p.0841 簾 野王曰、簾〈音廉、和名須太禮、〉編竹帳也、
p.0841 〓、堂簾也、〈小徐曰、此書及釋名、簾帷皆作レ慊、疑〓或與レ簾別、或者此簾字後人所レ加レ之乎、所レ不レ能レ決也、按巾部曰、㡘帷也、又曰在レ旁曰レ帷、周禮幕人掌二帷幙幄帟綬之事一、注曰、王出レ宮則有二是事一、在レ旁曰レ帷、在レ上曰レ幕、帷幕皆以レ布爲レ之、四合象二宮室一曰レ幄、帟者王在二幕若幄中一、坐上承レ塵、幄帟皆以レ繪爲レ之、然則㡘施二於次一、以蔽レ旁、簾施二於堂之前一以隔二風日一而通レ明、㡘以レ布爲レ之、故从レ巾、簾析二竹縷一爲レ之、故其字从レ竹、其用殊、其地殊、其質殊、學者可二以無一レ疑矣、〉从レ竹廉聲、〈力鹽切、七部、按韋昭注、國語曰、簿簾也、薄今字作レ箔、〉
p.0841 簾
莊子曰、有二張毅者一、高門懸レ箔、無レ不レ走也、而談藪有二戸下懸一レ簾明知是箔、則懸箔卽簾矣、苟子有二局室蘆簾之文一、由レ此推、疑三代物、禮曰、天子外屛、諸侯内屛、大夫以レ簾、士以レ幃、
p.0841 簾〈曰二湘簾一、曰二曲簿一、亦曰二蝦鬚(○○)一、又曰二妓衣一、夏侯家宴レ客、諸妓無レ衣、隔レ簾作レ樂、時、號レ簾爲二妓衣一、簿與レ箔同、用二幾桂一、〉
p.0841 蝦鬚
唐陸暢詩、勞二將素手一捲二蝦鬚一、瓊室流光更綴レ珠、玉漏報來過二夜半一、可レ憐潘岳立踟蹰、又宋蘇易簡詩、蝦鬚半捲天香散、
p.0841 箔〈文薄反、須太禮、〉 〓〈可基反、簏也、須太禮、〉
p.0841 簾〈スタレ、音廉、編竹帳也、〉 箔〈同音泊〉 簿〈已上同、曲禮云、帷簿、〉
p.0841 箔(スダレ) 簾(スダレ)〈二字義同〉
p.0842 簾(スダレ/レン) 箔(同/ハク)
p.0842 簾(スダレ)〈簿箔並同〉
p.0842 簾
たまだれ〈たまだれのこすのまとをしなどよめり、みすのまよりかよふ心也、またたまだれのあみめのまよりふく風ともよめり、〉伊よす、いよすだれ、みす、こす、こすのと、〈外也、戸にはあらず、〉こすだれ、しのすだれ、あしすだれ、玉すだれ、こすのきけき、〈きけきとはしけきと云詞也と云云、〉こもすだれ、靑葉のすだれ、〈翡翠のすだれとて、四月一日新き御すだれをかくる也と云々、〉白きすだれ、〈かげしろきひとへの衣うちなびきあふ日もすずししろきすだれに〉こすのまとほし、〈透也、こすのまをとなりたる也、玉だれのこすのまとほしともよめり、〉すとばかりもいへり、〈後撰詞にあり、みす也、〉すだれのうごかし、玉すだれのあみめのま、玉すたれていとのたえま、玉すだれすける心、〈拾遺〉すゝけたるいよすだれ、かけさげられて、あしすだれ世にすゝけたるなにはの女、
p.0842 簾 すはすく也、竹をあみて其あいだすけり、たれはのきにかけて下へたれさがる也、みすは御簾也、こすは小簾なり、こまかなるすだれなり、
p.0842 簾スダレ 倭名鈔に、野王云、簾は編竹帳也、讀てスダレといふと註したり、古の俗、凡竹をもて作れるものをスといふ、〈簣讀てスノコといひ、簏讀てスクといふがごとし、〉タレとは垂也、
p.0842 簾〈音廉〉 箔〈音泊〉 簿〈同〉 和名須太禮 蓵音捷 和名奈波須太禮
釋名云、簾也、自障爲二廉耻一也、編レ竹障二蔽内外一者也、
物原云、周公作レ簾、
p.0842 額田王思二近江天皇一〈○天智〉作歌一首
君待登(キミマツト)、吾戀居者(ワガコヒヲレバ)、我屋戸之(ワガヤドノ)、簾(スダレ/○)動之(ウゴカシ)、秋風吹(アキノカゼフク)、〈○卷八作二簾令動秋風之吹一〉
p.0842 この家のかたはらに、ひがきといふ物あたらしうして、かみははじとみ四五けん計あげわたして、すだれ(○○○)などもいとしろうすゞしげなるに、おかしきひたいつきの、すきかげあ またみえてのぞく、
p.0843 凡大嘗殿所レ須、〈○中略〉簾十六張、預令二掃部寮造備一、
p.0843 春日權現驗記繪、春日社、錦額簾、
簾ノ竹、〈綠靑染ノウヘヲ、黑ニテ筋引、〉アミ糸、〈二筋アミ、ヘリノ間ニ二ケ所ヅヽ、合テ八ケ所也、〉赤白紫白赤白紫白赤白紫白赤、如レ此村濃也、イヅレモ同ジ、其テイ 〈赤 白 紫 白 赤 白〉 如レ此、白キハ少キ也、ヘリ〈ヘリ五ケ所、左右ノ端二ツ、中ニ三ツ也、〉幷緣五色ニテ、窠文アリ、〈菊ニ似タリ〉
〈紫 赤 赤 白 紫〉 如レ此、地文ノ上ニ金泥ユテ窠文ヲカケリ、窠ノ體普通ノミスノ如シ、モカウ、窠ニ蝶、又普逋ノ如キ也、ミスノモカウ、幷ニミスノ上ノ方ニ鏡ヲカケタリ、佛像ヲ金ニテカケタリ、金銅ノ蝶形アルベキ、
春日若宮神主祐定記曰、嘉禎二年四季云、
御簾肆間、〈高各五尺五寸、弘各五尺八寸、〉緣五、各面紺地錦、緣帽額、裏淺黃、紺平絹、金銅大文二枚、蝶形六枚、帽額付レ之、金銅小文十六枚、平文四十六枚、肱金四枚、緣付レ之、在鉤二枚、栗形二口、丸緖二筋、志部總懸緖四筋等、御簾一間、〈高五尺五寸弘五尺八寸、〉緣五、面紺地、緣帽額、裏淺黃、紺平絹、金銅大文二枚、蝶形六枚、帽額付レ之、金銅小文十六枚、半文四十六枚、肱金四枚、緣付レ之、在鉤二枚、栗形二口、丸緖三筋、志部總懸緖三筋等、
丸緖、〈上〉赤、〈中〉白、〈下〉紫、 志部、〈中〉白、赤、〈上〉紫、〈下〉
p.0843 簾 たまだれ いよすだれ みす あしすだれ〈なにはのほかははゞかりあり〉 こす しのすだれ いよすだれ〈惠慶歌〉 こすのすだれ たまだれのあみめのまよりふく風〈後撰〉 又たまだれのこすのまとをしと云、万也、小簾回通りけり、見すのひまより通こゝろ也、
p.0843 簾〈○中略〉
按、簾有(○○)二數品(○○)一、大抵籖竹以編成、爲二屛障一也、又爲二暑屛一、出二於伏見一、一種、以二細莖蘆一編成者、出二於豫州一、呼曰二 伊豫簾(○○○)一、
年をへて世にすゝけたるいよすだれ懸さげられて身をばすてゝき 光俊
蓵者、草簾(○○)也、編レ草障レ戸者、今垂レ繩、名二繩簾(○○)一者是也、
p.0844 御簾(○○)〈ミス〉
p.0844 翠簾(ミス/○○)〈日本俗或作二御簾一云々〉
p.0844 御簾(ミス) 翠簾(同)
p.0844 みす 簾をいふ、御簀の義也、或は翠簾をよめり、おほひみすといふ物、まさすけに見えたり、みすまきあげと源氏〈○槿〉に見えたるは、香爐峰雪撥レ簾看といふ意也といへり、
p.0844 鉤簾(こす/○○) 翠廉(ミス) 俗云古須 今云美須 〈共和訓之下略也〉 簾之鉤 俗云二古末利一按、鉤簾極細籖竹簾也、其緣以二綾純子一縫二包之一、有二眞紅絲總一、耑(ハシニ)有レ鉤、以掲二卷簾一、其簾靑翠色、故名二翠簾一、宮殿神前用レ之、〈京師有二簾工家一〉神前鉤簾掛二於梱外一、尋常掛二於梱内一、
p.0844 鉤簾 こす 小簾
おもふに後世のものに、これをこすと訓り、鉤簾音訓相交へたる事、尤そのことわりなし、思ふに鉤は加末と訓べし、すだれをつり上る時かけ置時のかま也、唐の書に鉤と鎌とは同じくかよへり、加末をかうとのべたるは、古とのみつゞめていへるにまがへるならん、
p.0844 三條殿のかくて源中納言殿のうぶやの七日のよになりぬれば、きのかみにおほみあるじのことゞもを、おとこかた女方おまし所しつらふことつかうまつる、みす(○○)にはあさぎにして、みどりのきをはしにはさしたり、南のひさしにめぐりてかけたり、
p.0844 ありがたきもの
みすのいとあをくおかしげなるに、きちやうのかたびらいとあざやかに、すそのつますこしう ちかさなりて見えたるに、〈○下略〉
p.0845 故殿の御ふくのころ、〈○中略〉れいのやうにかうしなどもなく、只めぐりてみす(○○)ばかりをぞかけたる、中々めづらしうおかし、
p.0845 寬喜三年九月三日丙戌、殿下御所之中、以康入道新二造厩牛屋一、立二御馬五疋御牛三頭一、剰懸二御所翠簾(○○)一、
p.0845 こすげのすだれ よみ人しらず
玉だれのこすのすだれをゆきがてにいはねられねど君はかよはず
p.0845 右 御簾編
夕まぐれこすの問とをる月影はくまなきよりもあはれなる哉
p.0845 いよすだれ(○○○○○) 伊豫浮穴郡露峯の山中より出る篠簾也、六帖に、
年を經て世にすゝけたるいよ簾かけさげられて身をばすてゝき、物にいよすとも見えたり、其篠至て細く、一間にあまりて延やかに生立ものといふ、
p.0845 一伊與簾 源氏所々に見へたり、下さまの家、又ゐなかびたる所にいよすの事をいへり、うきふねの卷にも、宇治の宮の所にも、いよすさら〳〵となるもつゝましといへり、今も伊豫國にて作る也、今昔物語にも伊與簾見へたり、
p.0845 露峯邑、〈○中略〉斯邑織レ簾、其篠誕之節兮、小而長矣、和歌者流所レ咏、伊與簾(○○○)是也、
p.0845 四郎君、受領郎等、刺史執鞭之圖也、〈○中略〉常擔二集諸國土産一、貯甚豐也、所レ謂、〈○中略〉伊豫(○○)手箱、〈又砥、又鰯、又簾(○)、〉
p.0845 例のわたり給へる庭も、やう〳〵あをみ出る若草みえわたり、〈○中略〉わけ入たまふいよすかけわたして、にびいろの木丁の衣かへしたる、
p.0846 いやしげなる物
いよすのすぢふとき
p.0846 六帖題 いよすだれ 光俊朝臣
年をへてよにすゝけたるいよすだれかけさげられて身をば捨てき
百首歌中 惠慶法師
あふ事のまとをにあめるいよすだれいよ〳〵われをわびさする哉
p.0846 永久三年九月廿日丙戌、今日御幸沙汰營之、 廿一日丁亥、寢殿西第一二三四間母屋南面卷之、南西面庇垂之、北庇幷自餘所レ懸二伊豫簾一、
p.0846 久壽三年正月廿四日丙寅、院導勝陀羅尼供養也、〈○中略〉北庇御前以二白革一懸二伊豫簾一、可レ被レ懸二黑簾一也、伊豫簾頗不審也、
p.0846 建曆三年正月廿五日、先レ是少將諷誦物、〈布結之如レ恒〉相二具文一奉レ送、寢殿南面庇三間〈本自爲二公卿座所一也〉懸二伊與簾一、〈以レ紙上レ之、以二白革一懸レ之、〉
p.0846 珠簾(タマスダレ/○○)
p.0846 むかし男、みそかにかたらふわざもせざりければ、いづくなりけんあやしさによめる、
ふくかぜにわが身をなして玉すだれ(○○○○)ひまもとめつゝいるべきものを
かへし
とりとめぬ風にはありとも玉すだれたがゆるさばかひまもとむべき
p.0846 寬喜元年女御入内御屛風、人家有二樹陰一簾懸レ葵、 西園寺入道太政大臣
もろかづら日かげやをそきたますだれあけてもすゞしならの下風
p.0847 題しらず よみ人しらず
君により我身ぞつらき玉だれのみす(○○○○○○)は戀しと思はましやは
p.0847 玉垂 たまだれ
玉垂は小簾といふべき枕こと葉なるを、後世にはそのまゝ簾の事とせり、古歌には玉垂の小瓶ともつゞけたれば、いかで小簀の事とはすべきを、すべて後世にはこの類多し、見し玉垂のうちぞゆかしきといふ歌を、小野小町が歌といへるは、その出る所つまびらかならず、據とするにたらず、
p.0847 秋のうた
玉だれのこす(○○○○○○)のひまもる秋風はいも戀しらに身にぞしみける
p.0847 金澤にて、〈○中略〉此在所に稱名寺といへる律院侍り、〈○中略〉三重の塔婆にまうでけるに、老僧に行あひぬ、此塔の由來などたづねければ、これにこそ揚貴妃の玉の簾二かけ安置し侍れ、〈○中略〉一見をゆるし侍るべき由申す、まことにふしぎなる機緣なり、簾のながさ三尺四寸、ひろさは四尺計にて、水精のほそさ、よのつねのみすよりもなほほそく、かたちは見え侍らず、玉妃のそのいにしへに、九花帳に預侍りけんことなどおもひやり侍れば、千古の感緖今更肝に銘じて、皆人袖をぬらし侍りき、
とをき世のかたみをのこす玉すだれおもひもかけぬそでのつゆかな
p.0847 五色 白
高樓の水精の鉤簾(○○○○○)まきみれば銀世界なり雪のあけぼの
薛昭蘊詞、水晶簾未レ捲とあり、圓機活法無名氏雪詩、恍疑銀世界、明訝水晶宮、
p.0847 かやすだれ(○○○○○) 萱簾 花鳥餘情、夕顏のすだれなども、いとしろう云々といへる注に、伊與簾また萱すだれの類なり、
p.0848 あしすだれ 蘆簾也、字荀子に見ゆ、天子諒闇の時、倚廬にしつらはるゝ物なるよし村上院御記に見えたれば、常には憚る事也、難波などには常にもよめりといへり、今すだれあしといふものは、蒹なりといへり、俗によしず(○○○)といへり、
p.0848 䕠 莊子注、蘧篨竹席、今蘆藤也、按三國呉安東將軍徐盛、植レ木衣レ葦、爲二疑城假樓一、注以二蘆蔑一遮二其外一、蓋今俗名二蘆箔(○○)一也、䕠方胏切、
p.0848 掃部司
正一人、掌薦二席牀簀苫、及鋪設、酒掃、蒲藺、葦簾(○○)等事一、
p.0848 踐祚大嘗祭儀
天皇卽位之年、〈○中略〉次鎭二稻實殿地一、〈○中略〉蔀廻以レ葦、開二東戸一懸二葦簾一、高萱御倉者葺レ蔀以二靑草一、
p.0848 人々裝束、 喪服〈○中略〉
天曆八年正月四日、大后於二昭陽舍一藏、〈○中略〉二十四日撤二尋常御簾一、改二蘆簾一、〈以二鈍色細布一爲二端冐額一〉
p.0848 すだれによする戀
津の國のこやのまろやのあし簾まとをに成ぬ行あはずして
p.0848 六帖題あしすだれ 民部卿爲家
すくもたく難波をとめがあしすだれよにすゝけたる我身なりけり
信實朝臣
世中のはてはすゝけのあしすだれあしくかけゝるわかのうみ哉
p.0848 右 御簾編
よな〳〵は思かくるをあしすだれなどふし〴〵のあはずなりけん
p.0849 菰簾 こもすだれ
こもにてあみたるすだれ也、今も田合の賤屋にはこの物あり
p.0849 おなじ心をよめる〈○左京大夫經忠の家にて蚊遣火をよめる〉
かやり火の煙になるゝこもすだれ物むつかしき我こゝろかな
p.0849 六帖題しのすだれ 正三位知家卿
へだつれどまばらにあめるしのすだれしのぶ人めの身こそかくれね
p.0849 五月の御さうじのほど〈○中略〉あきのぶの朝臣いへあり、そこもやがて見んといひて車よせておりぬ、ゐ中だち、事そぎて、馬のかたかきたるさうじ、あじろびやうぶ、みくりのすだれ(○○○○○○○)など、ことさらにむかしの事をうつしいでたり、
p.0849 實九里簾にや、其製可レ尋レ之、
p.0849 みくり〈○中略〉 倭名抄に、三稜草を訓ぜり、新撰字鏡には芿をよめり、今伏見にて、うきやがらといへり、歌にみくりなはとよめるは、繩なるべし、袖中抄に、遍照寺の母屋の御簾は、みくりのつると申物にて侍るは、此物なるにや、枕草紙に、みくりのすだれと見えたり、あひば草ともいふ、
p.0849 蓵(ナハスダレ)〈䕹同、草簾也、編レ草障レ戸、〉
p.0849 蓵〈音捷〉 和名奈波須太禮
蓵者草簾也、編レ草障レ戸者、今垂レ繩、名二繩簾一者是也、
p.0849 ある人の下屋敷の茶屋にて、藤を讀侍る、
藤のはな茶屋の軒ばにかゝりけり繩暖簾(ナハノウレン)のごとく土がま
p.0849 管簾(くだすだれ) 古來よりありといへども、賣物とする始は、正德のころ、築地小笠原家の道具持、沖忠右衞門と云者作レ之、兩國橋東岸山本善兵衞見世にてはじめて賣、
p.0850 覆御簾(○○○) おほひみす、覆鉤簾、〈○中略〉今按に、おほひみすは覆翠簾にて、外みす(○○○)の事也、柱の外へ付てかくる翆簾にて有れば、覆とはいふ歟、尋常の内みす(○○○)は柱の内へつけてかくるなり、此事秘事なり、
p.0850 翠簾(スタレ/ミス) 翠簾は、大抵母屋と、廂と二重なり、然れども臨時の補理によりて、そのさま一樣ならず、其掛やうを註せる事どもゝ、またあまたありて一定せず、〈○中略〉總じて簾をかくる事、格子の内へたるゝを内みすといひ、外へ垂るゝをおほひみすといふ、母屋は内みす、廂は覆簾(オホヒミス)常の事なり、
p.0850 もやひさしのてうどたつる事
おほかたみすをかくることは、もやはおほひみすつねの事なり、
p.0850 一淸凉殿〈○中略〉
鬼間
二間格子也、南間常不レ上、有二覆簾(○○)一、〈卷之〉
p.0850 きりすだれ 禁秘抄に、切簾と見えたり、
p.0850 一淸凉殿〈○中略〉
臺盤所
西立二布障子一、其外號二刧簾(ミスト)一一間懸、遣戸御簾二間也、
p.0850 もやひさしのてうどたつる事
まづしんでんのひさしに、みすをかけまはす、はれのかたをうはかへにす、 次にもやのみすをかく、もやはしんでんによりて四けん、もしは五けんにてもあるなり、七けん四めんのしんでんならば、もや五けんにみすをかけて、うちにかべしろを引まはすべし、もやのみすをあげんことは、れいのき丁をもやにたてゝ、そのてのうへにつかせて、あぐることもあり、それ無下にさがりたらば、そのてのうへに、こぶしをにぎりあてゝ、ふたこぶしばかりすかしてあぐべし、みすのこのつきやうは常のごとし、〈○中略〉
おほかたみすをかくることは、もやはおほひみすつねの事なり、はれならむかた、うはかへにかくべし、ひさしもおほひみすならんところは、はれうはかへにしてかくべし、おほひみすといふは、はしらのうへに、ひとへりをひきちがへて、すんほうをとるなり、ながさはなげしのしたより、しものなげしのはなくぎのかくるゝ程にとるなり、あぐることは、もやは女房のことあらんには、さけてあぐべし、き丁のてのうへ、またすこしすかして、そのうへに、ふたこぶしをすかしてあぐといふ、行幸だいきやうなどのみさうぞくには、たかくあぐべし、もやもひさしもあぐるには、こはしといひて、いたをうすくけづりて、いれてまきたるがよきなり、おほかたみさうぞくのよきといふは、みすよくあげて、もかうよくひきしき、〈○下略〉
p.0851 御所御裝束事
御疊ヲ引カサ子ムニ、下へ可レ向、御簾ハ御所タカクバ、母額(モヤビタイ)ヨリモヒモヒトタケヲ可レ置、御所ヒキクバ、母額ト同程ニ可レ卷也、母屋ノ御簾ハ、五尺屛風ヲ下ニ立ニ、不レ障程ヲ可レ計也、〈○下略〉
p.0851 ひの御座の御簾、南のはし北のがくの間をたれたり、〈此間に承香殿の人むかしはさぶらひけるとかや〉中三間あるひは二間御簾そのまゝにあげたり、をの〳〵木丁をたてわたす、もかごろより内などにて、あたりの間一間中はんにあぐることあり、ひが事なり、いまの代には本儀にまかせて、つねのときのごとくこうまろをにあぐ、
p.0852 一翠簾
本式主殿之時、母屋之簾各別也、小壁無レ之候故、自二裏板一直掛之、仍其長過分候、無二鉤丸一、其外廂、妻戸、格子等、常之翠簾無二差別一候、其外、廂、妻戸ハ、可レ有二鉤丸一、〈此外ハ不レ可レ有二鉤丸一〉大炊御門一家ニハ、有二子細一一切不レ用二鉤丸一候、限二此一家一候、
p.0852 みすかくる事
一かぎ(○○)もこまる(○○○)もうちに有べし、内へ卷てかくべし、又かぎなければ、杉原を四に折てたゝみて、おなじ程さまへ引出して、それにてあげてゆふべし、神社の前のみすは、かぎもこ丸も外にあるべし、
p.0852 御簾高く卷上る事
一御簾のかけ樣、神前の御簾は、かぎもこまるも外にあり、人間のみすは鉤もこまるも内にあるものなり、然間卷時は内へ卷て鉤に懸べし、又みす高く卷くには、引合にても杉原にても、三たけ四たけにもつぎて、四ツに折て、みすの内へ、もつかうきぬの下より、兩方へ同程に引出して、兩方同じごとくにして、みす高く卷上てゆふべし、ゆひ樣、一むすびしてねちかふ也、兩方のねぢかふ所、むかひあふ樣に見あはせてする也、其時はかぎもこまるもまきこむる也、自然みす高く卷上られ候事あらば如レ此すべし、みす卷時は、兩人にてみすの外へ參て卷べし、時により一人にても卷べし、
p.0852 翠簾
簾ヲ掛タル間へ入時ハ、簾ノ兩端ノ方ヨリ可レ入也、中ヨリ不レ可レ入、簾ノ垂長垂テ丙へ難レ入事雖レ有レ之、手シテ搖提ゲ不レ可レ入也、前廉ヨリ跪テ可レ入也、
p.0852 小朝拜 延喜十年正月一日、太子參上、命婦時子、授二太子祿一、〈天德四年正月在二此例一〉太子不參之時、下二母屋御簾等一、撤二晝御座一、〈○中略〉
節會
延喜十六年正月一日、御二南殿一坐二帳中一、只下二御簾一在レ内、〈齊衡貞觀等例也〉近仗不二警蹕一、〈兼有レ定云々〉諸衞開レ門常例、此後有二諸奏一、勘二先例一、仁壽四年正月、不レ御二南殿一、中務奏二御曆等一、又貞觀十三年、不二出御一、御曆奏付二内侍所一、齊衡二年正月七日、御二南殿一、不レ卷二御簾一、御弓付二内侍一奏、不レ御猶奏、甚違二事意一、又在二簾中一不レ可レ有二勅答一、仍依二貞觀齊衡等例一、付二内侍所一令レ奏之、
p.0853 石淸水臨時祭
出御〈麴塵袍、櫻下重、藏人頭應レ召取二御插鞋一、自二殿上方一參入、褰二御簾一、〉
p.0853 賀茂詣
前一日御裝束〈家司職事各一人行事〉下二母屋御簾一、〈以二御廐綱一結之〉其内懸二壁代一、上二對南廂南御簾四間、幷四面妻戸間御簾一、〈但東孫庇御簾不レ上〉
p.0853 一御簾
寢殿〈首書、久安、西庇妻戸簾、内方懸之、自餘懸二外方一、永久三記云、西廂南第一間妻戸放レ扉卷上之、帽額下四五寸許卷之、鉤緖如二尋常儀一、有二總幷緋糸懸緖一、〉
母屋 南面 西面 庇 南面 東面 西面
公卿座、上西面、 辨少納言座、未南面、
西對代〈首書、久安記云、上官座不レ懸由、有レ議放之、永久記、上官座南面不レ懸二御簾一先例也、永承記、西對束廂懸レ簾卷上、〉
奧方〈北也〉 東 端方〈南也〉 西
p.0853 嘉元三年九月廿六日庚午、今日改二御所御裝束一、〈○中略〉南御聽聞所、〈昭訓門院御座間〉幷素服所等、各一間、押に南堂中三方懸二黑御簾一、〈緣帽額鼠色、以二白糸一爲二懸緖一、〉但素服所東北二面、懸二覆伊與簾一、〈以二白革一懸之一、無二假粧革一、〉 同南面妻戸同懸レ簾、堂場以北東西、皆懸二亘黑御簾一、〈○中略〉抑伊與簾、常儀以二白革一懸之、而院御方稱二大治例一〈朝隆卿記有レ所二見准一云々〉以二藍革一懸之、〈有二假粧革一、但於二假粧革一者、猶可レ被レ撤歟之由、予爲談申了、〉
p.0854 簾(スタレ) 箔〈同〉 簾臺(レンタイ/○○)
p.0854 一御齋會
南殿儀〈御物忌時儀也〉 母屋東三間東面、〈木工立二簾臺一〉幷同南懸二御簾一、〈○下略〉
p.0854 元日宴會
