ニシテ、下ニ而足ヲフンバラセテ、上〈江〉付テ棚有リ、又下〈江〉付テ棚有、紹鷗作也、〈○中略〉
一唐物之卓ヲ棚ニ用ル事古今ニ有リ、大振成卓ニハ釜ヲ取合セ、上之重ニ道具餝也、
p.0655 一利休好たんす〈○圖略〉
是は錢屋宗納が名物唐物簞笥ゟ、休の作分ありて、小田原御陣に持行し也、夫より一名旅だんすとも云、宗納がたんすは錠前有、手付にて柄杓置所、脇に立仕切板有組物也、休の簞笥は桐なり、〈○中略〉
一是を筁棚と云、〈○筁棚圖略〉行燈棚と云は、是をさかさまにしたる也、〈○中略〉
一城樓棚は、天王寺や宗及が好也、
一洞棚は、今井宗久が好也、
一棚板は利休が好にて、中板に類し候もの也と云、臺子の四ツ柱程縮メたると也、 一袋棚は、本來の袋棚有、今紹鷗棚といふ、
一後の袋棚は、志野宗信が香棚を鷗作分して用、臺子及臺にも劣らず、万曲尺の調たる棚也、桐ノ白木又薄ぬり有、休〈○千利休〉も好み用、鷗ノ好ノ第一ノ棚なれば、休も桐を重くされしと也、香方ノ袋棚は、ランカンなど有て違ふ也、香サマノスカシも宗信が好といふ、
p.0656 一此方に餘り不レ用爲なれ共、當時專用る四方棚といふもの有、成程形は古法の物也、眞中に二本柱あり、上下共にヒレ有て、上に成し方の棚板は廣く大き也、下に成し方の地板は小き形なる物也、〈○中略〉
一其外紹鷗の水指棚といふ物有、是は四方共、棚木地板にて中棚もある、兩脇上下の四所に茶碗すかしとて、志野袋棚の香ざまのごとく成すかし有、〈○中略〉
一三重棚といふ物有、四本柱有て、天井の棚地板共に四板也、是をセイロウ棚共云、此棚ヲ風爐圍爐裏にも置合て、座敷に常に用ひて、近世宗室抔の仕置かれしといふ人有、左にあらず、昔より有物也、然共古法には、此棚は勝手に置て、晴の茶事また高貴尊客の時、其日用る道具を、此棚に愡而組付置て後、座敷へ持出候刻、此棚より段々次第能取おろして、座敷へ持出候時は、其具を敬ふ儘に用たる物也、一名仕懸棚とも云、〈○中略〉
一又四方棚といふ物有、是凡ての棚より小形成物也、是も四本柱有て、上の棚地板有、地板の上に建水面桶にふた置抔、竹の引切などは、入子抔にして入置程の間有て、中棚一枚入たる物也、
p.0656 享保十七年十一月廿日、口切御茶、參候、〈○中略〉
宗和袋棚 此形アリテ當年初メテ出來ス、袋棚ノ襖、口キンニ唐紙ノ押畫、此墨繪ハ、先年江戸ニテ、御印籠ノ下繪ヲ養朴ニカヽセラレタル由、名印アリ、引手ハ先年拙〈○山科道安〉ガ求メシヲ召上ラレタル瓢簞ノツル也、水指ナンバン、
p.0657 具列 本國所レ謂長板之類
按、茶經曰、具列一片版耳、
本國長板者、其式特異、且長版之爲レ用、以二長短一分二冬夏之式一、然茶事之用、威儀之度、位置動作、時措之宜、豈非二本國之風雅一乎、〈於二長版一諸具全備者夏之式也、不レ架二風爐一則冬之式也、式外之趣在二斟酌一耳、〉又曰、此版以レ漆塗レ之、其製有二濃淡一、故異二其質一也、濃漆之質者以レ檜、淡漆之質者以二白桐一、其製備二内書一、〈内書、家宗所レ秘之書也、〉
又曰、小版以二榲杉一爲レ之、無二表裏一、其中央漆一再抹、四邊布質黑漆、殊尚二堅緻一也、尺度各貯二圖書一、〈圖書、家家之書也、〉
p.0657 棚物之部
長板〈眞大小、溜、〉 眞の大は利休形、小は如心齋、溜は宗全也、大一枚松の木地といへども、實は檜木地也、
同桐〈大小〉 同一閑〈大小〉 桐大小とも隨流好、裏にては元伯好といひ傳へて、桐にハシバミ入たるあり、小の方なきゆへに、一燈桑にて好む、一閑張は大小とも元伯好なり、
p.0657 中板
能阿彌の作なり、桃尻と云杓立、耳口のこぼし、臨濟の印の蓋置、此三色所持、是に依て出來す、水指の座切のけたる故貫秘事多く、せい高といふ釜を求め、筑前蘆屋山鹿左近と云し者、名譽の上手成し、鐵の風爐を鑄させ、中板のかざりを十分に調と云、置方は東山殿御物にて、そろりの杓立、合子のこぼし、夜學、獅子の蓋置、車軸御釜に、朝鮮の風爐、此らを飾り、中板を用らる、略の物なれども、名物を揃へて飾る故、所作秘傳多し、書院かざりの間、平坐敷共に用ゆ、紹鷗四疊半眞に夏の會抔は、度々用られしとなり、手前に取つく時、水指いかにも今燒の伊賀備前等はこびてよし、取あつかひかれ是秘事口傳、
p.0657 一半板と云は、臺子を半分に切て用、大臺子の半分も有、小臺子の半分も有、大小とも半 板と申候、茶巾、茶入の小蓋は此板にのせ、ふた置も板の上前ノ左ノ角ニ置テ柄杓を引也、此仕方後取違ひ、風爐の小板に置也、半板には置、小板には無用、半板に茶杓は利休も置不レ申候と仰〈○細川三齋〉也、
p.0658 一相阿彌の物數寄の水板は、長板のごとき物也、大目の爐に飾りても、おもしろき物也、
水板寸法
長貳尺一寸 幅九寸 アツミ七分 兩のはしに、うらはしばみをいれたるもの也、
足板飾合の圖〈○圖略〉
一此足板も古實ノ物なり、これも紹鷗の日記にみえたり、世上に沙汰なき事ゆへ此書にいだす、板の形は文臺のごとき物也、足四角にあり、〈○中略〉
足板ノ寸法
一幅一尺 長二尺一寸 高サ一寸八分 足ハ四角ノ角に付 板ノアツミ三分半 木は澤栗ノ白木なり
p.0658 一長板と云物あり、其寸法は前にいふごとく、是は臺子の四本柱を取て、天井板もなき物也、さあれば臺子の地板計と可二心得一、古人是を物數奇たる心は、臺子は前にもいふごとく極眞の物ゆへ、道具万々心安が爲、如レ此になしたる物とは可レ知、〈○中略〉
一此四方板といふは、前に云ごとく長板を二ツに切て四方になしたる物也、是又長板よりは侘の爲に物數奇て、是に紹鷗は奈良風爐のおつぼ形とて、小キ風爐に端釜の石目蓋成を、透木にて被レ用しと也、
p.0658 ふろ 風爐と書り、茶爐也、奈良風爐あり、西土にいふ運泥爐にして土風爐也、 又鬼ふろ、香の圖ふろ、鳳凰ふろ、棗ふろなど色々あり、又瓦爐あり、又別製野風爐あり、
p.0659 風爐 奈良風爐 銅風爐 頰嘗風爐當世數寄者所レ言 乳足 軸足
p.0659 風爐 自二唐宋元明一至二本國一同レ字 按、居家必備加二一子字一、則湯提點之屬也、
茶經曰、以二銅鐵一鑄レ之、如二古鼎形一凡三足、古文書二十一字、而其一足云、坎レ上巽レ下離二於中一、一足云、均二五行一去二百疾一、一足云、聖唐滅レ胡明年鑄、三足之間設二三窓一、前後有二二口一、後通レ颷、前漏レ燼、上並書二古文六字一、一窓上伊公二字、一窓上羹陸二字、一窓上氏茶二字、所レ謂伊公羹陸氏茶也、置二墆〓於其内一、以設二三格一、其一格有レ翟、翟者火禽也、畫二離卦一、其一格有レ彪、彪者風獸也、畫二巽卦一、其一格有レ魚、魚者水蟲也、畫二坎卦一、巽主レ風、離主レ火、坎主レ水、風能興レ火、火能熱レ水、故備二其三卦一焉、其飾以二蓮葩垂蔓曲水方文類一、其爐鍛レ鐵爲レ之、又有二土風爐一、運レ泥爲レ之、〈運泥見レ下〉
本國亦同銅鐵鑄レ之、又俗有下稱二鬼風爐一者上、或銅或鐵爲レ之、其足如レ乳、故茶人呼二乳足一、從來人人聞二得之一、自知レ爲二鬼風爐雅名一、語二其形一則固不レ異也、〈三尺也〉又有二棗風爐一、以レ鐵爲レ之、其足有レ軸有レ乳、是亦三足也、
本國古今之製、或鑄二山里院閣河海魚鳥一、或鑄二茶氏寄進之字、冶工姓名一、所レ謂文字風爐是也、昔宋人築二禪院於筑前州博多一、號二安國山聖福寺一、其山門上之横額、扶桑最初禪窟六字、後鳥羽院宸翰也、當時宋寄二風爐釜臺子於此寺一、後傳二于大岳山一、其後洛陽龍寶山大德禪院復傳二受之一、義政公乞レ之、以爲二茶會之飾一、凡二百九十年來、識與レ不レ識、大尚二臺子一以珍焉、然其釜不レ足二於本國風雅一、中世宗易自有二意匠一、更命レ工造二彼二物一、各窮二其雅一、擧レ世人能知レ之矣、宗易所レ命之釜、因二古釜形一以增二减之一、其製最精到レ今、〈古田織部造二一釜一稱二經筒一〉〈○中略〉
土風爐 茶集云蓮泥爐
按二陸鴻漸茶經一、唐人以三鍛鐵爐與二竹爐一云、及二南宋一亦然、元至正年中、始運レ泥而造、呼レ之曰二運泥爐一是也、古有下謂二瓦爐一者上、 本邦所レ謂燒拔風爐屬歟、然其爐火熾、則病二其爛指一、故至レ元運レ泥以爲レ之、其製精、珠光始悟二運泥製一、而命レ匠而作レ之、至レ今傳レ之、云二奈良風爐一是也、陶人欵二識姓名於弸中一、繼レ世皆同、
又洛陽南二里許、深草東邑有二陶匠一而傚二此爐一、然奈良風爐、深草風爐、其品貴賤如二漆與一レ墨、昔宗易作二二十七種爐一、宗易弟子古田織部別削二爐底一、又別作二一品一、以稱二經筒一、宗易所レ造之爐、至レ今不レ廢、各三足、有レ軸有レ乳、火熾觸レ之、則自猶二人氣温温然一也、其法位二釜於鼎頭一、前置二土盞一、乃使二火氣直上不一レ漏二於外一、且爐名以レ釜呼レ之、〈如二小雲龍風爐、小阿彌陀堂風爐、或小丸釜小尻張等之屬一、○中略〉
版風爐 和製〈以二杉木縱理横版一造レ之、古來用二其質一、杉以下崖二於秋田一者上偉レ最、〉一曰野風爐、二曰左風爐、三曰小田原風爐、
左風爐者、圬者造レ之、以二杉六片一、其内以二墆〓一塗二四方上下一、上一片平、而中設二員穴一、横二兩方木以架レ釜、前有二一口一漏レ燼、〈尺度見二圖書一〉宗易嘗於二小田原一造レ之也、一説圬者自作レ之、其言難レ信、宗易使二圬者作之乎、或山林亭齋、或石榻甃瓦之間、皆以供二其用一也、唐苦節君、宋竹爐之屬乎、茶譜所レ謂苦節君與二行省一相備、而嗜レ茶者、風雅至情、漢桑自相通者也、然竹爐與二野爐一語二其形一則甚異、惟便用同レ意、容レ灰或無レ如二土風爐鐵風爐一、故不レ得レ見二其罅隙一、是非二尋常之釜所一レ適、當下別合二於爐形一以製上レ之、
p.0660 風爐之部
土風呂は金風呂より後なり、金風呂は至て古し、
透木風爐 むかしは五德すゑなし、珠光より始る、但し此灰二文字也、
紹鷗風爐 眞の風呂ともいふ、紹鷗時代より五德始て出來る也、外に眞の風呂といふあり、是は透木風呂ゟ大なり、上のあき火間鳳皇風呂と同じ、何れも軸足、〈但し灰山有〉
丸釜風爐 大小とも利休形、軸足也、但し灰山あり、
尻張風爐 大小とも利休形、軸足也、但し灰山あり、
阿彌陀堂風爐 右に同じ、但し灰山あり、 四方風呂 大小とも利休形、大は肩なし、小は肩あり、軸足なり、但し灰山あり、
鶴首風爐 利休形、盧屋作の名物、八寸餘の鶴首釜にあわせ好あるゆへ、今の鶴首には風呂格好少し大ブリなり肩あり、軸足、但し灰山あり、
道安風爐 道安好、何の釜に合せし哉不レ知、千家には大ばかり也、少庵所持巴蓋の釜は、道安風呂に合すよし、軸足、但し灰山あり、
雲龍風爐 大小とも利休形、乳足、但二文字、
達摩堂風爐 原叟好、達摩堂の釜に合す、鶴首風爐の如くにて乳足、但し次山あり、
面風呂 大小とも利休形、いづれの釜にも用ゆ、小の小は如心齋好、三ツとも軸足、如心齋好は竹臺子によし、但し灰山あり、〈○中略〉
金風呂 金風呂の始りは、唐物鬼面乳足にて、則臺子風呂なり、南浦紹明持渡り、崇福寺より大德寺へ傳來す、後應仁の亂に燒失す、此風呂の鐶付、鬼面にあらず鳳凰のよし、トサカあり、灰は押切なり、
鳳皇風呂 江岑の息女を紀州の某へ嫁せられしとき、居間の臺子の風呂に好まれしなり、唐物の藥鑵を懸る、其後故有て不緣になり、手道具こと〴〵く千家へ歸る、如何なるにや、此風呂のみ千家に傳はり來る、藥鑵は薩摩屋の所持となる、今淨益にて寫しを製す、鳳皇の摸樣は、臺子風呂の鳳皇を全身に仕たる物也、其後原叟また百侘を仕くはせて用ひられしより、茶事に用ゆるやうに成りぬ、如心齋は累坐富士を製して此風呂に用ゆ、灰二文字にして蒔灰なり、
琉球風呂 原叟好、此風呂に田口釜を製し用ゆ、灰二文字押切也、
鐵丸風呂 與二郎作、尤大振也、千家傳來利休の所持なり、如心齋箱書付あり、
同道安風呂 千家にては啐啄齋好て製す、但し土風呂の道安形よりは小ブリ也、 同鬼面風呂 古き形あれども、千家にては原叟好、香サマあり、淨味作始り也、釜は腰万字、灰カキ上〈ゲ〉なり、
板風呂 利休小田原陣中にて好むといひ傳ふれども、千家にては元伯土齋へ好遣すが始りなり、杉木地塗上、五德なし透木、原叟は百侘を合す、初めに用ひし釜は不レ知也、
p.0662 風爐 以二銅鐵一鑄レ之者釜屋製レ之、〓レ埴而造レ之者號二土風爐一、元南都宗善之所レ造爲二上品一、依レ之或號二奈良風爐一、有二赤黑之二色一、然赤者不レ及二黑色一、自二琉球一所レ來之知牟加羅風爐、是亦珍物也、
p.0662 一むかし豐後の淺黃風爐と云有、是は豐後の屋形大友の好みにて、總四郎がやきし、專ら其頃はやりしが、火氣つよくあたれば、色替り見たてよろしからぬとて、後はすたりしとなん、
p.0662 天正十八年、豐臣殿下〈○秀吉〉小田原御陣中にて、御茶可レ被レ遊とて、利休へ風呂を執寄よとの仰の時、利休申上しは、御陣屋にて奈良風呂の御執合いかゞ取合可レ申、風爐可二申付一やと伺しに、勝手にせよとの仰に付て、頓て箱風呂を製し上しに依て、夫にて御茶被レ成しと也、
何樣一通の御旅にても無、御陣中の事なれば、殿下とは乍レ申、御平常の趣には違べし、〈○中略〉今小田原風呂と人の唱は是也、又板風爐、或は箱風爐ともいふなり、
同十五年、京北野大茶の湯御催の時、或侘人板風爐、旅簞笥などを儲なせし事有、左有ば全利休が物數寄に出しには不レ有とみえたり、〈○中略〉
天正十五年にして其紋摸は開つれども、人敢て唱ず、利休其寸法を考正て、小田原にて出しだるなど樣の事か、旅簞笥も斯樣にや有けん、〈○中略〉板風呂は宗旦好、亦は庸軒など云は誤也、
p.0662 享保十一年五月九日、參候、カナ風爐ノ靑ミアリテ見事ナル物也、コレハ昔勢多ノ橋再造ノ刻、ハラヒ物ニナリシ欄干ノギボウシ也、中井定覺ニ云付テ、取リテ久シク庭ニ捨置シガ、不圖思 ヒヨリテ風爐ニシタリト仰ラル、金色カラ形カラ、兎角言舌ニ及ビガタキモノ也、總テ此公〈○近衞家熙〉ノ御物數寄、凡慮ノ及ブ處ニアラズ、
p.0663 一風爐は古より南都西の京よりやき出せし也、紹鷗が比は、西の京の總四郎とて上手あり、利休が時にも、其子を又總四郎といふて、これも上手なり、秀吉公より天下一號の御朱印を被レ下しに、利休筆者にて、代本錢一貫文と有しが、中頃燒失して今はなし、されど今に子孫は相續して總四郎と云、又利休時代に、西の京に善五郎と云上手有、其子も又善五郎と云て、さのみ總四郎におとらぬ上手也、此末今の京へ登り四條に住となん、
p.0663 風呂作者之部
善五郎 奈良住居、二代は堺住居、四代より京住也、
宗三郎 宗全門人なり
宗四郎 宗三郎の子にて京松原に住す、太閤〈○豐臣秀吉〉時代に天下一の名を下さる、今は江戸住居故、千家にも、江戸旅宿中は此風呂を用ゆ、〈御風呂師なり〉
但し茶器細工人に天下一の名は、風呂師にて宗四郎、塗師にて盛阿彌、樂師二代目吉左衞門、
與九郎 京師にて一家の者不レ詳
善四郎 四代目善五郎の乎なり、早く死す、三代目と原叟時代の善五郎とは宗善と云、此二人の外は宗蚕と書す、
p.0663 奈良風爐所
上京古木町 善五郎
p.0663 釜添品目
五德 昔は臺子風呂に、切懸ケ土風呂にても透木を用ゆ、紹鷗時代より五德を用ゆるならん、五 德の形は、 小爪 利休形 鴨爪 サツマヤ形 長爪 法連
法連は下の輪カイに付て、上〈ゲ〉下〈ゲ〉自由なり、和州法連村にて初て造るが故名付るなり、
p.0664 爐同緣之事
一五德之事、居ヤウ座席ノ勝手ニ因テ各替リ有、外爐ノ時ハ爪一ツ必ズ上座ノ方へ居ル、我右力左ノ方へ爲ベシ、内爐ノ時ハ、上座ノ拘リナク、爪一ツ向へ置也、風爐モ同然ナリ、風爐ノ五德、大ヲバ前ノ方ヲ闕也、前土器ノ不レ支爲ナリ、小ヲバ此故ニ不闕、長爪ノ五德ハ、爐ノ時雲龍ノ釜、緘桶(カラゲ)ノ釜、其外小釜ニ用、爪長二寸二分アリ、又昔五德ト云アリ、爪フトシ、
p.0664 釜添品目
前土器 白 火色 利休形 原叟手造形〈白火色四品あり〉
p.0664 前土器
火をふせぐために用ゆるかはらけなり、風爐の火間に立置、酷暑には二枚かさねても立る、
p.0664 風爐之事
一前土器之事、圖アリ、火ヲ顯スマジキガ爲也、火氣ヲ押ユル故ニ、酷暑ノ節ハ二枚重テモ立ル也、冷シキ時ハ一枚ヲ下テ立ル、恒ハ一枚ヲ以テ高下見合有ベシ、歲若キ者ニ此土器上ヲ下ヘシテ、直ナル方ヲミセテ立サセタル事有、總ジテ春秋ハ火ヲ顯ハシ、夏ハカクス也、
