p.0457 髲 釋名云、髲〈音被、和名加都良、〉髮少者、所三以被二助其髮一也、俗用二鬘字一非也、鬘者、花鬘之鬘、見二伽藍具一、
p.0457 按古以二蔓草一爲二首飾一、謂二之加都良一、蓋首蔓(カミツラ)之急呼、又天竺俗取二草木時花一、以レ線貫穿、結爲二花鬘一、莊二嚴身首一、以爲二飾好一、號曰二麼羅一、譯爲二花鬘一、見二慧琳音義一、其狀略與二加都良一同、故用二鬘字一、爲二加都良一、古事記以二眞析一爲レ鬘、又取二黑御鬘一投棄是也、神代紀亦作下以二眞板樹一爲レ鬘投中黑鬘上、後有二髲髢之制一、取二他髮一飾二己髮一、亦名爲二加都良一、以下其加二於髮一、與二蔓草飾一レ首不上レ異、其名亦同也、此所レ載者卽是、以二鬘髲和名同一、俗或用二鬘字一爲レ髲、故源君辨レ之也、髲今俗呼二加文宇一、〈○中略〉説文、髲、鬄也、毛詩庸風正義引二説文一、作二髲益髮也一、言、人髮少、聚二他人髮一益レ之、少牢饋食禮鄭注、古者、或剔二賤者刑者之髮一、以被二婦人之紒一爲レ飾、因名二髲鬄一、
p.0457 鬒髮如レ雲、不レ屑レ髢也、〈○中略〉箋云、髢、髮也、〈(中略)正義曰、髢一名髲、故云二髢髲也一、説文云、益髮也、言下人髮少、聚二他人髮一益上レ之、〉
p.0457 傳、十七年、初公自二城上一見二已氏之妻髮美一、使レ髠レ之以爲二呂姜髢一、〈(中略)髢髲也〉
p.0457 髲、被也、髮少者、得三以被二助其髮一也、
〓、剔也、剔二刑人之髮一爲レ之也、
p.0457 髲髢 周禮王后夫人之服、有下以二髲髢一爲二首飾一者上、故詩鬒髮如レ雲、不レ屑レ髮也、蓋周制云、馮鑑後事云、晉永嘉中、以レ髮爲二步搖之狀一、名曰レ鬢、以爲二禮容一、卽今纒髮特髻、乃其遺象、
p.0458 主婦被錫、衣侈レ袂、〈○中略〉主婦贊者一人、亦被錫、衣侈レ袂、〈○中略〉註被錫、讀爲二髲鬄一、古者或剔賤者、刑者之髮、以下被二婦人一之紒上爲レ飾、因名二髲鬄一焉、此周禮所レ謂次也、〈○中略〉疏〈(中略)被錫、讀爲二髲鬄一者、欲レ見レ鬄、取二人髮一爲レ之之義也、云古者、或剔賤者、刑者之髮以下被二婦人一紒上爲レ飾、因名二髮鬄一焉者、此解名二髲鬄一之意、〉
p.0458 髮〈カツラ〉 鬘〈カツラ〉
p.0458 鬟(カツラ)
p.0458 かもじ 髲の俗稱也、又長かもじあり、女房飾抄にも、かもじの水引は、四十の年より二筋也といへり、
p.0458 たまかづら〈玉鬘〉今のカモジなり
p.0458 於レ是伊邪那岐命見畏而逃還之時、其妹伊邪那美命言令レ見レ辱レ吾、卽遣二豫母都志許賣一〈此六字以レ音〉令レ追、爾伊邪那岐命取二黑御鬘(クロミカヅラ)一投棄、乃生二蒲子一、
p.0458 すべて加豆良(カヅラ)に三ツの品あり、葛〈蔓も同じ〉と鬘と髲となり、〈○中略〉鬘は頭の飾に懸る物なり、〈○註略〉髮は和名抄に和名加都良(カヅラ)、釋名云、髮少者、所三以被助二其髮一也と有て、俗に加毛自(カモジ)と云物なり、かくさま〴〵あれども、本は一ツより轉れる名にて、草の葛より出たり、〈○中略〉さて何にまれ蔓草を以て頭の飾にかくるを髮葛(カヅラ)と云、是卽鬘なり、〈○中略〉又髲も髮を飾具なれば、鬘とおなじ名を負せつらむ、さて鬘は、上代には、女男ともに懸る物にて、蔓草を用ひしことは、石屋戸の段に眞柝(マサキ)をかけしを始て、日影鬘(ヒカゲノカヅラ)など、〈○中略〉又絲などを以ても作りしにや、珠をかざること、天照大御神の御飾〈宇氣比の所〉に見えたり、玉鬘(タマカヅラ)と云は是なり、〈髲にも、葛にも、玉かづらと云は、此の玉鬘の名をうつして呼か、又たゞほめていふにもあるべし、〉
p.0459 一書曰、〈○中略〉于レ時伊弉〓尊恨曰、何不レ用二要言一、令二吾耻辱一、乃遣二泉津醜女八人一〈一云二泉津日狹女一〉追二留之一、故伊弉諾尊拔レ劒背揮以逃矣、因投二黑鬘(キミカツラ)一、此卽化二成蒲陶一、
p.0459 御ぐしなどもいたくさがり過にけり、やさしきかたにはあらねど、えびかづら(○○○○○)してぞつくろひ給ふべき、
p.0459 えびかづらしてぞつくろひ給べき 日本紀云、伊弉諾投二黑鬘一、此卽化成二蒲萄一、此故にかづらをえびかづらといへる也、
p.0459 䯸 音刺 和名加都良、俗云加毛之、 髲音備 髢音第
䯸、婦人首飾、編二次髮長短一爲レ之、以爲レ飾也、〈○中略〉按、䯸、大抵長者三尺許、琉球䯸五六尺以獻二上之一、
p.0459 髮
髮少者所三以被二助其髮一者、曰レ䯸(カヅラ)、〈和名加都良〉
p.0459 かもじの事
かもじの本名はかづらといふ、〈○中略〉かづらをかもじといふは、湯卷をゆもじ、内方をうもじなどと片名をとりてよぶ事、東山殿比の女言なり、文字には髲と書く、〈○中略〉かづらは西土にてもいと古し、
p.0459 守貞云、古髲、和名加都良ナル者ハ、今ノ加文字ニテ、添トモ云ハ、自髮ニ添助ルノ意ニテ、乃チ假髮也、加文字、髢ノ字ヲ用フ、
p.0459 かたみにそへ給べきみなれ、ころもゝしほなれたれば、としへのるしるしみせ給べきものなくて、我御ぐしのおちたりけるをとりあつめて、かづら(○○○)にし給へるが、九尺よばかりにて、いときよらなるを、おかしげなるはこにいれて、むかしのくのえかうのいとかうばしき、ひとつぼ、ぐしてたまふ、 たゆまじきすぢとたのみしたまかづら思の外にかけはなれぬる
p.0460 九尺よばかり〈細○細流抄〉 九尺あまりばかりと讀也、昔はきぬのたけ九尺也、さればかづらも九尺にする也、
p.0460 實や女は髮のめでたからばこそ人のめだつべかめれ、〈○中略〉まさきのかづら長かもじ、絶せぬ髮の品々を筆に寫して、女の一助ともなれかしとしかいふ、
安永八年つちのとの亥の春〈○中略〉
つりはけ〈○圖略、以下同、〉 つとうら かたびん まへかみ 中つりはけ けしほん 中かもじ びんみの 長かもじ いれづと びんづら びんはり さしつと いかたかもじ
p.0460 一常のかもじに上中下の尺あり、根は小枕にかもじを縫付たるもの也、地髮短き女中方用ひらるゝよしなり、上は長さ四尺八寸、中は三尺八寸、下は二尺八寸也、これは長かもじにてはなし、ねまきかもじのふときものなり、根まきかもじといふは、かみの根を卷たるゆへ申也、長さ二尺計の物なり、
p.0460 長髮文宇 五尺五寸、又ハ五尺ノモ有、
p.0460 女中方通の次第
一かよひすべき事、かみはさげがみかもじ、上は四尺八寸のかもじ也、中は三尺八寸なり、下は二尺八寸なり、小上らうは二尺もくるしからず、
p.0460 貞享年中女の頭に飾物十六品
貞享五年京板盛衰記、〈卷三〉今の女、むかしなかつた事どもを仕出して、身をたしなむ物の道具數々なり、首筋より上ばかりに入用の物十六品あり、〈○中略〉長かもじ、小まくら〈○中略〉あらましさへ此通ぞかし、
p.0461 むかしおぼえてふようなる物
七尺のかづち(○○○○○○)のあかくなりたる
p.0461 元曆元年十一月十八日癸卯、此日踐祚〈○後鳥羽〉大嘗祭也、 廿二日丁未、大將〈○藤原兼實子良經〉五節裝束已下饗祿等注文、〈○中略〉午日〈例年辰日也、大嘗會畢、以二午日一稱二豐明一也、○中略〉七尺鬘(○○○)〈理髮用意也〉一調度〈○中略〉一理髮具 末額七尺鬘
p.0461 髮心 凡倭俗婦人、頭髮稀少者、別束二長髮一是爲レ心、或謂レ添、則結レ之、或下レ之、結者一所圍繞、而置二項上一之謂也、下者束二髮於一所一、垂二其末於背後一、是謂レ下、又等二其身一垂二髮於下一、是謂レ滑(スベラカスト)、女子髮添號二加文字一、加美之下、略二美字一者也、〈○中略〉近世男子、亦冶容而少レ髮者、聚二他人之落髮一相二加自己之頭髮一、今俗所レ稱野郎、亦少レ髮者如レ此、又少年著二假髮之長一、爲二婦人之粧一而歌舞、
p.0461 もし御ぐしなどすくなく、おんかづらにてつくろひ給ふことありとても、よくよく御身にそふやうにうつくしくしなさせたまへ、まことのやとひものゝやうに、かづらのふしめきたるははしきものなり、よるなどもかひとりて御枕のあたりにをかれ候へ、たゞぬるもおくるも、身にこゝろのそひたるがよきにて候、〈○下略〉
p.0461 一かもじは、三ところもとがみにつくるなり、
一おくれのかみをば、兩方よりとりて、ぼのくぼにてくむなり、くみとゞめのもとをとゞめね共、上のかみのしたにそのまゝおく也、
一かもじゆふこと、まづかみのうゑのきわをびんのかみをのけてゆひて、したをそろへてけづる也、いれもとひして上はとくなり、かもじのおほきすくなきは、若き人と年よりは、すくなし、そのほかは、よきころたるべし、かもじのしやくはさだまりたり、人たけによるべからず、あまらばそのまゝたるべし、
p.0462 よめ入の條々
一かもじは、むかしはたけもさだまり候やうに申候つれども、みてよきやうに候、返々かもじのたけは、一しやく二尺ほどたまるほどに、これはこのゑさまの御ふくろさまへぎよいをゑたてまつり候、
p.0462 一かもじかけといふは、十五歲よりちうのかもじをかくる也、かけやうは、かみをよくすべらかして、七のゆの通にて兩ほうよりよせてちうを入、下をもとゆひにて下ゆひをして、そのうへにひらもとゆひを二重まはしゆひてはしをはねる也、〈○中略〉
一長かもじかけやうの事、十六歲よりかけ申也、上らうには、ひたい口よりつぢまでわけめを一ツたて、兩のびんを前へたれて、殘髮をうしろへすべらかす也、〈○中略〉
一長かもじは、びんそぎせざる前は、かけぬものなり、〈○中略〉
一長かもじの事、中らうの方まではかけらるゝなり、ゆるされ候へば、かよひのかた〴〵もかくるなり、〈○下略〉
p.0462 一鬘の長さの事、人のたけにより不二相定一候、かけて下へあまる分一尺二寸と也、人の前へ出候て、宮仕候時は、かもじをば引てつかはるゝ也、我人のかもじをふまぬやうに嗜べし、又人の見ぬ所にては、かもじの中程より下を左の手にかいとりて、一まとひして持也、
p.0462 髮化粧の事
一垂髮とは、すべらかしさげ髮の事にて、髮の元を結ばず後へ下げ、長かもじを入るなり、一根結び下がみとは、元を人々の心のまゝに鬢を出し、根ゆひして、其元に長かもじ、又は中かもじを入て粧ふなり、〈○中略〉
一ふかそぎより振り分髮とて、肩より下までさげ置くなり、〈○中略〉 但し此内、かもじもかけざるなり、〈○中略〉
長かもじの事
一長サ五尺計り、背の七のゆの通りにて髮を寄せ、かもじを入、水こき元結にて堅く結ふなり、扨その元を平元結にて二ゑ廻しゆひ、其上に繪元結をかけるなり、
但し化しやうゆひは、とくるとも、下結ひは、とけざるやうに結ふべし、〈○中略〉
中かもじの事
一かもじを初より中を入べき事、結びやう、もと髮長き時は、袖の通りまでおろし、中を入れ、元結にて下二重廻し結びて、端をはねさせ、繪元結をかくるなり、
但し此は、とめ袖の時の事なり、〈○中略〉
只下がみの事
一下げ髮とは總名なり、長かもじ、中かもじ、いづれもさげ髮なり、かもじ入ざるも下がみなり、
一根結下髮とて、近代長かもじ、中かもじにても、常のごとく髮をゆひ、其先にかもじを入るゝをいふなり、是は近代御規式相濟、すべらかしにては、髮を結ふ手間取ゆへ、かやうの略式出來たり、好まざる事なり、殊には長かもじ入る時も、猶更あるまじき事なりといへり、
髮飾の事
一長かもじ 只降げ髮 降揚げ 小形の形はづし
右は老女用ゆ
一長かもじ 只降げ髮 降げ揚げ 小形のかたはづし 年の若きは、横富貴輪、
右若年寄女用ゆ
一長かもじ 只降げ髮 降げ揚げ 横富貴輪 右御中臈女用ゆ
一中かもじ 降げ揚げ 締太(しまだ) 雙髲(からわ) 前蟬髩(まへづと)
右御小性女用ゆ
一中かもじ 降げ揚げ 中形のかたはづし
右表使女、御側御次女用ゆ、〈○下略〉
p.0464 婚入之部
一婚入の時、御料人、幷召連候女房衆髮結やう、髮にはかづらを入れ、わけめを三所立、入元結にてむすび、其下を水引にて三所結也、若き人は一ところゆひ、又其を平元結にてゆふ也、
p.0464 姫君幷召れ候女中、髮は下げ髮たるべきや如何、髮はかもじを入れ、わけめを立て、大元結にてゆふべし、今時すべらかしと申體也、
p.0464 婦人は髮を垂たれば、頭をおほふに及ばず、〈○中略〉義髻といふものや後の世のかづらを入たるなり、このかづらを武家にてあまた所ゆへども、こは晴にはとくべきものなり、
p.0464 五番 右 鬘捻 花かづらおち髮ならばひろひをきひねりつぎてもうらまし物を
二十一番 右〈勝〉 鬘ひねり
うつくしくかゝれとてしもうば御前はよめがかづらを捻らざりけむ〈○中略〉
歌がらのゆら〳〵となびやかなるさま、たがねくたれの枕の上、たがうしろてのふさやかなるそぎめにも、かゝるしなはありがたくこそみたまふれ、かづら捻といへば賤きやうなれど、かの常陸の宮の御むすめも、我おちかみをこそ薰衣香の壼にそへて、乳母の侍從にもたびけれ、いやしきあまのすさみにも、たゆまじき道のすぢは、詞の玉かづらにて侍りけり、
p.0465 職人圖彙に、おちやない(○○○○○)は、都の西常盤といふ處より出るとかや、女の頭に袋をいたゞき髮の落をかひ、かもじにして賣買世渡るわざとす、それをおちやないかといひて、町々をあるくなり、晝の八ツ時より出るなり、是古へのかづら捻りと同じ、今はかづらやはあれど、落買と云ものなし、
p.0465 髮心 洛西常盤里婦人、戴二布囊於頭上一、徘二徊市中一、問二落有否一、若有下蓄二藏脱落之髮一者上、則買レ之、淸水洗淨數遍、而後大小長短擇レ之聚レ之、隨二婦人之所一レ求、而造二髮(/○)添(ソヘテ/○)一、
p.0465 加文字 守貞云、〈○中略〉昔ノオチヤナヒバ、落髮ハ無乎ノ略語也、今世無二此業一、而モ紙屑ニ雜ル等ヲ集メ、或梳夫ヨリモ買集ムナルベシ、蓋梳夫ノハ、男髮ニテ短キ故ニ、髢鬘等ニハ不レ用歟、又鄙ニハカモジ、カヅラ、トモニ用レ之コト稀故ニ、落髮ヲ都會ニ集テ、多クノ中ヨリ、長キヲ擇用フナルベシ、
p.0465 たけのかづらをもてるおちやなゐ(○○○○○)
桶ゆひは不斷こがしやのみぬらん
p.0465 髮文字掛ケ 總高三尺八寸、長四尺五寸、羽目板、左右端之出三寸五分、足高四寸、長一尺二寸、巾三寸三分、
p.0465 髮心 凡造二假髮一家、謂二髲(カヅラ)屋一、
p.0465 籠耳草子に、男女所業のかはれることをいひて、御池長者町には男のせんだく綿つみあり、やがて女のかご舁、男のおちやないも出づべきにやと、あるまじきをいひしかど、おなじ業なるかつらやは、男の職となれり、
p.0465 諸職名匠諸商人
鬘(かつら)屋 新橋南二丁目 能鬘師 通鹽町 よしのや半右衞門 堺町 とこの六兵衞
p.0466 かつら所〈幷かもじ〉
〈四條河原町角なはて三條下ル町〉 津國屋七兵衞 祇園町 染川
p.0466 金銀木竹土石
髮もじ 鬘師の外に、古へより烏丸邊に賣來れり、男女のそへ作り髮なり、
p.0466 惟成爲二秀才一、雜色之時、花逍遙ニ一條一種物シケリ、惟成ニハ飯ヲ充タリ、而長櫃ニ飯二外居、雞子一折櫃、擣鹽一盃納レ之テ、仕丁ニ令レ擔テ取出之、人々感聲喧々、其夜與レ妻臥テ手枕入テ探ニ、下髮皆切レ之、此時驚問處、其時太政大臣ト申人、御炊ニ交易而、其長櫃仕丁シテ令二擔出一云々、件妻敢無二歎愁之氣一常咲云々、
p.0466 陶公少有二大志一、家酷貧、與二母湛氏一同居、同郡范逵素知レ名、擧二孝廉一〈逵未レ詳〉投二侃宿一、于レ時冰雪積レ日、侃室如レ懸レ罄、而逵馬僕甚多、侃母湛氏語レ侃曰、汝但出レ外留レ客、吾自爲レ計、湛頭髮委レ地、下爲二二髲(○○)一、〈一作レ髢〉賣得二數斛米一、斫二諸屋柱一、悉割レ半爲レ薪、剉二諸薦一以爲二馬草一、日夕遂設二精食一、從者皆無レ所レ乏、〈○中略〉逵及レ洛、遂稱二之於羊晫、顧榮諸人一、大獲二美譽一、
p.0466 むとくなる物
かみみじかき人の、かづらとりおろして髮けづる程、
p.0466 見ぐるしきもの
色くろふやせ、にくげなる女のかづらしたる、
p.0466 物へ行人にかづらをやるとて
けづりこし心もしるぐ玉かづらたむけの神になるぞうれしき
p.0466 五せち所のこと