身屋九間内四面壁代帷褰之〈若天皇不二出御一之時、從二身屋東第四間西柱南一北行構二簾臺一、西五間身屋南面亦懸之、御簾内當二御帳東一立二亘太宋御屏風一、件簾臺木工寮奉仕、〉
p.0854 七日節會裝束
身屋九間内、四面壁代帷褰之、 若天皇不レ御之時、從二身屋東第四間西柱一南北行構二簾臺一、懸二錦額御簾一、
p.0854 仁安三年十一月廿四日辛巳、早旦弁官分給、〈○中略〉次藏人光雅、六位基光等奉二仕神宴御裝束一、以前廊四ケ間、准二淸暑堂一也、其儀小安殿馬道敷二滿長筵一、步廊四ケ間、敷二滿同筵道一、南面垂二御簾一、〈東西長押巡打二簾代一、懸二弘御簾一、本ハ懸レ梁、今寄レ北也、主基行事所レ懸之、〉
p.0854 治承二年十月廿五日乙卯、未刻參宮、自二今夜一被レ始二孔雀一、
弘庇敷上假板敷與二母屋一平頭也、打二簾代(○○)一懸二御簾一、其内立二明障子一、
p.0854 簾鉤(スダレカヽゲ/○○)
p.0854 銀蒜
歐陽六一放二玉臺體一詩、銀蒜鉤簾宛地垂、東坡哨遍詞、睡起畫堂、銀蒜珠幙雲垂レ地、蔣㨗白苧詞、早是東風作惡、旋安二排一雙銀蒜一鎭二羅幙一、銀蒜蓋鑄レ銀爲二蒜形一、以押レ簾也、元經世大典、親王納レ妃、公主下降、皆有二銀蒜簾押幾百雙一、
p.0854 心にくき物 いみじうしつらひたる所のおほとなぶらはまいらで、長すびつにいとおほくおこしたる火のひかりに、御几帳のひものいとつやゝかに見え、みすのもかうのあげたる、こ(○)のきはやかなるもけさやかに見ゆ、
p.0855 一御裝束
母屋簾卷二上四尺几帳高一〈有レ鉤(○)、各懸二壁代一、〉
p.0855 一みすのこまる(○○○○○○)と云は、みすのふさ(○○○○○)の事なり、本名こうまるお(○○○○○)と云なり、鉤丸緖と書くなり、〈後醍醐天皇年中行事ニアリ〉禁裏將軍家には、こうまろお紫を用ひらる、平人のこう丸緖のふさ、黃赤黑と三段に染むるなり、
p.0855 もやのだいきやうのみそうぞくおなじことなり、〈○中略〉もやきはのみすのこのを(○○○○○○)とほすやうこそかはれ、つねはかみのこはしにつけて、うちにひきさげてこそはあれども、これはこはしにつけて、やがてこはしのきはより、とへもかうのしたにひきいだして、もかうのしたよりひきさげて、もかうのしものきはより、またみすのなかをうちへひきとほして、あぐることのあるなり、こながらとほすなり、是をみすをぬふとはいふなり、
p.0855 仁安四年二月十三日庚子、皇大后宮日吉行啓也、〈○中略〉此間上皇自二北面方一、密々渡二御七條殿御棧敷一、〈○中略〉御簾鉤幷丸緖絲等(總水朱)〈付〉左右手下、是御簾中出二几帳帷一儀也、
p.0855 院にならせ給ひて、御目を御らんせざりしこそいといみじかりし、〈○中略〉いかなるおりにか、時々は御らんずる時もありけり、みすのあみを(○○○○○○)の見ゆるなどもおほせられて、〈○下略〉
p.0855 これかれ女のもとにまかりて、物いひなどしけるに、女のあなさむの風やと申ければ、 讀人しらず
玉垂のあみめ(○○○○○○)のまより吹風のさむくはそへていれんおもひを
p.0856 もかう(○○○) 帽額と書り、延喜式、江次第に見ゆ、本は首服也、通典に、古之人帽而額〈ス〉と見えたり、帽子と抹額とをいふなるべし、それを借て翠簾(ミス)の緣に懸る物の名とせる也といへり、淸少納言が、夏のもかうのあざやかなるといへる是也、類聚雜要に、面額とも書たる、今もつかふの紋といふも是なり、水引の事也、〈○中略〉西宮記に、撤二尋常御簾一、改レ簾以二鈍色細布一爲二端帽額一、と見えたり、白樂天が詩に、錦額簾高捲と、錦を用ゐたる帽額なりといへり、
p.0856 題周皓大夫新亭子二十二韻
東道常爲レ主、南亭別待レ賓、〈○中略〉錦額簾高卷、銀花盞慢巡、〈○下略〉
p.0856 一みすのもこうと云は、簾の上の方に萌黃色の絹に、黑く 如レ此なる紋をいくらも染たるを、一幅横(ヒトノヨコ)にはりたるを云、俗にもつこうきぬと云也、もかうは帽額と書也、ひたゐをおほふとよむ、出入る人のひたゐの上におほふ故の名也、人の家の紋に、もつこうと云紋も、帽額に染たる紋なれば、もつかうと云也、又みすのもこう、禁裏將軍家には金らんを用らる、常の人の簾には、右に云如くなるもかうを用ゆ、〈もかうは簾の外にあリ、内にはなし、〉
p.0856 七日節會裝束
身屋九間四面壁代帷褰之 若天皇不レ御之時、從二身屋東第四間西柱一、南北行構二簾臺一、懸二錦額御簾一、西六間身屋南面又懸之、御簾内當二御帳東一立二亘大宋御屛風一、件簾臺木工寮供奉、〈錦額○中略〉尋常版位南去三許丈構二立舞臺一、〈○中略〉其東西北面懸二亘帽額一、〈不レ隱二鞆繪一〉
p.0856 睹射裝束
懸二御簾於校書殿東庇北第二間、及南殿西庇二間西階戸間等一、〈南殿錦額〉
p.0856 錦額 延喜大藏式云、大極殿懸二繡額一云々、錦額者簾之帽額也、
p.0856 相撲沼合裝束 從二殿東第三間西柱東邊一構二簾臺一、〈自二北障子下一至二南廂南柱一、木工寮供奉之、〉懸二錦額御簾一、又自二第四間一以西六箇間、並西戸間懸二同御簾一、〈但戸間懸レ内〉
p.0857 天曆八年正月七日、左大臣定中奏任二御葬司一事上、〈○中略〉廿四日、撤二尋常御簾一改二蘆簾一、〈以二鈍色細布一爲二端帽額一〉
p.0857 もかうのす(○○○○○)のなかに、なげしのしもにゐて、わらははかうらんにいたりてたゝけば、大將おはしたり、〈○中略〉しん殿に二所おはしますべくして、みすのもかう(○○○○○○)には、大もんのにしきをせさせ給、たかくまきあげて、御はまゆかにまきゑして、〈○下略〉
p.0857 にくきもの
いよすなどかけたるをうちかづきて、さら〳〵とならしたるもいとにくし、もかうのす(○○○○○)は、ましてこはき物のうちをかるゝいとしるし、それもやをらひきあげて出入するは、さらにならず、
p.0857 なまめかしきもの
夏のもかうのあざやかなるすの、とのかうらんのわたりに、〈○下略〉
p.0857 心にくき物
いみじうしつらひたる所の、おほとなぶらはまいらで、長すびつにいとおほくおこしたる火のひかりに、御几帳のひものいとつやゝかに見え、みすのもかう(○○○○○○)のあげたる、このきはやかなるもけざやかに見ゆ、
p.0857 諒闇の年ばかり哀なる事はあらじ、いろの御所のさまなど、板敷をさげ、あしの御簾をかけて、布のもかう(○○○○○)あら〳〵しく、御調度どもおろそかに、〈○中略〉異樣なるぞゆゝしき、
p.0857 一布のもかう つれ〴〵草に見えたり、源氏朝貌の卷に、にび色のみすに黑き木丁のすきかげあはれに云々、是は槿齋院の服中の事也、〈細〉只今服したるによりて也、〈花鳥〉 服者の所の御簾のへり、もつかうには、にび色の布を用る也、黑き木丁とは、几帳の手黑ぬりにして、まきゑらてんをし、かたびらは是もにび色也、
p.0858 枇杷どの〈○妍子〉一品宮〈○禎子内親王〉の御もぎとて、〈○中略〉治安三年四月一日ぞ奉りける、〈○中略〉西のたいの御しつらひの、玉をみがゝせ給へるを、御覽ぜさせんの御いとなみ、いはんかたなくおかしげなり、からにしきをへりにしたり、御ぐどもの蒔繪らてんのひま〳〵に、たまをいれさせたまへり、おほかたえまねびつくさず、みすのへり(○○○○○)にはあをき大もんのをり物をぞせさせ給へる、
p.0858 小野右大臣〈○藤原實資〉とて、世には賢人右府と申、〈○中略〉あたらしく家を造て移徙せられける夜、火鉢なる火のみすのへりに走りかゝりけるが、やがても消ざりけるを、しばし見給けるほどに、やう〳〵とゆづり付て、次第にもえあがるを、人あざみてよりけるを、制てけさゞりけり、
p.0858 承安三年七月九日、未明、御簾編(○○○)等令レ召、遣二成長許一畢、今日内令二編出一料也、
p.0858 右 御簾編〈○歌略〉
p.0858 廿三番 左 翠簾屋(○○○)雪とみて卷あぐるかな玉すだれいとさやかなる秋夜の月〈○中略〉
人めさへあな耻かしややぶれみす丸ねばかりにあかすよは哉〈○中略〉
新御所の御わたましちかづきて、いそがはしさよ、イこの衞殿より御いそぎのみすにて、
p.0858 翠簾師(○○○) 唐土の楊竹氏といふ者、車の物見にかけんために作れりと、日本にては崇神天皇の御代にあり、禁裏みす師、富小路竹屋町下ル丁和泉、烏丸竹屋町德助、同三右衞門、民間に用る雜品の簾は、伏見にこれを造る、又伊與簾京に上す也、江戸本吉原德方、京橋一丁目市左衞門、
p.0859 翠簾 禁裏院中之翠簾、谷口和泉守製レ之、公方家之所レ用者、望月某造レ之、其餘簾箔、大佛邊伏見町造レ之、茶亭窻間所レ掲之伊豫國産細竹簾、別有二其家一、
p.0859 簾賣(○○) 初夏以來、三都トモニ竹簾葭簀等ヲ賣ル、其扮定ナシ、
p.0859 しきの御さうじの西をもての、〈○中略〉女は、ねおきたるかほなんいとよきといへば、ある人のつぼねにゆきてかいばみして、又もし見えやするとて、きたりつるなり、まだうへのおはしつる折からあるをえしらざりけるよとて、それよりのちは、つぼねのすだれうちかづきなどし給ふめり、
p.0859 正月に寺にこもりたるは、〈○中略〉小法師ばらの、もたぐべくもあらぬ屛風などのたかき、いとよくしんたいし、たゝみなどほうどたてをくと見れば、たゞつぼねに出て、犬ふせぎにすだれをさら〳〵とかくるさまなどぞいみじく、しつけたるはやすげなり、
p.0859 雪いとたかく降たるを、れいならず御格子まいらせて、すびつに火おこして、もの語などしてあつまりさぶらふに、少納言よ、かうろほうの雪はいかならんと、仰られければ、みかうしあげさせて、みす高くまきあげ(○○○○○○○○)たれば、わらはせ給ふ、人々も皆さる事はしり、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ、猶此宮の人には、さるべきなめりといふ、
p.0859 同院〈○一條院〉雪いと面白く降たりける朝、端近く出居させ給て、雪御らんじけるに、香爐峯のありさまいかならんと被レ仰ければ、淸少納言御前に候けるが、申事はなくてみすををしあげたりける、世の末まで優なる例に云傳られける、彼香爐峯の事は、白樂天老の後、此山のふもとに一の草堂をしめて住ける時の詩に云、
遺愛寺鐘欹レ枕聽 香爐峯雪撥レ簾看
とあるを帝仰出されけるによりて、御簾をばあげけるなり、彼淸少納言は、天曆の御時、梨壺の五 人の歌仙、淸原元輔女にて、其家の風吹傳へたりける上、心さま優にて、折につけたる振舞いみじき事多かりけり、
p.0860 時々につけても、人のこゝろをうつすめる、花もみぢのさかりよりも、冬の夜のすめる月に、雪のひかりあひたる空こそ、あやしう色なき物の身にしみて、此世のほかのことまで思ひながされ、おもしろさも哀さも殘らぬおりなれ、すさまじきためしにいひをきけん、人の心あさゝよとて、みすまきあげさせ給、〈○下略〉
p.0860 織簾
寶曆間一女子アリ、其母一故家ノ女ニシテ、物語ノ葉子若干卷ヲ藏メ、常ニ此ヲ讀シム、女子强記輙ク讀テ其辭ヲ記億シ、常言往々古詞ヲ用ユ、簾ヲ編ヲ、ミスヲ織ルト云シガ、何ノ書ニ出タルニヤ、所出ヲ問ントスルニ、早世ス、按ニ國吏補ニ、門簾以二粗竹一織成、不レ加二緣飾一トアレバ、古昔此間ニテモ織ト云シナラム、
p.0860 遊女體の居る〓に懸る簾、布交ぜの如く墨にて横筋をぬりてあり、もやうに矢の羽などぬりたるあり、
p.0860 奈良の藥師につたへたりし、唐簾のいともふるきを得てよめる、 濱臣
もろこしのみぬ花鳥のあやすだれあやしや千世の物をわが得し
淸水大人の都にて得給ひぬとて、花鳥のかたいとおかしく物したる、古きすだれを見せ給ひければ、 茂雄
花鳥ののこるにほひのあやすだれかけてしのびし昔をぞみる
p.0860 すだれあけ 越後國は雪國にて、初冬より暮春迄は、町々宿々の門口簾をたれて降雪をふさぎおり、やう〳〵八十八夜の比より雪もふらずなりて、初めて簾をあけて商ひをひら くを云、
p.0861 障子 漢語鈔云、障子、〈屏風之屬也〉
p.0861 題二謝公東山障子(○○)一〈○詩略〉
p.0861 格子〈シヤウジ〉
p.0861 一或人曰、唐にも我國のごとき障子ありやと、曰、牕の字則しやうじの事なり、
p.0861 障子(シヤウジ)
p.0861 障子(シヤウジ)
p.0861 障子 しとろ 覆二入鹿一非二吉事一
p.0861 障子
p.0861 障子
しとろ〈覆二入鹿一非二吉事一と八雲御説、此儀前内府西殿へ尋申處に、佐伯連于麻呂稚犬養連綱田斬二入鹿臣一、是日雨下潦水溢レ庭、八席障干覆二鞍作屍一と、如レ此注給者也、入鹿の名を鞍作とあらたむる也、〉しやうじのかみ、〈是近代よめる歌也〉とりゐしやうじ、〈通入障子也、紫宸殿御後、七廻中間障子の名也、〉
p.0861 障子と云は、絹にてはり、繪など書たるを云也、賢聖の障子の類なり、今いふからかみふすまのごとし、俗にせうじといふは、あかり障子の事也、
p.0861 一障子と云は、厚く裏表より張りて、或は繪など畫き、或はからかみにてはりたるをば、襖障子と云、又薄き紙、又は生絹などにてはりたるをば、あかり障子といふ也、障子と云は總名也、間々を障へへだつる物なる故、障子と云也、
p.0861 古渡南横迷二遠水一 秋山西繞似二屛風一〈江佐國〉
又被レ命云、一昨日江都督被レ申云、江佐國淳和院眺望詩、上句無二其謂一、予所二案得一、寒樹東横應レ障レ日、此句今案如何云々、但東字下字未レ思、障子者本障日也(○○○○○○○)、然則其對可レ謂レ叶、〈○下略〉
p.0861 御帳のうちそのへんをめぐりてみ給へば、藏人の少將なをしすがたにて、 かべしろとみさうじ(○○○○)とのはざまにたてり、
p.0862 かうしをあげたりけれど、かみ心なしとむつかりておろしつれば、火ともしたるすきかげ、ざうじ(○○○)のかみよりもりたるに、〈○下略〉
p.0862 障子 障子は屛障とて、戸、建具、衝立の類をもいふ名なれば、格子をさして、障子としるせる事ども、中古以來の書に多し、明障子といふもの、そのかみは絹布などを用ひし故、うすものの障子などいふ事あり、皆格子の略なり、古代は紙あれども、後世の如く薄紙のかたきはなかりし事故、厚紙にてはりたるを被障(フスマ)などいひ、また紋がらなどあるを唐紙障子とはいひし事なり、
p.0862 障子からかみ
いにしへ障子といへるは、へだてにものするたぐひをすべていへる名なり、今の世にしやうじといへるものをば、むかしはあかり障子といひたりき、そは古今著聞集に、あかり障子のやぶれよりきとみればといへるにてしられたり、紙ひとひらなるゆゑに、やぶれよりものゝ見ゆるなり、同書に、淸凉殿の弘庇についたち障子をたてゝといへるは、今ついたてといふものゝさまなり、狹衣物語に、かみしやうじに、よべの御ぞをなんかけてさむらひつるとあるも、ついたちやうのものにこそ、かみしやうじとは、紙もてはれるをいふ、きぬにてもはるゆゑに、かゝる名はあるなりけり、又江家次第五の卷に、候二於鬼間障子外一〈暫閉二障子戸一〉と見え、宇治大納言物語に、へだてのしやうじのかけがねを、かけてきにけると見えたるなどは、今ひらき戸といふものとおもはる、されば何にまれ、へだてにものするを、みなしやうじといへるになん、 からかみとは、からの紙のめづらしきをもてはやして、いにしへはものゝへだてに、かくることありしをいへり、うつぼの物語樓の上の卷に、三尺のから紙をかけたまへりとあるを見てしるべし、さて後は此からかみを障子にはりて、今のさまにはなれるなるべし、長門本の平家物語には、から紙のしやうじをたて たりけるを、ほそめにあけてといへり、今のに同じ、
p.0863 障子(しやうじ/チヤンツウ)
和名抄云、障〈隔也塞也〉屛風之屬也、
唐史言、楊國忠選二妓肥大者一、行列遮レ風、謂二之肉障一、
按、以二杉木(○○)一纎削、縱横組成、單貼レ紙(○)、以可レ防レ風、名二之明障子一、〈檜次レ之、槇又次レ之、〉腰(○)以下施レ板者、名二腰障子一、以避二下吹雨(シフキ)一、
いぐしさすついなのよはの杉しやうじ一よ明れば春に社なれ
p.0863 障子(シヤウジ) 骨格(ホ子/○○)
p.0863 蔀遣戸幷障子 倭俗良賤家宅、〈○中略〉縱横以二細木一爲レ骨、貼二白紙於外面一、以二二枚一建二六尺三寸一間之際一、左右便二開闔一、遮レ日又防レ風、是謂二障子一、言障二風日一之義也、又號二明障子一、隔二紙一片一而因レ引レ明也、内外兩面貼レ紙、是謂二太鼓張(○○○)一、是亦雖レ引レ明、不レ如二一方張レ之者一、又兩面以二厚紙一張レ之、謂二襖障子一、未レ張レ紙之前號二障子骨一、
p.0863 一淸凉殿〈○中略〉朝餉
後凉殿布障子、如二渡殿一無二土居(○○)一、〈立二少柱一打付、有レ用之時撤之、〉
p.0863 さるべきおりにやありけん、さうじのかけがね(○○○○)のもとに、あきたるあなををしへて、まぎるべき木丁など引やりたり、
p.0863 土佐判官道淸と云者有けり、〈○中略〉女房あなむつかしやと云て、袴をきておくの方へ入る、中障子引たてゝかけがねうちかけて、また云事なかりけり、
p.0863 移徒作法〈○中略〉
永久五年七月二日、關白〈○藤原忠實〉右大臣殿〈○右大臣恐内大臣誤、時忠實子忠通爲二内大臣一、〉移二御鴨居殿障子帳一、東西遣戸障 子、有二各引物(○○)一、
p.0864 荒海障子幷布障子等引手(○○)製皮如レ圖〈○圖略〉
藍革一枚 文菱 赤革一枚 無文
p.0864 中つかさのみこ、御數寄屋をいみじくこのみ給ひて、たてさせ給ふ、御ふすまの門松、萬歲など、年のはじめの景物をゑがゝせたまひて、引手をあはびの貝にし、御ふくろだなのひきて(○○○)を、丸ののもじにせさせたまひけるを、民部卿〈冷泉大納言爲村〉見給ひて、
しめかざり松を引く手ののしあはび間毎にめでたう候はれける、と申されければ、みこかしこく興ぜさせ給ひける、
p.0864 すべて人の心は、ものに著せず、とゞこほりなきやうにもてなすべきことなり、これ無事の上の有事なり、よく工夫すべきことなり、
我戀は障子のひつて(○○○○○○)嶺の松火打袋に鶯のこゑ、此うたの心は戀慕の一念あれども、目前の障子の鐶鉤とうちみて、やがて嶺の松ときゝ過ぎ、火打袋のこち〳〵を、いかにや〳〵とおもふうちに、そのまゝ鶯のこゑなりけりとうつりし念頭、一點もとゞこほらず、當下一念の今日底なり、
p.0864 元正預前裝二飾大極殿一、〈○中略〉障子十二枚、〈韓紅花綾表(○○○○○)、白綾裏(○○○)、○中略〉與二内匠主殿掃部等寮一共依レ例裝束、
p.0864 久安六年正月七日乙酉、今日無二上達部殿上人諸大夫饗一、所々敷レ筵、〈○中略〉寢殿簾中調度未レ立、上達部座障子可レ張レ絹(○○)、今日猶爲二唐紙一、不レ可レ然、〈九日張レ絹〉
p.0864 案に布障子(○○○)とは、多く白布にて張て、墨繪書たるもの多し、春日權現驗記の畫卷物にも、白き障子に、墨繪にて牡丹に獅子書たるもの有、これ布障子なり、
p.0864 一藏人所布障子 源氏桐つぼの卷、弄花抄に云、藏人所は、禁中、仙洞、執柄大臣家 にもあり、殿上の間の次の間に布障子をへだて、藏人所と云、地下の者候する所也、
p.0865 踐祚大嘗祭儀
卯日平明、〈○中略〉次倉代十輿、〈作二黑木四角屋形一葺二檜葉一、其裡張レ布、塗以二白士一、其屋形以二白細布鴛鴦障子一立二于四面一、〉
p.0865 相撲召合裝束
前一日、令三主殿寮掃二除南庭一、〈○中略〉置二殿東廂布障子二枚於北廂一、〈掃部寮官人率二史生以下一供奉、但近例本無二此障子一、〉
p.0865 一淸凉殿〈○中略〉渡殿
北副二高欄一立二布障子二間一〈立レ柱打付〉畫二打毬一
p.0865 板屋せばき家もたりて、〈○中略〉底いときよげにて、紫がはしていよすかけわたして、ぬのさうじはりて住居たる、
p.0865 天永三年十月十九日癸卯、可レ渡二御新造大炊殿一也、予〈○藤原宗忠〉依レ爲二上卿一、辰時許著二束帶一參仕、〈○中略〉見二廻所々一之處、朝干飯壼布障子、皆悉畫二馬形一、里亭多相二具打毬一也、仍俄可レ畫二具打毬圖一之由、下二知繪師信貞一、則令二畫圖一、了令二立替一、
p.0865 おはしつきたれば、かどなどもなくて、たゞくぎぬきといふ物をぞしたりける、道すゑをいれて、もしありし山ぶしやあると、たづねさせ給へば、しばしありて、とくたゞいらせ給へとあれば、しるべするまゝに入給へり、すこしはなれたる所の、かみさうじ(○○○○○)などばかりにて、あらあらしきかりそめのゐどころと見えたり、
p.0865 書レ懷題二紙障一 藤原通憲
寸祿斗儲求豈得、生涯本自任二浮沈一、顧レ身遂識榮枯分、在レ世獨慵遊宦心、晉桂當初難レ入手、呉桐何日遇二知音一、一篇狂句一壼酒、箇裡時々足二醉吟一、
p.0865 隆源阿開梨、七條房にまうすべきことありて、たび〳〵まかりけるに、いたはるこ と有とて、あはざりければ、かみさうじにかきつけはべりけり、
こりはてぬにゑの初雁あさにする宿にもあらで人かへしつる
p.0866 よしの山の君といふ僧の房の、たきのかみ障子にかきつけたりける、
瀧のいとみにくる人もなし
これをきゝて、すゑにかきつけ侍りける、
谷川の心ぼそさにかきたえて
p.0866 文曆二年〈○嘉禎元年〉三月十日、夜月明而映二梅花一、開二紙障子一望二閑庭一、
p.0866 四年六月戊申、佐伯連子麻呂、稚犬養連綱田、斬二入鹿臣一、是日雨下、潦水溢レ庭、以二席障子(ムシロシトミ/○○○)一覆二鞍作屍一、
p.0866 席障子(ムシロシトミ)〈所レ謂紙障子、襖(フスマ)障子之類、漢語鈔障子、屏風之屬、倭名鈔、篰亦作レ蔀、和名之度美、所レ謂波之度美、蓋端篰也、周禮註、篰覆レ暖障レ光者也、〉
p.0866 踐祚大嘗祭儀
五間正殿一宇、構以二黑木一、〈○中略〉其堂東南西三面、並表葦(○○)、裡席障子(○○○○)、
p.0866 杉障子(○○○)