p.0664 享保十七年八月廿日、夜參候、キリメヲ上ニスル土器ノコトハ、御流儀ニハコレナキコト也、二枚ガワラケハアルコト也、コレトモ異亂ナルモノナレバ慢ニセヌガヨキ也、二枚ガワラケト云コト、二樣アリ、アトサキニ二枚タツルコトアリ、前ニバカリニ枚タツルコト、卽兩方ニ大窓ナドアル風爐ニハ、アトサキニ二枚タツル也、前ニ二枚タツルコトハ、大風爐ニ大釜ナドカケテ、灰ヲヒクフスルトキニ、カワラケヲ高ク〓コノヤウニモ〓コノヤウニモスルコトノ高也、シ カシナガラ大釜ヲカクルコトハ、マヅハナキモノ也、常修院殿〈○慈胤法親王〉ノ御キライナリシコト也、風爐ニハ小釜ヨシト仰〈○近衛家煕〉セラル、
p.0665 和泉 風爐立土器
p.0665 風爐の小板
大小あり、風爐の下にしく板なり、小は竪八寸五分、横八寸四分、厚さ四分半、大は竪九寸三分、横九寸二分、厚さ同前なり、丸板とて丸きもあり、漆は花塗なり、
p.0665 局版 今俗云二小板一是也
以二方版一架二風爐一者也、珠光、及引拙、珠德、宗悟、宗陳、紹鷗、未レ能レ定二其大小尺度一、至二宗易一以正焉、〈其法見圖書一〉二又曰、近世何人作二中版一用レ之最佳、然而定二其尺度一以爲二常製二豈其然哉、想不レ知二其中一故也、何者大小有レ所レ定、謂 之常一也、中者不レ偏不レ倚、應レ物自宜之謂也、人多膠二於一定之中一而不レ知レ變、故中版一定、而不レ合二矩圭一則議レ之、蓋時有二萬變二事有二萬殊二物有二萬類二不レ知三中無二定體一故也、惜哉、
風爐小版者、以二榲杉一漆レ之全黑、昔剖レ杉爲レ之、〈古剖レ杉造者、隨二其質一直塗レ之、今時有レ云二起目一傚レ此、或以レ栗、或以二白桐一、皆漆レ之、〉
員局 俗云團版是也
全書曰、以二檜檀一爲レ之、
本國員版以二檜桐一爲レ之、皆位二鐵爐一耳、尤以レ漆塗、宗易以降、其形圓、徑高厚皆一版也、因三今有二中形之版二而稱二昔日版一以爲レ大也歟、
p.0665 風呂敷板
大板 一尺四寸四分、臺子の板巾を四角にせし寸法也、眞塗は紹鷗好なり、當時利齋にて製するは、桐のカキ合せアラメなし、横へ長きは長板を半切にしたる也、アラメは好不レ知、一閑にて寫しを製す、 小板 アラメ大小、杉木地花塗、利休形、 松木地、大小とも啐啄齋好、溜ヌリウルシ、
丸板 大板を丸く仕たる物なり、尤面あり、眞塗檜木地、紹鷗好、琉球風呂、臺子風呂、唐金風呂によし、 面なしケヤキ木地、カキ合せは、鐵鬼面風爐に限るなり、
瓦板 織部燒、大德寺寸松庵園中に、佐久間氏織部燒の瓦にて花壇を造る、如心齋此瓦板を申請、鐵の丸釜風呂に敷く、與二郎作の大阿彌陀堂に取合す、風呂の名殘に用ゆるが始りなり、土風呂に用ひてもくるしからず、樂燒は如心好、長入始て製す、前一方金入唐草、鐵風呂にはよろしからず、土風呂唐金に用ゆ、
p.0666 古風の眞の釜はすきすへなり、小板も大小ありて、大風爐には小板を用ひ、小風爐には大板をせしなり、其後利休より板一圓に定れるなり、
p.0666 大板
壹尺三寸五分、幅壹尺、又は一尺一寸にて、厚サ五分、裏にはしばみ二所入也、また一尺二寸五分も、一尺三寸も在、田舍間疊に置時は、一尺三寸五分のにては、へり際一はいに突付て置べし、一尺二寸五分のは、各坐へりゟ壹寸置てもよし、大疊に置時は、必一寸置てよし、一尺三寸五分のにても同意也、大板には必小風爐を用、その大疊の時の事也、
p.0666 風爐之事
一大板小板之事、大板ハ小釜ノ時用、小板ハ大釜ニ用ユ、小ハ竪八寸五分、横八寸四分、厚サ四分半也、此時ハ勝手ノ方疊ノ緣ヨリ九ツ目除ル、後同寸也、大ハ竪九寸三分、横九寸二分、厚ハ同前、勝手ノ方七目除テ置、後モ亦同ジ、中柱無レ之時ハ、板ノ大小ニ不レ拘、九目置テ吉、杉板ノ批(ヘギ)目ヲ上トス、起目ニモスル也、各漆色花塗タルベシ、板目ノアラキ方ヲ前トス、是傳也、
p.0666 大板小板之事 一長板を小板に成事は、堺の生玉三仁と云わび茶人、天王寺の古キ平瓦に風爐を居へ、茶湯に出し、紹鷗に見せ申候所、長板を切ちゞめ候はんと兼て思ひ候とて、長板半分に切、風爐居申され候、其後利休至極の取合と感入、それより小板に成候、平瓦の寸法九寸五分四方在レ之よしにて利休小板に被レ致候、今の大板九寸五分四方、是を大板と云、小板八寸五分四方也、板の厚サは五分半六分なり、風爐を居置合するは、たゝみの緣より大板は七目、小板は九目、又は十一目にも置合ル也、板幅一寸違申故に、疊目二目にて一寸違申候、當代も堂伽藍のひら瓦は九寸五分、常の平瓦は八寸五分也、總じて道具の取合同意を嫌ひ申候故、小板大風爐、大板に小風爐を居申候、諸道具取合如レ此と心得べし、
p.0667 眞ノ臺子を小板ニシタ風爐ヲ置、小棚ヲ釣テ道具ヲ置、水指茶入茶碗ヲ疊ニ直ニ置コト宗易ヨリ初ム、
右小板ト云ヲ仕出シタ風爐ヲ置、小棚ヲ釣テ茶具ヲ置コトハ、臺子ヲ二ツニ割テ略セリ、長棚ハ臺子ノ略、〓板ハ長板ヲ二ツニ割心也、小棚ハ臺子ノ天井ヲ割テノ心也、
p.0667 享保十三年五月三日、風爐ノ板ハ、大板、小板、中板、丸板、木地、燒杉等アリ、半板ト云モノハ、御流儀ニハナシ、丸板ハ勝手ノモノ也、表向ヘハ出サズ、大中小ハ風爐ノ見合セ、大風爐ヲ小板ニノスルトキハ、必茶巾ハ水指蓋ノ上ニヲク、小風爐ナドノ大中板ニノリタルトキハ、板ノ上ニヲク、置處ハ必ズ水指ト風爐トノ間ニ置ベシ、是臺子ノトキ、茶巾ノセノ常座ナレバナリ、 七日、參候、塗板ト木地ノ板トハ差別アリ、金風爐ハ、イツモ木地ノ板ニ置、土風爐ハヌリ板ニヲク、風爐ノ板ニ丸キアリ、アレハ畢竟勝手也、〈御前(近衞家熙)ニモ、ヤキ桐ヤキ杉ノ板アリ、金爐ニヲカル、木地ノ部丸板ノコトハ、道億ガ訛ニハ、圓々角々ノト云コトハアサ、圓角々々ト云コトハナキコトナリ、タトヘバ丸キ釜ヲ四角ノ風爐ニカケテ、又丸キ板ヲスユルハ圓角也、四方釜ヲ丸鳳爐ニ角板モ圓角ナリ、丸キ釜ニ丸キフロ、角ノ板ハ、圓角ニアラズト申サレタリ、イカガ、〉
p.0668 鑵子(クワンス)
p.0668 釜と鑵子は一物一名なり、あまりに近き事ゆゑ知らぬ人多く、太平記に、塔の九輪をおろして鑵子に鑄といふ事は、いかなる事ぞといふ人も多しとなん、
p.0668 鳴泉(チヤガマ)〈居家必備云、煮レ茶礶、〉
p.0668 鑵子(くはんす) 鳴泉
按、炊二米及雜穀一名レ釜、煮二茶湯一名二鑵子一、今通稱レ釜焉、
p.0668 提釜 俗云手取釜〈提梁釜是也〉
提梁釜本無レ益二於用一、風雅亦不レ足、昔日洛陽東山粟田有下云二善法一者上、世人皆云爲二隱士一也、常專以二一鐵提釜一嗜レ茶、使二此釜一毎レ朝和レ糝、而後旣滌レ之懸レ之、以聞二彷彿松濤一、而獨啜レ茶、當時以爲有二高遠幽邃之情一、因以傚レ之、於二茶道茶禮一、其何益之有、
古釜
古釜者於二筑前州蘆屋一〈或説曰攝州蘆屋〉所レ造者也、星霜五百五十餘歲、僧明慧自采歸朝後、命二冶工一鑄レ之、大凡一百、或畫二松竹山川及禽獸一爲レ之、其後越州蘆屋亦爲レ之、兩處同レ名、今並尚レ之、其蓋者、有二直蓋、落込、手蓋、一文字、明慧等一、其鈕者、所レ謂透茄子、櫁實、鬼面、遠山、或銅製花實之屬是也、
平雲釜、松永彈正破二裂之一而亡、其他紹鷗小霰受二水五升一、祖母口、平釜、炮轆釜、責禰、各受二水五升一、五品皆稱二大名物一、
又有二天貓者一、〈下野佐野地名也〉相州所レ作亦號二天貓一、故俗呼二小田原天貓一、一説曰、越州亦有二此名一、未レ知二其詳一、且天貓之製、凡五百年、或人曰、通二用命與レ明二字一、羅山先生改二命明字一以代レ貓、今也稱二古器物一、而貴賤尚レ之也、其後珠光紹鷗各於二京師一作レ之、纔一二耳、宗易復命二冶工一造レ之、其釜不レ爲レ不レ多矣、原二於古釜形一增二减之一云、古田織部所レ造者、皆於二卯落之下一看二隅面一也、小堀遠州亦取レ之、自レ古至レ今、各方二其耳一、以爲二之準一、或鑄二詩文 山澤草木及鳥獸卦圖一、又冶工手書二其姓名一、大小低昂、不レ可二盡取一、故宗易、織部、遠州以降、增二减其形一、諸家皆用レ之也、夫以二古釜一點レ茶、則沫浡粥面浮レ盞無二水痕一、其尚レ之也、不二亦宜一乎、便用與二風雅一能思レ之謀レ之、
p.0669 釜形之辨
眞形 シコロ羽がたのつかぬを鶴首眞形といふ、蘆屋天猫に多し、其後は此寫しなり、古作ゆへ好しれず、底に煙返しといふて細き輪あり、
透木 イロリ透木釜、古作は好なし、原叟好に乙御前あり、庸軒より始てアラレ富士釜あり、
鶴首 名物の鶴首は八寸、利休形は是より小さし、鶴首風呂は名物の方を懸るためなるがゆへ、利休形の釜には少し大ブリなり、利休形鶴首は、石目蓋、眞鍮平鐶、兩方ともケキリなり、
責紐 天猫始也、貴人へ獻茶の節、封印を付るため也、
小霰 紹鷗所持のうつしならむ歟、茄子の鐶付、山梔子ツマミ、煙カヘシあり、
乙御前 信長公御所持加州侯御所持、信長公柴田へ故有て贈らる、其時の狂歌に、
朝夕になれしなじみの姥口を人に吸せん事をしぞ思ふ 此釜の寫しは、加州侯御所藏ゆへ、寒雉の作を吉とすべし、〈但し鐶付鬼面なり〉天猫に輪口あれども、姥口をよしとす、
百會 利休百會に用ゆ、天猫作、姥口霰鬼面の鐶付、唐金の薄モリ蓋、當時は郡山侯御所持なり、
鉈 百會に似て、肩に張有て鉈目あるゆへ、ナタ釜と云、鐶付鬼面天猫作、利休所持なり、當時加州侯に御所藏なり、寒雉の作といふ、
大講堂 作不レ知、叡山大講堂の香爐を釜に用ひたる物なり、大講の文字、右より書たるも、左より横に書たるもあり、本哥は御物なりしが、明曆に燒失したるゆへ不レ明、廣口共蓋常張鐶、
唐犬 宗旦所持、天猫作、共蓋、三味線耳なるゆへ、見立て唐犬釜といふ、勢州神戸侯御所持、
針屋 蘆屋作、針屋宗春所持、コシキの内雷紋あり、鐶ツキ遠山、 万字 天猫作、雷紋と卍字と交りしを、大德寺形と云、卍字のみあるは、遠州侯表具師中尾宗古所持の寫し也、
野溝 天猫作、廣口、枯木に猿猴の摸樣、鐶付玉章、唐金蓋、野溝某所持ゆへに野溝といふ、
地藏堂 透木釜、羽少し上ヘソル、輪口、鐶付鬼面、唐金蓋無地、尾州地藏堂の常住釜にて、天猫作也、小田原陣の時、利休取出し、小田原風呂へ〈小田原陣中へ持行し風呂也〉取合すとぞ、
東陽坊 天猫作、筒釜鬼面、鐵のカケゴ蓋有、アゲ底、ケキリ眞鍮ノ丸鐶、利休所持を眞如堂東陽坊へ送りし故に、東陽坊の名あり、
蒲團 利休所持、與二郎作、輪口、鬼面、唐金蓋、伊豫西條侯御所藏、平丸といふ、
切合〈世間に切懸といふ〉臺子風爐が始りなり、其餘色々あり、
廣口 古作に多し、道安好み、與二郎作にて、輪口と姥口とあり、
皆口 天猫よりあり、好なし、
姥口 口作り、老女の口に似たるゆへにいふ、
十王口 輪口の上の少し開くをいふ、十王の冠の形に似たるゆへに名づく、
丸釜 利休形、與二郎作、輪口、唐金蓋、鬼面鐶付、
尻張 利休形、與二郎作、一名泥障(アオリ)釜といふ、
阿彌陀堂 利休此釜の大の方を有馬阿彌陀坊へ好み遣す、丸釜、尻張、阿彌陀堂の三品、大中小あれども、大と小とをよしとす、 原叟好阿彌陀堂は、小の阿彌陀堂に中の阿彌陀堂口をつけて、千家所持の蒲團釜の蓋を兼用ゆ、但し三典淨味作なり、
國師 春屋國師所持、與二郎作、當時山中氏所持、國師丸といふ、
日の丸 自然と丸き出來ゆへ名付く、與二郎作、三井元之助所持、 四方 クリ口、鬼面眞鍮の平環、箟被(ノカツキ)少々切懸ケ、大は少庵好、小は元伯好、共蓋、椎ツマミなり、當時うつし、大は石目蓋なり、古作は共蓋と唐金石目、花の實鋳ヌキツマミあり、又唐金蓋もあり、
萬代屋(モヅヤ) 天猫作、万代屋宗安所持、形一樣せずといへども、廣口鬼面輪口肩に筋あり、累坐のあるとなきと有、
雲龍 利休形、與二郎作、地紋雲龍カケゴ、蓋は共蓋、大は切子ツマミ、小はカキ立、鐶付鬼面、少庵好は鬼の鐶付にて、大計にて小はなし、何れも眞鍮丸鐶、仙叟好は小にて少し裾の方張る也、織部好は中にて龍に角なし、いづれもアゲ底也、
龍釜 與二郎作、鐶付龍に似たり、丸釜の少し高きかた也、
枡釜 利休形、四方釜の肩が落ずに、羽落箟被(ノカツキ)にならざるなち、大小あり、
巴蓋 少庵所持、霰平釜、切カケ、鐶付鬼面、天猫作、蓋は少庵好、巴の地紋有、山中氏所持なり、
土齋 宗旦好み、土齋へ好遣すなり、元來天猫作、底は九兵衞作、唐金モリ蓋、郡山侯御所藏なり、
四方口 元伯好、元來天猫作、底をヲダレになをす、鬼面共蓋、元伯より探幽へ傳ふ、足切淨味寫しには、刀豆鐶付あり、千家には鬼面を用ゆ、
裏鏊(ウラガウ) 〈裏合裏熬などゝ書事あれども、鏊の文字がよし、元來イリナベを打かへしたる也、〉元伯好、元來天猫作の鏊の底の見事なるを打かへしたるなり、夫ゆへ底に四ツの鐶付あり、
累座 元伯好、元來天猫作の大釜を、老人の爲に底を切上ダたるなり、クリ口、累座鬼面唐金フタ、山中氏所持、〈但し俗に座阿彌陀といふ〉
立鞁 元來好、瓢覃をひつくりかへしたる樣なり完伯所持、天猫作、世間にいふ覃瓢釜に似たり、腰万字 原叟好、丸釜切懸〈ケ〉腰に卍あり、覺々好の三字あり、鬼面鐶付、鐵の鬼面風呂に添ふ、淨味作なり、 田口 原叟好、琉球風呂へ好む、淨味作なり、大津淸水彦兵衞所持、
百侘 原叟好、板風呂に好む、鏊取手口に雷紋あり、唐金蓋、百侘文字花押もあり、道爺作、
達摩堂 原叟高桐院に、淸巖和尚建立の達摩堂の香爐を釜となす、形ナデ四方、肩に玉緣あり、ヲグレ、香爐耳、共蓋、淸巖和尚の書にて、達摩堂の文字あり、今本哥郡山侯にあり、寫しは道爺作、數二十、
角釜 原叟好、至て大ブリ、肩に玉緣あり、刷毛目クリ口、共蓋、常張鐶、ヲダレ、前に覺々齋の文字あり、江戸大西九兵衞作、〈覺々齋の文字に直筆也、江戸に滞留中の好み、浪花竹浪庵傳來、稻垣休曳の事也、〉
累座富士 如心齋好、道爺作、鬼面羽釜、口に累座有、鐶付の上筋二ツあり、鳳皇風呂に合す、
雷聲 如心齋好、淨元作、廣口唐金蓋、鬼面鐶付、如心齋の書にて雷聲の二字あり、後藤玄乘へ好遣す、太葭(フトヨシ)釜敷添ふ、〈○中略〉
ダツマ 佐兵衞作、啐啄齋所持の蘆屋作、鯉の地紋の釜によりて好む、
刷毛目姥口 了々齋好、二代目佐兵衞作なり、鬼面鐶付、唐金一文字蓋、山梔子ツマミ、 但し少庵好の巴蓋の通にて、刷毛目なり、
鐵瓶 了々齋好、寶珠形、唐金フタ、二代目佐兵衞作なり、
p.0672 釜の肌、柚ハダ、ナマヅハダ、ヒキハグ、ハジキハダ、尻張は唐金蓋よし、阿彌陀堂は鐵蓋よし、阿彌陀堂は肌のさわがしきをよしとす、尻張はこまかきを吉とす、尻張はけつかうなる釜、阿彌陀堂はサビたる釜、
柚肌 橘柚の如き肌を云 鯰肌 なめらかなるを云 挽肌 轆轤の挽目有を云
ハヂキ肌 あらきはだをいふ 肌の名猶あるべし
阿彌陀堂 本文鐵蓋よしとあれども、大かたは唐金蓋なり、有馬阿彌陀堂の僧、大釜望にて利 休居士へ賴みし時、利休與二郎へ申さるゝは、地をクワツ〳〵とあらし候得と也、其時元伯年十一にて側に居て覺へ被レ申候よし、逢源齋筆記に有、
p.0673 釜 煮レ湯之具也、中古於二筑前葦屋里一所レ鑄號二葦屋釜一、其所レ畫之紋畫、僧雪舟之所レ圖者間有レ之、雪舟備中人也、去二葦屋一不レ遠、且雪舟應二大内氏之招一、而時々往二來周防長門之間一、冶工請レ之、使レ畫二釜之模範一而鑄レ之、多有一松杉或梅竹之圖一、是謂二下畫一、下野國天明之所レ鑄是謂二天明釜一、或作二天猫一、葦屋天明如今不レ鑄レ釜、厨料之大釜或大鐺賣レ之、伊勢國之所レ鑄、草花竹樹等之紋甚細密、是謂二伊勢釜一、〈○中略〉曾豐臣秀吉公浴二有馬温湯一千利休從レ之、於二阿彌陀堂庭一構二茶亭一、秀吉公來二臨斯亭一、利休煮レ湯點レ茶而獻レ之、其所レ用之釜形狀相宜、茶人甚慕二利休一、摸二此釜一而所レ鑄者、不レ論二新舊一號二阿彌陀堂釜一、今京師釜座彌右衞門、幷孫三郎等代代爲二巧手一、釜鐺類悉鑄レ之、
p.0673 利休時代に、京師に住居せる與二郎なるもの釜の名人なり、子孫今は相續せず、これを京釜といふ、利休の氣に入りて好み鑄させしが多しとなん、
p.0673 執事兄弟奢侈事
越後守師泰〈○高〉ガ惡行ヲ傳聞コソ不思議ナレ、〈○中略〉天王寺ノ常燈料所ノ庄ヲ押ヘテ知行セシカバ、七百年ヨリ以來、一時モ更不レ絶佛法常住ノ燈モ、威光ト共ニ消ハテヌ、又如何ナル極惡ノ者力云出シケシ、此邊ノ塔ノ九輪ハ、大略赤銅ニテアルト覺ル、哀是ヲ以テ鑵子ニ鑄タランニ、何ニヨカランズラント申ケルヲ越後守聞テ、ゲニモト思ケレバ、九輪ノ寶形一下テ鑵子ニゾ鑄ナセタリケル、ゲニモ人ノ云シニ不レ差、膚窳無クシテ、磨クニ光冷々タリ、芳甘ヲ酌テタツル時、建溪ノ風味濃也、東波先生ガ、人間第一ノ水ト美タリシモ、此中ヨリヤ出タリケン、上ノ好ム所ニ下必ズ隨フ習ナレバ、相集ル諸國ノ武士共、是ヲ聞傳テ、我劣ラジト、塔ノ九輸ヲ下テ鑵子ヲ鑄サセケル間、和泉河内ノ間、數百箇所ノ塔婆共、一基モ更ニ直ナルハナク、或ハ九輪ヲ被レ下、マス形計アルモア リ、或ハ眞柱ヲ切ラレテ、九層計殘ルモアリ、