わらはしもづかひのさいし、ひめ君のかづら、かむざし、さしぐしとりぐして、うちみだりのはこ のふたにいれて、二かゐにおくべし、
p.0467 一かづらは、いれぬさきには、かみを一ところゆふなり、〈○中略〉
一げすはまゆつくらず、かもじかけず、わきめあるべからず、
p.0467 コノ七月、〈甲申〉或所ニテ樂善坊ニ逢タリ、ソノ時、以前ノ戯場ノコトモ聞タル中、〈カツラ是レハ頭ノ當ル所ニ、銅版ヲ首形ニナシテ、髮ヲウヘタルモノナリ、俳優ノ稱ニハハブタヘト云フ、〉ト云テ、今一般ニ用ユルハ以前ハナシト云タルユへ、何ツノ頃ヨリ始リタルヤト云ヒタレバ、王子路考ノ頃ヨリト云キ、〈王子路考トハ、名ハ瀨川菊之丞、王子村ノ人ナリ、頃ハ松平南海懇意セラレシモノナリ、予モ能ク知ル、〉然レバ未ダ百年ニハ餘ホド足ラザルコトナリ、其前ハト問タレバ、女形ハ皆地髮ニテ髢ハ用ヒズトゾ、〈○中略〉男形ハ事ニヨリカツラモアリタルガ、皆入レ髮計ニテ、鉢カネノツキタルモノナシトゾ、然ルニ今ハ侯第ノ婢女ナゾ、狂言トテ爲ル者、地髮ノ飽迄アルニ、强テカツラトテ冒ルコト、其本ヲ知ラザル由リ起ル、
p.0467 内親王禮服
一品禮服、寶髻、〈謂以二金玉一飾二髻緖一、故云二寶髻一也、〉四品以上、毎レ品各有二別制一、〈○中略〉
女王禮服
一位禮服、寶髻、五位以上毎二位及階一、各有二別制一、内命婦准レ此、〈○中略〉
内命婦禮服
一位禮服、寶髻、〈○下略〉
p.0467 朱云、各有二別制一、唯爲二寶髻一也、一品以下四品以上並同、著二深紫衣一、以不、答並同无レ別也、
p.0467 宮中行樂詞八首
小小生二金屋一、盈盈在二紫微一、山花插二寶髻一、石竹繡二羅衣一、〈○下略〉
p.0467 凡純縹〈○縹恐褾誤〉幷寶髻、及紕桾〈○桾恐裙誤〉剪綵作紐等莫レ禁、
p.0468 寶髻令を考るに、一品以下四品已上各別製あり、女王五位已上、位及階毎に各別製あり、内命婦また位及階をわかつ事、女王に准ふ、義解に金玉を以て髻の緖をかざる故に、寶髻といふと見えたり、又西宮抄に朝拜供奉の女房の裝束を記せし中に、有レ徽不レ載二儀式一と見えたり、令に徽てふ物をいはざるは、禮冠の徽、禮冠にはなれざれば、別にのせられず、是にならひて内親王女王内命婦の寶髻のしるしも、別に載られぬ也けり、〈○中略〉又北山抄卽位の條に、不レ用レ簪用レ纂、是位驗也と記して、首書に可レ用二徽字一とみえたれど、此頃旣に禮服廢れて異説のみ多し、まして婦人の禮服は、ことに變りし也、〈○中略〉考るに、唐の兩博髻も、髻の緖につくるならで付べき處なし、且寶鈿を飾るなれば、此朝に寶髻てふ物則是也、但唐の兩博髻にたがへるは、禮冠に准て、徽をくはへて、品位及階をわかてるのみ、されば寶髻と名をかへられしにぞ有ける、其徽は禮冠の徽に同じかるべし、左右の博鬢より彫櫛の前にわたをつけて、その上に徽をたてし事しらる、〈實躬卿永仁六年御卽位記に、伯家褰帳女王雜事、文保二年の記を引て、位驗一頭、釵子上居二金鳳含玉一顆一、高一寸、長一寸とあり、釵子の上に居といへる、い土ゞきの前にあたれる、是古への遺風也、但その徽金鳳なることは物にみえたれど、寶髻旣にたへたれば、建べき所なきまゝに、徽の下に鐶などして、釵子もてかためしなるべし、〉
p.0468 朝服
一品以下五位以上、去二寶髻及褶舄一、〈○註略〉以外並同二禮服一、六位以下初位以上、並著二義髻一、謂以二他髻一飾二自髮一、是爲二義髻一、
p.0468 穴云、寶髻時直如レ常耳、義髻之處亦如也、〈○中略〉釋云、以二他髻一著二飾己髻一、號爲二義髻一也、蓋義命令之意也、穴云、六位以下著二義髻一、五位以上無レ髻而參耳、朱公、六位以下初位以上著二義髻一志何、若不レ得二寶髻一代歟何、又五位以上、尋常之日、用聽不何、答不レ聽者、額云、可レ聽者何、
p.0468 人物以レ義爲レ名
人物以レ義爲レ名者、其別最多、仗二正道一曰レ義、義師、義戰是也、〈○中略〉自レ外入而非レ正者曰レ義、義父、義兒、義兄 弟、義服之類是也、衣裳器物亦然、在レ首曰二義髻一、在レ衣曰二義襴、義領一、合中小合子曰二義子一之類是也、
p.0469 天寶初、貴族及士民好爲二胡服胡帽一、〈○中略〉楊貴妃常以二假鬢一爲二首飾一、而好服二黃裙一、近二服妖一也、時人爲二之語一曰、義髻抛二河裏一、黃裙逐二水流一、元和末、婦人爲二圓鬟椎髻一、不レ設二鬢飾一、不レ施二朱粉一、惟以二烏壹一注レ脣、狀似二悲啼者一、圓鬟者、上不二自樹一也、悲啼者、憂恤象也、
p.0469 櫛筓
令に〈○中略〉朝服の條に、内命婦以上寶髻を去とありて、六位已下の朝服義髻を著るてふ文あるは、内命婦已上も朝服には、寶髻をばされども、義髻はさらざる也、但禮服條に義髻をいはざるは、ふるくより男の髻をみづらといひ、女の髻をかづらといふは、みづらは自髮、かづらは假髮のことにて、則令にいふ義髻也、かゝれば寶髻を著とても、去べきうたがひなし、さればいふべくもなければ也、
p.0469 〓〈色交反、髮也、加美乃須惠、〉
p.0469 假髻 釋名云、假髻〈和名須惠〉以レ此假二覆髮上一也、
p.0469 假髻〈○中略〉按、北堂書鈔、引二晉中興書一云、徵祥説曰、泰元中、公主婦女緩鬢假髻、以爲二盛飾一、用レ髮豐多、不レ可二行戴一、乃先于二籠上一裝レ之、名曰二假髻一、晉書五行志同、恐非二皇國所二言須惠一也、周禮追師、掌二王后之首服一、爲二副編次一、鄭注、副之言覆、所三以覆レ首爲二之飾一、其遺象若二今步鯀矣、編、編二列髮爲レ之、其遺象若二今假紒一矣、次、次二第髮長短一爲レ之、所レ謂髲髢、然廣雅、假結謂二之〓一、〓卽副字、後渡書東平憲王蒼傳注云、副、婦人首飾、三輔謂二之假紒一、王念孫曰、如二鄭説一則步搖者副之遺象、假結者編之遺象、而廣雅假結謂二之〓一者、副之異二於編次一者、副有二衡筓六珈一以爲レ飾、而編次無レ之、其實副與二編次一、皆取二他人一、大眞外傳云、妃常以二假髻一爲二首飾一、而好服二黃裙一、集異志、後齊武平時、婦人皆剪剔、以著二假髻一、而危邪之狀如二飛鳥一、至二於南面一則髻心正西、伊勢本假髻作二假髮一、那波本同、伊勢廣本作二假髻一、並非、按覆髮疑 覆髻之訛、
p.0470 皇后謁レ廟、〈○中略〉假結步搖簪珥、
p.0470 皇后謁レ廟〈○中略〉親蚕、〈○中略〉首飾則假髻步搖、
p.0470 特髻
燧人始爲レ髻、至レ周王后首服爲二副編一、鄭云、三輔謂二之假髻一、今特髻其遺事也、二儀實錄曰、燧人氏婦人束レ髮爲レ髻、髻繼也、言女子必有レ繼二於人一也、但以レ髮相纒而無二物繫縛一、
p.0470 假髮〈スエ 假二覆髮上一者〉 假髻〈同〉
p.0470 すゑ 假髮をすゑといふ、倭名抄に見えたり、新撰字鏡に〓を、かみのすゑとよめり、末の義なるべし、今はそへといへり、副の義、本草にいふ、髮、髲也、今琉球より出る者を上品とす、其髮鬒黑にして長き故也といへり、類聚雜要五節理髮具に末額髮といへるも是なるべし、
p.0470 假髮は和名須惠なり、〈○中略〉今の婦女子は是をかもじと唱へ、俳優の用ふるものをかづらといへり、並に俗語なり、假髮の和名須惠とは、これを假りて、髮の末を長くするの義なるべし、
p.0470 びんみのを髮に入る事
和名抄容飾の具の部に、釋名云、假髮、和名須惠、以レ此假二覆髮上一とあるは、今いふ髩蓑(びんみの)なり、此假髮といふ物、西土にても、いと古くよりありし事、和名抄に引たる漢の劉煕が釋名の外書見多けれど、さのみはひくもうるさし、同書、〈○倭名抄〉假髮の次に蔽髮と出して、釋名云、蔽髮、和名比太飛、蔽レ髮前爲レ飾、此すゑ、ひたひをもちふる事、雅亮裝束抄五節の舞姫の所にみへたり、
p.0470 ひめ君のさうぞく
とらの日〈○中略〉すゑ(○○)、ひたひ、かみあげまうく、
p.0471 后宮〈○中略〉よの中にありがたき御すへ、ひたひ、えりぐし、さいし、もとゆひ、おほ宮づかへのはじめの御てうどたてまつり給、
p.0471 主上六波羅行幸事
去程ニ主上ハ北ノ陣ニ御車ヲタテ、女房ノカザリヲ召テ御鬠(カヅラ)ヲ奉ル、〈○中略〉別當惟方、新大納言經宗、ナヲシニ柏ハサミシテ供奉シ、藻壁門ヨリ行幸ナシ奉レバ、此門ハ金子平山堅タリ、家忠如何ナル御車ゾト申セバ、別當上臈女房達ノ出サセ給フ也、惟方ガアルゾ、別ノ子細アルマジト宣ヘドモ金子猶怪テ、弓ノハズニテ簾カキ揚、松明振入テ見奉レバ、二條院御在位ノ始、御歲十七ニ成給上、龍顏本ヨリ美シク御座スニ、花ヤカナル御衣ハ被レ召タリ、誠ニ目モマヨフ計ノ女房ニ見ヘサセ給、中宮ハ御座ス、爭見トガメ奉ラン、無レ故落シ進ラセケリ、
p.0471 加文字 守貞云、〈○中略〉假髻ハ髷ニノミ添ル髮歟、今京坂ノ男子曲ノ刷毛中ニ短キ假髮ヲ納ル人アリ、江戸ニハ不レ用レ之、是假髻和名須惠ト云者ニ近シ、今ハ髷ノ心ト云、或ハ竹串、木串等ヲ以テ代レ之モアリ、
p.0471 蔽髮 釋名云、蔽髮〈和名比太飛〉蔽二髮前一爲レ飾也、
p.0471 按通典、魏制、貴人夫人以下助レ蠶、皆大首髻七䥖蔽レ髻、北齊因二前制一、丙命婦以上蔽レ髻、唯以二䥖數花釵多少一爲二品秩一、晉書輿服志、貴人、貴嬪、夫人助レ蠶、太平髻七䥖蔽レ髻、長公主公主見會、太平髻七䥖蔽レ髻、又北堂書鈔、載二成公綏蔽髻銘一、則蔽髮、髮前、恐皆髻字之訛、然不レ知二蔽髻比太飛同否一、
p.0471 蔽、髮前爲レ飾也、
p.0471 蔽髮〈ヒタヒ、容飾具〉
p.0471 貴人、貴嬪、夫人、助レ蠶服二純縹一、爲二上輿下一皆深衣、制太平髻七䥖、蔽髻、黑玳瑁、又加二簪珥一、〈○下〉 〈略〉
p.0472 ひたひ 和名鈔に蔽髮をもよめり、額の義に出たり、女の具也、平額、居額の別あり、〈○中略〉岡部氏の説に、内宴の樣書たる古き繪に、舞妓の髮あげたる形と、御食まゐらする采女が髮あげたるひたひの樣、うなじのふくらなど、大かたはひとしくて、舞妓は寶髻をし、采女はさる飾せぬ也、雅亮が五節の事書るに、おきびたひ、すゑびたひといへるも是也といへり、
p.0472 びんみのを髮に入る事
すゑ、ひたひをもちふる事、雅亮裝束抄五節の舞姫の所にみえたり、此ひたひ後世にはびんぶくといひけるが、女房裝束着用次第圖にみえたるをこゝに出す、
○袿(うちうけ)ビンブク之躰とあり
○此圖ハ東山殿時代の物也
ビンブク髪の毛にてろくの如き物を三つ作り用ふトあり
p.0473 ひめ君のさうぞく
とらの日、〈○中略〉すゑ、ひたひ(○○○)、かみあげまうく、
p.0473 一理髮具
末、額髮二流、〈末七尺、但不レ注二定文一内々事也、〉
p.0473 なかたゞの中將の御もとより、蒔繪のをきぐちのはこよつに、ぢんのさしぐしよりはじめて、〈○中略〉よき御すゑ、ひたひ、さいし、もとゆひ、えりぐしよりはじめてあり、
p.0473 后にたちたまひけるとき、冷泉院の后宮の御ひたひをたてまつり給けるを、出家のとき返したてまつり給とて、 東三條院
そのかみの玉のかざしをうち返し今は衣のうらをたのまん
p.0473 玉のかざしとは、ひたいとて、女房の裝束の時、髮あげとて、おほひかづらのやうにする物也、
p.0473 みづらをゆふこと
ちごをさなくて、かみみじかくは、べちにつけがみ(○○○○)といふものを、もとゆひたるうへにゆひつけてゆふなり、そのかみなどを、よくゆひなどして、おとしなどすまじきなり、
p.0473 康和五年十二月九日甲寅、今日威德〈○藤原忠通〉殿上、〈○中略〉於二出居一威德著二裝朿一、〈○註略〉裝束結レ鬟、〈○註略〉鬟具ハ打亂筥ニ敷二檀紙一置也、〈付髮(○○)、紫糸フツヾカニヨリタル三筋、油壷油綿を入、○下略〉
p.0473 久安元年十二月四日甲辰、一昨日攝政〈○藤原忠通〉參二鳥羽一、奏請レ延二引行幸一、勅曰莫レ延、傳聞、行幸間、御總角付髮、於レ路無レ故落失了云々、若不祥之象歟、後日頭中將語云、件付髮數日置二殿上御倚子邊一、裹レ紙置之、不レ知二何人所爲一、
p.0473 治承四年四月廿二日甲辰、今日皇帝〈○安德〉於二紫宸殿一〈○註略〉卽位、〈○中略〉藏人頭重衡朝臣云、御禮 服悉著御、於二御冠一者、或時著御、或時奉レ取之、御鬟上所二著御一也、有二付髮夾形總角一、右宰相中將實守卿奉仕之、〈○中略〉後日光長云、御鬟右宰相中將〈實守〉奉仕之、只以二紫糸一引二渡御頭上一、左右七八寸許垂之、付髮夾形等只依レ爲二物具一雖レ設之、此程少年御時不レ用之由、宰相中將被レ申、而三位中將賴實關二此事一被レ申云、凡此説不レ聞事也、於二凡人一者有二垂鬟一、於二天子一一切無二此儀一、必用二夾形總角付髮一事也、於二鬟説一者、顯綱朝臣爲二規模一傳二道經一、道經傳二淸隆卿一、淸隆卿傳二左大臣一、左大臣被レ傳二我故德大寺左府一者、雖レ知二子細一、依レ爲二先達一、假令被二申合一之許也、宰相中將者幼年之間、更不レ能レ傳二德大寺左府訓一、一流德大寺左府記委細、守二彼所一レ奉候也者、倩案二此事一、難レ結二御鬟一之程、年少帝王近衞院以後歟、彼説會釋起二此時一歟、尤難レ决事也、
p.0474 關東昔侍形義異樣なる事
諸侍の形義異樣に候ひし、〈○中略〉若殿原達は、髮さきをもみ、ふさのごとくにゆひ、又つけかみとて別にかみさきをこしらへ、うらをもみ、ちゝみをよせて、花ふさなどのごとくに作り、付髮してゆひ、〈○下中〉
p.0474 蟬髩插つとさし(○○○○) 畿内にてつとさし、東國にてたぼさし(○○○○)といふ、〈關西にて云髮のつとといふを、束國にてたぼといふ、〉中國西國共につとばね(○○○○)、土州にてつとさし、又つとばり(○○○○)と云、加賀にてつとかうがい(○○○○○○○)と云、
p.0474 一延享の比なりけり、〈翁(森山孝盛)が七ツ八のころ〉女子のたぶさし(○○○○)といふもの初て流行出て、父なる人の二條の在番に居られけるが、便りの序に、姉なる人のもとへ、とゝのへて下し玉ひしを、母なる人をはじめ、召仕ふ女子どもまで、めづらしがりて、もてはやしたり、翁の子心にたしかに覺え居たり、尤鯨にてこしらへたるものなり、今はすたりて誰しりたる人もなし、
p.0474 たぼさし
今貴賤となく用ふるたぼさしと云ふ物は、寬政七八年の比、一橋殿御館の女中の召仕ふ婢女が 工風にて、原紙にて手づからたぼの形に作り、墨もて塗り用ひしに、髮結よかりしとて〈今とは少し異なる〉此部屋方にて、婢女多く用ひしに、作り樣粗なる故、損じやすきをいとひ、常に出入する小間物屋、神田明神下に住める兵藏と云ふ者に、かやうの物をとて、其たぼさしをあたへて作らせよとて、誂ひしより世に流行せしとぞ、〈○中略〉後々に至りては、世上一統の用具となり、今猶殘れり、
京山按ずるに、寬政年間、翁の隨筆賤のをだまき寫本といふ物に、〈○中略〉鯨にて作りたる物なりとありて、圖をいだしたる傍註に、此物今すたれて誰しる者なしとあり、其後小林歌城翁〈御旗本隱居〉鯨にて作りたるたぼさしの、いと古きをおこされて、時代の考證を尋ねられしに、かのをだ卷にのせたる圖と同じ物なり、〓形圖の如く總長六寸、左右の張出し四寸なり、をだ卷にある延享の物に定むるよしは、此頃の女のたぼ先、かもめづとゝ名づけ、たぼのさがり、襟に至る程なり、右の圖のたぼさしの丈の長を以て、延享の物と定むべし、をだ卷に、此物今すたれて誰知る人もなしとあれば、近來のたぼさしは、天野翁の説の如く、婢女の作り始めしは、古今の闇合にて、いとめづらしき説なるかし、
p.0475 たぼさしの起立
今より四十年ばかり以前に、たぼさしといふ物いできて、市婦等おほかたは、是を用ひて重寶とし、追々輕便つくりかたのものありて、今もすたらず、はじめていできし時は、珍しと人々いひけるが、〈○中略〉賤のをだ卷〈寫本〉をみれば、たぼさしは近古ありける物なり、をだまきに〈○中略〉圖を出し、傍註に此物今すたれて、誰しりたる人もなしとありて、ちひさく圖をいだしたるに、寸法をしるさず、ゆゑに大、小辨じがたかりしに、一日或貴人よりおほせに、是は昔のたぼさしなるよし、時代の考證あらば記してよとありしが、をだ卷のづにたがはざれば、うつしとゞめし圖左のごとし、 延享年中たぼさしの圖
鯨
細
工
總長サ六寸
此所はば五分
横の張り四寸
中は高く左右の張り上へ反る