p.0866 家々文事、各當家の文ヲ、車輿ノ網代以下ニ付レ之、或杉障子ノ緣ノ繪、或ハ唐紙障子ノ文等、一切ノ家中家具ノ蒔繪以下ニ、皆家ノ紋ヲ付ル也、
p.0866 嘉祿三年〈○安貞元年〉正月廿日庚午、今日杉板障(○○○)子三間畫圖了立訖、女繪文字木書レ之、
p.0866 更行かねのつく〳〵と、月のにしにめぐるまで待かねたる所に、からかきの戸を人のあくるをとするに、書院の杉障子よりはるかに見いだしたるに、〈○下略〉
p.0866 襖障子(フスマシヤウシ/○○○)
p.0866 襖障子(フスマシヤウジ)
p.0867 もろこしにたのむ社のあればこそまいらぬまでも身をばきよむれ
唐紙せうじ(○○○○○)
p.0867 もろこしの社は唐神の意なり、身をきよむるは精進の意なり、精進障子、ともにしやうじとも、さうじともいへば、合せてからかみさうじと解たるなり、さて此ものは、今からかみとのみいふは略語なり、ふすまといふは、もと衾の名なるを、臥席の間にたつるよりかくもいふなり、からかみ障子とつゞきて一種の名なり、今世にいふ如く、からかみと障子とふたしなにはあらず、今いふ障子は、むかしはあかり障子といへり、たゞ障子といふ時は、すなはち裏表ともに張かさねたる、今のふすまのことなり、間を障へへだつるによりて障子といふなり、子は金子、扇子、鑊子などいふに同じ、
p.0867 障子(しやうじ)
寢間(フスマ)障子〈俗用二衾字一非也、衾者寢衣之類、〉以二障子格一兩面張塞、不レ見レ明、而可下以隔二寢間一及防上レ風、又有二鈕鐉一而(ヒキテカキカ子)可レ禦レ盜、
p.0867 ふすま ふすま障子は、襖の字を書り、紙被に似たるよりの名なるべし、唐詩纂要に紙門とも見えたり、
p.0867 被障子
今世からかみといふは、被障子の事也、三内口決、殿幷家作等事ノ條に、本主殿ノ間ニ有二帳臺一、〈南面〉與二公卿座一之間被障子二間云々、此被障子からかみの事也、
p.0867 一ふすま障子と云は、表裏よりはりたるを云、今はから紙といふ人有り、
p.0867 からかみ 韓紙の義もあり、千載集にからかみのかたぎ(○○○○○○○○)と物名に見えたり、俗に衾障子をしかいへり、西土に粉箋と云ふ印紙也といへり、
p.0867 から紙 同記〈○台記別記〉に、寢殿簾中調度未レ立、上達部座障子可レ張レ絹、今日猶爲二唐紙一、不レ可レ然とある、この唐紙は、唐國の紙をたうしといふ、それにはあらじ、これは今の世にも、衾障子にはる、紋ある一種の紙あるそれなるべし、これを唐紙といふよしは、ひまなく紋の有て、よのつねの紙とはそのさま異なれば也、すべてよのつねなると、ことなる物をば、唐某といふ、つねのこと也、さていにしへに障子といへるは、多くは衾障子のことにて、今いふ障子はあかり障子也、さて又ふすま障子といふよしは、衾をひろげたらんやうに張たる故也、今世にこれをたゞにふすまとのみいふは、庖丁刀といふべきを、庖丁とのみいふと同じたぐひの省名也、又此衾障子をから紙ともいふは、件のから紙して張たるよしにて、唐紙障子のはぶき也、
p.0868 韓紙 倭俗是謂二加羅加美一、今處々製レ之、然東洞院二條南岩佐氏所レ製尤爲レ宜、張二襖障子一專用レ之、
p.0868 からかみのかたぎ
よとともに心をかけて賴めども我からかみのかたきしるしか
p.0868 明障子(アカリ/○○○)
p.0868 或人物語云、中院禪門と阿佛房とゐられたる所へ爲氏まかりて、えんにてこはづくりて、あかり障子をあけていらんとせられけるを、阿佛房障子の尻ををさへて、あかり障子をかくし題にて一首あそばし候へ、あけ候はんと被レ申ければ、とりあへず、
いにしへのいぬきがかひしすゞめの子飛あがりしやうしとみるらん、とよまれければ、あけてわらひて入られけり、たはむれながらにてき心にてやありけん、源承法眼の説とてかたりき、
p.0868 火をともし候ぞ御入候へ あかりせうじ
p.0868 あかりしやうじ 明障子也、唐山の牕なるべし、まさすけに、ぬりこのあかりさう じと見えたり、ぬりこは塗子也、障子紙は、天工開物に櫺紗紙と見ゆ、
p.0869 疊 障子
昔の障子は、今いふからかみなり、大内のあら海の御障子ととなふるものなど、畫からかみなるは、たれ〳〵も知る事なり、その障子の骨に、たゞ一重紙を張るは、明をとらんが爲なれば、明り障子といひしが、今の障子なり、俗に障子の板を腰といふ、その板のなきを、明障子といふとはたがへり、からかみといふは、唐紙に張たる障子といふ事なるべけれど、ふすまといふ意更に考へえず、十訓抄二卷初丁ウラ、御使を椽にすへ、あかり障子をへだてゝこゝに謁す、古事談三の卷、美作守顯能の許に云々の條に、雜色相具シテ遣タリケレバ、明障子ノ内ニ讀經シテアリ云々、明障子といひし事、是より古くありしが、意をとめず見すごして、何の書なりしか忘れたり、見出して書加ふべし、
p.0869 先考〈○大江成衡〉以二明障子一立二四面一、其中曝二凉家文書一、
p.0869 江帥は又めでたき相人なりけり、淸隆卿因幡守の時、院の御使として來れり、帥持佛堂に入て念誦の間なりければ、御使を緣にすへて、あかり障子を隔て此に謁す、〈○又見二古事談一〉
p.0869 その二かゐのみなみに、〈○中略〉おなじきまのもやに、〈○中略〉かもゐををきてのち、ぬりこのあかりそうじをまごとにおほふ、
p.0869 中ノ間明障子用レ紙事
中間明障子、爲レ紙事常事也、
p.0869 天福二年八月廿二日戊子、今日藻壁門院周忌御法事、〈○中略〉後日參拜、見レ端立二明障子御墓上一、置二石倉一立二犬禦一云々、
p.0869 相摸守時賴〈○北條〉の母は、松下禪尼とぞ申ける、守をいれ申さるゝ事有けるに、すゝけた るあかりさうじのやぶればかりを、禪尼手づから小刀して、きりまはしつゝはられければ、せうとの城介義景、其日のけいめいして候けるが、給はりてなにがし男にはらせ候はん、さやうの事に心得たる者に候と申されければ、其男尼が細工によもまさり侍らじとて、猶一間づゝはられけるを、義景みなを張かへ候はんは、はるかにたやすく候べし、まだらに候もみぐるしくやと、かさねて申されければ、尼も後は、さは〳〵とはりかへんとおもへども、けふばかりはわざとかくて有べきなり、物は破たる所ばかりを修理して用る事ぞと、わかき人に見ならはせて、心つけんためなりと申されける、〈○下略〉
p.0870 あかり障子のこは尋常にすべし、巧に過たるほどくらし、
p.0870 一雨障子(○○○)をはるには、糊に酢を少し加へたるがよし、からかさつくろひにも、酢のりよし、
p.0870 一堀田筑前守殿、〈○中略〉存生ノ内ハ、常憲院樣〈○德川綱吉○中略〉役者ヲ御近習ニ被二召仕一候コトナド無レ之候、一度御能有レ之筈ノ處、俄ニ雨天ニ相成候テ、油障子(○○○)ヲ可二申付一由、牧野備後守ドノ申サレ候、筑前殿被レ申候ハ、タトヒ公家衆ナド御馳走ノ御能ニテ、一度モ二度モ延候以後、雨天ニ候ババ油障子被二仰付一御能有レ之可レ然候、是ハ御慰ノ御能ニテ候、雨天ニ候ハヾ、イク度モ御延引ナサレ、イツニテモ晴天ノ節仰付ラレタルガヨク候由、達テ申上ラレ、御能止、
p.0870 衝立障子(ツイタチシヤウジ/○○○○)
p.0870 衝立障子(ツイタチシヤウジ)
p.0870 衝立障子(タテシヤウジ)
p.0870 ついたて 俗に屛風を云、衝立の義也、七修類稾にいふ硬屛も是なるべし、枕草子に、ついたてさうじと見えたり、肥前につきたて、豐州にさらふといふ、
p.0871 一今世、ついたてと云物、古はついたち障子といひし也、
p.0871 人のいへにつき〴〵しき物
つゐたてさうじ
p.0871 小野宮のおとゞ、つゐたち障子(○○○○○○)に松をかゝせんとて、常則をめしければ、他行したりけり、さらばとて公望をめしてかゝせられにけり、後に常則をめして見せられければ、かしら毛芋に似たり、他所難なしとそ申ける、常則をば大上手、公望をば小上手とぞ世には稱しける、
p.0871 もやひさしのてうどたつる事〈○中略〉
この屛風たつる所に、ついたてさうじをたつる事あり、おもてきぬ、にしきのへりををしたり、
p.0871 十一日小安殿行幸裝束〈○中略〉
從二小安殿中央戸東西掖一、至二大極殿北戸東西掖一、南北行曳二大藏省綱一立二班幔一、同殿馬道東三間傍柱内、立二信濃布大障子一、西四間又立二同障子一、馬道内東西掖南北立二同障子一、其間南北行立二同大衝立障子(○○○○○)一、
p.0871 嘉承元年七月廿三日壬子、今日又御物忌、可レ有二九社奉幣一、〈○中略〉其儀、小安殿南面除二東一間幷馬道一、立二布障子一、馬道東西立二同突立障子(○○○○)五基一、〈二基立レ東、二基立レ四、一基立二中央一、〉
p.0871 通障子(ツシヤウシ/トヲリ)
p.0871 つしやうじ(○○○○○) 通障子、と書り、禁中にあり、建武年中行事に、とほり障子といふ人あり、ひがこと也、大なるついたて障子に、みすかけたる也と見えたり、
p.0871 通(ヅ)障子 或訓二透(トヲリ)障子一、訛也、長一丈二尺、高七尺許、上下張レ錦、内張二隼人簀一、大衝立障子、懸二御簾一者也、
p.0871 注進、南殿通障子事、御絹一疋代一貫二百文、かうらい六尺代一貫文、五三支代百五十文、三色木三支代百五十文、かみ代二百文、漆師代五百文、かな物代一貫二百文、番匠手間代 五百文、からかみしの手間代五百文、みすあり、以上五貫四百文、右注進如レ件、應永卅四年十月廿九日遠廣判、
p.0872 皇太子加二元服一事
皇太子將レ加二元服一、〈○中略〉又御帳西立二通障子二基一、
p.0872 東宮御元服
一不レ推二通障子一事
案二舊記一、件通障子自レ例北去一尺七寸、爲レ覽二威儀御膳一也云云、
p.0872 寬仁二年正月七日辛丑、早旦攝政殿〈○藤原賴通〉令二參下一給、御元服賀表、〈○中略〉出二通障子西妻一、取二表筥一還出、奉二攝政殿一、
p.0872 通入障子(トリイシヤウシ/○○○○)〈紫宸殿后七廻中間障子名〉
p.0872 通入障子(トリイシヤウジ)〈紫宸殿後七回中間云障孑、又作二鳥居障子一、〉
p.0872 享保十二年八月十二日、華表ノ字ヲ、トリイト訓ズルハ不當ト、淺見安正ガ申タリ、モト鳥居ト云ハ、 トシタ形ナモノヲトリイト云、トリイ障子ナド云モ、ツイタテニ障子ヲハメタルモノ也、トテモ漢字ノナキモノハ、假名ニテ鳥居ト書ガヨシト仰ラル、〈(中略)鳥居トカキテモカナ也〉
p.0872 一鳥居障子
請問
鳥居障子ハ、衝立障子の事歟、如何、〈通障子別なる事勿論〉
鳥居障子は通障子にては無二御座一候哉、通リ入ルとかな書にて、鳥居障子と申由、承り傳る計御座候、舊記の考は無二御座一候、
p.0872 久安五年十月廿五日癸酉、今日任太政大臣云々、〈○中略〉 西第二間鳥居障子上、同垂二御簾一、
p.0873 淸凉殿
母屋東西鳥居障子五間 各絹張、紺靑引、極彩色、本文之通、
土佐土左守光貞
北一ノ間 同ニノ間 同三ノ間 同四ノ間 同五ノ間
東廂南面〈大唐戸東也〉 同
〈鳥居障子一間、極彩色、各畫之上色紙形アリ、鳥居障子之上、小壁張附、各絹紺靑引、極彩色、本文之通、〉
p.0873 同〈○延喜〉十六年九月廿二日、近江介のせうそくに、法皇明日石山に御幸あるべし、いとまあらばけふ中にくべしと云々、仍まかりたれば、屛風障子(○○○○)あり、これに所々のおもむきを題すべきとあれば、よのうちにかくべし、其題も汝かけとあり、いなふれどあればかき侍りぬ、〈○中略〉
いづみにてしづみはてぬと思ひしをけふぞあふみにうかぶべらなる
p.0873 御裝束行事〈○中略〉
永久五年七月二日、關白〈○藤原忠實〉右大臣殿〈○右大臣恐大臣誤、時思實子忠通爲二内大臣一、〉移二御鴨居殿障子帳一、東西遣戸障子(○○○○)、有二各引物一、南面立二脇障子一、在二引物一、後押障子、
p.0873 嘉祿三年〈○安貞元年〉四月五日、高野老僧以二木筆一書二墨繪誂遣障子(○○○)一、昨日持來由有レ命、障子被レ張二唐綾一、筆勢實以珍重、見了參二東殿一云々、
p.0873 腰障子(コシ/○○○)
p.0873 一昔の腰障子は、人のつくばひて影の見へざる程に、こし高かりしなり、今のこしひくき障子は、古田織部の物數寄にて、近代の作也、
p.0874 長享二年三月十一日、申二科紙於内裏一、張二安禪寺殿正面腰障子八間一了、可レ有二御作善一之故也、
p.0874 にしおもてのかうしそゝきあけて、人々のぞくべかめり、すのこの中の程にたてたる、こそうじ(○○○○)のかみより、ほのかにみえ給へる御有さまを、身にしむ計おもへる、すき心どもあめり、
p.0874 淸凉殿小障子十分一之圖〈絹張表猫、裏竹ニ 雀、緣軟錦如二昆明池一、金物金銅 緣臺足等黑漆○圖略〉
p.0874 淸凉殿
小障子 〈仕立同上(絹張緣軟錦極彩色)〉 畫〈表裏〉 〈猫 竹ニ雀〉 土佐左近將監
p.0874 藤花宴
天曆三四十二、於二飛香舍一有二藤花宴一、〈○中略〉當二庇中戸南一立二五尺障子(○○○○)一、其西在二御酒具一、
p.0874 一淸凉殿〈○中略〉
二間〈○中略〉
懸二御本尊寄障子(○○○)一也
p.0874 宜陽殿
陣座寄障子 養由基射レ猿 土佐左近將監
p.0874 畫障(○○)
p.0874 書院置物者、〈○中略〉障子者、彩色四季之倭畫、招二繪所一令レ圖(ウツサ)レ之、
p.0874 障子の色紙形(○○○○○○) 障子は、今俗にいふふすま也、紙布綾にても張事也、それに畫をかき、或は色紙形を押事なり、
p.0874 弘仁九年四月庚辰、是日有レ制、改二殿門號題額一、凡大内賢聖(○○)、幷昆明池(○○○)、荒海障子(○○○○)等、弘仁年中各被レ施二畫圖一、
p.0875 一淸凉殿
弘廂〈板九枚、北有二荒海障子(○○○○)一、南方手長足長、北面宇治網代布障子(○○○○○○○)、墨繪也、二間與二上御局一之際立二昆明池障子(○○○○○)一、閑院無二上御局一、仍荒海障子副二尺許、爲レ路立之、南昆明池、北嵯峨野小鷹狩、南切妻有二鳴板一、號二見參板一、不二打付一也、〉年中行事障子(○○○○○○)〈向二上戸一立之、春東方也、人一人路程置立之、○中略〉
渡殿
二行各二疊敷二責端一、公卿在二殿上一之日、不レ論二花族諸家非色一又著之、不レ然之時、可レ然之人不レ著之、北副二高欄一立二布障子二間一、〈立レ柱打付〉畫二打毬一、向二下戸一、横女官戸路通立二障子一、〈馬形號二波禰馬一也〉其西南二間有二遣戸一、其下一間籠下女房住、如二手水物一置二燒火一置レ水、自二中古一事歟、高遣戸侍臣已下參所也、〈○中略〉
臺盤所
中間臺盤東漆厨子上置二菓子等一、其南立二馬形障子(○○○○)一、鬼間方奧一間出也、〈○中略〉ニ間際程副レ北立二馬形障子一、西立二布障子一、其外號二刧簾一、一間懸、遣戸御簾二間也、抑臺盤所東北障子、到二鬼間一マデ和繪也、
朝餉
二間〈南平敷二枚〉〈北上〉〈東北立二屏風一、絹屏風、〉夜御殿方有二副障子一、〈○中略〉臺盤所方障子和繪、御手水間方障子畫レ猫、後凉殿布障子如二渡殿一無二土居一、〈立二少柱一打付、有レ用時撤之、如二五節肩脱一也、近代引馬繪也、是僻事也、宗忠公記打毬騎馬唐人之由也、○中略〉簀子南立二馬形障子一、〈○中略〉一南殿〈紫宸殿〉
北障子、號二賢聖障子(○○○○)一、〈賢聖畫レ之、上色紙形、近代不レ書二本女一、彼等藝能也、此障子裏方畫二唐花一、御帳間戸、畫二獅子狛犬一、障子上畫二負レ書之龜本文心一、障子戸三也、〉
p.0875 南殿の賢聖障子は、寬平の御時始てかゝれける也、其名臣といふは、馬周、房玄齡、如晦、魏徵、〈自レ東一〉諸葛亮、蘧伯玉、張良、第五倫、〈同二〉管仲、鄧禹、子産、蕭何、〈同三〉伊尹、傅説、太公望、仲山甫、〈同四〉李勣、虞世南、杜預、張華、〈自レ西四〉羊祜、揚雄、陳寔、班固、〈同三〉桓榮、鄭玄、蘇武、倪寬、〈同二〉董仲舒、文翁、賈誼、叔孫通、〈自レ西一〉等也、此人々の影をかゝれける、彼麒麟閣の功臣を圖せられたる跡をおはれけ るにや、はじめは色紙形に銘をかゝれたりけり、されば道風朝臣の申文にも、七度けがせるよし載たり、其銘いつ比よりかゝれずなれるにか、當時はみえず、色紙形ばかりぞ侍りける、承元に閑院の皇居燒、卽造内裏ありけるに、本は尋常の式の屋に、松殿作らせ給たりけるを、此度あらためて大内に摸して、紫宸、淸凉、宜陽、校書殿、弓場、陣座など要須の所々たてそへられける、土御門の内裏のかゝりける所とぞ聞えし、地形せばくて紫宸殿の間數をしゞめられける、〈○中略〉くはしく尋て注すべし、大内にては、此障子をみなはなちをかれて、公事の時計ぞ立られける、御秘藏の儀にて侍けるにや、建曆に閑院にうつされて後は、すべてとりはなたるゝ事なし、又鬼間の壁に白澤玉をかゝれたる事は、むかし彼間の鬼のすみけるを、鎭られける故にかゝれたる事とは申つたへたれども、たしかなる説をしらず、又淸凉殿の弘廂についたち障子を立て、昆明池を圖せられたり、そのうらに野を書て、片方に小屋形あり、又近衞司の鷹つかひたるをかけり、是は雜藝に侍る嵯峨野に狩せし少將の心とぞ、彼少將といふは、大井川のほとりにすみける季綱の少將の事にや、かの大井の家を出て、嵯峨野に狩しけるをうつしけるにこそ、又萩の戸のまへなる布障子を、荒海の障子と名付て、手長足長など書たり、その北うらは、宇治の網代を書り、淸少納言が枕草子に、此障子の事も見へたり、一條院このかたにかゝれたるとこそ、大かた淸凉殿の唐繪にも、みな書ならはせる事ども侍り、
渡殿に、はね馬よせ馬の障子を立て、又同じ渡殿の北邊、朝がれゐの前に、馬形の障子侍り、陣座の上に、李將軍が虎を射たる障子をよせかけ、校書殿には、養由基が猿を射たる障子を寄立たり、これみないづれの御時よりといふ事をしらず、由緖かた〴〵おぼつかなし、閑院に大内を移されて後、よせ馬の障子、幷に李將軍養由が障子など沙汰なかりけるを、四條院御時、西園寺相國禪門修理せられける時、頭中將資季朝臣申起てたてられたり、いと興ある事也、此障子の繪本ども、鴨 居殿の御倉にぞ侍なる、建長造内裏の時、繪所の預前加賀守有房、繪本をもたざりければ、取出してかゝせられけり、昔し彼馬形の障子を金岡が書たりける、夜々はなれて萩の戸の萩をくひければ、勅定有て其馬をつなぎたるていを書なされたりける時、はなれず成にけりと申傅へ侍るは、誠なりける事にや、
p.0877 請下殊蒙二天恩一被レ遷二山城守一兼中任近江權介上狀 小野道風
右道風、謹撿二近代拜除之例一、自二當寮頭一登二四品之榮爵一者、不レ改二年曆預二一國之烹鮮一焉、〈○中略〉道風從レ加二爵級一、數移二星灰一、〈○中略〉少レ藝小レ能、非レ神非レ妙、然而紫宸殿之皇居、七廻書二賢聖之障子一、大嘗會之寶祚、兩度黷二畫圖之屛風一、臨時奉勅不レ可二勝計一、〈○下略〉
p.0877 賢聖障子(ゲンジヤウノシヤウジ/○○○○)
p.0877 賢聖障子
諸書作二御障子又北障子一、西宮記作レ障、江次第作二絹御障子萇秋記作賢聖圓障子一、
西宮記〈旬〉曰、天皇出御、〈中略〉有二天氣一稱唯、經二東庇母屋障(○)邊一西行、過二障戸之間一、江次第〈元日宴會〉曰、南殿北廂立二御障子(○○○○)一、〈件障子、尋常可レ立、而近例除二南殿有レ事日一之外放之、置二於南殿西御膳宿一、件御膳宿鑰、内匠寮官人隨身參入開之、幷藏人催之、〉江次第〈相撲召合装束〉曰、上二南殿御格子一、〈注略〉酒二掃殿上一、〈注略〉置二殿東廂布障子二枚於北廂一、〈中略〉御帳乾角傍二絹御障子(○○○○)一立二廻五尺之大宋御屛風二帖一云々、
p.0877 紫宸殿〈謂二之南殿一〉御帳同淸凉殿無二几帳一、立二御倚子一、北ニ立二賢聖障子一、御帳間戸書二師子狛犬一、又御帳外南面母屋、庇南格子ハ、常ハ被レ下之由、見二建曆御記一、
p.0877 賢聖の障子
賢聖の障子の畫は、むかし漢の宣帝の時に、畫二功臣十一人於麒麟閣一と見えし、是後世に至りても、功臣の像を圖するの始なり、
p.0878 〈首書〉物狂帝、元慶元三月、大納言南淵年名設二尚齒會宴一、二年九月、太上天皇奉レ賀二太皇太后五十笇一、扶桑略記、二月四日乙未、〈○中略〉是日天皇出二綾綺殿遷二幸二條院一、賢聖障子始被レ立之、
p.0878 延長六年六月廿一日、仰二少内記小野道風一、令レ書二漢朝以來賢君明臣德行於淸凉殿南廂粉壁一、
p.0878 延長七年九月日、令三少内記小野道風改二書紫宸殿障子賢臣像一、先年道風所レ書也、帝給二御衣一、
p.0878 一賢聖御障子の色紙形、本文之書は、書博士の甲斐流にて、恰好釣合奇妙也、唐樣にても不釣合、御家流にても、不釣合也、醫者の手迹のチヤン唐樣も釣合よき物也、
p.0878 紫宸殿
南面ノ中央に、紫宸殿と云額有、〈○中略〉岡本治部大輔賀茂保孝の筆也、内に賢聖障子あり、江戸法印榮川院狩野典信の畫也、上に傳あり、保孝の書也、
p.0878 巨勢金岡、〈○中略〉畫二皇居南庇東西障子一、作二歷代鴻儒像一、所レ謂紫宸殿賢聖像是也、金岡始畫レ之、小野道風書二其賛詞一、其後數百年來、當時繪所預畫レ之、或一時レ有レ名畫史應レ詔者、至レ今不レ絶、當二其撰一者爲二畫家之榮一焉、賛詞亦如レ是、雖レ然賛詞不レ傳、〈金岡所レ圖古像之粉本十二人者、余家世所レ藏也、最右レ銘存二于今一、惜哉此外之像不二相傳一、〉只使三當時能書搢紳書二名於其上一、多世尊寺家書レ之、近世持明院家獨掌二此事一矣、〈○中略〉或記、晩年剃髮、閑二居仁和寺一、醍醐帝有レ勅令レ畫二賢聖障子一、金岡假著レ髮又戴レ冠、粧二男子之容貌一、登二紫宸殿一畫レ之云々、
p.0878 宇多帝時、巨勢金岡以レ善二畫圖一擅二名當時一、帝勅令レ圖二古聖賢像于南庇東西障子一、爾後以爲二舊例一、後堀河帝時、辨内侍者、藤原信實之女也、見二賢聖障子一有三口日、擇二我朝忠臣孝子一、如レ許圓レ之書レ之、則此國亦有二忠孝人一、須二勸勵一、鳴呼無二撰レ之之世一哉、時帝聽レ之大感嘆、賜二女位一、内侍固辭不二肯受一云、此内侍之言實是矣、其慮賢二乎丈夫一哉、