p.0674 羽柴秀吉寶物頂戴幷城介殿被レ進二種々名物一事
今度羽柴筑前守播磨但馬兩國退治シ、近日上著スベク候條、御褒美トシテ不動國行ノ御腰物、幷ニ名物ノ乙御前ト云茶釜可レ被レ下候間、取出シ置相渡スベキ由被二仰付一、誠以筑前守戰功ノ至恩、忝次第、面目ノ義ナリ、
p.0674 大臣家御馬揃事
同月〈○天正九年二月〉廿四日、越州ヨリ罷上ル柴田修理進勝家、同伊賀守勝豐、甥ノ三左衞門勝成、彼國ノ拜領忝キ由各御禮申上ル、獻上物太刀一腰、〈國光〉馬代銀子千兩黃金三百兩、蠟燭千挺、奉書ノ紙千束、綿千把、絹五百疋進上仕畢ヌ、翌朝御饗應下サレ、御自身御手前ニテ御茶立下サレ、剰へ先考備後守殿〈○織田信秀〉ヨリ相傳ノ名物、姥口ト云フ茶釜拜領ス、是勝家數年懇望セシムル所ナリ、
p.0674 太閤〈○豐臣秀吉〉の時分、茶釜の名物は、菊水の釜とて、菊と水とを紋に付たる釜あり、口廣くはた壹寸許のこりたる程也、蓋は藥鑵の樣にうちきせ蓋なり、蒲生家に有し物とぞ、今公方家に有し大講堂と云釜は叡山より出たり、大講堂と云字を釜の腹に横に鍛付たり、丁酉炎上に滅す、是も口濶し、
p.0674 一小笠原先右近將監忠政殿に、古蘆屋の釜に須磨と申候名物有レ之候、然る處一年火事に土藏七ツ迄燒失、右之釜も滅申分に候、去共灰の中に燒殘り申候哉、古金買の手に渡り、夫ゟ右近將監殿家老〈名字落〉主馬買請申候、名物の須磨に形も似申候、但さびくさり候て雨にさらし能致し可レ申とて、外に晒し置申候、其内主馬死去、子息は幼少ゆへ、家來中相談にて、當分不レ入道具拂申候、彼釜も其内に成候て、或人買請申候、其外茶道具をも一所に買請申候、若其内に掘出しも候哉と、色々を改め吟味候處に、釜の名物帳有レ之、須磨に形の似たると申者有レ之候、總て古蘆屋に 出來能には源左衞門印を三ツ押申候、夫故三ツ印の釜大切なる物に候處、釜錆を落し候て改候へば、三ツ印あらはれ申候、そこにて釜屋某に見せ申候處、是は須磨の釜に相違無レ之旨、夫故予存申方へ秘藏にして所持に候、
p.0675 雲龍の釜はじめて出來候時、休〈○千利休〉氣に入りて、いままで圍爐裏にすへたる釜をのけ、五德置ながら自在に釣りて、茶湯たび〳〵出ス也、又一とせの夏、太閤〈○豐臣秀吉〉の御前に雲龍の釜御しかけありて、宗易に茶を點(タテ)よと仰らる、折しも御近習おほくて、十服ばかり點たるに、其湯始終さめざりけるとなん、
p.0675 一阿彌陀堂なりの釜二ツ、三齋公〈江○細川〉持參入二御覽一候、口の廣き釜如何にも阿彌陀堂なり、少も惡敷所なしと被レ仰候、夫に付御噺有、利休に口の狹キ阿彌陀堂形の釜爲レ見候へば、惡敷由に申す、此釜は目きゝ候而、茶の道不功者ノ者の好候釜と存候、大方瀨田掃部鑄させたるべきと申、如何にも掃部が鑄させ候釜也、如何して掃部望たると被レ申やと御尋候へば、利休申は、掃部は目は利候へども、茶の道は不鍛錬なり、此釜は此の如く形能候へども口廣過候、今少口しまり候はゞ猶能候半物をと申所にて、數寄道具になり申候、茶の湯の道は十分の物はウマキとて嫌ひ申候、一二ケ所も頑所有物よく候、掃部鑄させ候釜は、頑所なく口も能程なり、十分したるもの故、茶の湯ノ釜にはならずと申候、十分したるものは、御道具と云て數寄には不レ用、代も高く仕事也、茶の湯道具は頑所ある故、代不レ仕候、されども人々の見立にて高くも仕候、たゞもいやと申も數寄道具にて候由、利休申たると仰なり、
p.0675 遠州政一あその色紙釜てふものあり、山のふもとにかけひのけしきかいたるに、西行法師のとく〳〵とおつる岩まのこけしみづくみほすまでもなきすまひかな、といふをつけたるが、あるやんごとなきひと、かの茶の道とて、しひてかゝることまねぶこそ心得ね、そのほど をこそ思ふべかめれとて、上句はそのまゝ置きて、くみてよわたる人もこそあれ、とつてりなほしたりとか、
p.0676 享保十年霜月十日、晝、深諦院殿御茶ニ召サル、〈○中略〉釜 〈挑燈釜〉 〈コレハ常修院宮(慈胤法親王)御所持新作、三菩提院宮(貞敬法親王)ヘ進ゼラレ、今此御所ニアル由ナリ、〉
十二年五月十八日、深諦院殿、〈拙○山科道安〉御茶下サル、〈○中略〉御釜〈クリン釜、是ハ深帥諦吐眄ニハ覺ヲレズヤ、先年無量光院ヨリモライシ釜ナリト仰也、ナルホド覺奉リシヤウ也、今少シ長ケ高カリシヤウニ覺侍ルト申上ラル、ナルホド好ヲボヘ也、常修院殿ヘ見セシニ、下ニテ三寸切テ、底ヲ入サヽレシナリ、〉
十三年十月十日、參候、先日深諦院ノ問ハレシニ答ヘシ、爐ノ釜ヲ風爐ニカケ、風爐ノ釜ヲ爐ニ下スコトハ、苦シカラヌコトニヤト、常修院殿ノ常ニ仰ラレシ、風爐ノ釜ヲ自在ニテモ、クサリニテモ、爐ヘヲロスコト是常ノ習也、爐ノ釜ハ、護ニ風爐ニアグベカラズトノコト也、雲龍バカリハ、風爐モ又格別ニアリテ風爐物也、今ノ世ハ爐ノ大釜ヲフリナク風爐ニカクルホドニ、大火ニアラザレバ煮ルコトナシ、何ト謂コトゾヤ、
p.0676 享保十七年八月十二日、參候、日外車輪釜ヲ拜見イタセシ刻、仰ニ、〈○近衞冢熙〉車輪ハ夜會ニカケタ一段ヨキ物也、火ノ影ノ炭ニウツリテ、其由アリト、三菩提院〈○貞敬法親王〉ノ説也ト仰アリシガ、近日車輪ノ釜ヲ見出セシトテ御覽ニ入ル、コレハ本遠州〈○小堀政一〉ガ物ズキ也、御流義ニハナキモノナレドモ、古ヘモカケラレタルヲ見タリ、三菩提院ニモカケラレタリ、汝〈○山科道安〉ガ見セシ釜ハヨカラズ、御所持ノ釜ヲ出シテ御見セナサレシガ各別ノモノ也、並ベテハ影モナキ由ヲ申シ上ゲシカバ、左ホドニ思ハヾ下サルベキ由ニテ拜戴ス、此釜ニテ當年ノ口切ヲ致スベキ由ヲ申シテ退出ス、 十八年九月十三夜、九輪釜ノカケヤウニハ習アリ、カクルトキハ正直ニ持チ、五德ニカケテ後ヘジラシテ、角ヲ兩方へ分ツベシ、サゲレバ柄杓ニサシ合ナリ、是九蝓釜ノアシライナル由、常修院殿〈○慈胤法親王〉ノ御数ナリト仰ラル、
p.0677 釜之事同水遣具
一釜之蓋之事、直蓋、落込、手蓋ト云アリ、各紫銅也、鈕ニハ透茄子、櫁實ト云アリ、
p.0677 釜の蓋名の事
一中高きを盛蓋と云、甲おち入たるをゑめう蓋といふ、亦蓋にふち有、甲おち込たるを打込蓋といふ、又甲すぐ成を一文字蓋といふ也、
p.0677 釜の蓋
モリ蓋は 阿彌陀堂 丸釜 薄モリは 尻張 スクヒ エメウ蓋 紹鷗小霰の類 〓一文字共蓋石目
p.0677 享保十四年正月七日、御茶湯初メ參候、〈二三、拙、○山科道安、中略、〉御釜〈(圖略)此釜ニハ由來アル由仰ラル(近衞家熙)舊此釜ノ蓋、コトノ外ニ奮キモノヽ上作モノ也、コレヲ宗和ガ所持ニテ、此蓋ニテ釜ヲイサセダシ、如何ヤウノ形チシカルベカラ冫ヤトテ、名アル弟子衆ニヲヽセテ、切形ヲサセヲレシガ、イヅレモ蓋ノ形ガ八角ナルニ付テ、釜ニモソノ意ヲトリテセラレシヲ、宗和ノ物ズキニテ、ナニトシテモ、八角トサシアウハ惡カヲントテ、何トモシレヌ形ノ、終ニナキ形ニセラレタリ、環付モ形ノシレヌモノニセラレタルガ、宗和ノ好也ト、イカイ秘藏ニテアリシヲ、寺田無禪ニヤヲレテ、無禪ヨリ御所ヘ上ヲレシト也、此蓋ハ殊ノ外名高キモノ也、其頃細川ニ八卦ノ蓋、金森ニハ八角ノ蓋トテ、天下ニタレシヲヌモノナカリシト也、〉
p.0677 釜のツマミ
花の實 梅の花を二ツ合せたる也 透茄子 山梔子 鑄ヌキツマミ〈俗に藥鍋蓋といふ〉 鐵椎ツマミ 鐶ツマミ〈俗にカキタテツマミといふ〉
p.0677 釜鐶付之事
一鬼面、遠山、栗形、藤ノ實、利休、 兎宗拙 しよこ耳、是者鬼面より古きもの也、 松かさ、ほら貝など蘆屋に多し、 かうとつて、百侘のとつてなり、牛の鼻たり也、
p.0677 鐶付 鬼面 鉦鼓耳 遠山 アマヅラ〈龍の事なり〉 松カサ 茄子 サイ〈責紐の事なり〉
p.0678 釜作者之部
蘆屋 筑前、明惠上人始て釜を命ずといふ、
天猫 小田原河内天猫は、茶釜師にあらず、〈河内天猫は文字天明也〉
關東 天猫の脇作、其外江戸作を一同に關東作といふ、天下一西村道仁は紹鷗の釜師なり、與二郎の師といふ、紹鷗好さくら川といふ釜あり、銘物なり、道仁の作、
與二郎 利休の釜師なり、辻與二郎實久といふ、弟子に彌四郎藤左衞門といへるあり、上手ゆへ、釜師にて此兩人の作を與二郎と極む、法名一旦、
淨味 先祖を名護屋越前入道善正といふ、東山時代、此後詳ならず、子孫に至て、大佛の鐘を鑄る者を、初代淨味といふ、〈○中略〉
二代淨味 昌乘齋と號す
三代淨味 三典といふ、原叟時代なり、三典淨味は世俗に云足切淨味是なり、是より後は庄兵衞代作す、〈但し浄味の弟子なり〉初代より今に至り〓此印を用ゆ、
道彌 道仁の弟子すじ、大西彌一郎といふ、江岑時代也、此間に道運、道有あり、不レ詳、
道也 道彌の子彌三右衞門といふ、後道冶ニ改む、原叟時代、
道爺 道也の子彌三右衞門といふ、原叟時代ゟ如心時代へかゝる、百侘、達摩堂は原叟好、累座富士は如心好なり、
寒雉 初代淨味弟子宮崎彦九郎と云、加州利長公へ被二召出一、御釜師と成る、〈其家今にあり○中略〉
九兵衞 西村九兵衞といふ、道彌親類、元伯時代なり、
淨林 姓は大西、淨味の弟子なり、 淨淸 淨林の弟なり、兄弟とも織部公〈○古田重勝〉に隨て關東へ行、淨林は江戸に足をとゞめ御釜師となる、淨淸は京へ歸りて住す、
淨元 淨淸の子なり
淨頓 淨元の子なり
淨入 浮頓の子なり
淨元 淨入の子なり、此人より道爺死後、千家へ出入の釜師となるなり、
淨玄 淨元の子なり、啐啄時代、
淸右衞門 淨元の子也、早世ゆへ弟子奧平佐兵衞家を嗣、
淨元 奧平佐兵衞了雪入道といふ、其子淸右衞門大西姓に歸る、
佐兵衞 奧平氏、了雪入道の弟なり、
淨西 大西氏
頓入 廣瀨氏
p.0679 京作ハ、利休時代、京師天下一辻與次郎ト號、藤左衞門、彌四郎、利休釜形付始テ鑄、道仁ガ弟、
阿彌陀堂、雲龍釜、四方釜ハ、與次郎、 尻張ハ彌四郎 丸釜ハ藤左衞門
其後三人シテ種々形釜ヲ鑄ル、一旦與次郎ハ、太閤秀吉公ノ釜師三人之隨一也、上手也、利久時代釜ノ出來能ヲ與次郎ト極ム、藤左衞門、彌四郎作共ニ與次郎與極ム、其外之作ハ利休時代ト極ム、
p.0679 御釜師
三條釜座町 名越淨味 同町 釜師道耶 西堀川六角下ル町 高橋因幡
p.0679 釜の箱之事 淨味 淨元はモミの竪目 書す 寒雉 桐の竪目に書す 道也 モミの横目に書す
道爺一代は 桐の横目 何れもサン蓋なり
p.0680 松平不昧ハ、〈雲州侯幽羽守治郷隱退シテノ名〉茶ニ高名ナリシ人也、或時芝邊ノ茶店ニ憩レケルトキ、其釜ヲ見ラレコレゾ眞ノ蘆屋釜ト曰レケル、店主大ニ喜ビ、他日ソノ釜ノ箱ヲ造リ、不昧ノ邸ニ持來リ、蘆屋釜ト銘ヲ書シ賜ハランコトヲ願請ス、不昧拒マズシテ留置コト數日ナリ、店主復來テコレヲ促ス、不昧曰、我書セント思フコト屢ナレドモ、心スヽマズシテ未ダ果サズ、店主又來レドモ未ダ果サズトテ、遂ニ銘書ヲ爲ザリシトナリ、又カノ茶店ニハ、不昧ノ蘆屋ト鑒定セラレシ釜ハ何ナルモノゾトテ、日々賢愚老少入來ルモノ少カラズ、其店コレガ爲ニ多ク錢ヲ得タリト云フ、實ハ不昧ノ戯ニテ、眞ノ蘆屋ナラヌヲサイハレタルナリ、箱書付シテハ失鑒ニナルユへ、コレハ爲ザリシナリ、其茶店コレガ爲ニ利ヲ得ルニ至ルモ、此侯ノ高名ナルコト推シテ知ルベシ、今ハ不昧流トテ、世ニ一流ノ茶道立シホドニナリヌ、
p.0680 鐶の事
一ひる口、切口、ひるの如シ、唐金大小有り、 みゝず、みゝずの如シ、唐金大小、 諸手左右違目同じ、老人之遣物也、 さゝげ、角豆の如シ、丸み有り鐵大小、 じやうはり、丸きものに、別に二ツの鐶有、鐵也、 眞鍮の鐶、大小有り、 平くわん、平み有り、鐵大小、美濃紙にて卷、鳴りを留る也、他流もの、
四方釜の鐶、眞鍮平鐶仕付ケ、 名物のくわん、奈良鍛冶の作也、利休所持宗旦の書付有り、今坂本周齋に有レ之、
p.0680 釜添品目
鐶 平鐶は四方釜 丸鐶ハ、雲龍、鶴首、東陽坊、 但し大小とも〈常の鐶むかしは左鐶、眞鍮は眞の鐶也、○中略〉
鏊取手 百侘、千本松などの鐶をいふ、
p.0681 釜 於二釜環一出レ自二南都一爲レ良、凡釜左右有レ耳、其内有レ穴、以二一双環一貫左右耳一、以二兩手一提レ之、不レ用レ環則不レ堪レ熱、奈良鍛冶所レ造之環、千錬而製レ之、故金性冷、茶人暗中摸索、而知二奈良之製造一也、
p.0681 奈良鐶といふは、奈良の鍛冶が鑄し鐶なり、トクゲンといふものゝ作をよしとせり、
p.0681 釜之事同水遣具
一鐶之事、奈良鍛冶ト云有、是ヲ上トス、二ツノ重サ同然タルベシ、次ニヲユノモト云作ヲ吉トス、但御湯呑ト云傳説アリ、
p.0681 小堀遠江守宗甫公自筆の寫
一鏆は當代大鏆を用ゆ、間々にはみがき鏆も能、せうはり鏆とて、外よりかけるくわん有、
p.0681 一鐶
大小色々有、定寸も無二御座一由、先年良玄〈江〉被二仰付一候鐶、三齋翁も、此位大小いづれの釜にも釣り候にも吉と被レ仰候、雛がたニ而御好被レ成、爲二御餞別一御贈、今に所持秘藏、日用を成し、後年之見合に寸法留置候、太サ貳分に弱し、差渡輪の内ニ而貳寸四分、喰違七分、鎚目十九、總體少平め、鎚めは上下より當ル、脇はなし、
p.0681 享保十三年十一月十三日、角環ノコトハ大事ノ秘也、釜ニヨリテ用ユ、釜ノ環付ノ大手ナルハ、丸キ環ニテハユブル故ニ角ヲ用ユ、唐物ニモアルモノ也、
p.0681 つるの事
一鎌の卯鐵也、利休、 丸つる、利休、 もつこふ弦眞鍮、利休、 達摩堂のつる眞鍮
p.0681 釜添品目
鈎 眞鍮の木瓜は、雲龍、鶴首、東陽坊に用ゆ、 鐵の丸は四方に用ゆ 鐵の鎌の卯は、小丸、小尻張、 大ブリなる釜に用ゆ、 千家此三品を一箱に入て、如心齋の書にて利休所持とあり、夫ゆへ當流には此三品を用ゆ、此外に達摩堂に用ゆる眞鍮丸鈎は、片端にアガキあり、
p.0682 釜之事同水遣具
一弦之事、丸キアリ、小釜ニ用ユ、木瓜アリ、中釜大釜ニ用、尤小釜ニ用テモ吉、恰合ニ善惡アリ、猶大釜ニハ鎌卯ト云、ヲ用テ吉也、釜ヲ下スニ、右ノ手ニテ弦ヲ持、左手ニテ鐶ト弦ヲ持添ベシ、小釜ハ鈎際ヲ上ヨリ匊(モロテ)ニテ取ベシ、釣物何モ如レ此、弦ノ置所及臺ハ、勝手ノ方ノ柱ノ外ニ立掛ル、袋棚ハ大釜ノ時ハ、勝手ノ方前ノ柱ニ水壺之蓋ノ如ク持セ掛テ置、小釜ノ時〓 棚ノ立板前ニ持セ掛置也、堂庫ハ立付ノ木ニ立掛ベシ、常ニハ勝手ノ方ノ壁カ、同柱ニ立掛 鏁ノ揚ヤウ傳アリ、
一蛭鈎之事、座席ノ勝手ニ不レ拘、定テ右ノ方へ鈎ヲ向テ打ベシ、茶堂前ニ居テ、我右ノ方ナリ、鈎ニ形有、
p.0682 靜沸 十六事之一〈今俗云二釜敷一是也、以二竹茘藤之屬一作レ之、或有二縫レ絞者一、設二圓眼於其中央一、〉
茶譜曰、靜沸竹架也、按、有下其形高如二鼓腰一者上、此亦以二藤茘一造レ之、蓋支二炊釜一者、其中擇二形低者一而用レ之、
支鍑 俗亦呼二釜敷一
茶經日、剤レ中令レ虚、其形薄、以二藤茘一造レ之、支二茶碾一者、亦如レ此也、叉曰、交床同支レ鍑者也、〈支鍑蓋以レ版爲レ之、剜二其中央一、〉
p.0682 釜置之事
一釜置紙、柳川と小菊を用、 竹の節釜置は宗旦好也、是は琉球王より宗旦〈江〉花入を賴越候時、右花入を切て被レ遣、殘りの竹ニ而釜置に成、是ゟ釜置初る、此釜置は宗守〈江〉遣し候由也、右花入之禮として、琉球ゟ靑貝の香合〈江〉加羅を入來ル、此香合今に有、 桐板の釜置、利休好勝手物也、 木にて四角に指候釜居、利休形水遣道具なり、 ふし組物釜置、穴大なるは利休、同釜置、穴小サキは紹 鷗形也、
p.0683 同〈○炭取〉小道具
釜置 紙は美濃紙一尺一寸に、横七寸五分を四ツに折也、
同組物 紹鷗所持の寫し、本哥は竹浪庵にあり、唐臼のヘダテなり、江岑の箱書付、原叟の折紙、啐啄齋の極書付あり、藤組は紹鷗所持の卜組に習て利休形なり、卜組は玉緣あう、藤組はなし、 此釜置千家より江戸冬木氏へ傳へ、當時は竹浪庵の所持と成る、〈稻垣翁事〉
同竹 元伯好、大竹の節の所を用ゆ、
同板 利休形、箱炭とりに用ゆ、桐の角切なり、
p.0683 釜之事同水遣具