此所にすこしそりあり髮の根もとへ緖つけしなるべし
按に、元文延享の頃、かもめたぼ(○○○○○)とて、えりのあたりまではり出す結やう流行たる事、物に見えたり、此たぼさし長サ六寸あるを以て、其たぼの長かりしを知るべし、
p.0476 朝湯より晝前のありさま
〈辰〉いへさ何も移りかはる物でごさいますよ、鬢插を入はじめた事は、近頃のやうに存ました、その前は一面に、〈巳〉アイサ、みんな摘髱(つまみたぼ/○○)でございました、それがおまへさん、髱插だの張籠だのと、調法なことになりました、獨手に髮が結はれます、
p.0476 鬢さしは、安永八年はやり出て、此頃すたれ、〈(中略)寬政中より曲の中に入る紙のはりこ、同はりこのたぼざし(○○○○○○○○)は、烏賊の口より出るとびからすといふ物のやうなる形なり、曲のはりこは、島田、丸曲、島田くづし等あり、それも曲の大きなるがはやりて、はりこも大に造りたりしが、やがてまた曲少くなり、次第にはりこも意巧を加へて、のぎ筋を毛筋の如く付て作る、たぼさしも色々かはり、上方のつとさしにならひ、はりがねを紙にて卷、漆にて塗たるもの今用る所なり、〉
p.0476 びんさし
今を去ること六十餘年前、天明より寬政にわたり、婦人の髮にびんさしとて、鯨又はべつかふなどにて、鍋のつるのやうなる物を作り、是に髩の毛をかきなで、びんを張り出して結ふ風はやりし事、今六十以上の人の知る所なり、大坂の俳諧師匠伊原西鶴が、貞享の比の遺稿を、元祿八年に板行したる俗つれ〴〵〈卷四〉に、振袖の女をゑがき、髮の風、著服、足袋、はき物にいたるまで一々に系を引て細に傍註したる中に、前髮の所に系を引て、ふきまへ髮、くぢらのひれのまがりたる物を入て、髮のうごかぬやうにとあり、野群談〈享保二年、大坂自笑其磧合作、〉卷二、當世の女しゆは、〈○中略〉水牛の髩あげ(○○○)、針䤼入りのはね元結とあり、享保のころも、つとあげ(○○○○)といふ物ありしとみへたり、是びんさしの 萌なり、さてびんつけ油はじまりしよりのちの、草子どもにある〈○註略〉婦女の圖に、びんを張出したるはさらになし、〈○中略〉然るに安永八年の京板に、當世かもじ雛形とて〈全一册〉婦人の半身をゑがき、種々の髮の風を圖して、一々髷と髩との名をしるしたる圖二十二種ある中に、びんさしを入れたる圖二ツあり、因て思ふに、天明にいたりては、びんさしして髩を張出し髮の風、京に流行たるが、江戸の市婦にうつり、寬政享和の比及までも、婦としてびんさしならざるはなかりしに、四十年前の文化にいたり、びんさしをすてゝ、びんをちいさくふくらめゆふを、おとしばらげと唱へて京よりうつり、〈京は安永の末に此一風ありき〉をり〳〵は京婦にもみへしが、今は世上翕然として此風なるは、復古(むかしにかへり)しともいふべし、〈○中略〉西土にもびんを張てゆふ風ありしなり、
p.0477 髩の事
寬延寶曆より、圖〈○圖略〉の如く、今一ト際高く成たり、是をさし髩といひし也、すべて延寶の始頃より、髩の形長く成たれば、下よりかゝゆるものなくては叶はざる理也、〈○中略〉傾城野群談〈貞享二年印本、自笑其磧兩作、〉二之卷、歌比丘尼の詞に、當世の女衆は、厨糸つむぐまで玲瓏の玳瑁くし、〈○中略〉水牛の髩上、針線入のはね髩云々、また江戸紫〈享保十六年印本〉髩刺かじやまで寐苦し留守の蚊帳、といへる前句附もあれば、享保頃ありし事は論なし、予〈○生川春明〉しば〳〵案ずるに、此髩刺といへるもの、稍古くより有しものとはみゆれど、何れの頃よりといふこと、たしかなる證書を得ざれば、委細には考記がたしといへども、心みにいはゞ、延寶の頃より用ひし物か、其故は先々も論ぜしごとく、當時髩の姿長く成たり、去ば下より拘ゆるものなくては止らざる理也、元祿初年頃、西鶴が作せし俗つれづれ四之卷に、美女の姿をあらはして云、吹前髮鯨の鰭の曲たる物を入て、髮の動かのやうにすと云事を載たれば、髩に物入る事は論なかるべきか、尚古書を嗉(あさ)り、たしかなる證を得て定むべし、〈再案ずるに、俗徒然に、髻さしの事を擧ざれば、此頃いまだもちひざりしか、又は時世粧を專にいわんとて、かけるものときこへたれば、其以前より有し物ゆへ、あらためては擧ざる物か、さ〉 〈だめがたし、○中略〉又云、無論里問答〈刊行年號なし、案に明和年間なるべし、〉一之卷、〈○中略〉髩指は髩張と姿をやつし、〈(中略)とあれば、髩刺は明和の頃廢りし物成べし、〉
p.0478 婦女ノ髮結フニ、鬢サシ迚、頭髮ノ中ニサスモノ、予ガ幼少ノ頃迄ハ無リシ、全ク豔冶ノ爲ニ設タル也、但諸侯大夫士ナドノ婦人ハ左有ベキガ、以前ハ娼妓ノ類マデ鬢サシバ無キナリ、予〈○松浦淸〉十蜍年前カ髮樣ヲ古風ニ復シタリ、侍女ノ輩ニ申付タルガ、今ニテハ鬢サシナクテハ、髮ハ結レズト云ユエ、予ト同齢ナル老婦ニ、以前ハ何ニシテ結タルカ、今ニテハ老髮ノ少キモ、彼物無テハ結申サレズ迚サテ止ヌ、〈○中略〉又今ノ如ク鬢サシ入ル故ハ、以前ハ髮ヲ額ヘカキ下ゲテ、アトニテ髮ノ根結ヲナシタル也、夫ヲ伊達ニ爲ン迚、鬢指ヲ入タル故、如レ今上へ擧リタル也、因試ニ今モ鬢サシヲ拔テ見レバ、ヤハリ髮ノ風ハムカシノ如ク成ル也、
p.0478 大略曆寶頃ノ髩差ノ圖〈○圖略〉
鯨髭制也、上品ハ水牛、角ヲ以テ製レ之、當時髱ヲ高クス、故ニ此物ノ制ヲ更メ製ス、
鬢張、京坂ノ名、鬢差、江戸ノ名也、此器ヲ用フルコト、寶曆以來也ト或書ニ云リ、三都トモ然ル哉、追考スベシ、
安永二年茶番狂言ノ册子ノ、世話ヤキ老母ガ詞ニ、今時ノ女ハ、鬂差ノ何ノ角ノト埓ガ明ヌ云々、四天王伶人櫻ト云院本曰、ワシヤ髩裏(ツトウラ)ト鯨ノノタシ、是ガナイト燈籠鬂出來ヌ、故ニ大義シタ云云、節信曰、髩裏ト云ハ、タボサシ張出ス鬂差也、
p.0478 婦人首飾、昔は首飾なし、〈○中略〉賢女心化粧に、姑六十年以前の事を〈延享よりなれば、貞享頃に當る、〉定規にしで、むかしも今も同じやうに思はれ、嫁の髮みるに、髩の中に鯨の墨遣を二三本も入らるゝは、何の爲にせらるゝぞ、吾は此年まで髮の中には、小枕の外は、蒔繪の木櫛に黑き筓をさして花をやりしに、嫁のあたまをみれば、〈○中略〉此器西鶴が頃には未だあらず、〈○中略〉其磧が 鯨の墨遣(ヤリ)といひしが始なり、
p.0479 髩の事
古老茶物語〈享保中の寫本喜早因幡著述〉寬政頭書に、鬢張(○○)といふ物は、明和の始頃よりはやり出て、寬政の頃にすたれり、又寬政の始頃より、針線を丸くゆがめ髩へ入る、天明の頃の髩は、帶をたゝみて置しやうになりたり、
p.0479 髩の事
安永の末か、天明の始か、髩入(○○)といふ物はやれり、其製は、厚き紙にて 如一レ此造り、髮を上下分ち、其なからに入て結び、又は是に綿をいれて結へるとかや、〈かくいへるは、予(生川春明)慈母在世の時、聞おきたる話也、予は文化中に出生したれば、まのあたり見ざること故、違ひもあるべし、(中略)針線を丸くゆがめてとは、今專用ふる、髮入の事也、是も古製は、今のさまとは異にて、三階或は五階七階など、針線にて段を造りしとかや、〉
p.0479 今世〈嘉永中也〉京坂式正所用鼈甲製
髷止〈ワゲドメト訓ス○圖略〉 曲止ハ從來江戸ニテ、無用之具也、
同京坂所用
髷止〈○圖略〉 穀餅形ト云、中年以上ノ婦、此髷止ヲ用フ、此形ノ耳搔ヲ撥耳ト云、
p.0479 鬢さしは、安永八年はやり出て、此頃すたれ、小枕(○○)は町方にて、文化の初ころよりすたれて用ひざれども、今は髮少なき者多く、小枕付の入髮をば用るなり、小枕もはじめは、付木などを輪にして用ひたり、寶曆明和のころなり、
p.0479 鬠 孫愐切韻云、鬠〈音活、和名毛度由比、〉以一レ組束一レ髮也、
p.0479 鬠〈或 モトユヒ〉
p.0479 鬠〈モトユヒ、音活、所二以一レ組束一レ髮、〉
p.0480 鬠(モトユヒ)〈切匀、以レ組束レ髮者、〉
p.0480 髮捻(カウヒネリ/○○)
今本結(モトユヒ)、元謂二髮捻一、中華所レ謂鬠也、
p.0480 一新宮遷奉御裝束用物事
御加美結(○○○)紫糸八條〈長條別三尺〉
p.0480 元結〈文七元結の名義はねもとゆひ〉
元結は髮ゆふに必用の物なれば、上古にもありつらんが、淺學には見あたらず、萬葉集に、元結をよみいれたる歌あまたあれど、糸なるも紙縷なるもあるべし、和名抄〈容飾具部〉に、鬠、和名毛度由比、以レ組束レ髮とあれば、糸なるが元結の本義なり、されども女の元結はむかしも飾と實用との二ツあり、今も長かもじの繪元結は飾、常に用ふる文七元結は實用なり、飾なるは人の目につき、實用なるは人の目につかず、されば中昔の物語のるゐに元ゆひとあるは、みな飾の元結なれば、今の文七元結の考證にはなしがたし〈○下略〉
p.0480 寬永の比までは、婦女細き麻繩にて髮を束ねて、其上を黑き絹にて卷きしに、そのゝち麻繩をやめて紙にてゆふ、越前國より粉紙にて元結紙といふ物を造り出し、海内の婦女みなこれを用ふ、それよりきぬにてまくこともやみぬと、吾父まさしく是を見てかたり聞かせたり、
p.0480 古代質素幷小倉色紙の事寬永の頃迄は、今の元結といふものなくて紙を細くたち、こよりにして髮をゆふ、其節までは、老人は紙を引きさきて、其儘にしごきて是にて髻を括り、其紙の先をもきらずとぞ、故に今古き繪草紙を見るに、其の如き髮つきのもの多し、古風なる事なり、若きものは、だてにとて、其しごきたる紙をわけめへはさみて置きなどしける、故に今も朝比奈などの畫は、其遺風を移すと覺ゆる なり、
p.0481 もとゆひ 寬永の比までは、士庶人の婦女、細き麻繩にて髮を束ねて、其上を黑き絹にて卷きたりといへり、今は捻紙絛を用う、こをひねりもとゆひといふ、寬文の頃より也、
p.0481 髮捻 今本結(モトユヒ)、元謂二髮捻一、中、華所レ謂鬠也、倭俗杉原紙、或奉書紙、又長永(タケナガ)紙、幅一寸許直切レ之、長二三丈捻レ之、是謂レ捻二髮捻一、而後浸二水或米泔一、而取二出之一、左右牽二張之一、以二布巾一緊急拭レ之謂レ凌(シゴク)、而日乾、短長隨二其所一レ欲而截レ之、束レ髮而結レ之、
p.0481 むねつぶるゝ物
もとゆひよる
p.0481 宮の御もとゆひよりてまゐり給ふことは、たゆふどのなんつかうまつり給しを、北の方うせ給うて、いみはてゝの程にめしたるに、つかうまつりおくとなんみ侍おきし、今もとめて參ちんと聞えおき給て、三四日ありて、物の中より侍けるを見たまふるにも、哀なること多くなどきこえ給へるに、
ほしわぶる袖のなかにや有つらんこれをぞ玉のをにはよらまし御返し
玉のをを君がためにとよりをきて衣のうらを見ずぞ成にし
p.0481 諸家子弟元服
童五位元服、〈○中略〉本結三筋、〈長(○)一、短(○)二、〉
p.0481 一元服次第
打亂筥廣蓋兩説、小本結(○○○)三筋可レ入レ之、
p.0481 一荒祭宮正殿裝束 紫元結(○○○)二條〈長四尺〉
p.0482 太神宮裝束
髻結紫絲八條、〈長五尺〉納二柳筥一合一、〈方一尺〉
p.0482 荒祭宮裝束
髻結紫絲二條〈長四尺〉
度會宮裝束
髻結紫絲四條〈各長三尺〉
p.0482 題しらず よみひとしらず
君こずばねやへもいらじこ紫我もとゆひに霜はをくとも
p.0482 おまへより内侍宣旨うけたまはりつたへて、おとゞまいり給べきめしあればまいり給、御ろくのもの、うへの命婦とりてたまふ、しろきおほうちきに、御ぞひとくだり、れいのことなり、御さかづきのつゐでに、
いときなきはつもとゆひにながきよをちぎる心はむすびこめつや、御こゝろはへありておどろかせ給ふ、
むすびつる心もふかきもとゆひにこきむらさきの色しあせずば、とそうして、ながはしよりおりて、ぶたうし給ふ、
p.0482 康和五年十二月九日甲寅、威德〈○藤原忠實子忠通〉殿上、〈○中略〉於二出居一威德著二裝束一、〈○註略〉裝束結レ鬟、〈○註略〉鬟具ハ打亂筥ニ敷二檀紙一置也、〈付髮紫糸フツヽカニヨリタル三筋〉
p.0482 一可レ儲二本所一物
本結五筋〈一筋紫絲、舞姫料、〉
p.0483 かはらのおとゞの御れいをまねびて、わらはずいじんを給はり給ける、いとおかしげにさうぞき、みづらゆひて、むらさきすそごのもとゆひ(○○○○○○○○○○○○)なまめかしう、たけすがたとゝのひ、うつくしげにて、十人さまことに今めかしうみゆ、
p.0483 なまめかしきもの
五節のわらは、なまめかし、〈○中略〉
だいりは五節のほどこそ、すゞろに只ならで、見る人もおかしうおぼゆれ、〈○中略〉淸凉殿のそりはしに、もとゆひのむらご(○○○○○○○○)、いとけざやかにていでゐたるも、さま〴〵につけておかしうのみ、うへざうしわらはべども、いみじき色ふしとおもひたる、いとことはり也、
p.0483 一可レ儲二本所一物
本結五筋〈(中略)四筋村濃、下仕料、〉
p.0483 たいらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、おとこ〈○後一條〉にさへおはしましけるよろこび、いかゞはなのめならん、〈○中略〉御ゆどのはとりの時とか、〈○中略〉女房二人〈○中略〉うすものゝうはぎ、かとりのも、からぎぬ、さいしさして、しろきもとゆひ(○○○○○○○)したり、かしらつきはへておかしくみゆ、
p.0483 承應明曆の比、新町山本芳順が家に、勝山といふ太夫ありし、〈○中略〉髮は白き元結にて片曲のだて結び、勝山風とて今にすたらず、
p.0483 正述二心緖一
肥人(ウマヒトノ)、額髮結在(ヒタヒガミユヘル)、染木綿(ソメユフノ/○○○)、染心(ソメシコヽロハ)、我忘哉(ワレワスレメヤ)、
p.0483 延寶マデハ有合ノ絹切ニテ包ムナリ、元祿ヨリ白キ晒シ木綿ニテシボリ、其儘ムスブ、是風延享ノ比迄用ユ、
p.0484 寬文ノ比、黑糸(○○)ニテ髮ヲ結フコトハヤル、好色ナル者ニアリ、
p.0484 保延二年十二月八日辛丑、夜前梳レ髮、今日取二本鳥一、改二紙本結(○○○)一用二紫本結一、
○按ズルニ、本文ハ喪中紙本結ヲ用ヒシモノ此日除服、平常ノ紫本結ニ復セシナリ、
p.0484 すみける女のたえにけるがもとより、かみをもとゆひにしたるが、むすびながらあるをおこすとて、
年ひさにはかなき物はかみさびてふるき契のあせずぞ有ける
とあるかへし
いそのかみ結びおきてし元ゆひは古きながらに忘れやはする
p.0484 戸津坂本にて女人僧を逐て共に瀨田の橋に身をなげ大蛇になりし事かの婦人いほりにきたりて、御僧はいづかたへぞととへば、内衆たゞいま門へ御出といふ、婦人すなはち門を出でゝ、こゝかしこをみれば、二町ばかり南にその影みえたり、婦人そのまゝはしりゆく、急にはしるゆへに、藺金剛やがてやぶれて、はだしになりてはしりゆく、一回(ひとへ)むすぶおびはきれておち、かたびらのもすそは風にふかれてうしろへひるがへる、かしらは紙筋(カミヨリ/○○)きれて髮ながくみだれて、うしろによこになびく、命をすてゝはしりゆく、
p.0484 東宮御元服
二階南立二唐匣一、〈○中略〉第四層有二續紙等一、紙捻(○○)櫛巾也、〈永保入二例紙一違例〉
p.0484 紙捻(こより/○○)又髮捻(こより)と書
中華に云所の鬠なり、紙をひねりて髮の元を結ふにより元結といふ、近世までは、自分々々に紙を縷(より)て、おのれが髮を結ひたる也、
p.0484 上古ハ髩付油、或ハコキ元結ト云コトナシ、老若共ニ胡麻油ニテ梳テ、コヨリ元結ニテ結タ リ、
p.0485 摎元結(こきもとひ/○○○)
寬文のころより起る、紙捻をながく縷(より)て水にひたし、車にて縷をかけて水を摎(しごく)ゆへに、しごき元結也、
p.0485 髮置
髮置や正木のかづらこき本結 山夕
p.0485 紙捻(こより)又髮捻(こより)と書若衆女の長く用るは平元結(○○○)とて、紙を一寸ばかりにたちて卷そへしなり、
p.0485 元結
今のたけながといふ物、近きむかしは平元結といへり、それを髷へむすびて、はねそらしたるを、はねもとゆひとて飾としたるなり、