p.0879 寬治七年正月十三日辛卯、南殿御障子、賢聖圖目錄、卅二人(○○○)、
p.0879 古文書賢聖列
東一間 馬周 房玄齡 杜如晦 魏徵
二間 諸葛亮 蘧伯玉 張良 第五倫
三間 管仲 鄧禹 子産 蕭何
四間 伊尹 傅説 太公望 仲山甫
戸間 〈文龜〉 〈獅子狛犬〉
四間 叔孫通 賈誼 文翁 董仲舒
三間 倪寬 蘇武 鄭玄 桓榮
二間 班固 陳寔 揚雄 羊祜
西一間 張華 杜預 虞世南 李勣
年中行事後附賢聖障子次第
東一 魏徵 杜如晦 房玄齡 馬周
二 第五倫 張良 蘧伯玉 諸葛亮
三 蕭何 鄧禹 公孫僑 管仲
四 仲山甫 太公望 傅説 伊尹
中
四 叔孫通 賈誼 文翁 董仲舒
三 倪寬 蘇武 鄭玄 桓榮
二 班固 陳寔 揚雄 羊祜 西一 張華 杜預 虞世南 李勣
p.0880 賢聖障子
世尊寺補任曰、行俊卿、應永六年正月五日叙二從三位一、書二賢聖障子一、幷時簡賞、
按、右粉本、今傳レ世者、有二馬周、房玄齡、杜如晦等圖一、圖上記二小傳一、所レ謂銘者卽是矣、又有二魏徵、諸葛亮、蘧伯玉三圖一、亦傳レ世、稱二賢聖障子粉本一非レ是也、此三像者、大學寮九哲中之圖也、
p.0880 賢聖障子粉本〈畫者姓名不レ傳、但正和前粉本也、〉
畫所預家ニ傳ル所、馬周、房玄齡、魏徵、杜如晦、四人ノ粉本也、按土佐家傳云、刑部大輔吉光、正和中南殿障子畫二賢聖一ト、此等ノ摸本今傳ラズ、惜ムベシ、
p.0880 大學寮九哲粉本〈殘缺、畫者姓名不レ傳、〉畫所預家ニ傳ル所、世ニ誤テ賢聖障子ノ粉本トス、畫力賢聖障子ノ粉本ニ及バズ、
p.0880 紫宸殿
賢聖御障子〈東四間西四間〉 〈像之上各有二色紙形一、絹張、緣軟錦、靑地、〉
〈江戸 法印榮川院〉狩野典信
北面 極彩色花鳥
中央門戸 畫極彩色 獅子狛犬 中央戸之上 同 負文龜本文之心
東面之戸裏 同 花鳥
p.0880 右臣謹按、寬平中、畫員神泉苑監巨勢金岡所レ畫賢聖障子名臣圖、歷朝寶愛、離合設レ之、是以屢免二回祿一、至二建曆中一猶存、順德帝朝取レ自二士御殿一置二之閑院一、以二其釘定不一レ可レ動、似三建長之火遂失二處所一矣、旋又造内、又粗竄改、則障子圖旣非レ舊也、嗣後兵燹相踵、禮文掃レ地、雖二其竄改者一亦不レ可レ見也、幸也傳二馬周、房玄齡、杜如晦三圖粉本一、描法可レ觀、章服皆合二唐志一、假令非二寬平之舊一、亦可レ依焉、又年中行事書屛摸本賭射圖内、存下羊祜以下至二倪寬一八圖上、但圖大僅寸計、他物又蔽虧、其詳不レ可レ知焉、然 以二意近一而察レ之、其梗槩亦不レ悖二志説一、是亦可レ據也、今此二本、十有一圖、並依二舊圖一、不二敢加一レ私、又就二閻立本十八學士圖、李公麟孔門弟子圖一、内取二蘧伯玉、虞世南二圖一、其餘則本二之六經傳注禮家圖説一、考二之歷代志、及六典、通典、玉海、文獻通考、圖書集成等書一、旁搜二索諸家雜記一、參以二蘭亭修禊圖、二王像張易之理瓜圖等諸名蹟一、與二大學頭〈臣〉林信敬等一雜議詳定、授二畫員〈臣〉狩野典信一、新立レ圖者凡十有九名、幷舊圖十有一名、旁取圖二名、通計三十有二名(○○○○○○○)、彩繪備焉、年代縣邈、圖記寡レ徵、〈臣〉等寡陋、非三敢謂二當時之禮容必審如一レ斯矣、庶幾乎戴籍之文義、無二大滅裂一也、其引證取捨之説、謹繕寫上呈如レ此、
寬政二年八月日 儒員〈臣〉柴邦彦記
p.0881 賢聖障子名臣像縮本帖子記
紫宸殿母屋北楹九間、隔以二裱槅一、以二寬平中一勅令レ畫二歷代名臣一、稱レ之曰二賢聖障子一焉、毎障高七尺、濶七尺有五寸、衣以二白縑一、四邊軟錦、池三寸飾レ之、四圍又護以二二寸髹漆木貼一、凡全障之大、高八尺、濶八尺有五寸也、當二中一障一有レ戸、雙扇高五尺有五寸、濶各三尺有二寸有五分、紙鈕開闔、以通二御路一、其左扇則畫二獅子一、右扇畫二狛犬一、皆向レ内而蹲、高可二二尺有五寸一、戸上平額一尺有五寸、當二負文龜一、龜甲大七寸許、其餘八障、東西分設、毎障四像、像長約三尺有五六寸、東則列二馬周、房玄齡、杜如晦、魏徵、諸葛亮、蘧伯玉、張良、第五倫、管仲、鄧禹、子産、蕭何、伊尹、傅説、太公望、仲山甫十有六圖一、西則列二季勣、虞世南、杜預、張華、羊祜、揚雄、陳寔、班固、桓榮、鄭玄、蘇武、倪寬、董仲舒、文翁、賈誼、叔孫通十有六圖一、東第二障西邊與二西第二障東邊一、皆有レ戸、偏扉高如二中戸高一、其濶則四障之一、第五倫與二班固一皆在レ戸、上邊池護貼亦附レ戸開闔焉、各像上方糊二列金畫彩箋二幅一、以錄二其小傳一、箋長尺有一寸、其濶八障之一、五色班駁、兩兩相比、以襲二衣次一也、各障背面、亦皆白縑衣レ之、畫以二花枝翔禽一、金彩繪飾、四散爛然、所レ謂錦花鳥也、是皆寬平舊制、寬政二年勅二禮官一考進改造、而畫員藤原廣行作圖者、〈○下略〉
p.0881 覺 賢聖障子人形圖、京都ゟ御好之趣ニ相直候分、左之通ニ御座候、
一張良 鬚を添 一鄧禹 黑衣ニ相改 一子産 西正面ニ相直
一伊尹 冠薄白ニ相改 一傅説 衣深衣ニ相改 一虞世南 紛を綬之色ニ相直
一張華 方心曲領幷木劒を相直 一杜預 方心曲領木劒相除、衣を絳朝服ニ相改、
一揚雄 黑幘黑衣ニ相改
右之外、綬之分ハ、皆房玄齡が圖之通ニ相改申候、以上、
三月
p.0882 覺
京都ゟ被二差越一候、魏徵、孔明、蘧伯玉三人之圖、博士衆掛紙之趣、賢聖障子粉本之由ニ有レ之、幷右圖肩書に、右三人之姓名相見え申候へ共、右圖は元來土佐家傳來、孔門九哲之圖ニ而、始之壹人は伯牛と肩書付候本も有レ之候、住吉内記所持、慶安年中摸本とも、十哲之圖と有レ之候、何レにも衣服冠木劒等之樣子、李龍眠が孔門弟子の圖と同樣にて、九哲之圖に紛無二御座一候、决而賢聖障子之摸本には無レ之候、依レ之此度御取用ニ相成不レ申候間、やはり先達而相伺候通之圖に相極メ申候、但シ肩書ニ、右三人之名前キレ〴〵ニ有レ之候は、賢聖障子之古圖斷絶之時、押而右三圖を用られ候事も有レ之、其時之色紙形之切レにても有レ之候哉、又は後人之杜撰ニ有レ之候哉、其所は不分明に候へ共、古代賢聖障子之圖に無レ之候儀は、一覽相分り申儀に御座候、又陶淵明解綬之圖は、趙子昂が繪に御座候、是亦引證ニ仕がたく候間、相用不レ申候、
右申上候、以上、
四月
p.0882 還宮後儀 延喜十一年十二月十六日、御二南殿一、〈○中略〉此日障子(賢聖)爲二修治一撤却、仍施二屛風一供二奉裝束一也、
p.0883 相撲召合裝束
母屋〈○南殿〉西壁下敷二長筵三枚一、其北端絹御障子頭立二亘漢書御屛風二帖一、
p.0883 宗直按、絹御障子、謂二賢聖障子一也、以レ之考レ之、賢聖障子者以レ絹製レ之、
p.0883 天永四年〈○永久元年〉正月七日、女官四人、理髮著裳、唐衣、中結、著レ袴、出レ自二賢聖圖障子西戸一、經二通障子西一、副二西壁一出二南廂一、折レ東行也、
p.0883 治承四年四月十九日辛丑、有二紫宸殿巡撿事一、〈○中略〉皇太后大夫〈朝方〉參會、殿下自二高御座東間一入二母屋一、〈撤二賢聖障子一也〉
p.0883 嘉祿二年十一月廿一日、節會衣蒙押二倒賢聖障子一、〈板障子(○○○)也〉
p.0883 殿上年中行事障子(○○○○○○)事
仁和元年三月廿五日、太政大臣〈昭宣公〉獻二年中行事障子一、今案、彼年始被レ立二年中行事障子一歟、〈見二小野宮記一云云、〉
p.0883 淸凉殿
年中行事障子〈畫二年中行事一、絹張、緣軟錦、〉
p.0883 年中行事障子 もゝしきニ云、畫、年中公事被レ書也、絹繪、緣軟錦と有、然れ共予思ふに、淸涼殿の南殿上に至る所へ立られしは、ついたち障子にして、畫にあらず、年中の公事を書せられたるなり、
p.0883 年中行事障子
十二月の月、文字を十二樣に書べし、書かへてかく事、もじは行ごとにあれば、書かへがたし、されどそれも月をかふるていに、一月づゝもかはりて書べし、すゞしのきぬにて、墨のいかにもつか ぬをば、はじかみをいれてすりて書也、秘説也、
p.0884 この御時の御卽位、〈○後一條〉大嘗會御禊などの程の事ども、すべてめづらしくやむごとなき事かずしらず、年中行事の御障子にも、かきそへられたる事ども、いとおほくなむあなる、
p.0884 喫二鹿宍一人當日不レ可レ參二内裏一事
又被レ命云、喫レ宍當日、不レ可レ參二内裏一之由、見二年中行事障子一、〈○中略〉又年中行事障子被二始立一之時、不レ知二何世一、可二撿見一也、
p.0884 又明十二年三月廿七日丁未、去夜除目、今日至二未刻一以外事也、〈○中略〉外記復二本列一、次予揖〈○註略〉入二無名門一、〈○註略〉昇レ自二右靑璅門一、〈○註略〉經二年中行事障子南〈自二小板敷一直東行セズ、年中行事障子方ヘ昇也、不レ經二上戸一、〉幷御殿南簀子一登レ自二孫庇南妻一、
p.0884 久安三年七月廿六日戊子、依吉日一初立二年中行事障子一、去十三日造始之、令二宮内大輔定信〈遣二障子於彼家一令レ書〉書一之、造幷立日令二雅樂頭泰親擇申一之、〈不レ召二泰親一、以二親隆一消息問之、〉延久元年七月、故京極殿、〈于レ時右大臣、一上、〉依二一條左大臣〈○源雅信〉例一被レ立之由見二御曆一、因レ之所レ立也、先日以二可レ立之狀一申二禪閤〈○藤原忠實〉及攝政殿〈一○忠實子忠通〉矣、
○按ズルニ、此年中行事障子ハ、禁中ノモノニ非ズト雖モ、今類ヲ以テ此ニ載ス、
p.0884 承元四年九月一日丙戌、仲基入道來談占事、松殿〈○九條基房〉御時、土居障子被レ書二年中行事一、〈被レ寫二内裏文殿年中行事一、同書レ之、〉是先例云々、
p.0884 昆明池の障子(○○○○○○)は、名目こめい池(○○○○)なり、こんめい池といふはわろしとなり、
p.0884 元狩三年、減二隴西北地上郡戍卒半一、發一讁吏一穿二昆明池一、〈如淳曰、食貨志以二舊吏弄一レ法、故讁使レ穿レ池、更發二有レ貲者一爲レ吏也、臣瓉曰、西南夷傳有二越雋一、昆明國有二滇池一、方三百里、漢使求二身毒國一而爲二昆明一所レ閉、今欲レ伐レ之、故作二昆明池一象レ之、以習二水戰一、在二長安西南一、周回四十里、食貨志又曰、時越欲三與レ漢用二船戰一、遂乃大修二昆明池一也、〉
p.0884 淸凉殿 昆明池障子〈絹張、綠軟錦、極彩色、〉 土佐土左守
畫〈表昆明池ノ圖裏嵯峨野小鷹狩〉 畫ノ上面有二色紙形一、絹張、
p.0885 昆明池障子北面
嵯峨野〈題爲泰卿〉 〈秋草のいろ〳〵咲みだれたる袖はへて小鷹狩する所〉 雅威卿
さがの野や花の千種の色鳥に心をうつす秋のかりびと
p.0885 混明池障子 淸凉殿の椽側に立らる、〈○中略〉予が見し時、御障子の上に元德四年作二昆明池一、在二長安西南四十里一云々とありて、昆の字にてはなく、混の字なりし、
p.0885 内取御裝束
自二仁壽殿西溝西邊一北折、自二呉行臺後一北行、賞二昆明池障子程一西折、竟二簀子敷下一、〈並立二幔柱一引之〉長橋内敷二黃端帖二行一、〈東西行〉爲二相撲人座一、
p.0885 御かふりめしよせて、さうぞくなどせさせ給ひて、うちへまいらせ給ひて、陣のうちはきんだちにかゝりて、たきぐちのぢんのかたより、御前へまいらせ給ひて、こうめいちのさうじのもとにさしいでさせ給へるに、ひの御ざに東三條大將御前にさぶらひたまふほどなりけり、
p.0885 正月〈○寶治三年〉十五日、まことやけふは人うつひぞかし、いかゞしてたばかるべきなどいひて、〈○中略〉こめいちのしやうじのもと、御ゆどののなげしのしもの一間に、勾當内侍どの、みのどの、きりみすのもとに、中納言のすけ、兵衞督どの、年中行事のしやうじのかくれに、少將、辨などうかゞひしかども、あかつきまで出給はず、
p.0885 淸凉殿
昆明池御障子〈表昆明池圖畫、裏鷹匠畫、極彩色、〉
p.0886 神輿ナンドノ水引ニ、手長足長ト云物アルハ、實ニアル物歟、誠ニサル物アルベキ也、唐皇居昌ハ皆奇仙異人畫(エガケリ)、サレバ千字文ニモ、宮殿ノ構ヲ云ニ、仙靈ノアヤシキ人ヲ畫彩トエガキイロドルト侍ベリ、然レバ吾朝ノ内裏ニモ、加樣ノ人形アルナリ、中ニモ手長足長ヲ畫ケルヲバ、荒海(アラウミ/○○)障子(/○○)ト云也、其姿棘輿ノ水引書ケルナルベシ、喩ヘバ長臂國者手長、長脚國者足ナガシ、兩國並タレバ、長脚人長臂人ヲ肩ニ乘テ海ニ入リ、魚ヲ取テ兩人分用ル姿也、
p.0886 荒海障子之事
按に、件の布障子は、凡高サ九尺ほどにて、其畫は墨繪なり、是乃ち金岡が圖せしものといへり、〈滋野井殿御説松陰拾葉にあり〉然して今寫して世に傳る卷軸の圖は、件の布障子を寫したるものには非ず、其初巨勢の金岡が圖せしは卷軸にて、鴨居殿の寶藏にありしを、金岡自ら寫して布障子へ畫しものなり、故に元本といへるは此卷軸の圖なり、よて布障子は燒失して亡びたりといへども、其元本なる卷軸は現在するを、畫所の預り土佐の家に其卷軸のうつし現在せるを、滋野井故亞相入道公麗卿のうつして藏し給へるを乞願て、密にうつしたるものなり、嘉樹素より土佐の家に件のうつし侍りて、夫より懇望して寫せる人も多く侍れば、此圖は世に流布する事尤あるべし、努々又世になき希代のものにも非れども、嘉樹がうつせしものは、金岡が圖せしを、土佐家へうつし、夫をまた故亞相入道のうつして、小傳を書添へ給へるを眞寫せしものなり、故に今由來を筆記する事かくの如し、
明和八年八月 橘嘉樹
p.0886 淸凉殿
弘廂北荒海障子〈布張墨畫〉 〈書名所 西面有二色紙形一〉 土佐土左守
p.0886 荒海障子北面
p.0887
淸凉殿
〈墨畫〉
荒海御障子
金物赤銅〈四隅肱金左右〉〈〓九ツ宛但上下ハナシ〉
荒海之裏 布障子
網代之圖〈墨畫〉 宇治川〈題雅威卿 あじろさしたる所〉 光祖卿
紅葉を波のよせくる宇治河やあじろの床も錦さしけり
p.0888 淸凉殿のうしとらのすみの、北のへだてなる御さうじには、あらうみのかたいきたる物どものおそろしげなる、手ながあしながをぞかゝれたる、うへのみつぼねの戸をしあけたれば、つねにめに見ゆるを、にくみなどしてわらふほどに、〈○下略〉
p.0888 寬和二年、淸凉殿のみさうじに、あじろかける所、 よみ人しらず
あじろ木にかけつゝあらふからにしき日をへてよする紅葉なりけり
p.0888 渡廊 殿上より虎間に出る所也、著聞集に、渡殿に、はねむまよせむまの障子を立て、又同じ渡殿の北邊、朝かれゐの前に、馬形の障子(○○○○○)侍りと云々、案に渡殿とあるは渡廊なるべし、則朝餉間の南に當れり、其處に、はね馬よせ馬のついたち障子有、又春曙抄に、わたどの廊下也と云々、
p.0888 御書使事
被物令レ持二從者一參二殿上口一、自取二御返事幷持祿一、懸レ肱昇了、祿落二置〓駕障子〈○○駕、前文作二巴禰馬一、〉北方一、自二大盤所一令二通見一云々、
p.0888 祭日御禊儀
今曉行事藏人、臺盤所廊、幷御裝物所前引レ絶懸二舞人陪從裝束一、分給時主上出二御鬼間一、〈或垂二御簾一、近代不レ垂非也、馬形障子撤之、〉
p.0888 五月の御さうじのほど、〈○中略〉あきのぶの朝臣いへあり、そこもやがて見んといひて、車よせておりぬ、ゐ中だち事そぎて、馬のかたかきたるさうじ(○○○○○○○○○○○)、あじろびやうぶ、みくりのすだれなど、ことさらにむかしの事をうつしいでたり、
p.0889 禁中の下侍臺盤所などに、馬形の障子あり、禁秘抄に、馬形號二波禰馬一也とある是也、かやうの事をなぞらへたる障子なるべし、
p.0889 寬仁三年正月一日己未、四方拜云々、〈○中略〉攝政出レ自二大盤所一、被レ候二殿上一、供二御御藥一、訖撤二晝御座一、立二御倚子一、前出二馬形障子下一、
p.0889 仁和四年〈○帝王編年記作二寬干四年一〉九月十五日、午二刻勅侖三畫師巨勢金岡畫二于御所南庇東西障子(○○○○○○○○)一、令二直方、興基、惟範、時平朝臣等擇一レ詩、弘仁後鴻儒之堪レ詩者、卽令三金岡圖二其牀一矣、
p.0889 康和元年二月卅日、右中辨能俊朝臣來、淸凉殿御障子(○○○○○○)繪本文勘文覽之、正家朝臣所二奏上一也、事希代事也、先覽レ殿之後可レ奏歟、
p.0889 淸盛息女事
御娘八人御座ケルモ、皆取々ニ幸シ絡ヘリ、一ハ〈○中略〉花山院左大臣兼雅ノ御臺盤所ニ成給ヘリ、〈○中略〉此御臺所ハ御美(ミメ)モ嚴(ウツクシ)ク、情モ深ク御座ケル上、天下ニ類ナキ繪書ニテゾ御座ケル、紫宸殿ノ御障子(○○○○○○○)〈○長門本作二花山院公卿座障子一〉ニ、伊勢物語ヲ繪ニ書セ給フ御事アリ、〈○中略〉八ハ大納言有房卿ノ北方也、繪書花結諸道ニ達シ給ヘリ、〈○中略〉手跡サへ嚴(ウツクシク)シテ、畫圖ノ障子(○○○○○)ニ、百詠ノ心ヲ繪ニ書セ給テ、ヤガテ一筆ニ色紙形ノ銘ヲモ書給タリケレバ、院モ希代ノ女房ナリトゾ仰ケル、
p.0889 近院山水障子(○○○○○○)詩〈六首〉
水仙詞
寄二託浮査一問二玉都一、海神投與一明珠、明珠不二是秦中物一、玄道圓通暗合レ符、
p.0889 寬治七年三月十日丁亥、密々參二高陽院(○○○)一、書二記詩歌於障子(○○○○○○○)一、雖堪鳥跡、殿下仰書之、
p.0889 土佐局、善レ畫、仕二待賢門院一、曾並岡山下法金剛院有二待賢門院離宮(○○○○○○)一、使三土佐局畫二倭國名勝地圖於其障子(○○)一、所レ在二其上一色紙形之歌者、法性寺殿下書レ之、詳見二于三語集一、
p.0890 天德三年正月十日、道風令レ書二障子(○○○○○○)一給レ祿事、
p.0890 粟田障子(○○○○)坤元錄詩撰者事
又被レ申者、粟田障子詩、輔正卿撰之、坤元錄詩、維時卿、然則作者與二判者一、各互有二長短一、隨二其功一也、粟田詩以言以二帥殿〈○藤原伊周〉方人一不レ被レ入之、怨言云、雖二坤元錄絶句一、一首者何不二罷入一哉云々、故文章博士實範後傳二聞此事一不レ被レ許二此書一云々、
p.0890 故中關白殿〈○藤原道隆〉東三條(○○○)つくらせ給ひて、御障子(○○○)にうたゑどもかゝせ給ひし色紙形を、此大貳〈○藤原佐理〉にかけとのたまはするを、いたく人さはがしからぬほどにまいりて、かゝれなばよかりぬべかりけるに、〈○中略〉日たかくまたれたてまつりて、まいり給へりければ、すこしこつなくおぼしめさるれど、さりとてあるべき事ならねば、かきてまかりいで給ふに、女のさうぞくかづけさせ給ふを、〈○下略〉
p.0890 文曆二年五月廿七日己未、予〈○藤原定家〉本自不レ知下書二文字一事上、嵯峨中院障子(○○○○○○)色紙形故予可レ書由、彼入道〈○宇都宮賴綱〉懇切、雖二極見苦事一、〓染レ筆送レ之、古來人歌各一首、自二天智天皇一以來及二家隆雅經卿一、
p.0890 九年十一月、因二皇后病一造二藥師寺(○○○)一、〈○中略〉西院(○○)安二置彌勒淨土障子(○○○○○○)一、
p.0890 承安三年七月九日庚子、辰刻參院、奏二御堂雜事七ケ條一、其中御堂障子繪、可レ被レ畫二法花經佛像、幷地獄之類一、全不レ可レ憚之由有二其仰一、 十二日癸卯、天晴有二餘勢一、午刻參院、卽渡二御新御堂一、予追御障子繪事等、仰云、御堂之内御所、幷左右廊、可レ畫二廿八品一也、於二別御所一者、可レ畫二平野幷高野御幸一也、可レ仰二常盤源二光長一者、先紙形可レ令レ書二土代一之由仰二行事盛綱一了、 十三日甲辰、辰刻參院、〈○中略〉又被レ仰云、御堂障子繪二法花經一事(○○○○○○○○○)勘二出要文一可レ進二土代一之由、可レ仰二觀智僧都一、 廿日辛亥、早參院趣奏二御堂雜事一、〈○中略〉一殿上廊障子繪事、申云、被レ畫二本文一可レ宜歟、仰云、仰二永範卿長光朝臣等一可レ令二勘申一、
p.0890 勅、於二圖書寮一所レ藏、〈○中略〉障子(○○)、幷雜圖繪等類、一物已上、自今以後、不レ得三輒借二親王以下 及庶人一、若不二奏聞一私借者、本司科二違勅罪一、
神龜五年九月六日
p.0891 にくきもの
又やり戸などあらくあくるもいとにくし、すこしもたぐるやうにてあくるはなりやはする、あしうあくれば、さうじなども亢ほめかしごほめくこそしるけれ、
p.0891 御障子開閉の事
一戸障子のあけたてあらきは尾籠也、つくばひてかた手をつきてあけたてすべし、すべて御障子をあけたて、蔀又は御簾などあげおろし候時、御前の方を見候事狼藉也、よそ目する事有べからず、
p.0891 弘仁三年二月壬辰、屛風一帖、障子卌六枚、施二入東寺一、障子卅六枚施二人西寺一、
p.0891 上東門院被レ奉レ生後一條院一御産之時、事外有レ煩ケレバ、入道殿サワガセ給テ、自二御所一令二走出一給テ、御産事外令レ澀給、コハイカヾスベキ、御誦經ナド、カサ子テ可レ行也ト被レ仰之間、御言未レ了ニ、有國申云、御産ハ已成候ヌル也、不レ可レ及二重御誦經一ト申程ニ、女房走參テ、御産已成候ヌト申ケリ、事落居之後、有國ヲ召テ、イカニシテ御産成ヌトハ知ツルゾト、御尋アリケレバ、御障子ヲ引アケテ出給ツレバ、障子ハ子ヲ障ト書テ候ニ、廣アキ候ヌレバ、御産成ヌト存候ツルナリト申ケリ、
p.0891 大納言音立事
新大納言成親卿ヲバ、速ニ死罪ニ行バヤト、入道ハオボサレケレ共、小松大臣〈○平重盛〉ノ樣々被二宥申一ケレバ、遉ガ子ナガラモ耻カシキ人ニテオハスレバ、其敎訓モ難レ背シテ、死罪マデノ事ハナケレ共、西光法師ガ白狀ニ、安カラズ被レ思ツヽ、大納言ノヲハスル後ノ障子ヲアラヽカニアケテ出給 ヘリ、
p.0892 屛風 西京雜記云、七尺屛風、〈屏音蒲經反〉
p.0892 〓、屛、〈此複擧字之未レ删者〉蔽也、〈小雅、萬邦之屏、傳曰屏蔽也、引伸爲二屏除一、按古無二平仄之分一、〉
p.0892 屛風所二以障一レ風、亦所二以隔一レ形者也、古者辰之遺象、又有二牀屛、枕屛一、
p.0892 屛風〈曰二罘罳(○○)一、又凡漆屏、雕屏畫屏、各從二本名一、用二幾座一、〉
p.0892 屛風
周禮掌次設二皇邸一、鄭司農云、邸後板也、康成謂後板屛風、禮記明堂位曰、天子負二斧扆一而立、陸法言云、今屛風扆遺象也、三禮圖曰、屛風之名出二於漢世一、故班固之書多言二其物一、徐堅爲初學記亦載二漢劉安羊勝等賦一、然則漢制二屛風一、蓋起二於周皇邸斧扆之事一也、
p.0892 屛風
史記孟嘗君列傳、屛風後常有二侍史一、周禮掌次設二皇邸一、鄭司農云、邸後版也、康成謂、後版屛風與、〈平聲〉司几筵王位設二黼依一、注依其制如二屛風一然、〈常生案覲禮依、鄭注如二今綈素屏風一也、淮南王有二屏風賦一、鑑案史記正義引、燕丹子八尺屏風可二超而越一、〉