一釜置之事、組物ヲ用ユ、本圖アリ、炭斗ノ上ニ置時ハ、表ヲ上ヘシタ置、其マゝ取テ空手へ取替ル時、上ヲ下ヘシテ置、裏ニ釜ノ底ヲ可レ付、又揚戸時下ヲ上ヘシテ炭斗へ入、其上ニ鐶ヲ置ベシ、常用ルニハ桐ヲ以テ作ル、寸法別ニ記アリ、末汳ニ好メル花形樣ノ物必不レ用、炭斗小シテ難レ載、則紙ヲ四半ニ拆テ懷中シテ用二此紙一、折目ヲ客前ヘナシ、二方ノ切目ヲ勝手ノ方ヘスベシ、釜ヲ掛テ後ニ懷中スルナリ、末流ニ釜置ヲ釜敷ト云リ、誤レリ、
p.0683 一釜上紙、長五寸三分、幅四寸九分、四ツに疊テノ寸也、紙數十二枚、
凡右の寸也、釜の大小によるべしと被レ仰候、
p.0683 享保十二年正月廿四日、參候、釜シキノ紙、一通リカマシキトテコレアリ、半紙ヨリハ大ニ、美濃ヨリハ小ク、少シアツキモノ也、ソレヲ四ツニ折テ、十九枚ヨリ廿一枚マデノモノナリ、紙ノ厚薄ニヨリテ紙數ノチガイアリ、直シヤウハ、紙ノ重リタル方ヲ先ト勝手ヘナルヤウニ、折目ヲ客付ト我方ニナルヤウニ置コトナリ、ナゼナレバ、釜ガ置サマニ、タヽクレヌヤウニトノコト也、
p.0684 釜添品目
透木 利休形は厚朴 元伯形は桐いづれも爐風呂共あり、山中氏所持に、元伯書付大中小三〈ツ〉あるよし、
p.0684 一敷(風爐)木〈透木とも云〉 樫ノ白木 長貳寸 巾七分 厚五分
一敷(爐)木 長三寸八分 巾八分五厘 厚四分 木右同
p.0684 風爐之事
一透木之事、是ハ刃釜カ箟被ノ釜ヲ風爐ニ掛ル時、透木ト云物ヲ用、厚朴ニテ長サ二寸バカリ、厚サ四五分、幅六七分ニシテ、二ツ兩脇ニ可レ置、釜ノ大小ニ因テ見合有ベシ、常ニ仕掛ルニハ、木ヲ略シテ、鐵ニテ鎹ノ如クシテ漆付ニス、大サ二分四方程タルベシ、三ツヲ以ス、脇二ツ、後ノ眞中ニ一ツ用ユ、
p.0684 享保十三年五月七日、參候、スキキニ寸法ハナシ、釜ニシタガフ由也、常修院殿〈○慈胤法親王〉へ御賴ミ申セシカバ、釜ヲコセヨ、釜ニテ拵テ下サルベキ由ニテ、モライシト仰也、〈○迺衞家煕〉サレバ釜ノ大小ニヨリテ、木ノ長短コレアルコトニテ候ヤト窺フ、緣ノ廣狹ニヨルコトヽ見ヘタリト仰ラル、スキ木シキ木ト申スコト候ヤ、仰ニ、スキ木三本ト云、是モ今ハ桐ニテスルソウ也、古ヘハ厚朴也ト兼テ仰ラレシ、長山公ノ御聞書ニ宗旦傳ナリトアソバス、
p.0684 自在 和語也
或人曰、本野人煮羮之具也、取用爲二茶房器玩一、其上懸二天井一、下至二地爐一、活火沸騰則上レ之、老湯火冷則下レ之、可レ謂升降自由、動靜自在者、其雅宜哉、
其制用レ竹爲レ幹、懸下在レ鍵、其竹以二四尺七寸或八寸一、不レ過二七節八節一、若天井高、竹不レ足、則以レ鎻助レ之、其所レ釣木以二茱萸木一、按人未レ滿二五十一則不レ許レ用レ之、然爲二宗師一者、不レ在二此例一也、
p.0685 釜添品目
自在 利休形、居士時代は、ヒル釘へ前より懸るゆへ、釣苧の勝手違ふゆへ、利休の判あるは、埋木して釣苧付替る有なり、小ザルは何勝手にても右へなるなり、竹の切口座より自在の端まで、小間は九寸五分、廣間は一尺五分、竹の節は、又隱六尺五寸の天井にて節の數八〈ツ〉也、又隱の外は、節不足かゝわらず、小猿は厚朴木、鍵は茱萸、小猿の付緖、上の懸緖ともに白苧なり、
p.0685 一自在ハ昔ヨリ有、但紹鷗宗易好ミ被レ出候、猶以當世數奇道具ニテ候、
p.0685 鎻自在會釋之事
一自在の事、大鎰、小猿、掛緖有レ之候、掛緖の付樣、大鎰と直に付たるも有、又鎰と掛緖違て付るもあり、此二品にて天井の蛭鎰打樣替也、我向へ鎰先を打と、又横に打と、替り有レ之と可レ知、自在竹の長サ五尺壹寸貳寸にも切と有レ之候得共、天井の高下によるべし、爐緣より竹の切口迄、壹尺二寸ゟ二寸五分迄、釣恰合釜の揚下ゲ自由成樣に見合肝要也、
p.0685 一自在竹の長サ五尺七寸八分、竹の太サ木口にて差渡一寸二三分四分程にて吉、下の切口ゟ節迄一寸、上は四五寸、七八寸も、節ゟ上之處ありて吉、
小猿の緖付の穴は切口ゟ一寸三分半、上ノ穴は上ノ切口ゟ一寸三分也、上の緖の長サ、切口ゟ七八分餘り候樣に延て置、又上の切口ゟ一寸八分に穴を明るも吉、〈(朱書)此所本ノマヽ、上ノ切口ゟ一寸八分ニ穴ヲ明ルト有ハ、小自在ノ寸ナリ、〉小猿に付る緖は、白き麻にて繩をないて、太サ小猿の穴にギシと通る程にして付ル也、小猿の緖の長サ、貳寸計、
p.0685 一自在といふ物、其もとは山家にてイロリに此自在を用ひて、朝夕のいとなみのぐより見立て、茶事のイロリにも用る事なれば、別而侘の具とは可レ知也、仍て本式一疊半二疊半迄のせまき所に、中柱ににらまざる座敷には用ると可レ知也、大目座敷などは、とかくにらみて 惡き物と可レ知、中柱なきは各別の事也、〈○中略〉
一凡自在竹の長サは、其座敷の天井に合て切る事也、しかれば一疊半座敷の高サハ五尺九寸也、是本式なれば、夫に合て切ると可レ知也、四疊にて用る時は、天井の式六尺一寸の曲尺に合せ切る事よし、仍而長さに定法は有てなし、夫とても廣座敷にて略ながら此自在を折に寄て用る時、七尺とも有天井に長さを合て切といふ事はなし、其時宜ならば、上より鏁か、侘ては細引にて程能ツリ下ゲて用る事よし、
一其竹節數の法は七ふし、若は八節に限ると也、扨此竹の見立樣は、ふし高くして樋はふかからず、ゆがまざるを見立て切用事也、節のひきゝはぬるくて見立惡し、又伊達にさび有は惡し、胡麻さびなど右て靜なるを好む事也、ふとさは其鍵の太サによく取合を可二見立一也、扨名所はひるかぎかけの緖を掛緖といふ、此緖の付樣は、四疊半一疊半向點ヒルカギ先キのむかい樣に合て付る事よし、ヒルカギ向樣はくさりの所に記す、くさりも同じ、竹の上の木口は三ノ留リ、下は下の留りと云、下の留りより九分上にふしを置也、如レ此切事習也、上の方は構ひなし、扨小ざる付の穴は、下の留りより一寸七分上にあける事よし、扨此小猿付の緖は、當世の樣になく細きがよし、かけ緖の穴は、上の留りより是も一寸七分下にあける事よし、小猿は枇杷の木也、弦カギは茱萸の木を用る也、扨釣樣は、高さは爐ぶちの上端より竹の下の留りまで、一尺一寸を法と可レ知也、小猿の先きは、むかふて右のかたへなす、然ば小猿付の緖は左になす也、何れの座敷にても同じ事也、
p.0686 住吉の社家のなにがし、休〈○千利休〉と友としよし、その人貧かりけるをあはれみ、細工きゝなれば、自在の鎰を刮して、休が剿など加へ、よき價を得さしつ、この故にふるき鎰世に殘り侍る、
p.0686 鎻 或作レ鏁 少壯者許レ玩レ之、其制古用二赤小豆鎻一、中世用二犬鎻一、釣レ釜者以二銅鐵一造レ之、其形有二圓鉤、木瓜、鎌刃一、不レ過二此三者一、而以下應二于釜一宜上者也、或間取二南蠻鐵滯一用レ之、多兩面銀二鑠之一、今用二犬鎻一者、始二宗易一、又有下以二眞鍮一爲上レ之、且由レ古及レ今施二於堂上一不レ容二茶房一、蓋天上有二蛭鉤一、則爐中無二鼎頭一、是乃其式也、
p.0687 くさりの事
一くさりは茶之湯には不レ用、書院向、又は敷込抔に用、いぬぐさりはあらく、あづきぐさりは細く、兩種共用、
p.0687 釜添品目
鏁 むかしは唐物を用ゆ、小座敷は五德と替る樣にす、廣間は時節にかまわず鏁を用ゆる故に鏁の間といふ、當時は是によらず、
p.0687 鎻自在會釋之事
一鎻名之事 細鎻 一重鎻 二重鎻 丸鎻 小豆鎻 錢鎻
右の通にて、鐵の自在を仕掛たる鎻も有レ之候、是は自在を會釋に茶を立申候鎻に、付たる鎰を大鎰と云、釜の釣を掛申鎰なり、大鎰の上にくる〳〵と廻り申所を元折と云なり、其上の小鎰をゆるしの鎰とも、又小鎰とも云也、上の少き環は天井に打申候、蛭鎰に掛ル環也、蛭鎰は寸法有、外に記、蛭鎰を天井に打申候は、鎻にては鎰のさきの方を勝手へ向キ申候樣に打申候、とかく大鎰と背申樣に打申候物也、
p.0687 釜之事同水遣具
一鏁之事、赤小豆鏁、犬鏁トテ有、共ニ用ユ、龍頭ノ恰合アリ、總ジテ長サノ大法アリ、
p.0687 建盞(ケンザン) 烏盞(ウサン)
p.0687 天目
p.0688 天目(テンモク)
p.0688 てんもく 甌をいふ、建安の天目山の名によれり、磁碗の深きをいへり、建盞の名も同じ、〈○中略〉瀨戸天目あり、西國中國四國北國常陸に茶碗をいへり、
p.0688 茶甌
建盞 油滴 耀卞 柿生 兎毫盞〈各有二銀皓一〉 天目 灰蒙〈土黑銀如レ霜、或黃口、或有二二重乳一、〉 只天目 黃天目 黑生 赤生 白天目 玳皮盞 金覆輪〈有二鎊目(ヤスリメ)一〉 軟鐐覆輪 瀨戸天目〈尾州出レ之、鍮石、或錫或鉛之覆輪也、或有二乳注之碍レ臺者一、〉 靑磁茶碗 端刻〈象レ花故名、或有レ箆、〉 巴茶碗 鋏茶碗〈大〓故也〉 琯瑤茶碗 堀出茶碗 鵜飼茶碗 花形 劒形 白茶碗 水飮〈有二楕持一未二䃍落(スリヲトサ)一〉
高麗茶碗 高中茶碗〈高中國名、不レ知レ字、乳色黃黑也、〉 染付茶碗
p.0688 茶盌
按、茶盌高麗窑爲二上品一、有下稱二三島手一者上、竪細繪文幽似二三島曆一故名、始渡者今至二四百年餘一、有二井戸茶盌者一、其形不レ一、大抵有二細裂文一、〈俗云華幽〉初來者至二三百年餘一、相亞者名二井戸脇一、〈又有二渡唐屋者一〉
熊川(コモカイ)卽朝鮮咸鏡道地名、大抵高臺裏不二藥染一、所レ圖〈○圖略〉〓反(ハタソリ)形也、割高臺與二井戸一同時物希有レ之、重器也、〈〓音膳器緣也〉棘肬(イラホ)繪高麗、雲鶴、刷毛目(ハケメ)、金海、御本、判事(ハンス)等數品不レ遑、
伯庵不レ劣二井戸一、其外長二郎之藥燒、大坂高原燒等、或有下亞二于高麗一者上、長門萩、肥前唐津、尾州瀨戸、京師黑谷淸水、御室之茶盌天目最多、皆可レ吃二薄茶煎茶一、
p.0688 茶盞
陸羽茶經、顧元慶茶譜、蔡襄茶錄全書中、各以二盞字一、玉川子雖レ有二七碗語一、〈碗與レ椀同〉無二茶碗連合之字一、皆茶盞茶盃耳、居家必備多作レ盃、
本國呼二其器一曰二茶碗一、古來名物多亡、〈信長公松本茶盌靑磁也、於二本能寺一失レ之、引拙茶盌、〉〈靑磁〉〈珠光茶盌、〉〈不知其製〉〈亦其時失レ之、方圓大小、所二傳來一家家各飾書記レ之、然其實不レ詳、〉 後世好レ事者、有下用二其品形不一レ任二於茶碗一者上、然俗以珍焉、〈○中略〉
天目〈今於二本邦一所レ尚之天目七品、其名各見レ下、〉
建盞之屬也、建安天目山造レ之、和漢同字、古來尚レ之、其形大小及色有二少異同一、本建安之盞也、建盞與二天目一有二異同之説一、難二以別一、今總稱二天目一、謂二之建盞一者、其中極品也、謂二之天目一者、總名也、有下如二兎毫一之紋上、按、蔡襄茶錄曰、出二於諸山一者、或色黃白、而盞中之茶色不レ勝、惟以二寶文一尚レ之矣、如レ此則建盞者、極品第一也、蓋建盞天目、皆建安之製也、今呼二之七品一者、亦其屬也、〈本國自二珠光一以降有二七、品名物一、各建安之盞也、以二其品色一呼爲二七名一、各見レ下、〉
或曰、以二盞字一代レ山謂二建盞一者、盞山音相通也、竊謂建山之建與二天目山之山一、合二二字一云二建山一乎、又曰、或人曰、昔藏レ盞箱上、或書二山字一、則不レ爲レ無レ證矣、恐非耶、書二建盞一則無二異論一、俗用二乾盞字一、殊不レ知二乾山之誤一、〈○中略〉
陶寶文 十二先生之一〈俗云廣盞也○中略〉
茶錄曰、茶色白宜二黑盞一、建安所レ造者、紺黑紋如二兎毫一、火熱難レ冷、最爲二要用一、出二他處一者、或薄或色異、皆不レ及也、於二本邦一所二好尚一亦然、近有二瀨戸天目一、盡取二建盞之形品一而擬レ之、最任莅二秘閣一、其色黃白、積レ年變レ色、或以二水湯一投レ之、以二布巾一拭レ之、浸淫自透、故似二古物一、而人人悦レ之好レ之者、然不レ如二建安之紺黑一、〈位二秘閣一者、建蓋也、秘閣亦中華製也、本邦中世以來、新作二秘閣一以架二瀨戸樂燒一亦然、〉
熊川 高麗之産
其形無二苦窳一、其色如二雞卵殻一、以下高自二三寸一及二三寸五分一、徑自二四寸一及二四寸五分許一之間、而不レ厚不レ薄、瓘乳最濃、經緯液汁、肌理細膩、底裏内外之精密者上、爲二上品極製一、人人所二好尚一皆然、呼レ之者直以二其地名一、又有レ云二平熊川一、其名以二形平一呼レ之、又有二鬼熊川一、比二常所レ玩熊川一、形低重厚、其瓘乳不レ濃、其底輪郭或大、土亦不レ美、而品形共粗者也、比二上二品一本劣也、然其中却有二勝者一、所レ冠二鬼字一者、以二其形剛堅而製粗一故也耶、
三嶋 高麗之産
謂二古三嶋一者上品也、或弸中書二禮賓之字一、以レ此云二禮賓手一、或以下有二檜垣紋一者上、曰二檜垣三嶋一、有二花紋一者、曰二花 三嶋一、又其地全靑、其上再以二刷毛一塗二白藥一者、曰二刷毛目三嶋一、就レ中世之所レ好者、最古三嶋也、是亦以二地名一呼レ之、
五器 高麗之産
昔出二於京師大德寺一者、曰二大德寺五器一、又有下曰二紅葉五器一者上、凡其形同レ上、以二全紅色一稱二紅葉五器一右二品者、自レ古至レ今人人尚レ之、其外遊擊、錐、番匠、尼等四品、亦其次也、品形不レ一、其優劣甚多、總稱二五器一者、蓋其形如二盛レ飯之器一、故俗呼レ之、
堅手 高麗之産〈堅樣也、俗以二手字一云二堅手一、〉
凡陶器産二於高麗一者、品形甚多、俗總以二某手一呼レ之、蓋以二其製堅實一之謂耶、
p.0690 名物天目 七品
一建盞〈俗云建山〉 丁謂茶圖曰、有下如二兎毫一紋上矣、世人云二穎利一是也、茶錄亦云、有下如二兎毫一紋上、俗云芒目是也、〈穎利者、極品建盞也、芒目者次レ之、〉
一曜變 點液如レ星、故爲二之名一、
一灰被〈一本灰蒙〉 液汁如二灰覆一、故爲二之名一、
一黃盞 俗云黃天目是也、以二其色一爲二之名一、
一油滴 其色滑而如レ滴レ油、故爲二之名一、
一玳比 一名鱉甲盞、或有二杜若梅花等紋一、尚二其形之大一、
一島盞 其色如レ烏、間點二金液一、〈一色如レ鳥無二金液一者次レ之〉
右七品爲二名物一
又有下謂二熊皮盞一者上、烏盞之類而有二花鳥紋一、液色不レ一、又有下謂二馬上盞一者上、是亦烏盞之類也、但馬上所レ飮者乎、
p.0691 茶碗之部
天目類〈建安縣天目山にて燒し物故、天目と云、〉
曜變(ヨウヘン) 星のごとき數あるを、天目の中にて曜變と云、 玳皮盞(夕イヒサン) 鼈甲のやうの出來にて薄手なり、梅龍の摸樣、或は文字などあり、 油滴(ユウテキ) 藥溜り雫の樣になる故に名づく 灰被(ハイカヅキ) アクなど懸たる樣に見ゆるなり 蓼冷汁(ダテヒヤシル) 蓼汁を懸たるやうに靑みあり 烏盞 色の黑き出來なり 禾 ノギ筋の立たるなり 黃 藥溜りの端に黃色あり 建盞 建安縣の盞といふ事なり、いづれの手とも付ざるを建蓋と名づく、 瀨戸 瀨戸にて天目を寫したるなり
靑磁之類
雲鶴 靑磁の中にて至て古し、引木鞘、狂言袴といへる物、世に名高し、 珠光 珠光所持三井傳來なり、何れも是に似よりたる物を云なり、 人形手 人形なきをも人形手と云 饒州(ニヨウシウ)
茶碗の緣にサハリフクリンの入たるもあり、東山殿〈○足利義政〉時代、甚重寶したる物なり、天目に次ぐ、
染付之類
古染付 利休、紀三井寺の香爐を茶碗に用ゆるより始る、 其外雲堂 松竹梅 唐花何れも古染付なり 虫喰 群瑞 呉洲 赤繪 古赤繪 金襴手 宋胡籙 ハチノ子と云形なり 安南 紅毛 井戸 井戸若狹守所持の類を云、井戸は土を見ざるを上品とし、熊川は土を見るを上品とす、
名物手 小井戸 大井戸 小クハンニウ 靑井戸 井戸脇
熊川(コモガヘ)〈朝鮮の地名なり〉 眞熊川 河澗道〈是も朝鮮の地名、熊川中の上品なり、〉 鬼熊川 後熊川
三島
古三島 禮賓手〈此文字あり〉 彫三島 花三島
刷毛目
古刷毛目 塚堀 土中より堀出したるなり 朝鮮刷毛目 稻刷毛目 白く至て濃き刷毛目なり 粉吹 無地刷毛目に似たり
高麗〈紹鷗所持に頭巾有、此外名物多し、〉
割高臺 繪高麗 堅手 本手 長崎 長崎某の所持、箱に長崎と遠州公の書付あり、孤篷庵より雲州侯へ傳來す、 雨滴 玉子手 鉢手 金海〈朝鮮の地名なり〉 御所丸 織部御本なり、箱に織部高麗と書付あるは御所丸なりとぞ、
五器
紅葉 遊擊 遊擊將軍沈惟敬の筆洗なり、此手を遊擊五器と云、本哥は雲州侯御所藏なり、
大德寺 錐 番匠 尼 柿の蔕 高麗柿の蔕に似たり、斗々屋に似よりの物一段古し、 斗々屋 堺斗々屋へ舶來したる物なり 伊羅保 元伯銘樊噌といふあり、道正庵所持、 古イラボ 刷毛目イラボ 釘堀 黃イラボ ソバ 井戸のソバと云ことなり
判事(ハンス) 船中印章を掌る人の役名也、此人の持渡たる也、 ハタソリ 御本判事 モサン〈人の名〉 御本 遠州時代、日本より注文ありしとぞ、 餌畚(エゴフ)
和物類
瀨戸