p.0485 本能寺にて明智日向守軍勢、本堂へ噇とおし込候時、〈○中略〉四方田何某と申者、脇の口より鐵炮さげ候て押込候所、蘭丸左の手に刀を提げながら、白小袖に、髮を修禪寺の平元結にて、茶筌髮に結候て駈出、何者に候やと詈候處を、四方田鑓にて突伏申候、
p.0485 袖の海の肴賣
行くに程なく小倉に著きて、朝景色を見るに、木綿鹿子の散し形に、茜裏をふきかへさせ、どしの帶前結びに平鬠太くすべらかしに結び下げ〈○下略〉
p.0485 摎元結(こきもとひ)
文七元結(○○○○)といふあり、是は紙の名也、至て白く艶ある紙なれば、此紙にて製するを上品とす、
p.0485 文七元結 元ゆひに文七元結とて、上品の稱とす、俗説に、これは切元結のことにて、ふるくは輪元結のみ、長きまゝ綰ねたるを、浪華の俠士雁金文七といふもの、常にさかり場にはいかいし、鬪諍あれば、生きて再びかへらざるの勇を示さんため、元結をゆひ切り、その死を决するをあらはしゝかば、切元結の短かきを文七元結と、人みないへりとかや、この説ひがことなり、案ずるに、紫一本に、永坂の下にて、文七髻結とて、名物の元結をこしらふなり、文七といへるものゝこしらへ侍るかとたづねければ、ある老人の物語に、文七といふは、元結にこしらふ杉原紙の印の名なりと申されき、元結車にてよるなりと見えたり、かく彼俠士の時代よりふるき名目なり、この説を正しとすべし、
p.0486 北の窻
わが栖む北鄰に蘆荻しげくおひて、笹阿(クマ)めなる地あり、茅場町といふ、〈○中略〉れいの男等、機車みつ輪もて來りて、くゐぜのかたはらにしつらひけり、文七といふ者、もとゆひこく所に成ぬる也、〈○中略〉元結こく音、ひるは日ぐらしに聞まじへて、又ことさらの心ちしたり、山姥の廻り來ぬ所にこそ、五百機たつるにはあらで、くる〳〵と卷とりたる車のたえまには、百舌の尾ふりの聲、したり顏なる虻蜂などの羽音にもかよひてけしからず、〈○中略〉
文七にふまるな庭のかたつふり 角
元結のぬる間はかなし虫の聲
大絃はさらすもとひに落つる雁
p.0486 はね元結(○○○○)、今あるものは、近頃のものとみゆ、もとは今いふ長(タケ)なが紙のたちし樣なるして結たるが、その末上にそりたるさま、古畫にかけるがある是なり、思ふに今はんがけと兒女子のいふめる、是ははねがけにて、はね元ゆひを省き云なり、かくて後、色々染紙して作れるも 出來つるなり、一代女草子、〈三〉金紙のはね元結といふ條あり、反(ソラ)せんが爲に、はりがねを入たるなり、世の人心、一針がね入のはね元結と見えたり、みな若ざかりの婦女が用ひしなり、今のごとく女の童のみの物にあらず、色芝居草子、やつはり髮は、大ていにはね元結も目にたゝず出し、鬂も少しつと有て、おくれの出たはうるさいもの云々、〈○下略〉
p.0487 古帳よりは十八人口
銀の筓に金紋を居させ、さんごじゆの前髮押へ、針がね入の刎鬠(はねもつとひ)を掛て、〈○下略〉
p.0487 もとゆひ 繪本結(○○○)といふ物あり、鶴龜松竹などの綵色、あや杉紅なるをつま紅といふ、こは宮方よりすけまで也、内侍より以下は、つま紅はならず、一方をすこし紅にして、摸樣は同じと、内々行事に見ゆ、是をだうどもとゆひ(○○○○○○○)といふは、堂童子本結の義也といへり、堂童子は花筥賦(クバリ)など役する人をいへり、
p.0487 一いれもとゆひ(○○○○○○)、又大もとゆひ(○○○○○)とも云、今は繪もとゆひ(○○○○○)と云、ふとくたゝみ、兩端にしんを入れて、金箔にてだみて、色々の色にて松竹鶴龜などを繪く也、
入もとゆひの圖
大サ是ほどなり寸法定なし
兩はしは紙を卷きてしんを入る、此卷目にも金箔ををくなり、中程むすぶ所の分はひろくするなり、
p.0487 永正八年二月廿七日戊申、今日春日祭也、〈○中略〉參二若宮社一、同兩段再拜、仰二巫女一奉二神樂一、〈付一ケ文繪本結(○○○)一結、眉作五具、大箱風情物一裏、進二巫女一、〉
p.0487 其頃〈○享和〉縮緬紙とて、ちゞまりたる紙に、彩色の摸樣したるうつくしき紙を、髻ゆひにす、田舍にては、雛の幕に用ゐける、今は縮緬の鬼絞りなどとて、價百疋の餘もすべし、
p.0487 きんか元結(○○○○○) 元結の始りは、延寶頃の書に見えて人のしる事なり、其中にわきて細きをきんか元結といへり、是ははげあたまの老人の、つくもなる髮を束ぬる元結なり、きんかは金皮の略語にて、老人頭上はげ光りかゞやけるを、金色の如しとたとへしなり、
p.0488 老女のかくれ家
なげ島田、かくしむすびの浮世もとゆひ(○○○○○○)、〈○下略〉
p.0488 一いれもとひ、ともに五ところゆふなり、いれもとひの次、一そくほどおきて、水ひきにてゆふなり(○○○○○○○○○)、又その下、一そくおきて、水引にてゆふなり、水ひきのぶん二ところなり、いづれも一そくといへども、いれもとひと、水ひきのあひは、すこしひろく見ゆるやう成べし、さて又、其下を三ぞくほどひきさきにてゆふ也、若き人は水ひきのところを、一ところゆふ也、以上四ところなり、廿八の春より五ところゆふ也といへども、たゞわかきときより四所ゆふ也、
p.0488 金銀木竹土石
髻結、これを業にする事、京洛には古になし、近年江戸髻結のきよらなるにならひて、京師にもこれを營す、寬文の比にはじまりて許多の業となれり、
p.0488 古今名物部類
髻結根本江戸ニ初ル、今世京都大阪ニテ專ラ爲レ之、
p.0488 今日は、久庵老人案内にて出る、〈○中略〉大和大路の繩手を通りし時、名物とて元結をもとむ、老人申に、寬文の末までは、此堤の下の畠に元結のしごき場ありて、堤上にて女が賣りしに、今は元結の名物とて、諸國にしられたりと申さる、一把六錢づゝにてもとむ、
p.0488 類柑子に其角が茅場町の栖の隣なる閑地にて、車をしかけ、元結をこく事をいひて、文七といふ者、元結こく處に成ぬるなり、
p.0489 一くろだなのをき物の事〈○中略〉
二ぢうめにすみあかもとゆひのはこ(○○○○○○○○○○○)、わきのぢうに御はぐろみのはこ、わたし木くれなゐのうすやうにつゝみて、下のぢうに、やは〳〵のかみ、うへにぶむちむ置べし、
p.0489 よめ入の條々
一もとゆいばこ(○○○○○○)、是も手ばこのごとく、ほそくしたる物なり、さしもといの入なり、
p.0489 くろ棚には、もとゆひのはこに、すみあか水ひき箱、わたし、御はぐろばこなど、よのつねのさまなるべし、
p.0489 江府名匠諸職商人
髻結屋 淺布〈長坂〉 堺町〈よし町其外〉C 鬠雜載
p.0489 御もとゞりをとること
御くしのはこのふたに、かみをしきて、もとゆひ、御くし二三枚、かうがい、かばさみをいれたり、とることつねのごとし、たゞし御もとゆひをのごふことは、まづかみをすこしやりて、ほそくたゝみて、びんぎならん、かけがねのつぼにひきとほして、はなづらのやうにむすびて、それより御もとゆひをひきとほして、すゑをとりあはせて、ひろきかみを、たゝうがみのやうにみつにたゝみて、わなのところを、御もとゆひ、ふたすぢがなかにいれて、ひきのべてのごひて、御もとゆひのなかのほどをぞ、もとつけたる、はなづらのやうなるかみに、きし〳〵とすりのごふやうに、うらうへのすゑをとりてすべし、御くしのはこのふたををきて、御もとゆひのすゑを六七寸ばかりををきて、ひだりの手してとりて、さりげなくて、ながきかたを、右の手して、ひだりのひぢのほどにおしあててとりて、そこをきとひねりてをきて、そこよりもとまきのはじめをば しそめて、いつからまき、おほくてなゝからまきにすぎず、もとまきおほかれば、もとゞりのとくぬくるな り、又ひぢにあてねば、六七寸のほどよりながきかたを、くしのはこのふたの二方にひきあつることも有べし、うちの御もとゞりとることも、おなじことなり、ふさのゆひやうかはるなり、ふさをふたつにわけて、こもとゆひ(○○○○○)ふたつして、べち〳〵にふたつにゆふなり、そのゆひやうは、うらうへながら、かたかぎにゆふなり、そのかぎのてをひだりみぎにむすべば、ひだりのは、めのこむすびにせよ、それがよきなり、もとゞりをとることは、ならふによるまじ、てんせいのてきゝによるべし、
p.0490 一髻取次第〈スルスツケ捻紙三五七九之間凡半ナルベシ〉
p.0490 一兒のかみのゆひやうの事
もとゆひうすやう、又はくたんしなり、もとゆひの左をあげてみじかく、右をさげてながくする也、もとゆひ左はうつむき、右はあをのく也、さてかみのすそは左のわきへとるなり、かみのしなによりて、中をかみひねりにて、一所二所ゆふなり、髮のゆひやうは、をしのはがたつねのごとし、宮など御童體の時、かやうにゆひたてまつるなり、
p.0490 維盛惜二妻子遺一事
此北方〈○平維盛妻〉ト申ハ、故中御門大納言成親卿ノ御女也、〈○中略〉乳母子ニ兵衞佐ト云女房一人ゾ免レテ候ケル、是ニ付テモ世ノ憂キ事ヲ思ツヾケ給ケルニヤ、イツモ引カヅキ、泣ヨリ外ノ事ゾナキ、サテモ或時鬠ヲヒロゲテ何トヤラン書付テ、又如レ元ニ引結捨給ヘリ、兵衞佐是ヲ取テヒラキ見エ、一首ノ歌也、
結ビテシ心ノ深キモトユヒニ契シスエノホドケモヤセン、ト書スサミ給ヘリ、
p.0490 女は思はくの外
小鹽山の名木も、落花狼藉、今一入と惜まるゝ、けんぼうといふ男達、其比は捕手居合はやりて、世 の風俗も糸鬢にしてくりさげ、二筋懸の鬠(○○○○○)、上髭殘して、袖下九寸に足らず、〈○下略〉
p.0491 一義大夫節は、有德〈○德川吉宗〉の御代より流行出しといへり、されば豐後ぶしの流弊、弐第に淫風に移りて、遊士俗人の風俗あらぬものに成行て、髮も文金風とて、わげの腰を突立、元結多く卷て、卷鬢とて、鬢の毛を下より上へかきあげ、月代のきはにて卷こみてゆひたり、
p.0491 寶永ヨリ油元結ノ見世多ク出タリ、元祿前ヨリ元結引(○○○)有トイヘドモ、買人稀ナルユへ多クハナシ、
p.0491 白粉 開元式云、白粉卅斤、〈俗云波布邇(○○○)〉
p.0491 白粉 按陶弘景注二本草粉錫一云、卽今化レ鉛所レ作胡粉也、輔仁訓爲二波布邇一、則知波布邇卽胡粉、釋名胡粉、胡、餬也、脂和以塗レ面也者是也、然詳二榮花物語所一レ言波布邇、賤女傅レ面者、非二上等之品一、未レ知下謂二鉛粉一爲二志呂岐毛能一、與二波布邇一同異如何上也、又按波布邇、蓋白粉土之義、然開元式白粉、不レ得三的知二粉錫一、或是米粉亦未レ可レ知也、
p.0491 胡粉、胡、餬也、脂和以塗レ面也、
p.0491 白粉〈ハフニ容飾具〉 粉錫〈楊玄操音〉 解錫 胡粉〈出二陶景注一〉 流丹白膏〈出二丹口決一、已上ハフニ、見二本草一也、〉
p.0491 あやしきさましたる女ども、くろかいねりきせて、はうに(○○○)と云物ぬりつけて、かづらせさせて、かささゝせてあしだはかせたり、
p.0491 粉 文選好色賦云、著レ粉則太白、〈和名之路岐毛能(○○○○○)〉
p.0491 粉 急就篇注、粉謂二鉛粉及米粉一、皆以傅レ面取二光潔一也、典藥寮式、供御白粉料糯米一石五斗、粟一石、然則西土皇國古皆傳レ面以二米粉一可レ知也、所レ謂之路岐毛能卽是、然後世無上著二米粉一之事上、唯有二鉛粉一、故之路岐毛能轉爲二鉛粉之名一、今俗謂二鉛粉一爲二於之呂以一是也、但源君所レ擧之粉、古之米粉、抑後世之鉛粉、未レ得二其詳一、
p.0492 〓、所二以傳一レ面者也、〈(中略)小徐曰、古傳レ面亦用二米粉一、故齊民要術有二傳レ面粉英一、按據二賈氏説一、粉英僅堪レ妝二摩身體一耳、傅二人面一者、固胡粉也、許所云、傳レ面者、凡外曰レ面、周禮傅二於餌餈之上一者是也、引伸爲二凡細末之偁一、〉
p.0492 粉、分也、硏レ米使二分散一也、
p.0492 粉
自二三代一以レ鉛爲レ粉、秦穆公女弄玉有二容德一、感二僊人簫史一、爲燒二水銀一、作レ粉與塗、亦名二飛雲丹一、傳以二簫曲一、終而同上昇、
p.0492 粉〈音忿 シロキ物〉 白粉〈ハフニ〉
p.0492 第一本妻者、齡旣六十、而紅顏漸衰、〈○中略〉戀慕之涙洗二面上粉(○)一、愁歎之炎焦二肝中朱一、〈○中略〉
十三娘者、中之糟糠也、醜陋不レ可レ見レ人、〈○中略〉施レ粉(○)似二狐面一、著レ䞓猶二猨尻一、
p.0492 粉讀てシロキモノといひ、又白粉の字を出して、讀みてハフニといふ、ハフニとは、白粉の字の音の轉ぜし也、〈シロキモノとは、今俗にナシロイといふ是也、白粉の字、萬葉集にはシラニと讀みたり、古語にニといひしは、丹色をのみいひしにはあらず、白色をもニといふなり、ニとは、彩色をいひし也、ハフニとは、今俗にはオシロイといふもの卽是也、〉
p.0492 はふに 和名抄に白粉をよめり、はふは白粉の音、には丹の義なるべし、すべて彩色をにといふなりと、
p.0492 一はふに、〈○中略〉貞丈云、はふには白粉也、俗にいふおしろい也、
p.0492 からぎぬに、しろいもの(○○○○○)うつりて、まだらにならんかし、
p.0492 かほには、べに、しろいもの(○○○○○)を、つけたらんやうなり、
p.0492 白物(ヲシロイ) 白粉(ヲシロイ)
p.0492 よめ入の條々
一手ばこの中に、小ばこ四つあり、その内に入物、一にはおしろい(○○○○)、一にはたうのつち(○○○○○)、〈○下略〉
p.0493 しろきものといふべきを、おしろいといふは、女のもてあつかふ故に、おもじをそへ下を略するなり、
p.0493 おしろい ふるくは、ゑろいものといへり、
p.0493 鉛粉 又定粉、水粉、胡粉トモ云、今國俗唐ノ土(○○○)ト云、婦人ノ面ニヌルモノ也、
p.0493 七年、是歲吉備上道臣田狹侍二於殿側一、盛稱二稚媛於朋友一曰、天下麗人莫レ若二吾婦一、〈○中略〉鉛華(イロモツ/○○)弗レ御(クロハズ)、蘭澤無レ加(カモソフルコトナシ)、
p.0493 鉛華弗レ御、蘭澤無レ加、〈二句出二文選洛神賦一、蘭作レ芳、註鉛華乃粉也、芳澤香油也、志雅堂雜鈔曰、鉛今之水銀膩粉也〉
p.0493 六年閏五月戊戌、賜二沙門觀成、絁十五匹、綿卅屯、布五十端一、美二其所レ造鉛粉(○○)一、
p.0493 鉛粉
説文曰、侍レ面者、臣鍇按、周禮饋レ食有レ粉、餈二米粉一也、〈○中略〉漬レ粉爲レ之也、又紅染レ之爲二紅粉一、燒レ鉛、爲レ粉、始レ自二夏桀一也、
p.0493 鉛粉
墨子曰、禹作レ粉、張華博物志曰、紂燒レ鉛作レ粉、謂二之胡粉一、續事始曰、鉛粉、卽紂所レ造也、
p.0493 造二供御白粉一料
糯米一石五斗、粟一石、〈申二請内侍一〉帛袷帒十六口、料帛二疋、〈御幷中宮料〉曝二白粉一帛帷四條、料帛二疋、絹篩四條、〈別五尺〉調布二端、〈帷四條料、條別二丈、〉縫絲三兩、上紙卌張、明櫃四合、水麻笥四口、〈受二五斗已上一〉杓三柄、簀二枚、長席二張、〈女醫座〉由加四口、酒槽二隻、中取二脚、〈已上三種、隨レ損請替、〉共作女醫十四人、人別日飯一升、鹽一勹、滓醬一合、酒三合、並限二卅日一給、
p.0493 白粉(をしろい) 粉錫 鉛粉 鉛華 定粉 胡粉 光粉 宦粉 和名之路岐毛能本綱云、白粉此化レ鉛所レ作也、以投二炭中一、色壞還復爲レ鉛、得二雌黃一、相惡互失レ色、古人名レ鉛爲二黑錫一、故名二粉錫一、 韶州者爲二韶粉一、辰州者爲二辰粉一之類有二數名一、墨子云、禹造レ粉、博物志云、紂燒二鉛錫一作レ粉、則粉之來亦遠矣、造法略不レ同、蓋巧者時出二新意一、以二速化一爲レ利故爾、其一曰、毎鉛百斤、鎔化削二成薄片一、卷作レ筒、安二木甑内一、甑下甑中各安二醋一瓶一、外以二鹽泥一固濟、紙封二甑縫一、風爐安レ火、四兩養二一匕一、便掃入二水缸内一、依レ舊封養、次次如レ此鉛盡爲レ度、不レ盡者留炒作二黃丹一、毎粉一斤入二豆粉二兩、蛤粉四兩一、水内攪匀澄去二淸水一用二細灰一、按成レ溝紙隔二數層一置二粉于上一、將レ乾截成二瓦定形一、待レ乾收起、
相感志云、韶粉烝レ之不レ白、以二蘿蔔瓮子一蒸レ之則白、人服二食白粉一、則大便色黑者、此乃還二其質一也、味辛氣寒無レ毒、