p.0892 萬年嘗病、召レ咸敎二戒於牀下一、語至二夜半一、咸睡、頭觸二屛風一、
p.0892 微兄遠、字景舒、位二光祿勳一、時人謂、遠如二屛風一、屈曲從レ俗、能蔽二風露一、言二能不一レ乖二物理一也、
p.0892 屛風賦 羊勝
屛風鞈匝、蔽二我君王一、重レ葩累レ繡、沓レ壁連レ璋、飾以二文錦一、映以二流黃一、畫以二古烈一、顒々昂々、蕃后宜レ之、壽考無レ疆、
p.0892 素屛謠
素屛素屛、胡爲乎不レ文不レ飾、不レ丹不レ靑、當世豈無二李陽氷之篆字、張旭之筆迹、邊鸞之花鳥、張藻之松石一、吾不レ令レ加二一點一畫於其上一、欲二爾保レ眞而全一レ白、吾於二香爐峯下一置二草堂一、二屛倚在二東西墻一、夜如三明月 入二我室一、〈一作レ懷〉曉如三白雲圍二我牀一、我心久養二浩然氣一、亦欲二與レ爾表裏相輝光一、爾不レ見當今甲第與二王宮一、織成步障錦屛風、綴レ珠陷レ鈿貼二雲母一、五金七寶相玲瓏、貴豪待レ此方悦レ目、然肯寢二臥乎其中一、素屛素屛、物各有レ所レ宜、用各有レ所レ施、爾今木爲レ骨兮紙爲レ面、捨二吾草堂一欲二何之一、
p.0893 石虎、作二金銀鈕屈膝屛風一、衣以二白縑一、畫二義士仙人禽獸之像一、讃者皆三十二言、高施則八尺、下施四尺、或施二六尺一、隨意所レ欲也、
p.0893 屛風〈ビヤウプ又圍屏〉
p.0893 屛風(ヒヤウフ)
p.0893 屛風〈ヒヤウフ〉
p.0893 屛風(ビヤウブ)〈屏退也、卽退レ風之義也、〉
p.0893 屛風(ヒヤウフ)
p.0893 屛風
もろこしの屛風のこゑ、〈此子細神樂の所にあり〉屛風一ひら、〈枚、源氏、〉あじろ屛風〈源氏、藩屏風とかく、障于のほねの樣にして、黑漆にして網代をくみて、糸にてとぢ付る也、屏風には心をたてゝおもひけん行者はかヘりちごはとまりぬ、びやうぶの浦にて西行よめり、〉屛風の浦、〈名所也〉
p.0893 屛風(ビヤウブ) 貼金屛風(キンビヤウブ) 畫屛風(エビヤウブ) 圍屛(ヲリビヤウ) 六曲屛風(ロクマイビヤウブ)
p.0893 屛風(ひやうふう)
屛所二以蔽一也、有二畫屛、繡屛、金屛、石屛、格子屛等之制一、事物紀源云、禮明堂位、天子負二斧扆一而立、則屛風名出二於漢世一、
按、屛風大抵高六尺以下而六曲也、矮小者爲二枕屛風一、濶而二曲者俗稱二廉手(カツテ)屛風一、其矮者稱二茶爐前(フロサキ)一、皆兩面貼レ紙、其法、 骨格縛(ホ子シバリ) 蓑張(ミノハリ) 蓑縛(ミノシバリ) 泛張(ウケハリ) 表張(ウハハリ)
p.0893 びやうぶ 屛風なり、日本紀より見えたり、から繪やまと繪などふるくいへ り、西土にいふは衝立屛風多し、摺疊のものを連屛といへり、會典日本貢物に塗金裝綵屛風あり、枕屛風も西土の書に見えたり、漢書の御屛風、雲圖抄にみゆ、大宗、戯騎を圖畫すといふ、地獄變の御屛風あり、地獄の變相なるべし、潜確類書に、呉生畫二景雲寺地獄變相一、時京師屠沽漁器之輩、覽レ之懼レ罪改レ業者往々有レ之、率皆脩レ善とみゆ、びいどろ屛風は雲南より出るよし、華夷珍玩考に見えたり、料絲燈屛風といへり、一帖といふ事、江記にみゆ、一隻なり、
p.0894 おまし所あたらしく、きよげなるびやうぶ(○○○○)几帳など立たる、とりつかひ給べきてうどなきよし、
p.0894 此へだてによりきたり、けどをくへだてつるびやうぶ(○○○○)だつもの、名殘なくをしあけて、〈○下略〉
p.0894 あきたるさうじを今すこしをしあけて、屛風のつま(○○○○○)よりのぞき給に、宮とはおもひもかけず、例こなたにきなれたる人にやあらんと思て、おきあがりたるやうだい、いとおかしうみゆるに、例の御こゝろはすぐし給はで、きぬのすそをとらへ給て、こなたのさうじはひきたて給て、屛風のはざま(○○○○○○)にゐ給ひぬ、
p.0894 朱鳥元年四月戊子、新羅進調從二筑紫一貢上、〈○中略〉亦智祥健勳等別獻物、金銀、錦霞、綾羅、金器、屛風(○○)、鞍皮、絹布、藥物之類、各六十餘種、
p.0894 屛風(ビヤウブ)
天武天皇朱鳥元年、新羅國より種々の物を調貢す、又智祥健勳等が獻るものゝ中に屛風あり、日本紀に見えたり、是より屛風ありけるにや、
p.0894 年料五尺屛風骨五十帖料、榲榑大七十五材、〈以二一材半一充二一帖一、五十材近江國所レ進、廿五材上奏所レ請、〉檜榑十材、〈七材押木一千二百枚料、三材鑄レ釘押形料、〉波多板四枚、〈作二鑄物押形一料〉熟銅百卅二斤十三兩二分、〈卅九斤十三兩二分作二肱金一千二百枚一料、以二十二兩一充二廿四枚一、斤別加二〉 〈損分一兩一、九十三斤鑄二五分花釘一萬八千六百隻一料、以二一斤一得二二百隻一、〉滅金百三兩四銖、〈五十兩、塗二肱金一料、以二一兩一充二廿四枚一、五十三兩四銖塗二花形釘一料、以二一兩一充二三百五十隻一、〉滅銀廿五兩二分、〈鏤二肱金一料、以二二分一充二廿四枚一、〉水銀八十三兩二分二銖、〈廿五兩塗二肱金一料、卅九兩三分二銖塗レ釘料、十八兩三分合二滅銀一料、〉鐵四廷、〈三廷鑄レ釘湯鑵料、一廷鑄レ釘押形固料、〉漆一斗二升五合、〈以二二合五勺一充二押木廿四枚一〉絹一丈、布二端二丈、石見綿四斤二兩、麻大十斤、掃墨四升、油一升、酢九升三合、猪髮十把、箆百五十株、〈塗二花形釘金一料〉筆十五管、〈畫二肱金一料〉墨二廷、〈同料〉洗革四枚、伊豫砥七顆、靑砥三枚、炭七十一斛七斗、和炭六十七斛九斗、單功二千八十四人、〈作レ骨功二百五十人、以二一帖一充二五人一、作二肱金一工千三百人、火作四百人、錯磨四百人、鏤打堺瑩五百人、作二花形釘一四百卅四人、鑄六十二人、錯三百十人、塗瑩六十三人、夫百人、○中略〉
屛風一帖、〈高五尺、畫二雁幷草木之類一、〉骨料榅榑二材半、檜榑一材、〈長五尺二寸、方二寸、〉肱金料熟銅大一斤、花形釘料半熟銅大三斤、滅金小二兩二分、水銀小一兩一分、表料白絹三丈、裏料縹帛三丈番料緋帛五尺二寸、緣料紫綾一丈四尺、朱沙一兩、金靑一兩、白靑一兩二分、綠靑六兩、白綠二兩、丹三兩、同黃三分、靑黛二分、胡粉五兩、中烟子二枚、紫土二兩、金薄卅枚、墨一挺、膠十四兩、筆料鹿毛二兩、切二金薄一革一條、〈方一尺〉練絲一兩、漆二合、掃墨一合、絞レ漆料帛一尺、石見綿四兩、調布一尺、洗レ刷料油五勹、金薄料綿二兩、中〈○中下恐脱二烟字一〉子料調布二尺五寸、瑩レ釘料調布三尺、下二銅湯一料調布一尺、下張料商布二段一丈、黏レ緣料薄紙十四張、中張料紙六十五張、番中黏料紙五張、石灰二合、紫革一條、〈長一尺、廣八寸、〉糯米二升、小麥三升、炭五斛三斗、和炭一斛五斗、長功五十二人、〈木工三人、銅十五人、畫廿人、漆二人、張十一人、夫一人、〉中功六十人大半、〈工五十九人小半、夫一人小半、〉短功六十九人小半、〈工六十七人大半、夫一人大半、○中略〉
伊勢初齋院裝束
五尺屛風四帖料、榲榑十材、〈骨料〉檜榑一材、〈押(○)料〉炭三斛、〈鑄レ釘幷塗レ金料〉和炭六斛、〈作二肱金一料〉熟銅大三斤十二兩、〈作二肱金一料〉半熟銅大十二斤、〈鑄レ釘料〉滅金十兩三分、水銀五兩二分、一窠白綾十二丈四尺、〈表料〉縹絁十二丈四尺、〈裏料〉紫綾五丈六尺、〈緣料〉緋絁二丈、〈番料〉調布二丈、〈番中張料〉商布九段一丈五尺、〈下張料〉練糸一兩、〈中張布縫料〉紙二百五十張、〈中張料〉薄紙五十六張、〈緣料〉紫革一枚、〈長二尺五寸、錢形料、〉膠小四兩、〈塗レ緣料〉石灰八合、〈合二麥粉一料〉糯米八升、〈張レ布料〉小麥一斗二升、 〈張レ紙料〉單功一百卅九人、〈木工十六人、漆工五人、鍛冶工十七人、細工五十六人、鑄工三人、張工卌八人、夫四人、〉
p.0896 五尺屛風十二帖
月次繪、四季ヲ各當二三帖一畫之、春〈上中下〉母屋四箇間、東西北三方料、
一帖雜事
面弘一尺八寸二(三イ)分、内緣二筋、各弘一(四イ)寸一分、但當時可レ有レ隨二絹弘一事、
骨六枚料、榅大榑四寸、高五尺、弘一尺八寸二(三イ)分、但當時可レ隨二絹弘一、
襲木廿四筋、長十二、短十二、黑塗、骨襲等、工作料准絹六(八イ)疋、乃米一斗、
下張國絹十帖、同中紙九帖、同上紙六十枚、内六枚番中子料、
裏料織物三丈、〈赤色建涌雲、又唐綾文等間、〉番絹五尺三寸、〈五破定、茜染、〉同中子白細布五尺三寸、〈五破定〉緣軟錦一(三イ)丈三尺五寸、〈十二破定、糸用途尺別一兩、織料能米一斗、買直ニハ尺別十五疋、〉番中子白革三寸、〈革高定〉錢形卅六枚料、赤革弘三寸許、〈革高〉
金物〈肱金廿四枚、〉〈直枚別五疋〉〈釘三百五十隻、〉〈之中廿六隻者、打間折料加之、〉〈凡一帖料買直二百廿疋、但若泥繪時堀物料四百五十疋、〉
釘〈肱金上手二隻、同間三隻、同長手四隻、喬間九隻、下肱金凡上定、釘直一疋五隻、〉 繪雜事〈紺靑三兩、綠靑廿兩、銅黃二分、綠衫三尺、蘇芳三兩、陶砂二分、雜丹料廿疋、單功料卅疋、饗料乃来五石、〉
張料〈乃利七升、工饗料乃米五斗、又四斗、、同單功卅疋、又十五疋、〉
襲漆〈○中略〉
已上母屋具〈○中略〉
四尺屛風二帖内〈一帖泥唐繪、調度後料、繪十二月之内、枚別當二二月一書レ之、一帖泥大和繪、鳥居障子、前料、繪如レ前、〉〈但是不用普通、一説不有泥繪事在、〉
面弘、〈一尺八寸二分、内綠二筋、弘各一寸一分、但可レ隨二當時絹弘一也、〉面小葵文白生綾三丈四尺六寸、 骨六枚、〈料榅榑三寸、弘一尺八寸二分、高四尺、作料六疋、又乃米一斗、〉 襲木廿四筋、〈長十二筋、短十二筋、泥繪料蒔繪螺鈿、〉 下張國絹八丈八尺 同料中紙八帖 同上紙五十五枚〈内五枚番中子料〉 裏二丈四尺〈赤色建涌雲、唐菱間織物、〉 番茜染絹四尺五寸〈五破定〉 同中子細布四尺〈五破〉
同料白革三寸〈若赤〉 緣唐錦一丈一尺五寸〈十二破定、但可レ依レ幅也、〉 紺精三兩 綠精廿兩 雜丹萪廿疋
泥六兩 臂金廿四枚〈直枚別五疋〉 釘三百卅雙、〈之中卅隻料料加之、直一疋ニ五隻、〉 臂金上手二隻、上間三隻、同長手ニ四隻、喬間ニ八隻、下分金物上定、 錢形卅六枚〈一枚ニ錢形六枚、片方綠ニ三枚、上中下三所ニ押レ之、上下ハ角也、〉
已上庇具〈○中略〉
五尺屛風六帖〈加二又庇定一〉
骨造料卅六疋、〈帖別六疋〉飡乃米六斗、〈各一斗〉
張工料單功百八十疋、〈各卅疋〉乃利乃米四斗二升、〈各七升〉
繪師雜丹料百廿疋、〈各廿疋〉飡三右、〈帖別五斗○中略〉
已上北庇具
p.0897 屛風は風をへだつる也、釋名に障風也とあり、裏形の鳥は風鳥と云て、風を喰ふ鳥也と、本式の屛風は、表は絹にてはり、裏は織物なり、大宋の御屛風〈此外色々名目有〉などいふ是也、御儀式に用ひらるゝ屛風絹ばりなり、近代蕃客來聘のとき、關東にて賜る屛風も絹ばり也と聞し、
p.0898 屛風裏形 べうぶうらがた
今も屛風の裏形には雀形とて、必しも多く是を用ゆる、是ふるき物にて、春日權現驗記の畫卷物のうちに、屛風のうらの方書るに、やはり今の雀形也、摸樣は墨にて黑く書て、地色は黃赤色にて檜皮色の如し、薄き柿色なり、是等も鳥襷の類なるべし、今堂上方にて用ひらるゝ年賀の屛風も、裏は絹にて張て、朱にて雀形の如きものをおす也、蘇芳の方といへり、或人云、屛風の裏の雀形は雀にはあらで、比翼の鳥なりといへり、相おもふことのふかく、つがひはなれぬといふ緣なるべしといへり、是も口かしこきいひざまなれども、物にも見えず、その本據なし、依て信ずべからず、
p.0898 色々の紙をつぎつゝ手ならひをし給ふ、めづらしきさまなるからの綾などに、さまざまの繪どもをかきすさび給へる、屛風のおもてどもなど、いとめでたく見所あり、〈○下略〉
p.0898 屛風の表裏、有二兩説一と云々、然而此ものがたりには、繪のかたを表にもちひたり、紅葉の賀卷にも在レ之、或説云々、宇多西宮兩説也、宇多蘇芳の方を面に用、西宮説には繪を面とす、仍或屋の母屋廂の屛風のしつらひも兩家各別也、此物語は、むねと西宮の説を本とするによりて、繪を面とする事有二其謂一云々、〈水原抄〉
p.0898 屛風の繪、おもてうら兩説あり、此物語には、繪のあるかたを面に用之、西宮左大臣、繪を面にする義をもちふる間、此物語、彼大臣事をかけり、一説は蘇芳の方を面になす、大臣大饗之時此義也、又車寄の四枚屛風、蘇芳を面に用ひる也、
p.0898 屛風〈扶十〉
屈曲初知レ用(○○○○○)、施來不レ畏レ風、質宜羅帳裏、功見玉筵中、人馬無二來去一、煙霞不二始終一、丹靑知有レ巧、開合又西東、
p.0898 ある日御閑燕の御なぐさみに、御みづから十曲の聯屛(○○○○○)に、水墨の山水をなされける、其さまいかにも磊落として、神逸の風韻をきはめられしかば、御みづからも御得 意におはしましけるにや、成島信遍をめして、席上にてこれに詩を題せよと仰らる、信遍その時左右に侍座せし小姓の人々に墨を磨しめ、筆濡させ、其身は御庭におりて、假山のあたりこゝかしこ徘徊し、やがて歸り來り、草稿もなさず、御畫の上に、おもふまゝに長篇の詩をすら〳〵と題しければ、御けしきことにうるはしく、あまたたび御賞歎ましましける、
p.0899 屛風八枚折(○○○) 九條家藏、利瑪竇世界圖屛風、八枚折、
屛風六枚折(○○○) 年中行事畫賭弓圖、大宋屛風六枚折、門室相承有職抄曰、屛風云々、普通ハ六枚折也、〈○中略〉東大寺三倉、鴨毛屛風六枚折、東寺山水屛風六枚折、
p.0899 六枚屛風は異邦淸土になし、今は本朝にならひて摺屛と號し、これを用ると、朱舜水茶話に見えたりと、南嶺は書たれど、東大寺の鴨毛の屛風は、正しく唐朝の傳來也、又蕭氷厓が詩に、小窻雲影破瑠理、六曲屛風白紵詞と云たれば、淸土になしとばかりも定めがたし、
p.0899 寬喜二年六月廿一日辛巳、十三日行幸、〈○中略〉屛風四帖、〈六枚二四枚(○○)二〉皆以二染物一作レ之、
p.0899 知足院入道殿、〈○藤原忠實〉法性寺殿〈○忠實子忠通〉と、久安の比より御中心よからずおはしましける時、法性寺殿まいらせ給たりけるに、こゝろみ申されんれうにや、四枚屛風(○○○○)を一帖めしよせさせ給ひて、是に物書て給へと申されたりけるに、〈○下略〉
p.0899 一四枚折屛風(○○○○○)の事、今世の俗語に、武士の切腹する時のみ用ふると云ふは、あとかたもなき説なり、不吉の物にあらず、古代は禁裏にて、正月にも用ひられ、又賀にも用ひらると見えて、古書にあり、躬恒集、ゑ(延喜)ぎ十四年二月十四日おほせによりて奉る、いづみの大將の四十賀の屛風四帖、〈四枚ノ事〉うちよりてうじてつかはす、又兼盛集に、内の御屛風四帖〈四枚ノ事〉わか、春正月ゑ(會)する所、
あたらしき年のはじめにあひくれど此の春ばかりたのしきはなし、と見えたり、此等を以 て常に用ふる物と知るべし、
○按ズルニ、屛風四帖トアルハ、四枚折ヲ云フニアラズ、四隻ノコトナリ、古今著聞集ニ、四枚屛風を一帖めしよせさせ給ひて云々トアルニテ知ルベシ、
p.0900 御所御裝束之事
屛風ハ至極ノ長五尺(○○)也、又四尺(○○)也、三尺(○○)也、普通六枚也、車寄屛風ハ四枚也、
p.0900 南都北嶺行幸事
大塔ノ二品親王ハ、時ノ貫首ニテ御坐セシカドモ、今ハ行學共ニ捨ハテサセ給テ、朝暮只武勇ノ御嗜ノ外ハ他事ナシ、御好アル故ニヤヨリケン、早業ハ江都ガ勁㨗ニモ超エタレバ、七尺ノ屛風(○○○○○)未必シモ高シトセズ、〈○下略〉
p.0900 大嘗會御禊
宸儀渡二御南殿一、〈○中略〉先レ是皇后御二於南殿御帳後六尺御屛風(○○○○○)内御座一、
p.0900 寬弘三年三月三日乙巳、御帳東邊、立二六尺兩面御屛風一、爲二中宮御在所一、
p.0900 五尺屛風(○○○○)、〈○中略〉面弘一尺八寸二分、
p.0900 相撲召仰
内取〈先於二本府一有二内取一、仁壽殿壇上立二御倚子若大床子一、御後立二五尺御屏風一、○下略〉
p.0900 久安三年三冖月廿八日辛卯、入道前大相國七十御賀御裝束儀、〈高陽院土御門御座○中略〉寢殿南庇東第一二間爲二入道殿御所一、副二北戸幷廂御障子一、東西行立二亘四尺五寸(○○○○)泥繪御屛風二帖一、〈彈正忠宗茂説以レ詩畫レ之〉
p.0900 賀茂初齋院幷野宮裝束
屛風六帖〈五尺二帖四尺(○○)四帖〉
p.0900 七月十六日相撲式 吏部王記、天慶三年閏七月十三日、依二右大將請一詣二彼家相撲人歸饗等一、寢殿南廂設二客座一、下二母屋簾一、施二四尺屛風一、
p.0901 三尺のびやうぶ(○○○○○○○)四でふ、からあやにもろこしの人のゑかきたりけるを、ここにてたいしやうのはら章給て、ひとよろいづゝ、ふたつのろうのはまゆかめうしろにたてたり、
p.0901 屛風一帖、〈○中略〉骨料榅榑二材半、檜榑一材、〈長五尺二寸、方二寸、〉
伊摯初齋院裝束
五尺屛風四帖料、〈○中略〉榅榑十材、〈骨料〉檜榑一材、〈押(○)料〉
p.0901 五尺屛風十二帖
一帖雜事〈○中略〉骨六枚料、榅大榑四寸、高五尺、弘一尺八寸二分、但當時可レ隨二絹弘一、襲木(○○)廿四筋、長十二、短十二、黑塗、骨襲等工作料、准絹六疋、乃米一斗、
p.0901 御屛風どもには、〈○中略〉へりにはからのにしきの、ぢあをきをせさせ給へり、おそひ(○○○)には皆まきゑしたり、うらにはかう染のかたもんのおりもの也、
p.0901 二番 右 びやうぶ
いもにこひうきとし月をふるびやうぶ(○○○○○○)骨もあらはにやせなりに鳬
p.0901 一禁裏の御屛風は、てうつがひ(○○○○○)の所革なり、革を鋲にて打付くるなり、紙のてうつがひの如く、うらへも表へも折る事はならず、定めたる如く一方へ計折る也これらは名ある御屛風の事なり、是れ唐風なるべし、御内所にて常に立つる新調の御屛風は、常の如く成るべし、
p.0901 錢形屛風 今年安永五年三月、京東福寺にて開帳ありしに、禁裏より御寄附の御物の屛風あり、蝶番を紅革にて丸く切て、銀の鋲にて打下たり、是を銭形(○○)の屛風と書付あり、 いぶかし、この名御所にては似付ぬことなり、すべて名目に心得違多く見ゆ、泔盃なども知らで、こんはいと音語にとなへし、賀の屛風の蝶番の事は別に樣式有、
p.0902 賀の屛風の事、總別屛風の製、昔は丁つがひの所、上下二所に革にてわなを付、其わなへ切れを通し、それをちやうつがひのかわりにせし、屛風の本體是也、賀屛風は其切れを五色にするなり、今の几帳と云物、屛風の本體なり、
p.0902 年賀屛風
今按に、賀の屛風の事、前に樣式ありて、てうつがひは、丸き紅革を鋲にて打付て、蝶番とす、いかさまそれより昔は、組のわなにても有しなるべし、五色にするとはいぶかし、物に見えず、暗推の説なり、几帳を本體とする事は僻ごとなり、屛風几帳は、本朝の昔も西土にても異物也、その事一向の妄説なり、
p.0902 四方押木 絲番(○○)屛風
東大寺鴨毛屛風、押木黑塗、穿レ穴在二金物一、金物貫レ紐爲レ番、東寺山水屛風、押木黑塗、打二金銅鐶一、在二座金物一、以二紫組紐一結レ之爲レ番、
p.0902 屛風一帖、〈○中略〉番料緋帛五尺二寸、
伊勢初齋院裝束
五尺屛風四帖料、〈○中略〉緋絁二丈、〈番料〉調布二丈、〈番中張料○中略〉紫革一枚、〈長二尺五寸、錢形料(○○○)、〉
p.0902 治承二年十一月十四日癸酉、此日中宮御産第三夜也、〈○中略〉寢殿西北廊、〈○中略〉副二北障子一、〈不レ懸レ簾、件障子絹障子也、〉立二亘白綾四尺屛風一、〈緣地白軟錦、番如レ件茜絹也、〉
p.0902 屛風(○○)一帖、〈○中略〉緣(○)料紫綾一丈四尺、
伊勢初齋院裝束 五尺屛風四帖料、〈○中略〉紫綾五丈六尺、〈緣料○中略〉薄紙五十六張、〈緣料〉
p.0903 五尺屛風十二帖〈○中略〉
緣軟錦一丈三尺五寸〈十二破定、糸用途尺制一兩、織料能米一斗、買直ニハ尺別十五疋、〉
p.0903 屛風緣 福富草子〈夢合僧房〉緣赤同、一圖緣白、小緣(○○)赤、醍醐松橋坊、錢形十二天屛風、〈有二小緣大緣等一〉山水畫、〈無二小緣一〉同水元坊、絲番十二天屛風、〈有二小緣大緣等一〉山水畫、〈無二小緣一〉
p.0903 一壹寸八步古法の者七ツ〈○中略〉
屛風緣〈○中略〉 右中院通茂卿の御話之由
p.0903 一淸凉殿〈○中略〉 朝餉
二間南平敷二枚〈北上〉東北立二屛風一〈絹屏風(○○○)〉
p.0903 きさいの宮賀、正月廿七日にいでくる、〈○中略〉御てうどの、てうどしろ、かねてつきつ、〈○中略〉からあやの御びやうぶ(○○○○○○○○○○)、みきちやうのほね、すわうしたんなつ冬ありがたし、
p.0903 ひんがしのたいのにしのひさしは、上達部の座、北をかみにて、二行に南のひさしに、殿上人の座は、にしを上なり、しろきあやの御びやうぶ(○○○○○○○○○○○)どもを、もやのみすにそへて、とざまにたてわたしたり、
p.0903 五日の夜は、殿の御うぶやしなひせさせ給、十五夜〈○寬弘五年九月〉の月くもりなく、秋深き露のひかりに、めでたきおりなり、上達部殿上人まいりたり、東のたいに西むきに、北をかみにてつき給へり、南のひさしに北むきに、殿上人の座はにしをかみなり、しろきあやの御屛風を(○○○○○○○○○○)、もやのみすにそへてたてわたしたり、
p.0903 治承二年十一月十四日癸酉、此日中宮御産第三夜也、〈○中略〉寢殿西北廊東第二間以西、六ケ間敷二滿長筵一、〈無二差筵鎭干等一〉副二北障子一〈不レ懸レ簾、件障子絹障子也、〉立二亘白綾四尺屛風(○○○○○○)一、〈緣地白軟錦、番如レ例茜絹也、〉
p.0904 かくて御調度共いできぬれば、大宮〈○藤原彰子〉この月〈○萬壽三年正月〉のうちに覺したゝせ給、御屛風どもにはきなるから綾(○○○○○○)をはらせ給へり、したゑしてさるべき心ばへ有事どもを、大納言〈○藤原行成〉さま〴〵にかき給へり、
p.0904 仁安三年十一月廿五日壬午、裝束司令二所司一奉二仕大極殿御裝束一、〈○中略〉御帳乾艮兩角立二縫物御屛風(○○○○○)一、
p.0904 いやしげなる物
ぬのびやうぶ(○○○○○○)のあたらしき、ふりくろみたるはさるいふがひなき物にて、中々何とも見えず、あたらしくしたてゝ、櫻の花おほくさかせて、ごふんすさなどいろどりたるゑかきたる、
p.0904 納物〈○中略〉
御屛風壹佰疊〈○中略〉