伯庵 伊勢津の醫師曾谷伯庵所持なりしゆへ伯庵と云、淀侯御所藏なり、半月香臺飛藥、 黃 瀨戸 獺戸黑 織部 織部黑
唐津
奧高麗 高麗人來りて、唐津にて燒し故、高麗の方より奧と云ことなり、 瀨戸唐津 唐津の瀨戸に似たるをいふ
萩〈長門〉 高麗人來りて燒初ると云
松本〈地名〉 藥の質堅し 深川 藥の質和かなり、松本深川とも萩燒なり、
伊賀 備前 薩摩
右三所とも、遠州時代より茶盤を燒始るなり、
仁淸 淸水 〈古淸水あり〉 樂燒 〈代々〉 手造類
p.0693 土物類
曜變〈建盞ノ内ノ無上也、天下ニオホカヲヌ物ナリ、万匹ノモノニテソロ、〉 油滴〈ヨウヘンノ次、是モ一段ノ重賓也、上々ハヨウヘンニモヲトルベカラズ、五千匹、〉
建盞〈ユテキノ次也、コレモ上々ハユテキニモヲトルベカラズ、三千匹、〉 烏盞〈土藥ハケンサンノゴトシ、形ハタウサンナリニテ大小アリ、三百匹、〉
鱉盞〈土白シ、藥アメ色ニテホシ有、鳥花ノ形藥ノ内ニアリ、千匹バカリ、〉 能〈○能恐熊誤〉皮盞〈同前、ヘツサンニ似タリ、代同前、〉
灰潜〈世間ニマレナル物ニテ候、見ヤウニ色々口傳多シ、〉 黃天目〈ハイカカヅニマギルヽ物ニテ候、大ニチガヒタルヤクソク有レ之、尚口傳多シ、〉
只天目〈世間ニ多キ物ニテ候、ヨレモコロナリ、藥能候バ重寶ニ候、〉 茶碗〈靑ヲバ靑磁ノ物ト云、白ヲバ白磁ノ物ト云也、〉
饒州磁〈ウツクシク白クウス〳〵トシテ、内ニコマカニ花鳥ノ文アリテ、内外スキトヲルヲ、ニヨウジウワント云、〉
琯瑤〈土厶ラサキ色也、藥モウスムラサキ色ニテ、ヒヾキタルヲ云也、靑キ茶碗ニ弔ヒヾキアリ、靑クハンニウト云也、又定例ヒヾキトモ云也、〉
p.0693 利休好名物七種之一 長次郎作黑茶碗、鋸大黑、大サ三寸七分、高サ二寸六分、 本形大坂鴻池善右衞門有レ之
其二 長次郎作黑茶碗、銘鉢開、大サ三寸八分、高サ二寸六分、 本形細川肥後守殿有レ之、三齋所持、 利休我出家セバ、此茶碗ヲ持チ、鉢ヒラカント云、依テ名トナル、
其三 長次郎作黑茶碗、銘東陽坊、大サ四寸、高サ二寸八分、高臺、〈一寸五分半一寸六分〉 眞如堂ノ東陽へ利休好ミ遣ス故名トナル、本形鴻池道億ニ有レ之、京都道具屋仲滿入札金五百兩、
其四 長次郎作赤茶碗、銘木守、大サ四寸、高サ二寸四分、
利休弟子中エ茶碗十ヲ好次第ニ取リ申スヤウニトノコトニテ、人々好テ分カチ取ル、此茶碗一ツ殘ル、出來吉シ、取殘シトテ木守ト名ク、本形千宗守ニ有レ之、丑年火事ニ燒失、
其五 長次郎作赤茶碗、〈目五ツ〉銘早船、大サ三寸、一分、〈又七分〉高三寸七分、三又作レニ高臺一寸五分、〈又半トモ〉
利休大坂ニ在テ、此茶碗ヲ大坂ヨリ早舟ニテ京へ取ニ遣ス、仍テ早舶ト名ク、當時桔梗屋文左衞門銀八貫目ニ求ム、京道具屋四人千兩ニ付ク不レ賣、大坂ヨリ千二百兩ニ付、本形大文字屋宗タニアリ、
其六 長次郎作赤茶碗、〈目五ツ〉銘撿技、大サ四寸四分、高サ二寸四分、高臺一寸六分、一寸六分半、
利休好テ弟子ニ遣ケルニ、左ノミ宜シトモ不レ思體ナリ、此茶碗ノ能出來タルヲ不レ知バ、撿技ヨト申サレケル、仍テ名トナル、本形薩摩屋素白ニ有リ、當時井筒屋十右衞門ニアリ、十一ニ作レ重、
其七 長次郎作赤茶碗、銘臨濟、大サ三寸九分、高サ二寸六分、高臺一寸六分、
此茶碗五ツニ燒破レ有ヲ、臨濟モ五山ニフカレタルニヨリテ名付、本形織田監物殿ニ有之、昔利休所持、
長次郎作 黑茶碗 銘小黑〈宗旦好、大黑ニ對シテ名ヅク、〉
宗鎭茶誌ニハ、七種名物ノ内、鉢開ヲ除キ此茶碗ヲ入ル、
p.0694 總別茶碗之事、唐茶碗ハ捨リタル也、當世ハ高麗茶碗、今磽茶碗以下迄也、比サへ能候 ヘバ、數奇道具ニ候也、拙子〈○林宗二〉悉拜見申候、
p.0695 茶盌 湖
勢多掃部所持名物也、古キ高麗の皿の如くなりと云へり、休公〈○千利休〉湖と名を付らる、茶杓を削て勢多と名附られしと也、指渡疊十疊目、茶杓十四目半程有しと也、〈○中略〉其後平目なる茶盌を湖なりとて用ゆ、
p.0695 鹽桶筒茶碗之事
一鹽桶と云は、茶碗口をしめ付て丸メ、鹽籠に似たる物也、筒茶碗と云は、たけ高くして筒高く、樂燒もあり、染付の内はげ茶碗有、子細は内はげねば茶をすましあしきなり、
p.0695 臺天目
一天目ニ四段有リ、三段ハ漢也、外ハ和ナリ、ムラカキ、スナガシ、サルホ何モ漢也、和ハシノ天目卜云也、
一建盞ト云天目一通有テ、餘ハケンサントハ云ザル樣ニ、世上ニ誤テ云傳也、建盞ト云ハ、天目ノ總名也、
一天目ノ能比ト云ハ、口ノ廣サ四寸ヨリ四寸一二分迄ヲ吉トスル也、筒ノハヅタルハ惡キ也、
p.0695 茶盌之事
茶盞其品彙多シ、唐茶盌、高麗、瀨戸、伊勢、内燒、イラホ等ヲ專ラ用ユ、尤形恰合ニ因テ好惡アリ、又形ニ付テ名トスルモアリ、南京染付、靑磁、ゴスデ、瓘乳ノ手、高麗ノ堅手ハ曾テ不レ用、薄茶碗、滋茶盌ノ差別ヲ末流ニ云リ、大ニ不レ用、平メナルヲ夏用ヒ、窄リタルヲ冬用ル事大法也、然共茶盛ニ取合アルガ故ニ、時節ニモ不レ可レ抅、體ヲ重ンジ、用ヲ其次トスル事肝要ナリ、釜ハ體ニシテ水壺ハ用、茶盛ハ體ニシテ茶盌ハ用、茶盌ハ體ニシテ水滴ハ用、又釜ハ體、烏府ハ用タリ、總ジテ茶碗ヲ能可レ湯、允 榮ガ點茶三要曰、凡點レ茶先須二熁レ盞令一レ熱、則茶面聚レ乳、冷則茶色不レ浮ト也、
p.0696 神の代よりもすぎのずんぎりと有、是は茶の寸切にて、今俗に靑切といふがごとし、靑切は、筒茶椀の口に靑き筋ある所をいふ也、
p.0696 天文七年三月十一日乙酉、野州井修理茶之湯アリ、朝食、三百五十貫茶碗見レ之了、
p.0696 北畠入道逆心幷安土城御普請事
二月〈○天正四年〉廿三日、安土山ニ到テ御坐ヲ移サル、當城普請ノ次第御、意ニカナヒ、御褒美トシテ周光茶碗惟住長秀是ヲ拜領ス、誠ニ以テ忝キ次第ナリ、
p.0696 明曆のみかど、〈後西院〉茶の湯の數寄せさせ給ひけるに、井戸といふ茶碗をえさせ給ひて、二なくひめさせ給ふ、ある時は、うへの人びとに御茶をたまはせけるに、勸修寺の入道大納言〈經廣、法名紹光、貞享五年薨、〉參られける時、此井戸にて御茶給ひけるに、入道井戸の茶碗と申すものこそ名には承りていまだ見ず候へ、給はりて互々見侍らばやと奏せられければ給はりけり、入道茶わんを持ちて、かうらんにのぞきつゝ見給ふほどに、とり落して御前栽のよしある岩のかどにあたりてくだけにけり、帝いみじうをしませ給ふ御氣色なれば、うちかしこまりて、まことはあやまちてとり落し候ひつれど、よくこそつかふまつりて候へ、井戸の茶碗は古きものにて、其かみいくらの人の手にふれけんもしらねば、けがらはしきえせ物にてぞ侍る、おほやけの御調度となさせ給ふべきものにも候はねば、くだけうせぬるこそ、まことにめでたく候へとて、まかり出でられけり、帝も然ることゝや思しめしけん、御氣色なほらせ給ひけり、
p.0696 元祖 長次郎 又作レ朝 古利休使下朝鮮人之雄二于陶道一者制中茶器上、長次郎傅二其法一、故取二朝鮮之朝字一、號二朝次郎一、寬永二乙丑歳歲九月終、
二代 吉左衞門 薙髮宗昧ト云、寬永十二乙亥歲五月終、 三代 吉兵衞 薙髮道入ト云、又ノンコウト云、吉左衞門弟トモ云、道樂トモ云、攝泉堺ニ移住シテ陶器ヲ造ル、左樂ノ印アリ、是ハ別家ナリト、明曆二丙申二月終、
四代 吉左衞門 同一入ト云、元祿九丙子正月終、
五代 吉左衞門 同宗入ト云、一入養子ナリ、
六代 吉左衞門 同左入ト云、宗入養子ナリ、
七代 吉左衞門
又京都ニ陶師彌兵衞ト云者、樂四代目一入ガ嗣子ナリ、別家シテ一元ト云、彌兵衞家ノ祖トス、
又山城玉水ニ陶師甚兵衞者アリ、一元弟子ナリ、伊縫甚兵衞ト云、 甚兵衞閑齋ト云 宗助甚兵衞實子ナリ
p.0697 樂燒茶碗師
油小路一條下ル町 樂吉左衞門 知恩院町 樂彌兵衞
p.0697 袋入茶盌
秘藏の物は袋入にして用、天目の外、常の茶盌を袋入にする事は、珠光所持名物茶盌天目同前に、臺子弓臺勿論袋棚等に被レ用、此遺風を以て、常の茶盌にても袋入たる事なり、凡のもの袋入無用たるべし、
p.0697 古代は名物の茶わんならでは、袋に紫の緖つくる事は遠慮せしとなん、
p.0697 一予が家に五器手の至極古き茶碗を所持候、袋は錦にて候、此由緖は、朝鮮王の御物、殊に秘藏の由、高麗陣以後、福島左衞門大夫正則の手に渡り申候、其後故有て予致二所持一候、殊外古代の燒物故、藥ほつ〳〵と起申候所有レ之候、他所に預置申候、
p.0697 漆雕秘閣 十二先生之一〈俗云天目〓也、形見二茶具圖贊一、〉 茶具圖贊曰、危而不レ持、顚而不レ扶、則吾斯之未レ能レ信、以下其弭二執レ熱之患一、無中坳堂之覆上、宜下輔以二寶文一而親中近君子上焉、曰貴重之器、由レ之可レ見、茶道之禮、以レ之可レ知、今本邦臺天目之臺原レ之、居家必備曰、以二玉〓一爲レ之、近以二玉碾螭文臥蚕梅花等樣一、長六七寸者、以二紫檀一彫レ花、或有下以レ竹雕二花巧人物一者上倭人造二黑漆秘閣一如二圭元一、首方下濶二寸、金泥花樣爲レ文、其輕如レ紙、爲二秘閣上品一、又以二貝螺一爲レ之、形狀亦雅、有二古玉物一如二大錢一傍有二三耳一可レ貫、不レ知二何物一、爲二貝光深沈、其雅殊甚一、有下以二紅瑪瑙一製上、凡水晶玉石、皆可二傚爲一レ之、按使三秘閣位二茶盞一、語二其初一則始建中、蜀相崔寧之女、以二茶盃無一レ襯病二其熨一レ指、取二楪子一承レ之、旣啜盃傾、乃以レ蠟環二楪子中央一、其盃遂定、卽命レ匠以二漆環一代レ蠟進二蜀相一、秘閣納敬皆原レ之、後世盞閣、或大小精粗、悉赤黑漆塗レ之、或有二海貝之製一、或有二雕レ之鑠レ之者一、其尺度低昂、漆工之所レ造、中世宗易定二竪横之式一、備二于茶家圖書一、〈本國所レ尚之臺七品、各爲二名物一、皆漢土器也、其悉見レ下、〉
p.0698 名物天目臺 七品〈今呼二輪花名一、或四花、或五花、皆於二本國一名レ之也、〉
一若狹臺 長樣元首、内朱外靑漆、 一印臺 識二印業字一〈以二八分字一書レ之、故形如二蜈蚣一、俗謂二蜈蚣臺一者誤矣、〉 一朱臺
内外全紅朱〈執二印臺制一造レ之、然不レ如二印臺一、〉 一殷紅臺 内外同レ色、無二地紋一、右三品之次者也、 一花紋臺 其地黑、紅朱紋、 一海貝臺 俗云靑貝也、以レ貝爲二花葉或紋一、其品精美者也、 一樺櫚臺〈或作二花梨字一〉其制質也、以二熟銅一爲二覆輸一、
右七品最爲二名物一、凡其濶五寸二分、高不レ過二二寸一、
一黑臺 俗云數臺是也、一名謂二尼崎臺一、其數多、故云二數臺一、所レ謂黑臺者爲二七品外一也、或曰以二海貝臺一爲レ外、以二黑臺一爲レ充二七品數一者蓋誤矣、其覆輪皆眞鍮、也、其中五品失二於本能寺亂一云、
交龍臺 堆朱制
或人曰、和州南都至レ今藏レ之、其濶五寸五分、高二寸五分、内外雕二蛟龍一比二之七品一、高濶過二於三五分一、故爲二七品外一、
p.0699 茶甌〈茶托 茶帚〉
茶甌色黃、〈無二白地一者〉描二靑綠花草一、云レ出二土噶喇一、其質少麤無レ花、但作二氷紋一者出二大島一、
甌上造二一小木蓋一、朱黑漆レ之、下作二空心托子一、製作頗工、
p.0699 出雲殿、〈○金森〉手階町にて天目の朱の臺を買給ひての給へるは、臺の黑ぬりは唐物見分がたき物なれば、朱臺夫にてよきぞとなり、尤なることなり、
p.0699 享保十二年三月廿九日、參候、兼テ御ウワサ〈○近衞家煕〉アリシ、眞ノ臺幷ニ天目ヲ拜見スベキ由ニテ拜見ス、是ハ文昭院殿〈○德川家宣〉ヨリ、禪閤樣〈○近衛基煕〉ノ御歸洛ノ節、准后樣〈○近衞家煕〉へ進ゼラレシ物也トゾ、マガフベキナキハ勿論ノコト、日本ニテ數アルモノナレバ、能々見覺ユベシ、天目ハ乾山ニテ黑キニ、コウダイハ、ハゲテ細キモノニスキナシ、如何樣ニモ、臺ニノセザレバ危キヤウニ見ル由申シ上グ、臺ハ菊ノ花形ニテ、内ハ朱ニ金ノフクリンアリ、外ハ靑漆ノ由ナレドモ、内ノ朱モクロミガチニ、外ノ靑漆モ、ネズミ色ノヤウニテ、張貫ノ菊形也、〈ナドガ感心ニテ、此ウルシイロガ、ワカサ盆ノ色ナリト申上ル由ナリ、〉天目ノ袋ハ錦也、臺ノ袋ハドンス也、裏ハ共ニカイキ也、ヒボハ天目ノ方紫、臺ノ方茶也、〈天目ハ、内箱ハクロガキ、外ハ桐、臺ハ内箱ハ唐桑、外箱桐、〉
p.0699 ちや〈○中略〉 茶壺、今眞壺と稱す、花靑香、又蓮花王の茶壺あり、
p.0699 茶甌〈以二漏斗一入二茗芽一之器也、今俗云葉茶壺是也、○中略〉
按、茶集藏レ茗之器也、其形有二大小異同一、一曰茗罍者呂宋國之製也、崎陽人云、昔或以レ藤或以レ茘爲網提レ之、
本國自二珠光一以降、以二紅紫網一提レ之、其製六出員眼也、寓奇曰、壺受レ紙之處、在二崎嶇凹凸之場一、勢必剪二碎紙條一、作二蓑衣樣式一、能貼服、以使二内外不一レ通レ風也、故錫瓶之蓋、止宜レ厚不レ宜レ雙矣、〈○中略〉
本國由レ古及レ今所レ尚葉茶壺、凡二十二品、其中三日月與二松嶋一、亡二於本能寺之亂一、又八重櫻一品失二於江 州坂本之亂一、藏服容色所二傳來一書載レ之、此外百レ古所レ稱名壺失レ之者多、右三品者爲二重寶一、故人能知レ之、
本國呼二此器一云二眞壺一、能養レ茶存レ香、或容二三斤四斤五斤一者好尚レ之、其事世人皆知レ之、
官庫或四方侯家、傳二眞壺一美二稱之一者亦多、適於二人間一稱二其名一耳、不レ能二盡見一、
p.0700 壺之事
一眞壺 西湖南京の近所也、西湖は日本ノ湖水如クシテ、ミナ淺き湖水、此所より出る、 ルスン丁口物也、 丹波燒をも用 橋立の壺名物也、是は外ゟ利休所望致し、其時休の茶道正根と云者を使とシテ取に遣ス歌、正根を請取にこそ參らする渡し給へや橋立の壺、と詠取に遣し候由、樂阿彌之壺名物也、利休所持、少庵宗音ヲ以所望ス、利休遣ス事難レ成、代口に替可レ申と云、何程ト承候得者、金五枚ノ由、此時少庵金子不レ調、漸四枚有レ之、是にて先渡し給へと云、休遣し不レ申、一兩年過候而金五枚調、利休ゟ少庵〈江〉此時休ゟ請取書アリ、樂阿彌壺替として金五枚、〓に請取申候、取次宗音使かつしきと有り、其時右金子はかつしき〈江〉被レ遣候由、かつしきは宗旦の事也、
p.0700 眞壺之部
呂宋 むかしは是非眞壺へ茶を貯へしなり、夫ゆへに壺なき者は口切の茶の湯をなさゞ、りしとなり、尤呂宋を上品とす、豐太閤の時代、眞壺をもてはやしたるゆへ、世間に少く不足なるに依て、左海の納屋助左衞門、太閤の命をうけて呂宋へわたり、壺五十をとり來る、利休是が品を定め、諸侯へわかちしなり、
蓮花王 呂宋の上品、かたに蓮花の上に王の文字あり、
淸香 是も呂宋の上品なり、淸香の文字あり、
瀨戸 信樂 千家にては、此三品〈呂宋、瀨戸、信樂、〉を用ゆ、
p.0700 大壺之次第 一三日月 〈此御壺御茶七斤ノ上入也〉
此御壺天下無雙之名物也、大ナルコブ七アリ、前ニ腰袋ヲ付タル樣ナル横へ長キコブアリ、前へ少傾テ面白キト云事ニタ、三ケ月ト付ルナリ、下フクラニテ一段ノ珍キ壺也、昔興福寺西福寺所持也、其後日向屋道德所持、其後京袋屋所持、其後三好實休所持、其時一亂、河内高屋ノ城ニテ六ニ破申、其後堺宗易ニテツギ立、三好老衆三千貫太子屋ニ質ニ置候、太子屋ヨリ信長公へ上申候、砧候テ後モ名物ノ威光猶益シ、御茶モ能候、代ハ五千貫トモ一万貫トモ積モナキ事也、御壺ノ樣子口傳ニ申渡候、但總見院殿〈○織田信長〉御代ニ火ニ入失申、
一松島
此御壺コブ卅ノ上有也、此土藥眞壺ノ手本也、三ケ月モ天下無雙ノ土築ナレドモ此松島トハ替也、古人モ兩壺ノ内スキ〴〵云傳也、ナリハ三ケ月ガ珍キカ、此壺松島ト名ヲ付ル事、奧州ノ名所松島ニ島數多シ、面白キ所也、此壺ハコブ多キニ依テ松島ト付ル也、昔三ケ月モ松島モ東山殿〈○足利義政〉御物也、其後御物等何モ打亂、中比此壺三好宗三所持、子息、右衞門大夫紹鷗へ賣被レ申候、其後宗久所持、其後信長公へ上リ申、總見院殿御代ニ火ニ入失申候、御茶七斤上入也、
一四十石御壺 關白樣〈○豐臣秀吉〉ニ有
此御壺、昔眞壺百疋二百疋ノ時、千本ノ道悦米四十石取ノ田地ニカへテ、茶湯ヲ仕候、東山殿御感有テ、御物ニ被二召置一、四十石ト異名ヲ被レ付ナリ、御物亂テ後、奈良蜂屋紹佐所持候、其ノ後堺宗訥所持候、其後又關自樣へ上候、松島、三ケ月ノ後ハ天下一ノ壺也、御茶七斤半入候、土藥ニモ望ナシ、御茶ノ味ハ三ケ月ト等キ也、
一松花 關白樣ニ有
此壺黃淸香也、右カツテニテ此壺見事ニ見エル、土黑色也、土ニコブ二アリ、下藥白ク赤シ、昔珠光 所持、其後金田屋宗宅所持、其後道陳所持、其後信長公へ上リ、一亂ニ堀久太郎取、關白樣へ上候、淸香ノ内ヨリ、天下ニ松島松花三ケ月ト三ツ名物ニ加ル事、淸香ニテ猶名譽也、御茶ノ閑味、名人衆モ驚入、舊説御茶七斤入、