按鉛粉〈俗云御白〉又名二唐土一、持統天皇六年勸成始造二鉛粉一、而未二甚精一矣、慶長元和之比、泉州堺商賈錢屋宗安習二方於大明人一始造レ之、炭屋小西等相繼、而大坂及京師盛行、其法略如二時珍之説一、而今制甚容易良方也、故贅記レ之、鉛鎔化成二薄片一、卷作レ筒、安二木甑内一、其下釜内盛レ醋、外以二土泥一固濟、四隅穿二各一小孔一、如乾速則塞レ孔、乾遲則開レ孔、當レ窺レ内之孔也、風爐安レ火烝レ之、白霜升滿二甑天一、細灰盛掃取、次次如レ此鉛盡爲レ度、其白粉水飛再三、別用二瓦器一、紙布隔二數層一、置二粉於上一待レ乾收取也、如下加二入豆粉蛤粉一之方上、甚不レ佳、或有レ加二入蜂蜜一亦不可也、唯鉛與レ醋外無レ他耳、近世本朝之白粉甚勝、故華人亦買去、
對馬鉛爲レ上、潔白且有二光艶一、唐鉛次レ之、性柔爲レ粉潔白、然少二光艶一、豐後鉛爲レ下、性堅、
如誤錫鉛襍者、不三能成二白粉一也、雖レ有二粉錫之號一不レ可レ惑、白粉與二雌黃一同和、則成二萌黃色一、〈畫具用レ之〉本草所レ謂二物相惡失レ色者、實然也、
p.0494 鉛粉
西融州有二鉛坑一、鉛質極美、桂人用以制レ粉、澄レ之以二桂水之淸一、故桂粉聲二天下一、桂粉舊皆僧房罨造、僧無レ不レ富、邪僻之行多矣、厥後經略司專二其利一、歲得二息錢二萬緍一、以資二經費一、群僧乃往二衡嶽一造レ粉、而以二下價一售レ之、亦名二桂粉一、雖二其色不一レ若レ桂、然桂以レ故發賣少遲、
p.0495 白粉師 おしろいは、鉛をむして水飛するなり、
p.0495 白粉を製傅
生白粉(きおしろい)の製法は、鉛を酢にてむし、水に晒し、かためしもの也、輕粉〈鉛をやきかへせしものと云〉或は白粉の木にて作るといふはあやまり也、
生白粉を製て、これを三段にわかつ、極細末の宜きを生白粉(きおしろい/○○○)といふ、其次を舞臺香(ぶたいかう/○○○)といふ、〈芝居役者のつかふおしろいなり〉其次をとうの土(○○○○)といふ、安き白粉也、
調合おしろい(○○○○○○)を流し白粉(○○○○)と云、これを丁子香、蘭の露、菊の露、袖の香なんど銘をつくれど、みなおなじ流し白粉にて、名のかはりたる計のもの也、上々の白粉の製やうは、生白粉也、上々白粉を製には、生白粉にほだ等分に合せ、しまりを少し入るゝなり、中の白粉は、生おしろいとぢんくずと等分に合せて、しまりを少し入たるもの也、白粉に香具をあわせ、香あるものにあらず、みな付たる香ひなり、香ひある白粉をよしと思ふはあやまり也、
p.0495 粉おしろいの傳
流し白粉をよく細にし、絹にてこしふるひてつかふべし、早くする仕樣は、此粉を絹につゝみ、ふるひ通してつかふべし、
粉おしろいは、肌白粉(ばだおしろい)、面化粧(かほけしやう)したる上へつかふ等、其外途中にて化粧をなをす時に用ゆべし、
p.0495 白粉
慶長元和のころ、泉州堺錢屋宗安と云もの、大明の人に習ひ、はじめて造る、又小西白粉は、堺の藥種屋小西淸兵衞、〈小西攝津守父也〉大明に入て習得たる所の法也、小西和泉大目此裔といへり、近世本朝の白粉甚勝れたり、よつて異國人是を買去る、
p.0495 粉に二種あり、故に和名抄にも粉(シロキモノ/○)と白粉(ハフニ/○○)と並べあげたり、本草和名に粉錫、和名巴 布爾とあり、粉錫は今京おしろい(○○○○○)と呼て、婦人の顏に塗るものなり、しからば粉は水銀粉にて、今はらや(○○○)とも、伊勢おしろい(○○○○○○)とも呼ぶもの是なり、もしは物異なれども、はらやといふ名は、巴布爾(ハフニ)を訛り呼べるにや知べからず、孔志約が唐新本草の序を作りて、鉛錫無辨とは、陶弘景が非を斥したる辭なり、弘景だにさる事あり、ましてこゝには、誤稱もあるべきなり、
p.0496 粉錫 京オシロヒ(○○○○○)
一名白膏〈酉陽雜爼〉 流丹白膏〈同上〉 流丹〈石藥爾雅〉 丹地黃〈同上〉 鉛英〈事物異名〉 塗坯〈同上〉 粉心〈同上〉 五花直〈同上〉杭粉〈外科正宗、杭州者上品、〉 朝粉〈天工開物〉
一名胡粉、京オシロヒノコト也、鉛ヲ薄ク片ニシ、錯ニテ蒸シテ採ル、數度蒸シトレバ鉛漸々ニ減ズ、畫家ニ用ルゴフンハ蛤粉也、胡紛ニ非ズ混ズベカラズ、又チヤンヌリノ白色ナルハ、京オシロヒヲ入ル、茶碗ノ白藥ニハ、豐後玖珠郡ノ白土ヲ用ユ、燒テ白色變ゼズ、モシ京オシロヒヲ用ユレバ、燒テ赤クナル、何ントナレバ、燒ケバ丹ニナルユヘナリ、〈○中略〉
增、和俗單ニ白粉ト呼テ、婦人面色ヲ粧モノナリ、
p.0496 白粉 凡製二白粉一者、入二水銀於釜一燒レ之、故其本家謂二釜本一、所々雖レ有レ之、不レ及二洛陽之製一、故稱二京白粉一、其中袖岡越中某所レ燒爲二洛陽第一一、禁裏院中女子專用レ之、
p.0496 水銀粉、和名波良夜(○○○)、俗云伊勢於志呂伊(○○○○○○)、出二勢州射和一爲二精品一、
p.0496 伊勢海老は春の紅葉
毎年大夫殿から御拂箱に、鰹節一連、はらや一箱、〈○下略〉
p.0496 十四齣
〈仙女香といふおしろい(○○○○○○○○○○)を手にもちしふリ袖しんぞう靑梅〉 〈靑〉女娘(めなみ)とふちよつと來な、十才ばかりの禿(かむろ)、 〈禿〉なんざいますエトきたる 〈靑〉アノおめへ、この白粉をやるから、毎日顏へすりこみな、そうすると、此おしろい は能藥がはいつてゐるから、顏のこまかい腫物が治るよ、〈○下略〉
p.0497 白粉(をしろい)〈○中略〉
一種草實有二白粉(○○○○○)一、用塗二婦人面一、似二鉛粉一、
p.0497 白粉草(をしろいくさ)〈於之呂以乃木〉
按白粉草、春生レ苗冬枯、高二三尺叢生、〈○中略〉紅花中出二紅蘂一、細如レ絲、蕚本結レ子、灰黑色、皺如二胡椒一、而中滿二白粉一、採レ之塗二婦人面一、光澤優二於鉛粉一、俗呼曰二白粉草一、
p.0497 是もむかしはさるもの日々の催促
こゝも流れの道頓堀、樋のうへを南へ高津新地といへるは、江南の芝居もの、たいがいのあつまり所といへど、中より下〈タ〉のやくしや、おゝくは此ほとりに住居なせり、〈○中略〉自分が旅あるきに持てゆく取おきの鏡だい、柳ごりにおしろいとき、あらい粉の筒、はつちりのおしろい(○○○○○○○○○)に、兎の足のまゆはき、日しよくのかけはじめといふべき六寸のかゞみをとりそろへて渡しておけば、〈○下略〉
p.0497 白粉をする傅
化粧をするには、まづ白粉をとく事を第一とすべし、いかほど手際よく化粧するとも、白粉のときやう荒ければ、化粧して後白粉浮て、粉のふきたるが如く、あらけてのびがたく、光澤を失ひて見苦きものなれば、白粉をとくことを專一とすべし、 おしろいのときやう、此部の上にあり、
扨化粧をするには、ときたる白粉を額に少しつけて、是を指先にてしづかにまはし〳〵てむらなくのばし、夫より又白粉を手にとりて、兩眉の上のかたより眉の間につけ、又しづかにむらなく延し、夫よりだん〳〵顏につけてはのばし〳〵、兩の頰、鼻の上より鼻の兩わき、口の上下左右、耳の後、耳、首筋、咽と一所づゝ白粉を付、指先にてそろ〳〵と廻してよく延すべし、
耳へ白粉をする傳 顏に白粉したる後、手に付たる白粉にて、兩耳をよく〳〵すりこむべし、耳の白粉はうすきがよし、目立ざるやうにすべし、
首筋へ白粉をする傳
音筋へ白粉をするは、面よりは化粧を少し濃くぬるべし、まづ下へ油をぬり、其上へ白粉をぬるなり、かくのごとくする時は、白粉よくのびて、久しくはげる事なく奇麗に見ゆるなり、
p.0498 白粉をとく水の傳
白粉をとく水は、寒の中に雪をとりて壼に入、よく封じて置ば、雪消て淸潔水となる、夏にいたり、此水にて白粉を解ば、よく光澤を出し色を白ふして、汗瘡を治し、諸の顏の腫物を生ずる事なし、
p.0498 山城 白粉(オシロイ) 松尾白粉合土(マツノオニヲシロイアハセツチ)
p.0498 白粉師 京、伊勢、堺等にあり、主領して國名を付なり、
p.0498 諸國名物盡
山城 白粉(をしろひ) 和泉 白粉(おしろひ) 伊勢 白粉(おしろひ)
p.0498 粉臺(ふんだい/○○) 輕粉皿(おしろいざら/○○○)
p.0498 一御裝束二具内
女體一具〈○中略〉
御帖紙一帖、紅薄樣納二白物少々一、〈○中略〉
御油壼三口、一口油綿、一口白物、一口丁子、
p.0498 嫁入の次第 路次中の次第
一十一番の長持、〈○中略〉おしろいばこ、おしろいとき(○○○○○○)、
p.0498 白粉モミ(○○○○) 長六寸二分、巾四寸三分、
p.0499 黑き顏に白粉をする傳幷はきこみおしろいの傳
化粧の仕樣は、化粧をせんとする前、額の上、髮の生際、首筋のはへぎわ、耳のうしろの生際へ、粉おしろいを、かわきたる刷毛(○○)にてとくとこすりつけ置、〈○下略〉
p.0499 攝津 眉作(マユツクリ/○○)
p.0499 眉拂(まゆはき/○○)
p.0499 眉作(マユツクリ) 或稱二眉掃一、五寸許竹管兩頭挾二白兎毛一、其末點二白粉一而粧二面顔一、其狀如二筆頭之亂一、良賤婦人以レ是點二白末粉一粧レ面、〈○中略〉古仁和寺門前有下造二童形侍兒眉掃一之家上、依レ之世專謂二仁和寺眉作一、於レ今處々製レ之、
p.0499
大眉箒〈○圖略、下同、〉 大長五寸五分 毛ノ長
中同 中長四寸七分 上一寸程、下九分ホド、
小同 小長四寸三分
大上臈 大長三寸七分 同
小上臈 小長三寸二分 上下ト毛四分
大小卯毛 〈大長三寸三分小長三寸二分〉 〈同 上九分下、五分、〉
白ハツシ 長三寸 同同斷
黑ハツシ 長三寸 同、上五分、同、下四分、
p.0499 白粉をする傅
額、頰、鼻なんど、初より付をきて、それを延さんとするが故に、〈○中略〉白粉め乾きかたまりて延がたく、光澤を失ひ落付ぬものなり、只一所づゝ指に付て段々と延し、よく白粉の行わたりたる時、眉(まゆ) 刷毛(はけ)に水を少、し付て、輕くつかふこと、ていねいに幾たびも刷べし、如レ此すれば、白粉よくのびて、光澤を出すもの也、兎角眉作(まゆはけ)のつかひやう數すくなければ、白粉うきてよろしからず、
p.0500 〈おいへ〉そしておめへ、夫ばかりぢや〈ア〉ねへはな、顏の白粉と生際の白粉と、襟の白粉とは、別々に有ての、眉掃(まゆはき/○○)も三本入るとさ、〈おかベ〉ヲヤ大騷らしい、私らは眉掃さへ遣ねへものをや、
p.0500 よめ入の條々
一おしろいのはこ(○○○○○○○)、是もてばこのごとくなり、おしろいを入て、つねにとり出しをくなり、
p.0500 白粉筥 太サ徑二寸一分、高一寸七分、蓋高七分五リン、甲〈ノ〉肉二分半、身覆輪トモニ九分半、〈○下略〉
p.0500 北のかたいとよくしたる扇二十、螺すりたる櫛、まき繪の箱に白粉入て(○○○○○○○○○○○)、こゝの人のかたらひけるして、かたみにみたまへとてとらす、
p.0500 御前に扇おほく候中に、蓬萊つくりたるを、はこのふたにひろげて、日かげをめぐりて、まろめおきて、そのなかにらてんしたるくしどもを入て、しろひ物(○○○○)などさべいさまにいれなして、おほやけざまにかほしらぬ人して、中納言の君の御つぼねより右京の君のおまへにといはせて、さしをかせつれば、〈○下略〉
p.0500 かくて中宮〈○三條后藤原好子〉も、たゞにおはしまさねば出させ給て、〈○中略〉つち御門殿にはわたらせ給に、宮の御をくり物になにわざをしてまいらせんとおぼしけるに、〈○中略〉女房のなかには、おほいなるひわりごをして、しろい物たき物なとをぞ入て出し給へりける、
p.0500 寬喜二年正月十五日戊寅、後聞行幸被レ儲二置物一、〈○中略〉、蒔繪御草子箱、入二白物具一、蒔繪御硯筥置之、
p.0501 十四番 しろいものうり(○○○○○○○)
百氣も、なからけも、いくらもめせ、いかほどよき御しろいか候ぞ、
p.0501 諸職諸商賣
白粉所 麩屋丁松原下 木田千賀麿
p.0501 諸職名匠
白粉所 烏丸通夷川上〈ル〉町 井上長門掾 四條東洞院東〈江〉入町 井上 今出川寺町西〈江〉入二丁目 井上豐後掾 御幸町五條上〈ル〉町 延澤や光英 堺町通蛸藥師下〈ル〉町 延澤や良德 烏丸通夷川上〈ル〉町 岡田主水 西洞院椹木町上〈ル〉町 〈御用〉松吉義質 三條通東洞院東〈江〉入 谷安映 五條橋通寺町西〈江〉入町 井上淸次 東洞院丸太町下〈ル〉町杉谷薩摩
p.0501 諸職名匠諸商人
白粉屋 通銀町 大戸近江守 芝源助町 小松近江守 石町十間棚 藤原正重
p.0501 諸職名匠諸商人
白粉屋 通銀町 大戸近江守 芝源助町 小松近江守 石町十間棚 藤原正重
p.0501 諸職名匠
白粉所 上村河内〈車や町夷川上〉 越前大目〈同さはら木丁下〉 越中大目〈同さはら木町下〉神田山城〈富小路姉小路上〉 足立和泉〈寺町姉小路西〉 豐後大目〈塔ノ段びしや門下〉 鶴や伊勢〈寺町四條上〉 鶴や隼人〈寺町姉小路上〉 鶴や越後〈同姉小路上〉 鶴や信濃〈同下御靈前〉 藤や越後〈同下御靈町〉 岸畑大和〈中立浩ちゑ光院〉 近江大目〈新町四條下〉 井上長門〈烏丸夷川上〉 加賀田和泉〈寺町押小路下〉 長崎や播磨〈寺町二條上〉 壺や九兵衝〈武者小路梅や町〉
p.0502 粉の看板(○○○○)
元祿の比、おしろいの看板に白鷺をゑがきたる事あり、左にあらはす圖〈○圖略〉の如し、按にこれしろきものといふはんじ物なるべし、
p.0502 婦人のかほなり善きを凸といふ、此故に昔より白粉の看板に箱を凸の形に造れり、漢土にも、元曲西樓記に、淨扮醜妓上云々、眼大眉粗面又凹とあり、
p.0502 題しらず
おしろいの看板とする凸(ナカダカ)、に凹(ナカクボ)しらぬ下駄屋文盲
p.0502 七日〈○正月〉は、〈○中略〉白馬見んとて、里人はくるまきよげにしたてゝ見にゆく、〈○中略〉見るはいとせばきほどにて、とねりがかほのきのもあらはれ、しろきものゝゆきつかぬところは、まことにくろき庭に、雪のむらぎえたる心ちしていと見ぐるし、
p.0502 傀儡子 中原廣俊
傀儡子徒無二禮儀一、其中多女被二人知一、〈○中略〉賣レ色丹州容忘レ醜、〈丹波國傀儡女、容白(白恐貎誤)皆醜、故云、〉得レ名赤坂口多レ髭、〈參河國赤坂傀儡女中、有下多二口髭一之者上、號二口髭君一、故云、〉施レ朱傅レ粉偏求レ媚、徵嬖幾祈神與レ祇、
p.0502 建曆三年十一月十二日、今日風流櫛等構出、送二之按察一、火桶、〈押レ錦以レ櫛爲レ灰、以二白物(○○)一爲レ灰、○下略〉
p.0502 十二月〈○寬元二年〉一日は、石淸水のやしろに行幸あり、〈○中略〉別當通成いみじうきらめかれたり、けさうしたまへるをぞ、わかき人なれども、ひゐの別當、しろきものつくることやあるなど、ふるきひとうちさゝめきけるとかや、
p.0502 正元二年〈○文應元年〉三月廿八日乙未、和泉前司行方持二參御息所御服月充注文於御所一、將軍家〈○宗尊親王〉覽之、
正月分〈○中略〉 御白粉(○○○)
p.0503 十四番 右 しろいものうり
秋寒み雲も殘らぬ月かげは霜とみるまでしろい物哉〈○中略〉
戀すとや人のみる覽おしろいのきはつくまでに流す涙を
p.0503 古帳よりは十八人口
素貌でさへ白きに、御所白粉を寒の水にてときて二百へんも褶付け、手足に柚の水を付てたしなみ、〈○下略〉
p.0503 金龜子(/タマムシ) 死タルヲ、婦人白粉ノ器中ニ入ヲク、
p.0503 白粉(をしろい) 水かね 玉虫 貝の玉
p.0503 玉虫を白粉の中に貯ふること、〈○中略〉江戸枝折、椰の葉に今玉むしのうしろ向、また眞珠をはらやに雜て置けば、其珠分身して數多くなるとて、兒女のすることなり、懷子俳諧集〈十〉白粉箱のふたの明くれ、いつの間にふんじにけらし貝の玉、〈重長〉
p.0503 䞓粉 釋名云、䞓粉、〈和名閉邇(○○)〉䞓、赤也、染使レ赤、所二以著一レ頰也、今按䞓卽赬字也、
p.0503 䞓粉、䞓、赤也、染レ粉使レ赤、以著二頰上一也、
p.0503 䞓粉 按閉邇、見二源氏物語常夏卷、榮花物語本雫卷、御裳著卷一、皆謂下以二燕脂一和レ粉著中之顔面上、好色賦施レ朱則太赤者卽是、今俗所レ謂桃色於之呂伊(○○○○○○)是也、今俗直以二燕脂一爲二倍爾一、與レ古異、〈○中略〉崔豹古今注、燕支中國人謂二之紅藍一、以染レ粉爲二面色一謂爲二燕支粉一、是卽釋名所レ謂䞓粉可レ證、此引無二粉字一者非レ是、
p.0503 燕脂
蓋起レ自レ紂、以二紅藍花汁一凝作二燕脂一、以二燕國所一レ生故曰二燕脂一、塗レ之作二桃紅粧一、