臈纈屛風十疊〈各六扇、高五尺五寸、廣一尺九寸、碧絁背、漆木畫帖、漆鐵打、揩布袋、〉
一疊〈面背臈(白橡付紙)纈緣紫山納接扇〉 二疊〈並面背紅臈纈緣紫山納接扇〉
一疊〈面紅臈纈緣背靑(褐)臈纈緣紫山納接扇〉 一疊〈面白蠍臈纈〓靑褐臈纈 綠紫山納接扇〉
一疊〈面背緋臈纈緣紅臈纈接扇〉 二疊〈並面背緋臈纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面紫臈纈緣背(褐)靑臈纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面背口(白橡)臈纈緣接(紅臈纈)扇○中略〉
p.0904 布張屛風 相國寺光源院什物、布屛風、高五尺、幅毎枚一尺八寸、表布張、〈白粉引〉無レ緣、畫白菊、〈胡粉、葉莖紺、靑、〉流水、〈紺靑〉上下綠靑引、此繪オキアゲ畫也、高サ一、分餘許、裏同白布張、有二唐紙形一歟、ハゲテ不レ見、押木白木赤杉也、毎枚四方トモニ押木アリ、藍革ヲ番ゴトニ上ヨリ下マデ二ヘニテ付テ、〓ヲ打タリ、〓ノ員、左右ノ長キ方九ツ、上下ノ短キ方四ツ打タリ、赤金ノ〓ナリ、位金ナシ、卽此〓二ツ藍革ヲ打付タリ、〈已上以二傳説一記文〉凡六七百年前ノ古物也、
p.0905 かみびやうぶ(○○○○○○)に、やまとゑかきたる一ようひたてゝ、もやのみすにくちきがたのきやうかたびらかけて、いとあるべかしくしつらひたり、
p.0905 元曆元年十一月廿二日丁未、大將五節裝束以下、饗祿等注文、〈○中略〉小師〈○中略〉屛風一帖、〈唐紙(○○)〉
p.0905 嘉吉三年五月廿八日壬午、藏人權右中辨、〈俊秀〉爲二六月會勅使一、自二今日一被レ參二向延曆寺一者也、〈○中略〉參二著勅使坊一、以二東塔南谷西尊院一爲二勅使坊一、疊兩三帖、反古張屛風(○○○○○)等雖レ有レ之、其外具足更以無レ之、
p.0905 二月の廿日の程に、兵部卿の宮はつせにまうで給、古き御願なりけれと、おぼしもたゝで、年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中やどりのゆかしさに、おほくは、もよほされたまへるなるべし、〈○中略〉こゝはまたさまことに、山里びたるあじろ屛風(○○○○○)などの、ことさらにことそぎて、み所ある御しつらひを、さるこゝちしてかきはらひ、いといたうしなし給へり、
p.0905 普通のあじうにて張たる屛風也、昔は山庄などの古めかしき調度には定事なり、漆骨に片面を張て、細組にて閉合たる物也、籧屛風と云也、又ひあじろの屛風といふ物あるか、くるまのひあじろは、竹とひに、白く曝てくみたるもの也、其體物歟、
p.0905 あじろ屛風 蘧篨、竹ニテクミタル屛風也、
p.0905 呉隱之爲二度支尚書一、二二竹蓬一爲二屛風一、坐無二氈席一、
p.0905 故あぜち大納言の領し給ひし宇治の院に至りたるに、〈○中略〉所のあづかりしけるものゝ、まうけをしたれば、たてたる物主の是なめりと見る物見より、簾、網代屛風(○○○○)、黑かいの骨に朽葉の帷子かけたる几帳どもゝ、いとつき〴〵敷も哀とのみ見ゆ、
p.0905 樂翁君の雅尚、よのつねならざりしは、人も知る所なれど、其中にも意表に出しは、玻瓈板(○○○)のいと大なるを屛風に嵌せられき、こは君もと多病にして、老後雪月をながくめでらるれば、風寒に傷められしこと屢なりしを、防がんための料なりけり、君は儉素を專らとして、痛く華美 を戒められしが、雪月の爲には、かゝる物をさへ備られし事、いと貴とからずや、
p.0906 天文十一年四月五日、小屛風(○○○)、〈馬の繪、二まいびやうぶ也、〉長谷川かたより來也、
p.0906 享保十三年五月三日、風爐先ノ小屛風ハ、必ズ立ルコトニアラズ、壁モナク兩方トモニフスマナドノ處ニハ、小屛風ナケレバシマラヌモノ也、又風爐ヲ前エ引出シテ飾レバ、尚以テ入ラヌ也、〈○下略〉
p.0906 文政五年壬午三月、大君〈○德川家齊〉五十御年滿御祝儀として、仙洞より御小屛風一雙を被レ進、紺地泥畫の根引松に折枝竹を、土佐光孚が筆にて、五色〈靑、黃、赤、薄紅、薄紫、〉の小色紙に、左之和歌どもを、花山院〈江愛德〉一筆に書しめ給ひしよし、或人其歌を寫し置けるを借てこゝに寫す、〈○歌略〉
p.0906 烟花城書畫展覽の目錄
寬政十二年九月廿五日、東山雙林寺において展覽する所の烟花書畫の目錄、京師の友人より借抄す、左の如し、〈○中略〉
屛風〈三品〉
一和州家隆兩筆腰屛風(○○○) 賀樂狂夫所藏
p.0906 御室〈○覺性法親王〉御寢所を御覽じければ、紅のうすやうのかさなりたるをひきやりて、歌かきて、御枕屛風(○○○○)にをしつけて有たりける、
p.0906 敬夫枕屛
邵康節過二友人家一、晝臥、見二其枕屛一畫二小兒一、題二詩其上一云、遂令二高臥人一、欹レ枕看二兒戯一、
p.0906 風爐先屛風(○○○○○)
兩面二枚屛風なり、長さ二尺ばかり、はゞいろ〳〵有、紙張又はゐじろ等有、流義によりて品多し、
p.0906 畫屛(○○)
p.0907 畫式
朝廷所レ用二繪畫一者多、〈○中略〉上世毎レ有二慶事一、令レ畫二屛風一、當時使三歌人書二其上一、或先二倭歌一後二繪畫一、其法可レ依二時代一、所レ謂大嘗會御屛風、御賀御屛風是也、如今四方拜御屛風、大宋御屛風、皆有二粉本一、而官家之役人所レ藏也、毎レ造二内裏一、乃以二舊本一調二進之一、尤不レ擇二能畫一、聊隨二舊例一耳、然晝之用可レ知レ大者也、
p.0907 屛風障子などの、繪も文字も、かたくななる筆やうしてかきたるが、みにくきよりも、宿のあるじのつたなくおぼゆるなり、
p.0907 一屛書寫(○○○)などは、子細有事也、道風の筆を見しが、綾の屛風に大きらかなる下ゑをしたりしに、頭をさしつどへて、只行草に、筆に任せて書りと見ゆ、大體此體無有也、
p.0907 屛風に色紙を張る事(○○○○○○○○○)、寸法は八寸に六寸七分にする也、一枚を二色に染分る也、靑黃赤白黑の五色を用、是古實なり、小笠原流などにも、色紙短册のはり樣あり、少々相違あり、
p.0907 屛風に色紙短册押樣の事
今按に、經師の傳に、屛風障子へ色紙張には、長角半といへる習ひ有、たとへば四季の詩歌ならば、二枚ならべて張、是を長といふ也、戀の詩歌ならば一枚はあげ、一枚はさげて、上の色紙の左の下の角と、下の色紙の右の上の角とつぎ合せて、石疊のさまに押を角と云也、又雜の詩歌ならば、前の色紙の左のわきの中比へ、後の色紙の頭を並べて押、是を半といふ也、是故實なりとかや、
長 角 半 屛風に押す色紙染分の事
今案に、屛風に押色紙がたは、二枚づゝ並べて張て、色は二色に染分るなり、御所方の御屛風を拜見せしに、みなその定也、今年安永五年三月、廿一日、御室御座敷拜見せしに、堂上方寄合書の中屛風を立られしも、右の如し、經師家の傳に、長角半と云張樣ありといへども、古へはさのみその定も聞えず、ことに此にいへる五色なりとて、黑く染たらんには、墨にては物かくべからず、わけもなきことなり、
p.0908 一古の屛風の繪に、扇ながし(○○○○)、扇づくし(○○○○)といふ事あり、扇ながしと云ふは、流水に扇をいくらも書きたるなり、扇づくしと云ふは、水はなくて扇計いくらも書きたるなり、其の扇の面に色々の繪樣を書くなり、
p.0908 寬喜二年六月廿一日辛巳、十三日行幸、〈○中略〉屛風四帖、〈○中略〉一以二護袋一爲二色紙形(○○○)一、一押二扇紙(○○)一、
p.0908 たむらの御時に、女房のさぶらひにて、御屛風のゑ御覽じけるに、瀧おちたりける所おもしろし、これを題にて歌よめと、さぶらふ人におほせられければよめる、
三條の町
思ひせく心の中のたきなれやおつとはみれど音のきこえぬ
屛風のゑなる花をよめる つらゆき
咲初し晴よりのちはうちはへて世は春なれや色のつねなる
p.0908 帥のおとゞに屛風を賣人有けり、公茂弘高などに見せられけり、公茂弘高をまねき、ていひけるは、此野筋、此松、汝及べからず、おそらくは公忠がかく所か、弘高承伏しけり、公茂が云、公忠は屛風をかくとては、必ずその屛風のひらのすみごとに、おのれが名をかけり、こゝろみにはなちて見るに、あんのごとく公忠が字ありけり、いみじかりける事也、
p.0909 ゑは、わざとたてたる御のうまでこそ候はずとも、人のかたちなどうつくしくかきならひて、物語ゑな、ど、詞めづらしくつくり出て、もたせおはしまし候へ、大かたゑとてもかたくなならぬほどにかきならひて、御屛風の墨がき(○○○)、色紙などをも、かゝせおはしましたらんこそ、よき御事にて候へども、それまでおよび候はずはのことにそ候、
p.0909 仁安三年九月廿九日丁亥、早旦行水解除參二行事所一、諸國召物多辨濟、大夫史同參著、御調度塗調、螺鈿地少々居具、又蒔繪物、宗茂畫繪樣、四尺御屛風、同墨畫(○○)、凝二御插頭臺風流一、銅細工劒造召二付之一、
p.0909 もやひさしのそうどたつる事
その二かいのうしゐに、やまとゑ(○○○○)の四尺の屛風を、もやのはしらのきはよりはしさまに、きやうだいなどのうしろまでたつべし、ひさしのませばくてひだふかくは、たゝみておくのはしらのきはに二三枚もたゝめ、はしにみちあるやうにたつべし、から繪(○○○)のもたつることあれども、つねはやまと繪なり、
p.0909 むかしおぼえてふようなる物
からゑの屛風のおもてそこなはれたる
p.0909 書院置物者、〈○中略〉屛風者、水墨、八景之唐繪、請二或僧一令レ寫レ之、
p.0909 保安五年六月五日、七夜六日、今日以後鳴弦殿上人一人、〈○中略〉公卿座如二夜々儀一、但撤二白屛風一、立二倭畫屛風一、
p.0909 永久三年九月廿日丙戌、今日御幸沙汰營之、 廿一日丁亥、母屋西第二三四間、東西北三方立二廻五尺泥繪〈倭繪〉御屛風五帖一、
p.0909 仁安三年十二月十日丁酉、大嘗會悠紀所注進御物目錄事、〈○中略〉 御屛風十帖、〈○中略〉四尺六帖、〈和繪〉
p.0910 延長六年十二月日、令下大内記大江朝綱作中御屛風六帖題詩上、令二少内記小野道風書一レ之、
p.0910 長德五年〈○長保元年〉十月卅日己卯、藤相公同車參二左府一、〈西京○中略〉石大辨行成書二屛風色紙形一、華山法皇、主人相府、右大將右衞門督、宰相中將、源宰相、和歌書色紙形皆書レ名、後代已失二面目一、但法皇御製不レ知二讀人一、左府云、書二左大臣一、件事奇怪事也、主人責二余和歌一、致二獻詞一、不二承引一、右大辨書了、主人志、馬大丞下二庭中一執二馬綱一小拜出、余黃昏歸、今日主人爲レ余有二和歌一、
p.0910 長保六年正月廿六日辛亥、依二左府召一詣、書二明日女一宮御對面料四尺屛風四帖色紙形和歌一、申二雜事一、入レ夜歸來、
p.0910 知足院入道殿、法性寺殿と、久安の比より御中心よからずおはしましける時、法性寺殿まいらせ給たりけるに、こゝろみ申されんれうにや、四枚屛風を一帖めしよせさせ給ひて、是に物書て給へと申されたりけるに、御硯引よせさせ給て、墨をしばしすらせ給て、中にもちいさかりける筆をとらせ給て、紫蓋之峯嵐疎と三句を大文字にて、四枚に書みてさせ給てまいらせられたりければ、禪閤御覽じて、これは重物なりとて、やがて寶藏に收られけるとぞ、
p.0910 寬喜元年十一月十四日戊寅、早旦詣二相國一奉レ謁、歌事猶被二示合一、有下不二甘心一事等上、只今參入可レ申、先可レ持二參此歌一由被レ命、〈件歌書レ之、二卷也、〉先參殿申二其由一、屛風已調出在二御前一、〈但云畫圖之體、總天金物等甚疎荒、末代事、萬事如レ此歟、〉期日可レ直由被レ仰、〈行兼承レ之所レ調也、繪兼康也、〉小時相國被レ參、於二二棟南面一又評定、被二入替一、今度書定了、有長讀上、又書二付之一、殿下五首、〈元日、鹿、田家、千鳥、雪、〉太相國八首〈若菜、柳、櫻、更衣、菖蒲、秋風、月、鶴、〉大將六首、〈梅、早苗、菊、紅葉、氷、重陽、〉下官七首、〈霞、葵、瞿麥、虫、雁、水鳥、臨時祭、〉宰相三首、〈山吹、郭公、綱代、〉前宮内卿七首、〈綱引、納涼、六月祓、野花、鷹狩、炭竈、歲暮、○中略〉三位知家二首、〈山井、藤、○中略〉撰定了、有長朝臣可二淸書一由被レ仰、行能朝臣依レ召參入、於二屛風一者明日可レ給、予先給之、可レ撰レ字由申之、予申二此由一、但普通之假名可 レ書由被レ仰、〈如レ此物多用二眞名假名一也〉但有二所存一歟、小々可レ加由被レ仰、〈○中略〉候二女院一之間、殿下又入御、仰云、炭竈歌相國猶有二可レ入之志一云々、九首如何、家隆又可レ減乎、〈○中略〉追可レ被レ仰二行能朝臣一云々、竊按、九首頗自由事歟、十九日癸未、予參間、以二親房朝臣一奉書遣召二行能朝臣一、未時許參入、〈束帶〉女院還御之後、以二親房朝臣一被レ仰、今度御屛風、淸書殊以感思食、且依レ爲二長保吉例一、雖レ非二尋常一馬故可レ給之也、召二中院廊一、御隨身二人〈下臈〉引二御馬一、〈糟毛〉行能朝臣下二中門切妻沓脱一、渡レ橋出レ庭、取二御馬綱一一拜退出、家面目何事過レ之乎、書樣存二故實一、殊有二所思一書之云々、春始ハ万葉集之歌之體、其次如二宣命一書之、自余以二只假名一書之云々、
p.0911 一同日〈○元和二年十月十九日〉狩野祖酉より書狀、九月晦日之日附にて來、先年誂候帝鑑之屛風(○○○○○)出來候由申來、久右衞門方〈江〉被二相渡暈一候得と、久右衞門方〈江〉手形遣す、案左ニ有レ之、祖酉〈江〉も則返言遣す、
p.0911 名ある御屛風(○○○○○○)とは、太宋の御屛風、月次御屛風、漢書の御屛風、地獄變の御屛風の類なり、太宋の御屛風は、唐人打毬の繪なり、月次の御屛風とは、年中行事の繪なり、漢書の屛風は、漢書に載せたる政事どもを書くなり、地獄變の御屛風は、地獄の繪を書きたるなり、是れは十二月晦日、御佛名の時に立つなり、又坤元錄の内屛風といふもあり、坤元錄といふ書に載せたる山河などの形を繪がきたるなり、朗詠の覺明の注に、坤元錄の屛風の詩と所、々にあり、詩をも書けるなるべし、
p.0911 諸御屛風等有二其員一事
又云、諸御屛風等有二其數一、所レ謂漢書、打毬、坤元錄、變相圖、賢聖、山水等御屛風之類是也、隨レ時立レ之、委事見二裝束司記文一歟、
p.0911 きら〳〵しきもの
こんげんろくの御屛風こそおかしうおぼゆる名なれ、かんじよの御屛風はおゝしくぞ聞えた る、月次の御屛風もおかし、
p.0912 大宋或四帖 大宋屛風、畫二唐人打毬一也、四方拜御屛風、漢書、月令、大宋、先規非レ一、然而漢書月令、近代不レ見、
p.0912 永久五年四月廿五日癸未、新所障子畫、繪師法師ヲ召、令レ見二舊高名屛風(○○○○○)一、
p.0912 大宋御屛風(タイソウノヲビヤウブ/○○○○○)
○按ズルニ、大宋ヲ或ハ大宗ニ作レルモノアリ、恐ラクハ誤ナラン、大宋屛風ノ名ハ、本ト宋國渡來ノ屛風ヲ摸シタルヨリノ名ナルベシ、東大寺獻物帳ニ、大唐勒政樓前觀樂圖屛風、大唐古樣宮殿畫屛風等ノ名アリ、以テ參照ニ備フベシ、
p.0912 大宋屛風〈卽打球屏風〉
年中行事畫、賭弓圖、二枚之内初一枚繪二唐人步行打球一、一枚一人、一帖六人、第二枚畫二唐人馬上打球一、一枚二人、一帖六騎也、步騎共持二打球杖一、屛風押木黑緣、紺地文白菱、裏靑、同緣、紺地文白菱、
p.0912 駒牽次
裝束記文云、當日早旦上二御格子一、〈但不レ撤二障子一〉南廂西第四間中央鋪二廣筵一、立二大床子御座一、其北母屋柱、西立二太宋御屛風二帖一、
p.0912 一天皇元服
敷設等事
南方料、〈○註略〉御帳帷壁代、藏人所調之、御屛風二帖、〈用二大宋御屏風一○中略〉北廂料、〈御簾五間〉〈用南殿〉五尺屛風五帖、〈不レ見二調否之由一、寬仁被レ用二大嘗會御屏風一、〉
p.0912 相撲召合裝束
御帳乾角傍二絹御障子一立二廻五尺大宋御屛風二帖一、
p.0913 同〈○十一日〉小安殿行幸次第
其東第一門西邊、立二太宋御屛風三帖一、〈並二南北妻一、稱二之立切屏風一〉
p.0913 射場始
御後立二太宋御屛風二帖一〈廂柱内東向立、以二二帖中央一當二御後一、依レ有レ便レ奏レ書也、南北行以二緋綱幷鐵鎭子一固也、〉
p.0913 東宮御元服
御帳東北去五許尺、屬二北障子一立二大宋御屛風一帖一、〈四向以二綱鎭子等一固レ之、他屏風准レ之、〉
p.0913 寬治五年正月一日辛酉、南殿御裝束次第、西中門内地邊立レ幄云々、壁代懸之云々、御幄東北邊大宗御屛風一帖立之、件御屛風者、内辨進奏之處也、
p.0913 廿二日〈○寬元四年十一月〉今宵は帳臺の心みなり、〈○中略〉常の御所の御障子の方は臺盤所なり、女房だち袖をつらねていなみたり、なかに大宋の御屛風をたてたれども、ひきくて御所へ參る人々も、あなたの公卿どもにめを見合はすもまばゆくて、むかし女房のやうにゐざりありきしもおかし、
p.0913 十二月〈○建長二年〉十六日、野前の使の立つ日也、南殿の庭に幔引まはして、大宋の御屛風などたてゝ、みくらやづかひなどが、雪はかきたれふるに、あらしをしのぎて、使々いそがしもよほすけしき、いと寒げなり、
p.0913 馬形屛風(○○○○)〈按卽大宋屏風〉
p.0913 警固
天皇御二南殿一〈御座在二南庇中間一、立二馬形御屏風二帖一、廣筵二枚、毯代上立二大床子一、〉
p.0913 駒牽事 上野御馬
日元長牽二信濃御馬一、〈○中略〉御座後立二馬形五尺御屛風二帖一、
p.0914 寬仁二年十月十六日、立后節會、
南廂從二西第三間一至二六間一立之、副二母屋南一立也、卯酉爲妻、又副二第六間御簾、幷殿北障子一立二數帖一、子午爲レ妻、第三間西立二一帖一、子午爲レ妻、〈已上五尺馬形御屏風〉御屛風之内、敷二滿長筵等一、 十二月五日、陸奧交易御馬御覽、御座後立二馬形五尺屛風二帖一、
p.0914 山水屛風(○○○○) せんすいのべうぶ
p.0914 相撲召合裝束
若可レ設二皇后御座一者、第六間西邊立二六尺御屛風一、〈東向〉其御屛風西相傍立二山水御屛風一、同二帖〈西向、皆合、〉近例又第七八間北邊立二廻同屛風一、〈便申二本宮扉風一、南向、○中略〉 其西間西邊南北行立二漢書御屛風一帖一、〈東面〉近例無二件屛風一立二本宮山水御屛風一、〈東向〉
p.0914 齋王群行
裝二飾御座一、鋪二兩面端帖二枚一、其上敷二二色綾端帖一、〈半帖〉後立二墨容御屛風一、〈近例又立二大宋御屏風一〉其艮方東戸間、母屋内北柱頭設二齋王御座一、〈○中略〉後東西柱間、鋪二薦筵一立二山水御屛風一、〈近例又立二大宋御屏風一〉
p.0914 承久二年十一月五日辛卯、御裝束儀、
寢殿母屋、〈○中略〉母屋同四面懸二壁代一、西北二面立二亘五尺山水御屛風一、〈○中略〉御著袴所東間北東二方立二泥繪四尺御屛風一、〈○中略〉立二亘五尺山水御屛風一、
p.0914 一坤元錄御屛風(○○○○○○) 淸少納言枕草子に此名見へたり、〈○中略〉坤元錄、易ニ乾ヲ天トシ坤ヲ地トス、唐土ノ土地山海等ノ事ヲ載タル書也、其山海川澤ノ名撰出シ畫カシメ、其畫ニ詩ヲ作ラシメテ書セラレシ御屛風也、
p.0914 天曆三年十二月日、仰二左大辨大江朝綱朝臣一令レ撰二坤元錄一、爲二詩題廿首一、仰二采女正巨勢公忠一令レ圖二屛風八帖一、仰二朝綱朝臣、文章博士橘直幹、大内記菅原文時等一作レ詩、式部大輔大江維時撰二定 之一、右衞門佐小野道風書レ之、皇后宮使藏、人右衞門權佐兼權大進定經勤二仕之一、左衞門尉能盛以下衞府以上者二人雖レ中二詩臣一、俄依レ無レ例停止了云々、
p.0915 五嶺蒼々雲往來 但憐大庾萬株梅〈天曆十年内裹御屏風詩、菅三品、〉
廣州山中嶺有レ五、其一在二大庾一、嶺上多二梅樹一、南枝先花開、此御屛風詩題目者、左大辨大江朝綱奉レ勅、自二坤元錄中一撰二進三人作詩一、卽朝綱、文章博士橘直幹、大内記菅原文時也、參議大江維時蒙レ詔評定、采女正巨勢公忠畫、左衞門佐小野道風書、並當時秀才也、總八帖、廿首、三人作六十首、選二定江十首、橘二首、菅八首一、作者瀝レ思不レ如二此詩一、或人云、紀在昌不レ入レ作、内心竊爲レ歎云々、
p.0915 能通、繪師良親に、屛風二百帖に繪をかゝせたりけり、其中坤元錄屛風をば、良親相傳の本にてなん書侍ける、大女御まいり給ける時、二條殿にまいらせさせてんけり、色紙形は四條大納言ぞかゝれける、更に又爲成をしてうつされけり、正本は一の人の御相傳の物に侍にこそ、
p.0915 延喜六年、月次の御屛風(○○○○○○)八帖料歌四十五首、依二内勅一奉之、行て見ぬ人もしのべと春の野のかたみにつめる若ななりけり
p.0915 天曆の御時、月次御屛風の歌に、擣衣の所に兼盛詠て云、
秋ふかき雲井の雁のこゑすなり衣うつべきときや來ぬらん
紀時文、件の色紙形をかく時、筆をおさへていはく、衣うつを見て、うつべき時やきぬらんと詠ずるいかゞ、兼盛にやがてたづねらるゝ所に、申ていはく、貫之が延喜御時、同屛風に、駒迎の所に、
逢坂の關のし水にかげ見えていまやひくらん望月の駒、と詠ず、此難ありやいかゞ、時文口をとづ、しかも時文は貫之が子にてかくなんそしりける、よく〳〵淺かりけり、
p.0915 四方拜事 其上立二御屛風八帖一〈太宗或四帖云云、不レ可レ然、往年月令御屏風也、近代無レ之、〉
p.0916 四月十日比、やがて立后あり、御調度、深き寶藏よりめし出され、月次の御屛風の下繪、色紙歌の心ばへなど、ことにえりとゝのへさせ給ふ、
p.0916 寬喜元年十一月九日癸酉備後前司來談、宰相來會、愚歌三首詠改、今日淸書了、〈局檀紙七枚續之〉端作、 月次屛風十二帖和歌
名字〈無官者如レ此歟〉
正月元日如レ此書之〈不レ書レ題、子細只若菜霞等字也、〉
p.0916 四季屛風(○○○○) しきのべうぶ
春夏秋冬四季の、花鳥などかきたるをいふ、
p.0916 一淸凉殿
五間〈北第一間母屋爲二御路次一、(中略)第五間四季御屏風、○中略〉石灰壇〈四季御屏風、三尺、南第一間母屋御簾下、以レ東爲レ面、此御屏風之中、在二陪膳圓座一、〉
p.0916 淸凉殿
一間ノ母屋ノ下ニ、四季ノ御屛風一帖〈繪ヲ端ニ向〉立タリ、ソノ内ニ配膳ノ圓座アリ、