p.0702 茶之湯
慈照院殿〈○足利義政〉愛に思召るゝ壺あり、名をなにとかなづけんと御工夫ある、ころは寬正貳年八月廿日、たれかある、今日は廿日かとお尋あれば、女房達聞もあへず、中々けふ初雁をきゝまいらせたと申上られたり、あらおもしろの返事やとて、能阿彌にむかはせたまひ、
誰もきけ名づくる壺の口びらきけふはつかりの聲によそへて
とおほせあれば、能阿彌とりあへず、
初雁を聞へあげゝることのはをいやめづらしき雲のうへまで
此由來により、初雁といふ壺ありとなん、
p.0702 伊達別所飛驒國司等參二味方一事附御茶湯事
大坂ノ城中ヨリ、平井、矢木、金井ト云フ三人ノ者出京イタシ、御目見へ仕リ、〈○中略〉三好笑岩モ、天下ニ隱レナキ三日月ト云フ葉茶壺ヲ指上ケリ、
p.0702 松永久秀父子御退治事
同〈○天正五年十月〉十日ノ夜、城中内通ノ者寄手ト示シ合セ、散々ニ成果、終ニ松永本丸ノ殿守ニ取籠ル、城兵死亡ノ者勝テ計フベカラズ、城介殿〈○織田信忠〉御使ヲ立ラレ、乍二此上一降參ニ於テハ助命有ベキノ由ナリ、松永久秀御請ニ及バズ、譬骨トナルトイヘドモ降參セジト云云、久秀平生所レ翫葉茶壺平蜘蛛ト云フ名物ヲ打碎ク、是ハ大臣家〈○織田信長〉常々乞求メラルヽ所ナリ、
p.0702 高野聖被レ誅事附伊州退治事 河合ノ田坐ト云者、名物ノ山櫻ノ眞壺、同キンカウノ壺進上イタシ、降參セシメ候處、キンカウ返シ遣ハサレ、山櫻ノ壺殘シ置カレ、瀧川左近ニ下置カレ候、
p.0703 呂尊より渡る壺之事
泉州堺津菜屋助右衞門といひし町人、小琉球呂尊へ去年の夏相渡、〈文祿甲午○三年〉七月廿日歸朝せしが、其比堺の代官は石田木工助にて有しゆへ、奏者として、唐の傘、蠟燭千挺、生たる麝香二疋上奉ら御禮申上、則眞壺五十御目にかけしかば、事外御機嫌にて、西丸の廣間にならべつゝ、千宗易などにも御相談ありて、上中下段々に代を付させられ、札を押し、所望の面々、たれ〳〵によらず執候へと仰出さるゝなりこれによつて望の人々西丸に祗候いたし、代付にまかせ、五六日之内にこと〴〵く取候て、三ツのこりしを取て歸り侍らんと、代官の木工助に粢屋申ければ、秀吉公其旨聞召、其代をつかはし取て置候へと仰られしかば、金子請取奉りぬ、助右衞門五六日の内に德人と成にけり、
p.0703 茶入(チヤイレ) 棗(ナツメ)〈其制象二棗實一、故云爾、〉
p.0703 ちや〈○中略〉 茶入は磁合也、注春ともいふ、名物を玉堂とす、利休が圓座肩衝あり、織部の唐肩衝あり、又日野肩衝あり、
p.0703 碾茶壺(ちやいれ) 俗云茶入
按、茶入高二三寸、大者四五寸、小坩可三以盛二碾茶一、形狀名目數品難二勝計一、所レ謂文林、肩衝、小茄子、尻膨(フクラ)、丸壺、文茄、〈爲二唐物之名物一〉古瀨戸、春慶、飛鳥川、靑江、禾目手(ノギメテ)等、〈爲二本朝之名物一〉
p.0703 茶入之部
唐物 往古は唐物のみを用ゆ、其内茄子を上品とす、肩衝(カタツキ)、文林、是に次ぐ、此三品を盆點に用ゆ、其後品少く成し故、丸肩衝まで用ゆ、 肩衝(カタツキ) 名物記出たるは三十餘もあり、南部松屋肩衝は〈傳來書別に有〉世に名高し、拜見も難からざれば、かならず見るべきことなり、其外高貴の方々に藏め玉ふ品は拜見する事難し、
茄子 むかしより賞翫格別なり ツクモ 似 松本 圓坐 出雲 小茄子 富士 紹珍
北野 國司 是等茄子の名物なり、尻張と茄子と形混じ易し、肩の九きは茄子、肩のつきたるは尻張なり、
文林 博多 桃 玉垣 鳥井 笘屋 葉室 本能寺 丸屋 是等文林の名物なり
名物唐物の茶入數多くありといへども、大方は右の三品なり、
文茄 名物記に、小出伊勢守殿御所持ブンナとあり、
丸壺 利休 金森 立花 寺澤
尻張 大尻張 利休尻張
大海 内海 鶴首 柿 達摩 紺羅 物相〈利休所持也〉
木葉猿 利休百會に用ひられし茶入なり、〈高サ一寸八分、胴二寸、口八分四厘、底一寸、〉 右木葉猿は、箱の裏に木葉猿の蒔繪有、仙臺侯御所藏なり、
廣口 飯銅 瓶子 樽 耳付 累坐 瓢覃 上杉〈紀州御物〉 角木 驢蹄 常陸帶 鮟鱇 胴高油滴 水滴 手瓶 弦付
東呉〈地名なり〉 西呉〈同〉 呂宋 島物〈地名の分りがたきをいふなり〉
同和物之部
古瀨戸 藤四郎入唐前を古瀨戸といふ、口兀(ハゲ)、厚手、堀出し手、此三品に限る、皆瓶子なり、〈○中略〉
小瀨戸 是は大窑(カマ)の手、小窑の手と云事なり、
藤四郎入唐後を唐物といふ説あれども甚疑はし、 春慶 春慶は、藤四郎入道しての名なり、〈○中略〉
眞中古 二代目藤四郎〈丸糸切 本糸切○中略〉
金花山 三代目藤四郎、中古物と云、〈丸糸切 本糸切○中略〉
破風(ハフ)窰 四代目藤四郎、〈本糸切 丸糸切〉藥溜り破風(ハフ)に成る、〈○中略〉
後窑〈丸糸切 本糸切〉四代目藤四郎より後を後窑といふ〈○中略〉
同塗物の茶器
眞中次 利休形、サシ渡し二寸二分、高サ二寸二分、小は一寸八分、藤重作を上作とす、藤重作は竹の木地なり、外は皆檜木地なり、
棗 紹鷗形〈大中小〉 當時は紹鷗形を寫す〈○中略〉
盛阿彌〈大〉 此作に至て大なる棗あり、夫を盛阿彌形と云、
利休形〈大中小〉 當時寫し來る形なり
菊の蒔繪〈大中〉 桐の蒔繪〈大中〉 菊十六葉の内に桔梗あり、菊の大と桐の中とは利休居士、正親町帝へ進獻の形なり、菊の中と桐の大とは、江岑の補といひ傳ふれども不分明なり、通じて利休形といふ、
目張柳〈芽張柳ならん〉 織部好、本哥は中也、紀州御茶道中野笑仙所持なり、
元伯好の菊〈大〉 十一葉の内 如レ此あり、東福門院へ獻上の棗なり、〈大計なり〉白山氏所持、
溜〈大中小〉 大小は櫻の木地、中は松の木地なり、内黑何れも元伯好なり、
鷲 盛阿彌の作、自然に少し形の替りたるを利休鷲と銘す、〈一ツカミといふ意か〉小棗にして尻すぼらず、山中氏所持也、此棗に似たる大棗を元伯回首といふ銘を付る、回首は鷲の異名なり、此棗浪花海部屋善二所持なりしが、大火の節燒失す、又大棗を仙叟撫子と號く、これも鷲の異名也、鷲の子を 愛するによせて名付しなり、夫ゆへ鷲に似たる回首、回首に似たる撫子といふ、此撫子は山中善作所持なり、
尻張 利休形、黑の中に限るなり、
平 大中とも利休形、大の方たえたるを、近來啐啄齋再興す、
白粉解〈中〉 利休形、三宅亡羊所持、中計なり、當時は浪花山家屋權兵衞所持なり、
一服入 利休形なり
茶合〈小〉 仙叟好、茶入にウハキ蓋あるなり、
河太郎 仙叟好、大計なり、甲にクボミ有、覺々齋好、大小有、
梅繪〈中〉 春慶内黑、甲に黑にて捻梅三ツあり、松の木地、了々齋好なり、
一閑折溜 啐啄齋好、後藤玄乘作、後に寬政年中、中川淨益、袋師友吉取立に、梅寒菊の歌を書て、數三十、一閑に造らしむ、
不識 了々齋好、一閑取立に數二十五製す、外溜、内黑、甲に墨にて不識とあり、クリ上に判有、
金輪寺〈蔦大中〉 木地蔦、外溜、内黑、大は濃茶器、中は啐啄齋薄茶器に用ゆ、元來は吉野山にて、後醍醐帝一字金輪の法を修せられしとき、僧衆へ茶を給ふ、其とき山にある蔦を以て茶器を作る、故に金輪寺茶器と云、修法所を金輪寺といひしとぞ、今の藏王堂の側の實城寺是なり、〈乾に當る也〉三代宗哲の寫しは、京寺町大雲院の摸形なるよし、大雲院は織田信忠公の菩提所なり、此茶器信長公傳來七種の一ツなり、底に廿一之内とあり、朱の盆添ふ、
同松の木 原叟好、老松の茶器と同製數五ツ、外溜、内黑、後に如心齋金輪寺と、一閑作の割蓋棗の大とを數五十製して、覺々齋好の内と有、
伺一閑作〈中〉 元伯好、内外黑、本哥は浪花海部屋に所持なり、如心齋金サラサの袋を好む、 老松割蓋 妙喜庵の老松を以て、原叟數五十を造る、箱の蓋の裏に、茶器の記あり、祇南海の作と云、記に曰、
山崎妙喜禪庵茶亭之傍有二老松一、枯成二榾柮一、㨵レ之以作二茶湯珍器一、聊傳二遣愛於千歲一而已、覺々判あり、
木地左近の作〈○中略〉
同薄茶器
茶桶 大小とも黑は利休形、溜は元伯好、同挽溜〈大一對〉 利休形、千家所持は元伯書付、極詰と表にあり、蓋裏に判有、如心齋寫し、數五十、宗哲箱二ツ入、
雪吹(フヾキ) 大小とも黑は利休形、溜は元伯好、金のヒナタにて菊桐を甲に書たるは、大小とも原叟好、跡先分チ難き故雪吹といふとそ、菊桐大小箱入、浪花紣善所持なり、
面中次 黑は利休形、溜は元伯好、何れも中計なり、タメ中次に元伯詩を書たるを則詩中次と、原叟寫しあり、如心齋又數五十を製す、
藥器 利休形なり、仙叟好は蓋河太郎兩樣とも黑也、
頭切 如心齋好、黑松の木地、スリ漆、黑にて桐を書たるは了々齋好なり、
南瓜(アコダ) 山中宗有遺愛の櫻の木を以て、其子宗智、天然に茶器の好を賴みしに、如心齋夢中にアコダ瓜の形を得て此器を好む、細工成就せざる内に天然は卒す、故に天然の書付はなし、身は内黑、外溜、蓋は木地なり、
蔦 元伯好、内黑、甲スリ漆、其餘は木地、本哥は三井所持、
一閑張竹 折ダメ 如心齋好、竹は蓋の見返しに判あり、折ダメは底に判あり、竹をホウシといひ、折ダメをカツラと云、今にては竹の茶器、折ダメの茶器といふ、
p.0708 凡例
凡名物と稱するは、慈照相公〈○足利義政〉茶道翫器にすかせ給ひ、東山の別業に茶會をまうけ、古今の名畫妙墨珍器寶壺の類を聚め給ひ、なを當時の數奇者、能阿彌相阿彌に仰せありて、彼此にもとめさせられ、各其器の名と價とを定めしめ給ふ、次で信長秀吉の二公も亦此道に好せ給ひ、利休宗及等に仰せて名を命じ、價をも定めしめらる、後世是等の器を稱して名物といふ、其後小堀遠州公古器を愛し給ひ、藤四郎以下、後輻國燒等のうちにも、古瀨戸唐物にもまされる出來あれども、世に用ひられざるを惜み給ひ、それがなかにも、すぐれたるを撰み、夫々に名を銘ぜられたるより、世にもてはやす事とはなれり、今是を中興名物と稱す、それよりしてのち、古代の名物をば大名物と唱る也、〈○中略〉
小壺を燒ことは、元祖藤四郎をもつて鼻祖とす、藤四郎本名加藤四郎左衞門といふ、藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし、後堀河帝貞應二年、永平寺の開山道元禪師に隨て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を傳得て、安貞元年八月歸朝す、唐土の土と藥とを携歸りて、初て尾州瓶子窑にて燒たるを唐物と稱す、倭土和藥にてやきたるを古瀨戸といふ、古瀨戸は總名なり、大形に出來たるを大瀨戸と云なり、此手小瀨戸に異なり、小瀨戸といふは小形に出來たるをいふ、此手大瀨戸に異なり、入唐以前やきたるを、口兀、厚手、堀出し手といふ、大名物は古瀨戸唐物なり、誠に唐土より渡たるものをば漢といふ、是は重寶せぬものなり、唐物と混すべからず、堀出し手といふは、出來惡敷とて、一窑土中に埋みたりしを後に掘出したりとなり、一説には遠州公時代に掘出したるともいふ、總て入唐以前の作は、出來田夫にて下作に見ゆるなり、古瀨戸煎餅手といふあう、これは何れの窑よりもいづる、窑のうちにて火氣つよくあたり、上藥かせ、地土ふくれ出來たるものなり、後唐の土すくなく成たるによりて、和の土を合てやきたるを春慶といふ、春慶は 藤四郎が法名なり、二代目の藤四郎作を眞中古物といふ、藤四郎作と唱るは二代めをさす也、元祖を古瀨戸と稱し、二代目を藤四郎と稱するは、同名二人つゞきたる故、混ぜざるために唱分たるなり、藤四郎春慶も二代めなり、三代め藤次郎、是を中古物といふ、金華山窑の作者なり、四代め藤三郎、是をも中古物といふ、破風窰の作者なり、黃藥といふも破風窑より出たるものなり正信春慶といふものあり、正信は荷人なる事を詳にせず、又後時代春慶と稱するは、堺春慶、吉野春慶なり後窑と稱するは、坊主手、宗伯、正意、山道、茶白屋、源十郎、姉、利休、鳴見、織部、捻貫、八ツ橋、伊勢手、萬右衞門等なり、又遠州公時代に新兵衞、江存、茂右衞門、吉兵衞等あり、其外國燒と唱るものは、薩摩、高取、肥後、丹波、膳所、唐津、備前、伊賀、信樂、御室なり、祖母懷は美濃の國燒なり、大窑物といふは瀨戸なれども、至て後のものにて、漸百年餘りになるもの也、右後窑以下國燒にも遠州名物數多し、〈○中略〉
于時天明丁未〈○七年〉之孟春
p.0709 茶盛之事
茶盛ハ其形ニ因テ勝劣アリ、肩衝ヲ一番トシ、文林二番、丸壺三番、尻豐四番、茄子五番、棗肩衝六番、鶴首七番、角木八番、矢頭九番、飯銅十番ナリ、
右ノ形ノ外ハ、縱古キ物、又ハ唐物タリト云共難レ用レ之、芋子ノ類强チニ不レ用、右ノ内タリト云共、猶又恰合ニ因テ善惡有ベシ、先第一ニ鈍遲ヲ嫌フ、新物ノ内ニモ用ラルヽ道具有ベシ、心得肝要也、一蓋之事、面白玉堂ト云アリ、是ハ肩衝ニ用、大茶盛ニ面白、小茶盛ニ玉堂ヲ用、落込蓋ト云有、二三六七八九番ノ六ツニ用レ之、瓶子ヅクト云ハ、四五番ニ用、勢ノ長大ナルニハ榮螺蓋ヲ用、同矮少ナルニ瓶子ヅクヲ用ユ、飯銅ニハ象牙ノ平蓋、中ヲ銀ノ金物ニテ鉸具ニスル也、蓋ノ取ヤウニ傳アリ、棗肩衝ニ面白ヲ用ル事有、尤恰合ニ因テ也、 一棗之事、大中小、一服入、此四ツアリ、寸法ノ取ヤウ有テ本圖ヲ知、奈良茶桶ト云アリ、町棗ト云有、正親町上皇へ擎ゲタルニハ、蓋ノ上ニ金粉ヲ以テ陰ノ菊ト桐ヲ蒔繪ニス、右此分ヲ袋ニ入ル、袋ニ入分ハ、必ズ蓋ヲ茶盌ニ並べ置也、
一茶桶之事、面茶桶、雪吹、中繼、大小極ノ挽溜、詰ノ碾溜、藥器二ツ、此分ヲ茶桶ト云テ用ユ、此内菊花ノ藥器ト云アリ、是ハ取上ル時押傾ケ、底へ指ヲ入テ執ナリ、櫻花モ如レ此、是外ニ茶桶多シト云共不レ角、各薄茶ヲ盛テ小座敷へ用ユ、尤袋ナシ、挽溜ハ勝手ノ具也、總ジテ茶桶ノ類ハ、蓋ヲ人ト盌トノ間ニ可レ置、各形寸式アリ、如レ此シラ其類多キ事、茶碗ノ恰合ニ因テ用ユルガ爲也、盌ノ緣ソリタラバ、蓋ニ面有ヲ可レ用、上下直ナル椀ニ帥、上下ニ面アルヲ用ベシ、上下窄リタル盌ニハ、上下直ナル茶桶、上窄リナル盌ニハ、上ノ豐ラミタル藥器ヲ用也、
p.0710 或書の中に〈題號不レ見〉
一茶具にづんぎりといふは、頭切の文字也、棗のかしらをきりたるやうの形なれば頭切と書か、
p.0710 内海の茶入は、むかしは臺子にはかざれども、小座敷へ出す例はなかりし、名物の茄子の肩衝には、必ず内海を挽溜の用に一ツづゝ添置しを、休師〈○干利休〉了簡にて、やき物と燒物がさはればあやふしとて、塗物の面取を内海にかへ用ひられし、是を今の世に雪風といふとなん、
左海藥師院に湯桶の茶入とて名物あり、後は赤井何がしの手へ入し、嶋ものにて、口の上に提るやうにとりてあり、手桶の蓋のごとくに合せ目を切違へて、つくもなく、二枚の割ぶたなりしとぞ、
p.0710 一宗易が盛阿彌に、棗は漆の滓をまぜてざつとぬれ、中次は念を入れて眞にぬれといひし、紀三與三が棗は、塗みごとすぎておもくれたり、秀次藤重をよしとす、
附、先年千宗佐物語ニ、昔ヨリ中次ハ疵アルヲ嫌フ、棗ハ厭ズトイハレシモ此意ニ合フ、 一或時今日庵主古宗佐へ物語に、宗易は尻張の茶入を嗜て二つ迄所持す、一つは三齋へまいらせ、一つは予〈○藤村庸軒〉が家に傳たるを、若き時煩て厨乏かりければ、姪の九兵衞に、其茶入替りにつかはし金子調させつるが、そのまゝにてえ取もどさず、先にはかゝるものともしらで、うづもれやしつらん、茶入はあめ藥の一色なるものなりといはれし、
p.0711 松永茄子茶入記文事
其比天下名物ノ作物茄子ノ茶入、大臣家〈○織田信長〉御所持也、此茶入ノ記ハ、洛陽相國寺惟高和尚述作ト云云、此記文今年和州信貴城ニ於テ燒失セシメ畢、依レ之此事又惟高和尚へ御蕁有レ之處ニ、和尚先年松永方へ被二書渡一候記文ノ寫、於レ今所持セラレ候間、則之ヲ被二差上一候、大臣家御感悦也、其記文ニ曰、