p.0503 燕脂 古今注曰、燕脂草出二西方一、葉似レ劓、花似レ茜、土人以二染粉一爲二婦人面色一、故名二燕脂一、後人効レ之、以二紅花一染レ絳爲レ之、非二彼草染者一也、秦宮中悉紅粧當レ是、其物自レ秦始也、一曰二燕支一續事始云、
p.0504 䞓粉〈ヘニ、䞓卽赬字、釋名䞓赤也、〉 赤點〈同、見二世俗諺文一、〉
p.0504 䞓粉(ベニ)〈又云二臙脂一也〉
p.0504 䞓粉(ベニ) 紅彩 臙脂
p.0504 倭名鈔容飾具に、䞓粉讀みてベニといふ義詳ならず、〈倭名鈔に釋名を引て、䞓赤也、(中略)さらば、べとは邊也、ニとは赤色也、兩頰及唇爪甲の邊を染めて赤からしむるの謂也、〉
p.0504 べに 臙脂をいふ、延丹(ノベニ)の義也、紅花をのべたる丹也といへり、
p.0504 䞓粉(べに)〈赬同〉 〓〓 燕脂 和名閉邇
本綱云、其始起レ自レ紂、以二紅花汁一凝作レ之、調レ脂飾二女面一、本産二燕地一、故名二燕脂一、
p.0504 以レ丹注レ面曰レ勺、勺、灼也、此本天子諸侯羣妾當二以レ次進御一、其有二月事一者、止而不レ御、重二以レ口説一、故注二此於面一灼然爲レ識、女吏見レ之、則不レ書二其名於第錄一也、
p.0504 紅藍液を燕脂と云は久しき名なり、殷の妲己、燕の紅花、天下に冠たるを聞て、用ひて脂となす、これによつて燕脂といふ、淸土の昔も、紅花は北方の物よろしきにや、本朝羽州最上、山形米澤などの産尤よし、唯紅花は北國宜しき歟、
p.0504 一書曰、〈○中略〉火折尊歸來具遵二神敎一、乃二至兄〈○火酢芹命〉鈎之日一、弟〈○火折尊〉居レ濱而嘯之、時迅風忽起、兄則溺苦無レ由レ可レ生、便遙請レ弟曰、汝久居二海原一、必有二善術一、願以救之、若活レ我者、吾生兒八十連屬、不レ離二汝之垣邊一、當レ爲二俳優之民一也、於レ是弟嘯已停、而風亦還息、故兄知二弟德一、欲二自伏一レ辜、而弟有二慍色一、不二與共言一、於レ是兄著二犢鼻一、以レ赭塗レ掌塗レ面(○○○○○○)吿二其弟一曰、吾汚レ身如レ此、永爲二汝俳優者一、〈○下略〉
p.0504 赭 東宮切韻曰、赤土也、
p.0505 倭在二韓東南大海中一、〈○中略〉女人被レ髮屈紒、衣如二單被一、貫レ頭而著レ之、並二丹朱一坋レ身、〈説文曰、坋、塵也、音蒲頓反、〉如二中國之用一レ粉也、〈○又見二魏志倭人傳一〉
p.0505 勾奴單于曰二頭曼一、〈○中略〉有二所レ愛閼氏一、〈索隱曰、閼氏舊音曷氏、匈奴皇后號也、習鑿齒與二燕王一書云、山下有二紅藍一、足下先知不、北方人採二取其花一染二緋黃一、採二取其上英鮮者一作二烟脂一、婦人採將用爲二顏色一、吾少時再三過見二烟脂一、今日始視二紅藍一、後當レ足レ致二其種一、匈奴名レ妻作二閼氏一、今可二音烟支一、想足下先亦不レ作三此讀二漢書一也、〉
p.0505 紅花(べにのはな) 紅藍花黃藍、俗云久禮奈伊、呉藍(クレノアイ)之略言、
本綱、紅藍花、漢張騫始得二種於西域一、今處處有レ之、人家場圃所レ種、二月八月十二月皆可二以下一レ種、雨後布二子于熟地一、如二種レ麻法一、初生二嫰葉一、苗亦可レ食、其葉如二小薊葉一、至二五月一開レ花、如二大薊花一而紅色、花下作二株彙一多レ刺、花出二梂上一、人晨乘レ露采レ花、采已復出、至レ盡而罷、梂中結レ實、白顆如二小豆大一、其花暴乾搗熟、以レ水淘、布袋絞二去黃汁一、又搗以二酸粟米泔淸一又淘、又絞レ袋去レ汁、以二靑蒿一覆一宿、晒乾或捏成二薄餅一、陰乾收レ之、以染二布帛一爲二眞紅一、又作二燕脂一可レ飾二婦人面色一、〈○中略〉
按紅花、俗傳云、申日下レ種能茂盛、羽州最上、及山形之産爲レ良、伊賀筑後次レ之、豫州今治、及攝播二州之産又次レ之、最上紅餅大如レ錢、西國紅餅圓徑三四寸許、染工家用二三日漫レ水、能碎盛二布袋一、去二黃汁一五七次、以二所レ去黃汁一爲二絹布下染之用一、五六日正紅能漫後盛二布袋一、入二早稻藁灰汁少許一、絞則眞紅悉出、和二米醋一用染二著于太布一、謂二之屬布一、乾收用時、和二灰汁少許一絞出則悉脱出、承レ器更放二梅醋少許一、卽濃紅凍成、〈俗云加太部仁〉臘月製者最佳、以二剝毛一塗二磁器一、貯レ之爲二婦人飾レ唇之用一、或染二絹布一、色甚鮮明、謂二之寒紅一、大優二于燕脂一、
p.0505 本草を考るに、燕脂に四種あり、時珍云、一種以二紅藍花汁一染二胡粉一而成、蘇鶚演義、所レ謂燕脂云々、出二西方一、中國謂二之紅藍一、以二染粉一爲二婦人面色一者也、また同條附方に、坏子燕脂とある是なり、䞓粉はこれなるべし、然らば今いふかたべにに胡粉を雜へたるものなり、胡粉とは、粉錫の一名にて、〈京おしろいなり〉畫家に用るとは異なり、
p.0506 燕脂 ベニ カタベニ ウツシベニ〈茶盌ニウツシタルモノ〉
一名眞紅〈函史〉 紫臘〈名物法言〉 桃花粧〈事物異名〉 戈可速〈同上〉 紫臙脂〈小兒直訣〉 桃花粉〈通雅〉 茜 焉支 〓脂 烟脂 胭脂 烟支 臙脂〈共二同上〉 燕支〈北戸錄〉
灰汁ト醋トヲ用テ、紅花ヲシボリテ、紅色ヲトハ乾シタルヲ、カタベニ(○○○○)ト云、是方書ニ謂ユル乾燕脂ナリ、ソノ靑光アルハ靑稻灰汁ヲ用ルナリ、ツヤべニ(○○○○)ト云僞ルモノハ醋ヲ多ク入テ、ソノ量ヲ重クス、ツヤベニヲ用テ布帛ヲ染ム、小椀中ニツケタルヲウツシベニ(○○○○○)ト云、唐山ノ製ハ異ナリ、天工開物ニ詳ナリ、又ベニヲ綿ニ染メタルヲ綿燕脂ト云、又燕脂ニ粉ヲ雜へ、銀朱ノ如クシタルヲ坯子燕脂〈附方〉ト云、燕脂坯子〈竹蠧蟲附方〉方書ニ眞坯ト云ヘリ、又今別ニ和名ニエンジ(○○○)ト呼ブモノ藥舖ニアリ、深紫色ニシテ土塊ノ如シ、〈○中略〉
p.0506 卅三番 右 紅粉解
心さへ人のけはひにみゆる哉さにつらべに(○○○○○○)の移りやすさは〈○中略〉
御べにとかせ給へ、かたべに(○○○○)も候は、
p.0506 寒中紅粉(かんノべに/○○○○)
p.0506 寒のべにを賞する事は、貞德獨吟百韵、障碍をやしはすの月の天狗ども、紅粉に木の葉のちりてまじれる、自注に師走紅粉、木の葉天狗といふ寄合せなり、懷子俳諧集〈二〉色見えてうつろうものや寒のべに、〈山田女〉
p.0506 玉屋紅 〈本町二丁目〉
朱旗搖影本町風、認得暖簾玉屋中、世上人人貴二寒製一、買來猪口幾杯紅、
p.0506 寒の入 寒中丑の日、丑紅(○○)と號て、女子紅を求む、
p.0506 女けしやうの卷 一白粉〈○中略〉白粉にかぎらず、紅なども頰さき(○○○)、口びる(○○○)、爪さきにぬる(○○○○○○)事、うす〳〵と有べし、こくあかきはいやしく、茶屋のかゝにたとへたり、
p.0507 粧靨
近世婦人粧、喜作二粉靨一、如二月形一如二錢樣一、又或以二朱若燕脂一點者、唐人亦尚レ之、段成式酉陽雜爼曰、如二射月一者謂二之黃星靨一、靨鈿之名、蓋自下呉孫和誤傷二鄧夫人頰一、醫以二白獺髓一合レ膏、琥珀太多、痕不レ滅、有二赤點一、更益二其妍一、諸嬖欲レ要レ寵者、皆以二丹靑一點上レ頰、此其始也、又云、大曆〈○唐代宗年號〉已前、士大夫妻多妬者、婢妾少不レ如レ意則印レ面、故有二月點錢一、苟如レ此則固非二嘉事一也、宋武宮中、學二壽陽落梅粧一、此其遺意也、
p.0507 べにといふもの、いとあからかにつけて、かみけづりつくろひたまへる、
p.0507 はぐろめ、くろらかにつけて、べにあかうけさうせさせて、つゞけたてたり、
p.0507 べに 古より顏とくちびるにべに付る事は女の粧也、享保年中までは、女のかほにほゝべにとて、櫻色によそほふ事にてありしに、京などはしらず、江戸にては、元文年中の頃より顏にべに付る事やみたり、是は遊女のまねなりとぞ、遊女はべに付る事はなきよしなり、近世はよき人の姫君なども下々の風俗うつりたり、下々のものは、遊女又は歌舞妓のみの風俗をまなぶことになりくだれり、唐の國にも粉脂といふ事あり、粉といふはおしろいの事、脂といふはべにの事也、近年生れたる女子などは、顏に付ぬ物也と思ふ也、
p.0507 べには、和漢ともに古へ面の色を粧ふ具にして、今の如く唇に塗ることはなかりしと見ゆ、さればこそ粉をくわへたんなれ、
p.0507 〈おいへ〉目のふちへ紅を付る(○○○○○○○○○)のも、一體は役者から出た事らしい、〈おかべ〉あれも大かたはさうだらうが、昔からする人が有から、あの方はまアゆるしもせうよ、しかし目のふちへ紅をつけた人は、老(としよつ)て目のふちが黑くなるツサ、
p.0508 身持たしなみやうの事
一紅粉は白粉と共に粧ふものなり、凶時の時、おしろいを粧ふ事ありとも、紅粉は付ぬ物なり、
p.0508 入輿の眉
粉體用(おしろいすがた)二薄紅脂(うすべに)一
p.0508 髮の事
ほうさきに紅をつくるは、櫻の花ぶさにたとへたり、花のしろき底に、ほの〴〵と赤色のあるにもあらず、なきにもあらぬやうにすべきなり、然るを紅つけたるとめにたつは、無下に心おとりせらるゝ也、
p.0508 近く享保頃までも、頰紅とて、紅と白粉と交て頰にぬれり、白粉ばかり粧ふは、遊女のことなりとかや、
p.0508 霜何第八
いとゞだに顏のあかかる人なれや
ほゝさきのみかべにさへもうし
p.0508 椿頰燕脂
今の少女、何にもあれ、花のちりたるを取て、頰あるひは額へ唾にて押、戯れをする事あり、是は頰紅をつけし頃、そのまなびをなしたるが、頰紅廢れて後も、童あそびに殘りしにて、茄子の皮を口に含て、鐵漿をつけたるまなびをする類なり、
p.0508 近頃は、紅を濃くして唇を靑く光らせなどするは何事ぞ、靑き唇はなきものを、本色を失なへり、それゆゑ時勢粧を畫く者、女の唇を草の汁にて塗り、濃彩には綠靑して彩りぬ、周の時に有りしといふ、黃眉墨粧あやしむべからず、
p.0509 唇脂、以レ丹作レ之、象二唇赤一也、
p.0509 髮の事
唇は丹花の唇とて花にたとへたり、是もいたく赤きは賤しゝ、ほの〴〵とあるべし、
p.0509 木綿布子もかりの世
上方のはすは女と思しき者、十四五人も居間に見えわたりて、其有樣可笑しなげに、髮ぐる〳〵卷いて、口紅(○○)むさき程塗りて、〈○下略〉
p.0509 紅粉(べに) 爪(つめ)、 唇(くちびる)
p.0509 爪べに(○○○)とて、爪の先に紅をさせども、爪を染るがもとなり、勇燈新話、四時詩、要染纎纎紅指甲、金盆夜搗鳳仙花、注に女子採レ花塗二指甲一、則如レ著二臙脂一、この脂甲を染ること癸辛雜識集、そのほか諸書にみゆ、〈○中略〉大和本草に、鳳仙花(ツマクレナ井)、女兒此花と酢漿草(カタバミ)の葉をもみ合せて爪をそむと記せり、筑紫あたりには、其如くする故に、つまくれなゐと名付るなり、女郎花物語に、ふかつめとりたる指の先、そりかへりたるやうなるに、べにいたくさしたるは、むくつけくさへこそ見え侍れ、女鏡、〈慶安三年刻〉爪のきりやう、ふか爪好み給ふべからず、べにいかにもうすくさし給ふべし、〈○中略〉懷子俳諧集九爪ベにをさすは蝦手のもみぢかな、〈良春〉佐夜中山集、べに染の手を血の色にあやしまれ、とりぬる爪もふかきたしなみ、〈重明〉
p.0509 頰紅爪紅の事
高貴のうへはしらず、爪紅などする人きゝも及ばず、〈○中略〉如レ此變じきたれるは、天明寬政の頃とおぼし、
p.0509 髮の事
爪紅も、けしからず赤きはつたなし、是は降みふらずみなる時雨に染し初楓の葉さきの紅葉し たるにたとへたるもの也、
p.0510 身持たしなみやうの事
一鐵漿を付、齒を染め、爪紅粉(つまべに)をさす事は、齒は骨の餘り、爪は肉の餘りとあり、然れば肌骨を隱すよしにて、〈○中略〉爪切たる跡のはだへをかくすために、爪べにをさすなり、
一つま化粧の事、色を深くさすべからず、餘り紅の濃くはゞ廣は化粧にあらず、
p.0510 一關が原御陣の時、伊勢國津の城は、富田信濃守信高籠城ス、〈○中略〉城主富田信濃守自身本丸の大手へ出、數度鑓を合せ戰故、賴切たる兵〈○中略〉討死ス、〈○中略〉城中ゟ容顏美麗成若武者、緋威の具足に、中二段黑革にておどしたる半月打たる甲の緖を〆、片かまの手鑓をつ取、富田が前へ出、鑓合、五六人手負せ、猶進て戰、富田かの若武者を不二見知一、若分部左京が小性かと思ふ、いかに左馬之助あの若武者は京兆の小性かと尋る、左馬助いや、みしり候はず、左京小性にては無レ之候と云、若武者の内甲をみれば、年の頃廿四五にも成候半、化粧して鐵漿黑、爪臙脂(○○○)さし候、必定女にて候らむと云、富田はまた敵の込入けるを門外はるかに突出し、引取樣にかの若武者の内甲をみれば、〈○中略〉富田北の方なり、〈○中略〉此北の方は、宇喜田安心の息女とぞ聞へし、
p.0510 山城 堅紅粉(カタベニ)
p.0510 諸國名物盡
山城 紅粉(べに)
p.0510 べにざら(○○○○) 紅藍皿 〈俗云〉紅猪口(○○○)
今案、世の童物語に、紅皿かけざらといふ二人の娘の相競て歌よみしこと有、紅皿は今俗に云ふ紅猪口なり、
p.0510 手筥一合 第一懸子
䞓粉(ベニ)盤六花前、口徑二寸六分、銀五兩一分、
納物料銀〈○中略〉 䞓粉盤〈七兩、打料十疋一斗、〉
p.0511 安貞三年三月十七日乙酉、法印〈○行寬〉相二具題一、御前物居机菓子八種、〈○中略〉折敷二面、一居レ膏、〈べにざら三居○下略〉
p.0511 一御裝束二具内
女體一具〈○中略〉
御紅粉佐良一口被二相逼一之
p.0511 卅三番 左 紅粉解
幾入のべに皿よりも秋の月あか〳〵とこそ澄渡りけれ
p.0511 嫁入の次第 路次中の次第一十一番の長持、〈○中略〉べにざら、
p.0511 紅粉猪口(べにぢよく)
p.0512 紅猪口箱(○○○○) 總高五寸、五寸四方、中次蓋也、
紅筆(○○) 〈大長三寸二分、小長二寸九分、〉同上下トモ四分、
p.0512 諸職諸商賣
紅所 烏丸上長者町上 小紅屋和泉掾 室町丸太町上 中村屋善七 椹木町烏丸西綿屋德兵衞 衣棚下立賣上 松屋傳右衞門 四條ふや町西〈猪口紅所〉紅屋平兵衞
p.0512 愛宕
遠望豁達、使二人魂飛一、〈○中略〉竿頭飄レ紅、無數星散、臙脂舖招旆也、
p.0512 うつくしきもの
すゞめの子のねずなきするにおどりくる、またべになどつけてすへたれば、おやすゞめの虫などもてきて、くゝむるもいとらうたし、
p.0512 繪などかきて色どり給、〈○中略〉我〈○源氏〉もかきそへたまふ、かみいとながき女をかきたまひて、はなにべに(○○)をつけてみ給ふに、かたにかきてもみまじきさましたる、わが御かげのきやうだいにうつれるが、いときよらなるをみ給て、手づから此あかばなをかきつけ、にほはしてみ給ふに、かくよきかほだにさてまじれらんは、みぐるしかるべかりけり、
p.0512 正元二年〈○文應元年〉三月廿八日乙未、和泉前司行方持二參御息所御服月充注文於御所一、將軍家〈○宗尊親王〉覽之、
正月分〈○中略〉 御赭(ベニ)
p.0512 べにが谷をとをりて、化はひ坂を越とて、俳諧、
かほにぬるべにがやつよりうつりきてはやくも越るけはひ坂かな
p.0512 〈立役女形〉部屋〈人ごろし切腹などのせつに、面の色をかゆるは、口紅粉をさゝず、(中略)口紅粉は、役がらによりて、大きくちいさく作る、すじぐまといふは、矢〉 〈ノ根五郎、さるぐまは朝比奈などの作りなり、其數多し、〉
p.0513 御元服
東向厨子中有二三層一、〈○中略〉中層置二同螺鈿唐匣一、〈蓋上懸子中置二面脂、口脂筥各一口一、〉
p.0513 一被レ加二以前御調度外御物一事
口傳 關白相府仰云、〈○中略〉有二唐匣蓋一、上之小筥納二面脂、口脂筥等一云々、〈件筥以レ銀作之、其體有レ故云々、〉
p.0513 面脂
廣志曰、面脂、自二魏興一已來、始有レ之、
p.0513 脂、砥也、著レ面、柔滑如二砥石一也、
p.0513 伽羅ノ油ハ古來ナシ、寬永ノ末ニ、芝神明前ニセムシ喜左衞門ト云者、花ノ露(○○○)ト云藥油ヲ製ス、面部ノフキ出物ニヨシ、面ニツヤヲ付ル匂ヒ油ナリ、
p.0513 口舌の事ふれ
しぶり皮のむけたる女は、心のまゝ晝寢して、手足もあれず、鼈甲のさし櫛、花の露といふ物も知りて、すこし匂をさすに、親方も見ゆるすぞかし、
p.0513 花の露と云も藥油にて、面につやを出す者なり、
p.0513 百十段 二月十五日月あかき夜
したるき女の顏、花の露にてひからせたる跡先になりて、そばへよりそへば、〈○下略〉