p.0916 一恒例毎日次第
内侍兼敷二大床子圓座於石灰壇南間中央一、立二廻四季御屛風一、垂二御簾一、或不レ垂、
p.0916 立替御屛風
石灰壇御屛風一帖四季立替云々 石灰壇屛風四季立二替之一〈近代一帖書二四季一○中略〉 御厨子東御屛風一帖四季立替云々
p.0916 石ばいの壇におはしまして御拜あり、たつみにむかひて兩段再拜、その外御心にまかすべし、一間の母屋の下に、南むきにたてたる四季の御屛風とりて、御後の方御傍にたてゝ、大床 子の圓座をその内にしく、〈○下略〉
p.0917 五尺屛風十二帖
月次繪、四季ヲ各當二三帖一畫之、春〈上中下〉母屋四箇間、東西北三方料、〈○中略〉
四尺屛風二帖内〈一帖泥唐繪、調度後料繪十二月之内、枚別當二二月一書之、一帖泥大和繪、〉
p.0917 一條前攝政殿、左大臣におはしましける時、居すへたてまつらんとて、一條室町の御所を、光明峯寺入道前備中守行範に仰て修理せられにけり、寬仁三年十月廿七日御わたまし有けり、つくりどもゝ少々あらためられけり、寢殿二棟の障子より、つねの唐繪は無念也とて、夲等院寶藏の四季の御屛風を、二條前關白殿長者にておはしましけるに申されて、取出してうつされにけり、人々の姿もみな昔繪にてぞ侍るなる、いと見所あり、武德殿の競馬の所に、みもしらぬ人のすがたどもおほかり、嵯峨野の御幸に、御輿の上に虎の皮をおほひたるなど、ふるき事どもをかゝれたる、いと興有り、承保の野行幸には、虎のをばおほはれざりけるとなん、近衞大殿の御相傳の屛風どもは、皆寶物にて侍うへ、そんじたればとて、四季の大和繪を、一月を一帖に書て、あたらしく調ぜられたるとなん、可レ然事の時、客の座に立らるゝ也、元日の節會は、豐樂院の儀をぞ書て侍なる、延喜の御時の月の宴、御溝水のながれやうなど、ふるきにたがへずかゝれたる、いと興ある事になん侍なる、
p.0917 弘高、地獄變の屛風(○○○○○○)を書けるに、樓の上より桙をさしおろして、人をさしたる鬼を書たりけるが、殊に魂入て見えけるを、みづからいひけるは、おそらくは我運命つきぬと、はたしていく程なくてうせにけり、六條宮、〈具平〉御堂に申給ひけるは、布障子の役などには、今は弘高をばめさるべからず、輕々なるべき事也、弘高聞て自愛しけり、此弘高は、金岡が曾孫、公茂が孫、深江が子也、
p.0918 十九日御佛名始事
閏月例
長曆三年閏十二月十九日乙巳、物忌、今日始二佛名一、殿上御裝束如レ恒、但地獄變御屛風、内裏火災夜燒亡、仍以二大宋御屛風一立之、故實也、
p.0918 十二月十九日御佛名事
以二地獄變御屛風七帖一立二七ケ間一也、有二綱鎭子等一、或書云、若無二件御屛風一之時、用二漢書御屛風一、
p.0918 御佛名のあした、ぢごくゑの御屛風取渡して、宮に御らんぜさせ奉給ふ、いみじうゆゝしき事限りなし、是見よかしとおほせらるれど、さらに見侍らじとて、ゆゝしさにうへやにかくれふしぬ、
p.0918 しはす〈○永延二年〉の十九日になりのれば、御佛名とて、地獄ゑの御屛風など、とうでゝしつらふも、めとゞまりあはれなるに、〈○下略〉
p.0918 漢書屛風(○○○○) 年中行事畫、内宴圖、草木山形、無二人物一、是畫傳寫不二細密一、故如レ此歟、襲木黑緣、靑地文白菱、裏紫文黑鳥襷、
p.0918 相撲召合裝束
東方御簾西邊、立二亘五尺漢書御屛風一、〈南北行西向、件御屏風不レ及二北障子一五尺許、近例依レ無二漢書御屏風一立二大宋御屏風一、以二緋綱鐵鎭子等一固レ之、下亦同、〉
同廂第四間以西、六箇間北邊、立二亘同御屛風一、〈南向、又第四第六間北邊御屏風、中央並開二往反路一、〉
p.0918 正月正朔寅刻四方拜事
立二廻御屛風四帖一〈往古或八帖、先例用二漢書御屏風一、〉
p.0918 大嘗會事
勘二標幷御插頭御屛風等本文(○○)一〈作二風俗舞詠(○○○○○)一事〉
p.0919 大嘗會歌次第
先從二國々一註二進所々名於行事辨一、下二作者許一、作者撰二便宜所々一、〈各可レ避二禁忌一〉諷詠之、進二行事辨所一、以二風俗歌一下二樂所一、〈以レ之人人作レ樂〉以二屛風歌一下二繪所一、〈以レ之書二圖之一〉若和歌有二遲々一之時、所々名ニ書レ詞先進之、和歌ハ追進之、〈○下略〉
p.0919 仁安三年九月一日己未、内藏權頭長光朝臣獻二大嘗會悠紀方本文一通一、〈○中略〉 一通勘申悠紀方御屛風四帖本文事
一帖
後漢元初三年〻〻〻〻〻〻〻
成王時點兵之國〻〻〻〻〻〻〻
漢宣帝神雀元年〻〻〻〻〻〻〻
二帖 三帖 四帖
已上本文各三如レ右
年月日 位官姓名如レ初
p.0919 宗直按、本文ノ屛風ト云ハ是也、如レ此考、本文繪ニ書テ、其本文ヲ上ニ色紙形ニ書事也、和歌屛風トハ別ナリ、
p.0919 仁安三年十一月廿三日庚辰、早旦參二大極殿一、大夫史幷行事官皆參奉二仕節會御裝束一、〈○中略〉御帳艮乾兩角壇上立二五尺御屛風一、〈件屏風新調也、艮二帖、乾二帖立之、各書二劇文繪一、朝方卿書二色紙形一主基一同、〉
p.0919 宗直考、非二和歌屛風一也、今度和歌屛風立所粗知之由、有二御吟味一、是屛風立所克准據歟、
p.0919 天明文政大祀、本文和歌御屛風調進手續、從二土佐守光孚一差出分、
天明七年八月廿二日、今日御用ニ付、非藏人口〈江〉罷出候樣、大嘗會傳奏奉行衆被二仰渡一候旨申來、尤 土佐守左近將監兩人共也、卽刻參ル、〈○中略〉左之通奉書四ツ折御書付壹通御渡候、
本文御屛風 八帖 和歌御屛風 十二帖
右各新造調進
本文御屛風繪所 土佐守光貞 和歌御屛風繪所 左近將監藤原光時
九月二十日、中山前大納言殿〈江〉被レ召、卽刻參、表ノ口ニテ、前大納言殿、頭辨殿、御兩所被二仰渡一者、先御書博士より本文色紙形目書付被二差出一候、則御渡在レ之候處、軸之處花田白並ビ同樣ニ相成候ニ付、左之通相定メ調進可レ仕旨也、
本文御屛風之御色紙
一帖第一紅 二紅梅 三黃 二帖 第一萌黃 二花田 三白
三帖 第一花田 二白 三紅 四帖 第一萌黃 二花田 三紫
右之通今度御治定也〈○下略〉
p.0920 菊宴
承和五年十月七日、菊宴、〈○中略〉倚二南面一立二墨容御屛風(○○○○○)二帖一、
p.0920 齋王群行
第二間内差進レ西當二階下一少向レ巽裝二飾御座一、鋪二兩面端帖二枚一、其上鋪二二色綾端帖一、〈半帖〉後立二墨容御屛風一、〈近例又立二太宋御屏風一〉
p.0920 このごろ〈○寬仁四年〉中ぐうのだいぶにて、ほうずじのおとゞ〈○藤原爲光〉の御この、大なごん〈○藤原齊信〉におはする、みこあまたおはしぬべかりしを、みなうしなひ給て、たゞひめぎみひとりをぞえもいはずかしつきたてゝもたせ給へる、〈○中略〉このとのゝ三位中じやう〈○藤原長家〉ひとりおはすれば、それにやとおぼしたちて、むことりきこえ給、としごろはなにごとをかは、たゞこの 御かしづきよりほかのことなくおぼしたれば、御てうどともよりはじめ、よろづの御ぐどもかがやくやうに、漢書の御屛風、文集の御屛風(○○○○○○)どもなどしあつめ給なれば、げに内春宮にまゐり給はんもたへてみえたり、
p.0921 美材書二文集御屛風一事
又云、小野美材、内裏文集御屛風書了、奧書大原居易古詩聖、小野美材今草神云々、
p.0921 樂府屛風(○○○○) がふのべうぶ
白氏文集に新樂府五十餘首あり、是を古へはことの外にもてはやしたる事、物に多くみえたり、紫式部日記、淸少納言記にもみゆ、是を屛風にもかゝれしなるべし、畫か書か、その事は未レ考、
p.0921 師足以レ畫鳴二于時一、畫二樂府屛風一、具載二大鏡一、
p.0921 樂府屛風
春村曰、師足といへる高名の畫師、いにしへあることなし、もろたるは弘高の誤なり、塙忠寶云、所藏大鏡古抄本には、ひろたかとあり、以て證すべしといへり、畫工便覽に諸垂とし、皇后宮大進など、官名をさへに推當に記せるは非也、
p.0921 男君太郎は、左衞門督さねのぶときこえさせし、〈○中略〉いみじき上ごにてぞおはせし、この關白殿のひとゝせの臨時客に、あまりゑひて御座にゐながら、たちもあへ給はで、ものつき給へるにこそ、かう名のもろたかがかきたる樂府の御屛風(○○○○○○)にかゝりて、そこなはれたんなれ、
p.0921 宇多天皇、世奉レ稱二寬平法皇一、至二政道一則不レ及レ論レ之、天性嗜二畫圖一、寄二心於丹靑一、曾寫二長恨歌之意(○○○○○○)一、圖二亭子院之屛風一、
p.0921 長恨歌の御屛風、亭子院のかゝせ給て、所々よませ給ける帝の御手にて、 紅葉ばに色見えわかでふる物はものおもふ秋の泪なりけり〈○中略〉
これはきさきにかはりて
しるべする雲の舟だになかりせば世をうみなかに誰かとはまし
p.0922 治安四年九月十九日甲辰、大床子後御屛風一帖、今日中間爲レ風被レ吹、顚倒懸二御後一、極不便也、左頭中將公成走三出自二御裝物所一、疊執、諸卿云、不レ可二更立一、仍持去、件御座屛風、關白所レ調也、〈阿闍梨詠圓所レ畫(○○○○○○○)云々〉
p.0922 寶永四年二月十五日(神泉苑重物)、保元平治合戰圖屛風(○○○○○○○○○)一雙、〈故法眼筆、人形如レ動、甚奇物也、慶長比、元爲二官物一之處、依二不吉之圖一被二寄附一、彼地東寺寶菩提院預之經二數年一、筆勢妙術又無類、〉主上内々其筆勢絶妙候間、被二聞召及一、暫時可レ有二叡覽一候由、予爲二兄弟一之預之間、内々申遣了、今日從二非藏人部屋一取寄、密々御内義〈江〉遣入二叡覽一、近日可レ被二返却一候由仰也、 三月八日、去月十五日令レ備二天覽一屛風、〈保元平治合戰、畫工元信、筆跡絶妙無二比類一、東寺寶菩提院在家藏、是元神泉苑江白二内裏一被二寄附一屏風也、彼院兼帶之間在二東寺一、予爲二兄弟一之間、召寄入二叡覽一、〉今日被二返下一、
p.0922 一鬨ノ屛風(○○○○)ノコト、神泉苑ニ有、保元平治戰ノ圖也、眞跡ハ古法眼ト云、古右京ト東寺ノ寶庫ニアル由、其圖ヲ雪溪ノ寫也、東福門院御寄附ノ由、畫體能ク人情ヲ盡シタル故ニ、人ノ物言ガ如シト云、鬨ノ屛風ト稱スルナラン、
p.0922 弘法大師、〈○中略〉其書冠二古今一、畫亦造二於神妙一、〈○中略〉今高雄山有二山水屛風(センスイノ/○○○○)一、
p.0922 畫圖屛風、松下道士賛六首、〈讃岐旅館屏風畫也〉
獨坐 寄レ身質樸、陶レ性孤摽、合レ眼而坐、不レ臣二帝堯一、
p.0922 文安四年十一月廿七日乙卯、今日前局務師卿朝臣來語、三條帥大納言有二言付一、諸家系圖屛風(○○○○○○)可二書給一之由被レ命、件本、前局務入道性存之中書本也、此本可レ渡レ予之由被レ示之、明春可二書給一之由、帥卿被レ示之云々、
p.0922 永正十四年十一月廿七日、太平記四十册、今日一見畢、〈○中略〉又今所持之屛風和歌(○○)、幷御遊(○○) 等繪(○○)、其年號不審之處、太平記第四十卷、貞治六年三月廿九日中殿御會人數等分明也、此屛風其時節物歟、古物也、〈先年於二山門一感得之〉繪(○)ハ當時繪所光信朝臣先祖光行書之由、光信朝臣先年稱レ之、詩歌(○○)者爲秀卿手跡歟之由、爲廣卿演説之、爲秀卿ハ貞治之御人數也、此中殿御會此度以後無レ之、
p.0923 皇后藤氏、名明子、忠仁公良房女、而文德帝后、淸和帝母公也、世號二染殿后一、〈訓二曾迷土乃其左其一〉尤巧畫二艸花一、近世豐臣太閤秀吉公得二其所レ畫白菊屛風(○○○○)一珍レ之、高六尺、撒二金銀一密飾レ地、
p.0923 一小倉色紙(○○○○)ハ、元來伊勢國司北畠殿處持ニテ、屛風(○○)一雙ニ百枚ヲシテアリケルヲ、連歌師宗長勢州ニ來リケルトキ、國司コレヲ授ケラル、宗長達テ辭退シテ、屛風片々ヲ請用ス、
p.0923 慶長十六年九月、西域より世界の圖の屛風(○○○○○○○)舶來せしかば、駿府へ進らせられしに、御覽ありて、後藤庄三郎光次、長谷川左兵衞藤廣を御前にめして、萬國の事ども御尋問ありて、討論せられしなり、
p.0923 納物〈○中略〉
御屛風壹佰疊〈盡屏風廿一疊、鳥毛屏風三疊、鳥畫屏風一疊、夾纈六十五疊、臈纈十疊、〉
山水畫屛風一具兩疊十二扇〈並高七尺二寸、濶二尺三寸半、赤紫綾緣、以二檜木假作、班竹帖、鐵釘、黑漆碧絁背、紫皮接扇、揩布袋、〉
國圖屛風六扇〈高六尺、廣二尺二(付紙一)寸、紫綾緣、前面及兩端碧牙撥鏤帖、金銅隱起釘、上頭緣木帖、金銅浮漚釘、下頭緣米帖、黑漆釘、背後紅牙撥鏤帖、金銅浮漚釘、碧綾背、紫(絁付紙)皮接扇、緣綾〓緣(緑付紙)裏、〉
大唐勤政樓前觀樂圖屛風六扇〈装束及〓並同二前國圃屏風一〉
大唐古樣宮殿畫屛風六扇〈高五尺四寸五分、廣一尺七寸五分、緋地錦緣、漆木帖、前後金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、揩布袋、〉
大唐古樣宮殿畫屛風六扇〈高五尺、廣一尺九寸、装束與レ前同、〉
古樣山水畫屛風六扇〈高五尺八分、廣一尺九寸、緋地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、黃絁袋、帛絁裏、〉
古樣本草畫屛風一具兩疊十二扇〈一高五尺三寸、一高五尺二寸、緋地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、黃絁袋、帛裏、但五尺二寸碧地錦緣碧絁背〉〈付紙〉 子女畫屛風六扇〈高五尺、廣一尺九寸、緋地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、揩布袋、〉
古人畫屛風一具兩疊八扇〈並高五尺三寸、廣一尺九寸、緋(碧付紙)地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧絁背、紫皮接扇、黃絁袋、帛絁裏、〉
舞馬屛風六扇〈高五尺、廣一尺入寸、紫地錦緣、金銅釘、漆木帖、碧綾背、緋皮接扇、黃絁袋、白(白絁付紙)練裏、〉
子女屛風六扇〈高五尺、廣一尺八寸、紫地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、揩布袋、〉
古樣宮殿畫屛風六扇〈高五尺、廣一尺八寸、紫地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、揩布袋、〉
素畫夜遊屛風一具兩疊十二扇〈並高五尺、廣一尺八寸二分、紫綾緣、赤染木帖、黑漆釘、碧絁背、紫皮接扇、揩布袋、○中略〉
鳥毛立女屛風六〈高四尺六寸、廣一尺九寸一分、緋紗緣、以レ木假作二班竹帖一、黑漆釘、碧絁背、緋(﨟付紙)夾纈接扇、揩布袋、〉
山水畫屛風六扇〈高五尺、廣一尺九寸、紫綾緣、白帖木、金銅釘、紫皮接扇、黃絁袋、帛絁裏、○中略〉
百濟畫屛風六扇〈高四尺七寸、廣一尺七寸、緋地錦緣、漆木帖、金銅釘、碧綾背、緋皮接扇、黃絁袋、帛絁裏、〉
古人宮殿屛風六扇〈高五尺一寸、廣一尺八寸、紫綾緣、白木帖、金銅釘、碧絁背、紫皮接扇、揩布袋、〉
古人畫屛風六扇〈高五尺一寸、廣一尺八寸五分、紫綾椽、白木帖、金銅釘、碧絁背、紫皮接扇、揩布袋、〉
山水夾纈屛風十二疊〈各六扇高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉
一疊〈面紫目交緣背紅爽纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面背夾纈緣紅夾纈接扇〉
一疊〈面紫目交夾纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面背白橡臈纈緣緋絁接扇一疊面紫目交臈纈緣背紅臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背白橡臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面紅臈纈緣背皂目交臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面紅臈纈緣背滅紫臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面夾纈緣背紅臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉
菴室草木鶴夾纈屛風七疊〈各六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背漆、木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉
一疊〈面白橡目交臈纈緣背皀臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面背白橡臈纈紅臈纈接扇〉
一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面夾纈緣背白橡臈纈緣緋絁接扇〉
驎鹿草木夾纈屛風十七疊〈各六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉
一疊〈面白橡臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背白橡臈纈緣緋絁接扇〉
鹿(什紙) 一疊〈面白橡臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背皀目交臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面背滅紫臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面滅紫臈纈緣背紅臈纈緣緋絁接扇〉
鹿(什紙) 一疊〈面背紅臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背紅臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背紅臈纈緣紅臈纈接扇〉
鹿(什紙) 一疊〈面背夾纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背白橡臈纈綾緋絁接扇〉 一疊〈面背滅紫目交臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面紅臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面雲〓綾緣白(〓付紙)橡目交臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面夾纈緣背紅臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面夾纈緣背紅臈纈綠緋絁接扇〉
鳥木石夾纈屛風九疊〈各六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣紅(帖付紙)臈纈接扇〉 一疊〈面滅紫目交臈纈緣背白橡目交臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面紫目交臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面白(赤付紙)橡臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面夾纈背皀目交臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面雲〓綾緣背白橡臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面白橡臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉
鷹木夾纈屛風一疊〈六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、面背夾纈緣、緋絁接扇、揩布袋、〉
鷹鳥夾纈屛風四疊〈各六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉 鳥木(付紙) 一疊〈面夾纈緣背紫目交臈纈緣緋絁接扇〉 鳥木(付紙)一疊〈面山納緣背白(赤付紙)橡臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面夾纈緣背白橡臈纈緣緋絁接扇〉
鷹鶴夾纈屛風一疊〈六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、面夾纈緣背皀臈纈、緣緋絁接扇、揩布袋、〉
古人鳥夾纈屛風四疊〈各六扇、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉一疊〈面紫臈纈緣背夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面背山納緣緋絁接扇〉 一疊〈面背夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面背滅紫臈纈緣緋絁接扇〉
鳥草夾纈屛風十疊〈各六疊、高五尺、廣一尺八寸、碧絁背、漆木畫帖、烏油釘、揩布袋、〉 一疊〈面紫山納緣背緋臈纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面紫山納背緋臈纈緣緋絁接扇〉 一疊〈面雲納(繝付紙)綾緣背緋夾纈緣緋絁接扇〉
一疊〈面紫臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面紫臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉 一疊〈面紫臈纈緣背夾纈緣紅臈纈接扇〉
一疊〈面背夾纈緣紅臈纈接扇〉 二疊〈並面背紫夾纈緣紅臈纈接扇○中略〉