古諺云、夫物以二遠至一爲レ珍、事以二稀見一爲レ貴矣、茲有二珍奇寶物一、其體質也、具二軒后〈軒轅皇帝〉之德色一、其狀貌也、類二垻裏之彭亨一焉、相傳曰、往昔中華〈京師〉造二蓬莱假山一、〈盆山〉山頂安二置小寶壺一、號二如意寶珠一、遠贈二我扶桑國一、以レ不レ詳二年代一爲二遺憾一矣、載有二黃考日碑一云、如意珠有レ梵曰二摩尼一、其祥瑞美德、不レ可二勝計一馬、日本第一、天下無雙之尤物、爲二席上可レ居奇貨一也、小有二匹偶一、此者是名二小茄一、較レ之則霄壤胡越而已、可二同レ日言一也耶、中間於二此賣壺一、以レ有三百闕二一數之事一、而本二古歌之意一、以名二作物一易レ名、無二異論一者乎、四肘弓量、以レ齊二椇樹一、倭朝俗呼曰二御多羅枝一之流亞也、遞代大樹十襲秘寵焉、碌々賤輩、介爾不レ得二偷眼一也、自二異域一跨二歷萬里一而至、寔以レ遠而珍、以レ稀而貴者、夫是之謂歟、鹿苑相公、〈○足利義滿〉向二内野戰場一之時、金甲裏繫レ之隨レ身、其御愛保重可レ知焉、近來慈照相公〈○足利義政〉以レ之忝賜二山名禮部一、〈○政豐〉其以二男色寵幸一故也、自レ後二華夷攘搶一、此寶沈淪落二賈鬻手一、淹二委塵土一、世所二蹙レ頞慨喟一也、先レ是天文丙申、台宗講徒、法中鬪諍、鉾楯起レ亂、〈俗謂二之法華亂一〉京城寶玉、燬焚分散、寶壺亦隱埋、殆爲レ可レ惜矣、有二好事者一、千方百計、東討西討、不レ知二所在一、技盡二于此一、粤藤原朝臣松永彈正少弼久秀握二國家政柄一、權威畏服、繇レ是永祿戊午之春、偶有下賚二持寶壺一至 者上、副以二七寶臺〈七臺内也〉玻瓈盞一、〈天目〉可レ謂摩尼、〈謂二之寶長一〉在處衆寶悉集焉、且又妙典説云、無上寶聚、不レ求自得、金言可レ徵矣、集以大成、異哉慶幸之甚、蔑二以加一焉、可レ嘉可レ尚矣、竊按二漢史一、順帝朝、孟嘗伯周任二合浦守宰一、熔レ人道德淸行、革二易前弊一、去珠復還、〈合浦因二前守宰食欲一也、海底寶珠散在二於他海一、或時孟嘗伯、僞二合浦官令一時、復寶珠悉還也、去來可レ見レ之、〉稱爲二神明一、千古義事、昭二昭於簡冊一矣、今也久秀德行所レ化、寶壺如意珠、一去復還、玄又玄、奇又奇、不レ意日域海隅、復覩二合浦孟伯周一焉、秦始皇帝聞三倭國有二蓬萊仙島一、遣二來徐福一求二長生藥一、徐福至二于南紀之金峯一、止子東駿之富士一、指二此等地一、以鋪二蓬萊一、蓬萊方壺皆爲二神仙一靈境一也、當世韻人佳士、靡然嗜二陸桑苧盧玉川之事業一、家家人人貯二蓄十器一陶一、睎二顔苧翁一、慕二藺川子一、川子嘗作二茶歌一、歌云、六椀通二仙靈一、七椀蓬萊在二何處一焉、茶是仙家瑞草也、公官暇日、兵衞畫戟、燕寢淸香、與二佳客一會飮賞レ味、壺中仙葩、〈茶異名也〉終日淸談、消二遣世慮一、兩腋習習、身裏七十蓬萊、三萬弱水、不レ移レ步而自至二山頂一、延壽還レ童、顔色如二桃花一者必矣、然則此一壺者、如意上上寶珠也、世間綺羅珍玩、縱使レ積二齊北斗一、以可二塵視塊看一焉、珍重至祝、松氏需三予記二一事一、予痴兀退衲、不レ肯レ措二片詞一、命二侍史穎一也、漫記レ之、
時永午夷則如意珠日萬年龜洋汳下巢葉賴安叟
p.0712 其比小紫といふ茶入、金子百枚なりしを、秀吉公より筒井順慶に所持あるべきよしにて求給ひし、此代金今の世にしては纔なれども、其比順慶御身上にて、尤出かね侍るよし取沙汰有、かくの如き世の空疎にして、此道を重んじたしなむ事思ひやるべし、
p.0712 瀧川左近將監一益が臣津田小平次は、先手の隊長をうけたまはり、武功無雙の士なり、後隱遁して幸庵と稱す、かねて老後のたのしみにとて、家に秘藏したる茶具三種あり、所レ謂中山の茶入、紀三井寺の茶碗、黑木のかけものなり、此内中山の茶入といふは、細川幽齋法印の御遺愛なりしが、故ありて幸庵の所持となれり、其比京に住て、茶事のみにてくらしける、或時細川三齋を請待せしに、三齋には日比此中山をふたゝび家にかへし度思ひ給ひしかども、幸庵拜領 の道具ゆゑ、率爾に申出しがたかりしに、此日何とぞ中山を一目見せ給れとあるじに請て出させ、さてあるじ勝手へ入し間に取て袂へ入れ、相伴の人へは、いのちなりけり佐夜の中山と傳へよとのたまひて、暇乞もなくかへり給ひけり、幸庵立出て是を聞て、年たけてまたこゆべしとはおもはねど、出しぬかれたりとて笑ひになりし、翌日きのふの茶の禮とて使者あり、時服樽肴黃金貳百枚贈られけり、幸庵が家の者ども、此黃金納め置れん事いかゞといひしに、我苦しからざる趣向ありとて、厚く謝して、卽其黃金もて、北野に一寺を建立して、祖先一家の菩提所とせられし、
p.0713 雲山といへる肩衝、堺の人所持たるが、利休など招きて、はじめて茶湯に出したれば、休一向氣にいらぬ體也、亭主客歸りて後、當世休が氣にいらぬ茶入おもしろからずとて、五德に擲ち破けるを、傍に有ける知音の人もらうて歸り、手づから繼て茶會を催し、ふたゝび休に見せたれば、是でこそ茶入見事なれとて、ことの外稱美す、よて此趣〈キ〉もとの持主方へいひやり、茶入秘藏せられよとて戻しぬ、その後件の肩衝、丹後〈ノ〉大守價千金に御求候て、むかしの繼目ところどころ合ざりけるを、繼なをし候はんやと、小堀遠州へ相談候へば、遠州此肩衝破〈レ〉候て、つぎめも合ぬにてこそ、利休もおもしろがり、名高くも聞え侍れ、かやうの物は、そのまゝにて置がよく候と申されき、
附 古織〈○古田織部正〉全き茶椀はぬるき物とて、わざと缺て用られしことあり、よからぬものずきといふ人もあれど、此茶入われて後、利休却て稱美し、遠州公もかくの給ふにて、茶道の風流、別に有ことゝ知べし、頃(コノゴロ)の茶湯人の心たけたるにや、多クは古風をしたひ物數奇も今やうの類にあらず、さるにより、破〈レ〉たる茶器、損じぬる書畫、ふりたるまゝにてめで侍ることになりぬ、
p.0713 茶入高直に成たるも近來の事也、老人〈○江村專齋〉少年の頃は、世上おしなべて名物と云 は、玉堂と云茶入と、利休が圓座肩衝と計也、これも何程と云ことなく、無類の名物の樣に云也、其後相國寺にありし、名をも相國寺と云、唐の肩衝を、古田織部黃金拾一枚に求む、是高直の初なり、程もなく加賀へ千五百貫に賣、是は織部治部と間惡き故、勘定をせつかれて、勘定の爲に賣られし也、道哲親圓淨坊取次て代金を持來りし時、老人織部方に居合せたり、黃金六十放と蓮華王の茶壺一つ持來る、壺は此方より所望の由なり、圓座肩衝は、今江戸に有しが、丁酉〈○明曆三年〉の火事に燒失すとぞ、日野肩衝は、日野唯心大文字屋にうり給ふ時、老人を呼て、此茶入黃金五十枚にうるべき約束す、少味惡き事あるほどに五十貫をとして、四十五枚になりとも美作殿などに御取あらば遣したき事なり、自分に袖に入、持往見せよとの給ふ、見せけれども代物調かねたるに因て首尾せず、遂に大文字屋が手に落つ、
p.0714 慶長五年正月十六日、神樂衆之内久右衞門、棗茶入レ持來、
p.0714 土井利勝、慶長十五年八月三日、御使をうけたまはりて、駿府にいたるのところ、東照宮御前にのされ、紹鷗圓座肩衝の茶入をたまはり、將軍家の左右につかふるうへは、諸大名と會合すべし、よりてこの茶入をたまふとなり、
p.0714 慶長十六年十二月十日、今日自攝州大坂一、織田入道有樂〈○長益〉著府、 十四日、今朝織田如庵有樂於二御數寄屋一賜二御茶一、日野唯心、山名入道禪高爲二御相伴一云々、楢柴肩衝之御茶入、朱衣肩衝御茶入、〈薄茶入〉虚堂之御掛物、古銅御花入令レ飾レ之給、大御所令レ入レ花給、有樂立二御茶一、其後於二前殿一、有樂獻二黃金三枚、呉服五重一、 十七年二月廿八日、松平陸奧守政宗、銀千兩、鮭鹽引十箇獻レ之、生駒讃岐守、銀千兩、呉服十領獻二之、於二御數奇屋一件兩人賜二御茶一、御茶入投頭巾、所レ謂投頭巾、昔年珠光始見二此肩衝一時、取二頭巾一持レ之、歎美之餘不レ覺擲二頭巾一、依レ之有二此號一、朱衣薄茶入、日野唯心被レ召二御相伴一云々、 三月廿六日、大御所〈○德川家康〉於二御數奇屋一幕下〈○德川秀忠〉御招請、日野唯心、若狹守御相伴云々、其後午刻及、又幕府 渡二御本丸一、其時大御所投頭巾、楢柴、二之肩衝御茶入共令レ出レ之給、將軍叶二御意一、眉衝可レ被レ進之由被レ仰、則投頭巾領レ之御云々、 四月十九日、今日安藤對馬守爲二御使節一自二江戸一參著、是今度御座中宰相殿〈○德川義直〉中將殿〈○德川賴宣〉少將殿〈○德川賴房〉御成長有二御覽一之而御喜悦、又投頭巾御茶入御領納、御喜悦不レ淺之由云々、
p.0715 大坂の賞に、少將殿〈○德川忠直〉〈江〉神君の賜はらせ給ひし初花と云茶入の事は、三河に念誓といふ者、神君へ此茶入を獻りて、是を楊貴妃の油壺と申傳へて、某がもとに求候と申たり、初花と云名物たる由申ズ者有しかば、かの念誓に、その賞として五百石給ふべしと有しに、某し知行の望なし、望む所は當國の酒入事を、某してとらしめ給はゞ、何事か是にしくべきと申ければ、易き事也とて御判を給はり、其後代々の君も、先判の如くたるべきの御手印を賜る事也、是を少將殿へ賜りし也、しかるに尾張にて被レ成し御年譜には、初花をば秀吉より給はるといふ事、心得られず、秀吉へ遣されしが、後に又當家へ歸りて、又少將殿へ賜りしにや、覺束なし、
p.0715 八雲肩衝記
中島宗古來談曰、頃間得二小碾茶壺一、乃世俗所レ謂小肩衝者也、是中華之古物、而故出雲守片桐氏家藏レ之、擧レ世所二偏知一也、出雲守沒、其嗣亦絶、不レ知二此物之所一レ在、某性有二茶、癖一、欲レ求レ之而往往尋焉、旣十餘年、今幸得レ入二我手一、不レ惜レ費レ價、中心喜レ之、睟二盎於面背一、以下其出レ自二出雲守家一、而陶樣騮色之際、有中似二黃雲一者上、故名曰二八雲一、其爲レ形也、其高僅二寸四分許、其圍五寸七分餘、其口之廣徑一寸三分、殆有二小洞通天之勢一、誠是掌中之玉、雖二連城一不レ可レ易焉、盛レ之以二磑雪一、韜レ之以二錦綾一、而構二小寮一招二賓客一、以進二一椀一、則於二我生涯一也足、何有二他願一哉、請爲二之記一、余不レ達二茶事一、然自レ幼與二宗古一遇二于洛一、至レ今三十餘年、相面之久、不レ能レ緘レ口、乃吿曰、北海馮氏有レ言曰、茶壺以レ小爲レ貴、小則香不レ散、中華重二其小者一、則今所レ談者偶相合、且見二其口之圓一、則自然有二月團之象一、謂二之洞天一、亦不レ爲二過言一乎、〈○下略〉
p.0716 一京極家に、昔泉州堺にて、信長公が一萬兩にて被二召上一候茶入〈肩衝名雲水〉傳り有レ之候、京極備中守高豐殿家督振舞に、御老中御招請之時、御老中被レ仰候は、御家の名物雲水の茶入も一覽仕度と御望故に、雲水にて備中守殿茶を立被レ申候、〈○下〉
p.0716 阿部對馬守御奏者番となる八重篝の茶入の事
一阿部豐後守正武は、常憲公〈○德川綱吉〉の御代の老中、日本の大賢と呼れ、名におふ水戸の黃門光圀公にも、なか〳〵おとらぬと云し人成けり、其子豐後守も執政役たり、然れば今の對馬守も、父祖の跡を繼ぎ、天下、の加判衆とも成度願有といへども、其時を不レ得、何卒御奏者番にても被二仰付一、夫より間もなく老中にも成度、色々何方此方と手を入、御出頭の御側向、執政の上座堀田相州などへ、種々賄賂して上向もこしらへけり、或時堀田相州、阿部對馬守を閑所へ招き、其元樣の望は、月番加判の列に入らん事と見へたり、然れば先御奏者番被二仰蒙一候樣に御心掛可レ被レ成候、拙者も隨分出精致し進上可レ申候、夫に付何とやらん近頃御無心申兼候得ども、貴樣御家に大切に被レ成候八重篝の茶入、何卒拙者懇望に御座候へば、被二仰付一被レ下間敷哉、御家來衆と御相談の上にて、可レ成筋候はゞ致二所望一との御事也、對馬守は、いかにも御口上の趣致二承知一候とて歸られけり、扨對馬守留守居の者申けるは、相州へ被レ進可レ然候、尤御家の御重寶にて候へども、其悦にて相州被レ致二推擧一候はゞ、御奏者番にも被レ爲レ成、又其上、間もなく御老中にも御成可レ被レ成候、御老中御勤被レ遊候間拾年も立候はゞ、如何樣にも御出頭に御成候はん、其節は堀田も代替りて子息の代に成候はん、其時は又此方御老中の御出頭にて、右遣し被レ置候八重篝に、日頃年頃相州諸士より取集候重寶迄をも、御威光にて御所望被レ成候拡ゞ、又々此方の物たるべし、暫く御立身の爲、質に入らるゝと思召て、堀田殿へ八重篝を可レ被レ遣とそ申けると也、寔におかしくも廣き了簡也、依レ之翌日ひそかに對馬守自身右茶入を持參して送られければ、相州大きに歡び忝存候、此上貴樣御奏者番に成給 ふ事は、當年中には急度請負申候と、自由なる上沙汰ぞかし、果して其年御奏者番に成給ひけり、
p.0717 狩野探幽守信ハ、名譽ノ畫工也、茶道モ能サレタリ、或時大金ヲ出シテ茶入ヲ求メ秘藏ナシケルニ、酉年〈○明曆三年〉ノ大火ニ、神田橋ノ亭モ類燒シケル時、カノ茶入ヲ家來密ニ盜出シ、京都へ遣リテ賣拂ヒ、主人ヘハ燒失セシト僞リ置シニ、其後其茶入ヲ買戻シテ、銘ヲ都返リト改テ、猶秘藏セラレシ、今ハ井伊掃部頭家ニ在トカヤ、
p.0717 寬文ノ頃、有馬玄蕃頭賴利、未ダ若年故、親族西尾主水忠知後見ナセリ、或夏虫干ノ節、彼家ノ重器タル胴脂肩衝ト云茶器ヲ、外樣ノ士へ見スル迚、取落シテ少シ缺損ジケル故、彼士ハ大ニ恐レ入、必死ニ思ヒ極メテ籠居セリ、主人ハ在國故、此事早々申遣ス、賴利ニハ十六七才ノ時ナレドモ申サ声ヽハ、重賣ヲ卒爾ニ疵付ル樣ニ取扱フ事ハ、第一預リ置役人ノ失ナリ、去ナガラ士ト器物トハ替難シ、但シ此肩衝ハ我家ニテ大切ノ品ナレバ、其儘隱シ置難シ、一應忠知へ申聞テ、彼ガ了簡ヲ伺ヒ、何レニモ指圖ニ任セ、取計フベシト下知セラル、右ノ趣家來ヨリ主水忠知方へ申達シケルニ、先其茶入ヲ損ジタル者ヲバ如何セシト問ハレシニ、家老共恐入テ、彼者ハ早々閉門申付置シ由ヲ答フ、忠知歎息致サレ、各ニハ大家ノ仕置役トハ存ゼズ、茶器ヲ割タルハ不屆ナレド、主人ノ馬前ニテ命ニモ代ル士也、茶器ハ唯座敷ノ慰ニテ武用ニハ立ズ、右ノ器ハ神君〈○德川家康〉ヨリ元祖法印〈○有馬則賴〉拜領セラレシ名器ニテ、外ノ道具ヨリ大切ニ心得ラルヽハ尤ナレドモ、士ニハ易ヘガタシ、已ニ賴利若輩ノ了簡ニモ、土器ニ士ハ替難シト申越サレタレバ、早々差免サルベシ、右ノ茶入ハ假令微塵ニ成テモ有馬家ニサへ有バ名物也、外人ノ持テ詮ナシ、又上ヨリ預ケ置レシ品ナレバ層モ入ベシ、此器ハ神君上方ニ御坐ノ時、秀吉公ヨリ關東へ御歸國ノ御暇出カネシ故、法印へ御賴ニテ御前ヲ早々御暇出シ故、悦ビ思召トノ御事ニテ拜領有シ名器ナリトゾ、
p.0718 風早實種卿〈權中納言正二位、性好二茶事一、卿所二意匠一有二歌中次茶入一、寶永七年十二月廿五日薨、壽七十九、〉
p.0718 享保十二年閏正月九日、參候、總ジテ棗ヲ濃茶ノ茶湯ニ出スコトハナキコト也、先ハ左ヤウニテ時アリテ出スコトアリ、大ヤウ袋バカケズ、已前深諦院殿所望ニテ、利休ヨリ應山公〈○近衛信尋〉へ獻ゼシ棗ニテ御茶アソバセシトキ出サレシモ袋ナシ也、大棗ナドハ急度茶ノ湯ニ出ス、棗ニ袋カクルコトモアリ、棗デナケレバナラヌトキアリ、先ハ出サヌコト也、〈今ノヤウニ古金ランノ袋ナド、色々ノケツコウナル袋カクルコトハシラヌコトナリト仰(近衛家煕)ラル、〉前ニ織部ガ大棗ヲ茶湯ニ出聿シコト仰アリ、ソレ故棗モ出スコトニヤトウカヾフ、仰ニ、大棗、別シテ出スコトアリ、トキニヨリテ出サデカナハヌトキアリ、重テウカヾウベシ、 廿三日、大海ノ茶入ハ圍居數寄屋ヘハ出サヌコト也、畢竟ヒキダメ眞壺ノ類也、勝手ニ口覆ヲシテカザリ付、濃茶抔ノ切レタラントキツギタス爲也、今ハ長緖ニシテ出スハシラヌコト也、内海ハ出スコト也、 十三年正月六日、先日石州ノ茶ニ御渡〈○近衞家煕〉ノトキ、コノ頃二三ガ話ニ、去ル方へ茶湯ニ參リテ、セイシト申茶入ヲ見タリ、織部ガ文ノソヒタルヲ掛タリ、御存ジニヤト窺フ、不レ知ト云シガ、覺エヌニヤト仰セラル、已前ニ見侍リヌ、存ジタル者所持ス、〈大黑屋東右衛門〉此ヲカリテ此夜御目ニ掛ル、初メテ御覽アリヌト、是ヨリ又勢至ノ茶入センサクニナリテ、鴻池道億へ上間ニツカハサル、尤モ名物ノ名目ハアリテ、古今コレナキモノ也、勢至ト云名ハ佛經ヨリ出デタル名也ト申セシ也、此頃應山ノ遊シタル茶ノ書ニモ、勢至ト云名物ノ銘ハアリテ世ニナキモノトアリ、 九月十四日、今ノ世茶入ヲ挽家ニ、至極ニ結構ヲ盡シテ、袋マデ美麗ナルアリ、ヨキ形ナルヲ棗目ノカハリニ、薄茶ヲ入レテ出シ候ハヾイカヾ侍ラント伺フ、仰ニ、イカニモ昔ノ故實ハ、ソノ筈ナルコト也、宗和ノ物數寄ノ挽家ハ、ソコト目ヲ付テ、隨分蕀茶入ニ用ヒラレヌヤウニ拵ラレタリト仰ナリ、 十四年五月四日、御茶、〈○中略〉御茶入〈紅ノ大津袋ニ入、勝手ノ方カザリ付、セトノコブリナル皆口也、胴ニろノ字アリ、○中略〉 上ノ茶入ノ尻ニ書付ノアルガアルモノ也、昔シ利休ガ書付也トテ、御覽ナサレタルコトアリ、先日有隣軒ニテ出タル茶入ノソコニ宗旦ノ書附アリ、是書付ノ仕ヤウ、カハリタルモノ也、タトヘバ茶入ノカザリ付ノ景ヲ前ニシテミレバ、書付ハ横ニカイテアリ、利休ガ書付ハイクツモ皆ソレナリト、常修院殿ノ仰ニ、唐物ノカキツケハ、ミナ横ナルモノ也、利休ガソレヲシリテ仕タルカ、不レ知シテシタルカ、イヅレ尤ナルコト也、茶入ノカザリツケノヤウニシテ、仰ケテ書付ヲ見レバ、横ニカケバ直ニナ万、カザリツケノヤウニ書ケバ、仰ケテ手ガネジレネバ直ニナラヌ也ト仰ラル、 十五年正月七日、御茶湯始、拙、(山科道安)二三、○中略御茶入千種手ト云、世上ニテコレヲ伊勢春慶ト云ヘドモ、春慶ガ作ヨリモ古キモノナリト仰セラル、コレハ先年古陸奧守ヨリ獻上ナリ、自員ノ茶入ナリト、御前ノ思召ニテ、コレヲバ美類女ト銘ゼラル、奧州キヽオヨビテ、御筆ヲ請ハレケル由ナリ、いせの海とし經てすめる海士なれどかゝるみるめはかづかざりしを、此歌ニテトナリ、