p.0513 花の露の傳
此香藥水は、化粧して後、はけにて少しばかり面へぬれば、光澤を出し、香ひをよくし、きめを細かにし、顔の腫物をいやす、
花の露とりやう いばらのはな
此花をつみとり、らん引にかくる、かくのごとき器也、〈○圖略〉中に湯を入てわかし、其上へかの花をいれ、其湯氣、上の器にたまり、口より露出るを茶碗にうけて取る也、扨此露を除け、
丁子 片腦 白檀
をらん引にかけ、此香具の香ひをとり、いばらの花の露に少し入て用ゆる也、
らん引を用ひずして花の露をとるには
藥鑵に水を入、上の蓋をあをのけにして、其眞中の高き所へ花をのせ、大きなる茶わんを其上へふせをき、炭火にかけ、藥鑵の水、湯となりて花を蒸がゆへ、花の露、上の茶碗にたまり、又したゝり落て藥鑵の緣へ流れ落るを取也、ふたの茶碗の上へ別の茶碗に水を入のせをくべし、〈○圖略〉
p.0514 ●ハイ只今は二丁目の式亭で賣ます、〈○延壽丹〉 ▲エヽ何か子、このごろはやる江戸の水とやら、白粉のよくのる藥を出す内でございませう、 ●ハイさやうでございます、私どもの娘なども、江戸の水がよいと申て、化粧の度につけますのさ、なる程子、顔のでき物などもなほりまして、白粉のうつりが奇麗でようございます、 ▲私どものりんが田舍育だけに、根から白粉がのりませんが、成ほどよくのります、嫁などもつけますが子、翌の朝、顏を洗た跡で、ちよいと紙で拭ますと、薄化粧でもいたしたやうに、きのふの白粉が出るさうでございます、種々な調法な事が出來ますよ子エ、
p.0514 三馬江戸水(○○○) 〈本町二丁目〉
近年三馬大流行、德利往來店不レ遑、賣出繁昌江戸水、粧成八百八町娘、
松本蘭奢水(○○○)〈住吉町〉
賣出一方蘭奢水、鬢付鉛粉製尤芳、家名松本紋銀杏、看板彫成岩戸香、
p.0515 絲瓜 ヘチマ ナガウリ〈薩州〉 トウリ〈信州○中略〉
ヘチマノ水(○○○○○)ハ、蔓ノ本地ヨリ一二尺ニ切ハ、瓶中ニ插ミ入置バ、多ク水出、甚淸白ナリ、俗ニ美人水(○○○)ト云、
p.0515 油ト謂モノモ、以前ハ硬キ棒油ト云計ニテ伽羅ノ油、クコノ油(○○○○)、スキ油(○○○)、ギン出(○○○)ト云類ハ、皆予〈○松浦淸〉ガ幼少ノトキハ無リシ、
p.0515 澤 釋名云、人髮恒枯悴、以レ此令二濡澤一也、俗用二脂緜二字一、〈阿布良和太〉
p.0515 澤 急就篇注、膏澤者、雜聚取二衆芳一、以レ膏煎レ之、乃用塗レ髮使二潤澤一也、卽此物、
p.0515 澤〈音宅 アフヲ和タ〉
p.0515 澤〈アフヲワタ 粉、人髮恒枯悴、以レ此令二濡澤一也、〉 脂綿〈同アフラワタ俗用之〉
p.0515 水油の古名
今も市中に男の髮結といふ者、壷めく物に緜をいれ、水油をひたしてつかふ、此千年以前にありける澤なり、
p.0515 みづらをゆふこと
まづときぐしにて、ちごのかみをときまはして、ひらかうがいにて、わけめのすちよりおなじ〈○頂也〉をわけくだして、まづ右のかみをかみねりしてゆひて、左のかみをよくけづりて、あぶらわた(○○○○○)つけ、なでなどして、もとゞりをとるやうにけづりよせて、〈○下略〉
p.0515 康和五年十二月九日甲寅、今日威德殿上、〈○中略〉結レ鬟、〈○註略〉鬟具ハ打亂筥ニ敷二檀紙一置也、〈付髮、紫糸フツツカニヨリタル三筋、油壷(○○)油綿を入、〉
p.0515 待賢門院の堀川、上西門院め兵衞、をとゝいなりけり、夜ふかくなるまでさうしをみけるに、ともし火のつきたりけるに、あぶらわた(○○○○○)をさしたりければ、よにかうばしくにほひけるを、堀 川、
ともし火はたきものにこそ似たりけれ、といひたりければ、兵衞とりもあへず、
ちやうじがしらの香やにほふらん、とつけたりける、いとおもしろかりけり、
p.0516 あぶらわた 今物語に油綿と見えたるは、寒夜の節會などに、丁子の油を綿にひたし、面及手などに塗らるゝをいへり、
p.0516 後鳥羽院の御とき、性親があしげといふあがり馬ありけり、たまるものすくなかりける中に、しもつけの武景、かみをおほくとりぐしてのりけれ共猶おちけり、それによりて、かみをみじかくきりて、あぶらわたをぬられたりければ、たけかげいよ〳〵たまらざりけり、それよりぞ武景をば、善知識の府生とは人いひける、
p.0516 一御裝束二具内
一女體一具〈○中略〉
御油壺三口、一口油綿、〈○下略〉
p.0516 行基大德放二天眼一視三女人頭塗二猪油一而呵嘖緣第廿九
故京元興寺之村、嚴備二法會一、奉レ請二行基大德一、七日説レ法、于レ是道俗皆集聞レ法、聽衆之中、有二一女人一、髮塗二猪油一、居レ中聞レ法、大德見之嘖言、我甚臰哉、彼頭蒙レ血、女遠引棄、女大耻出罷、凡夫肉眼是油色、聖人明眼是視二宍血一、於二日本國一、是化身聖也、隱身之聖矣、〈○又見二今昔物語一〉
p.0516 一猪油所用事、古老禁制之、
p.0516 五味子〈○中略〉
南北ノ異アリ、〈○中略〉南五味子ハ、サネカヅラ、一名ビンツケカヅラ、〈筑前〉 トロヽカヅラ〈石見〉 ビナンセキ〈伊州〉 ビジンソウ〈大坂〉 ビナンカヅラ〈讃州〉 クツバ〈勢州〉 フノリ〈土州〉 フノリカ ヅラ〈日州〉 オホスケカヅラ〈筑前〉 ビランジキ〈江州〉 山野共ニ多シ〈○中略〉
增〈○中略〉又南五味子ノ莖ヲ切テ水ニ浸ス時ハ粘汁出ヅ、コレヲ以テ束髮ノ用ニ供スレバ、膩垢ノ患ナク且ツ髮ヲ長ズ、
p.0517 五味 蘇敬本草注云、五味〈和名作禰加豆良〉皮肉甘酸、核中辛苦、都有二鹹味一、故名二五味一也、
p.0517 五味さねかづら 大坂にてびじんさうといふ、東國にてびなんかづらといふ、出雲にてとろゝかづらと云、伊勢白子にてくつばと云、土佐にてふのりかづらといふ、又さねかづらの實、則藥物の五味子也、相州底倉邊にて五九の伊と云、
p.0517 髮
今婦女、梳レ髮以二五味蔓浸レ水粘液一塗レ之、則髮出レ艶而韌焉、
p.0517 五味葛をもて、今の男女盛に髮をかたむ、是も中世よりせし事とぞみえたる、頃日は三州某の谷、びなんかつらを取つくしけるとぞ景師難波東都はさら也、所々の都會、および田舍の末末まで、婦人是を用ひざるはなしとかや、是も一時の妖艸といふべきにや、
p.0517 五味子、髮を結ふに、びなんかづらとて、南五味子の莖を水に漬し、そのねばり汁を用ゆ、〈○中略〉色芝居草子に、髮はそほろの時より、丁子油、山吹ねり、さねかづらは干あがりて、から蚰蜓(ナメクヂ)のはふだやうに、きら〳〵して見苦しきと紙漉のとろゝをつかはせ云々、〈○中略〉かくいへりしも廢れて、今は久しく成ぬれど、近頃まで、油店の看板に、かづらの束ねたるを置たりしが、それもいつか皆うせて、唯兩替町なる下村の店にのみ、もとの儘におしろいの看板の上にのせて有り、そのあるじに尋ねければ、今も稀には、これを求めにくるもの有とぞ、
p.0517 さねかづら
近世にいたりては、五味子(さねかづら)〈藤のやうに蔓のもの也〉をみぢかく切て、筒に水を入れて刺浸おけば粘汁出るを、 今のぎん出しといふ油をつかふやうに用ひたるは、びん付油いできても、八十年前まではありける事、其比の書にあまた見へたり、此五味子を一名美軟石(びなんせき/○○○)ともいへり、〈○中略〉又びなんかづらともいへり、俳書二た車、〈正保三年板、雜舟撰、〉春風に岸の柳のあらひ髮、〈付〉びなんかづらは乳母が歲玉、〈○中略〉今の女中は、びん付の外に、すき油、ぎん出しの重寶あれば、五味葛の名は、百人一首に知るのみならん、享保十一年、不角撰、百入染、〈一名俳諧百人一首〉とて、百人一首の句をたらいれたる句集の中に、三條右臣を、花はいざ野郎帽子もさねかづら、是もさねかづらのはやりし一證とすべし、
p.0518 今ノ鬢ツケ油ト云モノモ、幼少ノ頃ハナク、蔓ヲ〈ビナン蔓、所レ謂五味子ナリ、〉水ニ漬シ、其汁ニテ結タリ、コノコト貴人計ニモナク、部屋方婢迄皆然リ、因貴上ニテ蔓竪鬢水入トテ有テ、蔓堅ニハ五味子ノ莖ヲ截テ立テ、鬢水入ニハ水ヲイレ、莖ヲ漬シテ櫛ヲ納レ、コレニテ髮ヲ梳ルナリ、
p.0518 關東昔侍形義異樣なる事
諸侍の形義異樣に候ひし、〈○中略〉鬢の毛のあひだをぬきすかし、皮肉の見ゆる程にして、髮をばびなんせき(○○○○○)にて、びんを高くつけあげ給へり、
p.0518 ゑぼしおり
〈大名〉いそげ、やい藤六、ゑぼしはまづおりにやつたか、してゑぼしかみなどゝいふ物は、ゆひつけぬ者は、ゑいはぬといふが、なにとした物であらふぞ、〈○中略〉 〈藤六〉いやその御事で御ざりますか、此筒の中に、びなんせき(○○○○○)が御ざりまする、所でおまへのおつむりへつけねばいはれませぬ、〈大名〉ふん、しらなんだ、さあ〳〵きてぬれ、〈○下略〉
p.0518 戀の捨銀
そも〳〵京は淸く、少女の時より麗はしきを、貌は湯氣に蒸立て、〈○中略〉髮はさねかづらの雫(○○○○○○○)に梳きなし、身は洗粉絶えさず、〈○下略〉
p.0519 髮の油の事
儉約問答〈安永元年八十二歲、上其流老人筆記曰、略〉古は唐苧とて、細き苧繩にて髮を結ふ、能人の女子は胡麻白絞等の油にて髮を結、下々の女子は、菜種の油にて髮を結ふ、
p.0519 女けしやうの卷
一髮の油は、くるみの油を御つけ候べし、色くろく、しなよく、にほひ高からずしてよし、そのほかの油しな〴〵あれども、いづれもよろしからず、匂ひあしき油を付たる女は、おとりせらるゝもの也、
p.0519 かみにあぶらをつくる事
あぶらをつくるに、つねのごまの油をつけ侍れば、殿によりてきらひ給ふものなり、くるみのあぶらをとりてつけ給ふべし、だい一くろくなり、にほひせぬものなり、
p.0519 一きやらの油、すき油、びん付などと云物古はなし、古は水油を付て髮をすきて、ふのりを付て髮をゆひしと也、
p.0519 髮の油の事
伽羅の油といふは、透油の本にて、今の鬢付油は、透油の變せし物也、たゞし百三十年前、鬢附油といへるは伽羅の油の事なり、
p.0519 鬢の事
寶永の始元祿の末より、吹鬢と云名、諸書にみへたり、〈○註略〉また此頃より伽羅の油を多く塗りて光澤を出せし故、繻子鬢といへる名も多く見へたり、
髮の油の事
新智惠の海〈享保甲辰印本中之卷に曰〉匂伽羅の油の秘法、唐蠟、〈八兩〉松脂、〈三兩〉廿菘、〈二兩〉丁子、〈七分〉白檀、〈一兩〉茴香、〈四分〉肉桂、〈三兩〉 靑木香、〈三分〉まんていか〈○猪の油〉と胡麻の油加減してよく煎じつめ、きぬ袋にて漉し、麝香龍腦、〈三分〉合練云々、
p.0520 伽羅油の方の事
大白唐蠟、〈十兩〉胡麻油、〈冬は壹合五勺、夏は壹合、〉丁子、〈壹兩〉白檀、〈壹兩〉山梔子、〈二匁〉甘松、〈壹兩〉右四いろのくすりをあぶらにいれ、火をゆるくしてねる、二日めに蠟をけづりていれ、火をつよくして、くろいろになるほどにねりつむる、こげくさくなるとも、湯せんのとき、そのにほひはのくなり、よくいろつきたるときあげてさまし、龍腦〈貳匁〉麝香〈三匁〉いれてよく〳〵まぜあはす、
p.0520 以前御當地諸賣買物の事
伽羅の油之義、七八十年以前迄は、前髮立の兒小姓抔之義は格別、其外上下共に、年若き男の鬢に油抔をぬり付候と有レ之は、なまぬるき樣に致しゝとなり、其時代には、もみ上ゲの頰鬢と申義は時花、尤侍の中にも有レ之なれ共、先は步行若黨小者中間のたぐひにあまた有レ之候が、其輩は蠟燭のながれを油にときゆるめ、松やになどを加へて伽羅の油と名付用ひ申す如く有レ之也、其節も伽羅の油入用に候へば、藥種屋へ申遣し調へる如く有レ之たる事故、今時の如くなる伽羅の油店抔と申ては、終に見かけ不レ申也、
p.0520 伽羅油
正保慶安のころ、京室町髭の久吉賣はじむ、其後三條の市宇賀繩手の五十嵐これを製す、江戸にては、芝の大好庵、脊虫喜右衞門などはじめなり、其以前は胡摩の油に、白檀丁子等を浸して、匂ひ油と稱す、おくれ髮を付るは、亥及(さねかづら)草を以す、
p.0520 伽羅油
按るに脊虫喜左衞門といへる油見世、芝に今もつてあり、今見せにあるところの大鼓の看板、 以前はのき先にありと見ゆ、
p.0521 伽羅ノ油ハ古來ナシ、〈○中略〉大坂落城ノ時、木村長門守重成、河内若江口ニテ討死ス、必死トキハメ、首ジツケンノハレニセント、伽羅ヲ胡麻ノ油ニテ煎ジ髮ニスキコム、家康公其必死ト極メタルヲ感ジ〈井伊掃部頭内安藤長三郎木村ヲ討〉タマヒテ、御褒美ノ御詞アル、此事諸書ニ少シノ違ヒアリ、是伽羅ノ油ノ始ナルベシ、
寬文年中、日本橋室町一丁目へ若衆方中村數馬、伽羅油ノ見世ヲ出ス、少シ前ニ糀町へ谷島主水トイヘル女方、油見世ヲ出ス、是油ミセノ元祖ナルベシ、淺草虎ヤ一之進ハ又少シ其後ナリ、其比武士ハ油ヲ付レドモ、町人百姓ハ油元結ヲ不レ用、依レ之遠方ニテモ曾テ事欠ズ、用ノ序ニ油ヲ求メニ來ル、正德迄ハ蛤具ニ一兩入、二兩入、三兩入、曲物五兩入、
中村數馬
上油一兩ニ付代廿二文 極上白匂油一兩代三十六文 極上々黑匂油一兩代四十文
右之通ニテ賣ニ、甚買人多シ、勿論蟻ハ下直ナルユへ、至極吟味致シ、香具ヲ入、以二梅花一練ユへ直段甚高直ナリ、寶永年中ヨリ髮結床ニテ晒蠟計ノ油ヲツカフナリ、十五兩ニ付百二三十錢ナリ、長クシテ紙ニ包、正德ヨリ世上蛤貝ヲ不レ用、皆々包紙ニナル、油モ麁相ナリ、四兩五兩トイへ、價四十錢、或ハ五十文、或ハ百文ニ十四兩ニ賣ナリ、
p.0521 一昔と大に替りたるは、伽羅の油、きざみたばこ夥敷賣なり、〈○中略〉むかしは伽羅の油御旗本に一生少も附ざる人多し、付る人も鬢のはへさがり、又は月代たてゝ、未だ毛の延ざる人少しづゝ付し、女抔は一向不レ附、依レ之伽羅の油賣所、湯島天神に一ケ所、明神に龜やとて一ケ所、芝にせむしとて一ケ所、麹町に一ケ所、牛込に笹やとて一ケ所、江戸中に六ケ所ならでは賣所なし、便にあつらへ、或は京都へ誂へ抔して調、貝も今の如くにはなし、少き目藥貝程の貝に入て賣、付る 人も、一貝を一ケ年に付るも有、二年三年に付るも有、夫をさへ伽羅の油付る人をば笑ひそしる、去により前髮の若衆は多く附る分にて、大形一貝を二ケ月程に付切、或人の子息十五六歲の若衆、一ケ月に一貝付切とて取沙汰せし程なり、油を多く付て髮の結やう見事成は、油のかげ成べしと笑ふ故、多く付る人なかりし、今は大き成貝に一ツを二三度に付切故、伽羅油賣所多し、女中猶以付る、
p.0522 伽羅の油、昔は藥種屋にて商ひ、男の髮ばかりに少しつけ、女はさねかづらといふ物にて、日に〳〵梳けるゆゑ、臭氣もいでず、奇麗なりしに、四五十年〈○元文頃〉以來、男女ともに頻りに油を用ひ、元結も以前は貴賤とも紙縷にてすましけるを、今の風俗になるにしたかび、油元結の店も、次第次第に出來たり、
p.0522 塗髩膏の沿革
おのれ〈○岩瀨百樹〉が茶友に、藥店の隱居宗香とて、天保元年に行年八十七歲の翁にて、頗好事もありけるゆゑ、藥種屋にて伽羅の油を賣りしといふよし、きゝつたへありやと問ければ、翁いはく、吾家は忰にて四代藥種屋なり、吾父は寶永二年の生れにて、七十七にて、天明元年に沒せり、吾若年の比、父が語りしは、今伽羅の油とて一ツの家業となりしが、元來は我が店にても賣たる物なりときく、其はじめは、或武家の中間、松脂と地蠟とを度々買ひにこられしゆゑ、なにの藥につかひ玉ふと尋ければ、これをとらかして、部屋のものらがびん付油につかふのなりといひしが、そののち匂ひをすこしいれて、伽羅の油と名付、藥種屋仲間に賣るものありしゆゑ、わがみせにてもうりたるに、よくもうれざりしよし、そののち香具屋にて上製の油をうりはじめ、藥種屋のはすたりたりと父がはなしなり、藥種屋にてうりし物なるゆゑ、一兩目二兩目の名あり、今其名の殘りしは、兩替町の下村ばかり也と、宗香かたりしは、天保元年の事なりき、亡兄醒齋翁所藏せられ し、正保年中、下村が店のびなんかつらの引札〈牛紙一枚〉今にあり、目標も名も今にかはらず、めでたき舊家ゆゑ、兩目の名も殘りしならん、店前におしろい凸のかんばんありて、そのうへにびなんかつらのたばねたるをのせおくをみて、むかしをしのびしが、今はみえず、
p.0523 男を尻に敷金の威光娘