右件、皆是先帝翫弄之珍、内司供擬之物、追二感疇昔一、觸レ目崩摧、謹以奉二獻盧舍那佛一、伏願用二此善因一、奉レ資二㝠助一、早遊二十聖一、普濟二三途一、然後鳴二鑾花藏之宮一、住二蹕涅槃之岸一、
天平勝寶八歲六月廿一日〈○署名略〉
p.0926 慧心院僧都、諱源信、姓卜氏、和州人、寬仁元年化、常作二彌陀來迎圖一、且雕二刻之一、今和州當麻寺中有二十界圖屛風(○○○○○)一、又洛東新黑谷有二二河白道圖屛風(○○○○○○○)一、蓋上古風致也、
p.0926 上宮太子傳畫(○○○○○○)
數種アリテ、法隆寺繪殿ノ圖ヲ巨擘トス、近年本寺朽敗ヲ恐レ、屛風トナシテ寶藏ニ秘ス、
p.0926 書翰屛風(○○○○)
相國寺心華院ニ、六曲屛風二座アリ、外國ノ書翰ヲ粘ス、名テ書翰屛風ト云、萬曆貳拾玖年捌月朝 鮮禮曹參議鄭曄復書一通、〈有二封皮一〉萬曆參拾貳年漆月朝鮮曹參議成以文復書一通、安南國弘定二年〈國朝慶長六年辛丑〉五月五日書二通、弘定四年五月十九日書一通、弘定六年五月初六日啓一通、〈有二禮單及封皮一〉又報書一通、〈有二封皮一〉弘定漆年伍月拾參日書一通、〈有二禮單及封皮一〉天安國弘定七年肆月拾伍日曉示一通、〈有二封皮一〉呂宋書一通、柬捕塞癸卯年〈慶長八年癸卯〉四月書一通、乙巳年〈慶長十年〉季春三月書一通、同年四月書三通、無國名禮單二通、〈疑安南柬捕塞〉凡二十八張、戊申ノ火隻字存セズ、惜ベシ、余嘗摸寫スル者纔ニ其影子ヲトヾム、
p.0927 承安五節圖屛風摸本(○○○○○○○○○)〈元畫卷〉
老長所レ寫ノ畫卷ヲ以、光信屛風一坐ニ寫シテ、畫卷ハ傳ハラズ、今ノ畫卷ハ、御厨子所預宗直朝臣、屛風ノ摸本ヲ以畫卷トナス者也、
p.0927 大著色儛樂圖屛風(○○○○○○○○)粉本〈一坐〉
此畫元光長寫ス所ニシテ、光信此ヲ摸ス、其圖據ルベキコト多シ、一説ニ、光信圖スル所ト云、非ナリ、又一種儛樂圖屛風摸本〈著色ナシ〉アリテ、原本光信ノ所レ寫ト云、是畫所預光信ニ非ズ、狩野光信所レ寫ノ摸本也、其圖甚劣レリ、
p.0927 東大寺鴨毛屛風(○○○○)畫
今存スル者十六枚、中一枚ニ天平勝寶三年十月ノ八字アリ、千有餘年ノ畫、實ニ賞スベシ、
p.0927 鴨毛屛風〈二座〉
國朝古昔ノ篆字存スル者、印篆ノ外、纔ニ此屛風、及藥師寺尾瓦ノミ、
p.0927 鴨毛屛風
俗ニ東大寺ノ鴨毛屛風ノ文字、羲之ノ書ト云、論ズルニ足ラザル事ナレドモ、是古來ノ俗説トミユ、康治元年五月六日記云、開二勅封倉一御二覽寶物一、〈中略〉聖武天皇玉冠及鞍、〈中略〉王右軍鳬毛屛風、有二良田之賛一、〈下略〉康治元年記ニ載ル所如レ此ナレバ、其俗説舊タリ、又傳ヘテ鴨毛屛風ハ西土所造ト云、固ヨリ 非ナリ、屛風ノ畫側ニ、天平勝寶三年十月ノ八字アリ、傅粉ヲチテ其字鮮ニミユ、
p.0928 納物〈○中略〉
御屛風壹佰疊〈○中略〉
鳥毛篆書屛風六扇〈高五尺、廣一尺八寸、紫綾緣赤染木帖、黑漆釘、碧絁背、夾纈絁接扇、揩布袋、○中略〉
鳥毛帖成文書屛風六扇〈高五尺、廣一尺九寸、紫綾緣、木假作班竹帖、黑漆釘、碧絁背、黃臈纈接扇、揩布袋、〉
鳥書屛風六扇〈高四尺一寸、廣一尺六寸七分、紫絁緣、漆米帖、前面金銅釘、上頭下頭、背後並黑漆釘、碧絁背、緋絁接扇、綠絁袋、帛絁裏、〉
p.0928 勅封倉鴨毛屛風銘文
種好田良、易二以得一レ穀、 君賢臣忠、易二以至一レ豐、 謟諛之語、多レ悦會レ情、 正直之言、倒レ心逆レ耳、
正直爲レ心、神明所レ祐、 禍福無レ門、唯人所レ召、 父母不レ愛、不孝之子、 明君不レ納、不益之臣
淸貧長樂、濁富恒憂、 孝當レ竭レ力、忠則盡レ命、 君臣不レ信、國政不レ安、 父母不レ信、家道不レ睦、
p.0928 東大寺鴨毛屛風幷銘
此屛風は、上古聖武天皇の御物なりとて、今奈良の東大寺の什物とす、屛風二枚、長各四尺九寸三分、幅一尺九寸三分、邊緣一分半、その中には花絨をもて飾りて、鴨頭の綠毛をもて、此銘九十六字を織出せり、文字大さ四五寸許あり、古へ坐右の銘なるべし、禍福无レ門唯人所レ招の語は、春秋左氏傳に見えたり、父母不レ愛不孝之子、明君不レ納不益之臣は、鹽鐵論に出づ、君臣不レ信國政不レ安、父母不レ信家閨不レ睦の語は、説苑に原きて書りと見ゆ、
p.0928 康治元年五月六日戊戌、早旦開二勅封倉一、御二覽寶物一、昨日俄有レ議、召二遣辨一人一、藏人左中辨源師能、大監物藤時員等、隨二身鎰一參向、〈件鎰在二鈴印辛櫃一也〉鏁相澀、數刻不二開得一、有レ議切局畢、寶物之中聖武天皇玉冠、及鞍、御被、枕、碁局、䇞竹簫、八竿、〈其形如レ笙〉王右軍鳬毛屛風、侍臣等運置之、件屛風有二良田讃一、召二判官代高階通憲一令レ讀之、
p.0929 永觀二年十月十日丙戌、高御座後立二御屛風四帖一、〈織二孔雀(○○○○)形一各二帖〉
p.0929 治曆四年七月廿一日、艮乾兩角立二孔雀形御屛風四帖一、後聞、改二置第一内一、
p.0929 もやひさしのてうどたつる事
おほかたみさうそくのよきといふは、みすよくあげて、もかうよくひきしき、むしろよくのしてちりひろひ、もやにたつる十二帖の屛風、よくのしてたてなどするをよしとはいふなり、屛風は春夏秋冬をまづひろげてみをきて、はるはいかさまにもひんがしにたつるなり、もやひさしのてうどは、御所のはれにつけども、屛風をたつることは、春をひむがしにたつべきなり、屛風をのすといふは、いたくひだをすへてたつるなり、さてつぎめごとに、いとにてとちあはせたるなり、もやのなんどのうへにも、又うるはしきもやぎはにも、みすをかけておろして、そのうへに屛風をたつるには、はしごとにくりかた(○○○○)をうちて、やりなはなどのやうなるつな(○○)を、みすのうへにひきわたして、それに屛風をとぢつくる、うるはしき事なれども、このごろはところせしとて、たゞみすばかりにとぢつけたるなり、〈○中略〉
そのたゝみ二枚かなたのかしらに、にしひんがしざまに、てうのはしらにあてゝ、五尺の屛風二帖を、なかをひきかさねて、一けんがうちにたつ、
p.0929 そなたにこれかれあるほどに、宮〈○匂宮〉はたゝずみありき給て、にしのかたにれいならぬわらはのみえつるを、いま參りの有かなど覺して、さしのぞき給、なかのほどなるさうじのほそめにあきたるよりみ給へば、さうじのあなたに一尺ばかりひきさげて屛風たてたり、
p.0929 久安五年十月十八日丙寅、昨今日奉二仕小松殿御装束一、其儀、〈○中略〉母屋西幷北、母屋際、及東庇戸上、副二御簾一立二亘四尺屛風六帖一、〈以レ春立レ東〉
p.0929 承元三年三月廿三日、此日故攝政前太政大臣良經長女有入宮事一、〈○中略〉御裝束儀、〈○中略〉母屋三 ケ間之内、四面懸二壁代一、〈纐纈卷上之、四尺几帳興二御簾一同程也、〉三面〈南東北〉立二廻五尺屛風一、〈帳後不レ立レ之、帳南北妻屏風、當二帳東妻一立レ之、五尺屏風畫二四季景物一、南立二夏一帖一、東立二春二帖一、北立レ冬、秋無二立所一、仍庇南北際四尺屏風、繪秋也、〉
p.0930 一御屛風は、必々松竹の金屛立云々、屛風は人の物著用の如くに立ル、上座は人の物著るごとく、其より下座へは、上座の屛風下にかさなるやうにたつる也、
p.0930 だいきやう(○○○○○)のこと
もやぎはのみすをおろして、其うへに屛風をたつることつねのごとし、ひんがしみなみのはしよりたつべし、これはにしはれのぎなり、ひんがしはれならば、ひんがしのひさしを、弁少納言のざにはなるべきなり、屛風そのおりは、この少納言のざのしもより、春はたつべきなり、
p.0930 天德元年正月十八日、喚二木工頭道風朝臣一勸酒、被二女裝束一襲一、依レ書二大饗料屛風一、
p.0930 寬仁二年正月、入道前太政大臣大饗し侍りけるに、屛風の繪に、山里にもみぢ見る人きたるところ、
山里の紅葉みにとやおもふらむ散はてゝこそとふべかりけれ
p.0930 嫁輿よりおり給ふ所は、三の間か又は二の間たるべし、〈○中略〉輿の廻りに屛風を立て、姿の下座〈江〉見えざる樣にさすべし、〈○中略〉
師傅に、〈○中略〉屛風は、鶴龜松竹の白繪の屛風也、裏形と胡粉にて龜甲形付たる白繪の屛風也、
p.0930 長德五年〈○長保元年〉十月廿八日丁丑、彼此云、昨於二左府一〈○藤原道長〉撰二定和歌一、是入内女御(○○○○)〈○上東門院〉料屛風(○○○)歌、花山院法皇、右衞門督公任、左兵衞督高遠、宰相中將齊信、源宰相俊賢、皆有二和歌一、上達部依二左府命一獻二和歌一、往古不レ聞事也、何况於二法皇御製一哉、又有二主人和歌一云々、今夕有下被レ催二和歌一之御消息上、令レ申二不レ堪由一、定有二不快之色一歟、此事不二甘心一事也、
p.0930 東宮は枇杷殿におはします、しはす〈○寬弘六年〉に成ぬれば、かんのとの〈○藤原妍子〉の御ま いりなり、〈○中略〉その御ぐどもの屛風どもは、ためうぢ、つねのりなどがかきて、道風こそはしきしがたはかきたれ、いみじうめでたしかし、そのかみの物なれど、たゞいまのやうにちりばまず、あざやかにもちゐさせ給へりしに、これはひろたかゞかきたる屛風どもに、侍從中納言〈○藤原行成〉の書給へるにこそはあめれ、
p.0931 御うぶや(○○○○)以下の次第
覺
一御たんじやうの御だうぐ〈○中略〉
御びやうぶ、松竹つるかめ、しろし、ふかべりなし、
p.0931 第四屛風
一屛風も白張に、雲母にて松竹鶴龜ヲ書也、裏のかたは龜甲を雲母にて押なり、へりは練龜甲を繪に書なり、
p.0931 このおほきおほとのゝ御はゝうへは、延喜の御門の御女、女四宮ときこえさせき、延喜いみじく時めかしおもひたてまつらせ給へりき、御もぎの屛風(○○○○○)に、公忠辨、ゆきやらでとよむはこのみこの宮なり、つらゆきなどあまたよみて侍りしかども、人にとりてすぐれのゝしり給ひしかとよ、
p.0931 奉レ賀二天皇御筭一事
中宮職立二御厨子於殿西第三間一〈納二御衣什物等一類也、法皇被レ賀之時(○○○○)無二此御厨子一、唯母屋四間副二北御障子一立二淳和御手跡御屏風(○○○)三帖一、〉
p.0931 さだやすの御子の、きさいの宮の五十の賀奉りける御屛風に、櫻の花のちるしたに、人の花見たるかたかけるをよめる、 藤原のおき風
いたづらに過る月日はおもほえで花見てくらす春ぞすくなき もとやすのみこの七十賀の、うしろの屛風によみてかきける、 紀貫之
春くればやどにまづさく梅の花きみがちとせのかざしとそ見る
内侍のかみの、右大將藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の繪かけるうしろの屛風にかきたりけるうた、
かすが野にわかなつみつゝ萬代をいはふ心は神ぞしるらむ〈○以下略〉
p.0932 延喜十五年九月廿二日、右大臣殿〈○藤原忠平〉の奉二爲淸和七宮御息所一被レ奉六十賀時屛風歌、
かぞふれどおぼつかなきに我宿の梅こそ春の數はしるらめ
p.0932 同年〈○承平六年〉の夏、八條右大將の北方、本院の北方七十賀し給ふ時の屛風の歌、大將仰給ふ時に、人の家松、
かはらずもみゆる松かなうべしこそ久しきことのためし成けれ
p.0932 先代の皇后〈○藤原安子〉の、九條の右大臣殿〈○藤原師輔〉の五十賀奉り給ふ御屛風に、竹ある家、ながきよを思ひしやれば呉竹の暮行冬もをしからなくに
p.0932 右大將の四十賀の屛風の歌
珍しき聲ならなくに郭公こゝらの年をあかずも有哉
p.0932 天永三年十月十三日丁酉、家司惟信、太宮司朝實、令レ參二宇治平等院一、御寶藏開之、故宇治殿〈○藤原賴通〉御賀御屛風八帖取出之、來月院御賀御屛風本料也、
p.0932 建仁三年十一月廿三日丁亥、今日於二上皇〈二條〉御所一被レ賀二入道正三位釋阿九十算一、〈○中略〉件屛風四帖被二新調一、〈延喜例四帖被レ調〉四季各一帖也、上皇以下當世歌仙等詠二和歌一、撰定之後仰二繪師一被レ圖之、予〈○藤原良經〉依レ仰今日書二件色紙形一、可レ被レ仰二他人一之由雖二申請一之、永可レ被レ留二置御所一、猶可レ書之由有レ仰、仍 書之、屛風遲之間、入レ夜書了、和歌在レ別、
p.0933 勅、於二圖書寮一所レ藏、〈○中略〉屛風(○○)、障子、幷雜圖繪等類、一物已上、自今以後、不レ得三輒借二親王以下及庶人一、若不二奏聞一私借者、本司科二違勅罪一、
神龜五年九月六日
p.0933 長承二年六月廿九日前太政大臣女參院、女御給二屛風室禮(○○○○)一、庇調度如レ常、〈○中略〉屛風室禮之指圖、依レ有レ尋三枚出來云々、〈○中略〉
但人々指圖、於二西中隔几帳一、東西北三方、屛風ヲ比多無〈志天〉延立〈天〉、從二内外一以レ疊津女立タリ、
p.0933 爲輔中納言口傳にかゝれて侍なるは、人は屛風のやうなるべき也、屛風はうるはしうひきのべつればたふるゝなり、ひだをとりてたつればたふるゝ事なし、人のあまりにうるはしくなりぬればえたもたず、屛風のやうにひだあるやうなれど、實にうるはしきがたもつなりと侍るとかや、
p.0933 應永八年
日本准三后某、上二書大明皇帝陛下一、〈○中略〉某幸秉二國鈞一、海内無レ虞、特遵二往古之規法一、而使下肥富相二副祖阿一、通レ好獻中方物上、金千兩、馬十疋、薄樣千帖、扇百本、屛風三雙、〈○中略〉某誠惶誠恐、頓首頓首謹言、
同九年
日本國王〈臣〉源表、〈臣〉聞太陽升レ天、無二幽不一レ燭、時雨霑レ地、無二物不一レ滋、〈○中略〉是以謹使二僧圭密梵雲明空通事徐本元一仰觀二淸光一伏獻二方物一、〈○中略〉金屛風(○○○)三副、〈○中略〉爲レ此謹具、表聞〈臣〉源、〈○下略〉
p.0933 日本國
洪武七年、遣二僧人一來朝貢、以レ無二表文一却レ之、其臣亦遣二僧人一貢二馬及茶布刀扇等物一、以二其私貢一仍却レ之、十四年、國王遣レ使來、復却二其貢一、僧人倶發二陜西四川各寺居住一、二十五年、復來朝貢、後定爲二十年一來貢一、 貢物、〈○中略〉 塗金粧彩屛風〈○下略〉
p.0934 倭國物
古〈○中略〉有二硬屛風一、而無二軟屛風一、〈○中略〉皆起レ自二本朝一、〈○明〉因二東夷或貢或傳一而有也、〈○中略〉軟屛、〈今圍屏也〉弘治間入貢來使、送二淅鎭守一、杭人遂能、〈卽古步障〉
p.0934 文明四年壬辰遣二朝鮮國一書 横川製レ之
日本國義政、奉二書朝鮮國王殿下一、〈○中略〉不腆土宜具二于別幅一、切希二采納一、不宣、〈○中略〉別幅、裝金屛風貳張〈○下略〉
p.0934 與二呂宋國船主一書
一別之後、已閲二三霜一、思慕之心、未二曾頃刻有一レ忘レ之也、〈○中略〉今吾子幷婦人所二投贈一者、皆難レ得之貨也、一々拜受焉、我今呈二吾子一以二金屛風一雙一、寄二婦人一以二酒肴之一器一、雖二不腆之物一、物以二遠至一爲レ珍、伏乞倂以笑納、恐懼不宣、
p.0934 東照宮復賜二伊伽羅諦羅國主一御書〈載二異國日記一〉日本國源家康、復二章伊伽羅諦羅國主麾下一、遠勞二船使一、初得二札音一、貴域之治政、所レ上二紙墨一、目擊道存、〈○中略〉菲薄之土宜、具二別幅一投二贈之一、聊表二寸忱一者也、順レ序自嗇、
慶長十八年歲舍癸丑秋上旬 御印〈○中略〉
別幅
一押金屛風 五雙
p.0934 復二朝鮮國王一〈奉二台命一撰レ之〉
日本國源〈御諱〉奉レ復二朝鮮國王殿下一、聘价遠馳、禮意益敬、〈○中略〉交道有レ義、不レ渝二舊約一、則彼此之好也、有二小信物一、附二使价一還、宜下如二別幅一撿領上、餘冀亮察、不宣、 寬永十三年十二月二十七日源 御諱〈御朱印〉
別幅
撒金六曲屛風貳拾雙〈○下略〉
p.0935 復書
日本國王源御諱〈○家宣〉奉二復朝鮮國王殿下一、〈○中略〉有二少謝儀一、附二諸歸使一、願符二善禱一、永介二純釐一、不備、
正德元年辛卯十一月 日〈○中略〉
所レ賜二朝鮮國王一、有二畫圖金屛二十雙一、蓋其九雙十五圖、皆有二傳賛一、高玄岱所二撰幷書一也、錄二于左一、
孝德天皇白雉圖〈一隻狩野探信所レ畫○傳賛略、以下同、〉 文武天皇慶雲圖〈一隻與レ前一雙、畫工同レ上、〉 源經信兼二三船才一圖〈一雙、狩野養朴所レ書〉 大江匡房賦二四百句一圖〈一雙、與レ前一對、畫工同レ上、〉 平重盛諫レ父圖〈一雙、狩野春湖、〉 楠正成敎レ子圖〈一隻、興レ前一對、畫工同レ前、〉 紫式部編レ書圖〈一隻、狩野洞松所レ畫、〉 淸少納言捲レ簾圖〈一隻、與レ前一雙、畫工同レ前、〉 源爲朝大箭圖〈一隻、狩野柳雪所レ畫、〉 源義仲陷二倶利加羅一圖〈一隻、狩野探雪所レ畫、〉 源盛綱渡二藤戸海一圖〈一隻、狩野永叔所レ畫、〉 巴女殺レ敵圖〈一隻、狩野養朴所レ畫、〉 板額拒レ敵圖〈一隻、與レ前一雙、畫工同レ前、〉 平義秀破門圖〈一隻、狩野探信所レ畫、〉 泉親衡負レ船圖〈一隻、與レ前一雙、畫工同レ前、〉
此他金屛圖畫十一雙目
朝覲行幸圖〈住吉内藏畫、一雙、〉 釋奠圖〈畫同レ上、一雙、〉 唐樂和樂圖〈狩野永叔畫、一雙、〉 犬追物圖〈狩野如川畫、一雙、〉 富士三保圖〈狩野養朴畫、一雙、〉 吉野龍田圖〈狩野洞松畫、一雙、〉 住吉玉津島圖〈狩野春碩畫、一雙、〉 松島圖〈狩野探雪畫、一雙、〉 祇園會圖〈狩野春笑畫、一雙、〉 花鳥畫〈狩野休碩畫、一雙、〉 鵜飼圖〈狩野梅雪畫、一雙、〉
p.0935 畫考
趙宋宣和畫譜曰、〈宣和徽宗年號、當二本朝天仁帝(鳥羽)時一、書譜宣和殿所レ製、○中略〉太平興國中、〈宋太宗年號、當二本朝天祿年中一、〉日本僧與二其徒五六人一、附二海舶一而至、〈○中略〉其后再遣二弟子一、以二金塵硯、鹿毛筆、倭畫屛風一奉レ表稱レ賀、今御府所レ藏海山風景風俗圖是也、
p.0936 日本國
日本國者、本倭奴國也、〈○中略〉雍熙元年、日本國僧奝然、與二其徒五六人一、浮レ海而至、〈○中略〉二年、隨二台州寧海縣商人鄭仁德船一歸二其國一、後數年仁德還、奝然遣二其弟子喜因一奉レ表、〈○中略〉稱二其本國永延二年歲次戊子二月八日一、實端拱元年也、又別啓、貢二佛經一、納二靑木函一、〈○中略〉鹿皮籠一、納二〈○中略〉倭畫屛風一雙一、
○按ズルニ、信物ニ屛風ヲ用イシコト、外交文書中多ク見ル所ナリ、今悉ク之ヲ載セズ、
p.0936 こなたは離れたる方にしなして、高き棚厨子一ようひばかりたて、屛風の袋(○○○○)に入れこめたる、所々によせかけ、何かのあらゝかなるさまにし放ちたり、
p.0936 屛風納袋事、今世いたくなきことにや、上古のこと歟、又ゐ中びたる體歟、
p.0936 一被レ加二以前御調度外一御物事、〈○中略〉又屛風具レ袋、疊納之時用二其袋一云々、
p.0936 仁安三年十二月十日丁酉、早旦著二行事所一、大嘗會威儀御物幷判御調度、〈○中略〉
大嘗會悠紀所 注進御物目錄事〈○中略〉
御屛風十帖〈在二靑色薄物袋(○○○○○)臺二脚一○下略〉
p.0936 屛風 所々製二造之一、特四條通沼津某家、兩曲、六曲、大小屛風、撒金、墨畫、隨レ所レ好而有レ之、
p.0936 才覺のぢくすだれ
手廻しの賢き小供あり、我當番の日はいふに及ばず、人の番の日も、箒取々座敷掃きて、數多の小供が毎日使ひ捨てたる、反古の圓ろめたるを、一枚々々皺伸ばして、日毎に屛風屋に賣りて歸るもあり、
p.0936 屛風牒
按に、八枚(○○)屛風、二枚(○○)屛風と云ふを、西土にて幾牒(○○)と云、又は幾疊(○○)とも、後世には何曲(○○)ともいへることあり、
p.0937 合屛風壹拾玖牒(○○○○)〈佛物一牒、温室分九牒、通物九牒、〉
p.0937 屛風一隻(○○)
屛風一隻はかた〳〵にて一雙(○○)にあらず、是をひとひら(○○○○)と云、ひらは枚(○)を訓り、又一枚(○○)々々をも一ひらと云、六枚屛風ならばむひら也、連歌の句にも一ひらにとも、又はひら〳〵にともいへるは、
一枚毎枚のことなり、源氏物語あづまやの卷に、一ひらといふ詞あり、
p.0937 一びやう風は一雙と常に申候、又立樣の事、上座の次第にかさ(上に)なり候歟、
p.0937 寬弘三年三月三日乙巳、參内、南殿奉二仕御裝束一、〈○中略〉北障子邊立二五尺二階子一、〈○中略〉其東立二四尺畫屛風一雙一、南北妻、
p.0937 故中宮の春宮の女御とまだ聞えし時、題給はせて歌よませ給ひし御屛風の和歌、梅の花のたよりに、物いひたる人とおもはせて、ゑに男の行あひて、物いひはじめたるを、一のひら(○○○○)にかゝせ給へるおとこ、〈○歌略〉
p.0937 さうじのあなたに一尺ばかりひきさげて、屛風たてたり、そのつまに木丁すにそへてたてたり、かたびらひとへをうちかけて、しをん色の花やかなるに、をみなへしのをりものとみゆる、かさなりて袖ぐちさしいでたり、屛風のひとひら(○○○○)たゝまれたるより、心にもあらでみゆるなめり、
p.0937 身づからひとようひはかくべし
一雙、草子二帖也、屛風の一よろひ(○○○○)も二枚也、
p.0937 かみびやうぶに、やまとゑかきたる一ようひ(○○○○)たてゝ、もやのみすにくちきがたのきやうかたびらかけて、いとあるべかしくしつらひたり、
p.0937 弘仁三年二月壬辰、屛風一、障子四十六枚、施二入東寺一、
p.0938 元慶五年冬、大相國以二拙詩草五百餘篇一始屛風十帖、仍題二長句一謹以謝上、
常嗟雅頌聖時空、收拾博偏報國功、雖レ識二骨輕無一レ足レ買、恐抛二石質一有レ堪レ攻、蓬蒿獻レ草任二垂白一、〈行年五十餘、垂白可レ知、〉菅蒯開レ花欲レ奪レ紅、曾在昌齡成二帝號一、〈玄宗立二王昌齢一爲二詩帝一〉不レ言詩上二玉屛風一、
p.0938 見三屛風春所二獨吟一 法性寺入道殿下一〈○藤原忠通〉
晩夏自レ元感正頻、屛風獨見會二文賓一、庭叢雨打添二繁茂一、門柳煙飜帶二麴塵一、嵐渡二嶺櫻一白、雪遷二溪木一惜二餘匀一、園中成レ望往來客、林下易レ留羇旅人、遊子塞垣調レ笛曉、漁翁河海艤レ舟辰、松杉綠老枝經レ歲、桃李紅深花染レ春、句曲山前霞色聳、雲和樓上月光新、一吟一詠數盃酒、驚レ眠破レ夢不才身、
p.0938 正月に寺にこもりたるは、〈○中略〉小法師ばらのもたぐべくもあらぬ屛風などのたかき、いとよくしんたいし、
p.0938 一心をすなほにして、心をすなほにせざる事、それ歌の心は、屛風をたつるに同じ、みなひきはへて一おりする所なければ、たつ事をえざるごとく、たゞすなほなる計にて、ひとおりの節なきは、彼大すゝき、其難をまねき侍るにや、