p.0719 肩衝
茶具甚多、其至貴者、號曰二肩衝一、蓋一握之小壺實二碾茶一者也、而其直或數百金、或數千金、裹レ之以二錦繡一、盛レ之以二方盆一、藏レ之以二巾笥一、茶人之奉二持之一如二神明一焉、列國封侯爭競求レ之、可レ謂二重器乎、〈○中略〉昔紂之作二象箸一也、微子晞矣、箕子以爲其必又作二玉盃一而嘆之、茶人之奢遂令二一小壺其價千萬一、與二象箸玉盃一何以異、恣二口腹一之極至レ若レ是、吾聞レ之、寶者國之守也、藏二之府庫一、傳二之子孫一、或用二之于祭祀一、或施二之於軍旅一、或陳二之冠昏喪奠一、或取二之列國異域之符信一、今皆不レ然、唯以二茶器之眇小一、而若レ是之至貴高價是何也、可レ恠之甚也、鼠璞雖レ異、愚者不レ知、自二君子一觀レ之、則一小壺而已、茶人以爲二重器一、賈生所レ謂寶二康瓠一也、本邦自レ古有二三神器一、姑舍レ是、若夫善人楚國之寶也、親レ仁善レ隣、陳國之寶也、楚用レ之而覇、陳不レ用而削、如今用二肩衝一而奚爲哉、
p.0719 茶入蓋
一茄子、文琳、丸壺肩衝、尻膨、其外モ夫々古ヨリ蓋ノ取合有也、如レ左好ハ勿論也、古方云傳有蓋ヲ傳 ノ外ノ茶入ニ取合事アリ、好人之心得ニ有レ之儀ナレバ、善惡ノ不レ及二沙汰一也、蓋ヲ好程ノ人、無二覺束一テハ不レ好也、
一巢蓋ハ麁相成ニヨツテ、能茶入ニ取合タル物也、板目ハ上、切目ハ中也、
p.0720 一ある時有樂公〈○織田〉利休方へ御尋ありしに、おりふし茶入に古き蓋取合せ居たるが、其内大ぶりなるふたの、とくとあはざりけるを、却ておもしろく候とて、有樂へみせ申す、その後公の茶入に、件のとをり古きを取合せ、休〈○千利休〉へ御みせ候へば、かやうの物敷寄、一概によしとおぼしめしそ、此茶入には新き蓋のよく合候が、ましにて候といひし、
p.0720 享保十二年閏正月十九日、參候、夕御膳御相伴ノ後、濃茶召上ラル、自分ニ立テ戴クベキ由ノ仰〈○近衞家熙〉ニテ立ル、御茶入平丸ノ糸目藤四郎ニ象牙ノスブタ也、此ニハ茶杓ノヲキヤウアリ、跡ニテ仰セ聞サルベシ、先カヤウノ茶入ハ、茶杓モ棗ノゴトクノセタルガヨシ、
總ジテスブタノ始リハ、利休ガ方ニテ象牙ノ蓋ヲ挽セラルニ、ソレマデハ、隨分ムキズナルヲ撰シニ、フト挽ケルウチニ、コノス出テ疵ニナリタルホドニ、挽易ント申シヽヲ利休見テ、一段面白シトテ、其スブタニテ茶湯ヲシテ、織部〈○古田織部正〉ヲヨビケルニ、スノ方ヲ勝手ニシテ、ツマミノ外へ茶杓ヲハヅシテ、客ノ方ニ茶朽ヲカケルニ、織部其茶入ヲ請受テ茶ノ湯ヲシテ、利休ヲ呼テ、スノ方ヲ外ヘナシ、ツマミヨリ内ノ方へ、茶杓ヲカケタルヲ利休ガミテ、サテシモヨク仕タリ、ドフデモ織部ホドノモノ有ベカラズトテ、褒美シケルトナリ、利休ハスヲ卑下シテ勝手べ直シ、織部ハ巢ヲ賞翫シテ表へ直シタリ、今ニテモアレ、利休ガ子孫タランモノハイサシラズ、一統ハ、表へ巢ヲ出スベキモノ也ト、常修院殿〈○慈胤法親王〉ノ御物ガタリ也、
p.0720 一利休茶入の口しまり過たるを御所持有、古キ大成蓋を合置を三齋公御覽ニ成、大なるふたを取合被レ置候事、一段面白し、茶入の恰好能相見申候間、三齋公の茶久にも、口のせばき を御所持有、大に御引せ候而御合可レ被レ成と被抑候得ば、イヤ〳〵態と大キニ引せられ候は曲クもなし、古キ蓋有合テ、取あへず合置は吉と申由被レ仰候、
p.0721 黑漆器〈○中略〉 盛二抹茶一之漆器有二數品一、是稱二棗屋一、其茶器之形狀、有下似二棗形一者上、故號レ之、又有下稱二藤重一者上、元樽井氏、而南京之漆工也、是漆工羽田氏之類也、至二今藤嚴一十一代也、第七世人剃髮號二藤重一特爲二巧手一、自レ竝後不レ稱二樽井一、從二倭訓一號二藤重一、是專製二中次茶器一其圍五寸餘、高一寸半、徑一寸半、以二轆轤一削二内外一、函蓋中二分之一、故謂二中次一、其合縫緊密、而レ不レ令三風濕浸二抹茶一、斯家又以レ漆補二盛レ茶磁器之缺一、又修二罅漏一、
象牙〈○中略〉 盛二碾茶一之磁器、用二象牙一爲レ蓋、造レ之人稱二蓋挽一、
p.0721 同〈○茶入〉塗物之作者
五郎 羽田氏、奈艮の法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作を法界門塗と云、羽田盆ともいふ、珠光時代の棗は、五郎作に限りては杉の、木地板目なり、
余參 記三 兩人とも京住紹鷗時代の棗也、余參作は蓋懸り深し、聚光院に余參の沒せし日を記しあり、天正十一年癸未四月十一日、
盛阿彌 京住、法名紹甫、太閤より天下一の號を賜ふ、二代目盛阿彌より共蓋あり、三代にて終る、秀次 四代目秀次、利休時代なるが名人也、俗稱林兵衞、
藤重 藤重は姓也、名は藤嚴と云、利休時代也、塗物は本業にあらず、慰みに仕たる也、名人なりし故、關東へ召出されて江戸に住す、其節亂世後にて、破損せし名器の繕ひを被二仰付一、其賞としてツクモの茶入を賜ふ、名物なり、今に藤重の家藏なち、二代目ゟ御袋師となる、子孫今に在り、〈但し同字にて、一代は藻嚴(ゴン)と云、一代は藤嚴と云、〉
宗長〈關氏〉 元伯の塗師なり、余參盛阿彌の頃迄は彫銘なり、宗長以後はかき名に成る、 元祖宗哲 中村八兵衞勇山と號す、一翁宗守の聟なり、始は蒔繪師なりしが、塗師に成しは、元來一翁宗守は塗師吉文字屋甚右衞門の養子となりたる人也、後に塗師を中村八兵衞へ讓て茶人となる、夫より宗哲塗師を業とす、依て宗守の出所といふなり、
二代宗哲 早世す、法名元哲、
三代宗哲 別號紹扑又漆桶、又勇齋、世に此人を彭祖(ホウソ)宗哲とて用ゆ、
四代宗哲 別號深(シン)齋、紹卦の養子、初は八郎兵衞と云、
五代宗哲 別號豹(ヘウ)齋といふ
六代宗哲 初代より代て今に至るまで通稱八兵衞
p.0722 山城 藤重中繼
p.0722 茶入蓋師
御幸町万壽寺上ル町 蓋師吉左衞門 寺町押小路下ル町 水口屋與兵衞
p.0722 茶入繕師
中町三惠〈○住所不レ記〉南槇町中通 藤重當元
茶入蓋師
靈巖嶋長崎町 池嶋立作 京橋南二丁目 ふたや九右衞門 京橋北一丁目 ふたや長左衞門 靈巖嶋長崎町 孫左衞門
p.0722 注春 十六事之一 本國名レ之云二茶入一 茶譜註曰、磁壺也、
本國以爲二名物一者、凡百五十餘品、又曰、本國皆收二于袋一、袋口以レ紐結レ之、襞積古製以二七樣一、今用二六樣也、紐色、紫、紅絹、天鵞絨、韓茶、黃韓茶、右六品之外不レ用、紐結如二蜻蛉形一、袋帛、或金襴、或純子之屬、皆以二漢土所一レ出、最舊者愈尚レ之、其色目甚多
p.0723 長緖之事
一長緖は先ヅ平茶入によし、倂ツヽ立候茶入は、長緖付る事も昔より有ル事也紀州ニ上杉瓢簞とて名物也、是は珠光紹鷗ゟ傳ナリ、古金ランノ袋ニ、淺黃ノ少シ短き長緖付有レ之、是を先ヅ形トス、茶入は唐物也、珠光紹鷗ノ時ぶ皆長緖也、利休被レ傳候も長緖也、後利休ゟ短き緖出來、依而其後長緖不レ用候處、原叟宗佐常叟〈江〉相談、又長緖遣ひ初、色は先ヅ紅紫ナリ、棗に長緖は無レ之候、
袋之事
一大津袋は棗に限り候袋也、倂又春慶などのはだ能茶入には付て不レ苦、此袋は大津ゟ米を入來ル袋形にナル、仙叟より、 柿袋は他流もの、此方に不レ用、 袋は四ツ立とて、切四ツにしたる物也、片身替り迚、切れ二ツにて縫有り、是は面白切迚、切能方を客附〈江〉遣ふ、
唐物茶袋之事
一唐物茶入袋は緞子能候、倂紀州ノ上杉瓢簞は萌黃地の古きんちん掛り有レ之候、珠光紹鷗ゟ傳る茶入なれば、是を形とシ不レ苦と如心齋申候、唯唐物に金入を掛たる例有ト云事に而、先ヅは緞子能候、 天目は金入ノ袋能候、緞子を掛る例も有レ之候、
p.0723 堺の何がし紹鷗を茶に招きし時、天目を金襴の袋に入て、蛟龍臺にのせ床にかざられしを見て、あなたうととて拜手一笑せられしとかや、案るに、いにしへ金襴を茶入の袋にかくる事なし、袋に古金襴を賞翫するは、遠州〈○小堀政一〉以來の事也、
p.0723 棗中繼會釋之事
一棗は袋に入、中繼は和、巾に包物にて候、織田有樂侯へ利休棗中繼を袖に入て持參申候、棗は袋に入、中繼は和巾に包申よし、此棗中繼貞置候に有レ之、中繼は蓋の合口深き故、袋に入不レ申候、棗は袋に入と可レ知、
p.0724 利休料簡にて、臺子の茶湯二袋を一袋になし、又茶入の袋の長緖をも短くし、出蜻蛉入蜻蛉などいふ緖の結び方、古法の秘傳なりしをも、出蜻蛉ばかりに結びし事など皆改ぬ、但し茶入の袋にまちをあけし事は、利休が後妻宗恩手利にて、茶入の袋をぬひしがはじめてまちを明し、
p.0724 織田宗二老花鳥の懸物の時は、茶入の袋のとんぼうの羽を、懸物のかたへむかはしめてよしといはれし、つねはとんぼうの羽を我前へむかふやうにする也、これ利休の語られしところと見えたり、
p.0724 小堀遠江守宗甫公自筆の寫
一茶入を長緖にする事は、大海、内海、茄子、尻脹、丸壺、是等の類たるべし、
一長緖のむすびは、上輪、へたむすび、櫻、かたばみ、桔梗、加樣の類たるべし、〈○下略〉
p.0724 同〈○茶入〉塗物の茶器
老松割蓋 妙喜庵の老松を以て、原里數五十を造る、〈○中略〉此茶器に長緖能取合へども、割蓋あしらひの上、又長緖あしらひ如何とて、袋出來せざる内、帛紗包みにして用ひられしよし、後北野天滿宮へ一七日參詣して、鬮を取て長緖に定められしよし也、覺々齋まで長緖中絶してありしが、千家にて長緖を用ゆる事は、此茶器より始なり、
p.0724 享保十二年四月三日、參候、午後ヨリ左典厩ガ宅へ茶ニ御成、〈○近衞家熙〉卽チ御供、〈○中略〉茶入 瀨戸ノ中古金華山ノ手〈先年拜領ノ物〉 袋〈廣東ノヨシ、地白ニテ、アヤ地ノヤウニテ、花ヅルノ紋アリテ、細キ金ノ筋アリテ、其中ニカラクサノモヤウアリ、珍キカントフトナリ、○中略〉
仰ニ、此袋ニ付テハ咄アリ、先年此袋ノ切渡リテ、幅ニテ四五尺アリシヲ、三菩提院殿〈○貞敬法親王〉ト二ツニ分テ取シガ、此筋ハ七八寸ホド間ヲ置テ、四筋カナラデハ無リシガ、此茶入ヲ求テ、幸ニ常修 院殿〈○慈胤法親王〉ヲヨビマウシテ、袋ノ御物數寄ヲ乞ケレバ、切レヲ數々御覽アリテ、此切レ然ルベシトテ、金紋ノ筋ノ十文字ノ處ニテ、茶入ノタケ切拔テ、コレ〳〵ト仰ラレシホドニ、此茶入一ツニ、四五尺バカリノ切ノ好キ所ハ皆トラレテ、アトハ何ノヤクニタヽヌモノニナリタリ、三菩提院殿ニコト笑テ、ヒソカニ我等ガ切ハ常修院殿ニハ沙汰ナシトテ、フタリヒソカニ笑ヒヌ其器ニアタル人ノ物ズキハ各別ナリト仰ラル、 霜月十日、今ノ茶人、カリソメニモ古金禰ニ名物カイキノウラヲ付ルコト、常修院殿ナド、イカイキライナルコト也、結構ナル物ナルホドニ、名物ナルホドニトテ、用ユベキヤウハナシ、古金ランハ未シ、東山〈○足利義政〉ノ物ズキニテ用ラレタル物ナレバ、左モアルベシ、名物カイキハ、代ノ貴キマデニテ、物ズキニ非ズ、〈前カドヨリ仰ニ、棗ニ古キンランノ袋ヲカクルコトモ、何ノ由ナキコトナリ、近代ノハヤリゴトナリ、常修院殿ノ常ニ、是ハ茶ニ入タル道具也、茶ニ入ザル道具ナリトハ仰ナリ、名物カ名物ニ非カトハ仰ラレズト、〉十四年五月四日、大津ブクロト云モノハ、タトヘバフクサノ兩角ヲ折テヌイツケタルモノナリ、アシライハ、茶入ノ中ニテ、一ヲリヲリテムスブ、一重ムスビニモ、マムスビニモスル、此フクロ大小アリ、常ノフクサヨリハ少シコブリナリ、大ハ紫、小ハ紅ナリ、
p.0725 享保十六年二月廿四日、茶入ノ紐ノ結ビヤウ、左手ニテワナヲナシ、通用ノ紐ヲ左ノ方ニテ流通スルヤウニシテ、引トキハ手ヲ覆ヒニシテコレヲ引、トマル處ハ、大指ヲ仰ケテ引トメテ結レヌヤウニスベシ、ムスブトキモ、左ニテワナヲコシラへ、引シメテ左ノ方ヲ通用トシテ、右ノ人サシユビニテ、キツト押ヘテ結ビ付、紐ノムスビ目、仰ムクヤウニシテ、前ニ洞ヲ見ルコトヲ第一ニスベシ、甲ノ平ナルハ、ツガリノ先ヲ下ニツケテ、甲ノナデガタナルハ肩ニ付テ、先サガリニシタルガヨシト仰〈○近衞家熙〉ナリ、 長紐ノコトヲ伺フ、長ヒモハ大海内海ニカギリタルコトニヤト伺フ、仰ニ大海内海ニ限ル可ラズ、併唯今ハメツタニ長紐ニシテ用ルモ本ノコトニアラズ、長紐ニセデカナハヌ茶入アリ、チトメヅラシク長紐ニスルト云義ニアラズ、常ノ茶入ノ紐ト云 モノ、茶入袋ノ口ヲ一杯ニヒロゲテ、ハナノ處ヲ折カヘシテ三ケ一ナルモノナリ、夫ニテ出入ヨキホドノ茶入ハ、ミナナガヒモナリ、大海ヤ大肩ツキナドノ、胴マデ手ノカヽリテ出ガタキハ短紐ノトガナリ、長紐ニセデハナラヌモノナリ、是ハ大海ニカギラズ、長紐ノ筈ナリト仰ナリ、
p.0726 山城 茶入袋
p.0726 茶入袋師弁壺の網師 色々の糸をもて網をすく也、所々に住す、大坂ふしみ町藤重、江戸西紺屋町、南槇町、中通、本郷五町目、日本橋南二丁目、
p.0726 茶入袋師
室町新町ノ間今出川上ル丁 袋師二得 押小路麩屋町東〈江〉入町 袋師友湖
p.0726 茶入袋師
西紺屋町 川上袋子 南槇町中通 藤重當元 本郷五丁目 以貞 中村三惠 日本橋南一丁目 鹽瀨山城守
p.0726 盆
方盆 圓盆 曲物盆 二入(ツ)盆 剜物(ホリモノ)盆 堆朱 堆紅 堆鳥 珪璋 金絲 二重剜 剔紅松皮 犀皮 存星〈褐色也、或爲二作者名一、〉 稚金〈或作二沈金一〉
紋 茘枝 唐草 紅花綠葉 牡丹 芙蓉 花鳥 屋臺 人形 松雲 嵓水 山樹等品類無レ限
裏 折入菱 洲濱 累々〈或作二屈輪屈輪一也〉
作者 楊茂 張成 周明 呂補〈是皆於レ此昔能阿所レ記也〉
p.0726 盆 其品甚多、總以稱レ盆、
按、居家必備曰、楪子是也、古來有二圓盆一、底裏識二穎川東房字一、或雕二其字一、又有二加レ箔者一、又有二四花盆一、梅椿菊 牡丹等花葉共雕レ之、又有二五花盆一、四花中加二山梔一、花葉共雕レ之、〈其製堆朱也〉或圓盆、或四花樣、五花樣、共全黑漆、爲二覆輪一者亦有レ之、或有二堆朱方盆一、多雕二花葉一、適有下雜二靑漆一且雕レ之者上、又有下稱二若狹盆一者上、此等小堀遠州嘗尚レ之、於レ今以珍焉、
按、世傳云、若狹盆者、北齊渤海之制、或云、明朝之初、漂二流於若州海濱一也、其證未レ詳、又曰、先來者五枚、後來者七枚、未レ聞二其所一レ據、且底裏文字及紋不レ同、或識二德字一、或識二業字一、或畫一梅樣形一、是茶入盆最極品者也、
p.0727 盆之事
一黑塗四方盆、利休千ノ字ノ寫有リ、 若狹盆、ふちせいじ内朱、是は若狹〈江〉唐人著之時持來ル、
松ノ木盆、紹鷗、五葉松也、 菱盆 丸盆 彫物盆、是は彫殘シ迚、繪或は彫物ふち計りにて、内鏡ノ所黑ぬり、或は朱にて殘し候ガ能候、内ニ彫物有はかたく不レ用、 長盆は横繪の盆を能トス、如レ此繪有がよし、併奈良の松屋に有レ之紹鷗の也、星の立ツ繪ナリ、先は横繪長盆稀也、 大丸盆 妙喜庵、松ノ木盆、覺々齋、
p.0727 茶入盆之部
若狹盆 此盆元七枚箱に入て、若狹の濱邊に流れ寄る、唐物の盆なり、此盆に似よりたるを何れも若狹盆といふ、内朱外靑漆、葉入角なり、いにしへ内朱の盆と云は此盆也、
唐物 唐物といふは、皆朱の盆の事なり、
存星 名高きは、松屋肩衝の許由の長盆なり、〈別に書有〉
堆朱 丸角とも内に鏡なきは、茶入盆に不レ用、
靑貝 靑貝は形一定ならず
羽田 羽田五郎作、矢筈盆、松屋所持なり、
松木 四方盆葉入春慶、紹鷗より利休へ傳へ、利休より今小路道三に傳ふ、道三箱書付に翠竹と あり、翠竹は道三の院號なり、老松同木にてうつしあり、原叟如心齋も製レ之、
一閑 元伯好、ヒネリ緣の盆なり、初代一閑作、千家傳來、如心齋の書付あり、
黑塗 保元時代、四方なり、利休所持判あり、千家に傳來す、
八卦靑貝 黑塗に靑貝にて八卦あり、大圓盆なり、亂飾に用ゆ、如心齋好、宗哲製す、
黑の長盆 眞臺子に用ゆ、千家の外は用ゆる事をゆるさず、茶カブキ盆、旦座盆も此摸樣也、元來松屋許由の盆と同寸なり、