いにしへは女のきやらの油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成りしを、今は娘の子の臍のあとまでに、伽羅の油をぬる事にして、毎朝頭に五兩入の曲物一ツづゝ、はんまいの外に入目と算用せねば、うつかりと女房はもたれぬ浮世ぞかし、
p.0523 賢女心化鞍といふ草子に、姑六十年以前の事を定規にして、嫁のかみゆふをみるに、伽羅の油を付らるゝがあれば、武家がたの中間奴などが、髭にてぞ付る物なるに、女のあたまに付るとは、あんまりけうとい事なり、
p.0523 伽羅の油と鬢付油の同物なる證は、渡世商軍談〈刻梓の年號を欠、案ずるに享保元文の頃か、八文字自笑作、〉甚九郎、京にて聞はつり置たる、蠟をさらす事をふと思ひ出し、家戸の灯挑にとりつきし蠟燭の流れを取て、こゝうみに調物(あはせもの)をして曝し見るに、白く唐蠟の如くなれり、〈サア〉銀まふけは極りぬと、夫ゟ江戸を廻り、蠟燭の流れ買出し、是を晒て伽羅の油に思ひつき、堺町近くに店をかり、白梅香白煉といふ伽羅の油を仕出してより、御屋敷がたを始め、町中から買に集り、わづか二年たゝぬ間に千兩といふ金をため、諸方へ出店を出し、手廣くするにしたがひ、日々繁昌して、伽羅甚といふ名を取り、是が鬢付でなければ買はぬやうにはやりし故、〈とあり、伽羅油と鬢付をひとつにいへるを以て、同物なるをしられれり、〉
p.0523 びんつけといふは、上にいへる伽羅油なり、故に是も下村などの油の紙袋には、今もきやらの油と記したり、箕山が色道大鑑、〈延寶六年の序あり〉びんつけは、花露、伽羅油を用ゆ、〈かたきもやはらかきも、なべて鬂付といふ、すき油などの名はなし、〉油は松脂煉は鬂枯てあしゝ、蠟ねりをよしとす、又鬂を梳る事を云處に、油 は木の實を第一とす、梅花これにつぐといへり、
p.0524 女けしやうの卷
一髮のゆいやうの事、〈○中略〉びんのはへさがりは切そろへたるは古風なり、生(おふ)したてゝ、びん付にてかきあげたるよし、〈○下略〉
p.0524 形體保養之説
髮を梳るに、水を付てけづるべからず、おほくは虱を生ず、本邦近來男女のかみに油をつけて梳り、蠟油〈鬢付をいふなり〉を用ひて束ぬるによりて、頭に虱を生ずる事なし、老人によりて、夫はたゞ世間榮耀風流の伊達男のすることなどゝいひて、水にて梳りて虱を生る類まゝおほし、よく可二心得一事なり、
p.0524 鬂附油頭髮へ附る多少の事、我等〈○小川顯道〉二十歲頃は、若男は堅き油を多くつけて結たり、其後は水髮といふて、油を少し附てゆひ、近歲は多くもなく、少しにもあらず附たり、この頃は卑賤の者には、油を少しも附ず、誠の水髮に成しも多し、
p.0524 貞享年中女の頭に飾物十六品
貞享五年京板盛衰記〈卷三〉今の女、むかしなかつた事どもを仕出して、身をたしなむ物の道具數々なり、首筋より上ばかりに入用の物十六品あり、まづ髮の油髩付、〈もゝき按に、髮の油と、びん付を二ツにかぞへしは、此ころ髮の油といふは、みな水油(○○)のみなりしゆゑ、びん付を別とす、〉
p.0524 婦人首飾、昔は首飾なし、〈○中略〉賢女心化粧に、姑六十年以前の事を〈延享よりなれば、貞享頃に當る、〉定規にして、むかしも今も同じやうに思はれ、嫁の髮みるに、〈○中略〉凡そ首筋より上ばかりに入る物廿一二品もあり、かりそめに出るにも身拵に隙なき事思はれける、先髮の油、びん付、ぎん出し、〈○下略〉
p.0525 松岡恕庵
恕庵松岡氏、〈○中略〉ある日奴僕を呼びて、蠟燭の屑をえり出して、是は某、これは誰に取らせよとわかち、すこしかたちあるを皆殘し置れけるを、かたはらの人、今奴に蝋燭の屑を給ひしは、何事に候やと問、先生鬢つけの爲也と答へらる、
p.0525 白しぼり油の事
往古ハ木の實の油にて、鬢附をねり貝に入て賣しよし、それも都會の事にて、諸國にては鬢葛といへるものをとりて水に浸し置ば、其水ねばりたるものとなる、多く是を付て、紙のこよりにて髮をゆひ、田家にては藁をもて結たるよし、傳承りぬ、其時は櫨實(はじみ)と云ものなく、漆の實より搾たる蠟を用し也、寶曆の頃より櫨實を採、漆實同樣の生蠟とする事を覺しより、種子油の白絞を日に晒し、櫨蠟の晒たるに交へ、今のごとき鬢付とする事とはなりぬ、明和安永の頃、菜種子油の早晒を泉州堺に於て仕始しより、浪華にうつり、今は世間一統早晒の油(○○○○)而已を用ふる事となりけり、又當世髮にぬる梅花油(○○○)も、此晒あぶらに匂ひをつけたるものなり、この晒し油、梅花油ともに大坂製を極上品とする事なれば、諸國にても大坂製を用ひ給へかし、
p.0525 塗髩膏の沿革
すき油も古くありし物とみえて、元祿十二年板、初音草噺大鏡、はやる物をいひたてる所に、荻野澤の丞がすき油、〈女形なり○中略〉俳諧菊枕、〈寶永二年板〉湯あがりの縮に匂ふすき油、〈付〉網の魚とてかね親の文、
p.0525 油壼 あぶらつぼ
p.0525 わらは殿上のこと
あぶらつぼにあぶらわたいれて、〈○下略〉
p.0526 大和國箸墓本緣語第卅四
今昔天皇ト申ケル帝一人ノ娘御ケリ、〈○中略〉此娘未ダ娶給フ事モ无キ間ニ、誰トモ不レ知ヌ人ノ極ク氣高キ、娘ノ御許ニ忍テ來テ云ク、〈○中略〉我レハ此ノ近キ邊ニ侍ル也、我ガ體ヲ見ムト思サバ、明日其ノ持給へル櫛ノ箱ノ中ニ有ル油壺ノ中ヲ見給へ、〈○中略〉其ノ後、女櫛ノ箱開テ油壺ノ中ヲ見給フニ、壺ノ内ニ動ク者アリ、〈○下略〉
p.0526 天福元年七月十六日戊申、未斜自二賢家宅一小兒來、〈○中略〉卽令レ乘レ車、〈例小兒相具物等皆具レ之○中略〉懸子一入二油壼等一、
p.0526 よめ入の條々
一あぶらつぼは、みのつぼがよく、みのつぼは、みのゝ國より出るものなり、
p.0526 油壺 高五寸、口徑二寸一分、蓋厚サ三分五リン、
油壺箱 高六寸、巾五寸三分、
p.0526 油筒一對 上下ノトコロエ金物ヲトリ、後ロノ方ニ釻ヲ打、紅ノ緖ヲ附ル也、緖ワナニシテカクル也、口徑二寸三分、又二寸二分、長一尺二寸、
p.0526 古へは、綿に香油を漬し置て用ゆるのみなり、後には是を竹筒に貯へけるにや、〈宗鑑、山崎にて竹の油筒を作りて售しとかや、〉望一千句、竹の筒ふりふられのる中はうし髮の油に泪たりそふ、
p.0526 油桶(あぶらをけ)
p.0526 油桶一對 高二寸四分、徑九分五リン、
油柄杓 徑五分、高五分、柄二寸一分、
p.0526 寶永ヨリ、油元結ノ見世多ク出タリ、
p.0526 菊井、松本、澤村、よし屋、皆古き髮油見世なり、
p.0527 諸職名匠諸商人
伽羅油屋 神明前 大好庵 門前町 林喜左衞門 宇田川町 同法喜 ばくろ町 傳兵衞 同所 伊兵衞
p.0527 江府名匠諸職商人
伽羅油屋 大好庵〈神明前〉 林法喜〈宇田川丁〉 同喜左衞門〈神明門前丁〉 傳兵衞〈ばくろ丁〉
伊兵衞〈同所〉
p.0527 諸職諸商賣
伽羅油所 四條柳馬場東 下村山城
p.0527 下村山城油 〈本兩替町〉
三都無レ類山城製、貴賤珍重六十州、貯得道中經二幾日一、不レ融不レ替一番油
p.0527 鹽尻に、今男女盛に五味子を用ひて髮をかたむ、〈○中略〉かくいへりしも廢れて今は久しく成ぬれど、近頃まで油店の看板に、かづらの束ねたるを置たりしが、それもいつか皆うせて、唯兩替町なる下村の店にのみ、もとの儘におしろいの看板の上にのせて有り、そのあるじに尋ねければ、今も稀にはこれを求めにくるもの有とぞ、
p.0527 中古までは鬢附なく、髮をゆふには、膠鯉煎とて鯉をせんじて、にかはにしたるものをぬり付たりといへど、鯉を煎じたるものなれば、さこそなまぐさかりぬべし、つれ〴〵草に、鯉を喰ふ日は、鬢そゝげずともいひ、にかはにも作るといふ二事を合せて、好事の者の言出せる説にや、
p.0527 身持たしなみやうの事
一老たるも若きも、身持をたしなみ候事、女たる心得なり、〈○中略〉髮に油を付るにも、さのみぬれぬ れとなく付るなり、
p.0528 千早振神の油
貧のぬすみに戀の歌とかや、其躰いやしからぬ浪人、四方髮なるが、紙子に朱鞘の大小をさし、北野の天神の内陣にて、むたいに散錢を取て懷ろへ入る、社僧どもこれは狼藉なりとてとらへければ、いや〳〵さわぎたまふな、自分は、しらしぼり伽羅之進(○○○○○○○○○)といふものなりと、なを〳〵ねぢこめば、何にもせよ狼藉者なりとひしととらへ、別當へつれゆき、かやう〳〵といふ、別當聞いて、其方名は何と云、宿もとはいづくと詮議しければ、拙子儀は、油の小路邊に罷ある白しぼり伽羅之進と申すものなりといふ、其儀ならば苦しうない、許してやれといはる、社僧ども聞て、これは合點參らぬ御下知なり、白絞伽羅之進なれば、盜をしても許し申すべきやといへば、別當いや〳〵これはどふでも、かみのあぶらじやといはれた、
p.0528 香囊 唐韻云、幃〈音圍、又許歸反、〉香囊也
p.0528 香具〈○中略〉 一種有二香囊一、或謂二匂袋一、於二其方一也、有二花世界兵部卿等之名一、是亦麁末之香劑、各有二輕重多少之差別一、各量レ之而滾二合之一、共盛二絹囊一而囊左右著レ緖繫レ頂懷二其袋一、故元稱二掛香(○○)一、今多無二其儀一、徒納二之諸懷一、是謂二匂袋一、倭俗匂字代二香字一而用レ之、
p.0528 香囊は丸く銀にて作り、紐を付、鈎(カギ)にてつる物也、〈○中略〉身に香囊を懸ることは、古へ薰衣香を專ら用ひたれば、かけ香には及ばざるか、後世匂ひの玉などいふ物ありてかけ香とす、
p.0528 誰袖 花袋
誰袖(○○)は匂ひ袋なり、紐をつけて二〈ツ〉連ね、今袂落しといふ物の如して持し故に、古畫の誰袖に紐のつかざるはなし、是はもと、色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰袖ふれし宿の梅ぞも、といふ古今集の歌にて名づけしなれば、楊枝さしとなりては名義聞えず、昔はおほく香具賣も持來、見 世店にても賣たるなり、誰袖を匂ひ袋なりしといふ證くさ〴〵あり、其三〈ツ〉四〈ツ〉を記す、老婆物語〈寬文四年印本〉下御靈の條に、矢田の地藏の前をのぼりに、そこら見世棚ながむれば、かざりたてたる小間物の品々、いと愛らしくいたいけしたる印籠巾着、針、さし櫛、かうがい、誰袖ふれしにほひの具には、梅花じゞう云云、又卜養狂歌集に、犬の誰袖につなをくはへて引ところをかいたるゑに、〈天知二年の寫本より抄出、印本とは小異あり、〉かをりぬるにほひもふかしたが袖とひけども君は犬のつらにく、同集に、又若き香具屋まゐりて、色々の香具を出しける、〈中略〉伽羅、たが袖、花の露、匂ひ袋などありといひければ云云、女重寶記〈元祿五年印本〉匂袋〈誰袖〉匂玉香包とあり、〈○中略〉又香のかをり〈一名白菊物語元祿八年刻〉に、梅花黑方などのたき物、麝香、龍腦の誰袖云云、又寶の市と題する樂山點の前句附、桂木といふ者の句に、梅が香に誰袖捨る霜の朝と、いふ〈元祿十六年吟〉あり、匂ひ袋なる事よく聞ゆ、是によりて思ふに、今婦女子の細工物といふは、大方香囊なるべし、まつ貝張(かひばり)は香貝(にほひがひ)歟、年中定例記〈室町家の舊記〉正月十一日の條、御所々々への御みやげは、こぎ板、こぎのこ、匂貝已下 樣へも同前とあり、羽子板、羽根、貝張といふ程の事と聞ゆ、匂貝の事は是より古くもあらんか、貝張といふ物近き草紙にもおほく見えず、向之岡〈延寶八〉汐干 張子貝けふや干潟の錦の浦 調南
此句貝張をいひしなるべし、又花形の獨樂も原は香囊にて花袋(○○)といひし物にはあらずや、花袋の句は万治前後の俳書におほかた無はあらず、證とすべきを二句錄す、
花月千句〈慶安二年刻立圃門〉 匂ふらし山懷の花ふくろ 幸和
誘心集〈寬文十三年刻改元延寶紀年也、種寬撰、〉 かけ香歟草の袂の花袋 一春
花袋は匂袋なる事明なり、再按ずるに、浮世袋(○○○)も匂袋なるべし、三角に縫て紐をつけたる匂袋の看板近年まであり、〈今もある歟不レ知〉前にいひし誰袖は彼三角なる形も見ふるしたるが故、それを精工にしたるなり、偖小女の是等の物を調ずるは、把針手業をならはんためなれば、費をいとひて香
p.0530 盖深 二寸四分 身深二寸六分
春囊形
総 旋子銀一両二分 銀一分三朱 番方 二寸 二寸 志ア銀二分 二イ 一寸五分 旋子 建涌雲𣵛掘物 以太糸金鋂之銀 鋂長二尺五寸 香囊髙五寸径五寸 内定 同形 開方銀三分 旋子 銀一両二分 銀頸長二寸 銀一両二分 帯二筋銀五両三分
開方鳥中〈ヨリ〉切〈天〉、上〈ノ〉内〈ニ〉懸金〈ヲ〉付、下〈ノ〉内〈ニ〉筋金〈ヲ〉立〈天〉、開時〈ハ〉身上〈ヲ〉アフグ、結時〈ハ〉伏レ之、蓋身料銀四十一兩、 關白相府仰云、或説帳内跡方辻金物下打二肱金一、懸二香囊一云々、是故殿所二令レ爲給一也、如レ古令
レ傳歟、將又今案歟、不レ聞二慥仰一云々、又説懸二帳前簾鈎一云々、
同身ニ
鉢鋂居
形
鉢
牙高二分、銀五兩二分、
一輪高三分、厚一分、薄程
銀三兩二分、
二輪高厚同前銀二兩三分、
三輪高厚同前、銀一兩一分、
鉢口徑三寸八分、深二寸三
分、銀廿二兩、
已上輪三口、鉢一口、間各二分、
用二薰衣香一時者、鉢〈ニ〉白物入之、
燈火時者鉢上〈ニ〉別油器居之、
如加レ目呂久呂〈ニ〉加良久利天廻
之、凡八所也、
類をいれざりしより、誰袖は楊枝さしと變、花袋は獨樂となり、香貝はガラ〳〵といふ物のやうになり、浮世袋は何とも名づけ難き物となりしにやあらん、浮世袋は少女の手すさびに縫しといふ證、
富士石〈延寶九〉衣配 女の童うき世袋や衣配り 友也
歲暮の句なれば、屠蘇袋の料に送るをいひし歟、
崑山集〈慶安四〉 花々のつぼみはうき世袋かな 作者不レ知〈○中略〉 玉手箱〈延寶四〉 見れば氣のうきよ袋や花袋 〈女〉香屋
前の句は花の香をふくみ、匂袋なるをいひし歟、後の句は香囊を二ツ並べていひし歟、錄して後勘に備ふ、此ほかにも浮世袋の句あれども考證に便なし、故に略く、毛吹草附合指南に、袋、傘、弓、浮世、乞食と見えたれば、寬永より浮世袋はあり、〈傘袋、弓袋、浮世袋、こじき袋と附合を敎へし也、〉又世話盡〈承應三年〉同指南に、浮世、月蝕、巾着、戯女(ウカレメ)と記す、承應より浮世巾着といふ物あり、浮世巾着は桔梗袋といふ物の類にはあらずや、浮世袋とは別物なゐべし、
p.0532 蚊帳に香袋を掛
誰袖の條にいひし如く、昔は香囊の類おこなはれて、匂袋を蚊帳に掛し事あり、
鹿驚集〈明曆三年印本〉 つく花は匂袋歟蚊帳草 〈撰者〉春淸
信親千句〈明曆元年刻〉 〈前句〉人知れぬ匂袋歟夏の風 〈附句〉釣し蚊帳の内外(うちと)くらき夜
懷子〈萬治三年刻〉 床近み目に掛物を心にて 〈是等の句おほくあり、三句にして止、〉
匂袋は蚊屋のすみ〴〵 〈撰者〉重賴
是は高貴人の臥玉ふまうけなるべければ、今もさる事あるを、予〈○柳亭種彦〉が知らざるにやあらん、又おもふに赤鳥の卷に、大島求馬の説なりとて、昔は遊女にたはるゝを、浮世狂ひといひしなり、傾城の宅前には柳を二本植て、横手をゆひ布簾をかけ、それに遊女の名を書て、下に三角なる袋を自分の細工にして付しなり、是を浮世袋といひならはしたるなりといふ事を載られたり、是匂袋なるべし、風にあふちて自然香を散さん料なれば、蚊帳へ掛るも同事のやうにおもはる、昔は太夫ととなへし遊女は更なり、格子などいひて、それに次者も、伽羅を衣に留ざるはなきさまなれば、かゝる餘情もなしたるにやあらん、それが彼誰袖の如く、後には香類をいれず、布簾の縫留となりしなるべし、
p.0533 慶長八年五月十九日、伏見城右府家康へ御見廻申入候、〈○中略〉次禁中ヨリ匂袋、〈五十袋〉勅使勸修寺宰相、廣橋大納言兩人也、
p.0533 慶長八年六月廿三日、まん所〈○豐臣秀吉妻淺野氏〉へかけぶくろ(○○○○○)參る、御つかゐ大御ちの人也、九年六月十一日、御せつけがたへ、御かけぶくろまいらるゝ、九條殿、このへ殿は、ひろはしべん、一でう殿、たかつかさ殿へは、とうの辨、二條殿、せうかうゐん殿へは、う大べん也、一でう院どの、りうさんへもまいらせらる、くわほう院にも、御かけぶくろくださるゝ、 十四日、しやうぐんへ、御かけぶくろ參る、御つかいう大辨、